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01月31日 火  無知の涙

 あう、コピーワンスって、デジタル録画もいっぺんしかできない、そーゆーことだったのですね。つまりケーブル放送を、業者のおにいさんが繋いでくれたHDD・DVDレコーダーに録画してしまうと、それっきり他に焼けないのである。同じ機械でDVD−Rに焼くのも禁止なのである。そんなことすら知らなかった無学の輩。でも、めげません。SVHSにダビングすればいい。しかし、それだとまたあの邪魔くさいテープが、再増殖を始めてしまう。いっそ最初の結線をビデオデッキに移して、そこから残したい物だけDVD−Rに焼くか。どうせ古い番組ばかりで元の画質も悪いのだから、多少の劣化は気になるまい。いずれにせよ、久々のビデオデッキ録画再開。
 ともあれ九重由美子さんの元祖実写ドラマ版『コメットさん』を、何十年ぶりかで再見。今回は、人気を狙ってやたら過激な殺戮に走るアクション・ヒーロー番組を皮肉った話。古いコメットさんって、こんなに社会的平衡感覚に溢れた話だっかたと思いつつ監督を確認したら、なんと中川信夫先生なのであった。せ、先生、コメットさんまでやってらっしゃったんですね。うるうるうる。なんのことはない、映画『東海道四谷怪談』『亡霊怪猫屋敷』の類だけでなく、あっちこっちでガキの頃から情操方面のお世話になっていたのである。子供に見せるための娯楽番組を、きっちり大人として撮ってくれていたのだ。で、同じ頃に撮っていたはずの『プレイガール』などは、大人のためなのでちょっとパンチラお色気ウッフン。そうそう、大人はそうじゃなきゃいけない。仏教的因果応報、ガキのための説教、お色気ウッフン、みんな平等に見境なく常に標榜しようとする「正直な」連中など、ただのガキだ。あ、俺や。先生、修行たんなくて、すみませんすみません。とモニターに向かってぺこぺこ頭を下げる狸なのであった、まる、と。でも自分の場合、仮想読者対象は、『失われた世界』執筆時のコナン・ドイル同様『半分大人の子供の衆と、半分子供の大人の衆』なのだから、無問題。……そうか?

 そんなこんなで、昨日の雑想に発作的に記してしまった内容、今見れば、かなり独善的な気がする。何がかわいくて何がかわいくないかなんて、考えるまでもなく個人の好みだ。たかちゃんたちをかわいいと思って下さる方々が、ジュリアナちゃんをかわいいと思ってくれるとは限らない。それでは自分が常々クサしている、朝日新聞的論法と同じになってしまう。『うちの犬の尻尾は白い。隣の黒犬も犬である。よって、黒犬の尻尾も白い』。といって、ここに記してしまった内容は、誤字・脱字・文脈の乱れ・社会情報としての誤謬以外は、原則として修正しないことにしている。要は、アレです。♪人間ーなんてららーらららららーらー♪ ……なんだそりゃ。


01月30日 月  顔のない少女

 興味本位で妙なサイトやブログをうろついていると、時折自分にとっての真理補填とも言うべき情報に行き当たる。現実、いや、この世界での『事象』すべてを等価と悟ろうと欲する仏教徒志願者(俺や)を、それはもう「これでもか! これでもか!」と試してくる。以前にも述べた、死美人物件のための死体写真閲覧など、まだまだ序の口。しかし自分は、以下にリンクしたブログを見ても、すでに驚かない。この世に意識体としての神などおらず、ただ万物を悠久のエントロピー拡散に向けて流してゆく法則があるだけなのだから、このちっこい子供とたかちゃんたちは、明白に等価だ。たとえ上顎・頬骨・眼窩・耳骨を持たずに生まれてきてしまったとしても、かわいいひとりの赤ん坊である。けして偽善者としてでなく、ほんとうに子猫や子犬や一般の(憎たらしくない)幼児同様、抱き上げてうるうるとかまってやりたくなる。型どおりの顔なんて、なくてもいい。でも、生きていくのが大変なのは確かだわなあ。ああ、守ってあげたい。でも、助力できるだけの甲斐性はない。ごめんね、おじさんは、やっぱりただの偽善者で終わる資格しかないみたいだ。
 もしクリックする覚悟のある方は――いや、本当はすべての皆様にクリックしていただいて、このいたいけな『別のところのたかちゃん』を見ていただきたい。ジュリアナちゃんです。本来グロ系というか節操のないブログなので、のっけから欠損頭骨のレントゲン写真(まあレントゲン写真になってしまえば、あなたも私も充分グロですが)をセンセーショナルにカマしてきますが、そこからリンクしている寄付募集の動画を見ていただきたい。かわいいです。いや、自分にはかわいかったです。本音を言えば、自分同様この子に頬ずりして遊びたいと思わない方には、たかちゃんたちといっしょに遊んで欲しくもないのです。
 しかし、案外テレビなどで、とっくに紹介されているのかな。有名なブログらしいし。


01月29日 日  休日

 で、例の『まんが道』5時間ぶっ続けやら『日本岩窟王』4回分やらを流しながら、ブルとライラ物件をHP用に組み、丸一日休んでしまう。
 『まんが道』のほうは、さほど古い作品ではないと思っていたら、もう20年近く前の作品だったのですね。とはいえ昭和30年前後の風合いなどは、低予算ドラマゆえほとんど出ておらず、高岡や東京の遠景はビルだらけ。上野駅も部分撮りで済ませてあった。しかし題材自体に思い入れがあるので、充分楽しめる。
 『日本岩窟王』はさらに数年前の作品。まだ暇な学生時代だったので、毎週手に汗握りながら観ていた記憶がある。前年の『未来少年コナン』といい、あの頃のNHKはイロモノが本当に面白かった。とにかく荒唐無稽娯楽連続伝奇時代劇の愉しさ満載、脚本も演出もセットやロケも、今の大河ドラマを凌いでいるのではないか。何より役者がいい。二枚目はほれぼれするような花があり、何より自分の花を見せる芝居がうまい。脇は脇で、渋いなり悪辣なり滑稽なり、それぞれ時代劇にしっくり融和している。若い女性軍も、「ふにゃふにゃ発音でもかわいきゃいーでしょ」とか「目ん玉剥いて声を荒げれば芝居なんてチョロいもんよ」とか「雨や泥にまみれて泣いてみせれば名演技よ」とかいうタレントさんは、幸いまだ時代劇まで紛れ込んでおらず、しっかり荒唐無稽を芝居のリアルさで演じられる。ここまでやってくれての、大嘘娯楽作なのである。
 ご存知ない方のために、時代劇専門チャンネルの紹介をコピペさせてもらうと、『
名門旗本の若武者・葵月之介(草刈正雄)は、「島原の乱」鎮圧に際して大手柄を立てるが、その直後、彼をねたむ男たちの罠にはまって無実の罪を着せられ、絶海の孤島・巖窟島(いわやじま)へ送られてしまう。仇敵憎しの一念で十年もの地獄の日々を耐え抜いた月之介は、ついに不可能と言われた巖窟島脱出に成功。復讐鬼・巖窟王に生まれかわり、周到な復讐計画を遂行する!』――こんな話である。残念ながら、今週はもう11回目まで進んでしまっており、もう復讐編に入ってしまっている。とすると、志垣太郎さん演じる美剣士・天草右京の初登場(?)シーンだったと思われる名場面(当方の記憶だと)は、もう先週流れてしまったのだろうなあ。またいつか流してくれるか。なんか美女が悪漢に囲まれ危機一髪のところに悠然と現れ、「美しい女を、美しい男が救う。――お定まりの筋書きだ」とかなんとかのたまわってくださってくれちゃったりしちゃうのよ。しちゃうのよ。でね、でね、これがまたぜーんぜん嫌味でもなんでもなくって、おばちゃま、あーんないい男に助けられるんなら、もう悪漢でも無差別テロでも老女趣味の鬼畜でもヒトカタマリになって襲ってきてくれないかしら、なあんて、思わずあんなとこやそんなとこが疼いたり潤ったりしちゃったの。……じゅるり。

 ブル・ライ物件、とことん凝りまくったので、背景写真の素材探しや加工に、丸一日がかり。まあこんなワビしいページゆえ、一応大手出版社公募の第二次選考通過などというウリ(ちょっと情けないが)は、今のところこれくらいしかないのである。近日最新版再公開予定。


01月28日 土  恐怖のケーブル

 数日前に管理人さんから話のあった、地上波デジタルに備える各室の受信チェックとやらで、ケーブルテレビ会社の若い衆が来訪、万年床を踏みまたいでアンテナの元プラグをなにやらテスターでチェック。建物の大元の作業は、もう済んでいるのだそうだ。地上波デジタルなんぞ不要と思っても、集合住宅の一室なのだから対応は必須。そのチェックの最中、若い衆は当然のように、別口のケーブル加入も勧めてくる。ううう。地上波のほとんどは無用でも、ケーブルにはかねがね惹かれるものがあったのだ。で、今なら作業のついでなのでチューナー設置等1万円を越す作業料は不要、二ヶ月は視聴も無料、これこのように仰山のチャンネルが――契約を取れば歩合が入るのだろう、若い衆の言葉にも熱が入る。これがまた、商売人っぽい立て板に水タイプではなく、木訥で人の良さそうなトークなのである。
 しかし、懐具合という当方の事情もある。ここは涙を飲んで、お引き取り願おう――と思いつつ、作業中に番組表などめくって見たのがまずかった。よりによって今日の夕方から、昔NHKでやった『まんが道』のドラマ(当時は仕事が忙しく観られなかった)を全回ぶっ続けで放映するわ、夜中には、大昔やはりNHKでやった『日本巌窟王』(うふ、若い頃の草刈正雄さんや志垣太郎さんが、もうほんとうにいい男なのよねえ。もう思い出すだけで、おばちゃま、思わずあんなとこやそんなとこが――ああ、もうなにがなにやら)も毎週4回づつやってるわ、コロンボ毎日殺人犯捕まえるわザ・ガードマンは「べんべーん、べ、べべん、べ、べんべーん、べ、べーん」とエレキに乗って徒党組んでるわ元祖コメットさんはスティックふりまわすわウルトラマンは帰ってきてるわ旭兄ィや宍戸のジョーは暴れてるわマニアックなドキュメント垂れ流しになってるわ――はい、はっと我に返った時には、せっせと申込用紙に住所氏名口座番号書き込んでました。で、現在『まんが道』全5時間録画中です。……いつ観るんだ? 
 まあいいか。無料期間含め5ヶ月たったら解約できると言うから、その間録るだけ録って、一生かけて観ればいい。そうすれば、地上波デジタルチューナーだのなんだの買わなくとも一生間が保ちそうだし、NHKの受信料も、「観てません」と言い切れるから、払わなくて良くなる。そうだよ、うん。……そうか?


01月27日 金  追想の長いトンネルを抜けると、よそ国だった。

 で、ようやく橘外男原作・小畑しゅんじ作画『人を呼ぶ湖』の続きの載った、1969年の少年マガジン23号を発掘したわけだが(自分もとことんしつこいなあ)――おう、やはり後編で、ありがたく完結している。しかし内容は――おうおう、やっぱり餓鬼の頃の記憶などというものは、改変・捏造し放題なのであった。湖中で屍蝋化した恋人の手を引いて、主人公が引き上げようとすると――掌の皮膚ずるりどころか、ぐっちゃりお肉ごと崩壊、後に残るはお手々の骨ばかりなのであった。そして湖底で等身大蝋フィギアと化しながら人を呼んでいた一族は――インカ風でもチロル風でもなく、どうやらローマあたりを資料にした模様。東チロルのお姫様がはたしてあんな衣装であんな竪琴を弾いて人を招くものか、臣下たちがどう見てもローマ史劇風なのはなぜか、まあそのあたりは当時他の資料などなかったのだろうなあ、とご同慶(?)の至り。
 それにしても、じゃあ自分が今まで記憶していた(いや、記憶として認識していた)ビジュアルは、なんだったのか。推測するに、そうしたナマでやーらかく腐った感じのスプラッター人体崩壊描写は、簡略な描線なら貸本などで昔からあったにせよ、映画や劇画ではほとんど無かった(楳図かずおさんや古賀新一さんはすでに相当焼いたり腐らせたりミイラにしたりしていたが、美女の一部がいきなりお豆腐のようにぐしゃり、という趣向はなかったように思う。ドラキュラ映画などでも、せいぜい焼け爛れるとか、ミイラ化して灰のように崩れる感覚だった)ので、そのあまりの衝撃にヤバさを覚えた子供の自分は、記憶を穏健に書き換えてしまったのだろう。ローマ風衣装をインカ風に置き換えたのは、当時の自分でも、東チロルの古代民族がローマ史劇ではおかしいだろう、そんなふうに考え、しかし作者同様正確な考証などできるはずもないので、なんかいいかげんに別の史劇映画や漫画の記憶と置き換えてしまったのだろう。
 そうすると、美女のほっそりしたお手々から、白い皮膚だけが手袋状にずるり、というのは、やはり自分固有のビジュアルなのかもしれない。ならば、一安心。重要な見せ場だからなあ。しかし本当に子供の頃の記憶というシロモノは、成長後、変換しまくりである。


