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2005年01月〜11月


11月30日 水  
頭いてえ

お願いですから今更『記紀』を『現実』として、Y染色体に絡めてどうのこうのは、やめてください種々のおエラい方々。繰り返しカチカチの「天皇制擁護」派として、お願いします。今更過去の道徳観念や矜持もなしに、徒に明治大正昭和初期の『ムード』を懐かしむのは、トンデモ仮想戦記を現実の歴史と混同して覚え込むのと大差ありません。伝奇物と歴史は、あくまでも心のフィルターの両側にある夢と現であり、間にある心が寸足らずになると、すぐにまた戦争になっちゃいますよ、いや、まったくの話。そしてここをご覧のお若い皆様にも、カチカチの「浪漫養護」派として、お願いします。『トンデモ』は仮想の愉しみであり、『事実』は義務の苦しみです。逃げちゃあいけない。
たとえば本日逮捕されたあいりちゃん殺害容疑のペルー人さん、現時点では、あくまでも『容疑者』に過ぎません。物的証拠が揃って、初めて現実の『犯人』になる。たとえ彼が本当に犯人だったとしても、情況証拠だけでは『まだ』法的罪人ではない。大体、あの林真須美被告に死刑判決が下りたのも、「どうせ上告されるんだから」という地裁ならではの判決であって、私が陪審員なら、どう頑張っても詐欺罪しか認められません。土台、『明白な人非人』すら断罪できない司直が、どの面下げて『おそらく人非人』を断罪しようと言うのか。
ちなみに自分は万世一系も神武天皇以来連綿と続く同一のY染色体などという事実(?)も、全く信じておりません。『物的証拠』に乏しく、その少ない『物的証拠』にも捏造の跡が見られ、どうも『情況証拠』ばかりのように思われます。ただ、長い歴史を一度もその中枢まで一神教や無宗教に支配されることなく(明治から昭和にかけて『天皇制』を『擬似一神教』に変貌させようとした時期がある事は、短期間ながら大いなる悔悟と共に認めざるをえない訳ですが)、なおかつある程度の『結構なかなかな国家』として存続してきたという事実は充分な『物的証拠』であり、その根幹にはやはり天皇制の存在が大きかった訳で、そんな日本という国を未練たらたら愛し続けているからこそ、いっそシャーマニズム、いや、アミニズムの原点まで遡ってしまったほうが、国家・人類の破綻を千年単位で遅らせることができるのではないか、そんなふうに思うのですね。アミニズムの弊害は多々あっても、今更天皇制をまた擬似一神教に変貌させようとするよりは、この末世、よほど建設的なのでは。
などとくだくだ述べつつ、当コーナー模様替え前の最後に、本音をちょこっと。『おたく』という言葉に現在の奇妙な意味合いが生じる遙か昔から――当方、「巫女、萌え」。


11月29日 火  
「おらといっしょにぱらいそさ行くだ!」

『奇談』という題名は、誰がなにゆえ? いや、諸星大二郎さんの『妖怪ハンター』シリーズ中の白眉『生命の木』の映画化名なのだが、いくらなんでももう少々適確な題名は思いつかなかったか。貞水師匠は出るは白木みのるさんは出るは、予告編も怪しさ全開なのでぜひ観たかったのであり、夕方新聞屋さんにタダ券もらったのでこりゃもう行くしかないでしょと地元のシネコンを調べたら、なんと朝一の一回しか上映していない。なんのインパクトもない題名が、話題薄にも影響しているのでは。大体それは朝日の下で上映を待つ性格の映画か。最終の一回の間違いではないのか。と言うわけで、試写会に行き損ねた『三丁目の夕日』を観てしまおうかとも思う夜行性狸。
まあこう活力・気力が失われている昨今、三丁目もぱらいそも同じように感じられてしまって、いやいかんいかん、過去を振り返ってるようなフリをしといて実はぱらいそにヌケるのが自分の人生の目標なのだと自戒したりもするが、やはり初夏頃までの脳内麻薬は諸々の気鬱で抑制されてしまっており、「おらも連れてってけろ!」と叫びながら取り残される凡人の役回りしか出来そうもないか。
いや、まだまだ。朝の来ない夜はない。おらひとりでも、こっそりぱらいそさ行くだ。
録画しておいた『義経』の勧進帳の場、歌舞伎のような丁々発止はずいぶん簡略化されており、笛を盗んだのどうのも唐突に思われたが、情感は適度でまず満足。松平弁慶よりも、石橋蓮司さんの富樫左衛門がすっかり見せ場をさらった形。しかし最後の「……九郎殿」の呟きは、いらないと思うがなあ。あえて言わせないと、ニブい視聴者には富樫の万感の思いが伝わらないと思ったのかしら。石橋さんにあそこまでいい芝居をしてもらったのだから、察しの悪い視聴者など置き去りにしても良かったのでは。腹芸だけで充分。
録画を見終わりリアルタイム番組をちょっと覗くと、ガイアなんとかのドキュメントで、また金転がしや物転がしを志す若者のビジネス物をやっており、なんと小学生の学習雑誌の『お金』特集や、経済講座まであるそうだ。今後もホリエモン・タイプの若い衆が増殖するのか。あのさあ、商売教えるなら、まず丁稚奉公の労働現場が先でしょう。まあ、別に地上にナニがいくら増えようと、私は正気の方々といっしょに、勝手に『ぱらいそ』(偏見だらけの天国なんかじゃないぞ)を目指しますが。


11月28日 月  
投票率

大阪の選挙も投票率4割に満たぬ締まらない結果だったようだが、当地はなんと25パーにも届かぬ体たらく。いかに誰がどう見ても結果など同じ選挙とはいえ、この地の成人は、自分が常々思っているように、やはり寸足らずの大人が75パーを越す構成比なのであった。
投票しないことを「どうでもいい」という『投げ』の意思表示だと思っているのなら、すでに寸足らずである。広範な社会がどう動くかに関わらず、個人として有権者の義務を放棄するという事は、結果的に『この選挙で選ばれた人間が誰であろうと自分はおとなしく従います』という意思表示なのであり、単なる盲従なのですよ、75パー超の大人の皆さん。
なぜ風呂場が水浸しだったのかは未だに謎だが、もしかしたら風呂好きの自分と心の通った風呂桶の付喪神さんとか妖怪あかなめさんとかが、天に向かって涙していたのかもしれない。まあ自分としては、通りすがりのろりの霊とか色っぽい女性の霊が、こっそり入浴してくれたのだったら嬉しいのだけれど。住み着いてくれてもいいです。ただし、野郎霊は不可。


11月27日 日  
仄暗い風呂の床から

別に死ぬほどの事してないんじゃないの、と思われる方は、己の『立場』に耐えきれず、自ら命を絶つ。と思えば、正気の人間なら真っ先に投身するんじゃないかと思われる人々は、強靱な面の皮であらゆる恥を跳ね返し、おそらくは身体的寿命を全うする。天網恢々粗にして漏らさず――なんて非論理的な現象は有り得ないのであって、粗だからこそだだ漏れなのであり、天などというものはあくまでも意志を持たない『在る』ことそのものに過ぎず、具体的に『どう在る』かは、地べたでうろうろする人間の心ひとつ――しつこいなあ、自分も。
しかし今回の気の乗らない選挙(また「あえて選びたい人」がいないから、「一番選びたくない人の反対陣営の人」に投票せざるを得ない)から戻り、風呂に水を張ろうとすると――べしゃり。靴下がびしょ濡れ。なんだこりゃ、と風呂場の床を確かめると、簀の子から洗面器から、しとどに水を被っている。な、なぜ? 昨夜以来風呂場など使っていないし、昼にはずっと風を通しているのに。色っぽくこの風呂場を使ってくれるお方なども、このウン十年心当たりのないちょんがーなのに。しかし事実、誰かが風呂を使ったように、隅々まで濡れているのである。……謎。自分もいよいよ稲川淳二さんの管轄に踏み込めるのかしら。それとも排水口から、なんか逆流してくるのか。いや、それだと風呂桶の中までは濡れないだろう。
判った。これはきっと、昨夜読んでいた諸星大二郎さんの『妖怪ハンター』シリーズ最新刊、『魔障ヶ岳』に潜む『モノ』の悪戯。わくわく。自分だったら、なんて名前を付けよう。たかこ、くにこ、ゆうこ、けいこ、せいこ、ちひろ、りえ、みゆき……って、みんな今頃おばさんだってばよう。うん。やっぱしここは写真でしか知らない、きむらみき、ひびのあずさ、とくもとかすみ――。
――なんだか、部屋が急に暗くなったような気がする。


11月26日 土  
芋蔓式日記

まあ法規はどうあれ、あらゆる駐車違反が現実的犯罪行為とは言わないが、問題はやはりバレた後の反応なのであって、世間をナメきったお坊ちゃんに、もともと伝統芸能の家元など務まるはずはない。
などという前フリとは全く無関係に、貧乏人は土日祝日に街にでるべきではないという自戒を忘れ、うっかり買い物に出てしまう。昼時の食堂街の匂いは大層蠱惑的で、ついつい「やっぱり俺はどーあっても久々にステーキという贅沢なシロモノを食うのだ」と昂ぶってしまい、サイゼリヤへ。味覚だけで考えれば、けして納豆や身欠き鰊が牛肉より劣る訳でもないのだが、やはり『細かくない一塊の牛肉』は、我々世代には別格の心機一転的食品である。
お陰様で書店で使える予算は激減し、先週に続き『特撮ヒーローBESTマガジン』の『キャプテンウルトラ』号と、岩波ジュニア新書の『マンガ世界の歩き方』の2冊のみ購入。今回の二冊は、我が引き籠もり脳にとって、なかなか有用な内容であった。
たとえばキャプテンウルトラの当時のコミカライズを担当したのが、小畑しゅんじさんであったという事実を広告の写真により思い出す→小畑しゅんじさん……ありゃ、なんか引っかかるぞ。一時期結構活躍され方だが、そう言えば当時の自分はそうした派手なコミカライズなどよりも、オリジナル砂漠秘境巨大石像ヒーロー物、たしかタイトルは『ジャイアント魔人』の単行本を、大事に何度も読み返した記憶が……→おや、今脳裏に、なんか中近東の砂漠ではなくインカっぽい民族衣装の異形の群れのビジュアルが、小畑さんのタッチで→ありゃ、そのインカっぽい一族は、なんか水の中でゆらゆらと――とまあ、そこで大変な記憶の混濁に思い当たったりするわけである。
おお、死美人物件打鍵中もその後も気になって仕方がなかった橘外男さんの『人を呼ぶ湖』――自分はそれを文章で読んだのではなかったのでは。もしやあの記憶は、小畑しゅんじさんの絵柄とコンビだったのでは――そうやって一度蘇った爺いの子供時代の記憶というやつは、もう芋蔓式にずるずると、脳内から這い上がってくるのであった。そうだ、そうだよ。当時少年マガジンで、なんか覆面漫画家による怪奇小説漫画化短期連載、連載中に覆面漫画家さんの正体を当てたら抽選でなんかもらえる、そんな企画があったのだ。まあ、当時でもちょっと年長の漫画好き児童なら、あ、これはすげー劇画タッチにイメチェンしてるけど小畑しゅんじさんに違いない、そのくらいの判断はついた。その原作者が、当時でももう新刊書は滅多に手に入らなかった橘外男さんであり、じゃあなんでそんなガキがそんな原作者名まで知っていたかというと、父親の本棚に『私は呪われている』というまんまな題名の怪描伝奇小説があったからであり、また、ほぼ同一内容の児童向け小説『怪猫屋敷』を本屋で買ってもらって大層気に入っていたからでもあり、やがて古本屋の味なども覚え始めると、その作家はきわめて扇情的なんだかエログロなんだか人情なんだかよくわからない幻想の人であったので、いやなマセガキはうふふふふなどとほくそ笑み、そのまんまずるずる、ずっぷし――。いやあ、思い出した、思い出した。さて、それでは果たしてこのところずっと気にかかっている(まだ気にしているのである。年寄りはしつこいのだ)、屍蝋化した恋人の掌の皮ずるりのビジュアルは――な、なんと肝腎のシーンだけが、はっきりと思い出せない。湖底の美女の死体、というビジュアルを記憶の中で探ると、残念ながら小畑しゅんじさんの絵柄ではなく、どうしてもエロジェニカだったかエロトピアだったか、まだ都会的に絵柄を変える前の中島忠雄さんの陵辱エロ劇画のラストシーンが浮かんで来てしまう。誰か脳味噌の黴取りしてくれるイシャはいないか。
一方、『マンガ世界の歩き方』という本は、まだ20代の青年(ルポ・ライターと言うより、フリーターに近いらしい)が、日本におけるマンガというメディアに踏み込もうとするルポ、というより、歴史的な事など何も知らないなりにあっちこっち首を突っ込んでゆくとてもチャーミングな手探り足探り本。興味深いのは、彼自身が不安定な境遇のためか、最終の一章を、我がご贔屓の森安なおやさん追跡にあてているのである。おかげ様で、森安さんの晩年の絵柄の変化なども想像がついたし、往年のNHKのトキワ莊取り壊し記念(?)ドキュメント放映時に、それを抱えて出版社回りをしていた作品の一部などもかいま見られた。昔の絵柄とは、ずいぶん変わっていたようだ。到底現在の新作扱いで出版できる絵柄ではない。しかし、自分の記憶にある貸本時代の少女物ならば、復刻しても充分意味があると思う。本当にのほほんとして、しかし風変わりな児童漫画だったのだ。風変わりというのは、たとえば唐沢俊一さんなどが盛んに紹介してくれる当時のトンデモ少女怪奇漫画、つまり現代漫画や雑誌漫画では考えられない「ずるっ」「おい」「おいおいおい」「そりゃねーだろ」といった一般社会通念を突き抜けてしまった感覚(怪奇描写が異様なのでなく、生活感覚自体が突き抜けている)、そんなフシギな論法をそこはかとなく備えた、しかしあくまで牧歌的叙情的少女漫画だったのである。まあこればかりは現物を見てもらわない事には表現のしようがないのだが、後期の原稿や昔の出版物は、きちんと生前から森安さんと親交のあった若いファンの方が保管されているようなので、ぜひ志を通し、復刻していただきたいものである。唐沢さんあたりも何冊か所蔵されているという話なので、メジャーに紹介していただけると有難い。……商売にはならんか。しかしコミケあたりの客なら、『幻のトキワ莊落ちこぼれ漫画家・森安なおや 生涯フリーターの原点がここにある!』なんて感じで煽れば、1000円くらい出してくれるのではないか。トキワ莊後の方向はどうあれ、少なくともその時点までは、手塚先生を除けば、みんな実力と才能は伯仲していたのである。嘘だと思ったら、かの石ノ森先生の初期の金字塔『龍神沼』と、同じ著者の4年前の作『龍神沼の少女』を見比べてもらうといい。原石の時点では、石ノ森作品よりも森安作品の方が輝いていたかもしれない。


11月25日 金  
女系

さて、旧皇族の方などからも囂しい女系反対論、やっぱり例のY染色体の件と共に、神道における『穢れ』、この場合端的に言えば、神事に生理中の女性は関われないとか、そういった『伝統』を主に展開されているようだ。しかし、その論旨に矛盾はないか。そもそも二千何百年、万世一系と称する天皇制の、初期と称する時期においては、まだ神道内に『穢れ』の意識など確率していない。それがY染色体論同様本能的な物だとすれば、その『本能』も、仏教伝来以降に定着した『後得的本能(?)』なのだろうか。自分には、Y染色体論同様、結果論から導いた『擬似本能』に思える。また『血穢』『産穢』といった概念は、本能的な『死』への畏れもあろうが、多くの研究者の方も言っておられるように、現実生活上では、その期間精神的にも肉体的にも不安定な女性を休養させるという効果も多分にあったのであり、同じ結果論ならそっちの効用のほうが余程合理的である。ミームという奴の本質は、むしろそうした生活感情にあるのではないか。大嘗祭や新嘗祭に女性天皇が生理中の場合どうしても困ると言うなら、昔の女性天皇即位の時の例のように、休んでもらって先延ばしすればいいだけの話である。少なくとも、古代日本において女性が神事を司っていたのは間違いない。天津神の方々だって、気にしないはずだ。むしろ「下の連中、やっと後付けの妙な風習を軌道修正してくれたみたいね、うっふん」と、一番偉い女神様が喜んでくれる可能性もある。
まあ、国津神のほうが天津神よりエライんだい、と言い切る自信があれば別なのだけれど、私としてはやっぱり、お天道様あってこその地べた、そんな気がします。そもそも男系に執着する意識そのものに、あっちのエホバさんだかいろんな名前のあるたったひとりでなんでもかんでも造ってしまったと自称する方がアダムさんの肋骨からなんかイブさんを造ったと主張するような、地球に優しくない、違和感を覚えてしまうのですね。
という訳で、女系容認と言うよりは、むしろ女系優先にしてもいいと思う男の独言でした。雅子様、愛子様、頑張れ。染色体の形など、縄文以来のミームの敵ではない。しかしこの問題に関しては、あの(!)朝日新聞までもが、いつもの左一方ではなく、ちょっと保守派に浮気したりもしている。そんなに新聞社でも偉いと思うか、男って。
ところで晩飯旁々テレビのニュースを見ていたら、あの可哀想なぴかぴかの一年生の女の子の生前の写真などが流れ、ちょっと前に新聞に載った横田めぐみさんの子供時代の写真なども思い出され、暗澹たる思いに沈む。「他人の一生を終わらせるのは面白い」――浮浪者狩りで殺人を犯した少年が、事件当時に言ったセリフである。ならばなんで一発奮起して、より終わらせ甲斐のある、終わらせればウケそうな奴らをあえて終わらせようとしないのか。深層心理においては、彼らもまた快楽殺人犯や拉致首領様同様、ただ「楽して他人を牛耳りたい」だけなのであり、それはホームレスどころでなく 、卑小で醜怪だ。


11月24日 木  
鏡花畏るべし

さてご贔屓泉鏡花の作を初めて読んだのは何時の事であったか。中学の頃か高校だったか、『高野聖』が先だったか『眉かくしの霊』が先だったか。いずれにせよ多少なりともブンガクかぶれし始めた子供には、それらの作品は大層ずっぷし物であり、「こんな情オンリーの言葉によるお耽美の底なし沼を前にすると、知性だの理性だのはブンガク上無力なのかもしれんなあ」などと、いっとき打ちのめされたりしてしまったのだけれど、やがて人並み以下にしろ社会や土俗が見えてくると、「なんだ、やっぱし鏡花も大したことねーじゃん、ただの唯美主義で偏狭そのものじゃん、構成甘いし」などとも思ってしまった訳だが、さて社会生活に疲れ果てて銀行預金も尽きそうな中年フリーターに墜ちてしまうと、行き着く先はやはり『外科室』の狂気なのであった。
そもそも鏡花の偏狭さが鼻についたのは、縄文的な大らかさを一切排除した強固な道徳観念がいっとき非常に鬱陶しく感じられたからで、無論その道徳観念とは社会と姑息に折り合いを付けるという意味での道徳観念ではなく、「孤高の美に殉ぜよ」「ただ愛を自負とせよ」「ああ美しいあなたさえいてくれれば世の中なんてどーでもいーの」といった異常なまでの貞操観念であり、今にして思えば、それが生臭い青年時代の自分の「もし可能なら全ての女性のお尻に触りまくりたい」という本音にそぐわなかっただけなのだろう。そんなムスコに振り回されっぱなしの時代に『外科室』など読んでしまうと、「なにこれただのなりふりかまわぬワガママ放題のタカビー馬鹿女じゃん」とさえ思ってしまったりしたのだが――すみません、先生。ボクがバカでした。
人間ーなんてららーらららららーらー♪ というくらいの現実社会に対峙する「ファンタジー」は、そこまで行って丁度なのである。生臭い者同士の縺れ合う様が見たいのなら、別に現実社会を見ていれば充分だ。異世界で魔法を使ったり翼を生やしたりしながら、結句生臭い人間関係をトレースしたり増幅したりするだけの物語は、果たして「ファンタジー」なのか。
鏡花は、やはり「抜けて」いる。ああ、自分も遠くに抜けたいと思いつつ、日々の雑事に生きる無能な狸は、今夜も風呂でふやけながら、図書館で借りてきてコピーした(おい)『外科室』のテープを聴きまくるのであった、まる、と。


11月23日 水  
煮詰まった時のろり頼み

            
            昔、直接もらった色紙なのだから、問題ないと思われる。(そうか?)


11月22日 火  
私は貝になりたい

またぴかぴかの一年生の、痛ましい話が。段ボールに入れて空き地に放置? その方法を選んだ時点で、どんなタイプの犯罪者であれ、死刑。未成年だろうが老人だろうが、愉快犯だろうが怨恨だろうが、少なくとも犯人はその少女個人に『対峙』していたわけではあるまい。己だけを見ていたのだ。しかし、犯人もまた子供でないことを祈る。
さて、そんなオークション覗いてんじゃねーよおっさんおっさん、と言うお叱りはとりあえずこっちにおいといて、こんな物件がある。これもまた、「とにかくもう俺は他人なんかどうでもいいから楽して金もらいたくてもらいたくてしょうがないんだ俺は。あんたが誰でもなんでもいいから俺にタダで金下さいほらほら早く出せよオラア!」という言葉を、別の言葉に置き換えたにすぎない。この方は、カテゴリを選ばず無数の商品名で、同じ写真と文章をばらまいている。他の商品名を標榜して万札の写真を載せた段階で、すでに『やらずぶったくり』あるいは『既知外』であることに、気づいていないらしい。
また、思わず体中にカッターで切れ目を入れてワサビ漬けにしてやりたい、こんな方もいる。
『群馬県高崎市の県営住宅で昨年3月、隣に住む小学1年の女児=当時(7つ)=を殺害したとして、殺人などの罪に問われた元会社員の無職野木巨之被告(28)の公判が14日、前橋地裁高崎支部(大島哲雄裁判長)であり、検察側は無期懲役を求刑した。検察側は論告で「女児の人格や人間の尊厳を全く意に介さない極めて身勝手、自己中心的な犯行」と指摘した。論告などによると、野木被告は昨年3月11日午後、県営住宅10階の自宅前を通り掛かった女児を無理やり連れ込み、大声を出されたため手やタオルで首を絞め、窒息死させた。(共同通信)10月14日11時44分更新』。まあこの無期が妥当かはとりあえずこっちに置いといて、実は同じ方が、7月の新聞によると、こんな実態も晒している。『高崎市北久保町の県営住宅で昨年3月、小学1年の女児(当時7歳)が殺害された事件で、強姦(ごうかん)致死、殺人罪に問われた隣人の会社員、野木巨之被告(28)に対する第5回公判被告人質問が15日、前橋地裁高崎支部(大島哲雄裁判長)であった。逮捕時に自宅から押収された「美少女フィギュア(人形)」について検察側に放棄を迫られた野木被告はこれまでの落胆したかのような態度をひょう変させ、「あの子たち(フィギュア)を処分することは、私の子供を殺すかのようなものだ」と激しい泣き声で訴えるなど、人形に対する異常な執着を見せた。この日先立って行われた弁護人からの質問に対し、野木被告はか細い声で「自分勝手でひどいことをしてしまった。被害者と遺族に本当に申し訳ないと思っている」と事件に対する謝罪を述べていた。ところが、続いて行われた検察側の質問で、検察官に「被告の作った『フィギュア』を被害者の遺族は取り上げたいと言っている。放棄しますか」と迫られると、「端から見れば汚い人形だが、自分を支えてくれた大切なもの」と言って泣き出し、「遺族の気持ちも分かるが、私が(被害者を殺害)してしまったように、相手から大切なものを奪ったら後悔するだろう。そんなことしてほしくない」などと頭を抱えて叫んだ。このやりとりを傍聴していた被害女児の母親は、野木被告の態度に憤った様子で、傍聴席から駆け足で退出した。最終的に人形の放棄を承諾した野木被告は「くそっ」と漏らしたままうつむきおえつした。閉廷直前、大島裁判長は「人が命を落とすことの重大性が分かりますか。その人はもう帰ってこないということです」と野木被告を諭した。【木下訓明】毎日新聞7月16日朝刊』 ……本当にこの世は自分だけの世界だと思っているのである。こうした輩が実在するので、我々フィギア好きやドール愛好者(おい)は、世間に誤解されがちなのだ。まあ、世間のカーキチさんたちが必ずしも通行人を跳ね飛ばしたがっているわけではない、そのくらいの理屈は、世間にも判ってもらえると思うのだけれど。
しかしこれだけ素晴らしい『反面教師』のいる世の中で、なんで犯罪者が減らないのか、不思議でならない。「ちょっとあんましみっともないからそーゆーのパス」、その位の学習能力も身に付かないまま大人になるのは、並大抵の無能ではないはずだ。しかしそのおかげで、こんな自分でもしみじみ貝になりたい程度にはまっとうらしい、そんな自負心も抱けるわけで、その点では、やはり『反面教師』ではある。


11月21日 月  
なすよしもがな

さて陰気くさく眼を剥きぼってりとした唇をとがらせPOPSのように歌う少女が静御前にふさわしいかどうかはとりあえずこっちにおいといて、やはり佳境に入り盛り上がる『義経』なのであった。
古式ゆかしき『判官贔屓』の情が、やっぱりうるうると胸に迫る。
こうなると伝奇好き人間の脳裏に去来するのは、やはり義経=ジンギスカン説ですね。トンデモであろうがなかろうが、「とにかくなんでもいいから生き延びていてくれ義経」なのであり、多少(しこたま?)の矛盾など、結婚詐欺師に騙されるハイミスのごとく、情の流れに沈めてしまいたいのである。高木彬光さんの『成吉思汗の秘密』など、その金字塔ですね。あの作品のキモは、古来ある諸説に独自の推理を加え云々、などともっともらしく言うより、不合理や矛盾は『輪廻』の浪漫でなしくずしに納得させてしまい、その最後の最後の最後で、「『成吉思汗』をそのまま万葉読みにすれば、なんと『なすよしもがな』ではないか」と、あくまでも義経と静の切々とした慕情を天まで飛翔させて幕、その呼吸にあるのである。『成吉思汗』という字面は後年当てはめられたものだとも聞くが、それもまた資料による推論であって、だあれもその頃の義経やジンギスカンに直接会って話を聞くのは不可能なのである。
そろそろ自分もまた『花も実もある絵空事』にずっぷし行きたいと思う今日この頃。


11月20日 日  
鏡よ鏡

震度5で倒れる可能性のあるビルを、嘘を吐きつつせっせと設計する方もする方だが、発注する側や実際建てる人々の全てが、それを悟っていなかったはずはないのである。嘘と知りつつ、その嘘を欲のために看過していただけで、バレたら「自分は知りませんでした」と尻をまくればいい。まあ、これだけ大事になれば、さすがに司直の手が及びそうだが。それにしても実際地震が来たら、どうするつもりだったのだろう。もはや『耐震基準』という言葉は、彼らの頭の中では単なる数値上のキマリくらいの感覚であり、その言葉が実際の地震という物理現象のイメージとは、繋がっていなかったのだろうなあ。その建物に住むのは、自分たちではないのだし。
午後から買い物に出ると、今日は日曜なのであった。老若男女ろり含む、賑やかな街である。こうした賑わいは貧乏人にとってきわめて危険なのであり、ついつい浮かれて消費活動の歯止めが外れる。帰宅して我に返れば、西岸良平さんの『三丁目の夕日』の凝りまくった復刻雑誌風オマケ付きや、特撮ムックや各種コミックス等、無慮5千円超と思われる本屋の袋など手にしている。本日は外食しようかと思っていたのだが、無論断念。
普段ならじっくり事前選定の上、アキバあたりでしか買わないろり系成年コミックスなども、過激なオビの惹句と細密な表紙絵に惹かれて一冊衝動買いしてしまったが――ああ、やはりこのジャンルだけは、なんぼでもネットで事前調査できるのだから、衝動買いなどするのではなかった。ただタッチが細密なだけで、デッサンも筋もセリフも、便所の落書き水準なのであった。こんなアンバランスな奇形的少女キャラでも、顔などは売れっ子ろり絵師的造形で一見しっかり書き込んであるから、単行本は何冊も出ているようだ。ここまで書くとさすがにそのお名前は出せないが、別にその方に限らず、デフォルメと奇形の差のない方々などあの業界の大半なのであって、要は、始めからエロロリ漫画のみを手本に育ち、それを悪い頭とセンスで模倣したり、さらにデフォルメしているのである。
言うまでもなく、耐震基準は、お題目でもただの数字でもなく、実際の『地震』に備えるための、つまり入居者の生命に関わる数値である。
ろり絵・ろり漫画は、先人のろり絵から抽出する形骸的記号ではなく、実際の『ろり』を表現するための、つまりろりの質感・生命感に対峙するべきものである。
自分の部屋の鏡だけ見ていても、どうせ「もっと金が欲しい」「ろりとやりたい」と大書きされた自分の顔くらいしか見えないのだから、やっぱりもっとのんびり外を散歩するべきなのですね。他人でもろりでも空でも、じっくりその実態をながめながら。でないときっとマンションを買う客がただの財布に見え出したり、ちっとも柔らかくない鉱物のようなろりのおしりを描いたりするのだろう。


11月19日 土  
退化か過適応か(あるいは隘路か)

Win95のパソを買い、初めてネットに繋いだ頃、HPを頻繁に覗かせていただいていた少女漫画家さんの足跡を、久々に追う。最初に訪れたのは、作品がアナログからデジタルに移行して、そっちのテクや知識がどどどどどっと開花されていた頃で、伝統的少女漫画風の絵柄が種々のデジタル処理で彩られとっても綺麗、そんな感じだった。フラッシュその他の遊びもセンスが良く、お絵かきソフト入門的な仕事も始められていた。
その愛すべきページが閉ざされたのは、2000年頃だったろうか。あれ、結婚引退でもされてしまったのかしら、などと思っていたら、間もなく同じ方の、完全お仕事PRページのような所を発見。つまり、デジタル・アート関係に完全に仕事を移され、その入門書・各種雑誌記事などが専門になってしまったのですね。適材適所なのかなあ、と思いつつ、愛らしきイラストがどんどん減って、画像処理やらデジカメ写真加工修正やら、まあお仕事なのだから仕方がないというタイプのお仕事がメインになり、かなり寂しく思っていたら――昨年から、そのお仕事ページの更新もストップしている。
道を誤った、などとずうずうしい事を言う資格はさらさらない。好きな事だけやって食える人など、ほんの一握りだ。ただ残念なのは、お仕事がそうしたテクニック記事に移行するにつれてどんどん失われて行った、作品の素朴な愛らしさである。原少女漫画的描線が次第に一律化し、なにか温もりが失せて行き――野次馬ファンとしては、やはり悲しい。
また年寄りの愚痴っぽくなるが、大昔からのデジタル系ファンとして思うに、現在の最先端CG技術をもってしても、まだまだアナログ魂の再現は不可能だ。それはハリウッド超大作ファンタジーなどを観ても明らかで、自分にとってそれら「信じられないCG技術」とやらは、ちっとも本物に見えないという意味では、合成のマットのズレがはっきり見えていた古いアナログ作品と、なんら変わりがない。結局、作品の優劣は、その作品全体にこめられたクリエイターの息づかいひとつであり、『情』『魂』なのである。
まあその方のHPの更新が止まっているというのも、もしやそっちの仕事でてんてこまい、あるいは結婚引退などからかも知れず、一概に即断はできないのだが、その方の過去のアナログ作品は残念ながら単行本になっていないし、かつてのHPにあった数多の愛すべきデジタル・データも、今はその方個人の所有データ、そして自分のようなファンのこっそり保存データとしてしか存在せず、公共の空間に漂ってはいない訳である。ネット空間に漂い続けている謎の放置ページやデータ類を見るにつけ、いっそ更新断念でも浮遊させているのが『情』であり『魂』にとって本望なのではないか、そんなふうに思ってしまう今日この頃。


11月18日 金  
少年少女・世界の名作

古本屋の100円ワゴンで、なにか小学校の図書館を思わせる懐かしい背表紙を数冊見つけ、手に取ると偕成社の『少年少女・世界の名作』シリーズであった。しかしこのシリーズ、当時はどちらかというと俗物扱いで、実際には学校の図書館にはあまり並んでいなかった記憶も。同社の『ジュニア版日本文学』などが、原文重視で表記・ルビのみ子供向けだったのに対し、こっちのシリーズは脚色ビンビンで、むしろ乱歩の少年探偵団やホームズやルパンや、横溝正史の子供向けなどを挿絵たっぷりで扇情的に売っていた(今もその気はありますね)社風のノリだったからか。もっとも友人同士の貸し借りにはけっこう流れていたから、学校の先生ウケはどうであれ、子供には人気があったのですね。
ふと八雲の『怪談』なんぞを手に取ると、なんと子供向けリライトは、北条誠さんである。川端門下の売れっ子小説家であると同時に、むしろメロドラマや映画の原作・シナリオ作家としての印象が強い。本文を覗いたら、まさにドラマのノリで、原作にはない科白中心のストーリー進行のようだ。昔から『子供向けリライト』というのは、そんな感じだったのですね。今も売れっ子エンタメ作家さんによる古典ホラーのドラマっぽいリライト(一応『訳』と銘打っているが)など、書店で散見する。おいおいこれがブラム・ストーカーかよ、みたいな。
しかし、それはそれで、やはり面白いのである。古典大長編の中からドラマチックな流れを抽出して、二時間弱の映画に脚色したような。無論脚色が下手だとどうしようもないのだが――巻末の広告を見ると、柴田練三郎さんやら高木彬光さんやら、子供時代は意識していなくとも、今ならぜひ読んでみたい方が大勢。しかし残念(当然?)ながら、ワゴンには、なし。それにしても、ブースビーの『魔法医師ニコラ』やハドソンの『緑の館』が、香山滋さんの脚色……よ、読んでみたい。
こうした書籍に限らず、当時の子供の経済状態では、必死のやりくり算段の上、厳選に厳選を重ねてほんの一部のみに接し得ていた、種々の『モノ』たち――自分で稼げるようになってから、何度「ああ、このボーナス持って子供時代にタイム・スリップしたい」と夢想したことか。本や玩具もさることながら、店の商品まるごと大人買いできそうなちっぽけな駄菓子屋の中にさえ、今となっては再現不能な町工場的物品など、幾らも詰まっていたのである。
結局、その北条誠版『怪談』と、『大正時代の身の上相談』(と言っても最近のちくま文庫)を買って帰る。


11月17日 木  
ぐちぐち

こっちの市役所では、特養や老健不足で、療養型の病院(病院の一部を、医療保険でなく介護保険の範疇で老人用にしている所もある)など教えられた訳だが、姉のいる神奈川の郊外では、むしろ老健(あくまでもリハビリ的な趣旨の施設ですね)が雨後の竹の子のように増えているそうで、まあ自己負担は増えるが入居できる可能性は高いらしい。もっとも『終の棲家』としての特養(いわゆる従来の老人ホーム的な所)はどこもいっぱいで、申し込んでも空きが出来た頃には当人が彼岸に渡ってしまっている、そんな場合も多いようだが。老健の数の地域差は、高齢者人口の差でもあろうが(このあたりは呆け老人以上に、元気な非行老人が目立つような気もするし)、やはり土地代なども関係しているのだろう。採算がとれなければ経営不能、つまり、福祉以上にやはりビジネスなのである。
三位一体の改革とやらで、貧乏人や中小自営業者やサラリーマンはどんどん苦しくなるし、一般的な公務員もかなりきつくなるらしいが、一人頭の無駄金のケタのでかい天下り役人や、やくたいもない外郭団体は、相変わらず甘い蜜を吸い放題である。いやはや、ほんとにこれでも小泉さんの支持率が上がり自民圧勝党内粛正独裁強化――まあ、いいんですけどね。みんなで橋の下に行けば、雨露くらいはしのげるでしょうし、小泉チルドレンたちも、たまには残り物くらいくれるでしょう。
まあそんな事は、いつの時代も、何をもって『甘い蜜』とするか、それだけの価値観の違いである。金や権力が甘いと思う人間は金や権力を追うしかないのだし、なんかよくわからないが美しい物が甘いと思う人間は、美しい物を追うしかないのである。ああ、でも、こんな世の中だと、美しい物もみんな金額換算されてしまうのよなあ。やはり貧乏人に残される物は、心ひとつ。


11月16日 水  
縦書き表示

さて、脳内ではやっぱりたかちゃんたちが先にまた発動しそうな今日この頃、暇を見ては、あいかわらずWeb上縦書き表示の方法を試している。滑らかな活字表現としてはPDFがやはり決め手のようだが、とにかくファイルが重くて、良い環境の方か根性のある方でないと、見てもらうのに大変そうだ。しかし、横書き同様のネットっぽいフォントで、軽くてしかも縦書き表示にすると、どうもかえって読みにくい気もする。インターネットエクスプローラーの5.5以上だと、ルビもなんとか表示できるが、行間の乱れは横表示より目立ってしまう。はてさて、いかがな方向に進むべきか。
こっち(横表示・ルビ断念モード)と、こっち(縦表示・根性でルビもモード)の、はたしてどちらが見やすいか、試していただけると感謝です。ご意見などいただければ狸が平身低頭して、お礼に食いかけの身欠き鰊など、きゅんきゅん差し出すかもしれません。気持ちだけですけど。


11月15日 火  
逍遥(彷徨?)

朝一で市役所に行き、今後の母親の方向模索のため、地域福祉支援課でなにかと話を聞く。住民票をどこに置いたら合理的か、特養や老健は現実的に何年待ちなのか、そんなような、なんかいろいろ。年内は郷里の入院が続くにしろ、住民票だけは、すでにケアハウスには置けないし、無論病院にも置けない。住民票を移せば、介護認定も、その地域に移さなければならない。現在は医療保険の範疇にいるのだけれど、さて、今後を考えると――。まあ、特養はどこも2〜3年待ちだと言うし、結局入院先での経過しだいなのだけれど、住民票だけは、またどこかに移さなければならない。やはり、空いている神奈川のマンションという事になるのか。
発作的に(まあ、本日は勝手に休みにしていたのだが)、電車に乗って遠くに行く。たかちゃんシリーズでさんざんネタにした、青梅という所は実際どんな田舎か。実は学生時代にそこ出身の知人に話を聞いたり、会社時代にそこに家を建ててヒイコラ都内まで通勤している上司の話を聞いたりしただけで、あとは地図だけ見て、適当に打っていたのである。
――いい所であった。土地そのものが渓谷の延長の斜面状となっており、ずいぶん想像とは違っていたが、いかにも奥多摩山間の町といった風情、多摩川上流の荒い渓谷美、もうそのまんま渓谷に掛かる橋の下でぼんやり朽ちて行きたい気分だった。地図の記憶だけを頼りに、3時間ほど彷徨う。種々のしがらみがなければ、本当に引っ越して住み着きたいような町だった。予想通り駅ビルなどという無粋な物はなく、たかちゃん物では適当に『途中の駅ビル』などと誤魔化しておいたが、まあパラレル世界ということで。駅の通路から商店街まで、古い映画の絵看板があちこち飾られており、それが『昭和の町』という町興しのシンボルらしい。一瞬、そんな映画がちっぽけな古い映画館で観られるのではないかと錯覚するも、無論看板のみ。しかしあざとさは感じられず、鄙びた商店街に、良く溶け込んでいた。
自分もまんまその風情に溶け込んでしまいたいと切に願うが――帰宅した都会の部屋の窓外では、今日もお向かいの欲求不満のマンション犬がきゃんきゃん吼えまくり、近所から「うっせー!」と怒号が飛び、昨夜も荒れるために酔ったおっさんたちが路上で怒鳴りまくり。しかしまあ、『怒鳴る』という行為は自分も周囲もストレスが高まるだけのような気がするのでこの30年やってないのだが、皆さん、気が晴れるのかしら。まあ、晴れるから怒鳴ってるんだろう。でなけりゃ馬鹿だし。それにしても、きっちり面と向かって抗議してる姿(声)などは、一度も見た(聞いた)ことがない。怒鳴るだけなら犬でもできる。しかしそのかわゆい(推定)法外に賑やかなマンション犬を、日夜近所に怒鳴られつつ、どこ吹く風で飼い続ける奥さんも大したタマではある。などと言いつつ、自分もまた姑息に心を閉じて都会の『利便』にしがみつかないと、今は生きられない。
ふと、亡父の親戚筋に、母親がケアハウスから病院に移った件を、まだ連絡していないのを思い出す。ありゃりゃ、不義理の限りを尽くしているなあと思いつつ、気が重い、気が重い。
しかし紀宮様は、無事に挙式なされたようだ。よかったよかった。録画しておいたTVでは、今日は寒かった寒かったと何度も言っていたが、そうか? あてもなく歩き回るには、きわめて快適な気温だったが。午後からはちゃんと晴れたし。


11月13日 日  
茫洋

茫洋と昼から風呂に入り、髪を洗う。この2年間、シャンプーとリンスはダイソーの詰め替え物しか使っていなかったのだが、結局髪に合わず(繊細な髪の対極にあるゴワゴワの癖っ毛なので)、涙を飲んで昔から使っていたメリットのリンス・イン・シャンプーに替える。価格は倍になるが、外出のたびに、寝癖の蓬髪をなだめるのに一苦労ではかなわない。
世間では、なんか長年片思いに耽っていた真面目少年が乱心し、己の心のマドンナを斬り殺してしまったようだ。マドンナ嬢の子供時代の映像を観ると、なるほど、麗しきろりであった。マドンナの鞄や鍵を奪ってまで、その日夢を叶えようとした少年は、それまでの夢想と180度違った現実を、状況からもマドンナからも、一気に浴びせられてしまったのだろうなあ。現時点の映像ではごく一般のお嬢さんに見えたが、童貞の慕情に支配された少年の脳内では、たとえ命を奪ってでも他人の物にしたくない、永遠の至高の少女だったのだろう。祈る、少女の冥福と、これからの少年の人生の、覚醒的陰影。
しかし君はなぜ、その前に百通の恋文を書かなかったんだろうなあ。なんでその場で死ななかったんだろうなあ。その時点で、君はすでに、美しい夢も醜い夢も、見る資格を永遠に失ってしまったのだ。
――ああ、世の童貞少年よ、この世の誰も、君の物になったり他人の物になったりはしないのだよ。少女はあくまでその少女そのものでしかない。君が君でしかないのと同様に。少女が君の物になるとすれば、それは君自身の生と少女の生が、互いの脳内で等価になった時だけだ。千年に一度くらいの確率で。
しかしこんな古典的事件もまた、世間では『増加する少年犯罪』などと騒がれてしまうのだろうか。なぜ子供がキレるのか、などと分類されてしまうのだろうか。それだけはやめて欲しいものである。人間と人非人の分別を失った時から、この国は『美しい日本の私』であることを、誰にも許さなくなるつつあるのだ。
……なんて、こんな繰り言は、かつて限りなくストーカーに近かった男の幻想に過ぎないのかも。

追記。
少年の自供が始まって、『
東京都町田市の都立高1年、古山優亜さん(15)殺害事件で、逮捕された同学年の少年(16)が、動機について「優亜さんにばかにされた」と供述を始めたことが分かった。殺害の際、約30分にわたって包丁で切りつけていたことも判明。鈍器で殴ったような打撲痕もあり、追い回しながら執ように攻撃していたとみられる。(毎日新聞)11月13日3時6分更新』という配信も。まあ予想の通りだったのだなあ。可愛さ余って憎さ百倍――まさに古典的衝動。しかしこうなると、この少年が人であったか人非人であったかは、今後の言動いかんで決まることになる。追わせてもらおう。


11月12日 土  
不可思議→納得

ネット上での報道(と称する物)、同じ出来事でも、以下3種類の配信がある。
●愛媛県四国中央市の小学校で行われているスポーツ少年団で、コーチの40代男性が今年8月、女子児童数人を裸で体育館内を走らせるなどしていたことが11日、分かった。この男性は同市職員で、走らせた後は裸のまま体育館内で正座させて説教をしていた。頭をこぶしでたたくなどの体罰もしており、複数の児童が恐怖感を訴えているという。県や市は心的外傷後ストレス障害(PTSD)防止のためカウンセリングなど心のケアを始めている。市によると、男性は数年前からチームを指導。今年8月、「練習態度が悪い」と立腹し、5、6年の女子児童8人を裸で走らせるなどした。9月に複数の保護者が市に訴えて発覚。職員は事実を認めて指導をやめているというが、市は処分を検討している。一方、市は先月、体罰を理由に「コーチが怖い」などとおびえたり、ふさぎこんでいる児童がいると県に相談。県は今月4日から、専門家を同市に派遣して児童らのカウンセリングなどを始めた。【蜜石誠二】(毎日新聞) - 11月11日11時40分更新。
●愛媛県四国中央市の小学校で、スポーツ少年団監督の同市男性職員(47)が今年8月、女子児童にトレーニングウエアのズボンを脱がせ、下着姿で体育館を走らせていたことが、11日分かった。職員は事実を認め、辞意を表明した。同市は処分を検討している。(時事通信) - 11月11日14時0分更新。
●愛媛県四国中央市の小学校で今年8−9月、スポーツ少年団のバスケットボールチーム監督だった同市の男性課長補佐(47)から、女子児童8人が練習中に裸で体育館内をランニングさせられるなどの体罰を受けたと訴えていることが11日、分かった。女児らは「監督が怖い」と話し、心的外傷後ストレス障害(PTSD)状態になっているといい、県や市はカウンセリングが必要と判断。精神科医の診察を受け、4人がPTSDになっていることを確認した。監督は発覚後に辞任し、現在は自宅謹慎中という。同日会見した井原巧市長は「厳正に処分する」と述べた。県や市の調査では、体罰は夏休みや放課後の計3回にわたり、小学校高学年の女児に対して行われた。頭を殴られるなどの暴力もあったという。9月に保護者が市に訴えて明らかになった。(共同通信) - 11月11日13時25分更。

さて、これら3つの記事のひとつひとつから、同じひとつの出来事をきちんと想起できる読者がいたとしたら大したものだと思うが、まあ、そこはこっちに置いといて……あのう、すみません。これはすでに処分とかそーゆーレベルの問題ではなくて、立派な強制猥褻罪なのではないでしょうか。事情のいかんに関わらず、女子児童を威嚇をもって裸にした(時事通信によれば、下着姿にした)んですよね。なんで即刻逮捕・実名報道されないのかな? だから大人同士が姑息に馴れ合ってるから、子供もおかしくなるんだってば。断言します。この職員は変態かどうかは知りませんが、小学校社会科のレベルで判断しても、立派な『犯罪者』です。間違っても退職金なんぞ払うんじゃねーぞ市役所さん。まあ病気レベルの正真『既知外』でしたら匿名報道もやむをえませんが、しっかり強制収容・完全治療をお願いしますね。怒れる変態として、声を大にしてお願いします。正気と言い張るようだったら、「私は少女を脱がせました!」と、市役所の前で100回連呼の刑、なんてのもいいですね。体育会系っぽくて、当人もきっと馴染めるでしょう。事実なんだし。

追記。
●愛媛県警四国中央署は12日、スポーツ少年団の練習中、児童の服を脱がせたなどとして、元コーチで同県四国中央市土居町上野、市建設第2課長補佐尾崎靖雄容疑者(47)を強制わいせつ容疑で逮捕した。尾崎容疑者は練習中、女児8人に裸に近い状態でランニングをさせたことが発覚し、同署が捜査していた。調べでは、尾崎容疑者は8月中旬、同市内の小学校体育館で、小学6年の女児(12)を舞台脇の放送室に連れていき、服を脱がせるなどした疑い。(読売新聞) - 11月12日13時8分更新。
よし、これで懲戒免職。老後の苦労を通して、改心してくださいね、同年輩のよしみとして、きっちり今後も記憶に留めさせていただきます、尾崎靖雄さん。
被害に遭ってしまったろりの皆さん、心の傷は深いでしょうが、生命や貞操が守れたならば何よりです。今後は、合意なしに脱がせよう触ろうとする男がいたら、即刻通報して下さい。脅迫を伴うようでしたら、同意したフリをして隙を見て○玉を握り潰す、○器を噛み切る、○起したところでへし折る、そのような手段があります。もし不幸にして被害を防げなかったら――毒薬は、そんな時に使う物なのですね。


11月11日 金  
仮託の悲哀

なにか母親に毒を盛った少女のニュースが、世間に姦しい。古今東西の猟奇事件も大好きな自分なので、あっちこっち覗いて見たが――残念。無論少女の内心など知る由もないが、少なくとも大手新聞から怪しげな週刊誌やネット上のうさんくさい情報まで見る限り、あの少女の発した言葉・行為には、きわめて微弱なオリジナリティーしか見当たらない。正常な部分から異常な部分まで、ほとんどが過去に発された他者の言葉・行為のトレースに見える。狂気というより、狂気の教科書を忠実になぞっただけ、そんな感じである。まあ、その几帳面さがすでに狂気なのだろうが。酒鬼薔薇が嫌いだというのも、確かに彼の言葉が自分同様、引用先を明記しない先人からの借り物が多かったという近親憎悪からでもあろうが、むしろ彼の種々の矛盾に充ち満ちた迷走が、几帳面な彼女の性に合わなかったからなのではないか。自分で解剖した猫の頭や小動物の内蔵をきっちり標本化していたそうだが、そんな器用な手先と沈着な精神があるなら、幾らでも行かせる道があったのになあ、と、残念にも思う。逮捕後に関しては、まだ『尊敬する先達』の教科書を読んでいなかったのか――というより、やはり先を見ない白日夢に逃げていただけなのだろう。その几帳面な凡庸さが、無性に哀しい。
子供というのは(大人でもけっこう)自我が不安定なので、なにかのきっかけで惚れ込んだ先人の行動をトレースしようとする事自体は(対象は種々でも)、珍しくもなんともない。その対象が一般的嗜好から離れた物だったりすると、孤高的錯覚を抱けて、束の間優越感も味わえる。なんのことはない、昔の自分も同じである。よく姉に『異端者ぶって格好つけて』とからかわれたものだ。まあ、その対象の多くが、今となってはWebやコミケ会場などで群雄割拠状態になってしまっている訳だが。そして今も、先の見えない白日夢に逃避しているという点では、同じなのかも知れない。
しかし、毒物とか死骸とか、自分の頭と手だけでは表現しきれない『相手のある』シロモノを興味の対象と選んだ場合、いかに子供でも、人として、ただのマネっこはいただけない。それでは毒物や死骸そのものに対して、あまりにも思い入れが欠落している。別に毒や死体でなくとも良かったんじゃないのキミ、と言いたくなってしまう。結句、「遠くに行きたい」と歌いながら運転教本を暗記しただけで、いきなり無免許で高速に乗り、派手な事故を起こしたのと同じである。本当は「知らない街を歩いてみたい」のが、真の目的かも知れなかったのに。
脈絡がないが、猫の解剖と聞いて、ある少年を思い出した。
就職してすぐ、新宿のサブナードにいた頃だから、もう四半世紀前の話である。たいへん興味深い、お客さんがいた。大学に入ったばかりの、小柄でスリムな容姿とハイトーンの声が、ちょっと大昔の城みちる君にも似た、私好みの(おい)少年だった。その頃流行りだったデビット・ハミルトン調のソフト・フォーカス写真が好きで、お気に入りのクマのぬいぐるみの写真をかわいくイメージ通りに撮ってやるために、わざわざ北海道まで車でひとり旅をする、そんな変わった少年でもあった。で、その旅の写真の仕上がりを見せてもらうと、確かに美しい丘にそびえる一本の大樹の根元にころんと座っているクマのぬいぐるみやら、ちょっとアレでも愛おしいソフトな風景写真(必ず点景にクマちゃん入り)が大量だったのだが、その中に時おり、やはり美しいハイキー調のソフト・フォーカスで、轢き殺されてぺしゃんこになったガマガエル、跳ねられてなんか吐いちゃってる猫、白目を剥いてお腹からなんかはみ出たキタキツネ、そんなような路上物件の写真が、しこたま混じっていた。聞けば、広大な北海道の一本道などには、しばしばそうした動物の轢死体が転がっており、可哀想なので見つけるたびに路傍の土に埋めてあげるのだが、その時記念(追悼?)写真も撮ってやったらしい。それを、お気に入りのクマさんと同じ手法で手抜き無く撮ってやったため、それはもうメルヘンチックなパステル調の、小動物轢死体連作ができてしまった訳である。
「……綺麗……だよね」「……綺麗、でしょ?」。
今にして思えば、あの少年も少なからずヤバ系であったのではないか。しかし彼は、カメラにも車にも、種々の被写体にもカメラ屋の兄ちゃんにも、きわめて公平な、鷹揚な視線で接していた。その結果、巧まずして『孤高』の写真を産んだりする。イく、という事の理想に近い姿、それが彼にはあったように思う。
それにしても今日の朝刊、押収されたあの少女のパソの中身まで克明に調べられたりしているのは、耐え難いほど身につまされた。己の精神に引き籠もった人間の個人パソは、すでに脳味噌の分家である。たとえば私が突如発狂して路上でろりのほっぺたをなめ回したりして逮捕され、パソが押収されたりしたら、もはや『絵に描いたような鬼畜のパソ』を新聞上で曝される事になる。なまねこなまねこ。


11月10日 木  
冷凍

冷凍庫導入後初の冷食4割引、物珍しさもあって、ちっこいスペースいっぱいを冷食で満たす。通常の価格ならお総菜コーナーのほうが安いのかなあ、と思っていたが、存外通常価格でも、物によっては冷食が安いのも多い。鶏の竜田揚げ、チャーハンやピラフ類、調理済みスパゲティー、それからシューマイなど買い込む。シューマイは100円均一の日のチルドのほうが安いが、いっぺん姉の家で食わせてもらった冷食のほうが、味が良かったので。それに、なんといっても消費期限をあまり気にしないでいつでも食えるのは、まさに文明の利器。って、21世紀になってずいぶん経つのに今頃こうした感慨を抱いているのは、少々アレか。ふと、巧言冷食少なし仁、などという地口を思いついたが、独身者や忙しい主婦にとっては、けっこう仁に満ちている気もする。
珍しく午前中に買い物から帰宅し、普段は見たこともない昼前の民放テレビなどのぞいて見ると――なんだか子供の頃親や先生に言われた、「テレビからは悪い電波が出ているので、頭が悪くなるからあんまり見ちゃいけない」という警句が、あながち嘘でもなかったように思う。言霊もまた『波長』の一種だとしたら、確かに頭に悪そうな電波がきゃぴきゃぴと大出力で漏れていた。特に、たまたま山形の物産など取り上げられたコーナーでは、台本通りにきゃぴきゃぴと表層的な台詞をはしゃぎ立てる関西芸人娘たちに、明らかな殺意さえ抱いた。考えてみれば彼女らは真面目に仕事をしているだけであって、放送作家が馬鹿なだけなのだが。しかし、なんぼなんでも山形美人の代表が、あき竹城さんと渡辺えり子さんと言うのは、ないだろう。いや、あのおふたりも好きな芸人さんであり役者さんなのだが、それだけにあの扱いは失礼でもある。
まあ、台本作家はマジに山形を歩いたことなどないのだろうなあ。いわゆる庄内美人に代表される山形美人や、秋田おばこ。あのあたりのほんのり白い肌・鼻筋などは、京の都やら江戸とは違い、古来白系ロシアの血が入っているのである。小野小町だって奥州の出だ。現代となってはずいぶんその血も薄くなっているが、地域人口に占める美女率は、明らかに今でも関東・関西よりは高い。
たとえばろりに絞ってみても、自分が小学校の頃など、今ならチャイドル級の可憐なろり(いや、今の『ろりならなんでもいい』気風よりも、ずっと麗しいろり)が、各クラスにひとりは存在していた。それは昨今ろり界まで主流化しつつある『愛嬌』『親しみやすさ』『媚び』といった要素とは異質な、『高貴さ』『無垢』、そういった正しいろりであった。その証拠に自分の小学校の卒業アルバムなどスキャンしてアップしたいくらいだが、肖像権があるので無理なのが残念。
ふと、美少女をろりのまま冷凍保存する、ありがちなサイコ物など脳裏に浮かぶが、何を着想しても、いろいろあってちっとも私物打鍵の気力が定着しない。気負わないで、慰撫的な短編、あるいは連作で和んだほうが、今の自分には建設的か。


11月9日 水  
秋情

向こう臑の貨幣状湿疹が、そろそろ疼き始める。中年男の風物詩である。乾燥する冬も近いのだなあ。体も頭も、寒い方が快適な質ではあるのだが、歳をとるとあちこち乾燥して痒くなるのには閉口。
風呂に入りながらNHKのナイト・エッセイを聞いていると、今週は女流講談師・田辺鶴英さんが、介護講談をやっている。あの一鶴師匠の門下ゆえ、極めてイロモノっぽい芸風なのだけれど、こと介護講談に関しては、18の時から実母を介護し、その後義母や伯母の介護もやっているという方なので、やはり説得力がある。あくまでも芸なので、陰惨な部分は排除されているのだろうが。
現実的には、そこには老人同士の種々の『共食い』的関係なども介入して、単純には行かない。たとえばかつて我が認知症母に、推定数千円原価の中国製のなんかいろいろを数万円で売りつけたのは、訪問販売を老後のバイトとしている健康な『老婆』である。その場で部屋にあるだけの2万円を持って行き、当然母親はすぐに忘れて、残金を払わない。で、こっちに請求がくる訳だが、その老婆は、なんと母の姉、つまり私の伯母の紹介で、ケアハウスに出入りしていた。伯母の女学校時代の知人だったそうだ。伯母はまだ正気なのだが人がいいと言うか、もうころりとその一見上品な老友を信用してしまっており、こちらを悪役扱いである。で、その訪販老婆は未だにケアハウスに出入りし、今は入院してしまった我が母のかつての乱行(?)やその子供達の無責任ぶりなど、被害者(?)の認知症老人から聞き出して、あることないこと伯母に吹き込み、伯母はまたそれを信用して、「あんまりではないか」などと姉に電話して来たりする。さて、この場合、一体誰に問題があるのか――どう考えても、病理学的に最も正気で、巧みに人を欺くだけの知恵もある訪販老婆が、最も『狂人』なのではないか。
まあ、そんな私的ドタバタはとりあえず気にしない事にして、たとえ講談調に単純化されていてもやはり心を打つ鶴英さんの介護話に、うんうんと頷きながら風呂につかる。
ふと他の女流講談師の芸が聞きたくなり、宝井琴峯さんのテープを引っ張り出す。八雲の『耳なし芳一』を、琵琶法師・芳一が語る源平合戦の様子そのものなども講釈らしく取り入れたもの。芳一のどちらかと言えば女性的な線の細い様など、男性講釈師よりも微妙でうまい。
日本初の女流落語家・露の都さんの古典落語は、残念ながらまだ聞いたことがないが、ぜひ一度聞いてみたいものである。そういえば、田辺鶴英さんも露の都さんも、タイプは180度違えど子持ちのおばさん(失礼)なのだなあ。母は強し。自分がなにかとお世話になりっぱなしの姉も、しっかり二児の母である。
あれ、でも、その訪販老婆もちゃんと子供や孫がいると聞いたなあ。――結句、男も女も若者も老人も、その存在の意味は、運命だの人生だのとは関わりなく、己の心ひとつなのだ。


11月8日 火  
冷えるゴミ

結局どこに頼もうと、四半世紀を経たボロボロ冷蔵庫は、たとえ動いていても基本的に厄介者に過ぎないのであった。遠くの大手業者さんやゴミ屋さんより、市役所紹介の地元の指定業者さんのほうが、近い分だけ安いのである。再需要のありそうな新しい物となると、全然違うらしいが。
結局今度の土曜に指定業者さんが取りに来てくれる事になったが、二階まで取りに来てもらうとさらに数百円アップなので、当然自力で下まで降ろすことにする。問い合わせしたどの業者さんも、やっぱり一階と二階ではそのくらい料金が違う。まあ当然と言えば当然ながら、もし小型冷蔵庫一台をちっこいアパートの二階から一階へ一回降ろす労力が数百円になるんだったら、それ専門の職場があれば一日結構稼げるなあ、などと馬鹿なことを考えつつ、ややぐったりと、録画しておいたNHK特集の『性犯罪・再犯をどう防ぐか』なる番組を観る。例の小林薫(仮名)事件がらみで、海外の性犯罪者矯正制度まで取材したもの。とりあえず日本でも、カナダあたりの矯正活動先進国を手本になんかいろいろ始めたいのだが、人手も金もないのでまだほとんど手付かずで今後もちょっと手を付けるくらいしかできそうもないから一般市民が気をつけましょう、そんな案配らしい。拘置所の小林さんは、相変わらず元気に居直ったままのようだ。春にたかちゃんといっしょに仮想シマツした頃と、残念ながら状況は変わっていない。ほんとにあの小林の食ってる飯の米一粒の十億分の一くらいは、俺の納めた税金なんだろうなあ、と、さらにぐったりする。
何度も言っていることだが、自分は『ろり嗜好』という一点においては、小林側の人間である。しかし現実社会でろりを迫害する人間は、すべて『ブチ殺したい』という気持ちも昔から変わっていない。まあろりに限らず、自分の嗜好だけで他者を迫害できる人間は、ひとり残らず即死していただきたいのだけれど。
何箇所か入会していた合法ろり系サイト、本日をもって全部退会。いや、別に深い考えがあっての事ではありません。ただお金が続かなくなっただけ。それに、あの世界もまた、ただ旬のろり達を束の間搾取するだけの世界であり、だあれも『愛』など信じてくれてはいないのである。
ああ、しかし、仮想世界でろりを蹂躙しまくりの絵師の方々、いや、そのほんの一部の方々、あなた方がろりの感触・皮膚感の表現に賭ける愛、ろりのおしりのハイライトをいかに表現すれば真のろりのおしりに近付くか日夜レイヤー処理に試行錯誤を重ねるその愛は、けして不毛ではありません。まあ大多数の方は、ただ「やりてーよー」という便所の落書きと同じなので、便所でだけ描いていてもらえば有難いのですけれど。
先日某投稿板の健全な作品を読ませていただいているうちに勝手に着想した、鬼畜系犯罪者の人道的処罰法、小林薫(仮名)あたりには本当に適用したいと思う。死刑なんて楽すぎますもんね。無期でいいです。その代わり、一日三回食後に金蹴り。就寝前に電気アンマ。ただ、これだと女性差別論議が起こるかも。


11月7日 月  
悲喜交々

などと大袈裟なタイトルながら、しかしやはり数千円以上もかかってしまうのですね、古冷蔵庫の処分は。古電子レンジ回収も有料なのですね、市役所さんルートだと。くすん。と言うわけで、ネットで少しでも安価なリサイクル回収業者さんを探し、メールで見積もりを依頼する。一応稼働品とはいえ、いかに発展途上国においても、あの錆びきった冷蔵庫は粗大ゴミか。しかし、中身はまだ冷えて氷も作れるモノホンの日本製なのだから、どこか南国ででも、役立って欲しいものである。まあ、最悪市役所さんの紹介業者さんに依頼したとしても、新品購入よりは遙かに安いのだけれど。
昨夜の『義経』には仰天。色々あって飛び飛びの視聴になってしまっているが、都落ちしたとたんに知盛の亡霊は出現するは、三輪さんの鬼一法眼が再降臨するは、もはや当方大興奮伝奇時代劇の世界。いっそこのままトンデモ・ワールドに突入してくれるかと期待したが、次週予告を観る限り、一回こっきりのサービス編らしい。残念。
本田美奈子さんが白血病で死去とのこと。80年代アイドルの中では、あの方のヒップは最良のバランスであった。お顔もちょっと近付きがたいタイプの可憐さであった。そしてつい昨年まで元気に飛んだり跳ねたりしてくれていたのに――なにか『白血病』という病気は、自分にとって最も近付きがたいタイプのおヒップ様たちを、早々にこの世から奪ってしまうような気がする。夏目雅子さんとか。
しかし訃報を心待ちにしているある種の方々は、一向にみまかる気配もない(おいおい)。


11月6日 日  
フリーソフト賛江

ご存知の方も多いのだろうが、数日前『窓の中の物語』というフリーソフトのテキスト・ビューアーを見つけ、はまっている。http://www.vector.co.jp/magazine/softnews/010303/n0103032.htmlでダウンロードできます。つまり書籍感覚でテキスト文書を読む事に特化したソフトで、種々の仮想書籍っぽい専用ソフトを使わなくとも、ほんとにただのテキスト文書が、本をめくっている感覚で読めてしまうのですね。青空文庫形式のルビ表示にも対応してくれるし、フォントも色々変えられる。デフォルトのフォントでも、ソフトの画面そのものが良くできているので、かなり書籍っぽい。自分は内職の関係や個人的趣味で、種々のフォントを集めているので色々遊べますが、そうしたマニアでなくともOSやワープロ・ソフトやおてまみソフトに入っているフォントで結構遊べると思います。無料登録が面倒でなかったら、電子文庫パブリで無料ダウンロードできる『パブリ・フォント』など使えば、これはもうきっちり読書気分。自分のXPで読んでいると、途中で表示設定を変えるとルビ表示が崩れるという現象が出ましたが、一度閉じてまた開くときっちり直り、そこまで読んでた部分からきっちり始まるという優れ物。栞もきちんと挟めます。
ふと思うのは、『青空文庫形式ルビ』と言う奴が必ずしもメジャーとも限らないので、まあその時はルビ表示を選択しなければいいだけの話なのだけれど、ここを読んでいただいているかもしれないごく少数のネット物書きの皆さんに、ひとつだけお願いしたいことがあったり。けして青空文庫形式でルビふってくださいなどという、わがままではありません。むしろその逆で、青空文庫形式のルビに使用する《》というカッコ記号を、別の用途に使用しないでいただけると、すごく有難かったり。たとえば、『……どうやら《灼熱の天使》との戦闘のせいで感覚が過敏になっているようだな邦紀。』という表記(神○様、もしご覧になってたらすみませんすみません)だと、Web表記としてはなんの問題もないのですが、青空文庫好き人間のエディタやソフトでは、『……どうやらとの戦闘のせいで感覚が過敏になっているようだな邦紀。』と表示され、『どうやら』の横っちょにちっこく『灼熱の天使』とルビがふられる、そんな画面になってしまうのですね。いやもう一読者の勝手なわがままではあるのですが、『青空文庫形式』という奴も縦書き表示好き一派には愛好家が多いので、テキスト保存大好き人間のために、なんかずーずーしくお願いいたしてしまったり。(面倒がらないで表示設定変えればいいだけの話なので、あくまでもただの発作的おねだりです。すみませんすみません。)


11月5日 土  
進化

台所が進化した。二十数年間お世話になった錆と黴だらけのちっこい冷蔵庫が消え、容積は同程度でもなんと冷凍室の付いた、真新しい冷蔵庫が鎮座ましましている。そしてその上には、十数年間お世話になった出力400ワット固定の電子レンジに代わり、なんと中皿がくるくると回転して、出力も解凍から加熱までなんかいろいろ変えられる電子レンジも。おお、文明の利器が我が部屋にも――いつも文明の悪口ばかり言ってるくせになあ、自分。
と言っても、乏しい懐中には直接影響がないのだから、やはり有難い。つまり、今月中には郷里の母のケアハウスの部屋を空け渡さなければいけないので、姉夫婦が連休を利用しワゴン車で始末第一弾に出かけ、その帰りに運んで来てくれたのである。母はもはや自分で調理・貯蔵できる段階から、完全に離れてしまったので。
義兄には、本当に頭が下がる。根拠のない悪口ばかり口走る義母のために、嫌な顔ひとつせず色々動いてくれる。九州男児なので時に率直な物言いをするところを、ボケ始めの頃に母親に嫌われてしまい、本格的にボケたら完全な敵扱い。まあ、昔から我が母親は、自分も他者も「上っ面」だけで計ってしまう所があった。今となってはただ「自分に猫なで声で頭を下げて接する相手」「ただはいはいと自分を好きに放置してくれる相手」しか、信用しない。無理矢理風呂に入れようとする人間、無理矢理下着を替えさせたり洗ったりして自分に恥をかかせる人間、毒(お医者の薬です。念のため)を飲ませようとする人間、みんな敵だ。悪質訪問販売タイプの人間なら、なんでも「はいはい」と調子を合わせてくれるし、ぼったくられた記憶は残らないので歓迎らしいが。「そんな事をした覚えはないのに汚れてしまった下着は、こっそり始末すりゃいいじゃないか」ということらしく、先週まであった大量の下着も、今週は2枚を残し消えてしまっていたらしい。無論当人は、何も覚えていないが。まあ、入院初期のようにベッドの下やタンスの上に隠していないだけ、経過は好転しているのだろう。離脱してしまっている時間も、短くなって来ているようだ。
なにはともあれ、母も自分も姉家族も、それからごく一部の方々を除くすべての人々も、生きている限り人生は続いてほしい。これからは自分も人並みに冷凍食品オール4割引の日を有効に活用できる、大量にできてしまうカレーも冷凍保存できるから夏場でもOKと、明日への希望にちょっと眼をきらきらさせたりする狸なのであった。
で、つい1時間半ほど前に中を掃除して電源入れたばかりなのに、もう氷が出来ている。冷凍庫、恐るべし。


11月4日 金  
宣伝行為

と、いうわけで(なにがや)、アルファポリスのドリームブッククラブにようやくパンダ物件が掲載される。ちなみに昨年別の物件を掲載していただいた時には、3ヶ月の掲載期間中、たったの25ポイントであった。それでも正体不明ではない方に(表ではHNしか出ないが、人気作は実際に出版がからむので、掲載・出資登録は要実名)に「本になるんだったら○万円出資してもいい」と言っていただけた訳だから、無意味ではなかったのだけれど。登録にお金はかかりませんし、覗くだけなら登録もいらないので、ご用とお急ぎのない方は、ご笑覧いただくのもご一興かと。一般公開用にオタ度の落ちたパンダ物件が覗けます。
また、掲載していただいておいてこんな事を言っては失礼かも知れないが、たとえばここを覗いてくださるアマチュア物書きの皆様には、ぜひ、あそこのポイントの多い作品なども覗いていただきたい。投稿板、あるいは同好の士の集う場所とは違い、あくまでもポイントは『商品になるか』『一般的読者にウケるか』が前提になっているので、まあ色々な意味で、自負心を養うのが可能かと。さすがに出版までこぎ着けた作品は、嗜好に合うか合わないかに関わらず、なるほどこれなら商品になるかも、というレベルですが。


11月3日 木  
元始女性は太陽であつた(平塚 らいてう)
           お日様は優しく色っぽい(自分)


女性天皇反対派の根拠として、なにやらY染色体の継承が天皇制のポイントなのだそうだ。言われてみればなるほどなあ、と思いもするが、待てよ、Y染色体という代物が社会に認知されたのって、つい最近じゃん、と思い当たる。見事な日本的『結果論』嗜好である。あのね、多分Y染色体を知らない過去の皇室は、「ただなにがなんでも男系」、それだけの意識で動いていただけだと思いますよ。まあ、それが『伝統』と言い切られてしまえば、それまでですが。
伝奇ファンとして着想するなら、その無意識下に連綿と続いて来た『Y染色体の継承』に秘められた力が、女系移行によって断たれ、この日の本の国に、国家二千ウン百年ぶりの何か禍々しいモノが蘇り――などと、色々夢想してしまうが、じゃあそれを実際書くとなれば、これはもう女系天皇と民草の力でその時代錯誤の伝奇的ナニモノかを組み伏せる、それしかないでしょう。
個人的に断言させていただきたい。日本ずっぷし、古典大好き、天皇制擁護派の自分としてである。言いたくはないが、歴史上のナニがどうであれ、日本という国家の本質、その国民の本質そのものが、天皇家そっちのけで太古から幾度も変質してしまっているのであり、近いところでは明治維新あたりを境に、国家と国民の全てが『過去と決別している』のである。そこにおいて、じゃあ天皇家にどんな存続意義があるのか――自分としては、神道的、つまり自然信仰的祭祀の継承者、それに尽きる。その事に天皇家のY染色体がどう関わっているのか、それを推論でもいいからきっちり理論立ててくれるなら、女帝反対派に組してもいい。でも、無理でしょう。昔の人たちが、そんな事判ってやってたはずもなし。すべてが『男系エライ』という『後得的社会通念』に因っていただけではないのか。じゃあ神道なるものもただの『伝統』に過ぎないのではないか、と言われれば、それは『人間の種としての原始的本能』だと、自分は思っている。むしろ近代急速に縺れきったこの国を、太古の本能に立ち返らせる意味で、天照大神という『太陽神=太陽エネルギー』によって司られる世界の意識まで、本能をリセットさせるのが正しいのではないかと思う。そうなると、今度は「アマテラスが女神とも限らないのではないか」と言い出すボーイズ伝奇系の方などもいそうだが、現在午後三時、ヤニで汚れた窓の向こうの空に輝く秋の太陽は、しっかり「うっふん、がんばってね」と、幼子を抱く母のように優しく、徹夜明けの自分を包んでくれているのだ。……って、全然理屈になってないですね。いいのである。今この瞬間までの歴史など、『結果論』に過ぎない。次の駒を動かすべきは、すでに齟齬だらけの『結果論』などではなく、動物的本能だろう。
などと言うと、今の弱肉強食の人間社会がまさに動物的本能の世界ではないか、などと言い出す馬鹿がいそうなので、念のため。同じ種同士で捕食し合うのは『弱肉強食』ではなく、末期的『共食い』である。また、食いきれないほどの餌を蓄えてなお餌を襲う動物など、『文明人』くらいしかいない。ライオンだって満腹になれば、猫ちゃんのようにお日様の下でうつらうつら昼寝をしてるだけだ。


11月2日 水  
個性

買い物ついでに地元の古本屋で、水木しげる大人(先生とか呼ぶより、やはり大人《たいじん》、あるいは妖物の巨魁といった風格である)の『水木しげる伝』全3巻を、ちょっと汚れていたせいか揃いで600円で入手。最近の講談社漫画文庫で各500ページ近くあり定価各冊820円だから、新古本屋ならせいぜい半額だろう。そのさらに半額とは、嬉しい。
作品自体は新作や旧作といった分類に収まらない、氏の膨大な私小説(私漫画?)的作品群を、作中の時系列で再編集長編化した、実に不思議な自叙伝である。ビッグ・ゴールド等で見た比較的最近の作から、何十年も前の戦記物や、昔懐かしガロ掲載の短編連作貧乏話や漫画家哀話まで、それこそあらゆる時代の氏の作品が、巧みな編集で部分抽出され、新しいコマ追加で繋がれている。最近の絵のすぐ後に、20年前の絵が続いたりもする。中には原稿が紛失したのか、明らかに印刷物から起こしたらしい部分もある。
感心してしまうのは、それらが繋がって、ほとんど違和感のない『水木しげる伝』として、きちんと成立しているという事実である。背景・脇キャラのタッチなど、アシスタントによって結構コロコロ変わるし、年代によって水木氏本人のタッチも微妙に変わる。そうした部分が古くなったり新しくなったりしながら、しかしまあどこから見ても一本の『水木しげる伝』なのですね。ある意味では手塚大先生の対極に位置する、唯一無二の個性だろう。人生通していささかの揺るぎもなくただひとりの『水木しげる』であり『水木しげる作品』である、そこはやはり偉大だ。
『鬼太郎』に紙芝居時代からの別人の元ネタがあるとか、そうした些末事をつっついても、なんの意味もない。それは『黄金バット』が無名の紙芝居描きの方によって誕生したものだったとしても、やはり加太こうじ・作として扱われるのと同様、一時代をそれに殉じようとした気迫・個性が勝つのである。
もっとも、名探偵の孫と称する少年がパクリの限りを尽くしたりするのは、気迫と言うより無神経なだけだと思うが。


11月1日 火  
洗濯雑考

また2週間ぶりのコインランドリーを終えて、脇の下に穴の開きかけたシャツやら、股の部分の擦り切れかけたパンツやら、一部メッシュと化した靴下などぱたぱた整理していると、ラジオではまたニート問題やら、その社会復帰(?)運動など、とりあげている。なんだか自分が稀に洗濯する日に限って、午後の特集のテーマになっているようだ。しかし自分で働かなくとも食える状況というのは、今の自分から見れば、ますます貴族様同様に思われてくる。
自分も大学までは完全親がかりであり、バイトは遊びや趣味のためだったから、実に王侯貴族のごとき青少年であった訳ですね。で、貴族という奴には、やはり貴族としての義務があろう。ノーブレス・オブリージという奴ですね。まあ学生時代まではセイシュンやら勉強やらで結構忙しいし(苦学生の皆様ごめんなさいごめんなさい)、どんな形であれセイシュンやら勉強する事そのものが仕事でもある訳で。しかし学生でもなく仕事もせず親に食わしてもらえる生活となれば、当人の資質いかんに拘わらず、やっぱりなんらかのノーブレス・オブリージが欲しい。ボランティアとか。筆者の嗜好世界であれば、創作物無料公開とか、創作が無理なら青空文庫のようなテキスト入力に協力するとか、視覚障害者の方々のために(ほんとは朗読聞くのが好きな私のために)音声化していただくとか。
しかし現状、むしろ学生やったり仕事しながらそれらの活動に必死こいている方々のほうが多そうで、多くのニート様は、ただ己の「やりたいこと」「やれること」を模索するだけみたいである。貴族様には貴族様の懊悩があるのだろうが、やっぱり『己』しか見えていない貴族と言うのは、ただの略奪者だろう。養う側からの「いやでもやってほしいこと」「いやでもやるべきこと」が見えないとすれば、これはやっぱり一揆や革命起こされて首を刎ねられたり吊されたりしても、仕方なかろう。別にニートの方々に限らず、それは○族の方々や天下り役人の方々でも同じである。あなたがたの食物は、天から降って来た物でもなければ、地面から自然に生えてきた物でもない。
ニートの方々は、どんなシャツを着てどんなソックスを履いていらっしゃるんだろうと思いを馳せつつ、すでに靴下としての機能を失った靴下は、靴磨き用に選別。シャツの穴は小さきゃ平気。パンツはズボンの下でナニモノかを固定してくれる段階なら合格。襤褸も身につけられる限り衣料。ただし、みすぼらしくとも臭いのだけは御免なので、毎日着替えるし、風呂にも入る。将来橋の下に引っ越しても、現在そこにいらっしゃる方々の過半数のような、臭気だけは発したくない。水浴や洗濯には努めたいものである。たとえば英国などでは、穴の開いた古靴を履いていても、それがきちんとピカピカに磨いてあれば紳士だそうだ。一文無しの貴族様だっていらっしゃるお国柄だからなあ。武士は食わねど高楊枝、という奴なのだろう。


10月31日 月  
じたばた

さて去年打鍵のパンダ物件を先月アルファ・ポリスに掲載お願いして、なかなか掲載していただけなかった件、何箇所かの引用部分を涙を飲んでカット修正し(自分の穴蔵HPならいざしらず、さすがに完全な公の場ではまずかろう)再送付してみたら、今度はアクロバットの旧バージョンではPDFが開かないと連絡をいただく。ああ、良かった、見てくれてるんだと感謝しつつ、添付したPDFをわざわざ出先の古いアクロバットでチェックさせてもらうと、ありゃりゃ、確かに開かない。ある種のフォントがワードやらPDF化ソフトとケンカしてるようなので、別のフォントに変えたらOK。でも最新のアクロバットだと、ケンカをなだめて表示してくれたりするらしい。善し悪しですね、たびたびのバージョン・アップも。自分のパソも、旧バージョンを入れ直す。種々の環境の他の方に見てもらうために、どたばたやってるのである。しかし、内容、今度は大丈夫かしら。
結果、少女漫画おたくが田淵由美子先生の『マルメロ・ジャムをひとすくい』のモノローグを引用するというお気に入りのギャグもカットせざるを得なかったのだが、そこを修正しつつ、本当にそのモノローグはその作品の中のネームだったか、もしや他の作品の一部ではなかったかと不安になる。初出誌やコミックスのデータは資料を確認しているが、肝腎のネームそのものは、実は初出時リアルタイムで読んでいた、30年近く前の記憶に頼っていたり。で、なんかいろいろの帰りに田淵先生の文庫を購入(実はコミックスは買っていなかったのである。『りぼん』は毎月欠かさず読んでいたが)、久方ぶりにあのころのかわゆい作品群を読ませていただくと――うああああ、もう身もだえしてしまうほど、やっぱりかわゆいわ、かわゆいわ。で、ネームの記憶はしっかり合っていた。もっとも漢字と平仮名はちょっと違っていたが、よくまあ自分もそんな昔の雑誌の中の、たった2コマを記憶しているよなあ。だってソバカスだらけのアリスちゃん、ほんとにかわゆいからなあ。ことほどさように創作物という奴は、命を吹き込めば、半永久的に自律存在してくれる。読んでる少年が半白髪のおっさんと化しても、もう文庫のページをペロペロなめたいほどに(やめろって)愛らしいまんま。まあ、そうした構図をおっさん側から突き詰めれば、かの大乱歩作『押絵と旅する男』のような、永遠不滅の哀しい幻想も生じてくれるのですね。悲しいやら嬉しいやら。
今度は太刀掛秀子先生のご本も買って来ましょう。『リコのにいさん』のリコちゃんとか、『なっちゃんの初恋』のなっちゃんとか、今もきっと、とってもかわいいんだわ。『ミルキー・ウェイ』の奈緒ちゃんは、今もちょっと哀しげでけなげで、いたいけだったりするのよ、きっと。
あら、あたし、『花とゆめ』の読者プレゼントでもらった、猫十字社先生の『小さなお茶会』のパスケース、どこにしまっちゃったかしら。ぷりんともっぷの猫ちゃん夫婦が、とってもリリックでキュートなのよ。パステル・ピンクの、ちっちゃなパスケース。……あら、おかしいわ。この小箱にしまってたはずなのに。……なんだか、茶色く変色した薄汚ねーエロトピアだのエロジェニカだの、そんなんばっかし、くせー押し入れの奥から、なんぼでも出てくるわ。
ああ……忘れましょう。
心の中の光と影は、若さという混沌の中でしか、融け合えないさだめなの。
『しあわせなんて、ほんのひととき。まるで舌のさきにのこる、ジャムのひとさじの甘さ……』
――なんちゃって、負けないわ負けないわ。脳内だけは、しっかりハッピー・エンドするのよ、そばかすのアリスちゃんと、モテモテのセイン君みたく。


