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09月30日 土  しつこくZ級グルメ

 長崎屋の105円均一缶詰コーナーで、『鮭のハラミ』なる商品を発見。また、西友の97円均一ワゴンで、『エビ餃子12個入り』を発見。どちらも我がビンボ舌にはけっこう美味で、エビ餃子はビールに合うし、ハラミのほうは冷や飯とお湯と永谷園のお茶漬けの素との併用により、安いフレークよりも格段に贅沢な(注・あくまでも個人的主観)お茶漬けが楽しめる。
 しかし花の土曜の夕方に、ひとりぼっちでひたすらスーパーの特売を漁り、ダイソーのシャンプーや入浴剤やシェービングクリームを補充する狸の姿は、とても絵になっていると思うのだが、どうか。早く日本もアメリカのように、教会の炊き出しや種々のボランティアにより、負け組でもタダ飯にありつける完璧階層国家化してほしいものだ。それで橋の下で小説書いて、通行人に小銭たかって、作品をコピーして駅前で配るのである。何部コピーできるかは、通行人の皆様のお恵みしだい――これもひとつの文化的活動だと思うのだが、どうか。

 最近自分のここでの記述に、『――だと思うのだが、どうか』という言い回しが多いと思うのだが、どうか。まあコレは実際、皆様にお訊ねしているわけだから、問題ないと思うのだが、どうか。少なくとも一国の首相が所信表明で『――と思います』を連発するよりは、ましだろうと思うのだが、どうか。


09月29日 金  デーモンバトン(タイトルの意味はわかりませんが)

▼Q1.眠ろうと目を閉じた時に、いつも考えること・妄想していることは何ですか?

人には言えないようなこと。内容も日替わり。たとえば昨夜は、中学一年生のしょたとろりが温泉で混浴するシチュエーションを夢想していた。わたしはもうダメかもしれない。

▼Q2.なんでも隠さず話すことのできる人がいますか?

おりません。隠すことと話すことの区分けを楽しめるのが友人で、義務でやるのが知人。

▼Q3.最近、「自分もう年かな?」って思って凹んだこと

最近どころかここ10年は思いっぱなしですが、しいていえば、やっぱり電車の中の女子高生さんたちが大半『ウザいガキ』と思える時でしょうか。それ以下のろりへの反応は不変なのですが、その他の女性に関しましては、果てしなく好みが上にシフトして行きます。

▼Q4.ここ最近、初体験したこと

こっそりヤバげなろり本やビデオを売りに行った。本はいい値がついたが、ビデオは「新聞で見ませんでした? 手入れがあったばかりで、今はちょっと。この近所でも2.3軒アゲられちゃって」と、引き取り拒否されてしまった。当局は、動画物件メインで取り締まっているらしい。

▼Q5.好きな動物は何? その理由は?

猫。猫になりたいから。
犬。なりたくはないけど遊びたいから。
狸。仲間だから。

▼Q6.今1番やりたいことは?

ニートになって徒食したい。

▼Q7.ここ1ヶ月、自分とその周辺で1番変わったことは何?

飯の種が激減し始めた。いよいよ橋の下に引っ越しか。

▼Q8.捨てようと思ってるのにすっかり忘れるものは?

汚れなき日々の思い出。

▼Q9.これがワタシの必需品!

パソコンとみがきにしんとごはん。

▼Q10.あなたのストレス発散法

惰眠。徘徊。妄想。


▼Q11.あなたの萌える台詞を教えてください

『義理や掟《おきて》は、人間の勝手ずく、我と我が身をいましめの縄よ。……鬼、畜生、夜叉、悪鬼、毒蛇と言わるる私が身に、袖とて、褄《つま》とて、恋路を塞《ふさ》いで、遮る雲の一重《ひとえ》もない!』――泉鏡花・作『夜叉ヶ池』より、白雪さん(池の主)のお言葉。
『そりや光がさす、月の光あれ、眼玉。世は戰《いくさ》でも、胡蝶《てふ》が舞ふ、撫子《なでしこ》も桔梗も咲くぞ。……馬鹿めが。ここに獅子がゐる。お祭禮《まつり》だと思つて騷げ。槍、刀、弓矢、鐵砲、城の奴等。』――泉鏡花・作『天守物語』より、近江之丞桃六さん(彫師)のお言葉。

▼Q12.何か書く時音楽無し派? 有り派?

基本的に、書く前に聴いて気分を盛り上げる派です。書いている時は勝手に脳内で音波出まくりなので。

▼Q13.生きてゆく中で一番必要な才能とは何?

腐った物を食わない。腐った人に交わらない。

▼Q14.人生で一番ありがとうって言いたい人は誰?

一番……『人』と限定してしまうと、やっぱり両親ですね。人以外ならば、この前ペット・ショップを覗いたとき、私ごときの狸顔にふんふんとなついてくれて、ガラスぺろぺろまでしてくれたポメラニアンのちびっこに、思わず「ありがとうありがとう」と涙ぐんでしまいました。

▼Q15.今一番主張したいこと

『勝ち組』とは、タダで『負け組』に金をバラまけるレベルの階層を言う。てめえの財産にしか興味のない連中は、自分ひとりにさえ負けている。

▼Q16.このバトンを回してくれた人はどんな人?

まだ見たことはないが、なんか、やーらかそう。

▼Q17.今まで回答してきた中で必要ないと思った問いを一つ外し、欠番になった番号に自分で考えた問いを入れて次の人に回してください 。『▼Q11.あなたの萌える台詞を教えてください』を、『▼11.格言を作ってください』に。

ありゃ、とりあえず台詞を記してしまった。
じゃあ、格言も、ひとつ。うーんと、『鳴かぬなら鳴かんでいいよホトトギス』……格言じゃない?

で、このQ17を外して、新しく『▼Q17.昔、統一教会の合同結婚式に祝電打ったって本当ですか?』

▼Q18.次に回す人8人

ひとりでいいです。安倍首相。


09月28日 木  独言・情報・情動

 我が敬愛する作家の方々はたいがい時代小説も著しておられ、時代考証の正確さなどは浅学な自分には判別できないが、とにかく実に生き生きと江戸の風俗など描写していらっしゃる。昔の気難しい時代考証家さんなどは、重箱の隅のカケラを針で掻き出すようにして大衆時代劇をクサしていらっしゃったが、まあエンタメというものはその世界観の味とイキオイともっともらしさが要なのだから、正調歴史小説のような厳密な考証はいらない。とはいえ最近の一部の時代劇(アニメやコミックを含め)のように、江戸時代の若い衆がヤンキー語を連発したりすると、さすがに困ってしまうのだが。
 でもやっぱりちょっとは正確な知識も仕入れたいよなあ、というわけで、大御所・三田村鳶魚のいわゆる江戸学関係著作を、図書館で借りたりしたのだが――めげた。正直、ここまでひどい口語体文章は、なかなか拝めるものではない。一応歴史的に定評ある著作なのだから、これは自分の頭のほうが悪いのか、そう思って読み返しても、とにかく執筆時点で著者の頭に浮かんだ断片的知識がくだくだと並ぶだけで、実感としての風俗が、なんにも読み取れない。言ってはなんだが、これでは話し下手な爺さんの繰り言に過ぎず、いくらその爺さんが江戸に詳しくとも、そしてその経験や知識量には重々敬意を払いつつも、やっぱり著作・資料としてはちょっとパスである。誰かの独り言から正確な情報を汲み取るのは、よほどその誰かさんに近い立場にいる人間でない限り困難だ。まして、情動の共有などできるはずもない。