01月26日 木  バトンの墓場

●実は○○がいる
 部屋には何もいません。貧しいちょんがーです。いろんな声が聞こえるのは、きっと気のせいです。……うふふふ、おばちゃまとたかちゃんたちしか、もういないのよ。きっとおじちゃまが、仮想人格だったのね。

●実は○○をやらかした
 不惑をずいぶん越えた身で、なにやら人生にギモンを抱き、ふらふらと退職届を書き、そのまんま提出し、あっさり受理されてしまった。少しは引きとめてよ、うるうる。まあ50にして天命を知るというから、きっとそっちが先に来たのだな。そうしとこう、うん。

●実は○○を知ってる
 リリーズのおふたりに、中央線車内で「燕さん(おふたりの実際の旧姓)のおふたりですよね」などと馴れ馴れしく話しかけ、親戚と間違えられた。しかしすぐにただのミーハーとばれ、でもサインもらった。

●実は○○でした
 外面如菩薩内心変態。

●実は○○が好き
 おおむね好みはすでに露呈してしまったはずです。あ、『貢ぎ物』ってのは、まだ書いたことがなかった。

●実は○○が苦手
 胡瓜の青臭さ。りんごの歯応え(顎や頭骨に響くので。味は大好物)。旨くない漬け物。

●実は○○した事ある
 たいがいここでネタにしてます。あ、見知らぬ幼女のア○○を見たことがあるってのは――残念、裏ですでにネタにしてました。

●実は○○が欲しい
 ほんとうはお金が欲しいです。すみません、今まで周囲を欺いてました。金がもっと欲しくて欲しくてたまらないです。そしたら毎日毎日、豚めしだけでなく、牛焼肉定食が食えます。

●実は○○を持ってる
 ジャンク・カメラや玩具カメラ数十台。過去には非ジャンクが、クラシック大判中判含めもう100台近くありましたが、全部売ってしまいました。うるうるうる。しかし得体の知れないジャンクのほうが、今となってはかわいいです。たとえば、ヤフオクで2000円で落札してしまった中国製中ぶるキティーちゃん詰め合わせに入っていた、こんなの。

             

 以上、ゅぇ様からのバトンでした。バトン渡す先は、残念ながら沼の底なので、ありません。ところで、祝ニアピン物件(メール)は、届きましたでしょうか。


01月25日 水  速い安い旨いような気がする

 新しいプリンタが届く。さっそく短縮推敲中物件をプリントしてみたら、これがもう壊れた奴の推定一億倍――ってこたあないが、少なくとも5倍の早さでプリント終了。嬉しくなって次も印刷していたら、なんと壊れた奴の半分くらい(A4で200枚くらい)しか、インクがもたなかった。インク・カートリッジはほぼ同価格である。まあ世の中、そう甘くない。しかし印字中のパソ速度低下もほとんどなく、さすがに最安価型落ち機種(iP1500です)とはいえ、キャノンのピクサス。さて、まさか一日で使い切るとは思わず、インクの予備はまだない。続いてカラーを試して見ると、速度はやはり5倍だが、画質は意外にも、壊れた方がほんのちょっと勝ち、そんな結果。やっぱり世の中、そう甘くない。とはいえちょっと見には、なんとか写真画質。どアップで見ても、ハンパな印刷物には勝っている。値段が3分の1なのだから、文句はない。最新の上位機種はなにやらすっかり美麗写真画質だそうだが、業務用のレーザー・プリンターと比べると、どうなのだろう。

 一万ヒットの方の自己申告がなかったので、前後賞の方への貢ぎ物を、なんかいろいろする。といっても旧作の焼き直し物件なのだが、当方けっこう凝りましたので、誠意だけは認めていただくとありがたいです。
 ついでと言ってはなんですが、過去や今回いただいた画像を、ここに置いておきたいと思います。『頂き物』とか、きちんと表に置くべきなのでしょうが、たったふたつだし、これからもそう増えることはないと思われますので。


clown-crown 様作『たんたんたぬき』。なにかの想像図と思われる。


興奮と辛辣様(誰?)作、題不詳。なかよしさんにんぐみの現在と未来、そんなふうに解釈。宮田武彦さんの挿絵のような(古いか?)懐かしいタッチで、とーってもリリック。


01月24日 火  茶飯事

 このところ、近所の松屋のご飯が、妙に柔らかい。これまでは、どちらかと言えば硬めだった。母方の実家がかなり硬め好きだったためだろう、かつての我が家もまた硬め主義だった。ひとり暮らしの初期には、なぜかごはんを炊いてくれる若い女性なども存在したが、この方は実家がとことん柔らかめ主義だったらしく、自分は「……これ、一歩間違うとおかゆなんじゃないの」などと思いつつも、大人しく、ありがたくいただいていた。自分は女性も靴下も充分強くなってからの育ちなのである。このまま一生柔らかいごはんでもいいと、すなおに思った。しかし甲斐性がないと、ひとりでに出てくる自宅ごはんも、若い女性も、やがては尽きる。残るのは、青い鳥にしてはずいぶんかわいくない、電気炊飯器だけである。それとて自分で米を研いでスイッチを入れなければごはんを炊いてはくれないし、無論、おかずは絶対に作ってくれない。――ことほどさように、松屋のごはんは大切である。ああしたチェーンのごはんは、水加減までしっかりマニュアル化されているはずなのだが、やはり人が変わるとグアイも変わるようだ。哀しい。

「誰に怒りをぶつければいいのか」――。愛知県豊川市の村瀬翔ちゃん(当時1歳10カ月)が水死体で発見された事件から約3年半。殺人などの罪に問われた河瀬雅樹被告(38)に下された判決は無罪だった。24日、名古屋地裁の傍聴席には「事件は自分の責任」と責め続けた、翔ちゃんの父、純さん(28)の姿もあった。事件後、自らも疑われ、幾重もの苦しみを受けてきた。父は絶望した表情で法廷を見つめた。【月足寛樹、岡崎大輔】午前10時すぎ、名古屋地裁1号法廷で伊藤新一郎裁判長の「被告人は無罪」の言葉が響いた。白っぽいジャージーに灰色ズボンの河瀬被告はその瞬間、表情を変えずに弁護側に軽く一礼して判決文に聴き入った。一時は容疑を認めたものの、接見の弁護士に「本当はやってはいません」と訴えた。だが、その後も「自白調書」を何通も作成させられた。「相手に合わせて話す心理傾向がある」(弁護側)という河瀬被告にとって、取り調べはなすすべもなかった。弁護側は「灰色ではなく、完全な無罪」と訴え、犯人なら間違えるはずもない殺害方法を「自白調書で変わってきている」と主張した。「物証なき殺人」は無罪と判断された。「2割くらいは無罪かもしれない」。判決前、純さんは不安な胸の内を明かした。すべての公判を傍聴した純さんは「(被告は)犯人ではないのかもしれない」と眠れぬ夜もあったという。事件の夜のことは忘れなかった。自らが疑われ、刑事からは「お前が犯人」とさえ言われた。「自分が車の中に置いてこなければこんなことには……」と自責の念にさいなまれ、心身ともぼろぼろだったという。「無罪では」との不安は的中した。「では誰がやったのか。誰に怒りをぶつければいいのか」。自責と後悔の念は振り出しに戻った。無罪判決を受けた河瀬被告は、閉廷後に申請した保釈が認められ、名古屋市中区の愛知県弁護士会館で記者会見を行った。うつむき加減のまま「皆様のおかげで無罪になりました。ありがとうございました。本当にうれしい気分です」と述べた。(毎日新聞) 1月24日14時32分更新』――何が真実なのか、無論解らない。たとえ翔ちゃんが戻って来てくれたとしても、赤ん坊なので犯人を覚えてはいまい。物証無き事件の場合、ことほどさように審理は困難だ。しかし、不合理な自白調書が、捜査の進展にしたがってころころ変わった、つまり捜査陣の都合に従って自白が修正されて行ったのは事実である。捜査段階で、父親さえ一度「お前が犯人」と言われている。その父親が、「ごめん。あっちが犯人」と言われても、心から信じられるはずはない。かつては自分も、なんの物的証拠もないのに、状況判断という名の刑事の心証によって、犯人扱いされたのである。で、「あっちが犯人」にも、自白によればそれで無造作に運んだはずの車から、翔ちゃんの髪の毛一本、調書によれば大泣きしたはずの涙の一滴すら、見つかっていない。無責任な傍観者として腹がたつのは、ひとりの容疑者を審理に送った時点で、肝腎の「他にいるかもしれない赤ん坊殺しの鬼畜」の捜査が、いっさい放棄されてしまった点である。その鬼畜が、今現在喜んでいるにしろ苦しんでいるにしろ、忘れているにしろ死んでいるにしろ。

 今さら30年以上前の記憶を持ち出すのもなんだが、以前にも記した新宿西口通路の交番の奥では、深夜シンナー遊びで補導された少年たちが、仲間の少女たちを前に、アクリル製のぶ厚い35センチ定規(マジに1センチくらい厚い奴)で、ビシビシ警官に殴られていたのである。自分はその時も、ただの傍観者――発作的に田舎から東京行きに乗っただけの家出少年。それにしてはずうずうしく深夜歌舞伎町を見物したりしていたが――に過ぎなかったので、丁重に扱っていただけたのだが、それでも新宿署で見当外れのお説教に辟易したことは、前にも書いた。
 西口交番での見聞には、まだ続きがある。自分が生まれて初めてパトカーに乗る前、それら先客の保護者らしい方々が、三々五々現れた。自分も近県の人間だったら、そこで待たされたのかも知れない。ともあれいろいろあって、先客たちは保護者と共に解放されて行ったのだが――ひとり、少年が残っていた。保護者は、来てくれないらしいのである。さて、その少年は、自分と共にどこかへ移動するのか――興味深く窺っていると、警官さんたちは、あっさり放り出してしまいました。詳しい事情は知りませんが、本当の話です。その少年は、自分がパトカーに乗る時も、まだ交番の横の壁を、号泣しながらガンガン叩いてました。もちろん、ほっぺたまっ赤に腫らして、血を滲ませて。
 ――えーと、まあ、それだけの事です。みんながみんな無責任とは言いませんが、あんまし世間様に、誠意や責任感や庇護を期待しすぎてはいけない。非行もごはんも、大切なのは自助努力、そんなありきたりの話で。


01月23日 月  フランス映画

 邦画同様すっかり砂糖菓子ハリウッド映画に染まってしまって見え見えCGやらアクションやらの目立ってしまう昨今のフランス映画だが、我が国にも米国にも渋い映画はまだまだ存在するように、往年の叙情名作映画王国フランス、さすがに少年寄宿舎・少年たちの合唱とくれば、ツボは外さない。伝言板で教えていただいた『コーラス』ですね。映像美という観点でやや物足りないのは、往年のとんでもねー美しさのフランス映画を多く観てしまっているがゆえの高望みとして、ドラマは素直にうるうる物でした。まあ少年の歌声が聞こえてくるだけで、うるうるしてしまうたちではあるのだが、やっぱりあのフランスらしい風合い――人情物でありながら妙にベタベタせず、情薄き人間が情に目覚める感動というより、連環の中で個人が確立してゆく感動なのですね。善人も悪人も子供たちも、みんな不完全のまま、しかしひたむき。
 興味深かったのは、最後まで改心せず寄宿舎に火を放ったりする、人格障害粗暴少年の造形。一見最後まで突き放しているかのようだが、無法者として他人の窃盗の罪も無言でかぶる侠気はあるし、放火だって寄宿舎に他の生徒がいない時を選んで燃やしている。犯罪者には犯罪者なりの仁義がなきゃいけない――往年のフランス流フィルム・ノワールの感覚が窺える。あの少年も、脱走後はきっと戦後の(アラン・ドロンやリノ・バンチェラが演じたような)黒社会で鍛えられ、いっぱしの仏流ギャングに育ち、最後にはきっちり渋くキメたのではないか。少なくとも、場当たりの無差別殺人などには走らないはずだ。
 十人十色、これすなわち人情――そんなのが、フランス映画の人情に思われる。たとえば子供に三原色の絵の具を買ってやったとしても、ちゃんとしたパレットがなく、やみくもに混ぜてしまえば、ご存知のとおり、濁った黒になってしまう。きちんとパレットやたくさんの小皿などがあれば、虹の絵だって描ける。ビンボで一色の絵の具しか買えない場合でも、頭数を揃えれば、やっぱり虹の絵が描ける。あれ、でも、世の中は二次元の紙ではないのだから、このたとえは不適切か。