10月30日 日  
テキスト

いわゆるダウンロード書籍は、以前よりebookやパピレスで、資料的な物からろり系写真集までたびたび利用していたのだが、ふと思いついて、敬愛する現代作家の方々のテキストそのものを幾つか購入してみる。ついでにあんまし敬愛していない方の、しかし売れている作なども、試しに短いのを購入してみる。いずれも物理的書籍としてはすでに所有しているのだが、つまりそれらの作を社会的認知の象徴である『大手出版物』としてでなく、自分の紡いだテキストや、投稿板や個人HPで集めたアマチュアの方々のテキストと同じ土俵で客観的にチェックしてみたくなったのである。過去の著作権切れの方々の作は、青空文庫等でありがたく拝ませていただいているが、それらは多く古典として淘汰を経ているから、さすがにメモ帳段階ではただの情報の羅列っぽくとも、エディタで縦書き表示した瞬間から言霊ビンビンである。
で、いわゆる『今』の作品群は――まあ、自分の打鍵物と比較などできない。自分の物は自分の肥大化した自意識による物だから、客観的比較など不可能だ。しかし、他のネット上のアマの方々と比較した場合――正直、自分で保存する気になるレベルの作品なら、文章的にも内容的にも、プロでもアマでもさほどの差は見当たらないのではないか。たとえば漫画やゲームでも、大手の出版物よりよほど上手くて面白い同人作品が溢れているように。プロの方々の文章でも、良く見れば言葉や叙述の重複など結構あるし、なんでこの話がそんなに世間で評価を受けるのか、ちっとも解らない話もある。純文学系など、特にそうだ。
しかしたびたび褒め称えてしまう高橋克彦先生のお作などの場合、文章的にはむしろ修辞を省いた、情報を正確に伝えるタイプのシンプルさであり、そのキモはひたすら『物語』としての、キャラの魅力とストーリーのうねりにある訳だ。こうなると『言霊』と言うより、やはりすでにひとつの世界なのですね。最初の内は「ふむふむ、文章としては、ここなどはこうした方がより情感が出るのではないか」などと、天をも恐れぬつぶやきと共にマウスでスクロールしている内に、いつの間にやらもうどっぷしと、時を忘れてその世界に引き込まれて七転八倒。書籍でもパソでも、その威力は不変なのであった。言葉や文字より、キャラとストーリーに魂が宿り、世界を形成しているのである。
しかし自分はと言えば――うむ、明らかにどっちつかず。志向があっちこっちで、的を絞れないのである。でもまあ、子供時代からの性格が今更変わるはずもない。
結論。もうみなさん、勝手にやってるしかないです。一部の天才的な方々、あるいは独り言しか発する気のない方々を除けば、アマでもプロでも、その作品の質に、話題作しか読まない読者や編集者が言うような大差はありません。自分の世界にとことん固執するのも良し、売れ線狙って画策するのも良し――いずれにせよ、独り言から脱しようとする気構えさえ失わなければ、言霊は生じ外的世界が生まれるでしょう。


10月29日 土  
普遍性と相対性

ある方より、去年の今頃打ったパンダ猫物件のヒロインの家庭状況設定が、『男はつらいよ』の後期に登場する泉ちゃん(満男君の憧れの少女ですね、少女の頃のゴクミさんが演じた)に似てますねとご指摘をいただく。別に苦情ではなかったのだけれど、まあ、あれはもうまんま当時の満男君および泉ちゃんへの、自分的オマージュなのである。
で、夕飯食いながら、久方ぶりに『男はつらいよ・ぼくの伯父さん』を観たのだが、1989年の作ながら、ちっとも古くない。いや、リアルタイムで観た当時には「なんぼなんでも古いのではないか」などと思いつつ、その懐かしい風合いを楽しんだのだが、現在観ると、かえってその古風さの普遍性に驚かされる。浪人生の鬱屈や、晩生な少年の恋の懊悩など、これまた太古の昔から遙かな未来まで、そう変わりがあるはずはないのである。真面目な監督が、社会の混迷や風潮に流されることなく己の感性にこだわり、その感性を言葉にも筋にも画面の隅々までも反映させる――その事の意味を、あらためて痛感する。
そういえば初公開のとき、当時勤めていた埼玉某所の忠実屋(とっくにダイエーに吸収され、そのダイエーも青息吐息)のテナントで、男の新人君にその映画の話をした記憶がある。その新人君はもうツッパリ上がりの矢沢永吉ファンで、無断欠勤などお茶の子だったが、なんか憎めない「気の良い」高卒少年、そんな感じだった。で、その映画で往年のツッパリ・ロックンロール野郎の尾藤イサオさんが、なんと厳格でかつ嫌みったらしい中年高校教師の役を演じており、寅さんや満男君に、嫌みったらしく教条的な説教をしたりする(寅さんは、苦労人らしく立派に反論してくれる)。それがまあ、お見事なまでに嫌みったらしく、しかしきわめてリアルに上手いのである。そんな話を休憩時間にそのツッパリ君にしていたら、「そりゃ、されたまんまをやってるんじゃないですか」とのご意見。――おう、鋭い。される立場の人間にしか見えない、本質的意見である。東大出の山田監督が、そんな説教たれられた経験アリとも思えない。つまりその役を誰にやってもらうか、それを選択する時に、いかにも教師然とした役者でなく、あえて尾藤イサオ兄イを持ってきた、それこそがリアリティーに繋がっているのである。そのツッパリ新人君は、人に使われるのはやっぱりやだから友達といっしょに花屋を始めるとか言って、ある日突然辞めて行ってしまった。その後立派な花屋になったろうか。10年ほど前、茨城の店にいる頃、子供ができたと彼から電話があったのだが、忙しくて現在の職業までは聞く暇がなかった。っつーか、お前、なんで花屋だったの?
自分自身はと言えば、高校1年の時家出して、田舎者丸出しで学生服のまんま夜の新宿をうろついてしまったりしたものだから、即刻補導されて、西口通路の交番で(今もありますね)いわゆるモノホンの非行少年少女が警官にバシバシ体で説教されるのを実地に見たり、新宿署で初老の少年係の方に、いかにももっともらしいが、何一つ相手の(当時の田舎の素朴な少年、つまり自分)の心の懊悩など察していない形骸的な教条をえんえんと披露されたり――まあ、それら全てはウン十年前の風俗の中での出来事だったにしろ、今後心して使えば、山田洋次監督の爪のアカくらいには、普遍性に繋げられるのではなかろうか。ああ、いい事を思い出させてもらった。
それにしても『男はつらいよ』シリーズを見るたびに感心するのは、現実社会のリアルなとげとげしさ、表層的な物の見方しかできない人間のリアルな冷たさである。それがしっかりあってこそ、あれは国民的『人情物』として、最後まで成立していたのだ。


10月28日 金  
心と時代

ティム・バートンの『コープス・ブライド』の噂を聞いて、予告編を観ると――おう、死体の花嫁、とってもキュート。ちょっと自分の死美人物とカブる気がして、推敲の末送った某所で「時流を狙った」と思われはしないかと気になるが、まあ死者との結婚あるいは愛する妻が死者になっちゃったという構図は大昔からホラーの定番なので気にしないことにする。しかしこのティム・バートンという方も、すでにデビュー時から他人とは思えないほど我が嗜好にがっちりと合致する(あ、シャレになってる)歪んだ映像やトラウマ的物語を美しく紡いでくださる方で、それがいずれも万人の心の琴線に触れる形になっているところなど、歪み系耽美界から降臨したゴッド・ハンドという気がする。
古本屋で石坂洋次郎さんの『山のかなたに』を見つけ、購入。昭和24年の作であり、今となっては入手も難しいが、自分が子供の頃までは『青い山脈』と並び、大人気流行大衆作家の代表作として立派に生きていた。しかしその後、急速に時代の流れに埋没してしまった感がある。今読んでみると、なるほど楽しいが、古い。いや、素朴な懐旧的古さとかではなく、終戦後まもなくの作品ゆえ「なんでもかんでも民主化、戦前の封建的社会通念オール野蛮、予科練帰りの暴力追放、田舎の保守主義打破!」――そんな明朗さなのである。一種、明治維新後の「なんでもかんでも文明開化! 徳川幕府政治オール・トンデモ!」と通じる感覚。しかも、その明治から太平洋戦争敗戦までの「暴力的」歴史を、どうもそれ以前の封建制とごっちゃにしている感覚もあり、なんとなくGHQっぽい。まあ、それが終戦後の世相の鏡なのだから、やはり風俗的意味はあるのだけれど。自分は昭和40年代に入ってからTVドラマ化された、単なる明朗田舎青春物としての側面しか知らなかったので、やはりこの原作は書店の棚に時代を越えて残れるものではないなあ、あくまでも歴史的風俗史料として残るのだろうなあ、と納得。自分のお山物件の参考になるかと思ったのだが、やっぱり映画やドラマの主題歌の雰囲気のみ参考にしよう。
あの頃の大ヒット物だと、菊田一夫さんの『君の名は』なんかも、その気がありますね。ただメロメロなすれ違いドラマかと思いきや、当時のリアルタイム映画化作品を学生時代京橋のフィルム・センターで観たら、もう真知子さんビシビシ言うわ言うわ。旧弊な姑などには、近代女性の生きる道など堂々と説教してしまうのである。ラジオ・ドラマ放送時女湯が空になった(半分宣伝文句らしいが)のは、けしてお涙頂戴の古風なメロドラマだったからではなく、未だ旧弊な社会を新時代の理念で独立独歩する近代女性、そんな感じが長屋のお上さんたちにもエールを送られたのではないか。つまり当時としては、実に「戦前戦中に別れを告げるための新時代ドラマ」だったのである。もっとも、この話も戦後時を経るにつれ「民主化!」色が薄れ、古典的すれ違いメロの部分が主になっていく。当然、初登場時のような大ヒットにはならなかった。
まあ、いつの時代も、社会的大ヒット作というのは、その時代の風俗に過適応したくらいでないと化けないのだろう。普遍性とはまた別の世界。その意味では、ティム・バートンの暗い歪みこそが、太古から人の心の底にある普遍性であり、それを歪んだまんま美しい物・愛すべき物として肯定できるティムは、やはり異才などでなく偉才だ。


10月27日 木  
宝石

ああ、また種々の支払いの月末。貧乏が稼ぎを追い越す甲斐性無し。刻一刻と減ってゆく、銀行預金の行く末やいかに! 次回を乞うご期待! ……って、期待してどうする、俺。
芋煮を啜りながら、録画しておいた鑑定団など観ていると、このところ掛け軸などは出物が少なくハズしてばかりなのだが、あのアンティーク・ジュエルたちは、たいそう美しく可憐であった。金無垢のなんかいろいろなど欲しいとも思わないが、素材も技術も本物の宝飾品という奴は、やはり美幼女や美少女や美女や美老婆に似て、思わず手を触れ愛玩したくなる。まあ今の懐具合では、愛玩どころか泣きながら哀願しても、触れる事さえかなわないのだけれど。
しかし、生きている限り生身の宝石たちは、いつか滅びる。「本物の宝石は、今、死んでしまった……」などと、乱歩原作三島脚本の『黒蜥蜴』の明智君のように、つぶやかねばならない日が来る。だからと言うわけではないが、世のお若い男性諸君には、通常の恋愛や結婚はちょっと横に置いといても(女性の皆さんごめんなさい)、高嶺の花と思われる生きている宝石に、ぜひ果敢なアタックを試みられたい。今現在こんな惨めな自分でも、橋の下でミイラ化するのを案外恐れずに済むのは、きっと一度は恋した乙女の肌に触れることができたからであり、心から美しいと断言できる女性のプロ仕様の美しい○○○○に、思いっきり○○できたからである。まあ前者には若くないと不可能なほど大変な時間と根気と気力が要ったし、後者にはまっとうに働いた年収の半分ほどの資金が要ったにしろ。ただし、法律上・人道上、未成年の宝石たちは、100年遅く生まれたことに歯噛みしつつ、残念ながら死ぬまでプラトニックに見守らざるを得ない。
しかし、あのダイヤモンドとプラチナの輝きに縁取られたカメオの少女なら、金さえあれば手に入るのよなあ。でも、宝石は欲しいが、目の色変えて金稼ぐのは、もはやほんとに億劫なのよなあ。という訳で、なかなか手がつかない次回の本気印打鍵は、前回の変奏曲とも言える少女ゾンビ物にしようかと思っていたのだが、やっぱり同じような趣向だとアレな気もするので、ダイヤモンドのごとく透徹した美少女を出したいと思う今日この頃。しかし本物のダイヤモンドを間近に観るのは不可能なので、それと同程度に美しく、かつ実感をもって表現できそうな――うん、山の泉、山の湖。その湖畔に佇む寄宿舎。もちろん男子禁制、乙女ばっかし。で、泉の精なんか出ちゃうのね。といっても、どうで自分にはトンデモ・エンタメ・ファンタジーしか長編化できないので、そうですね、太古地球に○○した○○○○○が、実は意識を持った○○○○とか。まあよくある話だが、それがどこまで現実世界を浸食できるかが、己印のファンタジーだしな。タイトルだけ決めておこう。『水の娘』――『泉の娘』――『湖の娘』――。語呂がいまいちか。『湖』は、昔なら『うみ』とも読めるな。『湖の娘』と書いて、『うみのむすめ』――うん、字面も語呂もいい感じ。というわけで、『湖《うみ》の娘』に決定。ただし、仮。
あ、正月から放置のお山物も続けねば。


10月26日 水  
ケ・セラ・セラ

結局、母親はいくぶん病院に適応し始めた気配もある。食事に毒が入っているとは思わなくなったらしく、息子にも半分食べろと勧めるくらい。排泄もコンディションさえ良ければ、自発的にトイレに行くようである。しかし薬はなかなか飲んでくれないので、まだ被害妄想は根強い。やはり多くの時間は妄想相手に呟くばかりで、そうなると息子の声も聞こえない。結局来月からのグループ・ホームの話は流れ、入院延長で様子を見ることに。まあこうなったら、今後どこでどうなるにしろ、経済的・地域的条件等、情動よりも現実的に踏ん張って、ゴールの定まらないマラソンを続けるしかないのである。
などと割り切って考えようと思っても、やはり本質的に理屈より感情の自分なので、ケアハウス(11月いっぱいまでは契約が残っているので、身内は泊まれるのである)の夜など、やはり安眠できない。今回は暇潰し用にお気に入りの石川英輔さんの「大江戸シリーズ」の文庫や、入眠用に鏡花の朗読テープなど何本か持って行ったのだが、夜中はエンドレスで鏡花漬けである。もっとも、10分も聞いているといきなり30分先に音が飛んだりしているので、断続的には結構眠っているはずだ。しかし帰途の新幹線では、いつのまにか文庫本を床に落として、眠りこけていたり。
今回は染太に寄る気力がなく、山形駅の九十九鶏(つくもどり)弁当を、十年ぶりに味わう。昔はホームでも販売していたが、現在は駅ビルの土産物売り場でないと買えず、正確には駅弁ではなくなってしまっている。味は昔ながらの甘辛さで、昔ながらに肉も多い。子供の頃は駅弁の中でも結構高価だった記憶があり、肉が多いという事自体が希少だったので、好物だった。現在は山形牛物に押され、八百円台で買えるお手頃弁当となっている。あっさり味好みの方にはお勧めしにくいが、東北田舎舌には、やはり故郷の味である。
例によって、レトルトの芋煮と、米沢鯉の甘露煮も買い込む。ちなみに山形の芋煮は、なぜかきわめてあっさりとした味なので、煮物というより汁物。米沢鯉は甘露煮の場合当然コテコテに甘いが、ビールにも合うし飯にもいい。
寝不足の分、かえって食欲はあるようだ。体重も一キロしか減っていない。


10月22日 土  
郷愁とおたく

近頃、就寝時に電灯を落とすと、小学校以前の懐かしき日々が、やたらと克明に脳裏に蘇る。それはもう使い古された『走馬燈のごとく』、甘い快感を伴って浮かぶ。いよいよ末期的脳内状態か。
で、金もないのに発作的に予約してしまっていた、光文社の60周年記念事業の一環、雑誌『少年』昭和37年4月号オマケ付き完全復刻限定版などというものが、しっかり届いて5500円も払わなければならず、明日からの郷里もこりゃタクシー使えず歩きだな、と覚悟を決めたり。新幹線の切符はもうとってあるので、ノー・プロブレム。
もし在職中だったら、きっと2部予約入れて、組み立て付録で遊んだりもしたんだろうなあ、と思いつつ、手垢を付けないように良く洗った指で、懐かしきページを繰る。当時の少年雑誌や少女雑誌は数冊持っているのだが、復刻版の奇妙な真新しさが、けして違和感ではなく当時のときめきとして蘇る。もっとも、昭和37年だと当方はまだ幼稚園で、『少年』を買ってもらってはいなかったのだが。できれば昭和39年の、東京オリンピック頃の奴を復刻して欲しかったのだが、まあ本誌はともかく組み立て付録など、逆に現代では再現不能の材質や技術なども多かろうから、こんな選択になったのかもしれない。この号なら、ほとんど紙だけで再現できる。
『鉄人28号』『ストップ! にいちゃん』『鉄腕アトム』――まあ表看板の懐かしさもさることながら、乱歩の少年探偵団を始め、活字中心の絵物語も本当に多い。また、各漫画のページ数など、現在のコミック誌に比べると本当に少ない。週間誌も『マガジン』『サンデー』はすでにあったが、ほとんどは『ぼくら』『少年画報』『少年ブック』『冒険王』等の月刊誌が主流で、それも余程裕福な家庭でない限り月に一冊買ってもらうのが関の山、それらの僅かな情報量をみんなで貸し借りしながら、ひと月ぶんの好奇心を想像力による補填や度重なる反芻で、なんとか保たせていたのである。貸本屋では各何部か仕入れた雑誌の組み立て付録だけを売ってくれたので、本誌は買えなくとも、どうしても欲しい付録だけは、四日分の小遣いをはたいて買ってきたり――まあ仮想娯楽の摂取にも、ずいぶん忙しくない日々であった。なにはなくとも時間的な余裕だけは、子供の特権だったのですね。活字の小説は読み飛ばすなどという贅沢な子供も、田舎にはほとんどいなかったと記憶している。少年探偵団もアトムも、無名の作家氏による怪奇小説なども、小学校の裏の田んぼのオタマジャクシや、城跡の木の洞《うろ》に何を間違えたか山から迷いこんできた狸などと、同じ比重で脳内を占めていた。夕日の三丁目よりも、さらに遠隔の山地の話である。
そういえば、あれも昭和37年だったなあと思い出し、『キングコング対ゴジラ』のDVDなど、助監督・梶田興治さんや俳優・藤木悠さんのオーディオ・コメンタリーを流しながら再見。観れば観るほど完成度の高い特撮映画であり、それはスタッフやキャストが例外なく『真摯な大人』であり『確かな職人』であった、その一点に由来していると思う。それが自分にとって『おたく』の理想の姿だ。
自称おたくの王様で、かつては東大で『おたく学講座』なる講義まで開講した岡田斗司夫氏の著作など読ませていただくと、氏はまだまだおたく度が足りないと思う。それとも、単に都会のおたくと山のおたくの認識の違いか。いずれにせよ本多・円谷組の特撮を語るには、彼らが育った時代・土地まで脳内で再構成してからやらないと、とんでもない思いこみ・誤謬で、先人の感性を貶めることになる。円谷先生が元祖サンダー・バードの水のスケールを結果映像から把握できないなど有り得ない。それは大阪の都市部で育ったかつての幼児・岡田氏の思いこみであって、たとえば自分を含め山形のおたく予備軍の幼児達は、当時から「なんであんな風呂桶みたいなちっぽけな水たまりに浮かべたちっぽけな模型が、あんなに巨大に見えるのか」と、みんなで首をひねっていた。それは、水たまり相手に年中遊んでいれば、幼児にでも解る波のスケールだったのである。ましてすでに戦前から百戦錬磨の撮影技師だった円谷先生に解らないはずはないし、身近には山形出身の本多監督などもいたのである。その狭い水たまりの波をどう撮影して迫力に繋げるか、それをやっていたのが円谷組であり、それにきっちり融合する現を手抜き無く撮り上げていたのが本多組である。
『主観』だけで『おたく学』などと標榜していいものか。それでは『おたく』が、ただ主観だけに囚われている者だと言ってしまっているのと同じだろう。夢は子供にも勝手に見られるが、夢をあたかも現のごとく写せるのは、現を把握した大人だけである。


10月21日 金  
変えたくなくとも『仕様』は勝手に変わる→食前食後の方はご注意

再インストールしたXP、またいつしか起動や終了やメール着信等、一部のシステム音が鳴らなくなっている。設定画面ではきちんと鳴るが、実際の作業中は頑として鳴らない。ユーザーの切り替えと、システム・エラーの時だけは元気に鳴らしてくれる。よほどマイクロソフトに嫌われてしまったか、などとも思うが、どうやら2000以降の仕様らしい。自動アップデートやらあっちこっちのダウンロード・ソフトやらプラグインやらが絡むのか、自分の環境だと、いつかは必ず鳴らなくなるのである。同じような環境の方も多いらしい。しかしエラーだけ元気に鳴らされると、状況によってはキーボード返しを喰らわせたくなるので、精神衛生上、システム音は全部鳴らさないことにする。ちょっと寂しい気もするが、実害はない。いや、多少の実害はある。ある自動アップデートを境目に、それまで95互換モードで作動していた旧ソフトのいくつかが、途中で強制終了するようになってしまった。まあ互換モードそのものが元々オマケの機能だから、これも新しい仕様なのだろう。『仕様』――便利な言葉である。
姉が看護婦長さんに電話したところ、母はやはり空腹になるときちんと食べているようで、その時には薬も飲むらしい。やはり、妄想そのものが過剰な自己防衛本能によっているのであって、最終的には生存本能が勝つのだろう。ところで、母ではないが、同じ病室の老婆がベッドで脱糞し、その排泄物を食べてしまったそうだ。母もそれを目撃してしまった訳だが、いっとき衝撃を受けてもすぐに忘れてくれたようで、こうした場合の忘却能力(?)は、ありがたい。まあ食糞という行為は、動物学的にはなんら珍しいものではないし、他の精神疾患の方なんかも始める時があるらしいし、正気の人間でも糞尿愛好者の方はけっこう多い。まあ、けして自分でやったり身内にやって欲しいような行為ではないが、クサヤや鮒寿司だって、あの臭気にさえ慣れれば旨いのだから、案外味覚としては、なんらかの快感があるのかも知れない。でも、やっぱり腹をこわしそうだよなあ。
ここまで打って、これから晩飯であることに、自分で気づく。……食前食後でこれを読んでしまった方に、謹んでお詫び申し上げます。


10月20日 木  
人生○ろ○ろ

録画しておいた『プロジェクトX』の黒四ダム後編を観る。まだ存命中の当時の現場の方々、その老いたお顔のあまりの個性的さに感嘆。往年の異名『マムシ』がそのまんま皺だらけで縮んだような恐い方、紅顔の青年がまんまおっさん化したような方、あるいは本当に真面目一方の方がまんま真面目一方で柔和そうに老いた方――人間という物は、個人的矜持さえ通していれば、あんないい顔と精神を、老いても保てるものなのだ。ただし、アルツ等の病気に罹らなければ。しかし病気に罹ったとしても、それまでの道程自体は、なんら意味を失いはしないだろう。でもやはり、自分もああした見苦しくない顔(というか、眼の生気)だけは保ちたいものである。そしてできれば、その眼を保てる内に、すっぱり消えたい。
でもまあ、こればかりは運次第なのだろうなあ。尊敬する文筆家の方々でも、晩年惚けてしまって「あうあう、もうお願いですから引退してください先生」と泣きながら、でもやっぱりそのとんでもねー反古の束を買い続けた(まだ買い続ける)方々もいらっしゃる。結局、一度尊敬してしまったら、やっぱりどうなっても情は残る。ありゃ、おんなじような事を以前書いたような気もするが、どうせ半ボケのことゆえご容赦。
人生いろいろ 人生うろうろ 人生えろえろ 人生おろおろ 人生ぐろぐろ 人生ころころ 人生げろげろ 人生ぐろぐろ 人生ごろごろ 人生そろそろ 人生じろじろ 人生ぜろぜろ 人生ぞろぞろ 人生ちろちろ 人生とろとろ 人生でろでろ 人生どろどろ 人生のろのろ 人生へろへろ 人生ほろほろ 人生びろびろ 人生べろべろ 人生ぼろぼろ 人生めろめろ 人生もろもろ 人生よろよろ 人生れろれろ……これくらいでオール・クリア?


10月19日 水 
 トレース

ひとりの漫画家さんが商売上の『死刑』になったようなので、スラムダンクも末次由紀氏も読んでいないロートルながら気に掛かり、新聞にあった『盗用』とはどの程度だったのかと気になってネットを検索する。ほとんどまんまキャラなんぞ珍しくもないこの世界、そんなに大騒動になる理由やいかに――おう、なんと、スラムダンクに限らずあっちこっちから、実際トレースしてたんですね。これはおこまり。ポーズの模写なんぞも珍しくない世界だが、なんぼなんでもトレースはまずかろう。と言うわけで、コミックの商業誌連載だけでも日本においては徹夜仕事であり、まして単行本を修正する暇なんぞろくになかろうと重々同情しつつ、しかしやっぱり模写どころかまんま下書きに使っちゃなあ……やっぱり業界からは追放だろう。でなければ、体と頭を壊しながら営々とオリジナルを追求している方々に申し訳が立たない。オリジナリティー皆無でも、一応他の参考物件を自分の目を通し脳内変換してから作画している方々にも、まあちょっとは申し訳が立たない。
などと偉そうに言いつつ、自分だってアマとは言いながらあっちこっちの資料を引っ張らせていただいており(まんま引用の時は出展明記させていただいているが)、地の文だって過去の偉人の文体パクリまくりである。しかしまあ脳内変換だけはしっかりやって仁義通しとこう。褒められるにしろ貶されるにしろ、自分の脳味噌の検印だけは、きちんと押しとかないとなあ。


10月18日 火  
窮鼠

昨日の認識は、少々甘かったようだ。
母にとってもはやトイレも危険な場所らしい。姉が病院のトイレに行こうとすると、「もう帰ってこれなくなるから行くな」と、強硬に止めたそうだ。自分は――ご想像の通りです。着替えさせようとしても強硬に抵抗し(体だけは元気)、ようやく脱がせると「こんなことした覚えはないのになあ」。もらした、という単語は抵抗があるので使わないらしい。これは父方の祖母の晩年の常套句でもあった。水や食事を摂らないのが心配なようだが、これは看護婦さんが言ったように、「喉が渇けば飲み、腹が減れば食べる」ので心配はないと思うのだが。実際過去に読んだ精神科医師の著作物によると、全ての食物に毒が入っていると妄想し断言する分裂症の方なども、あくまでも生存本能は失われていないので、体が食事を切望すれば、勝手に「この食事は食える」理由をきちんと妄想するものなのだそうある。鬱病や拒食症とは違い、あくまでも生存本能は健在なのであって、ただ理屈が壊れてしまっただけである。排泄に関しても、その病棟自体が下の世話などおぼつかない方々ばかりなのだから、定期的には世話してもらえる。
姉は病院に入ったこと自体が激変に繋がっているのではないかと苦慮している。弟(私です)の推定100倍優しい姉である。だいぶ前から不肖の息子(私です)の言うことなどほとんど聞かず、姉の言なら従っていた。しかし、食事も薬もその姉の言にさえ、すでに従わない状態である以上、当然医者をも看護婦さんをも、自分を虐待する悪漢としか認識していない。グループ・ホームでの共同生活など、客観的にもはや無理。特養で置いてくれるかもあやしい。薬を飲まない→まんま妄想内世界に沈殿――その堂々巡りである。一日のほとんどは、ぶつぶつと妄想内でどなたかと会話しているとのこと。問題は周囲への猜疑心がNAXであり、凶暴性こそないが正気な行動規範が失われているので、どこにいようと幽閉、あるいは24時間監視――いやな言葉だが――せざるをえない点である。
現状で一般家屋で母の介護をするとしたら、ちょっとでも母をひとりにして留守をしたい時には、それこそ一室に外鍵を掛けて幽閉するしかない。そんな非人道的な、と言われるかも知れないが、身体的には元気そのものなのであるから、家の中の電気ガス水道、すべて外出のたんびに外部から遮断しなければ、帰って家がどうなっているか、保証の限りではないのである。燃やす気や水浸しにする気はなくとも、なんらかの理由で栓をひねって忘れてしまえば、それまでだ。いっそ症状が進んでかつての父方の祖母のように寝たきりになってくれた方が、家族としてはよほど介護しやすいのである。そうなれば巨大な赤ん坊と同じなのだから。
ともあれ先は見えないが、行って何ができるかは解らないが、日曜には自分もおつきあいに行こうと思う。子供の頃の母は、自分にとって間違いなく、美しくて優しい女性だったのだから。
夜半、渡辺氏より、ゲストブックにありがたいご指摘。『遠の昔』でなく、『疾うの昔』だったのですね。いやあ、なんのことはない、息子も半ボケ。


10月17日 月  
悪化

今週も母親の様子を見に行った姉より、消沈した電話。
母親はなにやら上着やズボンを3枚も重ねて着用しており、このところ飯もまともに食わず薬も嫌がって飲まず、風呂にも入っていなかったそうだ。姉が昼飯に買っていたサンドイッチは食べると言うので、姉が病院の食事を代わりに食べようとすると、必死に止めたそうだ。「その薬は毒らしい」「飯に毒が入っている」と、神様や母親(遠の昔――話は飛ぶが、『とおのむかし』と入力しても、ATOKでは絶対に『遠の昔』にならないのに今気づいた。試したら、マイクロソフトでも書院IMEでも変換しない。もしかして『遠の昔』という日本語は間違いなのだろうか。古文なら『遠の』という表現は珍しくもないので、古語扱いなのだろうか。でも、今でも『遠の昔』って、よく使うわなあ。よくわからん。閑話休題――遠の昔に他界した母方の祖母である)が、教えてくれたのだそうだ。すでに神様や死んだ身内との会話は珍しくないらしい。看護婦さんによると、昨夜はちょっとおかしさの度合いが激しく鎮静剤の注射を受けたらしいのだが、まともなことは何一つ記憶していないのに、「昨日の晩は恐い目に会った」などと、注射の件を姉に愚痴ったらしい。被害者意識に関わる記憶や妄想だけは、なんぼでも別頭で処理できるのである。
このぶんではグループ・ホームなどで暮らせそうもないような気がするが、医者の話では、むしろそうした日常的な環境に早く移した方がいいのではないか、とのこと。入院による混乱で妄想の顕在化する患者など、珍しくないらしい。来月にならないと空かないので、しばらく様子見。しかしこの分では、グループ・ホームの先も早めに考えておかないといけなさそうである。いずれにせよ、次の日曜から自分もまた様子を見に行く。
しかし、アルツ発症後足かけ4年ほどになるのに、CTスキャンによる物理的な病変は、不思議に進んでいないそうだ。それは良い傾向なのではないかと博愛主義者の方々からの反論もあろうが、身近な人間にとっては大間違い。通常アルツを発症すれば、徐々に脳自体が萎縮を始め、やがては『恍惚の人』となり、しだいに身体的にも衰える。脳が萎縮するからこそ身体的にも衰え問題行動も減少するのであって、母親の場合、もっとも始末に負えない「頭はおかしく体は元気」のアルツ初期症状が、極めて緩慢に進んでいるのである。今のままでは当人にとっても周囲にとっても、もっとも不幸な状況が長続きしそうな気配である。
ともあれなってしまったものは仕方がない。自分の脳味噌だって、明日どうなるかなど解らない。現に姉も自分もどっぷり消沈の日々である。といって消沈しっぱなしだと生きて行けないし、自分までおかしくなってしまう。まあすでに充分おかしい気もするが、とにかく同じ妄想に走るなら、自分は『被害妄想』でも『加害妄想』でもなく、なんというか――『祝福妄想者』でありたい。
と言うわけで、幼少の頃より崇拝している、三輪明宏さんの本など買ってくる。あの方が若く貧しい頃に狭いアパートをどのように飾っていたかなど、頬を緩ませて想像しながら、ご自分の訳詞による『愛の賛歌』など聞き惚れる。

  
高く青い空が 落ちてきたとしても
  海がとどろいて 押し寄せたとて
  あなたがいる限り 私は恐れない
  愛する心に 恐れるものはない

  あなたがいうなら この黒髪を 何色にでも
  あなたがいうなら たとえ地の果て 世界の果てでも
  あなたがいうなら どんな恥でも 耐えしのびます
  あなたがいうなら 愛する国も 友も捨てよう

  いつか人生が あなたを奪っても
  この愛があれば それでしあわせ
  死んでもあの空で 苦しみもなにもなく
  永遠《とこしえ》にうたおう 愛を讃える歌

  神よむすびたまえ 愛し合う我らを


JASRACなど、もう恐くはない。この訳詞はすでに一個人の著作物ではなく、万人の共有物であるべきだ。エディット・ピアフさん並びに三輪明宏さんも、きっと許してくれるだろう。


10月15日 土  
どんな人生にも晴れの日はある

たとえば、ダイソーではない100円ストアで見つけたレトルトのキーマカレーは、他の100円以下で「なっとくの味」などと書かれているのにそぞろ侘びしいだけのカレーに比べ味も具も良く、卵を添えれば充分主菜になる。近所の西友では、グリコのレトルト・ビビンバ丼を取り扱い再開してくれた。また、一昨日隣駅の古物屋では、笹みどりさんの『下町育ち』の初録音EPをたった200円で見つけた。さらに「三味〜や〜♪ 踊り〜は〜♪ 習いもす〜る〜が〜♪ 習わな〜くうと〜も〜♪ 女は〜泣〜けえる〜♪」とか、「金〜が〜ああ〜♪ 物言いう〜♪ 浮世といえど〜♪ 金じゃ取〜らな〜い♪ 左〜褄〜♪」とか脳内で笹みどりさんといっしょに歌っていると、なんかいろいろの外出の途中、なんでもない郊外の駅前でなぜか若い芸者さんがふたりタクシーに乗ろうとしており、色っぽく左褄を取るお姿など拝見できたとか、人生にはまだまだささやかな喜びが(ちょっとせこいが)存在するのである。
なんかいろいろで暇がなくなり、せっかく田川氏に誘われた明日の『三丁目の夕日』の試写会に行けないとか(これが目上の人間や同輩クラスだったら万難を排しても出かけ、その実高価な夕飯や酒を無理矢理奢らせてしまうとか色々できるのだろうが、さすがに後輩さんを相手にそれをやる度胸はまだない私)、パソの反逆でここ一週間の個人的メールは消失とか、まあ色々あるわけだが、天気予報で降る降ると言っていた雨も降らず、コイン・ランドリーの乾燥機もちょっとで乾く。なにはともあれ、お日様は貧乏人の味方。


10月14日 金  
弱り目に祟りパソ

ほんの一瞬の停電なのである。骨董級のステレオは時刻がリセットされたが、新しいDVDレコーダーは、なんともない程度の停電なのである。しかし起動途中の我がパソは、見事にそれっきり起動しようとしなくなってしまった。修正インストールしようとしても、XPの画面が出た途端に暗転、HDDはくりくり言っているのに、買い物から戻ってもまっくろくろすけのまんま。もはや四の五の言っている暇はないので、あっさり新規インストール。データ類は別ドライブなので問題ないが、肝腎の作業(半分は遊びだが)環境再構築に、また昨夜から1日がかり。いよいよ無停電装置が必要か。あるいはバッテリー付きのノートをメインにして、それにCRTくっつけるとか。しかし、もはや高性能ノートなど、はっきりと「買う金がない」ぞ。
まあ、最悪でも安価なHDDの交換だけで済むデスクトップは、やはり有難い。人間も脳味噌の交換や再インストールが出来ればと、なかば本気で思う今日この頃。知識や想念はその気になればいくらでも外部記録しておけるのだし。


10月12日 水  
被害者意識

度重なる環境の変化もあろうが、やはり母親は混乱のさなかにあるようだ。入浴・食事・排泄といった基本的な部分にも、かなり意欲を失っているようである。というより、なにがなんだか解らない、それだけのことか。聞けばお見舞いに行った姉妹にも、遠回しに罰当たりな嫌味など口にしたようだ。解らないこと、不自由な事の全てを自分以外のせいにして生きる――そして自分がとうに自立生活など出来ない状態であるという事実だけは、頑強に認めない。自分だけが被害者であり、無意識に加害者に回っている部分は一切認識できない。まあ、それが認知症のひとつの形なのか。
いじめによる自殺事件で、民事告訴された加害者(であるかどうかは当事者同士、いや、自殺した当人の少女と、そのかつての友人だったという少女たち本人でも判別不能だと思うが)の証人尋問の記事など読む。無論、自分には何一つ真実など解らない。ただ、被害者(?)が
〔登校できない状態になり、メンタルクリニックを受診し、「心因反応(うつ状態)」との診断を受けていたことについては、3人とも「全く知らなかった」と述べ、○○さんの自殺に「とてもショックを受けた」と話した。また元同級生の一人は「○○さんの両親が『自殺の原因は3人にあると話している』と周囲から聞いた」と証言。そのうえで当時の状況について「(自分が具体的に何をしたと言われているのか)学校側に何度も聞いたが、教えてもらえなかった」と話した。【川久保美紀】(毎日新聞)10月12日16時30分更新』〕という記述に、暗澹たる気分に襲われる。結局、その自殺した少女の両親も学校も、破局以前にはただ状況を隠蔽し続けていただけなのであり、当事者同士の表層的齟齬だけが反復されていたのである。
真実を知らない自分には直接何も言う資格はないが、鬱病の人間にとっては、何を言われても消滅願望に繋がるのは確かだ。かつての自分の周囲にも、理不尽ないじめっ子は確かにいた。しかし、客観的に見てただ他者からの『反撥』『無理解』『理論的攻撃』に過ぎないものに過剰反応して、勝手に被害妄想で懊悩する子供も、確かに存在した。それが昂じて、大学卒業前に自殺してしまった男もいた。自分の同い年の又従弟である。高校がいっしょの頃、「絶対に誰もお前の人間性そのものを否定している訳ではない」と言っても、「いや、俺は絶対排他されている」と主張してきかなかった。今にして思えば、あれは立派な鬱病だったのだろう。北海道の大学に行ってしまったので、その後の交流はないが、ずいぶん明るくなったと親戚から聞いていたのに、結局卒業を待たず、崖からダイブしてしまった。
常に相対的であれ――正気の内は、自分にも他者にも、そう願い続けるしかない。人間、間が悪いと、単なる加齢だけで、それが不可能になってしまう。自分しか見えなくなってしまえば、ただ脳内世界は縮こまるばかりだ。


10月11日 火  
ささやかな朗報

本日郷里の病院へ行った姉によると、老人病棟に空きが出て、母親は無事移動できたとのこと。食物などは一切差し入れ禁止(というか、病院の預かり)になるそうで、病室には化粧品なども持ち込み禁止だそうだ。まあ痴呆老人が大半だから、食べ物をどこかに隠して腐らせたり、果ては化粧水を飲んでしまう患者さんなどもいるらしい。母親も前者に近い。しかし看護のレベルは格段に上がり、入浴や着替えもひとりひとり看てくれるそうだし、コイン・ランドリー使用なども、つきっきりで当人に教えてくれるそうだ。以降は交代週一程度の訪問で済みそうである。
先週電話をくれた伯母ともうひとりの叔母、つまり母親の姉妹がお見舞いに来てくれたとのこと。一般の精神病棟にいなくて、ラッキー。いや、別に一般精神病の皆さんを差別するわけではけしてなく、あくまでも市井の平凡な老婦人たちの心情をあえて乱したくはない、そんな意味です。それもまた差別意識とおっしゃる方もあろうが、差別ではなくただの区別ですので、そこんとこよろしく。もっとも体は弱っても頭脳はすこぶる健康な老姉妹なので、やはり認知症老人だらけの休憩室はちょっとショックだったようだ。その中にいる母は、姉妹に対する刹那刹那の反応などは元気一杯なので、「そんなにひどくも見えないけどねえ」とおっしゃったようだ。まあ日常生活を半日でも共にすれば感想は一変するだろうが。大体、見舞いが終わった一瞬後には、それまで見舞客がそこにいたことなど何一つ記憶していない母なのである。で、娘や息子には「化粧品がない」「金がない」「いつ」「どこ」「なぜ」の無限反復。
ともあれ、やはり専門の病棟に移れたのは朗報。いくぶん気が軽くなり、久しぶりにプロジェクトXの黒部ダム特集など、ノリノリで観る。録画しておいた『義経』なども、なんだか素直にもらい泣きしながら観る。所詮自分の惰弱な感受性など、周囲の出来事しだいなのだなあ。しかし自分が生まれた頃に、一所懸命日本の未来のために命がけで秘境の山塊にトンネル掘ってた方々がいたという事実は、やはり生きる気力に繋がる。義経君にも、どーっと大陸に渡ってジンギスカンに変身して欲しいものである。


10月10日 月  
スパム

今月締め切りの小説公募がまだあったので、そっちにも見繕って送ってみることにする。先月アルファポリスにも一件掲載依頼したのだが、一向に公開されない。あちらは読者が審査するのだから事前審査などはないはずだが――あ、谷山浩子さんの歌詞、2行引用したままだったからか。著作権、近頃厳しいからなあ。なんだかスパム・メールを送りつけてしまった気分。
スパムと言えば、先週長くパソを離れ帰宅後メールを開くと、なんと120近いメールの7割方が、横文字のアダルト・サイトからであった。順調にメルアドが広まっているらしい。しかしこうしたスパムで腹が立つのは、最初に漏れた段階では、こちらの極めて偏った嗜好が明らかなはずなのに、ただ雑多でありふれた惹句のメールばかりが送りつけられて来る点である。あのさあ、私ゃ今更見ず知らずの外人のオバハンやおねいちゃんのどこに誰の何が挿入されていようと、なんの興味もありませんからね。いつから『cute teen fuckings with old dad』という英文は、オバハンとオッサンの情事を意味する決まりになったのだ。また、時々動物過剰愛護的な趣向らしい英文なども見られますが、雄のお馬さんやワンちゃんも、本音は人間相手などでなく、きちんと色っぽい牝馬さんやハクい雌犬ちゃんと仲良くしたいに違いない。
夜は芋煮と納豆ご飯を食べながら、久々に『秋立ちぬ』など観かえす。ああ、けなげな少年少女が愛おしい。昭和30年代和ろりルックのサイトなど、どなたか開いてくれないか。


10月9日 日  
芋煮

昨日は結局午後になって喉がまた腫れだし、病院へ。安静の反対の日々を続けていたので、悪化しなかっただけ上出来。今週中には治るだろう。
本日は山形駅の土産物フロアで買ってきたレトルトの芋煮に、長葱一本ザク切り、それから一番安い牛肉の切り落としを200グラムほどぶっこみ、細々と孤独の芋煮会。もともとちっこい肉がそこはかとなく入っているのだが、缶詰肉のように煮詰まってしまっているのでボロボロと味気ない。葱は煮崩れてしまうので、もともと入っていない。まあレトルト芋煮というよりあくまでも素材で、これで1000円は高い気もするが、葱と肉を加えても1500円で3日分の満足おかずになる。いっそ鍋を持って河原に出たい気もするが、このあたりでひとりでやってたら、どう見ても河原乞食だわなあ。
どうせまたボツなんだろうなあと思いつつも、某野望のために死美人物件最終プリントアウト。また『梗概』とやらを付けねばならない。だから文体そのものと話の繋ぎ方が今回のキモなのであって、荒筋だけ書いたらただの馬鹿話なんだよう――という訳で、舌ったらずの梗概をでっちあげる。作家志望者向けの本やHPでは、まことしやかに『梗概』の重要性を説いているが、そんなもんは編集者の仕事であって、絶対に創作者の仕事ではない。その証拠に、その手の本を出したりHP造ったりするのはたいがい編集サイドの人間だし、作家だとしてもその作品はたいがい『梗概』の水増し物だ。
丁寧モードでプリントしていると、他のパソ作業は重くてやっていられない。次の長編はどんなのにしようか、いや、夏にやろうと思ってついに手がつかなかった田舎物件の続きを――等々、夢想を楽しむ。なんか田舎の沼の可愛い龍神様が出てくる、ちょっとホロリ系のコメディーもいいなあ。鏡花もどきは死美人でやりつくしたから、『夜叉ヶ池』よりは、石ノ森先生の『龍神沼』を、もっとかわいくしたみたいな。などと思ってしまったのは、きっと田舎の林檎や梨の木の間をさんざ歩き回って、朽ちかけた祠やらちっこくてかわいい蛇などを、さんざ見かけたからだろう。お祭りも見られたし。
ところで、ちっこい蛇さん、ほんとにかわいい。不気味の代名詞的に言われがちな蛇の目も、良く見ればまんまるで愛嬌があるし、ちろちろのベロなんて思わず指でつっつきたくなる。まあ毒蛇やアナコンダ級のでかいのは願い下げだが。


10月8日 土  
過食と彷徨の日々

もうどーでもいいや人生なんてこんなもんこんなもんと呟きながら、ケアハウスと病院の往復一里を日に2回、遠回りして1キロほど追加のスーパーにも日に一度、無聊に耐えかねてさらに1キロ先の旧道筋の書店――洗濯・買い物等、1日に三里ほどは歩いていたのではないか。さぞかしダイエットできるかと思いきや、晩飯に餓鬼のごとくスーパー飯をかっくらってしまうので、ちっとも痩せない。さすがに母当人のいないハウスの、食堂の飯を食う気にはなれない。
精神科病棟は思いのほか、明るかった。病室や扉の窓に、鉄格子などはない。事務室や外界と繋がる扉は施錠されているが、病室の扉などは開放され、虚ろな視線で一日中廊下を往復している少女やら、ひとりでえんえんと懐かしき『安全地帯』の歌を独唱し続ける声やら、一日中事務室の小窓になにやら訴え続ける青年やら、喫煙所で和やかに談笑しているどう見ても正気の小父さんたちやら、種々の人々が結構開放的に過ごしている。時代を考えれば、当然か。自分の過去の記憶=鉄格子は、すでに四半世紀以前の病棟なのである。無論、錯乱して暴れるような症状の方々は、もっと閉鎖的な所にいるのだろうが。
母親は幸い凶暴性などないから、日当たりの良い四人部屋の一角で、終日記憶の隘路を彷徨っている。息子がいるときは、その隘路のナビゲーションを求めて無限に「いつ」「どこ」「なぜ」等、数種の質問を繰り返す。答えてやらないとまた他者への悪口雑言に移行するので、自分もまた数種の答を無限に繰り返す。以前と変わりがないが、記憶力は明らかに激減しているようだ。電話で聞いていた御大層なハウスの騒動も、詳しく聞けば相手の九十近いお婆ちゃんのかなり過剰な反応と、そのご家族の過剰な反応の占める部分が大きいようだ。けして母を贔屓するのでなく、世間ならばご近所の口喧嘩レベルである。まあ、そういった迷惑をかけない事自体が入居規約なので反論はできないが、それにしても頭を軽く、ぺん、とやったくらいで、相手の補聴器というものは大破するものなのだろうか。姉はものすげー修理代の請求を唯々諾々と受けるしかなかったと、悔しがっていた。所長さん自身が「あの方が相手でなかったら、入院までしなくともグループホームが空くまでケアハウスにいられたんでしょうが」などと言うところを見ると、所長さんもあちらの方やご家族に何か強く言われたのであって、悪い人ではないのだろう。
ともあれ、母の記憶力はすでに無いに等しい。そして盗難妄想の権化である。四人部屋の自分のベッドと小さなタンス、ただそれだけの空間に、ありとあらゆる私物を分散隠蔽し、それっきり忘れている。自分の目に見える物は全て他人にも見えるから盗まれたら大変、ただそれだけの一念で、きれいさっぱり予想もできないようなところに隠す。そして、見えなくなった物は、次の瞬間に「始めから不足している物」と化してしまい、よってそれを探そうという発想もなく、ただ「何もない」という不足感だけが残る。すでにお金のような重要な物だけでなく、たとえば息子が買って行った一袋の蜜柑、それすら翌日には消えている。生ものだから放置するわけにもいかないので捜索すると、タンスのあっちこっちの奥にそのまま分散して入れたり袋に隠したり、果ては到底当人の手が届くとは思われないタンスの上の隅に、目覚まし時計と一緒に転がしこんであったりする。そうして、「蜜柑でも買ってきてくれ」「目覚まし時計がない。盗られたのだろうか」――。つまり、恐らく今の母はさらに悪化して完璧な恍惚の人と化すまで、終日不足感と欲求不満を嘆いているしかないのだ。正気な人間が一緒に暮らすのは、やはり難しい。なにしろ、「金がない」というので、もはや捜索する気力もなく千円札一枚バッグに入れてやり、喫煙所で一服して帰ってくると、「金がない」。その千円札は、すでに姿を消している。大方、引き出しのどこかの衣類の袖の半ば、あるいはベッドの毛布カバーの隅あたりに、誰にも見つからないよう隠したのだろう。しかし、まだ昔の記憶は残っており、身内や親戚の事も覚えている。また、何十何百編目かの「今日は何月何日だっけ」に、こちらも半ば朦朧とした頭で答えてやると、「ああ、○○神社のお祭りだなあ」――山形の近所の神社のお祭りなど、正確に思い出す。
夜、ケアハウスでひとり悶々と過食に耽っていると、まだ存命中の母方の伯母ひとりから、電話が入る。月に一度はハウスも訪ねて来てくれていた人なので、入院したと伝えると、さっそくお見舞いに行こうと言ってくれるが――丁重に辞退する。老人病棟に空きがなかったので、母のいるのは一般精神科の入院病棟である。大なり小なり、『カッコーの巣の上で』の世界だ。自分には予想以上に開放的で明るく見えた場所でも、姉はかなりショックを受けていたくらいだから、年老いた伯母に今更知ってもらいたい場所ではない。
在郷最終日の午後、母の慣れない入浴が無事済んだのを見届けた後、帰途に就く。タクシーを呼ぶ気にもなれず、直近のバイパスから少し離れた旧街道までぼーっと歩き、そのうち出くわした停留所からバスに乗ることにする。一時間に一便。それでも二十分待ちで済みそうだったので、近所にあった神社のお堂の横手に座り、ぼーっと煙草を吸う。
バスは天童駅からさらに山形まで行く路線。天童駅で降りず、山形まで乗ってしまうことにする。途中、気が向いて、馬見ヶ崎川にかかる千歳橋で降り、駅までの5キロほどをぼーっと歩く。自然脚は七日町の『染太』に向かい、その日は朝に肉まんとパンを食っただけだったので、特鰻重とバクラーを頼む。抗生物質を飲んでいるので、アルコールは摂れない。腹が空いていたためでもあろうが、いつにもまして染太の鰻が美味。本当に天を仰いで感謝したくなるほど旨い。今回は徹底的にタクシーを節約したのだから、いっそ中重(特重のさらにご飯の中にまで蒲焼きが埋まっている)にしとけば良かったかと思う。鰻はいい。特に『染太』の鰻は。若い頃人並みに自殺願望に惑ったりしたときにも、でも死んだら『染太』の鰻が食えないからなあ、と、結局死ぬまで生きる覚悟をした記憶がある。当方、けしてあそこの回し者ではないのだが。会計時、カウンターに置いてあった『鰻百選』という小冊子をもらうと、敬愛する高橋克彦先生が、エッセイを寄せておられた。ほんとうに不思議な感性の方である。まああのくらいフシギな方だからこそ、緻密な歴史観から花も実もあるトンデモにまで飛翔できるのだろう。
帰途、また駅までの道をぶらぶら歩いていると、なんと裏通りで○○神社の御輿に遭遇。今見ればちっぽけな御輿だが、懐かしき祭であることに変わりはない。神社まで付いて行くと、伝統的古式打毬なども、無論夕方ゆえ終わっていたが、ちゃんとやっていたようだ。縁日の出店の列も懐かしい。
神社にほど近い旧県立病院は郊外に移転し、広々とした芝生の公園となって、祭帰りの子供や親子が遊んでいる。例の長編死美人物(今もまだ校正を重ねていたりする。こんだけ見返しても、まだ誤字や誤謬が見つかるのである)の舞台となった、衛戍病院跡である。駅まで綾さんたちのルートをたどると、陸橋の複数の小隧道は姿を消し、もはや近代的高架、そして高架下を利用した駐車場と化している。戦前どころか1990年代の光景すら、どんどん変わってしまうのであった。
夕方の新幹線に乗ると、もう夜には日常に復帰。まあ、まだどたばたは続くのだが、ひとまずマントヴァーニ楽団に逃避。


10月3日 月  
弱り頭に祟り喉

明日からまた郷里、しかし未知なる病院――などと構えていると、よりによってまた扁桃腺が腫れ始める。寝てはいられないので医者に抗生物質をもらいに行った帰り、駅前のでかいパチンコ屋でなにかイベントをやっているらしく、半裸に近いミニスカのおねいちゃんたちが、ナイス・バディで客引きをしている。パチンコはやらないので、通り過ぎながら見るともなくしかし内心じっくりと拝ませていただいたが、実際若くて可愛くてお見事そのもののおねいちゃんたちである。バブルの頃なら、こんなパチンコ屋の客引きなどするレベルではなかったろうに、可哀想な時代である。まあ、例によってお声は昨今定例の舌の回らないふにゃふにゃ娘発音だから、やはりプロのコンパニオンとは言えないのだろうが。いや、テレビの時代劇などでも多くの娘役はふにゃふにゃなのだから、そう言っては可哀想か。いずれにせよ風邪など引かないよう、がんばって欲しいものである。あなた方のナイス・ヒップを心の糧に、おじさんもがんばります。


10月2日 日  
わや

で、結局母は昨日精神科に入院。しかし姉の話によると、ハウスの所長さんの話はかなり軟化しており、とりあえずひと月ほど入院して、その後はグループ・ホームに移る話など復活しているようだ。正直、現場の方々に比して所長さんの言質は、自分がかつて身を置いた商売世界のやり手、そんな感じである。つまり、自分が優位であると確信できる状況では、まず一発目で恫喝に近い発言をして、相手の反応を見る。そこで相手が反撥するか従順であるかを見定めてから、以降の路線を綺麗に分ける。恫喝後反撥喰らっても己の優位は最初から明らかなのだから、さらに強気で押し切れば自分に理がある。従順ならば一転優しく接して、いわば自分の軍門・指揮下に引き入れる。なんのことはない、やはりビジネスの世界なのである。介護ビジネスというくらいで。グループ・ホームにだって空きがあれば非効率的だし、要介護度がアップすれば介護保険からの「取りっぱぐれのない実入り」が増える。――自分の邪推かとも思うが、現実なんてそんなもの。四六時中いっしょにいられないこちらは、何を言われても従うしかない。現に母親は確実に症状が進んでいるのだし。
姉は初めて入る精神科病棟に少々めげていたようだが、自分はてんかんに分裂症を併発してしまった叔母の入院先に子供の頃何度もお使いに行かされたので、全ての窓に金属の格子があり全ての扉が施錠されている病室でも、さほど驚かない。ときおり耳につく奇声などにも、慣れたかった訳ではないが、慣れている。来週には付き添いに行くのだが、問題は母親の話に調子を合わせなければいけない事だ。あくまでも薬の相性など確認するための検査入院、そんなふうに言い含めて、なんとか納得させたとのこと。もっとも現在自分がどこに居るのかは、さっそく忘れまくりのようだ。
殺伐とした話ばかりで、ここを覗いて下さる少数の方々、特にお若い方々にはつくづく恐縮。しかし実際の現場に働く介護士のお嬢さんや、ケアマネージャーの方々は、幸いにして涙が出るほど優しい。けして経済効率などでなく心で働いている方も、この世界には多数存在してくれているのだ。ただそれらの方々は、世間に対してやたら大声を上げたりする暇などないので、目立たない。ニュースのタネにも滅多にならない。マザー・テレサだって、教会と雄々しく(?)対立したからこそ広く知られたのであって、市井の一婦人が同じ事を成し遂げても、あれほど目立ちはしなかったはずだ。一期一会の縁に慈悲の心で接する全ての方々に、合掌。
などと偉そうに言いつつ、『_summer(アンダーバー・サマー)』をまた立ち上げようとしている自分はつくづく罰当たり。しかし一日の内に何時間か「優しい少年少女だけの世界」に逃避しても、罰は当たるまい。とにかく死ぬ気で和みたいのよ今のおじさんは。


9月30日 金  
ぽしゃる

13時頃、姉より電話。母の件、やはりケア・ハウスでは面倒見切れないとの連絡があった由。攻撃性が抜けないとなると、グループ・ホームも無理だろうとのこと。あちらとしては、すでに追い出したいニュアンスのようで、もう引き取ってもらえないかとの話もあったよう。あるいは病院にとりあえず入院するか――いずれにせよ、今日明日中に誰かに来て欲しいとのことなので、とりあえず申し訳ないと思いつつ、姉にお願いする。来週火曜からなら、自分も動けるのだが。もはや泥沼。いっそ全面的に自分の生活は諦めて、そっくり被ったほうが楽か。
しかし、疑問点もある。ハウスの所長の方からの連絡はいつも過激なのだが、実際現場を仕切っているYさんなどの表現は、それほど過激ではない。医者はさらに落ち着いている。まあケアハウスの入居条件そのものが、波風を立てない精神状態であるから、所長さんとしては、言い方は悪いが早いこと厄介払いしたいという意識があるのだろう。しかし他の入居者の方に迷惑をかけてしまっては言い訳のしようもなく、入院、あるいは――自分がなんとかするしかない。
他人の自己中心的な発作的悪意や妄想を心底厭う自分への、身内から突きつけられた刃、そんな気分である。まあ母親の場合アルツなのだから仕方がないが、そうした自我の喪失が正気のはずの社会にも増殖しているように思える昨今、自分や他の一般市民の方々だけは、正気を保ちたい保って欲しいと切に願う。


9月28日 水  
逃避

なるほど、そーゆーのであった。少年少女、恥ずかしいほど純真。主人公はちょっと鈍感過ぎる気もするが、当節これほどの朴念仁は珍しいので吉。誰一人として悪意のキャラはなく、それでもある人を選ぶためにはある人を選べないというそこはかとないリアル感もある。しかしギスギス感は全くない。エロゲーゆえ誰かと上手くいけば当然Hシーンにたどり着くが、これがまたちょっと近頃気恥ずかしいくらい純情可憐なエロ。いや、まあいきなりやることは一通りやってしまうので不自然であるのは仕方なく、例によって取って付けた感じなので、この歳になると綺麗事でなく時間が惜しいのでCtrlキー押しっぱなしで流してしまうのだけれど、まあピンク映画や日活ロマンポルノ同様、それが無ければジャンルとして成立しないのだろうし、めいっぱい「愛し合ってるぜい」なので吉。しかしこれって、Hシーン無ければ本当に昭和40年代後半の恋愛青春物だなあ――と、いうわけで、『_summer(アンダーバー・サマー)』、当方の精神的逃避には格好のものである。まだ小奈美ちゃんしかオチてませんが。特筆すべきは、声優さんが実に上手い。それぞれ絵に描いたような(って、実際絵なのだが)典型的タイプで、下手な方だとざーとらしかったりするところを、実に程良くマッチング。ストーリーそのものは昨今珍しく「無い」と言っても過言ではないほどの穏やかさだが、ムードと声だけで、ああ、和む和む。正直言ってキャラも背景も絵は半分下手(原画家さん複数で波があるし、同じ背景の時刻による塗り分けなど、実に素人っぽい)だが、描こうとしている情緒・情景そのものが好きなので、なんぼでもこっちから歩み寄れるのであった。今時こんな純情べったりのエロゲー、売れるのかしら。お金があったら買ってやりたいところである。でも、DVDや本と違って、高いからなあ。
ふと気が向いてシーズ・ウェアの具合など確認すると、まだ完全に潰れたわけではなく、旧作のダウンロード販売と、『EVE』のプレステ用新作を角川がらみでなんかいろいろしているようだ。最後のあがき(すみません)というような気もするが、頑張って復活し、また奇妙な個性派も作ってほしいものだ。
眠れないので、夜はマントヴァーニを流しっぱなしで、ああ、和む和む。これで猫でもいれば完璧なのだが。


9月27日 火  
日々

母の方、やはり医者の話ではとりたてて珍しい症状でもないそうだ。といって無論もはやケア・ハウスでの健常者の方を交えた生活は無理で、11月にグループ・ハウスに空きができるというので(そちらの方も悪化して完全看護施設に移ってしまうのだろうから喜んではいけないのだろうが)、それまでなんとかケア・ハウスに預かってもらうことになる。種々の事ども、ハウスの方ケアマネの方、そして姉にも平身低頭。こちらもそれまでせいぜい帰郷し宿泊し、妙な言動を外にばらまかないよう微力なりとも努めねばなるまい。って、本当は息子なのだから24時間付きっきりでいるべきなのだろうが、すみません、貧しい偽善者です。こんな時には、つくづく大金持ちの家などは羨ましいと思う。専属の介護士だって置けるだろうし。いざとなったら自分が働かないで世話すればいいのだし。
比較的気分が落ち着いたところで、録画しておいた、NHKの孤独死問題のドキュメントなど見る。過去、『団地』が新時代のステータスだった時代に開発されたニュータウン、現在は独居者が半数を超え、なんらかの理由で職を失い家族とも別れた中年や老年の男性ばかりが、周囲との関わりもなく死後何ヶ月も経って発見されるケース続出、そんな話である。昔から団地に住んでいた方々が、ボランティアとしてそれを防ごうとしている。――他人事ではない。まあ自分の場合、連絡取り合う姉もいるし、何より家賃が管理人さん直なので、推定一週間、最悪でも一ヶ月すれば発見されるだろうが、中途半端に腐っていると、かえって迷惑だろうなあ。などと打っているうちにも、管理人さんが国勢調査の用紙を持って訪問。隣の爺さんの目もあるから、新聞が溜まれば即発見されるだろう。問題は、となりの爺さんである。近頃関係は良好、しかし外出の時偶然会わない限り生活音のほとんどしない方なので、いるかいないか、生きているか死んでいるかは外からまったく判断できない。あ、そうか。暇らしく毎日ベランダの干し物が変わるので、それから判断できるのだな。しかし時折下で行き会うぶよんとしてしまりのない学生などは、頭を下げてもなんの反応もない。まあ当節の集合住宅などそんなものかもしれないが、「ぶよんとしてしまりがなく陰気」である場合、自衛のため周囲には愛想良くしておかないと、なにか事件があった時、通報されたり石を投げられたり鉄砲で撃たれたりするといけない。お互い様ですよ、なまねこなまねこ。
続く『義経』は駄目だったが『必殺』再放送は大いに盛り上がる。『新・必殺からくり人・富嶽百景殺し旅』の『深川万年橋下』の回。前半は水戸黄門調だったので、あ、また松本監督の消化試合などと思っていたら、後半どんどん盛り上がり、最後の殺し場など山田五十鈴さんも他のメンバーも、大いにスタイリッシュに盛り上がる。でも、やはり松野監督だったのである。いい脚本に当たると、さすがにベテラン、ここまでキレ良く乗れるのである。脚本は、おお、武末勝さんではないか。山本迪夫監督と組んで岸田森さんの血を吸うシリーズを書いた方である。さすが、カタルシス生成に抜かりがない。当然無辜の死人は出るが、下手な無駄死にはない。それぞれ「悪役憎し」感を盛り上げるのにめいっぱい貢献するし、生き残って欲しい人はきちんと残す。で、悪役皆殺しの後は、心底溜飲が下がる。拍手。


9月26日 月  
迷走

なんかいろいろの若い人に、エロゲーを借りる。ここでは偉そうな事を言ってもそれはここだからであって、友人から励ましのメールなどもらうと返信に泣き言打ちまくりである。逃げたい。体ごと逃げるのが無理なら、頭だけでも。とにかくなんの紆余曲折もいらんから出てくるキャラみんないい奴で平穏無事で優しいの、などと普段の嗜好とはずいぶん違うリクエストで、『アンダーバー・サマー』というのを勧められる。とにかく平穏無事な高校生の恋愛物で、優しくて初々しいそうだ。絵柄もちょっと昔の少女漫画調で、あんまし上手くないが平穏無事で初々しいそうだ。あ、そーゆーの、そーゆーの。
おたくは、いい。趣味の合う人間には、とても優しい。懇切丁寧に説明もしてくれる。考えてみりゃ旧職場でも、コスプレ写真撮りまくりのぶよんとしてしまりのない若いお得意客などは、みんな素直で穏やかだった。撮ってる最中は多少イッているかもしれないが。
帰途、駅で新潟中越地震の募金のおねいちゃんに目を付けられる。けして胡乱な募金ではありませんこれこのとおり、と、募金を役場の人に渡している写真やら、市役所の領収書などまで見せられる。金もないのに千円募金してしまう。帰って調べたら、有名な怪しい左っぽい団体の募金だったらしい。うああああ、署名までしちまったぜ。……まあ、自分が無知だったのだから仕方ないか。お願いですから党費に流用したり北朝鮮に送らないで、新潟に送ってくださいね。私があなたがたを信じて箱に入れた分だけは。って、無理か。あんな電波ビンビンの新聞作ってるようじゃなあ。でも、せめて500円くらいは、お願いします。あなたがたが本当に人民のためだと思っているなら、朝鮮総連に送っても、あんましアレではないかと。あと、新聞小説はやっぱりご本尊の方が書いてるのかしら。ゴースト・ライターの方にお願いした方がいいのではないかと。それとも、やっぱりご本尊は首領様級で不可触領域ですか。


9月25日 日  
破綻

母親の問題行動、ついに抑制を失ってしまったらしい。ある入居者の方の頭を、食事中はたいてしまったとのこと。大暴れとかではなく、あくまで「このやろ、ぺん!」程度だったらしいが、故無き被害妄想によってである。その方には以前から「金を盗られた」などと妄想していたのである。無論、金は自分で隠して忘れているのだ。
明日病院に連れて行ってくれるとのことなのだが、入院とかになると男の自分では衣類も生活用品も何も判らないので、とりあえず姉に行ってもらうことになる。その後は、病院での成り行きしだいである。自分も動かなければならないだろう。
しかし、詐欺まがいの訪問販売でガラクタに大枚はたかされても一切忘れてしまう人間が、なぜ「自分にとって気にくわない」人間だけに、すべての鬱憤を集約してしまうのか――所詮人間などというものは、理性を失えば反射的な狭い『好悪』だけしか残らない。その要素が痴呆老人だけでなく、子供から大人まで広く蝕みつつあることが、日々のニュースやWebでとても気になる。
まあ、正気な内は正気であろうと努めたいものである。


9月24日 土  
脱力と復活

昨夜半、11日に打ち始めた30枚弱の短編、ようやく脱稿。推敲の後、まずいつもの板ではなくMLの方に先に見てもらおうかと送信したら、自分に帰って来たテキストが、なんかいろいろおかしくなっている。新パソ購入後、初期設定のままでアウトルック・エクスプレスを使っていたのだが、長文を送るとなんだかおかしな所に一行空きが生じてしまう。その直前に謎の半角スペースなども出現している。折り返し設定してないからかなあ、などと思い色々試してみたら、折り返しそのものが機能しない。なんじゃこりゃあ、と思ってネットで調べて見ると――なんの事はない、その異常(と思うんだが)が我が環境においては『仕様』で、レジストリをいじらないといけないのだそうだ。ううむ、さすが、マイクロソフト。
本日は一日休日にして、溜まった録画やレンタルDVD三昧。必殺も旅物もあまり当たりがなく、さらに頭休めに以前予告編だけ観ていた『バーティカル・リミット』など見始めると――す、すみません。なんだか過去の種々の映画に対する悪口や愚痴が、全て申し訳なく思われるほどの超巨大激怒馬鹿野郎金返せ劇場で観てたら窓口に怒鳴り込むぞ級のとんでもねー猿芝居。山もなんにも知らないで山岳映画作ろうという根性もさることながら、ありとあらゆる作劇が、人間の存在そのものをナメているとしか思えない。マーティン・キャンベルという監督、007の新シリーズ『ゴールデン・アイ』ではそんなに馬鹿な方とは思わなかったのだが、シナリオのせいだったのだろうか。今回のシナリオ、正直、とことん自己中心的で他人嫌いの方が書いたのではないか。とにかく山岳レスキュー映画のはずなのに、始めから「誰がどう死ぬと派手でウケるか」でドラマを作り、殺すために見え見えの無知を伏線として張っているのである。主演のクリス・オドネルさん、嫌いではないだけに、なんでこんなシナリオに従ってしまったのか悔しくてたまらない。まあ、確かに元気に殺しまくりという点ではジェームス・ボンド級だが、いくらなんでも山岳レスキュー映画でそれをやられちゃあ……と、ここまで打って、なーる、と手を打つ。007の方法論を、そのまんま山岳映画に適用してしまったのですね。肝腎の絵に描いたような悪役のいないボンド映画――なるほど、ただの連続殺人鬼。K2慟哭。
心機一転、劇場でも観た『海は見ていた』を、続いて再見。黒沢脚本熊井監督、なぜか例によって不評の多かった映画だが、ふっふっふ、こうした含羞に満ちた真摯さや、これ見よがしでない深い『定型』の通じない時代になればなるほど、一部のひねくれロートルは「ああ、俺はまだまだ捨てたものではない。歳をとるのは一部悲しいがやっぱり楽しい」などと、嫌らしく増長できるのである。すみません、私です。しかしこの映画のどこが上滑りで浅いと言うのだろう。そう見る方の視線が浅くて上滑りなだけではないのか。それともそんなにぐっさり刺したり刺されたりしないと感覚できないほど、心に装甲を着せているのか。それは鈍磨と紙一重だと思うのだが。あるいは『定形外』っぽい穴だらけの作品の方が好きなだけか。まあ商業映画である限りどんな見方をされても仕方がないとは言え、たまには隙のない真剣勝負の新作もないと、映画好きとして生きるのが辛くなる。
ただひとつ残念なのは、セットも照明ももう画面の隅々まで溜息級の美術の中で(一般時代劇では味わえない、本当の木造家屋の生活感が体感できる)、要所要所のCGというかVFXだけが、やはり質感がマッチしていなかった点である。予算上やむを得ないのだろうが、とにかく「本物に見えない」のが現在の技術限界ならば、「本物の」セットやドラマに融合させるには、むしろミニチュアやマット画のほうが親和性が高いのではないか。同じ「本物ではない」なら、質感のあるほうがまだ相性がいい。それは『バーティカル・リミット』でもしばしば感じた。同じ嘘なら、騙されたい嘘・信じたい嘘が見たい。実写版『三丁目の夕日』も、ちらちら散見する広告CGを見る限り、ちょっと不安。


9月22日 木  
自分がまだ自分でいられるうちに

どうも近頃、Webというかネットというか掲示板というか、そうした世界に違和感を強めつつある。いや、情報を得るには大変便利な世界でその存続に異議はない。ただ異様なまでの匿名性に、疑問を感じるだけである。匿名性だけで言えば自分だってWeb上バニラダヌキであったり沖之司拡であったりする訳だし、実生活の本名も昔の筆名もある。ただ「名無し」であったことは一度もないし、前記二者が同一人物であることを隠す必要も全く感じない。またメールなどでは本名すら隠す必要を感じない。全部自分であり、何を言っても何をしても責任は自分のものだ。責任=権利だと思うから、いわゆる串などを刺してIPを曖昧にする必要もない。ろり関係の検索もエロ関係の検索にも怪しげな動画のダウン・ロードにも、しっかりたったひとつのIPが記録されているはずである。
たとえば前長編を打つとき、ただの反古にしたくはなかったので、いわゆる死体画像を検索し山のように閲覧した。事故事件戦争医学解剖、生なものから腐敗したもの、子供から大人、中にはレイプ後腹を割かれた女性の検死写真などもあった(堂々と大衆新聞や雑誌で公表される国もある)。それらを見たときの自分は、無論冷静ではない。ありとあらゆる感情に襲われる。嫌悪から好奇、時には欲望まで。それを隠すつもりはない。それらの混沌がすなわち己であり、世界である。
ただし自分個人が外に向かって何かを発する時は、ただ反射的な混沌のままでは何も発していないのと同じことである。馬鹿なりに統合整理して「発するべき形」を定める。前長編で言えば、その崩壊し腐敗した人体がかつて己の愛した女性であったら自分は抱けるかとか、しっかり確信してから発する。でないとそんな戯言を信じてくれる人はネクロフィリアの方だけになってしまう。死体愛好者同士が馴れ合うには匿名のままでもかまわないだろうが、自分はそうでない方々の場で「腐爛死体だって美しい場合があるのかもしんない」と大声で触れてまわるのだから、その権利=責任のために、完全な匿名であってはいけない訳である。まあそんなのはあくまでも個人的意見であり、今更他人の態度まで気にもするまいと思ってはいるのだが――。
こんなことを改めて思ったのは、某投稿板でアダルト的な部門(よくわからないが、ボーイズやら何やら)を別に設ける話があり、その際の別HNを認めるのがどうのこうの、そんな話があったからである。まあ別の場所なら別HNは当然、という昔からのネット上の常識なのだろうが、自分には完全な匿名性の海から生じる生き物は所詮衆愚だけであろうと思われる。それこそを本音・民意と捉える向きもあろうが、自分が住みたいのは本音の社会などではない。本音などというのは顔さえ隠せばどんな馬鹿にでも言える。アイデンティティーが必要ないのだから。
2チャンに電車男がもし実在しその愛が結実したとすれば、それは己自身の本音ではなく対外的劇性を語る立派なアイデンティティーがすでに確立していたからであり、無数の名無しさんをしたたかに観客化するだけの才覚があったからだ。ただのオタにエルメスは落ちない。観客のほぼ全員が仮面を付けた劇場で観客を煽るには、仮面を付けて客席に飛び込んでしまうのがいかにも手っ取り早い。中身はコテハン・タイプの人間であったと確信する(本当は創作だろうと思っていたりも)。
ところで郷里の母、被害妄想がいよいよ対外的な行動に現れ始めたらしい。ケアハウスで無理になれば、グループ・ホームだろうか。しかし当人は自分がそんな行動(まあ暴力とかでなく、まだ雑言段階らしいが)をした事など、その行動を取っているリアルタイムにしか認識していないのであり、現に当人は何も覚えていない。どこに移すにしろ簡単に納得はしないだろうし、納得したらしたでまたストレスが増加し悪化するのではないか。いよいよ精神病院を探す日が近いのか。もはや自分には痴呆老親を手に掛けた中年あるいは自らも老年の方々を、いっさい責める気になれない。寝たきりの方がまだまし、などと言うとその立場の方や関係者の方からお叱りをこうむるだろうが、我が母は記憶や思考だけが病気で体は健康なのである。それがいかに厄介な状態であるか、まあ、今や古典と言っても良かろうと思われる有吉佐和子氏の『恍惚の人』を読んでいただければ、お若い方もさほど暗い気持ちにならずに状況だけはつかめるだろう。あれを「暗くなく」書くと言うことがいかに偉大な創作活動であるか、今にしてつくづく尊敬する。


9月21日 水  
象牙色のアイドル

我が愛するスペイン製サイコ・ホラーの秀作(役者さんはほとんど英国)『象牙色のアイドル』が、公開後30年以上を経てようやく日本でもDVD化されていたのを知り、生半可なレンタル屋で置いてくれるシロモノではないので金もないのにまた購入してしまったのだが、なんでこれが日本ではこれまでビデオにもLDにもならなかったのか、不思議なほど面白い。まあ、いっぺん深夜映画枠で細々と放映される予告が出て、録画しようとヨダレを垂らしながら待っていたのだが、あろうことかあるまいことか、その直前にあの宮崎さんちの実物サイコ野郎が逮捕されてしまい、当然のことながらあらゆるテレビ局は(なんとビデオ屋まで)スプラッターやホラーを自粛し、それっきり流れてしまったのである。だから中身確認してから自粛しろってんだよ、思考停止メディア。まあ、それっきり思考停止したまんま、世の中ますますおかしくなっているんですけどね。
で、30年ぶりに観た現物、細部はもう自分好みに思いきり脳内リメイクされてしまっていたのだが、中学生当時にわなないた重厚さというか濃密さというか、エンタメ物語でありながら全体を通して個々の人間の心理をきっちり追い、最終的に物語全体で深くしかし普遍的な暗喩を構築する、そんな完成度の高さは、けして子供時分の己の錯覚や記憶の美化ではなかったのだと知り、満悦。
ストーリーだけ観てしまえば、古典的な猟奇ミステリーである。森の奥深く佇む古い洋館・女子寄宿学校。一見お嬢様学校っぽい典雅さだが、実は種々の理由で家族に持て余された(当人が売春とか盗みをやったり、家庭環境が複雑だったり)少女たちが半幽閉状態の、いわば矯正施設というか、要は厄介払い用に近い寄宿舎である。厳格で独裁的な中年女性院長、それに忠実な舎監的女生徒トリオや反抗的な少女、不良でもないのに家庭の事情で入学してくるヒロインの苦労、そして病弱なため外に出られず階上の一室で古時計収集を趣味としている謎めいた美少年(院長の息子)。まあ、そんな典型的構図の中で、女生徒の連続失踪やら猟奇殺人が展開する訳だが――典型的なればこそ、シナリオや監督や役者が寸足らずだと、あっという間にC級陳腐作に墜ちそうなところを、これが見事に見せてくれるのですよ。きめ細かい脚本・演出と美しいカメラとしっかり演技できる役者たち、そして当時一世を風靡した美少年、ジョン・モルダー=ブラウンで(まあ今見るとモルダー少年と音楽だけはちょっと甘過ぎか)。
ネタに関しては、表の自作ショート『カワイソウナカワイイボウヤ』でオマージュしてしまったし(ごく少数の方にはすみません)、作品自体がかの元祖『サイコ』への古典ゴシック的オマージュなので、犯人がその美少年であることは中盤でもうバレバレなのだが――とにかく一本のホラーで陰惨なマザー・コンプレックスを突き詰めたのが『サイコ』であるとすれば、『象牙色のアイドル』は、厳格な母親だけでなくそれに相対する生々しい少女たちにもしっかり囲まれていたため、女性という存在への畏れと憧憬がとっちらかってしまい、無垢という狂気の中で古時計のような仮想花嫁を造りあげようとした童貞君の悲劇、そんな物語なのである。それこそ宮崎事件の時など、ゴールデン・タイムで放送するべき作品だったのだ。
山崎圭司氏のDVD解説によると、原題は『レシデンシア』、スペイン語で「館」を意味する女性名詞だそうだ。おうおう、題名まできっちり本質をついている。公開時の邦題は当初『象牙色の館』、それが主演のモルダー君が『初恋』『早春』などで少女達に人気爆発したため、『象牙色のアイドル』に変更されたのだそうだ。もっともさすがにその役どころがラスト一発ハンパなインパクトではなかったため、欧米での好評をよそに、日本の少女達からだけはブーイング・レターの大群がモルダー君に送りつけられたそうである。
『初恋』『早春』から一転してしまった訳だが、さらに日本公開されたハマーのホラー『吸血鬼サーカス団』(!)で日本での人気にトドメを刺したものの、欧米では翌年ビスコンティの『ルードウィッヒ』等を経て(まあ日本の少女はあんまし観ないだろうなあ)、TV中心に順調にキャリアを伸ばしたようだ。ネットで検索したら、現在は英国で演劇学校を経営しているそうである。ちなみに当時の美少年の両雄ビョルン・アンドレセン君がなんか恐い個性派中年に育ってしまったのに比して、モルダー君は今でも往年のロバート・レッドフォードをさらに硬派にしてブラピを上品にしたようなナイス・ミドルだった。
とにかくラストの病的な微笑がもう最高で、思わず「ああもうどうにでもして頂戴」とモニターの前で身もだえしたり――自分、ほんとにろりか。しょたではないのか。まあ、美しければ性別・年齢など無関係。ただ、ろりはいつの世でもほぼ8割が愛しく美しい。
ところで先日感動した『ソルトン・シー』、巷の評判をネットで探ってみたら、やはり信用のおける知人か映画評論家(本音で賢い方が次々に寿命で他界されてしまうので、ほとんど残っていないのだが)の評価でないと、それによって観るか観ないかを決めるというのは危険だ。無論好みの問題もあるのだが、とにかく「俯瞰する」「構造を観る」「奥を探る」等々の楽しみを全く知らず、ただ銀幕やモニターの表面の目立つところだけしか見ないで物を言うお方ばかりだ。特に映画ファンと称する方の個人HPやブログなど、大半「……別にいくら見て楽しんでもいいけど、なんか外でしゃべる時には少しモノ考えてからしゃべったほうがいいんじゃないの?」である。こんな奥の奥でこそこそ打ってる日記でも、ごく少数の方に読んでもらうからには、「無名おたくの意見」として、結構考えまくっていたりするのだが。


9月20日 火  
ソルトン・シー

特報! って、何をおっさんが盛り上がっているかと言いますと、たった今見終わったレンタルDVD『ソルトン・シー』が、感動的に美味なのであった。強いて言えばサスペンス・ミステリーなのだろうが、そこはそれ永遠のひねくれ少年ヴァル・キルマー主演のこと、一筋縄では行かない。けだるいヤク中のタレコミ屋、そんなジャンル不明っぽい風俗物らしく始まり、一転して過去ある男の復讐ハード・ボイルド、さらに二転三転して男泣きエンド――ヴァル・キルマーは無論もう中年ですが、ほんとに少年の頃の屈折感全開でチャーミング。アイデンティティーというものが個人的なものでなく相対的なものであることを、最後までスタイリッシュに謳ってくれます。
こうした映画もせっせと作られてメジャーであるということは、やはりアメリカという国はでかいだけあって底が深い。いちがい単純な国扱いしてしまう昨今の自分を反省。日本で公開されないだけなんですね。メジャー映画界を見る限り、日本のほうが昨今よほど表層的で享楽的で単純バカ化しつつあるのかもしれない。大人が金勘定しか頭にないからなあ。
ちなみにこの映画、出だしでいきなりシャブと日本の戦中戦後を関連付けて、ラリったシャブ国家に原爆二発たたき落としたりしてくれるため呆然としてしまう人も多かろうが、それもまた「相対的な誤解」として受け止められる大人でないと、以降の展開も付いていけないだろう。まあ戦中カミカゼの多くがシャブやってたのも事実だし、戦後の復興期に日本人の2パーセントがシャブ中だったのも事実なのである。といって投下段階で一般市民がみんなシャブやってた訳ではないので、そこに原爆落としていいなら今のアメリカにも何発か落としていいはずだが、そこはそれ、「相対的な感覚」ということで。結局何が問題で何が大事なのか、映画ではラストまでにきっちりと大人の意見を暗喩してくれます。


9月19日 月  
エイリアンVSプレデター

『義経』の録画、頼朝造形のあまりの底の浅さに、途中で消去。あれでは結果論だけで嘆いているただの独善子だ。自分の策の欠陥を他人の考えなし・幼さと勘違いして騒いでいる。問題は、脚本家や演出家が、それをどうやら大人の策士として演出しているらしいのである。これがあくまでも頼朝の狭視野な欠点・浅慮として描かれていれば少しは納得できるのだが、頼朝の先見の明の無さ・周囲への説得力不足(あくまでも今回の造形では、ということです)を、演出も他の登場人物も放置状態に見える。現実的策士で大人の兄と、純真でまっすぐな少年的弟、そんな対称的兄弟として造形している腹なのだろうが、これでは頼朝まで子供である。このぶんだと義経も最後まで「なんとなくかっこいいでしょ」で終わりそうだ。
口直しに、I氏が面白いと言っていた『エイリアンVSプレデター』をレンタル。巷ではそこそこの評価あるいは悪評が多かったようだが、近頃稀な快作ではないか。我が愛する元祖エイリアンを「連続強姦魔対夢見る処女の手に汗握るチェイスを宇宙空間で展開するゴシック・ロマン(なんだそりゃ)」だとすれば、今回は、「バーバリアンの青年たちの通過儀礼(猛獣相手の体を張ったハンティング)に巻き込まれた大人の女性を描く地底伝奇物(なんだそりゃ×2)」といった趣向である。今回の監督・脚本は、ハッタリ単純SF調アクション映画のベテラン、ポール・アンダーソン。といっても、かつて『イベント・ホライゾン』で、事象の地平線をネタに宇宙空間納涼お化け大会を開催した前歴もあるので、やはりただのとっちゃんぼうやではない。一見荒唐無稽に暴走しながら、きちんと大人のエンタメのツボは押さえている。そうか、だから子供に人気が出ず、評価が低かったのだろう。元祖エイリアンのキー・ワードが「少女の貞操観念」だとしたら、今回のプレデターのは「少年の通過儀礼」なのである。どちらもきちんと成人してからのほうが楽しめる。ローテク特撮とハイテクSFXの混在も吉。エメリッヒ映画のビジュアル感覚と同じで、なんでもかんでもCGではなく、ミニチュアや着ぐるみの物理的質感がある。それはコスト低減以外にもちゃんと利点があるのだ。もっとも最近ではパターン化されたCGのほうがコスト安らしく、アメリカのB級C級も、噴火やら爆発やら航空機やらは、定型CGばかりだが。
ところで、メルアドのひとつが海外のアダルト業者に回ってしまったらしく、このところ毎日山のような英文のURL入りメールが届く。あそこから回ったとしか思えんのよなあ。やはりヤバい物を入手するには、それなりのリスクが伴うのであった。でもフランスあたりの春画は、日本では入手できないのである。男性のみなさん、どんなに個人情報管理徹底を謳うサイトでも、そこがアダルトである限り国内であれ国外であれダダ漏れですので、これから大人になる方は覚悟してくださいね。大人の男性は、もうご存知だと思いますが。


