正直者










       


 豊松《とよまつ》という男が正直であるかないか、なかなかに難しい問題である。
 たとえば彼は生まれてから去年まで、ただの二度しか嘘をつかなかった。
 しかし彼はこの数年、ただの二度しか他人と顔を合わせていない。いや、麓からの郵便配達人を含めれば三度だが、その時は自分の名前を訊ねられてただ肯いただけであるから、虚偽も真実も口に出す必要がなかったのである。


 豊松の正確な歳は、彼自身にもすでに判らない。
 しかし人跡稀なる深山に代々住み着きながら、血生臭い戦の気配が麓から中腹まで登って来たのを、父や母は若い時分に聴いた記憶があると言っていた。それが官軍と藩の戦争であったとすれば、豊松自身はもう五十に近いのだろう。


 嘘、という概念を、豊松は去年まで知らなかった。
 物心ついてから身近にいる人間は両親と弟だけであったし、その弟は嘘も何も言葉すら話せない赤ん坊の内に鷲に攫われて、どこか空の彼方に運ばれて行ってしまった。真実は鷲の雛の餌になったのだが、両親は太陽の国に行ったのだと豊松に教えた。豊松はそれを信じ、両親も信じていたのだから嘘ではない。
 山二つ越えた谷間に別の仲間たちが住んでいると知ったのは、豊松がひとりで沢漁ができるようになった夏である。そこには豊松の両親とほぼ同年代の夫婦、そしてひとりの娘・沙陽《さよ》が瀬降《せぶ》っていた。
 瀬降る、というのは河原に天幕状の移動式住居を構えることである。その生活様式から彼らの一族は『瀬降り』とも呼ばれていた。里人はやや侮蔑をこめて『山窩』と呼ぶこともあり、時には狐狸妖怪まがいに『山人』などとも呼ばれたが、豊松が生まれた頃には、広大なその山地に僅かな二世代家族が面識もなく点在するのみになっていたので、彼ら自身が彼らをなんと呼ぶべきか、すでに曖昧化していた。
 やがて豊松と沙陽が独立して瀬降る少し以前の夜、裸の豊松は裸の沙陽に、「お前は世界一美しい」という意の言葉を何度か呟いた。たとえ沙陽以外の若い娘を生まれてから一度も見ていないにしろ、それも真実である。絵姿や写真といった仮想的媒体は、彼らの周囲に一切存在しなかった。


 そんな豊松が去年の冬、なぜ『真実ではないことを真実であるかのように』話してしまったか、それは豊松の悪意ではなく、あくまでも成り行きだった。


       


