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07月31日 月  天候不順

 梅雨明け宣言めでたしめでたし、などと油断したとたんに涼しくなったり暑くなったり、あっちこっちの冷房も不揃いで体がついて行けず、久々に扁桃腺が腫れ出す。暑い盛りに悪化したりすると気分的に最悪になるので、早めに医者へ。一度治してしまえば、そのシーズンは大概無事に乗りきれるのだが――ここんとこの身体の老朽化を考えると、ちょっと不安。
 五十嵐氏お奨めの『シン・シティ』のDVDが、『憲兵とバラバラ死美人』といっしょに、ネット・レンタルで届く。どーゆー組み合わせだ。両者とも早く観たいのだが、本日はクスリのためか頭がボケ気味だし明日は出歩かねばならないし、鑑賞は見合わせて早寝しよう、などと思っている内に、もう夜中の1時半を回っている。これでも異例の大早寝なのだから、困ったものである。

 ――などと打っておいて、某小説投稿掲示板や、あっちこっち寝る前に顔を出してしまい、もう3時半を回っている。それでもいつもよりは早寝なのだから、とことん困ったものである。


07月30日 日  ウルトラマンの頃

 あ、そーか、あの変身用のペンシル・ライトのようなアイテム名は、『フラッシュ・ビーム』ではなく、『ベータ・カプセル』だったのだ。フラッシュ・ビームは、あくまでそこから発するエネルギー光のことなのですね。すっかり勘違いしていた。いや、ケーブルで元祖ウルトラマンの放映が始まったのである。小学生の昔に還ってわくわくと――と言いたいところだが、実は当時、故郷・山形ではほとんどのTBS系の番組はリアルタイム視聴不能だったのであり、たまーに蔵王のてっぺん方向の天候の加減で仙台から山越えしてくる電波を運良く拾えても、ほとんど砂の嵐の中のウルトラなのであった。高感度のアンテナを立てられる裕福な家や、家庭はビンボでも官舎の共同アンテナの加減で砂の嵐が弱い、国鉄職員の家の級友など、羨ましくて仕方がなかったものである。よって、自分の記憶の元祖ウルトラマンは、何年か後の再放送。武田薬品とコミのイメージもない。いっそテレビそのものの勃興期であれば、三丁目の夕日のノリで見られる家に押しかける手もあったのだろうが、さすがに自宅でも『マグマ大使』がカラーで見られる環境になっていると、まあウルトラマンは雑誌の漫画や特集記事や関係書籍で我慢するか、そんな気にもなれた。生活にも娯楽にも、ある意味余裕が生まれていたのですね。もうテレビに色がついただけで、大口あけて「ほわー」などと見とれてましたから。『マリンコング』の頃はコロッケや魚肉ソーセージ入り卵焼きでも御馳走感覚だったのが、その頃になるとトンカツやスキヤキだって隔週で食えてたし、クリスマスには鳥の腿焼きなどという夢のような食物まで登場するようになってたし。

 まあ、未だにしょっちゅう「CG特撮なんて中途半端で」などと言ってしまうのも、あの頃のセコいミニチュアでさえ大御馳走だった自分のイメージ喚起力を懐かしがっているだけなのかも知れないけれど、やっぱりセコくとも厳然として備えている『物質感』『空気感』は、大口あけて「ほわー」、それだけの吸引力はありますね。先日、劇場版の『ULTRAMAN』(元祖ウルトラマン第一話のオヤジ視点リメイク)を観て、けっこう泣いたりしてしまったものの、やっぱりCG部分はセコかった。どうせセコいなら、まだ絵より模型のほうが存在感がある。基本的に『情報→情動』のルートは同じだとしても、実写とCGアニメはやはり構築法が違うのである。


07月29日 土  最大公約数

 というシロモノに意味がないとは言わないけれど、やはり『万人向け』を狙うと、なにかと味気ない結果が出がちだ。

 図書館で借りた民謡CDの『新庄節』が、幼時に家のレコードで聞いたものとはずいぶん印象の違う陽気な歌詞で、ありゃりゃと思い本日他のCDや民謡本まで調べてみたら、最近CD録音されているのはみな陽気な囃し歌バージョン、一方種々の書物に記されている歌詞は、長いのから短いのまで千差万別、共通の部分は『あの山高うて 新庄が見えぬ 新庄恋しや 山憎や』以外、ほんの僅か。まあ民謡のことゆえ無数のバージョンがあっても当然なのだが、問題はそれぞれの媒体の解説や論評に、他にも無数のバージョンが存在するということが、いっさい記されていない点である。特に自分の記憶に刻まれている『花が咲いたと 都のたより こちら雪だと 返す文』は、案外メジャーではない部分らしい。記憶にある哀切の節回しと歌詞は、自力でCDを集めないと、もう聞けないのだろうか。実家のLPなどは、母親も保存している様子はないし、やはり実家といっしょにゴミになってしまっただろうなあ。しかし、今回ネットでも検索してみたら、けっこう『花が咲いたと 都のたより こちら雪だと 返す文』の歌詞とともに、哀切の歌として記憶されている方々も多いようだ。もちろん一方で、素朴でファンキーな民謡だと記憶している方々もいらっしゃる。民謡という奴もけっこう派閥・流派にこだわる世界だから、歌い手の流派によって、きっと差があるのですね。それらを詳しく分析していらっしゃる、民謡学者(?)さんなども、探せばいるのかも知れない。しかし残念ながら、当地の図書館には、それらしい文献なし。
 それとは別に、一応死ぬまでは終わらせたい昭和レトロ田舎ファンタジーがらみで、『山窩』に関する書物も検索してみたら、まあモノがモノなせいか、新しい書物はほとんど見当たらない。ある種の古書店に行けば、大昔のイロモノ本(『サンカ小説』と呼ばれるトンデモ・ジャンルが、昔はあったのである。ほとんど新東宝映画の『海女物』のノリ)が無数に並んでいるのだが、あっちはほとんどでっちあげだからなあ。結局、新しく見つけたのは、磯川全次氏の『異端の民俗学』のみ。

 物好きのヒガミと自覚しつつ、近頃、いわゆる『新古書店』と呼ばれる業態を、出版文化の未来のために、今のうちに全部焼き払ってしまったほうがいいのではないかと、本気で思っている。あくまで徒花程度なら問題ないのだが、どうも市井の面白い古本屋が次々につぶれて行くし、新刊書店まで、はじめから新古書店と同一の品揃えになりつつあるような気がする(これは冗談でもボケでもありません)。


07月28日 金  じめい

 曇天の下、大汗かいて歩きながら、「あ−、じめいじめい」とつぶやいている自分に気付く。『じめい』って何だ? たぶん「あー、じめっぼぐであづいじめっぼいあづい」とつぶやくのも、かったるかったのだろう。

 小松左京先生の原作『日本沈没』、テキスト形式のダウンロード販売があるのを知り、あわてて購入。近頃テキスト形式の販売はどんどん減っており、なんらかの不出来なビューアー・ソフトでしか開けない場合が多い。コピー対策なのだろうか。それとも、携帯端末需要か。当方としては、分析用のデータの意味合いが強いので、テキストでないと意味がない。読んで楽しむだけならば、もう本を持っている。

 実はいきつけの小説投稿掲示板から、たかちゃんシリーズ以外の物件を引き上げてしまった。もともと『読みやすさ』で参加したデザインが変わってしまったためもあるが、旧作をあそこに残しておく事に、意味を感じなくなったからだ。これまでいただいたありがたいご感想などは当然保存させていただき、懐かしく読み返しながら、「何年か前の切磋琢磨の場も、今はすっかりテキスト放置場と化しつつあるなあ」などと、僭越ながら溜息をついたりする。いや、少数の真摯な方々もまだいらっしゃるのだけれど、やはり切磋琢磨の意味合いは薄れてしまった。新しい参加者で「おう、なかなか」と思っても、ただ「読んで読んで」状態の方が多く、読んでなんか言ってもらってより面白い作品に仕上げて行く、そんな気配は薄い。読んでもらうこと自体が打鍵の励みになるのは確かだが、それだけならば「読んでますカウンター」みたいなもので、感想欄は不要だろう。
 それにしても、明らかに年少の、小説という形式すら覚束ない投稿者の方々は、いったい何をもって「読んでもらおう」と決心できるのだろう。まともな小説を一冊でも読めば、白痴でもない限り、自分の打ったテキストが小説でない事は理解できるはずだ。また、描写や会話のテクニックやキャラの肉付けやストーリーの組み立てなどという技巧的な部分は、それこそ好きな小説を自分なりに読み込んで、参考にすればいいだけの話だ。やっぱりこのあたりも、マスコミ的決まり文句で恐縮だが、『マニュアル世代の応用力の無さ』なのだろうか。
 ならば無料でダウンロードできる過去の名作のテキスト、あるいはまだ販売してくれている人気作のテキスト、それらを自分で打ったテキストと並べて開いてみる、そんな手段も有効だろう。昔なら、師匠(と自分で思った作家)の作品を原稿用紙に丸写しにしてみる、そんな勉強法があったが、パソとテキスト・データがあれば、そんな手間も省ける。あのかっこいいキャラのかっこいいアクションと、自分で作ったかっこいいはずのキャラのかっこいいはずのアクション、並べて比較してみればいいのである。いや、コピペの誘惑は我慢して。全体の構成などは、師匠の作品をシーンごとに小分けして並べ方を学ぶ、そんな手もある。文章そのものや筋そのものではなく、自分でバラした『話の並べ方』なら、そっくりそのまま真似ても盗作にはならない(おい)。


07月27日 木  まあ学者さんも金あっての研究ですから

 『たばこの煙に、ダイオキシンに似た毒性を持つ化学物質が大量に含まれている可能性が高いことを、北村正敬・山梨大教授らが突き止め、米医学専門誌に発表した。喫煙者は肺がんなど健康を損ねるリスクが高いが、このダイオキシン類似物質の作用が、リスクを高める要因のひとつと考えられるという。ダイオキシンは、細胞内の特殊なセンサー(受容体たんぱく質)に結合してそれを活性化させることで、がんや免疫異常などを引き起こす。同じ受容体を活性化させる力があれば、ダイオキシン以外の化学物質でも似た毒性を発揮する。たばこにも微量のダイオキシンが含まれているが、1日20本吸ってもダイオキシンの摂取量は基準値を超えないとされる。(読売新聞)7月27日14時42分更新』。
 えーと、ダイオキシンそのものの毒性に関する有象無象の煽り告発お祭りデータ問題は、どうなったのかしら。まあ、学者さんも世間的話題性や業界内でのハバによって動かせる金が違うという点では、マスコミ・エンタメ業界と同じだから、煽りのトレンドには敏感なのだろう。
 まあ確かに急性毒性においては、動物実験(かわいそうなラットやマウスさん)によるとサリンやフグ毒を凌ぎ赤痢菌に匹敵するそうだが、不思議に動物の種による致死量差が極端な物質で、モルモットさんよりハムスターさんのほうがなんと8000倍強いそうな。つまり、モルモットさんがコロリと逝く量のダイオキシン食っても、ハムスターさんは元気。えーと、人間の場合のデータは――あるわきゃねーよ。環境ホルモンとしての影響を含め、推定の数字(データではない)なら、もうケタが数種類揃っておりますが。
 そりゃ積極的に摂取したいとは思いませんけど、そもそも発生源の90パーが、一般・産業廃棄物焼却だし。

 ところで、念のため。ちょっと前に「ただの水でも10リットルいっき飲みすれば中毒死」と記しましたが、これは水を飲みすぎて腹を壊すとかいうギャグやたとえ話ではなく、実際に体内の水分過剰により意識障害やけいれんなどを起こして死んでしまうらしいです。まあ、アルコール類のイッキとは違い、普通の人なら先に吐いちゃうでしょうけど、大昔はそんな拷問もあったそうですし、近代国家でも統合失調症の合併病などで見られるとのこと。