9月18日 日  
かえるとびこむみずのおと

大学生の3人に1人は、「春はあけぼの」の意味が分からない――。国立国語研究所の島村直己主任研究員らの研究グループが17日、千葉市で開かれた日本教育社会学会でこんな調査結果を発表した。
現代文は高校生より正答率が低く、研究グループは「大学生の活字離れが深刻になっているのではないか」としている。調査は今年6〜7月、国立大5校と私立大3校の1〜4年生までの約850人に実施。古文4、現代文2の計6問を出題し、2年前に高校生1〜3年生約1500人に実施した同一問題での調査結果と比較した。それによると、古文では、枕草子の「春はあけぼの」の意味を「春は夜が明け始めるころが素晴らしい」と正答できた大学生は62・9%。松尾芭蕉の俳句「古池や 蛙飛び込む 水の音」の「蛙」について、「カエル」と答えたか、「かわず」という正しい読み方を答えた学生は65・3%だった。また、童謡「赤とんぼ」の「負われて見たのは」の歌詞の意味を「背負われて見たのは」と正答できたのも61・6%にとどまり、「追いかけられて見た」という誤答が目立った。唱歌「夏は来(き)ぬ」については、「夏が来ない」と逆の意味にとらえた学生が多く、正答率は47・8%と半数を割った。
(読売新聞) - 9月18日12時42分更新
別にいいのではないか、そんな気がする。そもそも学校でも家庭でもすでにそんな言葉は使われていないし、まともに教えもしないのだから。
まあ自分の持論としては「知らないのは恥」「死ぬまで知ろうとするのが吉」なのだが、そのジャンルは人によって様々だ。自分はたまたま知ろうとするルートが『物語』にシフトしてしまっただけであって、その手段が文章に落ち着いた、それだけのことである。一時は漫画やアニメにシフトしたのだけれど、残念ながら指が不器用でカケアミやヌキさえまともにできない。大量の絵など、とても描けない。昨今のコミック作製ソフトやGIFアニメや3D描画などにも、実はこっそり手を出したりしたのだが、「おうおうこりゃマウスのみでものんびりGペンでヌケるだべ」などと感動はしたものの、もはやそこに割く時間は残されていない爺いなのであった。少年の頃現在のパソがあったら、絶対コミケのエロろり街道まっしぐらだっただろうなあ。で、変名で、叙情ろりを細々と。
つまり「知ろうとすること」のルートなど多岐なのであって、問題は『専門分野を知ろうとしない学者』『国の現実や歴史を知ろうとしない政治家』『技術を磨かない職人』『日本語を知ろうとしない文筆家』『自分を知ろうとしない宗教家』『物の担ぎ方を知らない土方』といった部分なのであり、別にそっちさえ細々とでも続ける気概があれば、かえるがとびこもうが夏が来なかろうが、問題ないのである。そこいらをあんまりつっつかないで『平均的知識』ばっかり重視するのは、明治以来のこの国の悪い癖だ。『個性』という言葉が流行れば、まるで子供が一定レベル以上『個性的』でなければならないかのように騒ぐ。だから人様々なんだって。
このところ、寝る前に、昔買った故・六代目圓生師匠の人情話集成を通しで聴いている。かつて心酔した学究肌の古典復活芸、今の自分には窮屈すぎて一部辟易。「知ろうとする」対象が、「人情そのもの」よりも「他人の人情の圓生個人による規定」になってしまっている気がする。自戒せねば。当時対照的な両雄的に扱われていた五代目志ん生師匠が没後いまだに人気者である理由は、すべてのタイプの人間を大らかに許容してしまうような、エントロピー増加気味の世界観にあるのだろう。それが最終的『仏』の道なのかも知れない。しかし修行途上の身には、今のところ十代目・馬生師匠がやはり好ましい。お父君の志ん生師匠に似ているようでありながら、やや偏狭さが残り、そこんとこがより人間的で、萌え。しかし、みんなすでに故人。


9月17日 土  
細々

まあこのところ私物打鍵は2日に原稿用紙1枚ぶん程度しか進んでいないので、勢い某板の他の方々の作品など気になってしまう訳だが――まあやっぱり人に頼ってはいけないのだろう。近頃いつもの板に浸りにくいのは、まあ波長が合って感想を入れたくなる方が少ないせいもある。
たとえばなにかとても文学論や小説論で盛り上がっている方の作品が、自分には根のない反古にしか見えなかったりする。文章や描写などは大変練れている。打鍵歴も長く、読書歴も長いのだろう。しかし作品自体は、半分くらいまでは目を通せるが、以降なんべん続けて読もうとしても、世界観自体になんの踏み込みも描かれないので投げてしまう。ビジュアル媒体でなくテキスト・オンリーで、表層のみ整った世界に付き合い続けるのは、自分には困難なのであった。しかし他のお若い方がそれで楽しんでいるとすれば、こっちの頭が古いだけなのかも知れず、そろそろ自分もまた引き籠もるべきか、そんな水のような気分で、オチもキャッチーも理論もない地味短編を、細々と紡ぐ今日この頃なのであった。
まあ、独善オンリーには走るまい。個人的にはどんな物でも、「読んでいただくため」の物であり、そのための「ええかっこしい」だ。「どう思われても結構」と居直る度胸は自分にはないし、「読ませてあげる」というほどの無謀さもない。文『芸』というくらいで、観客より偉い芸人はいない。『何を』『どのように』『伝えるか』、その三点セットで芸だと思うし。まあ、観客を選ぶタイプではあるけれど。


9月16日 金  
連鎖

大阪拘置所で16日午前、死刑囚1人に刑が執行された。死刑執行は、昨年9月に大阪教育大付属池田小(大阪府池田市)の児童殺傷事件で死刑が確定していた宅間守死刑囚ら2人に対するもの以来で、南野法相のもとでは初めて。法務省は同日、死刑執行の事実と人数だけを発表した。関係者によると、執行されたのは、高知、千葉両県で計2人の女性を殺害した北川晋死刑囚(58)。北川死刑囚は元神奈川県警巡査。1983年8月、千葉市内のバス停でスーパーの女性店員(当時18歳)を「自宅に送る」と言って車に乗せ、乱暴したうえ絞殺。現金などを奪い、遺体を千葉県四街道市内の水田に捨てた。また84年に起こした別の婦女暴行致傷事件で服役し、仮釈放された約3か月半後の89年2月、高知市内のバス停で女性銀行員(同24歳)を道案内を頼んで車に誘い、乱暴したうえで絞殺、現金などを奪った。2000年2月に最高裁で北川死刑囚の上告を棄却する判決を受け、強盗殺人罪などで死刑が確定していた。(読売新聞)9月16日13時17分更新。

自分の知人にも、死刑廃止論者が多い。最も親しい友人も、廃止論者である。それは『目には目を』的憎悪の連鎖では何も解決しない、そんな人道的な極めて好ましい意見である。しかし自分自身は、偏狭な死刑賛成論者である。自分には快楽殺人者より、殺された無辜の市民のほうが大事だ。しかし、犯され殺された被害者が果たしてそれを望むか、という意見もある。所詮国家による報復代理に過ぎない、と。しかし自分には、やはり人間という種の中に自らを律する『箍』を己個人ではめられない類の鬼畜が多数存在する以上、社会的な『抑止力』『見せしめ』は、必要であると思う。言い換えれば、自分は未来の快楽殺人者と未来の被害者を、可能な限り減らしたい。
狭い己に支配された精神という物は、マスに浸透した段階で、極めて危険な物である。たとえば、次のようなニュースがある。
1977年11月に北朝鮮に拉致された横田めぐみさんが、翌78年に曽我ひとみさん(46)と初めて会った日の夜、「家の近くの曲がり角で男の人に捕まえられた」「すぐそばの空き地に連れて行かれた」と拉致の瞬間を語っていたことが15日、分かった。めぐみさんは、新潟市内の自宅近くの丁字路で足取りが途絶えてから、目撃証言がなく、拉致の状況は全く分かっていなかった。その一端が明らかになるのは初めてで、警察当局は、周辺の空き地に引きずり込まれ、船で連れ去られた疑いが強いとみている。曽我さんは、19歳だった78年8月12日、新潟・佐渡で母親のミヨシさん(当時46歳)とともに拉致され、数日後、平壌郊外の「招待所」と呼ばれる施設で、9か月前に拉致されていためぐみさん(当時13歳)と引きあわされ、共同生活を始めた。関係者によると、2人は対面初日、招待所が用意したジュースや食事を取るうちに、うち解けた会話ができる仲になった。拉致が話題になったのは、その夜、めぐみさんが、足を引きずっていた曽我さんに、「どうしたの」と問いかけたことがきっかけ。曽我さんは、その言葉の優しさに、自分が拉致されたことを打ち明けると、めぐみさんは「私もバドミントン部の練習の帰りに、家の近くの曲がり角で男の人に捕まえられた」「すぐそばの空き地に連れて行かれた」と語り始めた。この時、めぐみさんは実行犯の人数などには触れなかったが、2人は「本当に怖かったね」「すごく恐ろしかった」とささやき合って眠りについたという。(読売新聞)9月16日10時20分更新。
妄想快楽犯に支配された国家では、国家規模で個人の人生すら左右する。やはり現世から来世に早めに送るべき人間は、確実に存在するのだ。それを民意で制御する権利を失いたくはない。そのために自分が『犯罪者を報復のために殺す犯罪者』の仲間であるとなじられても、これから無辜の市民やろりが辱められるよりは、ずっとましだ。怨念の連鎖は何も生まないと諭されても、未来に生じるかもしれない別の怨念の連鎖を阻止する効用は、確実にあると思うからだ。無期懲役など、『箍』を失った人間には餌にしかならない。まあ、死刑になっても殺したいという人間は未来永劫いなくならないだろうが、殺されてまで殺したくはないという人間もまた、未来永劫いなくならないだろうから。
などと小難しい事を述べつつ、無責任に再放送『必殺』を楽しむ。これだって仮想抑止力である。撮影監督出身の石原興監督、作劇は時々破綻するが、とにかく映像処理が美味なので気にならない。単に絵柄が美しいとかでなく、キャラの心理も映像に出せるので、多少の脚本の「ありゃりゃ」も心理的に流れてしまうのだ。花沢徳栄さんの人情盗賊演技に惚れ惚れ涙。青木義朗さんの悪役も、押さえが効いてぞくぞく。こうした中年・老年の名脇役は、若手同様昨今テレビや映画では払底しており、寂しい限りである。石原監督が最近はビデオのヤクザ物しか撮らないのも、浅薄なタレント顔など撮りたくないからなのではないか、そんな気もする。


9月15日 木  
奇っ怪

小説以外ほぼ半年放置しっぱなしだった他のページに、ふと気が向いて昔のカットをアップしようとしたら――ありゃりゃ、『縁側』内のデータが、きれいさっぱりYahooから消えている。謎。
HDのデータをまたアップするだけだから、30分もあれば元に戻るのだが、なぜ? どうして?
まあどなたかの恣意によるものではなく、ブログなど激重なだけでなくきれいさっぱり更新データすっとばしてくれたりするYahooのことなので、なんか疲れていたのだろう。この前のあっちの画像化けも、そんな感じだったのかも知れない。
まあこちらもバテバテでいいかげん被害妄想が起こりがちだから、どなたか個人的に悪戯なさっているのかしら、などとも思ったりするわけだが、もしそうでしたら、どうぞお好きなだけ。でも、くれぐれもセコくて姑息な悪戯だけにして、お外に出て包丁振り回したりしないでくださいね。鴨居で首を吊ったりすると、きっと気分が軽くなりますよ。
2日続けて水戸黄門調だった再放送必殺シリーズ、今日はのっけからモノが違うと興奮し、リアルタイムで身を乗り出して観る。ああ、えがった、と吐息しつつ監督を確認すると、工藤栄一さん。さすがである。とにかく実力派の演出は、最初の2分でもう別物なのが解る。カットやセリフ回しに、隙がない。エキストラのひとりひとりまで監督の世界の統制下にある。予定調和の説明科白も、わくわく演出でカバーしてくれる。なおかつ静的な情緒的「間」の部分もしっかり盛り上げてくれる。いや、松野宏軌監督が無能というわけではなく、やはりお茶の間時代劇の定番演出は、風合いが必殺向きではないということで。
工藤栄一監督というと思い出すのは、ずいぶん昔、長渕剛の主演映画を喧嘩して降ろされた一件である。長渕などというのは、今現在は硬派で営業しているが典型的軟派フォーク崩れの「わかんべ? わかってくれんべ?」式なので、映画を作るのは監督だということすら理解できず、結局自分で自意識全開の無意味な映画を監督――などと気ままに打っていたら、フォーク崩れの神の怒りか、母より電話が入る。今回は私は結婚もしていなければ女にだまされて破産してもいないらしく、いつもの「金がなくなった」を30分。母親はもはや自分で使う能力も気力もないのだが、とにかく無一文にしたら大騒ぎを始めるので、常に3万前後は訪問時に確認している。それを自分でどこかに隠してしまい、「無くなった。盗まれたのだろうか」と、ときおり電話をよこす。絶対ここに置いておくように、などと何度言っても、ちょっと目を離すと、絨毯の下やら蒲団の間やら複数のバッグやら仏壇の中やら遺影の後ろやら、とにかくあっという間に隠す。隠すと安心して忘れてしまう。野生のリスと同じである。そして「金がない」と騒ぎ出す。これもまたアルツの典型的症状で、コンディションが悪いと「誰それに盗まれた」と妄想に走る。それを施設の誰かに言ってしまえば、もう次の施設に進むしかない。これまではいつの間にかまた自分で探し出して済んでいたのだが――そろそろ危ないのかもしれない。今回は電話中バッグになんぼか見つかったようだが。
まあ自分の非を他人に転嫁しないと気のすまない人間など、正気のはずの社会にもごろごろしている。それをいちいち糾弾するほど自分もウブではない。しかし、それが我が母親だと、つくづく気が滅入る。自分も愚痴ばかりで確実に老化しているとはいえ、自分の非くらいは自分を責めて済ませたいものである。


9月14日 水  
バテ

夏〜うは〜来〜ぬ〜♪ などと歌いながら、珍しく朝起きると日暮れまで猛暑続く。九月中旬に至って「今年はきっと歳末まで夏」などと覚悟するのも、毎年恒例になりつつある。これも温暖化か。
午後、なんだか脳味噌が嘔吐を訴え、「あれ? 通常嘔吐を訴えるのは胃袋ではなかったか」と思いつつ、二時間ほど必殺シリーズの再放送や鑑定団の録画を観ながらでろんとたれてしまう。必殺はこんな時に限って、楽しむのにもベスト・コンディションが必要な消化試合脚本・監督の回であり、正直「これは必殺じゃなく水戸黄門だわなあ」とさらにバテる。ベルさんも立ってない。『鑑定団』の日本画・掛け軸は無事クリア。しばらくすると腹が下り、トイレに何度か通ったら、あっさり復活。やはり腹がおかしかったのである。しかし今回、最初に嘔吐を感じたのはやはり脳味噌だったのであって、そのうち「おえ」などと脳味噌を吐いてしまいそうでちょっとどきどき。歳か。
直近で腹に入れたのは、昨夜なんかいろいろの出先のサイゼリヤで食ったムール貝とチキン(あの無臭ニンニクがいっぱい乗っている奴)、少量のビールだけである。繁忙時だったせいかムール貝がいつになく生暖かく鉄板もじゅーじゅー言わず、ちょっとナマっぽい感じがしたのだが、まあその程度の当たりはずれはいつものことなので、やはり腹が弱っていたのだろう。ゆったり座ってそれらしい洋食とジョッキが楽しめ2000円でお釣りがくる空間に、文句を言う気はない。ありゃ、バテるとなんだか弱気。
しかし公租公課はしっかり取られてるいるのだから、世間にはまだまだ愚痴るぞ。


9月12日 月  
うああああ

……やっぱり、自分が当選させたい方には、絶対投票してはいけなかったのだ。
雛っこの口の上手い自民坊やをわざわざ新しく選んでしまうようなこの選挙区、もはやなんの未練もない。もうこの国自体になんの未練もなくしてしまいたい気分だが、他国に移住する金もないので、歯噛みしながらでも住み続けるしかない。やはり和ろりがかわいいのだし。
しかし今回自民に投票した皆様、今後の郵政民営化のみならずすべての小泉・自民関係において、今後あなたがたが何を後悔し何を言い訳しても、わたしゃ一切認めませんからね。まああなたがたの選挙区にどうしてもそれ以外の選択肢がなかったのかもしれませんが、投票した以上、現時点ではその党を認めたのだ、そーゆーことで。
自分はけっして朝日新聞好きではないのだが、今回に関しては本日の天声人語に100パーセント肯いておこう。結局、この国は『声のでかい目立つ人』を、あがめてしまう国なのだ。
ここに断言させていただきますが、この国にはこれからも当分なんかいろいろ続々と『箍』のはずれた連中が増殖し、恥より見栄の優先する国、知性より胴間声の尊ばれる国にシフトして行くでしょう。まあ今のところカトリーナ級のハリケーンが上陸しても、彼の国ほどの有様にはならないでしょうが、20年後どうなっているか、保証の限りではありません。
私はもう『ろり』だけを見て死んでいきたい。
いっそ公明党や共産党に入党してしまいたい。
しかし――やっぱり現実あってこその、仮想世界なのである。生きながら逝くつもりはない。
明日に備えて、さあ、寝よう。朝刊も届いたし(おい)。

さて、目覚めて夕飯食いながら、壇ノ浦の戦いも終えた『義経』をチェックすると――このところ激動の合戦続きで盛り上がっていたせいか気にならなかった演出の浅さが、またいっきに露呈してしまうのであった。義経が生き残った宗盛たちと再会、そこまでは良かったのである。直後、いきなり、これ見よがしに髪を乱したまんまの建礼門院ら女性軍のアップで、思わず「はらほろひれはれ」とこけましたよ、私は。やはり、演出家が学芸会している。あのさあ、長屋のオバさんが旦那に愚痴こぼす訳じゃないんだから、天下の平家の最上級女性軍が、髪の毛ぼさぼさはないだろう。海から引き上げられたまんままならともかく、男衆はもうきちんとしてたんだし、女性軍だって衣類はなんとか整えているのである。これは演出家が「憔悴感」「恨み言の感じ」を狙ってやったに違いない。あのさあ、中学校の学芸会じゃないんだから、演出担当学級委員優等生厨房のざーとらしくて視野の狭い「どうだ俺って頭いいだろう。こんなに心理的ビジュアル演出もできるのよ」的意識は捨ててほしいのである。そこにいるのはあなたの狭くて浅い生活感を語るための駒ではない。誇り高き平家の女房方であらせられるぞ! ――などと思ったとたん、合戦中の義経も、相変わらず上半期の造形不足を引きずったまんま、ただ周囲のドラマが盛り上がっていただけなのにも思い当たる。後半、だいじょぶか? 安宅の関、しっかり越えられるか? せめてエンタメ方向だけでも、しっかり固めてください。
しかし今だから書いてしまうが、現在封印中の死美人伝奇、企画当初はあの地底の里に、二位の尼や安徳天皇の痕跡、草薙の剣などまで引っ張り出すつもりだったのである。ごく少数の方にしか通じない話題ですみません。あの地底の里がなぜ皇道派や統制派の軍人連中にとって両刃の剣であったか――それは、そこに安徳天皇の血が加わり、その血は志乃さん一族に繋がり、あまつさえ草薙の剣まで継承されており――そんなトンデモで、しかしそうなるといつまでも話が終わらないし、なにより綾さんの語り形式では処理しきれないので、打鍵開始時にはばっさりカット。
しかし、義経北行伝説やジンギスカン説までぶっ続けて娯楽伝奇小説書いてくれるお若い方など、現れないものだろうか。ずっぷし浪漫だと思われるのだが。


9月11日 日  
妄想と現実

昨夜、HPの表に念願の旧作仮想書籍化コーナーをアップ。こちらをご覧の方々には、読んでくださいとは言わないがちょっとひととおりクリックして、本当にWeb上できちんと見えるかどうか、確認だけでもしていただけると感謝です。もしすんなり閲覧できなかったりしたら、できればご一報下さい。なにしろ各ファイルを作っている間にも、パソ直だとうちのXPデスク・トップでもmeノートでも読めるのに、アップロードして開こうとするとある種のフォントがすっぽぬけ、そんな試行錯誤の繰り返しだったので。
ところでやはり母親は、ちょっと進行してしまったようだ。一昨日の夜、姉に電話してきて、「ケアハウスの職員YさんとH(私のこと)が結婚する事になったといっしょに部屋に訪ねてきたが、夢だったのだろうか」などと訊ねたとのこと。また昨夜は一転、「Hが悪い女に引っかかって何千万も借金してしまったような記憶があるのだが、本当だったろうか」などと訊いてきたらしい。
まあ、どちらも自分の妄想を記憶と混同したわけだが、まだ「これは本当の記憶ではないのではないか?」と逡巡するだけの理性が残っているので、医者も様子見なのだろう。これが妄想即記憶(入居前はその寸前で、入居後いくぶん安定していたのである)となったら、環境も次の段階に行かざるをえない。
しかし、認知症の記憶という奴は不思議だ。現実を何一つ記憶できないと言うのに、なぜ妄想は逐一記憶できるのか。ああ、そうか。それは記憶ではなく、元から頭の中にある願望や不安なのか。いや、それにしても現実を片端から忘れてしまうのに、願望や不安は忘れないというのも不合理。いずれにせよ、妄想の主役が神様から息子にチェンジしたのは、先週自分が泊まりに行って、長時間会ってしまったからなのだろう。難しいものである。
それにしても、結婚の妄想を聴いた時には、大笑いしながらも、ちょっとびっくり。今年前半を費やした長編でモデルっぽく使ってしまったお嬢さんであり、作中の『僕』とは、なんかいい感じで締めくくったのである。読まれた? いや、小説ではなくて、息子の願望を。しかし昨夜の借金妄想は、笑うに笑えない。母親は息子が定職を離れた事実を知らない。今の自分には何千万どころか何百万の借金も、作りようがないのである。国保しかないフリーターのこと、サラ金で50万貸してくれるかどうかすら怪しいだろう。離職前に作ったカード類は当然使えるが、それにしたって口座が尽きたらそれっきりである。いやもう何千万も貸してくれる奇特なところがあったら、すぐにでも限度まで借りて東南アジアあたりにフケたいところである。で、酒池肉林の果てに死体で発見されます。事前にそれなりの生命保険に入っていれば、貸し方や身内に迷惑もかからないのでは。まあ一種の保険詐欺にはなるのだろうが、実際死ねば文句はあるまい。あ、その前に自費出版しまくりなんてのも、いいかも。――いかん。母親どころでなく、当人も怪しくなってきた。そのうち枯れ葉を持ってマジ西友で買い物しようとするとか。
さて、冗談はさておき投票に出かけようとすると、突然雷鳴轟き豪雨襲来。やはり自分が投票した方の落選する前触れではないかと、いささか躊躇。


9月10日 土  
気合い薄の一票

明日の総選挙でも、結局マイナス型投票(?)することになりそうだ。
我が区では、私的に絶望しつつある自民党からは幸い落ちそうな人しか立候補していないのだが、すでに議員経験者である民主党の方も、正直言って表看板の惹句が小市民的過ぎるように思われる。残る共産党は――まあもはや共産主義を直接標榜してはいないにしろ、未だ党名に掲げているくらいだから、やはり根本的には哲学と言うより徒な性善説に基づいた宗教に近い社会理論を表看板にしているわけである。質こそ違え、幻影を崇めているという点では公明と変わりがない。結局、今回は無難に市井レベルを表看板にする元気そうな方に――でも、大丈夫か。以前にも書いたように、自分の投票する立候補者の方は、たいがい落ちるのである。今回はまあ当確に近い方だから大丈夫だとは思うが……不安。
PDFにこだわっていたHPの小説縦書き表示、現在はフラッシュ・ペーパーという奴も有望らしいと知り、さっそく試用。アドビのリーダーも大概のOSプリ・インストール機には載っているはずだが、フラッシュは大概のブラウザにデフォルトで入っているはずだ。古いOSでも、ブラウザの一部として開くはずである。まあ最初に買ったウィンドウズ95では、どっちも別あつらえだったが。
などと旧作・発表済みの代物の見場にこだわってばかりのような気もするが、元来、活字縦書ルビ付き嗜好が主なのだから、自分的には正しい方向なのである。


9月8日 木  
旅行記

6時就寝12時起床。
やはりまた昼夜逆転である。まあ、人間の生理的な一日は約25時間だそうだから、けして不自然な生活をしている訳ではない。うん、そうだよそうだよ。昼夜周回、とってもナチュラル。……そうか?
なんかいろいろの合間に、たかちゃんシリーズの合本を、PDFで作成中。もともと投稿板専用のリアルタイムな暴走ギャグ満載だったので、まともに統一しようとすると、カットやら修正やら、なかなか難儀。趣向の一部もあっさりカット。しかしそうして並べて見ると、自分の本質などというものは細かい表装に関わらずいつもおんなじなんだなあ、とつくづく溜息。しかし推敲しながらやっぱり意味なしギャグで大笑いできたりするし、シビアに考えたところはまあなんとか筋を通している。うんうん。
外の日差しはまだ猛暑のそれである。とびきりそばを啜りながら、山形の行きつけの古本屋で唯一ボロボロのまま残っていた馬見ヶ崎川に近い店で仕入れた、昭和44年のヨーロッパ旅行記を読む。つまらない。京都の自称詩人さんの著した物で、当人がどなたかに差し上げた謹呈の直筆サインまであるのだが、やはりこの内容だと、売られてしまうだろう。本文でガイドブック批判などしておきながら、もののみごとに自分という主体を殺している。当時これだけ派手に外遊するくらいだから、家にはもともと金が余っていたはずだ。本文中に頻出する自作の詩やスケッチはいずれもあんまり上手くなく、それで食えるはずもない。ならば、そんな自分の背景をしっかり旅のバック・ボーンとして現さなければ。当人は『個人的な気ままな旅の記録』と謳っているが、自分を隠して『個人的』な文章や詩が成立する訳もない。結句、誰とも知れぬ遊び人が見たらしいヨーロッパの表層が、独善的にもっともらしい言葉で羅列されているだけである。いや、独善的でいいのである。その独善の主体がしっかり読み取れれば、それは立派な作品だ。この方は、失礼ながら、自分の経済的豊かさを文化として還元する覚悟がない。というか、意図的に隠そうとしている。
旅行記でもなく、資料にもならず、ガイドブックでもない――まあネットに溢れる意味不明の個人旅行HPと同様だが、これを出版して他人様に謹呈できるという環境には、垂涎。口直しに、北杜夫さんや椎名誠さんの旅行記を持ち出して、お気に入りの部分を再読。


9月7日 水  
ぶつぶつぶつ

まあ故郷の廃家が残っておりしみじみ叙情歌を歌って幼時を偲ぶなどという贅沢は、当節の日本の爺いになかなか許されるべくもないのだが、故郷から帰って頭に浮かぶのは、ほんとにあんなだだっ広い道路や真新しいゴースト・タウン(?)的景観が、現在の故郷に必要なのであろうか、そんな感慨である。
いや、駅裏やそれに続く我が家あたりがつぶされたのは、やむをえないだろう。確かに戦後練兵場跡にごみごみと広がった、三丁目の夕日的な町だった。しかし、ろくに車も通らない広い道をバイパスに向けてやたら繋げてしまうのは、今時ちょっと税金の無駄遣いなのではないか。大体、散歩していて道を間違えてしまうではないか。さらに、駅周囲徒歩30分圏内で生活万端整うという、地方都市ならではの体や地球に優しい環境が、『自家用車がないとまともに生活できない』環境に退化しつつあるのではないか。それは絶対、これからの県庁所在地においては進化ではないと思うぞ。昔通った汚い古本屋は、軒なみ消えているし。ぶつぶつぶつ。
なーんて爺いがぼやいているのはやはり最後の理由が大半なのであって、せっかくの地方都市にごみごみ得体の知れない古雑誌や、ただ古いだけの書籍が雑多に並んでいる空間がなくなってしまうと、どうも居心地が悪いのである。種々の全国チェーン店などは下手をすると都会周辺のベッドタウンなどよりも完璧に揃っており、実は駅周囲徒歩30分圏内で生活万端整うし、狭い盆地ゆえ一時間も歩けばバイパス沿いのでかいSCにだって行けてしまう。ただそうなると、『カルト』な文化の居所が、どんどん失われてしまうのである。たとえば、我が愛する古典的怪奇猟奇の世界や世俗風俗の世界、あのあたりがマス・メディアによって小綺麗に選別されたものしか出回らなくなってしまう。
東京なら神保町を彷徨えばまだまだ大丈夫の世界かもしれないが、自分が中学高校の時代は、地方都市でもちっこい汚い古本屋の奥に、まだまだその世界は息づいていた。新古本チェーンだけでは、やはり選別済みの過去しか体感できない。そうしたガス抜き的部分があってこそ表の文化も花開くのであって、今更城跡に真新しい城など建ててもなあ。ぶつぶつぶつ。


9月5日 月  


やはりアルツという奴は進行を完全に抑えるのは不可能らしい。
ケアハウスの女性職員さんから、母親が一週間ほど前朝食に下りてこないので起こしに行ったら、「神様が今日は外に出ない方がいいと言っているので」などと言い訳をしたという話を聞く。それが翌々日にもあったので、訪問看護婦さんが臨時に医者に連れて行ってくれたとのこと。しかし今までは幻聴・幻覚など一度も訴えたことはないし、医師の前でも自分がそんなことを言ったという事実自体忘れているので、とりあえず様子見ということに落ち着いたらしい。つまり、ケアハウスの方々は「神様」が出てくると、その命令に従って自傷他傷に走ったりする恐れがあるのではないかと心配してくれた訳だが、自分の推理としては、単に目覚ましを忘れて寝過ごした、よって半分寝ぼけたまんま「この失策は誰かのせいにしなければ」といういつもの痴呆論理によって、とっさに神様におでましいただいたのではないかと思われる。医師もなんら重大視しなかったところを見ると、そう珍しい症状でもないのだろう。自分が起居を共にしている間は、いつも通りの『壊れたレコード・プレーヤー』状態である。そして自分の体と他人との関わりに関しては、相変わらず何よりも不調を恐れている。
「神」を己の非力の「言い訳」とするのは、正気な人間にも良くある行為である。悲しいが、「言い訳」である内は、まだいい。「身勝手な鬱憤晴らし」の正当化に使うようになると、拘束衣が必要だろうが。とりあえず医師に従って、様子見。姉が主婦ゆえ早起きなので、当分神奈川からモーニング・コールを入れてもらうことになる。
今回の帰省は、奇跡的に雨の合間を縫って傘なしで終える。台風が近いと言うので海は諦めたが、山寺も山形市内も、薄晴れの猛暑の中、汗だくで歩き回る。もっとも、昨年は奥の院まで死ぬ気で昇った山寺の階段は、ついに途中でへばり挫折。ああ、こうして仏様にも見放されて行くのか。でも、天童の『水車蕎麦』も山形の『染太』の鰻も美味だったので、良しとしよう。

    

今回のたかちゃん物件では意図的に軽く流した「仏」「輪廻」の概念、やっぱり読者の皆様には読み取ってもらえなかったようなので、補填しようと思う。自分はけして「唯一神」を信じるテロリストを、かつてたかちゃんたちが滅ぼした変態鬼畜野郎どもと同様に突き放したかったのではなく、テロリストの少年も妹もまた法身仏の一部だと言いたかったのである。でもやはり、自分の「狭さ」が、突き放してしまった感は否めない。
ちなみに写真は山寺と、山形市内のどこかのお寺。


9月1日 木  
こんにちは赤ちゃん(ゴキの)

近頃、胡麻つぶのようなゴキを毎日見かける。台所でも食卓近辺でもなく、パソと蒲団の部屋、つまりなんの食料もない六畳間でばかり。まさかどこか物陰で卵でも孵化したのだろうか。タワー型パソコンの筐体を開けるとそこはゴキの巣であった、などといういにしえの恐怖実話を思い出す。なにはともあれ手元にコックローチS。
たかちゃん短編、完結。板に上げる。そろそろこのページの表のほうも更新しなければ。
と思いつつ明日より、富士の樹海に旅立ち――してもいいのだがするわけにもいかず、ちょっと母親の様子を見に郷里へ。帰りにまた山寺にでも寄ってみようか。いや、海がみたいと脳内でたかちゃんたちが騒いでいる。宮城に回って松島でも観てくるか。


8月31日 水  
やんきー

いつのまにやら8月も終わり。ほんとうに近頃時の流れが速い。いったい誰にことわってこんなに速く流れているのだ。少々身勝手なのではないか。
セントジョーンズワートの安いのを売っている遠くのダイエーの薬局まで、自転車で出張る。運動不足解消のためなるべく徒歩で行動しようと思うのだが、やはり暑い。その暑い中をきこきこと進軍したのに、安いのは品切れ。いったい誰にことわって売り切れなのだ。少々身勝手なのではないか。
……すみません。身勝手なのは私です。
とまあぐったりと反省しつつ金もないのにウェンディーズで外食していると、やんきーにーちゃんのしまりのない胴間声が響く。夏休みも終わりなんだから大人しく家で宿題でもやってろよと思いつつ声のほうをちょっと見てみると、なんと家族であった。元(まさか現役ではないでしょうね)やんきー夫婦とその息子なのである。息子はもう小学生くらいだろうか。両親はかつてコンビニの前でうんこ座りしていた時と同様の猿語で会話を交わしているのだが、救われることに、その息子はちゃんと通常の日本語を話している。子供としては立派すぎるくらい、イントネーションも明瞭。きっと幼稚園や学校で、「世間の言葉というものはちょっとおとーちゃんやおかーちゃんとは違う言葉であって、どうもそっちのほうが正統派らしい」と学習したのだろう。テレビなどもきちんと意識的取捨選択ができているに違いない。
勘の良い子供は、ほんとうにありがたい。たとえちっこくても、自力で世界を外に広げて行く。これが盲目的に当座の楽をしたがるだけの子供ばかりだったら、この日本はとうに完全崩壊している。
ああ、少年よ、その美しい感受性を忘れないでおくれ。君がそんなふうに育っているところを見ると、おとーちゃんもおかーちゃんもただちょっとアレがナニなだけで、きっと根は優しいやんきーさんだったのだろう。


8月30日 火  
あの頃君は若かったII

             

            
憧憬と現実(公共の双生児と六畳一間の愛人)。


8月29日 月  
ありゃりゃ

朝刊の『天声人語』を読んで、こりはびっくり。公職選挙法によって、選挙の公示後は立候補者のHP更新やメルマガ配付は、一切禁じられるそうである。しつこいようだが、ほんとにびっくり。「お年寄りの支持者が多い党に不利」「中傷に悪用されないか」などという意見が自民党中心に多いのだそうだ。――まあ、オレの使えん新奇なものにはとりあえず反撥、という昔ながらの年寄り論理である。だめだこりゃ。すでにそれが新奇でもない現実社会であると、認めるだけの判断力がないのだ。どうりで信じ難い盲目的な退行願望が、エラい方々から大手を振って公にされる訳である。そんなもんも把握する気のない人間に、社会の先など任せてたまるものか。
などといいつつ、買った奴からフリーから試用版まで、あっちこっちのPDF作成ソフトを悪戯してパソ上での再現具合を試していると、同じ設定のはずなのにレイアウトが崩れたり、埋め込みフォントが古パソでは読めたり読めなかったりする。それどころか、同じソフトで同条件でPDF化したはずなのに、生成されたファイルの容量が微妙に変わったりする。なぜ? どうして? と首を傾げつつ、なんだか悔しいのであっちこっち突っつき回す古狸であった。まあ、CGで化けてしまう若狸を横目に見つつ古来の葉っぱ頭乗せ方式でアナログ変身にこだわる身であればこそ、そのCGがアナログ同等の質感にならんもんかなあ、と、模索だってしてみたいのであった。
ところで文部科学省がニート対策に7億4千万の予算を組むというのもなんだかなあ。それは初等教育や中等教育段階で問題にすべきであって、今更対策費組むくらいなら、「すみませんここんとこ教育政策間違えてました」と納税者に頭を下げてからにしてほしい。


8月28日 日  
かなぶん

前夜は11時に就寝し、今朝7時起床。おお、世間なみの生活に戻ったか。まあ徐々にまたズレて行き、さらに一巡して元に戻るだけなのだろうが。
敷きっぱなしの蒲団に午後なにか黒く蠢く影を発見、すわゴキかと硬直するも、一匹のカナブン。こんな部屋で食料調達できるのはゴキくらいのもんだぞと、言い含めて窓に放す。夕方、ふと気づくとまた同じあたりに、同じカナブンが止まっている。また窓に放す。さらに夜にも、いつのまにか戻って来ている。なにかこの蒲団のその部分に愛着でもあるのか。しかし同衾するほど可愛くもないし、色っぽくもない。みたび窓に放して、窓を閉める。上井草や群馬にいた時のように、猫でも飛び込んでこないか。
本日は一日たかちゃんたちと戯れ、区切りのいいところで板に上げる。かわいい。


8月26日 金  
だからどうしたの

本日もネット上でニュースを見ていると、写真入りで『
宮城県登米市の警官刺傷事件で、逮捕された中学3年の少年(14)が通う市立中学校は26日、2学期の始業式を迎えた。写真は始業式のため体育館に移動する生徒ら(一部人物顔部分に画像処理をしています)(時事通信社)14時46分更新』やら、『愛知県岡崎市で2002年6月、中部大2年下村麻由美さん=当時(19)=が刺殺された事件で、名古屋テレビの情報番組「UP!」が25日夕、事件当時17歳だった容疑者の男(20)の氏名を判読可能な状態で放送した。同社によると、同番組で、男の氏名が書かれた中学校の卒業文集を49秒間放映したが、うち3回にわたる計5秒間、実名が判読可能だった。(時事通信)8月26日0時0分更新』やら、それがいったいなんなの、という意味不明のあるいは報道意図不明の情報が垂れ流されている。ふと思い当たって検索してみたら、自分が「だからその報道には報道としての条件が欠落している」「おまいらいったい何考えてそんな話流してんの」とツッコみたくなるものは、時事通信社とやらの仕事が多いようだ。なにか「どうでもいいことを流す」「真意を汲み取られないように物事を要約する」、そんなポリシーなのだろうか。
台風一過でキンキンの夏空復活かと思いきや、白濁した青空とねばりつく温気。脳味噌の黴をちまちまとむしりつつ、なぜか「……猫ちゃん」などと呟いている自分に気づくが、ここはペット禁止である。ああ、猫が欲しい。


8月25日 木  
脱帽

昨夜よりたかちゃんたちがようやくはなびをはじめる。前半が終わったところで板に乗せるも、オチまでおおよそ考えたはずなのに、もう種々の懊悩が湧き上がってなんかいろいろ迷う。あの少年はどうしても報われないのか――しかし、片桐貴子というろりとその仲間がこの国で幸せでいることは、絶対にあの少年やその妹の死と、生命として等価であるはずだ。どちらにも原罪などない。宿命があるだけだ。現実はどうあれ自分の物語の中だけでは、その宿命に貴賤を生じさせたくない。やはりあの少年は――ぶつぶつと独り言。
例の朗読テープを聞いて、あらためて三浦哲郎さんのあまりの巧さに七転八倒する。あの人の後期の短編は、紛れもない宝石である。派手なストーリーの引きなどなにもなく、キャッチーな美意識やこれ見よがしの鋭利な知性もない。ただ文章と話の流れがタイトル・ロールの原石を核に、誰の手にも追加加工不能なまでカットされ磨き上げられている。活字として読んでも無論それは感じるが、語りの速度でじっくり摂取すると、もはやエンディングでマジに風呂の中でもだえ狂うほど美味い。初期の青年的な諸作も美しいが、それはやはり青年期の過剰さと気負いを含んだ心地よさで、自分のような馬鹿はついつい「ここはこうだったらもっと俺好み」などと神をも恐れぬ感想を抱いてしまう部分もある。しかし『じねんじょ』『とんかつ』クラスになると、もはや己の指で触れるのも畏れ多い。
そのあたりの作品は当然のことながら現在高校教科書などにも載っていると聞く。ということは、創作など志すお若い方も、みんな読んでいるはずだ。幸せな時代である。漠然と情緒的な授業など展開しないよう、現場の先生たちにお願いしたい。


8月24日 水  
生きている

先日の『鑑定団』で、ついに絵画関係の連勝記録が断たれた――のかな。
あの三猿の掛け軸を大家の真筆と思ったわけではない。ただし、無名の絵師の贋作であれ、あのお猿さんたちは自分の目にきちんと生きていた。ほよほよとした質感や、それぞれの悪戯っぽい表情など結構な筆致であり、持ち主の老人をもさすがに魯山人のお弟子さんだなあ、と思って見ていた。たった10万で買っちゃったと恥ずかしそうに言うところなども、初めから偽物だと判っていたのだろう。洒落なのである。要はその無名のお猿さんたちの絵を、世間に広く見せてあげたかったのである。しかし鑑定士の女性は、真筆ではないと言うだけでなく、けんもほろろに「筆致が弱い。素人の仕事である」とのたまう。
ここで、絵画に限らず表現物すべての鑑賞に関わる、受け取る側の「好み」「感受性」が問題になる。
自分にはその淡くそっけない体の描写からもほわほわと思わず触りたくなるような柔らかさを感じたし、そこにちょいちょいと線で描かれた簡略な顔や仕草にも、おうこいつはコノヤロ、こいつはオチャメ、といった実在感を確かに感じた。そこいらのデフォルメが、残念ながらその画商の女性には稚拙に映ったらしい。
しかしこれまでは、贋作や無名作家の作品でも、自分が「でもこれは生きてる」と思えば、鑑定士の方々も作品自体の力はひとことフォローしてくれた。今回のようにバッサリ切られたのは初めてである。しかし正直言って……失礼ながらあの女性鑑定士の方、なんかあったんじゃなかろうか。あの方の画廊で買い物をするのは、宝くじが当たって(買わないから当たりっこないのだが)大金持ちになっても、ご遠慮したい。あなたほんとに死んでると思いますか、あの三猿さん。私にはたとえ大家の真筆でなくとも、生きておりましたが。


8月23日 火  
システム

アマゾンより、今になってやはり橘外男のアンソロジーは品切れとのメール。どうしたシステムによって動いているのかは知らず、古書でもないのに「もうない」という事実を知るのにひと月以上かかるというのもなかなか人間的。無論アマゾンの欠陥ではなく各種販社や出版元のシステムや問い合わせをたらい回しの末に「どこにもない」のだろうが、それらの連携は端末であるアマゾンがいかに高度にシステム化されようと、結句人間の手でひと月かかって行われるのである。不便というより、なんだか安心。
しかしそうなると、あの死美人の掌の皮べろりシークェンスがオマージュ・レベルか盗作レベルか、自分で打っておきながらますます不安。もはや脳内が老朽化しているので、特に子供時代の記憶は、他人の言葉を自分の想念としてまんま刷り込んでいたりもするし、逆に自分のイマージュを勝手に他人の作品の記憶として信じていたりもする。これはどうしても古書を探さねばなるまい。
出先の帰途神保町に出張るも、掌の皮べろりは発掘できず。代わりに三浦哲郎さんの短編の朗読テープなど発見。「じねんじょ」と「とんかつ」が収録されている。残念ながら読み手は女性のようだが、三人称でも視点は芸者さんや旅館の女主人だからまあいいかと、購入。500円なら上出来。
帰途バケツひっくりかえし型にわか雨にみまわれ、全身濡れそぼる。裸で濡れたって風邪などひく陽気ではないから無問題。屋根のあるところにたどり着いたとたんに小降りになるところなど、わが人生の降雨システムはきっちり生きている。


8月22日 月  
総体の始原

いわゆる芸能人さんの私生活ゴシップ系にはほとんど反応しないのだけれど(そもそもその芸能人さんとやらの名前を知らない場合が最近は大多数)、杉田かおるさんの離婚騒動は、ほんとうに悲しい。断言してもいいが、あの方はどう見ても聞いても、精神科医あるいはカウンセラーが必要なほどストレスの山にすでに押し潰されている。更年期障害も甚だしい。マスコミや野次馬には「無責任に面白がる」ことしか期待されない立場ゆえ、心配。誰か周囲に正気なスタッフや肉親などはいないのだろうか。
あの方はただの「なんかいろいろ騒がしい言いたい放題のおばはん」ではない。あの『チー坊』だった方ではないか。言っちゃあなんだが、当時どれだけのろり・ぺど野郎(当時そうした言い方はまだメジャーではなかったが)が、あのぷにに萌え、お世話になったことか(その言い方も当時ないにしろ、感情的には太古からある嗜好だ)。
全世界のろり・ぺど野郎やショタ嗜好者に訴えたい。愛した子役が育ってしまったら終わりか。一発屋の芸人と同じ使い捨てか。それでは自分たちがろり・ぺど・ショタ嗜好であること自体が、愚劣なマスコミや野次馬と同じ次元に墜ちてしまうぞ。ただ形態認識情報の歪んだ刷り込みによる精神的未成熟者、そんな世間からの卑賤な枠組みに押し込められてしまうぞ。
今の形態だけにこだわっている限り、我々はただの『変質者』なのである。杉田かおるさんが『チー坊』であったこと、宮脇康之氏が『ケンちゃん』であったこと、上原ゆかりさんが『マーブルちゃん』であったこと、小林幸子さんが11歳の可憐な演歌少女であったこと――すべての生きとし生ける者は、その始原においてろりでありショタであるという高貴な事実、そこから人間というものを捉えてこそ、我々は『変質者』であることから脱して、『ろり親爺』であることを恥じないひとつの思索者の流れに乗ることができるのだ。ルイス・キャロルやチャーリー・チャップリン、あるいはロマン・ポランスキーのように。実学系だって、伊藤博文のように政界の偉人扱いになるのも可能。
この安直な消費文化の中で貴重な世紀末すら慌ただしい流れの内に過ごしてしまった現在のおたく層が、かつての世紀末のような、種々の弊害はあれ立派なお耽美と爛熟に到達するためには、その前世紀的弊害の部分を近代的理論武装によってどうしても排除せねばならない。
そのためには、すべての人間という存在が『ろり』『ショタ』を内包する者であるという真理を思索の中心に置いて、そこからけして退化した者ではなく進化した者であることに、お願いですからせめて夢の中だけでも縋ってください縋らせてください、おーいおいおい……って、なに泣いてんだろうあたしゃ。


8月21日 日  
健康と不健康ならびに現実

新聞や雑誌のコラムなどを見ていると、健康のためには、結局規則正しい生活が必須のようである。決まった時間に寝て起きて、腹八分目をきちんと三食。
まあそんな生活は10代の終わり以降一度も経験していないし、していた間にも特に健康だったためしはないので、それは健康法というより『健康法と呼ばれる道徳観』なのだろう。
下ネタ(お色気関係ではなく)の嫌いな方はパスして欲しいのだが、たとえば自分は今、本日2度目の大のトイレを済ませてきたところである。先日は3度やった。で、一昨日とその前の日は、一度も行っていない。そしてまったく便秘や下痢の気配などなく、そのつど感覚的にはまったくの快便なのである。ちなみに食事はこのところ一日一回だから、朝食えば朝食、昼食えば昼食、夜食えば晩飯ということになる。そして睡眠は、この4日間を例にとれば、就寝なし、0時就寝13時起床、16時就寝21時起床、0時就寝8時起床――。
しかるに数年前から昨年の秋頃まで時々感じていた動悸や息切れなどは、近頃まったく感じない。痔疾も今年は襲ってこない。熟睡もできるし食欲もある。鬱気味の時もないではないが病気と言うほどではないし、それを言ったら毎日定時で生きていた会社勤めの頃のほうが、よほど精神不安定だった。
さて、自分の現在の生活はどこをどう見ても、一般論で言えば不健康のはずなのだが、生きている自覚としてはなんら問題を感じないのである。それでもやはり苦労して規則正しく生活するのが、健康のためにはいいのだろうか。


8月20日 土  
質問と回答ならびに講評

江戸川河口8キロ圏内にお住まいの方々に質問いたします。本日の陽気はいかがお感じでしょうか。次の4例より、もっとも近いものをお選び下さい。
     (1)涼しい  (2)丁度いい  (3)暑い  (4)ぐぞむじあづい
(1)とお答えの方 → 男女問わず、あなたはもう死んでいます。
(2)とお答えの方 → 男女問わず、すぐに救急車を呼んでください。
(3)とお答えの方 → 男の方は、今度いっしょに飲みましょう。女の方には、お食事奢ります。
(4)とお答えの方 → 男の方は、今度いっしょにモロッコかシスコに行きましょう。
             女の方は、月曜午前九時に、実印持って市役所の戸籍課窓口までお越し下さい。
             紫のバラを胸に付けて、お待ちしております。
などと冗談こいてるうちに、いつもの投稿板にたかちゃんGW編の最終回をアップしに行くと、なにかセキュリティー・ホールとやらで管理人様が奮闘中。そのためでもないのだろうが、アップ後修正しようとすると、またダブルチェックを経て入れたパスワードがエラーになってしまう。まあ勢いメインのドタバタ・ギャグだから、問題なかろう。


8月19日 金
  
小人閑居して不善を成す

というわけでもないのだけれど、本日は終日なんかいろいろ蟄居。
南西に面した唯一日当たりのいいメインパソ部屋兼寝室は、さすがに暑い。正午前から日が陰るまでは、非力な送風固定式最安価窓用エアコンなど、その前に突っ立ってでもいなければ、扇風機の代わりにもならない。といって昼間っから暗黒ルームでしこしこやる気にもならず、半裸でタオルを首に巻きマウスをくりくりキーボードぽこぽこ。
やんちゃ者小泉首相はホリエモンなどもお好みのようだ。もはやただのお子ちゃまであることが明確化したので、早めになんとかしないと日本が某お米の国のような、なんでも解りやすく単純化しないと通用しない国になってしまう。あちらほどの『良くも悪しくもとにかく若さ』を歴史上ですでに失ってしまっているだけに、ほっとくと似たような父っちゃん坊やが、そこそこめざして足の引っ張り合いをするだけ路線まっしぐらになってしまう。もう半分なってるような気もするが。アルカイダの皆さん、首相官邸限定でなんとかなりませんか。って、選挙でなんとかするしかないか。
私物打鍵は昨夜よりようやくたかちゃんの続きを再開。夏の内に花火ネタを打つ前に、やっぱりGWネタにオチをつけとかないとなあ(何を今頃)。


8月17日 水  
ごまき?

出先で『義経』の話をしていて、近頃はやっぱり歴史背景自体で盛り上がりまくりで結構、そんな大勢意見になったのだが、でもあの能子だけは学芸会より下手だわなあ、どこのタレントさんだなどと言ってしまい、爺さんにさえ呆れられたりファンの若い衆に睨まれたり。世間の常識らしいのである。しかし、そんな常識は自分には通用しないぞ。モーニングだかイブニングだか知らんが。
などと強がりつつ、内心泣きながら帰宅して、昨夜録画しておいた『思い出のメロディー』など観る。オリジナル歌手の方は半分がたお亡くなりになってしまっており、例によって現役演歌歌手さんなどが代理で歌う部分は、つくづく味気ない。なんで都会派の低音フランク永井さんの歌を、五木ひろしさんに歌わせたりするのだ。それは能子の情動や台詞をゴマキさんとやらが能面顔で棒読みするよりも違うと思うぞ。とまあ愚痴ばかりの小言幸兵衛化しつつ、しかし大半はやはりしみじみ聴き入る爺いであった。岸壁の母でうるうると泣き、宝塚で「ああ、ええわあ」と溜息――別に歳のせいではない。中学や高校の頃から、同じだったのである。もっとも、なぜか自分の生まれる前の歌も、多く諳んじていたりもするが。
それから、なにか盲目のテノール歌手の方を起用して感動を演出しようとしたらしい一幕、正直言って首をひねる。あの方の声は以前にもNHKのラジオで聴いたが、どう聴いても、プロとしては伸びも安定性も足りない。肉体的ハンデを乗り越えようとする、それは当然尊い生き方であり、ひとりの人間としては尊敬に値する。しかし、プロのテノール歌手として問われるべきは、やはり声のはずだ。たとえ血の滲むような努力を積んだ方だとしても、残念ながらその声から魂は響いてこなかった。祈る、合成甘味料のようなボランティア聴衆に惑わされない、さらなる精進。


8月16日 火  
地震雷火事親父

昼少し前、寝床に就いたら(おい)、かなり強めの揺れ。この前の揺れよりは穏やかながらいつまでも目眩のように続き、そのうちどーんと来るのではないかと、かなりびびる。枕元のラジカセをつけると、宮城中心に大変なようだ。津波が心配で起き出し、テレビをつける。いや、この関東の地まで津波が押し寄せるはずはないのだが、郷里のお隣県なので心配。幸い大きい津波はなかったようだ。
あれは小学校の5年だったか、ちょうど遠足だか修学旅行だかで仙台方面に出向いていた折、三陸沖地震(なぜか十勝沖地震と呼ばれているが、実際の震源は三陸沖である)に遭遇した。その際宮城はあくまでも余波を被っただけなのだろうが、それでも観光バスの行く街路沿いの商店のウインドーは倒れたマネキンなどで軒並み割れており、あまり地震に縁のない山形の子供は仰天したものである。さらに八木山動物園から臨んだ太平洋の水平線が、目に見えて異様に高くなっており、こりゃ山下は全部水没してしまうのではないかと、みんなで怯えかつ期待してしまった。すみません。みんな旅行に浮かれたガキだったのです。その時は北海道や東北北部が被害の中心で、死者も50人を越えたと記憶している。幸い宮城は水没しなかった(当たり前か)。
地震の次に恐いと言われる『雷』は、局地的なものゆえ現在それほど恐れられないが、相変わらず毎年多数の死者が出るのはご存知のとおり。以前住んでいた埼玉や群馬では、なんでもないのどかな田舎道で通行人が次々に落雷死してしまうニュースに、やはりあまり雷被害のない盆地出身者には仰天物であった。特に下校中の仲良しろりなどが並んで撃たれたなどというニュースを聴くと、おのれ雷神、などと歯噛みしたものである。
『火事』は都会に近付くほど多く、また失火より放火が増えていく。人災というより犯罪である。なんだか『親父』だけが昨今影が薄いとよく言われるが、録画しておいた靖国問題のドキュメントなど観ると、どうも『古親爺』は相変わらず良さそうな顔をして有害な連中も多く、地震雷火事同様、相手を選ばないから恐い。せめて人災くらい相手を選んで、思想に見せて実は痴呆に近い無差別一蓮托生は、かんべんしてほしいものである。
姉より援助物資がとどく。米からラーメンからレトルト食品、さらに豪勢にも『具ー多』や、鎌倉の『鳩サブレ』なども入っている。これで玉子や野菜やビールさえ補充すれば、またしばらくうにょうにょと生きられる。


8月14日 日  
変わる方たち

昨日思ったような本質的な部分はさておいて、いや、さておかず技巧的な面に比重を置いて、たとえばコミックやアニメなどビジュアルの先行する分野で見ると、本当に人様々だ。デビュー当時の目を見張るような個性が技巧の成長に埋没してしまう方、個性がどんどん発揮されすぎて読むのが辛くなってしまう方、個性そのものを(恐らくは馬鹿な編集者や、自分のウケ志向に流されすぎて)失い絵柄だけ整って行く方々――個性と技巧が両立している作家だけが、やっぱり長持ちする。こうして考えると、やはり手塚先生やつげ先生などはつくづく偉大な存在だったのだなあ、と思う。
近頃寂しいのは、やっぱりエロゲーの世界(歳なんだからいいかげんにやめとけ)の世界である。まあ個人映画の世界と同じで、そこそこ売れなければ一本で母体が空中分解してしまう世界なのだろうが、若さと集団作業と業界を支えるおたくの需要、それらが実にまあマイナス方向に絡み合って、どんどんつまらなくなる一方のような気がする。特に表面的に目立つ絵柄など、ウケねらいばかりで「ナウい絵柄」(こう書くとまた死語だの爺いだのツッコミが入るだろうが、本当にその古色蒼然とした「今」「ウケ」の概念しか感じられない)ばかりである。まあ、ユーザーの大半を占めるガキの我が儘も内容的衰退の大きな要因ではある訳で、本当に感心してしまうほど「オイラに甘く媚びてくれる物が至上」、そんな感じだ。爺いとしては、実生活上のSEX以上に、精神的マスターベーション・ツールにこそ、限りなき独自性と深い思索性があって欲しいのだが。
シチュエーションや絵柄は、とにかく独自性がほしい。システムは媚びのためにあるのではなく、むしろ選択肢を誤ったら完全に何個か前の選択肢からやり直さないといけない、あるいは過去悪名高い(そしてとうとう潰れてしまった)過去のシーズウェア(個人的に好きなのよ)作品のように、始めからハンパなお仕着せの甘い推理など通用しないコマンド総あたり、そのほうがよほどリアルだ。そもそもセーブなど数箇所でしかできないのが、よりリアルなマスターベーションへの道である。当然クリアするためには限りない彷徨と試行錯誤が必要になるが、それを飽かせないために世界設定や小出しのイベントがあるのではないか。ヒロインやマルチ・エンディングをひとつ削ってでも、20の隠しイベントを設けるべきだ。――こんなゲームを作る会社があったら、確実に潰れるか。
しかしそこまで変ではなかったにしろ、ことみようじさんの原画をまともに塗ってくれるシーズは、もうない。HPも去年からリニューアルしっぱなし、つまり潰れたのである。そういえば同人脱皮を図ったRegripsのHPなど、3年前から放置状態だなあ。
まあその世界に過剰なまでの「なんじゃこりゃ」的カタルシスがあってくれれば、どんな絵柄でもシステムでもいいのだろうが。それを「個性」と言うのだろう。久しぶりにライアーの『腐り姫』でも起動してみるか。……って、仕事しろよ。私物打鍵しろよ。


8月13日 土  
変わらない方たち

石井輝男監督、死去。最後の最後まで、なんか変だが石井印そのものの作品ばかり撮っておられたような気がする。一般人の感性に比較的即した『網走番外地』等、ヒット作は多々あるが、やはり本質的には『直撃地獄拳』やら『恐怖奇形人間』等、歯止めのないイレコミが魅力の方だったと思う。たとえば近頃のつげ義春さん原作の『ゲンセンカン主人』で、おうおう、あの方もついにここまで押さえの利く枯淡の境地に、などと思いきや、『ネジ式』では、しっかり昔ながらにイッてしまっているのであった。
変わらない、という事は、当然多くの場合時代とのズレを生じて、衰えただのズレてしまっただの言われがちだが、石井監督などはカルトなぶんだけずっと根強いファンもいたし、過去の作品の再評価などもされている。根本的な部分で最初からズレているので、時代との乖離が広がる心配はないわけである。
一方で、黒沢明監督、あるいは熊井啓監督、それら正統派の方々が「変わらずに」撮り続けた(る)作品、これがたやすく「ズレてしまった」「古い」などと一部クサされるのを聞くと、ちょっと腹が立ってしまう。そんなに人間、世間の様子や評判に応じて自分も変えなきゃならんのか。皆さん撮りたい物を撮れる限り撮っていた(いる)ではないか。
たとえば確か高校時代に観た熊井監督の『朝焼けの詩』、高一のガキにも「おや、これって俺が小学生の頃の日活の青春物みたいだな」と思えるほど物事の捉え方が「古風に若」かったが、それはそれとして、やっぱり感動できたのである。で、やはりその昔からずっと温めていた企画だったらしい。監督の意識はその着想時点の情熱を保ったまま、数年の間に周囲の時代だけが「シラケ」「斜に構える」方向に変わってしまっていたわけである。
それを「古い」と言うならば、今「新しい」物などの大半は、数年後には粗大ゴミである。自分の部屋の薄暗い台所で錆びまくっている27年前の冷蔵庫は、今でもしっかり氷を作ってくれている。……でも、やっぱり本音は冷凍庫付きが欲しいのだが、壊れてくれないのですよ、マジで。


8月11日 木  
下呂温泉のターミネーター

録画しておいた今週の『鑑定団』、水墨画はやはり本物で、和物・中国絵画鑑定記録更新中。
それよりも、なんとあの往年のSFX映画ジャーナリスト・中子真二さんが、元祖ターミネーターの撮影用骨格模型など持って出演、現在は稼業の弁当屋さんを継いでいらっしゃると聞き、びっくり仰天。思えばスター・ウォーズあたりから始まったハリウッド特撮進化事情を逐一正確に知れたのは、あの方のおかげなのである。稼業を継ぐのは当時から決まっていたのだろうなあ。限りある純おたく期間だからこそ、あそこまでひたむきに特撮野次馬道を驀進していたのかも知れない。鑑定額1200万と聞いて「銀行に見せて担保に金貸してもらおう」などとのたまうお姿は、すっかり田舎のお弁当会社の社長さんっぽくなっておられ、時の流れに感慨。


8月10日 水  
夏のでぶりん

子供の頃から太りがちである。というより、気をつけないとあっというまに豚さんになってしまう。中学に入ってイロケに目覚め、毎朝城跡で走り込んでなんとか2年ほどで人並みに戻し(まあ成長期でもあったのだろうが)、10代後半から20代前半まではなんとか細身を保てたのだが、不摂生な職場から現在はほぼ居職、身長172の体でありながら、目方は80にだけは届かせないのがやっとだ。
とにかく時代が良すぎる。いろいろあって今現在はまあ標準をはるかに下回るビンボと言っていい身の上なのに、丼飯かっくらうのには不自由しないし、高カロリー食品ほど安価に出回っている。あちこちの国で餓死してしまう子供たちに、この飯半分直で転送できないかと思っても、この時代情報だけは瞬時に世界中を行き交うが、こと物質や金と言う奴は相変わらず低きから高きに流れるだけで、交通・運送手段の発展は、その吸い上げにしか荷担していないような気もする。
などといいつつ、丼飯にレトルトのビビンバ丼と玉子をぶっかけ、冷や奴と缶ビールなども楽しみ、今晩も肥えてゆく狸腹なのであった。このところ一日一食なので、お願いですからかんべんしてください、餓死者の方々。
過去のなんかいろいろのテキストのPDF仮想書籍化、ひと区切り付く。まともに公にして恥ずかしくなさそうな完結作品は、一年半かけてぶ厚めのが3冊(内1冊はアフターとの合本)、うんと薄い短編集が1冊、そんな感じであった。(まだ表にはどうアップするか考えていないが、お暇でしたら試しに一本覗いてみてください。昨年の大長編に、徹底推敲を加えた夏向き児童文学風エンタメです。なお、入り口の仮公開PDFも、あちこち手直ししておきました。)
なにか憑き物が落ちたように、すっきりした気分。ようやく例の長編の世界に行ったっきりだった仮想精神が、リセットされたか。きっとそうだ、と意識を鼓舞する。その証拠に、蝉など一匹もいないこの街で、きっちり頭の中に降るような蝉の声が響き渡っている。故郷出身の歌人・斉藤茂吉さんの短歌も聞こえる。

   ――ものみなの饐ゆるがごとき空恋ひて鳴かねばならぬ蝉のこゑ聞ゆ――


8月9日 火  
リセット

うーむ、小泉さんもワードなみにフリーズしてリセット・ボタンをポチっとな。正直郵政民営化に関しては判断のしようがないのだが、そっちで税金浮かすより天下り団体半分つぶせばいいのではないか、そんな気もする。赤字黒字さえ問われない税金の垂れ流しなど、他に幾らでも転がっている。
しかし冬にメインのパソを替えて以来、フォトショップで300DPIの四つ切りサイズなど何枚レイヤー重ねて切ったり張ったり透かしたり変形したりしても平気だったのに、ワードはちょっとでかいデータをあちこち弄ると、まだ昔ながらに完全フリーズし、まさかXPで使うとは思っていなかったリセット・ボタンが要りようになってしまう。CPUもメモリもギガだというのに、ワードには通用しないようだ。そのわりには印刷イメージの正確なあんばいすら相変わらず見られないで、作業中はガチャガチャのフォントで見当つけるしかないのだから、ソフトとしては10年前とさほど変わっていないような気がする。フォトショップの進化ぶりとはエラい違いだ。
しかしまあ、やっぱり寄らば大樹の陰、たった1980円のPDFソフトでするすると形がついてしまうのは大したもので、後はO'sエディタのようにモニター上できっちり印刷イメージが把握できないか――まあどれだけハードが進化しても、やはりソフトは別頭なのか。


8月8日 月  
新しいお遊び

なんだ、PDF使えば、仮想書籍的表示なんぞ楽にできるではないか、そう気づいて以来、ハマってしまっている。元来自分の創作活動の原点は、中学時代に学級ノートに勝手に学園怪奇物の連載を始めて強制的に回し読みさせたり、高校以降は活字化も可能になったが微々たる量のため、大半ガリ版切って刷ってホチキスで綴じて文化祭で配る、そんなもんだったのである。
まあテキストだけより当然重くなるし、本物の書籍のように密にしてしまうと、モニター上では拡大四方スクロール状態で読みにくいので、制約はある。今でもモデムやVGAのパソを使っている方などには(いないようでまだまだいらっしゃるようだ)重いわ荒いわで大変だろう。しかし1024×768以上なら、きっちり読めるし写真もフォントもなんかいろいろできる。そんなわけで趣味の時間は打鍵ほったらかしで過去の作品のPDF化にハマっているのだが、これが案外、推敲のためにも実に便利。ただし画像もテキストもワードを通しての変換になるので、久々にフリーズなど体験。XP上でもフリーズするとは、さすがにワードである。
風呂で郵政民営化関連のごたごたのニュースを聴いていたら、どこぞのお巡りさんが拳銃の弾をなくしてしまい、同僚の弾を盗んだ事件など流れ、大笑いしてしまう。しかし直後に、書類送検されたが懲戒免職にもならず依願退職扱いなどというとんでもない対処を聴き、ぐぬぬぬぬう、と湯の中で悶える。商売道具をなくしただけならともかく、どこの社会に職場の同僚からモノを盗んで懲戒免職にならない会社がある。もはやお巡りさんは泥棒の味方なのであった。
ところで昨日、5日の日記に関して五十嵐氏より真摯なるメールなどいただき気が付いたのだが、ちょっと言葉が足りなかったかもしれない。要は、大量虐殺や無差別爆撃を、あたかも『攻撃国の総意』のごとく括って欲しくないということで、日本だって確かにあちこちでやっちまっているのは確かなのである。ただ、たとえば韓国の『火垂るの墓』上映中止事件とか、今でもアメリカでは広島・長崎原爆写真展はボイコットされ続けとか、我が国でも南京虐殺などなかったと公言してはばからない連中がいるとか、そういったすべての『狭視野』的行為がとっても悲しい、そんなことを言いたかったのである。


8月6日 土  
花火

朝の8時に寝て夕方6時に起きる。昨日は昼に2時間寝ただけだから、けして寝てばかりいるわけではない。
顔を洗っていると、外の総菜屋の店先で、なにやら焼きそばだの飲み物だのを路上販売している売り声がかしましい。おや、いつもはそんな外売りなぞしていないはずだが、そう思って良く聴くと、本日は江戸川の河原で花火大会なのであった。在職中は無論無縁で、昨年は精神的余裕がなく見過ごしていた。今年はますます精神的余裕がなくなっているので、ヤケクソで花火見物に出かける。中年の独り者が寂しく見てはいけないという決まりもあるまい。
いつもはひっそりとした昼下がりを根性歩きで突っ切るお散歩コースも、年に一度の行列状態。土手に上がるにも、ひと苦労。しかしいったん上がってしまえば、河川敷いっぱいの見物客やどこから漂ってきたものやら大量の屋形船、上流に上がる夢のような花火の数々、しばし恍惚として我を忘れる。もとより座る場所などすでにないが、思ったより脚は萎えておらず、立ちっぱなしでも平気。浴衣の女性もろりも多い。あららお母さんお父さん、せっかくかわいいろりをお持ちなのですから、もうちょっと帯は胸高にきりりと締めてあげてくださいね、よろしかったら私が肩車しましょうか、などと心中でつぶやきつつ、花火以外にも浮気。しかし、自分の背丈より高い女性の軽く結った頭などが目前に割り込んでくると、おいおい深長170以上の女性は、下駄履いて髪を結っちゃいけない、などとも差別してしまう姑息な自分なのであった。
しかし、花火はいい。線香花火もいいが、夜空の大輪もこの世ならず、いい。ときおり派手に音楽などが流れ、洋風のきらびやかな乱れ吹きといった趣向も混じるが、やはり醍醐味は、まあるい和風の開花散花だ。ああやってただ一度開いてあっという間に潔く散る状態を、今後「花火る」と表現したらどうか。「花火る」「花火らない」「花火ろう」「花火りたい」。最後まで観てしまうとまた帰りが大変なので、小一時間で引き上げる。これだけ楽しんで、かかった金は、生ビール300円のみ。
帰途、歩道を走る非常識なチャリに乗っているのは、ごく普通の主婦やおっさんであり、すみませんのひと言もなく、人々の体をかすって走り去る。やっぱり、この街の大人はおかしい。大型ダンプに次々に激突でもして、派手に花火って欲しいものである。
帰って風呂に浸かっていると、ふと、あの元祖スター・ウォーズの、デス・スター大爆発など思い出す。あれもルーカスさんが修正してしまう前は、いかにも宇宙画的CGでなく、むしろ和風花火テイストの火薬大爆発だったんだよなあ。あの末端の火花がチリチリと爆ぜるニュアンスなど、絶対昔のほうが良かったよなあ。まあ、単なるノスタルジーかも知れないが。
湯上がり、ネタにつまって夏休み状態のたかちゃんが、花火を持って脳内に出現する。くにこちゃんは、なにやら業務用の大筒を背負っている。ゆうこちゃんがいないので訊いてみると、蒲柳の質なので、なにか夏負けで入院しているのだそうだ。どうやら、そんなゆうこちゃんを励ますために、なにかとんでもないことをやらかそうとしているらしい。かばうまはろりに逆らえないので、荷担することにする。
のみならず、冬から夏まで冬眠(?)しっぱなしの滝川村少年団も、なにやら脳天気に動き始めている。
そろそろみんなで「花火りたい」のか。夏だもんなあ。


8月5日 金  
宗教?

『ラスト・サムライ』あたりで私的評価を高めつつあったトム・クルーズさん(『宇宙戦争』はまだ観ていないが)が、近頃おかしいと言うので、その元凶と言われているサイエントロジーとやらのHPを覗いて見ると――なるほど、従来の似非宗教のような「この神様はエラいから、身も心も、できればお金も捧げよ」ではなく、「あんたも神様なみに身も心もエラくなれる方法を教えるから、きっちりお金は捧げよ」ということらしい。まこと明快な、現世利益の追求宗教のようだ。やはり舞い上がるには、金がかかるらしい。まあ、信者の心だけいただいても、宗教法人や教祖様自体は現世利益に繋がらないわけで、どうしても肉体か金は要るのだろう。麻薬と同じである。
本能より欲を優先する、というより欲を本能と理論づける宗教に、なんであんな良さそうな方が、コロリと騙されるかなあ。大体、心身の健康がなんで宗教に関わらなきゃならんのか。貧乏人はみんな病気か。
どうも貧乏人の側が、近頃萎縮しすぎの気がする。何かといえば、『癒し』のキャッチフレーズの花盛り。一億総仮病、そんな気さえする。人間なんて、不完全で当たり前だ。不平不満があって当たり前だ。不完全は、けして病気でもなんでもない。三日続けてサンマの蒲焼きが食えれば、『癒し』などいらない。死なないためには、死なない程度に食って寝てるだけでいいのではないか。百獣の王ライオンだって、犬や猫だって、ミミズだってオケラだってみんなそうだ。ありゃ、ミミズやオケラは寝ないか? まあ、お財布や銀行口座を持っていないのは確かだ。
ともあれやはり貧乏人で、心も売りたくない場合、己の脳内麻薬に頼るのが無難。打鍵も無料だ。光熱費や公租公課やパソ関係は無料ではないが、いざとなったら河原の橋の下で座禅を組むのは無料である。夢想もきっと、死ぬまで無料だ。
話変わって、ネットのニュースで、こんな記述があった。
〈【ロンドン4日時事】4日の英BBC放送によると、広島に原爆を投下した米爆撃機エノラ・ゲイの乗組員がこのほど、6日の原爆投下60年を前に、「他に道はなかった。後悔していない」とする声明を出した。(時事通信) 8月5日7時1分更新〉――ほんとにこれだけの記述なのである。時事通信の正気を疑う。エノラ・ゲイの乗員は複数である。過去すでに胸を張って「私は正しい事をした」と断言した者もあれば、同じ意の言葉でも、苦渋に満ちた表情で語った者もいる。英BBC放送で、誰がどう発言したのか、それらすべてのニュアンスを伝えようとしない記事は、扇情的なヨタである。捏造以上に有害だ。エノラ・ゲイに関して、生涯そのたった3行の記事しか読まない若者だっているのである。ちなみに別の通信社では、〈【ニューヨーク24日共同】25日発売の米誌タイム最新号は広島、長崎への原爆投下から60年に関する特集記事を組み、原爆投下作戦に参加した爆撃機の乗組員ら4人の「これで戦争が終わったと思った」などとする証言を掲載した。広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイに搭乗したセオドア・バン・カーク氏(84)は、原爆投下後、立ち上ったきのこ雲を見たときに「(乗組員の)誰かが『戦争は終わった』と言い、私もそう思った」と語った。同機に搭乗したモリス・ジェプソン氏(83)は投下時は「陰鬱(いんうつ)な瞬間だった。下界では大勢の人が殺されていたし、喜びはなかった」と述べた。(共同通信) 7月25日9時34分更新〉。恐らく反日に走る韓国や中国の若者たちの多くも、前者のような形骸的情報に包まれているのではないか。


8月4日 木  
廃人別荘 (注釈・鏡花の戯曲に『海神別荘』という、もはやSFファンタジーがあります)

昼過ぎに目覚めて台所に立つと、なぜか流し場のまんなかに、靴下一対丸めたやつが、ころんと転がっている。昨夜、というより明け方、そんなものを転がした記憶は、まったくない。といってこの部屋には自分しか住んでいないのだから、自分で転がしたのは間違いないのである。「……長くねーな」と呟き、その靴下をはいて買い物へ。プリンターの黒インクさえ家計に厳しく思われる、今日この頃である。でもサンマの蒲焼きは、三尾で300円ちょっと。まあ生存はしばらく可能だろう。
もはや世間に祟りまくるお岩様のごとく、執念く――しゅうねく、という表現は現代語ではもうないか。いかにもねちっこくて、『執念深く』より好きなのだが――いじりまくる打鍵物に、またありがたくご指摘などいただき、修正。ついでに、またまた使わなかった伏線的表現の放置などに気付き、ありゃりゃ、もう脳味噌だめじゃん、と思いつつ修正。あの泉の草叢に、数十年前のナイフが裸で落ちているのはおかしいのであった。あれは最初の打鍵段階で、なんかいろいろ有紀さんなども深く趣向に絡ませようかと思っていたのである。結局あんまりあざとすぎる気がして有紀さんはあっさり絡むだけになったのだが、ならばあのナイフは、単に土に埋まっていただけのはずである。あわてて埋める。
とまあ歳のせいか暑さのせいか脳細胞は滅びるばかり、そのうち目覚めたら縛られたろりなどが横で唸っていないよう、身辺に気を遣うばかりである。
なお、良心的な読者様から、あのPDFのお持ち帰り報告などいただき、かえって恐縮。もう根こそぎお持ち帰りになって、そのうちこのページの更新がぱったり止まっても、やがて口座が尽きて閉鎖されても、「ああ、そういえばあんなへんなのがいっときネットの網に引っかかっていたなあ」、そんなふうにお線香の一本も上げてやって下さい。夜中のひとつ鉦、ちーん、なんてのも、陰気くさくて好きな私です。ちなみに本日夕方にもこっそり修正入れてますので、現在のがバグ最少バージョンかと。
昨夜観た『義経』はまずまず、『鑑定団』はなんとか勝利。


8月3日 水  
こんなもんか、じゃねーよ、自分

例の馬鹿長打鍵物を、投稿板のほうも修正しておいたのだが、さらに全編通読してくださった方から、ご感想や脱字のご指摘をいただき、ありがたいやら恥ずかしいやら。本当に自分の打鍵物というのは、最初は冷静にテキスト情報としてチェックしていても、じきに打鍵時の情動に飲まれてしまうので、チェック漏れだらけになってしまう。といって冷静に一語一句くまなく目を通し尽くすなどというのは、こと自分の情動の産物となると、まして500枚を越える分量となると、不可能に近い。いいや、もう。って、いいやもうじゃないだろう、俺。
猛暑の中で、うみゅみゅみゅみゅう、などと悶え続ける狸一匹。でも、またおもしろいと言っていただけたから、今夜のとびきりそばと舞茸のてんぷらは、きっと美味いに違いない。録画しておいた『義経』と『鑑定団』も、きっと面白かろう。


8月1日 月  
こんなもんか

昨日は午後から神奈川の姉の家を訪問。姪たちもすっかり育ってしまって夕食も一緒にできなかったが、まあ元気で青春を謳歌したり隘路にはまって懊悩したりしているようで、心配もあれば楽観もある。まあ、人の道さえ保っていれば、山だって谷だって、どこにいようときっちり生きていてくれればいい。
このところWeb上でのきっちりとした縦書き表示を試行錯誤していた訳だが、なんだ考えてみりゃあPDFという手があったじゃん、と一昨日にようやく気付き、それだとルビもしっかり再現されるらしいので、さっそく最安価のPDF作成用ソフトを購入。しかし、愛用のエディタ類からでは、どうやってもきっちりPDF化できない。やっぱり寄らば大樹の陰、ワードやエクセルや一太郎などでないと、すんなりとは行かないようだ。もはや乗りかかった舟、テキストをワードに移し、全てのルビをワード形式にふり直す。さらに、あくまでも印刷用情報ではなくHP表示用なので、フォントやサイズをどうすれば最も直で読みやすいか、試行錯誤を重ねる。フォントの埋め込みとか、なんかいろいろ出来て便利なことは便利。しかし、他の方のパソにもアドビのアクロバット・リーダーは大概インストールされていると思うが、個人的に好みで追加したフォントとかも、その埋め込み機能とかで、きちんと表示されているのだろうか。もし、ここをご覧になっていらっしゃる方で、読めねーよぷんぷんの方がいらっしゃったら、ご一報いただければ幸いです。
しかし何か作業を重ねれば重ねるほど、不用意な日本語が見つかる。いったい何遍推敲すれば、完全原稿が出来上がるのだ。まあ内容的な独善性などはともかく、いちおう恥ずかしくない日本語文書にだけはしないとなあ。結局数回も、馬鹿長い時間をかけて試行錯誤してしまった。


7月30日 土  
お若い方からばとんたっち

バトンを渡されても、どてどてと腹を揺らしながら牛蒡抜きに合って、顰蹙をかう中年太り。
格好良く横文字を並べたいと思っても、洋楽は中学時代にサイモンとガーファンクルやシカゴをなんとなく、根性入ったのは近いところでもヘヴィ・メタ系をちょこっと……映画音楽以外は、ほとんど日本語しか読み聴きできない爺いです。
Q1・今パソコンに入っている音楽ファイルの容量――3.34ギガほどあるようです。764曲……いつの間にやら、そんなに溜めたか。ただし3分の1は、アナログから変換した、いにしえの映画音楽。
Q2・最後に買ったCD――本屋兼CD屋の廉価盤ワゴンにあった『ジェット・ストリーム』。城達也さんのナレーションを聴くと、年寄りは心地よく入眠できる。
Q3・今かかっている曲――国府田マリ子さんの『背中から I LOVE YOU』。すみません、おたくです。
Q4・よく聴く、または特別な思い入れのある曲5曲――(1)三輪明宏さんの『思いでのサントロペ』。3分ちょっとの一曲の中で、きちんとどんでん返しのある哀愁ミステリー・エンタメ叙情短編小説が、嫋々と歌い尽くされております。(2)米良美一さんの『花の街』。あちこちで良く歌われる愛唱歌ですが、この方の声は『春』という一つの単語の発声のみで、本当の春を脳内に現出させてくれます。(3)筋肉少女帯の『僕の歌を総て君にやる』。軟弱ロックにありがちな「俺はこうだけど、わかるべ? わかってくれるべ?」みたいな媚びを越えて、「しょーもない俺だがとにかくこうありたいんでそこんとこよろしく」というような潔さが快感。(4)都はるみさんの『涙の連絡船』(最初の録音のやつ)。畳みかけるこぶし回しが、自分の文章にも影響大。(5)中島みゆきさんの『歌姫』。落ちこぼれは、ただ涙。――ありゃ、これでもう5つか。まだまだラウドネスとかデッド・チャップリンとか岡村靖幸とか及川ミッチーとか特撮とか、美空ひばりさんとか小坂明子さんとかリリーズとか宇崎竜童さんとか、大量の戦前戦後の懐メロとか、もうごった煮状態のMP3フォルダ。あ、そうだ。大友裕子さんの『死顔』も、鬱の時にいっぺん仮想死してから復活するために、良く聴くなあ。鬱と言うより分裂症だな、このフォルダは。
あ、おっさん、びりっけつでバトン渡す相手もういねーや。
話変わって、デジタル書籍を扱うeBookJapanからのメルマガで、村野守美さんの『笑ってください』というWeb描き下ろし漫画を知り、さっそくダウンロード。戦後60周年企画のひとつらしく、当方、歴史を何十周年だからどうのこうので扱うのはいささか疑問なのだが、こうした作品が企画されるのは歓迎。『ある日、フラリとお笑い芸人の事務所を訪ねて来た老人。 彼はサイパンで演会をやるので若手芸人を貸してくれと言い出した。 この謎の老人は何者なのか、そしてその真意は…?  現代と戦争をつなぐキーワード、歴史の教科書で習う戦争とは違う、一人の兵士の目から見た真実のサイパンの姿を描き出す。 』とまあ、メルマガの惹句は味気ないが、作品自体は守美さんのあくまでWebで見ることを考慮したのであろうラフなタッチと彩色と、大きめのコマ割りが、とても目や心に優しい佳作。この方の根本である達観した暖かさが、いい具合に染みております。ああ、この方くらい広い心を持てればなあ、と反省しつつ、達観できない我が脳味噌なのであった。


7月29日 金  
一時休戦?

