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05月31日 水  昼の光

 日照不足でそのまんま梅雨に入ってしまうのではないか、などという不吉な予想を聞いていた割には、まっとうな初夏の陽差し。
 なんかいろいろの途上、駅のトイレに入ると、大掃除の直後らしく卑猥な落書きは一掃されており、それでも早速のカキコがあった。「ゲリが3日もとまらない」。レスももう付いていた。「それはコレラだ。死ぬぞ」。――なんか、平和でいいですね。
 今月はふところが苦しいので(いつもか)、洗髪や顔剃りの付く床屋ではなく、千円でお釣りのくるカット屋さんへ。片隅のちっこいテレビから、昼らしいやくたいもないバラエティーの後、ドラマの音が聞こえ始めた。なにか斜に構えた若い娘が、ありふれた大人批判の科白を、言葉をドブに捨てるように放り出している。ナマで放り出せば達者な演技とでも思っているのか。のほほん気分を害されそうになっていると、理容師の娘さんが自発的にチャンネルを変えてくれた。こんどは円やかな上方言葉の世相談義が聞こえてきた。おお、床屋の娘さん、ナイス反応。真面目に働く娘さんなら、あんな形骸的若者像に同調するはずもない。
 図書館に『ユタとふしぎな仲間たち』のテープを返しに行くと、おお、なんと言うことだ。またやってしまった。何曜日でも、月末は必ず休館日だったのだ。書籍なら返却ポストに放りこめばいいが、テープやCDは禁止である。こっそり返したとしても、どっちみち次の物色ができない。
 ちょっとめげてだらだら買い物をしていると、妙に細身の白い子犬を連れた若い女性が通りかかった。よく見れば子犬ではなく、イタチ状の小動物である。何というペットなのだろう。オコジョをちょっとでかくしたようで、ふんふん地面を嗅ぎながらちょこちょこ歩く姿が、とてもかわいい。陽差しの下で、久々のゴキゲンお散歩なのだろう。思わず捕獲したくなる。若い女性もセットなら完璧だ。でも、やめておく。せっかくの陽差しの下を、でかいオコジョ(?)がゴキゲンで歩けない世界は御免だ。


05月30日 火  行く人ばっかし

 今村昌平監督死去。個人的には生臭すぎて時について行けない作風だったが、とにかく綺麗事を廃した人間臭さは、戦中派ならではの視線であった。子供の頃同級生であられたと言う小沢昭一さんや北村和夫さんも、気を落とされているのだろうなあ。いや、今さらそんなお歳でもないか。陽気に見送っているのかもしれない。あの方々がらみを何かレンタルして来て、往事を偲ぼうか。ああ、岡田真澄さんも亡くなったか。
 「
有名人が死んだという話はよく聞くが、有名人が生まれたという話はまったく聞かない。大変だ。このままでは、有名人がひとりもいなくなってしまう」というのは、星新一氏の有名なジョークだが、近頃のリトル・メジャーばかりごにょごにょする世間を見ていると、あながち笑ってばかりもいられない気がする。いっそこのまま少子化が進んで、日本人というタマが実際尽きる方向に向かった時、案外また根のある個性の時代が訪れるのかもしれない。

 ところで、麻原はどうも弁護団のチョンボで、なしくずしに死刑になりそうだ。死刑そのものに異存はないが、宮崎の時と違って、あの弁護団の稚拙さには呆れてしまう。なにかオウム同様の、状況に対する自己中心的甘えを感じる。ルイ君はトム君を呼んでしまったのか。それとも弁護そのものに、いいかげん疲れたか。


05月29日 月  若奥様

 電車の中で、隣の席に、若い母親と、その膝に座ってゴキゲンの幼女がいた。
 幼女というものは、ご存知のようにたいがいふにふにと柔らかそうで、その二の腕や太ももなど「あぐ」と頬張ったらさぞもちもちと旨そうだ。まあ、そのあたりの『ぷに』具合が、もっと年嵩の少女や成人女性にまで『ぷに萌え』を欲するおたくの心理に繋がるのかもしれない。
 当然自分としても、普段ならその幼女のほうを、見るともなくしかしじっくりと観察するところだが、なぜかこのところ、妙にお母さんのほうに気を惹かれる。ろりっぽくもなく、ぷにでもなく、どこにでもいそうなただの若い母親である。そしてなにがなし目をやってしまうのは、乳房でもなければ二の腕でも太ももでもなく、足首や踝《くるぶし》だったりする。なにか自分に精神的変調が訪れつつあるのだろうか。それとも、半世紀近くかかって、やっと大人になれたのかしら。
 しかし、待て。
 もう30年近く前、北海道で崖からダイブしてしまった同い歳の又従兄弟《またいとこ》がいたことは、以前にも記した。生前の高校時代、彼から「幼児を連れた母親にしか欲情しない自分は異常なのではないか」と、真顔で相談されたことがあった。城跡の公園の土手などで、そんな若奥様を見かけると、押し倒したいという欲求を堪えるのに一苦労だと言う。その頃すでに彼は神経症の入り口にあったので、いい加減に答えるわけにもいかず、「それが異常だとすれば、公園で遊んでいる幼女そのものに欲情する俺はいったいどーなるのだ」と答えると、冗談ではぐらかされたと思ったのか、曖昧に笑っていた。
 自分は何十年かかかって、ようやく彼の精神年齢に達したのかもしれない。ダイブは御免だが、冗談抜きで富士の樹海に旅立ちたくなる時もある。しかし、なんじゃやらいろいろとそーゆーわけにもいかないので、陽のあるうちにコイン・ランドリーに行き、半月ためこんだ汚れ物を洗濯する。洗ったばかりのシーツに横になって、洗ったばかりのタオル・ケットに包まれることの生理的な快楽を、己の精神的煩悶よりも下等と思ってしまった時、彼はおそらく崖からダイブしたのだろう。自分はさすがにそこまで子供ではない――ありゃ? やっぱり、そこまで成長していないだけか?
 ま、どっちにしろ、彼は結局若奥様を無差別に押し倒さなかったし、自分もまだ押し倒していない。そして若奥様を押し倒す機会は生涯訪れまいという次元で、死んだ彼も生きている自分も、同じレベルの愚か者である。


05月28日 日  言葉の色

 昨夜、伝言板に綿矢りさ嬢の『蹴りたい背中』についてカキコをいただいて、発作的に、こんなお返しを記してしまった。その作品の芥川賞選考に、ただひとり反対した選者が、実はわが敬愛する三浦哲郎先生だったりします。理由は「けれども、この人の文章は書き出しから素直に頭に入ってこなかった。たとえば『葉緑体? オオカナダモ? ハッ。っていうこのスタンス。』という不可解な文章。」等々。お若い評論家の方などには、すっかり爺い扱いされてしまいましたが、それは当然で、爺いまでが小娘に媚びたら、美しい日本語など滅びます――まあ、ちょっと感情的とはいえ、それがその時の気分なのでそのまま残しておくが、補足をちょこっと。

 三浦先生のその発言は、『どこが解らないんだよ70過ぎの爺さん』的な、例によって若手の馬鹿っぷりを露呈したブロガーに揶揄されていたりもするのだが、おそらくそうしたブロガーは、三浦先生の扱う『言葉』『文章』『世界』をさほど読んではいまいし、読んでも「何が言いたいのかわかんねーよ」「古臭い、刺激もなんにもない」的感覚を抱いてしまうだろう。しかし三浦先生は、難解な単語や複雑な文脈はほとんど用いず、澄んだ川の流れのような文体を用いて、巷の平凡な人々の感情の深みを著す方である。それが「何がいいたいのかわかんない」方でも、あくまで『人々の感情の深み』がまだ読み取れない、あるいは読み取ってもそれに同調できない、そんな状態で、そこに描かれた情景や言葉の音律は、きっちり脳内再現できるはずだ。
 さて、『葉緑体? オオカナダモ? ハッ。っていうこのスタンス。』も、三浦先生よりふたまわり以上若い、まだ爺いに片脚つっこんだ年齢の自分には、ちゃんと聞こえてくるのである。近頃ドラマや映画で辟易するほどしこたま聞かされる、その「ハッ」という独善的な発音を、記号的に知っているからだ。しかし、それを知らない人間には、何ひとつ感情のニュアンスが伝わらない。つまりこの文章は、「どーはどーなつーのーどー」という文字列を、ドレミファを知らない人間に無造作に投げ出している、あるいは「解らない人はどーでもーいーのあたし」と書いているのと、同じレベルだ。同世代性のみを頼りとする流行POPSと同じで、絶対にスタンダード・ナンバーとして残るレベルではない。
 念のため、小説として無価値、と言っているのではない。多くの若者の心を打ったからこそ、売れているのだろう。またこの少女がただの文芸タレントで終わるかどうかも、今後のグアイを追わない限り解らず、大成する可能性もある。しかし、ここで大いなる疑問が残る。芥川賞って、ヤマハのポプコンじゃなかったの? インディーズの新人賞かなんかだったの? ……いや実際、最近はそんな感じですね。

 市井の話言葉による小説だって、それは無論小説なのだが、爺いにも「ハッ」を発音として実感できるニュアンスを欠いている限り、少なくとも『優れた小説』ではない。神保町なら、店先のワゴンに行くタイプだ。いや、店先のワゴンを漁るのも、大好きなんですけどね。あれはきちんと、個々の古書店の矜持で選別されたコーナーであり、個々の物好きには、意外な掘り出し物があったりする。むしろすべての出版物が『今の売れ線』かどうかで評価され、それ以外はいっさい定価の一割均一買取価格になってしまうブック・オフ、ああした書籍流通形態が、もはや芥川賞まで浸透しつつあるのかも。


