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12月31日 土  シメは謙虚に(どこがや)

 先入観や、その時々の感情に流されてはいかんなあ、と思いつつ、本日もやっていた『女王の教室』では、「うんうんうん」などとちょっとしんみりしてしまったのだが、やっぱり基本設定パクリを指摘されたら、すなおに「ごめんなさい」したほうがいいわなあ。大デュマのように「確かにパクった。でも、俺の話のほうが面白い」と居直るのもいいが、それも出来ないのは、やっぱりそこまでの自信がないからだろうし。ゴジラも今日は印象変わるかな、と思ったら、やっぱり児童映画で、昔の『ガメラ対バイラス』に近いノリなのだけれど、あっちは活躍するのがきちんと小学生なのであって、いい歳こいた青年や大人たちが小学生水準の発言と行動しまくるのは、結局「おいおい」なのであった。しかし後半ゴジラ・サイドのみ抽出編集、年が明けたら一度やってみよう。初見時の印象と変わらず、後半の編集は『ガメラ対バイラス』の足元にも及ばぬ単調さ。いや、ほとんどの人間アクション演出も、ただカット割りでスピーディーに見せているだけで、その一瞬一瞬の気合いやカット割りは、ジョン・ウー大人などの足元にも及ばぬ凡庸さ。役者さんはがんばっているのに、やはりこれは演出の責任だろう。
 夕方、年越し蕎麦でもゆでるかと思ったところへ、アマゾンに注文していた分裂症の資料が年内ぎりぎりに到着。いっしょに頼んだマーケット・プレイスの古書は一週間も前に届いたのに、ご本尊は相変わらず悠然と構えている。しかし大晦日まで、ペリカン便様、ご苦労様です。明日から姉夫婦といっしょに母親の様子見を兼ねて帰郷するので、行き違いになったら気の毒なところでした。

 さて、恒例の『にっぽんの歌』が流れる中(『紅白』は録画予約しただけでまだ観てません)、このページを年内に覗いてくださる方がどれだけいらっしゃるかも判らないのですが――。
 皆様、本年中はたいへんお世話になりました。お世話にならなかった方々も、こんなところを覗いて下さっただけで感謝です。また、死美人物件やたかちゃん達に温かいお言葉をかけて下さった皆様には、頭に木の葉を乗せて尻尾をはやしたペア・ゾンビや、ぴかぴかのいちねんせいトリオが、初夢の中で、七福神といっしょに謹んでペコリしてくれるといいなあ、と無責任に思っております。
 ビンボ暇なしなので年賀状一枚も書いておりませんが、来年もよろしくお願いします。
 それでは、良いお年を。


12月30日 金  子供たち、大人たち

 昼飯を食いながら、録画しておいた刑事コロンボ・シリーズの名作『別れのワイン』を観ようと思ってスイッチを入れたら、なにか愚劣な大人のカリカチュアのような小学生たちが陰鬱なシーンを展開しており、なんだこりゃ、まさかこの末世にこんなアホな児童番組までひり出されたのではあるまいな、と思わず後ずさると、ああ良かった、『女王の教室』とかいう、有名な盗作居直りドラマらしい。そうした志の連中が作っただけあって、まともな社会認識もない大人、そんな大人が妄想した現代子供社会像――まあ視聴者も大半アレなので人気はあったのかも知れない。昨今よくある、シリアスとコメディーとギャグの区別もつかないシナリオである。こうした臭いをリアルと錯覚して、出てくるキャラが大人から子供まで全部未熟・未分化な作者のひとり芝居、そんな感じの物語に疑問を抱かない子供たちも増えていくのだろう。ああ、気が重い。

 いっさいのタブーを笑うギャグ、タブーに遭遇したらきっちり対峙しなければならないシリアス、その両者の間を微妙なバランス感覚で綱渡りしていくコメディー、各層を融合できるメタ――それらの構造は、仮想と現実をきっちり把握してこその、また把握するための構造なのだけれど、広く一般に公開される大量のドラマやバラエティーが、やくたいもない発作的感性もどきに踊らされて多くそれらの構造感覚を失っているから、世の中の箍もビンビンちぎれていくんだろうなあ。まあ、子供にも大人同様、自力でバランス感覚を身につけていく賢い(学業成績なんかじゃないぞ)層がきちんと存在するからいいようなものの、それがなかったら世界などとうに破滅している。でも近頃の投稿板などを見ていると、何を聞いても焼け石に水の人間が大人にも子供にも増加中に思われ、ちょっと不安。

「ねえ、たかちゃん、くにこちゃん、ゆうこちゃん。君たちには、いろんな構造を、とっかえひっかえぜーんぶやってもらってるわけだけど、来年もよろしくね」
「はーい!」(実はなんにも考えていないが、好物のお汁粉を与えられたので、とってもごきげん。)
「おう、まかっとけ!」(なんだかよくわからないが、生まれて初めて宅配ピザを取ってもらったので、その恩義には報いようと思っている。)
「……こくこく」(不二家の苺ミルフィーユの味は仏蘭西物に比べるとちょっとアレだけど、下々のお味を知るのも一興、そんな意味でうなずいている。)

 さて、気を取りなおしてコロンボを観ようと思ったら、某氏よりいきなりお歳暮などという代物が届き、仰天。プチプチ封筒に、また例の醒獅液が一本入っている。あれ、販売禁止だったんじゃないの? と思って電話したら、個人輸入は自由なのだそうだ。中国では相変わらず生産されているらしい。錠剤のバイアグラよりも親しみやすいドリンクなので、割高でも代行を頼むリピーターは多いそうだ。ただし、近頃はシルデナフィル成分をケチっているのか、効きが半減しているらしいとのこと。まあ、もともと入っていないことになっているので、入れても入れなくともかまわないのだろうが。某氏の表現によると、二回戦半程度にグレード・ダウンしているそうな。えーと、去年知らずに飲んだ時には、確かたちどころに視覚異常が起こり、寝たきりだった息子が半日以上直立不動になって往生した記憶があるから――なるほど、半減で妥当だろう。しかし、当座に使用する予定は、哀しいが、ない。使用機会のほうのご教授をお願いするにも、氏は極めて健全な性癖の所有者なので、自分とは守備範囲がまったく違うのである。とりあえず、お礼を言っておく。

 ようやく落ち着いて『別れのワイン』を観る。馥郁たる倒叙ミステリーである。ワインに人生を賭ける真摯な犯人と、敬意を表しつつ飄々と追いつめるコロンボ、なんとも快い滋味がある。演出も細かく、オチもお見事。まあ、原作者やライターはこの一本で一年暮らせるほどの稿料だというから、注ぎ込まれている力も違うのだろうが、いい物はいいし、幾層倍のギャラのハリウッド超大作でも駄作は多い。
 夜は夜でゴジラの最終作を観る。劇場で観た時は、前半はいいが後半トロかったので自力でゴジラ中心に編集したいなどと思ったのだが、ブラウン管で始まったのをしげしげチェックしていたら――こ、こんな薄っぺらい映像だったのか。これこそ大スクリーンの魔術だったのですね。細かいカット割りで誤魔化した映像の薄さに気づいてしまうと、話自体も浅いのなんの。漫画とアニメと砂糖菓子ハリウッド映画のイミテーションの集合体か。小学生の頃、自分が考えていた話のようだ。あの監督に対する認識を、また下方修正しないといけなくなってしまった。たとえば湯浅憲明監督の昭和ガメラ・シリーズの後期作品が、大人がしゃがんで児童の視線までおりた子供っぽさだったとしたら、このゴジラ・ファイナルは、身長だけすくすくと170センチ以上に育った児童が、自分で作った学級映画か。まあ子供が作っているのだと思ってしまえば、悪意や姑息さが感じられないぶん無邪気に楽しめる部分も多く、児童映画としてけして無意味ではない。しかし子供でも商売になれば何億も使わせてもらえるのだから、邦画界、まだまだ豊かなのかもしれない。


12月29日 木  少年たち

 ああ、また言ってしまった。高校生さんらしい方にあまり厳しく言うのはちょっと気が引けるのであり、自分だってその頃は子供だったのだけれど、正直言ってその頃までにある程度『外』の見方、というより『見るという行為』そのものを身につけていないと、学校という閉鎖社会でどんなに光る子供でも、『二十歳過ぎたらただの人』、あるいは『勘違い野郎』に成長しかねまいと思ってしまうのですね。つまり創作行為で言えば、出てくるキャラが大人から子供まで全部未熟・未分化な自分のひとり芝居、そんな感じに。それが許されるのは、真の天才のみだろう。トンデモ風の純エンタメならいざ知らず、社会的『もっともらしさ』には、それなりの開かれた意識が必要です。なんて、実は半分方、当時の自分に対する反省でもあるのだが。しかし自分は、岡崎英生先輩の少年時代の小説を、高校の10年前の文芸部誌で読めたからなあ。いわゆる芸術性・思索性(実に曖昧な言葉だが)で言えば、少年時代から才能を発揮した多くの先達の方々が存在するのだけれど、こと社会(人間)俯瞰的視点の小説に限れば、いまだその作品くらいしか、納得して読めた記憶がないのである。閉ざされた視点には己も社会も宿らない。芸術は宿るかもしれないが、やはりそれが許されるのも、真の天才のみだろう。

 セントジョーンズワート補充の必要性を感じ、含有率が高いサプリメントを安く売ってくれている、遠くのダイエーまで散歩がてら出向く。どこでも売っている大手の薬品メーカー製品だと、微々たる含有量でプラシーボ効果しか期待できないようなシロモノを、健康食品の名目をいいことに、とんでもない価格で売っている。もっともあれは実感として、鎮静効果というよりは神経がトンがる効果であり、やたら怒りっぽくなったりもする。しかし「いいやもうなにがどうでも」よりは、「まったくどいつもこいつもぶつぶつぶつ」のほうが、まだ生産的な気がする。「どいつ」や「こいつ」や「自分」は、特定された対象である。「いいやもうなにがどうでも」になってしまうと、時と場所を選ばず死んでしまったり、相手を選ばず寸足らずな行為に走ったりしそうだ。
 歳末のショッピングセンターは、女性やろりが溢れ、甚だ快。多くの男性は員数外として(おい)、少年たちはちょっと気になる。あいかわらずグダグダと粘り着くタコの寄り合いのような少年たちも多いが、きちんと背筋の伸びた、清々しいグループもちゃんと居る。スポーツ系だろうか。
 もっとも体育会系が安心とは限らない。背筋の伸びた根性悪も多数存在する。『健全な精神は健全な身体に宿る』などというのは筋肉バカによる誤訳であって、ご存知のように、『健全な精神を健全な身体に宿らせようね』が正しい原意である。仲間内で私的に集団行動をとっている現場を見れば、馬鹿かまともかはおおむね見当がつく。背筋と精神の均衡が取れた子供たちは、群れても個々の動作から、それぞれ異なる確かな香りが薫っている。
 まあ世の中やっぱりバランスなのであって、背中を丸めたおっさんは精神も丸めていればいいし、ぶよんとしてしまりのないオタ系は、妙にトンがらず、ぶよんぶよんと生きればいい。そのほうが、「えっ!? なんであの人が……」などという、不相応な恥を晒さずに済む。

 スーパーダッシュ文庫の応募作は、第二次選考も通ったようだ。大賞や佳作は無理でも、なんとか第三次まで行き、プロや現役アニメ制作者の方々にも、きっちり読んでいただきたいものである。特に新井素子先生に読んで欲しいよう欲しいよう。つまり、ウン10年前の大学時代に同じキャラたちの話をたったの90枚弱で書いて『奇想天外』に送り見事に予選落ちした時、『あたしの中の……』で佳作に入った高校生の少女、それが新井素子先生なのである。
 ああ、もう一本を、高橋克彦大先生に読んでいただけたりしたら、笑われようが捨てられようが、冗談抜きで死んでもいいのだが――そちらはあまりにも大それた夢に思われる。とんでもねー修正漏れ入れたまま送ってしまったし。あれ、でも、あっちにも幾つか修正漏れがあったような……うん、忘れよう、悲しい過去の過ちは。もうちょっとで新年だし。


12月28日 水  望郷

 各地で大雪の上、お亡くなりになる方々までいらっしゃるのを耳にするにつけ、現在雪っけの全くない土地で安穏と炬燵に収まっている我が身はつくづくいい気なもんだとも思うのだけれど、やはり自分は、雪が欲しくてたまらないのである。下の写真は、自分がもっとも多感であった(早い話が馬鹿だった)頃の、故郷の冬である。ヤシカアトロンという、ミノックス版の超小型カメラで撮影した、たった8×11ミリのネガをスキャンしてみた。ご本家ミノックスほどではないにしても、当時の純アナログ・メカらしく結構良く写っており、今でも使用できる(右上の一枚のみ、クリックするとでかくなります)。
 しかしここに写っている町は、もうない。道筋を含めて、町全体がない。高層ビル直下の立派な道路や、まったく別の街に変貌している。

    

               

 NHKの録画で、ダムに沈んでしまった村の古い8ミリ記録と、現在そのダム湖を見下ろす老人の方々の寂しげな後ろ姿など、蜜柑を食いながらながめる。しかしその村はあくまでも湖底に地形をとどめ、宝くじにでも当たればある程度再見可能であろうと思われ、いささか羨ましくもある。懐旧のよすがも、湖面ならまだ美しく思える。
 高層ビルの展望階から懐かしき市街を一望し、我が家のあった区画だけがきれいさっぱり異次元にワープしていると、かなりへこむ。そのビルそのものが、ごちゃごちゃとした思い出の上に立っているはずなのだけれど。