どこまで本気かはまだ判然としないが、IRAが武力闘争の終結を宣言したそうである。このままアイルランド独立問題が収束するはずもなかろうが、まずはめでたい。大方アルカイダがあんまり箍を外しつつあるので、同じような爆弾闘争を展開してあんな無知蒙昧な野蛮人といっしょにされたくない、そんなところか。誰かが目立つ馬鹿をやると、さっそく模倣犯の跋扈する我が国や米の国に比べ、さすが大人の国である。まあ元は海賊や盗賊の国なのだろうが、少なくとも世代を重ねて成熟しているらしいので、しょっちゅう幼時還りしてしまう国に住んでいると、かなり羨ましい。
これはやはり教育の問題なのだろうなあ。アイルランドにしろイングランドにしろ、小説や映画を見る限り、本当に子供に厳しい。あくまでも人間の成長段階における極めて未熟な段階、そんな感じだ。いたずらに実態のない『純真さ』などに惑わされず、早い話、子供が主人公の冒険小説でも、下手を打てば仲間などばたばた死んでしまう。主人公の未熟さゆえに、近所の罪もない女の子が、悪漢に殺されてしまったりする。主人公はそれらの痛みと悔悟を克服しないと、大人にはなれない訳である。人間が自立することと、『純真さ』だの『夢と希望』だのは、とりあえず無関係なのだ。でも、それだからこそ、大人になることによって『純真さ』や『夢と希望』が失われるといった、杓子定規な妄想的規定もない。
まあ見かけは大人で中身はガキが繰り広げる駄々っ子レベルの児童虐待は願い下げだが、やっぱり大人として2.3発張りとばしても子供に嵌めなければならない箍はあるわけで。その箍もまた『純真さ』や『夢と希望』とは、まったく別次元の『矜持』なのだから。


7月28日 木  
天網恢々粗ゆえにだだ漏れ→鰻にょろにょろ

昨日、日本も少しは正気になるかと思いきや、やっぱりまだまだゆるみっぱなしのようである。
2月のあの赤ん坊がおつむを刺され命を奪われてしまった事件、現場のIYの店長さんが知人だったので忘れもしない事件なのだが、なんと公判の席で、こんな騒ぎがあったそうである。
『28日午後、愛知県安城市のスーパーで今年2月に起きた乳幼児殺傷事件の公判が行われていた名古屋地裁で、殺人、傷害、窃盗罪に問われた住所不定、無職氏家克直被告(34)が、証人の20歳代の主婦に殴りかかった。主婦は救急車で病院に運ばれた。証人の主婦は、事件当時も現場のスーパー「イトーヨーカドー安城店」内で氏家被告に顔などを蹴られ、2週間のけがを負った被害者。この日の公判では、検察側が「2月4日の事件当時、暴力を振るったのは、そこにいる被告ですね」などと質問をし、主婦が被告の方を見て、「そうです」などと答えた後、氏家被告が突然、背後から主婦に襲いかかり、右手のこぶしで主婦の顔を殴った。傍聴席からは悲鳴が上がった。事件当時、氏家被告の両脇には、刑務官3人がいたが、氏家被告は手錠や腰縄をはずされており、暴行を止められなかった。(読売新聞) - 7月28日16時0分更新』。いやあ、一文無しの服役者放り出しただけでなく、再犯後の公判の席でも野放しなのである。いやあ、ほんとに人権重視の素晴らしい国だ。
こんな大笑いの話もあるぞ。
『学習指導要領の改訂に向け、保健・体育のカリキュラムを検討してきた中央教育審議会の専門部会は27日、「高校生以下の性行為は適切ではない」という立場から、「安易に具体的な避妊方法の指導をすべきではない」とする審議経過報告の素案をまとめた。近く中教審の教育課程部会に報告する。子どもの性行為の是非について、中教審が見解を示すのは初めて。性教育について、指導要領では、小学校で初経や精通、中学で受精と妊娠、高校で家族計画などを学ぶことになっている。しかし、文部科学省は児童生徒の性行為の是非については明言しておらず、「避妊すれば、性交渉をしてもいいのか」という子どもの問いには、現場の先生が答えてきたのが実態だ。素案では、高校生以下では社会的責任を十分に取れないことと、性感染症等を防ぐ観点から、「性行為は適切ではないという立場で、指導内容を検討する」こととした。また、一部の学校で行き過ぎた性教育が行われている実態を踏まえ、「性教育は、人間関係の理解やコミュニケーション能力を前提とすべきで、安易に具体的な避妊方法の指導をすべきではない」との基本方針を示した。(読売新聞) - 7月27日20時26分更新』
わはははははは。駄目だ、こりゃ。この国のおエラい様たちも、すでに狂っているのである。あるいは、己の縮こまった脳内に、引きこもってしまっているのか。もう言い訳をする気力もない。
えーと、お若い方々、もう好きなだけそーゆー大人を馬鹿にしていいです。でも、目立たないところや恵まれないところに立派な人は沢山いるので、くれぐれも見ず知らずのホームレス狩りなどには走らないでくださいね。出所者の中にも、中教審の皆様の中にも、ホームレスの中にも、馬鹿も正気な人もほぼ同じ割合で存在します。ただ、正気な人があんまり少ないだけですね。狩る相手はしっかり選びましょう。ろくに対象を見もせずに己の好悪だけでなんかに走るのは、氏家被告と同じ既知外か、ろくに青少年に接しもしないで括る中教審と同じ、若年性痴呆(あっちは年齢相応ですけど)になってしまいます。で、学習指導がどうであれ、合意の上でのにゃんにゃんの時には、この地球をこれ以上愚劣な星にしないために、絶対に絶対に絶対にゴム付けて下さい。そして、見ず知らずの誰かをどうしても刺したくなったり、合意の上でないにゃんにゃんがどうしてもしたくなったら、すぐに自宅で首を吊って死んでください。とにかく、どんな立場であれ、主観と客観の見境がつかない輩は、爺いでも若者でも同じ屑です。
ころりと話は変わって土用の丑の日、一年中で最もスーパーの鰻が特売にならない日である。陳列量は特売なみで、お値段はあくまでも通常価格。ほっといても売れるのだから、ここはしっかり商売、そんな現金な態度は実は嫌いではない。実に理屈に合っている。自分も気分だけで生きている人間で、かつ鰻大好き人間なので、ほんとは山形の染太の鰻が食いたいよう食いたいようと泣きながら、一番安い中国産を購入。
去年もやったネタだが、安い鰻の食い方にちょっと改良を加えたので、記録まで。まず、最安価な解凍蒲焼きは大概飴のようなべとべとのタレまみれなので、これを温めたお酒でいっぺん洗う、ここまでは去年と同じだが、そのときお酒の中に、ほんの少しお味噌を溶かしておくのである。これは、染太のタレのちょっと発酵が利いた感じを再現できないか、などと考えてみた訳ですね。あくまでも隠し味。あとは、これを炭火で焼いて――とカッコをつけたいところだが、美味しんぼもまっつぁおの都市ガスしかないので、せめて焼き網であぶる。両面ちょっと油がじゅわじゅわしてきたらOK。そういたしますと、奥様奥様、ちょっと680円の中国産も1280円の焼津産より、ずっと美味しく召し上がれますのよ。なお、くれぐれもレンジでチン……ちょっと古いですわね、レンジでチロリロラリリンとか、ちゃーらららららー、なんてのは、いけませんわよ。


7月27日 水  
往生際

世の中ちょっと正気に戻りつつあるか、という記事に接する。
『覚せい剤取締法違反(使用)で有罪判決を受けた女性被告(26)が「受診した医師が警察に通報したのは守秘義務違反で、収集した証拠は無効」と上告した刑事裁判で、最高裁第1小法廷(横尾和子裁判長)は21日までに「治療や検査で採取した尿から違法薬物を検出した場合、これを捜査機関に通報するのは正当」との初判断を示した。その上で、無罪を主張する被告の上告を棄却する決定をした。懲役2年が確定する。決定は19日付。(共同通信) 7月21日12時14分更新』
誰に知恵を付けられたやら、バレた段階で「あ、バレちゃった」と素直に反応すればいいものを。そもそも、証拠自体がどんなに歴然としていても、その発見過程に違法行為があれば不採用、そんな法解釈はナンセンスである。それこそ、ダーティー・ハリーがバッジを捨てて、変態下衆野郎誘拐犯を射殺しなければならなくなってしまう。
まあ法解釈以前に、単なる人間としての往生際の問題でもある。たとえば、旧職場では使い切りカメラやフィルムや空MDやらもオープンで扱っていたため、中高生の万引きは引きも切らず、当然見え見えのバカは、警備員室に連行せざるを得なかった。なんで小遣い持ってるくせにこんなチンケな窃盗行為で惨めな思いするかなあ、と、怒りよりも哀しみを覚えつつ、やはり盗みは盗みである。表面だけでもきちんと悔悛の情を露わにしてくれれば、こちらも警備さんも鬼ではない。保護者を呼ぶのは仕方ないとして、8割方はまあ今後はどうのこうので方が付くのだが――たまにいるのですね、男女問わず、「金払やあいいんだろ」調でゴロまくのが。これが女の子だったりすると、もう本当に哀しみにくれながら「自分のバカさ加減を恨んでね」と思いつつ、男の子なら「バーカ世の中そんなに甘くねーよ」と思いつつ、警察沙汰である。
正直と正義は違うのだ。
困ってしまうのは、ときたま呼ばれた親のほうがゴロをまくのである。まあ子供が「だって誰それちゃんだって、もうみんなやってる」などと言い訳するのは、子供のことゆえ仕方がない部分もある。しかし中学生の子を持つ親が「なんでうちの子だけこんな目にあわなきゃならないの」などとのたまい始めると、ああ、こーゆー既知外に育てられたからこの子もこんなふうに、と、親のほうを立件したくなったりする。せめて「とりあえずバレたら頭を下げる」くらいの社会的通念を教えられないものか。それはほんとに人間としてギリギリの知恵なのであり、それがあるからこそ「バレたら頭をさげなきゃならないようなことはなるべくやんない」に繋がるのであり、それがなければ、あっという間に「バレなきゃ何やっても平気」に短絡し、そうなるとまたあっという間に「平気でいればバレてもなんでもアリ」に転落する。闇金や振り込め詐欺、悪質訪問販売などから、無差別殺人犯や著名経済犯や汚職役人、みんなそうじゃないですか。
ここでまた、個人的矜持の強調。『生涯偽善者』。世界中の人間がそうであってくれれば、とも思う。獣と人間が違うのと同様、本音と正直は違うのだ。いや、獣だって秩序のために本音を隠すことなど多々あるのだから、この例えは可哀想か。
ああ、頭が暑気に蒸されている。
正気に戻って(自信はないが)この前アップした話の縦書き表示を見ると、やはりわやわやと読みにくいような気がするので、横表示に変更。


7月26日 火  
無冠・無記名の人々

ときたまテレビを見ていると、様々な伴奏音楽がほんの一部流されている訳だが、あっちこっちからの流用と思われるのに、有名無名問わず、作曲者名とかはいっさいクレジットされない。バラエティーや再現系のものなら、そうした義務はないのだろうか。
本日は某エロゲーのサントラなどが、ほんの一瞬流れていたり。もっともエロゲーの音楽など、多くはゲームそのものにもクレジットされなかったり、されても適当な偽名だったり集団名義だったりする場合が多い。しかし、下手なドラマや映画のサントラより、よほど心を打つメロディーもあれば、巧みな編曲で大編成のシンフォニックさながらの厚みを出している場合などもある。ああいった作品を産む方々というのは、業界内でどのような位置にあり、どのように評価されているのだろう。
たとえば3.4年前の夏に借りたゲームで、『愛しの言霊』というちょっとアレだがなかなかに叙情的で気持ちのいいのがあり、それのメインテーマなどは、いわゆるイージー・リスニングというかムード音楽系として出色であった。クレジットにたどりつくと、『サウンド・コサリしゅんたく』というお名前が見えるのだが、寡聞にしてそれっきりお名前を見ない。かわいい3人の幽霊娘を成仏させるゲームと聞いたから借りたのであり、あえて同メーカーの恋愛物やらギトギト物に手を出して調べる気も、毛頭ない。したがって、その方の他の仕事を追うのが、現在の自分には不可能である。
ちなみに昨日アップした大長編を打っている間に、聖飢魔IIの『白い奇跡』、中島みゆきさんの『時代』『地上の星』、ドビュッシーの『月の光』、ジョルジュ・ドリュルーの『イルカの日』のサントラ等々の著名な作品にまじり、『愛しの言霊』のメインテーマも、しょっちゅう気分を盛り上げるために聴いていたのである。つまりそれらは、自分にとっては同じくらい価値のある音楽であって、あの叙情的な名曲がひとつのエロゲーのCDロムの中だけに籠もったままなのは、いささか悲しい。


7月25日 月  
見せたがり

これはもう完全納得推敲できるまでHPには載せるまいと思っていた長編を、結局とりあえずこんなもんか状態で、アップしてしまう。またしばらくすると手を入れたくなるのは目に見えているので、限定公開とかもったいぶってしまったり。
今回、インターネット・エクスプローラーの5.5以上をお使いの方のみ、縦書き表示になるはずである。
<DIV style="writing-mode:tb-rl ; height:折り返したい長さ">なんてのと</DIV>の間に本文はさむだけで、一応縦書き表示になるんだそうだ。しかし他のブラウザでは横書き表示にしかならないらしいし、長文だといちばん左っかわ、つまりオチのほうが先に表示されてしまう。ネットで馬鹿長い小説なんぞイッキにのせるんじゃねえ縦書き民族、そんなところか。まあ実験的導入というところで、もしご覧になってくださる方は、申し訳ありませんが、ずりずりとスクロールしてからお願いいたします。
蒸し暑いのに窓用エアコンの使えない台風がやってくる。いいあんばいに蒸し上がって、すでに気分はサウナ居住。


7月24日 日  
重箱の隅

おうおう、今夜の『義経』は、気合いが入ってるなあ、これは黛演出のいいとこ取りで走るか、と思いきや、やはり脚本で首を傾げてしまうのであった。頼朝の造形である。沈着冷静の理論派、そんな造形路線でありながら、あそこでもっともらしく『九郎、なにゆえ事が見えんのか』などという格好だけのキメ台詞はないだろう。今回の話の流れで見れば、策士なればこそ、あそこでは一ノ谷での義経の活躍に先手を打って公的評価を与えて置かなかった己の判断ミスを、自戒していなければならないはずだ。あれでは責任転嫁か、判断能力の欠如である。とまあ色々あるにせよ、やっぱりこのところの『義経』は、ドラマ自体が佳境に入っているので萌え。
風呂に入りながらNHKの朗読を聴く。声優さんや役者さんの朗読もいいが、ベテランのアナウンサーさんの淡々とした口跡もやはり捨てがたい。ただ、やたら音楽を流しっぱなしなのはかんべん。ラジオドラマではないのだから、よほどキメのクライマックスとか劇的場面転換でもない限り、かえって言葉の邪魔である。


7月23日 土  
あの頃君は若かった (見ている自分は馬鹿だった)

               

               

             
ラストのみ、個人的追憶(ろりっぽいですが、大人)。

などとかんばしからぬ悪戯に耽っていたら、天の怒りか震度5弱の地震。積み上げられた書籍やテープの一部が崩壊するも、特に物損被害はなし。それどころか、このところ探していた鏡花の『夜叉ヶ池』の文庫が崩壊した中から発掘でき、ちょっと嬉しかったり。


7月22日 金  
星合戦

ほんとは真夜中に見ると情動全開で見られるんだろうなあ、と思いつつ、昼間に『エピソードV』を観戦。なるほど巷の評判や五十嵐氏に聞いたとおり、ドラマチック全開の感涙物だった。
正直言って、冒頭のいきなり最新CG使いまくりの満艦飾ドッグ・ファイトには、やや違和感を覚えたのだが(アニメとして観るべきなのか実写として観るべきなのか、古いミニチュア嗜好の爺いの眼には、難儀なのである)、それでもXウィングなんかが元気に飛んでいると、おうおうおう、と20年前の興奮が蘇ってくる。とにかくストーリーが、あの衝撃の第一作(エピソードW)にどんどん繋がって行くものだから、もはや他人事とは思えないのですね。ラスト前の溶岩惑星での、オビワンとアナキンの対決など、ビジュアル的にもドラマ的にも身もだえするほどの盛り上がりで、さすがだと感服するのは、そのシークェンスとヨーダと総統の殺陣が並行して描かれるのだが、編集が見事に双方を盛り上げている。ゴジラ・ファイナルの相殺編集の下手さ加減を、あらためて痛感。とにかくもうあの溶岩上でのアナキンの凄み、アタシもう完璧「ああ、もうどうにでもしてちょうだい」なんて、お顔もどこかも濡れまくりだったの(やめとけ)。
ただ残念だったのは、最も大泣きを期待した、ベイダー変身後のアナキンがパドメの死を知って咆吼するシーン、意外にも泣けなかったのである。これはなぜかと言うと、今回のアミダラが、ほとんど表層的なキャラ造形しかされておらず、ただ悲劇に翻弄される美女、それだけの役回りだったからだろう。ここを読んで下さっている何人かの方々には解っていただけると思うが、当方の『泣き論』としては、「お前が何を失ったかが問題なのではない。失われた物がどうであったかが問題なのだ」に尽きる。私物打鍵でも、失われて行く者を徹底造形してこその大泣き、そんな心構えの自分としては、あと10分上映時間が延びても、アミダラ姫をもっと描いていれば、あのシーンも絶対大泣きできたのにと無念。ナタリー・ポートマンは確かに居るだけで様になる美女ではあるのだが、エピソードTの初々しさはやはり陰っているし、往年のオードリー・ヘプバーンのような、佇んでいるだけでひとつの全存在、そんなオーラまでは備えていない(ただの個人的嗜好かもしれないが)。しかしアナキンの、えーと、クリステンセンか、あの人は歳をとればとるほど凄みが増していく。
何はともあれ、ラストのタトゥイーンの夕日に澎湃と涙湧き流れつつ、またYの大団円を観て泣こうと思う古狸であった。しかし、聞くところによると最新のDVDでは、その大団円の夜空に浮かぶアナキンが、しっかりクリステンセンに修正されているそうだが、やっぱりトリロジーBOXを買わないと観られないのだろうか。


7月21日 木  
ろりと特撮の間に

数年前に出版された、おたく学叢書なるシリーズの『スペクトルマンVSライオン丸』なる書物を、古本屋で購入。要はうしおそうじさんとピープロに関するドキュメント本である。
うしおそうじ=鷺巣富雄さんといえば、我々世代でのおたくにとっては、ある意味円谷英二監督や手塚治虫先生と並列関係にある方で、線画技師時代は円谷監督などと共に仕事をし、あの真珠湾攻撃に参加した航空兵たちは、氏の描いた線画で教練を受けたらしいし、また戦後漫画家に転身していらした時代は、手塚氏といっしょにカンヅメになっていたという看板選手であり、さらにその後その収入を元手にピープロを起こしてからは、アニメ・実写特撮双方で、やはり円谷監督や手塚先生と、並列していた方でもある。
現在両氏ほど名が大きく残っていないとすれば、それはたぶんうしお氏がある意味夢想家すぎて、あの戦後から高度成長期の『なんでもあり』の時代にしか、社会的真価を発揮できなかったからだろう。あくまでもビッグ・マイナー系の資質の方であり、経営能力とか、過大なカリスマ性とは違った次元の方だったのだろう。『0戦はやと』に始まる原作付きアニメや『アトム』の外注作品、特撮なら実写版『マグマ大使』、『宇宙猿人ゴリ→宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン→スペクトルマン』、それから『怪傑ライオン丸』や『風雲ライオン丸』――円谷プロや東映に伍して、良く健闘された方なのだが。それ以降のザボーガーとかは実は観ていないのだが、もうライオン丸後期あたりから、氏の夢と現実上のズレは、明らかだったように思う。制作者の脳内に広がる豊かな夢と、現実に映像化されたコスト削減による薄い映像に、乖離が感じられていたのだ。当時小学校から中学へと上がって行った、自分の精神的成長を割り引いても、である。こんな例えは氏自身や氏のファンに怒られるかもしれないが、あくまでも大ファンのひとりとして、どこかあのエド・ウッド的な、主観と客観の乖離を感じた。無論、エド作品よりは幾層倍の結果映像であるのだけれど。それでも仮面ライダーにはもう付いて行けなかった自分がライオン丸に付いて行けたのは、そこから制作者の脳内に確かにある、芳醇で大スケールな夢の世界を感じ取れていたからだ。
今回驚いたのは、氏の交友関係に、かのノーベル書房の当時の社長・山本氏が含まれているというインタビュー発言だった。ノーベル書房といえば、ろり写真集の元祖・聖典とも言うべき、あの『12歳の神話』を発行してくれた出版社である。あの一万円近くもする写真集を駅前の本屋で発見したとき、小学6年生だった自分は「これは自分の生涯になんらかの支柱を与えてくれるものだ」と身を震わせ、一晩悩んだ末に、当時月に450円しか小遣いをもらっていない身でありながら、お年玉等の貯金を全部引っ張り出して、翌日再び本屋に走ったのではなかったか。しかし残念ながら、もう売り切れてしまっており、さすがに注文を入れる度胸はなく、やがて発売された修正入りの普及版で我慢したのであった。もっとも10年後あたりに別の出版社から、同一写真や追加写真も入った版が2冊も出たのだが、その味気ない事務的な『書物』としての質感に失望し、購入は見合わせた記憶がある。『書物』には、たとえそれがペラペラの文庫本であれ高価な写真集であれ、『愛』がなければ、ただの情報の羅列にすぎない。言霊も光画の魂も宿らない。
まあ別に出版社の社長さんやうしお氏にろりの気があったわけではなく、単なる個人的な『同時代性』への追慕なのだが、やはり自分の精神にとっては、感慨深い事実なのであった。



7月20日 水  
どうどうめぐり

たれ気味。陽のある内は鬱勃となんかいろいろ義務的に生活し、深夜ようやく情動が復活する。まあ昔からその気はあるが、これに睡眠障害が加わると、もはや鬱病。まあ、明け方にしろ昼にしろ夕方にしろ、いったん寝に付けば熟睡できるので、問題あるまい(そうか?)。
打鍵物は、終わったはずのアレや、昨年の中編などまで引っ張り出し、ひたすら推敲状態。つまり一つの話の中になんかエラーが見つかると、同じエラーを他でもやっている可能性があるわけで、引っ張り出してチェックすると、しっかり日本語を間違えている。ほとんど誤変換の見落としで、大量ワープロ打ちの宿命だが、それを修正している内に、必ず言い回しの不自然さや言い足りない事なども見つかり、結局ずるずると続けてチェックしてしまう。未練なのねえ、などと美空ひばりさんの『悲しい酒』気分に陥りつつ、しかし魂だけはちゃんと吹き込んであるよな、うん、面白い面白い、なにこれ泣けるじゃん、などと自己満足にも浸れる。そうやって、けっこう高揚して深夜を過ごし――目覚めれば、また「ほんとにそうか?」と不安に捕らわれる日々なのであった。


7月18日 月  
暑中お見舞い申し上げます

もう2回も全編推敲したはずの昨年の打鍵物に、まだまだ3箇所の誤変換や日本語としておかしい部分を発見、さらに数カ所の部分も不自然、そんなこんなで昨夜は徹夜してしまい、朝方、ありゃりゃ、先月国民年金納め忘れてやんの、などと気がつき銀行に行き、そこで初めて本日が祝日であるのに気づく。なんかいろいろの後、16時就寝22時起床。もう人間として駄目かも知れない。ここに打った昨日の話も、今見れば言ってること訳が解らんし。思わず修正しようと思ったが、どう修正したらいいかも解らないほど訳が解らない。
しかしそれでも、やっぱり自分の本気打鍵物は面白い。人間としてどうであれ、仮想紙芝居屋の親爺としては、そう捨てたものでもないと思うのだが。そろそろ別の話も打たねばと思う、水道水の塩素臭い、毎日光化学スモッグ警報の出る今日この頃、皆様方におかれましてはいかがおすごしのことでございましょうか。わたくしはくそ暑いです。


7月17日 日  
ひろぽん

ああ、岡村靖幸さんが覚醒剤で逮捕されてしまった。そろそろこんな日が来るのではないかと、心配していたのだ。シャブや阿片に関しては、大麻と違って「だめ、絶対」の標語にまったく異存がないのだが、ヤの方や、おまいらそんなもんで無駄にゲンキしてねえでウザいから引きこもって寝てろよな方々と違い、情動憑依系のアーティストの方々、特に「純であろう」とする方々がそれに走るのは、気持ちが解るだけに辛い。40近くにもなってなお少年であろうとすること、いや、それを己の立ち位置として作品に表出することを義務感と捉えてしまうこと、それがつくづく難儀でドーピングの欲望に繋がるのは、どうにも他人事と思えないのである。当節、無垢であろうと志すことは、もはや逸脱なのだ。若い頃なら当然の資質でも、中年には力業である。特に世間の見えてしまった人間にとっては。
岡村靖幸さんのCDは、デビュー当時のもうすべてがみずみずしく輝いているようなアルバムから、最近のややヤバいというか、もう無理矢理「無垢」にすがろうとしている作品を含め、全部持っている。疲れると、今でも聴いてシャブ代わりにしている。大槻ケンジさんのような醒めた作家意識を秘めていないぶん、それはもうどんなに早熟で性的粘液質を装っても隠しきれない、たとえば自分が中学時代校庭の端の草叢で見つめていた「きっと現実であろう陽光の下の世界」、そんなものが確実に実感できる。今にして思えば、それは現代多く耳につく、形ばかりのラップもどきやレゲェもどきの愚痴の垂れ流し、あるいは心地よく表層だけを撫でていく「癒しなんていらねーよ、俺、ビョーキじゃねーんだからよ」と言いたくなるような「優しい音や当たり障りのない言葉」、さらに「おまいら若者ぶって元気に騒いでるけど、やってること95パーセントの演歌と同じただの空念仏だぞ、根性入ってねーぞ」的ウケ狙いとは違った、魂そのものの技巧的表出なのだ。はっきり言って、シャブでも入れない限り、中年以降にできる表現行為ではない。その歳になったら、真の天才でもない限り、もう『表出』から『解釈』へと移行するしかないのだ。ポップスもロックも演歌も、落語も講釈も、おそらくは文章表現も、表出から解釈へと移行せざるを得ないのである。マンネリと言われようが、恥じなくていいのである。解釈の結果「もう俺には無理」と思ったら、リタイアすればいいのである。路線変更していいのである。たとえばあの豊穣なクラシックの世界にしても、無限の『解釈』の芸術ではないですか。要は『考えるな、感じるんだ』と少年に諭す『燃えよドラゴン』のブルース・リーも、その時点ではすでに『考えずに感じるための方法論を考える』人だったのである。その結果が、あの「アチョー! アタ! アタ! アタ!」という怪鳥音、魂の表出なのだ。
そういえば、昔、職場の新入社員と岡村さんの話をしている最中、「でもオレ、クラシックは全然わかんないんですよねえ」と言われ、「音楽なんてみんな一緒じゃん」とか答えて、妙な顔をされた事があったなあ。
さて、我が魂の『スター・ウォーズ』の完結具合はどんなものか。五十嵐氏のメールによると大泣きの傑作みたいなので、コンディション整えて観に行かなければ。


7月16日 土  
涙と汗のみずうみ

昨日はさも平気らしく装ったが、内心、朝起きたらゴキに変身してしまっているのではないかとびくびくであった。
無事に人間の姿で起床、本日は久しぶりに図書館へ。引き続き去年のアレを徹底推敲するため、パロ元に使ったトーマス・マンの『トニオ・クレーガー』や、記憶で詩句を引用したシュトルムの『みずうみ』など、再確認したくなったのである。双方とも中学時代に涙した作品のため、文庫本は実家と共にゴミになってしまっている。
土曜の図書館は例によって多数のろりも棲息しており、清楚な断髪風のさらさら黒髪のジャンスカ女子中学生さんなども混じり、ほぼ『みずうみ』のラインハルト爺さんと化して涙する。ああ呼べど帰り来たらぬ若き日のイムメンゼーの乙女よ。
帰宅後風呂で水を浴び、体重を量ると半日で2キロ減っている。炎天下で一里も歩けば、いくらでも減量できる。しかしその後ビールを飲んで特売の鱒寿司を食べたら、夜にはしっかり1キロ戻っていた。


7月15日 金  
ゴキちゃんといっしょ

幸いにして我が天敵のひとつであるゴキは、比較的少ない建物である。年に数回程度の遭遇で、その半数はどこかですでに殺虫剤攻撃を受けたらしい、半死半生の姿だ。――などと油断していたら、本日、風呂場に入って仰天。でかい奴が窓から、とととととと。すでに全裸の状態で、そんな禍々しい生物に触れられたりしたら、発狂してしまう。そーゆー時に限って元気なゴキであり、人の気配を察して、たたたたたと天井方向に駆け上がる。即風呂場を脱出、しばらくして殺虫剤片手に恐る恐る覗いてみると――入浴していた。というより、釜が炊きっぱなしだったので、すでに茹だっていたのである。
茹だって羽根の拡がってしまったゴキというのは、なにかすでにゴキではなく、山の露天風呂などでたまに見かける、正体不明の昆虫のようだ。洗面器で掬ってトイレに流したが、さて残る問題は、その風呂の湯をどうするかである。水もガスも無料ではない。で、結局いつものようにダイソーの入浴剤を入れ、のんびり浸かってしまった。なにか自分というものが、もうひとつ大きくなったような気がする。今後はゴキの実存をも、同じ風呂に浸かった生物として、いくぶん許せそうな気もする。
打鍵物、ようやく第一次推敲完了。これで縦書き擬似活字状態でも、なんとか纏まったのではないか。


7月14日 木  
情緒不安定

まあ打っているうちからおおよそ思い当たってはいたのだが、今回の大長編は、考えてみれば去年の大長編と、テーマも物語構成も、ほとんど同じなのである。ただし舞台もビジュアルも文体もキャラも全く違うから、いわゆる『同工異曲』でなく、『異工同曲』といったところか。まあ自分の愛するクリエイターの方々は、ほぼそのパターンが多いので、自分がそうであってもなんら問題はない――のかな。まあ自分に出来ることは自分に出来ることだけなので(なんだそりゃ)、あえて星のまたたく巨大な瞳で、つけまつげでぱたぱたと風を起こしながら、「それは……愛!」などと居直るヅカ顔の狸なのであった、まる、と。
ミュージシャンや落語家さんは同じ作品を何度繰り返してもOKなのに、漫画家や作家はなぜ同じ話を何度も発表してはいけないのか、そんなギャグめいた愚痴を何人かのクリエイターさんが書いていらっしゃるが、実際には、ほぼ同じプロットやテーマを、趣向を変えつつ反復しているカルト型のクリエイターの方も多い訳で、それはそれでひとつの生き方だろう。要はそのテーマやプロットを、ただの使い回しでなく、その都度磨いて行けばいいだけのことだ。そう考えてしまえば、落語も音楽もいっしょである。「歌いっぷり」「語り口」、それだって立派な芸である。
しかしプリントアウトしてチェックしていると、我が芸のあまりのバグの多さに辟易。ちょっと思い当たって過去の打鍵物なども引っ張り出すと、やっぱりバグ入りであっちこっちなんかしてしまっている。頭を抱えて消沈するも、やっぱり捨てがたい情動もあるので、ますます気分は浮いたり沈んだり、収拾がつかない。


7月13日 水  
もやもや

さすがにこの大量のテキストをチェックしていると、精神状態が万華鏡のように変転する。おうおう、これはなんと超弩級うるうる、などと自分で感激する部分もあれば、うーむここはちょっと潤いが足りんなあと首を捻る部分もあれば、この馬鹿何打ってんだと首を吊りたくなるような誤謬もまだ残っている。最も始末に負えないのは二番目の部分、つまり「なんとなく違う」ところ。どう直していいものやら、結局一時間捻り続けて、お手上げになって元に戻したり――そんな隘路に、昨日から迷いっぱなし。まあ去年の長編といい、出来上がってからひと月も唸るのは毎度のことなので、この鬱勃たる日々もお祭りの後の宿命と諦めるしかない。


7月11日 月  
じめじめ

こんだけ暑ければコインランドリーの乾燥も早かろうと思ったら、冬よりも時間がかかる。風呂上がりの頭を扇風機に晒していても、ちっとも髪が乾かない。とにかく湿気が多い。そろそろ黴の生えた脳味噌が、耳から溶け出してきそうな気配だが、地方によっては大雨で体ごと流されてしまうのだから、脳味噌が流れるくらいでぼやいていてはいけないのだろう。
暇を見ては例の打鍵物を愛撫し続ける。しかし、一度外に出してしまった幻想というのは、頭の中だけにあった時の快感もいっしょに出してしまっているので、脳味噌自体は確実にその部分のみ、いっとき乾いたスポンジ状になる。願わくば垂れ流した情動が、少しでも読んでくださった方に染み込んでおりますように。
一度脳の外に外に出してしまった作品はもう皆さんの物、一度外に産んでしまったキャラはもう自立した個性、といった感覚は、色々な創作関係の方がおっしゃっている事であり、産みの喜びはあるものの、やっぱり一抹の寂しさも感じられる。20年近い欲求不満から解放され、ただ産むだけで夢中になっていられた昨年の今頃とは、やはり感覚が違って来ているようだ。産んだ後の虚脱感が大きいのですね。これなら産まずにずっと己ひとりの脳内で育てていた時の方が、自分だけの快感は勝っていたような気も――いかん、歳だ。頑張ってまだまだ産みたいし、産んだ子も育てねば。
しかし、産むための子種を無理に漁ったり、すでに自立した子に執着し続けるより、産むこと自体に自然体な方々が羨ましい。たとえば漫画家ならつげ義春さんとか、ミュージシャンなら時々覗かせていただいているhttp://homepage.mac.com/tom22cq/Menu4.htmlのTOMさんなどである。TOMさんという方は、往年の『ふられ気分でRock’nRoll』のヒットで一発屋的なイメージが強いTOM☆CATの方だが、実際にはとにかくマイ・ペースでじわじわライブなどを続けておられた方であり、現在は溶接工やらなにやらで生計を立てながら、焦らず騒がず歌が産まれるのを待っていらっしゃるようだ。まあ、商業的作品製造業タイプでない人間は、自分の魂から何かが垂れ流れるのも、脳内に引きこもったままになるのも、要はその『何か』に任せるのが潔い、そんな感じか。真似のできない自分は、ただ狸穴から出たりひっこんだり、うろうろするだけだが。


7月10日 日  
しこしこ

古本屋で、10年前に出た小泉八雲関係の岩波新書と、20年以上前に出た岡村喬生さんの『ヒゲのオタマジャクシ世界を泳ぐ』など購入。
岩波のほうは、なにか歴史畑の先生の書かれた本で、全集と評伝の2.3冊読めば誰にでも書けそうな内容。こーゆーのも学問と言うのか、などと思ってしまったり。さも「新しい事に気づいたのだ」的書きっぷりだが、それって八雲マニアならみんな感じている常識だぞ。まあ八雲と言えば『怪談』しか知らない、ただの古い親日家だと思っている人が、作品を読まず評伝も読まずに八雲の持つ陰影・歪みを知った気になるには、いいかもしれないが。一方往年の国際的オペラ歌手・岡村さんの留学・海外転戦記は、実に生き生きとして名著。言葉も情報も、しっかり熱い血が流れている。しかしどっちの本も同じ100円均一コーナーというのは、不公平なのではないか。
夜間しこしこと例の長編の推敲をしていて、始めの方に『申されました』などという恥ずかしい謙譲だか尊敬だか解らん表現を書き殴って、いや、打ち殴っているのを発見、思わず「ひええええ」などと飛び上がり、慌てて投稿板の奥に引っ込んだのも修正。ああ、こんなんででかい面をしていた自分が恥ずかしい。しかし日本語の敬語という奴は、尊敬語やら丁寧語やら謙譲語やら、訳が解らん。二度とこんな文体ではものを書くまい。でも出来てしまったものはやっぱりかわいいので、しこしことバグ取りや愛撫は続けねば。かわいがってやれば、そのうち「うっふん」などと、打鍵物のほうからこちらを慰撫してくれることもあるのである。


7月9日 土  
ごそごそ

筑波大助教授の五十嵐一氏が殺害された事件は、あと1年で時効だそうである。『悪魔の詩』の日本語訳をやった方である。イスラム教を冒涜した小説として、故・ホメイニ師が「作者を殺せ」とブチ上げて、それっきり死んでしまったため、その詔は現在でも生きているそうだ。もっともなぜか作者は元気にイギリスで、行き届いた警備のもとに生きており、そのかわりあっちこっちで警備意識の甘い翻訳家が殺戮対象となっている。どうせアラビア語しか話せない神様をあがめているのだから、他国語のことまで干渉しないで欲しいものだ。などといいつつ、イギリスでも多発テロ。楽でいいよなあ、おまいら。警備の薄いとこだけで見境いなく民間人殺していても、聖戦なんですね、宗教戦争と言う奴は。
昨日は出先の知人から、ノート・パソコンを貰い受ける。HDが怪しく下取りはタダ同然で、捨てるのも馬鹿馬鹿しい、そんな理由で無料。シャープのA4サイズのメビウスである。と言っても、ウィンドウズ98が出たか出ないかという頃の、HDは3ギガ、メモリは64、CPUはペンII233と骨董品級。HDは物理フォーマットしたらまだ大丈夫のようで、meもちゃんとインストールできた。喜んで外観も磨いたら、パーム・レスト以外は結構綺麗になり、液晶パネルの傷も、ちょっとした荒技で一見目立たなくなる(無光沢の液晶表面のちょっとしたスリ傷は、『激落ちスポンジ』の類で、軽ーく愛撫する程度に撫でさすってやると、目立たなくなるのである。もっとも材質によっては壊滅するので、ジャンク以外ではお勧めしません)。ちょうど旧ウィンドウズのソフトが使える機械が無くなっていたので、ありがたく古ソフト遊び兼移動打鍵用として使わせてもらおう。フロッピーもCDもUSBも生きており、データ記録はありあわせのUSBメモリを使えば、本体は途中でお亡くなりになっても平気。ワープロ代わりなら、処理速度もけして遅くない。それもそのはず、発売当時は30数万もしており、ビンボな社会人には垂涎の的だった品物。もっとも、やはり知人から昔在職中に5万円で譲り受けたバイオのB5ノートも持っているのだが、キーボードが小さすぎて本気の情動まかせの創作は無理。
胃袋、ようやく機嫌を取り戻したようなので、ビールと冷や奴と鰊の甘露煮ととびきりそば、そんないつもの食生活に戻る。やはりイカゲソが傷んでいたのか。


7月7日 木  
ぶちぶち

昨夜は夜中にいきなり腹が痛くなり始め、吐くわけでも下るわけでもないのにただ苦しく、胃散を飲んで明け方まで「うええええ」などと悶える。いよいよ胃壁も寿命かと怯えたが、昼過ぎにぐったり起き出せばもう腹の虫が「なんかくれ」と鳴いており、わけがわからん。一昨日買っておいたイカゲソの天ぷらが、傷んででもいたのだろうか。あるいは永島さんの訃報が肉体的にもこたえたか。
例の書院のオークションは落札できたと思いきや、出店主の方から、システム・ディスクがどうしても見つからないとのメール。残念ながら取引成立せず。まあ考えてみれば、つかのま懐旧の情に逃避していただけにも思えるので、これからの打鍵環境をいじるほうが建設的か。ちなみに昨日の続き、バーティカル・エディタのおめかしに関しては、縦書き表示やアンチ・エイリアスのエンジンが当方のグラボと相性でも悪いのか、どうもO’sエディタのように綺麗に表示されない。MS明朝体だと荒れるし字間も間延びしたり詰まりすぎたり、ヒラギノ明朝体だと文字欠けが起こる始末。横書き表示ならきちんと出るのだが、そもそも縦で読み書きしたいから模索しているのである。
なんのかんので、これも別に買っておいた教科書体で試してみたら、なんとか国語の教科書のような画面になる。でもやはり、ちょっと荒れ気味。まあこれはエディタのせいと言うより、システムもからんでいるのだろう。
とりあえず七夕なのでOK(なんでや)。




7月6日 水  
モニター上読書

さて世間には様々なパソコンや携帯や専用機での電子読書形態がある。何年か前まではエキスパンド・ブックというソフトで、青空文庫のボランティアの皆様がテキスト化してくださった過去の名作を、モニター上で読ませていただいていたのだが、その形式自体が、もう廃れつつあるようだ。その頃は種々のエディタなどという存在を知らなかったので、テキスト情報を活字読書同様の感覚で読むためには、やっぱりプリント・アウトしてそれを読む、そんな仕儀になっていたのだが、近頃は『O’sエディタ』というシェア・ウェアと、『千都フォントライブラリー ヒラギノ明朝体4 TrueType』の併用、さらに表示設定変更によって、プリントしなくとも、ほぼ書籍と同様の感覚で読める。以下の画像は、青空文庫で無料でいただいた『ラッパチーニの娘』(ナサニエル・ホーソン作、岡本綺堂訳)を、パソコン上で読む時の画面である。縮小してあるので不鮮明だろうが、我が1024×768の環境では、まことに落ち着いて読書に没頭できる。



なぜ合計1万円近くもかけてエディタやフォントを使用するのか――それは、ワードなどでは本気の読書ができないし、MSお仕着せのフォントも、事務用文書用の味気ない情報に過ぎないと、個人的に感じられるからである。
ちなみにエキスパンド・ブックは、以下のような表示である。雰囲気は上々だが、やはりフォントの味気なさは否めない(縮小してあるので、ちょっと荒くて横長の字体が、原寸より優しく見えるが)。



思えば小学校時代に子供用に抄訳された名作全集で、そのお耽美な物語に魅了され、やがて高校時代に田舎の図書館で『綺堂読物選集』の綺堂訳に接した時、その文章そのものを自分で所有する手段は、どこにも存在しなかった。本は絶版だし古書など田舎では探す手段もないし、あったとしても相場が高くて買えない。したがって、読みたくなるたびに県立図書館から借りてくるしかない訳である。やがて大学時代、バイトも出来るしコピーも安価になったので、わざわざ帰郷のおりにまた借りて、一部をコピーしてファイルしたり。
それが現在では、綺堂作品のほとんどが繰り返し文庫化され、果ては無料で電子的テキストが手に入る。歳食っててよかったとつくづく思えるのは、『ラッパチーニの娘』、あるいはホーソン、さらに岡本綺堂、それらへの個人的な思い入れが、時代の変遷、メディアの発展ごとに何度もしみじみ反復できた、そうした部分に尽きる。たとえば現在の少年少女が、いきなり青空文庫でそれに接したとして、横書き表示の味気ないフォントから、果たしてその情動をどこまで脳内で味わえるか――まして、あのちっこい携帯画面から生じる文学的感興とは、いかばかりのものか。昨今流行りの携帯短歌のような、日常性と軽妙さは得られるとしても、しんしんと冷える田舎の図書館で、窓の雪を感じながら、自分の脳裏に展開していたあの哀しくも狂おしい南国の毒花の庭園――そんなトリップ感は得られるのか。
そんなこんなで、投稿板に上げた拙作に、お若い方が「ぜひ本で読みたい」などと感想を入れてくれると、ああ、微力とはいえ自分の発した情動が、電子的なテキストから活字へと遡る読書感覚を産んでいるのかなどと、つくづく嬉しい今日この頃。
さて、それならいっそアウトラインおよび通常打鍵用に使っているバーティカル・エディタでも、そんな完全活字感覚で打鍵できないか――長くなるので、次回へ。
夜になってやっと今朝の新聞を読み、永島慎二さんの訃報を知る。『シリーズ黄色い涙』のこの方も、自分が勝手に心の師匠だと思っている方である。「真に幸福であること それは私たちがいかに終わるかでなく いかに始まるかの問題であり 又、私たちが何を所有するかではなくて、何を欲するかの問題である」。氏の『嘔吐』という作品のラストで引用されていた、スティーブンソン(『宝島』の作者ですね)の言葉である。妥協・要領・恥の放棄、それらによっていくらでも物質的な豊かさや、より大きな賛辞を得られたはずなのに、矜持としてそれをしなかった方である。合掌。


7月5日 火  
爺いの徘徊

昨日はなんかいろいろやら打鍵物チェックやらで鬱々と籠もっていたので、本日は純休日とする。午前中母親よりサクランボなど届き、電話すると当然その時点では忘れているが、お礼を言えばすぐに思い出したので上々。
暑いとはいえ久々の晴天、河原から隣駅の古物屋から曙橋から秋葉原から、無分別に歩いたり電車に乗ったりまた歩いたり、汗だくだがとにかく歩き回る。籠もりがちの欲求不満が溜まっていたためもあるが、久々に大長編を上げて昨夜あたり虚脱状態になり、何かやたらと昔が懐かしくなって、よしちょいと原点回帰を試みようなどと、どこかに古い書院(専用ワープロですね)の使える奴が転がっていないか、探し回ってみたのである。ネットのオークションなどを見ると二束三文でたくさん出品されているが、大概今回の長編で舞台にした1990年代後半、ワープロ専用機末期の白黒液晶やカラー液晶のラップトップで、前期の懐かしきデスクトップ一体型などは、さすがにほとんど見当たらない。そりゃ1985年から90年あたりの品物だから、大概寿命を終えているのだろう。あちこちの中古屋でも出物は同様にラップトップばかり、つまり自分が商品として盛んに売っていたような機種ばかりで、それだとどうも別種の原点回帰になってしまう。結局老舗の中古屋でも「さすがにもう出ませんねえ」という話で、いささか寂しく引き上げる。まあ帰途に寄った遠くてでかいダイエーで、例のレトルトのビビンバ丼が買えたので良しとしよう。
さて今日は8キロは歩いたな、などと大汗にまみれ帰宅、結局ヤフオクで比較的古い緑液晶表示の書院を発見、ショップ出品でちゃんと動きそうだし、自分の私用していたデスクトップに操作性が近そうだし、価格も1500円と安価なので入札してみる。どうせプリントアウトはパソでやるのだから、フロッピーさえ動けばいい。DOS変換機能は確認できないが、書院フォーマットである限り、ちゃんとパソの書院で読めるのである。書院、エラい。もっともIDE接続の3モード・ドライブ、OSもme以前に限られるので、じきに遺物化してしまうのだろうが。


7月3日 日  
スイカ頭

ふと思いついたタイトルを打って、あれ、これは特に悪い頭を言うのではなく、テンテンちゃんの仲間の男の子のオツムの形を表していたのかな、と思ったりしているが、まあいいや。だいたいテンテンちゃんだってもう忘れた、あるいは知らない方も多かろうし。とにかく今夏初めてスイカの切り身を買った、という話を、己のボケ頭の話に繋げようと思ったのですね。
昨年の大長編を終えた時には、なにせ純ギャグを除けば創作活動そのものが20年近いブランクを経てのことであったから、妙に高揚してステーキなど奢ってしまったのであったが、今回は案外冷静で、語り終えたという充実感はあるものの、いやまだこれからどうせ当分突っつき直すことになるんだよなあ、そんな醒めた部分もある。そもそも打鍵中半分過ぎたあたりから、もう前半をしつこく見返したり修正したりを繰り返さないと、とんだ馬鹿を打ってしまって話がおかしくなったりしていたのである。
学生時分などは、打っている内容こそ己の内側にばかりベクトルの向いた拙い独善であるにせよ、大学ノート1冊埋めても、自分がどこに何を書いたかはおおむね覚えており、馬鹿は馬鹿なりに全体像を把握していた。ところが近頃は、ベクトルをきちんと外に保とうとか、どう描写すれば己の独善をもっともらしく正当化できるかとか、その場その場での理性は保っているつもりなのだが、あらかじめ作っておいたアウトラインに依らない細部を、打って三日もすると忘れてしまっている時が多い。あれ、なんかこの趣向は一度どこかで、とか、おや、この言い回しはなんだかよくわからないがちょっと矛盾感が、とか、ひんぱんに思い当たってそのたびに過去の打鍵を確認すると、しっかり重複したりズレていたりする。まあ全体の勢いとか流れが続いていれば、そうした部分は案外読者は気にしない、いや、プロの作品にも結構あって読者としての自分もさほど気にしない、そう思いつつ、やっぱり性分上修正しないではいられない。
そんなわけでステーキは奢らず、スイカの切り身を買うにとどめたのだが、本当は近頃のマイ・ブーム、レトルトのグリコDONBURI亭ビビンバ丼買いたかったんだよなあ。なんで西友も長崎屋も、そして最後の砦だったマルエツも、取り扱いやめてしまうのだろう。野菜も結構入ってるし、味が濃いので丼一杯の飯全部カバーできるし、玉子一個落とせばそれだけで一日の栄養OK、そんな気がするのに。牛や豚や鳥の丼なら、外で幾らも安く食えるのである。
まあスイカも美味いからいいか。栄養はどうなのかは知らないが、風呂上がりのシャクシャクは、やはりしみじみ幸福。そうしたシアワセ気分で前夜のリリーズを再確認すると、確かにブランク長すぎて声は出ていないものの、やはり可憐な面影はしっかりと保たれているのであった。そして若者さながらと思われたロカビリー老人たちも、お顔はツヤツヤだが、やはり高血圧のつくづく心配な盛り上がりなのであった。


7月2日 土  
酩酊

あれー、俺なんでこんなこと打ってるんだろうなあ、同じ事三回もしゃべってるじゃん作中の俺、などと一抹の疑問を抱きつつ、昨日の夕方から午前3時まで、一度寝て9時には起きて夕方5時まで、40枚弱の最終章をこねこねとこねくり続ける。一応完結したのだが、自分の思い出やら好きな先人の詩などぐにゃぐにゃ練り込まれてしまったので、このままアップしたら最後の最後でまた恥をかくから一日ぶりの飯食ってのんびり風呂入ってからチェックしよう、などと思いつつ、レトルトのビビンバ丼を食いながら録画しておいた『夏祭りにっぽんの歌』などをビール片手に見始めると、ロカビリーからリリーズまで過去の郷愁が年代無視で視界を行き来し、尾藤イサオさんとまゆみちゃんやなおみちゃんが同じ年格好に見えるのはなぜだ尾藤さん二十年前の映像でリリーズは十年後の映像かしかし同じ舞台に並んでるよなあなどともはや完全に脳がイッてしまっているなあと呆れていると句読点の打ち方まで朦朧としてしまっている今日この頃皆様方におかれましてはいかがお過ごしのことでございましょうや否や。
冗談はさておき、ラストの綾さんのセリフだけはもうこのまま何があっても修正するまい級のトリップができたと思うから風呂から上がっても絶対修正するまいと決意しつつエディタで全編原稿用紙換算してみたら五百三十数枚――なんと、昨年のこの時期に打ち終わった現在ある野望のために封印中の長編と、ほとんど同じ枚数で仕上がっているのであった。これはいよいよ、自分はショートを除けば常に打鍵前の目算の三倍打たないと語り終えることができない、そんな超クドい性格であることを改めて確認。
しかしたった350ミリリットル缶のビールで、なんでこんなにリリーズといっしょに風呂に入ってシワを伸ばしてあげようなどと張り切っているのだろう私は。尾藤イサオさんや佐々木功さんの超元気爺さんロカビリーと、すっかり声のしわがれたリリーズを同時に観てしまったからだろうか。ああなおみちゃんまゆみちゃんすみません仙台の予備校時代に14歳のあなたがたを駅前のデパートのキャンペーンかなんかで初めて見かけてああこの子たちはきっと俺を地獄から救ってくれる天使の双子ちゃんと確信し最後までレコード買い続けた私です数年後中央線の車内で偶然お見かけし私こーゆーものですと注文先に届けようとしていたイラストマップなんか広げてみせてまあかわいいなどとハモって言っていただいてサインしてもらったルーズリーフはいまだにきちんと宝物にしていますああ好きよっ♪ 好きよっ♪ キャプッテーン♪ テニスっ♪ 焼けのっ♪ えがーおーっ♪


6月30日 木  
放棄

さて警察は同業の盗撮犯かばいまくるわ、悪質リフォーム業者は大手を振って盗みまくるは、少女の敵神父の教団はろくな手入れも受けず表向きもう関係ないと言いながら相変わらず拝んどる馬鹿放置状態だわ(オームの教訓を、もう警察も公安も反省するだけの学習能力が失われているのだろう)、正直言って、もう一銭も税金払いたくない気持ちなのである。平成天皇と皇后様のご決断くらいしか気持ちのいいニュースがないのだから、自分という爺いの感情右傾化もむべなるかな。もはや、ならやたかしさんのケンペーくんに、マジに発動してもらいたい気分である。自分も真っ先に斬り殺されてしまうだろうが、幾多の馬鹿や既知外もいっしょなら、我慢できそうな気がする。
陰鬱な雨が上がったと思えば蒸し風呂、喉の痛みをこらえつつ(明日はまた医者に行こう)なんかいろいろの外出、帰りに御徒町の上野文庫に寄って、とりあえずもう何かにすがりたい一心で、自分が生まれた前後の新書本、『蟻の街のマリア』と『粒ちゃんの灯』など購入。立場は違うが、当時のバタヤと呼ばれる最下層の職業の人々の中で、献身の末死んでしまった女性や生き抜いたおとっつあんの実話である。なんというか、少し前までは『衣食足りて礼節を知る』というのが人間の本質だと思っていたのだが、どうも現実には『足りても足りなくともいい人はいい人で糞は糞』、それが人間の本質らしいと、半世紀近くも生きて、やっと気づいている狸なのであった。
といって自分はどっちつかずの狸穴生活、もう死ぬまででんぐりがえりしながら何かに化ける稽古を続けるしかないのだろう。とりあえず自分のためにあくせくするのはもう辛気くさくて仕方がないので、放棄。死なない程度のエンタメをめざします。まあそれも結局自分のためなんだが、やらずぶったくりだけはするまい。


6月29日 水  
蟄居

扁桃腺がぶり返しかけ、終日蟄居。『義経』の録画を観て、おうおうやっと盛り上がって来たではないか、という印象。ドラマ自体が激動しており、無色透明義経、ようやく自我に目覚めたの感。義仲も巴も、最後の最後でようやく人形から人間に進化し、もうちょっと先になんで進化させられなかったのよ、と歯痒い思いをする。今回もまた木村隆史という方の演出。手堅く、うまい。
『鑑定団』は、総集編の造りで過去の映像はろくに品物が見られず、判定不能多し。ただ宮沢賢治や石川啄木の書簡に何十万・何百万という値が付き、生前不遇だったあの世の彼らに、伸助さんが「化けて出なさいよ!」と連呼したのは、しみじみ同感した。あの世で彼らがそんな様子を見ていたら、まあ賢治さんは穏やかに含羞に満ちた微笑を浮かべ「……不思議ですねえ」とか呟くだけだろうが、啄木さんあたりは「そーだろ! そーだろ! 俺ってやっぱサイコーだったじゃん! きっちり走ったじゃん! ……でも、その金、ちょっとこっちに送ってくれんかなあ。なあ、節子」そんな感じで悔しがりそうな気がする。


6月28日 火  
乖離

たまに民放のテレビを観ていると、あのCMという本来購買意欲をそそるべき映像・音楽が、ほとんどは自分にとって邪魔臭いだけの存在であり、まあ昔から録画再生機にCMカット機能があるくらいだからそれは当然として、実に半数近くが嫌悪の種であることに気づく。
代表例を挙げると、なんか街路に積み木のような自動車やゼンマイ式玩具のような自動車が楽しく駐車しており、ハイウェイを走る車たちもカラフルでとってもキュートで、ああ、世間の車もこんなデザインや色調だったら絶対人心も和やかになり事故もへるだろうなあ、などと感心して観ていると、その中に味気ないメタリックの殺伐とした車種が「俺、主役」的にのさばり出し、なんとそれがそのCMで売ろうとしている車らしいのである。……少なくとも、自分はもうそのプ○ョーという自動車会社の世界観の中には、住めない人間のようだ。まあ他の国産車のCMもCGだらけで、自然の光景まで歪ませまくりなのだが。
自分の愛用のシェーバーは、シックのインジェクターIIである。当世風にぐにょぐにょヘッドが動いたりはせず、武骨だが機能的にはなんの不足もない。もう10年も使って本体はボロボロ、無論遠の昔に製造終了であり、ただ替え刃だけは細々と売られているので、まだまだ現役である。何度か新製品を試したのだが、ヘッドがぐにょぐにょ動いたり、そり残し無し三枚刃とやらが自分の癖髭の場合毛根まで引きずり出してしまうらしく、血みどろになってしまう(ちなみに電動シェーバーでも、高級品だと顔面血みどろ状態になる)。よって自分には、その二枚刃のシックIIが、最良のシェーバーなのだが――もう替え刃しか買えない。
スーパーで買い物をしていても、ちょっと気に入った商品の多くはいつしか姿を消し、嫌でも新奇なものを消費しなければならない。一方で街角には『世界の貧困を救おう』といったお題目が溢れかえっているが、いわゆる先進国が無限の『無駄遣い』によって経済を転がしている限り、そっちに金など流れるはずもない。なにしろ姿を消してしまった旧製品すら、先進国ではプレミア付きの消費行動に転化してしまうのだ。
ぐぞむじあづい猛暑の中、なんかいろいろの隙を見て打鍵物のチェック。市販の小説より面白いと言ってくださる読者様に平身低頭しつつ、自分の打鍵物はいわゆる現在の流行り物よりは根性入れたつもりだが、数多の古典的名作に比すれば児戯に等しい。言霊の使い方だって、古典や種々の伝統話芸や新派劇や近代歌舞伎を参考に、大道芸や活動弁士のレベル目指して(けしてそれらを卑下するのではなく)日々唸り続けているだけだ。
日用品も言霊も、言ってしまえば前世紀までに先人が産んでくれたもので、充分なのだ。それらを真摯に使わせていただきながら、日々己の髭をそったり、夢という古い替え刃を探し回るだけだ。


6月27日 月  
憑依

昨日から物語が憑依し――というより、当初から繰り返し脳内でリピートしていたクライマックスの打鍵に入り、久々に集中できたのだが、なにか醒めている自分もあって首を捻る。いや、自分でも正直涙を拭きながら打っているのだが、それでも物語を収束しなければならないという理性の比重が高い部分になってしまうので、間奏部のような、打っているうちに自分でも「おいおい」「どーすんだよこれ、後で風呂敷に収まるのかよ」的なトランス状態を、セーブしなければならないのである。そのぶん表現が事務的にならないよう、気を遣ってはいるのだが。まあ、なにはともあれ、残りは終章のみ、この最後の最後では、またトランス状態のまんま幕、そんな余韻だけは確保したい。


6月25日 土  
湖底の死美人・謎の冷やし中華

確か橘外男さんの作品だったと思うのである。あるいはそれを原作とした漫画だったかも知れない。とにかく謎の湖を探る人々に次々と不可思議な事件がふりかかり、オチは、冷たい湖底に(確か発見されにくい、二重湖の下だったか)屍蝋化した古代の一族がそっくり姿を保っていて、その死霊が外界の人間を呼び込んだりしていたというようなストーリーだったと思う。その中で、主人公が行方不明になっていた恋人を発見し思わずその手を引くと、掌の皮がするりと脱げてしまうシーンがあって、子供だった自分は、「うああああ」などと慄然としたのではなかったか。
で、そのイメージを今回の私物打鍵にオマージュとして(いやあ便利な言葉だ)使わせてもらった。いや、屍蝋化した死体に関しては種々のホラ話も法医学的な話も多々あって、必ずしも橘外男さん限定ではないし、あくまでも自分の言葉で表現したのだから盗作には当たらないと思うのだが、ただなにぶんはるか幼時の記憶のこと、字義的・文章的重複があれば、これは盗作になってしまう。
そんな訳で投稿板の方々にも訊いてみたり、検索かけたりもしてみたのだが、それらしい話がみつからない。そもそも『橘外男』での検索結果が、ほとんどないのである。いくらなんでもそんなにマイナーな方ではないのだがなあ、現に学生時代は桃源社の古本や教養文庫の選集がちゃんと手に入ったのに――そう思っていろいろやったら、『新青年』と『橘外男』を重ねれば、なんぼでも検索結果が出るのであった。ううむ、検索システム、謎。
さらに悔しいことに、かつて自分が本当に死ぬほど忙しく、たまの休日はぐったりたれているかビデオを観るくらいで、マニアックな書店など回る気にもなれなかった時期に、なんと橘外男さんのかなり充実した選集が編まれていたのであった。「なんだよほんとにもういぢわるなんだからもう」などとぼやきつつさらに検索すると、その一冊の収録作品に『人を呼ぶ湖』などというタイトルを発見、どこかに荒筋でもないかとさらに検索したら、残念ながら筋はなかったが、昭和26年の『少女の友』に、藤崎彰子名義で連載された作品らしい。その10年以上後の少女雑誌なら姉や従姉の物を読んだ可能性はあるのだが、そもそも橘外男作品として子供時代に記憶しているのだから、別ルートで読んだのだろう。
これは実際読むしかないと、さっそくその『橘外男ワンダーランド 怪談・心霊篇』を探してみたら――ほとんどの店ではもう取り扱い不可、ただアマゾンだけがひと月以上待てば取り寄せすると記されている。古書もネットでは見つからず、結局アマゾンに注文したのだけれど、本当に入荷するのか。今までもCDやDVDで、「実は廃盤再プレス予定なしすまんすまん」でオチたことがあるからなあ。まあそうなったら古書店を巡るしかない。
夜間熟睡不足のためか、本日は昼の1時頃にも強烈な睡魔に襲われ、3時間ほど昏々と眠る。起きがけに、郷里の城跡のお堀が、すべて大量の冷やし中華の山になっており、苦労して巨大なビニール袋をかかえ、酸っぱいスープを撒いてまわる夢を見る。昨日の買い物で、食性にインスタント冷やし中華を加えたためかもしれない。いや、昼に投稿板で、フードバトルネタのコメディを読んだためか。


6月24日 金  
6月の濡れた下着

やめろってそーゆータイトルは、と自分で軽くツッコミつつ、全身びしょぬれなのである。
このところ病気のためか薬のためか、夜10時頃には睡魔に襲われて就寝、といっていつも寝ている時間ではないので夜中の3時頃には目が覚め、それでも寝床を離れる踏ん切りがつかず、6時頃まではうだうだ床の中である。本日は起きてから10時頃までを私物打鍵に当て、結構メロメロに高揚。それから天井の火災報知器の再チェックが入り、業者の方や管理人さんにちょっと付き合う。隣室の報知器を修理した段階で当室は無事復帰、お隣の断線かなにかだったらしい。これでもう部屋を燃しても大丈夫(違う)。
管理人さんに、もうちょっと部屋の書籍類を減らせないかと、不安げなご指摘。窓以外の壁がほぼ書籍というのは、鉄筋の建物なら別に問題ないはずなのだが、やはり古い建物なので心配らしい。これでも2年ほど前に一度注意されてから、半分近く始末したのだが。だいたい以前住んでいた木造モルタルのアパートの二階でも、始末する前の状態、つまり一室がごく狭い通り道を残しほぼ書籍の状態で、床が抜けたり傾いたりはなかったのだから、見かけほど重くはないのである。半数がコミックスなので、紙が軽いのだ。これが皆立派な文学書だったりしたら、とうに床ごと崩落しているかも知れない。しかし、やはりここ2年でまた増えたぶん、駄本を整理しないとまずいだろう。
それから昼飯と買い物に出ると、真夏。道行く人が汗を拭いているくらいだから、暑がりな自分はすでに1キロ歩いた段階で脱水症状を呈し、思わず道端のブロックに腰を下ろし、パワビタ飲んで小休止。光化学スモッグ警報まで流れる中、やがて全身濡れそぼって帰宅すると、体はぐてぐてだが、喉の痛みが劇的に引いているのに気付く。薬のおかげもあるのだろうが、要はあれですね、汗と一緒に毒素も流れ落ちたのだろう。


6月23日 木  
ちょんがーの夢

喉の痛みと微熱と薬によるボケの中、餓死しないためのなんかいろいろも、尽きてしまった下着のためのコインランドリーも、じめあづいからといって省略する訳にはいかない。そんな中で、いつものようにしばしば電話が鳴り、様々な勧誘。しかし半数は「奥様はいらっしゃいますか?」なので、「いません」で済むのが救いである。しかし今日はけっこう丁寧な中年女性の化粧品勧誘の方に、「あら、独り者でいらっしゃいますか、失礼しました」などと言われてしまった。おいおい、そちらで言うなら『おひとり身』とか『独身の方』だろう、と思いつつ、悪意もないようなので聞き流す。実際サミしい独りもんだし。
私物打鍵は生アクビ頭で牛のように鈍いものの、少しずつ破局(もちろん自分の作る話は、極悪人以外は絶対破局でそれっきりなどというリアルで終わるはずもないのだけれど)に向かい、なおのこと打鍵が重い。もう美女(元?)がぐっちょんぐっちょんだし美男はそれでもずっぷしだし、現実的リアル(?)の対極だからこそ、感情的にもビジュアルも仮想としてリアルでなければならない。まあ全編の幾つかの勝負所の内でも、最もクライマックスに近いひとつなので、焦らずじっくり薬ボケの回復を待って推敲しよう。
しかしアッパー系の合法ドラッグとか、非合法でシ○ブっぽい薬などの電話勧誘が来ないものか。証券や保険などに回す金はもうないぞ。家も墓も健康食品も買えないぞ。ただ高揚打鍵がしたいだけ。


6月22日 水  
ずきずき

昨日は真夏のような部屋に耐えかねてエアコンを使ってしまったり、と思えば寝ている内に気温が下がったり、本日は体中だるいだるいと思っていたら、やはり扁桃腺が腫れ出す。外は篠つく雨で外出も億劫なのだが、こじれると厄介なので医者へ。このあたりの耳鼻咽喉科は木曜定休なので、明日まで放置してさらに悪化していても、医者にかかれない。
これはもしやきょぬーの祟り? などと雨に濡れながら思う。いや、昨日の日記で『義経』の巴さんの悪口を記してしまったら、グラビアアイドルの方だったようで、I氏やY嬢からご教授のメールなどいただいてしまい、I氏によればグラドルの方としては演技派なのだそうだ。すみません。巴ルックだときょぬーが見えないし、まああのシナリオ・演出だと深みなど出せないのかも知れない。
しかしこの日記も結構皆様読んでくださっているのだなあ。やはりあまり愚痴や悪口は記すまい、そんなふうにも思ったりするのだが、もともと日美野……『ひびの』と入力して一発目がこう変換されてしまう中年男のIMEというのは、やっぱり問題あるかなあ。最近すっかり育ってしまってお顔も体型もかわゆいと言うより個性派に近付きつつあるようですが、まだまだおじさんは見守っているぞ、梓ちゃん。閑話休題。……もともと日々の記録というより鬱憤晴らしがメインなので、まあ問題あるまいと居直るタヌキであった、まる、と。
で、さっそく愚痴になるのだが――昨夜録画の鑑定団で、久々に日本画の屏風など出たので「よし、連勝記録更新」と張り切って見ようとしたら、もう張り切る間もなく小学生が書いた毛虫のような松の木に脱力。依頼人はこれをなんと1200万で一目惚れして即購入したのだそうである。あう、1200万あったら、自分は何年生活できるか。10年は無理でも、7.8年くらいは保つのではないか。これだから金などというものを幾ら集めても、人間、上等になれる訳ではないのである。まあ買ったお父さんに審美眼がないからといって人格までうんぬん言う気はないにしても、少なくとも大金を持つべき器でないのは確かである。
しかし湿っぽい喉が痛い頭重い。私物打鍵もクライマックス直前で足踏み状態。


6月21日 火  
ジュリエット→なんかいろいろ→マザー・テレサ

オリビア・ハッセーの久々の主演映画が公開されるとのこと。心底楽しみである。いや、映画としての出来とかは全く予備知識がないのでなんとも言えないのだが、あの『ロミオとジュリエット』で初めてお姿を拝見した時は、おうおう東洋系でなおかつ可憐な神秘度オードリー級、そんなインパクトであった。
まあ『少女度』でデビューしたお方に多いパターンで、徐々にB級にシフトしてしまった感もあろうが、私的にはずっとフィルモグラフィーを追っかけさせていただいており(目を付けたろりの成長具合にはしつこい)、特に劇場公開されなかった『サイコ4』で、のちにノーマンにミイラ(剥製?)にされてしまう予定の歪んだ母親役をこなされた時には、世評では「行く所まで行ってしまった」的な意見が多かったものの、私的には「おうおうジュリエットがこんな性格俳優まで進化してくれた」と、感涙にむせんでいたのである。なんというか、息子をとことん自分勝手に溺愛・抑圧しつつ自分の私生活は肉欲まみれ、そんな汚れ役の中年でありながら、その瞳はやはりジュリエットと同様澄んでいたのである。この人はきっとシワシワの老婆になっても、タイプ違いではあるがあのベティ・デイヴィスさんのように『純で奔放な少女』の瞳を保ってくれるに違いない、そんな確信(妄信?)があった。(近頃だとサンドラ・ブロックさんの『デンジャラス・ビューティー 』に、脇で出ていたキャンディス・バーゲン老嬢にも、やはりタイプ違いだが同様の期待を抱けた。)
マザー・テレサさんの信奉者の方々からは怒られるかも知れないが、信仰・奉仕といった概念は、あくまでも『聖なるものへの純粋な欲望』であると思うのですね。巷に多い宗教者や信徒の錯覚、『聖なるもの=エラい』などという虚妄に陥ることなく、聖なるものはただ聖なるものであり相対的なものではない、そのことへの『ずっぷし』が、感銘を呼び起こすのである。オリビア・ハッセーさんなら見せてくれるのでは、そんな期待が高まる。
ところで今週の『義経』は(しかし自分もしつこいなあ)、演出が正気で頭も良く思われた。確認したら、木村隆文さんという方の演出の回は、比較的足が地に着いた演出が為されているようだ。黛りんたろう御大の回は、なんだかケレンとドラマが乖離しているし、前回前々回あたりの知らない方の回は、ただ野放しのてんでんばらばらな演技を記録しているだけで、それだと実力派の演技すら立ってこない。今後はずっと木村隆文さんという方に、過労死するまで連チャンでお願いするというのはどうか(おい)。しかしあの木曽義仲と巴御前の演出だけは、誰が演出しても『ただの馬鹿』だ。まあ連続ドラマのことゆえ、回ごとにキャラのイメージを変えてしまう訳には行かないので、責任はチーフの黛さんにあるのだろう(義仲をやっている役者さんは、演出しだいでもっと深みの出せる方だとおもうのだが、巴をやっている素人の娘さんは、なんのタレントさんなのだろう。検索する気力もないのだけれど)。


6月19日 日  
じめあづい

暑い! というより窓から入る風がひたすらぬるい温風で、高温もさることながら湿気にとことん弱い自分としては、すでに脳味噌に黴が生えた感覚である。もっとも脳味噌が黴びると、なんかいろいろも打鍵もだらだらと量だけは進み、翌日チェックしてあっと驚いて赤面しながら一日かかって修正したりするので、結局トータルの能率は同じなのだけれど。しかし今後気温まで本格的に上がってしまうと、脳味噌は黴びる間もなく、融けて耳から流れ落ちてしまう。今の内にじたばたしておこう。
大汗をかきながら買い物袋を運んでいると、どこぞの学生さんたちは、あいかわらず尻からずりおちそうなズボンをだぶだぶと揺らしてつるんでいる。まあ馬鹿が正直に『俺ら、馬鹿です』と看板を出しているのだから、別に問題はないのだろうし、世間の人間の多くが馬鹿を嫌うくらいなことはどんな馬鹿にでも解るだろうから、よほど自分が馬鹿であることに誇りがあるのだろう。などと、自分も近頃荒んでいるなあと呆れながら歩いていたら、その馬鹿の一部はコンビニの前で、猫と戯れながらエサまであげているのであった。ああ、ごめん。馬鹿を見かけだけで差別してはいけない。いい馬鹿だったのだ。


6月18日 土  
クールビズ?