 その夜、豊松は沙陽の姿を想いながら、山小屋の焚き火の前で千擦りをかいていた。沙陽はすでに幾つか前の冬に傷寒で亡くなっており、子を残さなかった。それぞれの両親はさらに幾つか前の冬や夏、それぞれの病や怪我で亡くなっていた。
 かつて父親と共に建てた冬用の小屋は、やはり夏の瀬降りほど住み良くない。小屋と言うより底の抜けた木箱に近い。土間に筵は敷いてあるが、板戸から雪が吹き込むので、千擦りをかいていると尻が冷える。豊松は早めに射精してしまおうと、指の動きを速めた。
 千擦りをかく時、頭に浮かぶのは、主に結ばれて数年ほどまでの沙陽である。初めての夜の姿も、けっこう浮かぶ。しかしそれ以降の姿は、ほとんど浮かばない。それを何故か申し訳なく感じてしまう時もあるが、やはりあまり口うるさい女は、千擦りに向かない。確かに同じ沙陽だったはずなのに、なぜ女というものはたった数年であれほど別人のように変わってしまうのか――豊松はあくまで真意に忠実な男だった。
 せわしなく射精を終えて夕飯の茸汁を食っていると、誰やら小屋の戸を叩いて訪う者があった。
 豊松は途方にくれた。
 すでに自分が死ぬまで他の人間に会うとは想定していなかったし、野生の獣は一般に戸を叩かない。叩くのかもしれないが、少なくともかつて叩いたことはない。物の怪の類は、いるのかもしれないが目には見えない。
 豊松は茸を口に含んだまま、親譲りの手斧《ちょうな》を手元に引き寄せた。
 軋んだ板戸の隙間から、
「……ああ、助かった」
 吹雪の音に紛れ、そんな声が聞こえた。
「みんな、助かったよ。優しそうなおじさんだ」
 雪まみれの憔悴しきった顔で、それでも健気に声を張った訪問者は、見慣れぬ帽子や上等そうな外套で着膨れているが、まだ子供のようだ。
 生まれて初めて聴く青々しい少年の声に、豊松は目を丸くして、手斧を背後の隅に戻した。自分もかつてはそのような声を出していたのだろうが、そんな昔の自分の声など、とうに忘れている。
「……おじさん、どうか、一晩泊めていただけませんか」
 その少年の背後にも、幾つか小柄な雪だるまが震えているらしい。
 豊松が、うむ、とだけ答えると、その雪だるまたちは疲れた脚を引きずりながら、それでも精一杯礼儀正しく会釈を連ねた。
「今晩は」
「すみません」
「お邪魔します」
「ありがとうございます」
 豊松は一瞬、この子供たちは山の狸、あるいは狐の子供なのではないかと訝った。
 まだそれらが化けるのを目撃したことはないが、両親が昔「化けるらしいと親から聞いた」と言っていたから、両親の両親、あるいはそのさらに両親あたりは、実際に化けるのを見たはずだ。
 熊なら恐いが、狸や狐は恐くない。特に子供など、とても可愛い。絞めて食うには小さすぎるが。
 少年たちは、それぞれに背嚢を下ろし、裾の長い外套を一枚剥いで、狭い小屋のどこに雪を払っていいか、迷っているようだった。豊松がそこいらを適当に示すと、少年たちは遠慮がちに板戸のあたりで雪をはたいた。奇妙な平べったい帽子の雪も振り払う。帽子の前頭に、何か金属の文字が見えた。大昔、両親と麓近くで瀬降った時に一度だけ会った、『駐在』という大人の帽子に似ている。子供の『駐在』なのかもしれない。
 狸にせよ駐在にせよ、子供は可愛い。沙陽もせめて子供を残してくれればなあ――そう思いながら、豊松は何年ぶりかで言葉を発した。
「あたれ」
 焚き火の炎に揺れる幾つもの金ボタンから、豊松は、やはりこれは子供の『駐在』なのだろうと結論した。大人の駐在は、親たちにずいぶん居丈高な物腰で接していたように覚えている。今夜のは子供だから、それほど偉くはないのだろう。腹の鳴り具合も、若い頃の自分のように素直で元気が良い。
 豊松は焚き火にかかった鍋を示した。
「食え」
 こんなに客が来ると知っていたら、ちょっと前の晴れた日に沢の氷を槌で叩いて浮き上がらせた山女魚《ヤマメ》も、全部食わずに残しておいたのだが、もう茸汁しか残っていない。
 少年たちは少し不安げに鍋の中身を覗きこんだ。
 豊松はその躊躇を椀と箸がないからだと思い、最初に声を交わした頭目らしい少年に、とりあえず自分の椀と箸を突き出した。
「ん」
 小屋の隅をあされば、昔沙陽や両親が使っていた食器も見つかるはずだ。
「……いえ。すみません、大丈夫です」
 少年たちはおのおのの背嚢から、奇妙な金物の椀と箸を取り出した。
 なぜか目配せし合ったりしているのは、まだ遠慮しているのだろうか。
「ぜんぶ、食え」
 干し茸は、一冬ぶん蓄えてある。
「……ありがとうございます」
 頭目らしい少年は神妙な面持ちでうなずき、その濁った汁を煤けた杓子で椀にすくった。
 それから極めて遠慮深く一口すすり、形の崩れた茶色い具を、ちまちまと口に含んだ。
 とたんに顔が輝いた。
「とてもおいしいです、おじさん」
 その顔を確認した他の少年たちも、先を争って汁をすくい始めた。
「いっぱい、食え」
 悴《かじか》んでいた少年たちの口が、たちまちに緩む。
「これは、うまいや」
「なんの肉かなあ」
「牛や豚じゃないし、兎でもないね」
「狸?」
「狸だったら、俺、初めてだよ」
「俺も」
 そんな議論を交わす内、頭目の少年が豊松に笑顔を向けた。
「おじさん、これは、なんの肉ですか?」
 豊松も笑顔で答えた。
「……狸だ」