 ダウンロード販売している週刊ポストの記事に、『「ニート支援センターはオタクの”託児所”だ!』などという興味深い見出しがあったので、42円払ってダウンロードしてみた。『〈総力特集・ブチ抜き22ページ〉新政権バカ騒ぎを撃つ!』などという威勢の良い特集の一部である。しかし中身は――めげた。ちょいと支援センターをのぞいただけで、詳細な内部活動など何も取材せず、なんじゃやら記者がひとりで怒っているだけ。いや、その怒っている部分自体はわかるのですよ。支援センターにはガンプラやマンガが並び、職員さんは腫れ物を扱うようにやさーしくニートさんたちをいたわり、その一方ではリストラされたお父さんたちの失業給付や貧困層の生活保護等は減る一方――「なーにが『再チャレンジ社会』だウケ狙い政治家ども」、そんな主張もわかります。しかし、残念ながらその記事には、なにを根拠にそこまで怒っているかの、具体的データがほとんどない。データとして納得できたのは、『一人のニートを就職させるのに税金24万使っている』くらいでしょうか。しかしそれも、個人のニートさんの事例など何もないただの予算と結果の割り算だし、だいたいニートとオタクとやらの関連など、支援センターにあったガンプラとマンガから連想しただけらしい。……わやや。
 まあ、個人的投資は42円だから、さほど腹は立たないものの――適当な独り言で給料もらえる記者もボロいよなあ。せめてニートひとり取材するとか、自分で内部活動まで潜入してみるとか、42円ぶんの情報は発信してほしかった。ここみたいな、無料のグチ置き場じゃないんだから。


09月27日 水  自分の言葉・みんなの言葉

 リライトが終わった、などと思って、プリントしながら封筒の用意をし、さて、そのプリントに目を走らせると――わははは、なんだか自分の原稿ではないようだ。セリフなどは95パーセント元原と同じなのに、いや、同じだからこそ、地の文が妙にぎこちなく感じる。そして、それが実際にぎこちないのか、それとも単にいつもの自分の語り口調で息継ぎの少ない文体でなく、できるだけ短文に砕き単語もジュブナイルっぽく選んだからそう感じてしまうのか、そのあたりが自分ではまだ判断しにくい。いっそセリフも内容も知らない話だったら、客観的に見られるのだろうが。ともあれ、やっぱりまだ腑に落ちない部分がいくつも見つかり、結局また推敲。かかりきりというわけにも行かないので、消印有効の当日までかかりそうだ。
 それにしても――『自己表現』と『コミュニケーション』が一体化するような境地、つまり天才の境地、あるいは名人の境地、つまりビッグ・メジャー、そんなものはすっぱりあきらめて、いっそ徹底的自己満足か単純ウケ狙いに走ってしまおうか――いやいや、それではリトル・マイナーかリトル・メジャーをめざすことになってしまう、やっぱり俺はせめてビッグ・マイナーを――なんかいろいろ、悩みの尽きない今日この頃、それもこれもただの思い上がりに過ぎないのかなあ。そもそもパンダ物件のライト化を目ざすということ自体、己の内心では「ああ、俺って今リトル・メジャー狙い?」、そんな疑念も払拭できないわけである。
 しかしまあ、自己資金がない限り、全国の書店に『書物』として並べてもらうには、いわゆる『プロ』にならなければいけない。リトルでもなんでも、とにかく編集の方に「うん、メジャーOK」と判定していただかなければ、どうしようもないのである。といって、「ああ、俺って今リトル・メジャー狙い?」、そんな疑念を持ちながら作った物件を書店に並べてもらって、どこまで幸せか――いやいや、案外それで幸せなのかもなあ。考えてみりゃ、学生時代に漫研のコネで、下請け編集会社にカットやイラスト・マップ書かせてもらって、地方の公報や観光協会のパンフレットに載った時には、それなりにシヤワセを感じていたのである。
 だがしかし――やっぱり最高にシヤワセを感じられたのは、学祭だった。ワンコやにゃんこやタヌキの手描きシオリとか、童画ふうのパネルとか直売して、お嬢様方に「きゃあ、かわいい」「なにこれきゃあきゃあ」などとウケた時が、最もシヤワセだったのよなあ。
 あれ? やっぱり自分、万年即売会親爺になったほうが、シヤワセ? 


09月26日 火  続くの?

 朝からなんかいろいろで外出し、久しぶりに上野の『まんがの森』に寄ったのだが、お目当ての唐沢なをき氏の新刊はなぜか在庫がなく、その代わり噂の新コミック誌を購入。以下、徳間から創刊された『月刊COMICリュウ』の話です。
 旧友・五十嵐氏も執筆しているし、往年の名作『ペリカンロード』が徳間書店から再販されるのもそのカラミなのだろうから「続くの?」などと疑問符は付けたくないのだが、やっぱり徳間書店のコミックだと、またある日突然消えてしまうのではないか、そんな不安がある。まあ、あのワンマン社長はすでに死去されているので、版元が倒産したわけでもないのに予告もなく廃刊、などという非常識なことは起こらないだろうが、執筆陣がやたらとディープで、吾妻ひでお氏などビッグ・マイナー系の方も多いだけに、なんかでっかい花火として潔く散ってしまいそうな気も。なんて、友人宅の経済のためには大いに売れて欲しいんですけどね。次に会ったとき安心してタカれないし(おい)。しかしわざわざ雑誌名を『リュウ』にしたところを見ると、徳間も初心に帰って頑張るつもりなのだろう。これが『キャプテン』だったりしたら、困ってしまうが。
 しかし、オマケのDVD『女立喰師列伝』には、さすがの押井監督ファン(自分のこと)も、ちょっとおこまり。永遠の自主映画監督といったスタンスはけして嫌いではないのだが、なんぼなんでも足踏み状態が長すぎるのではないか。我が『押井作品体系ボレロ論』にはちょっと当てはまらない、停滞、あるいは退化の感があった。
 ちなみに掲載作で個人的にいちばん気に入ったのは、小石川ふにさんの『ゆるユルにゃん!!』と、ふくやまけいこさんの『ひなぎく純真女学園』だったりする。旧友の作や吾妻ひでお氏の作や錚々たる原作者陣のコミカライズも手堅い出来だったが、やっぱりあの天然にゃんこたちや、ひなぎくの香り漂う天然乙女たちには、もはや実存を越えた、抗しがたい魅力がある。