とにかく、みんな一斉にがんばってなんかやりましょう、そんな掛け声が好きなのですね、この国は。数年前にも同じような掛け声があったような記憶があり、当時の職場では最初はノーネクタイに統一されたのだが、なんかしまらない、そんな気分でネクタイ着用する店長も多く、結局店ごとにバラバラではみっともない、そんな雰囲気で、いつのまにかまたネクタイ着用が義務づけられてしまった。別に暑い者はノータイで、着けたい者は着ける、それでいいのではないかと思うのだが。SCによっても館内位置によっても、温度など焦熱地獄から冷気吹き出し口直下ブリザード級まで、バラバラなんだし。とにかく「さあみんなで」の掛け声ばかりで、合理性も個人の体質・感情も関係ないらしい。
なんか手製爆弾を教室に投げ込んだ高校生は、またいじめ問題に帰結しそうだが、隣のクラス全員にいじめられた訳でもあるまいに、やっぱり「対象を個々に絞る」頭はないらしい。
カンボジアの人質事件だって、その男の子が殺される理由などなにもないのだ。ビンボな田舎の青年たちが都会に出てきてやっぱりビンボで、じゃあ一発金のありそうな所を狙ってやるか、そんな怠惰な犯罪にたまたま遭遇してしまっただけだ。
『きちんと相手を選ぶ』『TPOを考える』『合理的にモノを考える』――まあ、寸足らずに何を期待しても無駄なのだろうか。


6月16日 木  
夢の中の女

昨日まったく眠らなかったぶん、本日は久々に夜中の2時から朝の10時までという、人並みな(どこがや)睡眠時間だったのだが、起きがけの夢で蒲団の中にいた女性は、いったい誰だったのだろう。ほんとうにどこにでもいらっしゃるような、ごく普通の奥さんっぽく、しかしお目覚めの接吻を交わす前に消えて(目覚めて)しまった。蛇足ながら、すでに近頃の自分はよほど体調のいい時でないと朝立ちなど無縁なので、セクシュアルな感覚は皆無なかわり、とてもほのぼのと日常的な感覚だった。ああ、歳だなあ。
従来、自分の夢に「良い感じ」で登場する女性は、やはり過去「良い感じ」であった女性か、あるいはごく稀にしか出てきてくれないが、心理学で言う『アニマ』と思われる、凄艶に美しくしかし見知らぬ女性である。まあ、近頃はどちらも縁遠いのだけれど。
不思議なのは起きている間は妄想しまくりのろりが、ほとんど睡眠中の夢には登場してくれないのですね。これはやはり、夢に出てしまうと自分でも何をしてしまうか解らない、そんな深層心理が睡眠中すら働いてしまうのか。夢の中ならあんなことやそんなことをしたいだけしても誰にも迷惑がかからず、かつあたかも現実のように体感できるはずなのに。
SFやファンタジーにある、自在に夢を見る機械など、早く開発されないものか。現在バーチャルなどと呼ばれる仮想体感技術は、あくまで錯覚しやすい程度のゲテモノなので、結句自分の渇望は、自分の想像力で満たすしかない。それなら一般の活字媒体やテキスト媒体、映像媒体のほうが、中途半端な肉体的錯覚が邪魔しないのでのめり込める。立体写真や立体映画は、それ自体が接触感をなんら持たないので、『自前の想像力のバーチャル』、そんな感じで大好きなのだが。
たとえば、草原の白樺林の立体写真などを見ていると、そこにはちゃんと、樹木と背景の山の間にある、隠れて見えない空間も、遠近感としてきっちり写っているのだ。だから、森の精霊、あるいは現実の少女などが撮影時そこに存在していれば、見えないだけでちゃんと写っているのである。萩原朔太郎などが立体写真マニアだったというのは、やはり現実の裏に潜んでいる空間に惹かれていたのではないか。また立体写真マニアに理工系の方が多いのも、現実をできるだけ正確に把握・記録したい、そんな欲求なのだろうから、立体写真の世界というのは、案外、森の精霊と現実の人間を等価にしてくれる、得難い魔法なのかもしれない。


6月15日 水  
かわいいゾンビ〜♪ ハイ、ハ〜イ♪

なかば惰性的に録画しておいた『義経』などチェックし、もはや思うところもほとんどなく、でもほんとにあのウツボというキャラは、ただアイドル顔見せのための彩りにしかなっとらんよなあ、と嘆息した後、あるビデオの捜索に入る。しかし、どうしても発見できない。どうも、VHSにダビングしておいたというのは惚けた頭の錯覚で、機械ご臨終と共に始末してしまった大量のベータに入っていたのだろう。私物打鍵が山場に近付き、かねて構想していた美女腐敗編に突入するので、その前に観て気合いを入れようと思ったのに。
なにしろ現物を確認できないので記憶に頼るしかないのだが、確かルチオ・フルチの『墓地裏の家』だったと思うのである。いや、映画自体はただの好きな人向きスプラッター系イタリアン・ホラーなのだが、思い起こせば20ウン年前、自分が初めて『美女は腐っても美女』と実感した映画なのである。いや、性格に言えば、可愛い少女は焼け爛れても可愛い、なのだが。
当時はまだ埼玉にいたかそれとも群馬に越していたか、ともかく小規模なレンタル屋がまだまだ健在だった時期であり、山のようなB・C・D級映画が、現在とは別の意味で(おたく向けでなく、ただレンタル屋の棚を埋めるだけのために)次々とビデオ化されていた。で、自分は田舎に飛ばされて、現在のように過酷なSC営業時間延長競争などはまだ広がっていない時代だったから、夜は36回ローンで買ったばかりのでかい日本語ワープロで書院ごっこするかPC88でゲームするかMSX2でお絵かきや画像加工するか(つまり機械が一台の高機能機に統合された現在と、やってることに大差はなかったわけである。ああ、自分、まったく成長していない)、それともビデオで映画観るか、そんなサミしい夜を繰り返していた。で、ある晩仕事の後でビデオ屋に寄ると、あるジャケットの少女らしいゾンビが、奇妙なまでに愛らしく思えてしまったのである。端役らしくジャケ裏のちっこいスチールにちっこく紛れていただけなのだが、とにかく顔面総特殊メイクで崩壊状態にも拘わらず、「あ、可憐。守ってあげたい」と思ってしまった。で、早速借りてじっくり観てみたら、その娘はあくまでもチョイで、顔面丸焼けの後ゾンビ化する、それだけの役だったのだけれど、とにかくそれで自分は、『皮膚や細部の造作に頼らず顔面構成自体が可憐な娘は、外皮などベロベロでもやっぱり可憐』という真理を、生まれて初めて悟ったのであった。
まあお岩さんやある種の方々のように、美しいお顔の一部が極度に変形するというのは、そのバランスの崩れという意味でやっぱり凄絶に『コワいよ勘弁』であり、いっしょに遊んだりするのはキツいと思われるのだが、その映画の顔面レアステーキ状少女ゾンビなら、映画のように夜の窓からコンバンワしてくれたら、もう喜んで上がってもらって一晩お願いしたい、いや、合意してくれたら婚姻届出したいかなあ、そんな感じだったのですね。
そのあたりの感覚を一般の方に判ってもらえるか、それがこれから先の課題なのであった。しかし本当にその映画が『墓地裏の家』だったのか、当時浴びるように観ていた他のスプラッター映画だったのか――現在もDVDは出ているようだから、そのうち調べてみよう。


6月14日 火  
無罪・有罪

そもそも『有罪』『無罪』という言葉が、物的証拠のない刑事裁判で使われること自体、おかしい。マイケル・ジャクソンが実際に子供たちとどう接しており、それを子供たちがどう感じたか、それは当事者になってみないと解らないのだけれど、いずれにせよ状況証拠や当事者たちの証言だけで法的な量刑を決めること自体、ナンセンスだ。そうした曖昧さが、逆に物的証拠バリバリの鬼畜すら明快に断罪できない社会を作っているのではないか。
観ちゃいかん観ちゃいかんと思いつつ、性懲りもなくまた『夏服の少女たち』を観て泣く。廃墟となった一市、消滅あるいは焼け爛れた無数の人間(多数のろり含む)、これだけの巨大な物的証拠があっても、勝ち負けとお互い様意識で有罪か無罪かさえ問われない国家・民族間の泥仕合。それが史上紛れもない人間という種の本質ならば、ただ自分は、昔読んだドキュメント本で記憶に刻まれている、出征兵士を送る母親の言葉『無理に殺すんじゃなかと。無理に死ぬんじゃなかと』、そんな永遠の矛盾と偽善、その中で泣きながらうろうろするしかないのだ。たぶんそんな人間としての矛盾と偽善に精神的に耐えるよすがとして、自分には『ろり』なのだろう。心底『絶対的規範』として実感できるのが、たとえそれが脆弱な己の幻想だとしても、やはり無垢な(肉体的な処女などという意味ではありません。念のため)少女なのだから。
また大戦ネタの少女伝奇ファンタジーが浮かぶ。太平洋戦争末期の日本、敗戦間近な祖国イタリアにあえて帰国しようと決めた父母と共に、列車で旅をしていた少女・エリーザは、ろくに外人の区別もつかぬ無知な日本人暴徒(村がグラマンの機銃掃射に会って、狂乱していたのだ)に襲われ、瀕死の両親によって、窓外に投げ出される。山間の鉄橋から遙か眼下の川に落下する間、少女は無意識の内に『風』に変わっている。少女はローマ神話上の風神・ゼフィロスの血を引いていたのだ。一方その頃、とある山荘。長南年恵(江戸末期から明治に一部で有名だった、フシギ女性である。ご存知なくとも超能力系に興味のある方は、検索すると面白い)の孫の少女・薫が、そこに蟄居していた。彼女は祖母譲りの種々の特殊能力や予知能力を持っており、密かに山本五十六の庇護下で初期の緒戦に貢献していたのだが、山本戦死後は人心攪乱の元として、なかば幽閉状態だったのである。山風の中にエリーザの意識を見つけた薫は、呼び寄せて親交を結ぶ。一方、ヒトラー自決後のドイツ、その庇護下にあった占星術師のカリスマ少女・リンデは、極東の友邦を襲う二つの悪魔の火球を予感し、側近たちとUボートでドイツを脱出、しかし連合国側に撃沈され、側近たちと共に幽体と化して、なお日本を目指す。その頃日本では長南薫もまた原爆投下を予知、軍部に警告するが相手にされない。やがて薫への協力で空を舞っていた風のエリーザと、リンデ幽体様御一行は互いの意識を察知し合流、幽体離脱してでも原爆投下を阻止しようと決心した薫と共に、遙か太平洋上・テニアンを目指すのであった――。
タイトルは、そうだな、『少女大戦』はあちこちにあるから、『処女大戦 〜風の娘〜』。しかし問題の多そうな構図である。でも、いいのだ。落っことしたのはあっちだし。でもIF戦記をやるつもりは生涯ないので、原爆はやはり落ちる。ううう。しかしやっぱり、そこで終わらせる訳には行かない。少女たちの魂は永遠に歌い続けるのだ。
――以上、『夏服の少女たち』に泣きながら浮かんだ、物語のデッサンである。ちなみに今気付いたのだが、モチーフはまんま、かの有名なトルコのナジム・ヒクメット氏の詩『死んだ女の子』なのではないか。皆様ご存知とは思うが、念のため、違法かどうかは恐れず(おい)、まんま記させていただく。訳は飯塚広氏である。

  とびらを叩くのはあたし あなたの胸に響くでしょう
  小さな声が聞こえるでしょう あたしの姿は見えないの

  十年前の夏の朝 あたしはヒロシマで死んだ
  そのまま六つの女の子 いつまでたっても六つなの

  あたしの髪に火がついて 目と手が焼けてしまったの
  あたしは冷たい灰になり 風で遠くへ飛び散った

  あたしは何にもいらないの 誰にも抱いてもらえないの
  紙切れのように燃えた子は 美味しいお菓子も食べられない

  とびらを叩くのはあたし みんなが笑って暮らせるよう
  美味しいお菓子が食べられるよう 署名をどうぞしてください


6月12日 日  
日曜雑感

夜の4時に寝て午後の4時に起床。丸半日寝てしまったが、一昨日の昼の2時からなんかいろいろずっと起きていたので、例によって日割りすれば普通。
日曜でもまだ5時前ならばそう混んではいまいと、買い物のついでもあり、駅ビルの回転寿司へ。座った時はほんの数名だったのだが、じきに混み出す。こりゃしまった、と、ちびちび飲んでいた中ジョッキ(いやな飲み方だが、ビンボなので仕方がない)を干すペースを早めるが、時すでに遅し、隣に座った爺さんが怒鳴り出す。回転しているのはみんな乾燥してパサパサだ、サボっていないでどんどん握れ、と言うのである。お好きなのを注文してください、と店員さんが実に丁寧に説明しても、いったん怒り始めた爺いは、人前で無知を突かれたような気になってしまったのだろう、ますます「こんな乾いた寿司を回しているのは客を馬鹿にしている」と怒鳴り続ける。有害老人の典型である。そしてこの街には、そうした大人が実に多い。当然休日の繁忙時ほど見聞してしまう確率が高いので、なるべくその時間帯は避けているのだが、本日は、つい、うっかり。
土台、誤解を恐れずに言わせてもらえば、『貧乏人は麦を食え』が、正解なのである。一皿120円均一で一応それらしい寿司が食えるこの社会のほうが、本当はおかしいのだ。それは昨夜見たドライバーのドキュメント同様、末端からの搾取によって成立している。なおかつ不幸なことに、自分やその爺さんのような末端人間は、搾取されつつ搾取しないと生きて行けない、そんな末期的バビロンシステムの最下層に組み込まれているのである。今その老人が怒鳴っているのは、僅かな時給でスマイルは無料を強要されている同胞なのである。頭を下げて言い訳してくれるなど、実に立派な同胞ではないか。
貧乏人同士の相互扶助すら、システム化して上前をはねることによって成立しているこの都会、その爺さんなどは昔ののどかな社会をまだ幻想しているのかもしれないが、お見受けするところ自分よりせいぜい二回り上の世代、おそらくあの戦争で末端のゆとりなどすでに吸い上げられてしまった後に育っているはず。庶民において『粋』や『ゆとり』といった概念は、個人的矜持によって保とうとしなければ、保てなかった世代であろうと思われる。現に保てていない訳だし。自分の主張を正論だと信じているのかも知れないが、自分の周囲でつかのま安らぎながら安い寿司を食っている他の客を、この老人はなんだと思っているのか。大体、「乾いた寿司も回る」「注文ばかりしてないで多少乾いた寿司も120円の根拠として消費しなけらばならない」、それが現代社会。
あえてこんなシステムはぶっ壊してやる、という気概があるなら、こんな所で寿司食ってないで、テロにでも走るべきなのである。無論、そのテロも鬱憤晴らしに手近な仮想敵を一般市民と共に標的にするような無差別痴呆テロではなく、きっちり首相や大統領のさらに奥にあるものを効率よく消す、というような、史上未だかつて誰も成し得ていないテロでなくては無意味だ(もっともすぐに後釜が据えられてしまうだろうが)。しかし都会で120円の寿司を食うのは、当然不可能になります。とまあ、惰弱な狸は日々言い訳しつつ、姑息にデフレの底で息を保つのであった。
帰りに西友で買い物をしていると、多数のろりもあっちこっちでお買い物に連れて来られており、これは休日の醍醐味。ああ、日本のろりは、いい。その存在には搾取も被搾取もまだ無縁だ。チャイドルやら援交やらでじきに無縁でなくなるろりも少数いるのだろうが、少なくとも西友の食玩コーナーで「いっこだけだもん」と必死に選んでいる内は、まだ無垢だ。その横で「ありゃ、この前安売りしてたタイムスリップ・グリコの『思い出のマガジン』って、もう売り切れちゃったのか。在庫処分だったのか」などとうろうろしている自分は、無垢から推定100億光年離れてしまったが、つかのまそれを忘れさせてくれるのが、やっぱりろりだ。
ところで『縁日の誘惑』というシリーズが並んでいたのだが、焼鳥やフランクフルトなどという高価な肉製品が堂々と混じり、焼きそばもパック入りのようだ。焼きソバと言ったら、あの3寸角ほどの経木にほんのひと山盛られた貴重な縁日食品――どうも昨今の懐かし食玩は、考証が甘い。それとも都会では、三丁目の夕陽時代でも、もう焼き鳥やでかいフランクフルトやパック入り焼きそばなどというものが――いや、モデルとした対象そのものが、ちょっとだけ前の縁日なのだろう。それだって、今の子供や若者には、ノスタルジーなのだろう。現在打鍵中のものが終わったら、正月に中断したままのお山レトロファンタジーを再開し、当時の縁日風景などもきっちり書き込もう、いや、その前に、花子ん家のかき氷出前状況を――いやいや、前にもう夏祭りとかき氷を絡めると決めたような気も――あかん、もう惚けている。


6月11日 土  
時は粋《いき》なり    

NHKで去年見逃したトラック運転手のドキュメントを再放送してくれた。しかし今回も野球中継で時間がずれており、夕飯食おうとたまたまテレビ前に陣取ったため、無事録画に成功。
要は、運送会社の経営的矛盾の話である。荷主は際限なく搬送時間短縮を要求し、嵐だろうが豪雪だろうが遅延は絶対許さんなどと断言し、しかし制限スピードは信用上抑えられる一方で、結局現場のドライバーが休憩や仮眠時間を削って限界まで運転を続けるしかない、そんな話である。なんだかあの脱線転覆の背景にも似ているが、スピードを社内規定以上に上げると即モニターで判ってしまうのだから、安全と言えば安全、しかしその分馬車馬のように休まず走り続けなければならない訳だ。結局、危険。
大体、休憩時間がいくら減っても、ドライバーの収入には関わりがないのである。その金がどこに行っているかと言うと、運送会社でもなく、荷主ですね。無論荷主もこの過当競争の時代、そこまで合理化しないとやって行けない、そう主張するだろう。と、なると、ドライバーから搾取された金になるべき時は、どこに行ってしまうのか――はい、「荷物はもうなんぼでも早く着くのが吉」と信じる人の満足感に転じる訳です。もっとも、それは荷主が「俺んとこだけ生き残りたい」からこその、消費者を口実にした欲である場合も多い。宅急便が何時間か遅れて本当に困る消費者なんて、どれだけいるのだろう。いずれにせよ末端の労働者は、時間まで吸い上げられながら、公租公課も上がる一方。
本当は、一日くらい遅れてもどうってことないんじゃないの、末端の消費者も。結局、『本当は無くてもいい物をあたかも必需品のように押しつけ消費システムに組み込んでしまうことによってあっちこっちから搾取する』、そんなバビロンシステムがあいかわらず発展しているだけのような気がする。まあ自分のような末端人間は搾取する側には生涯回れないだろうが、何に搾取されるかくらいは自分で選びたいし、時間も心もタダでバラまく『粋』、そんなのをちょっとでも確保し続けたいものだ。


6月10日 金  
号泣

夕飯時(本日は豪華に580円もした長崎屋の鰻である)、録画しておいた『義経』、しぶとくチェック。演出がいつになく(いつもあんまし練られた感じはしないのだが)野放し状態で、ベテランの芝居まで撮り方がおかしかった。演出家の名前をタイトルに戻って確認したら、知らない名前の方。後半はこの方も担当するのか、大河ドラマを担当するくらいだから、新人のはずもないけれど、NHKのドラマの演出家さんなどほんの僅かしか知らないので、調べてみないと良くわからない。もともとこのTVドラマは、公式ページで各回の演出家もろくに教えてくれない場合が多いくらいで、気にするなということか。気にしないことにしよう。調べても仕方がない。
続いてNHKアーカイブの、『夏服の少女たち』をチェック。広島で被爆・被曝した、中一の少女たちの生活を、アニメとドキュメントで紹介している。原爆に晒されるシーンは、ない。あくまでもそこまでの健気な生活と(みんなそこで、あるいは間もなく終わっちゃったろりたちの話なのだ)、残された側のその後のドキュメントである。悶絶して泣く。まあ事前に泣いてしまうだろうとは思っており、内職も打鍵も区切りが付いた時を選んで観たのだが、もうビールのグラスをモニターに叩きつけたり部屋中の調度を無茶苦茶にひっくり返したり窓硝子叩き割ったりしたくなる衝動を、なんとか抑えながら、ほぼ慟哭に近い嗚咽をこらえられず蝦蟇のようにのたくる。
ああああああ。もう、駄目だ。今後私は、いかなる状況においても、ろり相手に大量破壊兵器を使用できる奴は、『憎んで』『殺して』『許しません』の、裏月光仮面的立場を取ります。ろりを傷つけた奴でも同じです。ろりを傷つけた奴を弁護したり、それらを減らすことに反対する奴も同じです。なお、ろりをその破壊・殺戮対象から100パーセント排他できる大量破壊兵器に関しましては、その限りではありません。どうせこの地上に人間が住んでいる限り、大量破壊兵器も既知外も、なくなるはずはないのである。


6月9日 木  
立っている

おう、久々に打ち三昧にふけっていたら、また一日とんでしまった。それでも例によって400字詰換算してみると、増えているのは22枚ちょっと。まあ息抜きに投稿板に行って、他の方のお作にハマってついつい脳内脚色したり(それを思わず感想に書いたりしてしまう、やかまし爺い)、打鍵物の参考にと借りてきた『二百三高地』『226』を観たりしているのだから、時間もたって当たり前。それに、ちょっと紀行ブンガク風に気合いを入れたパートだし。ちなみにその2本の戦時下映画は、なんだか戦争映画を観ていると言うより、やはり現代人による戦争映画制作現場自体を瞥見しているような雰囲気で、歴史的参考にもならず、インスピレーションにも繋がらず。あんなリアルのカケラもないドンパチで、日露戦争です悲惨ですでも日本がんばりました人間ドラマでしょ泣いてください海は死にますか山は死にますかと、ダラダラ迫られてもなあ。226のほうは、当時の若手個性派が揃ったりして期待したのだが、やっぱり今風すぎる。現代物のスタイリッシュなアナーキスト集団、そんな感じだ。萩原健一さんも三浦友和さんも好きなのだが、やっぱり青年将校はなあ。お尻の締まりも今一。
話変わってレッサーパンダの風太君の立ち姿、あまりに人間の子供っぽくて時々キモチワルイと思ってしまうのは、世間に僻んでしまっている自分の心の鏡か。自分が駅前にボーっと立っていても、誰もエサなどくれないものなあ。そうか、ふだん四足歩行の動物が立つからウケるのであって、バニラダヌキはふだん二足歩行なのだから四つんばいになればエサがもらえるのかも知れない。人間やめる覚悟ができたら、やってみよう。ちなみにレッサーパンダそのものは、昔から大好きです。のそのそ四つんばいのお尻がかわいい。


6月7日 火  
ぷんぷん

わざわざここに打たないだけで、あいかわらずエロ絵師さんたちのサイトでしょっちゅうなんかいろいろ見せていただいているのだが、昨日の一件の引っかかりもあり、清潔な方々の動向などちょっと、きょぬー系絵師いののさんの日記に興味深い記述があったので、興味のある方は覗いてみてください。要は永田町の性表現規制派議員さんたちが、『表現の自由』という事に対してどう考えているか、慄然としてしまうような狭視野頭脳が明らかになってしまうのであった。
いののさんの日記(http://www.sainet.or.jp/~inono/05-text/text.htm)で紹介されている、ササクレYUKOさんという方のブログ(あくまでもこの方は規制賛成派なのである)で提唱された、規制賛成派と反対派がじっくり勉強会をやりましょう、という企画に対して寄せられた、永田町サイドからの拒否回答である。その中に、こんな一節がある。『「表現の自由」は女性や子供の人権を汚すために先人が勝ち得たわけではない。科学的データや根拠以前の問題だ。』
痴呆の論旨である。つまりもっともらしい顔をした永田町のおっさんたちは、「仮想上で女性や子供の人権を汚す事」と、「現実社会で女性や子供が蹂躙される事」には、初めから関連付けなど行う頭はなく、ただ「仮想上で女性や子供の人権を汚す事」が気にくわんから規制するべきだと明言しているのである。つまりあの運動は、「仮想上の女性や子供の人権を守るためにやっているのであって、現実社会の女性や子供は議論外」と、自ら言い切ってしまっているのですね。わははははは、やっぱり馬鹿が政治をやっているのであった。
だから仮想・現実の区別なく児童ポルノ規制しまくりのアメリカあたりで現実社会がどーなってるか、いっぺん現実を直視してください。アンダー・グラウンドで目も当てられないような現実世界が深化拡散しているだけだろう。
ほんとうに、上の連中が仮想と現実の区別を付けずに政治も報道も仕切ってしまうから、錯覚する人間が増えてしまうのだ。『したいこと』(仮想)と『してはならないこと』(現実)、そんな本当に単純な区分けに、いつからこの社会のいい大人まで、盲目になってしまったのだろう。


6月6日 月  
ハッキング?

しかしこの日記ばかりで表はまったく更新をさぼっているなあ、などと久しぶりに表をクリックしてみたら、例の寝室の公園写真が、いつのまにか『初心者支援サイト』とかいう妙なバナーに変えられていた。あわてて修正削除してしまったが、考えてみればHTMLの改竄状態やバナーの正体まで、調べておくべきだったんだよなあ。しかしこんなページにまで侵入してくださるとは、嬉しい限り。よほどでかい写真を羅列しているだけのシロウト丸出し状態に、呆れてくれたのだろうなあ。今度はなにか格好良くレイアウトとかまで変えてくれないものか。
まああの程度の写真が清潔な方のお気に障るとも思えないので、単なるイタズラなのだろうけれど、何かおっしゃりたいことがあったら、メールでも下さい。


6月5日 日  
ふやける

ぼーっとしていられるようなお気楽状態でもないのだが、風呂に入っている時くらいはいいだろう、そんな気分でお湯の中を漂うタオルを見ていると、本日はなにやら思うところがあるのか、人の頭のように丸くなってゆらゆら近寄ってきたり、ケープをまとった立ち姿になって媚びを売ったり、色々芸をしてくれる。今年の正月からずっと使っている洗顔タオルで、色も皮脂やら入浴剤やらでずいぶん立派になってきたので、そろそろ付喪神化しているのかも知れない。
先週入ると思っていた火災報知器チェックは、実は本日の勘違い。寝入り端(といっても朝の10時頃)を起こされ、管理人さんやチェック屋のお爺さんに、寝ぼけ眼でつきあう。老朽化著しい建物ゆえ、当然のごとく天井の報知器は死んでおり、この階のちょっと前の部屋から総討ち死にとのこと。天井裏で断線しているらしい。修理後再チェック、そんな話だが、まあ一度も部屋を燃やしたことはないので無問題。


6月4日 土  
深夜ハイ

やはり自分の打鍵意欲は、陽光のもとでは活性化しないようだ。本日も深夜から日が昇りきるまで打って、ようやく区切りが付きいつもの板に行って、10時に就寝16時起床、それからなんかいろいろ。ついに完全逆転復活。
打ち終わったとたん板に載せてしまい、後から修正するのは相変わらずの悪癖で、一眠りした後にもう読んでくださっている方にすまんすまんと思いながらじっくり修正を入れる訳だが、ご感想を参考にするのも自己チェックするのも、やっぱりあの板が一番便利なんだよなあ。以前晶様に伺った何か大仰なプロ志向のような名前の板を覗いてみたら、感想は自意識全開型が多く、でもやっぱり投稿されている作品自体はいずこも同じ玉石混淆で、表示もメモ帳なみの横書きテキストびっしり状態なのであった。なんか、愛が感じられないのである。大体、ごはんが食える事と創作そのものは別問題なのではないか。正直、それでごはんを食っている方の書物の大半は、ただの他人様の飯の種であって、自分にはなんの関係もない。
ぼちぼち推敲していると、やはり自分の夢は面白い。そりゃあ自分が面白いと思う事だけ打っているのだから自分が面白いのは当然だが、要はその主観的面白さに同調してもらうための客観性をどう磨くか、そんなのが誠意ある『愛』だと思うんだよなあ。
まあ『愛』など無くても、抱きキャバでもソープでもホストクラブでも一場の夢は売ってくれる訳で、それもまたごはんのための立派な職業なのだろうけれど、やっぱり「ああもう俺にはお前だけあああたしも貴方だけよ」、そんな瞬間を夢見ながら、ホストよりも結婚詐欺師を目指し夜を明かす、顔の悪いタヌキであった、まる、と。


6月3日 金  
エロの20年

資料にしようと古いビデオテープをひっくり返していたら、デッキを買ったばかりの頃、つまりレンタルビデオ勃興期のエロをダビングした箱が出てきて、思わず往事の息子の元気さに思いを馳せ、しばし蕭然と佇む。
しかしセーラー服の女優さんたちの、なんと可憐な(じっくり見てんじゃねーよ)。無論当時はモザイクくっきり艶技で勝負みたいな世界だから、最近の裏も表も平均化されたそれなりに見られる顔のおねいちゃんやおじょーちゃんがそれなりに平均化された即物的行為そのものを芸もなく晒している訳ではなく、モデル的には当たりはずれも大きいかわり、可憐でヤラシイ艶技のできるモデルさんや女優さんも少数いてくれたのですね。現在のようにどこから見ても『なーんも考えてないけどお金もらえるのでナマでヤリます』よりは、推定100倍萌えます。って、今のもしっかり確認してんじゃねーよエロ中年(すみません自分です)。
いきなり話は180度変わり、現在利用させていただいている小説投稿板に深入りするきっかけとなった、自称『亀+』作が、実は他の方のHPから無断盗用したものであったと判明。なんのことはない、初めからコピペに惹かれて足入れしたのであった。とゆーことは、あの第一回だけで消えてしまった『戦後という日常の下で』も、どこかからのコピペだったのだろうか。おーい、コピペするんだったら、ちゃんとどこで続きが読めるか教えてから消えてくれよ、って、それでは盗作にもならないな。
まあ自分だってバニラダヌキなどという自作キャラの仮名で好き勝手打っているのだから、何を言っても説得力がない。しかしこのHPにあるのは一部引用先を明記したもの以外全部俺んだぞ。コピペしてくれる奇特な方もいらっしゃらないだろうが、もしいらっしゃったら、身欠き鰊かとびきりそばを送ってくれれば許可しますのでメール下さい。商品券やレトルト食品でも可です。――うう、志が低い。


6月2日 木  


なんかいろいろから、しっぽりと濡れて帰宅。両手に買い物の荷物で、傘がさせなかっただけだが。今週は外に出る日に限って雨が降る。天気予報は相変わらず当たらない。月曜は午後には止むと言っていたのに夜まで降りっぱなしだったし、今日は曇りのはずなのに昼からしっかり降り続いた。いっそ『晴れ時々曇り、所によって雨』と、毎日繰り返せば信用できそうな気がする。冬は『雪に変わる地域もあるでしょう』と加えれば、完璧だろう。
まあ昔から雨には恵まれている。降ったり止んだりの日でも、自分が屋根のない所にいる時だけどしゃ降りで、屋根の下に収まると小降り、そんな経験も実に多い。若い頃は被害妄想だろうと思っていたが、昔群馬のロードサイドでチャリ通勤していた数年、あまりしょっちゅうなので記録を残してみたら、なんのことはない、やっぱり雨の日は最寄り駅とアパートの間を走っている間がどしゃ降りで、アパートに着いて間もなく小降りになるパターンが8割を越すのであった。きっと前世で雨雲さんをいじめてしまったのだろう。どうやっていじめたのか、記憶にはないが。
昨夜はひさびさにマジモードの私物打鍵に興が乗り、ひと晩で10枚ほど進んだ。しかし普段は1枚か2枚になってしまっている。ただ唸っている時間ばかり多い。いよいよ真摯な部分は使い果たされたか。まあ単に文体疲れしているだけなのだろう。なにせ150枚くらいかなあなどと始めた話がすでに300枚を越え、このままだとまた500枚を越えそうな案配で、しかも他人の言葉がベースだ。


5月31日 火  
出生率

出生率がまたまた低下だそうである。このままではマジに日本は老人ばかりになってしまう。何度も書くように、自分は老婆は好きだが老爺の半分は有害だと思っている。早めに手を打たねば大変なことになる。近頃は微妙な安楽死問題のみならず、明らかに死んでいる肉体の延命治療を中止しただけで殺人容疑で逮捕されるというような、何考えてんだ楽して逮捕ばかりしてないでもっと鉄砲玉ぶちこむべき人間真面目に捕まえろよ官憲、そんな有様なので、なお心配である。
これはもう、言論統制するしかないように思う。とにかく日々テレビも新聞もラジオもネットも、子供なんて大半ほっとけばそれなりに育つ、それなりに生きていれば社会も捨てたものではない、でも必要以上に長生きばかりするのは資源の費えだ、そんな当たり前の事実を一所懸命否定している。楽しいことは『ただ自分がどのように面白おかしく長生きするか』だといわんばかりだ。人生も社会も、そんなに子供にとって悪くもなければ、親にとって良くもないはずだ。つまりこの末世において報道が成すべきは『何が大変で何が悪くて何が楽しい』などではなく『何が当たり前か』である、そんなところまで、日本が『当たり前』を失っている気がする。それは家庭事情も色々あるだろうが、二匹でつがったら二匹子供を残してそれが大人になる頃親は死んで人口とんとん、そんな単純計算も、愛や個人感情の根底にしっかり刷り込んでおくべきだろう。
などといいつつ中年の今でも出生率回復に全く貢献できていないチョンガーの自分なのだが、父方で70代まで生きた男はほとんどいない家系なので、長生きもしないだろうからかんべんしてほしい。いや、十数年前の一時期、子供は本当に欲しかったのです。子供を産んで欲しい方もいました。でも産んでくれるという方がいなかったのです。それにあたし、生まれつき自分では子供の産めない不幸な体なんです。すみませんすみません。


5月30日 月  
ありがとうという感謝の心

などというと昔の職場があったSCのスローガンのようで恥ずかしいが、やっぱり親切な方々というのはありがたく、MLの別の方からも便利そうなソフトを紹介していただく。現在使用中のエディタも、下書きはほとんど渡辺氏に教わった奴だもんなあ。やっぱりタダで教えてくれたり物をくれたりする方々というのは、つくづくありがたい。これからもよろしくお願いします。タダで(おい)。
なんかいろいろの外出から帰宅し、昨夜録画の『義経』など観る。ようやく出陣で激動っぽくなって来た。あいかわらず主役(?)の行動理念などは不明だが、周囲が激動すると、やはりドラマが盛り上がる。この分だと、最後まで見続けてしまいそうだ。しかし、お徳さんの出番がない。ナレーションで声だけは出っぱなしではあるものの、そのナレーションの内容も、白石さんに何かアドリブで盛り上げてほしいくらい淡泊なんだよなあ。NHKにはきちんと受信料払っているのだから、いくら文句を言ってもかまうまい。
しかし本日の正餐は出先のどこぞのイタ飯屋チェーンで1800円も払ったのに、腹五分目で味もトマトの味しかしなかったような。しかし他人様といっしょだと、松屋で豚飯大盛りかっくらいましょうと言うわけにもいかんのよなあ。


5月29日 日  
むずい

昨夜発作的に思いついた例の10枚程度のホラーをまとめ、板に載せると、さっそく沢山のご感想をいただく。暗喩という奴も明喩という奴も、読んでいただく方しだいという事になるので、なかなか同調が難しい。やはり自分はクドい押しつけ型のほうが向いているのか。
ずっと様子見だったMLに、無知丸出しのメールを入れてしまって、さっそく別の方からありがたい返信をいただく。ああ、恥ずかしい。やっぱりアナログでアナクロで引き籠もり系の人間は、創作物そのものを媒介に『書き手』『読者』として相対するのが限界で、お顔の見えない初めての方々と一度に繋がるのは無理かも知れない。もともと一個一個の情報に個別に対処するだけの、狸なみの行動パターンな訳だし。
などといいつつ、あると便利そうなエディタのマクロとかに手を出そうとして手に負えず、結局打鍵時・モニター上読書時に、いかに活字の書物に近い状態で再現できるかが気になり、MSのフォントだけでは到底対処できず、大枚はたいてもっともらしいフォントなど、ダウンロード購入してしまう。勢いで打てる読める系なら横書きでいいのだが、なるべく文芸っぽく構えようとすると、やはり書物のイメージが必要になる。ネット上でも手軽にそのイメージのままで情動の受け渡しができないかなあ、と、文字そのものの持つ『線の雰囲気』が好きな自分などは、思ってしまうのであった。


5月28日 土  
くもさんといっしょ

近頃、豆粒のようなちっこい蜘蛛が、部屋を元気に散歩している。ゴキやダニとは違い、蜘蛛は平気である。むしろゴキの幼虫やダニを捕食してくれるそうなので、かわいいくらいだ。元気に頑張ってほしい。巣は張らない性質なのだろうか。明日消防署が火災報知器の点検に全室回るというが、うっかり踏みつぶされたりしないよう、気をつけてほしい。
今頃になって、週初めに録画しておいた『義経』や『なんでも鑑定団』を観る。
義経さんは、もう自分には理解不能の境地に達してしまった。あれでは絶対なんにも考えていない場つなぎだけの傀儡《くぐつ》だ。書き割りが立っているのと同じである。ああ、いっそ若かりし頃の旭兄イでも義経をやってくれていたら――いやいや、あのシナリオでは可哀想すぎるか。滝沢さんというタレントさんは、自分でシナリオ読んで、何か根本的に人間的存在としての疑問を感じないのだろうか。もはや演技力とかの範疇を越えた、無色透明状態である。もっとも、そうした無色透明の無個性でキレイな若者を、そうした視聴者層を狙って確信犯的に造形しているのだとしたら、その徹底度は逆に大したものなのだが。
近頃ぞっこんハマってしまっている『鑑定団』、もはやこと日本画に関しては、百発百中の記録を更新しつつある。流行り物とは違い、すでに歴史的に淘汰された世界なので、無名の実力派というのがほとんど出ないし、線や面が単純化されているだけに、気合いの入り具合がすぐ解ってしまうのですね。名人にも筆の誤りはあるのだろうが、真の名人ならそんな代物は自分で破棄しているだろう。
その点、大量消費の現在進行形の世界では、悲しい事も多いのだけれど。最近の絵画などは全く知らないが、たとえば敬愛する老作家の方が、『売れる』というだけで老残を曝されてしまっている時とか。明らかに老人性痴呆の入り始めた口述筆記を、明らかにご当人の文章チェックもおぼつかない状態で出版する出版社のほうもなんだかなあと思うが、ご当人の生活も、昔からの義理もからむのだろうから、一概に責める気にもなれない。その作家個人への敬愛で、結局自分もきちんと買ってしまうのだから。
むしろ映画などは集団作業なだけに、好きな監督さんがボケて完全にハズレるという事はまずないので、安心して観ていられる。ちなみに黒澤明監督の晩年の作などがなぜ酷評されがちなのか、自分には理解できない。きちんと頭脳と感性と情熱と誠意が通っている映画を、『俺は嫌い』と言うならともかく、公的な場で駄作だの無意味だの言うのは失礼ではないのか。ただ『自分の波長に合わない』だけなら、黙っているか、『単なる自分の好き嫌いである』と断って、何かしゃべるべきだと思うのだが。
熊井啓さんの『黒部の太陽』ドキュメント本、読了。映画そのものや、その原作に負けない劇的な力作。しかし、なんで裕次郎さんを追悼する限定公開の場でも、短縮版しか公開しないのだろう。完全版で再ロードショーやったら大ヒット必至の映画だし、DVDだっていくら高値を付けても売れるはずだ。伝説化しておきたい気持ちも解らないではないが、監督さんご自身が、なぜ完全版が観られないのか、不思議がっているくらいなのである。三船氏・石原氏の両雄が他界されてしまった今、ひょっとしてそれぞれの個人プロダクション間になにか権利問題でも生じているのか――最悪、完全なネガがもう存在していないのでは、などと、不安になってしまう今日この頃。当時の日本映画のネガ保管状況を考えると、もしや、が存在し得るから恐い。我がリアルタイム・ゴジラの初体験、『キングコング対ゴジラ』がデジタルで完全復元されるまで、どれだけの月日を要したか。
昨夜(本日だってば)は、頭が疲れて3時頃に就寝するも、躰がキワキワ(?)して、寝付かれず。寝床で『残像』なるホラー系ショートを着想。起き出してメモし、6時就寝14時起床。ああ、また昼夜逆転していく。


5月27日 金  
マジに不安

人間偉くなると馬鹿になるとはもちろん限らず、立派な偉い方のほうが大多数なのだけれど(そう信じたい)、森岡厚生労働政務官の自民党代議士会での発言『A級戦犯がいかにも中国に気遣いして、悪い存在であるような処理のされ方をされている。この人たち(A級戦犯)は罪人でない』などを聞くと、もはや酒席での個人の本音も、公での立て前の区別もつかない『政治無能力者』が政界に増殖しているらしいと推測せざるを得ない。さらに残念な事に、小泉首相も間違いなくそのひとりであろうと、近頃、結論せざるを得ない。『腹芸』ができないのである。大体近頃の政治的チョンボのダダ漏れ具合などを見ていると、あの方は内調ひとつ満足に制御できない方なのではないか。政治的には内部でもみ消すべきチョンボがダダ漏れというのは、『自由で開かれた政治』などではない。ただの『なんの策略もない政治』だ。内調くらい味方にしとけよ。でももう完全になめられてるのかなあ。
ちなみにA級戦犯の方々が罪人ではないと言うのは明らかに不合理だろう。ならば『業務上過失致死』とか『未必の故意』の概念は、刑法から除外すべき。冗談ではない。どんなに真面目な船頭さんでも、ヤバげな波の高い日に出航を強行し、舵取りを誤って船を沈めて乗客を溺死させたら、やっぱり犯罪者なのである。まして別の船に激突してそっちの乗客まで溺死させてしまったら。


5月26日 木  
憑依

昨夜からたかちゃんが憑依し、本日夜まで約45枚打ち飛ばす。今回はくにこちゃんがほぼ主役を張ってしまったが、たかちゃんはあくまでもその世界に漂う妖精なのだから、やはり世界を統べる存在なのだ。などと大袈裟に言う割には、くだらないギャグの羅列に過ぎない気もするが、どうでギャグでも叙情でも、自分の仮想の土台に変わりはない。汚れなき乙女は永遠のカタルシスだ。
隣のマンションの猫が発情期を迎えたらしく、一日中「あーう、あーう」と切なげに鳴いている。飼い主さんは、相方を捜してやるか去勢してやるか自分で相手をしてやるか、とにかくなんとかしてあげないと、猫ちゃんが可哀想なのではないか。


5月25日 水  
ワンダフル入浴

若い頃は3、4日風呂に入らなくても平気だったんだがなあ、とぼやきつつ、毎日毎日つい入ってしまう。ガス代水道代の4分の3くらいは、確実に風呂代だろう。まあ客商売が長かったのでどうしても身だしなみ上習慣化してしまった訳だが、じゃあ籠もり状態なら入らなくていいだろう、そう思ってもやっぱり入ってしまう。人間、シャワーでも浴びれば風呂なんて入らなくても平気のはずで、現に西欧はそんな習慣だと聞くし、これを抑えればずいぶん日本の省資源になるはずなのだが、世間ではこれだけ地球に優しくなどとやかましく叫びながら、なぜ入浴セーブの声が出ないのか不思議。まあ煙草と違って迫害されないのは有難いのですけどね。
風呂に浸かってのんびりラジオや音楽を聴くのはやっぱり楽しく、たとえ今日のようにNHKでまた例の脱線事故を『意地でも社会問題に帰結させるのだスローガン』をやっていても、テレビやモニター前ほどツッコミは入れたくならない。しかし、ハテナくらいの気持ちはやっぱり浮かぶ。確かにちょっと電車が遅れてもすぐブーイングの国民性に問題もあろうが、明治以降きっちり躾けられて来た国民性そのものをそう簡単に変えられるとは思えないし、やっぱりあの日その時間帯に何十本も走っていた電車の内、なんであの電車だけが転覆したのか、やっぱり運転士が下手だったかイッてしまっていたからだろう、としか思えんのだがなあ。まあその『イッてしまった事』も、やっぱり社会問題に帰結させるのだとアナウンサーさんは頑張っていたのだが、でも他の運転士は『イッていなかった』訳で、これもまた『死んだら仏様』『仏ほっとけ』という国民性なのだろう。
お風呂でラジオや音楽と言っても、防水ナントカではなく、ただの最安価ラジオ付きテレコをジッパー付きビニール袋2枚重ねに入れているだけで、風呂場だと反響効果もあり結構音がいい。ラジオがつまらない時にはカセットに切り替えれば、たとえば故・富山敬さんの朗読で『伊豆の踊子』とか、温泉気分でトリップできる。新潮カセットの篠田三郎さんよりも、やっぱり富山敬さんのほうが達者だ。結構同一作品で役者さんと声優さんの朗読を聴き比べているが、やっぱり声メインで勝負の方々は、抑えても張っても朗読が上手い。鏡花作品などでも、佐藤慶さんより沢りつおさんのほうが、明らかに声だけで世界を作っている。
――話があっちこっちだが、どうせ風呂で考えることなど、気の赴くがままだから無問題。


5月24日 火  
月が出た出た

夜中に私物打鍵していると、最初はいい加減にぼかしていた日時設定を詰めるにつれて、その日その時刻の月の出具合まで、きっちり詰めないといけなくなる。全編月影がモチーフの物語、しかも地理原則を故郷に託しているのに、ありえねー月などを、いいかげんな小学校理科の記憶と、情動にまかせて打ち飛ばしていたのである。現世に夢を織り込むのだから、現世に昇らぬ月が浮かんでいたのでは、全編ただのデマ話になってしまう。
しかし、ほんとうにいい時代だ。遙か戦前の、その日その日の月齢、山形における月の出月の入り時刻、そんなものが、ネットを探ればなんとか知れてしまうのだ。事項によっては図書館通いも必要とは言うものの、基本的な部分はネットで検索できてしまう。世のプロ作家の方々も、ずいぶん重宝されているだろう。
しかし天候までは、細かい時刻に沿って知るべくもないので、そこはもう情動に任せてしまう。いっそ戦場が舞台であれば、戦記などで知る手段もあるのだろうが。結局いい加減に打っている訳だが、まあモチーフの月くらいは誠意を尽くそう。美女は異界の天女でも、下りて来てもらうのはこの地上だ。


5月23日 月  
お尻がチャーミング

日々個人経営の食堂などは住宅街から姿を消し、駐車場やマンションへと変わる。酒屋もコンビニに変わる。こうして無事に表社会は均一化し、貧乏人の選択肢は減ってゆく。ネットなどが日々複雑な暗渠と化していくのは、その反動なのだろうか。
まあ大戸屋のような定食チェーンもある訳で、特に問題はないのだけれど、やっぱり頼りにしていた飯屋がどんどん消えるのは寂しい。
寂しいようでも旨いようと、ソースカツ丼(上州物とは素材もソースも違うが、一時吉野家で出したものよりは、推定10倍旨かった。カツそのものも、カツ専門店などと謳いながら平気で揚げ冷ましのストックを突き出す所などより、推定5倍旨い)を食って大戸屋を出て、いつもは行かない逆方向のビデオ屋に入ってみると、おう、『渡り鳥シリーズ』のDVDが置いてある。さっそく会員になり、第一作の『ギターを持った渡り鳥』を借りる。
やっぱり、いい。ノスタルジーの色眼鏡を外しても、とにかくシナリオはきっちり頭を使い役者はきっちり演技し演出も大人だ。若者などがこれをキッチュと見て持て囃すのは、明らかに楽しみ方が違う。荒唐無稽な無国籍アクションと言いながら、とにかく世界と人間が破綻なく生きている。それにまた旭兄いの含羞に満ちた自己顕示(この二律背反というか重層感がたまらん)、アクションや身のこなしの自然なキレ(妙なスポーツ感や訓練感がなくリアル)、遊びではなく生活で締まったお尻(苦労したんだろうなあ)。やっぱりあたし、裕次郎おじさまより旭お兄様がいいわ。ビンボから咲く花、とってもリリック。
さらに古本屋では、熊井啓監督の書いた『黒部の太陽』制作時のドキュメント本、半値でGET。ああ、今日はもう、あたしとってもシアワセ――って、仕事しろよ。私物打鍵しろよ。


5月22日 日  
あづぐであだまがあっちこっち

単に自分が暑がりなだけなのだろうが、なにか『初夏の爽やかな日差し』というものを、今年はまったく体験していないような気がする。直射日光は鋭いし、日陰も蒸す。今年も猛暑の予想のようだが、この先どうなる事やら。
本日は一日私物打鍵に費やしていたのだが、10枚程度しか進まず。この一週間で、30枚程度しか打てていない。まあ趣味と考えれば妥当な量なのだろうが。昨年の今頃は、まったくプー状態だったとはいえ、一月半で540枚のを一本打っていたのだが。本来自分の言葉でない言葉を紡ぐのは、やはり難しい。
仙台では酔っぱらいが居眠り運転で高校一年生3人轢き殺し合計22人死傷やら、『身体障害者や高齢者らから、セクハラを受けた経験のあるホームヘルパーが4割近くにも上ることが、山形県中山町の社会福祉士の調査で明らかになった』やら、わが故郷近辺でも、相変わらず馬鹿は馬鹿である。お耽美小説を打っているのがつくづく苦しい昨今だが、負けないぞ。自分は『天守物語』の彫り師の爺さんになってやるのだ。「美しい人たちよ、泣くな」などとにこにこ笑いながら、悲劇の総てをこの世ならぬ天守で美しくシメてやるのだ。下衆が城の下から何を騒ごうと、関係ないのだ。
ところで昨年最も著作権料を稼いだ歌は「世界に一つだけの花」だそうだが、あれはそんなに良い歌なのだろうか。槇原敬之さんはけして嫌いではないが、あの詞を仏教で言う『天上天下唯我独尊』と関連付けて語っておられるのは、ちょっと違うのではなかろうか。つまり、それぞれが違ってそれぞれが無二であるという主張は一見仏教的なようでもあるのだが、自分としてはナンバー・ワンもオンリー・ワンも等価であって、ナンバー・ワンであることにもオンリー・ワンであることにも一切執着せずただ純粋に存在する、そーゆーかなり人間には難しいものが仏性だと思うのですね。どうもあの歌詞は、逆に凡夫凡婦に妙な甘えと自負心を錯覚させてしまうような気がする。えーと、べつにおんなじでもいいのです。ぼーっと雑草みたいに道端に生えてる、一生懸命でない雑草仲間人生でもいいのです。その雑草も蘭の希少種も、おんなじ植物ですので。


5月20日 金  
忘れてた

図書館でなんかいろいろしていたら、姉より携帯に連絡が入る。以前から「どーしたもんか」と相談を受けていた、母親の旧住居である、マンションの一室の件。忘れてはいけないのだが、食うのと夢を見るのにかまかけて、意識から除外されてしまっていた。しかし確かに、住人がすでに戻らないことが確実となった購入済みマンションに、光熱費の基本料金やら固定資産税だけ払って空けておくのは、不経済なのである。この場合所有者はあくまでも母親なのだが、現実的にはすでに禁治産者、そろそろこちらでなんとかしなければならない。現在自分が入居している部屋に比べれば、面積推定2倍、設備条件推定4倍くらいのいい部屋なのだが、では自分が住むとなると、地の利が問題なのである。なかばプー太郎と言っても現在内職は地域密着、餌場を変えなくてはならなくなってしまう。さて、思い切って住むか、貸すか、売るか――。
しかし、どうもこうした金銭に関わる問題は、億劫である。母の損得という問題がもはや当人の実感として存在しない以上、母のためと言いつつ結局自分の損得で動かなければならない訳で、これは偽善者として最も億劫な行為なのですね。ああ、親の財産が億単位とかなら、いっそ血眼の悪息子になって狙うのに。
正気や寿命が金で買えればなあ、と、つくづく思う。母は正気でさえあれば、今もそのマンションで悠々自適に過ごしていたはずなのだ。もっとも、単に体の健康やストレスや寿命で言えば、現在の施設のほうが、よほど好条件なのだろうが。


5月19日 木  
命あっても名がなけりゃ

暑い。もう夏ですね。しかし洗濯物のコイン乾燥が短時間ですむので、貧乏人にはありがたい。もっとも、エアコンまで必要になると、元の木阿弥だが。
古臭い言葉を連ねて私物打鍵を再開すると、『めいふ』がATOKだと『命婦』にしかならないのに気付く。ありゃりゃ、なんじゃ、そりゃ。第一、それは『みょうぶ』ではないのか。それともどこかの地名か誰かの名前か。じゃあ、MSでは――『冥府』だけ。まあそっちが使いたかった変換なのでいいとして、ちなみに書院では――やっぱり『冥府』。なんだかなあ。もう各社の語彙を全部ひっくるめたIMEがないと、日本語なんて打てないぞ。総合力ではやはりATOKという気もするのだが、地名や人名は妙に細かいのに、ある種の語彙がすっこぬけている気もする。まあ、日本語という奴がアレなだけで、結局こまめに辞書登録してこまめにバックアップするしかないのかも。
録画しておいた『義経』や『鑑定団』を観る。義経はようやく『スケールは小さいが小集団のヘッド向き』になってきたようだ。しかし後白河サイドがいちばん正気に見えてしまう今日この頃。草刈正雄さんまで腹芸してるし。鑑定団は今回も百発百中。いや、ひとつだけ、どなかたの裸婦デッサンが別人の物と鑑定されていたが、あの裸婦はちゃんと生きている。おそらく無名で不遇であっても、きちんと命の描ける方の作である。あるいはたまたま上手く命が宿っただけなのかもしれないが、とにかくその絵自体は生きていた。でも1万円。しかし、よっくと考えて見れば、額を5千円として本体5千円、せっせと描けば食えますね、立派に。


5月18日 水  
うつらうつら

昨日は朝からなんかいろいろで外出し、夜に帰宅した後は、外出先の知人に頼まれた『怪談・蛇女』(古い中川信夫作品のほう)のダビングなどの後風呂に入ったら睡魔に襲われ、10時頃に寝てしまった。といって夜型の頭ゆえ深夜2時には目を覚まし、それでも体は疲れているので蒲団の中でうつらうつらと眠ったり考えたり、効率の悪い惰眠を朝までむさぼる。
しかし『蛇女』という映画は、じっくり見れば手堅い怪談話であるというより、江戸の封建地主が明治への意識転換に着いていけず自滅していく物語だったのだなあ。なにせ祟る側一家は、死んでからも隷属意識を捨てきれない小作人の父親、娘を浄土に誘うばかりの母親、馬鹿な若旦那に手籠めにされて自殺するだけの娘、そんな無力な人ばかりで、生前地主に表立って反抗するのは、その娘の婚約者だけなのである。その婚約者も、死んだら娘といっしょに美しく彼岸に旅立ってしまう。地主一家を徹底的に罰するのは、あくまでも仏教的地獄(因果応報)の使者である『蛇』なのですね。映像的手法も『東海道四谷怪談』などの手法が踏襲され、やっぱり中川信夫という方は、私の好む『ボレロ・タイプ』の方である。押井守、宮崎駿さんあたりも、セルジオ・レオーネさんも中川信夫さんも、皆さん固有のひとつのエンブレムを繰り返し磨き続けて、死ぬまで変わらないであろう、あるいは死ぬまで変わらなかった方々だ。一方に、常に現状と対峙して結果ブレを生じてしまいカルトになれない高畑勲さんがおられ、人間的にはやはりそちらの方に「先生!」とすがりつきたくなってしまうのだが。
しかし昔の深夜映画の録画ゆえ、悲惨な隷属社会や、蛇の幻影に怯え狂死してゆく地主一家の間に、しばしばカメリアダイヤモンドだの武富士だののきんきらきん意味なし映像やら元気で色っぽいおねーちゃんの群舞が入ってしまうので、これを機会にDVDレコーダーでCMカットを試みる。映画解説の冒頭で、なぜかどこかの田舎の村で開催された『高畑勲映画祭』のちょっとしたルポ映像が放映されており、田舎の芝居小屋や上機嫌でお祭りにつきあう高畑監督のお姿なども収録されていたので、ありがたく残す。こういった映像は、たまたま自分が『怪談・蛇女』を、その晩録画したからこそ観られたわけで、やっぱり因縁なのだろう。
ちなみに『怪談・蛇女』は市販のDVDでもようやく発売されたが、いかにも東映らしく眠いビデオ画像のまんまだそうだ。デジタル・リマスターとかは、もうやる気がないのだろう(そもそもネガが残っていることやら)。


5月16日 月  
星の牧場をぱかぱかと

ふと気が向いて古いビデオを整理していたら、録画だけしておいて未見だった邦画の『星の牧場』などが出てきて、どんなんかなと再生してみたらなんか映像が美しいので最後まで整理ほったらかしで観てしまう。うーむ、岡崎宏三さんのカメラは原作の淡彩画のような詩情にマッチして、とってもリリックでいいのだが、演出は原作の意識からはるかに遠いかなと思う。ラストのモミイチの幻想は見え見えの多重露光で表すべき性質のものではないだろう。あれでは夢ではなく『起きてから思い出すただの絵空事』だ。彼が喪失してしまった戦争体験の記憶と同様、幻っぽい山の衆だって死んだはずの軍馬だって、彼にとっては紛れもない現実だろう。彼が結局山で死んだにしろ、主観的にはちゃんと星の牧場を愛馬にまたがり山の仲間の元へ向かったのだ。監督さんは読者・観客と同じ視線から演出したのだろうが、あの夢を見せてもらうには、キャラといっしょにきちんとそれを実感実見させてもらわないと。
などと言いつつ、同じテープに入っていた大真面目オカルト映画の佳作『ヘルハウス』なども続けて観てしまい、叙情的童話もこれくらい律儀に映像化しないと夢は紡げないよなあ、などと思う。


5月15日 日  
よくわからん

少女監禁の上「俺は既知外だから何もわからん」と居直る24歳、友人や後輩をポルノに斡旋する女子中学生、テレビの事故報道で興味を持ったのか線路に置き石をする幼稚園児――いいかげん鬱になるので見まい見まいと思いつつ、結局ニュースを見てしまい、やっぱり頭を抱えてしまう今日この頃、ちょっと不思議な記事がひとつ。
『小学2年の女児(7つ)を約7時間連れ回したとして、神奈川県警厚木署は14日、未成年者誘拐容疑で、同県厚木市の無職畠○み○容疑者(20)を逮捕した。女児にけがはなかった。調べに対し、同容疑者は「すみません」と容疑を認め、反省している。同署は動機を追及している。調べによると、同容疑者は14日午後0時半ごろ、厚木市内の自宅近くの路上で遊んでいた女児に「お姉さんの家に遊びに来る?」と声を掛け、同市や海老名市をバスなどで連れ回した疑い。(時事通信) - 5月15日2時0分更新』(ここで伏せ字にしたのはバニラダヌキの個人的判断です。ニュースでは実名全部報道されております)――これって、この時点で実名報道されてしまうほどの犯罪なのだろうか。まあ確かに未成年者を長時間連れ回すだけで、容疑者ではある。確かに夕方過ぎまで連れ歩いただけでも『容疑者』に違いはない。どうもこの子を捜し回っていた母親が自宅付近で2人が歩いているのを見つけ、通報したらしい。女性が少女を自宅に帰そうと送っていたのかとか、事実関係はまだ判らない。当節の治安を考えれば、お母さんの気持ちも重々理解できるのだが――たとえば20年前、公園で仲良くなったちっこい姉妹などとアパートの部屋で遊んだりしていた(もちろんお絵かきしたり食料を略奪されたりしただけで、夕方前に家に帰したが、といって事前に親に断った訳でもない)自分なども、親に通報されたら『容疑者』として実名報道されたのだろうか。
しかし友人や後輩をポルノに斡旋する女子中学生が、すでに『容疑者』ならぬ『犯罪者』でありながら実名報道とは無縁であるのに、この女性は単に20歳であるという理由で、まだ真の『犯罪者』かどうか判らぬ段階から、世に曝されてしまう訳である。
警察も報道者もつくづくアレなんだろうなあ、と、ちょっとため息をつきながら、夜はたかちゃん様後一行を連れて脳内旅行に出かける。もはや現実の公園少女にレンズを向けるのも声を掛けるのも、ヤバそうだ。


5月14日 土  
トンデモ三昧

なんかいろいろはお休みにして、私的打鍵物をいろいろいじり直す。有難い読者の方から、記憶だけで打ち飛ばした軍事上の誤謬など、詳しくご指摘などもいただけて、重々赤面しつつ、それでもやっぱり想像や話の流れを思い計って、都合の良いように修正する。なにせノモンハン事件ひとつとっても、かつて自分が聞いていた、そして諸作家の方々なども既存の資料をもとに堂々と展開したような、いい加減な日本陸軍がソ連の立派な戦車や飛行機の大群にボロ負けの悲劇、それがソ連が崩壊してアチラの公文書が公開されたとたん、ウソ八百ばかりでむしろきっちり後方支援できたらこっちが勝てたのではないか、そんな気配すらある。情報そのものが、情報を流す側の都合でコロコロ変わるのだから、まして嘘八百のエンタメであれば、もう堂々と言い切ったほうが勝ちだろう。もっとも、幻の巨大爆撃機が燃料補給もなしにアメリカ本土を叩いて堂々凱旋するような嘘八百は、大本営発表同様、エンタメ以前の誠意欠如と思われるので、自分では避けようと思う。酔えるトンデモを達成するには、やっぱり誠意のある嘘八百が要るだろうし。
16時就寝、翌15日3時起床。久々に大熟睡。


5月13日 金  
高圧電線と鼠

去年買ったばかりの2万円の球面25インチテレビ(このサイズとしては、日本最後の球面ブラウン管だろう)に、もう色むらが生じている。消磁器をかけてもすぐに復活してしまう。最初は無かったのだから、不良品でもないと思うのだが。思えばお払い箱にした古いのも、ここに越して来てから急速に劣化したのである。どうもすぐ隣に立っている高圧線の鉄塔が気になる。パソのモニターは小さいし消磁機能もあるので、生活に実害はないが。そう言えば高圧線の下に住んでいると、電磁波で白血病や癌が増えるなどという話も聞く。まあ白血病や癌は保険にも入っているしネタにもなるので、他の方はともかく自分的にはさほど気にならないが、テレビの色むらは気になる。特に雪景色などが好きなもので。
朝方までかかって自己打鍵物にひと区切りつけ板に上げ、そのまま眠れず、三日前に借りた『ファングス』をようやく観る。フランクフルトが舞台の、鼠の大量発生と疫病の拡散という典型的な動物パニック。アウトラインはスケール感に乏しく、戒厳令下の割には軍隊ちょぼちょぼでオイオイなのだが、案外お気に入りの一本となってしまいそうだ。フランクフルト中がパニックなのに政治家キャラも医者キャラも二人づつしか出てこないとか、なかなかクールな主人公の属する鼠駆除要員がたった数名で大活躍するとか、当然そぞろ寂しくなるべきB級の宿命を、ストーリー展開と演出の起伏で結構ノリノリに見せてしまう。本物の鼠の使い方も巧みだし、CGの大群はアメリカ映画の大作よりもよほど生命感がある。廃ビルひとつ爆破するのも景気がいい(大ミニチュアかも知れないが、きちんと本物に見える)。そしてなにより、ちっこくてかわいい幼女が、アメリカ映画のような異常な自主規制による不自然さもなく、きちんと無邪気にパンツを見せてくれる。――おいおい。


5月12日 木  
古臭い?

ちょっとキーボードとモニターを相手に苦吟していると、またすぐ背中が重くなる。これは新しい椅子のせいなのか、などとも思う。先頃崩壊するまで使い続けていや椅子は、分不相応に高価だっただけあって、二日間ぶっ続けで座っていても、腰や背中には負担がこなかった。それとも、やっぱりただの歳か。
まあ、腰や肩や背中は歳と共に確実にいたみが来て、いずれ椅子と同じように崩壊するのだろうが、歳食ってて良かったなあと思う事は、いくらでもある。ネットや若向け雑誌などで、映画評やコミック評やアニメ評を読む時など、やっぱり人間は長生きしたほうがより物事を楽しめそうだなあ、とつくづく思う。無論体を使って楽しむ機会などは、それこそ砂の器のようにボロボロと風に散っていくのだが、脳内で怠惰に楽しむには、リアルタイムで長く追う、これに限る。
というのは、お若い方々が結構「古臭い」という実態のない観念で、過去の美しい物や面白い物を、切り捨てている例が多いからだ。いや単に、久々にアニメの『劇場版ファイブスター物語』を見返して、それからネットでいろいろ覗いていたら、どうも厨房さんあたりはそれを「古臭い」と感じるようなのですね。はっきり言って、子供ほど想像力豊かで個性的、などと言うのはなにかの間違いではないのか。自分には若ければ若いほど、子供であれば子供であるほど、目先の流行り物だけしか見えず、独創性に欠ける人間が多いように思う。もちろんスルドいお子さんも多数いらっしゃるのだが、大多数の大人と大多数の子供を比べれば、どう見たって歳食った人間のほうが、視点のバリエーションが豊富である。
まあ「昔は良かったなあ、ぶつぶつ」だけの硬化老人も多いにしろ、それは先の長さをまだ自覚できない子供と同じ次元に退化してしまっただけの事で、やっぱり子供よりは少年、少年よりは青年、青年よりは壮年のほうが、感性の識域は一般に広いようだ。
もっとも幼児となると、これはまた未分化の、問答無用の感性を持っているので、見ている分にはいちばん面白い。鈴虫とベンジョコオロギだって差別しないし。あれだけは見習わなければ、と思う。
あれ、何を打っているのか判らなくなって来た。いいや。私物打鍵に入ろう。
――などと打ってHPに上げようとすると、またYAHOOが繋がらない。


5月11日 水  
尻ぬぐい

思いつくまま打っていると、話はいくらでも細かくなる。第一、戦前やら軍医やら軍人やら、おおざっぱなアウトラインだけで話を始めてしまうと、それはもういくらでも知らないことを知らなければならなくなり、知らないまんまでは反古の山ができてしまう。という訳で、ミリタリーおたくでもないのに、図書館からなんかいろいろ借りたりネットで検索しまくったり、ここまで250枚を越えた全部の細部を辻褄合わせなおしたり、それはもう二晩費やしても先の進みはたった5枚、などということになる。
もっともその間にも、なんか山場の最後の舞踏会がくるくると脳内に展開し、自分で「ああ、ええわあ」などと涙ぐんだりしているので、いずれ橋の下でミイラ化する時には、悔やむばかりでもないだろう。しかしもっと働かんとマジに干上がるぞ。そう思いつつ、結局米良美一さんの叙情歌から自分で好きな物だけ集めて焼いたCDなど聴きながら、もう寝てしまおうと思っている自分は、やっぱりつくづく怠惰で馬鹿だと思うが、やっぱりかわいい。


5月10日 火  
恐い話が観たい聴きたい

例のクズや名作やなんかへんなのを返却にツタヤに寄り、また性懲りもなくBS放送版の『新耳袋』、ドイツの動物パニック物らしい『ファングス』など借りて来てしまう。前者はまあ原作がアレだが、映像化されたら結構恐いのではと期待したが、残念ながらハズレのようだ。原作の取りえである『実話感』『オチのない奇妙な味』が、昨今のビジュアル・ホラーっぽい演出ばかりで失われ、予告編の羅列になっているような。大体、『呪怨』でも麗々しく使われている、自分が今寝ている蒲団の中の胸元から霊が這い上がって来る趣向など、遠の昔に花輪和一さんの初期名作に登場し、ガロ読者をして悪夢に陥れたビジュアルなのである。
まあこの歳になるまでモノホンの幽霊は見ていないものの、金縛りや幻視・幻聴の不可思議さは数回体験しているし、本気で見えてしまうらしい人も知っているし、怪談咄・恐怖実話なども子供の頃から読み耽り聴き耽り観耽って、大概のホラーでは恐怖できなくなってしまった自分が哀しい。今後実際幽霊さんにお目にかかる機会があったとしても、嬉々として「サインして下さい」とか、「オフの時は何をしてお過ごしですか」とか、「お札やお念仏や真言って、ほんとにイタいですか」とか、ほとんどリリーズのお二人にお会いした時のノリになってしまいそうな気がする。
もっとも昔から、たとえば古い仙台のアパートで、どこぞの部屋で深夜三回名前を呼ぶと、天袋から這いだしてくる斉藤さん(実話と言う事になっているので、ちゃんと名前も人格もあるのである。ちなみに斉藤さんは、孤独死した中年太りの陰気な女性)の話を聴いた時も、あるいはどこぞの小学校で宿直員さんが夜間巡回中、物音のした教室の机を懐中電灯でひとつひとつ照らしていくと、ある机の上にあった二つのちっこい手が、あわてて下に引っ込んだとか、そんな話を聴いた時も、それは恐いなあと怯える一方で、狭い四畳半の天袋に収まっている中年太りの斉藤さんもさぞ窮屈だろうなあとか、ちっこい小学生でもあの机の下のわずかな収納スペースにあわてて隠れるのはさぞ苦しかっただろうなあとか、出てくる前はどんな格好でその中に収まっているのだろうとか、やっぱり『化ける側の苦労』を考えていたからなあ。
そんな不感症気味のせいか、貞子さんも伽椰子さんも、ついつい「大変ですねえ。とり殺す前に、ちょっとお茶でも」などと声をお掛けしたくなる今日この頃。


5月9日 月  
私はかつてすけべえでない男に会ったことがない

さて世間様のお休みも貧乏人の蟄居も終わり、朝から外でなんかいろいろを終えてまた蟄居に戻る。神保町にもアキバにも寄らない。ほんとうに食って打つのがやっとになりつつあるのである。本やビデオが食えればいいのに。
首都圏主要鉄道の朝の女性専用車両が始まった訳だが、1両などと言っている内は、まだ甘いのだろうなあ、と思う。当方、けしてフェミニストではない。しかし、この世の男はその対象は様々であるにしろ、老若を問わずほとんど好色である。真理かどうかは証明できないが、少なくとも芯からすけべえでない男に、今まで出会ったことがない。ほとんどが全ての異性を畑としての価値基準を含めて認識している。私もそうですすみませんすみません。一方で、女性のほうは極めてシビアに男を選別される方が多い。種を受け入れる価値がない異性は、ほとんどの女性にとって、雌雄に拘わらぬ一個の社会的生物と認識されるだけなのだろう。と言うわけで、逆差別とおっしゃる方も多いようだが、残念ながら現実的に女性を見れば見境なく触りたがり、着衣を除いた状態での鑑賞を望む男性が圧倒的多数な以上、恥を捨てた既知外も無差別に触り覗くのは大半雄ということになるので、つくづく自分が雄であることの哀愁を感じながら、「……3両くらいでもいいかな」と寂しく呟くのが、既知外ではない男としての度量だろう。男はつらいよと、寅さんもおっしゃっているし。


5月8日 日  
コネクション

山形は小川製麺所の『とびきりそば』の隣に(しつこく商品名が出ますが、念のため、故郷の会社である以外には、縁も所縁もありません。好物なだけです。乾麺としては高価なだけあって、普通の生麺よりずっと旨い。田舎的歯ごたえと野性味がいい。関東のスーパーでも、たいがい定番になっているし)、同じ製麺所のざるそば専用の新製品らしきアイテムが出現していたので、さっそく購入。『とびきり』よりは細めでさっぱりしており、個人的にはむしろ冬にかけで食いたかった。でも食欲が落ちる盛夏には、このほうが吉か。啜りながら観る『義経』も、平幹次郎さんや渡さんや白石さんの出番が多く、なかなか美味。ウツボちゃんもちょっと出たし。しかしこれで清盛も亡くなり、なんか松坂慶子さんがお綺麗ながらとっても軽く今後の平家滅亡へと路線をぶちあげられて、頼朝もなんかこのところ影が薄く政子さんのほうが感情的に恐いので、どうも『女たちの感情源平合戦』といった趣も。しかしタッキー・ファンの方々には申し訳ないが、あいかわらず義経のキャラだけが立っていない。まあ後鳥羽上皇や頼朝に翻弄されるだけの一生でもあるわけで、『ただの二枚目』でもいいのか。
続けて昨日録画したシベリア収容所ネタのドキュメンタリー・ドラマ『望郷』を観て、あうあうと泣く。ドラマ部分の押さえた演出好ましく、ご当人が出演されるドキュメント部分は、名もあり功も遂げられた90歳の方ゆえか多少自己演出に抑制を失っている感じもしたが、そのこれまで生きていらした事の意味には、重々敬服。何より90歳であれだけ矍鑠としていらっしゃるのがいい。現在の打鍵物にも88歳の元気な医師や79歳の美老婆が登場し、ちょっと現実的にハテナか、などと思っていたのだが、現実社会の老人たちは、元気な方は驚くほど元気。まあその分、母親のような例も増えるのだろうが。
投稿板のお若い方にまた相継いでメールなどいただき、さきほど頂いた方には、やはり別の方の主催されているMLへのお勧めなども。以前主催されているご本人からもお誘いをいただいたとき、ちょうど背中に何か乗っかって鬱もひどかった時期なのでお断りしてしまったのだが、このところいくぶん気力も復活して来たので、ちょっと心が動いている。風呂に入って考えて、ご返事せねば。脳内たかちゃんも元気に復活したことだし。
などと言いつつ、考えてみれば明日は朝起きねばならないのに気付く。やっぱり風呂から上がったら、すぐに寝よう。


5月7日 土  
ちいさなしあわせ

深夜、脳内でまたたかちゃんが起動する。というより前回たかちゃんの餌食にされかけた無害型ろり親爺(あ、俺や)が復活し、当然仲良しろり3人組も復活したのだが。また眠れなくなって昼までごにょごにょ打ったり直したり、寝たのはお昼の2時だった。また完全逆転。
日が沈んでから起き出して、空腹でも冷蔵庫には玉子4個と僅かな牛乳しか残っていず、閉店間際のご近所の小スーパーに行くと、旦那さんが本日消費期限の食パンを、2袋もオマケしてくれる。いつも煙草をカートン買いする店なので、覚えてくれているのだ。チェーンではない個人店のいいところである。これで生肉や魚類も扱ってくれていたら、毎日閉店間際に訪ねるのだが。
食パンなどというものは、消費期限とやらでもフカフカしているし、2袋食いきる間にカビが生えても、餅と同じでそこだけ除けば食える。たいへん幸福な気分である。この程度で幸福を感じてしまう生活状況は、昔に比べれば社会的に惨めなのかも知れないが、つらつら鑑みるにまだ食える残り物をぽいぽい捨てていた過去の生活が異常だったのであって、それは大手スーパーなどが『消費者のため』と言いながら『俺んちの客入りを良くするため』だけにまだ食える物を片端からゴミにしてしまうのと、そしてそれを『あすこは管理がしっかりしているわ』などと喜ぶ奥様方と、同レベルの盲目状態だったのである。その証拠にテレビで世界に広がる日本料理のドキュメントの旨くて高価そうなレストラン料理など見ながら、はぐはぐと我が正餐である食パンと卵焼きを食っていても、別に不満でもなんでもない。
最近やたら昭和レトロなどがもてはやされるのは、若い世代には高度成長期の『貧しいけど将来の希望感』が受けるからかも知れないが、さて自分はその頃どうであったかを回想すると、餓鬼の事ゆえ大して先のことなど考えていなかったように思う。ただ、普段の芋コロッケの代わりにメンチカツ(肉がはいるので当時は高かった)が夕食に出ればラッキーで、ぺらぺらのトンカツが出れば翌日まで大変幸福でいられたことは間違いない。個人的には、飢えない程度の生活こそ、リアルタイム幸福への切符である。――負け惜しみだけど。


5月6日 金  
なんかへんだ

リアルタイムで子供の頃劇場で観た後、一度も再見していなかった、自分としては稀なゴジラ映画『対ヘドラ』を観る。子供心に「なんかへんだ」と感心した記憶があり、その後も現在まで「なんかへんだ」と巷で言われ続けているので、興味深く再確認したら、やっぱり「なんかへんな」映画であった。坂野義光監督はきっと真面目ないい人に違いないが、本多猪四郎監督ほどバランス感覚には恵まれていなかったのだろう。ATGの失敗作のようなゴジラである。日本映画音楽の大ベテラン真鍋理一郎さんは、『血を吸うシリーズ』はじめ、なんかへんな映画音楽も得意な方だが、ここではひときわへんな主題歌の作曲をされている。『対メガロ』といい、ゴジラには向いていなかったのだろう。
『無収入で自暴自棄となり、刑務所に入る前にやりたいことをやろうと』して、少女監禁をはじめなんかろいろやった菅谷章被告(57)の論告求刑公判が2月に行われていたのを、寡聞にして今日まで知らずにいた。検察側の求刑は、無期懲役だったそうである。殺人は犯していないので極刑の求刑だが、加害者にとっては『やりたいことをやって』『望み通りの生活を手にできる』訳である。つくづく、なんかへんだ。
首をひねりながら、自己打鍵物『月下美人』がひとまとまり溜まったので、板に上げる。もはや感想を下さる方もひのふのみー、あるいはひのふーくらいになりつつあるようだ。なんかへんなのだろうか。当人は大真面目かつ必死で、現実社会にファンタジーを重ねようとしているのだが、今はどっちかに区分けしないと受けないのだろうか。初めから夢である仮想社会よりも、自分としては今回このままならぬ現実社会をファンタジーによってたぶらかし押し倒し、思いきり挿入して種蒔いた後、入籍に持ち込みたいのだが。


5月5日 木  
からんころん

さて、子供の日だが子供ではないし(精神年齢では勝負できそうな気もするのだが)、いい天気なのに遠出をする金もないので、相変わらずご近所をうろついただけで大半部屋に淀んで、なんかいろいろやら打鍵やらの一日だったのだが――例によって晩飯の友・テレビ鑑賞は大当たりであった。言うまでもなく昨日借りてきた、1970年度放映の東京12チャンネルは日本怪談劇場、中川信夫監督『牡丹灯籠』である。前後編だから、映画一本分のボリューム。中身も本編なみの充実度。巷で多く語られるお露新三郎の『お札はがし』はそこそこに、三遊亭園朝の原作に沿って伴蔵を中心に据え、因果は巡る糸車、市井の小悪党たちが毒々しくも醜く愛おしく絡み合い、やがては虚しく死に絶えて、後に残るは、無垢に死んでいった恋人たちが、祟りもせずにただ淀んだ沼に咲く、紅白の睡蓮のように――。はい、モニターに向かって大拍手。
なんといいますか、昔から怪談としてはポピュラーだし、映像化も山本薩夫監督の耽美作や、近いところでは監督名を覚えてもいない『OTUYU』やら『1990牡丹灯籠』やら色々あるわけだが、はっきりと人間の描き方が違う。観念性と娯楽のミキシングの妙が、他の作より何枚も上手。伴蔵を演じた戸浦六宏さんは、脇役ならぬ紛れもない主役で、名バイプレーヤーの実力全開。救いようのない悪人を実に人間臭く演じて、近頃のウジャジャけた愉快犯や詐欺師どもに、テキストとして見せてやりたいくらいだ。救いのない滅びっぷりもいい。


5月4日 水  
男はつらいよ・パンダ恋歌

GWだが金もないし、せめてDVDでも見倒そうと思い、買い物帰りにツタヤで日本怪談劇場だのゴジラ対ヘドラだの、なんか流行りに乗ったらしいビデオオリジナルのホラーだのを借りてきて、さて低予算らしいが少しは頑張っているのかな、などと『呪狗女』なる物を再生してみたら――おお、タイトルの親爺ギャグで気づくべきだった。予算も頭脳もセンスも何一つ存在しないゴミ(これはもう傲慢でもなんでもなく、スタッフの面前でも『ゴミ!』と断言できるレベル)。オレオレ詐欺同様の、いや、そこまでの頭も使っていない、無意味。まあネーミングのセンスに気づかず、中身とは無縁の恐そうなジャケットに惹かれて借りてしまった自分も馬鹿だったので、金を返せとは言わないが、しかしまあこの前借りた『キング・スパイダー』といい、頭は空でも度胸のいい映像グループはいるものだ。
続きを観る気力すら失い、といって鬱になるほどのインパクトすらない空写しだったので、水のような気分でとびきりそばを啜っていると、NHKで野生のパンダを追う動物写真家・岩合光昭さんのドキュメントが始まる。両方とも好きなので、一気に復活する。動物カメラマンという副題の割には、岩合さんの人生などは一切ノータッチで残念だったが、野生のパンダ映像は貴重。しかし一頭の雌をめぐる雄同士の流血の格闘などは、やっぱり大自然の中ではパンダも大変なんだなあ、と、負けた雄を抱きしめて「うんうん、きっと明日があるからね」と、泣きながら背中を叩いて励ましてやりたくなる。
さて、この上中川信夫監督のテレビ作品『牡丹灯籠――鬼火の巻・蛍火の巻』までチェックしていると、自分の打鍵の夜を失ってしまうので、後は明日の飯時のお楽しみに。


5月3日 火  
憲法記念日

右か左か、と問われれば中立のつもりなのだが、平和憲法という奴はちょっと難しい。まあもともと曖昧で解釈の問題に帰結するような憲法でも、さすがにこの歳になると、『戦争放棄』という言葉が恐くなる時がある。長い社会生活の内に、『戦争反対』と唱える日本人自体が、逆らわない者にはいくらでも戦闘的に自我を押しつける民族である例を多く見ているし、当然他国も同様だろうと思われる。狂った人間が大きな組織を指揮する事などいくらでもある。敷地内の『自衛』だけで済むのなら、じゃあシャブ中の隣人が出刃包丁振りかざして自宅に押し込んで妻を犯し子を殺そうとしたとする。なんとか応戦して自分の敷地から追い出す。はい、そこまで。後は警察に任せましょう、それで済むか。復讐心うんぬんを言っているのではない。狂った隣人はガレージに向かっているようだ。車で逃亡するのか、それとも車でまた突っ込んでくるつもりなのか――。家対家なら、逆方向に家族を連れて逃げる、という手もある。しかし、国対国だと、逃げる逆方向は存在しないのである。電話で駆けつけてくれる、外からの警察もいないのである(まあ小泉さんも、その意味でアメリカさんと仲良くしている部分もあるだろうが)。やっぱり隣のガレージまで追っかけて、組み伏せるのが妥当だろうと思わざるを得ない。
と、言うわけで、『戦争放棄』ではなく『侵略放棄』と謳うのが正しいのではないか、そう思ったりする今日この頃。それなら良く説明すれば、世間も世界も納得してくれるのではないか。……なんでも拡大解釈したがるから無理か(まあ現在のアメリカの傘下にいる限り、そう思われるのも無理ないのだが)。しかしやはり領海内だけでしか反撃できないのでは、『自衛隊』ですらないのである。こう言うと過去の自分を知っている人たちは「ずいぶん右傾化しているなあ」と思うかも知れないが、『絶対侵略反対』は変わっていない。でも甘ちゃんの学生時代から、『戦争を知らない子供たち』などという歌は大嫌いである。
まあ真に『平和国家』『戦争放棄』を目指すなら、当然自衛隊も軍備を放棄して災害救助隊とでも名を変え、アメリカの基地は全て拒否、みんなで『戦争を知らない子供たち』を合唱しながら、ミサイルや弾が飛んで来ても花を摘みながら眺めていればいいんですけどね。なんとなれば、戦争を仕掛けて来た他者と自衛のため戦うのも、立派な『戦争』なのだから。
親の代の贖罪と子の備えは別物だろう。子も親を知った上で自己確立しなければ、公平な贖罪など出来ないだろうし。


5月2日 月  
ネチズン?

