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06月30日 金  お買い物狸

 うああああ、この前3個パック288円で2パック買ってしまったレトルトご飯、今日は198円で売ってやんの。店頭では、明日から値上がりの煙草をカートン積みで扱っているが、あれって嫌煙団体からクレーム入ったりしないのかしら。もはやまとめ買いする気力もない、その日暮らしの私ですが。いっそ予備校時代に吸っていた『わかば』か『エコー』に戻ってしまおうか。『しんせい』や『ゴールデンバット』だと、両切りで吸いにくいからなあ。いや、どこかで安いキセルを見つけ、『しんせい』を吸い殻まで残らず吸うという手もあるか。
 などとモノによっては10円単位でしみったれつつ、スーパー店頭の古本市(雑本処分)で、思わず古めかしい『海底軍艦』や『伊豆の踊子』を買ったりしてしまう馬鹿は私です。いや、無論どこにでも転がっている、ほるぷ出版の安価な復刻本なのだが、それにしても前者が300円で後者が600円というのは、安すぎないか。まあ安いのにはきちんと理由があり、昭和後期の復刻本なのによほど元の持ち主に無造作に扱われたか、古本屋に売却後も店頭でのんびりひなたぼっこしていたと見え、かなり変色している。匂いも、いかにも正しい『古本』の匂い。しかし元本が明治や昭和初期のものだけに、かえって美本より、時代の雰囲気が味わえる。
 で、そこでいざ900円も予定外の出費をしてしまうと、もう精神的歯止めが効かずにスーパー内に戻り、鰻の蒲焼きなども追加購入してしまった馬鹿はやっぱり私です。でも、中国産でしかもタイム・セールで2割引、でっけー鰻さんがまるまる1にょろ600円でお釣りが来たりする。早くも夏バテ気味の狸体に良かろうし、抗生物質などもしこたま含まれているらしいから、扁桃腺の炎症予防にも良さそう。


06月29日 木  ゆく川の流れ

 本日は光化学スモッグ警報が響いてこない。蒸し暑さはあいかわらず完璧だが、けっこう風があるらしい。
 週末はまた梅雨に戻るらしいので、晴れているうちに昼間徘徊しておこうと、チャリにまたがり江戸川へ。土手の上を風に吹かれるまま、上流方向へチャリチャリと走る。蒸気のように湿った風でも、それに追われるままなら案外爽快だ。
 河川敷で、女子中学生らしい一団が、白いミニスカ(?)で応援の練習をしている。ああ、なまんだぶなまんだぶ。おじさんの乾き疲れた瞼の裏側が、潤うよ潤うよ。
 ふとチャリを止めデカビタで一服すると、岸辺には若い母親とちっこいろりが睦まじく腰をおろし、川面を眺めながら談笑している。今日の江戸川はとても穏やかで、風は常に下流から上流に向かって吹いているから、波もまたひたすら下流から上流に遡り、まるで川自体が海から内陸に向かって流れを変えたような錯覚を与える。幼い娘ときゃあきゃあ戯れる母親も、いっとき時を遡り、子供の昔に戻っているのだろう。しかしその健やかな母子像は、けしてそれを眺める中年男(俺や)のように退嬰的なものではない。あくまでも正しく、深い山から広大な海へと流れ続けているのだ。風の悪戯に関わらず、川自体はあくまで海に向かっているように。
 ふたつめの橋を過ぎたあたりで、帰途に着こうと方向転換。ここであらためて己のヌケっぷりを痛感する。けっこうな風に吹かれるまま走って来たということは、帰途はその風に常に逆らって走らなければならない。あたりまえだ。数分にして全身汗に濡れそぼり、いっそ入水して流れて行きたくなるが、今日はチャリだし、一見それほど濁っていない川水も、所詮生活排水たっぷりの江戸川の水だ。

 ことほどさように、自堕落な生活は、行きは良くとも帰りはアレだ。真に自由な生活を志すなら、どこにも戻らない覚悟が必要なのだろう。


06月28日 水  すでに夏ボケ

 普通このあたりの梅雨明けは7月後半だろうとツッコミつつ、昨日も今日もぶよんとしてしまりのない人間にはキツい蒸し暑さである。
 光化学スモッグの注意報が流れる中、どんよりとした頭で買い物に出ると、たかちゃんたちがいつのまにかいっしょに歩いており、なんだか道端の諸物や人や犬猫などを、かたっぱしからわしづかんで回っている。光景としては大変おもしろいのだが、ちょっと作品の主柱にはなりそうもないので、一趣向として見守る。しかし、いきなりセーラーの夏服のお尻をわしづかまれてしまった女子中学生たちなどは、当然ただならぬ悲鳴を上げるものの、相手が幼女だと判ると、なんだか大笑いして許している。ああ、自分も幼女になりたい。
 買い物前に図書館に行くと、なんとおとついから七夕まで、館内整理のため長期休館とある。この前借りた馬生師匠の落語を早めに返して、今度は円楽師匠の落語を借りようと思っていたのに、あてが外れてしまった。そういえば前回分の返却期限が、やけに長かった。当然その時、休館の予告の貼り紙などもあったのだろうが、気づかなかった。別に暑くなくとも、湿気がある限り、どんより頭なのである。
 いつもの公園に行き、いっとき、ベンチでたれる。たかちゃんたちは、今度はなにか地面を見下ろしながら、あっちこっちうろつき回っている。どうやら蟻を追跡しているらしい。そのうち蟻にくっついて、花壇と地面のブロックの境目に開いたちっこい穴に、潜って行ってしまった。おお、たかちゃんたちは伸縮能力まであるのか、などと、ウツロな頭で感心する。戻ってきたら蟻の国の様子を聞かせてもらおうと思ったら、いつまでたっても戻って来ない。どうせそのうちおなかを空かしてひょっこり戻って来るはずなので、買い物をして帰宅。

 とゆーよーな、汗まみれの脳味噌に往生しつつ、今年初めて西瓜の切り身を買った。


06月27日 火  運とアマチュア

 バラエティー番組や美容整形には疎いので、そのセレブな娘さんやお母さんはまったく知らなかったのだけれど、とにかく今回の誘拐事件、無事に戻ってなによりである。犯人はなんじゃやら日中韓混成のメンバーのようだが、やはりちょっとまだ協調・連携に無理があったのか、あるいはただのアマチュアだったのか。他国を誹謗中傷する気はまったくないが、どこぞの国では若い女性が誘拐されると、純営利誘拐でも大概無事には帰宅できないようなので、今回の捜査陣の活躍は、たとえ相手がかなりヌケていたとしても、まずめでたい。ちょっと間違って隣のマンションに突入したりもしたのも、無事解決してしまえば笑い話で済む。
 やはりアマチュアが営利誘拐ででかいヤマを踏むのは、極めて困難らしい。無差別に殺すだけなら、ただの既知外や便所虫でも完全犯罪が可能だろうが、なんと言っても、営利誘拐の本質は知能犯罪である。しかし過去、人質を殺害してから身代金を要求する、あるいは身代金をまんまとせしめた上で予定通り殺害する、そんなパターンも、プロ・アマ問わず多いようだ。今回の犯人たちが果たしてどんな予定だったかは知らないが、犯行中のんびり携帯使いまくりなどという無教養者であったことは、彼らの不運というより、案外そのセレブ親子さんの側の、運の強さだったのかもしれない。


06月26日 月  生活感

 あ、もうとっくに火曜ですね、などとバックレつつ、午前様でのこのこ帰ってきても、もしやどこぞでなんじゃやらわしづかんできたのではないかと詰め寄ってくるような同居人もいない孤独死候補なので、姉が郷里に頼んで送ってくれたさくらんぼをのほほんとついばみながら、昭和47年の松竹映画『喜劇・誘惑旅行』など、へらへら笑って観ているわけである。いや、本当は同年の『喜劇・怪談旅行』を頼んでおいたのに、ネット・レンタル屋さんが間違って送ってきてしまったのですね。でも、おもしろいので可。フィリピン旅行が一大イベントの時代だったのだなあ。しかしいっしょに頼んでおいた平成7年の『釣りバカ日誌7』は、いささか西田敏行さんのおちゃらけが暴走の気味。公開当時も、同時上映の『男はつらいよ・拝啓車寅次郎様』がシリーズ中ではもっとも大人しくて寂しい(渥美清さんの体調もせいもあったのだろうが)作品だったので、余計違和感を感じた記憶がある。渥美さんやフランキー堺さんは、つくづく人間としての生活感(あくまで銀幕上の)がある。まあ、西田さんの生活感のなさも、うまく制御されれば逸品なのだけれど。松竹の『旅行シリーズ』は、今までほとんど観ていなかったので、ひととおり楽しんでみようと思う。

 ところで、先日やっと実写版『指輪物語』をテレビで観た。かの人体破壊スプラッター怪作『ブレインデッド』で、恐るべき律儀さと誠実さを備えたイマジネーションで大量人間ミンチ化や極悪変形を映像化してくれたピーター・ジャクソン監督らしく、世評どおりとんでもねー豊饒なイメージをCG実景とりまぜて誠実に具現化してくれており、特にクライマックスをほとんど剣戟のみで突っ切る演出力には感心してしまった。ただやはり、昔、人間ミンチや口から拳に快哉を叫びつつ、「内部骨格とかはどうなってんのかなあ」などとツッコむべきところではない些末事を気にしていたおたく(俺や)としては、壮大なファンタジーの中の闘士にもやはり『生活感』がなければ真の『実在感』は難しいよなあ、などと、的外れの無い物ねだりもしてしまうのであった。そーゆー話ではないんでしょうけどね。でも、精神的にとことんマジで重厚な作品だけに、やっぱり気になってしまうのです。