 話変わって、殺人未遂を擁護する県知事の記事があった。『
静岡県の石川嘉延知事は25日、公務員の飲酒運転について「酒を飲んだらすべて免職というのは、日本の雇用慣行からすると死刑判決に等しい」と各地で相次ぐ厳罰化の動きに疑問を示した。県議会の一部は批判を強めている。知事は定例記者会見で「刑法でも罪状と結果に相応した罰則を科すのが原則だ。オートマチックに免職とするのはいかがなものか」と説明した。県は昨年5月に処分規定を強化したが、7月に職員が酒気帯び運転で検挙された際は停職2月とした。県内では静岡市など複数の自治体が今月に入って「原則免職」といった厳しい方針を打ち出していた。【鈴木直】(毎日新聞)9月25日20時24分更新』。――なるほど、結果的に殺さなければ、酔ってでっけー鉄の塊を街中で転がしまくっても可、と。こういった方が県知事になれるのだから、どんな方が首相になっても不思議はない。
 こんな記事もある。『
飲酒運転の車で幼い3人の子どもの命が絶たれた福岡市東区の事故から約1カ月の間に、九州7県で計1139人が飲酒運転で摘発されていることが25日、各県警の集計で分かった。うち、逮捕者は71人。悲惨な事故後も1日平均38人が摘発されている計算で、多くが「自分の問題」としていない現実が浮かび上がった。各県警によると摘発の内訳は、呼気1リットル中のアルコール濃度0、15ミリグラム以上の酒気帯び運転は1120人。それ以上に酔って正常な運転ができない酒酔い運転が19人。県別では福岡が摘発総数の約44%を占めて最も多かった。相次ぐ飲酒運転の摘発。柴尾美敏・福岡県警交通指導課次席は「飲酒運転の悲劇に対する想像力が欠けている。検問などの取り締まりは続けるが、飲酒運転は恐ろしい犯罪という啓発活動にも力を入れたい」と話す。また、「これだけ飲酒運転が社会悪と言われながら、なくならないのは悲しい」(鹿児島県警)「関心をもっていないとしか思えない。引き続きこつこつと取り締まる」(熊本県警)など、各県警からも怒りの声が相次ぐ。一方、今回の事故後、福岡市と佐賀県多久市では、飲酒を知りながら同乗した場合も懲戒免職と決定。佐賀県や同県武雄市、長崎県、福岡県大川市など2県・6市で飲酒運転は原則免職にすることを決めた。また、福岡銀行(福岡市)も酒酔い運転の場合は解雇とする処分基準を新設した。事故を機に、この1カ月で厳罰化という「外」の改革は進んだが、ドライバーのモラルという心の「内」は、なお問題を抱えたままといえる。=2006/09/26付 西日本新聞朝刊=』。――なるほど、他人が人を轢き殺すのはまずいが、自分が他人を轢き殺すかもしれないのは可、と。

 ほろ酔いかげんの千鳥足――これはとっても気持ちがいいし、他人がやってても別に腹はたたない。しかしあの鉄の塊を、お馬さんや自分の脚と錯覚するのだけは、かんべんしてほしい。お馬さんや自分の脚と違って、あれは正しくブレーキ踏んだりハンドル切ったりしないと、ただの無差別攻撃機。まあ自損事故で自分がクタバルのは勝手だが、お願いだから子供だけは巻き込まないでほしい。園児の列に突っ込みそうになったら、無意識にでもハンドル切って電柱をめざす。どうしても人間を避けられない場合――たとえば女学生の列が眼前に迫り、その横には知事と首相がお手々つないでのそのそ歩いているとして、そんな時には、せめて女学生ではなく知事や首相をはねとばす、その程度の反射神経が最低限必要なのである。また、いたいけなにゃんこかビンボ臭い古狸を轢きそうになったら、迷わず古狸のほうを轢き殺す――そんな正しい条件反射を保つには、やっぱり酒はまずいのである。

 ところで、昨日の事故の報道、本日の新聞では「カセットを入れ替えようとした」とある。昨日の「裏返そうとした」と、どちらが正しいのかは不明。「入れ替えようとした」が正解だったとしたら、昨日のグチは忘れてください。でもオートリバースはやっぱり恋しい。


09月25日 月  無理を承知の上で

 今月いっぱい(正確には10月2日)が締め切りのライト系の賞に応募しようと思って、パンダ物件のリライトをようやく終えたのだが、ふと気づけば、その賞はこの前の『野生時代』と同じ角川書店の、ラノベ系雑誌による募集なのであった。編集部や読者対象が違うとはいえ、同じ出版社の賞に、ストーリーの同じ作品を続けて応募してもいいものだろうか。とはいえ他にそれらしいジャンルの募集は当分ないようだし、枚数的にも制約がある。文章的にはほぼリニューアルしてあり、文芸オヤジ臭さを極力脱臭した(まあオヤジの想像の範囲内だが)つもりだし、時期的にも二重応募というわけではない。まあいいか。駄目なら一次も通らないだけの話だ。

 埼玉で散歩中の保育園児の列に車が突っ込んだ事故、すでにふたりの子供が死亡、残る重傷の3人も予断を許さないようだ。ああああああああ。映像で見た限りでは、このあたりでもありふれた狭い脇道で、信号もない細道を『抜け道』として利用する車が、4・50キロで通過するのが常態だったようだ。それもまた、このあたりのごちゃごちゃした道路事情と同じである。ろくに車も通らない信号だらけの広い道があるかと思えば、信号もない抜け道を「便利便利」と多くの車が走り、歩行者は壁に張りつくように歩く。しかしその運転手、「助手席に置いていたカセットプレイヤーのテープを裏返そうとした」って……4・50キロで脇道走りながら……もはや何を言う気も起こらない。

 さて、その運転手を弁護したい気持ちは毛頭ないが、なぜ近頃のCDラジカセからは、オートリバース機能が多く省略されているのか。なんぼカセットテープが過去の遺物化しつつあり、その分ユニットのコストが上がるとはいえ、かつてはどんな安物にも採用されていた機能、しかも「あったほうが絶対便利な機能」である。自分もフリーター化してからドンキの安物しか買えず、朗読物や落語の裏返しに、面倒な思いをしている。以前から無かった機能なら仕方がない。しかし、10年前なら量販店の叩き売りラジカセにだってあった機能だ。そして時と場合によっては、子供が死なずに済むかもしれない機能だ。
 ただの巡り合わせと言うには、あまりに悔しい。


09月24日 日  労働のつもりが再徘徊

 本日は神奈川に残してある母のマンションへ。姉夫婦といっしょに、使えそうな家具や残しておきたい物件を、その近所のレンタル・スペースに運ぶ。大半の家具類は、処分の予定。その後の空室をどうするかは未定なのだけれど、売るにしろ貸すにしろ、母が生きている限りは母の財産であり、先週会った印象ではまだまだ長生きしそうなので、そっちに回さなければならない。正直自分はビンボだし姉夫婦だって娘ふたりにまだまだ物入りだし、まあなんかいろいろ誘惑はあるわけだが、アルツであればこそ最善の環境にいてもらわないと、産んでもらった身としては、かえって落ち着かない。妙な所で不自由な生活をさせるよりは、こっちが橋の下に行ったほうが気楽でいい。相手が正気だったらそれもみっともないが、幸い顔を合わせた時だけ「元気にやってるよ」と言ってやれば、どうせ「とうとう嫁はもらわんのか」とか同じ愚痴をこぼすだけである。しかしそーゆーことだけは忘れんのよなあ。死ぬまで言い続けるのだろうなあ。
 作業は夕方までかかるかと思いきや、前から姉がちょこちょこやってくれていたのと、運搬予定物のうち最も大物のどでかい冷蔵庫を、扱いかねて結局処分することにしたので、4時前に終わってしまう。しかしあの大型冷蔵庫という奴は、なんであんなに重いか。私の体重より重いのである。阿刀田高さんの傑作短編で、庭の土の下に死体入り冷蔵庫が埋まっている話があったが、もし誰かが私の死体を冷蔵庫に入れて庭に埋めようと思ったら、重量は合計百ウン十キロ。10キロ単位を繰り上げれば200キロ。ギックリ必至どころか、業者さんを呼ばないと到底不可能だろう。「……こりゃ一体、何入ってんですか?」「……突然変異の大狸です」。
 夕飯をタカるにはまだ間がありすぎるので、姉宅を辞して鎌倉へ。一度行きたいと思っていたのである。あちこち回ろうかと思いきや、鎌倉駅から何気なく乗ったバスが大渋滞で、大仏様と由比ヶ浜を観ただけで日が暮れてしまう。それでも好天の充実した徘徊だった。

  

 

