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8月31日 水  信じる者は

 救われるかどうかは、何を信じるかよりも信じる方自身がどんな人間であるかで五分五分なので、ちょっとこっちに置いといて、ケーブルのディスカバリー・チャンネルで観た『怪談の検証・吸血鬼』は興味深かった。今でもいるんですね、吸血鬼の存在を信じている司教さんや、東欧のお百姓さん。まあ我が国でもポッと出の新興宗教を盲信する方が多数いらっしゃるのだから当然と言えば当然なのだが、その宗教方向すら伝統など何も知らないおっさんおばさんの分裂症によるトンデモ妄想や、金集めの詐欺・恫喝ばかり横行する昨今、古来の土着民俗を真面目に信じている方々など、かえって奥ゆかしく、ありがたく思えてしまう。生きてる人間を吸血鬼呼ばわりして杭をぶちこんだら困ってしまうが、どうやらシマツしたのは死体だけのようだし、それで他の病人がプラシーボ効果で元気になるのなら、実害はない。まあそれもまた、信じる方自身がどんな人間であるかで五分五分なのだろうけれど。
 考えてみれば、吸血鬼はともかく一般的事物の場合、『信じる』『信じない』といった言葉自体きわめて曖昧で、『信じていると盲信する』『自分はそんなもん信じないという直感を盲信する』方々が大半、本当に熟慮の上で『信じる』あるいは『信じない』方々など、ほんの僅かだろう。我々凡人は、正直に『どっちでもいいけど人に迷惑かけんでほしい』と白状したほうが無難だ。
 ところで番組中取材されたルーマニア山間の農村(例のドラキュラ城のあるあたりも含め)の風景、地形も植物相もあまりに故郷の山間部に似ており、懐かしくて仕方がなかった。あれなら山形の山間部にちょこっと東欧風の粗末な小屋を建てて、どこかの窪地の草を刈って粗末な十字架を並べ、城はミニチュアかCGで合成すれば、本格吸血鬼映画のロケができる。ブラム・ストーカー描くところの欧風辺境イメージと、それに準じた舶来映画に、惑わされすぎていたようだ。もっともロンドンっ子のブラム・ストーカーが山形の山を歩いたら、やっぱりとんでもねーエキゾチック描写をするのだろうが。

 あ、あと、もし表のカウンターで15000踏んだ方、申告いただければなんかアレします。……ここに記してりゃいいよなあ、どうせここしか満足に更新しとらんし。


08月30日 水  赤信号みんなで渡ればみんなヤバい

 『横浜市瀬谷区で2000年に会社員渡辺美保さん(当時22歳)が殺害された事件で、美保さんの母、啓子さん(当時53歳)が今月1日、電車にはねられて死亡していたことが分かった。神奈川県警では自殺とみている。殺人罪などに問われた穂積一被告(28)が1審判決の法廷で「お前ら(家族)が駅に迎えに行かなかったから娘は死んだんだよ」と家族に暴言を浴びせており、父の保さん(57)は「(被告は長女と妻の)2人を殺した」と憤っている。東京高裁は29日、無期懲役とした1審の横浜地裁判決を支持し、穂積被告の控訴を棄却する判決を言い渡した。県警の調べによると、啓子さんは1日午後2時半ごろ、横浜市瀬谷区の相鉄線三ツ境駅近くの踏切で普通電車(8両編成)にはねられ、搬送先の病院で死亡した。遺書はなかったが、踏切に靴がそろえて置かれていたことなどから、県警は自殺とみている。(読売新聞)8月30日3時11分更新』。
 ……ここまで既知外でも、税金で養われて、何十年後かにはきっちり出所してくる。この素晴らしい民主国家では、直接手を下し殺害した相手がひとりである限り、それがどんな恥知らずな殺し方でも、他の何人を死にたいほどの目に会わせても、そーゆーきまりになっているのである。

 「なぜ人を殺してはいけないの?」、そんなセリフをただの子供が公衆の面前で臆面もなく口にするのを、新聞で見た。それを当人のみならずマスメディアまで『質問』として認知すること自体、すでに立派に狂っている。「殺してはいけない」がそもそもの理由なのだから、「なぜ」などという質問自体、成立しない。もっとも例外はある。殺さなければ殺されるような過酷な状況の子供なら、ケース・バイ・ケースで答えようもある。しかし一般家庭の坊ちゃん嬢ちゃんの場合、そんなセリフを吐くことは、「自分は今んとこ誰に殺されても文句ないです」、そう明言しているのと同じなのである。
 まあ戦後民主教育とやらが、『個性尊重』の名のもとに、社会常識まであたかも十人十色であるかのような認識をしっかり子供に植え付けてきた以上、孫の世代ともなればどんなに多様で異常な常識が多出しようと、責められた義理合いではないのかも知れない。子供などというものは基本的に無知なけだものなのだから、自然界で生きる掟程度の事物は、理屈以前に条件反射として『刷り込み』しておかないと、それこそ見境無く噛み合ったり殺し合ったり死に合ったり、独自性を装った思考停止個体に育ってしまう。表面で『個性』を標榜しつつ『なーんも考えてない』点では誰も彼も似たり寄ったりだから、全体主義には案外染まりやすい。それこそ自閉症より始末が悪い。

 昭和34(1959)年の本多・円谷・関沢トリオによる『宇宙大戦争』、ようやくDVDで観た。噂にたがわぬ完成度のスペース・バトルっぷりで、スター・ウォーズ以来久方ぶりに老狸の疲れた心も宇宙を飛び回れた。いっしょに借りて観たのが、2000年公開の話題作(?)、『スーパーノヴァ』。こちらは鳴り物入りで制作開始したものの、何があったか監督がコロコロ変わって結局架空監督名義で公開された、なんだかよくわからないSFである。演出はシーンごとにテンデンバラバラだし、セットも緻密だったりセコかったり不揃いだし、シナリオは『2001年宇宙の旅』だか『エイリアン』だかなんだかよくわからないフュージョンだし、デジタル・ドメイン社のSFXだけがそぞろ悲しいほど出来のいい怪作だった。
 結局『世界』の完成度は、それに関わる個々の人々が、どれだけ個々の責任を果たしつつお互いバランスを保つか、それだけの問題なのだ。いくらハイテクのデジタルSFXシーンがリアルであろうと、それ以外のスタッフの誰にも責任意識がなく、また共通認識もない『世界』は、ピアノ線で釣られた模型や見え見え合成の前世代特撮にさえ完敗する。


08月29日 火  老嬢

 だいぶ前にそっち方向にあるホームセンターがつぶれてしまい、ここしばらく通っていなかった街道筋を久しぶりにチャリで走ってみると、やはりだいぶ前につぶれていた中古CD・ゲーム屋の建物が、ペット・ショップになっているのに気づいた。以前から建物の外壁にはなぜか子犬たちの写真がでっかくプリントされており、ゲーム屋だか犬屋だか判然としなかった店舗なので、むしろ正しく戻った雰囲気である。
 買う気もないのにちょっと覗いてみると、ああ、うるうるうるうる。かわいいようかわいいよう。昨今のペット屋さんの常として、猫は少なくワンちゃん主体なのだけれど、チワワもテリアもミニチュア・ダックスフンドも豆柴も、「あそぼーあそぼー!」「ふんふんふんふん」「……あそぶ?」「……いじめる?」等々のいたいけな視線で、孤独な老狸の心の琴線をぽろろろろんとかき鳴らしまくるのであった。
 気になったのは、数少ない猫の中でも、妙に大きく育ってしまっているチンチラが一匹。明らかに、もはや子猫と言えるサイズではない。隣のアメリカン・ショートヘアーの赤ん坊が殺人的に愛らしくはしゃぎまわっているのとは対照的に、なにやらふてぶてしい表情でぼってりと寝そべり、挨拶しても「……ふん」などとそっぽを向いてしまう様子は、さながら白い老狸である。その姿は、昔茨城に住んでいた頃近所のペット屋の店先で数年間寝そべり続けていたでっかいアライグマを思わせ、しかし肥大化したチンチラは肥大化したアライグマほどの客寄せになるとは思えず、つくづく将来が心配になった。まさか保健所ってこたあないよなあ。元手もかかっているだろうし。なにか気位が高すぎて嫁き遅れた娘を心配する老父の思いで、しかし養ってやる甲斐性はなく、「お前ももうちょっと愛想があればなあ」などとつぶやきながら、力なく店を後にしたのであった。
 店にいる間から、そのチンチラは誰かに似ている似ていると思っていたのだが、帰宅後、ベティ・デイヴィスに似ているのだと気づいた。無論若手美人女優の頃ではなく、中年以降の名(怪)女優姿である。たとえば『何がジェーンに起こったか』。しかし性格的には、むしろ同じ映画のジョーン・クロフォードに近い気がする。外見がアッチで性格がソッチで――あう、だめじゃん。やっぱり人間も狸も猫も、保健所に送られないためには、最低限の妥協が必要なのである。

 直接関係ないが、昨日の続きの、犬編。

 

   


08月28日 月  拾いでスマン

 あ、いや、ただなんとなく、月末の払いで乾いたココロを、猫で潤そうと思いまして。

   

  



08月27日 日  泣き笑いコピペ

 『ほしのこえ』には泣けなかった狸も、次の記事にはさすがに落涙した。

 『
両親は必死に救出しようとした…。福岡市東区の「海の中道大橋」で、25日夜発生した幼児3人が死亡した家族5人車転落事故。4回海に潜り、沈んでいくRV内から何とか2人の子どもを救い出した母。立ち泳ぎで子どもを抱きかかえ救助を待った父。しかし、陸に上がったわが子の体は冷たかった。海中から見つかったもう1人の子どもも、助けてあげることはできなかった。愛(いと)しい3人を一度に失った両親は、ただ泣き崩れた。
「ヘッドライトがまぶしいと思い、ルームミラーを見ると猛スピードで車が接近して来た。直後にものすごい衝撃と体に痛みを感じた」。大上哲央さん(33)は救助された後、事故の様子を親族らにこう話した。哲央さんは追突直後の記憶が、そこでいったん途切れている。気が付いたときは海面に浮いていた。どうやって車外に逃れたのか覚えていない。視界の中には頭部分を海中に突っ込んだかたちで転落したRV。後部荷台の窓ガラスは追突の衝撃からか大破していた。「子どもが! 子どもが! 」。大声で叫んでいた哲央さんの妻かおりさん(29)はそこから車内に潜り込んだ。
 哲央さんが運転、かおりさんが助手席。3人の子どもは後部座席に乗っていた。1回目。かおりさんは長女紗彬ちゃん(1つ)を車内から引き出し、哲央さんに引き渡す。2回目。二男倫彬ちゃん(3つ)も引き渡せた。3回目。残る長男紘彬ちゃん(4つ)を引き出そうとするがうまくいかない。車が沈み始める。いかないで…。すがりつくように4回目に挑んだ。だが、海中に沈んでいった。
 レスキュー隊員が投げ入れた浮輪にしがみついた大上さん夫妻。叫び声が夜の海に響いた。「もう1人中にいる! 助けて! 助けて! 」。2人の子どもを抱えたまま、通り掛かった漁船に救助された哲央さんとかおりさん。紘彬ちゃんも26日午前2時前に海中から引き上げられ、子ども3人は福岡市内の2つの病院に搬送された。しかし、だめだった。「ひろー」「ともー」−。治療室のカーテン越しに、わが子の名を呼ぶ哲央さんの叫び声が響いた。=2006/08/26付 西日本新聞夕刊=