12月27日 火  こくこく→はてな

 『政府税制調査会の石弘光会長は27日の財政制度等審議会の会合で、与党が児童手当拡充の財源として来年度のたばこ増税実施を決めたことについて「(税を)取りやすい所から取るとの考え方で、税を汚すもの」と批判し、たばこ税が事実上特定財源化されたことに不快感を示した。石会長は11月の記者会見で「(たばこ増税は)将来課題としてやるにしても、一般財源という形でやるのが筋」と述べ、時代に逆行する特定財源化に否定的な考えを示していた。自民党税制調査会の柳沢伯夫会長も税制改正の議論の中で「特定の歳出を賄うためのたばこ増税は税体系をゆがめる」と指摘。しかし少子化対策を政策の柱に掲げる公明党の要求に「今後の政権運営を考えれば最終的には受け入れざるを得ない」(党税調幹部)として実現した。(共同通信)- 12月27日19時31分更新』。
 公明党に関する個人的感情はちょっとこっちに置いといて、まあ未だヘビー・スモーカーをやっている人間としては、どうせ税を払うならいっそ行き先がはっきりしている方がありがたい。今後モクを吸う時だけでも、ああ、これで自分は少子化対策の一助となっているのだ、そう確信できる。いっそ酒税もなんらかの福祉に限定してはどうか。酒税や消費税や市民税を払うたんびに、ああ、その税のたとえほんの一部、ナノミクロン単位の金額だとしても、馬鹿や鬼畜や余剰役人に回るのかと憂鬱になる。
 また転覆した列車の中で、ちっこい女の子を含む方々の遺体が冷えゆくまんまだし、有希ちゃん殺害犯捜査の様子は他のニュースに紛れてちっとも進展が聞かれないし、預金残高は減る一方だし、腹は下るし眠れんし貨幣状湿疹は痒いし――ぶつぶつぶつぶつ。
 いやいや、徒に暗くなるのは贅沢だ。世の中には、飢餓や難病と真摯に対しながら、なお人に優しい方々などもいらっしゃるのだ。報道されにくいだけなのだ。しかし今の日本の『報道』って、いったいなんなんだ? 嫌なこと6割しかたのないこと3割、あとの穴埋めに明るい話題1割――それが『報道』なのか? 少なくとも自分の現状としては、嫌なこと2割しかたのないこと6割キショクのいいこと2割、そんな生活実感なのだが、私が異常なのだろうか。
 せめて悪人と同量の善人、悪事と同量の善行、凶事と同量の吉事も報道してくれまいか。それが公平な社会だと思うのだが。


12月26日 月  玩具は玩具

 いかんいかん、どなたかを否定的表現で論ずる時には、できる限り「知って」からではならんのだ――などと頭を掻きつつ、HIGHWAY61やらセクシュアルマイノリティ教職員ネットワーク様のHPなど、覗かせていただく。
 前者はやっぱり多分に無分別さを残した社会的には未分化の若者たちであり、それだけにファンも共感者も多いようだが、ただその『共感』を誘った部分の多数が、引用先を明示せず先人の表現をコピーした物だったとしたら、やはりその少年たちは窃盗犯であり、矯正が必要なのである。
 後者の方々の活動に関しては、性教育の捉え方などにおいて、教育委員会や多くの公的審議会よりも共感・賛同できる部分が多かった。しかしながら『玩具』に対する所見は、むしろ教育者としての責任放棄に近いものと思わざるを得ない。『玩具』は確かに子供にとって、なんらかの社会的擬似体験ではある。しかし、その『玩具』から出発してどこへ行くか、それが現実であり、教育者の仕事でもあろう。
 たとえば自分は幼時の鉄砲ごっこで、のべ数百人の幼児を銀玉鉄砲で射殺したり、推定数百回撃ち殺されたりしたが、たいがいみんな元気に復活してなんとか普通の親爺になってるし、自分もまた親爺になってから本物の鉄砲で親爺を撃ったことも撃たれたこともない。むしろ『銀玉当てられたら死んだふりをしないと卑怯』とか、そっちの感覚もまた『玩具』の『玩具』たる所以である。また、よく言われることだが、昔の幼児は(今もか)罪もない虫の羽根をむしったり脚をもいだり、地道に生きる蛙の肛門に爆竹突っ込んで爆死させたり、そうやって『一方的に傷つけること・殺すことの淫靡さ』を覚え、それによって快感も背徳感も同時に覚えた自分をどう捉えていくか、そこいらを雰囲気で教えてくれるのが親や教師や遊び仲間や年長さんや本や漫画やテレビや映画、つまり子供にとっての社会だったはずである。自分には、こと『玩具』に関する限り、セクシュアルマイノリティ教職員ネットワークさんの意思表明は、彼らが反論している教育委員会の性教育感覚と同じ方向の、そして社会全体の表層的な『逃げ』に思えてならない。

 差別語を全部失った時、差別意識を言語で指摘する手段もまた失われてしまうと、良識ある先人方は言っている。
 ちなみにこのところ自分の口癖になってしまっている『寸足らず』は、当然人間の身長を表したりしているのではありません、念のため。しつこいようですが、個人的には特に女性の方など、むしろ小さい方が好ましい私です。もっと正直に言ってしまうと、性格的に極度の寸足らずでない生き物ならもうなんでもいい、そこまで行っちゃうことも年に四回くらいありますね、精神的に。ただし、ろり>女性>しょた>猫>青年>犬、そんな感じで。さらに非難を恐れず告白しますと、親爺だけはかんべん――なんの話だ。でもサムソン愛の方々が中年の同性を愛するのは必然ですし、新宿二丁目に優しい方々が一般世間より多いのも(少なくとも私の知っている20年前のあの街では)存じておりますし、女性同士の抱擁する姿など、思わず胸が躍ります。


12月25日 日  真相は深層

 なんかいろいろと愛着が屈折しつつしかし結局大好きな中島みゆきさんの歌がまたパクられたと耳にして、そのHIGHWAY61とやらの『サヨナラの名場面』とやらを聴いてみたら、これはもうパクったと言うより、姐御の歌を聴いた記憶を失ってそのまんま自分の歌として認識してしまった分裂症患者なのではないか、と思ったらなんか過去にも色々記憶を失いまくりのバンドだったようで、やはり若者達に増加しつつある若年性健忘「なにそれ」「知らねーよ」は、食品添加物や環境ホルモンの悪影響があるのかも知れませんね。って、我々世代のほうが、遙かに節操のない時代の添加物や汚染物質摂取しまくりなんだってば。乳時期にはDDT吸って生きてたのだ。あの缶カラペコペコの殺虫剤。もっともDDTは、どうやら人間にとっては毒でも環境ホルモンでもなかったらしく、それどころか近頃では、あのダイオキシンすら大した毒性もなく大した環境ホルモンでもないという説が有力であり、逆に「猛毒だ猛毒だ!」と騒いでいた方がすでになんか別の要因で集団ヒステリー化していたように思われる。つまり、歪曲した記憶(あるいは記憶の捏造)と現実の齟齬に気づいたとき、あくまで気づかないふりを続けたり、「すみません。間違ってました」と素直に頭を下げられない現象、つまり真相を表層的に流してしまう傾向こそが、大人から子供にきっちり伝播するおビョーキなのですね。

 こんな記事もある。『
人気お笑い芸人、レイザーラモンHGさん(30)をキャラクターに使った玩具を発売する「トミー」(本社・東京都)などに対し、同性愛者など性的少数者の教職員でつくる「セクシュアルマイノリティ教職員ネットワーク」(STN21、本部・京都市)が、同性愛者差別を助長するとして、発売中止を申し入れた。この玩具は、樽(たる)に剣を突き刺し、中の海賊が飛び出したら負けという人気玩具「黒ひげ危機一発」のHG版。「爆笑問題のバク天! 黒ひゲイ危機一発」という商品名で今月30日に発売を予定し、レイザーラモンHGさんの人形が「フォーッ」と叫びながら、飛び出す仕組み。STN21は、同性愛者やそれを連想させる人物を樽に入れて剣を突き刺して楽しむ玩具は差別で、子どもたちに「同性愛者は差別して良い」との意識を植え込む恐れがある――と指摘。「社会や学校で孤立しがちな性的マイノリティーに苦痛を与え、いじめのきっかけを作りかねない」としている。トミー広報チームは「この玩具は、捕らわれた黒ひげを味方の海賊が救出するというコンセプト。指摘されたような『同性愛者を剣で突き刺して楽しむ』との認識はなかった。差別の助長には当たらないと考えているが、申し入れを真しに受け止め、理解してもらえるよう説明したい」と話している。【江田将宏】(毎日新聞)12月23日19時52分更新』――。 『セクシュアルマイノリティ教職員ネットワーク』とやらがどんな組織かは知らないのだけれど、まあいかにも『ある種の教職員』らしくはあるわなあ。マイノリティーであるかどうかに拘わらず、こういった玩具と自分(の主義主張)の区別もつかない大人が学校で大手を振っているから、生徒の中にも玩具と人間の区別もつかない子供が増えるのではないか。

 ところで自分はネット上のニュースやページを保存するとき、リアルタイムに収集ソフトを使って自力でフォルダ分けしておくのだけれど、当初のジャンル別というまっとうなフォルダ分けに加え、最近では『ゲス』『クズ』『バカ』とか、『そうか?』『そうだ!』『うるうる』『くすっ』『わはははは』等の、末期的・感情的なフォルダを使っている。たとえば、既知外連中の非道を『ゲス』フォルダに放りこむだけで、ささやかなカタルシスを味わえたりするし、微妙な記事を「これは『ゲス』か『クズ』か」などと迷うことによって、より深く考察(?)できたりする。しかし――『そうだ!』や『うるうる』に入る情報の、なんと少ないことか。まともでない事を広めるのが宿命のマスコミはともかく、一般の方々のページも、その傾向が強い。しかし、おおむね『ゲス』や『クズ』の大半が非常に表層的なレベルであるのに比し、『そうだ!』や『うるうる』はかなり深くて濃いので、かろうじてそれらを受ける自分の精神的均衡は保てるようだ。やはり人間、あえて何か発しようという時は、濃く深く、それが大事なのだろう。
 たとえば猫ちゃんの写真ひとつ取っても、単なる猫っかわいがりらしい方の撮る写真と、この方はきっと人間の子供と猫の子供が道端に捨てられていたら迷わず猫の子を拾うに違いない、そんな濃い方の撮る猫の写真は、やはり気合いというか踏み込みが違うのである。そしてきっと、両者が望む望まぬにかかわらず猫ではなく人間の子を育てる立場になったとしても、前者は盲目的な人っかわいがり(?)に走りがちだろうし、後者はより深く対象に通じようとするに違いない。
 さて、じゃあ自分が道端でヒトの赤ん坊と猫の赤ん坊を見つけたら――はい、当然ヒトの赤ん坊の産着をチラリとめくったりして、「なんかひっこんでるヒトの子」>「ねこにゃん」>「なんかでっぱってるヒトの子」、そんな優先順位で行動するだろう。ああ、まだ浅いなあ、自分。……なんの話だったっけ。まあいいか。なんとなくクリスマスだし。

 録画しておいた『ローマの休日』のデジタル・リマスター版を観る。形容ではなく、実際に心が洗われる。滅びかけたシナプス群の一部も養分を得て復活したような気がする。一秒一語一句吟味したシナリオ、端役の隅々まで考え尽くした大人の役者・演出、それらが集って美しい童話のような主役たちを現実に織り込んでくれるのだ。リマスターのおかげだろうか、ビデオやLDでは今一判然としなかったプロローグ部のベッドのアン王女のご尊顔を彩る涙の跡まで、なんとまあいたいけにそこはかとなく。最初期型のHDDレコーダーや二万円の球面ブラウン管でも、「映そうとする世界の元が美しければ」、それはきっちり美しい。何年後かには地上波デジタルとやらがこの国を強制的に覆うようで、そんなもんいらんという国民もまた金を払って、新しいテレビやらチューナーやら変換器やら買わなければ地上派番組すら観られなくなるようだが、クオリティーが問われるのは、多くマスター側なのだ。そんな金があったら流す番組を作る過半数の寸足らずのためにココロの身長伸張器でもプレゼントしたほうがいいのではないか。できれば私にもそっちをください。クリスマスだし。