       


 なぜそんな嘘を言ってしまったのか、豊松自身にも解らなかった。
 子供がこんな深山にまで迷いこんだからには、さぞ疲れ切って凍えているだろう。元気を出したり寒い晩に温かく寝るには、やはり肉を食うに限る。魚でもいいが、肉にはかなわない。今夜の茸は、干して煮てしまうと確かに肉の食感になる。しかし豊松は、その鱒茸《ますたけ》に似た茸の正しい名前すら知らないものの、歯応えや味は肉そっくりでもけして疲れが取れたり体が温まりはしないことを、経験上悟っていた。空腹が治まるだけである。それでも、ただ子供たちに「狸を食わせてやりたい」という気持ちが、自然そんな言葉になって、口をついてしまったのである。
「やっぱり、狸だ」
「旨いもんだなあ」
「五臓六腑に染み渡る、って奴だな」
 名もない茸と行者大蒜《ぎょうじゃにんにく》に岩塩で味を付けただけの汁を、少年たちは、豊松が勧めるまま夢中で貪った。
 やがて人心地ついたのか、あの頭目の少年が豊松に訊ねてきた。
「僕らの前に、誰か来ませんでしたか、小父さん」
 豊松が無言で頭《かぶり》を振ると、別の少年が言い放った。
「死んでるよ、あんな馬鹿」
 頭目の少年は、整った顔を曇らせてたしなめた。
「中尉さんを、そんなふうに言うもんじゃないよ」
 しかしいかにもきかん坊らしい少年は、語気を和らげなかった。
「配属将校だかなんだか知らないけど、あんなの、馬鹿なやくざと同じだ。山なんてなんにも知らないくせに、何が雪中行軍訓練だよ。先生も、なんで逆らわないんだ? きっと、いっしょに死んでる。うまくはぐれなかったら、俺たちまでいっしょに死んでる」
 豊松にはなんの話か少しも解らなかったが、怒りに震えている人間の顔を久しぶりに見たので、その主がたとえ子供でも、内心大いに心をかき乱された。
「この小父さんがいなかったら、やっぱり死んでる」
 そう言って自分に向けた顔は、あまり怒っていないようだ。豊松は内心、ほっと安堵した。
 山の獣たちと違い、人間の感情は大仰で恐い。山では月の輪熊だって、たいがい「よ」と目で言えば「や」と言うような顔で去って行く。出会い頭や空腹だと恐いが、そうした邂逅を避ける手段も父親から教わっている。いつぞやの駐在のように、向こうから訪ねてきていきなり怒声を上げたりはしない。
 腹がくちくなると少年たちは無邪気な子供に戻って、学校だの教練だの、やはり豊松の知らない話をてんでに囀りながら、やがて寝入ってしまった。どうやら子供の『駐在』ではなく、子供の『中学生』というものだったらしい。そしてその中にも、『級長』やら『副級長』やら、いろいろな種類があるらしい。


 豊松はその夜時々起き出しては、小ぶりな寝顔の列を物珍しくながめながら、少し多めの粗朶《そだ》を焚き火に足し続けた。
 明け方近く、あの頭目の少年、級長が一度目を覚ました。
「おはようございます」
「ん」
 豊松は朝飯の茸汁を煮ていた。
 晴れていれば山女魚か本物の狸を調達してやりたいところだが、外はまだ吹雪いている。
「……まだやみませんね」
「昼には、晴れる」
「ほんとですか?」
 今度こそ嘘ではないので、豊松は力いっぱいうなずいた。
 どこかどうだから晴れるのか、それを説明するほどの語彙はない。しかし雪片の具合や風の具合から察するに、経験上、間違いない。
「まだ、寝てろ」
「何かお手伝いします」
「……寝てろ」