06月25日 日  贄《にえ》

 『広島市安芸区で昨年11月、小学1年木下あいりちゃん(当時7歳)がペルー国籍のホセマヌエル・トレス・ヤギ被告(34)に殺害された事件の判決が、来月4日、広島地裁で言い渡される。これを前にあいりちゃんの父親の建一さん(39)は24日、自宅で、読売新聞社の取材に応じた。まな娘が性的暴行を受けたことを説明し、これまで遺族感情に配慮して性的暴行の直接的な表現を自粛してきた報道機関に「再発防止のために、真実を伝えてほしい。きちんと実名で報道してほしい」と求めた。今月9日の論告求刑公判で、検察は、あいりちゃんが首を絞めて殺される前に性的暴行を受けたことなどを詳細に説明したうえで、死刑を求刑した。(読売新聞)6月25日3時7分更新』。
 ……つくづく、重い話だ。お父さんの身も世もあらぬ哀惜・慟哭・悲憤と、その末の巌のような意思が感じられる。無論、他の事件で同様の立場に立った遺族の方々の多くが、「そっとしておいてほしい」と願うのも解る。しかし、あいりちゃんがもう戻ってこない以上、うやむやな情報では何も先に繋がらない。差別語問題や用語自粛と同じで、ただ言霊を伴わない無念のみが、世に放置されるだけである。

 悲しいかな、この世に生贄は必要なのだ。被害者の話ではない。明白な加害者と、それに石を投げる実名の糾弾者、その双方が種々の局面から贄になり同時に贄を捧げ、先の被害者の誕生を少しでも抑制していくしか、人間などというハンパな生物が生きていく道はないように思われる。
 愚劣な者を見たら、嘲笑すればいい。それが他人であっても自分であっても、等しく嘲笑すればいい。「加害者も同じ人間だ」と、一律の死刑廃止運動や人権擁護に走る方々の多くは、どうも加害者の諸相を曖昧に看過していると同時に、自分という存在まで過度に擁護しているとしか思えない。
 年端もいかない幼女の性器にペニスを挿入しようとする男と泣きじゃくる幼女自身が、よしんばたまたま同じ人間という種の一員であるにしろ、「同じ権利を持った存在」であるはずはない。そしてそれを裁く客観者が、その鬼畜に似た欲望を少しでも抱いているとしたら、自分自身と鬼畜を共に社会的な贄として、泣いてしまった幼女とまだ泣いていない幼女たちのために、捧げるしかないのではないか。

 ――などともっともらしくのべつつ、二晩続けて若い女性のお尻をわしづかみにする夢を見てしまった。けして自己弁護ではなく、なぜか夢の中でも幼女に挿入どころかそのちっこいお尻を撫で回しもできない、小心者の自分である。一昨夜わしづかみにしたのは、デビュー当時の斉藤由貴嬢のお尻であり、同意の上だから年齢的にはギリチョンでセーフ。しかし昨夜は花の中三トリオ時代の山口百恵嬢のお尻だから、同意の上でも立派な犯罪である。いずれにせよモルモン教の神様から天罰を受けたり、三浦友和氏に撲殺されても文句は言えない。
 そろそろどこぞで臨時出費の必要な時期か。チョンガーで引き籠もりの身には、望ましいお尻のわしづかみだけでも、けっこう物入りなのよなあ。そしてそうしたお尻の持ち主の方々も、古来立派な『贄』であり、有難い巫女なのよなあ。


06月24日 土  いつでも夢を

 午後に起き出すと久々の晴れ間で、江戸川の土手を、ぶらぶらと小一時間遡る。その程度ではせいぜい二駅半の移動だが、別にどこかに行こうというわけではないから、ただぼーっと遡る。脳内を現実から乖離させ、勝手にもにょもにょと遊ばせるためだ。
 水上スキーの練習ボートがひっきりなしに川面を往復し、青年が颯爽と滑ったり跳んだりこけたりしているが、あれは汚い江戸川での遊びを楽しんでいるのだろうか。んなこたないよなあ。やはり南国の碧海での本番を夢見つつ、とりあえず濁った都会の川水を浴びたり飲んだりして楽しんでいるのだろう。

 最近母親や幼い弟妹を焼き殺してしまった少年の事件など、漠然と頭に浮かぶ。父親との愛憎が昂じた末の古典的犯行のようだが、また『仮想世代のリセット感覚』などという、決まり文句で括ろうとする論評が巷に飛び交うのか。ならばなぜ少年はその父親本人がいないと知りながら、家に火を放ったのか。「状況をゼロに戻したかった」という意の言葉を漏らしたとも聞く。しかし本当に自分の状況を初期化したかったのなら、パソコンならOSである父親を再インストールしなければ無意味だし、ゲーム機なら父親というシステムのコアごと焼却しなければ無意味だ。――結句、その少年は、当座の現実にしか目の向かない、仮想から最も遠い子供だったのではないか。アプリケーションを替えてしまえば、同一システム環境でも、新しい仮想の道は開けるのに。

 とりあえず南国の碧海で遊ぶ甲斐性はなくとも、それを夢見つつ江戸川での七転八倒を楽しむのも『仮想』の効用だし、水上スキーの講習料も捻出できなければ、やけになって風呂で行水していればいい。水道代も払えなくなったら、橋の下で南国を夢見ていればいいし、それにも飽いたらいっそ富士の樹海に旅立って、適当な枝ぶりを探し、南国の椰子の木のつもりでぶら下がってしまえばいい。自分のやくたいもない狭視野な『現実』に他人を無断で引きずり込むよりは、はるかに理想的な『仮想』だ。


06月23日 金  想像力

 今週ケーブルで録画した物件の中に、たまたま北米圏のスタッフによる日本を素材とした番組が、2件重なった。
 ひとつは『13日の金曜日』TVシリーズの一編で、冒頭にいきなり『1945年 日本』とテロップが現れ、「おうおう、今回の呪物はもしや太平洋戦争がらみ?」と期待したら、いきなり髷と言うより惣髪のサムライが走ったりヨロイムシャが現れたりセップクしたり、昭和20年のニホンはエラいことになってしまっているのであった。あわてて早戻し確認をしても、やはり『1845』ではなく、原版のテロップ自体が『1945』である。まあ、本編はいつものレギュラー陣が現代を舞台に活躍するのだけれど、呪物もテーマもニホンの不思議なバーバリズムと奥深い哲学の神秘と現代国際ビジネス戦線が混然一体となった、おそらく『ライジング・サン』狙いと思われるトンデモの連打。なんぼエンタメ徹底のオカルト・ドラマとはいえ、さすがに大笑い。
 ふたつめは、作家のアンソニー・ボーデイン氏がレポーターを務めるドキュメント『アンソニー 世界を食らう』の日本編で、これはシリーズ共通の主観的でありながら客観的な、いかにもその作家の視線を通した現実が生き生きと記録されている。『食』がテーマなので東京や京都ではなく大阪の取材がメイン、しかし古風な面も出したかったのか木曽路にも分け入り、素朴な田舎の盆行事や昆虫食なども取り上げられている。それも妙にゲテモノ的扱いではなく、それに対する現代日本の若者の困惑なども、ユーモラスに描かれる。それでも世界各国なんでも食べてみようのボーデイン氏は、蜂の子もイナゴも、臆せずに味わっている。
 これら2作の視点の差異は明らかで、要は浅薄な読み囓りを元にまともな資料にも当たらず、適当にその国の文化まででっちあげてしまう『想像力以前』の作劇と、己の感性においてその国の文化を可能な限り知って咀嚼しようとする『想像力』、その違いである。創作物とドキュメントの違い、題材が現実の国であるか異世界であるか、そんな区別は重要ではない。たとえ描こうとする世界が完全な虚構世界であれ現実の国家であれヤク中の妄想であれ、作者は自分なりにその世界を実感できる程度までは把握しなければならない。その把握する力が、『想像力』なのだ。

 何日か前に記した北杜夫氏の『異形』の冒頭に、とても美味そうなコオロギの描写がある。終戦直後の日本アルプスでの話である。たとえばその部分を今回の『13金』のライターが読んだとしたら、「おうおう、シンピとヤバンの交錯する古き国ニホンでは、あんな虫まで食べたのか。終戦の頃のサムライやカミカゼは、よほど貧しかったのだろうなあ」、そんな感慨を持ち、そこからまた摩訶不思議なオカルト話を書くかもしれない。まあとても大笑いできる話にはなろうが、それはあくまで『想像力以前』なので、ホラーにもホラにも達しないだろう。しかしボーデイン氏なら、そのコオロギの味は想像・実感できるだろうし、結果、後に出てくる米軍の携帯食料が、なぜ主人公にとって『大変うまく、うとましいまでにうまいだけに、かえって味気ない思い』であるのか、そこいらの心理も、状況から自然に読み取ることが可能になり、結果、物語全体を美味く味わえるだろう。そして、それをもとにたとえばロッキーあたりを舞台に巧みに換骨奪胎したホラー寄りの心理劇なども組めるだろう。


06月22日 木  お洗濯はきらい

 という訳でもないのだが、ふと気づくとひと月近くコイン・ランドリーに行っていないのに気づき、あわてて押し入れの中の汚れ物をデカ袋ふたつに詰めて進軍。常用のジーパンや上着用のシャツは、時々バケツで洗っているが、毎日入浴のたびに着替える下着や靴下は、押し入れの段ボールに放りこみっぱなしである。しかし従来2週間程度で下着や靴下は尽きたはずだったんだがなあ、と首をひねれば、おお、そうだ、先だって母親の部屋を整理したおり、たまに泊まりに行った時に置いてきた自分の下着類が大量に発見され、回収したのであった。現在の自分は、なんと毎日替えてひと月分の下着や靴下を所有しているのである。物持ち物持ち。
 しかしさすがにひと月放置した下着類は、近頃の高性能コイン・ランドリーをもってしてもなかなかアレなのではないかと思いきや、乾燥機から出てきた下着類は、案外きれいになっている。臭気も残っていない。あらためて、テクノロジーの進歩に感謝する。30年近く前にひとり暮らしを始めた頃は、二週間放置程度の物件でも、汚れや臭気が落としきれなかったりしたものだ。当時の狭い六畳一間と現在の2Kは、サルマタケが生えないという点でさほど湿気や温度に変わりはないはずだし、住人(俺や)は歳をくってさらに汗っかきになっているのだから、これは間違いなく、洗濯機や洗剤が工学・化学的に進化しているのである。下着や靴下そのものも、抗菌処理等で進化しているらしいし。
 テクノロジーという奴は、それが正しい矜持に沿っている限り、やはり人間を豊かにしてくれるものなのだなあ。矜持を逸脱したそれに対する危惧や不安は尽きないものの、プラス面への感謝の心も、忘れまい忘れまい。