 しかし一方、次のような記事では、思わず大笑いしてしまった。

 『
秋田県藤里町の連続児童殺害事件で、4月に殺害された畠山彩香ちゃん(9)の行方が分からなくなった際、県警能代署が行った検問は1回だけだったことが25日、分かった。県警はこれまで「2回実施した」と説明していた。同署は7月中旬に誤りに気付いたが、小林貴署長は「いまさら言いにくい」として、訂正の指示を出さなかったという。杵淵智行県警本部長は同日、小林署長を口頭で厳重注意した。(時事通信)- 8月26日0時0分更新

 ……おっさんおっさん、「いまさら言いにくい」って、悪戯を見つけられたガキかお前は。
 さらに次のような記事に接すると、もはやへらへらと力なく唇の端を緩ませるしかない。

 『
政府は、国家公務員制度改革の一環として官民間の人事交流を促進するため、公務員の民間への天下りを事前規制している現行制度を撤廃する検討に入った。その代わりに、再就職した公務員OBが出身官庁に便宜供与を求めることなどを禁止行為として明示し、違反には罰則を設けるなどして事後規制を強める方針だが、OBの口利きなどを防止できるか否かは不透明だ。天下りの受け入れ自体が便宜供与との指摘もあり、事前規制の撤廃は「天下りの拡大につながるだけ」との批判も出ている。
 公務員の天下りは国家公務員法で規制されており、人事院が承認した場合を除き、退職前5年間の職務と関係の深い業界への再就職は2年間禁止されている。ただ、出身官庁にいる元部下との接触を禁止するような規定がないため、2年を過ぎた後に天下ったOBが出身官庁へ便宜供与を働きかけることは可能で、事前規制の抑止効果を疑問視する声は少なくない。
 見直し案ではこの規制を撤廃し、その代わり、民間へ移った公務員OBによる口利きなど、出身官庁へ便宜供与を求める行為を禁止する。罰則として懲役や罰金などの刑事罰も検討している。
 天下り規制の見直しは、小泉純一郎首相が中馬弘毅行革担当相に指示。中馬氏は9月中旬に試案を取りまとめ首相に提出する。試案に基づき関連法を改正するかは次期政権の判断に委ねられる。
 中馬氏は「現行制度では官製談合などの汚職が後を絶たない。根本的に制度を改めたい」と事後規制へ方向転換する利点をアピールする。
 しかし、政府内には「民間企業が天下りを受け入れるだけで官庁としては十分メリットがある。事後規制でOBの働きかけを防ぐのは困難で、事前規制の撤廃は問題だ」との見方も強い。【小林多美子】
 ◇癒着深める恐れも
「関係企業への天下り2年間禁止」の撤廃は、薬害エイズ事件や証券・銀行不祥事など、過去の官民癒着の反省を無駄にするものだ。
 防衛施設庁は官製談合事件を機に、再発防止のため、関係企業への再就職自粛期間を2年から5年に延長した。官僚が所管の公益法人にいったん待機し、その後天下るという「抜け道」を編み出し、規制が骨抜きになっていたためだ。
 逆にみれば、天下り禁止期間は不十分とはいえ、一定の歯止めになっていたわけで、期間延長が癒着を断ち切る一策であることを示している。期間撤廃は時代に逆行するものといえるだろう。
 見直し案では、代わりに事後規制を取り入れ、OBによる口利きなどの行為を禁止し、罰則を設けるという。しかし「口利きなど密室の行為の立証を官庁側が行うのは無理。検察や警察が取り締まるしかないが、とても手が回らないだろう」と、官製談合を担当したことのある検察幹部は、実効性に疑問を呈す。
 結局、公務員のリストラなどで再就職を促進したい官庁側と、「即戦力」をすぐに欲しい民間との利害が一致した案と言わざるを得ない。【斎藤良太】(毎日新聞)- 8月27日3時7分更新


 ……まあ、これもいわゆる聖域無き構造改革の一端なのだろう。まあ、こんな世の中で、若い衆に「酒飲んだら運転するな」などとなんぼ説教たれても、効果は薄いだろうなあ。目立つお偉いさんがたが率先して、酒を飲む前からすでにラリっているようなものだ。

 お願いだから見かけが大人や爺いになったら、アタマもそこそこ大人や爺いになりましょうよ。間接的に子供を殺さないためにも。


08月26日 土  ほしのこえ

 たった今、ケーブルで録画しておいた、新海誠監督(と言うより、ご存知のように音楽・音響以外すべて個人制作という話だから、むしろ『ほぼ個人創作』ですね)の『ほしのこえ』を観終わった。途中何度も目頭が熱くなったが、近頃めっきり涙もろい自分も、涙するまでには至らなかった。
 ノスタルジックかつ青々しい映像、静かで優しい音楽に彩られた物語は、なにか宮沢賢治の童話、あるいは初期の梶尾真治氏の叙情SFを思わせる感傷的ながら退嬰的ではない精神性に満ちあふれていたが、そのなかで結構な割合を占める『成長における戦い』というものの捉え方が、やはり皮相的だったように思う。まあそれは必ずしも否定的な意味だけなく、作者自身の若さ(あるいは意図的にそう流したのか?)を思わせて、爺いには案外快くもあるのだけれど、この叙情ではむしろ泣けない自分を省みて、「ああ、この作者より20年余分に生きていることも、あながち無駄ではなかったな」、そんな安堵があるのも事実だ。
 世間的に大騒ぎとなった技術的な部分は、あくまで結果的作品の『手段』だから、あまりそればかり重要視するのは、優れたクリエイター(創造者)に対してむしろ失礼だろうとも思う。
 音楽にもずっぷし浸れて、いいなあいいなあと思っていたら、担当はかの天門氏だった。いいんだよなあ。『はるのあしおと』『みずのかけら』『てんしのかけら』――す、すみません、エロゲーでのお仕事しか知らない歪んだ狸です。いや、『てんしのかけら』は一般向けの叙情学園物なので、エロ駄目な若い女性などにもお勧め。
 あ、そういえば……などと思い当たって、今ちょいちょいと確認してみれば――『はるのあしおと』のムービーも、実は新海誠氏の仕事なのであった。なんだ、そうだったのか。それも『ほしのこえ』より、後の仕事? うんうん、みんなきっと、立派なおたくなのだ。


08月25日 金  貧者の食卓

 おさかながこのところ高いような気がするのは気のせいだろうか。身欠き鰊はまだ安定しているとして、生のブリやアトランティック・サーモンを焼いて食いたいと思っても、今週はどこへ行っても2きれで500円以上しているようだ。期限切迫品もなかなか見当たらない。生鮭なら安いようだが、安いシャケさんは焼いて食うとどうもアブラっけが足りんのよなあ。と、ゆーわけで、やっぱり身欠き鰊を焼いてはぐはぐと囓る狸であった、まる、と。
 しかしチルド加工品のビンボ向け製品は、あいかわらず驚くほど安い。ギョーザもシューマイも、100円でそこそこうまい。きっと化学調味料や合成保存料のカタマリなのだろうが、フライパンで焼いて、やっぱり100円の輸入ビールのつまみにすれば、日々それなりに満足できるのであった。
「んむ、それで、いいのだ。いっそ、なーんにも食わないほうが、やせられる。だから、おれたちが、かわりに食ってやるのだ。がつがつがつ」
「こくこく。むしゃむしゃ」
「ちまちま……ぽ」
 ――まあ、久々の出番が来たようなので、好きにやっててほしいものである。


08月24日 木  生きる

 ホラー作家・坂東眞砂子氏の子猫棄死告白エッセイが、なんじゃやら非難を集めているようだ。自分も大の猫好きとして確かに心痛むエッセイではあるが、といって氏を糾弾しようとは思わない。隠れて平然と猫を棄てる奴が、いくらでもごろごろしている。泣きながら棄てれば言い訳になると思っているらしい馬鹿もいる。それに比べれば、むしろ潔いと言っていい。犬猫を『飼う』ということは、その動物を中心とする生態系に、なんらかの形で私が共同責任を持ちます、そんな行為のはずだ。もし猫を食べる習慣のある地域に育っていれば、板東氏はきちんと食ってやったのではないか。

 以下、やはり大の猫好きのお方からのバトンだから、気を悪くされないといいなあと思いつつ、遅ればせながら先日やっとそのバトンの場所を見つけたので、推定最終ランナーということで。

【財布はどんなの使ってますか?】
 最近ほとんど使う機会のない札入れは、在職中に買ったお馬さんの革製で、内側に毛の生えた立派なの。お馬さん愛護の方が読んでいたらすみません。小銭入れは、あっちこっちのサービスカードがいっぱい入るように、布製で安いの。

【携帯はどんなの使ってますか?】
 ただの。

【使っている携帯ストラップは?】
 なんかのオマケでもらった、笑ってるおにぎり。

【手帳は持ってますか?】
 ダイソーのメモ帳。今見てみたら、以下のようなメモが。
 ◎「これだから田舎者は困る。『いき』の本質は、やせ我慢だよ。矜持とも言うね」「俺もお前も田舎もんなんだがなあ」「僕たちは田舎者じゃないだろう。天然記念物だ」――銀座に出てきたオオサンショウウオ・コンビの会話。
 ◎抱き合うどどんぱさん夫婦のバックで、『神田川』を歌うたかちゃんたち。たかちゃんボーカル、くにこちゃんギター、ゆうこちゃんバイオリン。
 ◎たかちゃんにおしりをわしづかみにされた給食のおねいさんの反応(たかちゃんとは思わず、男子生徒と)――頭上に選択肢が浮かぶ。(1)けりころす(2)なぐりころす(3)しめころす。
 ……ボツもあれば、これから使おうとしているアイデアも。