 ところで大仏様のお背中、なんかすごく疲れているように見えたのだが、どうか。


09月23日 土  徘徊

 珍しく朝からなんかいろいろ根を詰めていたら、夕方近くなって突然徘徊欲が臨界に達し、いきなり130円の切符を買って電車に乗って西に向かう。たかちゃんたちのいる青梅に行きたいが、それから行ったのでは夜になってしまう。といってアキバなどいつでも降りられるし、まあ気の向いたところで降りようと、とりあえず図書館で借りた本を読みふける。三代目江戸家猫八師匠の自伝『キノコ雲から這い出した猫』。冒頭の広島で被爆するくだりで、すでに涙がこぼれそうになるが、土曜の混んだ電車なのでみっともないからこらえる。あの陽気そうな物真似名人は、戦後ずうっと原爆症とつきあいながら生きていらしたのだなあ。芸風に似て控えめな筆致だが、それだけに胸に迫るものがある。
 気がつくと中野を過ぎていたので、何年かぶりに西荻窪で降りてみる。大学入学時、上京して初めて住んだ街である。当時のアパートなど当然姿を消しており、それでも道筋は変わっていないから、そのまま次に住んだ上井草まで歩き、そこのアパートも消えているのを確認。よせばいいのに今度はその頃つきあっていた彼女の住んでいた桃井のアパートに歩いて行き、そこも無事消滅しているのを確認、ヤケクソになってやっぱりその彼女が交際後半に住んでいた荻窪のアパートまで歩くと、もはやお約束、きれいさっぱり跡形もない。道中、思い出の店などが、ほんのわずか昔のままだったのが救い。
 昔、その彼女にちょっと似た店員さんがいると友人に教えられた個人経営のパン屋を覗いたら、明らかにそのちょっと似た彼女がおばさんになったらそんなふうだろうなあと思われる中年女性がパンを売っており、嬉しいんだか悲しいんだか解らない気分になって、すでに夜の電車で引き返す。6〜7キロは徘徊できたか。
 帰ると、BSで『男はつらいよ・口笛をふく寅次郎』をやっている。すでに32作目ながら、一点の手抜きもない、軽妙かつ奥深い仕上がり。楽しいんだか悲しいんだか解らなくなるような、優れた人情映画だった。


09月22日 金  音楽バトン(と言っても近頃はNHKラジオ深夜便くらいしか聴かない親爺)

Q1.最近聴く曲は?
 
『決定版 懐かしの童謡ベスト30』。図書館で借りてダビングした(不法行為なのでないしょよ)CD。オムニバス盤だが、中でも『タンポポ児童合唱団』の子供たちが歌う数曲と、桜井千寿という女の子が独唱する『青い目の人形』がとてもかわいくて、蒲団の中で聴いているとめろめろに融解してしまう。ところで、この桜井千寿という女の子は、現在のあのちっこいタレントさんの幼かりし日の姿、いや、声なのだろうか。録音は1993年以前らしいから、ありうる事だ。だとしたら、変われば変わるものである。でも身長が伸びていないのはGOOD(あくまで個人的趣味)。

Q2.昔から聴いてる曲は?(お気に入りの、思い出の曲)

まあ沢山ありすぎて特定が難しいが、思い出の曲と言えば、浅田美代子さんの『赤い風船』だろうか。あれを何度も聴いたあとで霞城公園の土手をうろつき、空をながめて、翌日家出した記憶がある。『聴きながら』うろつくのは不可能な昭和40年代、高校時代の話である。
大学に入ると、そうですね、谷山浩子さんの『猫の森には帰れない』『おはようございますの帽子屋さん』、大滝詠一さんの『君は天然色』、山下達郎さんの『メリーゴーランド』とか。
あ、リリーズを忘れてはいけない。レコード(CDではない)みんな持ってます。

Q3.が無いのは気にしない

気にするなと言われると気になるので、勝手に『ごくまれに大声でうなりたくなる演歌』を書きます。松村和子さんの『帰って来いよ』と、新沼謙治さんの『ヘッドライト』。……モロ北国物。

Q4.好きなアーティストとその理由

岡村靖幸(なんか一番セイシュンに戻れる)・及川光博(なんか一番ストレスが晴れる)・美輪明宏(なんか一番ものすごい)・大槻ケンヂ(なんか一番歪み方に同調できる)・二井原実(なんか一番和製めたるでなじめる)・中島みゆき(あのおねいさんのあざとい世界は、嘘と知りつつ溺れてしまう)・谷山浩子(媚びずにかわいいというフシギな世界)・山下達郎(なんか20代前半の耳にしみついてしまった)・大滝詠一(左に同じ)・美空ひばり(魂が聞こえる。子供の頃からずっと好き)・小林旭(とにかく昔から兄ィなので)・南翔子(アニソンやゲームがらみで一部に知られた「あの人は今」的な方だが、あの鼻声は自分の耳にとって媚薬に等しい)・米良美一(『もののけ』以前のアルバム『母の唄』は、もはや天上の歌声に他ならない)・国府田マリ子(甘くて丸くてフカフカのマシュマロさん)・都はるみ(忘〜れ〜られな〜い〜私がぁ〜馬鹿ぁ〜ねぇ〜)・リリーズ(りりーずだから、いい。それ以外の理由はいらない。だってりりーずなんだもん)――以上、順不同、敬称略。

Q5.回してくれた人のイメージにあう曲

『青い山脈』。いやなんか、学園青春物だけどメロディーはマイナーで大真面目、そんな感じで。 ♪ らんらんらん、らんらんらん、らららららんらんら〜ん ♪

Q6.次に回す人のイメージにあう曲

♪ わ〜か〜くあっか〜る〜いうった〜ごえに〜、ぷつ、うった〜ごえに〜、ぷつ、うった〜ごえに〜、ぷつ、うった〜ごえに〜 ♪ ……針が飛んでいるので、無限ループ。


09月21日 木  たった一箇所と一言のカットで

 さて、BSでたった今観終えた『夕陽のギャングたち』――ああ、やっぱりアメリカのビデオやDVDと同じバージョンだった。ラストのラストで、やっぱり追想シーンがカットされている。盗賊ファンの独白までも。
 この映画を観ていない方にはまったく関係のない話だが、自分が初めて映画館で観た版では、大爆発の直前に、ジョンのアイルランドでの平和な日々(あの親友と恋人との)が、ちょっとだけインサートされ、大爆発の後のファンは、「……いったい俺はどーすりゃいいんだ」と、呆然と呟く。そしてイタリア語版では、ジョンの回想はなんと4分もあり、かつて裏切られ殺してしまった親友との、恋人をまじえた一心同体とも言うべき日々が、延々とあの流麗なモリコーネのメロディーと共に流される。その直後に大爆発、そしてひとりぼっちで残されたファンの「……いったい俺はどーすりゃいいんだ」。
 考えようによっては、確かにアメリカ版のほうが後腐れがない。即物的にすっきり終わる。なりゆきで革命騒ぎに巻き込まれ、家族をすべて失い、おまけにたったひとり世に残されるファンの虚しさは、かえってやわらぐ。そのぶん、ジョンのある意味身勝手な自己完結へのハテナ感も薄れる。しかし――それだけの話ではないのだよ、レオーネの語りたかった話は。
 粗野で欲だらけの盗賊ファンが、当人まったく無自覚のまま持てるすべてを失いつつ、行きずりのテロリストの、社会的意義はどうあれ個人的には寂しく虚しい末期をいつのまにか癒やして(癒やす、という言葉はこんな時こそ使うべきなのだ)あげる、そんな構造の話なのだ。最初の日本公開版でも、そんな構図であることはニュアンスとして感じられた。一昨年イタリア語版が日本で発売された時は、そんな自分の解釈がラストの追想シーンで延々とテコ入れされて、涙にくれたものだ。アメリカ版のような、ストレートなようですべてが曖昧に終わってしまい、むしろ暴力的革命の虚しさが際立つ、それだけの話ではない。レオーネ節は、常にしょーもない個人の『人情物』なのである。それに徹していながら、世界を謳ってしまうところが、値打ちなのだ。
 ことほどさように、完成された物語というものは、たった3パーセントの部分をカットしただけで、全体のニュアンスが変わってしまったりする。逆に言えば、カットしてもニュアンスの変わらないパートは、もともと不要だったことになる。難しい難しい。