馬鹿なので『ネチズン』なる単語も最近まで知らずにいた。我が敬愛する高畑勲監督の『火垂るの墓』が韓国で公開取り消しになった時、その国のネチズンとやらが「日本人を戦争の被害者として描写した」とエラく反発したから、などと朝鮮日報のサイトで読んで、てっきりネオナチの仲間か、などと思ってしまっていたのである。笑って下さい。
まあいずれにせよネットに過適応すると、そのあまりの広範さに錯乱して、逆に狭視野化して馬鹿になる場合が多い。自分もその気が入って来ているので、自戒せねば。しかしあの時代の日本人は総鬼畜と思っている人も、あの国には多いのだろうなあ。まあ我が国にも他国に何か言われると関連施設に即無礼を働いたりする白痴なども多数現存している訳で、かくして世界平和などというものは永遠の夢。まあ、永遠の夢だからこそ、永遠に追い続けていられるという素晴らしい『真理』でもあり、『希望』でもある。
夢だの真実だの情報だのは、手が届かないくらいで丁度いいのかも知れない。手っ取り早くなんにでもコミュニケートできるなどという錯覚を抱くと、視野も社会も狭くなる一方だ。
なんとなく大声でアニソンを歌いたくなったので、JASRACの検索など顧みず歌ってしまおう。
♪ちゃーちゃー、ちゃちゃちゃー、ちゃーちゃー、ちゃちゃちゃー、ちゃーちゃー、ちゃちゃちゃー、ちゃちゃちゃーちゃー、ちゃーちゃーちゃーちゃー(ここまで前奏です)♪もーしもー、言葉ーのーなーいー時代ならー、もっとうまーくー、みつーめるーのにー、いーまはー、風の向きがかーわーるたびー、時のながーれー、もどーかーしいーのー♪ 雨の朝には虹をわたーあって、夜更けは三日月の弓引ーいてっ、熱い思いを届けたいーのにっ、あなたーのー、ひーとーみーはー♪ そーふぁーらうえー、果ーてーしなーいー、夢を映ーすよー、まばたきもーせずー♪ そーふぁーらうえー、さー越ーえよーおー、あなたのあーとをー、ついていくーからー♪ ♪ちゃーちゃー、ちゃちゃちゃー、ちゃーちゃー、ちゃちゃちゃー、ちゃーちゃー、ちゃちゃちゃー、ちゃちゃちゃーちゃー、ちゃーちゃーちゃーちゃー(すみません。間奏です) ♪すーべてー、わかりーあーうー、よろーこーびーよりー、みつからなーいー、ここーろーがー好きー、そーっとー、こぼれる涙ーのー数ーでー、やさしさなーらー、倍ーにーなーるねー♪ ……半分歌っちまったい。
『瞳の中のファーラウェイ』です。作詞はベテラン川村真澄さん。ちなみに劇場版『ファイブスター物語』のテーマソングで、歌っていたのは演歌の女王となる前の、アイドル時代の長山洋子さんでした。しかしあれも角川アニメの中編一本きりで、続編もシリーズ化もなかったが、やまざきかずお演出ビンビンの、ああ、もうどうにでもして頂戴級のアニメだったよなあ。あーゆーのの続きが出ないのは、まああまりにもマニアックな原作漫画のためなのだろうが、ああした原作が食い荒らされないのは良い事である。
それから、この一週間ニュースやドキュメント・新聞をかいま見て、「なぜ運転の下手な運転手を馘首にできないのか」という言葉を、一度も目にも耳にもしていない。確かに神技に近い過密ダイヤも限界だったのだろうが、明らかにその職業には向いていないと思われる人間を再教育のみで乗車させ続けねばならなかった背景には、人手不足などだけではなく、再教育はイジメだのプレッシャーがどうのこうのとおっしゃる側が馘首を許さない、つまり組合だって事故の遠因に含まれているだろう。どこまでが権利でどこまでが義務か、その会社の本当の義務はなんなのか、それを両者誤りながら、電車は疾走していたのではないか。


5月1日 日  
GW

♪世間はー春でもー祭でーもー♪私にはー関係ーないのさー♪ ――しつこいようですが、三輪明宏さんの歌うシャンソン『群衆』です。ついでに内容まで過去の日記からコピペしますと、フランスの貧しいお針子が、街の祭の喧噪を前に、「祭りなんて関係ねーよビンボ暇なしだもんね」などとひねくれてるところに二枚目が言い寄って来たりして、なになにイケてんじゃんやったね今日はホームランだ、などとつかの間舞い上がっていると、けっきょくイケメン君は祭の踊りの人ごみの中ではぐれてしまって、ふん、やっぱりあたしゃ人ごみも祭りも大っきらいだいひとりぼっちなんだい――。でもまあ、いいじゃないですか、生きていりゃこそ二枚目も見られるし、夢も見られる。
何処にも行く金はないし大連休でもないが、いつもより暇はできたので打鍵を進める。鬱が好転してキータッチも少し早くなったが、逆についつい作中のキャラの文体ではなくついつい『気が軽い自分』に戻ってしまう。現代パートの主役は『僕』であっても自分そのものではないのを、いつのまにか自分に戻してしまう。未明にキリまで打って板に上げてからその事実に気づき、修正しようとしたらまたパスワードが弾かれてしまう。だから更新時にはダブル・チェックなので、その上コピペで入れているのだから、入力ミスは有り得ないのになあ。事前に間違って管理者用パスワードの欄に入れてしまったのが原因か、あるいは妙に重かったから同時投稿したどなたかとぶつかって負けたとか。良く判らない。過去パートは自分でも泣きながら打ったほど、練りに練っていい場面になった(自分で言うか)からOKだが、現代パートはいきなり自分言葉が多数混入して恥ずかしいのなんの。慌てて朝っぱらから管理の方にお願いメールを入れたら、なんと午後には修正していただけている。GWなのにありがとうございます。ああ、GWだからなのかも。とにかくモニターに向かってペコリ。


4月30日 土  
亡者の復活

岸田森さんに汚血を吸ってもらったからか、セントジョーンズワートが効いてきたか、体調・精神共に軽くなってきた。
GWゆえ混んだ時間を外して午後遅く入った100円回転寿司でも、びんとろや金目といった非高級食材が、口に入れたとたん唸ってしまうくらい旨く舌に絡み、本来の貧乏舌が戻ったようである。ただ、あのぺらぺらの烏鰈の縁側が未入荷だったのは残念。貧乏舌には平目より口に合ったりするのだが。中ジョッキ1杯引っかけるが、美味いばかりで酔いはこない。ちょっと前はそれだけで頭が茫洋としていたのだから、やっぱり体調もいいのだろう。
それから図書館へ。現在打鍵中の『月下美人』に、板で毎回感想を入れて下さる方が、その頃の特高部長・安倍源基が、部長就任直前は一時山形の学務部長に飛ばされていた、そんなエピソードを教えてくれて、こちらは安倍源基など単に特高の親玉で終戦時の内務大臣で、巣鴨日記の筆者で戦後までとことんシブトかった、そのくらいしか知らないから、おやおやと調べに行ったのである。あらま、本当だ。5.15の頃は山形で比較的のんびりと、一家でお過ごし。さっそくそれらしい時代のエピソードとして、挿入させていただく事にする。まあ背後では軍部から諜報関係から特高から平安に遡るなにやらまで絡んでいる話なのだが、表で描きたいのはあくまでメロメロのお伽噺であり、この世ならぬものたちとこの世の人々の接する、薄明の舞台である。現世の方は、中野学校でも持ち出すかなどと漠然と考えていただけで、打ってる途中で「いかん、考えてみりゃ、こんときまだ中野学校できてないじゃん」などと慌てて資料を探そうとしていた矢先、こういうご指摘はつくづくありがたい。これはもう当初の予定の陸軍が前半荒事まで担当で、この先はきっと特高と中野学校の前身が入り乱れるのだろう。おうおう、じゃああの陸軍中尉は、この先はもしや主人公側に寝返ってくれたりして――こんなふうに自分で出した一見キャラまでいきなり参戦表明したりするので、中編の筈がズブドロの長編に変貌しつつある。いずれにせよ当初頭で紡ぐのは「ああ、もうどうにでもして頂戴」と自分でも思えるような『夢の演出』であり、その背後関係などは後から自分で勝手に推理して裏打ち表装しているのである。勝手に夢を見て勝手に解釈するのだから、我ながら無責任。でも自分は壁に向かって紙芝居をしているつもりはなく、やっぱり自転車を取り巻いて水飴やソース煎餅を手に律儀に続きを待ってくれる観客が夢の糧なのだから、『主観の客観化』だけは疎かにするまい。


4月29日 金  
血を吸う腹

心神喪失――便利な言葉である。泥酔状態で犯した罪の弁護などにも、良く使われている。喪失したのはすでに結果であって、その先はオマケだから、まあその喪失の方の原因を責めて下さい、そう言いたいのも解る。でもやっぱり、喪失というより『心神放棄』じゃないの、と突っ込みたくなる場合が多く、その場合はやっぱり放棄自体がすでに犯罪だろう、そんな気もする。
いずれにせよ、大人が100人死ぬのも赤ん坊がひとり死ぬのも、同じ秤で計ってほしいものだ。死ぬ側から見れば、自分はひとりしかいないのだから。下手人が死んでいるか生きているか、狂った下手人が悪いのか社会が悪いのか(まあどっちも共犯なのだろうが)、同じ秤で、そこんとこよろしく。
いかん、このままではまた鬱が来る、そんな時のために岸田森吸血鬼。あの究極の滅びには、明快なカタルシスがある。殺さなければ生きていけない、原初の人(魔?)の姿がある。しかし『血を吸う眼』から『血を吸う薔薇』までのたった2年で、東宝映画はあんだけお色気OKに変わったのか。勉強になるなあ。


4月28日 木  
血を吸う狸

血を吸う箱が届く。というと、それを知らない方はなにか惑乱されるだろうが、以前予約しておいた、東宝の怪奇映画3本DVD・BOX。初回生産限定で、岸田森吸血鬼顔の棺桶貯金箱がオマケである。さっそく100円玉を貯金しながら、お目当ての『血を吸う人形』を2回続けて観る。2回目は小林夕岐子さんのオーディオ・コメンタリーをメインに。いやあ、中年の自分より遙か年上のはずの現在の小林さん、声の表情がまるで少女のように可憐。往年のクール・ビューティー未だ若し。あのお声であの「……お願い……私を殺して」などと迫られたら、いやもうなんぼでも殺してあげますでもその前にお目々金色に変えてこの哀れな爺いの喉首掻き切って下さいね、とゆーよーな気分。まあ実際リアルタイムで観た大阪万博の年も、ああこんな綺麗でおっかないお姉ちゃんに真夜中襲われてみたい、そんな歪んだ子供だったので、自分、ちっとも成長していない。しかし本編をじっくり拝見すると、それは構想の無理も趣向の稚拙さも、制作時代の宿命として(洋風ホラーというジャンル自体が邦画としては熟していない時代)あるのだが、それにも増して入念なセットや惚れ惚れするようなカメラや照明、練られた演出(今のレベルでお笑いネタにするおたく文化人も多いが、恐らくリアル・タイムで観てはいるまい。第一、『なんだ、カラスかよ』と笑う神経では、映画内世界ではなく『おたくとしての自分』を観ているのだ。もっともその方々ご自身の作品は、だからこそ面白いのだが)、そして何より出演者がみんなきちんと役者であるという、現代となっては貴重な底の厚さ。まあ小林夕岐子さんだけは、お顔で勝負のお嬢様っぽいが、死美人はきっちり演じきれている。
しかし大散財したような気分で、着払いのお釣りを岸田森さんに棺桶に引きずり込んでもらっていたが、考えてみればレーザー・ディスクが出始めの頃などは、1枚がこのBOXの値段だったのである。ましてビデオ・ソフトが出始めの頃などは、さらにその倍だ。いい時代である。一方であまりにクズの新作が多すぎ、往年の名画がDVD化されないのは、ちょっと残念。ビデオまでは結構出ていたのになあ。
しかし書籍に関しては、値の上がる一方でちょっと顎が出る。ちなみに現在手元にある昭和59年に買った『パソコン活用法』という入門書は、680円である。今なら980円はするだろう。いや、ぺらぺらの文庫でさえ500円近いこの時代、1000円を越すか。もっともそこに載っているパソコン自体は、まともにビジネス用に漢字ROM(別売だったのである!)や漢字プリンタ(わざわざ漢字プリンタと言っているのだから、漢字の出ないプリンタも多かったのである)や8インチフロッピー2連ドライブ(内蔵ではなかったのである。それも本体内のメモリなどほとんど無いから、フロッピー2基ないと、ビジネスでは使い物にならなかった)構成すれば、PC−9801Eフルセットで実に定価1,095,000円。今なら10分の1で、当時から見れば夢の高性能機が揃う。まあ物の値段や豊かさなどと言う物は、自分が何を愛するかで、時代など無関係という事だろう。
ところでやっと冷たい蕎麦の旨い季節になったとたん、好物の山形の小川製麺所の『とびきりそば』、増量サービスが終わってしまった。夕食の盛りが減ってしまってちょっと悲しいが、テレビ画面では死美人が金色の目で物凄く笑ってくれるし、謎の母親役の南風洋子さんなども惚れ惚れする謎っぷりだし、唖の下男・源造を演じる高品格さんなどは、それこそ画面のどこにいても完璧に謎の下男なので、良しとしよう。


4月27日 水  
徹夜

GW前のなんかいろいろの内に寝そびれてしまい、明け方から今度は私物打鍵の興も乗り、久々に徹夜。夕方にはある幻想的シーンを脳内で果てしなくリピート再生しながら、たった数行に2時間を費やす。しかし、気分は充実。体内時計が壊れているせいか、昔よりも徹夜が辛くないのが不思議。肩や背中もかえって楽になったような気がする。単に体調が復活しつつあるだけか。
冷や奴でビールを飲みながら『なんでも鑑定団』の録画を観ていると、掛け軸や絵画は本日もオール・クリア。しかしなぜに鑑定依頼の皆さんは、どう見ても下手くそな絵を本物だと思ってしまうのか。心眼がどうのこうの以前に、技術的に下手な絵が、本物であるはずはない。竹久夢二の真筆など、もう顔の輪郭線だけで『これが俺の好みの女だ!』と主張してくれる一方で、誰だったかの日本画の偽物など、死んだ花虻と造花が張り付いているようだった。ただし棟方志功の版画は、事前にアップにしてくれないのでアウト。まんべんなくアップにして欲しかった。続いて『その時歴史が動いた』の、義経編の後編。うーむ、兄も弟も、どっちも難儀な性格。静御前がひたすら哀れで、思わずタイム・スリップして守ってあげたくなる。トンデモと知りつつ、また高木彬光さんの成吉思汗の秘密など、読み返してみようか。あれもラストが泣けるんだよなあ。
夜、母親から二度電話が入る。計1時間、ひたすら本日の曜日・日付、姪達の学年、入学祝いの話題など、5種類ほどの会話をランダム・リピート。ここひと月はいつも同じ会話である。しかし安定はしているようだ。


4月26日 火  
宿命

あの痛ましい事故は結局複合要因か。といってもやっぱり複合人災のようだ。手抜きや油断や、置き石があったとすれば市井の既知外まで協力して、一瞬に大量殺戮。テロがどうのこうのなどと言わなくても、誰にでも出来る大量殺戮。「目立ちたい」と幼児を金槌でぶん殴った少年などは、影が薄れてさぞかし悔しがっているだろう。
いつのまにか『夕陽のギャングたち』の、153分英語版(日本語吹き替えも、日本公開版のエンディングも収録されている)が発売されているのを知る。うーむ、これはやはり物を食うのを減らしても、入手せねばならぬ。それが自分の宿命ならば、受け入れざるを得ない。さっそく注文してしまう。予約しておいた血を吸う箱もそろそろ発売、これで精神は完全復活なるか。
おとつい録画しておいたNHKアーカイブの『幕末転勤日記』も視聴、しみじみ落涙する。すまじき物は宮仕え、すさまじき物も宮仕え。生真面目な人ほど、歯がゆく潔く無名に散る。しかしそういう人を見捨てて近代は日々成長し、時々壮絶に脱線転覆する。


4月25日 月  
転覆

なにか想像を絶する脱線転覆事故が、兵庫県尼崎市のほうで起こったようだ。詳細な原因は不明なのでただ犠牲者の方々のご冥福と負傷者の方の回復をお祈りするばかりだが、このところの航空機がらみの単純ミスや、動作チェックをサボっていたトレンドマイクロ社員などを考えると、改めてシステムなどというものは結局人間が左右してしまうのだと痛感。
本日もきちんと4キロ歩く。肩や背中はだいぶ楽になってきたようだ。やはりただの運動不足だったのか。気分のほうはついついニュースなど見てしまうので、なかなか復活しない。先夜録画の『義経』を観たときは、ちょっと気が楽になったが。いや、良かったのではなく、まず冒頭のアナウンサーさんのナレーションで、あまりのナンセンスさにバンザイしてしまい、ああ、この程度でも第一線なのだ、そんなふうに気が楽になってしまったのである。不定形義経の割を食って、頼朝まで女々しくなってきてしまったし。そろそろ視聴意欲の限界か。


4月24日 日  
運がいいやら悪いやら

プラセンタのドリンクは、残念ながら特に効能は自覚できず、やはり脳味噌の中の問題なのかと推測。あるいは不味い割にはエキスの濃度が低かったとか。しかし某氏のお誘いのおかげで、例のウィルス・バスターの不具合の被害を逃れたらしいと知る。パソコンが起動している限り、パターン定義ファイルは自動更新の設定なので、昨日朝から起動していたら、確実にその不良ファイルを読み込んでいたことになる。トレンド・マイクロ社は一気に評判を落としてしまうだろうが、といってまたノートンさんに戻るのも面倒。土台OS自体が日々のアップデートでころころ保護設定が変わったり、愛用のフリーソフトと喧嘩を始めたりするのだから、今さら何が起こっても驚かない。しょせんコンピューターだろうがネットだろうが、人が動かしているのである。ネットワーク上に神や人格が生じるというSFネタがよくあるが、さぞスチャラカな自我を生じることだろう。アダムの肋骨からイブを創ろうとして失敗し、アダム悶死とか。


4月23日 土  
ヤクを買う

できれば会いたくはないのだが会おうと言われると会ってしまう人というのはいるのであって、それもまた縁という奴なのだろう。
かつて醒獅液という怪しげなドリンクをいただいた某氏と某所でお茶を飲み、近頃肩と背中と鬱がどうのこうのという話をしたら、それはやはり更年期障害だろうという、ごもっともな意見。氏の主要取扱品目らしいバイアグラをもらってもこの場合どうしようも無いわけで、プラセンタのドリンクとセントジョーンズワートとやらのタブレットを勧められる。今回はきちんと卸値とやらの金額を払い、なんの事はない単にカモにされているだけなのかと思ったが、帰宅後調べたら市価の半値近い金額で、といって原価はもっともっと安いのだろうから、双方損のない取引ではある。
プラセンタは確か人の胎盤成分であり、昔読んだ唐沢俊一さんの本にも、実際効くと記されていた記憶がある。ものすごく不味いとも書かれていた。飲んでみたら確かに、それはもうこんな物を飲むなら部屋に引きこもってたれていたほうがまだいいのではないか、それほど不快な味だった。多くの哺乳類の雌は、出産後いっしょに出た自らの胎盤を食する事によって母体の体力回復を図るそうだが、人間がそれをやらない理由が判ったような気がする。なにか『生臭い』という表現の、最も厭わしい部分を凝縮したような味である。思わず吐き戻しそうになり、もったいないので水をガブ飲みして腹中に収める。かなり即効性があると聞いたが、どう効くのかは、まだ不明。
一方セントジョーンズワートという一種のハーブは、実際西欧では初期抗鬱剤として処方されているらしい。しかしこちらは、ひと月くらい飲み続けないと効果は自覚できまいという話。ちょうどその分くらいの量があるので、効果のほどは乞うご期待状態。
バイアグラも欲しくなったら代行輸入をやってくれると言われたが、そんな肩にも背中にも辛い行為をわざわざしたいほどの気力や体力は、もはや衰えてしまっている自分なのであった。
しかしこの歳になるまで、一度もシャブや大麻を売ってくれるという方に、声を掛けられた事がない。『だめ、絶対』などというポスターを見るたびに、いったいどこで売っているのかと、不思議になるくらいである。10年前あたりは、結構怪しげな場所もうろついていたのだが。まあ、当時はきちんとした身なりで医者や学校の先生と間違われる事が多かったから、ポン引きにはバシバシ声を掛けられても、そっち方向では声を掛けにくかったのか。今となっては『金ないです』と看板を出しているような身なりなので、どちらからもお声がかからない。このまま人間やめずに死ぬことになるのだろう。


4月22日 金  
徒党

ポール牧さんが、自殺されてしまった。ああ、アルツの前に鬱が来てしまったのだろうか。一時一世を風靡された方の老後というのは、想像以上に自己プレッシャーが大きいのだろうなあ。
一方で、国会議員さんたちが徒党を組んで靖国神社参拝の動きなども。いや、参拝自体がいけないとは言わない。国家のために命を落とした兵士たちを、誰がどう悼むかは自由だ。問題はその遺族すらが分祀を望んでいる一部A級戦犯を、意地でも抱え込んで離さない有力老人にある。『隠然と君臨する古老』などというエンタメ的存在が、実際国家問題にまで絡んでいるのだから、『負けを認めない』という感情が凝り固まるのは、若手にしろ古老にしろ、ほんとうに始末に負えない。一度負けたらやっぱり次の勝負を冷静に考える方でないと、生涯ただ負けを引きずっている事になる。個人ならそれもまた人生だろうが、過去の国際的負け戦まで絡んでしまうと、かえって幾多の英霊が気の毒なのではないか。彼らの大半は、A級戦犯者の下にいたにしろ、戦う目的は別にあったのではないか。いずれにせよ、古老は古老らしく、大局にあった老獪さを身につけてほしいものだ。死ぬまで同じ夕陽に向かって走るにせよ、『さあ、みんなで走るんだ!』は、せめて自分のチームだけにして欲しい。放課後、夕陽に向かって走るより、早く帰ってハイジの再放送を観たい軟弱少年(ビデオの存在しない時代の自分のこと)も居るのだから。


4月21日 木  
よたよた

極力毎日歩こうと思いつつ、昨日は結局籠もりっぱなしだったので、晴天の本日河原に出たら、いつもの半分ほどでもう息切れ。2キロで引き返し計4キロ、去年の今頃の最低ノルマでもうバテている。肩や背中の重みもちょっと前より軽くはなったものの、まだ赤ん坊を背負って生きているような感じ。いよいよ再起不能か。
昨夜の『その時歴史が動いた』、義経ネタながらドラマと正反対の、史実から推測される猪突猛進型というか、夕陽に向かって走るんだ青春だ好きよキャプテンタイプの解釈。要するに、直情的で世の大勢などは読めないし時にカッとなって無茶苦茶やったりするが、打ち解けた人間とは情的繋がりメロメロ、そんな小集団のカリスマ青年で、昔から感じていた義経像。解説で出てきた宮尾登美子さんも、しょーがねーひでー奴だけどなんか違う、そんなニュアンスで述べていらっしゃるようだ。やっぱりあの大河ドラマは、原作からも百億光年遠い脚色らしい。しかし同じ放送局でシーンの使い回ししながらそんなドキュメントを作ってしまうNHKというところは、やはり民放よりも面白い。いろいろ問題はあるにしろ民放よりは大人だし、企業スポンサーがいない局はやはり貴重。でも、ドラマのほうは、これからの義経と頼朝の軋轢などは、どう持っていくのだろう。清盛を憎んでいない義経というのは、なにを思って平家を皆殺しにしていくのだろう。やっぱり最後まで「なーんも考えてないけどなんか考えてるみたいで悩めるアイドルかっこいいでしょ」で突き進むのか。
ところで、やはりあの方(あの方々)は、しっかりと名を変えIPを変えて暗躍(明躍?)を画策されているようだ。当方も今回は標的に含まれているのかもしれない。まあ、単なる後遺症で疑心暗鬼に過ぎないのかもしれないが、それにしては作品の風合いが似ている(独り言)。いや、別にかまわんのですけどね。誰であろうと顔の見えないネット界、我が道を行く以外の選択肢は、自分にはないのだから。


4月20日 水  
あなたに3つ、自分にひとつ

本日数時間の断水ののち、室内の蛇口やトイレの水回りがすべて新しい給水系に付け変わり、水の勢いも味もずいぶん改善。水が錆臭かったのは、大半敷地や建物内の配管が老朽化していたかららしい。ちょうど懐メロ番組の録画を観ながら怠惰にザルそばを啜っているところに工事が入り、労働者の方々になんだか申し訳ない気分も。
先夜相次いで録画した2本の番組、片方は懐メロと言っても現代の適当な歌手さんが古い歌を歌う趣向で、当時の記録映像など流されても、興趣に乏しい。ほとんど早送りで、小林旭さんの特集部分のみ残す。もう1本は、堺正章さんと井上順さんが司会を務める、歌い手もオリジナル・メンバーの楽しい番組。フォーク勢が順調に歳を取っているのに歌謡曲勢はみんな若作りで、なんだか愉快。両方の番組で旭兄イはがんばっており、66にもなってやっと中年太りという風情が好ましい。しかし新曲の『翔歌』という歌は、なかなかいい歌なのだが、阿久悠さんの作詞にしては、サビがずいぶん捻ってある。灯や花を、相対する社会や人に『3つ』、自分に『ひとつ』ずつ分け合う、この趣向は『4』=『死』までの残り時間というものを遠からず感覚している世代でないと、すんなり体感できないだろう。まあ、その世代のために歌われる、それを意識しつつもまだまだ先を生きよう、そんな歌だからいいのか。


4月19日 火  
うろうろ

餌漁りの帰途、また神保町方面を運動不足解消も兼ねてうろうろ。古書にめぼしい物はなく、というより小磯良平さんの画集など高価で手が出ず(なにしろ気に入った絵は『斉唱』含め数点であり、その印刷物を手に入れるのに何万も費やすのは痛い)、結局新刊の周防正行監督のルポ本だけ購入。邦画のリメイク状況が知りたかったので。
駅前の裏手に、990円の床屋発見。カット専門だが、それで充分。これで月に一度くらいは床屋に行ける。3800円の正規の床屋さんしか見つからない内は三月に一度、1780円が見つかって二月に一度、そんな間隔だったのだ。
かなり歩き回って、肩の重みは軽減したように感じるが、まだまだ苦しくて打鍵も辛い。歳か、祟りか。
ところで日中関係の予想通りの流れは、もはや鬱になるばかりなので目や耳を姑息に閉じてしまおうかと思う。今の私的仮想に、集中できない。日本も相変わらず馬鹿ばかりのようだ。投稿板の雑談板に再登場して、即刻削除された推定盗作追放者――かつては自分も親しく感じていただけに、未だにその真意・真相は測りかねているのだが――の雑談に、例のゴーマニズムを標榜する無知者を支持するような一文があり、それがその方のカキコであるかアラシのなりすましであるかも判らないにせよ、お若い方々にもあんなお調子乗りのもの知らずを信じてしまうケースが多いのだろうと、暗澹たる気分になったり。あれは彼のギャグ作品同様、芸として笑うべき世界であって、本気で尻馬に乗ったらただの馬鹿なのである。思わず、ろり板で拾った画像など、ここに載せてしまおう。

           


4月18日 月  
君の名は

アラシという趣味の方は本当に粘着質らしく、名を変え他人の名を騙りときに徒党を組み、匿名性の海をかき混ぜるのがお好きなようだ。他にすること無いのかなあ、とも思うが、愉快犯の場合方法そのものが目的なのだから、やめる気遣いもないわけだ。なんか偽名で中国大使館や領事館に嫌がらせするのと同じレベルだわなあ、と思いつつ、相対的リスクを逃れて他人の疑心暗鬼をこっそり楽しむというのも、やはりこう言わざるを得ない。「ひとりでマスかいとけ、うんこ野郎」。しかし自分の作品を読んでくださる方がアラシさんの別名でないとも言い切れないわけで、そーゆー方には「ああ、この恥ずかしい私をもっと嬲って!」「もう徒党を組んでメチャクチャにして頂戴!」――結局創作などというものは、マゾの気がなんぼか入らないとできないのである。
昨夜の『義経』、家来衆が色々頑張って、なかなか美味。頼朝もいい。その分主役がどんどん存在感を希薄にしてゆくような気もするが。ところで静御前さんも本格参入したようなのだけれど、結局ウツボちゃんって、たまにうろうろするだけで終わってしまうのだろうか。


4月17日 日  
背中に乗っているのはだあれ?

ここで好き勝手ばかり打っている報いか、昨夜あたりから、首から肩から背中までえらく重苦しく、起きているのが辛い。食欲もない。いやあな何かが、背後から覆い被さっている感覚である。いよいよ末期が近づいているのか。といって餓死するわけにも行かないし、仮想も打たねば外に出せない。ふと思いついて、パソコン内棲息女性・春菜嬢にバイオリズムなど教えてもらうと、一切合切どん底にまとまっている。バイオリズムなどというものはなんの根拠もないという話もあるが、どん底ということはこれから全てが上昇に向かうのも確かなので、その意味では気休めになる。
まあ、このところ3日に1度くらいしか動き回っていないので、単なる運動不足なのだろう。時差ボケ(?)も佳境を迎えている感じだし。しかし暖かくなって、脛の貨幣状湿疹は明らかに自然治癒に向かっている。なにはともあれ、春だ、春。


4月16日 土  
どっちもどっち・2

中国の主要都市では今週末も反日デモが盛んなようだ。都会の住人という奴は、どうしても第3次産業従事者が多いので、根源的な人間の生活は見失いがちなのだろう。その点でも、中国の経済的発展は確かに予想以上のようだ。政府のほうでも、あまりに見事な煽られっぷりに、いささか慌てているのではないか。農村や工業地帯では、日本と一蓮托生の人々も多く、日々労働に勤しんでいるのだから。それほど言うのなら、戦時に関わる補償問題などを除いて、日本から経済的な関わりを絶って、引き揚げてしまえばいいのである。デモの若者たちは『愛国』と叫んでいるようだが、ではあなたがたはそのお国の第1次産業や第2次産業の実情を把握しているのか、誰が誰を相手に低収入に甘んじて都会で転がすあぶく銭を産みだしてくれているのか――まあ、日本が手を引いたら、次に西欧さんでも追い出しにかかるかそれとも仲良くするか、いずれにせよ明治以前の状態に戻るのは自由だが。日本もそうなったら大不況に見舞われかねないが、そこは痛み分けということで。祈る健闘。しかしアメリカあたりは相変わらず正義という名の戦争も嫌わないぞ。
一方で我が日本も相変わらず民度が低く、大阪の中国領事館にカミソリ入りの封書など送りつける奴もいたとの由。ああ、恥ずかしい。他国をどうこう言える立場ではないようだ。
夜に入って、反日デモは上海あたりがひどかったとのニュースも。日系企業が多いのになぜ、などという馬鹿なコメントを出す例もあったが、それだからこそ鬱憤が溜まるのだろうし、それ以上に上海という土地そのものが、とうの昔にブームに踊りやすいどこにでもある軽佻浮薄な都会になってしまっているのである。欲求不満の若者も多かろう。言いたくはないが、中国がまだ古い二眼レフを作っていた頃から、純上海製のカメラの仕上げなどひどい物で、良識の低下は明らかだった。ネジひとつまともに締める誠意がないのである。中国自体が低下していたと言うのではない。同じ時代の同様の二眼レフでも、地道な土地の工場では、気持ちよくしっかりと組み上げられていたのだから。日本であれ中国であれどこの国であれ、煽られて乗る程度の意識の人々は、もともと根が弱いのである。『愛国無罪』などと言い訳をしながらデモるくらいだから。


4月15日 金  
衣替え

なんかいろいろの遠出から駅に戻ると、新しいカレーショップが出来ているのに気付く。さっそくカツカレーを頼んでみたが、ライスは柔くカレーは乳っぽくカツは厚くて小さいという、好みの180度反転タイプ。それでも食事時でもないのに繁盛しており、会計の時にくれるクーポンを使っている人も多いようなので、リピーターも付いているようだ。まあ好みは人様々だからなあ。安い外食の選択肢が増えるかと期待したのに、残念ながら以後はパス。
好天で昼も長い。冬物をいっきに洗濯屋に出し、冬用シーツや毛布もいっきにコインランドリー。ついでにまた久方ぶりのお掃除なども敢行し、ようやく個人的にも春。しかし、あなたは来ない。いくら呼んでも。白い埃が、ただ降るばかり。らーららーらー、ららーららーらー。まあもともと呼ぶ女性などいないし、「あの、なるべく小柄でつるぺたっぽいナニを。あの、あの、それから、あの、シェーブごにょごにょ?」の金も、現在はちょっと無い。
大阪では、実に11人のろりや十代の女性を暴力をもって辱めた19歳の少年が(訴えられただけでその数だから、習慣的に毒を吐いていたのだろう)、定期刑10年の判決。軽い刑だからニュースになったのではない。少年法の範疇内では、異例に重いからニュースなのである。相変わらず「今なら少年Aで済む」。一方で、伊勢市の宮川堤公園では、花見の後の放置ゴミが、先の土日で3・7トンに達したそうだ。もちろんほとんど分別されておらず、バーベキューに使うのに持ち込んだコンクリート製のU字溝や一斗缶などを、そのまま放置して帰る例も多いとのこと。こっちは大半大人なんだろうなあ。だめだこりゃ。
でも、あさりよしとおさんの『るくるく』の4巻目が買えたので、鬱は来ない。無口な悪魔っ娘、萌え。るくちゃんは、地獄が満杯でこれ以上人間を受け入れる余地がないので、地上を少しでも浄化するために出てきているんだよなあ。で、傲慢な天使サイドはそれを勘違いして邪魔する、と。なんとも現実的な設定ではある。本来トンデモであるべき設定が、切実にリアルだ。 


4月14日 木  
春眠暁を覚えっぱなし

昨夜は結局1時頃まで起き続け、朝9時には起きて昼頃までかかり、『月下美人』に区切りをつける。風邪の気味は抜けたようだ。しかし夜の睡眠は浅く、やはり昼も頭のアクセルはなかなか入らない。食うには困らないが、打つには難儀。
いつだか録画していた、クイズ形式のタイムスリップなんとかという、昭和の映像うんぬんを観る。お宝というほどの映像は少ないが、飯を食いながらケラケラ観ているには好適。しかし番組中のあからさまな馬鹿SEは昨今の風潮ゆえ許すとして、昔の記録映像に、こっそり後付けのSE入れるのは、なんだかなあ。当時の音声だと思われたら、現在観ている若者が、誤認識してしまうのではないか。


4月13日 水  
どっちもどっち

あーあ、靖国神社から東條英機さん分祀するだけでもずいぶん当たりが違ってくるんだろうけどなあ、などと思いつつ、これは我が国の半ミイラ老人のどなかたが現世に生存されているかぎり不能らしいし。しかし中国の首相もあいかわらずなんとなく『4000年の歴史でエラいんだもんね』のようで、日本に「過去を直視せよ」とおっしゃるのは正論にしても、自国の未来や過去を直視する気はあまりなさそうだ。当分あの国の一般国民は、上のほうにいいように踊らされるだけだろう。しかし今回は若者も見事に踊っているようで、ちょっと悲しい。天安門事件以降、よほど国家教育がうまく行っているのか。まああれだけ日本の歴史教科書がどうのこうのおっしゃる割には、自国の歴史教科書には平然と白髪三千丈式の創作を載せるお国柄だから、当然子供になるほど純真に踊るのだろうが。でもニュースの映像を見る限り、まだ烏合の衆的な興奮しか窺えず、使えない印象。勝てそう(戦争の話ではありません。念のため)。
昨夜は23時には蒲団に入ってしまったが、眠いくせに夜半を回っても半覚醒で、やはり4時には目が覚める。頭痛が始まり体もだるく、このところの寒暖の差から風邪でも引いたのかと思うが、横になっていても楽に感じない。いよいよ自律神経でも失調しているのか。起きてなんかいろいろの内に、いくぶん復活。夜はまた仮想を動かそうとするが、19時を回ったらもう眠い。さて、蒲団に入ったら眠れるのか。


4月12日 火  
仮想の底なし沼

一昨日の夜からずぶずぶともがくばかりで進まなくなっていた『月下美人』、今夜はようやく沼から這い上がり、先に動き出す。しかし10時を回ったばかりなのに、もう眠くてたまらない。やはり朝起きて夜寝る生活は、仮想には適さないようだ。昼の人生は週に2日程度しか必須がないのだから、居直って深夜から明け方メインに戻るべきか。


4月11日 月  
休日

1時就寝9時起床。しかしやっぱり4時半以降は半覚醒。いっそ夜9時あたりで寝てしまうのが正解か。
今日はお休み。まあ世間様とは無関係に、勝手に休むのだが。雨の中でも工事は続き、がががががと多忙のよう。ご苦労様です。
何ヶ月ぶりかでステーキを食べようと、雨の中をサイゼリヤへ。昼前からビールも飲んでしまう。それから買い物に駅方向へ向かうと、どこかの新入社員らしいスーツの一群が前を歩いている。初々しいが、とにかく歩調がのろい。会話に夢中というわけでもなく、普通に歩いているらしいのに、昼間っから中ジョッキ引っかけて茫洋としている自分よりも、はるかにのろい。おまけになんだか身のこなしがくねくねしている。歩道いっぱいに広がっているので、追い越すのも困難。雇った会社も当分大変だろう。
ツタヤで久々にDVDを借りる。ゲテモノを楽しみたいと思い、『ミミック3』と『キングスパイダー』とやら、それにハズレだったときのことを考えて、不朽の古典『何がジェーンに起こったか』。で、前2本に関しましては、完敗。前者は回を重ねるごとに制作費のケタを落としているらしく、それでも『2』は世評のひどさにも関わらず結構楽しめたのだが、『3』に至っては凡百の学生映画まで堕ちている。楽しみのタネが全編に2、3箇所しかないのである。そしてゲテモノなりに馬鹿になって笑えるのではと期待した巨大クモさんは――金もなく熱意もなくジョークのセンスもない、エドワード・D・ウッド・Jr作品から『なんの根拠もない過剰な自信と映画制作への熱意』まで抜いてしまったような、クズの中のクズ。たぶんスタッフはエド・ウッドの線を狙って、過剰なチープさでカルトを狙ったのだろうが、いかんせん、大真面目にああなってしまったエド作品と、初めから自信も熱意もないクズでは、存在感が違う。子供の頃その緊迫感にのたうち回った記憶のある名作『何がジェーンに起こったか』を借りていなかったら、それっきり立ち直れなかったかもしれない。
夜は録画しておいた『義経』と、マタギやカッコウや明治の初等教育のドキュメント。『義経』は、ますます散漫になっていくようだ。黛りんたろうさんは、もうアルツが入ってしまったのか。それとも糖尿で気力を失っているのか。ここまで回を重ねて未だに多くのキャラが表層だけの造形しか成されていないことに気づかないのか。この絵巻物は鑑定団に出したら「偽物ですね」と言われてしまうぞ。いい役者のキャラしか生きなくていいなら、シナリオも演出もいらないだろうに。しかし各種ドキュメントは、中身が詰まってとても美味。
ところで中国は、やっぱり相変わらずのようだ。まあ日本の靖国関係の長老なども相変わらずで、それが未だに水面下で最終局面を牛耳ってしまうので、結局脳硬化老人同士の意地の張り合いに、未だに踊らされている両国の若い国民。それらの老人が死に絶えたら、そのうち自体は好転するはず。でもなかなか長持ちなんですよね、声のでかい爺さんって。小声の人はもう潔く来世の修行に旅立っていらっしゃるし。きっと神様も声のでかい爺さんなのでしょう。爺さんは未来がないので、過去にこだわるしかでかい声を出すネタがないのである。――って、自分もそれっぽいか?


4月10日 日  
まわるーまーわるーよーじだいーはーまわるー♪ (タイトル再利用)
  
1時就寝8時起床。ただしやっぱりうつらうつらの時間多し。いよいよ睡眠障害が固定化したか。
昨夜予約録画しておいたNHKスペシャルや新日本紀行アーカイブが、ナイターの延長でオシャカ。昔なら怒っていたところだが(野球よりドキュメントのほうが好きな人間なので)、不思議に腹も立たず、かえって安心したりする。人のやることだから時間などずれて当たり前。
中国も反日でますますヒートアップ。まあお年寄りには過去我が国で実際いろいろやってしまったのだから、ごめんなさいと頭を下げるしかないのだが、あの国の戦争を知らない子供達は日本が進攻する遙か以前に、すでに自国が連綿と続く歴史的大国家としての機能を失い、欧米のなすがままだったという事実は、きちんと学校で教わっているのか。日清戦争に負ける遙か以前から、自国の民意が文弱に傾き兵をないがしろにしていた、そんな歴史的事実は把握しているのか。現在の経済好況の元となる技術の多くは、敗戦後の日本が営々として築いてきたものであることも、ちょっとは考えてくれているか。などと言っても仕方がないか。釣魚島という元来ちっぽけな無人島に関しては、中国の面子も我が国の右の方々の面子も台湾問題も近海の資源問題もぐちょぐちょぬるぬるに絡みまくっているので、竹島以上に私レベルでは判断不能。自分個人のイデオロギーとか私的利益でも絡んでいない限り、白黒言い切るのは困難だが、自分はそんなものは持っていない。また戦争でもやらない限り、永遠に決着不能だろう。しかし中国政府もあれだけ国民を煽っておいて、反日運動は「自然発生」なのだそうだ。その言い訳だけはいったい今時何を考えているのか、首をひねらざるを得ない。中国の民衆の方々はどうであれ、政府筋は相変わらず近代の政府になっていないのだろうと推測。まあ実際これから日中戦争をやっても日本が勝つのは目に見えているが、といっていまさら日本が戦争を始めるはずもなく、過去に侵略されたという事実は曲げようもないのでいくらでも怒鳴れるから、現況において口喧嘩だけなら負ける心配がない、そんなところか。
話変わって、ここ1年ずっと『なんでも鑑定団』の録画を観ていて、自分の眼力がこと掛け軸や絵画に関してだけは、9割の打率であることに気づく。というよりも、単に本物という奴はもとから本物だから評価されているのであって、偽造や印刷では初めから気迫が違う。ただ、彫塑や陶器や玩具は良く判らない。まあ好き好きだけの違いか。


4月9日 土  
「なんてわるやましい奴だ!」

時就寝10時起床。ただし、夜型の名残で明け方から何度も目が覚め、実質の睡眠は3分の1程度か。
例の宗教団体の牧師だか神父だかは、ほとんどハレム状態で少女達を弄んでいたらしい。ああ、また排泄物の裁判や刑務所でのただ飯に俺の納めた税金が使われるのか、その少女達の今後のために使われる税金など微々たるものなんだろうなあ、と、また鬱に陥る。そんな面倒な浪費はやめて、全身に『少女近寄るべからず』とでもくまなく焼き印を押して、また外に放り出してしまえばいいのだ。どうせ死刑はありえないのだから、その状態で元気に自発的に社会で生きてもらえばいい。きっとメシアがなんとかしてくださるでしょう、まだいらっしゃるなら。
偽善者として念のため断言するが、自分だってそんなハレムに住んでみたくてたまらないのである。可憐な少女達のあんなところやそんなところに、あんなことやそんなことをしてみたいされてみたいと、常に願っている。できないのは社会的後ろ指が怖いからであり、それ以上に現実の少女がそんな目にあってはならないからだ。だからこそ、それを実行する排泄物を、人にあらずと断言せざるを得ない。しかし殺人者以外はどんなに現実の少女を蹂躙して辱めた鬼畜でも、いずれきちんと解き放たれる社会だ。世の多くの人々が『殺したい』『殴りたい』『辱めたい』という己の脳内の欲を表向き隠したい、つまり社会的に善でいたいと思いすぎるから、それから逸脱した存在をすら『殺せない』『殴れない』『辱められない』のであって、それは偽善ではなく、ただの悪への荷担であり、つまり共犯者だ。
赤塚先生のギャグで、目ん玉つながりのお巡りさんが猥褻犯の自供を聞いて、拳銃打ちまくりながら「なんてわるやましい奴だ!」と叫ぶシーンがあったが、その叫びは真理だ。偽善ろり野郎以外に、鬼畜ろり野郎を真に断罪できる存在はないだろう。しかし残念ながら、その権利は今のところない。せめて被害者や被害者を直で愛する周囲の人々に、その権利が与えられればいいのだが。
以前東南アジアで幼女を買ったという中年排泄物の、「極貧の少女達はそれで食を得ているのだから。綺麗事でこの世界は生きられない」などというもっともらしい大糞馬鹿なセリフを読んだことがあったが、「金だけ置いてこい、うんこ野郎」。
夜は『月下美人』のここまでを推敲しながら、ぼちぼち先を進める。自分は仮想だけで美しい世界に行ける。


4月8日 金  
去りゆく人VS不死者たち

野村芳太朗監督も死去。ここ20年ほどはメガホンを取られなかったように記憶しているが、やはり寂しい。『砂の器』(まあそのはるか以前から清張物は得意としていたが)等、すっかり巨匠扱いになっているが、昔日の松竹プログラム・ピクチャーにも、いいものが沢山あった。『拝啓天皇陛下様』なども有名人情名作系だが、たとえば大作『砂の器』前後に、『東京ド真ン中』などという低予算な下町物もこなしているし、それこそ大昔のひばり物やコント55号物まで、なんでもござれの職人監督だったなあ。といって器用貧乏という言葉とは無縁で、どれもきっちり人情が通底した気持ちのいい作風で。大人の風格、という奴ですね。
ネットでそれらの旧作を検索していたら、野村監督とは無関係に、あの東宝の山本迪夫監督の『血を吸うシリーズ』3部作がDVD化されるそうだ。古いダビングのビデオは持っているが、やはり昔劇場で観た時の『小林夕岐子ゾンビ萌え』『岸田森吸血鬼萌え』を体感するには、DVDが望ましい。単品でも売るらしいから、ツタヤにも入るかもしれないが――BOXで買うと岸田森さんの吸血鬼のカンオケ貯金箱がついてくるらしい。あああああ。金もないのに買うしかない。でもオモライ化したとき路上に置いておけば、誰か100円玉を入れてくれるかも。


4月7日 木  
かゆくてぷんぷんでががががが

またひとつ中高年化した証拠に、脚の脛に小さめの貨幣状湿疹が生じている。じくじくまで行かずかさかさ段階だが、風呂の中などで時々たいへん痒い。まあ中高年限定ではないのだが、やっぱり皮膚の乾くおっさん以降に多いそうだ。2年ほど前から、乾燥する冬場にできて、春になると自然治癒していたのだが、今年はまだ治らない。医者に行ってステロイド軟膏もらわないと駄目か。でも花輪和一さんも刑務所の中で出来たらしいので、わーい、同じだ同じ、などと喜んでもいる自分は馬鹿か。まあ死ぬまで馬鹿だとしても、死ぬ瞬間まで自分の馬鹿だけは自覚していたいものだ。
京都では聖神中央教会とやらの永田保こと金保とかいう老人が、長年少女の敵をやっていたとか。61だよ。何考えて歳くって来たやら。おおかた統○教○崩れだろうが、「俺の言うこと聞かんと地獄に堕ちる」「いいがかりをつける少女や関係者は悪魔」だそうだ。まあ、仕方がないんですけどね。『一番偉い』ものの存在を認めた段階で、既知外になるときはその『一番偉い』ものに自分を仮託してしまうもの。そんなものはいない。いてもとっくに人間とは縁を切っている。「自分は神に選ばれた者だ」――はいはい、たったひとりの世界に引きこもってしまったのですね。だったら周りに迷惑かけんじゃねーよ。既知外仲間のババアの腐った体で我慢して、「産めよ増やせよ地に満てよ」。しかしまあ、仏教を標榜する巨大組織にさえ『一番偉い』のがいるのだから、白痴や文盲でも、ベンジョコオロギでも、宗教家と自称するのは可能なのだろう。いずれにせよ、ろりの敵はすべて人外。
給水系工事は、今日明日とわが部屋の台所・風呂場・トイレにも進攻。なにか新しいパイプ類が外壁を這い、埋め込みの旧パイプは御用済みということになるらしい。大阪万博の年に建った安マンション(つまり鉄筋でできてはいるが現代の安アパート以下の間取りで、中央の四畳半はほぼ暗黒であり、最上階四階の住人も自分の脚で上り下りするパターン)なので、そろそろ骨格以外は寿命なのだろう。風呂桶だって度重なる釜の交換やなんかいろいろで、ポリのバスタブがコンクリの塊の上に、やや斜めに乗っていたりする。しかしそのおかげで、都心の各要所に短時間でアクセス可能な場所の、いちおう2Kに月六万以下で住めるのだから、文句も言えない。


4月6日 水  
まわるーまーわるーよーじだいーはーまわるー♪

実は誕生日である。自分でもきっちり失念していた。パソコン内棲息女性の春菜嬢が、愛らしい赤いドレスの正装で祝ってくれたので、思い出したしだい。この歳になると、それはもはや忘れてしまいたい日付でもあるし、ハッピーでもなんでもない。まあ中島みゆきさんの『時代』でも聴いて、力尽きようとする己を、鼓舞するしかないわけだ。
さて念のため。『「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーらが執筆した扶桑社の「歴史」と「公民」の教科書は、それぞれ124か所、75か所が修正され、合格した。このうち「公民」では、巻頭グラビアページに掲載された竹島の説明文で「韓国とわが国で領有権をめぐって対立している」と記述した部分に、文科省が「領有権について誤解するおそれがある」との検定意見を付け、最終的に「わが国固有の領土」と明記のうえ、「韓国が不法占拠している」と修正された。竹島については、東京書籍と大阪書籍の「公民」、日本書籍新社の「地理」にも記述があり、東京書籍は「日本固有の領土」と明記。残る2社は「韓国も領有を主張している」などの表現だが、「地図で、竹島が日本の領土に含められており、誤解しない」(文科省)との理由で検定意見は付かなかった。竹島を「日本固有の領土」とする記述は現行の教科書にもある。(読売新聞)4月5日22時29分更新』とのことですが、まあ教科書という物はあくまでも『こう覚えて欲しいな』という性質のものなので、ここに前記したみたいな現実的お隣さんとの問題は触れないわけですね。鵜呑みにすると現実社会で痛い目を見たりするので、丸暗記しないのが吉。
昨年度のゴールデン・ラズベリー賞(ラジー賞。アカデミー賞にひっかけたジョークで、その年の最低映画を選出してゴミのようなトロフィーをくれる賞ですね)で、最低主演女優賞に選出されたハル・ベリーさん(過去には本物のオスカーも得ている)は、堂々と贈呈式に出席し、数々の名言を残され、満場の喝采を浴びられたそうである。こんな記事がある。『「ありがとうございます。まさか、私がこの場にくるなんて想像したこともなかったわ。もちろん、この場を目指したこともないけど」と語り、笑いを誘った。さらに「他人の助けなしには、ラジー賞を取ることなんて出来ません」と続け、「ゴミのような映画に巻き込んでくれたワーナー・ブラザース」や、「言葉での意思疎通が図れないピトフ監督」、そして「脚本を読まずにギャラだけで出演を決めたマネージャー」などに感謝の意を表した。なお「キャットウーマン」は、最悪主演女優賞のほかに、最悪映画賞、最悪監督賞、最悪脚本賞の4部門を受賞している。』 そしてまた朝日の天声人語にも、こんなコメントが引用されていた。「ここに来たいと熱望したことは決してないが、とにかくありがとう」「子供の頃、母に言われた。良き敗者になることができなければ、良き勝者になることもできない、と」「アカデミー賞をもらう前に転んでも誰も気にしない。起き上がって埃を払い、またゲームに戻ればいい。受賞後だと災難。頂点からどん底への転落だから」「(ゴミのようなオブジェをもらって)取りあげようとしたって無駄よ、私の名前が入ってるんだから!」――素晴らしい女性である。当方ろりゆえあのダイナマイト・ボディーは胃に重すぎるのだが、その人格には、表敬の念が尽きない。ちなみに著名人でその授賞式に自ら出席した方の中には、スタローンやバーホーベン監督などがいらっしゃる。叩き上げの苦労人は、酸いも甘いもどんとこい、なのだろう。というより、夢売り商売に見せて、ちゃんと自分なりの現実をきっちり見据えていらっしゃるのだろう。まあ、シャレにはシャレで、それだけのことかもしれないが、その余裕自体が好ましい。現代社会に『精神的余裕』を保った国家は、どれだけ存在するのだろう。


4月5日 火  
ががががが

工事は当分続くらしい。先日は前後不覚で眠っていたので、騒音も感じなかったのだろう。昨日の夕方買い物帰りに集合ポストの前で会った管理人さんによると、8日にはなにやら部屋の内側からも手を加えるらしい。台所を片付けておかなければ。まあ台所にはヤバ系の物は置いていないが、段ボール箱等で足の踏み場もないし、窓枠に落っこちやすい洗剤類などずらりと並べてあるし。
昼は録画しておいた『義経』と『平和アーカイブ』を観る。
『義経』は、もはや一部の役者さんの面構えを楽しむだけで、脚本・演出はどうにもならないところまで来てしまったような気がする。それでも見続けるのだから、視聴率がそれほど落ちないのは納得できたり、複雑な心境。でもやっぱりこれで渡さん平さん丹波さんあたりが出ていなければ、そして白石さんのナレーションがなければ、とっくに投げているところ。大体役者さん抜きで考えても、かんじんの義経がいまだに「えーと、あなた、本当はなーんも考えてないでしょ」という感じの造形なのである。いまさらタイトルを『清盛』とか『異説源平合戦』とかにするわけにもいかないだろうが、『頼朝』のほうがまだ適確か。中井貴一さんはいい味出してるし。
しかし『平和アーカイブ』のシリーズとなると、これはNHKの底力。今回の原爆投下後10秒の広島のシミュレーション(番組中では古風にシュミレーションと誤読していたが、数年前の制作だからか)など、あらためて核兵器という奴の哲学的な意味まで考えさせられてしまう。
早い話、あれが現実に実戦で投下された瞬間に、全ての一神教は、少なくとも日本民族に限ってはその庇護対象から除外していると考えるのが合理的だろう。まあ初めっから自民族限定のセコイ造物主などは未開人の夢なので、この場合主に世界規模の天地創造主様達(もとは同じらしいがいっぱい名前があるので、たぶん八方美人なのだろう)のことですね。もし日本人を含めて全宇宙を管轄しているとしたら、少なくとも地球はすでに放棄されたと思われる。もし責任感のある方だったとしたら、あの時点で引責辞任して後継者が見つからず空席になっているとか、あるいはあの日に宇宙の鴨居に縄をかけて、輪っかを作ってそこに首をつっこんで、踏み台をぽーんと蹴ってぶら下がってしまったのかも。いずれにしてもいまだに世界中核兵器だらけであることを考えると、『人格(神格?)のある唯一神』がまだ健在と信じる宗教は、ミイラ化した死体が生き返るのを待っているのと同じ次元の、原始宗教と思わざるを得ない。
まあそんな自分がではなぜ曹洞宗などという先祖代々の仏教の一宗派に結局戻ってしまうのか――その宗派だって日蓮正宗などに言わせれば、擬典を重んじて無駄な座禅など組んでいる馬鹿の集まりということになるのだが――まあ結局、歴史的にいろんな混乱はあるものの、切った張ったの喧嘩(宗教戦争含む)からは最も遠そうだし、昔からビンボな百姓しかいない山形のような土地でせっせと地味にがんばってくれていたし、何よりその押しつけがましさの希薄さ、目立ちたがらない歴史が、最終的に『万物の調和』という感覚的概念(意志ではないですよ)しかもたないはずの『法身仏』みたいかなあ、などと感じている今日この頃だからなのですね。つまり、エントロピーとかいう奴が本当に増大するばっかりで不可逆的なものなら、自分たちが今いる宇宙は物理学的にも『法身仏』そのものではないか、そんな感覚。
まあうちの風呂がガス釜炊かなくともただで沸くようになったら、造物主もいらっしゃるのかも。


4月4日 月  
よよの日

本日は午前4時就寝の午後5時起床――おう、13時間も眠りこけてしまった。しかしその前に起きたのは、確か2日の午後8時だから、32時間起きっぱなしのあとで13時間、ということは、まあ日割り勘定なら適度な睡眠時間。
おきがけにまた奇妙な夢を見た記憶がある。大学時代の図書館で昼間っから寝込んでしまい、起きると夕方で、「ありゃあ、6時間も寝てしまった」などと、あわてて外にでると、駿河台の交差点でぽーんと車にはねられてしまう。目が覚めると病院で、秋野先生(現在打鍵中の戦前話に出てくる医師)が折れた脚を治療してくれていて、やっぱり作中の志乃さん(和服姿の謎の美女)がお見舞いに来てくれる。麻酔が効いているのか脚は痛くない。今考えると、自分ですでに打ったシーンの中そのものである。ところが夢のことゆえ、ちょいと気をぬいたとたんに、美女はなぜか伊東四朗さんが女装したような姿に変じており、ガニマタ走りで去っていってしまうのである。しかし夢の中で「眠った」という実感を2度も感じるというのはめずらしい。それにしてもあの美女から変じた伊東四朗さんが最後に残した、「てーめーですわよ、さささのさ」という言葉はどういう意味だったのだろう。「さささのさ」は、それから走り出すという予告なのかもしれないが、前半が意味不明。
本日の表題の『よよの日』というのは、我が脳内棲息幼女たかちゃんによると「よよよよよ、なんて、昔の女の人みたいに、泣いちゃう日」なのだが、マジにヨーヨーの日でもあるのだそうだ。我がパソコン内棲息女性春菜さんは、そうおっしゃっております。ウソだろ、と思ったら、土日はなんかバンダイさんなどがイベントまでやっていたそうで、だったらどこかに和服のおしとやかな女性が集まって、一斉に「よよよよよ」などとしめやかに泣き崩れてもいいよなあ。色っぽくて。
さあて、また新しい日の始まりだ。もう5日になっちまった。なんかいろいろ続けるか、打ち始めるか。それとも録画しっぱなしの『義経』でも観るか。


4月3日 日  
たのしいたかちゃんこうげき

本日は1日打ちっ放しで過ごす。たかちゃん第2弾の最終話約45枚、お気楽な文体だと、いくらでも進む。幻想物もせめてこの半分のペースで進まないかと思うが、やっぱり文体自体が他人の言葉だからなあ。


4月2日 土  
ちゅいんちゅいん

おう、土曜でも工事中。台所の真っ正面の窓の向こうに、ガラス1枚隔てて労働者さんたちの姿と会話。真っ昼間っから引きこもっている身には、なんだか申し訳ないような気がしてしまう。でも、まるっきり遊んでいるわけでもないのでかんべん。
正午頃に寝込んで目覚めれば20時。工事も午後は休みだったのか、それとも熟睡が足りていなかっただけか、前後不覚で夢も見ずに眠る。
さて私物打鍵も1シーン進んだが、これっぱかりで板を更新するのも気が引ける。でも、次はけっこう長丁場をこなさないと区切りがつかないので、いっぺん上げておこうか。人気板ゆえもう過去ログに飛んでいるので、皆様もそうこまめにはチェックされないだろう、などと言い訳を考えつつ、やっぱり上げてしまおうか。次回は当分先になるだろうし。――などと安易に更新しようとしたら、なんとパスワードがはじかれてしまう。うう、天網恢々疎にして漏らさず。ダブルチェックになってからなので誤入力したはずはなし、何かのバグだろうか。管理人様に、修正のお願いをするしかない。


4月1日 金  
どどどどどどどど

どどどどどどどど。がががががががが。どん、どん、どん、どん。ずしんずしんずしん――昼間はずっとそんな感じ。敷地内給水系全部の工事だったのである。横道から裏庭まで、ほじくり返しているようだ。
昨夜は『月下美人』の続きを再開したのだが、1200字ほどに4時間を費やす。候文でもなんでもない老婆の語りだが、この世ならぬ美女がこの世の昼の道にお出ましになる部分なので、いろいろ気を遣う。
明け方就寝するも、午前中からどどどどどが始まり、工事現場で昼寝している案配。
夕飯時は、録画しておいた『歴史はその時動いた』の、樋口一葉さんの回を鑑賞。あの難儀そうな性格がやっぱり愛おしい。創作に走るうら若い女性の(特に皮膚感覚で社会に接しておられるタイプの方の)難儀な性格はそれこそ高校時代から知っているのだけれど、その難儀なところがアレなので、やっぱり萌え。それにしても、24歳で結核死――まあ夭折することによって永遠の若さを保つ偉人も多く、そのこと自体が生き方に魅力を付加する場合も多いが、やっぱり解説役を務めておられた瀬戸内寂聴さんのような知的で愛らしい老いの姿も格別なわけで、長生きするに如《し》くはなし。
ふと気づいたのだが、本日はエイプリル・フールではないか。しまった、誰とも会話していないので、嘘をついていない。まあ一年中虚構世界で遊んでいるようなものだから、また続きでも打てばいいか。でもやっぱり悔しいな。
えー、突然ですが、わたくしバニラダヌキは、じつは雌の狸でーす。20年前は、ジュリアナ東京で、ワンレン・ボディコンで、ひらひらの扇子持って踊り狂ってました。見せパンなんて姑息なものは穿かずに、きっちりヒモパンで、バカ男どもをブイブイたぶらかしておりました。でも今は、新宿の地下道で、路上生活おばさんやってまーす。路上生活者の女帝と呼ばれてまーす。……こんなもんか。

3月31日 木  
怪しくうろうろ

なんかいろいろの後で、市立中央図書館へ。明日までに返却する本や朗読CDがあったのだが、なぜか休館日だった。月末も定休らしい。返却ポストには「ビデオ・カセット、CDは開館時にカウンターへ」と記されていたが、明日また出直すのも難儀。たしか朗読関係は書籍扱いだったよなあ、貸し出しも書籍カウンターだったもんなあ、などと勝手に解釈し、バラけないように袋に入れて返却してしまう。違っていたらすみません。
近辺にはいつになく子供達の姿が多く、考えてみれば春休みもたけなわなのであった。公園で児童鑑賞しながら一服。ああ、女の子がかわいい。男の子はまあ死んでなければ見てるだけなら面白い。お母さんたちも色っぽい。お父さんがほとんどいないのは、審美的にとても結構。犬もかわいく猫は色っぽい。春だなあ、などとベンチの灰皿の存在に感謝しつつ、しばしふぬける。
子犬はいたのだが子猫がいなかったので、ショッピングセンターのペット屋まで出張る。しかし商品としては犬が主流の店で、子猫はロシアンブルーちゃんが一匹、アメリカンショートヘアーくんとちゃんの二匹のみ。この推定兄妹(姉弟?)赤ちゃんのふたつ巴の紋型円形一体寝姿が絶妙で、思わずうるうるしながら見入ってしまう。
携帯に施設の母親から着信アリでドキリ。「姉が今日ここに来るという話は聞いていないか?」と、奇妙な内容。また記憶の混乱が起きたのだろう。前後してなんと旧職場からも着信が入っていたのだが、母親が間違えてそちらに電話してしまったのだろうと判断し、返信はせず。一年以上前に辞めた現場に、のこのこ電話するのはさすがに気が引ける。最初の2、3ヶ月は業務上での質問などあったが、今更そんな用件のはずもない。


3月30日 水  
まだ工事中

工事の音がやかましく、昼に寝ようと思っても、安眠できない。って、夜に眠らない自分が悪いのだが。
それにしても、階上の住人はよほど非常識な方らしく、近頃は明け方に思いきりベランダのガラス戸を開け放ったりする。隣の住人もベランダから身を乗り出して負けずに「うるさいぞ」と怒鳴り、間の部屋にいる自分は、その両方にさらされる。都会はほんとうににぎやかだ。しかし、昔の田舎のアパートの、隣のステレオや酒宴などは、さすがに午前2時頃になれば終わっていたのだが、現在の階上の住人は、夜中でも明け方でも、常に力任せに扉や引き戸の開け閉めをしているようだ。よほど力が余っているか、ただの馬鹿なのか。


3月29日 火  
工事中

アパートの裏庭で、朝からなにやら大騒ぎの音。そういえば一昨日あたり、屋上の給水タンクを新しくするという、チラシが入っていたようだ。その下作業なのだろう。築30年のボロとはいえ、一応鉄筋の4階建てなので、給水タンクなどというものが存在するのである。少しは水が不味くなくなるのか。よくある都市怪談のように人間の死体やワンちゃんネコちゃんは沈んでいないだろうが、得体の知れない藻くらいは繁殖していたのではないか。藻類や黴類というやつは本当に繁殖力旺盛なので、ネガ現像機やプリンターの各種処理液の中にまで、いつのまにかはびこっていたりする。
先日判明した小磯良平さんの『斉唱』は、残念ながら複製は市販されていないようだ。画集で我慢するしかなさそう。


3月28日 月  
比翼の鳥と、それを愛してしまった娘

どうも現在ちびちび進めている浪漫幻想怪奇で、過去と現在を繋ぐ語り部の老婦人(過去にはミソッカス型少女)の立場というか心理的存在感が、『百恵・友和というカップルそのものの写真を定期入れに入れている、夢見るミーハー娘』のまま老婆になった、そんな感じで現在打っているのだが、後半を考えると、なんとなくあのマルクス夫妻に生涯を捧げた家政婦・ヘレーネさんにもダブルなあ、などと思い当たり、雨の中を図書館へ。まあ『資本論』や社会主義自体は、結局性善説を前提とした理想論的宗教、そんな気がするのだけれど、むしろヘレーネさんが気になってならない。あのゴテゴテの難儀そうな夫婦を生涯お世話して、主人に手を付けられて子供まで産んで、その子供は当時の主従関係感覚では仕方がないとはいえほとんどポイされるように放り出されて、それでも献身的に『夫妻』に仕え、夫妻の死後まもなく、まるで「私の仕事は終わった」と言うように、自らもこの世を去る――自分の今回の趣向はそこまで壮絶ではないのだけれど、ヘレーネさんはマルクスへの愛が行動原理だったのだろうか。彼女にとって奥さんのジェニーは、どんな存在だったのだろうか。夫妻の精神的な危機はいくらもあったようだし、そこに食い込んで自分が精神的優位に立つ機会など、いくらでもあったはずだ。しかし、それをやった気配はない。やはりヘレーネさんにとって、ご主人夫妻そのものが、愛の対象だったのだろうか。単にマルクスへの愛によってその妻をもセットでつくしたとすると、これもまた至上の愛なのだろうが、それだけで生涯通せるか。やはり、その『夫妻』という存在を、愛していたと見るのが自然だろう。まあ結局よくわからないのだが、なんか、いいなあ。ヘレーネさん、萌え。
図書館ついでに、また前回探し当てられなかった小磯良平さんの、テレビでかいま見て気になり続けている油絵を探す。油絵を網羅した画集はないが、美術展の目録があった。おう、『斉唱』という作品だったのか。そんな有名らしい作品をこの歳まで知らずにいたのだから、やっぱり自分もまともに孵化しておらんなあ、などと反省。死ぬまでウーパー・ルーパーでも、こうしたエサは美味なので、やっぱり長生きしたくなる。自分のきたねー部屋に絵を飾りたくなったのは、アニメのハイジのプリント以来ではないのか。どこかで複製画を探してみよう。


3月27日 日  
やはり野に置け蓮華草

ご近所のマルエツで駅弁大会――というより、大半それらしい各地の寿司や空弁なのだが――をやっているというチラシに惹かれて、午前中に進攻する。わーい、えっきべんえっきべん、でもぱっちもん半分、などと歌いながら、米沢の牛串弁当やら熱海の金目押寿司を買って、本日は各食1000円超の、大富豪のような食生活を営む。しかしまあ本音を言えば、やっぱりこういったものは列車の中で食うから旅情分の旨味が増すのであって、いかにバーチャルどっぷりの自分でも、いつもの食玩やたれぱんだを前に食っていては、サミしいものがある。思わずたれぱんだに金目押寿司を分け与えようとしたが、食わないのでやっぱり自分で食う。山形の九十九鶏弁当などはまだまだ食う機会はあろうが、群馬は離れて久しいので、もう結婚式や葬式(おい)もないだろうし、上州舞茸弁当は、もう生涯食えないかもなあ。ソースカツ丼も食いたい。以前駅前の吉野家でソースカツ丼などというメニューが登場していたので食ってみたら、もうスーパーの総菜カツをまんま乗っけただけで、牛丼以外のセンスは皆無の会社と確認。
『義経』は、すでに晩飯食いながら惰性でチェックしている状況。なんであんなに泣き場が下手なのだろう。そこに至るまでの伏線や感情移入がしっかり出来ていてこその泣き場であって、瀕死の病人がとうとうと説明台詞を繰り返せば、泣けるというものではない。役者さんはがんばっているのだが。清盛の心理の流れなども、説得力に乏しい。ようやくかわいく見えて来た、ウツボちゃんも出ないし。しかしお徳さんはやっぱり気になるので、最終回まで見続けるのだろう。
HPの表側、久方ぶりの更新。


3月26日 土  
地続き人続き

ああ、結局また明け方就寝に戻ってしまっている。やっぱり長年かけて昼間は表層的仕事処理頭しか働かない体質になってしまったらしく、私物打鍵を少しづつでも進めるには、深夜から明け方にかけてがベストのようだ。まあ深夜のがたんごとんは上階であるとはっきりしたし、自分の生活音をじっくり客観的に検討しても、生きているんだか死んでいるんだかわからない程度だ。夜半に無神経な扉の開け閉めやったり思いっきりずんずん歩くほどの活力はすでにない。水音にさえ注意すれば無問題。
夕飯タイムは、録りだめしておいた『歴史はその時動いた』の、幻の維新政府やら断髪令やらを観る。ドラマチックが止まらないといったあんばいの時代で、下手な映画などよりよっぽど手に汗を握ったり腕組みして熟考したりしてしまう。しかしまあやっぱり何度も書いてしまうように奥羽越列藩同盟の地に育った身としては、そりゃあ正史(と称する物)上では薩長や土佐や幕府やお公家さんたちが仁義なき戦いを「おんどりゃあ、死ねやあ」とか「しょせん鉄砲玉は使い捨てじゃ。わしらは陰から頭で撃っとりゃええ」などと言いつつドラマチックに動かしていたんだろうが、広い日本にはまだまだ地続きの地方が繋がってそれなりに右往左往していたのだという事実も、会津戦争や五稜郭以外の地味な部分まで、たまには紹介してほしいものだ。そもそも『奥羽越列藩同盟』という呼称自体、どんだけの方が覚えていらっしゃるか。
続いて昨夜録画の、昭和の爆笑王なる12チャンの特番を観る。正確には昭和の後期で、自分が生まれる前の前期や成長期を過ごした中期はまったく含まれていないのだけれど、まあ昭和という言葉自体がレトロやノスタルジーとして扱われる昨今、タイトルのウリに使うのは許してあげよう。なんといっても、お宝映像が多々含まれていたし。ヤスキヨはいくらでも各所で観られるが、竹中直人さんの『笑いながら怒る人』まで、ちらりと収録されている。あうあう、欲しかったんだよう。テレビ東京さん、感謝です。まだ観ていないが、現在録画中の『アド街』なんとか特番とやらでは、勝鬨橋の開閉なども放送してくれているらしい。そのうち古い邦画やドキュメントを探す予定だったので、これもありがたい。いつになるかわからないが、現在中断中の打鍵物のクライマックスでは、開きかかった勝鬨橋を、一太郎や花子や小百合の乗った陸王が、ジャンプしたりする予定なのである。で、せっぱつまった謎の米軍(おいおい)がビシビシとヘリから撃ちまくったり、東京オリンピックに向けて準備中の国立競技場の聖火台吹っ飛ばしたりコースに大穴あけたり(おいおい)。まあ、いつそこまで行けるかわからないが、生きてりゃいつかは打てるだろう。ライフ・ホビーなので無問題(ごく少数の読者の方にも見放されて、打つのも読むのも自分だけだったりして)。


3月25日 金  
縺れて候

内職がらみの外出の帰りに、久々に神保町まで出ばる。私的打鍵物の伏線用に候文の古葉書をでっちあげようと思ったのだが、以前持っていたはずの昭和初期のお手紙の書き方実用本が、どうしても見つからない。神保町で大正時代のを、ぼろぼろの書き込みだらけだからか、わずか500円で発見。まあ候文に大差はなかろうと、きわめていい加減に購入。
いい加減に買った物でも、さてそれを参考に打鍵を始めると、たった数行でもう頭がイソギンチャク状のウニになる。さっそくたかちゃんが発動し、リバウンドを開始する。すなおにそっちに従うことにする。



3月24日 木  
貴ちゃんがかわいい

ああ、日本語の敬語はほんとうに難しい。目上の人がどこかに『行った』、それを『行かれました』『お行きになりました』『お行きになられました』、この最後なんかは日常会話の中では柔らかくていいと思うし、不快に感じる人はまずいないだろう。しかし二重敬語として正式には誤用ということになるらしい。言われてみれば判るのだが、いいじゃないかそんなの、それはその方を敬うがうえにも敬っているのだ、と居直りたくもなるのだが、やっぱりテキスト・データとして残すとなるとアレだし、教養のある老婦人のひとり語り部分だからなあ。ああ、しんど。謙譲語も尊敬語も丁寧語も、ずいぶんまだ間違っているんだろうなあ。まあ、別にアナウンサーの仕事ではないから、「これは登場人物の言葉です」と居直ってしまってもいいのだろうが。
昨夜はまたたかちゃんと謎のせんせいが脳内でアドリブかまし始めたので、素直に打つ。公園できちくをちまつりに上げるのには、暇を見て打っているのでまだ何日かかかるかも。
もともと中学時代にちょっと気になった隣のクラスの不思議少女と、上井草に住んでいた頃の公園幼女たちを原型にしているのだが、そういえば沖倉利津子さんがデビューして間もない頃の少女漫画にも、『貴ちゃんがかわいい』というタイトルの短編があったような気がする。天然系の(当時そんな呼称はなかったが)女子高生をめぐるラブコメだったよなあ。『おてんばセッチ』の連作は、きっちり保管してあるはずなのだが――おう、そうだ。たしかその中に収録してあったのでは、などと、本日押し入れの段ボール箱をひっくり返す。
一時間ほどの艱難辛苦を経て、無事発見。うああああ、か、かーいい。自分は太古の高校時代から、もうとっくにこうしたものに『萌え』つくしていたのだなあ、と、己の性癖をあらためて実感。
さて幻想怪奇もちょっと先の模索を、ということで、夕方の買い物ついでに、乱歩を求めて駅前の本屋へ。鏡花も橘外男もホーソンも足りているのだが、乱歩は中学時代までにほとんど読んでしまったので、現物は一冊も手元にない。今回『大リーグ怪奇幻想養成ギブス』として強化訓練に使用した、数種の朗読テープしかない。しかし、やっぱり活字も一度確認したい。というわけで、『人でなしの恋』の含まれた短編集を購入。いっしょに、吾妻ひでおさんの『失踪日記』も購入。
駅ビルの丼屋でカツカレー丼を食いながら、さっそく開いてみると――これはすごい。いや、乱歩がすごいのは当然として、吾妻ひでおさんの生活がすごい。それをこんな漫画に描ける実力と精神力がすごい。路上生活のための実用書にもなるし、肉体労働の参考にもなるし、アル中で入院した場合の資料にもなる。そしてそれらが見事に淡々としたユーモラスな私小説風エンタメになっている。脱帽。


3月23日 水  
夢の街 生きる街

どこぞのテレビ情報誌で完全な読者投票による初のドラマ大賞とやらを企画して、先年の『砂の器』が受賞したそうである。うーん、つまらなかったとは言わないが、あくまで水準作の出来なのではないか、と思うんだがなあ。原作のハンセン氏病というテーマは、まあ時代が違う(といいつつクレーム対策?)で使えないにしろ、たとえば和賀の愛人が路上で流産するシーンひとつとっても、自分にはあの演出家やライターが、『社会派』のドラマを作るほど現実社会を見ているとは思えない。うら若い美しい女性がよろよろと倒れうごめき、その背後を冷たく行き交う冷たい都会の通行人たち――えーと、田舎芝居の舞台ですか、そこは。東京駅の地下街だって、新宿の地下通路だって、そんなシーンはありえません。私のような汚ねーおっさんなら、路上生活者としてシカトでしょうけど。新宿の歌舞伎町や池袋の裏通りでも、別の意味で(すぐ下心のある奴が来て赤ずきんちゃんを食べようとする)ありえない。仮想を見ながら仮想を志した世代ではないのか。たとえば石森章太郎先生から永井豪さん、といったように、あるいはいにしえの東映アニメやSFアニメや名作アニメから、現在のお若いアニメの方々が、といったような。まあ、ファンタジックなものならそれでいいのだが、『社会派』はまずかろう。
現代に砂の器を復活させると聞いて、てっきり原作の現代音楽要素あたりを復活させるのだろうと期待したのに、そこはあざとくあの野村監督や橋本脚本の力業・クラシックへの置き換えをまんま借用している。映画1本のためにクラシックの交響曲1本でっちあげることが、当時としてどれほど大胆で大変な企画であったか、今のマルチ化した豊かなメディアに慣れた方々にもわかってほしいものだ。敬意があってあえて借用するのなら、目立たない別の部分のリアリティーを、見習ってほしいものだ。
もし自分が『砂の器』を現代に脚色するなら、和賀はやっぱり10年前の小室ファミリー全盛期あたりをモデルにしたいですね。時の流れの速い昨今、もはやほんのりレトロな感じさえするし、愛人を低周波で流産させるというトリックも、原作のを使えるし。まあ、ハンセン氏病という社会対応のひずみや宿命の核は、クレーム電話さえ覚悟すれば、社会的背景としてはまだまだ生きているし。
さて、ここでまたごく少数の方々を対象にちょっと独り言など(もともと全部独り言だが)。自分自身にとってもまだ迷宮だか迷路だかわからない話(つまり、出口までいけるかどうかは、完結してみないとわからない)を、しかもなんかいろいろの隙を見て続けるには、そして肝腎の『いろんな方に読み続けていただく』ためには、いろんなキャラにオギャーしていただくわけですが、今回もサビシイ中年代表『僕』(あ、はんぶん自分だ)では場がもたないので、老人代表『皺だらけ綾』少女代表『ミソッカス型綾』古典的恋人たち『顕と志乃』過去パートの探偵的存在『秋野医師』――やっと出そろっただけでもこんだけウヨウヨ頭の中で生きており、一度生きるともう最初に作者がきっちり作ったつもりの迷宮を、あちこちかじって勝手に迷路化してしまうので、頭の中がそれはそれはイソギンチャク型のウニ(なんだそりゃ)になってしまう。まあその反動でたかちゃんが待機してなんの脈絡もなくきままに意味なしギャグを垂れ流しにして、イソギンチャクのうにょうにょをクリーンアップしてくれている、そんな今日この頃なんだろうなあ。


3月22日 火  
愛の賛歌

姪の合格祝いの件で母と電話。めでたい話でもあり、上機嫌で会話も安定している。まあ同じ会話ばかり数回繰り返すのも、安定には違いない。やはり日々の生活に不安要素の少ない事、規則的時間にただ乗っている安心感が、アルツの進行を押さえているようだ。
一方相変わらずお先真っ暗、というより人生がトワイライト・ゾーンに漂っている自分は、そのほうがなにかと仮想にいい。食うための時間を比較的自由に割り振れるので、一日ぶっ通しで仮想にふける事もできる。内容も千変万化だ。定時の仕事をしていた頃は、結局15年近く、まともな仮想はできなかったからなあ。
三輪明宏さんの人生講座は、次週でおしまいのようだ。昨夜は『愛の賛歌』がテーマで、てっきり本人訳詞の歌が聴けると思ったら、最近は原語で歌っていらっしゃるらしい。自分的には、あの「高く青い空が 落ちてきたとしても」のインパクトが捨てがたい。神より世界より愛する人が上位――うんうん、ええわあ。現実なんていやでもどっぷり味わっているのだから、共感タイプの歌は他の方でも歌えるのだから、三輪さんには「かくあるべし」を死ぬまで歌っていただきたい。やっぱり歌はどんなジャンルでも、最終的には『自己表現』より『自己実現』志向が胸に響く。ロックだってパンクだってそうだ。越路吹雪さんの「あなたのその腕で 私を抱きしめて」もちまちまとして可愛いが、やっぱり原詞とはまったく無関係の世界。しかし原詩とはなんの字義的重複もないのに、なぜ岩谷時子・訳詞と、いつも表示されるのだろう。いや、岩谷さんの作詞の歌も、いろいろ好きなのだが。


3月21日 月  
尻尾をたれて

一昨日録画しておいた、『遺された声・ラジオが伝えた太平洋戦争』を、ようやくじっくり観る。満州放送に遺されていた、膨大な円形録音盤(即席レコードですね)をもとに構成したもの。当時の『八紘一宇』の幻想が築き上げた悲劇の終焉と、それが残した瓦礫の山に、しばし蕭然。その瓦礫の下にはことごとく同胞や被侵略国の人々が埋まっており、生き残った人間に今も種々の遺恨を残しているのだから、始末におえない。生き残った特攻隊の老人達が、今も真摯に口論している姿、そして韓国民でありながら日本兵として特攻した兵士や残された家族の慟哭、さらに幻影の楽土に置き去りにされ死んでいった日本人開拓民――。「始めから勝てるはずのない戦争だったのだ」「いや、そうしてしたり顔で言うことが、死んでいった仲間を『犬死に』と貶めているのだ。そして自分が『特攻崩れ』などと戦後に糾弾された要因なのだ」――そんな口論があったが、いやいや、『犬死に』は賤しくなどないのです。自らが死ぬリスクを犯さずに他者を死においやる者が『犬生き』なのです。ああ、ワンちゃんたち、ごめん。
かつて観た邦画『犬死にせしもの』など思い出す。終戦後無頼に落ちたもと兵士などが、「戦争で捨て損なった命、女ひとりのためにくれてやらあ!」と、薄幸の女性を救うために、理不尽な強者と討ち死にしてゆく話である。『ジャズ大名』と2本立てだったあのイキのいい佳作を、自分を含めてたった3人しか観客のいない新宿の封切館で観ながら、もう邦画もおしまいなのだなあ、と、つくづく滅入った記憶がある。
一浪して今年再挑戦したわが姪っ子が、国立は落ちたが、早稲田に受かったとの報。ああ、姉夫婦もまたやりくりが大変だなあと心配しつつ、まずはめでたい。しかし、わ、早稲田ですか。わが青年期恋愛関係トラウマの学府である。ああ、これで姪の前でも、くうんくうんと媚びて鳴きながら尻尾をたれて恭順の意を示すことになるか、などと、悲喜交々の自分であった、まる、と。


3月20日 日  
やっぱり役者だわ

本日の『義経』はなかなか。いや、義経サイドはあいかわらず、よく分からない表層的シナリオを素直な役者さんたちがまんまやってるだけのようなのですが(とくにあのウツボというキャラなど、ようやくあのふにゃふにゃの口舌を聞き慣れて、これはかわいいかも、などと爺いの本性に目覚めつつあったのに、もう見え見えの底の浅い泣き狙い展開に踊らされるばかりで、ただのチェスのコマ化してしまっている)、しかし平家サイドの清盛・後白河逆転劇はもう渡さんと平さんの、おうおう、最初の頃の演技の見せ方は、ここにきて逆転するためだったのかあ、と、思わずポンと手を打ってしまうような見事なケレン。やっぱり本物の役者はいい。


3月19日 土  
楽しいネット通販

昨夜寝るとき、『特撮』の『ピアノ・デス・ピアノ』など聴いたせいか、明け方の夢に天使の羽根少女やケンヂ君が登場してなんかいろいろ騒いでいたので、起き出してショート・ショートを一本まとめる。それなりに技巧はこらしたつもりだが、ちょっと手練の方でないと、楽しんでいただけないかもしれない。なんて偉そうにまあ。まあ同感覚の方々に向けた、ちょっとしたご挨拶。このところ根掘り葉掘りを続け、今も幻想っぽく見せて実は根掘り葉掘りででも結局はごにょごにょを画策しているので、その反動の息抜きなんだろうなあ、と自己分析。
金もないのに性懲りもなく、日本全国世界各地から、なんか色々届く。
昔コミック雑誌掲載時に、通勤の電車の中で読んで、その雑誌は捨ててしまったのだが、作品だけは十何年たっても脳裏に刻まれていた、青柳裕介さんの短編『鯨五十衆船』《くじらいさばぶね》がどうしても所有したくなり、ネットで調べたら作品集2『男達の航海』に収録されていた。コミックスは絶版だが、小学館のオンデマンド出版で入手可能らしく、しかし古書を探すと一軒在庫店があり、注文したらもう2日後に到着。さっそく読んで、泣く。自分の記憶力はこんなに良かったのかと感心してしまうくらい、コマ割りまで記憶どおりで、当時の衝撃と感動がもうありありと。過酷な時代環境の少年少女の成長を描いて、これほど痛くてかつのたうちまわりながら狂ったように拍手してしまうようなカタルシスを備えた短編は、寡聞にして他に知らない。晩飯にマッコウクジラが食いたくなったが、今ではミンククジラしか食えないし、それも珍味扱いの高価さ。結局やはり身欠き鰊をはぐはぐしながら、『人は殺さなければ生きていけない 愛さなければ人ではない』などという、この珠玉の劇画に冠するキャッチ・フレーズが浮かぶ。
夜に入って、こんどはビューマスターのリールが届く。いたいけな幼児が(自分で言うな)立体写真の底なし沼にはまるきっかけとなった、アメリカの光学玩具である。195・60年代は自分で撮るカメラやリールへのマウンター、果てはスクリーンに拡大投影して偏光眼鏡を使用して立体写真を鑑賞する機材まで売られていたのだが、なにせ原版サイズが豆のように小さいので、やっぱり出来合の写真を玩具店で買ってきてビューアーで覗いて楽しむのが一般的だ。ディズニーや各種人気映画、各国の美麗な観光地などのリールは、今でも売られているようだ。十年ほど前は普通の玩具店で一時トミーが売ってくれたし、今でもアメリカでは継続生産されているらしく、数年前店のバイト嬢がアメリカ旅行などという大それたものに(今時あたりまえか)行くと言うので、見かけたら買ってきてくれるように頼んだら、ダンボのリールを買ってきてくれた。街角のドラッグ・ストアで、カウンターにぶらさがっていたそうである。ただし、最近のリールはフィルムのデュープがいい加減で、画質は良くないしすぐに(といっても十年単位の話だが)変色してしまう。その点、自分が子供時代に作られたものは、大型カメラで撮影した原版をコダクロームに縮小デュープしてあるので、今でも当時のまま残っている。さて、今回見つけ出したのは、ドイツのライン流域やスイスやオーストリア、アメリカのロッキーやなんとかかんとか国立公園(読めない)、そして実写版ハイジのリールである。観光写真のほうは、かつて書物や想像で打った打鍵物の舞台と、現在中断中の馬鹿長田舎物件のキャラの生地近辺である。まあ、お金がないので現地に行けないので、こうしたバーチャルから、でっち上げているわけです。
おう、どうもヨーロッパ(ベルギーとかドイツらしい)で製造されたリールは、四十年前のものでもやっぱり若干変色している。当時のアグファのフィルムだろうか。アメリカ製はやっぱりコダクロームで、きっちり美麗な総天然色のまま残っている。さて、おめあてのハイジは――ぴんぽんぴんぽんぴんぽん! 大当たり。アメリカ製だが現地ロケで作成したリールらしい。当時の映画撮影とタイアップでもしたのだろうか。あうあう、ハイジやおんじやペーターが、さわやかな風を感じられそうなリアルなアルプスの自然の中で、手が触れられそうな生身で、暗いビューアーの中で光っているよう。泣くぞ。そしてまた、他の風景だけの写真のように構図が限定されず、近景から遠景まで自由に入れ込めるので、実に立体写真のメリット全開。ただしクララがあきらかにドイツ系のちょっとゴツい(すみません)少女なのはアレだが、ハイジの歳だとさすがにどこの国の子供でもたかちゃんっぽい(俺しか知らんわ)ので、許す。
ああ、ネットの海は広大だわ。だって時間も空間も、あっちむいてほい、なんですもの。などと錯乱しつつ、やっぱり自分のような一度実社会に敗北した古オタなら、そこもまたただの通信社会だと割り切って姑息に楽しんだり利用したりするが、もし自分が物心ついた頃からこの世界を知っていたら、それっきりズブドロの泥沼住人になっていたかもなあ、などと、いかにも爺いらしいステレオタイプな不安を覚えてしまうのであった。


3月18日 金  
混沌

えーと、竹島がらみでまた韓流以降いい感じになりかけていた、日韓関係がチャラのようですが――こ、こりは難しい。無理矢理ふんだくられた北方領土とは、問題の性格が違いすぎる。まあ長期的な歴史としては日本なのだけれど、えーと、あの敗戦あたりでは……韓国はまあ独立60周年(1945年に日本から独立)と自称しているが、正確には1948年(昭和23年ですね)まで、連合国統治下にある。そして日本は、まあ安保問題等なんかその後もいろいろあるにせよ、サンフランシスコ講和条約(1952年、昭和27年)で独立――だめだこりゃ。悔しいが、当時に戻って連合国側に白黒つけてもらうしかないわ。その時点で、どっちも正史(と称するもの)はともかく、事実上アメリカなんだもの。これは、当時しっかりと海の上に線引かずに引き上げた、アメリカさんが無精、というより、玉虫色。まあ、どっちでも良かったんでしょうけど。いまさら線を引いてもらうわけにもいかないので、これはもう、歴史上また戦争でもしないかぎり、永遠に「あの端っこの畑は、俺が先に一本立ちしてツバつけたんだから俺の」「そりゃあんときは無理矢理そっちの家までおしかけて奥さんまで押し倒して悪かったけど、あそこはその前からうちの人間耕してたんだから、かんべん」――決着不能です。ほんとの話。だから侵略戦争って奴はやめといたほうが吉。勝てなきゃ永遠の矛盾が残るだけ。もはや現在その島に住んでいる方々が、どう考えているかだけですね。島根県がどうのこうのより、そっちをじっくり報道していただきたい。
話変わって、ああ、言ってしまった。自分の打鍵もろくに進まないというのに、純真(推定)なお若い方の投稿板の一編に、キツイ感想を。しかし、明らかに純文学系の早熟な方らしいので、今のままでは隘路を突き進むだけ、そう思えたのである。描写力が極めて秀でているがゆえに、幼い『思いこみ』『知ったつもり』を実に巧みに俯瞰描写してしまうような――しかしやっぱりこの描写力は、玉砕するには惜しいのである。


3月17日 木  
にゅるにゅるに蓋は凶

うひゃあ、たいへんだあたいへんだあ、夜中に寝床で、オーケストラとマンドリンによる世界の叙情歌、などというものを恍惚と聴きつつ純文学もどきの怪奇物を脳内でいじくりまわしていたら、もうストーリー自体がにゅるにゅると変貌し始めてしまった。うわあ、そうだったのかあ、などと慌てて起き出して、今まで打った30枚ちょっと、まんま使うのは無理かなあとチェックし、ああ良かった、まだ全然話が進んでないから、続きでどうにでもできる。
まあ、これでなんとかでんでんむしのような敏捷さで、ラストまで行けそうである。「うわあ、そうだったのかあ」が出てきた段階で、もうこの話は『物語』として、自分の頭から独立して、勝手に歩いてくれるはず。愛読する高橋克彦先生のお作などもそうだが、立ったキャラと絡んで勝手に物語が動き始めると、大傑作になるにせよ収拾がつかなくなって尻つぼみに終わるにせよ(す、すみません)、とにかく『大好きな話』ができるのである。まあ短編はそうは行かないが、長編や中編は、明らかにそんな感じ。で、現在打鍵中の『月下美人』は、やはり中編くらいまで伸びそうだ。ああ、生きているうちに、高橋先生のような立派な両刀使いに近づきたいものだ。徹頭徹尾頭脳で組み立てた話にも魂を入れてしまうし、自分でも犯人が判らないミステリーだって魂で解決してしまうし、時には壮絶な尻つぼみ(す、すみません)に終わるにしても、そこに至るまでは波瀾万丈のエンタメなのだ。
さて、ごく一部の方々にむけて、ちょっとだけ念のため。あの『月下美人』に出てくる『日影村』は、五木寛之先生の『日ノ影村の一族』とは、無関係です。自分が実際に中学の国語教師(男でしたが、やっぱり落ち着いた紳士タイプでした)に聞かされた、今となっては(実は当時でも)学校などで披露するととってもヤバい系の、封印された伝承でした。なぜヤバかったかというと、昔の映画の『砂の器』でも必死こいて言い訳のテロップ出しまくりだった、そして先年のナカイ君版ではその設定すら省略されてフヌケになっていた、昔のある伝染病に関した村の話だったからです。ちなみに現在では、もう完治可能の怖くない伝染病。私ゃ現代のエイズのほうがよっぽど怖い。誰でももらっちゃう移しちゃう可能性があるので、そのためだけにでも小学校からそっち方向の教育せんとマジに人類という種に関わってくるのではないか、そう思うのですが。しかし大昔とはいえ、よくあの先生はそんな話を学校でできたなあ、と感心する。頭のいい方だったから、『歴史を封印してしまう』事の愚かさを、暗に生徒にも伝えたかったのだろう。また、東北という土地柄もあったのだろう。もし関東以西だったら、職員会議でツルシ上げくらったのでは。私は本当に自分の生まれ育ったのが、あそこで良かったと思う。なにせ、いまだに『差別』という単語は、歴史用語や生活経済用語としてしか実感できない。もちろん知識としては、人種やら病気やら職業やら土地そのものやら、なんかいろいろなのは知っているが、まあ東北人のほとんどは、正史(と称するもの)上、みーんな『えんがちょ』される側だったからなんだろう。ありゃ、どこかですでに同じ事を書いたような気もする。
話変わって、手塚治虫先生の『バンビ』や『ピノキオ』が、復刻されるそうだ。古書市場では30万下らなかったという、ディズニーがらみで幻化していたもの。ようやくディズニーもこなれて来た、のではなく、やっぱりジャパニメーションとのアレなんだろう。まあ『ライオン・キング』の時に手塚先生サイドから深く突っ込まなかったのは、手塚作品自体がディズニーの種々の作品の薫陶によって始まっている、そんな日本らしい『情緒』からだろうし、それに対するアメリカらしからぬ『情緒』かな、などとも思うのだが、やっぱり商売上かえってオリジナルをさらに売るいい宣伝だ、そんなところなのだろう。
私的には、手塚先生には、初期作品やアトムもさることながら、『空気の底』シリーズなどを筆頭とする、膨大な幻想怪奇ファンタジーSF短編を生んだ天才、そんな意識を持っている。またその膨大な作品が全集として編まれたとき、あの現代出版界に風穴を開ける『不適切な表現がありますが、当時の歴史背景と作品の芸術的価値を考慮してそのまま云々』を、有無を言わさず突きつけ成立させてしまった、その偉大な存在感もすごい。まあ、その後山上たつひこさんの『喜劇新思想体系』などが発表時のままの形で復刻されるまで、さらに長い歳月を必要としたのだけれど。
臭い物にいくら蓋をしても多く無駄である。それは当座の臭い物は隠れるし、いつしか歴史の中に忘れ去られるかもしれないが、そればっかしだとついついい新しい臭い物も蓋をしておけばそのうちなんとかなるだろう、そんな習慣がついてしまって、一億六千万年の半減期の放射性物質とかまで、一億六千万年蓋をしとけばいいだろう、そんな不感症になってしまう。臭い物があったら、やっぱり『これは臭い』と大騒ぎして、素を絶つのが吉。
そして念のため、その素もじっくり見定めないといけない。臭いのは古いお肉かもしれないが、それは自分が賞味期限を忘れてひと月ほっぽっといたからかもしれないし、はじめから加工業者の衛生管理がいいかげんだったのかもしれない。