07月26日 水  夏の光

 一片の雲もない青空、夏の光、乾いた風――束の間のリゾート気分。
 当方、湿気さえ無ければ、暑さもさほど気にならない。風があれば完璧だ(まあ、大概の方はそんな嗜好か)。たとえば昨日までのじとじと湿気だと、気温がいくら下がっても、ちょっと出歩けば『汗まみれの臭そうなぶよんとしてしまりのない中年おたく狸』になってしまうが、今日の天気なら嬉々として終日徘徊したくなる。金が無いのでできないが。
 たぶん、本来、自分はカリフォルニアの砂浜に穴を掘って棲みつき、時々顔を出して浜辺で遊ぶろりや女性のおしりを眺め、うんうんうんと頷きながらまた引っ込み、穴の奥で丸くなって寝ている――あるいは、冬期は物皆凍てつく、夏なお寒き北欧の森林地帯に穴を掘り、たまーに通りかかるろりや女性のおしりを眺め、うんうんうんと頷いているところを猟師に撃たれて、皮を剥がれて身は狸汁にされる、そんな環境に適しているのだ。

 昼過ぎに起きて洗った、窓辺のジーパンとシャツが、夕方にはからりと乾いている。風があるのでエアコンもいらない。♪いっつっもっ、こんな日〜だったら〜いいの〜にな〜〜♪ ――思わずイルカさんの『なごり雪』のB面の歌を口ずさんだりする。なんという曲名だっただろう。しかしあの青春時代の記憶力や体力はすでに衰えてしまっているので、どこかにあるはずのそのシングル・レコードを、探そうとする気力はない。

 明日からまたじとじと天気に戻るようだ。今年はつくづく梅雨が長い。


07月25日 火  縁(えにし)

 で、雑誌『メフィスト』の最近の号がどこを探しても見当たらず、ふと気がついて図書館で資料検索したら、なんのことはない、雑誌コーナーにきっちり揃っているのであった。めでたしめでたし。応募要項や、編集長さんの具体的な「こーゆーの送ってね」的ご意見も確認。ついでにふと思いついて、ファンタジーノベル大賞で最終選考に残れず(有り体に言えば二次選考落ちなのだが、こう言ったほうがなんだかかっこいい)、テコ入れしてそっちに送り直すつもりの死美人物件がらみで、小道具の『遠野物語』も検索してみたら、原書の復刻版が書庫にあるらしく、貸出禁止なのでその場で閲覧依頼したのだが――わはははは、遠い昔に岩手の記念館でかいま見た原書の記憶とはうらはらに、表紙にはただ『遠野物語』とただ一行印刷されているだけで、著者名等は奥付にあるのみ。まあここをご覧になっている方々の中のさらにごく少数の皆様もとうに忘れ去っているだろうが、あの作中、秋野先生や綾さんが見ていたその本には、著者名まできっちり印刷されていたりする。わはははは、己の貧相な記憶力など信じ、そんな嘘八百を堂々と記してしまった私馬鹿よね〜お馬鹿さんよね〜♪ などと歌ってごまかしつつ、念のためひととおり目を通そうとしたら、ペーパーナイフでページを分離しないと読めない造本なのであった。読めない状態で『資料』と言えるのか、と訝りつつ、まさか図書館の蔵書をこっそり切り開くわけにもいかない。
 さて、『メフィスト』や、『新庄節』の入った民謡CDなどを借りて(なんでそんなCDを借りたかも、ごく少数の皆様もとうに忘れ去っているだろうが)、帰途、買い物ついでに途中の古本屋に寄ると――縁という奴はつくづく面白い物で、さっき見たばかりの『遠野物語』原書復刻版が、「おっちゃん、遊ぼ」と言わんばかりに並んでいるのであった。もともと流通が多いのか、あるいはかなりヤケがあるためか、値段も840円とかなりお手頃。当然のごとくレジに運び――今現在、「へっへっへ、痛くないよ痛くないよ」となだめすかしつつ、なんかそっと挿入したり優しく破ったり、開いて覗き込んだりしているわけである。

 しかし、切り開かなければ読めない書物を切り開かないまま転売してしまうという行為は、『愛書』ではなく『縁の放棄』だと思うが、どうか。


07月24日 月  ヘプバーン(『緑の館』)賛江

 ふと『緑の館』(古いビデオからのダビング)を観直し、相変わらずの(そりゃ同じビデオなんだから当然か)ヘプバーンの妖精っぷりと、ギアナ高地の風景の壮大さに酔って、どこかでDVDが出回っていないのかと探してみたが――皆無。アメリカではVHSのみ生産されているようだが、日本ではビデオすら廃盤になったまんまである。テレビ放送もここウン十年皆無。なぜか本国でも「ヘプバーン映画では珍しい駄作」との評価が多く、公開時にも大赤字、日本でも酷評が多かった(今も多い)ようだ。
 な、なぜ? やっぱり自分の感受性は歪んでいるのだろうか、と不安になるが、やはり何度観ても、酔ってしまう。秘境風物の絵空事っぽさや一部作り物っぽいセットや原作の改変などのマイナス要因(批判者から見れば)も、すべてはギアナ高地の「うおおおおお」的実景と、ヘプバーンのこの世の者とは思われぬ「うああああああ」的存在感に覆い尽くされ、こりゃ絶対大スクリーンの映画館かワイド画面のデジタル・リマスターDVDで観なきゃ死ねんだろう、そんなファンタジーだと思うのだが。大体上記のマイナス要因など、昨今の娯楽作品の大半にも当てはまるのだし、特に背景映像など、中途半端にリアルなCGより、情の籠もったハリボテや書き割りやミニチュアのほうが、まだ感情移入しやすい。
 監督が撮影当時ヘプバーンと新婚アツアツ状態だったので、「どーだ俺の女房最高だろ羨ましいだろ」的に目がくらんでしまっており、そのためキャラに合わない役をやらせてしまったなどという評判もあったようだが――いいや、それはおかしいぞ。どう見てもあの天然フシギ娘は、当時ヘプバーン以外に適役がいるとは思われない。原作の野生ギアナ娘はともかく、あの「イッちゃう系」シナリオでは、あの役作りしかないだろう。
 そりゃ洒落た都会の妖精的女性役もいいが、彼女が種々の意味で作劇上完璧な「異界の住人」として成立してくれているのは、『ローマの休日』と『緑の館』だけではないのか。まして最後に「ホントにあっち側へ連れてってくれる」なんてのは、『緑の館』ただ一本。
 多くの人間が「生きながらイキたがっている」今だからこそ、映画『緑の館』は再評価されるべきだ。


07月23日 日  とたぱた

 昨夜ふと『電撃』のHPを覗いたら、ありゃりゃ、第一次選考通過者が、きちんと読みやすく発表してある。「ううん、もう。いぢわるなんだから、もう。発表号発売といっしょにUPしといてよ」などとグロく拗ねつつ、まあシャナがキーボードの横でメロンパン食ってるから良しとしよう。
 で、ついでに新潮社の『日本ファンタジーノベル大賞』のHPを覗くと、ありゃ、いきなり『最終候補作』が発表されている。最終候補は4作のみなので、自作が載っていないのは仕方がないとして、例年はHPでも第一次や第二次を小刻みに発表してくれていたのに、今回はいきなり最終候補のみ発表? そういえば『小説新潮』もそろそろ発売だったか、じゃあ、そっちに何か詳しく――と言うわけで、また書店へ。
 ありました。おお、死美人物件が第一次を通過していた。今回は応募総数が379編と少なかったためか、第一次選考通過45編→いきなり最終候補4編→決定、そんな3段階選考らしい。しかし2段階まとめて発表されてしまうと、途中で落っこちた身は、喜んでいいのか悲しんでいいのか、どっちつかずだ。せめてひと月くらい間をあけて、「虫のいい夢想」と「どーんと落ち込み」の2段階サービスが欲しいところ。
 なにはともあれ、この賞で第一次選考を突破できたのは、かなりめでたい。『ファンタジーノベル』とは言っても、窮屈な『剣と魔法』ルールブックも『萌え』もほぼ無縁、お子様無用の文芸おたく精鋭戦だ。老狸の好む「現実を一皮剥いた、奇妙かつ面白い世界観の徹底構築」を競う賞である。旧版の死美人が前回『ホラー小説大賞』の一次もかすらなかったのは、「時系列の修正漏れ」「怪奇物だが恐くない」、そんな理由だったのだろう。怪異お耽美幻想トンデモ物語としては、そう捨てた物ではないはずだ。諦めるにはまだ早い。実は未だにねちねちと推敲を重ねたりしているのだが――ジャンル上、あとは『講談社メフィスト賞』に再々挑戦で打ち止めというところか。しかし肝腎の応募要項が載っている雑誌『メフィスト』、一昨年までの古い号しか持っとらんのよなあ。ネットにも最新の応募要項は落ちてないし――最新号の売れ残りか古本、探してみよう。

 しかし、やはり自分のフィールドは、『ライトノベル』の世界ではなさそうだ。シリアスもギャグも、やはりヘビーを目指そう。


07月22日 土  つれづれ

 夕方買い物に出ると、駅前が妙に混雑。なんと、今年は駅前で盆踊り大会をやっている。バスなどは通らない、いわば裏口とはいえ、なんぼなんでもこの都会の駅前広場に櫓を設けて、狭い歩道に露店まで並べてしまうとは……まあ去年までの、ちょっと離れた車道を一区画歩行者天国状にしてしまうよりは、車両通行への影響は少ないのだろうが、人間様のほうは、ますます窮屈になるばかりである。で、ちょうど始まったひと踊り目の曲は、いきなり「♪めちゃんこ、めちゃんこ、めっちゃんこ〜♪ あ〜ら〜れ音頭で、んちゃちゃっちゃ〜♪」。……いや、おじさんは大歓迎なのだけれど、今のよい子の皆さんにも、この歌は認知されているのだろうか。

 書店を覗くと『電撃大王』に第一次選考結果が出ていたので、懐の寂しさもあり立ち読みで済ませようと思ったが、これがまた258もの作品名と作者名が1ページにびっしり横書きで組まれているので、とてもその場では確認できない。この前の『野生時代』の時とは違い、どうせ畑違いの自作名が載っているはずもないのだから確認放棄しようかとも思ったが、なにやらオマケにシャナのフィギュアが付いていたので、やっぱり購入。で、自宅で確認したら、やっぱりハズレ。しかしまあ、応募総数2931編だそうである。下読みさんが何十人いようが、到底個々に目を通せる数ではない。たぶん送った物件は、「誰にも読んでもらえなかった」のである。プロフィールのためか梗概のためか、はたまた文体のためかは解らないが。まあ、予想していたことなので、メロンパンを頬張るシャナちゃんが残念賞ということで。

 久方ぶりに、カレーを自作する。懐の寂しさもあり、今回は牛さんではなく、鳥さん。例によって焦がしタマネギとピーマンもどっさり入れ、とてもおいしい。今回からは冷凍保存が可能なので、チョンガーでも連日カレーばかり食い続ける必要がない。