06月21日 水  安物買いの薦め

 以前、『只より高い物はない』という諺はあくまで供給する側がなんかいろいろ画策している場合の話であって、貧乏人には只ほど有難い物はないと記した。同じ意味で『安物買いの銭失い』も、さほど人生の真実を突いていない気がする。数千円から1万円近くもする前評判も高い新作エロゲーを買って「金返せ馬鹿野郎!」と叫ぶよりは、処分ワゴンの無名エロゲーから意外な秀作を発見するほうが、じっくり選べば最終的経済効率は上がる。本当にどうしようもない作品は箱で解るし。
 さて、今回豚めしより安かった『在りし日の歌』というエロゲーも、中身は結構なもののようだ。確かにボイスなしの割には話も短い(ほんの二晩ちょこっとずつやっただけで、3人のヒロインのうちひとりぶんが終わってしまった)が、シナリオ自体は特に会話に独特の飄逸さがあり、キャラクターも無理なく立っている。一見よくある伝奇風味恋愛物のフォーマットながら、借り物を越えた作品世界が成立している。何より、ちょっと個性的なリアル系の絵柄がいい。膨らみかけの少女の乳房(おい)など、実在感がありとてもかわいい。
 デフォルメなどというものは感性による現実から仮想への変換作業だから、その変換作業結果自体をなんぼ巧みに過去の作品から真似しても、元の現実をしっかり見ていなければ、絶対に実在感は出ない。逆にその『実在感』さえ掴んでいれば、顔より大きい巨乳だろうが頭頂と顎の位置のズレだろうが、個性として成立する。しかし『顔より大きい巨乳』や『頭頂と顎の位置のズレ』という結果的魅力のみを手本に、ただスタイルとして模倣した場合、そこにはただの奇形しか現れない。シナリオ分野だって、同じ事である。
 昨今、大人が実際のふくらみかけの少女の乳房に触ると多く犯罪になってしまうが、現代っ子ならそれこそ成長過程の実生活上で触ってみるのも可能だろうし、我々のような田舎親父の昔でも、その気になればこっそりじっくり覗く(おいおい)手段くらいは講じたものだ。そうした向上心(おいおいおい)は、結果としての創作物の商品価値判断とは無縁な場合が多いから、実際巷にはスタイルを模倣した奇形が、目立つところに溢れたりする。だから案外、道端の只の物や捨て値の安物に、『実用価値』があったりもするのだ。たとえばシーズが活動休止した前後、結構な数の秀作が捨て値であちこちに並んだ。クセはあるかもしれないが、実に興趣に溢れた作品群だった。
 しかしなんでいい歳こいてエロゲー屋の中古ワゴンなど物色するのかひとこと言い訳させてもらえば、あの世界には昔の日活ロマン・ポルノやピンク映画に似た匂いがあるのですね。無論経営側の大半は、大手映画会社の隙を縫ってそこそこ商売するために出資するのであり、制作現場も大半そこそこ適当に撮っているだけだが、中には『エロ・シーンさえ一定量挿入すれば、あとは何やってもOK』的ノリの異才や、若手の萌芽が散見される。
 同人やネット上の創作物にも、同じ匂いがしますね。まあ、大半は『そこそこ適当にやっている』のだろうが、それはそれで意外な掘り出し物があったりするのです。


06月20日 火  Z級ぐるめ

 松屋の豚めしは、なぜこれほど旨いか。ここ何年か、とことん腹が空かない限り物を食わないからかも知れないが、舌の調子のいい時など、つくづく生きていることの幸福を感じるほどの旨さだ。ウン10年前、予備校通いのため仙台に越した時、初めて吉野家の牛丼を知った頃の味覚が、戻ってきているのかもしれない。もうひとつ、最近見つけた旨いものに、上野駅前のアメ横入り口近く、カレー屋『クラウン』のカツカレーがある。ほとんど汁だけのカレーと薄いカツが、秋葉原駅構内のソバ屋のカツカレーとはまた違った、独特の風味があってやみつきになっている。480円。大盛り550円なら腹もパンパンに膨れる。
 不思議なもので、昔ちょっとは食ったどこぞの老舗の馬鹿高いなんたらは、ほとんど食いたくならない。テレビの旅番組などであっちこっちの仮想旅行を楽しむのは大好きだが、とれたての魚介類やら高原なんたら料理を見てもさほど羨みはせず、せいぜい翌日かっぱ寿司に生きたくなる程度だ。二かん一皿100円の鮭でも縁側でも、やはりほっぺたが落ちそうに旨い。当方脳内の浪漫だけは失っていないつもりだが、どうやらベロのロマンは死滅したようだ。いや、人はあくまでパンのために生きるのであり、それこそが味覚というロマンなのではないか。……単に貧乏舌なだけか。
 それでも夜中の空腹時などしつこく頭に浮かぶのは、山形は『染太』の鰻と、高崎の『上州舞茸弁当』である。……単に田舎舌なだけか。


06月19日 月  雑感

 どーだざまーみろ丸善に行きゃ入り口のすぐ横にどーんと各種あるんだよ、などと言いつつ、まあキャバの街とお茶の水をいっしょにしてはいけないか。10枚入り200円の透明ブックカバーを2種、ためしに購入。運動不足解消を兼ねて、なんかいろいろの帰途、上野から秋葉原、そしてお茶の水まで歩いたのである。途中のアキバでは、中古ゲーム店の投げ売りワゴンで、たった280円の未開封エロゲーを見つけ、よくあるどこかの一発こっきりゲーム・ハウスの整理処分品かと思い手にとってみると、監修は鷹取兵馬さんとある。シナリオではなく『監修』というのがちょっと引っかかるが、題名も『在りし日の歌』などと、なんか中原中也狙いっぽい。もはや何千円もする新作エロゲーなど購入する余裕もないが、新品で280円なら豚飯より安い。発作的に購入。ボイスは無いようだ。それで投げ売りなのか。キャラの絵は個性的で好感が持てるのだが、どうもエロゲーで『個性的』という線自体、売れ筋から遠いようだ。

 それにしても、暑い。あづいようあづいようと歩いていると、今度は道端の100円均一古書ワゴンで、北杜夫氏の『星のない街路』の文庫を見かける。何ヶ月か前に図書館で朗読CDを借りた作品で、その文庫は高校時代読み耽っていたが、実家とともに消滅してしまった。氏の初期短編集で、確か大好きな『異形』も収められている。『異形』という作品は、たとえば三島由紀夫氏の短編『新聞紙』のように、幽霊も超自然現象も出ないが心理的にとても恐い短編で、なんでこうした傑作が各種アンソロジーに収まらないのか不思議なくらい完成度が高いと、個人的に思っている。暑いときには恐い話がいい。これも購入。店頭ワゴンの100円だけあってすでに変色し、端から茶色く炭化しかかったような風合いが、かえって好ましく懐かしい。
 思えばその『異形』の骨子は、北氏が『どくとるマンボウ青春記』などにエッセイとして書いた旧制松本高校の笑い話的挿話が元になっているのだが、同じひとつの事象を飄逸な大人のユーモアと鬱屈青年心理小説の両サイドから捉えられるマルチアングル感覚こそが北杜夫世界の真骨頂で、当時はそんな二面性からファンも『どくとるマンボウ派』と『純文学派』に分かれるなどとマスコミで言われたが、自分や周囲のファンは、そのどっちも備えた方だからこそ敬服していたのである。ユーモアも鬱屈も、同じ事象の両面なのだ。

 帰宅後ゆっくり朝刊に目を通すと、広告に落語家諸氏のCD集の特集があり、桂歌丸師匠の『真景累ヶ淵』全5枚に、なんと最終話『お熊の懺悔』が収録されている。広告にあるように、原作の大円朝以外、演った方は皆無なのではないか。円朝物をライフ・ワークとした故・円生師匠も、そこまでは演っていない。ぜひ一度聴きたいものだが、CDはバラでは売ってくれない。そして当方、けして歌丸師匠のファンではない(す、すみません)。……こーゆー時は、会社辞めるんじゃなかったなあ、とつくづく後悔したりする。定額の収入もボーナスも皆無だ。同年代の知人の誰よりもビンボだと、胸を張って言えてしまう。


06月18日 日  ブックカバー

 そうか、原価400円もかかるカバー印刷は省略し、透明ビニールのブック・カバーでも被せれば、強制見せびらかしや押し付け謹呈も低コストで可、と思い、どこでも売っているはずのブックカバーを物色に出る。――ありません。いや、大型書店の文具部やアニメイトやネット通販など、あるところでは各サイズなんぼでも売っているはずなのだが、地元の本屋や文具店ではほとんど在庫なし、あってもA5以上、しかも厚さ調節不可でたった2枚入りが100円、そんな非・実用品しか置いていない。100円ショップならあるだろうと思いきや、なんでか馬鹿でかいのしかなく、A5やB6がない。文庫・新書用もゴワゴワの物件しかない。需要がない? んなこたないよなあ。これは思うに、市役所所在駅でありながらやくたいもないキャバの呼び込みばっかりで、大型書店や大型文具店は皆無という、地域性のためではなかろうか。
 まあ、なんかいろいろのついでにどこかで仕入れればいいだけの話だが、酒くらってくだまく合間にちょっとは文化的活動もしろよ、などと、改めて現在の地元に愚痴をこぼしたくなる実態なのであった。ヤーさんの実弾飛び交う地方都市などにも住んだ事があるが、まだ地域社会ひっくるめた文化的バランスは、とれていたように思うのですね。女児の敵の横行なども、きっとバランスが関与しているのだ。


06月17日 土  指定バトン?