 よほど疲れていたのか、少年たちは昼近くになってようやく起き出した。
 昨夜と同様に行儀良く挨拶し、同じ茸汁を旨そうに食い終える頃、吹雪の音が治まってきた。
 やんでしまえばそれまでの荒れ具合がまるで嘘だったかのように、板窓の隙から紺青の空が覗いた。
「へえ、小父さん、こんなところに住んでたんだ」
 あのきかん気らしい少年、副級長が窓から外を覗き、周囲の山容を見渡しながら明るく叫んだ。
「奥にはもう誰も住んでないと言ってたけどなあ」
 山に詳しいらしい副級長に、あの級長が訊ねる。
「鉱泉宿まで、大丈夫かな」
「ああ。このまま晴れてれば、日暮れ前に着ける」
 自信たっぷりの返答に、満足げに肯いた級長は、続いて豊松に訊いてきた。
「お天気、大丈夫でしょうか」
 豊松も自信たっぷりに答えた。
「今日は、晴れだ。明日は、また吹雪く」
「じゃあ、みんな、そろそろ失礼しようか」
 もう行ってしまうのか――豊松の胸に、もう何年も忘れていた、人恋しさが蘇った。麓まで見送りたい気もするが、自分はこの小屋から上は熟知していても、下の具合はほとんど知らない。
「……夜には、山女魚も」
 未練がましくそう呟いた豊松に、
「ありがとうございます。でも、下で心配してると思うので」
 級長は礼儀正しく頭を下げた。
「……でも、山女魚食って、力つけて」
 元気者の副級長が、腹を叩きながら笑った。
「これだけ狸の肉をご馳走になったんだもの、百里だって歩けますよ、小父さん」
 ありがとうございました、ご馳走様でした、と揃って頭を下げ、雪を漕いで山を下り始める少年たちの後ろ姿を見送りながら、豊松はやはり何十年も忘れていた胸の疼き――一抹のやましさを覚えていた。


       


 晴れたのだから獣か魚を獲りに行けばいいものを、豊松は少年たちを見送った後も、ひとり小屋の中で焚き火の炎を見つめて過ごした。
 ほんの一刻ほどしか経っていないと思うのに、ふと気づくと、もう窓の隙間の日差しが赤い。歳をとればとるほど昼も夜も短くなるのは、ただひとり生きている身に、とてもありがたい。
 やがてその赤は藍色に変わり、ひと息かふた息か吐息する内、ただ蒼い月の光が朧に漏れこむだけになった。月夜の雪山は何遍何十遍見ても美しい。しかし豊松は焚き火の傍を離れる気になれず、そのままただ胡座をかいて窓の光を眺め続けた。
 今夜は、なぜか若い頃の沙陽が頭に浮かばない。その代わり亡くなる少し前の、小皺だらけで口うるさい姿が浮かんだ。その姿もまたけして不快なものではなかったのだなあ、と、あらためて思い当たる。それはきっと昨夜若い沙陽を相手に精を出してしまったからだろう、とも思うが、はっきりしたところは豊松自身にも解らない。
 腹が鳴った。
 豊松は空の鍋を抱えて立ち上がり、板戸を引いて雪をすくった。
 風も雲もない月夜の雪山は、ただ深閑と広く高く蒼白く、それ自体がたったひとりで世の中を睥睨する何者かのように厳かだった。
 しばらくその様に見惚れながら、そこにひとりでいる自分の暮らしもけして捨てたものではない、などと柄にもない哲学的想念に耽っていると、その雪の斜面を下ってくるふたつの影が目に止まった。
 一瞬、子供たちの誰かだろうかと期待したが、方角が逆である。影も大きい。あの子供たちが言っていた、別の誰かなのだろうか。まだ少し人恋しい気持ちが残っているものの、『馬鹿』はあまり好きではない。『やくざ』や『先生』は知らないが。
 豊松は鍋を抱えて焚き火に戻った。
 相も変わらぬ茸汁が煮える頃、
「なんだ、樵夫《きこり》か?」
 前触れもなく板戸を開いた男が、無遠慮に言い放った。
 昔見たのより少し若いが、帽子や外套は、やはり『駐在』に似ている。
「違うな――山人か?」
 甚だしく侮蔑を含んだ口調も、それに似ているように思われた。
 その背後で荒い息を漏らしている初老の男が『先生』なのだとすると、こちらが『馬鹿なやくざ』なのだろう。いや、『配属将校』だったか。いずれにせよ先生は疲れ切っているようだが、将校はこれだけ偉そうなところを見ると、さほど疲れていないようだ――豊松は、弱味を感じるほど虚勢を張る人間がこの世に多く存在することを、まだ知らなかった。
「なんでもいい。入るぞ」
 将校は背嚢を放り出し、ずかずかと焚き火の傍に陣取った。
「一晩、泊めろ」
 よろめくようにそれに従った初老の先生は、
「それから、何か――」
 焚き火の鍋に憑かれたような眼差しを向け、
「食い物を」
 こちらはぶっきらぼうでも、命令ではなく懇願の口調だった。
 豊松は黙って鍋を勧めた。昨夜の気分とはずいぶん違うが、まあ、同じ人間に変わりはない。
 将校は気難しげな顔のまま、昨夜の子供たちと同じように自前の食器を取り出した。
 無遠慮に汁をすくい、無遠慮にすすり、顔をしかめる。
「……臭いな」
 といって食うのをやめもせず、
「汁も山人も、臭い」
 先生の方は、弱々しいながら嬉しげに、
「行者大蒜ですよ。ありがたい。精がつきますよ」
 将校はその名前だけは知っていたらしく、
「そんな坊主の精進料理みたようなもので、行軍などできん」
 先生は、やれやれ、と言うような顔をしながら他の具を頬張り、大仰に目を見張った。
「この肉は、何だろう」
 豊松は少し躊躇した後、昨夜と同じ答を返した。
「……狸」
「ほう。これは旨いものだ。これはいい。血肉になる」
 しかし将校は、猜疑心に満ちた目で豊松を睨んだ。
「嘘を言うな、山人。俺は大陸の戦場で、何の肉でも食った。これは肉ではない。干し茸だろう」
 やっぱり本当でないことは言わない方がいい――豊松は内心頭を掻きながら、曖昧な笑顔でその場をごまかした。
「こんな物は、腹を通ってただ糞になるだけではないか。山人も油断がならんな。大陸の生蛮どもと同じだ。大方、高い金でもせびる気なのだろう。そうは行かんぞ」
 痛いところを突く真実と、また、豊松には理解できない言葉の両方をいっしょに投げかけられ、豊松は困惑してしまった。うなずいていいのか頭《かぶり》を振っていいのか、見当がつかない。
 気にするな――そう言ってくれているらしい先生の視線に、豊松は安堵し、それきり口をつぐんだ。
 食うだけ食った後、将校たちは横になり、そのまま寝入ってしまった。
 豊松も今夜は焚き火を気にせず、ぐっすり眠ることにした。