05月27日 土  仮想の殺人

 このところケーブルで毎日のように2本ずつコロンボが放映されており、見逃していた回や名作の記憶のある回をチェックすると、ほぼ毎日コロンボに付き合っていることになる。ほんの2.3話の例外を除いては、ご存知のように犯人主観の殺人が先に描写される倒叙ミステリーである。その場合、コロンボがトリックを暴く過程が当然見せ場になる――と思いきや、あらためてじっくり見せていただくと、トリックなんぞなんぼ独創的でも、やっぱり犯人のキャラに魅力がないと、のめりこめない。あーもう勝手に工夫して殺してろどうせ捕まるんだから、そんな気分になってしまう。人間性溢れるなり非情な独善者なり、体温というか体臭というか、実在感が問題なのですね。本格ミステリーの愛好者はどう思われるか知らないが、どーでもいいタイプの人間がどんな卓越したトリックを披露しても、長編ドラマ一本引っぱるのは無理っぽい。
 とはいえ毎日のようにコロンボ漬けになれるのはシヤワセであるとして、その特別編成のために、やはり毎日楽しみにしていた『13日の金曜日』TVシリーズが中断してしまっているのは、ちょっと悲しい。あちらも当然当たりはずれはあるものの、本質的に人間の『欲と執着』を増幅する呪物がテーマなので、とにかくどんなヤな奴が登場しても、己の欲に照らし合わせて、まず感情移入しそこねることがない。
 やっぱり『どう殺すか』ではなく『なぜ殺すか』が、ドラマというものだ。『殺したいから』だけで、殺す器量もないのに殺してしまう馬鹿は、ギャグと現実だけで充分だ。


05月26日 金  量と体裁

 いやはや、マジに『本っぽいもの』を自分でなんとかしようと思うと、なかなか大変。やはり印刷製本以外のすべてをこっちでやるからこその、安価さなのであった。漫画同人誌と違って、文章系の原稿や草稿からなんかいろいろやってくれる自費出版社が高価なのは、当然と言えば当然なのですね。それでもHP用のPDFに慣れていたので、なんとか昔の文章系同人誌風に仕立てて、データを送る。これだけで、一週間もすると本になって送られてくるらしい。100冊500冊と注文するとかなり割安になるそうだが、とりあえずの遊びなので一冊こっきり、それでも送料含めて三千円もかからない。もちろん追加は自由だし、現物を見てしくじっていたら、修正も自由だ。
 今回あらためて、でかい全集本や文芸誌や文章系同人誌にA5判2段組が多いのか、納得。ページ数に比べ、詰め込める文章量が違うのである。段組なしだと350ページになってしまう原稿が、2段に組むだけで250ページに収まったりする。改行や短い会話の多い文章なら、もっと減るだろう。「あ、そこは……」「ここか? ここがええのんか?」「あふーん」「むふふふふ」「ああ、ああ、もう」「まだやぞ、これからやぞ」、これだけで段組なしなら3分の1ページが埋まるが、2段組だと倍の濡れ場が必要になる。文章の原稿料が日本では枚数計算なのも、よく冗談のタネになるが、実際なぜ欧米圏のように語数で計算しないのか不思議だ。

 ところで今回、ワープロ印字で見慣れた10.5ポイントではあまりに印刷物としては大きすぎる気がして、ためしに9ポイントで組んでみたら、確かにより書籍っぽくはなるものの、老眼の入ってきた自分で読むのに難儀なのに気づき、結局10ポイントで組んでしまった。実際本の体裁になってみないと、その適否も判らないが、どうも一般文芸書の活字は小さすぎる気がする。たとえば高橋克彦先生の『ゴッホ殺人事件』などは、ただでさえ大長編でぶ厚いのに活字が大きくてなおぶ厚くなっており、当初は当惑したものの、実際読むにはまことに快適なのである。その意味では、タレント本など、下手をすると200枚にも満たない原稿をパラパラのでかい活字で組んで立派なハードカバーにしてしまうのも、ただの水増しではないのかもしれない。老眼の爺いには親切だ。


05月25日 木  抜ける魂(いや、幽体離脱の話じゃなく)

 ケーブルのヒストリー・チャンネルの『バイオグラフィー』で、英米の作家の特集をやっており、ブロンテ姉妹やブラム・ストーカーの回を、興味深く観る。ストーカーの『ドラキュラ』とエミリー・ブロンテの『嵐が丘』は、小学校高学年から中学にかけて、最も印象に残っている英国文学だ。いずれも映画化作品や子供向けリライト本やコミカライズ作品でなく、みっちり活字の詰まった文庫本で先に接したのは実に正解だった。特に『ドラキュラ』は、自分がまだ小学5年だったため、また当時の文庫本はやたら活字が小さくルビなども最小限で毎晩数ページずつしか読み進められなかったため、その分かえってじっくり咀嚼できたように思う。
 細部をすっとばした脚色物だと、あれらの長大な作品の本筋はたとえうまく追えたとしても、微に入り細にわたる『偏屈さ』や『歪み』は、エッセンスとしてしか伝えられない。かなりいい加減で矛盾した細部を、全体を通しての力業で組み伏せてしまう原作の『異常な根性』も、しばしば典型化された『ムード』に纏められてしまう。
 ブロンテ姉妹のつくづく厄介な性格は、以前姉妹そのものを描いた映画などでおおむね知っていたが、律儀な劇場支配人でしたたかな商売人だと思っていたブラム・ストーカーが、どうも心理的にはホモ・セクシュアル的で、一般女性とウマが合わず死因も娼婦から移された梅毒らしいと知り、なんじゃやらますます敬意がつのったり。また、姉妹の創作の源泉が子供時代のお話作りごっこにあるのは良く知られているが、ストーカーの場合は、病弱な幼児期に寝床で母親から聞いた種々の恐い話への興趣、そんなものが根っこらしい。どうりで子供時代の(今もか)自分と、波長が合ったはずである。
 エミリー・ブロンテは、ほとんど『嵐が丘』一作で夭逝してしまったし、ストーカーは短編も長編も諸作残したものの、面白いと言い切れるのは『ドラキュラ』だけだろう。作者の魂が、ほとんどそれら代表作に籠め尽くされているのですね。魂と策略が一体化したエンタメ、そんな感じだ。そして彼女や彼が生前思ったより評価されず、名声獲得が次の世紀に持ち越されてしまったのも、そのナマの魂が、本音を隠し立て前にこだわりつつ実は裏っかわでズブドロ、そんな前々世紀のイギリスには、あまりに『イタかった』のだろう。
 さて現代、痛くも痒くもない、あるいはイタいと標榜しつつただ無神経なものが湯水のごとく供されるのを見るにつけ、一見なんでもありのようでいて実はビクトリア朝に戻りつつあるのではないか、そんな気のする今日この頃。まあ、そこからまた凄いものが抜けてくるのを祈る。


05月24日 水  おもたい、くるしい

 と言っても、狸腹の話ではない。いや、自分の狸腹も近頃ずいぶん重苦しくて困っているのだが、まあ体脂肪や内臓脂肪がどうのこうので心臓や脳の血管がどうのこうの以前に、悠長にダイエットする暇などないし、痩せても事故や大地震で死ぬ確率は変わらないし、食料補給が途絶えた場合の生存率などは、狸腹のほうがかえって上がる。
 重たいのは、一太郎お試し版の話である。現在PDF作製用に使用しているワード2000は、こと日本語文書作成に関しては、よくまあ皆さんこんなシロモノの約束事に腹を立てず使用できるなあと感心してしまうほどの非日本語的環境なので、じゃあ最近の一太郎はどんなものかと試してみたら、これがまたワードに輪をかけて超重量級なのであった。機能的にはワード同様至れり尽くせりらしく、やりたくもない字下げやらレイアウトやら勝手にバンバンやって、その解除のほうが難解なくらい『高機能』である。しかしこれもワード同様、大長編をあっちこっちスクロールしようとすると、待ち時間が長いのなんの。あっちこっち見えない所に、いらない情報が隠れているのだろう。
 ロハで試用させてもらってあれこれ言うのもなんだが、あーじゃこーじゃ贅肉を付けないと生きて行けない業界状況というのも、貧乏人ほど太ってしまう『先進国』の宿命か。


05月23日 火  楽しき玩具

 今週の新聞の日曜版に、ネットを通じて個人出版を請け負う出版社、というより製本屋さんの副業的商売が、何件か取り上げられていた。その中に、こちらでPDFを作製しネット経由で送ると、そのまんま印刷・製本してくれると言う会社があり、そうやって個人が勝手に造った本をそこのHPに掲載依頼すると、一応商品としても販売してくれる。もっとも一冊単位の受注生産だからコストは馬鹿高く、見知らぬ方が見知らぬ素人作家の作品を2千円だの3千円で買ってくれるはずもないから、結局造った方の縁故販売用なのだろう。しかしこの会社の面白いところは、販売目的でなくとも一冊単位でとにかく印刷・製本してくれる点にある。無論100冊だの500冊だの刷るなら、一冊あたりのコストは一般の印刷所のほうが、ずっと安い。しかし10冊だの50冊だのだと、その会社の方が格段に安い。早い話、とりあえず自分用の見本を一冊だけ、何千円かで造るのも可能なのである。
 そんなわけで、今現在のフトコロ具合でもなんとかなる一冊だけの本を、造ってみようと思う。ただし、そこの製本は300ページ以下が条件であり、またページごとに代金がかさむし、カバー類も高い。よって、結局A5判2段組みでみっちり詰め込みカバーは無し、つまり高校時代の文芸部誌的構成にせざるをえないのだが、ふと考えてみれば、高校時代わずか原稿用紙数十枚の自作を活版の部誌に載せるのに、千円以上自腹を切っていたのである。今回5百何十枚分をビニール加工のカラー表紙付きで刷ってもらっても、見積もりは一冊2千円台だ。PDFの原版は、今のパソ環境なら手間がかかるだけでお金はかからない。いやあ、面白い時代になったものだ。
 まず刷ろうとしているのは現在も某所に送っている物件なので、今のところ販売依頼も自分で売るのも御法度なのだが、自分で客観的に眺めたり、知人に見てもらったり、なんかいろいろ重宝なのではないか。キリ番でプレゼント、なんてのもいいですね。


05月22日 月  あなたはマトモ?