【バックはどんなの使ってますか?】
 スーパーの前で1000円均一だったショルダーバック。

【バックの中身は?】
 デジカメ・目薬・遠距離用眼鏡・財布(軽い)・小銭入れ(重い)・保険証・認め印・三浦哲郎先生の随筆集『下駄の音』・つげ義春先生の『つげ義春日記』・メモ帳・ビニール袋に入れた予備のハンカチ・駅前をうろついて集めたポケットティッシュ数個。

【持ち歩いていないとダメ!というもの3つ】

 (1)ビニール袋に入れた予備のハンカチ・小銭入れ(同列首位)
    前者はしけった狸と間違われないため、後者は葉っぱしか使えない狸と間違われないため。

 (2)保険証
    今どき都会でも田舎でも、山育ちの狸は、いつ車にはねられるかわからない。
    いつも保険証を持っていれば、もげた手脚を一秒でも早く繋いでもらえそうな気がする。

 (3)携帯
    連絡機器と住所録を兼ねる。車にはねられて首がもげて身分説明できない状態でも、
    すぐに正体がわかり、姉に連絡してもらえる。

【これを回す人5人】
 狸なので拾った物は穴に隠してしまう。


08月23日 水  遠くへ行きたい

 『憲兵と幽霊』(『憲兵とバラバラ死美人』とは違い、ジャンル不明の波瀾万丈怪作であった)といっしょにネット・レンタルで借りた、『その先の日本を見に。〜少女と鉄道〜』というDVDにハマってしまう。『三丁目の夕日』で魅了された堀北真希嬢目当てで借りてみたのだが、内容はちょっと変わった紀行物というか、新宿駅から信州をめぐり日本海沿岸に出たと思ったらまた奥に戻り、我が故郷のあたりもごにょごにょと回って、また海沿いに出て秋田から青森岩手宮城と東北地方をぐるーりと周り、最終的に新宿駅に戻ってくる。鉄道ビデオなんだかアイドル物なんだか旅行番組なんだか、ジャンル不明の怪作であった。まあその間どうしても狒々狸としては、堀北嬢のなにか芯のある天然顔と、丈夫な赤ん坊の産めそうなお尻をメインに追ってしまうので、やっぱりアイドル物なんだろうが。しかしあのお尻には、三丁目の六ちゃんの先入観を割り引いても、やっぱりみちのくの血を騒がせるなにかがある。まだ中学を出たばかりの頃の出演作ながら、ついつい子作りしたり、いっしょに田んぼを世話したりしたくなってしまうのである。もちろんのんびり東北沿岸一周できたら、もっといい。
 自分の目で最後に日本海を見たのは、いつのことだったろう。内陸部の育ちだったから、高校卒業後故郷を離れるまでは、太平洋を2・3回、同じ県内の庄内沿岸も3・4回しか見ていなかった。記憶では、まだ鶴岡から湯野浜電鉄が走っていた頃で、あれは昭和50年には廃線になったはずだから、少なくとも30年以上見ていないことになる。もっとも太平洋は、その後しょっちゅう見ているが。
 遠くに行きたい。群青色の、濃い海が見たい。


08月22日 火  2001年便所の旅

 えーと、昨夜自分で柄にもなく(?)不穏な記述をしておいて、その記述もまた舌っ足らずというのは、自分の記述のほうがよっぽど『便所の落書き』だよなあ、という訳で、いっそ書き直してしまいたいのだけれど、この場所は原則あとで言い訳はしても元は消さない方式なので、さらにちょこっと。

 『2001年宇宙の旅』という映画がある。1968年公開、名匠スタンリー・キューブリックによる、SF映画だ。当時としては恐るべきクオリティーのSFビジュアルと、なにがなんだかわからないけれど高尚そうなストーリーがあいまって、当時の識者が賛否両論盛んにくりひろげ、今でも伝説の巨大カルト(?)となっている。自分も中学高校とその伝説ばかり聞いていた。しかし当時はビデオもなければ、公開されて数年もたっていないそんな超大作をテレビ放映することなども、考えられない時代だった。大学時代リバイバル公開でようやく初見、そのあまりの壮大かつ緻密なビジュアルと、どうもなんだかテツガクとやらまで踏みこんでいるらしい難解な展開に圧倒され、友人たちとケンケンガクガクやったものである。
 時は流れて幾星霜――現在『2001年宇宙の旅』という映画は、あくまでカルト的な位置を保っているが、実は制作時、原作者アーサー・C・クラーク氏や監督による、きわめて理路整然としたありがちなシナリオが、きちんとあったのが知られている。しかし予算やらなんじゃやらの都合でなんかいろいろ間引いたり変更したりする必要が生じ、それならいっそ具体的ナレーションや説明的シーンもいっさい省略しちまって、全体のストーリーや個々のシークェンスの繋がりや抽象的ビジュアルの意味はそっくり観客に委ねてしまおう、そんな感じで、公開時の形になったらしいのである。そして現在でも、そのオリジナル・シナリオとは『まったく違った』種々の解釈によって、その映画は無限のカルト空間に輝き続けている。そこまで行けば、『偉大な便所の落書き』である、そう言い切っていいだろう――とは、残念ながら思わない。今の自分は、多感な青春期のいっときのケンケンガクガクを演出してくれた作品として、そして当時のSFX技術を進化させてくれたものとして十二分に価値を認めつつも、作品としてはやはり未熟、正しくない形で放り出された映画だと思っている。本質的には、同じ頃公開された『猿の惑星』と大差ない単純な寓話を、徹底的に舌足らずにすることによって、抽象芸術に仕立ててしまったようなものだ。現に監督の真意は、99パーセントの観客に伝わっていないのである。

 ところで、念のため。よしんば某君が反論し、より一層の理論的抽象路線に踏みこんでも、当方はあながち無駄ではなかろうと思っている。某君からは、さらに踏みこめば小理屈や自家中毒を突き抜けてしまいそうなパワーを感じるし、いずれしかるべき所に到達できるかもしれないと思うからだ。理論派を標榜しつつ、不完全な思考能力を後生大事に擁護しているだけで、言語は無意味な重複だらけ、明らかな論理的齟齬を指摘されても、手前勝手な言語の奔流で煙にまこうとし続けるようなお方とは、根本的に違う『若さ』=『潜在能力』を感じるからだ。

 徹夜後なんかいろいろ等うろついて、陽のある内から久々に飲んで帰り、ちょっと眠って風呂に入ったら、なんだか頭がほどよく巻き戻ったようだ。突如として頭の中で妙な男子高校生たちが漫才を始めている。こちょこちょとパンダ物件をいじっていて刺激された深層心理が、その後輩の騒動というありがちな続編を脳内で組み上げ始めたらしい。一方で、単発ギャグを断続的にやってくれていたたかちゃんたちや謎のせんせいも、なんとかひとつの情動の流れに集いつつあるようだ。しかし、どっちも続編や続き物で、どこかの賞に投稿できるようなシロモノじゃないのよなあ。まあいいか。芸の修行だし。


08月21日 月  へろへろへろへろ

 某投稿板に、なにやら大変凝りに凝った難解な言語の羅列が投稿されており、これは極めて鋭利な言語感覚を駆使して書かれた物には違いないらしいが、ある意味やっぱり『便所の落書き』に過ぎないのではないか、などと思っていたら、一部の方々には大変ウケているようで困ってしまった。そして、そうした難解さに対する好評価の感想の一部として、次のような論旨が見られたのにも首をひねった。『これを書きたい、そう思う時、待ったをかけるもの、それは非常に俗悪な、他人に理解を求めることであるとか、よりいっそう俗悪な、他人に理解してもらうために媚態をつくすとか、そういう心根になる。』――私のことを言っていると思うのは被害妄想か? って、夏ボケによる被害妄想だったらすみません、タカハシジュン様。某君の某作に対する貴君の感想の一部を引用させていただきました。
 まあ自分の創作・被創作(?)における感覚上、誰かが他人に対して見せる媚態はそれが巧みであれば『俗』であっても『悪』ではないし、一方、己に忠実なあまり他者の理解を度外視して創作するという行為は、完成度のいかんに関わらず高尚でも俗悪でもなくその創作者自身が鏡の中の自分に対してつくす媚態、つまりマスターベーションであって、覗きたい人に覗いてもらうのは一向かまわないが、わざわざ往来でやったらただの見せ魔(えーと、田舎では露出狂のことをそう言っていたのだが、一般名詞なのだろうか)である。

 さて、『構造主義』などという難解な理論をいじくる頭などまったく備えていない愚かな自分だが、ならばなぜ自分でも『構造』という言葉を、創作・被創作において使用するか――それはもう単純に、私淑する文学者のおひとりである森敦先生が、その『構造』に生涯こだわり自作を産みだしていた、それだけの理由である。
 森敦先生のお作は、あくまで論理的『構造』の上に成立している。そしてその作品自体は誰が読んでもそこに描かれた事象を把握できる私小説っぽい形をとっており、さらっと読めば「ふんふん、そーゆー話なのね。言ってることは解るけど、淡々としてつまんない」で済ませられそうな言語世界である。しかし、深読み好きの人間が根掘り葉掘り賞味すれば、言葉からストーリー構成から舞台設定からキャラ設定から、もう厳然とした『構造』に沿って入念に構築された世界に他ならない。この『構造』は、人間の構造も言語の構造も世界の構造も、普遍的に包括する。もちろん森敦個人の解釈によるあくまでも私的な『普遍』(?)という事だが。
 自分にとって重要なのは、その作品からなかなか真の『構造』を読み取れなくとも、言語の紡ぐ物語としては誰にでも把握できる、その部分だ。そこにおいて『言語』自体の構造は、作品自体の構造を包括しまた包括されながら、実にまあ達意のテキストに集約されている。必要以上に難解な熟語や抽象的な配列など、ただのひとつも残っていない。つまり、テキスト自体を己の無意識レベルの『構造』に解体分析再構成するのでなく、己の頭脳ですでに『分析しきった』無意識(?)を、その作品世界の『構造』と成すためにこそ、テキスト構造を用いる。これは一般に言われる『構造主義』とはまったく無縁のようにも思えるが、そうした世界から生まれた作品は、誰が読んでもマスターベーションではなく、ただ読者によって把握できる構造の深度が違うだけだ。「どうぞ、読んでください。発表するからには私の構造をあなたの構造に並べあるいは重ねてほしいのです。真に並べたり重ねたりできるかどうかはまあいろんな方がいるのでちょっとアレですが、とにかく私の世界の構造は、普遍的日本語テキスト構造で、無意識レベルまで再構築しました」、そんな文芸家としての矜持に貫かれている。それはたぶん、森敦先生のさらなる師、横光利一氏の言葉とも重なるのだろう。『
「純文学にして通俗小説、このこと以外に、文藝復興は絶對に有り得ない」』。