12月24日 土  ♪きっと君はこな〜い〜♪

 定番ソングが流れるにぎやかな買い物の街、山下達郎さんの超個性的なご尊顔を思い起こして、なにがなしクスリと笑いつつ、キリストさんはなんだかよくわからないがサンタさんはいつまでも元気に現役宅配業続けて欲しいなあと心よりお願いしたい今日この頃、皆様方におかれましてはいかがお過ごしのことでございましょうか。シヤワセな方もそうでない方も、きっと世界は分け隔て無くクリスマス・イブと思われますので、冥途の旅の一里塚という意味では人類みな平等。
 ……暗い。今年はすげー暗いぞ、自分。
 まあしかし、達郎さんの同じアルバムに収録されている『メリー・ゴーランド』でもまた聴けば、孤独なオヤジも孤独なオヤジなりに、かつて何か夜の無人の遊園地を満たしていた夢の光輝たちを、しみじみずっぷし思い描いたりもきっちりできる訳で、シヤワセな方々はシヤワセに現代の満艦飾クリスマス・イベントに酔ってもらえばいいし、あるいはささやかなにゃんにゃんにいそしんでもらってもいいし、あんましシヤワセでもない方々には心から「うんうんうん」とうなずきつつ、こんなオヤジでよければ肩をぽんぽん叩いて気持ちだけプレゼントをあげたいなあ、そんな優しい気持ちにもなれる訳です、ちょっと贅沢して鳥の腿など咥えている狸としては。
 浮気を責められる立場ではないので、臨時のお手当も入ったことだし、見ず知らずの『君』たちを求めて夜の街に出たりする手もあるのだろうが、やっぱり娘たち(?)におべべも買ってやりたいし、アマゾンから取り寄せた資料(図書館で借りた物は結局返さなければならないので、どうしてもある程度購入せざるをえないのですね)の引き落としもあるし、ここはやっぱり鳥の腿とビールで我慢。しかし、昼に観た12チャンネルの録画のドキュメントに出ていたハンセン氏病の方々の過酷な人生など思えば、自分ごときが暗くなるなどまだまだ贅沢、今夜も少女たちとスカポンタンたちのなんかいろいろを、画策し続けねばなるまい。
 誰がもっともらしく生誕しようと降臨しようと天地創造しようと、自分には無関係だ。造りっぱなしであとは沈黙しっぱなしの『君』など、いてもいなくてもかまわない。まあ森羅万象の『縁起』の一部としてなら、その存在を認めるにやぶさかではないが。

 森敦大先達の『天に送る手紙』、読了。このところ毎日ちびちびと大事に味わっていたのだが、せいぜい3ページの随筆が纏められたごく薄い本ゆえ、単に文字を追うだけなら、一時間もかからない。しかしその内容は、人間一生分の含蓄があった。往事の有望文学青年三羽烏のうち、太宰治さんは早世によって永遠の文学青年化し、檀一雄さんは疾風怒濤のまま行くところまで行った感じだが、ただ静謐に思索してるだけでちっとも書かないように見えた森敦さんが結局一番高いところに到達していた、そんな気のする名著である。種々の書物の中でも、もっとも聖夜に相応しい書物に思われる



12月23日 金  人の実存とは哲学か実学か

 などとエラく大層なタイトルを打ってから、哲学なんてろくに知らない自分であることを恥じたりもするのだけれど、とにかくそんな感じなのである。なにがそんな感じなのかと言えば、これまで読んできた『多重人格障害』『精神分裂症』『人格異常』といった精神疾患(疾患でない部分も含まれるが)の捉え方が、実は極めて境界の曖昧な、哲学的精神論っぽく思われてならないのに対し、いざ『精神鑑定』の本を読み始めると、今度はもういきなり実務的分類学、そんな感じに豹変してしまうのですね、人間の『精神』の捉え方が。それは当然『責任能力』によって、『量刑』と言う極めて現実的判断に繋げねばならない、そんな目的による訳である。
 とりあえず皆殺しにしてやりたいと言う私個人の感情的な欲望はとりあえずこっちに置いといて、宮崎や小林やトレス容疑者を司直がどう裁けるかという現実的問題、誠に頭がこんがらがるほど難しい。いや、小林はもう一目瞭然の死刑判決候補なのだが、宮崎は私の希望に拘わらず、かなり微妙。なんとなれば、絶対に多重人格などというシロモノで無いことはすでに確信できたが、分裂症か人格異常レベルか、判別できないのである。こうなるとそれこそ小説世界から、サイコ・ダイバーにお出ましいただくしかない。また、「悪魔がやった」と言い張り続けるトレス、こいつも同様。端的に言ってしまえば、「はいはい、悪魔がやったんだよね。でも、その悪魔の雇い主はてめーだよ」、それだけの話なのだが、やはり法律的には、その悪魔がトレスにとって外のものか内のものかが責任能力判断に関わる。果たして『平気で嘘をつく人たち』の中の誰が分裂症で誰が人格異常で誰がただの人なのか――その境界線は、当人以外の誰に引けるのか――まさにそこいらの矛盾を○に委ねるために、我が脳内少女たちは啓示を与えてくれたのだけれど、それを現実社会で「こうなのだ」と言い切るのは、やはり相当難しそうだ。いっそシュールなビジュアルっぽい短編にしてしまおうかとも思うが、それではまさに『極めて境界の曖昧な哲学的精神論』で終わってしまい、そんな物ならすでに既出の書物を読んでもらえば充分で、そもそも自分で物語る意味がない。
 とにかく未だ潜伏中の有希ちゃん殺害犯、早く検挙して下さい警察の方々。そいつにとって有希ちゃんが何だったか――真の有希ちゃんの魂とは無縁に、そいつ自身が手にした刃の先に幻想していたものが何か、頭をカチ割ってでも知りたい。まあ頭の中身が脳味噌であれ糞であれ、とりあえずカチ割ってやりたいのが本音なのだが。

 録画しておいた、『なぜアメリカは闘うのか』を観る。アメリカ人によるアメリカ暴露物である。結局、「俺ら、もう金はあるんですけどとにかくもっともっと金欲しくて金欲しくてたまらんので、ビンボなあんたら死ぬ気で戦って稼いで下さい。死んで残した金は、俺らがきっちり拾いますんで」、そんな結論だった。サイボーグ009が昔いっぺん流れ星になってしまった頃と、ものの見事に、全く変わっていない。ブラック・ゴースト団を何かの暗喩だと思っていた子供の頃の自分が、無性に悲しく愛しい。昔も今も、抽象ではなく具象なのであった。アメリカに限らず、国家規模の『多重人格障害』『人格異常』――なんであれ人類の一部であり、それを真に裁ける人類も神も居ず、裁く権利のある死者たちは、誰もこの世に戻って来てくれない。

「人は皆泣きながらでなくてはこの世に入ってこない。出て行ってから戻ってくる人もいない。入って来たいのかとも、出て行きたいのかとも、誰も問われない」などとまあ、キルケゴールのように鬱に沈殿する気はないんですけどね。確かに生まれたくて生まれた訳ではないし希望通りに死ねもしないだろうが、少なくともその間は、己の呆け頭を首の上に載せて歩いている。


12月22日 木  いつかどこかの子守歌

 記憶の中には明確に存在しているのに、どこを探しても見つからない歌がある。
 たとえば昨夜まで不明だったのが、古い山男の方などなら誰でも知っているはずの、『シーハイルの歌』の別歌詞バージョン。『シーハイルの歌』は、「
ラッセル急げよ おおシーハイル」などと元気な歌詞に似合わず非常にメランコリックな曲調で、それもそのはず、曲自体は大正時代の演歌師・鳥取春陽(『籠の鳥』『船頭小唄』などで有名ですね)による、『浮草の旅』という陰々滅々とした(しかし自分は根暗ゆえ大好きな)歌の借用である。古い山の愛唱歌って、『雪山賛歌』にしても、あっちこっちから曲だけ借りたのが多いのですね。しかるに――私の記憶の中では、『シーハイルの歌』のメロディーは『シーハイルの歌』でも『浮草の旅』でもなく、昔ラジオから流れていたド演歌なのである。歌詞もおおむね記憶している。「流れて流れる 旅路で逢った お前は野に咲く 蓮華の花よ」とか「花から花へと 渡って歩く 男は蜜蜂 刺されりゃ痛い」とか、「笑っているのに 泣いてるような 寂しい笑顔が お前の笑顔」(記憶なので多少違うかも知れない)とか、もうずっぷしのド演歌だった。『シーハイルの歌』は、今もどこでも聴ける。しかし原初記憶にある歌が確認したくて、昔ネットに初めて繋がった頃いろいろ検索し、はるばる岩手の新里村(鳥取春陽さんの生地)からCDを送ってもらったりしたのだが、曲は同一でも、やはり歌詞は違っていた。作曲・鳥取春陽であっちこっち検索しても、判明しない。ところが昨夜、ふと気が向いて検索したら、幾つもヒットしたのである。なんと小林旭兄ィが、大御所永井ひろしさんの作詞で、『さよなら さよなら さよなら』というタイトルで歌っていたのであった。なぜ今になって判ったかと言えば、リバイバル流行りでその歌が収録されたCDが発売され、数年前よりも遙かに膨れあがったネット通販の網に、自動的に登録されたからですね。やはりなんのかんの言いつつ、ネット様々なのである。旭兄ィのCDはもう持っているのに、多く曲目の重複したアルバムにまた何千円か費やさざるを得ないのは、かなり苦しいのだが。
 調子をこいて、やはり子供時代に聴いた歌手もタイトルも不明の歌、記憶では若かりし頃の和泉雅子さんか松原智恵子さんの声らしく思われるのだが、「
お早う 東京の空 この空の下のどこかで 目覚めたでしょう 私の恋人 どんな瞳かな いつ会えるかな そんなこと思ってる ひとりの朝」(記憶なので多少違うかも知れない)などという、すばらしくウブで爽やかな歌も再検索。しかし一般の検索では見つからず、Hatenaで検索依頼してみても、別の古い歌しかどなたもご存知ない。そりゃあ、Hatenaに出入りされる方も大半お若い方だろうから、記憶ではなくネット検索によって教えてくれるのであって、それでは自分がやった検索と同じ結果しか出ないのである。やはりなんのかんの言いつつ、ネット文化はまだ若い。
 さて、長々と前置きしといて、これからが本題です。私の頭の中に、ひとつの童謡らしいメロディーがある。確か小学校高学年の頃(自分が人生で最も無駄に太っており、最も根暗だった頃)、雪の夜にどこからともなく頭の中で流れてきた、単純でメランコリックなメロディーである。問題は、自分はこの曲を、外から耳で聴いた記憶が全くないのである。つまり、自分の頭の中で自然発生したメロディーのような気がする。しかしなにぶん子供の頃の記憶という奴は、内のものか外のものか、近頃とんと自信がない。そんな訳で、ネット様々のフリーソフトをダウンロードさせていただき、冬の夜長に採譜・MIDI化してみました。なんせ人差し指2本でぽつりぽつりと鍵盤を叩くようなド素人だし、メロディー自体子供の鼻歌に近い単純なものなので、他人様にはほとんど聴いてもらう意味がないようにも思われるのだが、要はあくまでも「市井に流れていた旋律」なのか「自分の頭がでっちあげた旋律」なのか知りたい、それだけのことなので、こちらを覗いてくださっている方々にポチッと聴いていただき、なんじゃこりゃアレじゃん、そんな心当たりがあったら、ご一報いただければ幸甚です。
 ――それでは、ご面倒でなければ、ポチっとな。


12月21日 水  先入観あるいは作為

 あう、やはり呆けている。『フランダースの犬』は、昨日昼間の放送だったのだ。録画予約していたのでちゃんと観られたのだが、自分で録画予約した時間を覚えていないというのは、やっぱりかなり脳味噌が弱っている。
 放映されたのは、やはり日本版悲劇エンド。しかし問題は、ネロが天国に行って母親と抱き合うか、それとも助かって地上でがんばるか、それだけの差ではなかった。原作やこれまでの映画化はいざ知らず、今回のハリウッド版は、作劇上ネロが助からなければテーマそのものが成立しない、そんなシナリオだったのである。これを輸入し公開した日本の配給会社は、おそらく「ネロとパトラッシュは死ぬのが当然」「この国で有名なアニメでも死ぬのだから、実写でも同じ展開のほうが人気にあやかれる」、そんな意識で、ろくに本編を見ずに悲劇版を要望したのではないか。自分も実物を観るまでは、ネロがいっぺん昇天してまた戻って来るなどというあまりに強引なハッピーエンドはむしろ喜劇になってしまうのではないか、そんなふうに思っていたのだが、なんのことはないさすがはハリウッド、エンディング直前まで、ネロが天国に行きっぱなしでは語れないテーマのシナリオを、きちんと組んでいるのであった。この流れだと逆に死にっぱなしでは、「次はもっとがんばりましょう」どころでなく、ただの惨めな敗走でありいい気なもんだよこのガキはであり、完全バッテンなのである。原作やアニメの先入観に捕らわれず、一本の独立したシナリオとして観た場合、復活しなければただの尻切れトンボ。子供に見せる映画なんだから、いいかげんに流さないできっちり観てから決めろよ配給会社、そんな後味。
 悲劇にしろ喜劇にしろ感動系にしろ、泣かせのために流れをねじ曲げたり、いらんところで外したギャグを入れたり、あってほしくもない奇跡を引っ張り出されるのも願い下げだが、起こるべき奇跡を先入観でポンとカットしてしまうのも、同程度の寸足らずだろう。