「はーい、それではおばちゃまの『よいこの理科実験教室』、はじまりまーす。これこのように、三本の懐中電灯と、赤・青・緑のセロファンを用意しまーす。――はい、たかちゃん、赤いの、ちょっと持っててね」
「おう。てーでん? たいふー?」
「はい、くにこちゃんには、青い懐中電灯」
「ちぇ。くいもんじゃ、ないのか」
「そいでもって、ゆうこちゃんには、はい、緑」
「こくこく」
「はーい、それでは電気を消しますよー。消えたら、あっちこっち照らしてみてね。――ぽち」
「……おう、まほう。いろんないろが、いっぱい」
「わはははは。おばけー」
「くるくるくる、ちょんちょんちょん」
「あらあら、なんだか、ジュリアナ・トーキョーの夜毎の熱気を思い出して、おばちゃま、おこたの上で踊り狂いたくなっちゃうわ。――おらおら、ボディコン狂いのエロ野郎ども、ディスコ・クィーン様の透け透けTバックを拝みやがれー、うりうりうり。……いけねーいけねー。はい、たかちゃんくにこちゃんゆうこちゃん、こんどは、あそこの壁をみんなでいっしょに照らしてみましょうね」
「……おう」
「なんでだ?」
「……まっしろ」
「はーい、これこのように、純白の世界などというものは、けして『汚れのない世界』ではなく、『なんでもあり』から生じるものなのですね」
「ゆりな、くらくて、くろいのがいい。……くすっ」
「くす、くすくすくすくす」

 まあ、赤い絵の具しか売ってなくて国中真っ赤っ赤、そんな国もあるのだろうが。


01月22日 日  日曜雑感

 陽が昇りきってから寝に就き、なんとか陽のあるうちに目覚め、晴れた空の下、まだ雪の残る街に、買い物に出る。賑やかな駅方向に歩く気になれず、鄙びたマルエツ方向へ。路地の雪はほとんど溶けているが、陽当たりの悪いアパートの横の流行らない駐車場などは、車の屋根にも地べたにも結構雪が残っており、大小の雪だるまを作り終えたちっこい子供たちが、男女年長年少雁首を並べ、まだなにか悪巧みをしている。こそこそと大袈裟に密談する様子は、まるで三丁目の夕日の下のようだ。そこで提案。この地でこの程度の駐車場を利用している大人は、車など売っぱらって徒歩で生活してはどうか。車がないと当節生きられない田舎とは違い、ここはきわめてごみごみとした都会なのである。下手に維持費をかけるより、遠出の観光の時などは、レンタを使えばかえって経済的だろう。で、この程度の空き地は雑草の繁茂に任せ、子供の遊び専用にすればいい。税金うんぬんが大変なら、レトロ空き地は市が無税にするとか。

 さて、短縮物件ちょっとプリントしてチェックするか、などと印刷開始したとたん、プリンターが、ががずどがが、などと異音を発して、まともに動いてくれない。いろいろやってみたが、何度やってもずどどばりばりなどと振動するばかりで、しまいには印字ヘッド部が、反対側の端にがんがんぶち当たっている。まるでなにか悩み事が昂じて柱にがんがん頭ぶっつけている少年時代の自分か、虫歯が神経を直撃して一晩のたうちまわった時の自分のようだ。考えてみれば、ウィンドウズのパソ本体はすでに三代目なのに、プリンターは一度も買い換えていない。八年近く酷使していたことになる。XP対応のアプリも、すでにメーカーでアップしてくれないような旧機種だ。汎用のドライバで、だましだまし使っていたのである。ついに時代の流れに負けて、生きていくのが辛くなったのだろう。♪貧〜しさに〜負けた〜♪いえ、世間に〜負けた〜♪ ……粛然と合掌して見送ることにする。しかし、内職に自宅のプリンターは必ずしも必要ないが、趣味方向では必須。あわててあっちこっち検索し、型落ちの安いのを注文。安いとはいえ、他の周辺機器同様、数年前に比べると遙かに進化し、価格は当時の初級機の半分以下である。それでも一万を越す臨時出費は痛い。予備で買ってあった旧機種のインクも、結構高かったのに最近の機種では使えない。インクだけで、豚めし八杯ぶんがパーである。

「♪踏ぅま〜ぁれてもぉ〜耐えたぁ〜♪ ♪そぉ〜♪ ♪傷つきぃ〜ながらぁ〜♪ どどんぱっ。――ほい、くにこちゃん、マイク」
「おうよ。 ♪サァミィ〜シサを〜かみしめぇ〜♪ ♪ゆめを〜もとうと〜話した〜♪ おんあぼきゃー。――ほい、ゆーこ」
「!? ……ぽ。 ♪シィア〜ワァセ〜なんてのぉ〜ぞまぬが〜♪ ♪人〜並〜でぇいたぁい〜♪」
「はい、それではおじちゃま、シメはシブい同士でデュエットよ。 ♪なァが〜れ星ィ〜見つめ〜♪ ♪ふゥたァ〜りィ〜は〜枯れすすきィ〜〜〜♪ とくらぁ」
「……うる、うるうるうる」
♪いっそ〜きれいに〜死のうか〜♪ ……くすっ」
「くす、くすくすくすくす」

 このところ、夜間にここをチェックしようとすると、妙に重い。日々ようやく二桁程度しかカウンターの回らないページゆえ、アクセス集中などという事態はありえない。やはりYAHOOさんの問題なのだろう。しかし他の方のYAHOO利用ページは、するする開く。地域的問題なのだろうか。それとも、悪口書くのでYAHOOさんに嫌われてしまったのだろうか。
 いずれにせよ、いつのまにやら表のカウンターが1万に近付いている。えーと、まだ2年弱か。ここを更新するとき自分のチェックで回しているし、表の更新のときなどは何度もチェックしてしまうから、推定5分の1くらいは八百長なのだろうが、こんな乱雑な、引き籠もり気味の無名人のページとしては、まず上々に思われる。いわゆるキリ番10000を踏まれたお方があったら、よろしければメールあるいは伝言板でお知らせ下さい。お金はなくとも誠意だけは、なんかいろいろ差し上げたいと思います。

(注・文中に山田孝雄氏・作詞『昭和枯れすすき』を使用させていただきました)


01月21日 土  雪やこんこ

 午前中で止むかと思ったら、すぐにまた降り出し、どうやら一日雪である。この地では珍しい。雪国の大雪被害などに合わせて、天がいくらか采配したのだろう。この程度でも、雪をほとんど想定外にしているこの地の交通などは、充分混乱をきたす。
 自分の場合、例年なら犬のように喜び庭を駈け回ったり猫のように火燵で丸くなったりするのだろうが、今年はすでに故郷のとんでもねー大雪を見ているので、いつものようにパソ前でなんかいろいろしている。
 夕刻、米を研ぐ手が、凍るように冷たい。
「ねえねえ、おじちゃまおじちゃま! 見て見て! とーっても、リリック」
「……別人格なので、会話しないお約束だったのでは?」
「いまさら正気ぶってる場合じゃないわ! ほらほら、ヤフオクで『キティー』ちゃんで検索したら!」
「ひとが米研いでる間に、勝手に検索せんでくださいよ、もう。……えーと、何々? 『中国製キティーちゃんの色々セット』――買ったげませんよ。守備範囲外だし、金ないし」
「でも、ほら、ぬいぐるみやファンシー・グッズの中に、こんなのも」
「――3Dカメラ? ……こ、これはもしや、ロレオ・ステレオの非売品キティーちゃんピンク!?」
「おう、ぬいぐるみ、かんぺんけーす」
「くいものは、はいってないのか? ちぇ。まあ、このまぐかっぷでもいいぞ。かばうまのまぐかっぷは、ビンボくさくて、かってになんか飲むとき、みじめだ」
「……ぽ。あの、ゆーこ、あの、あの、おっきいキティちゃん」
「ゆりな、この画鋲でいい。どくやくいっぱい塗って、きちくの靴のなかに、ばらまく。キティーちゃんと、ちまつり。……くすっ」
「くす、くすくすくすくす」
「そーゆーわけで、おじちゃま、開始価格はたったの2000円。ぽちっと入札すると、モア・ベターよ」
「うう。2000円あれば3日は食えるが……世のキティーちゃんコレクターが、中国製のぬいぐるみにどこまで払うのかもわからんが……なかば玩具のカメラ、どこまで引っ張っていいのかもわからんが……しかし、非売品でカメラでステレオで猫でピンクで……」
「ほれほれ、ぽちっ」
「………………ぽちっ」
「はーい! それではおじちゃま、あとはこっちにおまかせよ。おじちゃまも、(お会計だけ)がんばってね。おばちゃまも、(終了間際に目を血走らせて)がんばるわ」
「たかちゃんも、がんばる。おっきいキティーちゃん、ゆうこちゃん。で、ちっちゃいのふたつと、かんぺんけーす、たかちゃん。まぐかっぷとなんかいろいろ、くにこちゃん」
「おうよ」
「こくこく」
「――画鋲と、どくやく」
「…………くろいのに、がびょう。……どくやく、キティーちゃん、ない」
「くすっ」
「くす、くすくすくすくす」


01月20日 金  細々、しこしこ

 姪の成人式写真の複製を送ったら、姉から援助物資のみならず、実費コストをはるかに凌ぐ資金援助も届く。あうあう、ありがとうございます。
 そんな情けない生活を送りつつ、例の枚数縮小を、死美人物件のみならずブルの方まで始めたり、先のたかちゃん短編を、まだいじっていたりする。ここで弱音を吐いたせいか、お優しい女性(推定含む)の方々からもご感想をいただけ、必ずしもコワれ過ぎた訳ではなさそうだが、やはり少年少女も多数の全年齢対象板のこと、のっけからあまりマニアックな18禁的世界やそのものズバリの下ネタは、物言わぬROMの方々にもキツかろう。やはり自分はせんせい以上に、たかちゃんたちがかわいいので、ひとりでも多くの方に読み進めてもらいたい。
 しかし枚数縮小やトーン・ダウンという行為は、梗概作製とは違い、大いに創作の勉強になる。書きたいことを余さず書くのは、必ずしも書くべき事を書くのとは違う、そんな自分の甘さわがままさを教えてくれる。変えねば変えねばと思いつつチェックすると、変えられない部分の意味、変えた方がいい部分の意味にもさらに気づく。無論、涙を飲んでカットの部分も多いのだが、それはそれで、やはり応募作品・不特定多数向けという箍への勉強だし、構成替えした時のツナギ方など、頭の体操にもなる。


01月19日 木  歴史と橋の下

 ニコンの銀塩カメラ撤退を他山の石のごとく呑気にながめていたら、今度はなんとコニカミノルタが、カメラ事業・フォト事業を畳んでしまうとの報。つまり数年前の合併前の歴史で言えば、明治6年に小西六兵衛店が写真材料を扱い始めて以来連綿と続き、昭和15年、時あたかもこの国が皇紀2600年を標榜し、お祭り騒ぎを装いつつなんかいろいろあっちこっち大騒ぎしていたさなかに国産初のサクラカラーフィルムを販売開始した小西六が、ついに感材を含む写真関係コンシューマーとの直接の関わりを断念したのである。また、日本の写真機メーカーとしてはそのコニカに続く古株で、昭和3年創業の日独写真機商会に始まるミノルタも、いっしょになって写真機(デジカメも)を見限ったのである。時代の趨勢としては当然、しかし個人的には万感の思いになんかいろいろ囚われつつ、マジに線香焚いてお経を読んだりしてしまうわけである。光学・電子関係企業としてはまだまだ続いている会社の方々は、縁起でもないと顔をしかめるだろうが。ちなみに全然更新してない隠し部屋の公園たかちゃんたちは、純アナログのオリンパスM−1、死刑確定宮崎君御用達の某アナログ・マミヤも混じっているが、大半は絞り優先AE・電子シャッター初期のミノルタXE、そして大衆機としては世界初のワインダー内蔵シャッター優先一眼レフ・コニカFS−1を、その機動性から使用していたりする。まあ宮崎事件以前、ピントも手動の大昔の話ですけど。
 さて、ここで問題です。現在私の内職の元締めは、実は元来コニカ系の毛細血管の末端に位置している。現在直接コニカミノルタ本社とどーのこーのと言うわけではないし、アナログ的分野でもないのでいきなりオシャカはないだろうが、コンシューマー向けの大元の窓口は、確実に激減してしまうのではないか。
 いやはや、そのうち冗談抜きで、橋の下の野生狸化か。


01月18日 水  反省と対策

 宮崎に気をとられて阪神淡路大震災の記憶を忘れていたことを、あるホムペで気づかせていただき、尻尾を垂れていたりする。過去と現在と未来の連環を、雑事にかまかけて忘れそうになっていた。自戒。ホリエモンなどは始めから問題ではない。この程度の寸足らずで騒がざるを得ない経済社会のほうが、よほど寸足らずなのだ。