 まああくまで個人的見解だし、同じマスターベーションでも女性の行為ならもうじっくりかぶりつきで眺めたいクチである。でもやっぱりシロクロ・ショーのほうが迫力あるなあ。マナイタ・ショーで舞台に上がる度胸はないが、舞台がハネてからぜひお酒でもご一緒して、どっかに泊まったりできれば、構造的にとってもキショクがいい。……やめとけ。


08月20日 日  へろへろへろ

 ふぇーんふぇんふぇんふぇん、ふぇーんふぇんふぇんふぇん――。
 ……嘘泣きしているつもりなのだが、どうか。フェーン現象に引っかけたつもりなのだが、やっぱりスベったか。ほんのちょっとご近所に買い物に出ただけで全身汗にまみれながら、私はもう生きていくのがつらいですか? いや、自分しか訊く相手いないもんで。

 夏場はさすがにゴキの出没が盛んになる。と言っても街場のコンクリ建てなので3日に一度程度だが、以前にも記したように、今年はなぜか備蓄食糧のある台所でもセンベ類のあるテレビ部屋でもなく、パソのある仕事兼万年床部屋ばかりに出没する。これはやはり、主にそこにのたくっている狸の異臭を慕って来ているのだろうか。いつか自分も、個性派名脇役・浜村純さんの唯一の主演映画『押繪と旅する男』のように、無数の生きたゴキにたかられた死骸と化してしまうのだろうか。浜村さんと違って、演技でそれをやる根性などないから、その時はぜひ本当に死んでいたいものである。

 なんの脈絡もなく話変わって、あっちこっちの小説作法(例によって応募云々の)HPに、日本語表記上の注意があるのだけれど、たいがいのページに『会話の「」内の末尾には読点をつけないこと』『会話の「」の中では改行しないこと』とあるのだが、それって、ごく最近のハヤリ、ただそれだけの形式ではないのか。まあ最近のハヤリを目指して応募するのだから最近のハヤリを正しいと断言してもいいのだけれど、自分の敬愛する幾人かの現役プロ作家には、「」の末尾に必ず読点を打つ方もあれば、「」の中でも地の文と同じように改行する方もいらっしゃる。伝統的日本文として、なんら誤ってはいない。……だからどーしたと言うのか。いや、最近ほんと爺いにはなんか窮屈で仕方がない、それだけの愚痴である。

 昨日の朝日新聞の土曜版に、ブック・オフの新社長さんの特集があり、パートのおばさんから現場処理能力を買われて新社長に、そんな興味深い内容だった。ほんとうに安心して現場を任せられそうな、しっかりしたパートのおばさんのようだ。でも唯一気に掛かるのは、商品がお野菜やお魚やお肉ではなく、『書物』や『CD』や『DVD』である、という点である。やっぱりご家庭の円満や、鮮度中心に商品管理するのだろうか。


08月19日 土  へろへろ

 ちょっとは気候も落ち着いたかな、などと思って午後遅くチャリで気晴らしに走ってみれば、まったくの勘違い。立派な盛夏であった。へろへろで帰宅して、へろへろでシャツやジーパンを洗い、ついでに水を浴びてもやっぱりへろへろで、気晴らしに投稿板を覗くとなんじゃやら男便所の落書きのようなシロモノが上げられており、どうせ暑くなくとも一年中脳味噌のしおれた厨房かアラシなのだからほっときゃいいものを、よせばいいのに皮肉な感想を入れてしまう。なんであれ、ろりに誠意のない創作物はスカである。いや、別に陵辱系でもグロでも可なのですよ。創作物としての誠意があれば。へろへろ。

 以前からトンデモ界で有名だった「牛乳は子牛が飲むもの。人間が飲むのは自然の摂理に反する」などというどこぞの爺さんの戯言が、センセーショナル一発ブーム狙いのアメリカの学者屋さんの書物とあいまって、「牛乳は体に悪い」ブームを形成しつつあるという記事を読んだ。あいかわらず巷の噂という奴は、味噌も糞もいっしょに『白痴にも通じるほど内容が単純ででかい声』に沿って流れて行くようだ。そりゃそーだ。「それは違う」と言うためには、面倒でも自分でその根拠を把握しなければならない。「そーなの?」「そーらしい」「そーだそーだ」だけならば、自分の脳味噌を働かせる必要がないので、とても楽でいい。反煙草キャンペーンほどには広まらないだろうが、酪農家さんも災難である。高カロリーを気にする方が多いとも聞くが、そう言う口でハンバーガーだのケーキだのラーメンだのバクバク食ってるのだから、ほんとうはなーんにも考えていないだけなのでは。仮にもし「自然の摂理に反する」にしても、人間の乳よりは牛の乳のほうが、まだ飲みたい気がする。大体、スーパーで人乳売ってくんないじゃん。母乳プレイなんぞ、する金ないし。……言ってることが無茶苦茶だが、まあなーんにも考えないよりはマシ。……そうか? まあどう考えても、当節、水道水のほうが牛乳より体に悪い。

 韓国では、「靖国でA級戦犯を分祠しても、政府高官の参拝は認めん」と言っているようだ。困ったなあ。そうなると、もう末端の兵隊さんのひとりひとりを、資格検査でもしろと言うのだろうか。『いや、過去の侵略戦争そのものに対する認識の問題』と言うが、つまりすべての兵士がやっぱり愚劣な侵略者として断罪されなければならないのだろうか。それはただの『白痴にも通じるほど内容が単純ででかい声』なのではなかろうか。なんて、韓国のお偉いさんも我が国のお偉いさん同様、解ってやってるんですけどね。『白痴にも通じるほど内容が単純ででかい声』のほうが、当然全国民の中の「そーなの?」「そーらしい」「そーだそーだ」を集め易いので。どう考えても、有史以来、人類のほうが牛さんより社会に悪い。

 ジョンベネちゃん事件の真犯人らしい男が逮捕されたと聞いて、長かったなあ、と吐息。DNA鑑定などの結果から、どうやら確実のようだ。当初から様々な憶測ばかり飛び交って、ちっともまともな捜査の発展しない事件であり、一時期は実の父親による常習的性的虐待のあげくの犯行などという、まともな物証もない噂が蔓延したこともある。当時アメリカで、そうした家庭内児童性的虐待告発モノが、セラピストなど精神医学界のみならず、社会的に大流行だったからだ。それもまた大半、『白痴にも通じるほど内容が単純ででかい声』だったように思う。お父さんは今頃どんな気持ちでいるか。ジョンベネちゃん、安らかに眠ってください。日本の昨年末の事件も、いつかは解決できるのだろうか。――などと思っていたら、その真犯人らしい男の供述も妄想っぽい、などというニュースを発見。じゃあDNA鑑定でクロってのはガセネタ? お願いだからマスコミさん、長くて解りにくくてもいいから、確実な情報を整理して流して下さいよ。あっちこっち煽動的に間引いた『白痴にも通じるほど単純な内容』だけじゃなく。

 もうなにもかもへろへろだ、とへろへろのたくりつつ、ダイエーのサンマの天ぷら(120円でけっこうでかいのよ)をおかずに、蕎麦をすする。ついでに、録画しておいた旅番組を観る。梅沢富美男さん夫婦が、恐山中心に下北旅行。ああ、梅沢さんもすっかり老けておっさん化してしまったなあ、よしよし、などと己の状態を棚に上げてくつろいでいたら、ラストのラストで、慄然とする。下北の漁師歌舞伎の舞台で、ゲストで踊って見せるのだけれど、化粧中まで肌も荒れた初老の男と見えていた梅沢富美男、いざ舞台で踊れば妖艶そのものなのである。無論、中年太りは隠せない。しかし踊る姿は、中年太りをものともせぬまだまだ婀娜っぽい玄人女性、そんな感じで、流し目などナマツバものだ。思わず襟を正し、背筋を伸ばす。
 美しい化生の正体は、ぶよんとしてしまりのない男でもいいのだ。やっぱり自分も『騙す』のではなく、『化ける』をめざそう。最後まで化けようとしてこその、狸なのだ。


08月18日 金  ジュブナイル

 『ラノベっぽく』という表現は、曖昧で難しい。自分はそうしたジャンルのない時代に育ってしまったし、昨今のラノベとやらはほんの数編しか購入しておらず、大半物足りなくて途中で投げてしまっている。エロゲーのノベライズも幾つか読んだが、やっぱり元ゲームをクリアした後でもイラストがないと成立しない荒筋、そんな感じだった。
 で、自分なりにあえて『若い人向け』を想定した場合――あ、そーか。『時をかける少女』をリアルタイムで読んだ頃の、『ジュニアSF』シリーズ。『謎の転校生』とか、『ねらわれた学園』とか。つまり筒井康隆先生や眉村卓氏が、大人向けの個性をあえて封印したような即物的文体。まあ確かに、そのほうがストーリーはかえって『立つ』し、ストーリーや科白そのものの情感は変わらない。考えてみりゃ矢野徹氏の『カムイの剣』だって、もとは少年雑誌に連載されていた児童小説である。そういえば、テレビの青春物のシナリオを軽く補填した『これが青春だ』だの『飛び出せ青春』だのも、中学時代けっこう読んでいたはず。
 まあ、そんなふうに頭を切り換えて、改めて自分のパンダ物件に接してみると――わははは、こりゃアレだわ。いや、自分では充分納得している文体効果なのだけれど、やっぱり投稿板にいらっしゃる(一部の)文章を読み慣れた方々ならいざ知らず、今どきの一般的なお若い方々には、それが単なる古くせー堅っ苦しい表現なのか、ハズしたユーモアなのか、解説でも付けないと理解不能な部分も多かろう。パンダ物件ではノってくれたが続編の『なんだかよくわからない』はダメだった、という方々もいたわけで、たぶんそのあたりがキャッチーなストーリーやキャラの比重が大きい『パンダ』と、文体芸の比重の大きい『なんだか』の、差なのだろう。打っているほうでは、同じような複数タイプの要素の比重をちょっと変えただけのつもりでも、個々の要素を受け取る側では、百八十度違って感じるかも。
 と、ゆーわけで、『パンダ』をなんかいろいろいじくるとすると――『なんだか』とは、もはや別種の文体になってしまうなあ。いや、単発と考えれば、まったく問題ないのだが。まあ、一度やってみて損はないだろう。その結果しだいでは、『そよ風』の大人パートもいじって、より一般商品化できるかも。