09月20日 水  実物

 昨日『エリザベスタウン』といっしょに届いた『アイガー・サンクション』を観る。1975年のクリント・イーストウッド主演・監督の山岳サスペンス物。どーゆー組み合わせのレンタルだ、と思ってしまうが、ネット・レンタルは、あらかじめ予約しておいた何作かのうちから、先に貸出可能になった物を二本づつ送ってくるのですね。真夏に予約した『マタンゴ』、いまだに回って来ません。『憲兵と幽霊』といっしょに観たかったんだがなあ。
 さて、暗殺者アクションとアイガー北壁よじ登りがいっしょになった『アイガー・サンクション』、これも高校時代に手に汗握った記憶があり、現在観直すといろんな要素がごっちゃになってやや散漫な気がするものの、なんと言ってもアイガーよじ登りシーンと、その練習のためのグランド・キャニオン巨岩よじ登りシーン、それだけで現在1800円払っても腹が立たないであろう迫力がある。『バーティカル・リミット』等、最近のデジタル合成・CG修正しまくり山岳アクションとは違い、ちょっとでもセットや合成など使うとすぐモロバレの時代だから、とにかく実際に落ちたら死ぬ所で撮影している。事実アイガー北壁のシーンでは、撮影スタッフが落ちて死んでしまったそうだ。演者の多くはスタントマンだろうが、ここぞ、と言う時には、しっかり実際の役者でアップから大ロングにカメラを引いたりする。イーストウッドやジョージ・ケネディが、グランド・キャニオンの高さ何百メートルあるか判らないような細っこい岩柱のてっぺんに腰掛けて、マジにビール飲んでるのである。もちろん登山訓練シーンだから命綱は付けているが、撮影時に実際そこに座っていたことだけは間違いない。現在のように、スタントマンの顔だけスターとすげかえてしまうような裏技は、まだない。
 SFやファンタジーのみならず、シリアスなアクション大作まで最新特殊効果博覧会になっているこの時代、どうもテンコモリ映画は多くても、ギリギリ感のあるアクションは少ないよなあ。


09月19日 火  まだじめあづい

 「明日はからっとした暑さになるでしょう」――天気予報、ほんとだな? 「からっとした」暑さなんだな? なら許す。今日は雨もなくびゅんびゅん風が吹いているのに、洗ったジーパンが夕方になっても乾かない。リフレッシュしたはずの脳味噌が、もうカビそうだ。
 昨夜は就寝時に、帰郷前に借りておいた朗読テープを聴いて、エラい目に合った。松谷みよ子さんの童話のテープである。A面の『ちいさいモモちゃん』シリーズは、良かった。B面前半の『茂吉の猫』も良かった。しかし、最後の最後、『お月さんももいろ』――あれは、ちょっとヒドすぎないか。まるで山本薩夫監督の『あゝ野麦峠』のようだ。下層市民の悲哀を叙情的に同情的に描いているようでありながら、悲劇の構図にこだわって、犬よりひどい最期を遂げさせている。社会派映画にしろ童話にしろ、描くべきは『生』ではないのか。あの少年少女たちは、死ぬために描かれていたのですか? いや、松谷みよ子さんの童話・民話の業績は重々認めつつ、あの作に限っては、悲劇に酔って生を描き損ねたとしか思えない。
 夜は、ネット・レンタルで届いた『エリザベスタウン』を観る。キャメロン・クロウ監督らしい、ヴィヴィッドな青春(オーランド・ブルームとキルスティン・ダンストだから少年少女とは言えないが、おじさんから見ればやっぱり多感な若者っぽい)恋愛映画。主人公たちだけでなく周囲の大人たちも生き生きしており、安心して一喜一憂できる。伝言板でゅぇ様の言っていた『地図』の趣向も良かったが、狸としては、その前の父親の告別式で、残された母親が見せるハイなスピーチやダンス、ここでもう涙が滂沱として止まらなくなり、往生してしまった。やっぱり歳なのだなあ。若いふたりの交情の機微は、単純な自分には真似のできない世界であり、一部理解はできても納得できない展開もあったのだが、それをとりまく親戚連中(年寄りも多い)の描写も確かな手腕で、ここいらがクロウ監督の実力。それにしても、オーランド・ブルーム演じるシューズ・デザイナーが会社に10億ドルの損害を与えた新スポーツ・シューズって、いったいどんな履き心地だったのだろう。もしかしたら、裸足と同じ歩き心地だったのかしら。

 ところで、木曜のBS2で、我が偏愛する『夕陽のギャングたち』が放送される。DVDも高くレンタルにもほとんど置かれない作品なので、未見の方(特に男性)にはお奨め。しかしあの映画には、オリジナル版、日本公開版、アメリカ公開版と、いくつもバージョンがあり、特に肝腎要のラストの爆破シーンに挿入されるノスタルジックな追想シーンの長さがまったく違う。オリジナル版が最長、日本公開版はちょこっと、アメリカ公開版は、まったくなし。自分が高校時代に観て涙にくれたのは当然日本公開版で、オリジナル版のDVDはもっと泣けた。しかし放送されるのはどのバージョンなのだろう。アメリカ公開版だと、男泣き度推定半分なのよなあ。しかし『ワンス・アポン・ア・タイム』といい、アメリカ公開版は、どうもレオーネ節のカットが好きらしい。イタリアの感性は、むしろ日本のほうに近いようだ。


09月18日 月(実はすでに火の3時)  わんす・あぼ〜ん・あ・たいむ

 さて皆様もご存知のとおり、雨やら風やらフェーン現象やら色々あったものの、行き帰りは義兄の運転するミニバンに姉といっしょに同乗しているだけだし、母親(相変わらず恍惚の人状態でも精神状態はなんとか安定を続けており、身体的には以前より健康のようだ)を連れてグループ・ホームから墓参や月山方面ドライブに出かける間は、ほとんど雨に合わずに済んだ。当家にはウン10年に渡る不思議なジンクスがあり、墓参がらみのイベント中には絶対に雨が降らない。そのぶん、長男が日常的に、傘を持っていない時だけ雨に降られる約束なのである。
 今回初めて知ったのだが、父方の祖父(昭和20年に新宿の病院で肺病により死去)は、当時王子ではなく神保町に住んでいたらしい。他の家族は実家の山形に疎開しており、まだ大学生だった父と国鉄職員だった祖父のみ東京に残っていたとのこと。だからどうという話ではないのだが、自分は王子には学生時代戸籍謄本をもらいに行ったりしただけでほとんど土地鑑がなく、むしろ神保町近辺のほうがテリトリーだから、なんだか縁があるようで嬉しい。
 安達太良サービスエリアの地鶏のわっぱめし、染太の鰻、月山の地ビールや牛さんのビール煮、等々、高カロリーの美味物件を久々にかっくらい、1キロ肥えて帰宅。やっぱり食い物の味は、原則、水の味で決まりますね。帰って水道の水を飲んだとたん、なにこれ一体何混ざってるの? と驚愕するほど、なんかいろいろエグい味がする。月山の水とは違う飲料。
 さて、時あたかもBS2で『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の予約録画中。ごひいきセルジオ・レオーネ監督の遺作。レオーネ流男節としては年齢のためかやはり枯れているのだけれど、そのぶんノスタルジック、というか、監督の一貫した『追憶へのこだわり』が最も色濃い作品で、泣けるのよなあ。そう、人間、老いてしまうと、主観的追憶なんて客観的には美しくもなんともないのだ。ただ過去のその時点だけには、間違いなく瑞々しい自分たちがいた、それだけが事実。