「おいしーね、ぱくぱく」
「んむ。むしゃむしゃ。これで、てっぽーむしもはいってたら、かんぺきだ」
「ふるふるふる。……ちま、ちま」


07月21日 金  スタローン賛江

 などとタイトルを打っておいて、『賛江』という言葉の意味や用法を、生まれて一度も確認したことがないのに気付き、慌てて手持ちの辞書やネット辞書をあたってみたが――ない。世間での使用は推定ひゃくおくまん回に及ぶと思うが、あくまで俗語か当て字なのだろうか。でも、俗語だって当て字だって、これだけ使用例があれば普通辞書に載るよなあ。
 閑話休題。
 地上波で録画した『デイライト』を観て、思わずうるうるしてしまった。以前劇場で観た時も、『ポセイドン・アドベンチャー』(元祖のほう)以来の正統派パニック脱出劇と、感激した記憶がある。スタローンは、同じ肉体派扱いだったシュワルツネッガーに比して暗鬱な屈折感があり、それだけに地味で当たらない映画も多いのだけれど、なんといっても男泣き『ロッキー』の自作自演で表舞台にデビューしただけあって、『挫折からの根性巻き返し』キャラを演じると、筋肉の張りまで違って見える。あの『ロッキー』もまた、肉体派新人のスポ根デビューと言うより、ポルノの端役等で糊口をしのぎつつも極貧にあった映画関係落ちこぼれ青年の、起死回生低予算映画だったのですね。
 なにより、シナリオの志がいい。パニック映画というと、器用な監督でもついつい「誰をどう殺しどう生かして見せ場を繋いで泣かせるか」に走り、愚劣な連続人死に映画にしてしまうケースが多いが、『デイライト』は『ポセイドン・アドベンチャー(しつこいようだが、元祖のほう)』同様、「どう生きようとするか」がテーマであり、死にゆく者たちの『生』もきっちり描かれる。パニック映画においては、そこいらの生死観次第で、「人死にアーパー見せ物」に終わるか「はらはらどきどきうるうるうる」に達するかが決まる。まあパニックに限らず、ホラーでもミステリーでも、基本は同じか。
 まだ観ていないが、今年の『ポセイドン』や『日本沈没』は、どうなんだろうなあ。少なくとも観た方々のご感想を見聞する限り、どうもそれぞれの素晴らしい元祖から遠い仕上がりのようだが、観ていない内はなんとも言えないので、いずれ観る機会があったら観てみよう。しかし、「昔の映画ほど熱くない」という評判を聞いてしまうと、どうも劇場に走る気になれんのよなあ。金もないし。
 たとえば同じ山岳アクションとして、スタローンの『クリフハンガー』調を期待しつつ『バーティカル・リミット』を観てしまった時の底冷えのするような激怒(?)、あるいは同じ大和戦記として、『連合艦隊』調を期待しつつ『YAMATO』を観てしまった時の烈火のごとき虚しさ(?)、あんなものを、1800円身銭を切った上で味わったりしたら、今の自分は、それこそ「俺の3日分の飯代をどーしてくれる!」級の慟哭状態になってしまう。


07月20日 木  うろうろ狸

 本日は一日蟄居の予定だったのだが、そんな日に限って久しぶりに雨が上がり、午後遅くになると雲の切れ間まで現れた。ううん、いぢわるいぢわるう、とグロに拗ねつつ、湿った狸毛を乾かしがてら、図書館へ。久しぶりにろりも大量に拝め、眼福。童心に返って小川未明や宮沢賢治など借りる。
 帰途に本屋に寄り、明日発売予定の『電撃』関係がなんかの間違いでもう並んでいないかと探してみる。幼時の田舎の本屋などでは、雑誌類は前日到着直後に並べてしまう店も多かったのだが、さすがに現代の都会では有り得ないようだ。いや、そっちにもなんか送ってあり、そろそろ第一次発表の頃合いなのですね。例によって『主人公は若者だがけしてライト文体ではない』話だし、時代も古いし、まあこちらは99パー予選落ちだろうなあ。

 近頃、またどこかの『下読みさんとお知り合いの作家志望さん』のページで、「(1)原稿用紙が正しく使えているか。(2)日本語が的確に使えているか。(3)読めるか。――それが第一次の選考基準である」という意の文章を見かける。えーと、あの、それって、あくまで『それを満たしていないと確実に第一次で落っこちる』だけの要件なのではないでしょうか。まあ種々の賞の中には、そんな投稿者=読者へのサービス精神に溢れた賞もあるのかもしれませんが。
 もっとも、「(3)読めるか」という表現、手書き文字の巧拙や読みやすい印字形式といった即物的な意味でなく、「最後まで読み通せる程度に面白いか」という意味ならば、実に適確な選考基準なのだが――そうなると、これはもはや「最初に読む方と波長が合うか」になってしまうので、結局「(1)原稿用紙が正しく使えているか。(2)日本語が的確に使えているか。(3)時の運」という事か。


07月19日 水  まあ好き好きなんですけどね

 エンタメ小説に余計な修飾は不要、ときっぱり断言してくださる作家の方や読者の方々が多いようで、自分でも模索期にはそんなドライな文体を試みたりしたものの、結局、読むのも打つのもそれではちっとも面白くないのに気づき、やはり簡潔なら簡潔なりに、なんかいろいろ心理と描写と演出の綾を、読み打ち(もはや『読み書き』ではないキーボード人生)したいと思う。
 たとえば、エンタメ小説の大御所クーンツ氏も、確か『ベストラー小説の書き方』において、「会話シーンにいちいち話者の表情や仕草を入れるのはストーリー進行を阻害するので、『誰それは言った。』『誰それは答えた。』、そんな最低限の情報のみおさえるべき」という意の主張をされている。自分はそれを読んだとき、なぜ自分が氏のベストセラー群をどうしても読み進められないのか、いっぺんで理解できた。やっぱり自分は情動派なのである。どんな面白い筋であっても、キャラや世界から香り立つ『情』まで、作者ではなくこっちに委ねられては、まるで主線だけペン入れした漫画を読まされるような気分だ(もちろんその主線だけでとんでもねーイキオイのある漫画や、会話の羅列だけでそのキャラの表情まで思い浮かぶような、会話巧者の方の小説は別だが)。いわゆるラノベ系も、その傾向が強い。まあ、そうした『筋の判りやすさ』『細部の演出は読者の脳内でお好きなように(面倒ならやらなくても可)』『イラスト参照』といった風合いが、昔の絵物語のような、間口の広さに繋がっているのか。

 ころりと話は変わって、なんかいろいろのついでに例の売れ残りエロ同人誌を『とらのあな』に持ち込んだら、やっぱり古すぎて買取不能とのこと。「1995年前後は、同人誌が低調だった頃なんですよねえ」などと、若いアンチャンに蘊蓄を垂れられる。「そりゃあんた、今みたいに『節操皆無超過激美少女キャラ色情狂化しまくり虐待惨殺鬼畜風味・でも画力は美少女限定でプロなみ』の時代じゃなかったんよ」などと心で思って口には出さず、雨の中、またクソ重い袋を大汗かいて持ち帰るのに嫌気がさし、一部の個人的愛着物件のみショルダーバッグに移動、残りの有象無象を別の弱小古書店(エロ雑誌・写真集系)に持ち込んでみた。店番はやっぱりバイトらしい若者で、こりゃあかんかな、と思いきや、「……うちだと一冊200円くらいで売らないといけないわけですからねえ。ちょっと客層違うもんで」などと言い訳しつつ、それでも20冊ひと山を600円で引き取ってくれた。聞けばU15系写真集やろり系コミックスは、その若者がひとりで担当しているとのこと。財布は重くならなくても、なんか、心と体が軽くなりました。ブック・オフ形式の影響か、個人経営の古本屋でも『古びた雑本』は突っ返されがちな昨今、稀に残っている『なんでも引き取ります』の独立独歩系古本屋さん、長くがんばってほしいものである。マニュアル化された小綺麗な新古本の海から、まっとうなおたくが誕生するとは思われない。


07月18日 火  他人の傷は痛くない人々

 秋田の連続児童殺人事件は、ますます『フシギママ大暴走』の色を濃くしつつある。『演技性人格障害』という言葉に該当しそうな女性は、過去にパートさんなどで稀にお目にかかったが、確かに「この方、もしかして多重人格?」状態だった。嘘が上手いのどうのこうのでなく、とにかく矛盾した嘘に自らハマって次々と連鎖的に矛盾した行動を重ねるから、周囲の正気な人間は、どうにも理解のしようがない。そしてその犯人以上に腹がたつのは、相変わらず矛盾した言い訳を繰り返す秋田県警である。もはや『無能』と後ろ指をさされても、すなおに頭を下げるべき状況だと思うのだが。こうして「狂ってしまえば恐くない」親も子も、日々増殖していくのか。

 『
大阪府寝屋川市立中央小学校で昨年2月、教職員3人が殺傷された事件で、殺人罪などに問われた無職少年(18)の公判が18日、大阪地裁(横田信之裁判長)であり、少年は「(再び)事件を起こす可能性はあると思う」と述べた。被告人質問で「今回のような事件を二度と起こさない気持ちがあるか」と問われ、少年は「そういう気持ちはあるが、自信は正直ない」と説明。理由については「自分には凶悪な部分が一部ある」と述べ、具体的には「犯罪妄想が浮かんだりすること」を挙げた。また、検察側が冒頭陳述で「強い関心を寄せていた」と指摘した神戸市の連続児童殺傷事件の加害男性について「あこがれとは違うかもしれないが、はまっていた」と述べ、2000年の西鉄バスジャック事件には「神戸の事件の次に興味があるという感じ」と話した。(共同通信) - 7月18日19時23分更新』。

 ……嘘も正直も、その世界に自分しかいない限り、同じ虚(うつろ)だ。まともな教育を受けられなかった女の姿の虚(うつろ)に不幸にして関わってしまった彩香ちゃんや豪憲君、せめて彼岸では仲良く遊んでいて欲しいものである。しかし縁もゆかりもない18歳の虚(うつろ)に刺し殺された中年教師は、残された妻子の事など思えば、おちおち成仏もできないだろうなあ。この上警察まで虚(うつろ)を標榜してしまったら――もはやみんな病気。下手人たちも捕り方たちも、いっしょに温泉にでも浸かって『癒やされ』ながら、うにょうにょとからっぽの世界をからませ合うのか。


07月17日 月  冗談から駒

 『ゴジラ対若大将』なる企画がかつて『モスゴジ』後にあったなどという奇妙なトリビア話を聞いて、『キンゴジ』以来のリアルタイム東宝特撮おたくとしては「おいおい、なんぼなんでもそりゃねーだろ」と思ったものの、あっちこっちで事実として語られているのに不安になり、ネット検索したら、あっさり冗談の出所が判った。ここである。いや、なかなか凝りに凝ったおたく好みのジョークのページ。画像加工も達者である。しかし最下段にちっこくウソだと記してあるのに、本気にして自分のページの特撮映画データ・ベースに加える方までいらっしゃる。『ウソだ』と当人が明言しても、それが面白くかつもっともらしければ『ホント』として広まってしまうのだから、世間やネットのガセ蔓延もむべなるかな。あんまし生真面目な方や精神年齢14歳以下の方々には、うっかり冗談も言えない。
 しかし、フォトショップやそれに類する画像ソフトという奴は、どんな冗談もバーチャル・リアリティーとして成立させてしまうからなあ。息抜きに作っている画像(未使用)を、ちょこっと載せてみよ
う。

 

 お正月向けたかちゃん用の表紙で、フリー素材の百人一首の絵札を悪戯したものです。
 フォトショ導入初期に勉強(おい)で作ったアダちゃんアイコラなどもあるのだが――永遠に非公開。