 てなことを功利的に画策しながら悪い頭の中身をごにょごにょしている時に限って、突然たかちゃんたちが活性化して単発ギャグをかましたり、妙に古い純文学系の語りっぽい趣向が、ふと浮かんだりする。つくづく脳味噌などというものは、臍曲がりにできている。


08月17日 木  娘身売りの際は

 天然サウナの中、なんかいろいろの帰りにまたぞろ神保町に寄って、すっかり味をしめてしまった合法ロリ本の売却に走る。いや、結構馬鹿にならないんだこれが。で、本日は店長さんより耳よりな話も。その話とは――つまり、古書業界でも大半の店は表から引っ込めてしまった、過去には合法だったが今は違法なロリ本、裏では相変わらず、いや、新規供給がないぶんとんでもねープレミア価格で流通しているらしい。まあネット・オークション等でも、大手では削除を食らうが、中堅や弱小ではチェックの隙をぬってけっこう出回っているのは知っていた。しかし実際時々検挙されたりするのは、あくまで過去も違法だった物件の話であり、過去合法だったものが検挙された例はないらしい。冷静に考えれば当然の話で、それでは児ポ法施行前の児童福祉法まで、司法自ら「穴だらけのザルでした」と看板を上げることになってしまう。
 そんな話を聞いて、おずおずと「……じゃあ、たとえば●●●ちゃんの写真集は?」「状態によって、5万から7万くらいでしょうか」。なんぼなんでもそれが買取価格とは思えないので、「いや、引き取ってもらうとして」「きれいなら3掛けで引き取れますよ」。つまり、過去に2000円なにがしで購入した本を、15000円から21000円の間で買い取ってもらえると言うのである。『日本幽霊ナントカ図鑑』の騒ぎではない。「じゃあ、たとえば●●●ちゃん」「色々出てますし、版によってモザイクとか、塗りつぶしとか」「13歳の初版。修正ないです。ちょっと端っこ傷んでますが」「状態悪くても、ページ欠けなければ2万くらいは」。思わずぷるぷると足を震わせつつ、「……じゃあ、●●さんの●●●●社のシリーズなんかは」「もうモノによってまちまちですね」。「たとえば、●●ちゃん」と、今でもネットでは人気のある名前を出すと、「状態良ければ、『1』は1500円くらいですか。流通量が多いんで。『2』なら、2000円で引き取ります」。なるほど、そう話は甘くない。古書の価格は、ジャンルを問わず中身そのものと言うより、巷の人気と現在の業界流通量、あるいはその古書店の在庫バランスで決まるのだ。さて、そのくらい具体的に訊ねると、さすがにこのおっさんは『なんらかの事情でかなりのコレクションを手放したがっている古ロリ』らしいと気づいたのだろう、店長さんはさりげなく、「けっこうお持ちですか?」。こちらも今さら趣味を隠せる状況でもないので、「数十冊、いや、百冊近く」「よろしくお願いします!」。いや、店長さん、頭なんて下げないでください。自分の手を汚したくないだけの小心ビンボ・ロリです。
 それからなんかいろいろ話をして、しまいにゃ「その気になったら、出来れば私がいる時に」などと、店長さんが確実に店頭にいる曜日や時間帯まで、教わってしまうのであった。こちらももと商売人だけに、気持ちは解る。確実に高回転率で、よしんば回転率が悪くても粗利が下がる恐れのない仕入れなど、滅多にない。古書で言えば他の分野の稀覯本などは、間が悪いと復刻本が出た瞬間に売価は半額にしても売れなくなる。余程の骨董品クラスを除き、それが内容勝負であればあるほど、そうなのだ。ちなみにこの店の他の店員さんというのは、先だって漫画やアニメを仕切っていると聞いた若い衆で、2次元系には詳しいらしいのだが、さすがにこの手の3次元のある意味ヤバい話を任せるわけには行かないだろう。
 そんなこんなで、自分が所有している物件は、自力でオークションにでも出品すれば3桁近いボーナスになると判明したのだが――やってられません。一冊一冊画像アップだの梱包だの送付だの請求だの、わけのわからん既知外のクレーム対処だの、反ロリからのチクリ攻撃だの。とにかく3掛けでも2.5掛けでも、過去の月収くらいにはなりそうなのであった。――なんだか落語や時代劇に出てくる、娘を身売りに出す前の、ビンボな父親の気分である。


08月16日 水  雨のちやけくそ晴

 だーから俺が屋根のないところにいる時に限ってどしゃどしゃにわか雨ふらせんじゃねーよ天! などと虚しく心の中で叫びつつ、ふた月遅れの国民年金と国保をようやく納入――すみません。天も怒ってらっしゃったのね。しかし夏のどしゃ降り一過の晴天、ますますサウナ状に蒸れてしまうのが都会の悲しさ。湯気の立ちそうな体で帰宅すると、出がけにダビング状態にしておいたHDD・DVDレコーダー、しっかりエラー。雷も鳴ったからなあ。DVD−R1枚、半分オシャカ。ぶつぶつぶつぶつ。

 見栄は捨てても恥さえ忘れなければ真人間、そう言ったのは誰だったか――俺か? とゆーわけで、パンダ物件をしつこく『何かもっとラノベっぽく、若い人向けに』書き直そうとしている。もともと、古いいかめしい言語を崩してギャグに、そんな目的もあったのだが、どうやらその大元の古いいかめしい言語がライト系で拒否される要因らしいし、その目的をなんとか認めて下さったらしい角川の文芸編集の方も、あえてそっちに行ってみたらと言っているのだから、試しにやってみても無駄ではないだろう。以前「やっぱり自分はライト系ではなくブンガクっぽく」などと大口たたいた気もするが、あっさり豹変。まあ君子だって豹変するのだから、愚民がきどっているバヤイでもないのである。少なくともストーリー自体は、ある程度のレベルにあるらしいから、三度目の正直(ホラ?)を試みてみよう。

 一度どこかで落ちた作品を、再度別口に応募しても無駄とおっしゃる下読みさんのHPが多いが、それはあくまで『まんま』は不可、あるいは『どうせ1等賞は無理』、それだけの意味だと思う。自分の場合、『そよ風』は1回目予選落ち、2回目予選落ち、3回目では2次突破3次落ち。さすがに4度目に出す気はないけれど、そのたんびにいじりまくったのは、少なくとも作品そのものにとっては有益だったはずだ。だから、1度目予選落ち、2度目はけっこう善戦したと思われる『月下』も『パンダ』も、3度目まではテコ入れしてやりたい。んなことやってねーで新しいの書けよ、という気も当然するのだが、自分は自分の脳味噌から外に出てくれたそれらの物語と言うより物語を織り成してくれた作中のキャラの魂たちに、自分の限界までは誠意を尽くしたい。死ぬときに中途半端な物が残っているのは嫌だ。そこいらが、アマとしての自分の『見栄』ではなく『恥』である。まあひゃくおくまんぶんの1の幸運でプロになれたりしたら、注文優先で書き飛ばせばいい。それが『趣味』と『お仕事』の違いだろうから。どっちみち生きてさえいれば、新しいのは書ける。

 なんて、またいつ豹変するか、わかったものではないんですけどね。神出鬼没のたかちゃんたちもおりますし。


08月15日 火  夏たれ

 昨夜は三千円近く費やしてビール飲みながらステーキ食ったので、今日はアリモノと冷や奴あたりで、そんな予定だったのに、豆腐を買いに出てふと気づくとなぜか寿司屋のカウンターに座っており、シマアジだのカンパチだの中ナマだの注文してしまっている自分は、もう識域下で明日を捨てているのだろう。
 夜はさすがに反省して、姉の援助物資の中の乾蕎麦を湯がき、氷水できゅっと引き締め、さてワサビと刻み海苔でつるつると、そう思ったら、いっしょに入っていたはずの刻み海苔が、どこを探しても見当たらない。首をひねりながらツユとワサビのみで、しかしけっこう美味しくいただいた後、ふと真横の戸棚に目をやると――な、なぜだ。刻み海苔の袋、目の前にあるじゃん。目の前にどーんとある袋を、さっきは確かにまったく認識できなかったのである。アルツの典型的症状である。自分の明日など、わざわざ捨てなくとも、とっくに自然消滅しているのかもしれない。
 しかしまあ日本の夏というやつは何十遍体験しても慣れない。お盆までにはたれてしまう。こんな暑い盛りにわざわざ帰ってくるご先祖様たちの気がしれない。故郷・蔵王の高湯あたりが恋しい。あのあたりまで登れば、夜など涼しいくらいなんだよなあ。生まれ変わったら、ああいった避暑地にひと夏逗留できるような身分になりたいものだ。その際は人間ではなく、文字通りの狸でもいい。狸なら死ぬまでそこをうろついていられる。

 小泉さんはしっかり靖国に参拝して、公約を守ったようだ。別に守ってくれなくていい公約でも目立つ部分のみしっかり守るところなど、最後までやんちゃで暑苦しい。


08月14日 月  持つべき物は

 あらためて昨夜の記述を見て、ありゃ、なんで今時その程度のことで俺そんなに暑苦しくなってんだ、と首をひねる。なんかいろいろで久々の徹夜に近い状態だったから、きっと精神的に半分アレだったのだろう。まあ、出会い系サイトも客があって成り立っているのだから、いっそ客ごと下水に流れてしまえばいいのである。……昨日よりもっと悪化しているのでは。大体、あんなとこやそんなとこをたまに利用せざるを得ない狒々狸に、出会い系を軽蔑する資格があるのか? ありますもんありますもーん。自慢じゃないが、私がお世話になるのは、「それをきちんと仕事として認識しているサービス業の本格プロの方々」であり、遊び半分のシロトなんて、キショク悪くてさわれませんもん。……ただ居直ってるだけなのでは。