 その他にも、まあなんかいろいろ平気なふりをして内心じゅくじゅくとのたくったりしているわけだが、そちらは発展的に考えることにする。
 第一次選考という段階が実際にどうであれ(賞によっても選考者によっても、確固たる定義はないのだろうが)、そこで落ちる段階では、まず最後まで読んでいただけなかったと思って間違いない。誤字脱字のせいであれ、いいかげんな梗概のせいであれ、導入部の波長の問題であれ。つまり今回で言えば、数百何十の応募作の内、実に500編前後、その応募行為において、誰をも楽しませられなかった事になる。しかし150から32に至る段階では、確実に「全部読んだ。結構面白かった」という方がひとり(もうちょっと多い?)いてくれたわけである。そして第三次の関門、32から15へは抜けられなかったにしろ、その選考過程では数人(もうちょっと少ない?)の方が、とにかく読むだけは読んでくれたわけである。あれの作風から察するに、冷静に考えれば、まんまでラノベ系商業出版が可能なはずはない文体がてんこもりなのだから、そこで落ちるのは当然である。と、いうことは、少なくともひとり以上の業界の方が、「この賞は無理でも、他の仲間にいっぺん読ませる程度に面白い」と思ってくれた、そして何人かの方が通読してくれた、それだけは間違いない。これは、結構ハッピーかもしんない。そうだよ。創作活動そのものの個人的意味合いはちょっとこっちに置いといて、あくまでも応募という行為の客観的意味は、一次を通らないと何も確定できないが、とにかく二次まで行くだけで、「誰かが誰かに(社会的責任を持って)読ませてくれる程度には価値があった」ことが、確認できるのだ。
 で、何を始めるかというと、百合奈ちゃん構築とは別に、死美人物件・現在540枚を、500枚に収める作業である。まず最初の応募は誤字・脱字が残っていたから第一次も通らないとして、今回の体験から、推敲を重ねれば別の場所でも通ることはある、そんな可能性が開けてしまったわけですね。しかし、そのためには500枚という枚数制限のある場が多い。書きたい事だけ書いた物件を8パーセントもカットするというのは、以前の経験でも並大抵の苦労ではないのだが、まあ始めから屑籠行きにされては、そのフィールドの誰にも面白がってもらえないわけで、泣きながらでも短縮するしかないのである。

 残るは、たかちゃん物件になんか女性(明らかな、と言うべきか)のお方の感想がつかない、そこいらの内心じゅくじゅくである。まあネットであるからお顔やバストやヒップが見えるわけではないが(だからそーゆー邪心持ってるから駄目なんだってば)、深く考えるまでもなく、あれだけ男のエゴを露呈してしまえば総スカン食っても当たり前なのであり、それ自体が失敗なのだろう。本来たかちゃんたちを描くはずだったのに、せんせいの造形ミスでバランスを欠いてしまった、その時点で失敗。ここの表に上げたぶんは、もともとシリーズ性統一のため、すでに2作目からせんせい方向のブッ飛びはカット・修正を余儀なくされているので、バランスはとれたと思うのだが。たかちゃん、くにこちゃん、ゆうこちゃん、ごめんごめん。
「かばうま、むのう。しけい」
「おう。みやざきといっしょに、つるそうぜ。それとも、ひきにくがいいか?」
「ふるふるふる。……なでなで」
 ――ああ、ゆうこちゃんだけは、わかってくれるね。うるうるうる。


01月17日 火  『嵐が丘』、その他

 かの坂本教授が音楽を担当した英国映画、ピーター・コズミンスキー監督『嵐が丘』、ようやく在庫のあるレンタル店をみつけ、鑑賞。往年のウィリアム・ワイラー監督作品は、いかにもハリウッドの小綺麗なセットと舞台劇のようなシナリオで、佳作ではあったが原作の持つ狂気はイマイチに思えた。今回は、シブいご当地ロケにSFXで味付けした荒野、古色を帯びたセット、そのあたりは臨場感たっぷりだったが、脚色があの長大な原作にこだわりすぎたようで、1時間45分の時間枠としては刈り込みが足らず、総集編的な印象。作者エミリー・ブロンテが登場し着想を語る趣向などまで入って、ハリウッド版とは別の意味で、原作の持つ『身も世もあらぬ狂おしさ』が薄れている。役者さんが端正で大人しそうな方々だったからかもしれない。いや、やはり脚色か。次世代による浄化のシークェンスまでは、せめて2時間枠でやらないと消化できなかろう。あの登場人物の全てが『やだなあ』的人間で、にもかかわらず「な、なんでこんな奴らの我が侭放題のドラマが、こんなにも美しいのだ、この世界は」と心底悩んでしまうような、身も世もあらぬズブドロあってこその、後日譚浄化である。
 自分にとっての映画『嵐が丘』は、やはり中学生の頃に観た、ロバート・フュースト監督版か。本来ハマー・プロの怪奇映画を多く撮った監督の異色作だから、ロケもまんまのナマの原野や田舎家だし、セットにも金はかかっていない。しかしだからこそリアルであり、何よりヒースクリフを演じるティモシー・ダルトンはじめ、役者さんの器が違っていた。それを観る前にワイラー版も観ていたのだから、映画化初見の刷り込みによる美化ではないはずだ。さらに少し前に読んだあの原作から感じた狂熱を、シンプルな脚色とホラー寄りの演出、そしていかにも『とり憑きそうな』深い瞳のキャサリン、骨太で狂的かつエレガントなヒースクリフから、ビンビン感じたのである。そもそも原作にしてからが、自分にとっては名作全集定番恋愛小説と言うより、底冷えのする熱い血(?)のたぎる、芳醇な、お耽美ゴシック・ホラーである。
 ともあれ――音楽は、今回の坂本龍一が最良か。フュースト版のミシェル・ルグランも流麗だが、坂本教授に比べると、ちょっと控えめ。フュースト版のラストに教授の音楽、そんな組み合わせだったら至上。でも、なんでフュースト版は日本でLDにもDVDにもならないのか。ダルトン様(個人的には、「ああダルトン様、もう好きにして頂戴」なのである)がボンド役をやった頃、てっきり発売してくれると思ったのだが。

 宮崎裁判、最高裁判決。もう何も言うまい。明らかな精神障害(人格障害は、病気とはみなされない)でない限り、やはり責任能力は問われねばならない。筆者としては、一審で精神鑑定が行われた時、三つに別れてしまった鑑定結果の内、(2)として発表された『「統合失調症」だが刑事責任を免れる部分は少ない』が現実なのではないか、そう推論する。今回採用された『(1)「人格障害」があっただけで精神障害はなく、完全責任能力が認められる』だと、宮崎と例の小林が、同じ範疇でくくられてしまう。いずれにせよ、自ら夢の中に逃げてしまった弱さは、その夢にたかちゃんたち(?)をひきずりこんでしまった段階で、万死に値する。しかし、ならば、なぜあのコンクリ少年鬼畜たちは生き続けているのか――幸い後悔してくれたらしい少年も、相変わらず宮崎同様脆弱・狭視野な夢の中にいるまんま解き放たれて、「俺はアレやった人間だぞ。ナメんじゃねえぞ。でももう年齢的にヤバいから殺すのはやめとこう」とうそぶく、すでに少年ではない既知外も、等しく権利を得ているのはなぜか。そして宮崎の判決に、死刑廃止論者の方々は、きっちり公の場で反対声明を叫んでくれるのか――。あの子供たちや少女たちがもう帰ってきてくれない以上、こっちに残された人間は、せいぜい己の言質に責任を持つしかないのだ。でなければ、宮崎以下だ。


01月16日 月  狸を呼ぶ湖

 なんかいろいろの外出より帰宅すると、ポストに冊子小包。やったあ、パパ、今日はホームランだ!(いいかげんにやめとけ)と小躍りしつつ、お目当ての『人を呼ぶ湖』を確認すると――あう、やはり連載物だったのである。それも最初の回で、いつまで続くのかも不明。無論、クライマックスなどまだまだ、ようやく記憶にあったとおり、その湖が二重湖であると判明したばかり。もっとも舞台は記憶とは違い、チロル地方らしい。あれ、謎の屍蝋一族、確か南米系コスチュームだったような。別作品との混同記憶か。ともあれこれも記憶にあったように、「覆面作家を当てると抽選で20人に現金1万円当たる」などという、当時の子供雑誌としては大胆でナマ臭い企画。まあ『明日のジョー』や『無用ノ介』といった作品で、すでに大学生や社会人も読者対象に含まれていたのですね。
 なんせその巻末に発表されていた新人賞受賞作品、これも小学生の頃確かに見た記憶のある菅原かずまさ作『運命論』という作品など、当時のガロやCOMでもハネられそうな、抽象的思索的漫画なのである。しかしこの作者名、以降、まったく記憶にない。覆面作家さんのほうは一目で小畑しゅんじさんと判ったのだから、結構、というより当時の限られた量の漫画なら、なんでもかんでも読んでいた時代なのだが。ことほどさように、商業作品というやつは、デビューも大変だが持続は推定一億倍難しい。まあ、今ならジャンルによっては(早い話がエロですね)同人活動だけで食えたりもするらしいが。
 閑話休題。結局この号だけでは、「おやまあなんと懐かしい。当時はヨダレを流すだけでほとんど注文などできなかった子供向け各種通信販売のガラクタを、全部注文してみたい」、などと懐旧に耽るだけであって、肝腎の死美人記憶の確認はできなかったのである。こうなったらもう次の号を探し、まだ続いていたら次の号――こうして狸は底知れぬ二重湖の底にズブドロと沈んでいくのであった。そして冷たい湖底で屍蝋化した狸は、隣のハクいおねいさんなどと違って誰にもかまってもらえず、毛皮ズルリ等の見せ場もなく、いつまでもいっしょけんめいただの屍蝋をやってるのであった、まる、と。

 などと不吉な冗談をやっていると、例のスーパーダッシュ文庫の三次選考は、きっちり落選。まあ元来ラノベ系の構造ではないからなあ、などと自らを慰めつつ、でも結局アレはなんのジャンルなのかなあ、と、ふと考えたり。正体不明すぎるのか。バニラ印クロスオーバー・ノベル、とか。


01月15日 日  ネタ切れ?

 相変わらず量だけはエラいイキオイで続く『高橋美○子』さん名義のスパム、かつてのいかにも情欲系恋文っぽい長文のボルテージが徐々に落ちてしまい、このところ、どこにでもある事務的なお誘い文となり、その反面20万から100万やら200万に金額を上げている。当然フィルターに引っかかり、はじめから迷惑フォルダ行き。ありゃりゃ、担当者が変わってしまったのかな。それともネタが続かなくなっただけか。だとしたら、他人事ではない気もするが、やっぱり根性が足りない気もする。かつてメロメロの恋文魔だった自分としては。
 などと言いつつ、久方ぶりにたかちゃんの短編をまとめ、板に上げてみる。高橋美○子さんの心配をしているバヤイではない更新速度になってしまっている。まあ、焦るまい。著述業なら質と量の兼ね合いだろうが、こちらは今のところ、ただ質だけ考えていればいい。しかしその質が傍から見てどんなもんか、読んでもらわないことには意見ももらえないし――そのためには、やはり成文化しないとなあ。


01月14日 土  狸踊り・忍ぶ狸

 なんか二次選考など柄にもなく通ってしまうと、かつてほとんど同一の物件を送って何度も一次で落っこちた理由の方が気になって、2チャンやら種々の掲示板をちょっと覗いてしまったりするのだが、「一次なんてのはただ日本語になってないモノを落とす場」やら、「下読みさんがなんかいろいろ私的あれこれでハネる」やら、とにかくもう例によってなんの確証もない発作的着想の垂れ流しが8割。その中の何人もが「一次選考はいつも通る」やら「二次・三次までは行く」などとカキコしていらっしゃるのだが、あのう、カキコ具合から察しますところあんまし表現力なくとも二次・三次まで行けるってのは、どんな素晴らしいストーリーを紡いでいらっしゃるのだろう。ぜひ読ませていただきたいものである。しかし、恒常的に「てにをは」も怪しい方々が、応募原稿の多数を占めるのは間違いなさそうだ。その2チャンの名無しさんたちが、ほんとに応募してればですけどね。
 なんにせよ、頭を冷やす効果は充分あった。確かに誤字脱字誤変換を残したままポストに入れてしまう己のバカさ加減は反省するべきだ。しかしまた、誤字脱字誤変換があってもなんらかの理由で二次を通ることもある。下読みさんがどんな選択ポイントで評価しているにせよ、巡り合わせは赤い糸。しょせん創作、されど創作。結局、書き手と読み手は、その第一段階において一期一会なのである。バカはバカなりに誠意で行動するしかない。今さら名誉も地位もいりません。ただ最初にそのテキストを目にした方に、できれば最後まで楽しんでほしいだけ(立て前)。でも、狸一匹のエサ代とショバ代だけでいいから、ひと月ぶんかふた月ぶん程度、いただけないかなあ。そしたらもっと、ハジけた芸ができそう(本音)。