07月16日 日  おたくは一日にしてならず

 たれる金欲しさに、溜まっていたろり系同人誌と写真集の一部を、整理して売りに行く。
 両者とも今まで古本として売買したことがほとんどないので、同人誌は『まんだらけ』なら信用できるのではないかと、汗だくで秋葉原支店に運んだ。大失敗でした。要はブック・オフと同じで、新しさ・綺麗さ・売れ線のジャンル、そんな基準でばっさばっさと振り分け、個々の内容など気に止めもしない。「こちらは古くて買取できないのですが」と返されてしまった中には、当方としては今回の売却の目玉かと思っていた、新世界壮健社の『躍動』まで含まれている。つまり『まんだらけ秋葉原店』の買取あんちゃんは、それがかのあさりよしとお氏本人によるエロ同人誌であることを知らないか、あるいは『まんだらけ』そのものが、同人分野は後発のため、ノウハウが固まっていないのか。結局どーでもいーような小綺麗な同人誌ばかり、10冊1600円で引き取ってもらう。それでも購入時価格との比較で言えば、ブック・オフの倍だろう。エロ同人誌、強し。
 さて、問題は写真集。いっそ全ての所有物を売ってしまいたい状況なのだが、なにせ古オタゆえ、大半は今現在売買すると逮捕されてしまうような物件である。ああ、児ポ法発効以前に売り逃げしとけば良かった、などと思っても、その頃はまだ生活が安定していたので、どんなろりであれ、売り飛ばすなど思いもよらなかったのだ。合法と思われる穏健なろり本・擬似ろり物件を5冊ほど、神保町のその手のお店に運ぶ。こちらはさすがに神保町、一冊ごとにじっくり吟味し、若い店員さんと先輩店員さんが相談しながら何度も電卓叩いて、合計5000円なり。なんと定価の半額で引き取ってくれたことになる。と言っても、その内の2冊が各2000円という定価と同じ金額で、あとはオマケのような金額だが。――ううむ、一部のろり写真集、強し。
 それにしても、このふたつの店の買取現場、まことに対照的。事務的に1冊50円で買い叩かれた同人誌が、店頭では300円だの500円だので並ぶと思うといささか憮然としてしまうが、2000円で引き取ってもらった写真集が5000円で売られても、まったく腹はたたない。

 もし非合法物件のヤミ市場なんぞがあったら、押し入れ隠匿物件をいっきに持ち込めば、かなりの金額になるのではないか。しかし新聞には載りたくないので、『過去は合法でも現在違法な出版物を個人所有しているだけで犯罪』などという時代が来ないよう、祈るばかりである。


07月15日 土  笑っていいやら

 『北九州市に本拠がある指定暴力団工藤会が、福岡県警が制作中の青少年向け「暴力追放啓発ビデオ」について、組員の子供らへのいじめを誘発する可能性があるとして中学校や高校での上映中止を市教育委員会に申し入れていたことが13日、分かった。異例の「請願」に、市教委では「学校で上映するかはまだ決めていない」と当惑気味。県警では「いじめを誘発するものとは全く考えていない」と話している。北九州市教委によると、工藤会からの文書は「請願申し入れ書」というタイトルで、6月29日に郵送で届いた。文章は同会最高顧問名で書かれ、A4判の紙に3枚。福岡県警が制作中の青少年向け「暴力追放啓発ビデオ」について、中学校や高校などでの「上映計画に抗議する」「上映することに懸念と異議を唱えざるを得ない」という趣旨が書かれていた。理由として組員らの子供が「父親がやくざだろ」などと言われるいじめを受けることを誘発しかねないとしている。脅迫的文言はなかったという。ビデオは暴力団の悪質な実態を訴える約25分のドラマ仕立ての内容で、今月下旬か8月上旬に完成の予定。市教委では工藤会からの請願について「対応は協議中だが、ビデオについてはまだ県警で制作中であり、中高で上映するかどうかも決めていない」と当惑している。制作を担当する福岡県警北九州地区暴力団総合対策現地本部の藪正孝・現地統括管理官は「われわれとしては、いじめを誘発するものとは全く考えていない。暴力団は格好いいものではない、美化されるものではない、ということを訴える内容だ。配布先は検討中だが、青少年向けなので、北九州の中学、高校に提供したいと思っている」と話した。ビデオは現職の警察官や警察職員が出演。組長命令で殺人未遂事件を起こした組員が、取り調べを受けつつ、暴力団組織の裏切りや矛盾などに気付いていく内容だ。実在しない組織名が登場するが、藪氏は「ビデオは工藤会を念頭に置いている。工藤会らが起こした実在の事件、犯罪に基づいて作った。実際工藤会は青少年に加入を強要したり、クラブに爆弾を投げたり、市民向けの暴力をしている。『いい暴力団』なんていない、ということを青少年に伝えたかった」と話している。[2006年7月14日7時42分日刊スポーツ]』。

 ――まさか、ウケねらいじゃないよなあ。他人の子をナニするのは『シノギ』で、自分の子を思うのは『愛』なのですね。しかし、我が子のために転職するほどには愛していないらしい。それほど自分の職業に信念を持っているのだろう。『愛』よりは『シノギ』に殉じたい――『自分の子供がイジメられる』のはイヤだが、『他人の子をイジメる』のはお仕事。
 まあ、個人としてだけでなく人の親としても、徹頭徹尾『俺らだけいい思いをしたい』という人生観は見せていただきました。どうかそのビデオを観た少年少女たちも、組員さんたちのお子さんへの、無差別なイジメは控えて欲しいものです。我が親を反面教師にして育つお子さんも、この世には多いのですから。もっともそのお子さんが親同様の人生観を持っているようだったら――イジメと正当防衛は違いますから、それなりの愛の鞭が必要かと。


07月14日 金  夏と旭兄イとジタン

 じっとしていてもしたたる汗。空いっぱいの入道雲。雷鳴と夕立。――ああ、夏ですね。

 ケーブルで録画しておいた大昔の日活映画、『遙かなる国の歌』を観る。若かりし頃の小林旭兄イを堪能。ついつい「ああ、この人になら、あげてもいい」と垂涎してしまう。私は残念ながら前は童貞ではないが、後ろは処女(処男?)である。さらに若い山内賢さんの可憐なこと可憐なこと(おい)。例によってお金も時間もかかっていないプログラム・ピクチャーだが、演出も脚本も、きっちり仕事をしている。こうした『締まった男の美顔(ツッパッた美顔や、トンガった美顔ではない)』『バランスのとれた肉体(根性で改造した肉体ではない)』や、作劇上の職人芸が、例によって若い批評家やブロガーなどにキッチュ扱いされてしまうのは、不思議を通り越して、嘆かわしい。情緒的にも知的にもつくづく鈍感な、大人顔の幼児が増えてしまったのだなあ。趣味嗜好以前に、大人が大人のために作る物と、大人が子供のために作る物と、子供が子供同士で作る物の区別がつかないのだ。まあここウン十年、肝腎の大人が、子供に子供映画作らせて上前をはねる算段ばかりしているから、その憐れむべき被害者なのかもしれないが。
 ネット・レンタルで、『喜劇・怪談旅行』も届く。これも添え物の軽喜劇ながら、幽霊女房ネタの手堅いファンタジーであった。

 ところで、いきなり『テロリストの売春婦の息子』と言われた時、相手に頭突きかましちゃあかんのだろうか。そこがサッカー場だろうが街角だろうが、悪意による、明らかに事実ではない雑言を受けたら、普通「いいえ、私の母はテロリストの売春婦ではありません」とお行儀よく説明はせんだろう。フランスの大勢意見に賛同。「子供の教育に良くない」「ジダンだけ英雄視して、自国内の荒れるマイノリティーのヤングたちを厳しく罰するのは片手落ち」という意見もあったと聞くが、まったく次元が違うのでは。もし自分に息子がいて、スポーツの対戦中『お前の親父は醜い男メカケだ』と言った相手に頭突きぶちかましたら、私ゃ褒めてやりたいと思いますね。スポーツ精神だの、プロ意識がどうのこうの言う前に、そこで頭突きカマしてしまう人間のほうが信用できますもん。

 つまり、そこでなんの躊躇もなく頭突きかましたりかまされたりしてしまうのが旭兄イの映画世界であって、なんじゃやら表面平和的に双方イジケまくって頭がおかしくなって、数年後に金属バット振り回したりするほうが、大人の顔をしたガキの世界だと思うが、どうか。いやあ、やっぱりその国の映画等を観ても解るように、フランスは大人の国だ。近頃一見ハリウッド調に毒されているとはいえ、根底ではきちんと、『集団』を『別個の立場の人間の集合体』として認識している。

 ああ、なんだかおばちゃま、ジョゼ・ジョバンニ監督の『ル・ジタン』が観たくなっちゃったわ。1975年の末期フィルム・ノワールで、シブい中年のアラン・ドロン様演じるジプシー出身の一匹狼ギャングさんが、それはそれは哀切で美しいのよ。(猛暑のせいか久々に分離)。


07月13日 木  ふぁっしょいふぁっしょい、お祭りだい

 現状において『愛煙』を主張することは、なんでかもはや『偏屈者』のみならず『分からず屋』『自分勝手』とまで言われてしまうことがあるようなので、嫌煙・愛煙・どっちでもいーや、それらすべての方々に、下記のブログとページをご一読いただきたい。

  http://tanshin.cocolog-nifty.com/tanshin/2005/09/a_hrefhttpwwwbe_bd7e.html
  http://www.bekkoame.ne.jp/~hmuroi/kenen.html

 なお、後者は公的にパンフレットとしても配布されているようなので、念のためそっくりそのまま転載させていただく。ブログやHPという奴は、しょっちゅう行方不明になってしまうので。


 「嫌煙運動」という神経症(「嘘まみれの嫌煙キャンペーンを大学人はどう考えるのか」改訂版)
             横浜国立大学・教育人間科学部・メディア研究講座・教授・室井 尚

  0.はじめに

 日本における最近の禁煙・嫌煙運動は明らかに行き過ぎであると思われます。とりわけ「科学」や「医学」の名前を騙って、いかがわしい宣伝をするやり口からは病的な強迫神経症が感じられます。嫌煙団体が発表している合成写真や誇張された数字の羅列は目に余るものがあります。浅野牧重氏による人工的に捏造された「きれいな肺とタバコによって汚れた肺」が小学生用の副読本やいろいろなパンフレットに転載されていますが、これが捏造写真であることはあまり知られていません(生体の肺はけっしてあんな風に黒くはなりません)。タバコの害を強調したい余り、不正確で誇張された情報が氾濫しております。私たちは世の中のメディアで流通するでたらめな情報に惑わされず、冷静な科学的検証に基づく議論をしていかなくてはならないのではないでしょうか。
 「悪いもの」「汚いもの」「役に立たないもの」「不快なもの」はすべて排除してもいいという考え方には文明の病理が色濃く感じられます。WHOや北米の清教徒的な宗教倫理に後押しされ、何の論議もないままに突然施行された「健康増進法」という、名前を口にするだけでも恥ずかしくなるような悪法を作り出した日本は、歴史に汚点を残したと言えます。ここでは、「タバコが肺ガンなどの原因になる」「受動喫煙は非喫煙者の健康を損ねる」という二点だけに絞って、禁煙・嫌煙キャンペーンの「嘘」を暴いていきたいと思います。