 今日もまた、電車の中で化粧しているお嬢さんを見かけた。ときおり新聞等のコラムでも話題になるから、やはり増えているのだろう。
 自分がまだ幼い頃は、女性の化粧などという物は、本来『他人の目』を気にしてやるものだと思っていた。しかし、やがてイロケづいて世のお嬢様方を見るともなくじっくり見るようになると、あれはあくまでも『自分が気になる人達の目』だけのためにやるモノだと解ってきた。それでも昔は、公衆の面前で『化粧という行為そのもの』、つまりネタバレまでやってしまう女性は、ほとんどいなかった。そりゃそうだ。結果の効果がムダであろうと成果を上げようと、『バケた結果』と『バケる過程』はあくまで別物であり、民俗学で言う『ハレ』と『ケ』の関係だったのだろう。『公』と『私』の関係と言っても良い。それを無視することは、「あたし、世の中もうマトモにやってくつもり、ないかんね」と明言するのと同じだった。
 だから、衆目を気にせず化粧のできる人間を、自分はいっさい公的に信用しない。それは『恥』の意識が一段階変わってしまった程度の問題ではなく、『ハレ』と『ケ』、あるいは『公私』を、根本から明らかに失っているからだ。そんな人間は、まあよそ様の家庭内や閉鎖的社会にいるぶんには問題なかろうが、たとえば自分の店で雇ったり(昔の自分なら)、うっかり深い仲になったり(まだ可能性はゼロではない)してしまったら、あっけらかんと何をしでかすか解ったものではない。とんでもねークレーム処理も、遊びに出た際のトラブルや赤面も御免である。世間は『そいつが気しない人達』でいっぱいなのだ。
 いささか飛躍しすぎかも知れないが、当節、金目当てでも憎悪のためでも性欲のためでもなく、『殺したい』だけで相手を殺せる人間が増えているのは、電車で化粧するお嬢さん方が増えているのと、けして無関係ではない気がする。その人間にとって、自分と自分の気になる人間以外は『関係ない』のだろうから、『自分の都合でなんでもアリ』なわけだろう。
 人間のいわゆる『タブー意識』は、あくまで社会的・後得的なものだから、やっぱり環境というか、平等教育と言う名の下の権利肥大教育がおかしいのである。違うものを違うと言っただけで、なんやかやとクレーム沙汰になるというのはあきらかにもっと違っているのであり、一見タブーを増やしているように見えて、実はせっせとタブーの根本そのものを破壊しているのだ。
 日本の一般のお嬢様方は、今のところケンタのチキンは食うが、公園の鳩は食わない。犬や猫も、ゴキブリも食わない。しかし他国においては、鳩も犬も猫も食うし、場所によってはゴキだって油炒めにして食う。初めからそうした習慣の社会で育てば、どんなお嬢様方だって、何を口に入れても不思議ではない。いや、鳩や犬や猫やゴキを食うのは、一向かまわないのである。ただ、人間という奴は環境によって、しばしば同じ人間まで人間であることを忘れてしまう。


05月21日 日  ちまちま情報・ちまちまエンタ

 ネット人口に占める割合で、携帯利用がパソコン利用を上回ったそうである。ますます配信情報が断片化・刹那化・形骸化しないことを祈る。
 漫画や書物をソレ向きに配信する業者も増えた。まあコミックスは一齣以上に分割するわけにも行かないし、読む側でも1ページ単位、あるいは見開き単位での効果を楽しむ作品が多いから、そうそう闇雲に携帯化・断片化することもあるまいが、ネット小説などは、ますます読む側の『粘り』が期待できなくなりそうだ。小画面でスクロールしながら把握できる文章単位には限度がある。元来小説などというものは、最低一段落が一気に把握できないと、窮屈で読めたものではない。まあ打つ側はもともと脳味噌に湧いたものを出す立場だから、大昔の数行表示ワープロ、いや最初期の数文字表示ワープロでもなんとかなったが、もともと脳内にない文章を読む側は、そうも行かないだろう。
 携帯の表示能力は日々向上し、縦表示などもずいぶん綺麗になってきたようだ。しかし表示面積には限度がある。ただでさえネット上の文章が、でかいモニター向けでも断片・刹那の羅列になりつつあるのに、今後、その傾向がますます高まるのだろうか。情報のみならず情動まで、ますます一発フレーズ化して行きそうで、少々、不安。


05月20日 土  けだものと人間

 本日はまた形容しがたい天候である。真夏のような直射日光の下、湿気を含んだ温風が轟々と吹き渡り、サッシをみしみし震わせている。俺にいったいどうしろと言うのだ。いや、ただ汗かいてりゃいいんですけど。

 ヴァル・キルマーのファンなのに劇場で観ていなかった『ゴースト&ダークネス』を、遅ればせながらDVDで観た。100年前のアフリカを舞台に、英国の鉄道技師が鉄橋架設現場で人食いライオン相手に苦闘する話である。巻頭一発、ありゃ、これって、なんか大昔読んだことがあるぞ、と思ったら、ベースの出来事や人物は実話であり、日本でも自分が子供の頃、動物小説の戸川幸夫氏により、『人食い鉄道』として発表されている。自分はその本を、小学校の図書館で借りて、ワクワクと読んでいたのだった。
 戸川氏の小説は鉄橋限定ではなく広範な鉄道敷設地域が舞台で、大自然の脅威やらマサイ族の襲撃やら人食いライオン出現やら、ドキュメントというより、かなりキワモノ的な波瀾万丈物語だったと記憶している。今回の『ゴースト&ダークネス』は鉄橋工事現場近辺限定の上で、異常性格(?)っぽく人間狩りを楽しむようになってしまった二頭のライオンの恐怖と、技師やハンターの男の意地的ドラマに集約されており、その分、じっくり引きこまれる。制作と共演を兼ねたマイケル・ダグラス(ハンター役)もいい味だが、なんと言っても主役の鉄道技師、ヴァル・キルマーがいい。若い頃の屈折したアウトローっぽさが、大人の『微妙さ』に開花している。たとえばキルマー同様屈折系若者役者出身のジョニー・デップから現在受ける快感が、屈折を内に秘めつつ外向的に行動する男の魅力だとしたら、キルマーは、内向的屈折を皮膚として纏いつつあえて外向的に行動する大人の男意気、そんな感じだ。
 映画では、マサイ族はさすがに蛮族としてやたら襲って来たりはせず、むしろ勇敢なサバンナの戦士として描かれる。その代わり人食いライオンの方は、人肉の味を覚えてしまった野獣どころか、殺すこと自体を楽しむ知的サイコ野郎、いや、サイコ野獣としてパワー・アップ。100年前の真実は知らず、シナリオは大人のエンタメとして極上だった。凡百の動物パニックのように、「ほらほら面白いでしょ恐いでしょ」的シーンを羅列して、結果なんの盛り上がりもないブツ切れの残酷びっくりショーを展開したりはせず、むしろ生真面目なドキュメントから、あんまり面白くない恐くない部分を巧みに省略し劇的にした、そんな感じである。トラブル役者としても有名で、ちょっと乗れない仕事とわかると途中から見た目にも投げやりな演技になってしまうキルマーが、徹頭徹尾マジに演じていたから、監督やシナリオをよほど気に入ったのだろう。ちなみに監督は、佳作爆弾サスペンス『ブローン・アウェイ』の、スティーヴン・ホプキンス。
 そんなこんなで、たいへん精神状態に良い映画だったのだが、ふと現実に戻れば、やっぱりサイコ野獣よりサイコ人間のほうが多いんだよなあ。


05月19日 金  心の色

 朝方も降っていた雨は、午後目覚めると上がっていた。しかし重苦しい曇天で、粘りつくような湿気である。新聞は例の記事でいっぱいだ。当然先月の女の子の件も、関連が疑われている。鬱。
 新聞には、なんと小学校入学前に『性同一性障害』と認められてしまった男の子が、女児として学校生活を送っているとの記事もあった。『性同一性障害』という症状も、その人権問題も理解できる。しかしそもそも第二次性徴以前の性別自覚の混乱は、大半第二次性徴に伴って第一次性徴時の性別に落ち着いてしまうのが、データ的事実である。診断者や保護者の見識を疑う。人の心は、未熟な感覚だけで成立するものではないだろう。それは社会的自覚で決めるものだ。その幼児がやがて社会的に目覚めた時、真の心に適合していることを切に願う。もしそうでなかった時は、診断者や保護者が全ての責を負わねばならない。「だって子供がそう言ってたんだから」などという幼児同様の言い訳は、大人には許されない。

 夕方、買い物がてら、図書館へ。敬愛する三浦哲郎氏の児童文学『ユタとふしぎな仲間たち』の、全編朗読テープが入荷していた。少し鬱が晴れる。図書館のこうした朗読物は、点字図書や大活字本と同じコーナーに置かれているのだが、視覚障害のない普通の子供にも、じっくり楽しませてやりたいと思う。塾やなにかで忙しく、活字離れも久しいのだから、せめて良質な人の心くらいは、話し言葉と同じ速度、いや、良質な語り速度で知ってもらいたい。
 図書館を出た道を、スカイ・ブルーのスポーツ・カーが、爽やかによぎった。金属味のない、まるで積み木のような空の青である。なぜ他の車たちは、味気ない無彩色や、着色系でも鈍いメタリック調ばかりなのだろう。それが光景に融和すると感じるからか。違うような気がする。少なくとも、あの鮮やかな空色の車を転がす人間は、その車でこっそり子供を攫ったりはするまい。
 買い物を終えスーパーを出ると、垂れ込めた雲の下で、西の空の一部が、茜色に染まっていた。ほんの一部ではあったが、それを背景にギャオスが東京タワーに巣作りしたらさぞ映えそうな、濁りのない茜色である。
 まだ当分、生きていたいかもしれない。