 先日注文した少年マガジン『人を呼ぶ湖』掲載号はまだ届かないのだが、同じ日に別の古書店に注文した、北泉優子さんの『忍ぶ糸』は、早速到着。名古屋の『ブックショップ・マイタウン』様、即日対応感謝です。
 この作品は、高校一年の頃だったか、出目昌伸監督、加藤剛・栗原小巻コンビ主演で映画化され、原作もその時図書館で何度か読んだのだが、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』やシュトルムの『みずうみ』や三浦哲郎先生の『忍ぶ川』ともども、例のブルフィンチとライラたちの騒動の原点ともなった作品なので、改めて原著を確認・所有したかったのである。ここいらの図書館には、所蔵していないし。国会図書館あたりなら、あるんでしょうけどね。で、またしてもハラハラと落涙するわけである。『花嫁吸血魔』の次に落涙されても、作者・作品にとっては「なんだかなあ」か。
 この伊賀の組紐の里を舞台とした物語は、まるで背筋に一太刀の刃を隠したような女主人公の凛としたお姿、それとがぶり四つに組んで一見お昼のメロドラマになりそうな筋書きをしっかりと名勝負に持ち込んでくれる周囲の人々、それらを終章で一切合切昇華した上で、最終ページの衝撃の一文・
千賀さんの自決(ネタバレ注意)で、物語全体がまさに工業化によって変貌してゆく手工芸的伝統芸術をひとりの女性の一生に託した寓話であると証す、そんな優れた一編である。「映画化された」という一点においてしか、ご当地の方々以外の記憶にはあまり留まっていないようなのだが、それは一見通俗昼メロっぽいストーリー展開と、大衆文学と純文学のどちらにも属さない文体によってだろう。確かに双手を挙げて「万人必読!」と主張するべき性質の作品ではないかもしれない。しかし『社会的寓話』として、自分には宝石に近く見える。いや、やっぱり、宝石だ。しかしさしもの出目監督をもってしても、ラストの脚色で「泣けるメロドラマ」に終わらせてしまう(あるいはあのラストをビジュアルで唐突感なしに納得させるのはあまりに難しく、甘く終わらせざるを得なかったのか)構造だから、やっぱり読者を選んでしまうのかもしれない。千賀さんは、結句、血の通った手が紡ぐ組紐そのものだったのである。
 同じ加藤・栗原コンビで前年映画化された、三浦哲郎先生原作・熊井啓監督の『忍ぶ川』、これもまたブルの話でオマージュを捧げたりしてしまっているのだが、あれが男性のエゴでしか描けない美しい寓話だったとしたら、『忍ぶ糸』は、実に女性ならではのシビアな意地に貫かれた美しい寓話である。まあ映画のほうは、前者は社会性の強調で映画作品としても成功、後者は『組紐』に託されたものを意図的に脚色で変えてしまいどっちつかずに終わってしまった、そんな感じだったが、前者の興行的成功がなかったら後者も『似たタイトルの柳の下企画』として制作されることはなかっただろうし、当然山形の一高校生が、その原作に触れる機会もなかっただろう。
 ものごとなんて、すべてが一期一会なのである。


01月13日 金  後半、若い女性は読まないといいなあ、てゆーか、反転厳禁(精神年齢14歳以下の方も)

 朝刊を開いて、仰天。あのニコンが、ついに銀塩フィルムカメラから撤退するそうである。銀塩業界は、二年ちょっと前自分が抜けた時にもすでにデジタル媒体によってエラく変質していたのだが、そっち方向の大看板まで模様替えとなると、いささか寂しい。まあ考えてみれば、実質何十年も前から写真機という奴は電子回路によって制御されていたのであり、純メカ好きのアナログ人間的自分も結局スポッティング・ブラシや絵の具ではなくデジタルのおかげで細々と生きているのだから、徒に感傷に耽る必要はない。元来ニコンというメーカーは、けして写真機自体の老舗ではなく、戦前戦中の軍需産業技術(軍艦用測距儀などの光学兵器ですね。兵隊さんが覗いている双眼鏡とかも)を生かして、戦後写真機に進出した、カメラメーカーとしては『若手』である。もっとも多々の老舗メーカーも、商売面ではとっくの昔に電子機器にシフトしていたのだが。
 問題は銀塩フィルムそのものである。ネットや印刷媒体・プリント関係は無論デジタルのみでも存続する。よって銀塩フィルムという分野は、いずれ歴史上の遺物となるだろうが、現時点では物理的アナログ映像記録再現メディアとしてまだ必要だろうし、特にリバーサル・フィルムは、その物理的再現性において未だにデジタルなど敵ではない。ただし――透過光での個人的映写や拡大直視の愉悦を、どこまで一般の方々が知っているか。言っちゃあなんだが、最新のハイビジョン・モニターがいかに美麗を謳っても、たとえば大昔の二眼レフや蛇腹カメラ(まあ一級品は少ないが)にリバーサルのブローニー版フィルムを詰め、適正な露出・現像処理を施した場合の情報再現性には、まさにアナログの『現実』に近い恍惚がある。筆者の愛するステレオ写真の世界も、また爾り。それを観る人間の存在とは離れて、いわば美術的絵画に近い存在感がある。古風な呼称、『光画』という奴ですね。せめてコダックとフジには、銀塩フィルム関係も頑張っていただきたいものである。各種コダクローム・フジクローム(もちろんネガも好きなんですけどね)は、立派な世界遺産だ。

 あっちこっちから借りた、新東宝の古物『花嫁吸血魔』と、ちょっと前の『発狂する唇』で、孤独の自宅ゲテモノ映画大会。
 何か近来稀なるゲテ物という噂で、ホラーでは著名な脚本家が「新東宝テイストを狙った」とおっしゃる『発狂する唇』、期待して見始めたらこれがまたゲテになる以前に中学生自主映画演出、10分で見限って早送り、ここではあんまし言いたくないが
期待していたもうひとつの噂、「三輪ひとみさんが首つり死体と男にサンドイッチでナニされる」シーンだけじっくり拝ましてもらおうと思ったら、ここがまた昔の日活ロマンポルノのハズレにも及ばぬ気の抜け具合、失望するよりむしろ虚ろな笑いを浮かべてしまいました。この監督さん、ア○ルはヤル方もヤラレル方も未経験と推測。すみません、私も経験ないです。でも、ヤラレそうになったことこそありませんが、大腸癌一次検診で引っかかり、病院で直腸を触診されたことはあります。また双方合意の上で、挿入を試みたことはあります。「ぐあだだだだだ!!! や、やめへぇ!!」、そんな世界でした。まあ人種差や個人差もあるのでしょうが、いかなる痛みも愛する男《ひと》のために耐える覚悟のある男性・女性や、純マゾあるいは充分経験を積んだ根性のある方や、激痛に悶える相手を無理矢理なんかするのがキショクのいいサドの方でないと、なかなか敷居の高い世界に思われました。そりゃそーだ。本来出すオンリーの部位で、入れる部位ではない。プロの方には「OKよ」の方も時々いらっしゃるのですが、自分は小心者なので、なんぼゴム越しでもちょっと愛がないお方のウ○コの中にナニを入れる覚悟は――す、すみませんすみません。一応『厳禁』と断ったので、読んでないですよね、お若い女性の方は。
 さて、大昔、あの池内淳子さんがとんでもねーメイクと着ぐるみで猿のような怪物を演じたという『花嫁吸血魔』、こちらはさほど期待せずに見始めたら、最初の内こそ安っぽい伝奇物かと思いきや、エンディングではもう「あうあうあう、かわいそうだよう。池内さん、お願いだから、生き返ってよう。殺された花嫁さんも、生き返ってよう、あうあう」と、ずっぷし浸ってしまいました。祟る方と祟られる方の悲哀を真面目に描いた、モンスター物の佳作でした。
 どうも、プアな予算と翔んだ脚本と幼稚な演出、そんなのを新東宝テイストと思いこんでいらっしゃる方が多いようなのですが、飛んでも八分歩いて十分、当時の大多数の監督は、限られた予算と時間の中で、間違いなく知力を尽くして撮っております。映像的もっともらしさには時代の差もあるでしょうが、脚本・演出はキャラの心理などもしっかり考えております。なんぼ現代の特殊メイク技術などちらつかせても、真摯さが足りないと、あの池内淳子さんの出来損ないのゴリラのような(コウモリらしいんですが)吸血魔姿にすら、遠く及ばないのですね。
 またア○ルの話で恐縮ですが、ふと、中学時代に観たサム・ペキンパー監督『わらの犬』のスーザン・ジョージさんと、高校時代に観た蔵原惟繕監督『雨のアムステルダム』の萩原健一さんを思い出しました。映画的には出来の差の激しい二本ですが、無理に後ろをナニされる時の痛みと破滅的屈辱感、それぞれ女と男の違いはあれ、当時の限られた描写の中、その後の心理的変化まで、しっかり演出されておりました。当時も今も鑑賞者(俺や)にソノ経験はないにしろ、少なくとも納得できる演出だった、ということです。ああ、当時あのスーザン・ジョージさんを思い起こしながら、夜中に何度何年お世話になったことか。あの蠱惑的若奥様なら、もうあんなとこやそんなとこやいっそナマでなんかの中にも(だからやめとけ)。


01月12日 木  矜持の持ち方

 松下さん、エラい。暮れの回収呼びかけCMも徹底していたが、今度はこの国の全世帯にハガキを出すそうだ。無論、人死にの出るような寸足らずの製品を、長期間に渡り製造販売してしまった責任は重い。しかし、やっちまったらとことん責任を回避せず対処するこの姿勢は、なんぼ余力のある大企業でも、普通、ここまではやらない。それが誠意でも、ある種の打算でも、100年先を見ているのは確かだ。「社会は100年先も存続しているのであり、我が社も共存し続ける」、そんな矜持が見える。多くの政治家までが、この国の子供や孫の代まで考えているのか怪しい昨今、いっそ経済界だけでなく、そっちの方まで松下に外注してみても面白い。

 なんかいろいろの帰途、デニーズで昼飯だか晩飯だかなんだかよくわからない飯を食っていたら、ウェイトレスさんのひとりが、素晴らしく可憐なお声を響かせている。浅田飴を常食として育った小鳥のような声である。思わずそのお姿を求めて店内を見渡せば、お顔はごく平凡、お体は近頃の娘さんとしては、やや豆タンク状に過ぎるかもしれない。しかしそのさえずるようなお声と、けしてマニュアル暗記ではない身に付いた折り目正しい言葉を聴いているだけで、なんぼでも間が保ってしまい、たかだか中ジョッキとつまみとカレーで、都合2時間ほど腰を落ち着けてしまった。嫌な客である。
 はす向かいの席で、学生さんの一団が、なにやらイベントの相談をしている。「ま、死んだ気でやりゃ、OKでしょ」「そうそう。結果より、努力」――まあその言葉尻だけ捉えると、以前にも挙げたスティーブンソンの言葉、『真に幸福であること それは私たちがいかに終わるかでなく いかに始まるかの問題であり 又、私たちが何を所有するかではなくて、何を欲するかの問題である』に適合する会話のようだが、その声自体は宙に浮くような軽さであった。この違和感は、なんなんだろうな――などと首をひねりつつ、怠惰に生中をちびちびとやっていると、脳内で突然会話が始まる。近頃珍しく、おばちゃまでもたかちゃんたちでもない。中村君たちらしい。
 中村君というのは、進行中のお山物件の登場人物である。まあ進行中と言っても、去年の今頃まで三百何十枚分か打ったところで、まだ話が4分の1も進んでいないのに気づき、このままほっとくと1500枚越しても終わりっこないと、この一年中断しっぱなしの話である。ときたま推敲だけは繰り返し、現在ここの表に置いてあるのだが。
 で、現段階では、その内閣調査室の落ちこぼれ・中村君が、山奥の高校に表向き教師として赴任、これから鎮守様の夏祭を舞台に、某国から潜入した謎の部隊が謎のエスパー美少女を襲撃したり、岸田森さん、じゃねーや、高校生・岸沢森君がそれに参加したり、そんな騒ぎはつゆ知らずかき氷の出前に命をかける花子、その花子の尻のためになーんも考えず命をかける一太郎、さらには内調隠密部隊とその依頼で祭を仕切っている香具師一家やら、とにかくもうなにがなんだかよくわからない騒動になる予定なのだが、まあそれはさておき(おい)、どうも脳内の会話は、その中村君と、江戸前の職人崩れで現在は田舎で的屋の親分をやっている老人が、お山の温泉に浸かって、打ち合わせのため酒など酌み交わしているらしい。
「ま、爺いとして言わしてもらや、『死んだ気になって頑張る』『命がけでやれ』なんてのは、どうで半チク仕事しかできやしねえ。だって、そうでがしょ? 途中で本当に死んじまったら、その仕事のほうは、いってえどうなるんですかい?」
「しかし……たとえ途中で挫折したとしても、崇高な仕事というのは、あるでしょう」
「そりゃあ、世間様の評判、つまり他人様が決めるこった。死んだ当人が、そんな半端仕事を『崇高』なんぞと思って死んでったら、そりゃ、ただの馬鹿だ」
「……ふうむ」
「ま、なんにせよ、仕事やってる最中から死ぬ気になってちゃ、ロクな仕事は出来ませんや。この前の戦争なんて、いい見本だ。そりゃ始めは結構な図面引いてたんでしょうが、しまいにゃ一億火の玉で、ただ死にゃあ良かろうってな了見ですからねえ。ま、しょうがねえ。『命がけでなんかやってやろう』なんて甘い了見でいたら、『なんか』がとっ散らかっちまったら、ただ『命がけ』しか残らねえ。仕事には、きっちり段取りってもんがありまさあ。それを昔のお侍や軍人さんは、時々忘れっちまう。ま、職人で言や、立派な道具をあつらえても、その道具に使われて手前の腕や頭を使えねえ、そんな雛っこってとこだね」