 江戸川乱歩の『押絵と旅する男』や『蟲』を大槻ケンヂさんが解説するという、NHKらしい番組の録画も楽しむ。こんな真面目な企画は民放でやってくれるはずもないので、やはりNHKもないと困る。辻村寿三郎さんの人形愛コメントなども入り、うんうんと頷きながら観る。しかし、現実に人形愛的な実感を知らない方々は、『物言わぬ人形』『死体』に仮託した愛を、どうしても現実逃避や自己愛に結び付け過ぎるというか、それそのものに規定してしまう傾向がある。わたしゃ、自分と同じ生きた人間を人間扱いしない現実過適応者などより、よほど現実的でありかつ博愛主義だと思いますけどね。
 何度も言うように、自己が確立していなければ、自己愛や自己中は不可能である。何から逃れるかも解らないうちに、真に何かから逃げることなどできない。自称・人形愛者の多くは、逃避にも自己愛にも至っていないのではないか。人間を人間扱いしないのと同程度の、盲目状態なのではないか。自慢じゃないが、うちのア○スとな○みは、ちゃんと生きてますからね。ええ、生きておりますとも。その証拠に、今もたかちゃんたちと台所でなんかいろいろやってます。あ、救急車呼ばないでくださいね。脳内の台所です。そのくらいのことは、正気ですのできっちり把握してます。昼間寝てると時々猫みたいにほっぺたうりうりしてくるのも、きっと気のせいです。当人達がやってないと言ってるので、やっぱし気のせいです。


12月20日 火  寒い朝

 脳内で世界が徐々に組み上がっていく状態というのは大層甘美で、最終的に成文化に至れるかどうかはまだ知らず、やはり酒や幻覚剤(後者はやったことないけど)などより、よほど酩酊できる。自分はたいがい、ある程度物語が見えたあたりで主題曲を勝手に決めて仮想映画を脳内編集し始めるのだが、今回は今のところB'zの『BAD COMMUNICATION』がオープニングで、挿入歌が中島みゆきさんの『時刻表』で、エンディングが五輪真弓さんの『Try To Remember』、そんな流れになっている。『Try To Remember』は大昔からあるポピュラー・ソングだが、歌い手によってこれほど感応力が違うとは知らなかった。
 さて、問題はやはり主人公の職業である。保護観察官にしろ精神科医にしろ、非力な自分にはどうあがいても、主観描写は不可能に思われる。基調を客観描写にするにしても、よほど気合いを入れないと、巷に溢れる多くのエンタメ未満作同様の反古ができてしまいそうだ。まあ、いつものようにハッタリと展開で『情動的に』押し切ればいいのかもしれないが、今回は半社会派だからなあ。まあ、とにかくいっぺんハコ書き組んでみるしかあるまい。たかちゃんたちもリコちゃんたちも、そーだそーだと言っている。やはり、出たがっているのだ。

 姉より年末の援助物資がとどく。母の入院に伴い民間の保険も下りたので、有り難い思し召しにより(母の口座は、基本的に姉に管理してもらっている。刹那主義の私がやると、十中八九破綻して、親子で富士の樹海に行ってしまうので)、このところのなんやかやのご苦労賃もいただいてしまう。お互い、その程度は許されていいだろう。特に自分は今現在安定収入やボーナスとは無縁の身なので、たまには年末らしく好きな物を好きなだけ飲み食いし、あったかい下着なども補充しないと、今年の冬はさすがに身も心も凍えそうだ。いや、凍えないためにたかちゃんたちやリコちゃんたちがいてくれるのだけれど、多重人格説やフロイトのような心理的エンタメを自分が信じ切れない限り、やはり彼女たちは、マッチ売りの少女が雪に埋もれながら最後に見た天国の優しいおばあちゃんに過ぎず、本体の狸は橋の下にカチカチで転がりかねない。まあ、それはそれで主観的には幸福そうな気もするが、幸福の王子のように金箔や宝石は無理でも、せめて誠意だけはもうちょっと外界にばらまいてからでないと、誰も『幸福の狸』とは思ってくれないだろうし。
 ところで、今晩テレビで、例のハリウッド最新版『フランダースの犬』(実写)を放映するようだ。やはり悲劇エンド日本限定版なのだろうか。もはや脳天気ハッピー・エンド国際版で、大笑いしたい気もする。でもやっぱり、子供の頃に映画教室で観た、「がんばってギリギリセーフ! よかったねよかったね、あうあう版」も、もう一度観てみたい。


12月19日 月  あなたはだあれ?

 まだ多重人格関係と精神分裂症関係の3冊程度を読んだだけで結論など出るはずもないのだけれど、そもそも人間の精神や脳に関しては「まだほとんど確かな事など判らない」という現状であり、精神科の医師でも所見や対処など人様々であることは、母親のあれこれを通じて知っている。また、生まれた時から12歳頃まで同居していた肉親の様子を見ているので、てんかんから精神分裂症を併発してゆく人間の様子なども、幸か不幸か身近に知っている。人間がカミソリで首筋を切ると、寝ている布団が血の沼になる、そんな光景も入院直前に見ている。その後入院してからも小遣いや衣類を届けに数年通ったので、昔の精神病棟の空気にも触れたし、母の一件で昨今の精神病棟の空気にも触れた。だから、あえて私見を言うくらいは許されていいだろう。宮崎さんちの勤君は、やはり分裂症らしく思われる。
 そもそも多重人格という症例自体が、未だ医学的に北米以外でほとんど認められていないのは、どう見ても他国の旧弊さと言うより、まともな報告例が北米にしかないからとしか思われない。我が国の多重人格症例を華々しく披瀝する方々はあくまでも心理学系セラピストであり臨床医師ではないし、先だって指摘したように、その症例自体が、大半ご本家北米で確立しつつある多重人格の条件に適合しないのである。わずかに適合する方が数名いたとしても、そもそも勤君の取り調べでの発言は、『統合失調症あるいは精神分裂病』(計見一雄著)の内容だけでも納得できてしまう。ちなみにその書物は、宮崎事件とはなんの関わりもない、かなり先進的なベテラン精神科臨床医師の著作である。
 さて、残る『人格障害』とは、どんな概念なのか――これからそっちを読む訳だが、どうもそこまでで図書館の返却期限になってしまいそうだ。具体的な精神鑑定や精神科医心得や少年法関係の詳細は、未読のままいったん返却、再度借りなければ。
 しかし今回なんかいろいろ読みつつ感じたのは、どうも『多重人格』という概念はあまりにも単純化されてはいないか、そんな疑問である。そもそも人間なんてららーらららららーらー、なのが当然なのであって、まるでハリウッド映画のキャラクターやストーリーのように、人間のトラウマや精神的混乱や曖昧な妄想まできっちり区分け整理して、結果別人格を数人設定すれば全部すっきり一個の肉体に収まるではないか、そんな感じだ。まあ、その治療法が、別人格同士にお互いを歩み寄らせ『本体』に統合させる、そんな方法論なので、結果的に誤った視点でもないのだろうが。一方で、『精神分裂症』という奴は、端的に言えば『知』と『情』と『意』の分裂というか統合失調ということらしく、その主体はあくまでも患者個人である。別人格ではない。その失調の段階や症状はもう極めて人間的に曖昧で、読んでいると、自分にも他人にも、うんうんとうなずける話ばかり。
 ちなみに、『多重人格』であれ『分裂症』であれ、しばしば幻想小説やサスペンスのネタとなる二重人格、いわゆる陰と陽・善と悪のメタファーとは、縁もゆかりもない。外面如菩薩内心如夜叉、外でいい顔家では暴力、上には媚び媚び下には罵倒、すみませんすみませんついつい出来心ですみません、ネットの中だけ狂人化――みんな、ただのふつうの人である。病気ではなく、ただの寸足らず。そう都合良くジキルやハイドに分裂しえないのが現実社会。無論自分が画策しているのは、あくまでもエンタメなので、トンデモ論でもドラマ的カタルシスに繋がれば、メタファー扱いで採用させていただくのだが。ところで、これまで自分であれこれ『既知外』呼ばわりして来たが、それはけして精神病者の方々を現す差別語の異変換などではなく、古来『悪臭を放つほど何か勘違いしている極度の寸足らず』を意味する罵倒語の異変換である。念のため。

 『リコのにいさん』や『なっちゃんの初恋』が所載されている、太刀掛秀子さんの初期コミックス2冊、無事到着。もはやおばちゃまに発動してもらうバヤイでもなく、『本体』として嘗めるように読み、ぽろぽろと泣く。おおおおお、俺はなんて素晴らしい世界にかつて生きていた、いや、行かせてもらっていたのだ。この世界こそが、リアルでなくてはならんのだ。誰一人として己に閉じこもらず閉じこもらないがゆえに人と人との間で心を痛め、哀しみを湛えつつしかし閉じていないがゆえにやはり涙ぽろぽろのハッピーエンドを迎える――あああああ、かわいいわかわいいわ。いとしいわいとしいわ。ほんとに涙がとまらないのよ。やっぱりおばちゃま、こんな世俗の垢にまみれた半白髪のアブラ中年顔や体脂肪てんこもりのデブ腹なんか、脱ぎ捨てちゃってオサラバしましょ。ほうら、多重人格論を採用すれば、鏡に映る姿だって、きっちり、ろりよ。谷間に揺れる白百合みたく、とーっても、リリック。さあ、リコちゃんなっちゃん、春風の中に、また駆け出しましょう。みんなでけなげに、ぺろ、なんてちっちゃいおベロをさくらんぼの唇からのぞかせちゃったりして、お顔いっぱいのお目々にミルキーウェイを浮かべながら、クズに引導渡しまくったりしたら、モア・ベターよ。


12月18日 日  衆愚の腐臭

 おう、今日はなんだか、いつになく過激なタイトルで始まったなあ。
 
耐震偽装問題で、強度不足マンションの解体・建て替えや住民への公的支援策が打ち出されるなか、国土交通省や自治体に対し、「税金を投入するのはおかしい」といった意見が寄せられている。新潟県中越地震の被災者などに比べて支援が手厚すぎるといった指摘も目立つ。一方、インターネットの掲示板では被害者のマンション住民を中傷する書き込みが相次ぎ、「まわりの人に敵意を持たれているようで怖い」と訴える住民も出ている。国交省には16日までに、この問題についての意見が電話などで計約1300件寄せられた。マンションを自治体が買い取って解体、建て替え、住民に再分譲する枠組みが発表された6日以降は、反対意見が大部分になった。「住民の自己責任でやるべきだ」などの声が目立つという。「グランドステージ東向島」がある墨田区では、当初は家賃減免の方針を示さなかった区への非難が多かった。だが6日からは一転し、「責任を問うべきはヒューザーやイーホームズ。税金を使ってほしくない」とする意見が大勢を占めるようになった。「グランドステージ住吉」を抱える江東区にも、「阪神大震災を経験したが、あの時は住宅再建に税金は使われなかった。不公平だ」などとする意見があった。横浜市でも公的資金投入に反対する投書やメールが11件寄せられている。これを受け同市は16日、支援には市ではなく国の予算を使うよう求める要望書を国交省に提出した。中越地震などの際の支援との違いばかりでなく、買い取りの対象が耐震強度0・5で線引きされたことなども不公平感につながっているようだ。当の住民からは「自分が当事者でなかったら、手厚い支援はおかしいと思うから仕方がない」(「東向島」の女性)というあきらめのような声も。「住吉」の男性は「『私たちは被害者だ』と主張するだけでは本当の解決にならない。当然、我々もリスクを負うべきだと思う」と、批判を冷静に受け止めている。こうした批判とは別に、住民たちを悩ませているのは一部のインターネット掲示板だ。住民の発言を「気にくわない」などとやり玉に挙げる心ない書き込みが多い。あるマンション住民は別の住民から、「ネットの掲示板に悪く書かれるので、マスコミに過激なことは言わないで」と頼み込まれたこともあったという。マンションの住民代表は「最初は倒壊の恐怖や生活の変化によるストレスが大きかった。ところが、最近では公的支援への批判が高まっていることで、『周囲の人たちに敵意を持たれている』と外出を怖がる人が増えてきた」と、心理的圧迫の深刻さを明かす。(読売新聞)12月18日11時37分更新 ――こんな記事があったためである。なんという事だ。本当に一般市民レベルで、この国は寸足らずが過半数を占めつつあるのか。これではろりを狙った犯罪なども、減少のしようがない。
 また額に血管浮かして叫ばせていただきたい。株の数量と価格を誤入力しただけで、「それが決まりだから」と問答無用で何百億が動いたり、個人単位で何十億と濡れ手で粟が掴めたりする社会というのは、言うまでもなく「決まり」そのものが異常なのだが、その決まりを許したのは資本主義社会に生きる我々である。そんなシステムを許してしまった愚鈍な衆愚(無論自分も含まれているのである)が、どの面下げて
「責任を問うべきはヒューザーやイーホームズ。税金を使ってほしくない」などと言えるか。あの誤入力が阿呆のように実体化してしまい、その責任は入力側といい加減なシステムを作ってしまった方が痛み分けせざるを得ないのが現状ならば、悪意を持った建築屋たちが捏造した設計の施工を許してしまった行政側もまたその責任を負うのは当然で、行政すなわち一般国民の責任なのである。自分自身が行政を中だちにしてその犯罪を看過してしまったのだぞ。
 その程度の理屈も解らんから、投票率25パー未満などという、民主国家において自決ものの恥をなんとも思わない衆愚が、白痴の笑顔で「なーんも知らんもんね。俺と俺の好きな人間だけいい思いできればいいんだもんね。知らん奴の生活なんて、どうでもいいもんね」と街にのさばり、結果、恥を恥とも自覚できない寸足らず仲間をどんどん養殖してしまうのである。犯罪と天災の区別もつかなくなってしまうのである。たまたま偶然この国に生まれ、たまたまこの街にいっとき住んでいるだけの自分だが、ときにどうしようもなく馬鹿な自分よりももっともっと馬鹿が多いという事実に行き当たり、ついつい生きる意欲を失いそうになってしまう。実際この街は、種々の軽犯罪が多いだけでなく、今回の騒動の張本人が住んでいたり、またあまり新聞種にならないにしろ、陰で虐げられるろりなども多かったりする。また、これはこの街に限らず、交通事故全体はこのところ微増でも、轢き逃げは加速度的に増加している。一度腐りかけてしまうと、早めにしっかり加熱するか冷凍でもしない限り、ヒトという生物《ナマモノ》は早晩腐ってしまうのである。