  

 写真は月山湖(ダム湖)の大噴水です。天気も悪いし俯角で撮ったのであんまり見栄えがしませんが、一応日本一、110メートル以上上がってます。


09月15日 金  ウザいのは誰か

 さて、次の配信記事から、読売新聞さんは何を読み取れというのか。
 『
中学時代に同級生の女子からいじめを受け神経症になったとして、東京都内の中学校に通っていた少女(17)とその母親が、同級生とその母親に約175万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が14日、東京地裁であった。金光秀明裁判官は、同級生の言動のうち、「ウザイ」などと書いた手紙を出したことについて「精神的苦痛を与えた」と認め、同級生に10万円の支払いを命じた。判決によると、2人は小学校時代からの同級生で、2002年に中学校に進学した後、急速に仲良くなった。頻繁に携帯電話やメールのやりとりをしたり、一緒に登校したりしていたが、同年秋ごろから次第に仲が悪くなり、少女は翌年6月には不登校に陥った。(読売新聞)9月15日10時35分更新』。ちなみに、見出しは『同級生の手紙「ウザイ」の文言、少女の精神的苦痛認定』。
 えーと、すみません。もうきれいさっぱり、なんにも情報として確認できんのですけど。罰金10万にも相当する精神的苦痛の根拠は、「ウザイ」だけですか? そこに至る過程と、手紙全体の内容が問題だったのではないのですか? それが個人情報関係等の問題で報道できないなら、せめてそのニュアンスだけでも記者さんの責任をもって伝えてくれるのが、報道なのでは。これじゃ事態の推測すらできませんがな。その少女たちのどっちが馬鹿だったのか、それとも両方馬鹿だったのか、あるいは介入した親が馬鹿だったのか、それとも事件の当事者たちの誰も馬鹿ではないのに東京地裁の裁判官が馬鹿だったのか――そのあたりをせめて推測だけでもできる手がかりがなければ、こんなニュースが日々大量に氾濫する一般社会そのものが、馬鹿ということになってしまう。不完全報道の垂れ流しは、読者にとってイジメだよなあ。
 
 こんな記事もある。『
2005年度に公立小学校で発生した校内暴力が初めて2000件を突破し、3年連続で増加したことが13日、文部科学省の「生徒指導上の諸問題調査」で分かった。このうち教師への暴力は前年度より37%増の464件。同省児童生徒課は「重く受け取るべき課題で、指導体制の再点検をしたい」としている。(時事通信)9月13日20時1分更新』。
 朝日新聞にももっと詳しい記事があったのだが、なにしろ個々の事例の詳細が何もわからないので、子供が馬鹿だったのか教師が馬鹿だったのか親が馬鹿だったのか、それもまったくわからない。いずれにせよ、子供はもともと馬鹿なのでほっときゃ馬鹿の真似しかしないから、やっぱり親か教師、あるいは一般社会が馬鹿だったのだろう。
 親が馬鹿でも教師や一般社会が普通あるいは利口だったら、子供も普通あるいは利口に育つ可能性がある。親と教師の両方が馬鹿でも、一般社会さえ普通あるいは利口なら、まだほんの少し希望が残る。そこまでは、『親』『教師』『一般社会』のどれを入れ替えても同じだ(自分の子供時代を思い返すと、見習う比率は『親』>『教師』=『一般社会』だった気がするが、これには個人差があるだろう)。いずれにせよ『子供』だけは、もともと馬鹿なのだから、その構図の中で入れ替えようがないのである。親か教師か一般社会の内の馬鹿が増えれば増えるほど、それを真似する子供にも馬鹿が増えるのは理の当然で、指導体制云々より、指導する側に増えている馬鹿を先になんとかしないと、子供の馬鹿も減りっこない。増えた馬鹿な子供がやがて親や教師や一般社会に参入するのだから、馬鹿は増える一方である。

 さて、そろそろ旅支度――と言っても、二泊三日の里帰り(?)だけだが。


09月14日 木  デブと酔っぱらい

 『飲食店の女性客を「デブ」とけなしたとして侮辱罪に問われた山梨県大月市議、小俣武被告(55)に対し、最高裁第2小法廷(中川了滋裁判長)は11日付で、被告側の上告を棄却する決定を出した。侮辱罪の法定刑で最も重い拘留29日とした1、2審判決が確定する。小俣被告はえん罪と主張していたが、刑務所や留置場などの刑事施設に29日間拘束される。
 1審・都留簡裁判決(1月)などによると、小俣被告は04年9月30日夜、大月市内のスナックで、知人の男=科料7000円が確定=とともに、客として居合わせた初対面の20代女性に「おいデブデブ」「そんなに太ってどうするだ」「ドラム缶みていだな」などと言って侮辱した。女性の夫に注意されると「デブをデブと言って何が悪い」と開き直った。
 小俣被告は「店の経営者に『ママさん、太ったな』『この店にはデブが多いな』と言っただけ」などと主張したが、1、2審は「経営者は太った体型ではなく供述は信用出来ない」として退けていた。【木戸哲】(毎日新聞)9月13日20時44分更新
』。

 まあ酒のせいもあったのだろうが、民主党山梨県総支部連合会役員幹事ともあろうお方がそういった酒の飲み方をすること自体、飲酒運転同様、すでにペケなのですね。酔いが醒めた後の言い訳など、誰も信用してくれるはずがない。いっそ『酩酊のため責任能力なし』とでも主張すれば――かえって社会的にみっともないか。
 今回驚いたのは、この事件に対する他の一般の方々の反応。少なくともブログ等を見る限り、女性はほとんど小俣武被告を切って捨てているが、なぜか男性からは、けっこう被告寄りの発言も多い。「じゃあ俺がキモイと女に言われたら告訴できるか」やら「デブも差別語になるのか」やら、わけのわからん論点ハグラカシ法で。
 デブとして、また多少酒も飲む狸として言わせてもらいましょう。「はい、私はデブです」「太るとなにかと足が疲れますが、痩せている時よりは風邪をひきにくくなりました」「ドラム缶みたいかもしれませんが、いちおう中身はいろいろ蓄えてあります」「デブをデブと言うのが自由なのは、その対象が目の前にいない時か、相手がそれを容認できると確信できる状況に限るというのが、一般常識です」。
 まあそんな事を言っても、デキあがった酔っぱらいには通用するはずもなく、確かに言えるのは「おっさんおっさん、そこまでエラくなったんだから、そーゆー酒飲むんじゃねーよ」「酔いが醒めてる時くらいは、すなおに反省しろよ」、まあ、そんなとこだろう。

 しかしまあ、本当にこの世はコメディーなんだなあと思ってしまうのは、実際いるんですよねえ。議員だか役員だか知らんが、シラフでも平然と他人を見下して、好き勝手言い散らかす人間。まんま記録映像に残したら、三文喜劇の馬鹿オエライさん役必至の方々が。
 『狼生きろ豚は死ね』などという、石原都知事若かりし頃の作品があったが、人間は狼でも豚でもないので、妙な錯覚しないのが吉。