 設問の『』の中を指定して答えてもらう、そんなバトンらしい。C・C様による当方への指定は、『ゲイではなく芸』だそうだ。なぜ『ゲイ』ではないのか。『ろり』ではいかんのか。『芸』には、とにかく推定ひゃくおくまん種の『芸』があるので、一概にはお答えしにくいのである。

(1)最近思う『芸』

 ――そうだ、志ん生だって、文楽だって、あの無愛想な可楽だって、〈芸〉だの〈描写〉だのと言う前に、まず、観客を幸せにしてくれたのである。ぼくも歳をとったから、〈観る人を幸せにできる〉かどうかが、芸人の基準だと考えるようになった――注・小林信彦氏のエッセイより、まんまコピペ。
 笑うこと、泣くこと、怒ること、共感すること、反撥すること、深く考えること、なーんも考えないこと――それらすべてに『幸せ』を感じるのが可能な以上、小林氏に双手を挙げて共感。

(2)この『芸』には感動!!

 若い頃は嫌いだった三代目・林家三平師匠の『源平盛衰記』のビデオを近年観て、笑い死ぬかと思った。若い頃は狭視野だったので、師匠のサービス精神を『笑いの強要』と勘違いしていたのだ。
 
(3)直感的『芸』

 うーむ、設問の意味が捉えがたいのだが、優れた芸人さんの共通点は、直感力ではなく感応力のようだ。どんなタマを投げるかも重要だが、相手によってどう投げるか、みたいな。大したことのないタマでも気持ちよく打ち返してもらうか、グウの音も出ないように剛速球で投げきるか、あるいはペナルティー覚悟で急所を直撃とか。なんにせよ、相手あっての勝負ですね。

(4)好きな『芸』

 お笑い・シリアス問わず、舞台や銀幕からはみだして、こっち側まで侵食してくるような芸が好きですね。その次に好きなのが、こっちから舞台や銀幕に引きこまれてしまうような芸。

(5)こんな『芸』は嫌だ!

 舞台の上や銀幕の中で、芸人が勝手になんかやってるだけの芸。無神経に客をイジる行為も含みます。まあ、それは芸ではないか。

(6)この世に『芸』がなかったら?

 社会自体が腐ってくる。大人が『腹芸』できなくなるので。

(7)次に回す人、5人(「指定」付き)

 だから穴の奥なので、一度引っ張り込んだら放しません。


06月16日 金  こんなのができる

       

       

 で、カバーのデータ(画質は現物より落としてあります)。もちろん中身まで一切合切自分で組んで、PDF化してアップロードするわけです。あらかじめの定型柄などはありませんが、もちろん原稿のフォーマットは事前にダウンロードできるので、ワードや、アドビのフォトショップやイラストレーターや、その他DTPソフトがあればOK。それらの労力を厭わなければ、今回カラー1ページモノクロ263ページカバー付きB6判で、一冊のコストが2643円。ちなみに前回A5に組んでカバーを奢らなかった時は、2241円。ただしその時は文字のポイントをでかく誤ったので、A5に9ポイントでみっちり組めば、たぶん2000円を割るでしょう。文章系なら、原稿用紙で540枚の長編が、こんなもんで『一冊だけの本』になります。ちなみに100冊以上から割引があり、1000冊越えると半額だそうな。
 当方けしてこの会社の回し者ではありませんが、好物の『とびきりそば』同様、ちょっとフンパツすればここまで手軽にホコホコできる嗜好物件は、他の印刷・製本屋さんや自費出版の会社には、まだ見あたらない模様。


06月15日 木  質感

 紙、白きがゆえに尊からず――いや、例のホンニナル出版(正確には、印刷・製本)さんに頼んでおいた、試作品第二弾(正確には常にオンデマンドなので、試作もホンコも関係ないのだが)が到着。ポイントを小さくしB6版にサイズ・ダウンしカバーも付けてもらってコストが上がったぶん、だいぶ『普通の書物』っぽくなったが、やはり紙質や印刷方式の差は残る。コミケで売られる同人漫画と一般漫画誌の質感の差に似て、量産本の『ギリギリの紙にバシバシ刷りました感』というのは、かえってイキオイが感じられるのですね。とはいえ一冊単位で刷ってくれるシステムに贅沢は言えないので、もう一息原版自体をいじくろうと思う。
 しかし、ちょっとずつ見た目や中身の違う自作の製本物件が増えて行くというのは、もはやつくづくフィギアの世界。いっそ実用になる程度の安価な個人向け製本機を、どこかで売ってくれないか。まあ、その場合本格的にやろうと思えば、最終的な仕上げにあの「ずっこん!!」という断ち落とし作業が必要となるので、指だのなんだのいっしょに断ち落とすおたくが続出、あちこっち血まみれになりそうな気もするが。ああ、でも、コミケに行くと、文章系にはぶよんとしてしまりがなくかつ指の短いお兄さんがずらり、なんてのも、味があっていいですね。


06月14日 水  えんがちょ

 日々自宅外の喫煙可能な場所が減少し、そのうち喫煙もアングラ化しそうな今日この頃、愛煙家の皆様はいかがお過ごしのことでございましょうか。まあ、全面販売禁止はナシのようなので、とことん分煙していただければ、かえって生きやすくなるのだが。愛好が嗜好ならば、愛好しないこともまたただの嗜好。なお、何度も言うように当方排ガスの臭いが大嫌いなので、『嗜好車』は全部地下に『分道』でも作って走らせていただければ幸いです。本当はどっちでもいいんですけどね、なんか、シャクなので。……いかんいかん、子供の『えんがちょ』と同じレベルになってきた。

 麻生外務大臣はこれまでの外務大臣と違い、ドミニカ移民の原告の方々と会見したおり、ずいぶん柔軟な対話を交わしたようだ。裁判で勝ったため世論的な余裕が出来たのか、あるいはとことん育ちがいいので鷹揚なのか(なにせ大久保利通や吉田茂の家系に繋がり、麻生財閥の御曹司であり、姻戚は宮家にまで及ぶ)。なんにせよ、その日をただ食って生きるためにのみ生き、あるいは死んだ人間のことも、きっちり考えていただきたい。財閥も国も、それら個人と結局は『繋がって』いるのだ。立場が実感できないからといって、問答無用の『えんがちょ』はいけない。

 指揮者の岩城宏之さんが亡くなられた。当方残念ながら氏の指揮者としての真価は感得できない未熟者だが、氏が残された数多のエッセイ集はほとんど読ませていただいており、専門分野から演歌や世相まで至る『物事の感じ方』には、随分教わるところが多かった。とにかく良い意味で、古き革袋に新しい酒を盛れる方だった。
 もっともその表現の元祖・新約聖書のマタイ伝では、『古き革袋に新しい酒を盛るな』であり、古い革袋は硬化して脆くなっているので、新しい葡萄酒を入れると膨張破裂して袋も酒も無駄になってしまう、そんな意味らしい。しかしまあ、その新しい革袋が古い革袋と同じ耐用性を持っているかは古くなってみないと判らないわけで、実は脆弱で翌朝見たらもうだだ漏れだった、そんな可能性もあるから、それだったら練れた発酵能力を持つ古い革袋に新しい酒を入れてみて、わくわくと膨張破裂を待ってみても、きちんとその下で口を開けて待っていればOK、そんな気もする。


06月13日 火  トロロアオイを食べる猫

 図書館とSCの間に、ちょっとした公園がある。SCの名を冠した社などもあるから、元は神社の敷地だったのかもしれない。花壇やベンチが設えられており、ベンチには灰皿も備わっているので、ときおり一服、ぼーっと花壇を眺めたりする。ろりや若い母親などの買い物客は、多くSC寄りの洋風広場で一休みするので、その小公園には、たいがい老人しか休んでいない。その代わり、古風な体型の女性やろりのブロンズ像が立っている。
 今日も図書館を漁って、トーマス・マンや川端康成の朗読を借り、その公園で一服していると、花壇の横に、社の方から一匹の成猫が姿を現した。一見ライトグレー系の斑に見えたが、よく見れば濃灰色の毛並みが、汚れくすんで斑になっている。野良猫のようだ。しかしさほど痩せてはおらず、こちらと一瞬目が合っても、ふん、と無関心を貫ける程度に、まだ余裕と自負のある野良らしい。猫はのっそりと歩を進め、そのまま公園を横切りかけたが、ふと、ある花壇の上に飛び乗った。そして花のない草の根もとをふんふんと嗅いでから、掘り起こし、おもむろにむしゃむしゃと食べ始めた。草の根を食う猫は、滅多に見ない。しかし腹具合のおかしい時など、雑草を食って吐き戻すとも聞く。猫は少量の根っこを腹に収めた後、また泰然と公園を横切り、テニス練習場の方に去って行った。まだ吐き戻す様子はない。しばらくたってから吐き戻すのだろうか。それとも、ただその植物の根っこを、食ってみたくなっただけなのだろうか。
 興味を覚えて花壇の説明書きを見に行くと、『トロロアオイ』と言う植物だった。根っこをすりつぶすと粘りがあるので、和紙をすくときに混ぜるのだそうだ。なにやら薬効成分もあるらしい。薬効の詳細までは記していなかったので、帰宅して調べたら、漢方では黄蜀葵根《おうしょっきこん》と呼び、胃潰瘍や胃炎、また煎じてうがいをすれば喉の痛みや扁桃腺炎に効くとある。マ、マジかよ、おい。あの野良猫は、どこで漢方を教わったのだ。腹の中で和紙をすいている訳ではあるまいし。
 単なる気まぐれか、あるいは親から教わったのか――いずれにせよ、ううむ、野良猫、侮り難し。 


06月12日 月  なしてここに?