 ――えーと、まあ自分の脳内での会話なのだから、自分の考えた科白なのだろうが、元来キャラという奴は脳内に定着した段階で自律してしまうのであり、その証拠に炬燵の部屋では、キャラのはずのたかちゃんたちがシベールのラスクの残り一枚を賭けて百合奈ちゃんたちと熾烈なしりとりごっこを続けていたりするのだけれど、それはまあこっちに置いといて、パソの前の自分が唐突に思い出したりするのは、かつて少年の頃、梶原一騎氏とは精神的に永遠に決別しようと誓った『愛と誠』の名台詞である。岩清水弘の、アレですね。「早乙女愛、僕は君のためなら死ねる」。
 御多分に漏れず、子供時代『巨人の星』や『あしたのジョー』や『夕焼け番長』ではさんざお世話になっておきながら、さすがに思春期に至ると、氏のなんだかうさんくさい匂いのほうが鼻を突いてくる。つまり梶原的野郎汁たらたら熱血挑戦路線というものは、あくまで皮相的ナルシズム(つまり、女と金と名誉に対する「俺はとにかくなんぼでも欲しいんだ俺は」という執着を、意図的に対象変形させただけ)であり、セコい勝ち負けや短期的時間枠に囚われた大人子供の世界なのではないか、そんな感じで。成人後、先輩の編集の方から、「『空手バカ一代』を巡ってつのだじろう氏と梶原一騎が揉めた頃、つのだ氏の自宅が焼けた事件、あれはつのだ氏の言う心霊現象などではなく、やっぱり梶原一派が放火したらしい」、そんな話を伺って、まああの根性だとやるかもしれんなあ、などと納得したものである。
 やっぱり凡夫としては、『釣りバカ日誌』のハマちゃんのプロポーズのような、「君を幸せにする自信は全然ありませんが、僕が幸せになる自信は絶対あります」、そこに真実の愛があるように思えてしまうのですね。岩清水君のは、「俺はこんなに思ってんだからそこんとこじっくり考えてくれよ」、つまりただの脅迫・強要。ハマちゃんのは一見無責任な放言のようでありながら、現状も将来の希望もまるごとみち子さんに委ね、そしてそのことをあなたは何も重荷にしなくていい、倒置法でそう告げているわけである。正しい大人の段取りである。

『真に幸福であること それは私たちがいかに終わるかでなく いかに始まるかの問題であり 又、私たちが何を所有するかではなくて、何を欲するかの問題である』――単純なようで、奥が深い。


01月11日 水  ずぶどろネット

 いやあ、毎日毎日さほど間隔も置かずにYahooメールのほうに次々と届く『高橋○江子』名義の大量迷惑メール、手動で迷惑メールに振り分けようにもすでに登録が満杯なので、いちいち削除するしかない。さぞ迷惑されている方も多かろう。例の、いかにも私信っぽい体裁と文章でフィルターくぐり抜ける、アレである。しかし、件名やら文面やら毎回毎回几帳面に『恋に悶える女の私信』っぽくエスカレートさせる業者側の情熱は、もはや金欲しさだけとは思えない。いまだかつて経験したことのない超長排泄物である。すでに狂っているのだろう。

 こうした寸足らずも多々棲息しているものの、やはりネットは有難い。去年から気に掛かりっぱなしだった小畑しゅんじ氏作画の『人を呼ぶ湖』が掲載された大昔の少年マガジン、ついに検索で発見、即注文。昭和44年(1969年)の22号であった。その後蘇った記憶では、なんだか前後編だか短期連載だったような気もするのだが、掌の皮ずるりシークェンスは含まれているだろうか。その後、どうも橘外男氏の原作とはずいぶん舞台設定が変わっているような情報が、やはりネットで確認できている。原作のほうは、昔一度、子供向けの偕成社の怪奇シリーズなどにも収録されたのだそうだ。しかし、そっちの古書はやはり市場には出にくいようだ。そりゃそうだよなあ。自分などより遙かに濃い怪奇幻想古物マニアの方など無数に棲息されているのであり、そうした方の蔵書は、当人が死去(すみません)されない限り、まず外に出ない。
 ところで、直近の自動アップデート以降、しょっちゅうインターネット・エクスプローラーが強制終了してしまうのだが、これは「いい歳こいてあんましネットに淫するんじゃないよ」という、マイクロソフトの親心だろうか。特に偕成社の昔の少年少女向け怪奇本など探っていると、いいところで終了してしまうのである。

 おお、すでに12日の午前様の街で、また酔っぱらいがなにやら絶叫している。泥酔しないと噴出できない絶叫という奴もまた、解離したその方の人格なのだろうなあ。なまねこなまねこ。


01月10日 火  言葉の新用法

 様々な言葉が優しさという名の逃げによって、日々マスコミやIMEから消えて行く一方、昔とは違った用法も、日々定着してゆく。バブルの頃から奇妙なまでに多様されだした『癒し』という表現の奇妙さに気づかせてくれたのは、心の師匠・高畑勲先生が『となりの山田君』制作時におっしゃった言葉である。確かに昔は、『癒し』はあくまでもリミットに近い疲労、あるいは病を和らげることだったはずだ。なるほど現代は一億総仮病なのだなあ、と頷きつつ、じゃあそれに正しい言葉をあてはめるとしたら何がいいか――高畑師匠はそこには触れず、ただそうした風潮への対処として、ビョーキになる以前に、『テキトー』を生活のキー・ワードにしてはどうか、そんなことをおっしゃっていた。自分はそれにも頷きつつ、しかしやはり『癒し』に代わる正しい言葉は何かを考え、それは筋肉少女帯の大槻ケンヂ氏が標榜していた『ナゴミ』ではないか、と結論したわけである。まあ、ずいぶんヤケクソっぽいナゴミではあったのだけれど、少なくとも自分と他者の存在に折り合いを付けるという意味では、実に真摯な歌どもを聴かせてくれるバンドであった。『癒し』は主観だけでも勝手に成立するが、『和み』は常に相対的である。
 さて、『自分さがし』という奇妙な表現がある。今日の朝日新聞の文化欄にも『崇高さより自分さがし』などという見出しが、麗々しく踊っていた。なかば肯定的、あるいは「しょーがねーなー」的に使われる場合が多いが、『統合失調症あるいは精神分裂病』の著者・計見一雄氏は、「近頃よく『自分さがしの旅に出る』などという表現を目にするが、自分ってどこか外に落ちてるのか?」という意の、スルドイ言葉を述べておられた。最終的に自己を形成するのはあくまでも自分自身であり、自分の脳味噌で自分自身を考える内省がないがしろになっていないか、そんな趣旨であった。確かに、思春期にはそんな時期が絶対必要なのであり、文学だってよほどの天才でもない限り、内から外へと開いていくものだ。
 ここからは自己流の解釈になるが、『自分』などというものは否が応でも生まれた頃からの周囲へのリアクションによって、ほっとくと形成されるよりむしろ拡散してしまうものであって、それを思春期のなんかいろいろの内に、反射的リアクションをなんかいろいろ内省によって制御することを覚え、主観と客観の『折り合い』に至る、それが『自分』だろう。外に出るのが億劫なら、それこそ藏に閉じ籠もって書物だの漫画だの読みふけってもいい。ただし、欲ボケメディアの垂れ流す人工甘味料まみれのロリポップだけペロペロなめ続けていては、それは内省ではなく単なる反射だ。はた迷惑かどうかはいざしらず、脳味噌段階では、己すら上っ面しか認識できない鬼畜と同じである。引き籠もりだって不純異性交遊だってケンカだって、主観を客観化するアタマさえあれば、立派な自己形成だ。寝ているよりはバクチをやってるほうがまだマシと、お釈迦様だって言っている。
 思春期を過ぎてまで『探しに行く』などという意識でいては、『自分』など永遠に見つかるまい。外に拡散霧消して行くだけだろう。まあ多少のバラつきはあろうが、せめて成人までには、『外から見つめる』手法を見つけてほしいものである。

 で、肝腎の本日の朝日新聞の記事は、読んでみたら見出しとはほとんど内容的にズレた、碧天舎・文芸社・新風舎等の共同出版、あるいはネットによる音楽作品発表等、鑑賞者から発表者への転換がメディアの変質によってどーのこーの、そんな内容だった。おいおい、大手発表物鑑賞が『崇高』で、個人発表は『自分探し』かよ。さすが大手新聞社兼出版社、いつの世も時代からズレっぱなしである。大昔から、自費出版も街頭弾き語りもわんさかあったぞ。自費出版や同人から出発するのは、大文豪時代から定型だぞ。酒場回りから身を起こした一流歌手、大勢いるぞ。ただメディアの変容で、その分母の割合が変わっただけだろう。
 そりゃガリ版切るよりデータアップするほうが楽で効率的だし、金さえあれば大手に出版してもらうより自費出版が楽だ。共同出版なら、一般書店にも並ぶ。しかしその大元のデータは、いつの世も無数の『自分』たちの心だ。いや、やっぱり便所の落書きをお手軽に広範に晒せる弊害もあるが――いやいや、便所の落書き見繕って出版して儲ける大手出版社も、昔から山のようにあったぞ。
 まあ少なくとも自分は、敬愛する『崇高』な先達の方々に、たとえ爪の垢ほどでも近付いて死にたいと思っております。それをより多くの方々に判定してもらうために、書店に並べたいのは山々ですが、金、ありません。だから、誰かが金を出して書店に並べてくれる日を夢見つつ、ネットでガリ版切ってます。『自分』なんて、今さら探さなくとも、部屋に大勢いすぎて困るくらいです。

「あらまあ、おじちゃま、なんだかおばちゃまたちと、ご自分の見境もつかなくなってるみたい。かわいそうに、お母様のアルツが、伝染ってしまったのねえ」
「ぶー。たかちゃん、かばうまじゃないもん。たかちゃんだよ?」
「むだぐちはいいから、かばうま、きょうのおやつは、むじるしのらすくでいいぞ。はやく、かってこい」
「……ぽ。……らすく、あの、あの、ゆーこ、あの、できたら、しべーるさんのらすく……(お嬢様も徐々に朱に交わって赤くなりつつあるらしい)」
「ふるふるふる。ゆりな、みるふぃーゆが、いい。なるべく、黒いの。……くすっ(謎)」
「……くす、くすくすくすくす(さらに謎)」


01月09日 月  正月ボケ(老化?)

 まあ正月に限らず一年中メリハリに乏しく生きているわけだが、本日も祝日だったのですね。4日の深夜に頼んだネット・プリント、受け取り先に指定したお店に、まだ仕上がって来ない。やっぱり遠くのミニラボまで持参するべきだったか。まあ大手は明日から本稼働なのだろう。こっちのなんかいろいろ先もそうだが、末端は一年中どたばたしているので、ついつい曜日や祝日を忘れがち――って、自分だけか。
 風邪はなんとか悪化を免れた様子。その代わり、なんだか歯茎の塩梅がおかしいので鏡に向かうと、ぽっこりと一部が盛り上がっている。痛くもなんともないが、ちょっとした異物感がある。いよいよ髪だけでなく、歯も滅び始めるのか。
 各地の成人式では、一部軽い騒ぎもあったようだが、おおむね和やかだった様子。毎年二十歳にもなって幼児のごとき馬鹿をやる連中のニュースを聴くとつくづく滅入るので、今年はまずまず慶賀。


01月08日 日  天に代わっておしおきよ

 いわゆる迷惑メールという奴は、おそらくどこのパソも似たようなものなのだろうが、とにかく増える一方である。和文英文男言葉女言葉、とにかく性欲と物欲をエサに金を吸い上げようと、それはもう大笑いするしかないほどに「くれくれ君」の大洪水。各種絵板に出没するくれくれ君など、まだ妙なエサをちらつかせないぶんだけ、かわいらしい。女性の個人名や文面の細工でフィルターをくぐり抜け、『いきなりお金の話で失礼かと思いますが』などという件名で、本文は「あたしと寝てくれれば20万さしあげます」だそうだ。これを無差別にバラまくエロサイトや出会い系サイトの人間は、ほんとうに脳味噌3グラム以上あるのだろうか。預金通帳を抱きしめながら股間にテント張ってベビーベッドに寝ている乳児なのではないか。いや、まだ胎児段階かもしれない。自分から早めに水子地蔵の世話になるのが吉。数年前、台風の晩に会議の帰りで上野駅前に出ると、どこからともなく現れて「おにいさん、いい娘いるよ」などと密やかに声を掛けてきた婆さんが、いっそ懐かしく思われる。何千円ポッキリなどという嘘も言わないし、『いい娘』は主観表現なのだから、けして詐欺ではない。老婆が言うなら、40でも50でも立派な「娘」だ。あの老婆は、今でも元気にポン引きしているだろうか。台風の中、ご苦労様でした。
 歳末の脱線電車に母子が残されていないと知って安堵したのも束の間、失火で次々と子供は逝ってしまうし既知外はまた無差別に赤ん坊を攫うし、有希ちゃん殺害犯ぜんぜん捜査進展しないし、――くそ、くそくそ、くそくそくそくそ。ああ、いかんいかん。セントジョーンズワート、効き過ぎか。
 そーゆーわけで、提案。今後、ニュース・新聞記事等の報道関係で、鬼畜などはきちんと『人間のクズ』『うんこ』と正規表現してはどうか。「○○ちゃんを殺害した人間のクズの捜査は、依然として進展が見られません」とか、「警察では引き続き、人間のクズらしいうんこっぽい生物の目撃情報を」とか。――やっぱり、効き過ぎか。