05月18日 木  猿と人とぬらりひょん

 『「人間の祖先とチンパンジーの祖先は交雑していた」とする研究結果を米ハーバード大などのチームが、18日付の英科学誌ネイチャー電子版で発表する。人間の祖先は650〜740万年前ごろ、比較的短期間でチンパンジーの祖先と分かれ、以後は現在の人間に続く道を進化していったというのが定説だ。しかし、人間とチンパンジーの全遺伝情報(ゲノム)を比べると、何度も分岐した可能性があり、最初の分岐から最終的に異なる種に分岐したとみられる時期に約400万年の開きがあった。このため研究チームは、いったん分岐した人間とチンパンジーの祖先が、長期間にわたり再び交雑、遺伝子の構成も変化したと推定。両者が最終的に異なる種に分岐したのは、定説より100万年以上も新しく、540万年前以降の可能性が高いとしている。(読売新聞)5月18日3時10分更新』。こ、こりは面白い。
 高校時代、佐野洋氏の推理小説『人面の猿』を読んで、ラストに人間と猿の交配を暗喩する趣向があり、あらまあ随分SF的趣向、でもちょっと非科学的すぎ? などと思った記憶があるが、上記の新説が正しいとすれば、なんかの加減でそれが起こる可能性は、格段に増えそうだ。大昔の魔境伝奇物にも、猿と人間のお子さん、かなり登場しますね。いわゆる『先祖帰り』で猿人的相貌となる確率も、案外多そう。ことほどさように、人間〜なんてらら〜ら〜らららら〜ら〜♪ ……なんだ、そりゃ。
 個人的にはお猿さんの仲間は子供以外あまり好きではないのだが、考えてみれば人間だって子供以外は一部を除いてあまり好きではないのだし、やはり鏡花先生のお作に登場する精霊たちが『毛のない猿ども』と人間を馬鹿にするのも、ときに心から同調してしまうわけである。といって、自分もまた立派な『毛のない猿』なのであり、ああ、アーサー・C・クラーク先生の描くところのスター・チャイルドは果たしてどんな存在であるのか、それは本当に高次のものから選ばれ進化したものであるのか、あるいはこうした絶望的存在であるのか――でも、それは実は、高次のものなどいないと合理的に想定すれば、まったく『同じもの』なのですね。
 もし人間にさらなる進化が訪れるとしたら、大宇宙のこんな存在になってほしいものである。

 ……などと気楽に打っていたら、また不安なニュース。秋田の連続児童死亡事件、男の子の遺体が発見されたと聴いた瞬間から、あああああ、またかよ、と思ってしまった。当然警察ではあわてて再捜査を始めたようだが、そもそも先月の女の子の検死や聞き込みは、ほんとにきちんとやってくれたのだろうか。当節、どうも不安になってしまう。特に地方の警察は、『事件性』そのものを嫌う。先月の時点で『事件性』を確認していれば、今回の男の子は死なずに済んだのかもしれないのだ。自分の取り越し苦労なら申し訳ないのだが――人間は、やはりすでに進化に値しないのだろうか。あるいは、もともと進化しそこねた生物なのだろうか。それとも、精霊や妖怪を感じ取れなくなった時点から、するべきでない精神的進化を繰り返しているのだろうか。


05月17日 水  ぶつぶつ

 「夕方より雨」などと言うのは単なる予想であるという真実をうっかり忘れ、午後、濡れて帰る。一見しっかりしているが実は穴のあいた靴を履いて出てしまったため、足もびしょ濡れ。おまけに窓まで開けて出てしまったので、部屋が湿気っぽい。ぶつぶつぶつ。

 朝鮮総連と韓国民団のトップ会談……正直、何も変わらないだろう。肝腎の本国、主にあっち側の体制が変わらない限り。ぶつぶつ。

 朝日新聞の社長の息子さんの大麻騒動、なんで新聞に載らないのか……あ、うちでとってるのは、朝日新聞だった。いや、大麻は別にかまわんと思うのですけどね、覚醒剤と違って。しかし他社の社員関係の不祥事などは、微罪でもたいがい載るのに、不思議。ぶつぶつ。

 『ダヴィンチ・コード』関係は相変わらず種々の話題が花盛りのようだが、漏れ聞く趣向に新味を感じないと言うより、そもそも処女懐胎などというアホな出生をしたはずもない男が誰と結婚してどんな子孫を残しても不思議ではなく、やはりその宗教世界にいる人間でないと、ハマるのは難しそうだ。ぶつぶつ。

 結句、真に『公的』なものなど、何もないのだ。世の中すべては、私事の集積。ひとりひとりが、なんだかよくわからない社会や歴史の中で、右往左往するしかない。けして厭世的な意味で言うのではない。そもそも『厭世』という言葉自体、外界の雑駁さを無視した個人的感覚であって、いわば創作上の感覚だ。『いちばん偉い人』と対極にある、しかし同じ次元の、実体のない自己愛だ。
 などと偉そうに言いつつ、自分もまたその間を行ったり来たりしているだけで、ちっとも理想の『中庸』になど近づけない。しかしまあ、行ったり来たりしているうちは、まだマシだろう。どちらかに固着した時、最もたかちゃんたちから遠くなってしまう事は確かなのだから。ぶつぶつぶつぶつ。

「あらあら、久々にお邪魔してみたら、おじちゃま、ひとり窓際でなんかブツブツつぶやきまくってるわ。いよいよ若年性アルツかしら。たかちゃんたち、なんか、変なことされてない?」
「ふるふる。いつもと、おんなし。いつも、ぶつぶつ。いつも、へん」
「いや、いつもより、おかしーぞ。ここんとこ、とびきりそばを、くわない。まいにち、ふくろらーめんばっかしだ」
「……あの、あの、あと、ながたにえんの、おちゃづけのり」
「はいはい。それはね、単にこの前250グラムのリブ・ステーキをおごりでかっくらったから、とーぶん粗食でも平気だろうと、いじましく節約してるだけなのね。でも、やっぱし欲求不満が高まって、虚しいボヤキに走ってるのね。はいはい、みんな、こーゆーありさまを『貧すりゃ鈍す』ってゆーのよ。たかちゃんたちは、ぜったい、まねしちゃだめよ」
「こくこく。むしゃむしゃ」(冷凍庫の4割引ピザやハンバーグを、勝手にチンして食べている。)
「んむ、だいじょぶだ。がつがつ」(流しの下の備蓄食品から、旨そうな中村屋のカレーやグリコのビビンバ丼を選び出し、パックのご飯と共に残らず食い尽くしつつある)。
「つるつる。……ぽ」(もはやふたりのペースにずっぷしハマり、ちゃっかり具ー多をすすっている。)



05月16日 火  昔のちっこい話

 まずは、先日の追補から。すみません、戦争末期の一銭硬貨はアルミではなく、そもそも錫が原料でした。ほっといたら全部黒くなって当然ですね。戦前戦中、兵器増産のため、一銭硬貨は銅からアルミ、サイズダウン、さらに錫でちっこくと変遷、もうちょっと戦争が続いたら、セトモノに変える算段だったそうな。つまり国家中枢が『経済なんてもはやなーんにも考えられなかった』のが事実のようです。父親がそのあたりの感慨をこめて、保存していたのかも。
 参考までに、左から、サイズ比較のためのご存知現行1円→昭和15年一銭(表・裏)→同17年→同19年。で、20年にセトモノ化する前に敗戦。

 

 さて、だいぶ前の昔話で、昔のちっこいミゼット判(16ミリ裏紙付きロール・フィルム)豆カメラは、大人価格の物でない限りまともに写らなかったと記しましたが、実際そのころ(昭和40年代前半)の玩具カメラで撮った写真が出てきたので、載せてみます。なんじゃやらシミや傷が多いのはプリントが変質したわけではなく、初めっからフィルムやカメラそのものがアレだったと思って下さい。

  

 ちなみに当時の大人価格16ミリ(シネ・フィルム転用)ミニチュア・カメラの中では最も安価だった『ミノルタ16Ps』は、それでも3900円しただけあって、結構写りました。(作りが単純かつ堅固なカメラだったので、今でもヤフオクなどに結構出てますね。残念ながら専用フィルムは、自分で一般フィルムをカットするか、銀座のレモン社の高価な特注品しか入手できないようですが。)

  

 なお、完全大人価格のミノックス判超ミニチュア・カメラ『ヤシカ・アトロン』の実力は、以前(直近だと2月とか)載せたり述べたりしたとおり、立派なスパイ活動(女子盗撮)が可能でした。(今でもこの規格だけは、本家ドイツの『ミノックス』と、日本では『シャラン』シリーズで立派に生きております。フィルムもヨドバシあたりなら在庫しておりますね。)


05月15日 月  一銭玉

 母親の部屋を整理していたら、種々の古物に混じり、戦前戦中の少額硬貨や紙幣が、一握り出てきた。かつて金持ちのいたためしがない家系なので、ほとんどが一銭、五銭や十銭がちょっと、つまり古銭的価値はまったくない。記念にとっておいたのだろう。面白がって分類していて気づいたのは、昭和十九年発行の一銭玉の、あまりの情けなさである。現在の一円玉も、その頃の大半の一銭玉に似て、最少額貨幣とはいえ少々安っぽすぎると思うのだが、昭和十九年の一銭は、さらに悲しい。他の年の一銭よりもひときわ小さく豆粒のようで、それだけがドス黒く変色している。出てきた約二十個の十九年物が例外なく変色しており、他の一銭玉は今でも一円玉同様の質感を保っているのだから、よほどアルミの質も落としたのだろう。

 今でも「たかが一円」と思う人は多いだろうが、最少単位の貨幣という物は、言うまでもなくその国の経済活動の最少単位である。たとえば一億二千万円自由に動かせる立場の人間は、それを万札の集積、あるいは札束の集積、それともディスプレー上の数字として認識するか、いずれにせよ、一円玉の集積とは感じないだろう。そうした立場の多くの人間が精神的に鈍磨した場合、一円玉などという物は形だけ存在すれば、品質など最低限でかまわないと思っても不思議ではない。自分には、小泉首相の「自分は退職金なんていらない」は、まさしくその感覚に思えてしまうのだ。地方自治体のお偉いさんの退職金は、確かに馬鹿高い。しかし、大半の国民が雀の涙ほどの退職金をなお縮小されつつある今、普通、その言葉を口に出せるか。マリー・アントワネットの時代ではないのである。小泉首相は、明らかに『痛み』など感じていない。