 いや、継続しようかどうかまだ迷っている状態で、表や外に出すのもはばかられるもので。こんなプロローグの話で、続きに引っ張れるかどうか――いや、だいぶ以前に見た夢の仮想史劇の闘技場シーンから、芋蔓式に広がってしまった夢想なのですが。


  蒼天の盤

    

 勇者の塔盤を揚《あ》げよ――。
 皇帝の命が下った朝、宮廷庭園の地下に暮らす数百の奴隷たちは、色めき立った。
「……乗る勇者は、カイアス様でございますか? それとも――ガルディオス様で?」
 奴隷頭の老人が、伝令の兵士におずおずと訊ねる。
「それをお前たちに告げる謂われはない」
 兵士はしかつめらしく言い放ったのち、
「しかし、それでは塔盤を揚げる腕にも、力が籠もり難かろう」
 やや頬を緩めて続けた。
「その、両者」
 おう――果て知れぬ石窟のような地下階が、無数の吐息で微妙に震えた。
「乗るのがひとりでもふたりでも、あの塔では、揚げるきさまら同じ苦労だろうがな」
 奴隷達の頭上およそ一チェーン(約二〇メートル)に穿たれた天窓から漏れこむ無数の光の糸を斑に受けて、彼らの背後、一スタディオン(約一八〇メートル)に及ぶ円形の地下階のほぼ中央には、奇態な鋼鉄の円柱が鈍色に輝いていた。
 その差し渡し半チェーン(約一〇メートル)ほどの円柱を取り囲むように、倍の直径、しかし高さは壮丁の背丈ほどしかない円形の柵が、床に穿たれた溝《レール》に沿って据えられている。その回転柵の外周には数十の縋り棒が突き出しており、奴隷達はその棒を押すことによって柵を回し、柵と円柱の間に設えられた無数の歯車やカムを介して、結果的に中央の計り知れぬ重さの鉄柱を、一定方向に急回転させることになる。
 しかしまだその鉄柱自体は、螺子《ねじ》に例えれば雌螺子、つまり回転するナットに過ぎない。今はその内部と地中深く隠れている雄螺子――直径わずか一〇フィート(約三メートル)、しかし長さは無慮半スタディオン(約九〇メートル)にも及ぶ『塔盤』を、地中から宙空に押し上げ、支えるためにのみ存在する。
「いずれにせよ次の統将軍は、きさまらと同じ奴隷上がりか、山賊上がりということさ。下手をすると、次の帝位にまで昇るかも知れぬ。まったく妙な時代になったものだ」
 そう言いつつも、兵士の顔にはまだ微笑が浮かんでいた。その兵士自身も、元はエーゲ海に浮かぶ孤島の牧童上がりである。二百余年に渡る南欧一帯の戦乱が、そんな治世を産みだしていた。知力あるいは闘争力、そのいずれかが際立っていれば、年齢や出自にかかわらず世に立てる。その両者が備わっていれば、為政者にまで昇れる。
「昼には、盤上の戦が始まる。せいぜいカイアス様の勝ちを念じながら、塔を揚げろ。まあ俺なら、できればあの豪儀なガルディオス様の下に就きたいが、カイアス様とて稀に見る智将、命を預ける器量はある」
 踵を返し立ち去る伝令に、数百の奴隷は揃って平伏した。
 やがて顔を上げた長老は、指示を待つ壮丁たちに告げた。
「念じることは、あながち無駄でもなかろう。塔盤は人の覇気と勢血を計る神柱ぞ。カイアス様が生きて降りれば、われらの末にも、光がさそう」
 おう――先ほどとは違った奮いの声が、石窟を震わせた。

    ◇          ◇

 トロイアと呼ばれるその都市国家を、ヨーロッパ南東部・エーゲ海の北東に位置する、現トルコ北西部と表現するのは、必ずしも正しくない。古代ギリシャ自体がアフリカからの移民によって築かれた世界であり、むしろ大ナイル河を中心としたアフリカ世界の北部――当時としては、そんな認識だった。
 しかし本当にこの世界が、かつて自分の住んでいた二十世紀後半、昭和の日本に時を経て繋がっているのか――丘の神殿に続く大理石の石段を歩みながら、白衣のカイアスは、すでにそれをほぼ否定していた。
 当初その齟齬は、十年前、甲斐飛鳥《かい あすか》という十六歳の少年が、数奇な時の悪戯によってカイアスと名を改めた時点から、始まったものかと訝《いぶか》っていた。しかし今は、その遙か以前から、オリンポスの神々が実在し君臨する異世界であったのではないかと推測している。いずれにせよ、彼の知る古代史では本来ギリシャ勢に大敗を喫すべきだったトロイアを、前年彼が勝利に導いてしまった時点で、カイアスと甲斐飛鳥の連環は、永遠に断たれたと覚悟するべきだろう。
 それもまた良し――エーゲ海を南西へと吹き渡る夏の季節風《メルテミ》に漆黒の髪をなびかせながら、カイアスは背後に従う数名の腹心たちを見返った。
「俺が負けたら、すなおにガルディオス殿に従え」
 気負いも諦念もない、水のような口調だった。
「お戯れを」
 先頭の屈強な青年――甲斐飛鳥がこの世界に時を移した当初から、良き友であったディミトリスが笑った。
「カイアス様は戦のたびに、負けた後の算段ばかりなさる。そのくせ、一度も負けた試しがない」
 他の腹心たちも、声を合わせて笑った。
 それはこの時代の戦いが、人間個人の力と情の集積によって動くからだ――カイアスは内心、吐息した。そして、かつて前世、いや、後世に生きていた頃の、社会不適応児童として嘗めた苦い日々の『理不尽さ』を思い起こした。
 かつていた社会では、理想という絵図面が、それが純粋であればあるほど非現実なものとして排他された。非凡な者も平凡な者も、いや、落ちこぼれの不良でさえも、偏狭なシステムの間を要領よくくぐり抜けて、初めてなんらかの居場所が得られる。しかしこの世界では、むしろ原理的理想をこそ、社会自体が求めている。
 無論古代とはいえ、俗人の欲や意地汚さに変わりはない。ただそれが、あくまでも人智・人情・人力によって動いている。たとえば権力や富を求める者は、あくまで株価や預金高などと言う経済システム上の幻影ではなく、実体としての貴金属や農畜産物を、物理的管理下に置かなければならない。そこにおいては、人の命も力も、常に数値ではなく実体である。この社会には、未だに安定した通貨さえ生まれていない。それが『未開』であると言うなら、二十世紀はすでに『末開』だったと言っていいだろう。
「それは皆、お前達のおかげだよ。俺はただ、お前達を信じて図面を引いただけだ」
「その図面が、神技」
「買い被ってくれるのは嬉しいが――なにしろ、今日の戦いは俺ひとり。お前達も、俺の剣の非力さは知っていよう」
 十年に渡るこの世界での生活は、確かに昭和の虚弱児童を、ある程度の闘士に変貌させていた。しかしガルディオスのような生まれついての闘士に、力で敵うはずもない。
「まあ、お好きなだけ弱音を吐きなさるが良い」
 ディミトリスは、なお笑った。
「カイアス様は弱音を吐けば吐くほど、勝ちが早い。賢い証拠だ。察するにあの木馬の戦《いくさ》以来、アテナの御加護は、カイアス様に有り。また聞くところによれば、『勇者の塔盤』を生きて下りられるかどうかは、蛮勇よりも神意。アレスの守護を標榜するガルディオス様になど、負けるはずがない」
 ギリシャ神話上、知力と戦いを同時に司る女神アテナは、確かに軍闘神アレスよりも強者とされている。
「その上アテナは、なかなか優男《やさおとこ》好みとも聞きまする。カイアス様を知るまでは、敵の色男、オデュッセウスに与《くみ》されておったとやら」
 カイアス――甲斐飛鳥も、長い鍛錬によって無駄のない筋肉を身に付けたとはいえ、地中海人種とモンゴル系の民族差は残る。配下たちよりも頭ひとつ小さく、骨格自体も先天的に痩せている。しかし屈強な兵士達は、あくまで自ら従った智将を信じ、屈託のない笑顔で見おろした。この世界において『守護神』は概念ではなく、明らかに天上に棲む『上位の意識体』である。
「なるほど、それなら、蚤も獅子に勝つ伝手があるか」
 カイアスは、また水のように笑い返した。
 いずれにせよ、彼は男としての本懐を、すでに一度果たしていた。生まれて初めて愛した娘を、神々の呪いから解き放ったのだ。
 以後の行く末は、在るがままに在ればいい。

                               〈続く?〉


06月11日 日  雨のひきこもり

 『ライブドア事件でも学生の起業意欲は衰えず、前社長堀江貴文被告(33)は「尊敬する起業家」の4位−。立教大学(東京都豊島区)が学生を対象に行った意識調査で11日、こんな結果が出た。アンケートは5月中旬、企業経営に関する講義がある同大の経営、経済、社会の各学部に在籍する学生789人に実施した。就職数年後も含め、卒業後に起業を考えている学生は約4人に1人の27%。ライブドア事件の起業意欲への影響については、「減退しない」と答えた学生が89%に上り、11%だった「減退した」を大きく上回った。尊敬する起業家トップは松下電器産業創業者松下幸之助氏で113票。2位はソフトバンクの孫正義社長で99票、3位はマイクロソフトのビル・ゲイツ会長で84票。堀江被告は56票を集め、5位のホンダ創業者本田宗一郎氏(44票)を上回った。(時事通信)6月11日15時1分更新』。……今回の村上ファンドの一件で、少しはホリエモン君の評価は下がったかな? しかし『尊敬』という言葉の対象にも、色々なタイプが入るのだなあ。『尊敬』という言葉の『畏れ多さ』が薄まって、『立ち位置への羨望』や『解り易さ』が濃くなっているのか。

 終日の雨だから、と言うわけでもないが、一日引き籠もりっぱなし。ごひいきヴァル・キルマーの『セイント』再見、渋めのサスペンスとロマンスにご満悦。これ見よがしのドンチャン・アクションはないが、そのぶん世界が濃い。続いて、ケーブルで録画した市川雷藏の『化け猫御用だ』なる軽めの時代劇と、柳家金語楼の『おトラさんのお化け騒動』を、なんかいろいろしながらほよほよと楽しむ。気分はすっかり浅草あたりの、雨の名画座。