  1.タバコは肺ガンの原因か

 肺ガン死亡者の増加が喫煙人口の増加と比例しており、喫煙とガン死亡者の増加が相関していると言われています。けれども、過去35年間で肺ガンの死亡者数が約10倍になったという数字やグラフは老人人口の増加やCTなどの医療器具の発達によるガンの発見確率の増加をまったく考慮にいれていません。厚生省自身が発表している「人口動態統計」における「年齢調整訂正死亡率」を見ても、肺ガンの増加はごく僅かであり、ガン死亡率もアメリカやヨーロッパと比べると一貫して低い水準のままであることがわかります。
 そもそも、喫煙者人口が劇的に減少している英米などの外国でも、肺ガンによる死亡率は日本よりも大幅に高い数値を示しております。先進工業国で最も喫煙率の高い日本が肺ガンの発生率が最も低く、平均寿命世界一ということを考えてみても、喫煙とガン死亡率の因果関係はけっして明確であると言うことはできません。他に複合的な要因があるとしか考えられません。自動車の排気ガスや飲酒がガンを引き起こすという実験医学的データはあっても、タバコの煙だけでガンが発生するという評価に値する実験結果は、世界で一例たりとも知られていません。すべてが疫学的統計調査に基づいて恣意的に数字を操作したり、誇張して伝えているだけであり、「タバコ=肺ガンの原因」説は科学的には根拠があるとは言いがたいのです。膨大な量の「タバコの害を証明する」コホート研究のほとんども最初から「タバコは有罪である」という先入観に満ちており、意図的にタバコの害が強調されています。そして、タバコが子宮体ガン、乳ガンの発生率を逆に低めるというデータや、アルツハイマー病にかかる確率が非喫煙者の1/3であるという事実、ラットなどの実験で迷路学習能が上昇するなどといった、嫌煙派に都合の悪いデータはなぜか余り表に出てくることはありません。
 どうしてなのでしょうか。それはこれらが嫌煙派の人々によって恣意的に解釈されたデータであり、科学的な検証よりも感情的な議論ばかりがなされてきたからです。たとえば、肺ガンによる死亡率は人口十万人あたり数十人です。ということは、百人あたりに換算すると僅か数百分の何人という計算になります。その中で非喫煙者と喫煙者の肺ガン発生率の違いの統計的有意性はほんの僅かなものです。たとえば、1:1.3というような比率のもつ有意性が統計学的には「喫煙者が肺ガンにかかる確率は非喫煙者の5倍から10倍」というように解釈されているのです。確かに統計を管理する側にとってこれは大きな(有意な)違いかもしれません。しかし、個人の立場に立ってみれば、これを「多い」と思うか、「たいしたことない」と思うかという「解釈の違い」の中にしか、「タバコの害」の根拠は存在しないのです。
 また、喫煙者がタバコを吸うのをやめても、この数字はまったく減少しないことも知られています。つまり、禁煙しても、「肺ガンにかかりやすい」という確率はまったく下がらないし、少なくともその点だけを見れば禁煙には何の意味もないことになります。肺ガンとタバコの因果関係が疑わしいということに気づいた嫌煙派側は最近になって急に、気管支炎、心臓病、COPD(慢性閉塞性肺疾患)の危険性を強調する方向にシフトしてきています。しかし、これらの病気とタバコの因果関係もまったく証明などされておりません。特に最近まで100%喫煙が原因とされてきたCOPDが非喫煙者で多く発生していることからも、このタバコ=病因説は一層怪しくなってきています。あるいは、医学関係の学会が「喫煙は病気である」という声明を出したり、喫煙者を「ニコチン中毒者」と病人扱いをしたりするような最近の傾向は、明らかに集団ヒステリーと言うべき不気味な現象です。小谷野敦(2005)は主要マスコミまで加担している異物を排除し、反論を封じ込めようとする傾向を「禁煙ファシズム」と名付けていますが、確かにそう呼びたくなるほど最近の嫌煙運動それ自体が文明の病的な兆候であると思われます。
 いいかげんなデータを転用しながら「タバコの害」を誇張するキャンペーンに加担している人たちは少なくともその元になっているデータを参照し、批判的に検証してみるべきではないでしょうか。そうでないと、それは無責任で非科学的な態度だと言われても仕方ないと思います。
 タバコの煙は喉や気管を刺激し炎症を起こしますから、慢性閉塞性呼吸障害や虚血性心疾患の人はタバコをやめた方がいいのはもちろんです。しかし、それ以外にタバコが健康に深刻な影響を及ぼすということは、科学的・医学的には全く「証明」などされていないというのが(「無害である」と証明もされていないのと同じく)真実なのです。


  2.タバコは発ガン物質の塊か?

 それでもタバコの害を信じる人たちは、不確かな疫学的データに重ね合わせて、予防医学の発達によって知られるようになった有害な「発ガン物質」の存在を引き合いに出してくることが多くなっています。確かに、タバコの成分中約1千万分の5グラム前後のいわゆる「発ガン物質」が含まれていることが知られています。しかし、焼肉や焼き魚の焦げが「発ガン物質」とされているように、ラットなどへの強制摂取実験によって発ガン性があるといわれている「発ガン物質」は他にも数多く知られており、お茶、コーヒー、みそ、醤油、ソース、ワインなど多くの食物にはタバコよりももっと多様で大量の「発ガン物質」が含まれているのです。その上、タバコの中にはその逆に発ガンを抑える「発ガン抑制物質」も数多く含まれていますが、そのことに触れられることはあまりありません。我々が飲んでいる水道水には1グラムあたり約百万分の5グラムの発ガン物質「トリハロメタン」が含まれていますが、これは安全基準を満たしていているとされています。一日に1リットルの水道水を摂取すれば、それはタバコの約一万倍の「発ガン物質」を摂取していることになるのです。つまり、タバコの発ガン性とは他の食品や日常摂取する水道水と比べても遥かに低く、通常ならばまったく問題にするほどのものではないのです。タバコをまるで猛毒の「発ガン物質」の塊のように言う人は、水道水やみそ汁、お茶などをはじめ日常的な食事のすべてを否定しなくては論理的におかしいことになります。また、ラットなどへの強制喫煙で何かの症状が発生するだけのタバコの量は、人間の場合一日数万本に当たります。そんな量のタバコを吸う喫煙者や受動喫煙者は実際には存在し得ないのです。誠実な研究者なら、発ガン物質が存在するかどうかよりも、その摂取量をなぜ問題にしないのかを問わなくてはなりません。そして、その量は喫煙者の場合にも受動喫煙をさせられる非喫煙者の場合にも、生活の上で問題にならないほどの微量なのです。


  3.受動喫煙でタバコを吸うとは本当なのか

 タバコの副流煙を吸うことで健康に被害を与えるという、いわゆる「受動喫煙の害」にもよく調べてみるとまったく科学的な根拠がありません。そのほとんどは、動物などの気管を切除して強制的に濃縮した副流煙を浴びせるという実験によるもので、これらの実験の科学的な信頼性には大きな疑問があります。大気中の副流煙は数千倍から数万倍に希釈されています。また疫学的な調査による結果も副流煙の害に関する決定的な証拠はありません(肺ガンは5倍、咽頭ガンは50倍、喫煙者の妻のガン死亡率は2倍といった衝撃的なデータを発表した元国立がんセンターの平山雄博士の論文のいい加減さとデータのいかがわしさについては多数の指摘があります)。また、世界的にも食べ物の嗜好や、生活スタイルなどの違いを加味した研究や、ジェイムズ・エンスローム博士らによるカリフォルニア大学の調査(2000)では何の有意性も発見されていません(小谷野2005巻末に所収)。事実としては、少なくとも大人の場合に「受動喫煙によってガンの発生率が上がる」という証拠はどこにも見つかっていないのです。但し、幼児や子供の場合には過度の受動喫煙によって肺の成長が若干遅れるというデータはあります。このことと、上記の「副流煙には多数の発ガン物質が含まれている」という事実の「合わせ技」によって、「受動喫煙の害という神話」が作り出されてきているのです。確かに、副流煙は炎症をおこした喉や気管を刺激しますので、慢性閉塞性呼吸障害、虚血性心疾患、脳卒中、動脈硬化症などの疾患をもつ人に対して悪い影響を与えます。また、煙の逃げ道がないところにずっと置かれている子供や妊婦には悪い影響を与えるという可能性も否定はできません。しかし、明確に「非喫煙者がタバコによる健康被害を受けている」という証拠はまったく無いのです。そもそも、非喫煙者は喫煙者と違って、煙を肺の奥まで吸い込むということはないのですから、実際には受動「喫煙」などという現象そのものがありえないことなのです。


  4.なせ非科学的な嫌煙キャンペーンが執拗になされるのか?

 養老孟司(2005)は、現代の「嫌煙キャンペーン」を、かつてニクソン大統領がベトナム戦争の枯れ葉剤に対する環境団体の非難を交わすために、政府の資金を使って故意に「反捕鯨キャンペーン」を作り上げたのにも似た、巨大な政治的陰謀ではないかと指摘しています。反捕鯨運動において、国連やIWC(国際捕鯨委員会)が果たした役割と、米国が主導権を握るWHO(世界保険機構)が反喫煙運動において果たした役割とは確かによく似ています。
 上に見てきたように、タバコには巷間声高に主張されているような「害」などは存在しません。あるいはより正確には「存在しているという証拠はどこにもない」のです。なのに、タバコだけがなぜこれほどまでに攻撃を受けるのでしょうか。端的に言ってそれは「煙たい」からだと思われます。タバコの煙は目に見え、匂いもします。この目に見え、鼻で感じられる「異物」を消滅させたい。自分の目に見えるところから不快なものを排除したいという意志がそこには感じられます。また、それが「科学的に証明されている」という間違った認識から「自分が正しいことを言っている側にいる」という自己満足と快感を生み出しています。そして、喫煙者を「病人」扱いするこうした人たちは自分がいない場所からさえもタバコを駆逐しなくてはならないという社会的使命感すら抱くようになるようです。たまたま自分が雑踏の中で煙たい思いをしたからと言って、路上禁煙とか屋外禁煙を条例化しようとしたりルール化しようとしたりするのは行き過ぎです。町にも人影がまばらになる時間帯もありますし、人がほとんどいない地域もあります。そんなことにおかまいなしに、とにかく「悪い」ものだから「追放する」というのは、男女合わせて約30%、男性だけだと約50%近くいる喫煙者に対する異常な迫害行為だと言わざるをえません。吸い殻のポイ捨てに関しては、マナーの周知や「携帯用灰皿」の使用を推進すればかなり改善されると思われますが、最近では「吸うこと自体が良くない」という考え方からか、「携帯用灰皿」の存在それ自体が否定される傾向があるようです。
 嫌煙側の権威として知られる伊佐山芳郎(1999)はいくつかの信じがたい主張をしています。たとえば、喫煙者はタバコ依存症の中毒患者だから、喫煙者の主張などにまともに耳を傾けなくて良いというようなめちゃくちゃな議論が公にされていることに対して唖然とせざるをえません。ニコチン依存症は確かに存在しますが、それがアルコールや麻薬に比べてきわめて微弱であり、たとえば多くの人が自力で「禁煙」していることからもそれは証明されています。また、諸外国と比べて日本の「喫煙規制対策」が遅れているというのも嘘です。このところの日本はアメリカやオーストラリアなどの清教徒主義が支配的な国々と比べてすら、過度に喫煙者の権利が圧迫されていると思います。日本人はいつからこんなに潔癖神経症になったのでしょうか?
 タバコは「百害あって一利なし」などとよく言われますが、もちろんそんなことはありません。コーヒー、お茶、酒などのあらゆる嗜好品と同じく、タバコは生活の中にかけがえのない愉しみと喜びを与えてくれます。だからこそ世界中に広まり、日本においても400年の長きに渡って愛され続けてきたのです。また、頭をすっきりとさせる効能やストレスを緩和してくる効能をはじめ、さまざまな「益」を与えてくれています。最近では構内全面禁煙にする病院なども出てきていますが、学校や職場の場合と違って、人生の最後を迎えようとしている患者の末期の楽しみまで無理矢理奪ってしまうようなこうした措置は明らかに間違っています。死刑囚ですら、刑執行の前にはタバコを吸うことを許されているのです。このような病院で死を迎えなくてはならない愛煙家は、死を前にしてすら、人生のささやかな楽しみすらも奪われてしまっているのです。
 私がここで主張したかったのは、「タバコの害」という神話が一部の人たちによるほとんど宗教的なキャンペーンの中で捏造されているという「事実」です。タバコが「煙い」のは迷惑だというだけのことでしたら、「分煙」や「換気」といった実用的な解決策がいくらでも考えられます。それが、非喫煙者にまで健康上の「害」を与えていることが「科学的に証明されている」と言われると、それは「嘘」であると明確に指摘しておかなくてはなりません。様々な実験データや疫学的調査の中で、それを明確に「証明」しているものはひとつもないのです。医学的にまだ研究途上にあるものを「既に証明されている」として、性急にも法制化やルール化までしてしまおうというこの国の現状に対して、私は大きな危機感を抱いています。「メディア・リテラシー」の重要性もますます指摘されるようになってきていますが、少なくともこの文章をここまで読んでいただいた方々には、タバコに対する現代日本のヒステリックで非科学的な主張に対して、冷静な認識を持っていただきたいと願っています。

(本稿は横浜国立大学教育人間科学部で発行されたパンフレット「ヘルシーキャンパス21」(2005.9)に発表された文章に加筆したものである)。

<参考文献>
・厚生省編(1987):喫煙と健康〜喫煙と健康問題に関する報告書〜(通称「たばこ白書」)、(財)健康・体力づくり事業財団.
・厚生省編(1993):喫煙と健康〜喫煙と健康問題に関する報告書(第二版)〜(通称「たばこ白書第二版」)、(財)健康・体力づくり事業財団.
・喫煙規制問題を考える会(1988):なぜ、タバコは販売禁止にならないかー嫌煙ブームの火つけ役『たばこ白書』を斬る、五月書房.
・橋内 章(2003):そこに酒あり煙草あり〜酒と煙草を楽しむための医学書〜、真興交易医書出版部.
・伊佐山芳郎(1999):現代タバコ戦争、岩波新書.
・養老孟司(2005):解剖学者、養老孟司さんに聞いてみました。「タバコは本当にカラダに悪いのですか?」、ブルータス「特集コーヒー・アンド・シガレット」、566号(2005年3月15日号)
・小谷野敦・斎藤貴男・栗原裕一郎(2005):禁煙ファシズムと戦う、ベスト新書.