 翌朝、飯の後、すぐに山を下りようとする将校たちを、豊松は慌てて引き止めた。
「これから、吹雪く」
 今は確かに一片の雲もないが、昼までには雪雲と風がまた暴れ出すはずだった。理屈ではない。このところの天気の流れだと、必ずそうなる。
 確信に満ちた豊松の言葉に、先生の方は少し躊躇の色を見せた。
 しかし将校は、
「貴様は信用ならん。もっと泊めれば礼が増えるなどと思ったら、大間違いだぞ」
 そう言い捨てると、土間に何やら小粒の金物を撒き散らし、まだ不安げな先生を引き連れて、出て行ってしまった。
 豊松は蕭然とその後を見送った。
 気詰まりな連中でも無理に引き止めるのが正しいか、それとも居心地のいいひとりに戻るほうが嬉しいか。
 ――まあ、あれらは子供ではないのだし、吹雪いても自分たちでなんとかするだろう。
 豊松は、そう結論した。


 土間に転がった数個の金物は、どうやら銭というものらしかった。
 それを持って里に下りれば、何十年ぶりかで米が食える。味噌や醤油も買える。
 ――でも、里には『駐在』がいるからなあ。いつのまにか、ずいぶん人も増えたみたいだし。『中学生』はまた見てみたい気もするが、あの『配属なんとか』は嫌だ。
 結句、豊松はその銭を小屋の隅の欠けた茶碗に放りこみ、とりあえずいつもの焚き火の傍に胡座をかいた。
 米の旨さは覚えているが、さてどうやって食うのだったか。
 味噌や醤油は、どんな味をしていたか。
 沙陽の尻は、いつ頃が見頃で、いつ頃が触り頃だったか。
 米はまた食えるかもしれないが、あの尻はもう土に還ってしまった。それとも両親が言ったように太陽の国に居るのなら、やっぱり死んだ頃の尻をしているのだろうか。初めて会った頃と最後に糞を拭いてやった頃の、まんなかあたりの尻をしてくれていると、自分としては嬉しいのだが――。
 心地よい静寂の中、ときおり粗朶の炎がはぜる。
 春になったら、いつか父親に教わった魚醤《ひしお》でも作ってみよう。そうすればまた子供が迷って来たとき、旨い汁を食わせてやれる。妙な大人が来たら、どこかに隠しておけばいい。
 豊松は、いつもの正直者に戻っていた。