06月10日 土  『あの歌この歌』

 というタイトルの古本を、100円均一ワゴンで見つけた。昭和58年に出版された本で、副題は『戦後日本歌謡史』。内容もタイトルや副題のまんまで、昭和20年から58年までの主な流行歌を、年ごとに世相をまじえて紹介している。著者の嬉一夫という方は当時の中国新聞徳山支局長だそうで、そんな立場ゆえか、巻頭には船村徹さんや星野哲郎さんの推薦文まである。出版は広島の会社。地方出版のそうした書物が、いつのまにやら遠い関東の古本屋の店頭ワゴンに売られて来ている姿というのは、そぞろ流離の感がある。おまけに中扉には、贈呈印と著者の直筆サインまである。
 内容は新聞連載のコラムをまとめたものらしく、駆け足ながら過不足なく戦後世相と歌謡史を重ね、特に一年を上期・中期・後期に分けて書いて下さっているので、大変参考になる。「その年のその頃巷で流行っていた歌」というのは、発売年の資料やヒット・チャートの記録だけでは、なかなか実感がつかめない。
 しかし読んでいてつくづく感心したのは、昭和50年代前半ほどまでの、『流行歌』の汲めども尽きぬ芳醇さ・普遍性である。とにかく毎年毎年スタンダードが誕生し、老若男女問わず『ウケて』いる。今現在、CDのヒット・チャートなど諳んじているのはよほどお若い方々だけだろうし、また年配層に売れている演歌などは、お若い方々はほとんど知らないだろう。その中間に位置する自分など、もはやどっちもほとんど解らない。しつこいようだが、どっちも「どこかですでに聞いたような歌」ばかりだ。
 単純に『出尽くしてしまった』だけの話なのかもしれない。後になればなるほど不利というのは、創造的な世界なら、どこにも言えることだろう。しかし本当に、それだけか。少なくとも昭和50年代までは、まるでローテーション・ワークのイキオイで、毎年オリジナルが生まれていたのだ。案外それが『国力』そのものに関係していたのではないか、そんな気がする。オリジナルは、けして『癒し』に帰着しない。癒されながら子を『育てる』のは可能かもしれないが、癒されながら子を『産める』母胎が、あるはずはないのである。


06月09日 金  筒井康隆という巨人

 『日本以外全部沈没』映画化は、「笑いたいのに笑えない」作品が多い河崎実監督だし、『時をかける少女』アニメ版も、原作とはほとんど無関係のシナリオとなるらしい。しかし、筒井康隆という巨人(自分にとってこの方は、すでに『先生』という敬称もはばかられる『文豪』なのである)がいつの時代もメディアの表舞台にしぶとく残り続けていることは、その本質の半分しか表面化していないにしろ、やはり喜ばしい。
 今の時代、メディアなどというものはほとんど精神的未成年者がお客なので、当然筒井作品の中でも、子供でも判る叙情や派手なパロがもてはやされがちであり、自分もまた子供の頃はそっち方向とSFというジャンルへの興味から筒井ワールドに入った。そもそも当時、『SF』というジャンル自体が、まだ表社会では珍奇なイロモノ扱いしかされていなかった。ところが、星新一・小松左京さんら大御所の作品の凄さにのたうち回ったりしているところに乱入してきた一見珍奇な筒井作品群、ジャスト『文章』そのものにガキながら目覚めつつあった自分には、その破天荒なアイデアや表現に笑い転げたり身震いしたりする以上に、思わずこめかみにたらありと冷や汗が浮かんでしまうような、ブンガク的衝撃があった。――こ、この方は、なんて『正しく』『整った』言霊を操れる方なのだろう。
 残念ながら当時の娯楽文壇の長・松本清張氏が、あまりに生真面目な社会人すぎて筒井氏の破天荒さを容認できず、また文学性をも感知できなかったため、直木賞はなんべんも候補に上がっただけでとうとう取り逃したが(このあたりは、宮部みゆき氏が黒岩重悟氏に嫌われて、長いこと直木賞が取れなかったのに似ておりますね)、種々のヒットの後で好きな物だけ書いて暮らせるようになってからはいよいよ本領発揮、子供には解らない心理と情景と言語の融合世界に突入、谷崎賞やら川端賞やら総なめにした時は、当然そうあるべき作家だったのだと、嬉しくて仕方なかった。ちなみに自分が「こんな端正な日本語、今まで見たことない」と最も感嘆したのは、それらの受賞作ではなく、『エロチック街道』だったりする。あんなに『適確さ』が『美しさ』まで至っている文章世界は、滅多にない。自分には真似しようとも目指そうとも思えないほどの、高次の文章世界だ。
 社会的には功成り名を遂げた存在とはいえ、ご本人のキャラによって、いわゆる純文学系の文壇に完全に受け入れられたとは言い難いようだし、逆にイロモノ好きの読者からは「文豪を気取って道を外した」などと言われることがあり、そうした存在感自体の曖昧さは、今も昔も同じなのかもしれない。しかし自分から見れば、あの方は、昔も今もこれからも、紛うかたなき『文豪』そのものだ。


06月08日 木  為政者という名のゲス

 [「涙を流して死んでいった仲間に何と報告すればいいのか」。ドミニカ移民訴訟の7日の東京地裁判決は「戦後最悪」とされた移民政策を糾弾しながら、法律上の「時効」を理由に原告の請求を棄却した。「私たちは国にだまされ捨てられた『棄民』」。内容で勝訴しながら、結果は敗訴。国策移民の悲劇を告発してきた老いた原告たちは、無念の表情を見せた。「祖国は自国民をカリブ海の小さな島に捨てたんだな」。請求棄却の主文を聞いた瞬間、今もドミニカ共和国で暮らす原告の嶽釜(たけがま)徹さん(68)の頭を、そんな思いがよぎった。提訴から6年。法廷で移民政策の不当性を訴え続けてきた。「すべてを時効として消してしまう判決には本当に不満」。悔しさをこらえるように言葉を選ぶ。「祖国にだまされるなんて、誰一人思っていなかった。我々は本当に日本人なんでしょうか」。移住先で亡くなった仲間は137人に上るという。「ドミニカに眠る彼らにどのように報告すればいいのか迷っている」。そう語ると、唇をかんだ。一方、61〜62年に日本へ戻った移住者でつくる「集団帰国者の会」副会長の森正次さん(73)=石川県志賀町=も「政府が悪いと分かっていて、時効で解決するのは許せない」と、判決に怒りをあらわにした。石川県の森林組合に勤めていた55年3月、「現地はカリブ海の楽園。広大な優良農地が無償で得られる」とのチラシに誘われ、ドミニカ共和国移住に応募した。当時23歳。「大農園主になり『国土』を広げれば新生日本にも貢献できる」。そう思った。だが、入植した同国西部のネイバ地区は、石ころだらけで、かんがい施設もなかった。わずかな土と水でバナナを作り命をつなぐ日々。入植地は有刺鉄線で囲まれ、銃と刀を持つ軍人に似た姿の管理人が草刈り作業などを強いる。自由さえ奪われた。その悔しさやみじめさが、今もうずく。今夏は移住50周年。記念式典も予定されている。嶽釜さんは「移住50周年になりません。『棄民』50周年になります」と吐き捨てるように言った。【高倉友彰、木戸哲】(毎日新聞)6月7日14時14分更新]
 昨年、小泉政権下の外務大臣が、「あれは外郭団体の仕事で、日本政府の責任ではない」と、切って捨てた問題である。その外郭団体とやらを構成しているのが、当時も今も多く天下り公務員やその縁者であることは、しつこいようだが、言うまでもない。ハンセン病問題等、言い逃れしようのない部分は一見潔く国家的に非を認めたようなポーズを取る一方で、構造改革とやらも、相変わらず根本的に自分らに不利な部分などは、触れようともしない。仲間内の得を確保するのはまあ人情としても、それ以外には「痛みを分かち合え」と言い放つ態度、これをゲスと言う。まあ、どうでたかが政治屋の問題なので、我々個人としては、せいぜい『大勢』などという虚妄のゲスどもに惑わされず、せっせとゲス以外の生き方を模索するしかない。そう、悲しいかなゲスなどと言う物は、『吐き捨て』るにしか値しない。その結果があっちから見て敗者であろうと世俗的に落ちこぼれであろうと、死ぬ時に「ああ、少なくとも自分はゲスよりちょっとはマシな虫ケラだった」、そう思えればそれでいい。少なくとも他人様《ひとさま》と自分との関わりを我欲で歪めるよりはよほど無害だし、事大主義に汲々とするよりは心おきなくケツをまくって死ねる。

 話はころりと変わって、『13日の金曜日』TVシリーズ、またいつものペースに戻った。つまり前回記した不満は、第1シーズンを終えるためのイベント的趣向だったようで、その騒動の中でレギュラーが一部チェンジ、第2シーズンに入ったら、また新レギュラーをメインに1話1アイテムのアイデア・ストーリーを続けてくれるようだ。とても嬉しい。今後もアイデアを薄めて引き延ばしを画策したりせず、『ミステリー・ゾーン』的に、毎回の起承転結を楽しませてほしいものである。しかしシナリオ作家の方々は、大変だろうなあ。いや、大変だったのかどうかは、すでに知る人ぞ知る過去のシリーズなのだが、自分としては、あくまで『初めてのドキドキ』なので。


06月07日 水  社会性と美意識

神奈川県警瀬谷署は6日、12階からガラス瓶を落としたとして横浜市瀬谷区内の小学6年の男児(11)を補導した。危険な行為として、同署は男児を児童相談所に通告する予定。調べでは、男児は6日午後4時前、同区の市営住宅(14階建て)の12階に住む友人を訪ねた際、牛乳瓶(200ミリリットル)と別のガラス瓶を約30メートル下のコンクリート地面の中庭に投げ落とした疑い。当時、中庭では小学生4人が遊んでいて、瓶は約3メートル離れた場所に落下し割れたガラスが散乱したが、けがはなかった。男児は「高い所から物を投げたら面白そうだと思った」と話しているという。付近にはプラスチック製のゴミ箱も落ちており、男児が投げたとみられる。【野口由紀】(毎日新聞)6月7日12時18分更新』。――幼児ならやるだろう、そんな気もする。その行為と人の生を結び付ける、いや、人の生そのものの概念が希薄だろうから。しかし小学5年とは――精薄児でもない限り、しこたま『愛の鞭』が必要だろう。このまま軽く思春期など越されたら、当人のためにならない。