 このところ多重人格だの統合失調症関係だのばかり余暇に読んでいるためか、メイン・パソの部屋でしこしこやっていると、なんだか謎のおばちゃまが鼻歌を歌いながら、炬燵の部屋でノート・パソコンを弄っていたりする。これは親爺のストレスが生みだした第二の人格か。しかし親爺そのものがすでに社会的仮面なのであって、『本体』は、すでにこのぶよぶよとみっともない脂肪質の体の奥底深く、この個体がまだショタだった頃の姿で、校庭の片隅の草叢から、ろりたちを見つめ続けているのかも知れない。そして妄想の中で、死んだろりたちのその後の生活(?)など思い描いているのもまた、明日のない親爺でも脳天気おばちゃまでもなく、きっとその『本体』であるショタなのだ。
 この己の狸腹が、鏡に映る白髪混じりの親爺のものであれ、謎のおばちゃまのものであれ、やっぱりその『本体』を忘れないために、 五輪真弓さんの『トライ・トゥー・リメンバー』を聴いて滂沱の涙を流しながら、脳内に浮かぶ少女たちの胸痛む姿をきっと納得のいく形で成文化してやるのだと、決意を新たにする夕暮れ時。



12月17日 土  どきどき

 さあて、続きの楽しみなネット作家様方のお作を覗こう、ちょっとその前に、なんかいろいろ封筒に入れて送ったりした自作のグアイは――おお、ぴんぽんぴんぽんぴんぽん。集英社スーパーダッシュ文庫の第一次選考を通過している。現在再封印中の、原題『ブルフィンチとライラ』である。一年半あっちこっち送りつけてことごとく黙殺され、そのたんびに手を加えて、「これでもうワタシ自身では直せるとこねーぞ」などとつぶやきつつ、それでも送った後に2箇所ほど誤字脱字を見つけて「うにゅにゅにゅにゅう」などと悶えた、アレである。もっともスーパーダッシュの第一次選考は本当に最初の基本的ふるい分けで、150作も発表されている。今年の応募作品は641(!)あったそうだから、まだやっと24パーの線を越えた段階。それでも昨年送ったパンダ物件などはかすりもしなかった(まあオタクネタが四半世紀前のネタばかりだったからなあ)のに比べれば、ライトノベル系ゆえおそらく大半お若い投稿者の皆様に混じり、爺いも健闘していると思っていいだろう。小学校の時、少年画報の読者コーナーに、4コマ漫画を載せてもらった時のような気分である。しかしあのファンタジー、ブルのサイドはわくわく少年文学色だが、大人サイドはみっちり細かく書き込んであるので、そのあたりが読者層との兼ね合いでどう判断されるかが、今後の懊悩。
 ああ、それでも、おもいっきし思い切った(なんだそりゃ)死美人物件の方が、この上あっちの一次選考でも通ってくれたら、もう思い残すことなく橋の下に行けるなあ。あっちの水は、コールタール並に重いからなあ。


12月16日 金  ハンデとぶりっこ

 偏狭と言われるかも知れない。不人情と言われるかも知れないけれど、今日もテレビでゲスト出演していた盲目のテノール歌手さんは、歌が上手くない。人柄は良いしチャリティー的な意味合いも大きいのだろうが、やはりきっちりクラシック系『歌手』として評価してあげない限り、その本人にも歌そのものに対してもかえって失礼なのではないか。盲目の方が魂で絵を描く、耳の聞こえない方が魂で音楽を奏でる、そうした場合とは意味が違う。眼球と声帯は無関係だ。譜面を読むのに難儀だから練習初期は大変だろうが、声そのもののための鍛錬はまた別で、一般の健常者と変わらないはずである。歌唱力の不足を身体的個性で補っているという意味では、ひと昔前のアイドルと同じになってしまう。それも別のベクトルの。
 ……あらまあ、おじちゃまはなんだか近頃ご機嫌ななめだわ。このところ、辛気くさいご本ばっかり読んでるからかしら。でも、おばちゃまは、とーってもシヤワセよ。熊本の古本屋さんから、とーっても親切なメールが届いたの。もうすぐ、『リコのにいさん』とか『なっちゃんの初恋』が、また読めるのよ。ああ、これでまた、おばちゃまのあんなとこやそんなとこがメラニン色素沈着しまくっちゃったりゴワゴワに角質化しまくっちゃったりする前の、清く正しい昔のココロにもどれるわ。うふ。
 あらあら、こんどはおじちゃま、テレビに向かってリモコン投げつけてるわ。なんだかよくわかんないボウヤたちが、島倉千代子さんの『人生いろいろ』のクラブ・バージョンとか、なんだかよくわかんないラップやってたからみたい。べつにいいんじゃないかしら、ねえ。だって、とってもスリムで、とってもふにゃふにゃやーらかそうな、おいしそーなボウヤたちなんですもの。じゅるり。ホテルのベッドでは、脳味噌なんて3グラムくらいしかないほうが、モア・ベターよ。じゅるり。――ああ、いけないわいけないわ。谷間の白百合の昔に戻るって、リコちゃんやなっちゃんにお約束したばかりなのに。
 おやおや、おじちゃま、今度はご本を読みながら、五輪真弓さんの『トライ・トゥー・リメンバー』を聞いて、めそめそ泣いてるわ。綿入れ袢纏の袖を、マジに濡らしちゃってるわ。あらあらあら、十分もたつのに、まだ泣きやまないわ。きっと、辛気くせーご本を読みながらでも、アタマはどっかの世界にイッちゃってるのねえ。ああ、あんな惨めな老後を晒さないように、みんな、お勉強やお仕事、きちんとがんばってね。おばちゃまも、がんばるわ。


12月15日 木  出しっぱなし

 『幼い子どもを狙った暴力的性犯罪の前歴者について、出所後の居住地などを法務省が警察庁に情報提供する制度の運用が始まった今年6月以降、出所した83人の約1割にあたる9人が所在不明となっていることが15日、警察庁のまとめで分かった。うち8人は、出所直後から全く行方が確認できない状態で、制度の限界が浮き彫りになった。(中略)行方不明の9人は、身寄りがないなどの理由から、いずれも居住予定地を「東京方面」「関西方面」などのように漠然とした地域しか申告しておらず、うち8人が出所直後から所在不明となっている。残る1人も一度は所在が確認されたが、その後、行方不明になってしまったという。法務省は、「居住予定地の報告は出所者の任意。居住地が決まらないまま出所するケースもある」と話しており、警察庁でも「居住地の強制は出来ない。現行の制度では限界がある」としている。(読売新聞)12月15日11時46分更新』
 まあ、何もろりの敵に限らず、以前我が知人の勤めるスーパーで赤ん坊を刺し殺してしまったのも、確か出所直後の無一文男だった。確かに、刑期を終えるまでが司法の管轄、そんな理屈は解る。しかし、理屈が通じないからこそ入所した方々を、「はい、さようなら」で済ませてしまうのは、言いたくないがただの馬鹿ではないのか。
 たとえば江戸時代、ほぼ日本全体で犯罪が非常に少なかった、そんな説がある。反対論の方は、それは単に史料に記載されていないだけだと言うのだが、実際種々の道中記など見ても、呆れるほどヤバい話が少ない。浮世絵春画などには確かに強淫ネタも見られるが、そうした創作系以外では、やっぱり平和だったのではないかと思わざるを得ないのである。ひとつの惨殺死体で、数年も市井の話題が続いたりする社会だ。つまり、性格異常者はいざしらず、普通の人間なら、『十両盗めば首が飛ぶ、首は飛ばない程度でも、前科一目瞭然の入れ墨が入る』→『なるべく盗まない殺さない』と言った、非常にシンプルな理屈で動いていた訳である。それは本当に野蛮で未開な社会なのだろうか。
 確かに犯罪者にも人権はあるだろうが、自分としては、その人権は他者への害毒ぶんきっちり割り引くべきだと思う。味噌も糞もいっしょでは、味噌汁と称して糞汁を食わせる奴が、増える一方だ。悪質リフォームどころか、建てる前から盗む算段をする会社まで出てくる。異常性格者の集団でなく、いい歳こいた普通のおっさんたちが、それを実行できてしまうのである。


12月14日 水  夢の中・闇の中

 さてようやく多重人格関係を2冊読んだ訳だが、はーい、先生、質問でーす。海外の例では、それこそ小学校にも上がらない内からの度重なるレイプ、あるいは生命の危機を感じるほどの執拗な虐待、そうした極めて過酷な状況に晒された幼児が、9歳程度までにはすでに分離してしまうのがほとんどと書かれているのですが――でも、日本国内の顕著な例として上げられている方々の内、幼児期の虐待は、女性の方ひとりだけですよね。宮崎も別の少年も、確かに結果の状態は、その海外多重人格障害者の例に類似しているのは解ります。ただ、宮崎やその少年の幼児期に、そこまでの『己という個体の心身ともに耐え難い苦痛』があったとは思えませーん。僅かな身体的欠陥による懊悩、中学に入ってからのイジメ、それだけでも多重人格になれたという例は、どこの国でもほとんど見られないようなんですが……。それとも、それはまだ彼らが、多重人格という症例を認めない主流保守派の多いこの国で『深く分析されていない』からで、やっぱりまだ誰も知らないとんでもない幼時体験を、『本体』が忘れているだけなのでしょうか。まあ確かに解離が社会的に発現するのは成長してからでもおかしくないにしろ、先生方が根拠となすっている海外の患者の方々は、そもそも発見された段階で何種類もの別人格が表を取り仕切り、虐待を受けた『本体』のほうは奥に潜んでしまっている場合が多いとも書いてあるんですが、と言うことは、つまり現在の宮崎やその少年は、『本体』ではないと解釈していいのでしょうか。
 正直言って読めば読むほど、北米圏とその外の精神性の違いが露わになってくるだけで、肝腎の『多重人格』が、我が国でも本当は分裂症や鬱病と誤診されているだけで実は沢山存在しているのではないかという推論は、まだまさに『推論』でしかないように思われる。宮崎に解離症状があるのは認める。しかし、それを『多重人格』と判断するには、当の多重人格説支持の方々が例に上げている海外の(ほとんど北米の)患者さんたちと、あまりに環境が違いすぎる。まあ、まだ『多重人格』寄りの方々の本しか読んでいないので、自分なりの推論すら出せない段階なのだが、どうもやはり軽度の分裂症か、人格障害なのかも知れないなあ。器質的異常は本当にないのかしら。現在判っている程度のトラウマでそうそう解離されては、『解離すること自体が罪』ではないか。つまりその正体がどうあれ、結論としては、先に引用させてもらった瀧野隆浩氏の言葉に尽きてしまうのである。
 しかし、昨今崩れつつあると嘆いているこの日本という国が、実はまだまだある意味モラルの水準の高い国らしいと、内心安堵していたり。なんぼ『自由』やら『個性』やらに恵まれても、自由に犯したり個性的に虐めたりは御免だ。でも、確実にあの国タイプの犯罪者は増加しているようで、これも戦後教育の成果か。
 ――ビンボゆえに子供を売りとばす親が多い国もあれば、親にもらう結構な小遣いでも足りず遊ぶ金欲しさに自分から売りに出る子供の多い国もあれば、俺の子なんだから何やってもいいだろうと家庭内自由を謳歌する親の多い国もある――つくづく人間という奴は『業』が深い。でも正直、『人間らしさ』という意味では、松→竹→梅、そんな気がするのよなあ。いや、人権論は別にして。



12月12日 月  夢の中の少女たち

 録画しておいた、『義経』の最終回をおかずに、飯を食う。起きて最初の飯という意味では朝飯、でも起きたのは昼過ぎだからその意味では昼飯、しかしすでに冬の日は暮れかかっているから晩飯なのかもしれない。だいぶ前に冷食4割引の日に買ったシューマイは、納豆ともども大変美味だったのだが、『義経』は、やはり最後まで薄味であった。と言うより、主人公以外のキャラはなんとか立ったのに、義経君だけが最後まで無味無臭の完全滅菌イケメン青年。なんだか毎朝脛の毛までお手入れしているタイプに見えてしまった。私としては、やっぱりあの思わず贔屓したくなる薄幸の青年は、好きよキャプテン、あるいはガキ大将タイプの、熱血カリスマ君だったのではないかと思うのだが。ところで今回、ふと思いついて、音声を消してラストを再見してみた。案の定、うつぼという狂言回しでいいように使われるだけで終わってしまった女の子、えーと、お名前は……忘れてしまったので今検索してみたら上戸彩ちゃん、ちょっと光り輝くばかりのご尊顔と目線である。しかし正直、当節流行りの甘ったれ舌足らず発音だけは、一回目から手付かず野放し状態である。子供や好色親爺などはそこがいいのだと言うのかも知れないが、あえて役者としての将来のために、きっちり発声訓練を薦める大人のスタッフなどは、周囲にいないのだろうか。類い希な愛らしさも親近感も好色親爺として認めた上で、「今のままでは、あなたが喋るだけで全ての時代劇の底が抜ける」と、断言せざるを得ない。まあ、「ドラマや映画なんてただの夢なんだから、そんなのいーじゃん」と反論されてしまえば、それまでなのだけれど。

 
夜、ネットで注文しておいた、太刀掛秀子先生の『ミルキーウェイ』と『ふたつのうた時計』が届く。うれしいわうれしいわ。『ミルキーウェイ』の奈緒ちゃんは、やっぱり今でも、とってもけなげよ。おばちゃま、いーっぱい、泣いちゃった。でもね、おばちゃまがまだほんとに清らかなド田舎のくっせー男子校生だったころ、いちばんのお気に入りだった『リコのにいさん』は、ずいぶん昔に、絶版になっちゃったまんまみたいなの。でも、おばちゃま、どうしてもまた読みたいの。これから、ネットで古本屋さんを探しに行くのよ。それでも見つからなかったら、オークションの海に旅立つの。ああ、でも、オークションになったら、おばちゃま困っちゃう。どーしましょ。だっておばちゃま、とーってもおしとやかなんですもの、終了間際の修羅場に耐えられないの。みんなビンボなのに欲しくて欲しくて血眼になってセコセコ競ってる終了間際に突然新規で高額スナイプしてくる糞馬鹿野郎! 今度やったら殺すぞオラァ!!