 『愛国心』とかなんとかまたお上のほうで教育したがっているようだけれど、経済政策は一体どうするつもりなのか。景気は回復傾向とかなんとかまことしやかにおっしゃっているようだが、貧乏人増やしてそのぶん金持ち増やして社会の表金だけ増やして転がして、実際は10年先すら見ていないのではないか。正直、森首相以降の自民党政権は、大口叩いて偉がっているだけで、根本的な経済政策など、事実上『なんにもやってない』のである。さらに言ってしまえば、森首相ほど八方に無能な首相が、かつて存在しただろうか。それに与する小泉首相を、信じろと言う方が無理なのだ。戦前戦中でもないのに、なぜ国民は『痛み』を『愛国心』などという言葉で紛らわせなければならないのか。
 ドス黒く変色した一銭玉が、なにがなんでも靖国といった形骸的『愛国心』の産物だったとしたら、そんな『愛国心』はいらない。一円が十円になり百円になり千円になり、結果として一億二千万円になる、そうした認識に立ち返ることこそ、真の『愛国』のはずだ。誰がなんと言おうと大和は『無駄に沈んだ』のであり、だからこそ悲愴なのであり、個々の乗組員が所有していた一銭玉も、真に『愛国』の為政者のもとであったら、その後も当分白いアルミ貨として、市井の釣り銭籠や小銭入れの中で流通していたはずだ。
 土台、ひたすら現アメリカ政権に尻尾を振って属国化するのが、なんの『靖国』、なんの『愛国心』か。この国がまだ好きだからこそ、騙されまい。


05月14日 日  過ぎ去りし日々

 神奈川に残した母親のマンションを整理に行く。などと言うと聞こえはいいが、要はいよいよ具体的にその部屋を有効利用しなければならず、本格整理の前に何か当方で使える物がないかと、漁りに行ったのである。自分で住むという手もあるが、なんかいろいろで即断できない。まあ住むにしろ貸しに出すにしろ、母親が今は無き田舎の家から持ってきた無数の家具類やガラクタの大半は、整理・処分しなければならない。貸すなら最低限のリフォームも必要だ。とりあえず蒲団や雑貨の一部を、義兄の車でこっちに運んでもらう。我が古部屋の煎餅蒲団が新しい蒲団に変わるのは、数年ぶりか。ステーキなどゴチになるのも、何ヶ月ぶりか。

 母の部屋で、亡き父親の遺品や自分の古写真など分類整理していると、実家が消滅して以来行方不明になっていた、小学校時代のフジペットによる写真や小中学校の文集など発見、しみじみ懐かしく、恥ずかしい。アルバムから漏れていた赤ん坊の頃の自分の写真や、高校入学時の証明写真も出てくる。スキャンして何かのネタに使おうか。
 父親の学生時代の写真なども発見。王子の高校や東京薬科大学時代の写真である。父親は大正15年の生まれだが、幸い理系人間だったため学徒動員には駆り出されなかった。あくまで東京北区王子の生まれ育ちであり、戦後なんかいろいろの事情で祖母の実家・山形に移ってからも、本籍だけは頑として北区に置いたままだった。祖父は大正初期に若くして病没していたから、女手ひとつで育ててくれた祖母の望郷の念を叶える形だったらしいが、父本人にしてみれば、生まれ育った東京を離れるのは、末期まで都落ち的な感覚だったようだ。不肖の息子(俺や)が高校時代家出して新宿で補導された時も、翌日駆けつけた父はさして怒りもせず、むしろ懐かしげに神保町など案内してくれた。本心は自分も東京に帰りたかったのだろう。父の死後、我が家の本籍は、母親の都合に合わせて山形になったり神奈川になったり転々し、今のところ神奈川に置きっぱなしである。で、不肖の息子は逆に山形を想いつつ、東京近辺をうろうろしている。

 ああ、いかんいかん。無駄に郷愁に耽っているバヤイではないのだ。


05月13日 土  ぶつぶつぶつぶつ→ちょっと感心

 あいかわらず落語の小言幸兵衛のごとく、チクチクと気に障るニュースが多い。
警視庁小平署地域課の警部補(57)が、東京都世田谷区で会社員宮沢みきおさん(当時44歳)一家4人が殺害された事件(2000年12月)の捜査に当たった成城署特捜本部に在籍していた当時、聞き込み捜査で虚偽の報告書を作成したとして、警視庁は12日、虚偽有印公文書作成・同行使の疑いでこの警部補を書類送検し、3か月の停職処分にした。警部補は同日、辞職した。同庁によると、警部補は01年5月〜04年6月、付近住民の聞き込み捜査で、実際には会っていない住民ら43人について、十分に話を聞いたと偽った報告書を計35通偽造した疑い。当時、特捜本部は、住民に指紋を押してもらうこともあったが、偽造報告書には、警部補と妻の指紋が押されていた。警部補は「協力を得られず、やってしまった」と供述している。特捜本部が最近になって改めて聞き込みし、虚偽が判明した。(読売新聞)5月12日20時39分更新』。だから一般社会では、こーゆー従業員は懲戒免職。退職金なし。警察ってのは詐欺師の味方か? これだから犯罪者にナメられてしまうのである。
 川崎の投げ落とし野郎・今井健詞は、「
自殺したかったが恐くてできないので、死刑になりたかった」などと、まだたわけた格好付けを繰り返しているようだ。あのなあ、本当の自殺願望者ってのは、くどくど言う前に死んじまうの。それこそ、常人では絶対自殺不可能な状況でも、きれいさっぱりひとりでなんとかしてこの世からオサラバしちゃうの。今さら悩んでるフリしとらんで、正直に「強い奴は恐いし、互角っぽい奴は負けるとなんかもっとヤなので、確実に俺より弱い奴を、楽にブチ殺したかった」と言ってしまえ。そのほうが早く死刑になれるぞ。どうせ死刑も恐くてしょうがないんだろうが。
 そんな消化に悪いケバ立った精神状態で夕飯の『キッコーマン・うちのごはん・すきやき肉豆腐』(肉豆腐といいつつ挽肉がちょっと入っているだけで豆腐も別売だが、けっこう旨いレトルト食材)を作り始めると、木綿豆腐のはずの特売豆腐が絹ごしのごとくやわやわと崩れ、なんか粘液状のおかずになってしまうし。くそくそくそ。……あ、でも、食ってみると案外固形状態より旨いじゃん、などと気をとりなおし、昨日買った赤塚先生の本の後半を読んでいると、秋本治氏の選によらないジャンプ編集部による自画自賛コーナーで、『「釣りバカ日誌」で有名な古谷三敏』などという誤謬を発見。仮にもギャグ漫画担当編集者が、普通こんな勘違いをやらかすか。校正者はひとりも気づかなかったのか。腹を切れ、腹を。腹切ってフジオ・プロにお詫びをしろ。大体過去の赤塚賞受賞者だって、大半は読者アンケートのいいなりに、己の手間暇を惜しんで使い捨ててしまったんだろうに。創作物の発信への使命感と誠意がカケラもないんだ、近頃の大手のサラリーマン編集は。……いや、すみません。言い過ぎました。真心のある優れたお方も存在します。ほんの、ちょっぴり。

 などとなんかいろいろ行き詰まってササクレ立ちつつ、いやいかん、世の中にはなんかいろいろ真面目にエンタメしていらっしゃる方々もまだまだ多数いらっしゃるのだと、近頃ケーブルで毎日ハマっている『13日の金曜日』を観る。映画とはまったく関係ない、ノン・スプラッターのホラーTVシリーズで、むしろ大昔の『ミステリー・ゾーン』のような、アイデア・ホラーである。いや、毎回レギュラーのキャラクターがいるので、『事件記者コルチャック』とか、我が国の『怪奇大作戦』タイプか。シリーズの初期を見逃しているので正確な設定は掴めないが、シリーズの基調設定は、呪われたアイテムを売りさばいていた邪悪なアンティーク・ショップをまっとうな研究家の老人が受け継ぎ、従業員(らしい)カップルと共に、世に出てしまった邪悪なアイテムを回収してあるく、そんなシリーズ。毎回、種々の悪魔的アイテム(ドラえもんの繰り出すアイテムの邪悪版といったところ。他人を刺し殺す事によって無敵のテクが得られるビリヤードのキュー、他人の生命を吸って賭け事の勝敗を事前に教えてくれる指輪、他人の容貌を破壊して自分の容貌を若返らせてくれる鏡、etc)が登場し、それをめぐって運命を狂わされる弱き人間たちの悲喜劇を、巧みに見せてくれる。一話一話に投入されたアイデアとマンネリ防止のシナリオ技術がハンパではなく、なんか『Xファイル』のごとき幼稚な被害妄想シリーズで大ヒットしてしまう近頃のアメリカにしてはずいぶん濃いなあと感心させられ、そのくせビデオもDVDも見当たらないのはなんでかなあと不思議に思っていたら、カナダのTVドラマなのだそうだ。カナダという国は、嫁に行った従妹が「すっごく住みやすい国」と言っていたと叔母から聞いたことがある。きっと人心にゆとりがあるのだろう。昨今の半精神異常的Jホラーやゲテゲテの米国ホラーはともかく、ベーシックな上質のホラーは、フトコロ以上に精神が豊かでないと、なかなか発酵しない。
 しかし現在の我が国でも、週一で放送されている『妖怪人間ベム』のリメイク・アニメはいい。大昔のオリジナルのような、海外が舞台の本格ゴシック・ホラー兼ロード・ムービー狙いではなく、日本っぽい一定の街を舞台とした脚色になっているが、「早く人間になりたい!」と願いつつ異形ゆえに排他されながら、その人間たちの悪徳の象徴に他ならぬ種々の魔物と戦うベロ君たちは、つくづく根源的に『正邪』のエンタメである。最初の頃のゲームっぽいCGにはちょっとしらけたが、久々に毎回欠かさず観たくなるアニメに出会えた。でもやっぱり根本的には、『あの頃のリメイク』なのですね。興味深いのは、大御所・森雪之丞氏による主題歌の歌詞。昨今の悪人に甘い人権社会(我欲を慈しんで他人の常軌を逸した欲をも糾弾できない社会ですね)に対しての苛立ちか、「♪ 
悪の華 愛でず 踏みつぶせ! ♪」などと、かなり問題提起風。