 こうした話を聞くたびに思い出すのは、ウーリッチ(アイリッシュ)のサスペンス『喪服のランデブー』である。『黒』シリーズの一編なので、『黒のランデブー』とか、あるいは『闇のランデブー』と訳したほうが、雰囲気が出ると思うが――閑話休題。
 アメリカの田舎町で平和に暮らす、若い恋人たち。しかしある夜、青年がいそいそと待ち合わせの街路に駆けつけると、娘は無惨な死を遂げている。上空を遊覧飛行中だった小型飛行機から、酔客たちが投棄した酒瓶が、娘の頭部を直撃してしまったのだ。青年は、発狂する。「そんな事は、なかったのだ」――その晩から、青年は「ちょっと遅れている恋人」を待って、夜毎街路に立ち続ける。街の人々も哀しみながら、そんな青年の姿を『街の情景』として許容している。しかし、ある晩無神経な若い警官が、目障りな彼を『正気』に戻してしまう。「お前の恋人は死んだのだ。もう戻っては来ない」。
 ――後の展開は、もう何度も映像化されたり、あらゆるメディアでパクられまくっているので、見当がつきますね。哀しい青年の復讐オムニバスへと発展します。これも何度もあらゆるメディアでパクられまくっている『黒衣の花嫁』同様、と言うより『喪服のランデブー』自体が『黒衣の花嫁』の異性版なのだが、捻ったどんでん返しがない分だけ、とんでもなく哀しい。『黒衣の花嫁』は、あくまで加害者本人たちに対する復讐劇に発展し、しかもさらに哀しいドンデンが来てしまう。そこがまたもう「ああもうどーにでもしてちょうだい」的哀感なのだが、『喪服のランデブー』のほうは、加害者の妻や恋人達を奪って行くのだ。そしてそのひとつひとつのドラマがなんとも哀切で、自覚なき加害者達の運命も哀しい。そして、ラストに捻ったドンデン落ちなどもなく、ただひたすら哀しく純粋なまま、警官隊の発砲によって青年は娘の元へと旅立ってゆく。「うああああ、もうかんべんしてちょうだい、うるうるうるうる」といった感じで、ミステリーとして評価の高い『黒衣の花嫁』よりも、さらにストレートな情動パンチが決まり、2.3日は立ち直れなくなったりする。
 つまりこのドラマに登場する男女の悲劇は、『何気なく空き瓶を捨てる正常人(?)の社会性(?)』と、『害のない精神疾患者を街の情景として許容しない偏狭な社会性』、すべてがそれによって引き起こされている。青年の娘に対する過剰な愛情自体には、全編を通して、なんの非難も警句も投げられない。それは『純粋な愛は美しい狂気』とでも言いたげに、徹頭徹尾、濁りなく貫かれる。なにしろ、全編の解決を担当した刑事が、ラストにこう呟くのだ。「……彼はようやく彼女に会えたんだ。最後まで約束を守ってね」――高校時代の記憶によっているので、言葉は違うかもしれないが、おおむね合っているはずだ。ちなみに有名な書き出しは、『二人は毎晩八時に逢った。雨の降る日も雪の日も、月の照る夜も照らぬ夜も。』――これは高橋豊氏の訳を暗記したので、まんまのはずだ。普通の文筆家なら、恥ずかしくて書けないぞ、この出だしは。その恥ずかしい弁士口調の美文で、多少の社会的齟齬などうっちゃってしまうノリこそが、人と社会には必要だと思うのですね。

 畢竟、冒頭の小学6年生に欠けているのは、『美意識』という『愛の鞭』なのである。当節の社会性など、その子供とさほど変わるまい。


06月06日 火  アイデア

 『13日の金曜日』TVシリーズが、変質してきた。と言ってもずいぶん昔のシリーズなので、ずいぶん昔にその変調は起こっていたのであり、数えてみればすでに50回を越しているのだから、ここまで良く単発1時間のアイデア勝負で保たせてきたものだと、感心するべきだろう。1回1アイテムの呪具、それにまつわるレギュラー以外の人間ドラマ――定型やマンネリも味となる刑事物や時代劇ならいざ知らず、アイデア勝負系のホラーやファンタジーでは、ネタが保つはずがない。それでも視聴率が取れており、第2、第3シリーズまで続なければならないとすれば、どうしたって続投系のネタで引っぱらなければならない。このシリーズの場合、案の定、今までは裏設定として表面化しなかったルシファーや悪魔主義集団などが表面に出てきて、さかんに暗躍し始めている。その間に、従来の単発ネタも織り込み――典型的な、人気連載物の流れですね。
 自分の愛着のあるコミックでは、ちと古いが『うる星やつら』や『GS美神・極楽大作戦』など、そのパターンで引っぱるだけ引っぱり、やがて惜しまれつつもネタが尽きて終了。終了当時は、その作品世界にずっぷし入っていたため、ファンとしてはマンネリでも焼き直しでもいいから同じキャラたちに永遠に活躍して欲しいと切に願ったものだが、やがて頭が冷えてからコミックスを読み返すと、画力も安定していない初期作の驚くべきアイデア投入量とイキオイや、画力も安定しアイデアもこなれて来た『盛り上がり期』の妙味には相変わらず感嘆するが、後期の『必死こいてとにかく引っぱり続けている』期に入ると、正直、かったるい。ファンの風上にも置けない態度といささか頭を掻きつつ、客観的にそうなのだから仕方がない。
 そうした冷めた視線で思い返してみると、改めて、手塚治虫大先生や藤子・F・不二雄先生が死ぬまで放出し続けたアイデアの総量に、感嘆を通り越し、畏敬、いや、恐怖すら感じる。連載物だけでなく、ファンタジックなアイデア勝負の短編群まで、ほとんど無慮数残されている。

 自分は一介のシロウトに過ぎず、ネタ帳にもせいぜい長編10本・短編20本程度しか、今のところ使えそうなアイデアがない。それも、注文なしで自発的に『書かねば死ねぬ』状態だったものは、この2年であらかた書いてしまったので、あとはほんの少数を除けば、余程の創作意欲の高揚でもないと、頭の中でごにょごにょするだけで終わってしまいそうだ。
 おのずと溢れるアイデアもなく、マンネリ化するほどの需要もなく――そこがシロウトのシロウトたる由縁なのだろうなあ。


06月05日 月  疑惑

 秋田の児童殺害事件、妙な展開にこのところ不安を抱いていたが、とうとう最初の不審死女児の母親が、次の男児殺人容疑で逮捕されたようだ。各新聞や週刊誌が、例によって引っかき回すだけ引っかき回していたが、例によってただ闇雲に引っかき回しているだけで、実際の事件背景など、何ひとつ判らない。ひとつだけ確実なのは、最初の女児不審死を警察がただ簡略に『事故死』と片付けず、なんらかの継続捜査をやってくれていれば、第二の事件はなかったという事だ。実際に事故死であったか、それが問題なのではない。初めから、深からぬ川をあんなに何キロも流されて(それもまた警察の判断にすぎないが)、着衣に乱れもなく目立った傷もない事自体確かに不合理なのであり、そのあたりも含め徹底的に納得できる捜査や発表をやってくれていれば、第二の事件の引き金は、引かれなかったはずである。
 どんな理由であれ、その女性が男児を殺害したのなら絶対に許される行為ではないし、娘さんの死の真因もまだ判らない。しかしどんな決着がつくにしろ、警察側の最初の捜査不十分が、第二の事件を引き起こしたのである。

 事なかれ主義で種々の出来事を適当に流して行くのと、やたら懐疑的になんでも突っついて行くのと、どちらが正しいのか。前者が横行すれば、いずれとんでもない破局が訪れかねないし、後者が横行すれば、ありもしない事件がでっち上げられる。『起こってから対処』の検挙型警察がいいか、『起こる前にツブす』警備型警察がいいか――まったく難しい問題だ。だから憲法改正問題も共謀罪問題も、自分には『バランス感覚』で進めるべき、としか言えない。戦前戦中のような恐怖政治を過剰に警戒する方々も多いけれど、ゲシュタポにしろ特高にしろ、確かに無辜の人間を政治犯として多々血祭りに上げる一方で、あの混沌の時代に民間人が巻き込まれかねないテロの芽をビシバシ摘んでくれた実績も、きちんとあるのである。要は、後者に舵を取ればいいわけで。

 大好きな懐メロの『若いお巡りさん』など、歌ってみる。♪ も〜しもしベンチでささやく お〜二人さ〜ん は〜やくお帰〜り 夜〜もふける〜 野暮な説教するんじゃないが〜 ここらは近頃物騒だ〜 は〜なし〜の〜つ〜づきは〜 あ〜したにし〜たあら〜 そ〜ろそ〜ろ ひ〜ろば〜の〜 灯〜も消える〜 ♪ ――そんなニュアンスの『警備型』を、今の社会は「プライバシー侵害」だの「個人の自由」だの言いつつ、排他してしまった。そのツケは、確実に自分たちに回って来る。


06月04日 日  新・楽しき玩具

 いやはや、しつこいタチゆえ、ハマるハマる。やはりA5ソフトカバーで個人の長編小説一本というのは『らしさ』に欠けるとか、じゃあB6で組むなら余白や行間はどうすれば『らしく』て読みやすいかとか、もはや大昔ラムちゃんのフィギアのお尻をパテで修正していた頃に劣らないハマり具合なのであった。まあ、誰に見せるでもない、ただ自分だけのための享楽に籠もってうにょうにょするのも、おたくの宿命なのだろう。HPなど始めたのもそれに近いが、そっちは誰にでも覗いてもらえる代わりに、物質感がない。
 たとえば以前にも記した、実用本や趣味本ライターの秋山正美氏が自費出版した怪奇創作短編集『葬儀のあとの寝室』、自分の血で装丁画を描いたりして凝りに凝った書物だったが、一般書店で見かけたのは自分が中学の頃一回こっきりで、その後装丁や判型を変えてさらに凝りまくった改装版は、初めからゾッキ本取り扱い店でしか見かけなかった。それが今ではネット・オークションなどで、結構な値が付いている。内容的には確かに『私家本』の域を出ないのだけれど、なんというか、著者の歪んだ(す、すみません)フェチっぷりが、その書物にはじとじとと籠もっているのですね。
 かの江戸川乱歩先生なども、子供の頃は活版用の活字を組んで遊んでいたというから、やはり作品を広範に見せびらかす以前に、『書物フェチ』が原点だったのではないか。

 ――うつし世は夢、夜の夢こそまこと。
 などというのはただの立て前で、
 ――遊びをせんとや生まれけむ。
 まあ、そんなところが惰弱な自分の根っこなのだろうなあ。