 我が脳内に生まれた黒い少女たちは、日を追うにつれ白っぽく変貌してゆく。昨今リングやら呪怨やら何やらで、ただの無差別殺人者として現実のサイコをトレースしがちな怨霊を、正しい怨霊像に戻してやりたいなどとも思っていたのだけれど、やっぱり幼いろり達のこと、「そんなめんどいの、やだもん」と、なかなか言うことを聞いてくれない。どうもたかちゃんたちが陰で何やら吹き込んでしまうらしい。しかし、『のめりこめそうな』感触は、確かにあるようだ。たかちゃんたちはたかちゃんたちで、また春先のように好き勝手な言葉遊びを始めている。さっぱわやや。


12月11日 日  この世界は『夢の中』ではない

 元来、あの宮崎さんちの勤君を、確かになんらかの精神障害であるにしろ弁護する気は毛頭ないのだが、種々文献に目を通すほどに、いわゆる快楽殺人やただの変態ではない、そうした病理は判ってくる。「嘘吐きなだけ」「言い逃れしてるだけ」という趣旨の感情的攻撃論も多いのだけれど、やはりあの調書や精神鑑定経過を冷静に見る限り、完璧に人格が解離してしまっている状態があったとしか思えない。種々の物的証拠によっても、である。検察側の主張にあるような、欲求不満ギトギトの醜いろり野郎(去年の小林のような)的側面は、とうに底知れない精神の沼に沈んでしまっているようだ。『執行猶予付き死刑』も適用外、むしろ一生病院タイプだろう。従って、今回の自分の着想の参考になる部分はかえって少なかったのだけれど、『多重人格障害』という、未だ北米くらいでしか正式には認められていない症例の、おおよその考え方は解った気がする。
 東京理科大学非常勤講師・セラピスト服部雄一氏(米国で多重人格障害患者の専門病院で研修)による、顕著な症状の要約を引用させていただくと、

@記憶喪失
A離人(体外離脱)体験
B多重性格者に共通する生活体験(「うそをついたと責められる」あるいは「夢と現実の区別がつかない」)など
Cシュナイダー第一次症状(「他の力に動かされているという意識」「幻聴」)など

 たとえば自分が20年ほど、まあまっとうな社会生活を営んでいる間にも、明らかにその気配の濃厚な人間と、ふたりほどおつき合いしたことがある。ひとりは自分がサブだったころの若い男子社員、ひとりは店長だったころのパート主婦。いずれも『難儀な性格』というレベルを越えて、ひとりの肉体に見事な二面性を備えており、当然お小言対象となる場合が多いのだけれど、どう見ても言い訳ではないレベルで、人が変わっている間の行動を、全く記憶していなかったりした。一般の『言い訳ばっかりの困ったちゃん』とは、明らかに反応が違うのである。ちなみにふたりとも、酒の席などで訊いたところ、いわゆる霊体離脱体験(『多重人格』自体を、心霊現象的に解釈するトンデモ学者さんもいるらしい)バリバリ。当然、ふたりとも仕事は長続きしなかったのだけれど、アメリカあたりならセラピスト通いでなんとかなったのかもなあ。しかしその二面性は、犯罪行為にまで至らない限り、ある種の神秘性にも繋がるわけで、ふたりとも恋人や旦那さんとは、大層べったり円満だったのであった。
 多重人格の原因はほとんど幼児期の強度のトラウマ(ア○リ○では7割方、幼児期の性的虐待だそうである。まったく、あの国が異常にペド関係にやかましいのは、ほっとくとやっちゃう人間が多いからなのだろうなあ。あれだけ表向き規制しても、ちっとも被害が減らないようだし)らしい。従って、「人間なんてみんな仮面を被ってるんだ」といった精神論で、現実の多重人格障害者をくくるのは、根本的に間違いだそうだ。幼児期を過ぎてもならない人間は、一生なる心配はないとのこと。そしてトラウマを克服すれば、人格統合はほぼ可能。『宮崎勤精神鑑定書――「多重人格説」を検証する』の著者・記者の瀧野隆浩氏も、現実の多重人格障害女性の取材などを通し、結局、こう本編を結んでいる。甚だ示唆に富んだ文章なので、無謀にもまるまる引用してしまう。

 宮崎を多重人格障害者と認定した鑑定書を取りあげること自体を迷ったし、書きはじめたからには、表現には十分注意したつもりである。私はこの本を書く時、いつも「鈴木純子」の中のクミとリリーを思い浮かべながら筆を進めた。一方は、レイプされた記憶を抱き続け、もう一方は怒りを一身に背負ってきた、そんな彼女たちを傷つけることはないだろうか、と。
 リリーは義父を殺そうとして、すんでのところで自制した。義父に愛された自分と同じ名のネコとたまたま目が合った、と彼女はいった。でも本当はリリーの方からジッと見据えたのかもしれない。「愛された存在」と「穢された存在」。そこには、怒りと乾いた愛情の火花を散らす葛藤があったのだろう。だが、ふつうは、人間としての倫理が克つのである。それが自分の存在を賭けたぎりぎりの自己内戦闘であったとしても。
 その意味では、もし本当に宮崎が多重人格障害患者とするなら、彼こそが例外中の例外の存在なのである。彼ははかなくも「内なる戦い」に敗れ去った。弱虫だった。自分を抑えきれなかった。
 宮崎のいう「ネズミ人問」は問違いなく、何かに対する彼の「怒り」の塊であり、「殺意」だった。彼には殺意がなかったのではない。彼がその心の奥底に持っていた殺意を別の存在に仮託していただけなのであろう。
 宮崎は四人の幼女を殺害した。その事実は厳然として、ある。
 周囲は二人を「多重人格障害(解離性同一性障害)患者」と呼ぶ。だが、「鈴木純子」は踏みとどまり、一方の「宮崎勤」は人間としての一線を大きく越えてしまった。
 それだけのことだ。彼は当然、病理とは別に罪の責任を負う。


12月10日 土  犯罪者にも人権を

 今度は、小学生の少女にマジギレしてしまった塾講師が、こともあろうに職場で惨殺してしまったようだ。もっとも塾講師と言っても、同志社大学に受かる程度の知力は持ちながら、図書館で他人の鞄に手を出して警備員に咎められると錯乱して大騒ぎして停学歴あり、そんなアルバイト青年のようだ。敏感な少女に仮面を見抜かれ、また錯乱したのか。いずれにせよ、『自分はなぜそこに居るのか』も判らない、寸足らずだったのだろう。それにしても、またろりが……もう生きているのが辛くなる。
 少年犯罪の本なぞ読み始めて、ふと思ったのだけれど、どうも少年犯罪が変質してきていると言うより、大人の犯罪がかつての少年犯罪並みにどんどん退化してきており、少年犯罪という奴も元来寸足らずな若い世代が心身共に楽をするため大人の犯罪を見様見真似で模倣するといった部分があるので、結果犯罪全体がどんどん寸足らず方向に加速している、そんな気がする。そのうち大人でも子供でも楽したがりの寸足らずは、みんなオムツでベビーベッドに寝そべり、「おっぱいおっぱい」「うんこでおちりきもちわるいよう」とダダこねるばっかし、そんな方向を目指すのだろう。しかし、そんな実の親でも溝に捨てたくなるようなかわいくねーグロな巨大赤子も、やはり税金で育てねばならないのだろうか。まだ育ってくれるならいいのだが、すでに育ってそれだとなあ。同じ犯罪者でもまだ子供の方が、やはり先に更生の夢は見られる。
 しかし「そこまでに失われたろりのほうはどうなるのだ」という問題は、永遠に残る。殺人犯がいくら更生しても、被害者は絶対に生き返らない。個対個の問題としてそれに決着を見るのは、殺人が行われた時点で、永遠に不可能となる。となれば、それを取り巻く客観的社会は、いかに対処すべきか――。現在アウトライン模索中の着想などは、殺人事件でも被害者が加害者に対峙できる仮想ならではのベストな処罰だと思えるが、その詳細はさすがにまだ秘密。そこで、マジネタとしては使えないが、黒い笑い《ブラック・ユーモア》のアイデアが浮かぶ。
 死刑廃止論と死刑容認論の妥協案として、現在の形での『無期懲役』『終身刑(今のところ日本にはないが、死刑を廃止しこっちにしよう、という動きがある)』『死刑』を廃止、新たに『執行猶予付き死刑』(おい)を制定するというのはどうか。つまり、最終的に「判決、死刑。ただし、執行猶予20年」と裁定が下れば、きっちり矯正教育後に釈放、観察下できちんと市民生活を送り、20年たってその罪を『社会的に償って』いなければ、「ああ、やっぱりダメだったね」と、改めて引っ立ててぶら下げるのである。更生の意志の固い犯罪者なら当然その生を全うできるだろうし、その意志がない人間に対しても、きちんと生への可能性も与えるのだから現在より人道的な(?)死刑と言えるだろうし、意志薄弱な犯罪者が更生する確率は、絶対上がると思うのだが。たとえば8歳と12歳の子供を殺してしまった犯罪者は、猶予期間に子供を設け(子種がなくとも、養子なら可能だ)きちんと8歳と12歳まで育て上げれば、セーフ。猶予期間中に再犯の兆しを見せれば(当然猶予期間中は、四六時中監視するのである)、即、死刑執行。
 ……一見もっともらしいが、ひでー話である。まあシリアスにするには穴が大きすぎるが、ギャグやコメディなら、ブラックにもヒューマンにも使えるのではないか。


12月09日 金  お勉強

 ああ、妙な啓示を受けるのではなかったと思ってももう遅く、エディタをこねつつ夜を明かし、図書館へ。しかしお日様の下をてくてく歩いていると、夜間の脳内の隘路は案外解きほぐれていくようで、少しずつ細部の流れも見えてくる。ただし趣向が見えてくるほど、自分が思いついた設定について確かなところはほとんど知らない事を悟り、『少年法のあらたな展開』(猪瀬愼一郎・森田明・佐伯仁志編、有斐閣、2001年6月20日初版第一刷発行)、『精神鑑定』(福島章著、有斐閣、昭和60年4月10日初版第一刷発行)、『多重人格』(服部雄一著、PHP研究所、1995年9月28日第一版第一刷発行)、『人格障害とは何か』(鈴木茂著、岩波書店、2001年3月23日第一刷発行)、『統合失調症あるいは精神分裂病』(計見一雄著、講談社、2004年12月10日第一刷発行)、『精神科医になる』(熊木徹夫著、中央公論新社、2004年5月25日発行)、さらには『宮崎勤精神鑑定書――「多重人格説」を検証する』(瀧野隆浩著、講談社、1997年1月23日第一刷発行)など、一気借り。無論二週間の貸出期間で全部勉強しようなどという無謀な目論見ではなく、一通り目を通しながら構想を練るためである。長々とここに記しているのは、ろり親爺もそれなりに頑張ってるんで誠意だけは認めて下さいよというめめしい自己弁護半分、またなにぶん当人にボケが入りつつあるので再度借りる時何がどうだったかわからなくならないように、メモを兼ねている訳である。なお、途中錯乱したり知恵熱が出たりした時の脳味噌巻き戻し用に、川端康成大先生の芸術的お色気うっふん『千羽鶴』の朗読なども借り、帰りの古本屋では森敦大先達の『天に送る手紙』など購入。

 ところであの有希ちゃんの傷が12箇所、それも整然と並んでいたというニュースを聴き、少々怯える。現在の自分のアウトラインでは、犯人は最終的に12人の少女を毒牙にかけたことになっている。単なる『12』という数字の重なりでしかないのだから、あくまでも偶然であり、意味があったとしてもその意味は違っているのだろうが、いずれにせよその現実の鬼畜がありふれた逃避的宗教的トンデモをなぞったりしたただの寸足らずではないことを、祈るばかりだ。それでは現実の有希ちゃんがあまりに浮かばれない。