05月12日 金  地べたのトンカツ

 田川氏のミクシィの日記で、なにやら赤塚不二夫先生の初期の作が安価なコンビニ本で出ていると知り、久々に近所のコンビニへ。近頃は主にフトコロ具合の関係でスーパーや100円ショップしか利用せず、あやうく買いそびれるところだった。『赤塚不二夫ベスト・秋本治セレクション』――つまり秋本氏の編による、昭和30年代の少女漫画系、庶民の生活感溢れる作品がメイン。バカボンやおそ松君しか知らない方は、たった500円なので、ぜひご一読を。
 表紙に〈巻頭企画・秋本治の原点がここに!? 赤塚不二夫の名作『九平とねえちゃん』〉などとあり、それを見た瞬間に、小学三年だったか四年だったか、『りぼん』の別冊付録で読んだ記憶が走馬燈のごとく蘇る。しかし130ページを越える長編ゆえ当然収録されておらず、その代わりその六年前に描かれた『点平とねえちゃん』という原型的短編が収録されており、過去に読んだはずもないのに、やたらと懐かしい。
 懐かしいと言っても、その少女と幼い弟と白血病の青年の交流を描いた下町物語の詳細など、実は朧気にしか覚えていない。結末がどうであったかも記憶にない。ただ、幼い弟が久々の大ご馳走のトンカツを肉屋に買いに行き、「わーい、トンカツだ! トンカツだ!」とはしゃぎながら帰る途中で転んでしまい、それを地べたに落としてしまうシーンだけ、奇妙なまでに鮮明に記憶している。当時肉屋の紙袋など粗末なものだから、トンカツは地べたに転がってしまう。通りかかった青年がそれを慰め、それから交流が始まったはずだ。『点平とねえちゃん』のほうでは、紐でゆわえた経木包みのコロッケを落としている。もしかしたらトンカツも、経木包みだったのかもしれない。しかしコロッケとトンカツでは、当時の卑しガキ(自分も含め)にとってインパクトが違う。愕然ののち蕭然として涙ぐむ久平に、ほとんど同化して「あうあうあう」と嘆いた記憶がある。まあ白血病物としての哀しみも、子供心に胸を痛めたわけだが、結局はっきり覚えているのは、地べたのトンカツの哀しみ。
 いつだったか、遊園地でソフト・クリームを買ってもらった幼女が、コーンの上をそっくりそのまま地べたに落っことしてしまい、一瞬呆然と絶句したのち、たちまちべそべそとべそをかき始めるのを見た。ドラマなんかでも、同様のシーンを時々見かけますね。あの半径数メートルを一瞬に冷気で覆いつくすほどの喪失感たるや、もう抱き合っていっしょに泣きじゃくりたいほどのインパクトだ。ビンボな時代の腹減らしガキにとってのトンカツ喪失と同じ情動を保っている限り、現代の幼児もまた健全なのだ。
 そういえば自分も、昨年の夏だったか一昨年の夏だったか、スーパーで買った天ぷらをチャリの荷籠から落としてしまい、乾いた地べたにぶちまけたことがあった。しかし自分はさすがに大人なので、慌てず騒がず土を払って持って帰り、過熱して食った。ああ、会社辞めてから本当に成長したなあ、自分。


05月11日 木  シングル恋し

 風呂でラジオ深夜便を聴いていると、とてもグアイのいい混声合唱が響いてきた。東京混声合唱団の『朧月夜』。風呂から上がってさっそく検索してみると、残念と言うか案の定と言うか、ご本尊のHPで販売しているのは芸術的・技巧的な合唱曲のCDばかりで、唱歌集などはない。『朧月夜』はあくまで大手会社の種々のオムニバス盤に含まれているのであり、その一曲を入手するためには、すでに所有している歌手によるすでに所有している楽曲と、コミでなければ購入できない。
 シングル・レコードが音楽メディアの中心だったのは、はるか昔の話である。今ではCDシングルさえ、減少の一途をたどっている。自宅にステレオ電蓄が備わった頃(昭和40年代前半か)は、A面B面各一曲の45回転シングル盤が中心で、愛唱歌や童謡は各面2曲計四曲入り33回転シングル(LP?)が中心だった。ぺらぺらのソノシートなんてのも当時はメジャーで、音質はともかく安価だったので、針音バリバリになるまで聴きまくったものである。自分用のでかいLPなど所有できるようになったのは、高校に入ってからだった。
 それだけに、子供の頃の一曲一曲に対する思い入れは大きい。無論今でも、多くの楽曲の中から自分好みの愛聴曲を選ぶ尺度は誰しも同じなのだろうけれど、売れ線のポップスはともかく、地味な演者の唱歌やイージー・リスニング系などは、小刻みに入手できない。音楽ネット配信が加速度的に拡大しているものの、地味系はやはり著名な演者のものに限られる。
 今さらCDシングル市場が再拡大するべくもないので、いっそすべての音楽メディアがネット配信に直結するようなシステムになってしまえば、好みの偏った貧乏人にも、選びやすい時代がまた訪れるのだろう。


05月10日 水  人様々

 敬愛する小林信彦氏のエッセイ『にっちもさっちも』を購入。昔から週間文春に連載している『人生は五十一から』というシリーズの、もう五巻目で、在職中は通勤電車の中でリアルタイムで読むのを楽しみにしており、また商売柄どうしても世俗に過適応しがちな自分が、大人としての平衡感覚を失わないためにも、格好のエッセイだった。現在のお若い層にはその名を知らない方々も多いだろうが、推理雑誌の編集から芸能関係エッセイから娯楽小説まで何でもござれの知性派で、その著書を読むたびに、小説であれエッセイであれ、大人としての現状把握の仕方や、過去の事物を現在マスコミの表層に残っている情報から判断してしまうことの危うさを教えてくれる。自分なりに氏の書物から学んだ事柄は、「多くの情報媒体で語られる『現在』は、過去を歪めた空論、あるいは単なる結果論に過ぎない」とか、「人間の成長は、自分を世間に投影しようとすることではなく、世間を自分に投影することによって得られるのだ」とか、そんなスタンスである。無論、氏がそう書いているわけではなく、あくまでも自分がそう読んでいるだけのことだが。まあ、子供時代はいざしらず、少なくとも成人してからは、『自分』や『現在』や『未来』などばかり追っていても、空虚な独善か、やくたいもない結果論しか得られない。『正しい視点による現在』は、『正しい視点による過去』からの連続であり、当然『正しい未来』は、その後に続く。まあ小林氏はシニカルなお人柄なので、『誤った視点による過去』→『誤った視点による現在』→『誤った未来』を憂う風合いが強い。だからこそ、お笑い系の芸にこだわるのだろう。ハジけたギャグやコメディの根っこは、現実把握である。しかし今回の『にっちもさっちも』には、氏にしてはかなり情に流れた一文があり、それにもまたうんうんと頷いてしまう。『そうだ、志ん生だって、文楽だって、あの無愛想な可楽だって、〈芸〉だの〈描写〉だのと言う前に、まず、観客を幸せにしてくれたのである。ぼくも歳をとったから、〈観る人を幸せにできる〉かどうかが、芸人の基準だと考えるようになった。

 さて、話はころりと変わって、『
【ヨハネスブルク=角谷志保美】内戦からの復興に取り組む西アフリカのリベリアで、国連関係者らが食料などと引き換えに少女と性的関係を持っているとする報告書を8日、英国の民間活動団体(NGO)「セーブ・ザ・チルドレン」が発表した。報告書によると、同団体は昨年末、避難民のキャンプと帰還先の集落計8か所で、少年少女158人を含む300人以上に聞き取り調査を実施。対象地域の少女たちの半数以上が、食料やわずかな現金を得るために売春をしていることが明らかになった。8歳〜10歳の少女による売春の例もあったという。売春の相手は国連平和維持部隊員やNGO関係者、教師、警官など。食料の配給や、車に乗せることと引き換えに性的関係を迫る例も見られたという。(読売新聞)5月9日23時36分更新』。
 ……まあ、やはり世間などというものにはシニカルに接さざるを得ない。誰もが優れた芸人を目指せるはずもない。しかし、才能もなくただのクソで終わるにせよ、せめて一輪の野の花の肥やしになろうとするロマンはないか。


05月09日 火  ネットあれこれ

 伝言板でちょっとバイアグラの話題が出たとたん、なんじゃやら英語のカキコあり。面白かったら残しておこうと思ったが、URL先も英語のブログで、ほとんど理解できず削除。きっと『バイアグラ』という文字列を探してなんかいろいろする仕組みなのだろう。ご苦労様なことだが、できれば日本語版ブログも作ってくださいね。あるいは単なる通りすがりの方の悪戯だったのか。

 いわゆるブログという場が花盛りらしく、通常のHPより手軽なので際限なく利用者が増えているようだ。すでにHPをお持ちの方も、日記的なことはそちらにリンクさせている方も多い。しかし日々検索に引っかかってくる私的暴言やガセネタの嵐の増加は、ちょっとかんべんしてもらいたい。HP作製ソフトだのHTMLのお勉強だのが不要なぶん、昔からネット上掲示板などの欠点であった『発作的排泄』が、ネット上の表街道まで蔓延している。そうしたブログのカウンターがたちまち何万ヒットとか回るのも、とにかく『自宅の表玄関に風呂場も便所も置いてしまう』という、構造的露出度によるのだろう。検索にも引っかかりやすいみたいだし。
 自分などは外でも内でも引き籠もりがちで、どうも私的なものほど隠匿したい質のため、この雑記帳もなるべく見つかりにくい納戸最奥に置いてある。HPの表札も、知人かよほど物好きで暇な方しか入る気にならないようにしている。HP開設初期の頃はカウンター回したくて、表札にこっそり大量の検索用タグを埋めたりあっちこっち外商に出たり、ブログにも小説を転載したりしたが、今ではすっかり引き籠もりに近い。ブログという場はそもそも小説類を望ましい形・順列で組めないし、文字数制限とか、なんか窮屈だ。
 これからも、あえて外に出る時は、ビンボなりに鏡と相談してから出かけたいものである。家の奥ではパンツいっちょでくつろいだりもするが、入浴姿やトイレ姿だけは公開するまい。自分だって、他人様の家の風呂やトイレは覗きたくない。女性とろりしか住んでいない家なら、こっそり覗いてみたいが。