06月03日 土  続・楽しき玩具

 例の一冊だけの本が、届いた。わくわくと封を切ってみると、表紙のカラーも良く出ており、本文の印刷もしっかりしている。ただ予想外だったのは、本文の紙まで、ものの見事に純白。おそらくカラー印刷兼用の上質紙なのだろうが、一般の文字中心の書籍はご存知のようにむしろベージュといいたい色が多いので、ちょっと違和感がある。しかしまあ、たった一冊から刷ってくれる業者さんに、そこまで文句は言えないだろう。
 フォントのポイントは、やはり設定をしくじった。家でのプリント・アウトで見たイメージと、製本された状態では、まるで大きさの印象が違う。10ポイントは大きすぎる。やはりすなおに市販の書籍に近づけて、9ポイントに組み直すべきだろう。
 それから、書籍としての質感だが――いっそ、もっと粗末なほうが、いかにも同人というか個人本らしくていいのではないか。いちばん安い並製の無線とじでカバーなしを注文したから、A5の文芸誌のように表紙など厚紙1枚くるりと糊付けするだけかと思ったら、きちんと裏紙まで貼ってある。なんというか、昔使っていた教科書や国語の副読本のようだ。ハードカバーほど立派でなし、雑誌ほど粗末でなし――つまり、一般流通書籍には遠い形なのですね。
 などと無い物ねだりはさておいて、やはり『存在感』としては、ワープロのプリント・アウトなどとは比較にならず、客観的内容把握もしやすい。ぺらぺらめくってみただけで、もう2.3箇所、テコ入れしたい部分が見つかった。手直し後に9ポイントで組み直し、今度はケチらないでカバーを付けようと思う。そうすれば、もう少し『普通の本』らしくなるだろう。9ポで組んでページ数を減らし、表紙のフィルム加工をやめれば、さほどのコスト・アップにはならないはず。
 しかし、こんなふうに1データ1冊で遊び続ける客は、おそらく最も嫌われるタイプなのだろうなあ。客の全員がこんなタイプだったら、あの会社は早急にこの部門を畳んでしまうだろう。遊べるのも今のうちかもしれない。ホンニナル出版様、しばらくは遊ばせてくださいね。


06月02日 金  生死の軽重

 『長崎県佐世保市の小6女児殺害事件で、被害者の父親御手洗恭二さん(47)が加害者の少女(13)に関する情報開示を求めていることについて、川崎二郎厚生労働相は2日、「話せる状況については既に担当課長から話をさせていただいた」と述べ、これ以上の情報開示には応じる考えがないことを明らかにした。閣議後の会見で川崎氏は「父親の気持ちは分かるが、加害者の子の更生が最優先だという姿勢は揺るがない」と述べた。少女は現在、児童自立支援施設に入所。御手洗さんは厚労省に対し、少女の近況や退院の見通しなどについて情報提供を求めている。(共同通信)6月2日10時39分更新』。
 これだけでは例によってなんの背景も解らないので、過去の記事も。
 『
長崎県佐世保市の小6同級生殺害事件で娘を亡くした毎日新聞記者、御手洗恭二さん(47)が16日、厚生労働省に対し、国立児童自立支援施設に入所中の加害女児について、更生プログラムの内容やその実施状況などの情報公開を求める要請書を提出した。厚労省は、公開が可能かを検討する方針を明らかにした。要請書は自立支援の目標や達成評価、今後の予定の説明に加え、自立支援の中で、遺族との関係修復や調整も求めている。御手洗さんは厚労省で代理人の八尋光秀弁護士と会見し、「加害女児は犯した罪ときちんと向き合ってから社会復帰をすべきだと思うが、更生プログラムが分からないため、それができているかさえも今は分からない」と問題点を指摘した。遺族が加害女児と手紙や面会で交流を持つことが更生につながるかは「(加害女児がどういう状況か不明なので)今の段階では結論が出せない」と話し、加害女児と会うことには「正直に言えば、自信はない」と複雑な心情も明かした。しかし、「父親として事件から目をそらしたり逃げたりするのは避けたい」と述べ、いずれ社会復帰する加害女児に二度と同じ事件を起こさせないためにも、遺族との人間関係をできるだけ修復する必要性を訴えた。【玉木達也、川名壮志】毎日新聞 2005年12月17日 東京朝刊
 『
■解説 ◇遺族の疑問と不安、背景に  長崎県佐世保市の小6同級生殺害事件で、加害女児が入所する児童自立支援施設は少年院や刑務所と違い、贖罪(しょくざい)教育のプログラムがないうえ、施設内での加害者に関する情報も明らかにしていない。今回の要請には「加害女児は遺族や事件と向き合わずに更生できるのか」「何を基準に女児が更生したと判断するのか」という遺族の疑問と不安が背景にある。自立支援施設に入所する14歳未満の触法少年は刑罰の対象にならず、処遇は施設の裁量に任されている。福祉と保護を目的としているため、作文や面接を通じて被害者の視点から自分の起こした事件を見つめ直す贖罪のプログラムはない。少年に関する情報についても厚生労働省は「施設内の状況は子供のプライバシーに配慮が必要」と説明し、被害者側には伝えていない。この事件でも、遺族への情報提供は女児の処遇を決めた少年審判が最後だ。法務省は04年、神戸連続殺傷事件(97年)の加害少年の社会復帰を明らかにした。冷静に事実を公にすることが、男性の更生にも役立つという判断があったとみられる。男性の少年院での処遇内容も遺族に説明してきたという。事件の審判を担当した井垣康弘・元判事は「厚労省も社会や被害者への説明責任がある。肉親を奪われた被害者には、加害者の生き方に注文をつける権利があり、遺族に情報を開示することが最終的には触法少年の更生にもつながる」と指摘する。【川名壮志】毎日新聞 2005年12月17日 東京朝刊』。
 ……難しい問題なのは、解る。感情的には殺された少女の父親に与したい気がするが、その父親がいかに真摯で良心的な人間でも、今日日《きょうび》『情報』と言う奴は、それを自分の脳味噌以外に記録した時点で、どうにでも転がってしまう可能性がある。無論組織から漏洩する場合も多いが、悪意のある誰かがその情報を欲した場合、やはり個人相手のほうが盗みやすい。また、これも人格や信念とは別の次元の頭部負傷や精神疾患で、その父親がある日突然復讐心の箍を外してしまう可能性も、ゼロではない。

 死んだ者よりも、生きている者のほうが大事――身内の感情はともかく、人の生死の重さを計る上で、社会的には近代そう標榜するしかないのだろう。『生命活動』のほうが、『死骸』よりは大事。それに異存はない。ただ何か、種々の人間間の軋轢が起こる以前の『生命観』そのものが、近代なんじゃやらバランスを欠いてはいないか。
 確か西丸震哉氏(食生態学者)の著作にあった話と記憶しているのだが、他の方の著作だったらごめんなさい。なんでも外部の宗教が定着する以前のニューギニア原住民社会では、他人の『感情』をゆえなくして著しく傷つけた者は、たとえそれが故意でなかったとしても、殺されても仕方のない『罪人』と社会的に認識されたそうである。極端な話、ある青年がある女性に恋いこがれ、勇を奮ってコクったとする。で、その女性はその青年のご面相がちょっとパスだったので、「あんた鏡見たことあんの?」と、冷たく拒絶してしまったとする。ありゃ、鏡は持ってないか? とにかく、相手の心を慮ることなく、精神的にモロ直撃してしまったとする。逆上した青年は、発作的に女性をシメてしまう。――このような場合、その社会では、青年は無罪。男女が逆でも、おんなし方法論。つまり人が生きることの価値そのものを、他者との感情的関わりで捉えているわけですね。端的に言えば、他者との相対において『無神経な生』は、『多感な生』よりも、厳然と下等視されるわけである。
 まあ、そんな単純な社会は、狩猟採集ちょっとだけ農耕、そんな食うや食わずの小規模な民族だからこそ機能していたのだろうし、現代人の多くは「そんな『言いたい事も言えない』窮屈な社会なんて御免だよ」だろうが、『言いたい事』を言う前に、それが果たして『言うべき事』であるのかどうか本能的に事前チェックする、そんな『原始的』感覚を、あのふたりのろりがお互い少しでも習得してくれていたら、初めからあんな事件は起こらずに済んだのではないか――と、穴の奥の狸としては、蕭然と外の陽差しを眺めてしまったりするのであった、まる、と。


06月01日 木  ナマでは食えない

 別に白インゲンに限らず豆類の大半は、ごく少量ならいざ知らず、まともに食おうと思えば充分加熱して食わないと腹を壊します。とまあ、たったそれだけの事も心得ずに適当にテレビの真似をして腹を壊す、これを『馬鹿』と言いますね、普通。で、その馬鹿達に『あんたら、ちょっと馬鹿なんじゃないの?』と大声で言えない報道社会、これもすでに馬鹿です。そうしてこの世には、見様見真似でテキトーに腹を壊したり、盗んだり殺したりする馬鹿が、日々増殖して行くわけですね。
 たとえばパソコンなどと言うシロモノも、根本的には『膨大な記憶力を誇る白痴』であり、その記憶する事柄が正しいかどうかもまた入力者しだい、パソ自体はどんな複雑怪奇なシステムにしろ結局入力された別の記憶に照合し約束事に従って判断するだけで、『豆はナマで食うと腹を壊す』と言う記憶がなければ、何を出力するやら知れたものではない。よってネットなどというシロモノも、きちんと理性が介在しないと、膨大な記憶力を誇る白痴の群生になったりする。
 『
馬鹿に効く水浴療法がないという説は誤りである。溺れさせればいい。』と、昔の偉い外人さん(誰だかは失念)がおっしゃったそうだ。今そう入力していたら、愛用のATOKが、『溺れさせれば』は正しくない『ら抜き表現』で、正しくは『溺れさせられば』である、などとマジにカマシてきた。これもまた何か文法解析条件上の不備によって、敬語の文法(『上様におかせられましては』とか)とでも勘違いし、機械的に指摘してきたのだろう。
 まあ、パソを水に放りこんでしまうともったいないし、馬鹿をプールに沈めると捕まってしまうので、騙し騙しおつきあいし続けるしかないんですけどね。