12月08日 木  愛は自己中

 ああ、持つべきものは物くるる友(おたくの)、という奴で、田川氏より早速(実はまだ8日になったばかりの深夜である)『プロジェクトX』の録画ファイルを拝借。しかしこんな時のネットという奴は、恐くなるほど便利。なるほど、レンタル・サーバーって、そんな使い道もあるのですね。まあ今回はただの地上波放送物件だし超圧縮ファイルだし当方も録画予定だったのだし週にせいぜい4時間ぶんくらいしか観てないのに受信料口座引き落としでしっかり取られてますから無問題ですよねNHKさん。
 で、ほぼ期待通りの濃密ドキュメントを観られて、すっかりご満悦なのである。自分自身のビジョンを公の場に晒すと言うことは、ここまでやってナンボなのだ。もっとも、役者としての長谷川一夫像はちょんの間で過ぎてしまい、いかにも達観した業師のように描かれていたが、実際は大変に難儀なお方であったのも、年配の芸能ファンならご存知のはず。あのすでに老齢と言ってもよいベルばら演出当時でも、自分が立つ舞台では、「観客は美しい自分を観に来てくれているのであり、他の役者は全て脇である」と信じ、同じ公演に出ているのが歌舞伎の大御所だろうが美空ひばりだろうが、平然と脇扱いするお方だったのである。無論、非常識な無礼を働く訳ではない。ただ終始主役として振る舞い、自分以外をあえて立てようとしない、それだけだ。昭和15年に大ヒットとなった映画『支那の夜』、その公開時に日劇を七周り半も入場待ちの観客が取り巻いたという話は有名だが、長谷川氏は死ぬまでその観客は全部自分の映画を観に来た客だと信じ、自負していたらしい。実際は7割方、共演の李香蘭(甘粕さんの満映がらみで、中国人扱いになっていた山口淑子さんですね)を観に来たお客と思われる。そんな人だからこそ、『主役としてお客様にどう観られたら最も美しいか』を、誰よりも追求していたのだ。ドキュメント内でもあったように、群舞や総合演出は、むしろ他の方々の仕事である。しかし結果的に、あの『ベルばら』世界では、その徹底的な『自己中』こそが核心だったのですね。
 『自己中』という言葉も否定的に使われがちだが、世間一般で悪口に使われる『自己中』は、たいがい自己中までに至っていない。たとえば電車の中で平然と携帯使う奴、平然と化粧しているお嬢さん奥さん方、あれは自己中でもなんでもなく、単に外観上大人の顔をしているだけで、世間も自分もまだ見えていないただの寸足らずである。世間の見えない人間に、中心にできるほどの自己なんて、まだあるはずがない。認識のすべては相対なのである。自分も死ぬまでには『自己中』を極めたいものである。しかし穴の奥で深夜サミしくひとり「あーいー♪ あーいー♪ ああいー♪」などと歌っていると、やっぱり河原の石がせいぜいかとも思うが、まあ河原の石だって、妙な勘違いはせず、石なりにきちんと石をやっている(なんだそりゃ)。


12月06日 火  プロジェクト・ろり

 さあて、内職小休止、風呂に入る前に録画しておいた『プロジェクトX』の『ベルばら編』を観ておくか――な、何故!? 予約確認までやったはずなのに、HDDレコーダーの最終録画はこの前の『義経』になっている。それはもう観たぞ。慌てて別の古ビデオの予約録画を確認すると、そっちはきちんと『鑑定団』を記録している。まあ再放送がいつかあるだろうが、現在の自分は、故・長谷川一夫さんの「美しい『私』を、万人に客観的に観てもらうためだけの芸」が、当時停滞していた宝塚にどう融和して行ったか、是が非でも確認したかったのである。それは、「醜い『私』を、自分の鏡だけを前に糊塗する馬鹿」「醜いからこっそり外に出て隠れてなんかする馬鹿」の、対極にある生き方だ。
 レコーダーに何が起きたかは判らないが、脱力してニュースを観る。例の耐震偽装に絡み、国庫からの被害者支援が決定したようだ。私が払った税金も何億分の一かは混じるはずだ。姉歯、私と同じ歳なら隠れてないでちゃんと打たれろ。その他馬鹿社長、金返せ。いえいえ、入居者の方は、なんも気になさらずにお使い下さい。損害の何分の一にも満たないでしょうが、馬鹿やビンボばかりですみません。しかし建築法違反の罰金なんて、私だって三ヶ月も働けば、稼げる金額なのよなあ。ヒューザー倒産したって、社長の隠し金なんぞ、手付かずで残るに決まってるのよなあ。あああ、あの可哀想な女の子は、血を流したまま山道を運ばれたのか……刺された時は、どんなにか痛かったろうなあ。顔に殴られた跡? ……くそ。くそくそ。くそくそくそくそくそくそ。くそ。はあはあはあ……落ち着け。

             

……と、たかちゃんも言ってるし(ろり板で拾った、反ろりの方かららしい画像なのだが、我が脳内ではすっかりたかちゃん化している)。そのくそ野郎たちは、ここでは『くそ』で充分なのだけれど、それを掲示板やブログや外で『くそ』と言うだけでは、自分もまた、ただのくそ野郎たちと同じになってしまう。だから、やっぱりアウトライン・エディタに向かうことにする。こんな感じである。

    

 タイトルはとりあえず『黒のミルフイユ』と命名。あのお菓子のミルフィーユのことである。実際の発音はミルフイユ(千枚の木の葉)であり、ミルフィーユと発音すると、千人の少女という意味になってしまうそうだ。ならばミルフィーユでもこの場合ふさわしい気もするが、少女たちはあくまでもお菓子を焼く構想なので。


12月05日 月  天国と地獄

 なんかいろいろの帰り、買い物に寄ったスーパーのお子様菓子コーナーで、5分ほど沈思黙考の末、『ふたりはプリキュアMaxHeart』のミニカメラ(無論本物のカメラではなく、ちっこい切手大のカセットを入れると、ちっこい絵がファインダーから何コマか覗けるアレである。ピンク色でとってもかわいいの)を買い物籠に入れてしまった私(しつこいようだが、大学生の子供がいてもおかしくない歳なのに、嫁も子もない)が、人間としてもう駄目かどうかはとりあえずこっち置いといて、問題はメロンパンなのである。久々に甘い物が欲しくなり、カスタードクリームが挟まっているらしいちっこいメロンパンが5個入った袋(300円台の特売品)も購入、帰って納豆とブリの食後に、玄米茶と共に試みてみたのだが――恍惚としてしまうほど美味なのであった。甘い物が久しぶりだったためだろうか。ともかく生まれて初めてカスタードクリームというものを口に入れた時と同じように、思わず天を仰いで何者かに感謝したくなるくらいの恍惚感だったのである。こんな特売品がこんなに旨いはずがないと思いつつ、旨いのだから仕方がない。こうした物がこんな値段で人生の敗残者候補の口にも入る――この国はすでに極楽なのだ。しかし人間と言う物は、多く極楽にいてさえ、要りもせず有りもしないその上を妄想し、結果、要りもせず有るべきでない地獄を、放置拡散し続けてしまう物なのだ。

 さて、先日の着想の続きの前に、そもそも現実の日本では、多重人格という症状が認められても、まず無罪はないようですね。明らかな分裂病でもない限り、やはり責任能力は問われる。単なる性格異常なら、無論有罪。となると、リアルな夢のためには設定そのものを変えなければならない。実は風呂での最初の着想時点では、犯人は精神障害者ではなく、性格異常のバリバリの未成年者だったのである。あまりに話が陰惨になるので、サイコ・ミステリー調に精神科医など持ち出したのだが、ここは当初の着想通り、犯人は絶対に断罪されないと自覚している異常性格少年、そして主人公は人道的保護観察官にした方が適切か。しかしそうすると、前半はサイコ・ミステリー調でなく、とことんイタい社会派調になってしまうか。しかしその方が、後半の迷宮や昇華が生きるか――いや、あまりに前半と後半の基調が乖離してしまうか――などとまあ、せっかく「よし! これはイケる!」などと思った着想も、さっそく隘路に踏み込む訳である。しかし今回の着想、クライマックスの趣向やオチは、他の方の作でも自分の作でも見たことがなく、かつインパクトもあり、「人としての己がどうしても一度は書かねばならぬクライマックス」に思える。これは自分が書き物を完結させるためのかなりいい発走条件で、それに対し途中の趣向を愉しむタイプの着想だと、キャラ達がいつしか勝手な自我を得てしまい、作者(自分)の制御を離れて、当初のストーリーを成立不能にしてしまうのである。結構ノッて進めていたはずの話が宙に浮いてしまうのは、たいがいそんな時だ。勝手に始まって勝手に終わってくれるのは、脳天気たかちゃんシリーズくらいの物である。
 まあ、とにかく脳内でイタい話をこね続けてみよう。現実に天使たちは、鬼畜によって日々この世界から奪われて行くのだし。たかちゃんたちも、台所でちょこちょこと、三人でなにやら怪しげな料理を画策し始めているみたいなのだが、まだ単発ギャグの段階でオチが見えない。見ているぶんにはとても楽しいのですけどね。
 などとごにょごにょ妄想しつつ風呂に入っていたら、「おお、そうだったのか!」がご降臨。昨夜からの着想は、たかちゃんたちのダークサイドによる啓示だったのだ。底知れぬ瞳の幼女たちが、たかちゃんたちといっしょに台所でうろうろし始めている。たかちゃんが物珍しそうにつんつんつっついたり、くにこちゃんが四の字固めを仕掛けて反撃にあって「ぎぶ、ぎぶ」とうめいたり、ゆうこちゃんがおしとやかにご挨拶しあったりしている。本腰入れて資料集めても、いいかもしんない。


12月04日 日  単純な推理なのだよワトスン君

 先週の風呂場びしょ濡れ事件、なんのことはない、本日真相が判明する。
 だいぶ前、この築35年のマンション(しつこいようだが名前のみ現在マンションになっていても、大阪万博の年に建設された民間団地とでも呼ぶべき兎小屋である)の水回りが老朽化し、内部配管を放棄して、外壁や通路を新しい水道管が這い回る構造になった。その際、ずいぶん水圧が改善されていたのですね。あるいは、外部のどこぞの工事で、なんか水圧が変わったのかもしれない。いずれにせよ、今までは多少水道の栓をラフに締めてもしっかり止まっていたのだが、現在はもっときっちり締めないと、水圧の上がる時間帯に、水が漏れてしまうのである。で、老朽団地の風呂場は当然洒落たユニットなどではなく、風呂桶と洗い場をひとつの首振り蛇口でカバーします。風呂から上がる時、その蛇口がたまたま風呂桶の端で止まっており、締めが甘かったため、水圧の上がる時間帯にえんえんと水が垂れ、風呂の端に当たって風呂場全体を濡らした、そんな仕儀らしい。本日も靴下びっしょりになり気づいたところを見ると、日曜・祝日に水圧が上がるのかも。まあ原因が判明しすっきりしたものの、同時に付喪神も妖怪あかなめさんも通りすがりの霊もいないらしいと判り、ちょっと残念。

 故郷で入院していた母親、容態が安定し、とりあえずグループ・ホームに入れてもらえる事になる。不安定な病状ゆえ楽観はできないが、ひとまずそこで年は越せそうである。けして精神病棟が不潔だとは言わないが、一人一人の排泄にまで気を配ってはくれないから下着は汚れるし、いよいよ悪化すればオムツになる。やはり専門の老人施設、特に少数同居タイプのほうが、ひとりひとりへの気配りは多くなる。グループ・ホームの段階なら、おむつはなるべく使わないそうだし、夜尿の心配のある入居者などは、夜間きちんとトイレに連れて行ってくれるそうだ。いつまでいられるかは判らないにしろ、少しでもいい環境に留まれれば、それに越したことはない。
 なんとなく気分が安定したためか、風呂で忽然と小説のアイデアが浮かぶ。日々ニュースを見るたび悶々としてしまう、痛ましいろり関係の事件のためだろう、混沌としたホラーである。以下、忘れないようにずらずらとメモを始めてしまうので、もし作品として成立したときに読みたいなどという奇特な方は、この先は読まないでいただきたい。もっとも内容的に自分の手に余るような気もするし、種々の投稿助言ページでは、「面白い作品はストーリーなど判っていても面白い」などと『要・梗概』の弁護をしているので、その論に従えば、どうってこともないのかもしれない。