05月08日 月  紙とキーボード

 さて、また送ったぞ。紙とプリンタのインクと郵便代の浪費と知りつつ、未練なのねえ。
 しかしプリンタ用紙として売られている製品は、実に千差万別だ。インクジェット専用紙は高価だしかえって扱いにくいとあちこちの投稿助言ページにあるので、いつも手元に残す控えには最安価なコピー用紙を使い、送付用にはキャノンの二番目に安い紙を使っているのだが、今回無精してご近所のスーパーでコクヨの普通紙を買ったら、一応プリント用と謳っているにも拘わらず、インクの乾きが悪いのなんの。普通のスピードで印字すると、乾ききらない部分に次の紙が擦れてしまい、さすがに字こそ流れはしないものの、次の紙の裏が汚れてしまう。全部プリントしてからそれに気づいて、『きれいモード』、つまりゆっくりモードでまるまるプリントしなおし。乾きが悪いということは吸いも悪いわけで、印字品質も控えのコピー用紙を『普通モード』で使ったほうが若干鮮明なくらいだ。いかに過当競争がキツいとはいえ、値段半分の無名コピー用紙に劣るとはなあ。天下のコクヨさんともあろう者が。ぶつぶつぶつ。
 まあ、裏が汚れていようがいまいが、どうせ梗概段階でシュレッダー行きの可能性のほうが高いのだけれど。


05月07日 日  落語

 図書館で、十代目馬生師匠の、一般レコード店では入手できなかった『茶金』と『菊江の仏壇』を借りてくる。いずれも上方から移植された東京落語であり、東京ではあまり聞かれない。前者は上方では『はてなの茶碗』として比較的メジャーだが、後者はあっちでもあまり演る方は少ないし、まして東京ではかなり珍しい。
 借りたCDの解説では、解説の保田武宏さんが、『
損な噺』と表現している。難しくて受けない、登場人物が多くひとりひとりが長々としゃべる、若旦那の行動に納得できる裏付けがなく、噺にヤマ場がない、よって名作ではない――かなりこの演目はお好きでないらしく、『馬生の場合は、噺の構成よりも、自分の芸風で聞かせている』とまで記されている。
 ではどんな噺なのか、ご存知ない方のために記すと――さる大店の若旦那がいい加減な道楽息子で、親に頼んでもらった立派な嫁がいるにも拘わらず、その几帳面な良妻ぶりにかえって疲れてしまい、芸者・菊江に入れあげる。器量も頭も嫁より劣り欠点も多いが、いっしょにいてくつろげるタイプの芸者さんなのですね。妻は生真面目な性格ゆえそれを気に病んで、体まで病んでしまう。一方若旦那の父親は念仏・仏壇好きの人情家で、病んだ嫁をいたわって実家で療養させている。その父親が、見舞いのため嫁の実家に泊まりに行くと言うので、馬鹿息子はさっそく番頭を味方につけ、菊江をひと晩家に呼ぼうとする。この番頭も、一見真面目だが実は店のお金をなんかいろいろして、どこぞに女を囲っているようなタイプである。店の使用人たちにも口止めのため酒肴をふるまい、菊江さんを呼んでドンチャン騒ぎをしている最中、突如大旦那様がご帰宅。実家に下がっていた嫁が、死んでしまったのである。若旦那と番頭は、あわてて菊江さんを、でかい仏壇の中に押し込める。大旦那は店のドンチャン騒ぎに激怒した後、死んでしまった嫁の供養のため仏壇を開けると、そこには当然菊江さんが忍んでおり、大旦那はそれを不憫な嫁が迷って化けてきたのだと思いこみ――まあ、そんな大筋の噺。
 さて、これを馬生師匠独特の柔らかい語り口でじっくり聞いてみますれば、保田氏の解説はかなり的外れなのではないか。いいかげんな若旦那の不人情ぶりも、人間としてのマイナス方向の『人情』をきっちり表しているのであり、ちっとも『
若旦那の行動に納得できる裏付けがない』わけではない。むしろ保田氏は、そこに登場するナマにワルい人間たちの性格に付いて行けなかったのではないか、そうとも思われる。それに振り回される女性軍――ないがしろにされて死んでしまうお嫁さんにはなんの救いもないし、状況に流され右往左往するだけの菊江さんも、滑稽と言うより不憫だ。しかし、そんなドライなリアリズムもまた、馬生師匠は生き生きと語っているのであって、それは『芸風』だけで済ませられるべきでない『技量』のはずだし、その技量があれば生きる演目なら、『難しい噺』であっても、けして『損な噺』ではないはずだ。
 あらためて、落語好きの山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズの底に流れていた、一種の諦観や苦々しさを思う。甘い人情だけで浅薄な予定調和に至ると見せて、実はどーしよーもない人間たちが右往左往する世間もしたたかに描き、全体としてはほどよくエントロピーを拡散させて行く――それも芸風というより、立派な技量だよなあ。


05月06日 土  バトン

 『物書きならやってみたくなるバトン』だそうである。
 近頃書いていると言うより語っている文体ばかりなので、ちょっとは正統派文学っぽい方向もまたやってみようか、などと思いつつ――。

1.どんな文章を書いていますか?

 ホラーからギャグまで、古典的文体から落語・講釈まで、節操なく展開しております。創作初期から、なんでも屋をめざしてしまったもので。

2.文章を書いている時に気をつけていることはなんですか?

 自分の感じているものを読者の方に感じてもらえるか、それが第一でしょうか。たとえば『わけがわからない』事物や感情を書く時にも、それがどう『わけがわからない』のかきちんと同調していただきたい、みたいな。結果、大変クドくなる場合が多く、読んでいただく方々には恐縮なのですが、クドさも芸として感じていただければ、そんなスタンスで。ただ、小難しげな言葉をなんぼもっともらしく並べても、感じてもらえなければ無意味なので、それなりに考えてはおります。

3.自分の書く文章を一言で表したら何ですか? また、まわしてくれた物書きさんの文章を一言で表したら何ですか?

 自分の文章…………渓流(いや、あくまでも目標です)。
 明太子さんの文章…………情景(感情と光景がきっちり絡みあっている)。

4.アナタの身の回りにいる物書きさん20人の書く文章をそれぞれ一言で表したら何ですか?

 に、にじゅーにん? これはかつての文芸部などでも、滅多に揃わない人数だわなあ。とりあえず記憶にある範囲で、お古い方から。いや、あくまでもあの板での、私的朦朧記憶です。今現在あまりお見かけしなくなってしまった方も、この歳になると2年や3年は現在と同じということで。惚け頭のとっさの記憶から漏れたお方は、平にご容赦。

晶様…………怜悧。
神夜様…………徹底攻勢。
メイルマン様…………多彩。
和宮樹様…………叙情。
村越様…………青春。
石田荘介様…………純文。
蘇芳様…………番長。
春一様…………ゴシック。
笑子様…………少女(いや、いい意味で)。
エテナ様…………鋭敏。
ささら様…………夢幻。
昼夜様…………音律。
ドンベ様…………両輪(情景とエンタメの)。
夜行地球様…………無湿気浪漫(?)。
影舞踊様…………少年(当然、いい意味で)。
甘木様…………穏風。
京雅様…………奇妙(あくまで芸風の話です)。
ゅぇ様…………乙女(やっぱり、いい意味で)。
有栖川様…………女王様(いえ、あくまで王道派の女性という意味で)。
clown-crown様…………混沌(ありゃ、どなたかと同じ感想)。
水芭蕉猫様…………電波(す、すみません。まだそれしか読んでません。猫耳『少女』派なもんで)。
朝倉玲様…………理性(あるいは、節度)。