 『神経症』という例えは、言い得て妙である。
 それが煙草となんの関係があるの、というツッコミは覚悟の上で、たとえば近頃かまびすしい右傾的な過去の侵略戦争擁護論、あれなども、なにやら『神経症』のひとつらしく思われる。たとえどんな国家状況にあったにしろ、そして仮にそれが侵略行為であったかどうかをこっちに置いといても(いや、これは話の綾であって、もちろん立派な侵略なんですけどね)、当時7千万の自国人口の内なんと350万人を恣意的に死に追いやっただけでも既知外の所業(海外ではそれ以上の人間殺した国なのよ、昔のこの国は。自虐史観でなく、確かな数字として)、責任者は当然死後も責められるべきである。
 そして、それらの痛ましい大騒動の根底には、『理屈』を『気持ち』でねじ伏せてしまう、創作物の中でしか許されないファンタジーを現実に重ねてしまう、そんな神経症的妄想があるわけです。
 と、ゆーわけで、『気持ち』と『数字』は別の物。煙草はあくまで『嗜好品』。コーヒーだって飲み過ぎりゃ胃潰瘍になります。ケーキ食い過ぎると豚になります。ただの水だって10リットルいっきに飲めば中毒死します。
 お願いですから、『気持ち』と『理屈』は、公的に混同しないで下さい。それは『神経症志願』です。分煙結構、ホタル族やむなし。私も「ケム駄目」という方の前で無理に吸おうとは思いません。ただこれ以上どこもかしこも隅っこまでイジメが続くと、しまいにゃこっちまで金属バット持ち出したくなっちゃうぞ。

 しつこいようだが、いつの頃からか、それまでさほど使われることのなかった『癒し』という言葉がのべつまくなしマスコミやネットや日常会話で流れるようになった頃から、人々は何の遠慮もなく『癒されるため』の自虐を覚え、しまいにゃ病気であることを望むようになってしまった。『憩う』『和む』といった健康な休息・平和の言霊までが、『癒される』という治療行為に置き換えられて行く。




07月12日 水  一次選考

 さて、また豚めしでも食うか、と街に出て、今日は角川の『野生時代』の発売日だったなあ、と気づき、駅ビルの書店へ。おお、おめでとう俺。アレです。って、何がアレなのか。『第二回 野生時代 青春文学大賞』の第一次選考を、なんとか通過したようだ。なんて、あっちこっち落っこちた時にはここにはいちいち記さないのに、通った時だけ詳しく記してしまう狸もつくづくセコい。モノは一昨年秋に打ったパンダ物件の、最新推敲稿。タイトルはまた変えてあるものの、このページの表にも某板にも旧版放置状態で、普通の老舗文学賞なら『既発表作品』と黙殺されるところなのだろうが、この賞は、雑誌にもWebにも最終候補作を全て掲載してから、それへの読者投票なども選考の要素とするというお祭りのような賞なので、懐が深いらしい。大体、普通の賞の応募要項に必ず載っている『未発表作品に限る』という、それが商業的発表だけなのか、同人誌バラ撒きやネットにアップでも駄目なのかまったく見当がつかないような、旧弊な記載がそもそもない。同人誌やネット全盛のこの時代、それが当然だと思うのですけどね。
 実はこのパンダ物件の旧版、脱稿直後に某ライトノベル系の賞に応募し、見事に黙殺されております。昨年はアルファ・ポリスにも載せて、なんとポイント・ゼロのまま沈没しております。まあ内容的に、我が三十数年にわたる新旧おたく要素をまとめてぶっこんであるので、お若い方々には意味不明の引用も多いし、文体もけしてライト系ではなく、むしろ古典的な喜劇なんですけどね。しかし、パロや引用部分を度外視されても、『一般的文芸物』としては成立させるという自分の芸風は保ったつもりなので、そこんとこが角川の一次通過のポイントだったのかも知れません。でも、それだけだと、やっぱり第二次では難しいか。
 とにかく大手の第一次を通ったのであり、全応募作711本のうち87本には残れたのである。そしてこの雑誌らしく、読者も応募者も『エンタメ・純文兼業おたく』が多いのか、選考過程の記事に『普通、応募原稿の三割近くが小説じゃなかったり、原稿用紙の使い方から間違ってるよみたいな感じなんですが、この賞に来ているのはほとんどが小説として成り立っているんですよ』(狼氏)とある。ともあれ編集部あるいは下読みさんのどなたかひとりだけでも、業界レベルで「これはちょっと面白いかもしんない」と思って下さったのである。たとえば小学校の頃『少年画報』に送った4コマ漫画が読者投稿欄に載ったり、漫研時代の部誌掲載作の一コマを『ぱふ』に紹介してもらったりした時の、「これって、ちょっとわくわくみたいみたいなかんじ?」ではあるわけで、もし万に一つのアレで、読者投票対象として掲載されるような奇跡が起こったときは、ここをご覧の一億二千万の中から選びに選び抜かれた推定十名前後の皆様、よろしくお願いいたします。まあ、無理だとは思いますが。

 なにはともあれ、思わず松屋で豚めしではなく牛焼肉定食の食券を買ってしまったりすると、やっぱり浮かれていたのか券売機の釣り銭を取り忘れてしまい、まるっきり気づかなかったりする。しかしこんな時には、後に続くお客さんもハッピーな方で、ずいぶん後で入って来たにも拘わらず、「あの、釣り銭、ちょっと多く出てきたんですけど」と、わざわざ店員さんを呼んで教えてくれたりする。で、牛焼肉定食には、前回まで付いていなかった大根おろしが増えていたりする。ありがたやありがたや。


07月11日 火  流れゆく日々

 田川氏のミクシィ日記で知った、ヤフオクの珍品である。もはや金がないので入札はできないが、二年前なら思わずポチッとやってしまっただろう。
 今現在、ビンボな若者でも携帯くらいは持っているだろうから、こうした豪快(?)な人生はかえって歩み難いかもしれない。しかしいずみやしげる氏は、当時どんな生活をしていたのだろう。高校中退後、フォークでデビューするまでの間の、職を転々時代か。さすがに自分も小学校時代のガロは知らないので、氏の投稿作品も見たことがない。フォークで有名になった後の、イラスト・エッセイ等は大好きだったが。

 話変わって、例の北の国の件、南の方も『日本の侵略主義的傾向に懸念』などと言い出す始末だ。おいおい、「鉄砲向けるな、誘拐した子供を返せ」、そのどこが『侵略主義』だと言うやら。どんなひょろひょろ弾だって、そりゃ先に撃たれれば「やめろ」と言いますよ。次に撃ってきた時の心配もしますよ。日本海沿岸、原発だってたくさんあるんだし。まあ、現在の米国寄りや過去の侵略戦争を思えば『気持ち』は解らないでもないが、こっちは少なくともイラクで民間人にやたらぶっ放したりはしていないし、親や祖父さんの前科を負い目に、現在の子に対する犯罪を看過しろと言われても困る。一国の政府が『気持ち』で公的発言をするのはパス。
 なんだか世界中が正気を失いつつあるという意味で、確かにこのところ、第二次大戦前に似ているのかもしれない。

 本日も日中の東京近郊は、曇天サウナ状。ハンカチを濡らしつつ上野公園のベンチで一休みしていたら、上品な老婦人に、「教会へ行きませんか?」と誘われた。大昔、カトリック幼稚園でお世話になったマスール(シスターの意のフランス語らしい)に似て、まるで慈母のごときその視線に、思わず「ああ、お母様」などとすがりたくなるが、やっぱりエホバ方向かハッピー科学方向の方のようにお見受けしたので、丁重にお断りする。ママのおっぱいが恋しい程度に退化してしまっている狸でも、それがもはや追憶の中にしか存在しないことは悟っている。


07月10日 月  Z級ぐるめ・甘味編

 当方けして山崎パンの回し者ではありませんとお断りしつつ、ここ何ヶ月かの間に、2度もほっぺたの落っこちそうな思いをしたので、一応記録しておく。
 甘い物はほとんど食わない狸なのだが、ごくまれに無性に食いたくなった時、ちっこい薄皮のアンパンやクリームパンが五個入った山崎の袋を買う。5個も入って120円から130円、特売だと100円で買えるからだ。で、他にもミルクパンやピーナツパンやバナナパンも見かけるこの薄皮シリーズでは、時々期間限定らしいレア物が、同じ値段で店頭に並ぶ。ちょっと前に食って悶絶したのは、『夕張メロン』のクリーム・パン。「こ、こんなに旨い菓子がなぜにこの価格?」と、思わず天を仰いで落涙してしまった――というのは嘘だが、大感動したのは事実である。子供の頃の田舎のシュー・クリームなどより、推定百億万倍美味だった。甘みが上品なのである。そして週末に感動したのが、同じシリーズの『女峰いちご&練乳クリーム』。これはもし100年前だったら、王侯貴族でもない限り口にできなかった味ではないのか。無論いつの時代も自然のイチゴと練乳といいパン生地があれば味覚上は再現できるだろうが、現代のこの国は、それに匹敵するものを、ヨレヨレの狸でもむさぼれてしまうのだ。
 例によってそうした時代に感謝しつつ、ふと、恐くなるのも確かである。これはもしや『誤った社会』なのではないか。つまり、今回の菓子パンやいつもの豚めし、そして回転寿司――それらすべてが、この地上のどこかの飢えた子供たちから『奪う』ことによって成立しているのではないか、そんな畏れだ。
 しかし『社会主義』『共産主義』といった理論上の理想郷もまた、すべからく『資本主義』に輪をかけた歪みと共に腐敗・崩壊していく昨今、つくづく人間という奴の業の深さを思う。
 たとえば自分が、一袋128円なら5個の中の2個半ももらえば充分、そう思った時、残り2個半がすんなり飢えた子供の口に届く、そんな社会は有り得ないのだろうか。いや、理論的には可能なはずなのだ。しかし、なんでかその理論を掲げた英雄(自称)たちですら、いつしか自分たちだけが100個も200個も蓄えて、万人が飢えないどころか身内だけ飽食の道を目指してしまう。
 そして悲しいかな、英雄にもなれずろくな稼ぎもない偽善狸などは、こそこそと『薄皮女峰いちご&練乳クリームパン』を日に2個ずつありがたくいただきながら、お天道様も飢えて死にゆく子供たちも、等しく仏として拝むしかない。