 連続快楽殺人の犯人を多重人格と診断し、結果的に無罪に導き、その治療にまで努めている人道的精神科医が、かつて水難で行方不明になり事故死したと思われていた自分の愛娘までが実はその犯人=患者の犠牲者であったと悟る。犯人=患者は、その別人格に支配されている(と称する)間、医師の娘を陵辱し殺害した折の快感など、誇らしげに語り出す。錯乱した主人公に代わりその犯人の担当となった同業者は、多重人格という症例に懐疑を抱き、かつてその犯人の有罪を主張した人物だった。
 自分は正しかったのか、それとも――職業倫理と憎悪の板挟みとなり、アイデンティティーを喪失した医師は自ら精神を病んでしまい、鬱病となって茫洋とした日々を送る。そんな彼をいたわる妻と共に、愛娘の墓を参ろうとした時、夫婦はその公園墓地でひとりの幼い少女に出会う。少女は亡くなった愛娘に瓜二つだった。無論、当人であるはずはない。記憶が曖昧らしく、警察に届けても身元の判明しないその少女を、医師夫婦は好意で自宅に預かる。
 やがて医師は、妻がその少女を生前の娘と混同し始めているらしいと悟る。妻の異常に気づくと同時に、自らの精神は逆に覚めていったが、ある晩、妻とその少女は、昔のアルバムを見ながら、まったく親子としての思い出を談笑し始めた。狂っているのは、一体誰なのか――愕然とした医師が深夜眠れずにいると、書斎から物音がする。少女が、あの一連の事件の資料を覗いているのだ。少女は犯人の写真に意味ありげに頬笑み、しかし意外な願いを医師に告げた。「この子たちに、会いたい」。そう言って、幼い被害者たちの写真を指さす。戸惑う医師の背後から、妻の声もかかる。「会わせてあげましょ。お友達が欲しいのよね?」。
 翌日から、不思議な親子の旅が始まった。そして関東一帯の幼い被害者たちの生地を訪ねるたび、行く先々の墓地からは、かつての被害者と瓜二つの、身元不明の女児が現れた。医師は娘(?)と妻、そしてそれらの不思議な少女たちに導かれるまま、少女たちを密かに自宅に集める――。

 ああ、いかんいかん。短編のつもりだったのに、また頭の中で500枚の内容に膨らんで行く。ちなみに頭の中では衝撃の(自分の事なので、それはあっと驚くと言うような意味の『衝撃』ではなく、何もかも『浄化的カタルシス』の世界に溶かしてしまう意図なのだけれど)ラストまで浮かんでいるのだが、疲れました。本日はここまで。


12月03日 土  ハズレの幸福

 駅ビルの福引き券が一回分溜まったので、幸せそうなファミリーの方々や、なにがゆえにここまで元気なのか首をかしげたくなるようなおばさん軍団や、肩を抱き合って慰め合いたいような孤独のおっさんたちなどに混じり、ぐるりと取っ手を回す。身分相応の赤玉(ハズレ)が転がり出るのは宿命として、パートのおばさんからにこやかに渡されたのが、ポケット・ティッシュ一個なのには愕然とした。去年までは、ハズレでも薄目のボックス・ティッシュか、巾の狭いラップか、すぐに使い終わってしまう短めのアルミ・ホイルなどが選べたのだ。景気回復気味などと政府は喧伝しているが、少なくとも福引きコーナーは「痛み」だけを被っている、そんな憤慨に一瞬囚われた。
 しかしその帰途、一昨日『三丁目の夕日』を見終わってシネコンを出る時、先を行く老夫婦が、こんな会話を交わしていたのを思い出した。「なんだか普通の映画だったね」「特に、何も起こらないしね」。
 あのエゴ剥き出しの三丁目の人々が、剥き出しゆえに互いに深く関わり合い、なおかつ剥き出しゆえに互いの皮膚をかばい合う構図は、ネット上で評判を見ると、若い世代には一種『憧れ』の世界にも映るようだ。それがその老夫婦には『当然の世界』に思えたのなら、あえてハズレだと何ももらえない時代に戻って行くのも、悪くないように思われた。まあ、戦争まで遡ってしまうのは御免なので、やっぱり小泉さんは嫌いだが。
 改めて、我々よりも若い世代の山崎貴監督が、『三丁目の夕日』をああした虚実皮膜の間のしっかりした脚色で映画化してくれたことを、有難く思う。我々以降の世代、あるいはさらに上の原作者・西岸良平さん世代だと、実写でも、炬燵の中の老猫の夢のような過剰(?)に甘い世界を構築してしまったのではないか。それはそれで、あってもいいのである。西岸さんの世界は、連載初期のシュールさや苦さを意図的に薄めて行って、現在まさにそんな世界を構築しようとしているのだから。しかし、それはあの素朴な絵柄だからこそ成立する異世界であって、現実の役者さんを配してまんま描いてしまったら、それは歪んだ退嬰性に過ぎない。
 一方の『奇談』の惨憺たる仕上がりは、諸星ワールドの中の『虚』の部分だけを追ってしまったからなのだな、と、今思い当たる。ハズレでも何かもらえる世界こそ『虚』そのものだろう。その世界をいきなり提示できる天才がない限り、何かもらいたいなら、アタリが出るまでの『実』の七転八倒も、構築しなければならないのだ。観客の大半は、宝くじなんぞ当たりはしないのだから。


12月02日 金  悪魔と天使

 師走に入っても、ろり至高主義の人間にとって、いやあなニュースが続く。まあマスコミというものは、おおむね世界のほとんどの人間にとって「いやあな」話を主に流すものだけれど。いまさら使い古された言葉だが、やはり「他人の不幸は自分の幸福」なのか。と言うより、自分・他人に関わらず、幸福を感じる・感じさせるよりも、不幸を感じる・感じさせるほうが、とってもお手軽だからなのでしょうね。
「悪魔が憑いた」などと言うのは、単に全てを「お手軽に済ませたい」と言っているに過ぎない。あなたも私も「お手軽に済ませたい」のはいっしょです。しかし私は悪魔も天使と同様、そんじょそこらの人間に、まして自分などに気を止めてくれるほど暇ではないと思うので(まあいらっしゃればの話だが)、そうした妄想は抱きません。良くも悪くも、あなたや私の心ひとつ。
 自分がそうした消極的な自我をまだ愛せるのは、どんなに楽を選んで情けない人生を歩んでいても、「ろり関係だけは楽をしようと思わない」、それだけの自負が残っているからなのだろうなあ。だから自分の天使は、やはり、ろり。その意味では、漫画も映画も音楽も、他の多くの嗜好品も、自分にとっては悪魔なのかも知れない。しかし文章類は、どちらかと言うと、悪魔より天使に近そうだ。楽に殺せるものではない。
 ……またトーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』でも読み返すか。我が人生の目標を確実に思い出せるのは、やはりあのめろめろな少年の、相対認識の世界だ。


12月01日 木  ぱらいそは遠く

 このところ夜型で寝たのも4時頃なのに、今朝はなぜか8時に目が覚めてしまう。一日休み(例によって勝手に決めたのだが)にするつもりだったので、精神が浮かれたか。これはラッキーと、徒歩2キロのシネコンへ『奇談』を観に行く。着いてみると、朝っぱらから妙に人出が多い。地元のシネコンは、月初めが1000円デーだったのですね。まあタダ券使うにも、なんか賑やかで嬉しい。
 で、期待した映画の出来は――あまり言いたくない。原作に惚れているのは判る。少ない予算と短い時間枠で、精一杯諸星大二郎世界を映像化しようとした度胸も買う。いかんせん、出来たシロモノは映画にもドラマにもなっていない。説明的セリフの羅列は、考証伝奇系原作ゆえある程度覚悟していたが、観ていれば誰でも判るような意味なし説明セリフが続出かと思えば、そのくせテーマそのものである『虐げられた者』『歴史の裏に閉じ籠もってしまったもの』の怨嗟や哀愁などは、まさかクレームを恐れた訳でもあるまいに、ちっとも描かれない。観客が作品から感じ取るべきそんなテーマまで、登場人物が独白するだけで済ませてしまう。人物造形・行動の演出も稚拙そのもの。この監督さんは、いかに自主映画出身とはいえ、そもそも人間をきちんと観たことがあるのか。映画という映像分野すら、好きな物くらいしか観ていないのではないか。原作を読んでいない観客には何をやってるのか判らないだろうし、原作を愛する人間は、ツボをことごとく外されてしまう。下手に原作に対するこだわりが窺えるだけに、なおいたたまれない。
 ただ、もし金を払って観ていたとしても、金返せ、とまで言う気にはならなかっただろう。下手なりに諸星ワールドへの敬愛は感じたし、昨今のミュージック・クリップ系の得意な若手らしく、ラスト15分ほどの『ぱらいそ昇天ショー』だけは、原作ファンにも納得の行く映像だった。ただそこに至るまでの感情的な伏線もなにもまともに張られていないので、原作を知らない方には、なぜそのシーンが素晴らしいのかも理解できなかっただろうが。それでも原作ファンには、ラスト15分のみでも1800円に値するのではないか。白木みのるさん率いる『さんじゅわん』のビジュアル、わずかな出番でも鳥肌が立った。もっともそこに至る一時間十五分は苛々と脱力の連続であり(個性派の脇の役者さん、奇をてらった不自然な演出でほとんど無駄遣い)、監督がちっとも描けなかったテーマをラストでヒロインがずらずらとナレーションで説明し始めるに至って、別の意味の『悪夢』を感じた。冒頭で「映画にもドラマにもなっていない」と記したが、正確には「シナリオの書き方をまったく知らない」「まともな長編映画をまともに分析したことがない」としか思えない。しかし「あまり言いたくない」などと言いつつ、自分もよく好き勝手述べるなあ。

 そのまま帰宅するにはあまりに辛かったので、1000円自腹を切って『三丁目の夕日』も観てしまう。心機一転、しみじみと落涙する。ここまで見せてもらえるとは思わなかった。実は予告編などから、昭和30年代も終わりに生まれた人間にどこまで昭和30年代が描けるものか、などと意地の悪い先入観を抱いていたのである。自分の狭い心を恥じ入る。山崎貴監督という方は、VFX専門の方かと思っていたら、ここまでしっかりした人間だけのドラマも組める方だったのだ。真の映画おたくと認めていいだろう。東京タワー建設風景を主軸に、舞台を昭和33年に絞った時代考証の正確さなどは、当時生きていた方々にとって、多少の疑問も残ろう。その一年ちょっと前に生まれたばかりで、原初記憶は34年あたりから始まっている自分にも、些細な違和感はあった。しかし元来西岸良平さんの原作が、戦後数年から大阪万博まであたりの時期をひとつの「ノスタルジックで不可逆的なファンタジー漫画空間」として捉えているのを考慮すれば、リアル系実写作品としては出色のアレンジであり脚本だった。けしてそのノスタルジーに引き籠もらず、原作にはない未来への継続感さえ醸し出している。当初不安に思っていた人物の設定変更から何から、一本の映画作品としてお見事に成立している。CGの汽車や街並みも、きちんと情をこめて『演出』されている。

 こうした二極的な作品を一度に観て、つらつら考える。それ自体で堅固な世界を確立している漫画作品を映像作品としてアレンジするには、どんなスタンスで臨むべきか。愛着や惑溺だけでは、まず原作に敗北する。監督のセンス+映画的素養をもって敵(?)を消化する、それしかなさそうだ。同じ『妖怪ハンター』が原作でも、塚本伸也監督の『ヒルコ』(当時は若者も大若者の商業デビューだった)など、一見我流のアレンジながら、あのせつない伝奇的情感は、原作ファンにも映画ファンにも納得できるものだった。予算など『奇談』の何分の一だったろうに。『三丁目の夕日』にしても、自分は原作ファンだったので映画を観る前は何かと種々の設定変更を疑っていたのに、結果、原作を充分に生かした一個の優れた作品になっている。このあたりの呼吸は、『細部』をもって『全体』を再構築するおたく度に加え、やはり映画的素養が要る。昔、高橋留美子さんの『うる星やつら』アニメ化のおり、当初我々原作ファンは押井守演出総スカン状態だったのに、押井監督自身が強烈な自我を発揮し出し、るーみっく・わーるどを我流で消化し始めたあたりから俄然大化けしたのも、そこに確かな映画的素養の根付きがあったからこそである。また、たとえば北野武監督のシュール系作品などは、ストーリー上何がなんだかわからなくとも、カタルシスや情動の流れはきっちり存在する。古今の映画的感覚というか文体を、摂取消化しているからだろう。
 山崎貴監督はこれまで、VFXおたくである以上に、特撮とは無縁の古今の一般映画も無数に賞味し、熟慮分析したはずだ。そして――えーと、名前を覚えなかったが『奇談』の監督は、映像造りは大好きでセンスもあり勉強もしているのだろうが、原作の『生命の木』がなぜあれほど素晴らしいか、コマばかり見てネーム全体の流れ、つまり語り口の妙はなんら学んでいない。そしておそらく、自分や自分の周囲の人間達をも、刹那刹那の映像としか、把握していないのではないか。

 しかしまあ、本日はたった1000円で、対照的な2本の邦画を最高の環境で比較でき、有意義な一日だった。久しぶりに好物のウェンディーズのハンバーガーとチリも食えたし。帰途はペット・ショップで「ああ、ねこにゃんねこにゃん」と小猫鑑賞に耽溺。その後図書館に寄り、北杜夫さんの『薄明るい場所』『星のない街路』朗読CD、ディケンズの『クリスマス・キャロル』の脚色CDを借りる。こちらは無論、無料である。ありがたやありがたや。
 最後に、『三丁目の夕日』で、集団就職の六さんならぬ六ちゃんを演じた堀北真希という娘さんは――う、うちの息子の嫁にしたい。息子がいないので、ワタシの嫁でもいい。何より、口跡に芯がある。それにあのお尻は、絶対丈夫な子供の産めるお尻だ。花子の尻(?)だ。って、思わず指を震わせてどうするおっさん。