3月16日 水  
真贋

昨夜の『なんでも鑑定団』の録画など、天玉ソバをすすりつつ見ていると、ラストのおばあちゃんの悲愁に満ちたお姿に、思わず涙してしまう。富岡鉄舟の贋作を、後半生を賭けて真作として研究・調査していたおばあちゃん。ああっ、だみだあ、と、鑑定前にあの現物が出てきた段階で、悲劇を予感してしまいました。自慢ではないが、自分の鑑定眼にはまったく自信なし。この番組でも、勝率6割、つまりあてずっぽうに近い目しか持っておりません。しかし、あの掛け軸にまったく『力』や『魂』がないことぐらいは、いちおう視力が0.3あるのでわかります。そもそもそのおばあちゃんの緻密な検証そのものが、ろくに作品と対峙せずに、「ありがたい」という先入観から始まり、「本物と思いこむために」真面目に緻密に調査していらっしゃる。――逆だあ、おばあちゃん。これは、詐欺や似非宗教にひっかかる大学教授、そんな感じのパターン。この世に『主観のない』机上の空論ほどはかないものはない。先入観ではなく、主観ですよ、念のため。
逆に言えば、自分のこの歪んだ眼鏡の目に『力』と『魂』を感じれば、別に本物でも贋作でも、同じ快感に繋げる自信はあります。それが10円で駄菓子屋で買ったパチモンでも、ネットオークションで10万つっこんでしまった物でも。で、自分にとってはどっちも等価の本物である、と。じゃあその10円で買った本物を、金に困ったら10円で売るか、と言われれば、それは買う人の主観しだいで、自分の決めることではない。10円しか値がつかなかったら10円だし、100万出すという人がいたら、よろこんで「いやあ、お目が高い」かなんか言っといて、気持ちよく引き取っていただく。本物ですので。
さて、本物の多い『必殺』は、再放送が昨日の劇場用本編ばりの盛り上がりで終わってしまったし、空き時間はまた打鍵メインに移ろうか、そう思って腕をまくったら、なんだか昔済んでいた高崎のご近所で、小学校の女の子が刺されてしまったというニュース。あう、今打っているブツのひとつは、小学校の女の子が主人公(『ママはおでかけ』の続編)なんだよなあ。次回は女の子たちがよってたかって、鬼畜のおにいちゃんやおじさんをハメツに追い込む(ギャグなのでなんでもあり)話にしようか、などと着想した矢先のことである。生半可なハメツではもはや足りない。焼き殺したりロボトミーかましたりしてしまおう。もちろん自業自得で焼けたり廃人化するのであって、たかちゃんたちはあいかわらずのてんねんボケ街道まっしぐらだろう。
でもそのまえに、ちょっと純文学もどきの怪奇物を進めておきたい。


3月15日 火  
煙草のみの詭弁

「肺ガンで死ぬ人の8割は、喫煙者なんだよ。やめたほうがいいって」――そんな理由で、禁煙を勧めてくれる人がいる。親しく気もいい人だが、友人ではないので、こんな言葉は返せない。「交通事犯で服役した人のなんと10割が、車に乗っていたそうです」。
確率が増える、という意味なら、同じはずである。全世界の喫煙者の肺癌の罹患率を調査する、そして全世界の非喫煙者の同じデータと比較する、そこまでやって初めて警句に意味が生まれる。ちなみに2004年の日本全国の交通死亡事故件数は7084件(事故後24時間以内の死者数は7358人)、運転免許所有者数は78246948人、ペーパードライバーを考えても、まあ1万人にひとりは殺意のあるなしに関わらず、自分か他の誰かを確実に車で殺します。半殺しならケタが変わります。一方で肺癌による死亡者は――最新の正確な数字は不勉強なのですが、1999年には5万超、そのうち8割が喫煙者だったとすると、4万くらいでしょうか。で、喫煙人口は3108万人。単純に割れば1:776ですが、もちろん現在吸っている方と現在死ぬ方が必ずしも同じ方ではないので、個々の追跡調査でもしないかぎり、正確な数字は出せない。大気汚染や粉塵公害、アスベスト問題などもありますし(日本全国、アスベストだらけの古ビルまだいっぱいあります。怖くて改装できない古SCに、過去何回も勤務しました)、体質等その他の要因のカラミは正確な調査など不能。巷に喧伝される副流煙に関しては、残念ながら推測的データしか存在しません。――お願いだから納得できるデータ見せてから大騒ぎしてください。
ちなみに大麻に関しましては、アルコールよりは依存性精神疾患の危険も低いようですし、肉体的にも煙草ほどの危険はないようです。よほど深入りしても、シャブ中のように暴れるより先に、たれぱんだのようにたれてしまうようです。売買や栽培が違法であるゆえ、日々犯罪者は摘発されておりますが。


3月14日 月  
オシッコが出にくくなったら

選挙は惜敗。まあかつて自分の投票した候補で当選した方は、このマンションという名の古アパートの管理人さんが後援会に入っている市会議員さんくらいしかいらっしゃらないので、今後の自分は当選して欲しくない方に投票したほうが、確率的に正しいのかもしれない。おばあちゃま知事が、当たり障りのない政治を、また当分続けてくださることに。まあ、長野の田中知事を見てもわかるように、いかに革新的な大志を持っても、現実にはそう簡単に土地柄など変わるはずもないのだが。でも、かき回して問題意識を表面化させるくらいの効果はちゃんとあるわけで。
再放送の必殺、本日の『大津』編と、明日の『京』で、とりあえず東海道殺し旅は上がり。本日はやけに松野さんキレるなあと思って観ていたら、やっぱり南野監督の担当だった。なるほど、そして『京』のシメに大御所森崎監督の登板で、今シリーズをがっちりキメる、という構成らしい。
昨夜録画のNスペの、新人研修医たちの真摯な修行ぶりに、豚肉とニンニクの芽の炒め物(1パック380円もした。いかにも精がつきそう)をむさぼり食いながら、しみじみエールを送る。ありがとう、ありがとう。君たちのような若者たちがいてくれる限り、日本もまだまだ大丈夫。ちょっとコワくてヤな先輩も、患者治してナンボ(もちろん死んでしまうのも多いが)という性根が座ってる限り、まあ見習って無問題。誤診で刑事訴訟などというリスクもあるようだが、めげないで下さいね。患者の家族も人の子なので、親が死んだらやっぱり病気になったのが親であって医師が病気にしたわけではないなどという傍目の理屈は、通じなくなるのが普通だし、まあいい加減に患者を殺してしまう医者がいるのも事実だし、逆に訴訟さえ起こせば我に理(利?)ありと思う被害者意識の肥大化した人も多い。
自分の父親は、ただの前立腺肥大の手術直後に、解離性大動脈瘤破裂を併発して世を去った。それだって、手術前に充分な検査を行っていれば防げた可能性はあり、手術前後の経緯の説明も、充分だったとは言い難い。しかしその後調べたら、『ただの前立腺肥大の手術』はごく初歩的な手術だが、実際それを受けた患者はかなりの確率で余病を併発し死亡していると知り、そんな事実を長く病院を担当していた役人である父が知らなかったはずもなく、思えば事前に家族に言わなかっただけで当人がなにやら覚悟していた気配もあったようだし、なによりその病院の現場を親しく知っている父が、無機質な訴訟など望むはずもない。同じ病院で、実の弟(自分の叔父です)も事務職に就いている。そんななんかいろいろで、結句それが父親の寿命であると納得したのだが――まあ、そのドキュメンタリーで親のクモ膜下出血を見過ごされた親族の方々が、どんな気分で訴訟を起こされたのかは、自分には判らない。ドキュメンタリー自体でも、現在修行中の方々の揺れ動く心が主役で、その事件は詳しく描かれなかったし。
とにかくそのお若い医師の卵の方々には、死ぬほうが納得して死ねる段階までは、『治してナンボ』のプロ意識を磨いていただきたいし、それまでに何人かを治せずに終わるのは当然である。打率10割の打者がいるとしたら、それはただの妄想狂か詐欺師である。自分がボールならイチローみたいな選手に打たれたいわなあ。あの人に打たれるなら、ファウルでもショボいゴロでも納得して転がれる気がする。空振りでもいいや。かつての王さんなんかもいいですね。
とりあえず私ら男がオシッコ出にくくなったら、すぐ病院に行くのが吉。あんまり肥大するまでほっとくと、コワい手術が待ってます。


3月13日 日  
きちんと選挙

近所の小学校で、知事選挙の投票。党の単独候補もいない生ぬるい選挙で、おまけに自民系のもと芸能人の方に投票せざるを得なかったので、ちょっと気合い薄。しかし立て前だけでも治安対策を表看板にしてくれる方は、あの『おれは男だ』と万年目立ちたがり青年を演じてくれる方しか、おらんかったのです。昔の『砂の器』での若い刑事も、良かったし。って、自分はレーガンに投票した南部農民か。
地元居付の方々には申し訳ないが、流れ者でいっときこの地に住まわざるを得ない身としては、財政の明瞭化や中小企業経済や農政よりも、あのほとんどお留守の寂しい時間限定交番に、ひとりでもお巡りさん突っ込んで、下校途中の子供が、新聞種にならないにせよ一生トラウマを背負ってしまうようなあんな目に、会わないようにしていただきたい。ついでに無意味に荒れてる大人に鉄砲玉ぶっこんでほしい(無理か)。
江戸前のお魚さんや、卵関係の録画を観ながら、サンマの缶詰ソバをすする。好物である山形の小川製麺所の『とびきりそば』、しばらく前から、なんとまた増量サービス。自分の胃袋の大きさに反比例して、どんどん気前が良くなっていく。ああ、遠き青年時代に、これをやって欲しかった。なんて、小分けに食えばいいんですけどね。夏場のザルだといくらでもいけるので、それまで増量を続けてほしい。
『義経』は、ますます心理的に自分にはついて行けない世界に入ってゆく。二人の父性像の間で揺れ動く育ちのいい若者? エディプスうんぬん言う気はないが、どうも義経君、理解不能。平家と藤原の親子関係に絡む義経を、類似した構図にしつつあるのは、作劇上の画策なのだろうが、なにか強引で作為的。気のいい無頼の家来たちは快だが、なぜそんなにあの不安定な若者に執着するのかだけは共感できず。まあルックスは認めるにしても。うう、白石さんのナレーションだけでは、視聴し続けるのは難しいかもしれない。



3月12日 土  
自己賛美

ナルシズム――揶揄の対象として扱われがちな言葉だが、外観はともあれ、内面的には自分などその権化のようなものである。自分だけでなく、そもそもなんらかのオリジナルな創作物を紡いで他人様に見てもらおう、そんな意欲を持った時点で、誰だって自分がいちばんこの世に大切な物であり、愛しいにきまっている。憂国を説きつつ割腹した三島由紀夫さん、「愛君、僕は君のためなら死ねる」と豪語する石清水弘、みんな自分に酔っているのだ。自分はたとえば美少女のために死ねと言われれば、その少女が真に美少女だと納得できたら、いつでも死ぬ覚悟はある。それは、美少女のために死ぬ自分が愛しいからであり、結局自己愛を優先するのである。
なぜこんな青臭いことを改めて打っているかというと、ふと『ヨイトマケの唄』を検索しているうちに、最近の三輪さんが自己賛美に走り過ぎて昔のほうがいい、そんな意見もけっこうあったからですね。ふふふ、あなた方、お若い。あの方は、自己賛美のために常に生きてきた人で、マスコミ側の扱いが転々しただけである。現在民放などでイロモノ的な部分だけを編集して「痛快婆さん」的な扱いにしている時も多いが、それだって三輪さんご自身は、自分の年齢に応じたしたたかな「小言幸兵衛」を演じていらっしゃるに違いない。
自己賛美、と言う言葉自体に、なんら否定的側面はない。賛美できるだけの自己を求めて、己を磨いている限り、それは崇高だと思う。問題なのは、社会的に賛美さえされれば崇高、というきわめてナルシズムの対局にある錯覚を抱いてしまうことだ。己を見失っている、とも言う。
何が言いたいのか自分でもよく解らなくなってきたが、要は自分が河原でただの石ころとして風化するときも、やっぱり土手の上の桜の路をさざめき歩く、赤いランドセルの少女たちを見上げて微笑していたいし、まちがっても同じ河原に転がっているでかいだけの塊を自分より優れているなどと錯覚したくはないし、ましてや少女たちを河原まで引きずり降ろそうとも思わない。
己をなんぼ磨いても石ころは石ころに過ぎないなら、そうやって転がっているのも甘美な自己陶酔であり、自己賛美であり、ナルシズムである。風化するまでに少女たちがたまたま河原に降りてきて、幸運にもそのちっこいてのひらに拾い上げてくれて、さらに川面に放ってくれたりしたら、そのときは元気に3回くらいは波紋を連ねて、川の流れに沈むだけの話だ。
まあこういうのを敗者の負け惜しみと言うのだろうが、いいのである。わははは、自分、ほんとに腐敗寸前ナルシスト。
ところで、一昨日の日記をご覧になった方から、なにか切実なメールをいただき、当方も鈍感なので(夜間は特に自分の仮想に閉じこもってしまっているので)見当違いのご返事をカマしてしまったような気もするのですが、もしかしてあの○丸様の一件なども、心理的に絡んでいらっしゃるのかしら。
祈るご自愛、です。バニラダヌキがこの世に一匹しか存在しないのと同様、あなたという人も、たったひとりしかこの世にいないのだから。
などと真摯に述べた直後に、録画しておいた『いい旅夢気分』再放送のガッツ石松様の家族旅行で、群馬のソースカツ丼を久しぶりに目にしてしまい、ああ食いたいよう食いたいよう、あのちょっと薄目のカリッと揚がった食感は、ビールやうどんと一緒に定食で食うともう最高の満腹晩飯で、前橋にもいい定食屋があるんだよう、でもソースカツ丼や高崎の上州舞茸弁当食うためだけに、群馬に行く余裕はもうないんだよう、などと涙にくれる貧しい狸。でも、身欠き鰊焼いただけでもけっこう旨いので、とりあえずはぐはぐと抱え込んで、結構ご満悦。あげないぞ、などと四方八方をきょろきょろ見回したり。だから誰もいないって。


3月11日 金  
ヨイトマケの唄

うーむ、やっぱり松野監督だと、予想以上の快感、というプラスアルファは得られんなあ。ケレンが、パターン意識を越えられないんだよなあ、などとまた生意気をこねつつ、例によって録画チェックしながら、サンマの蒲焼きソバをすすっていると――おう、録画分が終わったとたんに、いきなり米良美一さんがリアルタイムで。しまった、とあわてて録画スイッチを押し、かろうじて『ヨイトマケの唄』の熱唱は捕獲。ふうむ、自立神経失調で、大変だったらしい。まあ、あの出張ゲイ・ボーイ殴打事件以来、いろいろあったのだろうなあ。マスコミはほんとに有名人にはキビシイから。
でもさあ、やっぱ注文と違う子あからさまに出てくると、腹立つじゃん。で、その子がクソ生意気な口きいたりしたら、張りたくなるじゃん、やっぱ。などと言ういいわけは通用しないのが、著名人の不幸。ちなみに自分の場合は、まあなるべく背が低くてつるぺたっぽいナニを、などとごにょごにょ頼んで、確かに若そうではあるがもう好きなだけ親のくれる餌をむさぼり食ってこんだけ育ちました、みたいな自称18歳だけどほんとはナイショよ17歳でも戸籍では21歳さんなんかが出てくると、もうすっかり、張る以前に戦闘意欲を喪失してしまうのですが。(身長のある大人の女性の方が読んでいらっしゃったらすみません。いやもう、あっち方向だけの話です。早い話、仲間由紀恵さんとホテルに行くか山田五十鈴さんと温泉に行くかどっちを選ぶと問われれば、もう迷わず山田五十鈴さんを取る自分です。でもいっしょに木村美樹ちゃんがほよよんと並んでいたりしたら、迷わず美樹ちゃんとディズニーランドに行く道を選びますが。)
冗談と見せた本音はさておき、米良さんの歌は自分にとって完璧な仮想に思えるので、末永くがんばっていただきたい。『もののけ』の頃に、あの方の『浜千鳥』を聴いて、幼稚園以前から好きだったあの童謡が完全に脳内補完されたときの、目から鱗が落ちて月夜の海の浜千鳥がビジュアルとして確定できた感動は、今でも忘れられない。真実を歌う、などというのはどんなジャンルだって不可能で、要はその方のビジョンをどこまでこっちの脳内に突っ込んでくれるか、それが音楽に限らず仮想の快感だろう。
その意味では、すでに三輪さんに突っ込まれてしまっている『ヨイトマケの唄』、いかに米良さんとはいえ自分にとっては二番煎じなのだが――やっぱり、いい。三輪さんが歌うのを観ていると、いつぞやフランスのどなただったかが言った『たったひとりの劇場』という言葉がぴったりで、母も子供も土方も社会も三輪さんの魂もオールマイティーに表現されるが、米良さんはそのキャラクターに合わせて、少年期の追想として素直に聴かせてくれる。
誰か美意識に秀でた監督さんが、鏡花の『高野聖』をまた映像化してくれるとしたら、あの深山の魔性の女性はオーディションで苦労して選ぶにせよ、その旦那の役は絶対米良さんだろう。あの一見不具で知恵遅れの旦那こそが、輪廻する美的魂の、現世の器なのだ。


3月10日 木  
脳内隠居

もうどっぷり生活無能力者です。言われなくても知ってるよ、という古いおなじみはよろしいのですが、なんだかお若い方も覗いていただいているようで、ちょっぴり日本の将来が不安になったりもするので、良い子も悪い子も、あーはなるまい、そんな感じで覗いていただけると嬉しいです。まあ、仮想外での切ったりはったりとか金転がしとか洗脳似非宗教だけは、そういったものが国家規模のデフォルトになりかねない混濁したこの世界で(他国の話だけじゃないですよ)、しっかり嫌悪感を保ってほしいところですが。素直な方ほどころりと騙されるし、教養とか知識でもおっつかないようですので(ほんとなんであの方が騙されてんだろうなあ、そんなのばっかし)。
などと偉そうに言いつつ、今日も自分の殻に引きこもる自分。昨日の失敗が気になって、リアルタイムで必殺からくり人の『桑名』編をチェック。そうそう、これでいいんですよ。こんなストレートな脚本をストレートに流す、それが松野監督の本領でしょう。消化試合を安定してこなす監督さんだって、立派な職人。桜木健一さんだって、ちゃんといい顔で写ってる。ベルさんだって、深みはないがちゃんとカッコいい。横山リエさんなどというクセ玉を、打ってはいけない。
午後、また久方ぶりのコインランドリーで、北杜夫さんの『木精』など読み返していると、唐突にその作中の不倫相手の人妻『ノッ子』さんが、北杜夫さんの母親、つまり斎藤茂吉夫人と重なっているのだ、そんな事に思い当たって、ハタと手を打つ。そうだよ。少年期の『幽霊』と青年期の『木精』は、単にモチーフが母の影であるか人妻であるか、作者にとっての肉を持っているかいないか、主人公が少年であるか青年であるかの違いだけで、同じ『原女性=アニマ』を描いたボレロ構造なのだ。それにトーマス・マンへの傾倒の深化が平行描写されているのだ。――なんて、遠の昔に悟っているべきことを(たぶん発表と同時に評論家や他の読者のどなたかが、指摘されているに違いない)、この歳になってようやく考えている有様では、やっぱり人生の半分を無駄に過ごしていたとしか思えない。まあ、北杜夫さん自身が、当初4部作の予定を2部で力尽きていらっしゃるし、晩年はさすがに茂吉(つまり父君)方向に力が向いたので、純文学などというものは、作者・読者の人生といっしょに流れて当たり前なのだが。しかし3部あたりまでは続けて、ご当人が『楡家の人々』を記されたあたりの生きる感覚など、ボレロで続けて欲しかった。まあ、結婚されてしまうと、純文学で『原女性』をやるのは、しんどいかも知れないが。
大カゴ山盛りふたつの洗濯を終え、さっぱりと買い物へ。古本屋で、『ケンペーくん』のならやたかしさんの、エッセイ本など購入。相変わらず螺旋階段のごとくねじれた正義感が痛快。睦月影郎さん名義のポルノは未読だし(自分の妄想のほうがインパクト強いので)、サーファーやロックやパンクにはなんら抵抗を感じない(演歌も軍歌も唱歌も好きだが)ので、言ってることの半分は?なのだが、なんといっても感情右翼系おたく臭全開の語り口がいい。飼ってらっしゃる猫ちゃんも可愛いし。それに、同じ右傾ムチャクチャなら小林よしのりさんなどの言うことを本気にしたら穴だらけの世界が築かれてしまうが、ならやたかしさんだと、案外自分には住みやすい世界になりそうな気がする。
帰り道、おう、HP開設してもう1年、などと思い当たり、月日の流れの早さに呆れていると、突然HP開設と同時に再開した創作活動の主役・たかちゃんが、いきなり学校でおやじギャグをかまし始める。しかしあっちも始めたばかりでこっちの続きもまだなのに、などと思っても、自分にとってはやはりこのかたぎりたかこというキャラが本質である。後先考えず、打ち始めてしまう。


3月9日 水  
ハッピーエンドに理屈はいらない

というのが若い頃の自分の信念だったりするのだが、さすがにこの歳になると、その『ハッピーエンド』の捉え方もずいぶん変わってくる。成就することが大吉なのは当然だろうが、むしろ成就を夢見つつ継続できるのもやっぱり吉だろう、そんな感覚。
昨夜録画しておいたはずの『もの知り一夜づけ』は、時間変更で最後の太陽にほえろネタが見られなかったのだが、お目当てだったハリウッド版の最新フランダースの犬ハッピーエンド版は確認できた。なんと――いっぺん死んで天国のお母さんと再会したネロが、地上で悲しみにくれる人々の様子を天界から眺めて、また生き返ることにする、そんなラストだそうだ。ごていねいに、蘇った地上ではなんの脈絡もなく実父まで参入するとのこと。わははははは。でも、西欧圏ではみんなこのラストのバージョンを買い付けたそうである。ハリウッド定例のマルチエンディング制作で、悲劇版を買い付けたのは日本だけだったそうな。
で、これがいつもの自分の近頃ハリウッド脳天気砂糖菓子への愚痴になるのかというと――なんの、西欧圏ではもともとネロは助かるのが吉らしいのである。
たとえば自分が幼少時代、今は無き山形の古い映画館で、小学校の映画教室用にどこかから借りて来てくれたらしい『フランダースの犬』のラスト――名作アニメよりも遙か昔の話だが、悪ガキなりにストーリーはもう知っているから、ああ、ネロ死んじゃうよう、パトラッシュもかわいくてかわいそうだよう、と、みんな泣く体制を整えて見守っていたわけだが――なんと、間に合ってしまうのである。アロアとお父さんが、凍死寸前のネロとパトラッシュを、救ってしまうのである。このときのちっこい観客連中(自分もその中)の拍手喝采はすごかったですね。怪獣映画や東映動画など、比較にならない盛り上がりでした。後年再見したくていろいろ探すと、アメリカでは1925年あたりから何度か映画化されているらしいのだが、当然日本で現物はほとんど確認できず、とにかくそのうち3本はいずれもハッピーエンドのストーリーと確認。ただ、どうも自分がそのとき観た映画は、アメリカ映画にしてはあんまり地味だったし(ビンボな田舎のガキが、ああ、ビンボな映画だと納得したくらいで)、ハッピーエンドの流れも違うようなので、他国の1本ではないかと。
とまあ、そうした流れが当たり前なので、最新ハリウッドとしてはそれを上回る超弩級のハッピー感を出そうと思えば、天国からの復活くらいは必要だったのだろう。しかし、いっぺん殺してまた復活という凶悪な畳みかけは、さすがに最新ハリウッド。
自分としては、当然その幼時記憶の、『なんとか間に合った!』感が、しっくりくる。生きてさえいれば、後がいくらでもあるもんね、ネロはまだ少年なのだから。死んだら泣かれておしまいだし。まあ、ラスト・サムライの歳までがんばったら、壮絶な昇天もまたひとつの成就なのだろうが。
話変わって、ああっ、だみだあ、手堅いだけの松野宏軌監督に、こんな重層的な脚本やらしちゃだみだあ、などと、取り乱して涙にくれる狸。あうあう、だみだあ、こんなとこに横山リエさん使っちゃだみだあ。――すみません。いや、本日の必殺再放送を、たった今夕飯のチャルメラを食いながら観てしまったのだが、こういったキャストやスタッフのミスマッチは、やっぱり制作側の勘違いなのだろうか。昨日ののどかな脚本を、松野さんがやればよかったのだ。で、今日の思いっきり複雑でかつ女の情念どろどろで重層的心理狙いの脚本は、蔵原監督あたりじゃないと、見せきるのは無理だ。横山リエさんからダイコン芝居以上の持ち味を引き出すのも、松野さんじゃ無理だ(自分もつくづく無礼なことばかり打ってるなあ)。しかし、おたくとしてはこう結論せざるを得ないのである。せめて赤座美代子さんあたりを持ってきて――いや、別の回のゲストでもう出てるか。あれはやっぱり蔵原さん担当だったよなあ。ぶつぶつ。――それほどに、ベルさんをめいっぱい使い切るはずの見せ場が、ATGの観念的失敗作みたいになってしまっていたのである。責任者出てこい。――たぶんもう他界されているとは思いますが。


3月8日 火  
再開

昨夜はもう12時前から、階上の生活音が響き始めたので、また何かあっても面倒なのでとっとと寝る。当然すぐには寝付かれず、枕元のラジカセでラジオ深夜便など聴いていると、これはもう立派な爺い生活だなあ、としみじみ。まあ民放局に合わせれば、受験生になったり深夜トラックの運ちゃん気分になったりできるのだが、再開した私物打鍵がお年寄りの語りメインなので、しばらくはこれで行こう。まだ昼型には体が完全適応しないのか、それとも単なる運動不足で眠りが浅いのか、とろとろ目覚めた真夜中に、昭和20年代のラジオ歌謡やらが細く流れ、階上の生活音がごとごと響いたりすると、気分はすっかりバーチャル隣の爺さん。まあごとんがたんくらいはまったく気にならない性質だし、茨城の前の群馬のアパートなどは隣の学生さんが派手にステレオ鳴らしたり酒盛りやったりしてくれたので、こっちも気兼ねなく夜中に風呂を浴びたり炊事したり屋上と行き来して夜景を撮ったりできて、かえって具合が良かった。さて、この都会では隣の爺さんどう出るかと愉しみにしていると、残念ながら階上に怒鳴り込む気配はない。やっぱり人を選んでストレス解消しているのか。まあ、それが平和でいいのだろう。世間では相変わらず見境なく刺したり切ったりして、静かで規則正しい刑務所を目指す人間が多いようだし。
さて昼飯タイム、本日のからくり人再放送は、西崎みどりさん(やっぱりかーいい。くれ。って、しつこいな自分も)がゲストで盲目の馬方娘など演じており、南野演出もいつもとはちょっと風合いの違った、水戸黄門風ののどかさ。シナリオは――ごひいき2時間ドラマシリーズ『京都妖怪地図』始め、必殺など時代劇でもどちらかというと人情派の保利吉紀さんだった。なるほど。
続いて録画ストックの、奈良のお水取りや三輪明宏さんの人間講座をチェック、この充実した気分を保ちたいので、今日はもうテレビには近づくまい。しかし、三輪さんはお年を召しても、やっぱり美しい。子供の頃、『黒蜥蜴』の舞台中継で魅了された頃の、神々しさは今も健在。ほんとうにあんな方が宗教団体でも興してくれたら、もう残りの生涯捧げてもいいんだがなあ。
私的打鍵物、まだちょっとだが区切りがついた分、板に上げてみることにする。さあ、この世ならぬマヨヒガで、死美人といっしょに踊ろうよ、みんな――なんて、素直に展開するはずがないのは、爺いの画策。


3月7日 月  
躁の昼、鬱の夜

本日の必殺からくり人再放送『荒井』編もたいへん美味。なんといっても古今亭志ん朝さんの、失血死しながら『抜け雀』を語る咄家、などという名人芸を見せてもらえるのは、この番組のこの回だけだろう(しかしこれで志ん朝さんの出番は、このシリーズではおしまい)。名脇役・浜村純さんの、珍しい渋い純悪役姿なども、拝めてしまったし。あの方も無慮数の映画やドラマで種々の老人姿をお見かけするが、なかなかあのタイプの重厚な悪役目線は見せていただけない。生涯脇役、といった趣の方だったが、唯一の主演映画『押繪と旅する男』の、ゴキブリまみれの静謐な遺体は、ちょっと他にない存在感だった。しかし、志ん朝さんも浜村さんも、すでに故人。こうなると自分もとっととあっち側に行ってそれらの方の芸の続きを観ているほうが幸福か、などとも思うのだが、ビデオもDVDも再放送もあることだし、第一同じあっち側に逝けるほどの人徳もない。
そうした意識でしみじみと、録画しておいた昨夜の『義経』など観ると、すっかり桃太郎の家来ゲット道中といったノリで、奥州行が素直に愉しめる。山場の元服シーンは、正直言って、やはりアイドルの隠し芸大会の域を出ていないと感じてしまったのだが、たとえばナンちゃんこと南原清隆氏の確実に進化してる面構えとか、愉しみどころがあちこちに。しかし主役は――おぼつかない口舌を聴きながらふと回想したのだが、たとえば『狼の紋章』でヤング・ウルフガイ犬神明をやった時代の志垣太郎さん、あの凛々しいナルシズムに満ちた悩めるアンチ・ヒーローぶりなど、今回の義経像にはジャストだっただろう。役者さんというものは、主役であれ脇であれ、臭い寸止めまでナルシズムを放出してくれるのが吉。まあ時代劇の主役の場合は、鼻をつまみたくなる寸前まで臭いくらいが大吉か。
とまあ明るい内は気分良好だったのだが、晩飯を食いながらやはり昨夜録画のNHK特集『東京大空襲』など観てしまい、慟哭と共に撃沈。ああ、こっちを先に観れば良かった。これでは今日は沈みっぱなしで寝ることになるではないか。番組としてはよく練られた貴重なドキュメントだったのだが――途中、今も生存されている方々へのスタッフ側の質問の、あまりの無神経さと惨さに、何度か唖然とする部分も。先週のお坊ちゃん義経の、母親に対する一見泣き場っぽい無神経さと同じで、相対している他者への感情移入が希薄で、ただ状況としての『泣き』だけ追っているとしか思えないのだ。炎の中で避難者がびっしり詰まり、互いに足の立つほうへ逃れようと地獄の生存競争を繰り広げる国民小学校のプールで九死に一生を得、後日同じプールの水底から、家で別れた妹の遺体が発見される――知らぬ間に自分が妹を殺してしまったのではないか――そんな老兄に向かって、「それをずっと悔やんでおられた?」などという言葉を無造作に畳みかけるのは、自分から見れば、悪鬼か白痴の言葉である。
世論調査で、ホリエモン支持が不支持を越えると知り、さらに暗鬱。確か五十嵐氏に聞いた話と記憶しているが、女流作家の田辺聖子さん、ありゃ、佐藤愛子さんだったかな(元ribbonの娘じゃないぞ)、とにかく辛口のおばさまが、「株式市況が、一般のニュースといっしょに流されるようになっちゃ、日本もおしまい」そんなことをおっしゃっていたそうだ。まさか現在の世論まで、「金で買えないものなんてあるわけないでしょう」などと、自己演出にしろ明言する思慮の不足した若者を、面白がって支持しているとは思いたくない。チャレンジ精神がどうのこうの、といった問題ではないし、欧米の合理主義自由主義資本主義どっぷりの記者さんたちが面白がっているような、旧社会打破といった単純な問題ではないのである。私的には、ニッポン放送がホリエモンのポケットに収まろうと、フジサンケイグループの傘下にとどまろうと、現在のマスコミになんの影響もないのは承知している。誰が面子を保ち旨い汁を吸うかだけの違いだ。問題なのは、金転がしは裏社会の仕事である、そんな『確信犯としての偽善』を大人が捨てた段階で、社会自体が『粋』を失ってしまうことなのである。
極端な話、あの東京大空襲にしろ、単純にあの青少年国家アメリカの立場から、あくまでも数値的・効率的に見れば、それはもう立派な戦略行動であり、その結果もお見事な戦果、作戦大成功なのである。当時の国家中枢のどちらが合理的だったかと言えば、これも明らかにアメリカであり、日本が不合理だ。土台、あんな戦争を日本から仕掛けてしまったこと自体、明治以降にすべての成熟した『粋』を旧弊な三等国家の『枷』として排除し、欧米諸国と同じ植民地支配側に立とうとした日本の、すでにスタートダッシュ段階で何周も遅れているのに気づけなかった、思い上がりの産物でもある。
『粋』こそが『枷』である、それは正しい。そして、『粋』を知らず『枷』をやたらとっぱずしたがるお若いのを、まあまあ、と押さえるのが大人の仕事のはずである。まあ大人がすでに『粋』なんぞより『金』の人ばかりだから、アメちゃんの尻尾を追うしかないのかも知れないが、自分としては『おたく』と『粋』には、大いに共通性があると考えていたり。やたら外に騒動振りまいて回るよりは、少なくとも平和。


3月6日 日  
バーチャル晩餐



この炬燵の上の状態が惨めであるか愉快であるかはさておいて、先頃のたれぱんだの逆さ吊り同様、ウケを狙ったわけではけしてなく、実際の本日のなりゆきである。隣駅まで散歩して、いつもの古本屋兼古物屋に入ったら、いつもの食玩の中に大量のまさに食玩が混じっており、面白がって旨そうなところを買ってしまったのある。並べたあとで、ダイソーで安い展示ケースも買っておけばよかった、そう後悔してももう遅く、これを並べたままその前でイワシの天ぷらや納豆の夕飯を食ったわけだが、いや、マジに使えます、これは。精神的になかなか臨場感たっぷり。その精神状態が、惨めであるか愉快であるかを深く追求しなければ。とはいえこんな物を買わずに、その1250円でなにか旨いものでも食っとけば、とも思うのだが、いいのである。食ってしまえばそれきりだが、これらの食玩は半永久的に保つのだから。
昨夜あたりから、ようやく私物打鍵を本格的に再開する。以前のようにかかりっきりは無理でも、なんとかコンスタントに繋げて行きたいものだ。


3月5日 土  
胎児のように眠りたい

通販でまた黴の匂いの資料ゲット。昭和42年の『臨海・林間学校ハンドブック』(校外学習研究会編)などという当時の先生向けの本と、昭和41年の『新・東京横浜300円味の店』、こちらはかの黒沢明監督のお師匠さん、山本嘉次郎監督が自ら脚で探した当時の味の穴場を紹介したもの。各店の地図が文字まで手書きのへたくそな略図だったりするのも、いかにも時代を思わせていい味。300円というのは、当時の週刊誌が60円くらいだったのを考えると、今時の東京グルメ価格に比較すればまだ安価で、ちょっと贅沢したい時の庶民価格、といったところか。まあ当時田舎の小学生で月の小遣いが200円か300円だった自分から見れば、当然手の届かない大人価格だが。
いずれも例の昭和レトロ田舎物件の資料的意味で探したのだが、実際は夜寝床で眺めながら丸くなって気持ちよく寝るための夜伽本でもある。それぞれ1000円、まあ高くはなかろう。
このところ新しい物にはなにかとケチばかりつけて、古い物ばかり追っているような気もする。人生の半分を越してしまうとこんなものか。温故知新などというありがたい言葉を言い訳に、日々白髪を増やす爺いなのであった。まあ古代エジプトの石板にも、「今時の若いもんはぶつぶつぶつ」やら「昔は良かったなあ」やらがしっかり刻まれているそうだし、無問題。さて、ラジオから流れる近頃のお念仏のリズムに乗ったボヤキっぽいPOPSは辛気くさいので、いにしえのメタルでも聴いて落ち着こう。


3月4日 金  
雪だ呪怨だ必殺だ(なんだそりゃ)

雛祭りを過ぎて今更の、このあたりでは珍しい本格的な雪。午後にはやんでしまうと言うので、わんわんと河川敷に。自分では猫的人間だと思っているのだが、雪を見るときゃんきゃん喜んでしまうのは犬っぽい気もする。お散歩老人も見あたらない雪霞の土手道を、東京湾方向にちょっと散歩。さすがに寒く、じきに街方向に転戦し、シネコンへ。もともと『呪怨』のハリウッド版を観るつもりだったのである。
なるほど、伽耶子さんはすっかり解りやすい偏執的ストーカーがまんま化けた設定で、地獄のこまったちゃん街道を邁進。清水監督にとって化ける側の意識設定はさほど重要ではなく、どう化けるかどう化けられるかがやっぱり本質だったのですね。しかしこの凶悪な畳み込みは、いかにも『死霊のはらわた』のライミ監督好みで、惚れ込まれるのもうなずける。
ライミ監督には私的にははらわた路線やダークマン街道を踏破していただきたかったのだが、もうすっかりスパイダーマンの大御所になってしまったなあ。
夜は録画しておいた新必殺からくり人の『日坂』編をチェック。村尾脚本南野演出、もうメロメロの哀切時代劇を堪能。やっぱりこうした老練のベテランは、様式的なご都合主義などきっちり人情の流れに融合させてしまうし、基礎教養が自分などの推定百億倍あるから、無粋なツッコミ意識に邪魔されず、安心して酔える。
自分もそろそろ私的打鍵を再開せねばと、途中中断中の馬鹿長田舎物のこれまでを再チェック、あちこちの誤謬や穴を埋める。しかしそうしているうちに、また冒頭だけ打っておいた踊る死美人なども「ちょいとこっちはどうなったのよ、あはん」などと囁くので、さっぱわやや。


3月3日 木  
好きこそものの上手なれとも限らない

昨夜、内職関係の外出から戻ると、隣の隣の部屋の風呂場から、水音やら若い男女の睦み合う声などが漏れていた。ここは今は学生さんだよなあ、いいなあ、青春にゃんにゃん真っ盛りなんだろうなあ、などと肩を落としつつ、あの狭い風呂場でどうやって背中の流しっこをするのか、純粋に物理的興味を抱く。以前私的打鍵物で同様のシーンを打ったとき、もちろん具体的想像など省略したが、まあかなり濃厚に密着してしまうのは確かだろう。幸いその風呂場は、構造的に爺さんの部屋の反対側に位置しているので、爺さんの耳には届かないはずだ。自分の部屋は不幸にして、水回り上、隣の風呂場と壁一枚なのである。したがって、夜半過ぎての入浴は厳禁。にゃんにゃんよりも、そっちのほうがうらやましい、糖尿気味の立ちの悪い自分であった。いいもんね。ジュラ期に雌の恐竜ちゃんと水浴びやりながら繁殖行為に及んだ原初記憶があるもんね。いざとなったら新小岩の駅裏があるもんね。三月に一回くらいなら予算あるもんね。――む、虚しい。円楽師匠の『宮戸川』を聴きながら寝る。ごろにゃん。
明けて本日はもう桃の節句。マルエツではしきりに明かりをつけましょぼんぼりにと昔ながらの児童合唱団のテープが流れっぱなしだったので、思わず桜餅などもカゴに入れてしまう。本来葉っぱは剥いて食べるらしいのだが、植物性繊維だって貴重なので、そのまま食ってしまう。ほんのり塩味の桜の葉っぱは、なかなかノスタルジックで吉。
那須博之監督がいつのまにか死去されている。享年53歳――まだ若いのに。以前にここでちらりと悪口を書いてしまった『地獄堂霊界通信』の監督さんだったので、気になってフィルモグラフィーを覗かせていただくと――あう、他にも何本か観ていたにもかかわらず、まったく監督の名前は記憶になかった。『セーラー服 百合族』『紳士同盟』『右曲りのダンディー』――巷で大人気だったらしい『ビーバップ・ハイスクール』路線や噂の遺作『デビルマン』は観ていないが、自分がせっせと日活ロマンポルノをチェックしていた頃からすでに一本立ちしていた、東大卒の正規ルート監督さんだったのだ。しかし、一度もお名前を記憶に残そうとしたことがなかった。亡くなられた方を悪くは言いたくないのだが、なぜこのレズビアン素材でこれほどのめり込めない映画ができてしまうのか、小林信彦さんの原作からなぜこんなコクのない映画ができてしまうのか、それなりに面白い原作漫画と玉置浩二さんという主役を得ながらなぜ10分で退屈して寝てしまうのか、そんなふうに思った映画ばかりだったのである。それでも一本立ちして21年の間に、コンスタントにアイドル映画やコミック映画化を主に、娯楽路線タイトルを26本もこなしていらっしゃる――職人監督として、信用があったのだろう。自分にはただの動くフィルム映像と見えていたものも、アイドルさんを観に来た観客には、かえって妙な邪魔が入らず、快適だったのかも知れない。しかし――やっぱり遅れて来てしまった人なんだろうなあ。にっかつ正規ルート社員監督としては、ギリギリ駆け込み状態だったろうし、ロマンポルノ路線すら下火に向かう一方の時期では、じきにフリーにならざるを得なかったろうし。
たとえばさらに過去、往年の邦画全盛期の売れっ子監督、しかし今となっては風俗資料的価値しか認められない数多の社員監督さんたちのプログラム・ピクチャーを今日観直してみると、意外にもけっこう飽きさせず、それなりに統一感のある作劇がされているのが判る。つまりこれは、当時の撮影所という環境自体が熟練職人スタッフの集団であり、メンバーはほぼ固定化されチームとして流れていた、よって監督さんはそのチームを合理的に動かせれば、ある程度の完成度は保証されていた時代だったのだろう。しかし現代は、正規の映画会社撮影所社員スタッフという概念は、東映太秦などごく少数を除き、ほぼ失われてしまっている。ほとんどそのつど招集されるフリーランスの集団作業で、映画の匙加減は(ひところ話題性を狙ってよくあった助監督任せの名誉監督をのぞけば)監督しだいだ。まあその環境が、東大や芸大を出ていなくとも、自主映画出身のイキのいい監督さんを生み出したりもするのだけれど、匙加減を誤ると、プロの商業作品のはずなのに完成度とは無縁の作品ができてしまう。まあ、客が入ればオールOKという意味では、今も昔も同じなんだろうが。


3月2日 水  
なぐりあい宇宙《そら》

ニュースによると、『中学生同士がルールを決めて1対1で殴り合いをしたとして、警視庁非行集団特別捜査隊などは2日までに、決闘と傷害の疑いで東京都国立市内の中学3年の男子生徒3人(いずれも15歳)と同じ中学を卒業した大工(16)ら計5人を逮捕、中学3年の男子(15)を書類送検した。「決闘罪」の適用は全国では2002年以来3年ぶり、警視庁では6年ぶりとなる。』のだそうだ。おやおや、他人を巻き込まない合意の上でのタイマンも、逮捕対象なのか。まあ他の血気盛んな少年たちへの見せしめでもあるのだろうが。そのわりに、他人を巻き込む方向の犯罪の追求は、相変わらず甘いわなあ。追求の楽な方から片づけるのもひとつの良識だが、そっちで手一杯などという事にはならないでほしいものだ。
このところテレビ東京で、毎日『新必殺からくり人 東海道五十三次殺し旅』の再放送をやってくれている。このシリーズは、必殺シリーズの中では地味な趣向が多いが、そのぶんベテラン工藤栄一監督や蔵原惟繕監督が、とてもきめの細かい演出を見せてくれる。後半は確か松野宏軌監督とかが手堅くやってくれて、トリは自分ごひいき森崎東監督が、必殺シリーズ初参加となるはずだ。ああ、そうか。テレビ作品監督と劇場用助監督を行ったり来たりのあまり目立たない南野梅雄さんも、本格的に張り切ってくれていたような記憶もある。いずれにせよ、山田五十鈴さんを筆頭に(藤田まことさんは出ません)芸達者なレギュラー陣、毎回奮闘してくれる実力派ゲスト陣の芝居を観ているだけで、言っちゃあなんだが『義経』の演技・演出の大半が学芸会に見えてしまう本格派。しかしなんといっても、当時すでに60歳近かったはずのベルさんの、アップに耐えうる妖艶なまなざしと、種々の粋な芸や喉が毎回楽しめる。衛星放送ともケーブルとも縁のない身としては、ありがたい限り。


3月1日 火  
巨大ネズミの逆襲

朝起きてなんにも食う物がないので駅前のスーパーに出ると、隣の爺さんに接近遭遇。「あれはやっぱり自分の勘違いだったらしい。すまんすまん」調で、あっさり和解。こう出られるともうすっかり納得してにこにこ「いやこちらこそ」と頭を下げ、でもやっぱり夜間の激昂はお年寄りのストレスを倍加させて本当のアルツ初期だとアレだから、せいぜいおとなしくしてあげようと思う偽善的自分がとってもかわいい。
古本屋で、久しぶりに書物購入。稲垣美晴さんという方の『フィンランド語は猫の言葉』という、とてもチャーミングな留学記。ムーミンのトーベ・ヤンソンさんは、フィンランドでも確かスエーデン語圏の方だったよなあ、と思いつつ、やっぱり日本の方、それも若い女性(当時)の、その国での根性の入った留学記は、興味しんしん。
帰ってイカ天玉ソバをすすりながら、録画しておいたあれこれを眺めていると、清水崇監督という方は、一見オタクっぽく見えながら、きわめて臨機応変の実務的な方のようだ。理屈や理想ではなく、実務的に自分のお化け屋敷を建てているの感。屋敷の構造的つじつまよりも、その部屋に迷い込んだ時点でどう怖がらせるか、ですね。納得して、ハリウッド版『呪怨』も、観てみようと思う。
別のニュース番組の録画で、例の巨大ネズミ・ヌートリアが、マジに繁殖して農地を荒らしまくりと知る。お百姓さんたちの捕獲シーンもあったが――欲しい。飼うのではなく、太股を焼いて食いたい。だって椎名誠さんが、旨いと言っていたではないか。草食動物だから、犬や猫よりは絶対旨いはずだ。まあワンちゃん猫ちゃんを焼いて食った事はまだないので、断言はできないが。河原生活者になっても、猫ちゃんだけは食わないぞ。ワンちゃんは――赤系だと旨いそうだ。


2月28日 月  
虚構という愉しみ

種々の穴があっても、愉しい嘘の時を過ごさせてくれる、お若い方々のエンタメがある。近頃は、それでいいと思う。自分が中学時代に書き散らしたホラ話を読み返したりしてしまうと、現代のメディアの多彩さに恵まれたぶん、それらのホラ話(けして悪い意味でなく)は、昔の自分のホラなどより、よほど巧みだ。ベースとしての「仮想の愉しみ」は、負けていないと思うのだが。
一方で早熟な青年諸氏は、整った手腕で、種々の深みのある仮想を愉しませてくれる。これまた大学時代の自分などより、遙かに優れていると言ってよい。
そしてまた、末恐ろしい描写力や構築力を発揮し始めている、推定エンタメの申し子のような高校生さんもいる。
ただちょっと困ってしまうのは、異様なほど描写力に優れつつ、フィクションというものの本質をベース時点で見いだせずに構築してしまう、歯がゆい若者も存在することだ。
ファンタジーであれ私小説であれ世話物であれ、始めから根の抜けた設定である限り、どんな巧みな描写を費やしても、それは残念ながら反古にしかならない。たとえば「1プラス1は2」と言うだけでも、その「1」を設定できなければ、「2」は誤答なのである。「1」を設定できれば、それをふたつ合わせれば「2」が当然生じる。それを本能的に会得していれば、描写力や文章力や構成力に穴があっても、他人を納得させることは可能だ。「1」をあたかも「1」のように見せかけた「2」に設定すれば、「1プラス1は4」となり、それこそが「虚偽の愉しみ」の本格的な始まり。
しかし往々にして、早く字を覚えた人間が結句悪筆になりがちなように、恐らく幼い頃から文章的表現力に秀ですぎて、「2」のための「1」を設定せずに、力任せに「2」と言い切ろうとする癖を持ってしまう若者もいる。当然、整った巧みな文体と構成力を備えた、しかし虚構としてもドキュメントとしても成立しない、反古の山ができてしまう。しかし感想を訊ねられもしないのに、いきなり「それは反古だ」と純な若者に向かって口にする度胸は、自分にはまだない。
望むらくは若者たちの交流の中で、それを悟ることができますように。書くだけでなく貪り読むことによって、無から「1」への羽化を遂げられますように。どうもそうしたタイプの早熟児は、他の方の作には感想を入れない傾向があるようなので。大切なのは知能でも自分だけの心でもなく、連関なのだ。そこが現実であれ虚構であれ。たとえば身障者の母子を設定して虚構を構築するならば、自分の想像だけでもっともらしく百万言費やしても、実際の身障者の母子を知ろうとしない限り、ただの反古しか生じないのである。


2月27日 日  
祝・ご帰還

おう、例の投稿板の一件は、かえってかつての常連様たちの危機感を煽ったのだろうか。精神世界の客観化派のお若い方々が、久々に投稿されている。自分はまあ純エンタメ派に近い訳だけれど、やっぱり仮想は精神・五感の土台を固めないと、エンタメとして昇華されない気がする。その仮想世界の全てを把握している、いや、しようとすることが、純文学であれエンタメであれ、やっぱり土台だろう。
ああ、自分も日々の食い扶持漁りだけでなく、己印の仮想も再会せねば、などと反省しつつ、チャルメラの湯を沸かしテレビのスイッチを入れようとしている怠惰な自分なのであった。風呂まで沸かして、あとはもう寝るだけなんだよなあ。爺さん怖いし、喉痛いし。
さて、チャルメラはいつものように美味だったのだが――困った。『義経』が壊れていく。常盤との別れのシーンが、正気のシナリオとは思えないのである。もし今回の義経が、かねてより自分の頭の中にあったような猪突猛進型のヒーローなら、まああの母親の肺腑を惨たらしく抉り回すような台詞も、直情的行動としてアリだろう。しかし今回の変格義経は、ずっと歯がゆいほどの悩める青少年キャラであり、これからもその路線で行くのかどうかは知らないが、少なくとも今回まではそうだったはずだ。だとすれば、あの場であの発言では、ただの育ちのいい無神経なお坊ちゃまであり、多数の人の心など掌握できる器ではない。まあそうした心理的な部分は、ライターや黛さんが泣き場に気を取られて鈍っただけにしろ、屋敷に入る時は仲間がわざわざ騒動を起こして衛兵たちをどけておいて、帰る時には無人の裏口から、のんびりと母の笛を聴きながらって――誰か「このシナリオ、変」と言う人間はいなかったのだろうか。泣き場としての確信犯的道具立てなら、これはすでに視聴者をナメているとしか思えないのだが。


2月26日 土  
再犯率

おう、私もずいぶんいいかげんなデータを引っ張っておりました。
以前ここに記してしまった、下半身系の犯罪者が改心する確率は、そんなに低くないと言うデータもありました。詳細はhttp://macska.org/meg/recidivism.htmlをご覧ください(しかしそこの記述に、同じ人間がくりかえし服役した場合、再犯者率は上がるが再犯率は上がらないという意の文脈があるのだが、それは確かに加害者の頭数は変わらないだろうが、被害者は確実に増えているわけだよなあ。そっちのほうがよほど問題)。また昨今の調査でも、『「強制わいせつ・同致死傷」の罪で服役し、2001年中に刑務所から出所した者のうち、8・3%が03年末までに同じ罪で再び入所、警察庁分類の殺人など「重要犯罪」の中で再犯率が最も高いことが24日、法務省の全国統計で分かった。政府は子どもを狙った性犯罪者について、法務省から警察庁へ出所者の居住地などの情報を提供することで合意しているが、再犯の実態をさらに詳しく分析した上で、ほかの性犯罪者や放火などへの拡大も検討する方針だ。統計によると、01年の強制わいせつ・同致死傷の出所者は242人で、このうち20人が同じ罪で再入所した。別の性犯罪では「強姦・同致死傷」が450人のうち13人が再び刑務所に入り、再犯率は2・9%、「強盗強姦・同致死」は43人のうち1人で2・3%だった。(共同通信)2月25日2時28分更新』など、種々のデータが出ているようです。
しかしいずれにせよこのところ短期間内の再犯率なので、現時点では明確な指標になりそうにない。今まで確固とした長期的データを取っていなかった事自体、お巡りさん達、口で言うほど気にしていなかったのではないか。大体、他の犯罪者と比較するにしても、たとえば殺人という括りなど犯意が広義すぎてなんの比較にもならないし、窃盗や強盗といった、それによって生計をたてている人間の多い犯罪も単純に比較はできないし、傷害だってシャブだって、ある種の職業(?)の人間にとってはそれが生きるたつきだったりする。対して性犯罪や放火はどう考えても大半『快楽犯』だからなあ。やっぱり個人的には差別させていただくしかない。
さて、このところ極めて規則正しい生活を送っているにもかかわらず、例の喉と微熱がまたちょっと。頭痛も若干。やっぱり持病持ちにとって、摂生・不摂生はあんまり関係ないらしい。


2月25日 金  爺いと婆あ

石原都知事が何年か前にやらかした「ババア」発言で、都内の女性131人が石原知事に約1440万円の損害賠償と謝罪広告を求めた訴訟は、とりあえず請求棄却となったようである。まあ妥当な線だろう。自分の立腹が公的断罪に直結すると思いこんでしまうのは、性別年齢を問わず、ただの勘違い。しかしまあ石原知事も、不特定多数の人間と直に接する機会のなかった育ちの良い方なので、机上の知識で物を言う傾向が強いのはちょっと政治家としては弱い気もする。
爺いと婆あのどちらに人間としての難点が多いかと言えば、生物としての生殖能力などとは無関係に、爺いのほうが圧倒的に多いと思います。社会的に、という意味で。不特定多数の人間と直に接する職業を長く経験すると判りますが、男という奴は、年齢を重ねるに従って、確実に「いてほしい」男と「いないほうがいい」男の差が、大きくなって行きます。個人的にではなく、あくまでも社会的にですよ、念のため。これは地位とか財産とか知識量とか社会的実績とは無関係に、「広くなって行く男」と「狭くなって行く男」に大別されるからですね。「深くなって行く男」と、「浅くなって行く男」と、言い換えてもよろしい。いるんだ、これが。すごい肩書きでどんなに偉い人かと思って相手をすると、すでに脳が硬化して見境なくエバり散らすしか能のない爺いが。一方で、下町のボロ・アパートで細々と年金生活送っていながら、生き仏様のような老人もいる。で、仏様のような金満老人もいれば、早めに旅立っていただきたい腐敗寸前の貧しく歪んだ爺いも多い。
それでは女性は――これはもう、都知事の言う閉経など、生物学的にどうであれ、社会的には些末事でしょう。年齢状況にかかわりなく、理屈より本能優先というのは、母性として不可欠な要素ですので。
で、私としての現時点での結論は、この世にあって始末に負えない人間は、熟年から晩年にかけての男性に多い。奇妙なまでに自信過剰で、自分が「狭く」「浅く」なりつつあるのを自覚できない。まだ「広くなろう」「深くなろう」という自覚のない一部の少年や青年よりも、自信がある分だけ始末に負えない。女性は年齢に関わりなく、精神的疾患としてのヒステリー様を呈している状態だと有害で殺意すら覚えますが、それ以外の時は、幼児からお婆ちゃんまでほとんど快でした。
今朝の朝日新聞の天声人語は、なかなか渋くて良。ライブドアとフジの、ニッポン放送株合戦を、獅子文六さんの『大番』と絡めたエッセイですね。まあギューちゃんと堀江社長は、外見はなんとなく重なる気もするが、「世の中に金で買えないものなんて、あるわけないじゃないですか」などと公衆の面前で発言された以上、妄想狂あるいは確信犯の犯罪者予備軍なので、内面的には推定百億光年の差異がある訳ですが。まあ一度発せられてしまった言葉というものは、解釈など人の好き好きだから、『大番』のシャレた金言「人の行く裏に道あり花の山」ですら、闇金や振り込め詐欺のスローガンにもなりかねない訳で。まあ自ら「狭く」「浅く」を志してしまった場合、言語感覚など期待できるものではないし。
――えーと、すみません。なんだかクレーム処理してた時の自分の気分だけでキー打ってるなあ。ああ、自分、腐敗寸前の男そのものだわなあ。まあそのうち死にます。ごめんなさい。


2月24日 木  時の過ぎ行くままに

朝飯を食いながら(夜寝て朝起きる生活だと、そういうものをつい食べてしまうので、金もないのに困ったものである)、録画しておいた『いい旅夢気分』の、ドラえもん声優さんトリオの北国旅行を観る。大山さん小原さん野村さん、そろって今春交替してしまうのですね。その記念旅行のような趣向。元気なおばさまたちの仲良しぶりを見ていると、人生に活が入るようだ。実はドラえもんですらそう昔からのものとは実感できない、オバQ世代の自分なのだけれど。でも25年不動であったキャストがついに交替というのは、さすがにしみじみ感ずるところがあったり。
そもそもサザエさんのカツオが、いつのまにか高橋さんから富永みーなさんにチェンジしていたことなども、ごく最近知って驚いていたりする、今浦島状態。おうおう、あのラスカルでデビューした女の子が、ちょっと前はパトレイバーでいいお嬢ちゃんになったと思うとったら、もうそんな国民番組の大役にのう、げほっげほっ、ワシももう長くはないのう。などといいつつ、大山さんたちが元気に食べる北国の山の幸海の幸によだれを垂れ流しながら、イワシの缶詰を乗せたソバをすする。負けないぞ。
本日は午前中図書館へ。しばらく前にテレビで観た小磯良平さんの油絵が妙に心に引っかかって、市立図書館なら画集があるだろうと思ったのだが、なんと素描集しか見つからず。まあ市役所所在駅のまわりが飲み屋ばっかりという土地柄だから、そんなものだろう。
図書館からホームセンターに回り、椅子を買う。20年近く座り続けてきた椅子のキャスターやら背もたれやらの合成樹脂部分が、マジに劣化して、崩壊し始めてしまった。思えば初めて店長とやらに上がって、そのかわり群馬の片田舎に赴任したとき、いつまでも学生時代の学習椅子に座っている身分でもあるまいなどと調子こいて、4万も出して買ってしまった思い出の椅子である。まあ当時まともな微調整の利く肘付OA椅子を買おうと思えば、仕方のない出費だったのだが。さすがにそれまで長時間書き物するとギシギシ言っていた腰が、それきり痛まなくなり、なるほど高いだけのことはあると感心したものだ。
さて新しい椅子は、懐具合の退化のため、税込みでもその4分の1以下のお値段。それでも人間工学が進化しデフレ万歳の昨今、座り心地は案外悪くない。ただひとつの誤算は、座高の調節範囲が、昔とずいぶん変わっている点。低めが好きな自分としては、思ったより低くできないのである。一番下げても、あと2センチ低くできたらなあ、そんな高度。その代わり一番上げてみると、もはやファミレスのお子様椅子に座っている坊ちゃん嬢ちゃんのような、爪先ぶらぶら状態。おいおい、欧米人用じゃないだろうなこれ、などと首をひねるまでもなく、己の座高と日本人平均座高に、すでにそれだけの差が生じているらしいのであった。これでも身長は172あるんだけどなあ、座高は言わないけど、ぶつぶつ。


2月22日 火  昔の名前で出ています

おう、爺さん、ごめん。ちゃんと覚えてるのね。今日も顔を合わせてしまい、「何時頃寝た?」などとチェックを入れるので、もう夜中前に寝てますよと答えると、納得した様子。おめーのためだよ、などと思っても口にできない小動物のように気弱な自分が、とってもかわいい。昨夜は確かに午前3時頃に階上から足音やら襖の開け閉めなどの音が聞こえたので(といっても、普通ならとうてい苦情の元などにはならない生活音だが)、念のため爺さんに言ってみると、「あそこは飲み屋をやってて、帰ってくるのがその時間だからなあ」などとうなずいている。おう、惚けてるというより、どうも自分は管理人に勝る、このアパートの主だと心得ているらしい。なまねこなまねこ。まあ、いいんじゃないでしょうか。それだけをよすがに、ここで末期の水も飲むのでしょうから。しかしこういうのが住み着いている場合、不動産屋ではひとことあるべきなのではないか。自分が入居する以前だって、同じような状況だったはずだろうに。ジャスト隣に入居してしまうのがちょっとおかしいのだったりすると、爺さん刺されるぞ。まあ、その飲み屋の部屋とやらに怒鳴り込んだ様子はないので、気の弱そうな人間だけ選んで怒鳴りつけているのだろう。60過ぎてそうした性格だと、死ぬまでそうした性格なんだろうなあ。誰も仲良くしてくれない場合、反撃できないタイプを見定めて攻撃すると言うのは、子供でも老人でも、ありがちなパターン。まあこっちもこの前は居直って見せたから、攻撃の手はゆるむだろう。いや、やっぱりちょいボケの可能性もあるから、夜中は用心。
さて、投稿板の管理人さんの細かい調査によると、どうも自分は赤の他人のHPの掲示板に、名残を惜しむカキコをしてしまったらしい。ただ、そのHPの主もこの事態をどう見ているのか不明で、やっぱり盗作ではなく種々の名前と経歴を使っているのか、あるいはそのHPの主が承知の上で作品を貸したのか――まあどんな推測をしても、確証は得られない。自分が脚色してこの事態をドラマにするとすれば、もともと○ズー氏と砂○桜氏(嬢?)が、ふたり合わせて○丸氏であった、そんな形に収めるだろう。しかし管理人さんの調査にちょこっとあったが、砂○桜さん名義の本文なしカキコの発信元が○○○○○さんと同じ? おう、ということは○○○○○さんが実は砂○桜氏(嬢?)の可能性も。これはなかなか面白くなってきた、などと無責任に面白がっていてはいけないのだが。まあ風やアラシ版あやかまで絡んでいないのは確かなんだろうなあ。
さて、ここをごらんいただいているごく少数の方々に、念のため改めて自己紹介など。掲示板系ではどこに行ってもバニラダヌキのバニラダヌキです。爺いと自称してしまう癖がありますが、まだなんとかおっさんくらいの年齢です。HP開設以来、いやしい売名行為根性でお邪魔してしまったロリ系絵師の方々の掲示板でも(ごめんなさい。でも、ほんとにファンで、いい歳こいて同人誌も買いあさってますので、ごかんべんを)、またロリ系画像貼り付け板に一時期ハマっていたのも(ごめんなさい。あいかわらず一部有料少女系サイトには行っているのですが、著作権意識に目覚めてしまい、垂れ流しはやめました)同じバニラダヌキです。そして相互交流を目的とせず、ただ発表しっぱなしの小説系ページでは、沖之司拡です。この名前は昔のお仲間もご存じないでしょうが、もっと昔、まだワープロも存在しなかった頃の、シャーペン・ネーム(?)だったり。そしてそのシャーペン・ネームにちょっと語感の似ている本名は――ごめんなさい、昔のお仲間はご存じでしょうが、さすがに母や姉一家が石をぶつけられたりしてもなんなので、ネットでは内緒です。
ああ、もうひとつのいわゆる正式なペンネームが、一次選考通過発表に載ったりする日は、生涯来ないのだろうなあ。


2月21日 月  老いも若きも

さてなんだか今話題になっている女性タレントさんの万引告白の番組、ここでも再三書いたような気がするが、もうテレビという大人であるべきメディア自体が、内的世界と外的世界の区別を失っている典型的な例なんだろうなあ。これだもの、日本人の老いも若きも大好きな『みんなやってる』で、万引きなど減るはずがない。
一度でも商売に関わった事のある人間なら、盗まれてしまう事の現実的な痛みが体で理解できると思うが、この薄利の時代、たとえば300円のフィルム一本盗まれた損失を埋めるのに、いったい何十本フィルムを売らなければならないか、そんなごく単純な生活上の痛みなのである。そのあたりのごく単純な理屈を、盗む方々には解っていただきたい。300円のフィルムを一本盗む事は、視点を変えればバイト君の半日分の給料をかっぱらって逃げる事と同じで、つまり『みんなやってる』程度の感覚でそれをやる人間は、結果的に彼らが軽蔑しているであろう不良のカツアゲと、同じ事をやっているのだ。
しかし好奇心からそのタレントさんの名前を知りたいと思ったのだが、未成年でもないのにYAHOO上からきれいさっぱりお名前が消えており、他のプロバイダーの検索で確認。ありゃりゃ、YAHOOさん、堀プロさんと仲良し? などとあちこち覗いてみたら、他にも堀プロさんと仲のいいプロバイダーだらけのようだ。わはははは、なるほど、これはテレビに限らず、あっちこっち小学校低学年。
関係ないが、民放で高○クリ○ックのCMを見せられるたびに、あそこも小学生が医者で小学生の患者が集まるのだろうなあ、などと思ってしまうのは自分だけだろうか。院長先生や○ひろみ氏は、義務教育を済ませているのだろうか。あのエグゼクティブ像は、どう見てもコミックですらなく、いにしえの幼年漫画に出てくるキャラだよなあ。
隣の爺さんはいよいよおかしくなったらしく、昨夜午前2時に襲来。うるさいのだそうだ。まあうっかり夜中までまた起きていた自分にもスキはあったのだろうが、机に向かってマウスをぐりぐりしていただけなのである。いったいどんな音がするのかと問うと、どん、とか、ずん、とか響くと怒鳴る。夜中に玄関口でどなりまくる爺さんの胴間声のほうが、よほど響くと思うのだが。さすがに、それはうちの音ではないと言うと、「とにかくうるさいんだよ。警察呼ぶぞ」だそうだ。さすがにお手上げで「呼んでください」と言うと、悪態をつきながら引き上げる。その後、別の部屋の住人と何か言い合う声も聞こえたので、そっちでもやっているのだろう。ところが、これが今日の昼間に顔を合わせると――普通に挨拶を返すんですね。これは一年半くらい前の、我が母親と同じパターンになりつつあるのではないか。昼間はまあ同じことばかり繰り返すにしろ、機嫌は悪くないのである。これが夜が更けるに従って被害妄想に陥り、金が盗まれたとあちこち電話をかけたり、我が母親の口から発せられるとは信じられないような身内の悪口雑言を際限なく吐きまくったり。でも、やはり次の朝には忘れている。
ふと、以前観た『呪怨』のパロを着想する。最初のエピソードに出てきたアルツ老婆が、あの無気力症状でなく狂騒症状で、伽耶子を罵倒したおし泣かせてしまうとか。これは夜間なら成立します。死者の怨念など、生者の被害妄想の敵ではない。


2月20日 日  これがスパムか

そろそろ備蓄の食糧が尽きる。しかし買い物に出るのは面倒だ。そもそも金がない。そんなこんなで、だいぶ以前に好物のサーターアンダギーといっしょに沖縄から通販で送ってもらった、噂のスパムの缶詰に手を出す。100年でも200年でももつというので、非常用に残しておいたものである。
スパムといえば、モンティ・パイソンのスパム・レストランのコント。あの怨念に満ちた反スパム・ギャグを見たのはまだ故郷にいた少年時代で、当時山形にはスパムが存在せず、いったいどんな不味い物なのだろうと、昔から憧れて(?)いたのだ。しかしまあ昔から米軍の軍事食だったそうだし、沖縄では日常食として親しまれていると言うから、けっこう旨いのではあるまいかと思っていたのだが――じぬがどおぼいばじだよわだじは。不味い旨いではなく、とにかくしょっぱいのである。
これでも北の山国で、日本中ビンボな時代に幼年期を過ごしている。塩の塊のようなシャケやメザシから、そこはかとない魚の残り香を味わいつつ育った身である。生鮮物保存のために使用される、大概の塩の量には驚かない。しかし、塩の中の肉の残り香には、まったく耐性がない。沖縄とは正反対の気候風土で育っているからか。でも、中身汁とかヤギ汁は、こってりしているようで案外さっぱりと旨かったがなあ。
それでも食いきる。今となっては貴重な動物蛋白源を捨てるわけにはいかない。玄米茶だけでは正気に戻れず、特売のフランス生まれとかいう苦いだけの粉コーヒーをすすり、それでも舌が納得せず、姉に送ってもらったはごろもの朝のミックス・フルーツという缶詰まで、手を付けてしまう。こちらは子供の頃の人工甘味料まみれのフルーツ缶とは一変し、お上品な甘みで汁まで飲める。時代の変遷と、時代を超越した伝統を、同時に味わった午餐であった。
うう、こうして打っている間にも、スパム味のゲップが。でももし万一、沖縄の方が読んでいらっしゃったら、すみません。お気を悪くしないでくださいね。小学校に上がるまで、イカという海の生き物は、スルメ状の堅い生物だと思っていたような山の人間の戯言ですので。お怒りでしたら、イナゴの佃煮をお送りしますので、ご賞味ください。これはその家その家の貧富の差などによってご馳走から拷問にまで変化する、奥の深い郷土料理です。つまりお砂糖とお醤油などたっぷり使用できる家では香ばしく美味で、たんぼでイナゴは採れるがお砂糖やお醤油はあまり余裕がない、そんな家ではほとんどバッタを炒めただけの味という。などといいつつ、今は故郷でも、そんな代物は食べないのだろうなあ。そもそも原料のイナゴが、もう採れないし。今ならさしずめ、カルシウムたっぷりの高蛋白栄養補助食品。
お亡くなりになられた岡本喜八監督は、なんと山田風太郎さんの『幻燈辻馬車』の映画化を準備中で、仲代さんや緒形さんの出演も決まっていたらしい。うああああ、観たかった。観たかったよう。


2月19日 土  人生いろいろ  

ああ、岡本喜八さんも逝かれてしまった。独立愚連隊その他諸々の、邦画全盛期の異色作、そして晩年まで己印の活きのいい『個人』たちのドラマ、本当にありがとうございました。
さて楽しみにしていたTBSのスペシャルオリンピックスのドキュメンタリー、取材対象の参加者の若者たちには重々敬意を表しつつ、頻繁にはさまる金八先生の自画自賛CMに耐えきれず途中で鑑賞放棄してしまいました。アスリートさんたちに失礼だと思わないか制作スタッフ、ということで。『TBSがどんなに障害者さんたちのことを真剣に考えてドラマを作っているか』を観たいのではなく、参加者さん達の姿を通して『どう考えているか』を語るドキュメンタリーが観たかったのです。TBSのドラマ制作心得なんぞ、なんの興味もありません。
さて、投稿板の方の引退話は、なんか自分の知らないうちに、盗作問題まで絡んでいたようだ。もしそれが本当に盗作問題だったとしたら、自分は赤の他人の方のHPに、見当違いのカキコをしてしまった事になる。当事者様におかれましては不明瞭なまま退陣せず、ぜひ明瞭な説明を残していただきたい。別に年齢性別出身地居住地の詐称などというレベルの問題なら、ネット世界ではどうでもいいではないですか。現実の出版界にだって、年齢不詳性別不肖住所不定の方など、いくらでもおりますし。(本音を言うと、東京の男性よりも地方の若い女性の方のほうが嬉しいな。いや、逆でもかまわないんですが。)
そんなこんなのあれこれとは無関係に、ようやく馬鹿長打鍵物の展開も煮詰まりそうで、次章は戦場をかき氷の出前に駆ける花子を大トリにしてみようか、などと着想。でもやっぱり村祭り襲撃編が先か。ううむ、ごく一部の方にしか判らない優柔不断。


2月18日 金  喫煙者とアイドリング

やっぱり朝に起きて夜寝るというのは、健康的らしい。内職ははかどり、私物打鍵の必要性を感じない。しかしこれでは、定職放棄した意味が失われているのよなあ。はたして自分という個体はいつまで自分でいられるのか、そんな疑問から、自分の脳内世界を制御できるうちにしたためておこう、そんな意味合いで始めた生活なのに、これだと在職中と変わらないような気も。
夕飯時、久方ぶりに『吸血鬼ゴケミドロ』など観る。幼い頃は怪奇SF、ちょっと前まではゲテモノ扱い、しかし現在となっては、この過剰なまでの人間不信と社会不信は、痛烈にリアルだ。巷にはゴケミドロ級の被憑依者が、日々他人の血をすすっているのだし。
風呂でラジオのニュースを聞いていると、京都議定書うんぬんの特集。なんだかしゅんとしてしまい、こうして毎日風呂を沸かすのは地球に優しくないのではないか、などと反省したり。しかしノン・アイドリング車という奴、なんで全然普及しないのだろう。燃費だっていいし、再発進だって問題ないというではないか。車のCMでは、最も厳しい基準をクリア、地球に優しい車、などと盛んに謳っているが、あくまでも法規内に収まっているだけであって、薄まった毒を排出しているという事実に変わりはないのである。全ての車種にノン・アイドリング機能を義務づけるとか、新築の家屋には太陽発電パネル設置を義務づけるとか、方法はいくらでもありそうな気がするが、無論そんな票離れしそうな懸案を、持ち出す政府もないだろう。
しかしまあ、昨今は条例が厳しく街角で一服もできないというのに、その横の交差点では、ドライバーたった一人をごく短距離運搬するためだけの自家用車が、大量にアイドリング中なのである。煙草は吸っちゃいかんが、排ガスは我慢して吸えという事である。はい、了解しました。羊のごとく従いますので、くれぐれも煙草の全面販売禁止などには走らないでくださいね。5キロ以内の自家用車使用禁止条例でも徹底していただければ、我慢してもいいですけど。あ、非常時はかまいません。それから、煙草の代わりに大麻を販売してくれてもいいです。喫煙・副流煙被害をガンガン証明する有象無象のデータが、日々増殖しているようですが、大麻の安全性は、医学的にもっと明確に証明されておりますので。でも、全然別物のシャブと大麻をいっしょくたに扱っている社会に、排ガスと煙草の区別など、つくはずないか。まあ自分の知人も大半車持ちだし、車がなければ生きていけない山国なども沢山あるので、無茶は言いません。ただ、俺はいいけどお前は駄目ってのは、間尺に合わないと思うだけです。
続くニュースでは、どこかのお役所の職員さんが、酒気帯び運転で一年間の停職。妙に厳しいなと思ったら、以前死亡事故まで起こしていたという。いっぺん死亡事故を起こした人間が、また酒を飲んで運転するというのは、明らかに殺人未遂だと思うのだが、ほんとに公務員というのは組合が強い。ここまでやっても、懲戒免職にならない。当然多額の退職金も温存。
まあ自分の父親も地方公務員だったし、その遺族年金のおかげでアルツの母親も立派な施設にいられるのだから、組合・共済さんありがとう、と言うしかないのだが。でも、本当ならうちの父親ほどまじめに定年まで勤め上げれば、名目だけでも部長あたりまで上がって、もっと退職金も年金ももらえたはずなんですが。それがなんで課長止まりだったか――真面目過ぎたのである。一時は県立病院の薬務を掌握していたのだから、法に触れない程度の甘い汁を吸っておけば、などと不肖の息子は思ってしまうのだが。
たとえば、この社会には実に沢山の製薬会社があって、同一成分の薬剤を各社が取り扱っております。各社のプロパーさんたちは、必死に名前だけ違う同じ薬を、自社のために販路拡張に努めます。それを選択する立場としては、単純に一番納入条件のいい業者を選べばいいはず。血税で運営される公立病院なら、なおのことそうであらねばならない。ところがあら不思議、全く中身の同じ名前だけ違う薬が、何種類も『おつきあい』やら『なんかいろいろ』な事情で、薬局内を飛び交ったりする。で、これを混乱の元として整理してしまう馬鹿正直な管理者と、『おつきあい』に従って『なんかいろいろ』する管理者と、どちらが出世できるか。これがまたあら不思議、節約すれば評価されるとは限らないのですね。なんとなれば、『おつきあい』や『なんかいろいろ』というのが、納税者とお役所、あるいは業者とお役所の担当者だけが絡むのではなく、そのお役所の上の人と業者さんの『おつきあい』とか、前任者との『なんかいろいろ』とか、まあ大人の事情でごにょごにょあったりする。念のため、贈収賄とか、違法レベルの話ではありません。あくまで義理人情とか、協調性といったレベルで。まあ接待くらいはあるんでしょうけど。
なにはともあれ、息子から見ても馬鹿正直に過ぎるような人間は、かえって出世できない組織であり、その代わり車で死亡事故やってまた酒気帯びやっても、轢き逃げなどよほど悪質でない限り懲戒免職にならない、そんな面白い組織、それが公務員。教え子に手を出しても、強姦だったりシメでもしない限り、別の学校でまた教師やってる教員社会と似てますね。
そんなこんなで我が父親ながら、全ての公務員があの人のようだったらちっとは安心して税金納められるのになあ、などと思ってしまう今日この頃。そんな父親が松本清張路線だけでなく、横溝・乱歩路線や、半村良さんまで読んでいたという事実が、自分にとっての『仮想』を形成しているのだろうなあ。


2月17日 木  遙かなるランドリー

実に20日ぶりでお洗濯を決行する。もはや文字通り1枚も着替えの下着が残っていないので。
乾燥待ちにパソに戻っていつもの板を覗かせていただくと、またメインの方がお一人、去ろうとしておられるような。膨大な投稿作に感想を入れてなおかつ自分でも投稿される方だったので、ほとんど自分の殻に閉じこもっている自分より、何倍も気力を使われていたんだろうなあ。仕事もお持ちのようだし。
そのあたりの事情が、名残を惜しむ方々の膨大なレスと共に雑談掲示板に載っており、そのレスからご本人のHPなども判明したので覗かせていただいたが、どうも休止中らしく、そこの掲示板にはお仲間やファンらしい方々のカキコとともに、例によっていかがわしい広告なども跋扈。お忙しくて手がつけられないのだろう。だから自分は掲示板は設けないで、オマケの伝言板だけにしているのである。
すでに投稿板の方のカキコもあったので、自分もちょこっとカキコさせていただく。爺いはサミしいのだ。
しかし一定の打鍵を維持するというのは、仕事しながらだとつくづく不可能に近く、気力が萎えるのも解る。お互いまったりと、気長に生き続けるしかないのだろう。
乾燥の終わった洗濯物は膨張して、いちばん大きな燃やすゴミの袋ふたつでも収まりきれないほど。ただし重量はずいぶん軽くなり、そのぶんが全部自分の汗だったと思うと、ちょっと感心。こういう点でも、冬場はありがたい。夏場だと発酵してしまうので、20日もほっておくのは不可能だ。


2月16日 水  ほら、あなたの隣にも……

なんだか天気が悪い方が落ち着くというのは、ちょっとアブない気もする。まあ仕事遊び共にモニターを相手に引きこもっているばかりになっている昨今、単に昼間でもモニターが見やすいだけなのだけれど。元来小動物のように小心な男なので、昨日のダメ押しを受け、さっそく朝に起き出して人並みの時間帯で活動していたり。しかしずっと明け方に就寝していた人間がいきなり夜に就寝しようとしても、さすがに熟睡は難しい。5時前の地震で本の山が崩れたりもしたし。
先夜のNHKのものしり一夜づけで、近頃大流行のJホラーが取り上げられており、結局日本古来の、人畜自然現象その他森羅万象の『気配』に対する感性が、近代的メディアや社会環境と呼応してしまった、そんな解釈は妥当だろう。ハーンの歴史的解説は、ちょっと強引過ぎたが。ゲストの佐野史郎さんは、あいかわらずいい味。司会の三宅裕司さんも、熟練コメディアンとして確実に風格を増している。しかしあの水木しげるさんのたたずまいというものは、ほんとにもはや生きているというよりは、それら気配の主によって生かされているの感。南方戦線極貧紙芝居貸本時代、そんないつお亡くなりになってもおかしくない過酷な環境を、一見飄々と、実はしたたかに自然体で生き抜いて来た人生は、やっぱり『運』という名を借りた『在るべし』という自然の意志に、護られているように見える。
ビデオやパソコンや携帯といった情報圧縮変換を伴うメディアに心霊的なものが関われるとは、個人的にはどうしても信じられない。かの大ヒット作『リング』にしても、映画の方はビジュアルとして評価しているが、原作のほうは初読時、なんだこりゃ、と思ったものだ。ビデオと念写をいっしょくたに扱ってどうすんだよ、貞子ってのはPALとNTSCの区別知ってたのか、どうやって怨念でヘリカルスキャンに対応した、などとあきれて物も言えず、この作者は馬鹿なのではないかと思ったものだが、さすがに馬鹿ではなく、3作目で、すべてが仮想世界の中での出来事であった、とシメている。まあこれも読者としては、おいおい夢オチかよ、だったのだけれど。
などと言いつつ、本日パソコン類の電源付きタップをONにしたら、いきなりここ数日見放して電源も入れなかった2000パソが先に立ち上がり、優れもの新人をさしおいて、ビープ音など鳴り響かせる。パソそのものの電源は入れていないのに、である。一瞬、おう、見捨ててすまんごめんごめん、などと許しを乞いそうになってしまったが、考えてみれば電源そのもののがおかしかったらしいのだから、何かの電気的いたずらで立ち上がったのだろう。しかしそのうちうめき声や恨み言など発しても怖いので、早めに分解分別し、引導を渡してやりたいと思う。
世間のニュースは、相変わらず鬱な話ばかり。また根性なしの神経症少年が無関係の先生など血祭りに上げ、根性のない言い訳を繰り返しているようだ。まあ巷間の多くの事件で大の大人が愚にもつかない言い訳に終始しているのだから、仕方ないのだろう。一見頭を下げながら、結局他人や状況のせいだものなあ。いにしえのあの19歳の連続射殺魔・永山則夫の『許しは乞わぬ』という叫びが、いっそ潔く回想されてしまうのはつくづくヤバイ。しかしつらつら考えてみれば、やたら犯罪者の年少化が問題視されるが、世間は相も変わらずいい大人の馬鹿な犯罪者が圧倒的多数なのであって、『なぜ成人や高齢者の犯罪が減少しないのか』のほうが、よっぽど文明国家としては不可解な気もする。子は親の鑑、親は子の鑑、ただそれだけの連鎖。人類が終わるまで、ただその連鎖が続くだけなのだろうか。
ちまちま作っていたHPの新しいページ、昨夜ようやくアップ。しかしテキスト打鍵はすっかりサボってしまっているなあ。妙に気張らずに、昔から大好きで聴き集めてもいた実話怪談でも、ちょっとテキスト化してみようか。