 まあひとり漫才はそれくらいにして、巷では大停電騒ぎの間にちょこっと寝て、昼からなんかいろいろの外出。帰宅すると、姉からの援助物資が届く。いつものレトルト食品やカップ麺や菓子に混じり、今回は高価目の鰻丼や具ー多、さらにはお米やなにがしかの小遣いまで入れてくれている。ああ、持つべき物はやはり身内(モノや小遣いをくれたりする)である。しかし、早速お礼の電話を入れて「……次回は、パンツもあるとありがたいなあ。サイズはLX」などと会話の最中さらっと言ってしまう自分と言うのは、やっぱり人間のクズだろうか。いや、いいんだいいんだ。相手は実の姉だ。……いいのか? 半世紀近くも生きて、そんな根性で。
 そして夜8時、先だって渡辺氏より聞いたBS2の『緑の館』の録画開始を確認、やっぱりレターボックス・サイズのワイド画面だったのでひと安心。ああ、持つべき物はやはり後輩(モノをくれたり情報をくれたりする)、などと感謝しつつ、姉からの援助万札を手にチャリにまたがり、何ヶ月ぶりかでモノホンのステーキ・ハウスに走ってしまう自分というのは、やっぱり明日を捨てた敗残者だろうか。まあ、いいのである。この場合、それで何日食いつなげるか、と言った意味の万札ではなく、たまには何か贅沢しろという意味の姉心なのだ。……たぶん。


08月13日 日  人間なんて

 などと一括で嘆くこと自体、それこそ全体主義に他ならないわけで、常々自戒してはいるのだけれど――このスパム・フィルターをくぐり抜けたスパムには、頭を抱えてがっくし脱力した。みなさんのところにも届いているのかも知れないが、まず、こんな小説の一部らしい文面が届く。

  

 「おや、何か小説系サイトさんの紹介?」と思い、読んでみれば読点の欠落が気になるもののなかなかいい場面なので、ついつい下のアドレスをクリックすると――いつものコレ系なのである。

  

 調べてみれば、メールの泣かせるシーンも、2チャンからのコピペらしいのであった(まあ2チャンゆえ、オリジナルの所在は曖昧なわけだが)。正直、殺意を越えて自殺願望を覚える。もうこんなゲスたちが広告収入で生きられる社会に、生きていたくないと思う。生きますけどね。いい人も並の人も大勢いるので。ただ、こうしたスパムでなんらかの釣りを期待する連中が、己を「それなりに人間的な存在」などと錯覚していないよう、祈るばかりだ。まあ「どーしようもないクソですが下水に流されるのヤなんで、どーしよーもない事やって便所にしがみついてます」、そのくらいの生活感覚なら、あえて下水に流れろとは言わないが。


08月12日 土  ♪ら〜〜ら〜〜ら〜ら〜ら〜♪ (宇宙戦艦ヤマトより『明日への希望』)

 さて、つらつら鑑みますれば、本日は角川の『野生時代』発売日である。HPにもなんか『青春文学大賞』関係のその後の記載がないか――ああ、やっぱし。今月号の見出しによりますと、最終候補3編には残れなかったようだ。そりゃ発売日まで何の連絡もないのだから、とうに諦めてはいたのだが、せめて第二次選考あたりは、もしかして通っているのではないか――ありゃ、『完全ドキュメント最終候補作選考会』というリンクがあるのに、リンク先は前回の選考模様と次回の応募要項のまんま。まあ世間はお盆休みなので、HP担当の方々も何かと忙しいのだろう。それとも夏休み? いいなあいいなあ、と言うわけで、買い物がてらすなおに書店へ。
 おお、なんと第二次選考を通っているではないか。応募総数711本、第一次通過88本、第二次通過14本、その14本の中にパンダ物件のタイトルが! こりゃ案外いいとこまで行ってたんじゃないのか――わくわくと選考会の記事に目を走らせると――がちょーん。最終候補作決定は、8人の編集の方が作品をA(3点)・B(1点)・C(0点)、そんな感じにランク付けして選考していらっしゃるのだが、拙作の合計ポイントは燦然と『1点』! これはもしや、編集の方の中のたったおひとりがB評価して下さったおかげで、第二次選考も通過できたのではあるまいか。で、その編集の方の仮名が――ね、『猫』様? 大真面目な文学賞選考なのだから、まさか洒落やタイトルへの親近感じゃないよなあ。ちなみに応募作のタイトルは、『パンダの夢は猫の夢』。
 しかし、選考会模様を読ませていただいて感心したのは、皆さん実に大真面目な方々ばかりなのだなあ。コミック畑の編集の方もいらっしゃるようなので、今回の拙作のようなギャグ系・おたく系の物件にもなんか一言おっしゃって下さるかと思っていたら、さすがにこの場は真面目な文学賞、ほとんど歯牙にもかけて下さらなかったようだ。ただ興味深いことに、唯一B評価を下さった『猫』様のプロフィールを見ると、『おもに文芸系作品を担当する』とある。そして、氏による拙作への唯一のコメントは、『【パンダの夢】はみんなCですが、私はこの作者の擬音語の使い方とか、比喩の使い方とか、ちょっとオリジナルなものを感じて。何かもっとラノベっぽく、若い人向けに書いたりしたら、面白いんじゃないかなと思いました。』――察するにギャグやコメディーに関しては言及を控えるべき雰囲気のその場において、あの作品の芸風にいただけるコメントとしては、極めて嬉しくかつ客観的なご意見。お盆が終わったら、いっぺんアプローチしてみようかしら。


08月11日 金  黄金バット

 と言っても「ああ、ああ、勇敢なるアキラ少年も、ついに怪人ナゾーの操る怪戦車の餌食となってしまうのでしょうか!? ――いや! その時天空に響き渡る、たからかな笑い声! わはははははははは!! あっ、黄金バットだ! おのれ、またしても邪魔をするか、黄金バット! わはははははははは!!」ではなく、「♪ 金〜鵄 上がって 十五銭〜 ♪」のほうである。……って、ほんとにいくつだ俺は。
 この前の煙草値上げ前は、一日おおむね560円をヤニとケムのために費やしていた。『フィリップ・モリス』2箱。それが600円でお釣りが帰ってこなくなるとちょっとアセって、『フィリップ・モリス』を1箱にしてごちそう煙草、もう1箱は昔懐かし『わかば』や『エコー』にしておやつ煙草、そんな節約を始めたわけだが、案外精神的に不都合はない。ならばいっそ、『フィリップ・モリス』は、目覚めと食前食後と風呂上がり限定、そんな感じにして、残り全部を伝統の超安価大衆煙草『ゴールデンバット』にしてしまえば、煙草代は以前の半分近くにまで落とせるのではないか。過去の文豪たちにも愛された銘柄ゆえ、ビンボ臭いというよりむしろスタイリッシュ――そう思いつき、さっそく煙草屋へ。今どき『わかば』や『エコー』や『しんせい』や『ゴールデンバット』を自販機に入れてくれている店が、このビンボな街にはきっちり存在しているのである。ついでにヤニ取りパイプなども購入。それじゃかえって散財なんじゃないの、と思いきや、このパイプは洗えば何度でも使える。『しんせい』や『ゴールデンバット』は両切でフィルターがないから、そのままではギリギリまで吸えないし、吸いながらテレビでいろっぽいおねいさんやかわゆいろりなどを観てしまい、うっかりナマツバなど分泌すると、なかなかツライ状況になる。昔の映画のようにシブく両切煙草をキメるのも、なかなか修行や常時の心構えがいるのである。
 実は『ゴールデンバット』を吸うのは、予備校時代以来、実に30年ぶり。味などとっくに忘れており、今どき20本140円、まあ煙草の味だけすりゃいいか、などと思っていたのは、日本の歴史に対して大変失礼であった。あんがいキツくなく、独特のホロ苦さが悪くない。昔はその時々の余剰葉で造るという伝説を鵜呑みにしており、味が一定しないのを「おお、今日はハイライト」「ふんふん、今回はピース」などと勝手に幻想していたが、ネットで検索してみたら、実は煙草葉の安価な部位を多く使用するので、味を一定に保てないだけなのだそうだ。まあ日替わりの味と考えれば、かえって風流。
 ついでにネットで見つけた値上げ対抗アイデア――煙管《キセル》を使って吸い残しゼロ、これも採用しようと思う。どこでも売っているヤニとりパイプはプラスチックなので、完全に根本までは吸えない。ああ、昔なんかの景品でもらった王様のアイデアの健康水パイプ、金属とガラスでできてたんだよなあ、捨てないでとっときゃよかったと後悔しつつ、さて、今どき煙管というシロモノは、どこで売っているのか。なんかいろいろのついでに、ぼちぼち探してみよう。ネット通販だと送料がかさむからなあ。


08月10日 木  時をかける少女

 勝手に敬愛・私淑する筒井康隆先生のお作の中では、あくまで若書きの商売物短編、個人的にそんな感じなのだけれど、世間ではもはや一種の古典的スタンダード化しつつあり、川端康成大先生の『伊豆の踊子』ほどではないにしろたびたび若手アイドル主演で映画・ドラマ化され、大林監督・原田知世嬢主演のときなどは、青年時代の狸ももうメロメロに溶けつつ「うんうんうんうん」などとうるうるしてしまったクチである。そして今回、アニメの評判がやたらといい。原作とはほぼ無関係のストーリーらしいが、原作のヒロインのその後などもちょこっと出てくるらしいので、これは早く観たいと思うが――ふだんのテリトリーでは、どこも上映していない。それでなくともロードショー料金1800円、さらにそのためのみの1000円近い交通費――ジブリのアレならもうあっちこっちでやってるが、完全素人さん演出のアニメをロードショー館で観るリスクは犯したくない。まあ今回の『時かけ』も、作画的には必ずしも大画面向きではないようなので、DVDまでガマンか。
 ふと、大林版『時かけ』、久しぶりにまた観ようかとビデオ棚を探ると――うう、録画テープが発見できない。ばかでかいVHD(もはやハードが逝っているので名実ともに死物)のカートリッジが、他のレーザー・ディスク(これも棺桶に片脚つっこんでますね)と共に、エラく場所をくっているだけである。ふん、いいもんいいもん、DVDネット・レンタルするもん、とグロく拗ねつつ、時をかけられない老狸は夕飯のハムカツをカリカリかじりながら、「……知世ちゃん」などと虚しくつぶやいているのであった、まる、と。

 ところで、100均で売ってる里芋とイカの煮物の缶詰、多々ある特価缶詰総菜の中でも出色の『缶詰的クドい味付けがジャスト・マッチング実力おかず商品』だと思うが、どうか。