09月13日 水  仮想旅行

 旅と言えるほどの旅はもう何十年もしていない。昨今お若い方々のみならず、中高年の方々もあっちこっち登ったり潜ったりする様を穴の奥から覗きつつ、本やモニターで怠惰な仮想旅情に耽っているわけだが、どうもいわゆる旅行ガイドや旅番組、ぼーっと楽しむにはいいが、さてじゃあ実際そこに行ったような気になれるか、あるいはそれをガイドに行きたい気になれるかというと、案外読んだり観たりした直後には、もうどーでもいい気になっている。つまり、そこに含まれる情報自体が、絵葉書と料金表を眺めているのと大差ない、といいますか。まあ、それはそれで、それ自体が旅行雑誌や旅番組の目的なのだからかまわないのだろうが、それにしても、もうちょっとなんか『気分』のかきたてようはないものか。

 昼間たまたまケーブルで、『こころの名山』なる帯番組を観た。今回は宝珠山と白山、それぞれ10分程度の映像ながら、それらの山の歴史から地勢的意味合いから要領よくかつ重厚にまとまっており、思わず「ああ、行きたいよう行きたいよう」と悶えてしまった。考えてみりゃ宝珠山のほうは、実は故郷の山寺の山なのであって、自分はもう何回もうろついたり登ったりしているのである。奥の細道の途上でもあり、一般の旅番組などでもしょっちゅう取り上げられ、現に今夜も『いい旅・夢気分』で、谷隼人・松岡きっこ御夫妻が、仲良く登っていらした。しかし夜の番組のほうは、「うんうん、そんな感じそんな感じ」くらいの感慨で、要は手軽な一見《いちげん》観光に共感できるだけのもの。いっぽう昼間の『こころの名山』は、地元の人間まで「ああ、行きたいよう行きたいよう。あれ? いつも行ってんじゃん俺」、そんな造り。おんなじような素材を写しても、踏みこむ深さが違うのですね。

 今度図書館に行ったら、紀行文や旅行記を探してみよう。ガイドブックじゃなく。


09月12日 火  かへる術なし

 まあ趣味の打鍵の方は、ぽしょぽしょとたかちゃんと遊びつつ、例のパンダ物件をリライトしたりしているわけだが、『ラノベ』っぽく、ということを、せんだって勝手に考えたようないにしえのジュブナイル的ポイントや、あるいはハーレクィンロマンスの原則(内容ではなく文章上の)のように「長い綴りの単語は不可」とか「地の文もあくまで日常会話レベルの単語のみで構成する」とか、そういった解釈で対処しようとすると、今の自分にはかえってすっげー難しいことであると痛感している。なにせ自分の好きな書物の大半は、昔から昔の物と言われている作品なわけだし、日常会話でも妙に古臭い言い回しをするのが好きなたちだ。そもそも現代の「ラノベしか読まない」と称する若者たちの、語彙そのものがわからない。あわてて今も手元にある限りのエロゲのノベライズ(おい)を引っ張り出したりするが、もともと『細かいニュアンス』というものは初めから大雑把にしか表現されていないので、即物的な行動レベルの語彙しか参考にならない。
 今さらながら、星新一氏や都筑道夫氏のショート・ショートなど、簡潔な文章と簡潔な単語に徹しつつ無数のイメージを紡いだ先人のの偉業に、感服してしまう。特に星新一氏は、あまりに文章が簡潔すぎて、「大人が大人の話を子供にでもわかる言葉で書いている」のを悟れずに、子供が子供の言葉で子供レベルの大人の話を書いてしまうという一大潮流を生じてしまったきらいはあるが、氏自身の作品はあくまで孤高と言ってよい。なんて、自分も小学校高学年から中学にかけての頃は、そんなショートもどきを書き散らしていた覚えがあるのだが。
 あの頃の自分の語彙で、今の情動を成文化すればいいのだろうけれど、残念ながら、もはや不可能のようだ。なんたらかんたら言葉の綾に淫しているうちに、それを知らなかった自分がどんな語彙でモノを考えていたのか、きれいさっぱり忘れてしまった。

    己が名をほのかに呼びて涙せし 十四の春にかへる術なし  (啄木)

 『得る』ということは、『持っていないという状態を失う』ことでもあるのよなあ。……わはははは、この狸がエラそーに。まだまだやぞ、まだまだ。啄木と違い、こっちは中年まで生きながらえてしまったのである。


09月11日 月  残暑よ永遠に

 とゆーよーなタイトルだとたいがいしばらくは復活しないお約束なのだが、残暑さんはそんなお約束を知っているだろうか。
 週末に母親の様子見をかねて山形に帰る予定だからというわけでもないのだが、床屋に行く。990円のカット屋さんではなく、顔剃りまでついた本格床屋。やはり半期に一度くらいは頭もリニューアルしないと、モミアゲあたりが狸なんだか猿なんだか得体の知れない状態になってしまう。ついでに新しいジーパンとシャツを買う。どちらも一着ずつ穴が広がりすぎて着用不能になってしまったのだ。悲しい。そういえば穴の開いていない靴も、あと一足しかないのよなあ。やっぱり一文無しでない時に買っておかないと、雨の日は外出できなくなってしまう。
 ジーパンのサイズをまた1インチ大きいものにした。5ヶ月前に買ったジーパンが、ひと夏はき慣らしてもまだちょっと窮屈だからだ。こうして腹は順調に膨れ、フトコロは順調に縮小傾向をたどっている。そのうち腹も細くなるだろう。そして骨になるのだろう。


08月10日 日  新・残暑 時空崩壊編

 じづごいようだがぐぞじめあづううい。
 これはあれですね。勘違い。今日、8月10日なの。
 だってほら、昨日録画したの、『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』でしょ。ジュリーまだあんなに若いもん。きまり。今日はまだ昭和の8月10日。お盆には実家に帰りたいよなあ。帰省ラッシュ、また混むんだろうなあ。ありゃ、なんか日付もまちがってるなあ。直しときましょ。ぽちぽち。
 だいたい俺、こんなでっけーディスプレーのワープロ、いつ買ったんだろうなあ。9インチなのに17インチくらいに見えるなあ。まあ、こんくらい暑いと、幻覚くらい当然だわなあ。うっわあ、すっげー。カラーじゃんこのワープロ。第二水準漢字もバシバシでるじゃん。うひゃあ、計算機能まで付いてやんの。さすがにこの前36回ローンで買っただけあるなあ。月給の3倍だもんなあ。
 あれ、なんか部屋の隅に、へんなCDいっぱい積んであるなあ。『ウルトラQ』? 『夕陽のギャングたち』? そんなサントラ盤のCD、出てたっけかなあ。買ったっけかなあ。ラムちゃんのソング集とフィギュアはきのう買ったけどなあ。
 ま、いーか。風呂入って寝よ。明日はまた会社だもんなあ。しかし今度の川越店の店長、いーかげんなのよなあ。ポケベルなんぞ置きっぱなしで、外のフロアほっつき歩いてばっかだもんなあ。そのくせつまらん小言は二人前だもんなあ。まあ、サブとしちゃかえってやりやすいけどな。はいはい了解了解あとはおまかせください、ってなもんでな。
 あれ? となりの部屋で、なんか変な子供がせんべ食ってるなあ。ひー、ふー、みー。姪っ子にしちゃひとり多いよなあ。だいたい姪っ子、もっとちっこいはずだしなあ。
 もしもしい、君たちはあ、どこのお、お子さんたちですかあ?