07月09日 日  国際問題

 ありゃ、北の制裁問題、外務大臣の発言はまだギンギンにツッパってるなあ。でも、おとついのニュースで、国連安保理では各常任理事国の立場を鑑みて多少トーン・ダウンする方向などとも聞いたよなあ。わけがわからん。
 ところで昨日、トンガの王子夫妻が米国カリフォルニアの高速道路で、少女の運転する暴走車に追突され、死亡したとのこと。人口10万ちょっとの島国とはいえ王国は王国、国際問題に発展したり――なんてことはあるはずもないが、その18歳の米少女は路上レースと称して仲間達と160キロ以上で飛ばしており、そっちの同乗者ふたりも即死だそうだ。しかし少女自身は、なんと無傷。……いつの世も、愚行の張本人ほど、しぶとく生き残ってしまうものらしい。
 トンガと言えば、我が国では一時期そこ出身のお相撲さんがけっこういたし、今も確かいるはずだ。我がキャラ設定上の主食・バニラの実の産地だったような記憶もある。謹んで、王子様ご夫妻のご冥福をお祈りいたします。


07月08日 土  みぃたぁなぁ〜

 まず、以下の一段落は力いっぱい下ネタ(イロケ関係ではなくえんがちょ関係の)なので、反転部分の閲覧はお勧めしません。

 昨夜首領様を
排泄物に例えてしまった祟りか、トイレで異変がおこる。便秘でも下痢でもなく普通に便意を覚え普通に後架にまたがり(自室のトイレは古い和式である)いきんだところ、なにやら尻の割れ目の間にむにゅむにゅむにゅと異様な感覚。まるで、オムツを着けて脱糞したらこんな感触なのではないか、そんな禍々しい粘りである。ぎゃああああ、俺もついにアルツが来てパンツ下げないまま脱糞してしまったか――そう驚愕して下を見ると、パンツはきちんと前方によれており、陰茎も昔ほど潜在能力がないものの、きちんと自由にぶら下がっている。しかし、便器には出したはずの排泄物が見当たらない。不審に思いつつ、まだ続く便意に負けてさらにいきむと、尻の間のむにゅむにゅ感は、なおも広がって行く。このままでは割れ目からはみだしそうだ。なにかケツの直下で、重力場に異変が起こってしまったのか――このまま排泄物が腰に這い上がってきたりしたら、俺はいったい今後の人生をどう生きればいいのだろう――などと戸惑っているうちに、ようやくケツの下で微かな水音がした。さて、人心地ついてから、恐る恐るトイレットぺーパーを手に肛門付近を探ると――むにゅ。異様な感触が、肛門の遙か下方で紙に伝わった。まるでムースのような排泄物が、その粘着性により自由落下を妨げられ、便器には落ちず、尻の間に大半わだかまっているのである。まるで『人食いアメーバの恐怖』か、『吸血鬼ゴケミドロ』のようだ。大量のペーパーを消費してなんとかケツの始末はついたものの、未だかつて我が大腸内でこんな排泄物を製造した経験は一度もない。昨日食ったのも、いつもの豆腐やビビンバ丼やビールや野菜ジュースだけだ。これはきっと、さんざ「うんこ野郎うんこ野郎」と悪口を言いまくった鬼畜や既知外や創造主様や首領様の祟り、悪あがきに違いない。しかしまた、この程度の汚染で済んだのは、日頃拝んでいる法身仏の縁起による『和』の具現に違いない。やはり、自分の信じる『仏』=『法身仏』=『万物の親和』=『エントロピーの拡散』という概念は正しいのだ。人も排泄物も、等しく『空《くう》』=『事象』の中を輪廻するべき『ただの存在』なのだ。邪道など敵ではない。良かった良かった。

 などといささか錯乱気味の胸を静め、ケーブルで録画しておいた新東宝の『怪猫お玉が池』を観る。原作は、大好きな橘外男氏の伝奇物『私は呪われている』だそうだし、ネットで見かけた映画評では、凡作でも定番の外連はある(お腰元たちが猫に操られてでんぐり返ったり)というのでわくわくと観始めたら、これが原作とは現代パートの趣向がまったく違っており、しかも過去パートにお腰元たちのでんぐり返りなど影も形もない、地味一筋の化け猫映画なのであった。まあ、もともとこうした安手の因果物は大好きなので腹は立たなかったが、自称映画通のHPに、平然と『観てもいない映画』の『レビュー』や『感想』を並べるのは、かんべんしていただきたい。記事数を誇りたくてどこかのガセネタを孫引きしてしまったのだろうが、自分で観たように記してしまうと、恥をかくだけでなく他人様の迷惑にもなる。まだ自己中批評のほうが、自分で観ているぶんだけ良心的だ。


07月07日 金  おーほしさーまーきーらきらー

 わはははははは。今回も、既知外首領様の勝ちに終わるのか。早くも政府は『制裁』から『非難』にトーン・ダウン。実は彼の国のヒョロヒョロ弾の件以外にもなんかいろいろで、ラストぎりぎりの小泉首相を少々見直しつつあったのだがなあ。最後までツッパる根性はなかったようだ。どうせならイラクよりもこの件のほうが、アメリカべったりでツッパって欲しかった。遠山の金さん一族、ますます背中の桜吹雪だけでなんでもアリの高笑いだろう。
 ことほどさように、雲の下では相変わらず身内だけ肥え太った人間豚の大グソが腐臭を放ちつつこんもりと流し忘れられておりますので、天上の織姫様と彦星様、雲で下界が見えないのを幸い、ゆっくりラブラブしてくださいね。もう7月7日は、永遠に悪天候のほうがいいですね。曇天でも雨天でも、どうでデート・スポットは天空遙かなミルキー・ウェイ、たかが某太陽系第三惑星のごく一部の暗雲などに関わりなく、いつでもお星様キラキラ金銀砂子。
 でもやっぱり曇天でも雨天でも老狸としては、流星と化し夜空をよぎるサイボーグ009と002を物干し台から見上げる下町の姉弟の会話が、おそらく死ぬまで脳内に漂い続けるのである。


 
――あっ。ほら。あれ
 ――流れ星
 ――きれい
 ――うん
 ――カズちゃん。何を祈ったの
 ――えへへ。おもちゃのライフル銃が欲しいってさ
 ――まあ、あきれた
 ――じゃ、おねえちゃんは
 ――わたし? わたしはね、世界に戦争がなくなりますように。世界中の人が仲良く平和に暮らせるようにって

 ――祈ったわ


 確か『黒い幽霊団』の最期だったか。リアル・タイムで連載を追っていた子供には、その話は紛れもない『最終回』であり、少年読者総悶絶慟哭、ジョーたちの悲壮な散華だったのである。


07月06日 木  あなたのすぐ傍に

 例によって各地朝鮮学校に嫌がらせが相継いでいるようだが、こうした『個々の立場』の見境がつかない、首領様と同レベルの既知外がどこに潜んでいるか判らないという意味で、民主国家もけっこう恐い。まあ、せいぜいそうしたタイプのうんこが見つかった時は、すみやかに殺菌消毒できる社会でありたいものだ。

 ケーブルで、夜中に稲川淳二御大の近作を連続放映してくれている。とにかく作品の多い人で、とても全部はレンタルでカバーしきれないので、とてもありがたい。例によってすでに聴いた話も多いのだけれど、落語や講談と同じで演じるたびにブレがあるから、何度でも楽しめる。個人的には、20年くらい前か、怪談話デビュー直後のテンポが好きだった。ちょっと気を抜くと話について行けないほどのすさまじい早口で有無を言わさず恐がらせてしまう語り口というのは、従来の「恐い話は、訥々と、じっくりと」のパターンを根底からひっくりかえすほどのインパクトだった。一時期、不自然にスローテンポでメリハリのあざとい時期があったのは、たぶん怪談語りをライフ・ワークと定めて、王道を意識しすぎたのだろう。話のオチに仏教的な雰囲気を過剰に匂わせていたのも、その頃だった。最近はペースも内容も練れて、いよいよ完成に近付いた感がある。今後も長生きして、立派な『怪談爺さん』になっていただきたい。稲川ファンの多くがそう思っているはずだが、とにかく氏の語りには、怪談を余技とする他の後発のタレントさんや、金儲け狙いの霊能ゴロに比して、死者や怪異への根本的な『愛』が感じられる。それはたぶん、生者や普通の生活に対する視線の『まっとうさ』と関わっている。

 昨今は、やたら扇情的な理不尽ホラーが流行る。『不条理』と『理不尽』を勘違いしているのだろう。『不条理』は巧い人がやると素晴らしく恐くなるが、『理不尽』はどんな名人がやっても、シャブ中の金属バットが恐いのと同レベルの感情しか与えてくれない。個人的には、恐怖以前に立腹し、嫌悪を催すだけである。
 「死んでも化けてもうんこはうんこ」――それではただの表層的三文記事だ。「死んだ人間より、生きている人間が恐い」――そんな味気ない現実だけを、死者の世界にまで持ち込んで欲しくはない。穴だらけなルールブックを片手に、ファンタジーと称する理不尽世界を組んで欲しくないのと同じで。


07月05日 水  オモライさん

 『乞食』と記してしまうと部落差別用語になってしまうというのはなんたら運動の方々の主張だが、すみません、北方の僻地育ちの自分はそーいった都近くの差別感覚とは無縁に育っているので、字義通りの乞食と記させていただきます。でも、実はそれで学生時代、関西出身のなんたら運動のおねいさんにイジメられたことがあります。きゅうんきゅうん。そんなこんなのトラウマからか、発作的タイトルは多少柔らかくなってますね。もっともオモライという言葉は、確か永井豪先生のギャグ漫画『オモライくん』で初めて知った記憶が。

 いや、本日、雨の上野駅の切符売り場で、我が人生で二度目の『積極的乞食』に会ったのである。
 道端で不特定多数の通行人に訴えるパターンは子供の頃郷里でも見たが、特定の人間に歩み寄り話しかけて恵みを乞うパターンは、社会人になって間もなく新宿駅で一回遭遇して以来だ。その時は「お兄さん、100円くんない?」といきなり横から話しかけられ、見るとモロに人生を捨てた風体の小男で、なんの違和感もなく、言われるがまま100円玉1個をあげた。
 さて今回は、私と同年輩の、しかし羨ましいほどスリムな中年男である。まあスリムなのは満足に食えないからかも知れないが、身なりも普通の夏っぽいジャケットで、けして悪くない。いい歳こいてヨレヨレのシャツにジーパンの自分より、よほどマシな風采だ。で、切実な口調で訴えるのである。「いや実は恥ずかしい話だけど、私、いろいろあって、もうまったくどうにもならない状態で、なんとかちょっと助けてもらえませんか?」。――つくづく当惑してしまったのは、前回の「100円くんない」と違い、その「ちょっと」がどうにも推測できないからだった。同じ乞食でも、妙な話だが、100円で済ませるには相手が一見まともすぎる。といって自分も貧しいことに変わりはなく、「いや私も会社やめて苦しくて」などと、なんでだか逆に言い訳しつつ、直前に食ったクラウンのカツカレーが480円だったのを思い出し、おずおずと500円玉1個を恵んであげたのであった。受け取った500円玉を無表情に、いや、蕭然と見つめるその男が何を思っているのかは読めなかったが、それでもきちんと会釈をしてくれた。少なくとも雨の一日、巡回探食を休むくらいの助けにはなったろうか。

 欧米の都会で街路を歩いていると、一見紳士風の男が、いきなり恵みを乞うて来たりするそうだ。日本もつつがなくそんな社会になりつつあるのだろうか。しかし、ただの乞食は、まだいい。「無いから、ください」――実に明快で正直だ。社会へのアレコレはあるにしろ、詐欺でもなければ泥棒でもない。少なくとも、虚偽や暴力や恫喝で金を巻き上げたり、ヤケクソで高価なミサイル数発海に捨てるような既知外野郎よりは、人の道を知っている。