 鎮静のため、親爺らしく映画版『釣りバカ日誌』など観かえす。『ローマの休日』と同じ威力の精神浄化力がある。考えてみれば、この物語のスーさんは、三国連太郎さんが演じるアン王女そのものなのである。『飢餓海峡』の犬飼多吉からアン王女まで演じきれる役者さんに、ほれぼれと溜息。そして他のキャストやスタッフの方々も、往年のハリウッド映画に負けず、フィルムの隅々まで知力と誠意を尽くしてくれている。赤ん坊は無事に保護され犯人も検挙されたようだし、有希ちゃん事件の捜査班だって正月返上だろうし、深夜北国の雪道を必死こいて除雪してくださっている名も知れぬ方々だって、多数存在するのだ。真摯な方々ほど、無駄口叩かないだけなのだ。近頃無駄口しか叩けない自分を、つくづく恥じる。
 すみませんすみません。生きていてすみません。来世ではもうちょっと頑張りたいと思います。でも、風邪気味なので、今夜は早めにあったかい蒲団に入って、のうのうと寝てしまいます。おやすみ、たかちゃんたち、百合奈ちゃん(誰?)たち。

「――かばうま、むのう。よなかに、おあしのうらこーげき」
「おうよ」
「こくこく」
「……てぬるい。ちまつり」
「おう? くろいの、しゃべった」
「……うふ」
「……うふふふふふふふふ」


01月07日 土  姑獲鳥の冬

 夏に見逃していた、実相寺監督の『姑獲鳥の夏』、DVDでじっくり鑑賞。巷で超ブレイクしたらしい京極堂氏の原作は、残念ながら読んでいない。噂では、趣味や趣向は当方にドンピシャらしく思われたのだが、立ち読み段階で文章そのもの(巧拙ではなく、文体そのもの)に、門前払いを喰らわされてしまったのである。たとえば荒俣宏氏の評論や翻訳は大好きなのに小説はどうしても完読できないのと、同様の印象だった。なにしろ長いし。
 映画そのものは、よくこれだけ複合的な話を2時間にまとめたものだと、まずシナリオに感心。実相寺演出も、なにか往年の『怪奇大作戦』の京都物を思わせるしっとり感と、いつものケレンたっぷり映像で、ちと説明的・理論的な全編を、しっかりフシギ感で覆っている。公開時、原作を読んでいないと何がなんだかわからない、などという批評もあり、原作読めない自分としてはちょっと構えて見始めたのだが、えーと、その方はいったいこの話の何が判らなかったのかな。くれぐれも、ちょっとでも映画鑑賞に思考力・想像力を惜しむタイプの方は、ハードSFやミステリーには、何も発言しないでいただきたいものである。話の源流自体はシンプルそのものなのであって、それを種々のスパイス・かきまぜ・煮込み具合等で美味なシチュー化する、その趣向そのものが、ミステリーのミソだろう。原作も、きっとそこがうけているのだろうと推測。話そのものはいざ知らず、実相寺印の映像演出は、あんまり独特なので好悪が別れても仕方ないが、まあ原作だって自分のように、その『演出』である文体に、ついて行けない人間もいる。自分は実相寺演出めろめろ派である。心理的効果を狙って、照明や背景そのものをリアルタイムにガンガンいじってしまう手法は、リアル好きにはトンデモだろうが、自分には、それが文章で言えば『言霊』に相当する映像演出に思われる。
 ちょいと気になったのは、日時を月齢で表現したり、紙芝居光景を入れたり、擬洋風建築大炎上がクライマックスだったりと、去年自分で打った死美人物件とカブる趣向が多く見られた点である。さらに多重人格大交錯となれば、今現在模索中の話にも大カブリだ。まあ映画はあの打鍵後の公開なのだし、原作は読んでないし、それらの個々の要素自体は別に珍しくもなんともないのだが、下読みの方などにブームに乗ったと思われてしまわないか、少々気に掛かる。
 ところで、最後に大炎上する久遠寺医院の本館、最初に登場したとき、思わず「あ、済生館!」などと叫んでしまいました。子供の頃山形の市内にどーんと建っていた明治11年築の擬洋風建築の病院で、昭和41年に重文指定、現在は霞城公園内に移設され、山県市郷土館となっております。映画のような近隣の建物は無論なく、映画での構造はちょっと変形しておりましたが、本館の外観は間違いなく済生館を再現したものです。クレジットにも出なかったので、ロケとかではなくセットやミニチュアにデザインを拝借しただけなのでしょうが。実は自分の死美人物件に登場する円城谷邸の一部も、この建物の内部体験(幼時に同級生のお見舞いでウロついた時)を、思い出したりしながら打ちました。やっぱり、この映画とは何か見えない縁があるような。残念ながら現在は二階部分までの公開ですが、山形に行けば、あなたもリアル・ウブナツ映画版ごっこができます。細部限定・綾さん志乃さんごっこもできます(誰も知らんわ)。詳しくは、こちらへ


01月06日 金  もう幾つ寝ると

 お正月♪ って、松の内も明日でおしまいですね。いや、本来は15日間続くらしいですが、そうそう正月ボケを続けていてもなんなので。
 歳末から三が日にかけて録画しておいた物件もほぼ見終わり、歌い手さん・落語家さんはじめ芸能人の方々も年々歳々確実に老化あるいは死去されて行くなあ、こりゃ冗談抜きで『冥途の旅の一里塚』、などと感慨に耽りながら晩飯の食器を洗っていると、美空ひばりさんの持ち歌『津軽のふるさと』が、お若い男性の声で流れだし、おや、と手を止め、再生中のモニターに戻る。ほう、松原健之さんという、演歌の若手有望株らしい。
 土台、美空ひばりさんの持ち歌は、美空さん以外の方がなんぼ有難く引き継いでもほとんど駄目で、歌唱力というより魂そのものの表出不足を露呈するだけである。いくら天童よしみさんが脂肪反響(?)を武器に高らかに歌い上げても、他のしっとり系の方が嫋々と歌い上げても、根本的にモノが違う。現代の『歌えることが生きる幸せ』と感じている方々とは別状、ひばりさんは『歌うことでしか生きられなかった』方なのである。大体、あの方が亡くなる前後から突然掌を返すように持ち上げ始めたテレビ・新聞・週刊誌等マスコミの方々、あんたら、あの天才をそれまでどう扱ってたよ。高度成長期、金になる内は持ち上げるだけ持ち上げ尽くして、ちょっと陰ったら身内の不始末だの山口組との関係だのと歌そのものとは無関係にさんざ排他しておいて、今さら『死んだら仏様』はないだろう。特にNHKなど、今さら彼女の歌を流せる義理ではないはずである。大体、やくざと無関係に芸能なんて成り立たないだろうし、自分だってやくざのすべてが寸足らずだとは思わない。昨今のやくざ系企業や、闇金等の末端既知外チンピラはすべて人外だと思うが、それはすでに突破者でも極道でも落ちこぼれでもなく、ただの金の亡者だからだ。金の亡者など、シロト衆だって恥さえ捨てればすぐ墜ちられる。シロト衆でも墜ちられるところにしか墜ちられないヤクザは、ただのトンガった病的シロトだ。
 ありゃ、また話がどんどんズレて行く。つまりその松原健之さんという若手演歌歌手の歌声を聞いていると、なぜだか幼時にひばりさんの『リンゴ追分』を初めて脳内まで摂取した時と同様、どうも東北のリンゴ園の空気が、きっちりバーチャル体験できてしまうのである。『津軽のふるさと』という歌自体は、『リンゴ追分』よりもやや散漫な楽曲だと思うのだが。もしやこの新人(?)さんは、久々に『歌うことでしか生きられない』タイプの方なのかも知れない。飽食の世代が一巡し、またそうした存在が生まれて来たのならば、まだ長生きして次のお正月を望む意味もあるか。それとも彼は一過性の先祖返りか。以後、要チェック。

 ところで、今日で三日間、贅沢にも芋煮や鯉をおかずに餅ばかり食い続け、さぞ体重が増えたかと思ったら、年末よりかえって減っている。あれ、お餅って搗いて凝縮されているから、切り餅1個でご飯一杯ぶんのカロリーがあると聞いていたのだが。その計算だと、自分はこの3日、ふだんの倍近い、いや、それ以上のカロリーを摂り続けていたはずだ。大体ダイエット講座系情報では、1日1回ドカ食いだって、最も太りやすい食事パターンのはずだ。
 これはあれですね、きっと、消化スピードと燃焼効率の関係。雪国では、「雪山には餅腹が一番」などと言いますね。腹持ちがいい。じわじわ消化しながら、じわじわカロリー消費する。ふだんのご飯や麺類だと、ドカっと食ってもすみやかに消化し、とりあえず溜め込んでしまうのだろう。雪山に限らず、座り仕事や単食生活には、餅腹が一番なのかもしれない。


01月05日 木  あなたと私

 相対的であろうとすることは、やっぱり難しいなあ、特にネット上では声も聞こえず顔も見えずだもんなあ――などと、今更ながら頭を掻きつつ、引き籠もりの誘惑に駆られる未熟者一名。いや、独り言です。
 休みも仕事もうにょうにょとめりはりのない身、もう会社に出ている方々も多いのだろうなあと思いつつ、母の年賀状を投函した後、三面写真台紙を求めて電車でヨドバシへ。まだお休みの方も多いらしく正月モードが続いており、後ろめたさは霧消。気が大きくなって厚手の立派な台紙を購入。贔屓目かもしれないが、そこに収まる晴れ着写真は、我が姪ながらなかなか顔も体型も今風に上等なのである。背はもっと低い方が色っぽいと思うが(叔父が異常なだけか)。

 車中でまたあっち関係の本を読んでいると、うっかり夢中になって帰りの駅を乗り過ごす。結局購入して熟読することになった、『人格障害とは何か』(鈴木茂著、岩波書店)である。堅苦しい内容もあるが、それ以上に人間性そのものへの洞察も鋭く、やはり精神医学という奴は、哲学にリンクして当然なのだなあ。2300円と、ちと高価な本だが、今の世にはつまらないベストセラー商品などでなく、こうした著作こそが必読なのではないか。『善・悪』『優・劣』『快・不快』『無垢・穢れ』――それらが混沌と渦巻いてこその人間世界なのに、戦後民主教育(と称する我が国独特の歪み)は、人間皆平等の名の下に、意図的にそれらを「心の中で渦巻かせることのできない」子供たちを、多く育ててしまったのだ。「同じ程度に平等かつ個性的」、そんなアホな価値観を押し付けられれば、不器用な人間は破綻するに決まっている。善なる不快(不快なる善)、無垢なる悪(悪なる無垢)、優れた穢れ(穢れた優れ)――それらが混沌と「アリ」なのが人の世だ。無数の価値観の中で、無数の尺度が交錯し、自分という価値観や尺度は、その多様性の中で「同じ自分のまま」浮きもすれば沈みもしなけらばならない。それを初等教育に数値評価は差別だの順列化は可哀想だのアホな表看板を押し立て、しかし本音は厳然として数値評価と順列化で人を選別し、大人自らがそれら子供の社会相対化の機会を与えず――そりゃ頭や環境の悪い(しつこいようだが学業成績でも親の経済力でもない)子供は、自分の『快・不快』と他人の『善・悪』がしばしば違わねばならぬことすら、学習しないまま育っても仕方ないわなあ。いや、自分ひとりの『快・不快』と『優・劣』、『無垢・穢れ』と『善・悪』だって、みんな別物。『あなたと私』が違うように、『善い』『良い』『好い』、みんな別物。――まあ、そのような至極当然な事すら成長過程で見失っている現代を、その『人格障害とは何か』という堅苦しい書物は、再認識させてくれるのである。
 漢方に、『証に合う』という表現がある。普通なら不味くて飲み難い漢方薬でも、その薬を必要とする病気の人間には大変美味に感じられる、そんな現象である。まあ『癒し』とかいう甘いおクスリをみんなで美味がっているうちは、まだまだ世の中大丈夫なのでしょうね。しかし「ヤバいかな?」という自覚症状が出たら、多少苦そうな薬を飲んでも、案外美味だったりする。ベストセラーにはならないので、高価なのが玉に傷。