        


 麓からの郵便配達人が汗まみれで小屋にたどり着いたのは、翌年、おおむね雪の溶けた初夏だった。
 豊松は小屋の前の大石の上で、魚醤《ひしお》にするための魚をすりつぶしていた。
 いきなり藪から駐在のような服が姿を現したので、豊松が思わず身構えると、
「なんだあ。ほんとにいたんだんなあ、こんなとこに」
 冬の『先生』をさらに柔和にしたような男が、日差しの中で破顔した。
「いやあ、預かったのは冬なんだが、いくら仕事でも、凍え死んじゃあ始まらんからなあ。――苗字は解らんが、豊松さんじゃろ?」
 きょとんとしたまま豊松がうなずくと、
「ほい、街から葉書だよ」
 雑嚢から、なにやら小さな四角い紙を引っ張り出した。
 自分にくれるらしいので、豊松は魚脂で汚れた手をぼろ雑巾で拭い、その紙を受け取った。
 片側には大きめの字が少し、もう片側には小さめの字が沢山書いてあるようだ。
 豊松は字が読めない。
 確かにあの級長に名を訊かれた覚えがあるが、それを『とよまつ』と書かれても『豊松』と書かれても、豊松自身には読めない。
 戸惑っている気配を察したのか、配達人は、ちょっと、と言ってその葉書をつまみ取った。
「えーと、なになに――拝啓、その節は大変お世話になりました。お陰様でなんとか宿にたどり着き、今は学校に戻って――」
 どうやらあの子供たちは、無事に鉱泉宿まで下りたらしい。そこから戻った『学校』や『寮』がどんな所か知らないが、彼らにとってはずいぶん楽しい所のようだ。
 配達人の訥々とした朗読に、豊松はしみじみ聴き入った。
「――いつか折を見て、小父さんの山にお礼に行きたいと思います。その時は、またあのおいしい狸汁が食べられるかと、今から楽しみにしております、敬具」
 配達人は頬笑みながら豊松に葉書を返し、その肩を叩いた。
「いいことしたなあ、親爺さん」
 豊松は少々複雑な心境で、葉書を押し頂いた。
「ま、子供だけでも助かってよかったわな。引率の兵隊さんや先生も、ここに寄ってれば、助かったんだろうになあ」
 と、言うことは――もの問いたげな豊松に、配達人が首を振った。
「知らんかったか。鉱泉のちょっと上で、雪だるまになっとった。ま、山なんてもんは、ほんとに運次第だわなあ。運と言うより、気力かな」
 豊松は、さらに複雑な心境でうなずいた。
「ところで親爺さん、悪いが水を一杯、ふるまってもらえんか。あ、狸汁は、わしゃいらんがな」
 配達人は豊松が汲んできた雪融けの清水を旨そうに飲んで、囲炉裏で焼いた岩魚の塩焼きを横咥えにしながら、上機嫌で山を下った。


 少年たちは、結局、礼に来なかった。
 そうした時局ではなくなってしまったことへの侘びの葉書を、その夏また同じ配達人が運んで来たとき、豊松は奥の沢で瀬降っており、受け取れなかった。配達人は小屋に葉書を残して行こうかどうか迷ったが、ひとりでは読めないのだから仕方がないと、そのまま里に持ち帰った。
 人の良い配達人はその秋兵隊に取られてしまい、残ったのは足弱の配達人ばかりだったので、結句その葉書は宛先不明の箱に放りこまれ、やがて灰になってしまった。
 そして、戸籍のない兵隊候補が山に居ると知った駐在たちが小屋に押しかけて来たときも、豊松はまだ人知れず沢に瀬降っていた。
 それらの行き違いが、豊松が生涯についたただひとつの嘘を天が咎めたからなのか、あるいは祝福したからなのか、それもまた、なかなかに難しい問題である。





                        〈 終 〉



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