08月09日 水  夢のハワイで盆踊り

 お若い方々は「なんつーギャグっぽいタイトルだ 」と思われるかも知れませんが、昭和39年の東映映画、舟木一夫さんや本間千代子さんがマジで夢のハワイで盆踊りします。それまでの時代劇やその後のヤクザ路線ばかり印象に残る東映も、当時は明朗青春歌謡映画などラインナップしていたのですね。なんて、老狸も今回ケーブルで観て、初めて認識したのだが。
 で、これが、日活や東宝や大映の青春物とも、松竹の人情物ともまた違った風味で、案外おいしくいただけるのである。たわいない人情青春物と言ってしまえばそれまでだが、案外今観ても大人の鑑賞に充分耐える。青春時代と言うものを、揺れ動くモラトリアムではなく、あくまで自立への確かな途上として描いているからだろう。視点が案外大人なのですね。だから主役の人気カップルはじめ、堺正章さんや高橋源太郎さん(みんな青春時代!)も足が地に着いており、頑固爺さん役の笠智衆さんもいつになく人間臭い。
 それにしても、本間千代子さんって、こんなハキハキしてナウい(すみません古くて)娘さんだったのか。当時まだちびっ子だった自分は、『若草の丘』なんか聴きながら、もっと地味でおしとやかなおねいさんかと思っていたが、案外行動的でオチャメなお嬢様なのであった。レコード・ジャケットやグラビア写真だとちょっとゴツゴツしたお顔に見えるので、『懐かしのスター』としては現在マイナーだが、動くお姿はとってもチャーミングで、清楚なりにとても色っぽく、思わずお願いしたくなってしまいました(やめとけ)。

 続けていいグアイの邦画が観たくなり、だいぶ前に録画しておいた『釣りバカ日誌9』も観る。『8』はちょっとシナリオが薄く、ハマちゃんのオチャラケばかり目立ってしまったけれど、『9』は、ゲストの小林稔侍さんと風吹ジュンさんが演じる大人の恋物語が実にうまく組み込まれており、美味さに唸る。『9』から、シナリオに朝間義隆監督も参加しているようなので、山田+朝間の最強シナリオ・コンビゆえ、寅さんなみの密度になったのか。こうやって全体に微塵も隙がないと、西田敏行さんのハジけたバイタリティーも、渥美清さんの定型寅さん演技同様、すなおに楽しめるのである。


08月08日 火  古物

 『なんでも鑑定団』など観ていると見当がつくが、いわゆる古物という奴の価値はその物体そのものの価値というより個人的『思い入れ』の価値だから、とんでもねー駄作にウン百万つぎ込む方もあれば、社会的にはウン百万の物を猫の餌皿にしてしまう方もいる。

 なんかいろいろのついでに、例によってたれる金欲しさに書物を売り飛ばす。本日は、昔の子供向けの図鑑類。といってもマトモな図鑑ではなく、『世界幽霊ナントカ図鑑』だの『日本の幽霊カントカ地帯』だの、自分が高校、いや、大学に入ってからも面白がって買い漁っていた、文庫版のケバくてオドロオドロしい奴。社会人になって最初の引っ越しの時、まとめて近所の古本屋に他の文庫といっしょに持ち込んだが、買取拒否されたシロモノである。
 先日ふと『まんだらけ』のHPを覗いたら、現在モノによってはとんでもねー買取価格が付いていると知り、慌てて押し入れの段ボール箱をひっくり返して見ると……何冊かあるのである。とんでもねー値段になっている物件が。と言ってもウン千円単位なのだが、元が500円以下の駄菓子的子供本、それも昭和レトロと言うにはあまりに新しい物件。どこかのどなたかには、よほど思い入れがあるのだろう。エロゲーと同じで、何がどう化けるか見当もつかない世界だ。それにしても『日本の幽霊ナントカ図鑑』が、まさか買取価格3000円に出世するとは……結構資料価値のある特撮本などでも、やれ「背ヤケがある」だの「在庫が多い」だの、50円や100円になってしまう世界だと言うのに。買取3000円ということは、売価は1万円近いのではないか。




 突然の古写真、これは数年前スーパーの前の古書市で、たった1200円で入手した写真集の中の一葉である。今でも古書店で、2000円程度で見かけることのある、古い山形の写真集だ。ちなみに定価は4800円。
 この明治に建てられた芝居小屋は、昭和に入った頃にはすでに映画常設館となっており、古い構造ゆえ戦後は寂れる一方で、大阪万博のちょっと前に姿を消してしまった。自分は末期のこの小屋の二階桟敷から、『黒蜥蜴』と『吸血鬼ゴケミドロ』の二本立て――丸山明宏(現・美輪明宏)氏と高英男氏といった当時の日本シャンソン界の大物が、それぞれとんでもねー演技を見せてくれる伝説の二本立てを、田舎の小学生頭をウニにしつつ、食い入るように見つめていた記憶がある。無論建物の外装も内部も何度か改修されていたが、基本構造は昔のままだった。貴重な『闇と銀幕』のレトロ記憶である。
 この写真集がもし1万円であっても、数年前の自分は迷わず購入しただろう。ビンボな今でも、悩んだ末に購入するだろう。ならば『日本の幽霊ナントカ図鑑』を、当時すでに高校・大学生の自分のように民俗学的キッチュとしてでなく、マジで震えおののきつつ見入っていた幼児が、やがて飽きて破るか捨てるかしてしまい、しかし今になってその頃の純なおののきを懐かしみ1万円投入したとしても、なんら不思議はない。

 でもやっぱり、どう見ても下手な掛け軸にウン百万費やす方々の気持ちは、よく解らないんですけどね。やっぱり『自分の思い入れ』ではなく、『世間への欲』を投影してしまうのか。まあ、欲だって思い入れの一種ではあるのだが。


08月07日 月  ポリアンナ

 アニメの名作劇場は『トム・ソーヤ』や『フローネ』あたりの教条的説教節に辟易し見限ってしまった小理屈系オタなので、『愛少女ポリアンナ物語』も知らないのだが、ディズニーの古い実写映画のほうは、子供の頃から観たくて観たくてしょうがなかった。思い起こせばまだ幼稚園にも上がる前の公開で、劇場には連れて行ってもらえず(生まれて初めて劇場で観た映画は二年後の『キンゴジ』である)、その映画の写真絵本を買ってもらい、飽かずに眺めていた記憶がある。どうも3歳の頃から、すでに自分はろり道を志向していたらしい。
 さて、今回ケーブルでようやく観られた『ポリアンナ』――ああ、なんか、いいなあ。子役のヘイリー・ミルズ嬢は、こまっしゃくれたお顔でちっとも美少女ではないのだけれど、後半になるともはやすっかり情が移ってしまい、ああこんな娘が欲しいよう欲しいよう、でもその前に成人女性となんかいろいろしないと無理だよう、なんとかコウノトリさんに闇ルートでナシつけたら、ちょんがーにもこんな天真爛漫な娘を運んできてくれまいか、などと、ブラウン管をつんつん突っついてしまう老狸なのであった。

 1960年以前の米国というのは、ベトナム戦争介入によるズブドロなどもまだ先で、たとえ社会の表層だけであっても、やっぱり元気で脳天気な社会だったのだなあ。映画の舞台はさらに50年前の田舎とはいえ、その素朴な牧歌の明るさは、ただごとではない。未だに自分が愛してやまない西部劇『シェーン』などもそうだが、悪役やひねくれ者や敗者さえある意味『澄んで』見えてしまうほど、フィルム世界の空気感そのものが澄んでいる。近頃のなんでもかんでもダークっぽい映像設計にしてしまいがちなハリウッドとは、エラい違いである。脳天気なプロテスタントほど無敵な市民はいないのかも。

 イラクでは14歳の少女が複数の米兵にレイプされ、家族ごと焼き殺されてしまったそうだ。まあ兵隊などというものには、いつの世も必ずそんな既知外が紛れ込んでしまうものであり、その事自体、戦争というものがある意味『生活意識』のデフォルメにすぎない証である。しかし、戦争がただの大規模『犯罪』、大量『殺人』だからこそ、戦場においてはせめて大義という偽善を貫かねば、もはやミソもクソもないのである。結句、米国もベトナムの頃から歪んだままなのか。いや、『ポリアンナ』にも『シェーン』にも、きれいさっぱり黒人等のマイノリティーが存在していないのを考えると、インディアンを撃ち黒人を人外と規定していた頃から、ずーっと歪みっぱなしのままなのか――せめて現代、きっちり犯人を吊す責は果たして欲しい。まあどうせ弁護士は「戦場における限界状況で精神状態がどーのこーの」などと力説するのだろうが、殺した既知外兵隊の権利と、殺されたろりの権利が等価であるかどうかは、せめてデフォルメ前の『生活意識』で判断するべきだ。そんなものまで『精神疾患により責任能力がどーのこーの』などとぬかす国であったら、それこそ『無差別テロ大歓迎!』の看板を立てるのと同じだ。
 ポリアンナは自分の国にだけいればいいのか? それとも、1910年に生まれた時から、はかない夢のろりだったのか?