 宮崎君や酒鬼薔薇君、またコンクリ少年達や小林や宅間、麻原等似非宗教家などの病理は自己流ながら掴めた気もする。まあ、戦前戦中に育った小平や大久保あたりは、もっと単純に「自分が気持ちよくなるために、他人をシメるのもOK」という、馬鹿ほど解りやすい軍国教育(というより、対外侵略搾取教育ですね)を受けただけなのかもしれない。しかし軍国主義が個々の国民にとって非人道的な一律化ならば、平等教育もまた「一律化」という側面においては同じである。真の平和とは、『混沌』を容認し、それに適応するバランス感覚のはずだ。
 しかるに――『混沌』の中で『ろり』や『愛』を過大評価しようとしている自分は、やっぱり狭視野のままである。ちっとも適応していないし(まあ2年前までは過適応に近い状態だったが)、バランスも失っている。しかし、その責任や鬱屈を、自分以外に押し付けだけはするまい。だって、そんなもったいないことしたら、おばちゃま、自分が世界で一番偉くなくなっちゃうじゃない? うふ、うふふふふ、おばちゃま、やっぱし鏡に映る自分が、世界でいっとーかわいいと思うのよ。リコちゃんや奈緒ちゃんや、背中にしょってるみんなにだって負けないくらい、とーってもリリック。いくつになっても、フリフリよ、フリフリ。ねえ、たかちゃんたちも、そう思うでしょ?
「……びみょう」
「あらまあ、でも、背中のみんなは、もうオトモダチよねえ。ほら、みんなとおんなし、フリフリよ、フリフリ」
「……ぷるぷるぷるぷる」


01月04日 水  うろうろ、しこしこ

 母に届いていた年賀状に返事を出してやると約束してしまったので、自分でも買っていなかった年賀状を買いに行く。また、姪の成人式の前倒し晴れ着写真を複製して送る約束もしてしまったので、昨夜スキャンし補正したデータを、遠くのダイエーの写真屋さんまで持っていく。この近所でフロンティア(旧職時代は、デジタルの写真化といえばフジカラーのその機種がベストだったのである。現在は他メーカーでも技術的に完成しているのだろうが、爺いは保守的)を置いているミニラボは、そこしかない。
 内職関係先のスキャナーやプリンターを使うという手もあるが、正直言ってコピーである限り、今時あんまりプリント結果に差は出ない。無論、横浜の写真館でまたオリジナル・ネガからプリントしてもらえばいいのだろうが、これがまた目の玉が飛び出るほど高価なのですね。営業写真館のオリジナル・プリントという奴は、まさに「それで食ってかねばならない」商品なので。姉夫婦も、姪っ子ふたりの学費で懐具合はキビシイのである。
 1時間仕上げの出来を待ちつつ、まだ正月休みらしい家族連れ(の中のろり)ウォッチングを楽しむ。ねこにゃんも見ようとペット・ショップに出向いたら、すでに撤退していた。ちょっとがっかり。姉夫婦が面白いと言っていた『キングコング』を観ようかとシネコンに上がると、到底落ち着いて観られそうな人出ではなく、諦めて本屋へ。ラノベ系文庫コーナーのカラフルな色彩をながめつつ、ああ、ここにブルやライラやお人形たちのかわゆいイラストの表紙も並べばなあ、などと、束の間はかない夢に逃避する。仕上がりのプリントは今一オリジナルよりシアン寄り。まあ1度目はあくまでもテストなので、また補正すればいい。母親が気にしていた首筋の影などは、ちゃんと直せていた。
 帰宅後、賀状の表書きを作ったりぽこぽこと住所を打ったりしつつ、録画していたなんかいろいろを眺める。気分が安定しているのか、紅白のお若い娘さんたちなど、誰が誰か判らないなりに、とてもかわいい。ゴリエちゃんも、キュート(おい)。ああ、でも、SMAPって、ホントにみーんな、歳くえばくうほどいい男になってくのよねえ。おばちゃま、おもわずあんなとこやそんなとこが、潤ったり疼いたりしちゃったの、うふっ(また分裂している)。新春寄席では、大助・花子のご両人、あいかわらず、とーってもハイで、モア・ベターよ。雛っこバラエティー芸人なんて、まだまだ爪のアカだわ。でもケーシー高峯さんは、もうアルツはいっちゃったみたい。クスン。


01月03日 火  明けましてもウニ

 雪が見たい、などと呑気にぼやいていたら、こっちにないぶん故郷方面にはしこたまいやと言うほど気前よく降っていた。近代の除雪技術がなければ、グループ・ホームまでたどり着けたかどうかも怪しい。道端の雪の山に限らず、屋根屋根の雪も、軒先に見事に育った氷柱の列も、かつて記憶にないほど大ボリュームだった。
 母親は、入院中とは別人のように安定している。記憶力などはさらに減退しているようだが、身内の記憶はしっかりしているし、何より離脱がほとんど見られない。元旦昼には、一部の女性職員さんが午前中披露した晴れ着を、きちんと手伝って畳んだりもしたそうだ。もっとも当人の記憶には全く残っていなかったが、和服の正式な畳み方なんぞお嬢さん方も知らない訳で、役に立ったと言えば、確かに役に立ったのである。相互扶助を取り入れたグループ・ホームという環境は、確かに重篤でないアルツ老人には、いい環境のようだ。
 翌日、山形市内の菩提寺で雪に埋もれた墓石を掘り起こしたり、お寺さんに挨拶したり、どこかに無くしてしまった老眼鏡の代わりを作りに街に出たり、バイパス添いで回転寿司食ったり、染太で鰻食ったり――相変わらず会話は我々家族がブチ切れ寸前のエンドレス反復でも、問題行動はなりを潜めている。安堵しつつ、人間の精神というものがいかに環境によって千変万化するか、改めて驚愕。昨年後期は、ケア・ハウスで健常(いい意味でも悪い意味でも)老人たちに調子を合わせること自体がすでに多大なストレスの要因であり、あそこまで錯乱してしまったのだろう。グループ・ホームなら、少数の同居者も皆一定以上の痴呆状態だし、職員さんもきめ細かく接してくれる。まあ精神疾患者に限らず、正常な人間までがなんかいろいろおかしくなって行くのも、やはり社会環境ひとつなのだろう。

 今回はすでに外来者宿泊可能な施設ではないし、近辺の温泉旅館などは正月ゆえどこも満杯なので、姉夫婦ともどもビジネス・ホテルのシングルに分宿。夜間は無料のBS放送で寅さんシリーズを見たり、慣れない洋式小型ユニット・バスで「しかしまー外人さんって浴槽で体や髪まで洗っちまうってのは、大したもんだわなあ。大体、これ、どうやって体沈めるんだべ」などと明治時代の海外派遣使節のごとき悪戦苦闘を展開したり、夜長はまたあっち関係の書物を読んだりして過ごす。
 精神障害や人格障害に関しては、もはや、我が脳内も泥沼。というより、人間の精神というシロモノに関する学問は、結局『近代に至ってもコロコロコロコロ変わりっぱなしで、種々のパターンの模索が錯綜しているだけ。確かなことなど、誰にも判っていない』のが、事実なのであった。脳味噌の構造そのもの、内因心因外因の相互関係、性格に直接関わる遺伝子の存在、薬学等の化学関係、セラピスト技術――まあ、着実になんかいろいろの研究は進化しているらしいのだが、間の悪いことに、それら全て(いや、社会的ストレスまで関わってしまえば、把握不可能な無慮数の)要素が、寄せ鍋、いや、闇鍋のごとくぐつぐつと煮込まれ、人格という個々のおダシを染みださせているのであった。結局、現に目の前に存在している障害を、医師がどう分析しどう対処するか、それはどうも『医は仁術』という諺の域に、収斂されてしまうみたいなのである。つまり、我々凡人が己や社会と対峙する時も、専門医が種々の患者の方々と接するにも、鼻をつまんでトイレにジャーっぽい寸足らずを司直がなんかいろいろする時にも、八犬伝ではないが冗談抜きで未だに『仁義礼智忠信孝悌』を掲げるしかないのではないか、つまり鬼畜に対処するのも、森羅万象のバランス感覚でヤルしかない――おいおい、けっこう悩んで、それが結論かよ。
 ただ、このところの柄にもないお勉強で確信できたのは、その『仁義礼智忠信孝悌』に極度にこだわることそのものがすでに人格解離の要件を満たしてしまっている、そんな事実である。その全てを几帳面に満たそうと思えば、混濁の世に於いて人はなんらかの形で『狂う』しかない。功利的近代社会で、まともに生活できるはずがない。それを完全放棄して鬼畜に墜ちる者と、望みつつ叶えられず鬼畜に墜ちる者の両者に、結果論として同じ処罰を課すのもまた、社会的偽善、つまり『仁義礼智忠信孝悌』に他ならず、しかしその社会自体は、それらの中から『幸いにして』自己流勝手に取捨選択できた不完全な『正常人』たちの織り成す、複雑至極の世界であり――。

「ど、どーしよかねえ、たかちゃん」
「むしゃむしゃ。うん? なんかいった?」(とりあえず、お土産の芋煮にしか興味がないらしい。)
「おーい、くにこちゃん」
「ぐる? ぐるるるる……がう! がうがうがう!」(米沢鯉の甘露煮を横取りされるのではないかと、気が立っているらしい。)
「……ゆーこちゃん」
「はい? ……ぽっ」(山形名物・食用菊の花『もってのほか』をなぜか気に入ってしまい、夢中でちまちま頬張っているところを見つめられ、照れてしまったらしい。)
「こりゃあかん。……えーと、そこの、ケバいお婆――失礼、ご婦人の方」
「ぱくぱくぱく。あらまあ、たかちゃん、お芋はそんなふうにとーってもつるつるころころ転がっちゃうから、気をつけなきゃだめよ。くにこちゃん、鯉は小骨がとーっても多いから、お喉に引っかけないでね。ゆーこちゃんも、お花ばっかし食べてないで、お肉やお魚も、ちゃあんと食べると、モア・ベターよ」
「はーい。つるつる、ころころ、ありゃりゃ」
「おうよ。おう、でっけー小骨。いんや、おおぼねだな。ぺろぺろ、しゃぷしゃぷ」
「こくこく。……ちま、ちま」
「ダメだこりゃ。……えーと、あの、そこの、背中にいっぱい黒衣の女の子しょった、謎の小森さんっぽい方」
「はいはい? えーと、そこのぶよんとしてしまりのないおじちゃま、おじちゃまとおばちゃまは本来別人格だから、相互会話は不可能のお約束なのね」
「あ、そうでした」
「うふっ。お正月ですもの、まあいいわよねえ。おばちゃま、やっぱり太刀掛秀子先生の『ミルキーウェイ』が、おじちゃまにとってもおばちゃまにとっても、無意識の根幹だと思うのよ。あのいたいけな奈緒ちゃんの流す、いろんな種類の温かい涙を見守りながら、宮崎さんちの勤君がもう流せなくなってしまった涙の存在を少しでも想うことができれば、きっと新しいお話も、モア・ベターよ。おじちゃま、自分で去年、言ってたんじゃないこと? 『いかなる人間も、その元始においては、ろりであり、しょたである』。それが真実なら、小林は、何? トレスは、何? 大久保や小平は、いったい、何? この子たちは、いったい何のために、こんなにちいさいまんまで、死ななければならなかったの? あのお嬢さんや奥様方は、なぜあんな恥ずかしい蛙のような死体姿を、世間に晒されなければならなかったの? そしておじちゃまが、あえて殺すべきだと主張している鬼畜は、なぜ死ななければならないの? それを『社会性』なんて、たかだか何十年かで水泡に帰してしまう幻に迎合することが、おじちゃまのしたいこと? 『ろり』と『しょた』そして『愛』、おじちゃまの世界は、そこに帰結するんじゃなかったの? いっさいの言い訳を否定し、『在るがままに在る』、死ぬことも生きることも殺すことも殺されることも、『社会性』のためではなく、ただ『ろり』や『しょた』そして『愛』のため。『社会性』は、それを万人に納得させるために必要な、ただの策略。目指せ言霊による結婚詐欺。最後まで欺き通せば、汚泥も花園。『醜い現実・美しい夢』なんてのは、語り部としてはただの敗北。醜い夢から、美しい現実へ――この何ヶ月か、なんかいろいろで見失いかけたその狂気を自分で思い出せれば、きっと、モア・ベターよ」
「……せ、先生!!」
 と、すがりついて、うにょうにょとおばちゃまに融合し始めたりするかばうまさんをながめつつ、たかちゃんたちは「おう、どっぺるげんがー」「すげーぜ」「ぱちぱちぱち」などと無責任に囃し立て、黒衣の少女たちは、やっとほんとに出番が来るのかなあと、嬉しそうに天井あたりをくるくる飛び回るのであった、まる、と。