2月15日 火  隣は何をする人ぞ

現在まだ朝、というより未明の5時なのであるが、隣の老人にまた小言をいわれたばかりである。さあ寝よう、と顔を洗ったりトイレを使ったりしたのが、気に障ったらしい。うるさくて寝ていられないとのこと。まあついつい夜に活動して明け方就寝している自分にも問題はあるのだろうが、けして大きな物音をたてたり、ボリューム上げて音楽聴いているわけでもない。ただしこしことパソコン机の前で、内職をしたり、怠けたりしているだけなのだ。仮に水音がいけないのだとすれば、明け方トイレを流してはいけない、顔を洗ってはいけないと、はっきり言えばいいのに、具体的に何がうるさいのかを訊いても、ただうるさいとしか言わない。
反対側のお隣さんが入居してもじきにいなくなってしまい、空室の時が多いのは、偶然ではないんだろうなあ。まあ管理人さんですらが「あんなにやかましい事いわなくてもねえ」などと、家賃を払う時など愚痴をもらすのだから、被害者は自分だけではないのだろう。むしろその隣に長期居住している自分は、生活時間帯に問題はあるにしても、常人より音をたてない人間であるのは確かだ。
ただ疑問なのは、ときおり小言を言いにくるタイミングというかレスポンスが、あまりに早いことである。どうも聞き耳をたてて窺っているとしか、思えない。そういえば昔、まだ会社勤めだった頃、夜中の3時にふと目が覚めて台所で水を飲んだら即怒鳴りこまれたことがあったが、その時はさすがにこちらも反論したものだ。年寄りの眠りの浅さは、こちらのせいではない。
まあ、あまり逆らって刺されたりしてもなんだし、都会の独居老人たちが本場イギリスのパンク少年なみに荒み始めているのも確かなので、せいぜい気をつけよう。そこしかいるところがなく、惚けてもいないのに(ちょっとそこは怪しいが)することもなく、青少年や我々にはまだ許されている熟睡という逃避すら、加齢のためままならないとすれば、後は気を遣ってあげるしかない。明日は我が身の自分でもあるし。でも我々と違って医療費は安いはずだから、医者で睡眠薬でも処方してもらった方が吉なのではないか。今時の睡眠薬は、昔と違って副作用や習慣性の心配はないはずだ。でもこんな事を面と向かって言ったりしたら、それこそ後が大変なことになりそうで、言えませんけどね。などと打っているうちにまたトイレに行きたくなってしまったが、まあ流さなければいいか。


2月13日 日  黙祷

姉より郷里の母方の従兄弟の奥さんが死去との報。
一時間ほど思考停止する。
来週は内職の都合で葬儀には出られないが、出られたとしても、もはや同い年のそのいとこの前で、どんな顔をしていいのか解らない。子供の頃はまだ元気だった母に連れられて遊びに行くのが楽しみだったし、田舎とはいえ県庁所在地で育った自分にとって、その母の実家は心理的な『古い日本の原風景』でもある。そのいとこもまた幼時の遊び仲間であり、たまたま大学も同学だったりした。その奥さんが、なんで子供もまだ自立していない若さで、くも膜下出血など患わなきゃならない。
この世には思考者としての造物主やら神やらは、絶対にいません。いたとしても、俺はもう知らん。いて欲しくないたぐいの人間どんどん増やして長持ちさせ、いて欲しい人間どんどん先に逝かせてしまう奴など、エホバだろうがアラーだろうが、頭がおかしいに決まっている。かつて偉い人が言ったように『神は死んだ』のか、あるホラー作家が言ったように『ヒロシマとナガサキの閃光で両目がつぶれた』のか、他のホラー作家が言ったように『実は分裂症で神と悪魔を兼業している』のか、いずれにせよ正常でないことだけは確かだろう。
こうした思いをするたびに、思い出して気を鎮める、映画の1シーンがある。私信などでも繰り返し引用してしまうシーンだが、かつて観た邦画の中で、最も知的な生死観だと思う。山田洋次監督の、男はつらいよシリーズの1本で、マドンナ役は、京マチ子さん。この方はこのシリーズでは珍しく、不治の病を抱えていて、ラストでは死去してしまう。寅さんがたずねて行った庭先で、自分の様態を知ってか知らずか、しみじみ言うのである。「……寅さん、人間はなぜ死ぬのでしょうね」。寅さんは、マドンナがそこまでの重病だとはまだ聞かされていないが、けして本質が馬鹿の人ではないから、なんとなく感じ取ってはいるらしく、いたたまれずにいつもの寅さん節に逃げてしまう。
「人間? ……そうねぇ、まあ、何て言うかな、結局あれなんじゃないですかね。人間がいつまでも生きていると、陸(おか)の上がね、人間ばかりになっちゃう。ウジャウジャウジャウジャ。陸(おか)は面積が決まっているから満員になって、みんなでもって、こう押しくらまんじゅうしている内に、足の置く場が無くなって、隅っこにいる奴が、『アアッ!』なんて、海の中へボチャンと落っこちて、『助けてくれ!』なんてね、死んじゃう。結局そういう事になっているんじゃないですか、昔から。まあ、そういう事は深く考えない方がいいですよ……」
この映画あたりでは、すでにこのシリーズはマンネリやらなにやらと批評家に言われていたが、渥美さんが亡くなるまでえんえんと国民的人気を保っていたのは、社会的惰性などではない。寅さんは実に『歩くお地蔵様』として、宗教的役割を担っていたのである。
曹洞宗のCDを聴きながら、唱和する。奥さんの順後次受が安らかでありますように。


2月12日 土  他人とは思えん



左より、背面図、俯瞰、正面図。
などとたれぱんだと遊んでいるバヤイではないのである。まとまった暇ができたので(内職にアブれたともいう)、といってすぐに私物打鍵に入る気力もなく、また過去の立体写真のスキャンに走ろうとしたのだが、確かに昔山形市内で写したはずのひとまとまりが、どこにも見つからない。まあそんなのは記憶の中にあるのだからブツはなくなってもかまわないとして、自分の行った記憶のない場所が、二箱も出てきてしまったのである。どうやら自分は、平成6年の10月に、『霧降の滝』とやらに行っているらしい。どこだそれは。ステレオ・ペアのリバーサルなどという酔狂なものが他人様からの頂き物のはずはないので、確かに自分でステレオカメラ抱えてそこに居たのは間違いないはずだ。あわてて検索してみると、どうも日光らしい。そんなところは中学の修学旅行でしか、行っていないと思うのだが。
首をひねりながら他のスキャンをしている内に、どうやら時期的に茨城の駅ビルのテナント会の研修旅行らしいと思い当たったものの、やっぱりそこは熱海であったという記憶しか蘇らない。でも、熱海には『霧降の滝』などという場所は存在しないらしい。やっぱり日光にも行っているんだろうなあ。
こうして自分は確実に廃人に近づいて行くのだなあ、などと、しみじみ玄米茶をすする爺いなのであった、まる、と。


2月11日 金  たれぱんだを洗う

朝飯(というより目覚めた直近の食事だからすでに午餐なのだが)を食っていると、テレビの上でフィギアケース(昭和の銭湯やら懐かしシリーズが収まっている)に乗っかっていたたれぱんだが、ずるずるとテレビの後ろに姿を消す。なんらかの意思表示かと思われたので、洗濯してやることにする。思えば茨城を出るとき職場のバイト嬢さんたちに送別会でもらって以来、一度も洗ってやっていないので、ヤニで真っ茶色になっている。じゃぶじゃぶやったあとで、うにゅう、などと絞ると、普通のぬいぐるみなら全身骨折でお亡くなりになりそうで痛々しいのだが、たれぱんだだと二度や三度は捻っても死にそうにないので、遠慮なく絞れる。
さて、天気もいいことだし窓の外に吊してやりたいところだが、隣の口やかましい老人に見られたら何を言われるか解ったものではないので、風呂場に吊す。大股開きでハンガーに逆さ吊りになったたれぱんだというものは、何かひとこと言いたそうにも見えて、さすがに痛々しい。ここがのどかな茨城のアパートだったら、隣は子持ちの若夫婦だったので、遠慮なく窓の外に干してウケを狙うところ。現在の隣の爺さんは、夜中にちょっと物音たてただけで怒鳴り込んでくるような、この町に多いキレ寸前老人なので、予想外の事象というやつは禁物なのである。
しかしあの爺さんがもし隣の奥の部屋(この部屋のことである)の展示物など覗き見てしまったら、確実に警察に通報するだろうなあ。隣に少女の敵予備軍が巣食っている、とか。
風呂場は今日もカレーの匂い。また風呂場の窓を開けたまま、換気扇を使ってしまった。しかし自分の部屋から追い出した匂いがそのまま逆流してくるというのは、つくづく環境に優しい。


2月10日 木  スカッと抜けない

おう、一晩寝たら鼻水は止まっている。在職中はただの鼻風邪でも、2日や3日は治らなかったものだが、やはり慢性疲労のなせる技だったのだろう。現在もまあ定職ではないとはいえ、結構働いてはいるものの、なんといっても7割がた在宅ワークなので、通勤疲労がない。昔は片道をローカル線で1時間半などという時期もあったのである。まあそれはそれで、読書やら音楽やら、没頭できる時間がとれて悪くもなかったが。
XPはまたいつのまにか起動音と終了音が鳴らなくなる。2000の時もいつのまにかそうなっており、何かのドライバのせいだと思っていたが、今回はそれは入れていないので、もはや原因不明。その他のシステム音はちゃんと鳴る。まあ「そんなアプリほんとに入れるの?」というOS氏の疑問を無視してフリーソフトなどもガンガン入れているので、文句を言えた義理でもない。それよりも、スタートメニューの下半分に、いちど起動したアプリのアイコンが次々と追加され、「もう表示しきれません」などと開くたんびに弱音を吐くので、なんだこりゃと思っていたら、ヘルプに「よく使うアプリが起動しやすくなった」などと書いてある。嘘言え。直近の起動を片っ端から追加して、すぐにいっぱいになるだけではないか。まあ何も表示しないようにカスタマイズできるのも解ったが。しかしこんな機能を付加したわりには、95や2000で愛用していたクイック起動バーが、なんで3つしか常時表示されなくなってしまったのだ。あそこのほうがずっと起動しやすいと思うのだが。まあなんとなく体裁変えないと、新商品として格好がつかないと思ったのだろう。
なんだかもやもやと愚痴ばかりこぼしてしまう毎日、スカッとしたくてテレビで『EX』というスキーやスノボで七転八倒のアクション映画を観る。これでもか式の今様アクションだが、結局ドラマが弱くアクションばかりが浮いている。最大の見せ場はやっぱり合成になってしまうのだから、もうちょっと感情移入させてくれてからでないと。似たような趣向の、昔の『スカイ・ライダース』など思い出す。そちらは当時流行りだしたハング・グライダーのアクション・チームによる人質救出劇だが、今と違ってアクションはほんとの山場にしか出ないぶん、ジェームス・コバーンやロバート・カルプが、実にいい具合にユーモラスかつ男泣きっぽい人間ドラマを、ベースに展開してくれていたのだ。
そういえばジェームス・コバーンの遺作だという『アメリカン・ガン』もこの前深夜テレビでやってくれていたなあ。地味そのもののヒューマン・ドラマなのに、妙に脚本を捻ってしくじっていたのが惜しかった。映画の根幹に関わる重大な事実を、なんだか土壇場のどんでんがえし風に持ち出したため、映画そのものがあざとく品を失ったように思う。叙述トリックとアンフェアは違う、そんな感じか。そもそも叙述トリックなどという困難な技法は、大概アンフェア感を伴うか、途中でバレてしまうかで、テーマそのものをぶち壊しにする場合が多い。私的に過去納得できたのは、かの驚天動地のアイラ・レヴィンの『死の接吻』第二章とか、情動で締め落とす筒井康隆さんの『ロートレック荘事件』あたりか。


2月9日 水  鼻水じゅるじゅる

うう、喉が治れば今度は鼻。もっとも先週も鼻の中まで真っ赤っ赤だったそうなのだが、詰まっているだけで鼻水は出なかったのである。痛いのもなんだが、一日中鼻をかみっぱなしも鬱陶しいものだ。むずくて一日中顔の真ん中の筋肉、うにょうにょさせていないといけないし。今年は寝込むような根性の入ったウィルスや細菌は来ないが、小出しで数をこなすつもりか。
うにょうにょと顔をしかめながら、久しぶりにまたカレーを作る。やっぱりカレーだけは、こう言うのもアレだが、自分で作るのがいちばん旨い。今回はオリーブの葉っぱなども煮込んだので、今後数食ずっとカレーでも、飽きないで済みそう。
夜、風呂場で仰天。風呂場がニンニク畑のような匂いである。どうも肉をニンニクといっしょに炒めた時の匂いが、換気扇から通路へ、さらに開けっ放しだった風呂場の窓からまた屋内へ、そんな気流の結果らしい。チーズとニンニクで炒めた肉の匂いだから、けして悪臭ではないのだが、さすがに風呂だと不快。自分もこれから風呂で煮込まれてしまい、何者かの夜食になってしまいそうな気がする。


2月7日 月  はみだしものと歴史

ややや、また板のおひとかたに正体を知られてしまったようだ。以前も記したようにハンドルネームはひとつしか持たない主義なので、バレバレも当然なのである。こんなロリオタのオヤジですが、人畜無害なので鉄砲で撃ったりしないでくださいね。
さて、やっぱり朝日新聞は駄目かな、などと思ってしまったのは、近頃連載で子供への性犯罪をテーマにした記事を載せており、今朝も自分の記者としての狭い社会しか知らないか、あえて自分の論旨に都合のいい記事展開のために歴史や現実から断片のみ抽出しているのか、いずれにしてもろくでもない記述があったからである。その犯人(といっても微罪だが)の青年は、確かにその手の書籍やビデオや等身大フィギアも持っていたのでしょう。そして実際「明治時代なら目覚めずに暮らせたのに」と発言したのでしょう。その発言したという事実自体が嘘だとは言いませんが、大人として明治時代の文献を調べれば、その時代がすでに現在同様性犯罪の嵐であり、その被害者の多くは未成年者だったという事実にも触れてもらわないと、読者に歴史を誤って認識させることになる。第一、明治時代は悪書やフィギアどころか、小金があれば現実の少女が合法的にいくらでも買える時代であったという事実、そしてしつこく繰り返すように、一国の総理が少女の初物を摘むのを趣味としていても、そこが花柳界であれば誰も文句など言わなかった時代であるという事実、それらを記者が知らなかったはずはなく(知らなかったとすれば報道人の素養なし)、あえて無知な青年の弁解を補足も入れずに単独で投げ出した記事を書くというのは、あきらかに自分の論旨のために読者のミス・リードを狙ったとしか思えない。ちょっと前にも書いたが、自分の飼っている犬が白いから、隣の黒犬の尻尾も白い、そんな朝日的文脈。そういう部分をあえて社会的正義を標榜して未だに残しているところが、朝日の困ったところなのである。でも、その隣にののちゃんが毎日載っているので、まだとり続けている自分がとってもかわいい。いしいひさいちさんの爪の垢を、皆さんで煎じて飲んだらいかがかと。
姉よりまた段ボール箱がひとつ届き、衣類やお菓子や保存食料等の嬉しい補充。すでにニッセンでドールの服を買ってやる余裕もない(?)身としては、ありがたい限りである。橋の下でひからびた時に迷惑をかけたくないので、葬式代だけは確保しておこうと思う。夜になったら電話しようと思ったのに、不規則な生活ゆえ夕方うっかり寝込んで、目覚めればもう8日ではないか。あう、故郷の訪問看護さんに、送金の準備もせねば。


2月6日 日  楽しい中身いじり

メインパソがついに起動しても途中で力尽きるようになり、どうもこれは電源そのものがいかれているらしい。その絶命と呼応するように、実に間合い良く新パソ到着。予想外だったのは、ベージュ色かと思っていたら、実にお豆腐か生クリームのごときおいしそうなミルキーホワイトで、こりゃあ汚れやすそうだなあ、などと一瞬当惑したものの、どうせ一年もすればベージュだろうが純白だろうがヤニ色に自然塗装されてしまうのだから、無問題。ネットで注文してしまったので、本当の色は知らなかったわけである。ありがたいことに形はやはりお豆腐のように四角くて、他の機器がすんなり上に乗る。
セッティング前にさっそく筐体を開け、95パソから引っこ抜いておいたフロッピードライブを突っ込んでしまう。マイクロタワーなので空間的にはぎちぎちで、ケーブル回すのに他の配線を外したり、えらく手間取る。古パソのメモリやグラボやドライブはちょっともったいないが、今更わざわざ遅いのを乗せても仕方がないので、あらかじめDOSパラで最新型を入れてもらっている。お亡くなりになった2000パソからも、あとでHDDやノート用CDは抜いておこう。
パソの中身いじりは、子供の頃のプラモデル造りのようで、楽しい。まあ子供の頃といわず、就職してからもラムちゃんのおしりをパテでハミ気味に色っぽく整形して、うひひ、などとやっていた訳だが、フィギアはちょっとニュアンスが違うからなあ。しかし新パソは筐体側面の材質がどうもひ弱で、うっかりちょっと曲げてしまって、あわてて伸ばしたり。次回引っ越しの際には、注意が必要そう。
さて、初めてのXPの起動。このひと月は起動そのものにさんざん悩まされて来たので、あまりの早さに感動。その後の種々のインストールも、CPUのおかげかドライブ類のおかげか大量のメモリのおかげか、あっというまにするする飲み込んでしまう。ただ、やたらと「ほんとにこんなの入れていいの? システムおかしくなっても知らんよ」的な警告をごんごん出してくる。それはネットに繋げてからも同じことで、「ほんとにこんなコンテンツ再生していいの? 何かあってもワシは知らんよ」的なメッセージのオンパレード。なるほどこれがWINDOWSの最終型か、自分でさんざん拡げて稼いできた大風呂敷に、あちこち穴が開いてどうしようもなくなってきたので、あらかじめ「穴が開いてます」と居直ってしまったらしい。まあこっそり開きっぱなしにするよりは、良心的か。古いプリンタのアプリが、もはや2000まででサポートをやめてしまっているらしくハラハラしたが、なんとか『互換モード』とやらで飲み込んでくれる。おお、こんな機能があるのか。あとで95のゲームを試しに入れてみよう、などと、さっそく破滅への道をたどり始める私。しかしニコンのフィルムスキャナだけは、いかにあがいても作動しない。認識しても作動しないのである。もっとも、2000ですでになんじゃやら面倒なことをやらないと動かなかったので、いいかげんに買い換えろ、ということなのだろう。ファームウェアのアップデートすら、すでに打ち切られている機種だからなあ。まあ、キャノンの新しいフラットベッドで当分はなんとかなるか。内職でも、自力でフィルムスキャンする必要はないし、HPでだけ使えればいいからな。
とにかく早くて安くかったのに満足し、気分的にひと月あまりのパソ地獄から開放されたせいか、飯も旨い。ようやく新炊飯器の臭みも薄らぎ、水加減もわかってきた。やはり臭みはコーティングか何かの臭いだったらしい。また、デフォルトだとやたら柔らかい飯になるだけらしい。世間の人はこんなにヤワい飯が好きなのか、などとも思うが、そんなことはないよなあ。松屋も吉野家もサイゼリヤも、こんなにヤワくはないぞ。きっとシャープの開発の人が、ご飯の柔らかい家庭で育ったか、国民の消化能力や胃潰瘍を心配してくれたりしているのだろう。賞味期限のギリギリになっていたジンギスカンのパックやら、卵やら納豆やら、おかずも始末したいのが豊富にあったので(計画性がないだけだが)たいへん豪勢な夕飯になる。機嫌がいい時は現金なもので、義経の5回目の、ベタ全開の演出などもきちんと楽しめてしまう。要はベタなところは思いきりベタにやって、脇のしっかりしたところで締めよう、そんな算段か。あの五条の橋の月の大きさには仰天したが、モロに昔の絵本の牛若丸と弁慶で、楽しかった。平さん丹波さん白石さんら、脇がお見事。ただこのドラマに限った話ではないが、若い娘たちのふにゃふにゃした口舌だけは、もっとなんとか修行させられないものか。いかに役者ではなくタレントさんとはいえ、子役さんのほうがよほど口舌がしっかりしているのでは仕方がない。


2月5日 土  一喜一憂の逆襲

メインパソ交代にあたり、しつこく不適切変換の欲求不満解消を求め、通販でATOKなどに手を出す。書院IMEも、やはり古いので文脈解析などはなかなかきつい。しかしATOKも単独で買うと高い。一太郎を使うつもりならいっしょに買ったほうが割安で、機能的にも全機能使えるのだろうが、今更コテコテのワープロソフトは使えない。創作にはエディタのほうが断然快適なのである。届いてさっそく七面倒くさいインストールや、輪を掛けて七面倒くさいユーザー登録なども済ませ、さっそく実験。さすがに当初はファンクションの手順に戸惑ったが、変換の適切さという点では、やはり日本語一途の会社らしく、抜群と言ってよい。最初のWINDOWSパソコン導入時、古い一太郎とATOKが入っていたのだが、もうその頃より別物まで進化している。2台目あたりで、乗り換えていれば良かったのかも知れない。現在は松下にまでいじめられているようだが、日本としては社会的意義において援護してほしいところ。ジャストシステムという会社は昔OSにまで手を出しかけて「身の程知らず」などと馬鹿にされたようだが、個人的には頑張ってほしかった。少なくとも日本語解析の分野でまで、あの短期在日外人さんのようなワードなどに負ける実力ではないのである。だって、本当にここまで打鍵して、ほとんど打ち直しの必要がないのだ。マイクロソフトのIMEなど、数年前で進化を止めた書院IMEにも、未だに劣っている。というより、日本語に関してはこれ以上何か根本的な改善をするつもりなど、ないのだろう。ああ、本当に、自分でも現在不安になるほど馬鹿変換も再変換も出てこない。起床時間起請する岡本綺堂夏目漱石夏目房之助国境の長いトンネルを抜けると雪国だった夜の底が白くなった祇園精舎の鐘の音諸行無常の響きあり沙羅双樹の花の色盛者必衰の理を表す気違い聾癩病傾城阿波の鳴門満目蕭条……しょっちゅう「不快用語」などという注釈まで出しながら、それでも変換してくれるし。でも、なんできょうじんは出ないのかな。おや、としんも出ない。なるほど、新しいぶんだけそのあたりは退化しているのか。ここだけ読まれるとどんな旧弊な差別論者かと思われてしまうかも知れないが、昭和の頃まではけしてマスコミから消滅などしていなかった市井の日本語なのである。なるほど、これはちょっと歴史的根性が足りないのかも。跛、唖、ふうむ、このあたりはちゃんと出るのだが、いつから狂人は不適切用語になったのだろう。兎唇はもしかしたら別売の医学用語辞書にでも回されているのか。確かに今となっては、医学的文献でしか使われない熟語かも。いずれにせよ狂人とも兎唇の子ともいっしょに田舎で育った身としては、自伝を書くのにも単語登録が必要な時代になってしまった。実に頻繁に『注』という表示が出るのは、ATOKといっしょに共同通信社『記者ハンドブック』というものまでいっしょに入れたせいか、それともデフォルトなのか。まあ公的な文書を作成するには、親切なのだろう。一長一短ではなく、八長二短くらいの操作感か。これこそ『只より高いものはない』(マイクロソフトIMEのことである)だよなあ。あちらは適切用語すら判断できないのだから。
などと調子に乗りつつ、例のナイフの狂人が、窃盗で懲役をくらい刑務所出たばかりだったと言うニュースを聞いてしまう。無論当人にもおかしくなる資質があったのだろうが、数千円しか所持金のない出所者を出しっぱなしの行政もすごい。まあ確かに満期で出たのだったら、それ以降逐一監視したり世話をする義務はないとはいえ……金に困って窃盗に走った人間を長期間税金で養い、その衣食足りた環境から身一つで放り出したらどうなるか、そんな心配は誰もしないのだろうか。もちろん更正担当の職員がアドバイスくらいはするのだろうが、よほどの凶悪犯でもない限り、当人が身を隠せばそれきりのはず。もともと働いて食うという路線を逸脱したから刑務所に行ったのであり、刑務所の中では常に監視付きだし、そう辛くもない仕事だけおとなしくやってれいば、少なくとも衣食住揃っている。実社会での前科者の勤労条件などとは、無縁の世界なのである。――うう、解らない。何がどうなればいいのか。あの赤ちゃんが死んで小さなお姉ちゃんが怪我をした、その結果しか見えない。


2月4日 金  一喜一憂

薬っけが抜けたせいか、蕎麦がうまい。
いよいよメインパソの起動が三十分以上かかるようになってしまい、スタンバイもなにも使わず電源入れっぱなし。もうすぐそのうち新しいものも届くはずなので、もはや届くまでそのまま。
例の日テレで放送してくれているドキュメント受賞シリーズ、本日は長崎放送製作の『たんぽぽ』という、ダウン症の少女の心温まるお話、ご家族や学校の皆さんも、いっしょうけんめい明るく生きている少女にも、ありがとうありがとうと涙しつつ、もっともやっぱり小学校などでは「うざい」などと言う子供もいたようだが、まあ餓鬼は馬鹿だからしょうがねえやな、ということで。しかし少女がいっしょうけんめい弾くピアノ、これがまた先入観抜きに目を閉じて聴いても、プロが妙な小技を入れて弾く童謡や唱歌よりもずっと心に響くのである。ひいき目、いや、ひいき耳でなく。素直であるというのはやっぱり無敵だ。
いい気持ちでニュースなど見始めると、いきなり昔の職場でいっしょに白痴的右翼一家のクレームに頭を下げてくれた、SCのフロア・マネージャーさんの顔が映って仰天。ずいぶん昔の話だが、旧職に見切りをつけたひとつの要因でもあるので、御恩は良く覚えている。そうか、今は愛知で店長やってらっしゃるのか。あそこも日本全国猶予二週間くらいでふっ跳ばすから大変なんだよなあ。しかしその事件というのは、そのSCで赤ちゃんが刺殺され、小さいお姉さんも重症だというのである。いっきにまた意気消沈。
犯人は無職の車上生活者のようである。とすれば、着用のブルゾンや凶器ともにそこで万引きしたものだったというから、金はないはずで、シャブ中ではないのだろう。社会からの抑圧感をより弱者への攻撃に転化させてしまうという、精神異常の1パターンか。しかしなぜ無抵抗の子供に向かうのか、どうしても理解できない。例の池田小事件などもそうですね。なんで知らない子供なの? 鏡で見る自分の顔のほうが、よっぽどその生存が「うざい」と思わんか。対象選べよ、大人なんだから。
まあ子供が泣いてうるさいというだけの理由で命を奪ってしまう親も多い昨今、恐いのは異常者ばかりでもない。もっとも赤ん坊に泣くなと言うのは大人に一切の自己表現を禁じるのと同じことで、それでも泣くなというのはすでに愚かであり、やかましいからシメるとなれば、すでにその時点で、今回の犯人とは違うタイプとはいえ、立派な精神異常者なのだろうが。
いずれにしてもそれらの加害者の方々は、社会だか血縁だかに抑圧されていると感じてしまうらしいのだが、実際は自分で自分を勝手に抑圧してしまうのだから、それなりの環境にいても勝手におかしくなってしまうように思われてならない。社会的に微妙な立場にいることが多いのは、原因ではなくすでに結果であって、犯行はあくまでも副産物だろう。己を律するのは己ばかりとは限らない、そんな単純な学習能力が、過去育まれなかったのか先天的に欠如しているのか、それはまあ吊るす前に医者にでも診てもらうしかない。
しかし現場の店長さんもしばらくなにかと大変だろう。私と違って適応力も判断力も度胸もある人だったから大丈夫だろうが、ご自分のお子さんもまだ学齢期のはずだから、しっかり頑張って欲しいものである。


2月2日 水  セキニンとってね

落ち着くと見せてちょっとぶりかえしたりして、敵もなかなか細かい。一生のおつきあいになりそうなので、死因も扁桃腺炎による余病の併発、なんてことになるのか。いっそ肥大でもしているのなら切っちまうという手もあるのだろうが、ふだんは普通の形らしいんだよなあ。食うのに楽なので乾麺湯がいて食っているのだが、どうも食欲のない時に『とびきりそば』150グラム1把単位は、多すぎるようだ。夏の笊蕎麦なら適量でも、お汁たっぷりのかけだと、ちょっときつい。歳も考えて加減しないと。
ようやく新パソコン、オーダーする。DOSパラの一番安いマイクロタワーをベースに、必要な部分をカスタマイズ。CPUなんてセレロンの一番安いので充分。ただしメモリやHDDは最大限にしたいし、グラボなども商売上(実は近頃旧職繋がりの内職がけっこう忙しかったりする)まともな物が必要だし、その筋の知人の話によると自宅で今さらMO引き摺るよりはDVD-RAMが大容量MO的に使えて信頼性も高いとのことなので、結局予算をちょっとオーバーし、9万近くになってしまう。まあ古いスカジ外付けMOドライブもフィルムスキャナーも転用できるから、内職にも支障はない。しかし先月買ったばかりの外付けDVDドライブは――あ、そうか。USBだから、ノートでも使えるか。
体調のせいもあり長時間散歩できないぶん、いきおいまたドキュメンタリー番組づいてしまい、録画しておいた戦後ドミニカ移民の苦闘と悲惨を描いた話と、対照的にのどかな日本の農民オーケストラの話など。泣いたり怒ったり微笑んだりと精神状態千変万化。しかしあの移民募集はどう見たって国家による詐欺だよなあ。しかしいかに自分の関わっていない昭和20年代から30年代の話とはいえ、潔く謝ったように見せて結局なにもしてくれない小泉首相と、国家ではなく当時の外郭団体の責任などとおっしゃる川口外務大臣の答弁に唖然。あのう、当時から外郭団体って、天下り役人やら余剰役人の受け皿ですよね。まあ政府そのものでない以上、言い訳としては成り立つのだが、こうなると小泉さんのおっしゃる種々の民営化などというのも、政治的義務や責任を『民間』に転化したいだけなんじゃないの、などと疑いたくなってしまう。


1月31日 月  寒波はまだか

扁桃腺は落ち着いてくれたようだ。
すごい寒波がくる寒波がくると昨日からテレビやラジオで連発していたので、大雪で困っている地方の方々には申し訳ないと思いつつ、今日こそは快適に外出できると楽しみに買い物に出たのだが、2キロほど先のダイエーからえっちらおっちら帰ってくると、むしろ汗ばんでしまうほどの陽気。まあ天気予報というよりもあくまでも天気予想だから、本命がくるとは限らないわけで、大穴が入ってしまうこともある。
本日のフジのドキュメントは仙台放送製作の『手向花の伝言』。東北大病院の救急医療に関するもので、これは良い出来だった。殺すこと見放すことがいかに容易で安易であるか、対して生かすこと救うことがいかに困難であるか、そこいらの視点がビシビシ伝わってくる。これって、昨日の酒木薔薇物にそっくり欠けていた部分なのではないか。大学病院という機関が研究施設であるべきか医療施設であるべきか──まあ一概に結論できる問題ではないのだが、いずれにせよ現場で身を粉にして働く医師たちも、研究に寝食を忘れて打ち込む医師たちも、武士の表情をしているのは確かだ。そして全身96パーセントの火傷を負い、それでも蘇るちっこい男の子は、この世界の森羅万象の一部でもあり全てでもある、というわけで、出所した旧仮名酒木薔薇君が、多少なりともそれらの仏性の気配を悟れる人間になっておりますように。


1月30日 日  背中がかゆい

齢のせいかなんなのか、背中がかゆい。孫の手が必需品になりつつある。それも普段はかゆくないのに、寝床に入るときまってはなはだかゆくなる。温まるとかゆくなるらしい。面白いことに、ここ二晩ほど扁桃腺のせいで風呂に入れなかったのだが、なぜかかゆくならないのですね。どうも汗とか垢とかのためにかゆくなるのではなく、かえって毎日背中を洗う方がかゆくなるらしい。乾燥のせいなのだろう。
本日はFNSドキュメンタリー大賞を受けたという酒木薔薇事件関係の番組を期待して観たのだが、どうも歯切れの悪い出来だった。被害者家族に焦点を当てたのはいいのだが、肝心の制作者側の視線が見えず、題材を淡々と追っているだけのようだ。メインとなっている被害者のお兄さんが底の深いインパクトがあるだけに、それを記録しているあんたらどう思うよ、とスタッフに問いただしたくなる。記録する側の視線の色が見えないドキュメントというものは、物足りない。明日からも他の受賞作を連続して放送してくれるのはうれしいのだが、いずれも昼の2時ちょっと過ぎという時間帯。つまり社会人に観てもらおうという気はまったくなさそう。そりゃスポンサーも付きにくいだろうが、まあ今時の民放としては、放送してくれるだけましか。やはり主要な時間帯にドキュメント流せるような、NHKもないと困るのである。深刻なシーンに、いきなり脳天気なCM入ったりしないし。今日の原爆関係のアーカイブも結構でした。『義経』の三輪さんは、今日で出番がおしまいらしいのは残念だが。


1月29日 土  半ダウン

やはりどうも持病の扁桃腺は、年に二回は確実に腫れたがるようだ。もう規則的に正しい生活を送っていようが、極限まで不規則な生活を送っていようが、おかまいなしに腫れたい時には腫れます。というわけで、ここに書くまでもない程度の喉の痛みと微熱とだるさがこのところ続いていたので、あまり長引いてもなんなので医者に行ってみると、両側とも見事に真っ赤っ赤だと言われてしまった。もう慣れてしまって、それほどひどいという自覚がないのである。10年ほど前などは、喉がほぼ腫れ塞がるまでほっといて、「あと一日遅かったら切開手術だよ」などと医者に呆れられた事もあったし。まあ、あの頃は現在のように、自由に医者に行く暇もなかったのだが。
さすがに全身けだるくて食欲も無く風呂にも入れないものの、寝ているほどの高熱でもない。のたりのたりとのたくる。いつもとさして変らないような気もする。


1月28日 金  じんせいっ♪ いろいろっ♪ (と、お千代さんみたく小首を傾げてぶりっこ)

NHKは例の海老沢さんがあくまでも君臨を決意したようで、全国から抗議電話が殺到し、回線パンク状態とのこと。そりゃそうだろう。海老沢さんがもはや正気の判断力を組織のトップとして失っているのが、明確化してしまったのだから。呆けたら隠居するのが正しい老人だろう。
しかし一方で、いつもの「NHKなんていらない。面白くないから。」的な意見が幅をきかせるのも、困ったものである。ちなみにあまりリアルタイムでテレビを視聴しない自分が、昨年録画して最終的に保存したのは、NHKが8割、テレビ東京1割5部、残り5%が他の民放といったところ。まああたりさわりのない表現に終始するとはいえ、まともなドキュメンタリーはNHKとテレ東以外ではほとんど見られないし、スポンサーと一般の視聴者の視聴率という海老沢さんより絶対的で始末におえない「一般論」配下の番組作りでは、民放の大半がただの消費のための経済活動の意味しかなく、まあそれは経済活動として許せるにしても、マスコミとか報道とかいう概念からは、推定一億光年は乖離している。などともったいぶって格好つけるのはアレだが、正直、どこの世界に白石さんや三輪さんにあの役をやらせてくれる民放時代劇が存在するか。視聴率も取れない舞台中継を律義に続けてくれるか。落語・演芸をまんまで記録し見せてくれるか。10年前あたりまでならいざしらず、まともな落語など寄席かホールかNHKかDVD自力購入でしか、今は観られないのである。
まあ世の中にはいろんな人間がいるわけで、たとえば自分の場合、一般の方々よりも気温で摂氏5度、湿度で10%くらい低いのが快適な生存環境なのだが、この時期いい気持ちで外を歩いていて、いざスーパーやら図書館やらに入ると、暑くてまいってしまう。飯屋で何か食ったりすれば、ハンカチびしょ濡れの汗をかいてしまう。しかしまあそれが皆様の快適な生存環境だとすれば、あえて文句は言わない。自分の部屋だけ寒くしとければ幸福だと思う。
「NHKなんていらない。面白くないから。」などと公言できる方は、海老沢さん同様、すでに己と外界の区別を失った、軽度の痴呆状態なのではないか。


1月27日 木  大人の少年

久々にレンタル屋に行き、懐かしの『オーメン2 ダミアン』やら『エクソシスト』やら、悪魔っぽいのを借りてくる。適度に頭も良く娯楽性もたっぷりで派手すぎずキャラもきっちり生きている、そんなリアルな時代のオカルト映画を楽しむ。しかし『ダミアン』は、何度観ても泣ける。悪魔物の形を借りて、少年期の自覚と自立を描いているのである。あの美少年ジョナサン・スコット・テイラーはそれきり映画で観ないと思ったら、制作者のオーディオ・コメンタリーによると、本来ロイヤル・シェークスピア劇団の子役さんで、その後もそっちで活動していたらしい。どうりでウィリアム・ホールデン以下の錚々たる役者さんたちに、立派に伍して主役が張れたわけである。しかしこのヒューマン・オカルトとでも呼ぶべき佳作も、巷間では前作のリチャード・ドナー監督の手堅いが非個性的なオカルト水準作に比して、なぜか人気薄だったりする。今回十数年年ぶりに観返して、改めてあの義母が公開時の字幕の誤訳で思っていたような悪魔の仲間などではなく、あくまでもダミアンへの愛に殉じたのであり、それを悪魔として自立したダミアンが非情に殺してしまうというラストの痛烈な構図を理解。それからこれも今回制作者さんのコメントで知ったのだが、撮影中にマイケル(マイク)・ホッジスからドン・テイラーへの監督交代劇などもあったらしく、そうするとこれは凝り性のわりに不器用なホッジスさんと、娯楽職人監督テイラーさんの合作であって、それがただの娯楽作でない好結果を生んだのか、などとも思う。地味だが演出の隠し味に満ちた小技のシーンなどは、ホッジスさんが撮影していた部分らしく、制作者は「時間と金ばっかりかかってしょーもない」などとボヤキの連続だったりする。なるほど、制作者さんとしては、ドナー監督調の適度なオカルトで稼ぎたかったのか。しかしドナー監督が『スーパーマン』にかかりきりだったので、同じ英国出身のホッジスさんを抜擢したが、どうも違う映画になってしまいそうで、器用円満な職人監督に首をすげ替えたのか。まあテイラー監督も、適度な娯楽作は『ファイナル・カウントダウン』とか、好きなのだが。
ここでちょっと思い当たったのは、過去『トム・ソーヤ』とか『ハックルベリー・フィン』の好きなタイプの映画化に関わった娯楽派の方というのは、どうも自分の好みにフィットするらしい。テイラー監督もそうだし、スティーブン・ソマーズ監督もそうだ。要は少年時代の感性を大人として保っている、そんなところか
昨日公租公課といっしょに代金を振り込んだ、唐沢なをきさんの自力出版本『パチモン大王Vol.2』が、もう夜に届く。相変わらずの迅速なご対応に感謝。エッセイなどではご夫妻とも面白おかしくいいかげんなキャラに描かれているが、自分と読者と作品への誠意なくして、プロのギャグ作家や編集やライターやおたくは、勤まらないのである。もっとも大手出版の編集さんなどは、かなり馬鹿で不誠実な連中が増殖していると、このところよく耳にするが、まあああいう連中はいい大学を出て、親方日の丸感覚で生きているのも多いからなあ。
アメリカのラジー賞っぽいふれこみの文春きいちご賞とやらで、『キャシャーン』や『ハウル』もダメ映画の仲間入りになっているようである。まあ、自分の波長や営業活動だけで生きている映画評論家も多いので、好き勝手言わせておけばいいのだろう。それにしてもまだ観ぬ『デビルマン』とやらは、そんなにダントツでひどいのだろうか。なんだか無性に観たくなってしまった。監督は――ああ、『地獄堂霊界通信』で、けっこう子役が個性的で面白い児童映画を、あの史上最も盛り上がりのないクライマックスの活劇でブチ壊しにした人か。じゃあ、うまい役者が出ていないとすれば、全編頭の悪い駄作なのだろう。なんて、自分が最も無神経に好き勝手言っているが、まあ個人の日記だからいいのである。なまねこなまねこ。


1月26日 水  巨大ネズミと納豆とコロッケ

といってもまだ26日になってまだ四時間弱しかたっていないのである。眠いのに蒲団に入ると寝つかれず、また起き出してもやっぱり眠い――こうして不規則な生活はまた昼夜逆転へと向かって行くのであった。まあこのまま起きていて、午前中空いてるうちに銀行に行き、恐怖の公租公課を納めてこよう。
新しい炊飯器で炊いた夕飯はやっぱりあまり旨くなく、水加減はちょうど良くできたのだがお釜自体の金属臭(コーティング臭?)が米の匂いを凌ぐほど強い。これは何度か炊けば消えるのだろうか。まさか正式な仕様じゃあるまいな。
飯を食いながら観ていた椎名誠さんのドキュメンタリー番組で、南の国に棲んでいるヌートリアという巨大ネズミの開きが、でんと皿の上で大の字に焼けているのを旨そうだと思いつつ、はるか小学生時代に田舎の道で子犬ほどもあるネズミを見かけて仰天したのを思い出す。そうか、あれがヌートリアだったのだ。調べてみれば戦前から、毛皮をとるために南米あたりから輸入されていたらしく、野生化した奴が田圃を荒らすので現在も問題になっているようだ。山形あたりでは寒くて冬を越せないだろうから、あの時の逃亡巨大ネズミもその冬には凍死してしまったのかなあ、などと感慨にふける。しかし焼いて食うと太ももあたりが特に旨いという話ではないか。現在も増えて困っているなら、捕獲して焼いて食べればいいのでは。少なくとも、今夜の納豆とコロッケご飯よりは精がつきそう。
さて軽くなった財布と心を胸に銀行から出ると、出るときは霙だった空はすっかり晴れてしまい、久々の雪見の望みは夢と消える。かわりにコインランドリーと行ったり来たりしながら、ある立体写真関係のHPで感心した、一枚の写真から立体ペアを作ってしまうという試みに挑戦。要は遠景から近景まで複数のレイヤーに分けて適宜ずらし視差を作るようだ。ただし、そのままでは看板が幾重にも立ち並んでいるだけのような風景になってしまうので、フォトショップの変形やゆがみ機能をフルに活用して、斜面感や凹凸なども加えるわけである。ハマリすぎてあっというまに夜。眠気もいつのまにか消えている。
新しい物件も打鍵を始めようとして、いきなりマイクロソフトIMEが『気象時間』などという変換をかまし、ついにまた書院IMEに戻るのを決意。もともとワードをまともに使うために乗り換えただけで、とりえは再変換機能くらいのものなのだから、なんの未練もない。もともと創作や論文に使えるような語彙ではないのである。書院IMEならちゃんと『起床時間』だし、『起請する』だって出る。唯一便利なその再変換機能にしたところで、マイクロソフトお手盛りのアプリケーション以外では、フリーズの種にしかならないのである。


1月24日 月  寿司とダイヤモンド

朝方までHPをいじり続け、ようやくひと息つく。このところ熱中していた立体写真の大量アップ。しかし画像縮小というのは本当に難しい。単写真なら適当にコントラスト上げてシャープネス加えればなんとか見れるが、ステレオ写真の場合、左右の画像の妙なドット差が立体視の時にすぐ不快なチラツキになってしまう。大中小それぞれ、原版から別々に調整しないといけない。それでもリバーサル原版をビューアーで観るのとは雲泥の差で、まあ雰囲気を伝えるのがやっとか。他に煩悩のみの公園写真なども、奥にこっそり追加してしまったが、今更底は割れているので無問題。
三日ぶりに外出。あーいむどりーみんぐ、おばほわーいとくりす、ます、などと今頃になって道すがら口ずさんでしまう自分の時間感覚はどうなっているんだろうと首をひねりつつ、まあこのペースだと再来月あたりは実際クリスマスになりそうな勢いだから、大丈夫だろう。
道行く学校帰りの子供たちは今日はなぜか男の子ばかりで、男の子も小さいうちは可愛いものなのだが、見ているうちについつい自分の子供の頃など思い出してしまい、背後から抱え込んで有無を言わさずバックドロップなどかましてやりたくなってしまうので、危ない。もっともこれが女の子だったら思わず後ろから抱え込んで腰を振ったりしてしまいたくなるので、なお危ない。もし明日世界が滅んでしまうという日に、目の前を現在マイブームの木村美樹ちゃんなどが歩いていたらどうなるのか──やっぱり恥ずかしくて腰は振れないわなあ。スカートめくりくらいしてみたいしてみたいと思いつつ、ディズニーランドにお誘いして肘鉄食らうのが関の山か。しかしもし万が一OKが出てしまったら──世界最後の日のイブでも、ディズニーランドは営業する根性があるだろうか。
ああ、かんぱちが食いたい、食いたいよう。とまあ、どうしても食いたくなってしまったのである。しかし100円や120円の回転寿司では食えない。というわけで、駅前の在職中に良く行ったデカネタ回転寿司へ。いちばん安い皿でも170円、かんぱちだと290円──2貫で豚めし一杯ぶんである。結局ビールもアラ汁も頼んで、一食に1700円も使ってしまった。しかしここのアラ汁は旨い。ほんとうはこのアラ汁にどんぶり飯一杯、そんなのが理想なのだが。でも(貧乏人にとっては)高いだけあってかんぱちは絶品。角際の席で食っていると、斜め向かいで4・5歳くらいのかわいい女の子がお母さんといっしょにサビ抜きなど頬張っており、粉末茶を小首を傾げながら何振りも茶碗に振り込んでしまい、さすがに苦かったらしく、んべ、などと顔をしかめて、気がついたお母さんに笑われたりしている様子があんまりかわいかったので、思わずちらちら様子を窺っていたのだが、いつの間にかお母さんがこっちがわに席を替わってしまった。隣のオヤジのウロンな視線を警戒したのだろう。おお、お母さん、ナイス・フォロー。今時、このくらいでないといけません。よしよし。
帰宅後、録画しておいた『必殺処刑コップ』なるアクションを観る。マーク・L・レスター監督で、まだ若いルー・ダイヤモンド・フィリップスに、スコット・グレン、ヤフェット・コットー。当然問答無用のアクション・サスペンスなど期待したのだが、案外地味でシリアスな内幕物。フィリップスの生きがいい。近頃はすっかりオヤジ化してしまい、B・C級アクションやホラーしか出番がないようだが、このオヤジはまだまだ味が出るのではないか。『ラ・バンバ』や『ヤング・ガン』の頃の存在感はもっと年を食ったら進化してくれるのではないか。お願いだからそれまでしぶとく生き残って欲しいものである。


1月23日 日  しつこく義経

おう、3回目にしてようやく良く立った脇の芸達者さんたちが続々本格参入、そんな気配。美輪さんの存在感はもとより、白石さんもようやく白石節全開のお徳を見せてくれたし、まだ出番はちょっとだが大杉漣さんや左團次さんも登場した段階ですでに納得の造形、これなら主役がどんな若い衆でも大丈夫。しかし平幹二朗さんの存在感のすごいことすごいこと。同じフレームに入ると、渡さんがただの人の良いおっさんに見えてしまうから恐い。次回、こんどは松平弁慶も参入するようだが、マッチングやいかに。
おかずを買いに行くのが面倒で、とびきりそばとチャルメラで一日を過ごす。玉子も野菜ジュースも摂ったので、栄養に問題はないだろう。炊飯器の模索はまた後日。


1月22日 土  転がり疲れ

新しい炊飯器、やはり勝手が違う。無洗米も普通の米と同じ水加減でいい、吸水も蒸らしも不要、そんな説明書を鵜呑みにして炊いてみたが、ずいぶん柔らかくてべとべとした飯が炊けてしまった。明日は水を減らして吸水させて、蒸らしも充分やってみよう。自動チャーハンを試すのはその先。
スキャン画像の加工をちまちまやりつつ、いいかげん新しい打鍵や本妻のお山物件の続きに入ろうと思うのだが、どうも手がつかない。特にお山物件は、主要キャラの薄幸少女に情が移りすぎて、当初考えていた章始めのカマシを、可哀想でできなくなってしまったのである。なんぼなんでもお年頃の可憐な少女に、そんなシビアな思いをさせてはいけない気がする。この半年で、すっかり仏心が芽生えてしまった。しかしテーマとその後の進行には必要か――そうか、ここで美津江をサポーターとしてカバーさせて、麗子もカバーする側に立てば、って、ごく少数の方にしか、なんのことやらわからないですね。まあ日記のことゆえ、毎度ひとりでぶつぶつ言ってます。
困ったもので、途中で詰まっているのにも関わらず、久々に『イルカの日』のサントラなど聴いていたら、お山物件の美津江と民治の哀れにも愛しい過去の出来事など忽然と脳裏に浮かび、おうおう、そうだったのか君たち、いい話だねえ、その月夜のシーンはもうメロメロの泣き場になるねえ、などとマジにぼろぼろ落涙してしまっているのであった。
さて、夏から秋にかけていろいろ送った代物は、もののみごとに総討ち死にを遂げたようである。まあどこも300やら400やらの応募があるのだから、当然といえば当然。などと言いつつ、おかしいなあ、面白いはずなんだがなあ、などと首をひねっている私はやっぱり再起不能の落ちこぼれなのだろうが、まあローリング・ストーンという奴は、転がり始めると底につかない限りごろごろ転がり続けるしかないわけで、まあ底についてただ黙って転がってるだけになったとしても、そこまで転がっては来たわけで。
いっそ同人方向で自費出版に走ろうか、しかし金はないぞ、などと弱音を吐きつつ、思わず中学時代からの愛読書のひとつ、秋山正美さんの『葬儀のあとの寝室』を取り出して眺めてみたり。これもほんの一部でカルト化しているようだが、筆者自ら自分の血で装丁画を描いたという、自費出版本なんだよなあ。究極のフェチ本と言ってもいいだろう。まあこの方は一度は明朗物がテレビ化されているし、晩年まで種々の実用入門書や懐かしの昭和本なども多数執筆されているので、マイナーとはいえプロのライターなのだが、本当は耽美猟奇小説が根っこの人だったのだろう。


1月21日 金  お釜でチャーハン?

さてメインパソの先に、まず炊飯器なのであった。近頃どうもおかしいおかしいと思っていたら、時々失敗して炊いていたメッコ飯(気圧の低い山の上でできてしまうような芯の残る御飯ですね)ばかり炊くようになってしまった。まあこれも20年以上使っているからなあ、と諦めて、ドンキに行く。さすがにあちこちさっぱり整理されて、まるで別の店のようだ。什器跡やワックスのムラなどもなまなましく、バイトさんドタバタ大変だったろうなあ、などと少々同情。
三合炊きのちっこい炊飯ジャーというやつを購入。無洗米やらおかゆやら、雑炊やらチャーハンなどというモードまである。他は解るにしても、チャーハン・モードとは? チャーハン向きの固めの飯でも炊くのかと思って説明書を見たら、げ、保温中の飯に市販のチャーハンの素をかき混ぜ、お好みで溶き玉子なども混ぜ込み、そのスイッチを押せばあら不思議、チャーハンの出来上がり、とある。マジかよおい。今日は松屋で豚めしを食ってしまったので使用しないが、あとでやってみよう。ただし、生の食材は入れるななどとも書いてあるので、要はただの再加熱機能なのだろう。ならば事前に炒めた食材を、などとも思ったが、それだったら飯ごとフライパンで炒めるのと同じ手間だわなあ。
いつなんどき破局が来てもいいように万全のバックアップを取り、さて新しいパソコンはどんなのを調達しようと模索しつつ、過去のステレオ写真のスキャンと加工に走る。昭和55年に買ったユニバーサル・ステレオールというステレオ専用初級機(製造は1950年代後半のアメリカ)を皮切りに、グラフィック、コダック、カラリストII、ビビド、スプートニク、国産のロッカ、アウラ、オリンパスXA2二台連結改造、それから換金性が高いのですでに売り払ってしまったウォーレンサックやリアリストの2.8――撮影場所や日時は書いてあるのだが、肝心の撮影機材の記録がないので、ブローニーと35ミリフルサイズ以外、もはやどれがどれで撮ったものか記憶があやふや。まさか自分の記憶力がここまで減退するなどとは、当時は思ってもみなかったのである。まあ、写真が残っていればいいんですけどね。しかし試しに使ってみた内式リバーサルのエクタクロームはもうみんな真っ赤っ赤に変色し、外式のコダクロームは微塵の変色もなし。さすがである。内式のフジクロームも案外がんばっているようで、国産も昔から捨てたものではない。数少ない国産ステレオカメラであるアウラも、やはり1950年代後半の製造だが、他の舶来高級品を差し置いてメインで使用していたくらい、実に良く写る。
しかしなんぼスキャンしても、これをHP用に加工するのが、また大変。


1月19日 水  サポート対象外  

未練にメインパソの製造会社のHPなぞ覗き、しつこくバイオスのアップデートなど試みてみようとするが――駄目だこりゃ。初期状態の構成でないと、何もできない。サポートも対象外。今さら接続機器全部外して、換装したボードやメモリも元に戻すなど、できっこないのである。しかし最初に買った富士通といい、今回のヒューレットパッカードといい、まあすべてのメーカー品は同じなのだろうが、ボードひとつ突っ込んだだけで、リカバリすら不可能になってしまう。本体ごと買い替えろ、そんなところなのだろう。OSだけ乗っけたショップ品のほうが、まだのちのち融通が利きそう。
鬱々たる気分のままニュースなど聞いていると、まあ本当に心底感心してしまうほどろくでもない人間やろくでもない国家の話ばかりで、こういう報道ばかりだからみんな洗脳されて『どーでもいーや』状態になってしまうんだよなあ、などと思いながら、見事に自分も洗脳されてしまいそうになる。板に逃避してお若い方々の話を読んでいると、でもやっぱり少年少女たちの多数は健全で、心が洗われるような気になり、改めて『精神年齢14歳で打ち止め』のまま死んでいこうと心を定めたり。負けないぞ負けないぞ。
おとついだか昨日だか、ののちゃんを見るためにとっている朝日新聞に、でっかい誤報疑惑への反論記事などが載っていて、本日NHK側の反論なども放送されたが、あれは明らかに朝日さんの左巻きだろう。今のNHKなら、現場でビンビンの慰安婦問題の番組など作ってしまったとしても、上が放送前に自主規制してしまうのが当然で、政治家の圧力など不要なのである。朝日新聞さんも伝統的反骨左巻きは客観的に読めば面白いのだが、いまだに時々『うちのペットの尻尾は白い』→『うちのペットは犬である』→『犬の尻尾は白い』→『隣の黒犬も犬である』→『よって隣の黒犬の尻尾も白い』、そんな記事を載せるので、すなおに信じると危ない。金があったら昔のように朝日と読売読み比べてみたいと思う。でも、読売はののちゃんみたいな毒のある4コマ、表に載せてくれないしなあ。
北京ではオリンピックに向けて、市街が土ぼこりで霞んでしまうような建築ラッシュで、資金繰りが追いつかず出稼ぎ労働者への賃金不払い問題なども多発しているとのこと。きっと日本の東京オリンピック前の大騒ぎを、あの粉っぽい土壌の上で繰り広げているのだろう。しかし関東ローム層の土とは土壌自体が違うから、くれぐれもあんまり無茶をして、市民の肺の中を粉土まみれにしないでいただきたい。まあ一方で緑化も始まっていると言うが、建設と緑化を同時進行しなければならないというのも、時代とはいえ金がかかって仕方がないだろうなあ。


1月18日 火  カメラと義経と台所

やっぱりメインパソを買い替えないと、なにかと今後がヤバそうということで、しかし金はないぞということで、久しぶりに浅草のカワマスカメラにカメラを売りに行く。一年以上行っていなかったので、もはや忘れられているだろうと思ったら、さすがに老舗。覚えていてくれました。そう、お愛想などはいらないのである。誠意があればOK。今回はオリンパスのOM−4Tの白と、レンズが3本。『T』じゃなくて『Ti』だろうとおっしゃるカメラおたくのかたなどもいらっしゃるかも知れないが、輸出仕様です。昔在職中に、黒ボディしかなくなってしまった後に欲しくなってしまい、オリンパスさんの営業さんに無理を言って探してもらったものだったり。思い出の品ではあるのだが、まあさらに思い出の高校入学祝いに買ってもらったM−1や、使い古して見事に外観ジャンク化したOM−4黒もある。M−1はミイラ化する時に抱いている予定だし、OM−4はいっぺんストロボやワインダーくっつけたままコンクリートの上に落っことして、ペンタ部が斜めになっているので、もはや売り物にはならないだろう。ちなみにM−1は発売当時の物ですが、まだ元気。OM−4も、首曲がりで角の塗装などももうはげちょろけだが、なんら作動に異常なし。当時のオリンパスの一眼がヤワいなどというのは、明らかに嘘。さすがにプラスチックのストロボは木っ端微塵になったが、ワインダーも無事。ああ、当時の金属製メカはいい。と言いつつ、ここ1年はデジカメしか使っていないのだが。
これからフィルムを使うとしたら、もうステレオカメラと中版だけだろう。透過光で観るリバーサルのステレオ写真はデジタルではやはり再現不能だし、二眼レフで撮ったブローニー・フィルムを高倍率ルーペでチェックする時の感動的情報量も、どんな高性能デジカメでも不可能な要素。拡大すればするほど細部が見えてくる快感は、やはりデジタルカメラでは味わえない。
浅草のご飯お代わり自由の定食屋で、久々にステーキ定食などおごり、上野のヨドバシでパソの下見をして帰宅。デスクトップだと、メーカー品でもけっこう安い。まだじっくり考えますけど。
さて、録画しておいた『義経』の第2回は──ううむ。それなりに劇的なシナリオで、おかしなケレンに満ちたキャラなども織り込んであるが、腹芸で芝居できているのは、清盛と常盤だけではないのか。演出も、あの二人の部分にしか身が入っていないような感じがする。白石さんもナレーションだけで、お徳の出番なかったし。今後が不安になるが、次回はいよいよ三輪さん参加、勝負どころ。
裏番組でテープのほうに録画しておいた、『日本全国・わが家の台所』という特番で、昔ながらの大家族や竈のある料理風景などが現代でもけっこう生きているのを知り、なごむ。自分がほんとに小さかった頃の、実家の竈の存在も記憶にある。庭に手漕ぎの井戸があったのも。風呂桶も木製だったよなあ。物心ついた頃には、当然ガス水道完備の、現代とさして変わらぬ家になっていたのだが。まあその家すら、今は高層ビルの直下の道路と化している。裏番組を見ながら、『義経』になにが欠けているのか気づく。生活感が微塵も感じられないのである。平家や源氏の、仕事も生活のなりわいも全く描かれず、ただドラマを進める情景とセリフとナレーションがあるだけなのだ。だから、演技だけでその人物の全部を語れる役者さんの部分しか、生命感がないのだろう。これはシナリオと演出の共同責任だろうなあ。しかし、あの見え見えのカラスのカット挿入やら、黛さんはあんな凡百の演出をする人だったろうか。いままでかいかぶっていたのだろうか。なんだかただの監修者ではないか、現場作業はバラバラの若手がやってるんじゃないか、などと疑ってしまう。


1月16日 日  無料より安いものはない

休止状態という機能を使えば、なんとかまだ使えそうな感じにまでパソが復活。決定的破綻に備えて、バックアップをまめにとることにする。エクスプローラーは、様々なフリーソフトになんぼでも本家より使えそうなものがあると知り、改めてマイクロソフトの怠慢を悟る。
その場その場でわけのわからんアップデートを重ねて全体の環境を壊していくOSというのは、いかにも現代社会の縮図のよう。いっぽうで、個人単位の人間というのは本当に素晴らしい方も多く、こんな便利なソフトをただで使わせてくれる。マルチ・ドキュメント・エクスプローラーの作者様、平身低頭で御礼申し上げます。
『無料より高いものはない』などと言う諺があるが、あれはあくまでも『無料のように思わせておいて実はそれ以上のやらずぶったくりを画策している下衆が多いから注意しましょうね』という一般論であって、けして『安かろう悪かろう』の延長ではないのである。たとえばこのHPに置いてある打鍵物にしても、まあ無料のわりには面白い、と言ってくださる方も少々はいらっしゃるわけだし、たとえば自分が費やした時間がその方々の時間をただ奪うのではなく、意味のある時間としてプラスに作用してくれれば、そんな気持ちで打っているわけで。
さて、ようやく新しい打鍵物に手をつけようと思うのだが、妄想が文章になかなか直結してくれない状態。ここはまた寝ない食わないをちょっとやってみて、脳内麻薬の分泌を促してみよう。生きている死体、そんな古典的モチーフなので、よほど翔ばないと誰も納得してくれない――というより、自分で読んでも時間の損だろうし。
風呂でまた白石加代子さんの朗読を聴いていたら、ようやく話の全体像が見えてくる。録画しておいた『義経』を観るのは明日にして、こっちの妄想を続けよう。


1月15日 土  パソの逆襲

わはははは、再セットアップしても駄目である。一晩寝かせたら、もう数回起動を繰り返さないと立ち上がらない。これはいよいよ、ドライブがおかしいのか。それとも――バイオスやら、よくわからんハードの部分か。しかし起動してもエクスプローラーがフリーズするというのは、もはやOSのアップデートが破綻しているとしか思えないのだが。もはや対抗する気力もなく、OSこみで一番安いパソコンでも買わなきゃ駄目か。古い95のはUSBすら認識しないし、ノートだってバイオの2000とはいえ6ギガだし、フォトレタッチに使える画面じゃないし。
まあ数回起動すれば使えることは使えるが、エクスプローラーが使えないのははなはだ不便。うっかりバックアップしそこねていたIMEの辞書登録は消えちまうし、半月分の家計簿消えちまうし。すでに頭は完全鬱状態である。やけになって旧パソに残っていた2000ではできない旧いエロゲー(『恋姫』とか)などに走り、いまさら冬休み状態の今日この頃。


1月13日 木  雨宮再起動

どうもCDのせいではなかったらしい。先日昼飯に豚飯を食って帰りパソの電源を入れると、ウィンドウズ起動の初期で、どうしても止まってしまう。セーフモードまでも行けないのである。当方も95以来のすれっからしなので、慌てず騒がず落ち着かず、種々の努力を試みたのだが、いかにしても起動しない。もうこうなれば、残る道はひとつ――始めから出直し、再インストールである。上書きやら修正インストールやらで、不安定な状態に復帰しても、無駄なのは目に見えている。ああ、新しいドライブ入れといて良かった。USBドライブだけだったら、OS入れようにも、入れられなかったところ。
再起動の、ぼんぴょんひょろろん、の音を何度か懐かしく聴いて(いままでこの音もしなくなっていたのだ。システムいじろうが何をしようが、鳴らなかった)、ファイヤーウォール、ウィルス対策ソフト、そしてようやくメール開くと、ウィルス付きメールの山。最近は対策講じずネットに繋ぐのは、生でヤルのと同じである。そして気の遠くなるようなOS更新の末、アプリケーションの再インストールの道を歩み始める。そういえば唐沢なをきさんのギャグに『ネスケ番刑事・雨宮再起動』というのがあったなあ。
なにせオンライン販売やらアップグレード版ばかりなので、そのたびに昔のCDロムやら再承認が必要になる。そして無限に続くぼんぴょんひょろろん――ありゃ、このドライバ入れるとこの音が出なくなるのか、などと感心しながら、最新ドライバだし。こうして早くもOSは、不安定の道に入って行くのであった。今さらワードなんて入れなくともなあ、などとも思うが、あちこち資料用のリンクを入れた設定書きなどもあるので、入れなきゃしょうがないのである。HP収集ソフトも初期化されてしまい、バックアップもどしてもなぜかNot Foundとか言いやがるし。もはやいちいち気にしている余裕はない。
そうした時間の無聊を慰めるべく、次回打鍵物の気分作りのために、江戸川乱歩の朗読テープをかけっぱなしで、白石加代子さんの『ひとでなしの恋』『芋虫』やら、男優勢の『押し絵と旅する男』『鏡地獄』『人間椅子』――さすがに深夜の道に彷徨い出て、道行く酔っ払いを電柱の陰から呼び止め、ふっふっふ、貴方はこの世ならぬ無限の底知れぬ再起動の闇をご存知ですか、などと迫りたくなってしまうので、あわてて陽性映画ジャーナリストいっぺんだけ監督・小峯隆生さんの突撃レポートや小説などで精神を中和する。この方の、鉄砲ごっこ大好き男の子、といった視線、好きなんだよなあ。そうした素直な視線で、録画しておいた『A.I.』など観ると、昔は臭くて理屈に合わないシナリオ、などと思っていたお話が、すなおに御伽噺として心に沁みてきたりして、うんうん、よかったね、とっても悲しいけれど、君はきっとやっぱり幸せにママといっしょに眠りにつけたんだよね、などとうなずきながら、思わずしゃくりあげて泣いたりしてしまうのであった。
泣いた後で風呂に入ると、お湯の中のタオル(ちっこいが内風呂だし、チョンガーなのでお湯にタオル入れても、誰にも文句を言われないのがいい。昔は温泉場などでも、みんな手ぬぐいで湯船で顔洗ったりして、のどかだったよなあ。衛生観念も大切だが、どうも近頃は他人の垢を気にしすぎて、自分の垢を省みない気風が強すぎるのではないか)が、なぜかカネゴンそっくりの顔になってゆらゆら近づいて来るので、しばらくいっしょに遊ぶ。やがてバルンガに変身するが、ピグモンには、どうしてもならない。
さて、のどかな気分で打鍵を――とは行かないのである。まだアプリケーションのインストールが残っているし、エディタの設定なども、すべて初期化されてしまっているのであった。


1月11日 火  カツはペラペラが吉

おう、メインのパソコンが起動しない。起動しかかったところで、ぶつ、などという不吉な音をたて、奇妙なビープ音を数回鳴らして勝手に再起動に入り、それを何度か繰り返して電源入ったままウンともスンとも言わなくなる。どうもぶっ壊れたままくっついている、デフォルトのCDドライブが悪さをしているらしい。まあとりあえず古いバイオ・ノートなどもあるのだが、B5サイズなのでキーボードがちまちまと打ちにくく、とても大量のテキストを打つのは困難。
腐ったCDを外せば起動するのだろうが、やっぱり外付けだけではなにかと不便ということで、またまた秋葉原に侵攻するも、案外内臓のスリムタイプのCDロムドライブなんて、大手では見当たらないようだ。そりゃあ、ノートを自作する人間は、あまりいないだろう。(うちのメインパソは、なぜかノート用のスリムしか入らないのである)。裏通りのソフマップのちっこい中古ノート屋で、ようやく発見。見つけてしまえば、2千円で買えてしまう。
秋葉原駅構内のソバ屋で、久しぶりにカツカレーなど。在職中は月一の会議の帰りによく食った店で、ペラペラのカツにどろりとした具の少ないカレーという学食タイプだが、そこがまたいいのである。懐かしいとかでなく、本当にしみじみ美味いと思う。こんなカレーとカツなら、レトルトやスーパーの惣菜ならそれぞれ50円くらいで出来るのではないか。まあ、買うのは自分ら貧乏人ばかりで、ご家庭向き商売にはならないかも知れないが。
メインパソも無事起動、いじくり続けたクリスマス物件に、ようやく引導を渡す。なんとか己の生んだキャラの、行動の意味が理解できた。これまでは作者も一部首をひねって読んでいた部分があるので、読んでくださった方も、雰囲気で納得してくれただけだろう。勝手に動くんじゃねーよほんとに、などとぼやきつつ、勝手に動いてくれるくらいにならないと、やっぱり話自体が『突き抜けて』くれない。『突き抜ける』だけなら、感想をいただいた方々もそう感じてくれたようだし、初稿時から成功していたらしいのだが、やっぱり作者としては、キャラと完璧に同調しないと不安。


1月10日 月  螺旋階段

つまり自分の頭のなかからにゅるにゅると出てきた打鍵物というものは、無論自分である程度制御し趣向をこらしたものなのだが、やはり多くは深層心理によって流れているので、深層心理のくれた本質と意識的趣向が、一致しているとは限らないのである。とまあ、そんな感慨を言い訳としながら、もう脱稿して二週間以上たつというのに、何度も何度も読んでは細部をいじくってしまうクリスマス物件なのであった。これにケリをつけないと、やっぱり次に進めないのである。
母親は早くも正月の記憶が曖昧になり、今日は何日だと電話をよこしたりするが、機嫌は悪くないし、体も大丈夫そうだ。
年賀状をくれた学友にメールを出すと、20年前と変わらないヒネリだらけの返事や不可思議な画像が返ってきて、昔に戻ってさらにヒネった返事を出すと、さらにヒネった返事や画像が届く。心理を趣向に変える、そんな愉しみが蘇ってくる。
という訳で、まだクリスマス物件の流れの、心理と趣向の完全一致をめざし続けている。誰のためでもなく、自分だけのためである。しかしまあ、ネットの海のどこかに残しておけば、まあ誰かひとりくらいには、また届くだろう。


1月9日 日  義経の見所と不安

HPの模様替えにも飽きて、といって新しい話も始めず、ここ2日ほどは昨年後半の打鍵物の修正三昧。ほんとうに我ながらクドい性質。
楽しみにしていた『義経』、いきなり冒頭が一の谷でハッタリ狙ったらしいが、ちょっと合戦自体はぎこちなく、行儀良く段取り通りの感。ちょっと不安になったりしたが、以降はじっくり正統派ロマンの造りで、子役たちや渡=清盛も情感あふれ、今後に期待。常盤御前もいい感じだったが、松坂さんの時子はちょっと浅かった。浅いと言えば、肝心の滝沢=成人義経が、まだちらちら見えるだけだがやっぱり軽く、やや先行き不安。白石加代子さんが大変面白い役回りなので、最後まで観続けたいとは思う。清盛と常盤、清盛とお徳の絡みあたりの渋くてかつ情のこもった演技・演出は最高で、ここらへんが黛りんたろう演出の見所か。しかし源頼朝の子役さん、また出てくれるだろうか。実に凛々しく美味。義経の子役さんもまだちょっと見だが自然で生き生きとしており、なおのことぎこちなく棒読みの滝沢義経が不安になる。発声に魂の色が見えない。まあ、これからが本番ですが。


1月8日 土  やさしくしてネ

ふと気づくと、また下着が最後の1枚になっており、あわててコイン・ランドリー。近所のお婆さんがふたり、仲良く椅子に座って長話をしており、これがどうも洗濯をしているのではなく、単に乾燥機の熱であったかいので、日向ぼっこがわりに利用していただけらしい。出るときに「お邪魔してます」などと挨拶されてしまったが、いやもう、私の部屋ではないので、なんぼでも居てください。
特別養護老人ホーム「福山福寿園」の入所者の集団感染六人死亡のニュースなど聞き、まあ母親はケア・ハウスだから大丈夫、と思いつつ一応電話したりしてみる。元気なようだ。アルツも存外安定している。一昨年の医師の話では、結構進行が危ぶまれたのだが、やはり環境の安定が良かったのだろう。相変わらず会話は同内容のエンドレスだが、身内を忘れたりはしないし、年賀状も少なくとも家にはとどいた。結局今年は1枚も出さなかった自分より、よほど世間をわきまえている。
これが特養だと、入所者に健常者の方が多いケアハウスとは違い、介護の大変さも解るのだが、やはり年末年始で職員の手が足りなかったか、どこぞの保健所のように気が緩んでいたのだろう。院長は「年間30名が死亡するので、6名は異常と思わなかった」というが、二割一気ではないか。プロの医者の言葉ではない。まあ、やっぱり隠しておきたかったのですね。それを見かねた職員さんか、入所者あるいはその身内の方が密告、そんな気配。なまねこなまねこ。
一方、あちら関係のほうは再犯者タマ抜きではなく、出所者に鑑札ぶら下げる、そんな感じで進みそう。いい事である。性犯罪者にも人権、という反対意見がまた出るのだろうが、前述したように改心五部五部なのも現実の数字だし、たとえ事後に改心したとしても、一度やったら一生日陰者になるべき行為もあると思う。特に女性の情緒や女性生殖器などという貴重な生鮮品は、慎重に扱わないとすぐ型崩れしたり色が変わってしまったりするのだから、男としては極力注意保護するのが真っ当だろう。


1月7日 金  圧縮制限?

さて久しぶりに秋葉原などに進攻、安いDVD-R購入が目的というのは表看板で、花輪和一さんや島本和彦さんやらゆうきまさみさんやらのコミックスを仕入れにというのも表看板で、いののさんやらもくさんやらのコミケ系のナニを揃えるのがこっそり本音だったりしたのだが、それはさておき、昨日気に入ってしまったCEMISTRYのお二人の『白い吐息』も購入、帰宅してさっそくMP3エンコーダでパソコンに入れようとすると――できません。ありゃ、と首をひねりつつ、いっしょに勝った廉価版のバート・バカラックだと――できます。つまりこれは、なんらかのガード信号が入っているのか。まあキビシイ時代だからなあ、と思いつつWMAで試してみると、これはできるのですね。しかし同じビットレートでなんでこんなに違うのかとゲイツさんの耳を疑うような音になってしまうので、結局でかい192Kbpsで記録。MP3なら、なんとか128で我慢できる音で圧縮できるはずなのだが――だからガードされてしまうのか。音の潤いを気前よくカットしてしまうようなWMAなら、許せると言うことか。それともフリーソフトでなく、お金を払ったプラグインならできるのか。
しかし音に限らずデジタル圧縮の難しさはHDDレコーダーでも明らかで、家のパナソニックの場合だと、SPモード(DVD-R1枚で2時間)でギリギリ、XPモードで良好、EPモード(1枚4時間)ではもうワヤワヤの、SVHSの3倍モードよりもはるかに見にくい画質になってしまう。アナログのほうが、あいまいだが見やすい聴きやすい、そんな味付けが可能なのだろう。よく音声圧縮の低ビットレートを、FMラジオと同等、などと表現する場合があるが、昔のFMラジオで録音したテープなどのほうが、よほど潤いがあって快適なのである。CDなぞよりアナログ盤をいいプレーヤーとアンプで聴いたほうが上等、というのはオーディオ・マニアのこだわりなどではなく、厳然として別物なのですね。銀塩写真とデジタル写真の『質感』の違いも、だいぶ近づいたとはいえまだまだ残っているわけで。
まあ自然の坂がアナログ盤だとすれば、やっぱりCD階段のほうが確かに楽で、エスカレーターのMP3もついつい頼ってしまうが――WMAだけは納得いかない。128Kbpsだと『白い吐息』が、かさかさの乾燥声になってしまう。イントロのピアノですでに浅いし。


1月6日 木  小言幸兵衛の紅白

ああ、いかんいかんと言いつつ、HPの模様替えにハマっている。しかし、やっぱりJavaとかは、めんどうなのでやめよう。1ページだけ他所様のまねっこでやってみたが、他所様のパソコン上でも、まともに見えているのだろうか。
ハマリすぎて一晩しこしこ続けていたら、首がこってしまったのか、起きても首が痛くてめまいや吐き気まで催し、こったというより鞭打ち症。座椅子を襖にくっつけて首をまっすぐに保持したまま、大晦日に録画しておいた紅白を、ようやく細かくチェック。
なるほど、こりゃ史上最低視聴率もむべなるかな。紅白というのはもう全てが台本どうりのはずだから、初めからこういう風に作ろうとした訳で、これは貧弱。
もっとも、とみに近頃小言幸兵衛化している自分から見ると、出演者の方々も、なかなか花のある人が少ない。演出も歌も繰り返し見る気になったのは、CEMISTRYのお二人と島谷ひとみ嬢、それから韓国勢のRyuさんやイ・ジョンヒョン嬢、そして最盛期の歩くお祭・三波春夫さんを凌ぐのではないかと驚嘆した松平健さん。マツケン・サンバこそ芸能の王道ではないか。このオヤジは本物だ。若い人はおおむね大人しく優しすぎるんですね。あるいはただはしゃいでいるだけの泡沫アイドル集団とか。その優しさが芸能まで到達しているのは、CEMISTRYだけのように見えてしまった。はしゃいでいるだけで芸になるほどインパクトのあるアイドルも見つからなかったし。なんか気志團もNHKの台本のせいか、盛り上がらなかったし、どなたかの朧月夜は情動的に小学生以下(その歌唱から心がまったく見えない、という意味で)だし、あとの中堅はマンネリ気味だし、期待した和田さんはじめベテランは衰えが見えているし、さださんは死ぬまで浅いまんま行くみたいだし。
しかし、演出が『ただ歌うのを撮りっ放し』が多かった責任も大きい。長山洋子さん、細川たかしさんあたりの演歌勢が、どこにでも転がってるようなお定まりの歌を、芸と気迫で釈迦力に盛り上げようとしているのに、ただの撮りっ放しなのである。あれを歌唱力勝負と見て演出入れなかったとすれば、そもそも演出家がお祭向きの人ではないのだろう。演出しだいで、ひ弱な優しさだって底の浅いはしゃぎだってマンネリだって衰えだって、なんぼでも年に一度のお祭に盛り上げられるディレクターもいるわけで。それともやっぱり幹部が小心の、海老沢さんのイエスマンばかりか。
ああ、また打ちたい放題打ってしまった。でもオヤジとしては、はしゃぎっぷりなら森高千里嬢や、ロック畑ならバラードしか歌わせてもらえなかったにしろ花のあったX-JAPANや聖奇魔IIや、芸能集団・米米クラブ、演歌なら全盛期の都はるみさんなんかのノリが、とても恋しいのである。
ところで平井賢さんの『瞳をとじて』を聴いていると、ついつい財津和夫さんの『ラブ・ストーリーを君に』で精神補完したくなるのは私だけか。あの映画の後藤久美子ちゃんも、そういえば白血病だったなあ。
夕方には首も安定したもよう。


1月5日 水  猫懺悔

さて天気もいいようなので、太古の昔にその行事の存在を失念してしまっていた、お掃除、という行事を執り行う。念のため何世紀前からとだえていたのか検索してみたら、おお、二か月前にやっているではないか。在職中はせいぜい半年に一度くらいだったような気がするので、上出来。当時は敷蒲団が作れそうなくらい綿ボコリが溜まっていたものだが、今日は座布団も作れないほどのホコリしか出ず。物足りない。
本日は明け方6時頃に寝て11時には起きたのだが、大変面白い夢を見てしまった。夢の話というのは他人様に聞かせても、よほど当人に興味でもなければなんの価値もないのだが、これは日記だから構わないだろう。郊外の一戸建てに住んでいる夢である。毎朝庭の池の鯉が、減っていく。隣家の猫が夜中に食ってしまうらしい。で、自分はどう対処したかと言うと、鯉の代わりにピラニアを飼う。翌朝チェックに行くと、しっかり猫の骨が池に沈んでいる。で、さすがに後悔し、嘆き悲しむのである。もともと猫は大好きだし。じゃあなんでピラニア飼うんだよ、と言われると、それは夢の中のことなのでかんべん。で、隣の住人が、怒って怒鳴り込んでくる。自分は猫の骨を持って街に出て、クローン屋さんで2匹再生してもらい、片方を隣に返して、残りは自分で飼うことにする。そんな夢である。実はクローン屋さんに行く前に、脈絡もなく回転寿司にも寄ったのだが、そこでは季節商品として、『カンガルーの湯引き』というのが流れているのであった。
まあ普通夢などというものはしばらくすると忘れてしまうものだが、これはさすがに面白かったので、起き掛けにメモしておいた『猫と池とピラニア』『カンガルーの湯引き』という走り書きをもとに記憶を再構成したわけだが、もうひとつ走り書きにある『徳本佳寿美十五歳当時のクローン六十万円』、というのはたぶんメモ時に思いついたネタだと記憶している。なぜ日美野梓ちゃんや城生綾菜ちゃんではないのか、寝ぼけていても無意識の内に年齢的自主規制が働くのか。
まあ猫の夢の原因は、お正月に聞いた落語『猫と金魚』あたりが原因だろう。その時思い出した、モンティ・パイソンのコント『史上最低の家族』も影響しているようだ。『猫ベル』の出るコントである。生きた猫が玄関わきの壁に埋め込んであって、外に出ているお尻のシッポをお客さんが引くと、中の上半身がフギャーと鳴いて知らせる奴。ああ、ねこにゃん、ごめん。


1月4日 火  ちょこちょこ

HPの各コーナーも、入り口をちょこちょこと細工し始める。
本妻打鍵物の推敲もちょこちょこと。だいぶ溜まったので、そろそろHPにも載せてしまおうか。


1月3日 月  表替え

HPの入り口と看板を、新年らしく作り直す。まあ畳とおんなじで、表替えだけしても中身はシラミやダニでいっぱいだから、一度中身も燻蒸しないとなあ。ぼちぼち進めよう。
お正月恒例『初笑い新春寄席』、年越しソバを(まだ汁が残っているのだ)食べながら楽しむ。と言っても、これは紅白と同じで、知らない若手マンザイなどが増えてきた。まあ歌に関しては、ときどき良い曲に出会えるので若手オーライだが、漫才や落語は――爆笑問題くらいか、若手では。ベテランも中途半端で、なかなか笑えず。あの宮川大助・花子さんが未だ最強のパワーを見せて、笑い死に寸前までトリップさせてくれたし、紙切りや曲芸等伝統芸能も健在のようなので、ちょっと安心。でも、ケーシー高峰さんは、ずいぶんおとなしくなってしまった。
『大化の改新』は、冒頭の雄大なCG作画で大期待したら、本編は凡庸な演出に落ちてしまい、ああ残念、とつぶやいてパス。せっかく時代考証のゆるいいくらでもハッタリかませられる題材なのに、あの田舎はないだろう。リアル志向なら、もっと徹底してほしいし。


1月2日 日  時代

NHKで観た三遊亭円楽さんの『浜野矩随』が、とても美味。泣きながら泣かせる、そんな高座が、お歳を召すごとに嫌味でなくなって来る。名人と謳われる師匠の故・円生さんよりも、人情話としては、よほど優れているのではないか。林家木久蔵さんの、彦六さんの物真似も、大いに笑える(その後の『蛇含草』は、あいかわらずそこそこだが)。でも、ごひいき小三治さんが、妙にトチったり間をしくじっていたのはなぜだろう。体でも悪いのかしら。歳のせいなのか。円楽さんなどが10年前より魅力を増しているのに対し、小三治さんは10年前のほうがずっと精彩があったような気がする。まあ、もともとの芸風がまったく違うからなあ。
10年20年の時の流れの移ろいなどに感慨にふける一方で、たとえば今現在の2005年だって、人の好みによって、全然違う社会なんだろうなあ。荷風の『墨東奇譚』と獅子文六の明朗人情コメディー『悦ちゃん』が、まったく同じ昭和10年あたりの東京市井を描いているにもかかわらず、まったく異世界としか思えない、そんな感慨にもふけってしまう、諸行無常のお正月。
なにはともあれ、ようやく本妻大長編にひと区切りついて、とっくに過去ログに飛んだ板を、ひっそり更新。まあ、気づいてくれる方もいるだろう。しかしもう350枚近く打って、まだ話は三分の一くらいしか進んでいないのである。ミイラ化する前に終るのだろうか、などといいつつ、並行する次作はなんにしよう、などと浮気心もむくむくと。


1月1日 土
  血圧が……

えーと、今年のカレンダーまだ入手してないんですが、土曜日らしい。
1年の計は元旦にあると申しますが、まだなんにも計がないので、たぶん元旦ではないのでしょう。
しょっぱなからこのようなポーズは取りたくないのだが――こまわりくんポーズで、「死刑」。あの『もらった』つもりの生き物のことです。言いたい放題自供しているようですね。「やっぱり大人の女性がいいが、金がかかる」。馬鹿野郎。ソープ代も貯金できんなら、マスだけかいてろよ。「女児を見ると、変な気分になる」。俺だってなるよ。だから稼いでどっかで抜けよ。稼いで探せば、2年にいっぺんくらいは、幼児体形で気立てもそこそこの女性にぶつかるよ。ニーズわきまえたプロなら、シェーブだってしてくれてるよ。それまでに掛かる百万稼ぐために、この不幸な時代のロリ親爺は働かなきゃならんのよ。甘えんじゃねーよ。「だれでもよかった」「昔つきあっていた女性に同じ年ごろの子供がいた。その女性に恨みがあり、メールを送りつけたのは仕返しのつもりだった」――やっぱりこの生き物の世界は、歳の割には狭すぎる。来世の修行に送るべき。余罪もたっぷりあるようですし。
さて、正月早々、血圧上がってキレそうだ。録画した『御嶽山』や『新春狸御殿』でも観て、自然の中に我が身を拡散したのち、仮想に旅立つとしよう。なまねこなまねこ。