 しかし、映画の冒頭で、いきなりすっぽんぽんのしょたが田舎の川にターザンのごとくダイブする光景、もうおちんちんふるふるなのである。なんのかんの言いつつ、やっぱり、いい時代だ。今のアメリカでは、たとえどんな明朗児童映画でも、しょたのおちんちんふるふるは不可なのではあるまいか。まあ日本と違って、大人の俳優はけっこうふるふるできるようだが。子供はふるふるOKで大人はふるふる不可の社会と、大人はふるふるOKで子供はふるふる不可の社会と、いったいどっちが『文明国家』なのだろう。


08月05日 土  花火→新東宝→ろり

 明日をも知れぬ身に、ビール片手の江戸川花火大会はつくづくしみる。夜空に次々と開く潔くも華やかな大輪たちを、見知らぬ家族や恋人たちや友人同士たちに混じってただひとり眺めていると、思わずいちばんでかい打上筒に潜り込んで花火玉といっしょに舞い上がり、木っ端微塵に砕け散り、石井輝男監督の『恐怖奇形人間』(原作は乱歩大先生の『パノラマ島奇談』等)のラストのごとく首だけになって空を飛びながら「おかあさーん!」などと叫びたくなるが、まあ現実はやっぱりひとりで風呂に入ってひとりで飯を食うのである。

 レンタルしたまま放置していた『憲兵とバラバラ死美人』(昭和32年の作)を、ようやく観る。キッチュなカルト系かと思いきや、実に真面目な犯罪捜査映画だった。腐爛死体やドクロでも美人とはこれいかに――などというツッコミも無用で、やがて生前のお顔も出るし、ちょっと幽霊っぽく探偵役の憲兵さんの夢枕に立ったりするから、まあそれでいいのであった。意外だったのは、舞台となる仙台の憲兵隊は容疑者に旧弊な拷問などビシビシやるが、本部から派遣された主人公の憲兵さん(後のウルトラ警備隊長・中山昭二氏)は極めて知性派で、地道に民間警察と協調し、多く私服で捜査活動を続ける。戦後の映画やドラマに多い『憲兵=十把一絡げの野蛮なファッショ』的な類型化はされていない。これは並木鏡太郎監督の几帳面さ・律儀さのゆえか。中川信夫監督の『憲兵と幽霊』はまた違った造りのようなので、次に借りてみようと思う。
 月額固定のネット・レンタルは、個々のレンタル期間が決まっていない。せっせと観てすぐに返却を繰り返せば、同じ料金で何枚でも観られるし、うっかりほったらかしても、やっぱり同じ月額が引き落とされるだけだ。生活のいいかげんな貧乏人向きのシステムである。

 ところで、先日の画像は、あくまでも問題提起のための資料です。撮影者である写真家・大竹省二先生の著作権や、モデルの山崎亜美嬢の肖像権を侵害する意図は、まったくございません。ちなみにこの写真の収録されている写真集『少女亜美』は、幸い『性欲を興奮させ又は刺激するものを視覚により認識することができる方法により描写したもの』ではないと判断され、現在も古書として流通しているようです。ただ、かつて流通していた少女写真集のどれが合法でどれが違法かは、その撮影した写真家が『芸術家としてどの程度認知されているか』を基準に業界が自ら選別している状態で、法律上の『衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するものを視覚により認識することができる方法により描写したもの』といった、ガキが遊んだ後の破れザルのような定義をまともにイメージできる人間は、この世にひとりも存在しておらんようです。現在『性欲を興奮させ又は刺激しまくる目的のろり着衣写真集』で活況を呈する業界筋の方々や、彼らが合法の根拠とする『法律』作った方々も含めて。実存としてのろりの『美』と『生』を、真に慈しめる社会など、当分来ないのだろうなあ。
 正しい『ろり道《みち》』を志すぶよんとしてしまりのない騎士に必要なのは、地道な生活者としての『時空把握』、そして千年、いや、万年の先に射程を置く『正しいおっさん』『正しいおとーさん』『正しいおにーちゃん』『正しいカレシ』としての『愛』、それしかない。それだけが、ろりを愚劣な欲の流れからすくい上げ、真の『萌え』へと導く宝剣なのだ。

(注・大家さんからのクレームにより、上記『先日の画像』は、削除いたしました)


08月03日 木  祝・筋少復活

 ずいぶん長いこと活動凍結していた筋肉少女帯が、復活するそうである。筋少はほとんど自分のまっとうな社会人生活期に重なって出現したり変貌したり熟したりしてきたバンドであり、今にして思えば自分が本来適していなかった『まっとうな会社人であろうとすること』の鬱屈を常にガス抜きしてくれて過適応を防いでくれた大恩あるバンドなので、自分がまっとうでない今また復活してくれる事は、なにか無性に嬉しい。もっとも、もともとソロでもなんかいろいろやっていたメンバーばかりだし、大槻ケンヂ氏の別バンド『特撮』や橘高文彦氏の『X.Y.Z.→A』は、筋少凍結中もずうっとギンギンだったのだが、やはりなんというか、あのトンデモなトラウマ系歌詞世界と高度な音楽的テクが融合というか混沌とこね回されてこその筋少世界。
 コアなマニアの評判はともかく、あくまで自分は、あのバンドが内部の状況はどうであれアルバムを重ねるごとに、オリジナルな世界をどこまでも確実に上昇させていたと思っている。もともと懐古趣味ものんべんだらりも現状への懐疑も、なんでもかんでもこねくり合わせて次の段階を模索していたバンドだから、仮に同窓会的『あの頃は良かったなあぶつぶつぶつ』(まあ十中八九んなこたねーだろーが)になったとしても、宿命的に上昇しているに違いない。冬の中野サンプラザでは、三柴理氏まで参加するそうだ。うひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。って、錯乱してどーする、俺。
 しかし、この歳で、今さらあの手のライブを聴きに行くのは、辛いのよなあ。まあ、十数年前に群馬でおっさん背広におっさんコートで覗いた時の浮きまくり感を思えば、今はヨレヨレの着たきり雀だから、少しはマッチするかも。しかし、白髪は増えたし髪そのものも薄くなってきたし――ぶつぶつぶつぶつ。


08月02日 水  未必の故意

 プールの吸水口というものは、あくまでそこに吸い込むのが大半水であるから『吸水口』と呼称されているだけであって、水といっしょになんかいろいろも吸い込んでしまう、汎用『吸い込み口』である。そんな事すらろくに認識していない大人が、ここ何十年も度重なっているろり・しょたの吸い込まれ死亡事故をほとんど無視していたらしいと知って、もはや呆然としている。もうこの国の大人は、『これから生まれてくるろり・しょた』や『すでに旅立ってしまったろり・しょた』の人生など何も考えていないのではないかと常々思っていたが、どうやら『今現在生きていてくれるろり・しょた』すら、眼中に無いらしい。
 今回の痛ましい事故、給水口のカバーを昨年から針金だけで縛っていたということは、極言すれば、現場責任者に明らかな殺意=未必の故意があったのではないか。図体のでかい大人は生かし、ちっこい子供のみ殺そうとしていたのではないか。あるいは、やはりただの白痴だったか。
 学校のプールなどでも、過去同様の事故は繰り返されており、白痴が学校管理をしているケースも多かったようだが、なんとかそちらが粛正されたらしいと思っていたら、外は手つかずだったらしい。せめて今回、外れたカバーがどれほどヤバいシロモノかそもそも知らなかったバイト君たちはまあ仕方がないとして、カバーの脱落を知った後も悠長に水を流しながら修理しようとした白痴が、『自分は人殺しだ』という認識を潔く得て、今後の人生を正せるよう祈るばかりだ。亡くなったろりのためにも。

 とにかくお願いですから、大人はまともな『想像力』を、働かせていただきたい。目先の楽や効率ばかり追っていると、『ろり・しょた』、つまり『未来』そのものが磨り減って行くのである。


08月01日 火  つれづれ

 扁桃腺は小康を保つ。梅雨が明けたにしてはずいぶんすごしやすい気温も、だれ気味の体にありがたい。
 なんかいろいろのついでに神保町に寄り、魚山堂で写真関係の不要書物を売る。ビンボなので、近頃は買わずに売ってばかりである。不要と言っても資料としての実用性(お仕事上での)が失せただけで、思い入れはまだたっぷりなのだが、もはや金銭的にも空間的にも、余分な写真関係書を部屋に維持しているだけの甲斐性がない。そして何より、プーになってからは書物よりも己の脳味噌のほうがかわいい。もはや文芸書すら、脳内反復可能な形で残っていれば、それが薄汚れた文庫本でもテキスト・データでもかまわない。なんて、本当は書物への未練たっぷりだからこそ、未だに神保町などうろついているのだけれど。
 写真関係書は、もはや商売にならないと、魚山堂のご主人の話。10年前の中古カメラブームの時などは1万円で売れた某カメラ雑誌の創刊号が、今は3000円以下でも動かないそうだ。まさにその創刊号を、今持ち込んだ身としては、思わず「……10年前に売っときゃ良かったですねえ」と、ボヤくしかない。もはや写真もカメラも、デジタルの時代。それでも資料価値の高い本が数冊あったので、臨時収入2万円ゲット。
 帰りに三省堂の裏のケム場(近頃では貴重な喫煙スペース)で一服している内、ふと学生時代によく寄った牛丼の『たつ屋』を思い出し、スズラン通りを引き返すと――おうおう、なんと、未だに250円で牛丼が食えるのであった。よそのチェーンとは違い、豆腐やタマネギもきっちり乗っており、といって肉の量もけして少なくはない。これは僥倖。現在の地元にも『たつ屋』があればなあ。そういえば、杉並に住んでいた頃よく通った『牛友チェーン』は、中央線沿線や西武新宿線沿線では壊滅してしまったようだが、まだどこかに残っているのだろうか。牛丼はシラタキや脂身ばかりでアレだったが、カレー+トッピングが安価で旨かったのよなあ。

 帰宅後、『シン・シティ』を観る。五十嵐氏に、アメコミのまんまの実写映画化と聞いていたが、なるほど、映像スタイルや登場人物の肉体描写(特におねいさんがたのお見事な体型)がまさにまんまで、氏の愛着もむべなるかな。罪と背徳の都市を舞台にした、マッチョなバイオレンス・アクションのオムニバス。特に、映画の幕開けとトリで描かれる、誘拐されたろりと、それを救おうとする老刑事(ブルース・ウィリス)の交情物語は、ハード・ボイルド好きかつろり好きなおっさんなどには感涙物。ただ、間に挟まる他のアクションは、もうフランク・ミラーさんよりロドリゲスやタラちゃんのゲテゲテ実写系大騒ぎが勝ってしまったきらいもあり(3人の監督がどこからどこまで担当しているのかは知らないが)、やや違和感あり。なんと言うか、どうも、『殺したい』『辱めたい』『シメたい』、そんな欲望は自分もしっかり備えているだけに、ドライに節操なく繰り出される映像上の暴力行為や殺人描写によって、即物的に暴力衝動を引きずり出されるのは、なんだか『2=1+1』と規制されるような不快感がつきまとってしまうのですね。それって、個々の人間の環境・生い立ちなどまったく無視して「おとーさんとおかーさんをたいせつにしよー」だの「彼も人なりわれも人なり」だの、陰で何やってんだかわからんエラそーな人に説教垂れられるのと、同じレベルの空虚のような。自分は、同じバイオレンス描写でも、どっちかと言えばペキンパーのような『衝動を呼び起こす情動コミのバイオレンス』そんなのがしっくりくる。結果として血しぶき飛び交い分断された四肢の舞う暴力空間、つまり演算結果の『2』が提示されるにしても、その『2』は、『1.7の衝動と0.3の理性』のためかも知れないし、『やむにやまれぬその場のアレによって1.9の理性を0.1の衝動が凌駕してしまった結果』かもしれない。そんな意味でも、ブルース・ウィリスとジェシカ・アルバ嬢のエピソードのバランス感覚は、素直に泣ける。