 ありゃ、いつのまにやら20を越しているような。

5.上の問題で書いた物書きさんにこのバトンをまわしてください。

もうお好きになすってください。



05月05日 金  子供の日

 残念ながら鯉のぼりも柏餅も、現在自分の視界には存在していない。窓の外の空は晴れているが、直近にあるのはマンションやセコい住宅街のみ。たかちゃんたちも、このところ青梅で遊ぶのに忙しいらしく、この部屋には出現してくれない。まあ大っぴらに描写しにくい娘たちはいるのだけれど、彼女らはその無口さやおとなしさが究極の美点でもあり、まして初対面の人間とはおそらく口をきかないから、自分がこのまま心筋梗塞で逝ったりすると、典型的な都会の孤独死、いや、典型からなんかいろいろ恥ずかしいところまでハズれてしまった、『孤独おたく死』扱いになるのだろう。
 新聞のテレビ欄を見ても、子供の日らしい児童映画だのアニメ映画だのは細々と散見されるだけで、我々が子供時代のような、いかにも『わーい。子供の日だー!』といった色合いに乏しい。アニメ映画などは、いつでもレンタルできる時代だからなあ。まあ、外ではなんかいろいろイベントをやっているのだろうし、ケーブルTVでは半日ぶっ続けでサンダーバードやら帰ってきたウルトラマンやら、今の子供と言うより『昔子供だったおたくのとっつぁん』のために、録画しきれないほどの懐かし映像を垂れ流してくれているのだが。
 ふと思えば、我々が幼少の頃の田舎では、G・Wに遠出をするといった贅沢な風潮が、一般家庭にはあまりなかった。そもそもほとんどの会社勤めの父兄が、飛び石か連休かはその年の暦しだい、有休だの振替休日だのでぶっ続けで休めるような甘い時代ではなかった。盆暮れとは違っていたのである。もっとも、現代でも多くの中小企業は、ひと頃ほど長く休めないようだけれど。
 しかし当時の田舎では、子供にとっての休日は、感覚的にとても長かった。5日ともなれば外での遊びにも飽き、といって、今のような大量のコミック誌もゲームもレンタル屋もない。そんな時に、テレビで昼日中からやってくれるアニメ映画や児童映画は、格好のエンタメだった。映画館など年に3.4回行かせてもらえば上等だったし、テレビで映画が放送されること自体、昭和40年代前半まで、定期的にはなかったのである。
 あらためて、いわゆる飽食の時代について考える。現代の子供、いや大人にもありがちな『情緒的散漫さ』『情緒的浅薄さ』は、やはり情報の過多にやむをえず適応した結果なのだろう。子供向けの作品が少ない→ひとつの作品を骨の髄まで楽しむ→それでも作品が足りない→なんだかよくわからないが、大人向けの作品に手を出す→なんだかわからないので、解ろうと四苦八苦する――そんな子供の時代にかろうじて間に合った自分は、やはり幸福だったのかもしれない。
 まあ、そんな七面倒臭いことはさておき、昔も今も変わらない子供の時間――空に泳ぐ鯉のぼりをぼーっとながめているだけで、午後のいっときをつぶせてしまうような『情緒的広がり』、そのあたりならば、たかちゃんたちに維持してもらうのは、現代でも可能だろう。


05月04日 木  無能者の弁

 しかし俺も人の文章になんやかや言う割には日本語なんてろくに知らんのよなあ、と、頭を抱えてうずくまる。
 『土手』という単語を、生まれてからつい先日まで、誤って使っていた。これはあくまでも平地に意図的に盛り上げられた堤であって、自然の渓谷の横などにちょっと高めに刻まれた道筋は、土手道ではなかったのだ。もっとも川沿いの地形を無差別に『土手』と表現している例も多々あるのだが、誤用は誤用である。
 よって、たかちゃんたちが歩いている青梅の多摩川沿いの小道は、すべて『土手』ではない。下流の堤防上とはちがい、あくまで渓谷に沿って斜面に刻まれた道である。しかし、いざそうした道を一言で代表できる単語が、どうも見当たらない。崖道と言うほど険しいイメージではなく、なだらかでのどかだし。あわててあっちこっち検索してみたら、観光ガイドなどではたいがい『遊歩道』と表現されている。それだと都会の街中の遊歩道と語感的差異がないのよなあ、と思いつつ、他に適当な単語がないので、『遊歩道』をメインに、適宜修正するしかあるまい。いっそ深山であれば、『渓谷ぞいの山道』で済んでしまうのだが。

 東アフリカの旱魃で、1000万人以上の人が生命の危機に陥っているそうだ。国連の試算では、170億円相当の援助が必要とのこと。自分個人は何もできない。金がないからだ。しかし、170億をひとりで動かせる人物も、この世界には少数だが存在する。1億動かせる人物なら、確実に170人よりケタでひとつもふたつも多く存在するだろう(なにせ自分もその周囲の人間も金持ちの世界に縁がないので、詳しくは判らないが、もっといるのか?)。しかし、その中の大半は、無論そんな援助などしない。しない性格だから、資産を維持できるのである。できないからしないのと、できるのにしないのと、どちらも餓死する人間から見れば同じ見殺しだから、自分もまた無能な傍観者にすぎない。でもやっぱり悔しいので、せめて政府には出来る限り援助をお願いしたいものである。そうすれば納税者の自分は、なんぼかでも悔しさが紛れる。基地移転関係など、国内世論向けにうわべだけ渋っているポーズを見せつつ、その実、日々湯水のようにあっちこっち米軍のため金を使い続けるよりは、日本政府もよほど徳を積めると思うのだが。


05月03日 水  海へ

 午後2時に目覚め窓を開けると、見事な五月晴れ。風も爽やかなようだ。顔を洗ってまずチャリを駆り、6キロ先の、海へ。と言っても江戸川の土手を遡って行き着く先は、どうで東京湾。水平線の彼方はアメリカではなく、湾の対岸、コンビナートである。

 

 それでも、そこに至る土手のあちこちで、G・Wでも遠出できないお仲間たちがバーベキューなど楽しんでおり、時代の流れを感じる。三十何年前に修学旅行で初めて接した頃の東京湾は、常時ドブ川同様の悪臭だったのだから、ずいぶん綺麗になったものだ。高度経済成長期を懐かしむのもいいが、それはあっちこっちの海をドブにしたり空をゼンソクの元にしたりしながら築かれた時代であったことも確かだ。
 現在、中国内陸部などの水質汚染のニュースを聞いたりすると、『豊かになりたい』という気持ちも重々理解しつつ、また種々の社会的齟齬があの広大な自然や素朴な人心をなんかいろいろ乱していくのだろうなあ、と、やはり痛々しい気持ちになる。


05月02日 火  フリマ

 昨日とは打って変わったじめじめ曇天の下、脚萎え防止の散歩に出ると、ご近所の車庫でフリマとやらが開催されていた。文字通りのガレージ・セール、ご近所数件の奥様方が、古着や不要品を並べてわいわいやっている。うちの娘たち(おい)に春らしい運動靴を履かせてあげたかったので、ちょっと覗かせてもらうと、靴の出物はなかったが、そのかわり5歳くらいの女の子と3歳くらいの男の子が、雑多な日用品の中に並んでしゃがんでいた。姉弟だろうか。妙に生真面目な表情でこちらの挙動を見守っている様子が、とてもかわいい。雑貨にも姉弟にも値札はついていないので、思わず「おいくらですか?」と訊ねたくなる。しかし安価に譲ってもらったとしても、やっぱりうちの娘たちとは違い、物理的にモノを食べるのだろうなあ。
 日々新聞の折り込み広告を見ていると、かわいい子供やよさげな奥さんや、二枚目の旦那なども、下着姿で値段が付いている。あれはやはり、あくまでもその着用している下着のみ商品なのだろうが、ときおりキャッチ・コピーや商品名・プライスの表現から、「中身もコミですよね!」とツッコめるケースもある。旦那はいらないが、かわいい子供や腰の温まった奥さんが何千円かでいただけるなら、食費のめどがついたら、一度確認してみたほうがいいかもしれない。

 一昨日借りた大道芸や紙芝居のCD、「声だけ聞くとエラくクドい」などと記してしまったが、繰り返し聞けば演者の姿や周囲の情景なども想像でき、やはりこれだけ大仰に演じないと道行く人の脚も止まらず蝦蟇の油もバナナも売れまいし、日々子供たちに駄菓子を買ってもらうことも出来なかろう。クドさと言うより、今夜の糧を得るための、一期一会の必死芸だったのですね。布目英一氏の解説によれば、落語や映画で見かける洗練された香具師の啖呵売などは、やはり綺麗事であって、実際に路傍で物を売る手段にはならないようだ。
 しかしその一方で、1980年頃の浅草、名人級の香具師相手に、口上の運びがまずいと説教している男がいたので、顔を見たら坂野比呂志氏であった、などという興味深いエピソードも記されている。坂野氏は後年大道芸再現の大家となったが、元はあくまでも漫才芸人である。つまり、大道ではなく舞台の人だ。太平洋戦争末期に大陸慰問に出かけてしまった志ん生師匠や円生師匠一行の苦労話は有名だが、その慰問団を当初率いていたのも、確か坂野氏だったと記憶している。
 路傍でも舞台でも、やはり芸の本質は変わらないのだろう。目の前の人をツカめるかどうか――その点、やっぱりネットは不利か。なんかカキコしてもらわない限り、ウケたのかどうか、いや、目の前に誰がいるのかさえ解らない。


05月01日 月  100円と太陽

 100円ショップのハシゴをする。
 入浴剤は毎日使用するものなのでなるべく安価に抑えたいが、でかい容器のものだといつも同じ香り・色になってしまってつまらないので、普段はダイソーの6袋入りを何種類か交互に楽しむ。しかし、どうしても薄目だし、濁り湯タイプと謳っていても、かろうじて透明ではない程度の濁り具合だ。京成線の駅ビルの100円ショップまで足を伸ばせば、4袋入りで本格的に濁るタイプも入手できる。シェービング・クリームは、ダイソーのチューブ入りが快適だ。何百円もするブランド品よりも、子供の頃父親が使っていたような感触・香りで、よほど髭にもしっくりくる。シャンプーも近頃ダイソーで、詰め替え用のでかい、しかも我が狸毛に案外馴染むのを発見、たいへん重宝している。缶詰は、JR駅前の流行らないSCに入っている100円ショップがいい。各店定番以外にも、他では扱っていない味付けウズラ卵や、ちゃんとしたコンビーフを、常時扱っていてくれる。またレトルト食品類も、各店でスポット的に意外なお買い得が出ることがあるので、気が抜けない。以前はJR駅前の店のキーマ・カレーがお気に入りだったが、在庫が終わってしまったので、今はダイソーの和風カレー丼がお気に入り。肉がほとんど入っていない欠点は、卵で補える。
 それにしても、帰途が暑かった。荷物が重かったのではなく、実際30度まで上がったのだそうだ。
 太陽の光に悪意を感じ始めたのは、十数年前からだったろうか。冬の陽差しなどはまだいいが、春や初夏の爽やかな陽差しが年々歳々減っていき、からりと晴れたら最後、やたらチクチクときつい光が肌を刺す。歳の所為ではあるまい。明らかに紫外線そのものがキツくなってきているのだ。
 まあ、100円でこれだけの品物が買えてしまう時代なのだから、多少の天変地異はやむをえまい。三十数年前、父親が何百円も払って使っていたシェービング・クリームを、今の自分はわずか100円で使わせてもらっているという事実、それと地球温暖化は、けして無縁ではないのである。