07月04日 火  生の美醜

 ……トレス、無期判決。日本の現行法ではそれしかないだろうと思っていたものの、やはり虚しい。ご存知のように、無期懲役は終身刑ではない。改心などしなくとも刑務所のルールさえ守っていれば、ほとんどの場合、いずれ『有期』化する。この期に及んでなお「俺は無罪だ! 悪魔が悪い!」と叫ぶ馬鹿が、いずれまた贖罪の念もないままこの世に出てくるのか。ことほどさように、地獄方向の『絶対者』を妄想してしまった者は、自分が負け犬であることに気づかない。天国方向を望む者ですら、勘違いしてしばしば道を誤る。
 本日は暑気も落ち着き、ややすごしやすいなんかいろいろだったのに、気は晴れない。冗談抜きで、「人間なんてららーらーららららーらー」と歌い狂いたくなる。そんなに悪魔が悪いのなら、それをひんぱんに呼び込む自分は無垢だとでも言うのか。いっそ両手両脚を縛り、聖水を満たした水槽にでも、放りこんでみてはどうか。無期で。……ああ、いかんいかん。思考が魔女狩り時代に退化している。でも、ここまで宗教的に歪んだ固定観念があり、かつその悪魔的所業も明白な場合、「浮けば悪魔憑き確定、溺れれば殉教者」、当人にとってもそれでいいのではないか。ねえ、たかちゃん?
「……せいすい? せいさんかり?」
「いんや、おれが『さんねんごろし』の技をかけてやる。さんねんかかって、じっくりくさるぞ」
「ふるふるふる」

 などと鬱気味になりつつ、録画しておいた『ガイアの夜明け』を観て、ちょっと気分が落ち着く。漆器・竹細工・指物といった滅び行く日本の伝統工芸を、まだ志す若者もいるのだなあ。生活はけして豊かではないだろうが、その『美意識と直結した生活感覚』は、絶対に『カッコいい』ぞ。


07月03日 月  狸の遠吠え

 『<拉致問題>めぐみさんのこと「放っておいてくれ」と金さん 【全州(韓国中西部)堀山明子】横田めぐみさんの夫とみられる韓国人拉致被害者、金英男(キムヨンナム)さんと先月末に再会した姉の金英子(ヨンジャ)さんが2日、全州市の全羅北道庁舎で記者会見をした。英子さんによると、めぐみさんの拉致問題について英男さんは「(日本側は)すべて真実を知っているのに勝手な対応をしている。もう放っておいてくれと、伝えてほしい」と強く主張したという。英子さんは、こうした英男さんの発言を横田滋さん・早紀江さん夫妻に直接伝える考え。英男さんのメッセージによって拉致問題を巡る日韓の連携は難しい局面を迎えそうだ。英子さんは会見で「(英男さんの)送還問題は本人が決める問題」とし、段階的な拉致問題解決を模索する韓国政府の姿勢を見守る立場を強調した。また英男さんが先月29日の会見で、英子さんらを8月に平壌に招待すると述べたことについて「(正式に)招待があれば行く」と語った。韓国政府は8月の再訪朝について反対しない方針。一方、会見に同席した「拉北者家族会」の崔成竜(チェソンヨン)代表は「拉致を北朝鮮に認めさせようとしたが、そうならなかった」と語った。また「我々の団体の目的はあくまで送還だ」と述べ、英男さんを拉致問題として扱い、韓国への帰国を求める方針を維持すると明らかにした。さらに離散家族再会事業と拉致被害者の再会は分けて推進するよう、韓国政府に要求する考えを示した。(毎日新聞)7月2日21時43分更新』。
 ……真実など首領様や拉致被害者当人でもない限り知り得ない問題だが、今回の金英男さんの種々の発言は、故国に残る子供や帰らねばならぬ自分の身の安全を考えた結果であるにしろ、自殺した(と称する)妻やその家族に対する公の場での思いやりがカケラもないことだけは確かだ。真実がどうのこうの以前に、人間として、だめだ。

 とにかく、『絶対者』の存在を許容し、それ以外の人間を自分を含めてその幻想より下位に置いた時から、人は皆、負け犬になる。といって、自分がその絶対者、つまりいちばんエライなどと幻想するのも、たかだか負け犬の代表を目指しているに過ぎない。まあ『人間の人間らしさ』として、それらを許容したい気持ちも確かにあるのだが、やっぱりそれは結句、『カッコ悪い』のである。他人様はいざ知らず、自分のようなぶよんとしてしまりがなくビンボな老狸の場合、もう自分を『カッコ悪くない』と言ってくれるのはそれこそ自分しかいないので、その価値基準に従って頭に葉っぱを乗せてでんぐり返りし続けるしかないわけで。

 天上天下唯我独尊――まさかここをご覧になっている方で、それを『エゴの概念』などと思っていらっしゃる方はいないよなあ。
 実るほど頭《こうべ》を垂るる稲穂かな――開国前はいざ知らず、明治以降の日本では流行らない諺ではあるが、まあ、実際実っていない稲穂ほど、なにかとトンガっているのも確かだ。養分の不足やなにかでなかなか実れない稲穂でも、せめてカッコを付けたいならば、『誰かに』ではなく『おのずから』頭を垂れる方法を探るのが吉。


07月02日 日  語りの涼味

 二の腕や脚を刺そうとする蚊をぽてぽてと尻尾で払いつつ、暑い夏にはやっぱり怪談だよなあ、と種々の講談や稲川御大のテープを持ち出したりするが、やはり何度も聴いてしまっているので、面白くとも涼しくはならない。なんかこう、精神の奥底から静謐な涼味を与えてくれるような恐い話は、もう出尽くしてしまったのだろうか。恐い恐いと喧伝される種々の新種ホラーも、パターンはほとんど同じ使い回しなので、ウン100年前の古典よりも冷却能力がない。
 ひとつ不思議でならないのは、たとえば岡本綺堂の怪談系の作品が、なぜ朗読作品として出回らないのか、である。
 朗読テープやCDというジャンルは、ひと頃ほど流行っていないにしろ、視覚障害者の方々向けの音源を含め、けっこう需要も供給もある。綺堂作品なら、半七捕物帳シリーズなどは、なんぼでも出回っている。しかし『語り』としての綺堂作品なら、半七同様いつの時代も文庫等で連綿と読み継がれている『青蛙堂鬼談』や『近代異妖編』のほうが、よほど音声として、語り甲斐・聴き甲斐があると思うのだが。
 わずかに商品化されている話をネットで購入してみたが、残念ながらちょっと勘違い気味の若い女性の外連声で、とても綺堂の『語り口』には遠かった。女性声でも思いっきり抑えた時の白石加代子さんの声あたりなら、ぴったりなんだろうが。
 逝去の惜しまれる富山敬さんにでも、じっくり読んでいただきたかった。


07月01日 土  蒸し狸

 やはり加齢とともに気候変化への順応力が衰えているのだろうか、先夜半、雨が降り出して窓を閉めたら、日中の余熱で部屋は蒸し風呂状態。エアコンを解禁しようにも、セコい窓用エアコンしかないため、風雨だと使えない。扇風機はあるが、気温が高いというより湿気の多さが問題なので、風に当たると冷えるし、風を止めると汗ばむ。とても寝ていられず、元祖『海底軍艦』の一気読みに走る。血湧き肉躍った――と言いたいところだが、正直、いかにもその時代の脳天気でアブない国威高揚お子様エンタメで、ひと頃流行った仮想戦記の大半と同じザル・シミュレーション、ただイケイケの垂れ流し。まあ、明治時代に海外の風物やSFっぽいイリュージョンを根性で描き込んだ、その想像力は十二分に評価しつつ、やはり戦後の東宝映画のほうが同じトンデモでも深みが違う。明治の頃から深い空想小説は多々あったのだから、けして無い物ねだりではないはずだ。

 『
全国の公立小学校の6割強で体育のための着替えを男女同室で行っていることが、文部科学省が行った「学校における男女の扱い等に関する調査」で分かった。調査では男女同室での宿泊など一部に問題があることも分かり、同省は30日、「児童生徒に羞恥(しゅうち)心や戸惑いを感じさせる恐れが大きい」として都道府県・政令市教委に対し、是正を求める通知を出した。調査は、「学校に行き過ぎた男女平等の考え方がある」との保護者らの指摘を受けて初めて行った。全国の公立の幼稚園、小中高校など共学の約4万4000校が対象で、男女同室での宿泊や身体検査など7項目にわたって05年度の実態を調べた。体育時の着替えを男女同室で行っているのは小学校では62.97%、中学校の7.49%、高校の1.12%。林間学校やキャンプなどで男女同室での宿泊は小学校の1.55%、中学校は2校で、高校はゼロ。身体検査を同室で行ったのは小学校の16.4%で、5年生以上や中高はなかった。男女同室で水泳の着替えをしていたのは小学校の低学年を中心に45.26%で、中高はゼロだった。また、運動会や体育祭で男女混合の騎馬戦を行ったのは小学校の4.28%、中学は29校、高校は2校あった。文科省は「着替えは男女別室が基本。空き教室を使ったり、なければついたてやカーテンで仕切るなどの配慮を求めたい。男女混合の騎馬戦も身体接触を不快に思う児童生徒がいるなら、教育上必要はない」と話している。【長尾真輔】(毎日新聞)6月30日20時55分更新
 ――小学校と言っても肉体的には幼児から成人まで在学する昨今のこと、学年関係の不明瞭な記事でちょっと首をひねったが、朝日の朝刊によると、さすがに同室での着替えはほとんどごく低学年の話だったようだ。別に一年生くらいならろりしょた混在でいいんじゃないの、とも思うが、やはり人権論者の方々は、個々の児童の中には羞恥心を抱く者もいるはず、ということで、明確な区分けを主張しているらしい。まあ、それはどっちでもいいとして、次の記事には仰天した。
 『
東奥日報2006年4月22日(土) ----男女中生が同室着替え/青森9校----思春期の男の子と女の子が一つの教室で着替え?―。青森市内の中学校が男女を同室で着替えさせていることが波紋を広げている。きっかけは二十日付の本紙明鏡欄。市教委が同日、市内全二十一校に緊急で聞き取り調査した結果、九校が男女同室着替えを恒常的に行っている実態が分かった。学校側は着替え時間の制約、更衣室の狭さなどを理由に挙げる。一方、中学生の保護者は「やっぱりおかしいと思う」「空いている教室を使えばいいのに」と不満をあらわにする。男女の同室着替えを長年行ってきたある中学校の教頭は「体育館の横に更衣室があるが、狭い。クラス全員で着替えに行った場合、無理がある」と施設面の問題を強調。さらに「休み時間では間に合わないなど時間の制約もある。急いで着替えなければということで、慣例化してしまったのではないか」と説明する。これに対し、女子中学生の母親(40)は「まったく同じ時間帯に、しきりもない状態で着替えているようだ。コンピューター室でも何でも、空いている教室を使えばいいのに」と、学校側の臨機応変な対応を求める。市教委は二十一日、調査結果をもとに、市内の中学校だけでなく小学校全五十四校にも男女別の着替えを実施するよう指導した。通知文書では、生徒の人間尊重の精神を養うため、男女平等や相互理解の指導に加え「男女の性差に配慮した指導も必要」と指摘した。
 ――おおおおお、そ、そんな羨ましい中学があるのか。ほ、本当か? 老狸の子狸時代でも、さすがに中学で同室同時着替えはなかったぞ。もう見たくて見たくて見たくて見たくて見たくて見たくて悶々としながら、思春期の牡たちは臭くなり始めた自分たちの体臭ばかりに辟易していたぞ。きゅうんきゅうん。老狸も生まれ変わったらぜひその中学に…………やめとけ。