「……くるった」
「んむ。みろ。あーゆー目つきを、くさったさかなのよーな目、とゆーのだ」
「おろおろおろおろ」


09月09日 土  続・残暑

 しかしやはり一向に下がらない湿度に体が納得せず、夜が明けても眠れないまま文庫本を読んでいると、その『ガイジン夏遍路』(クレイグ・マクラクランというニュージーランドの方が、四国八十八か所をマジで歩き遍路する道中記。とても面白い)に、いきずりの豆腐屋さんでお豆腐の接待(お遍路さんへの施しですね)を受ける話があり、とても美味そう。どうしても冷や奴をワサビで食わずにはいられない気持ちになり、起き出して年中無休終日営業のマルエツへ。早朝なのに街はちっとも涼しくないので、こりゃビールもないとやってられんなあという気持ちになり、それも購入。そこまでやったらやっぱし他にツマミもいるでしょという気持ちになり、前夜からの売れ残りらしい焼き鳥パックが処分価格になっていたので、これも購入。で、結局朝刊読みながら朝飯ならぬ朝寝酒をやってしまい、腹が膨れるとさすがに眠くなって就寝。――午後遅く目覚めてみれば、寝る前に飲み食いした分だけきっちり腹回りが太くなっており、これもみんな残暑の奴が悪いと思うのだが、みなさんどう思われますか。


09月08日 金  残暑

 夜半など、気温は下がるようになったが、湿気はちっとも晴れない。エアコンや扇風機をつけると肌寒く、といって止めると、じっとり汗ばむ。昼も夜も安眠できない。つくづく狸毛の身は湿気に弱い。
 えーかげんにせんかいこのお天気野郎、と、晴れているんだか曇っているんだかわからない空に向かってボヤキ続けていると、誰か狸穴の扉を、遠慮深げに叩く者がある。新聞の勧誘か神様のセールスか、しつっこい兎のイジメか――だらだらと出てみると、白いワイシャツに紺ズボンの、律儀そうな残暑が立っていた。
「あなたはいつもそうおっしゃいますが、私ら、なにも好きこのんで残暑をやっているわけではございませんのでして、市の条例に従って、やむをえず残暑をやっている次第でございまして、そこのところをなにとぞご理解いただきたいと存じまして。つきましては、ほんのつまらない物ではございますが」
 稲荷寿司を一折り、置いて行った。
 『残暑』が初老の男であること、あまり予算の回ってこない部署の地方公務員らしいことなど、初めて知った。あるいは、狐の悪戯だったのかもしれない。

 稲荷寿司にレトルトのシチューという、奇妙な晩餐になってしまったが、100円弱のシチューは、牛さんが小さいだけで味はどこぞのシェフの写真の製品と、さほど変わらなかった。つまり肉は味がないが、汁はけっこう旨味がある。
 稲荷寿司は、昔、豊川稲荷の前で食った本場物と同じほど、深みのある味だった。
 おたくの狐だったのかもしれない。


09月07日 木  びーふしちゅー

 くにこちゃんの口にはイマイチ合わなかったようだが、さすがは200グラム弱で1000円級、でかい牛さんのカタマリもちゃんと牛の味がして、帝国ホテルの缶詰はとても美味だった。しかし高いよなあ、やっぱり手頃な中っくらいの値段の缶詰かレトルトはないかしら、と、いままでは特に好物でもなかったビーフ・シチューに目覚めてしまい、探索のためチャリを駆る。ありました。一駅離れたダイエーや、4キロほど離れたでかいCOOPに、中村屋のも銀座ナントカのも、なんか有名らしいシェフの顔写真が入ったのも。価格は300〜400円程度。地元でみつからなかったのは、単にゴミゴミした街ゆえ中小のスーパーがいくつもある割にはどこもかしこも絞った品揃えしかできない、そんな売り場面積だけの問題なのですね。それはコンビニも同じで、どこに入っても似たような売れ筋ばかりの小規模店舗が、数だけはウヨウヨと転がっている。
 さて、発作的に各ブランドのレトルト・シチューを、100円弱の安物を含めてみんな1個ずつ買ってしまい、なにやってんだかなあ、と思いつつ、手始めにぶよんとしてしまりのないでもお元気そうなシェフが笑顔で監修したらしいけっこう高価めのレトルトを湯がいて食ってみると――汁や野菜は、けっこう美味だった。狸の貧乏舌には、帝国ホテル級のお味。しかしいかんせん、肝腎の牛さん、牛さんの味がしない。まあ煮込み尽くされたレトルトだから、肉の旨味は全部汁に出てしまいました、そんな事情かもしれないが、同じような調理行程の缶詰でも、あっちはきちんと牛さんの味だったのだから、これはやっぱり半額以下の牛さんなのだろう。結局価格相応なのか、じゃあ100円弱の牛さんは、味がしないだけでなくマイナス味の牛さんとか――以下後日。


09月06日 水  おたく弾きのたかちゃん

 ぐぬゅぬゅぬゅぬゅう、じめづぼい……何語だそれは。
 紀子様ご出産の病院は、きちんと涼しかったんだろうな。おめでとうございました。
 でもやっぱり皇室典範は、早めに考えておいたほうがいいと思うんですけど、政府ならびに一般国民の皆様。今後同世代の男子誕生は、ちょっとむりっぽい。こんなことを言うと右の方の方に怒られそうだが、一人っ子だと、どんなに愛して大切にしても、やっぱりいざという時に後がないのです。

 ころりと話は変わり、宮沢賢治がらみで、敬愛する高畑勲監督の『セロ弾きのゴーシュ』を借りて観る。学生時代に自主上映会で観た当時を思えば、ほんとうにいい時代になった。高畑監督がらみや宮崎監督がらみの作品は、ジブリ以前のものでも手軽にいつでも観られる。
 しかしまあ、原作といい、それに対する高畑監督の踏み込みといい、珠玉の作品。すべての『コミュニケーション』あるいは『表現行為』への聖典と言っていいだろう。敵意(警戒)→対等(表面的理解)→補完関係(深層的理解)→悟り(無私)、そんな深い思想が、なんとも楽しい短編物語に乗って、語り尽くされる。アニメ化段階で、高畑監督は当然そうした深層を把握した上で再構築しているわけだが、けして説教臭いネタバレなどないし、無論原作のほうはいつもの宮沢賢治節、すべてが無意識レベルのイマージュなので、ぼーっと読めば「なんとなくおもしろくてしみる」で終わってしまうだろう。しかし、深層は仏教的に広大無辺だ。『警戒』『敵意』といったマイナス感情すら、それを適確に表現することができれば(客観的にそうできるまで精神が錬磨されていれば)、相互理解や共存は可能なのだ――全ての舌足らずなイジメ加害者やテロ従事者に、味わってほしい作品である。手遅れかもしれないが。

 そんな主題を無意識レベルまでツッコむことが『構造』の本質ならば、それを成しうるためには、やっぱり作者も無意識レベルで創作しながら結果的にその『構造』を理想まで引っぱっていけるほどの『本質』が必要なわけである。それはけして恣意的なものばかりではなく、某氏が某投稿板の某コーナーで根掘り葉掘り技術論を述べておられる例題作の作者・宮崎大先生なども、ある作品に関するインタビューで、「ああ、●●(あるキャラの名前)は形象しそこねました」などと、頭を掻きながらおっしゃっている。あれだけのお方だから、創っているうちから恣意的に「形象しよう」と意識していればなんぼでもできるわけで、要は制作中は、ただ夢中で物語を紡いでいたのですね。『歩く石頭』と言われる宮崎監督も、あるいは『自転車に乗った理屈』と言われる押井守監督も、実際インタビューやDVDのコメンタリーなど拝聴すると、案外制作中は本能的に(ある意味いきあたりばったりに)流している部分も多く、理屈は後から付いている。言い換えれば、半分無意識で流しても結果的にその物語の大半が見事に完成された『構造』を成している、そこに値打ちというか、『本質』があるわけです。

 さて、そんな才能もない一アマチュア作家に過ぎない自分でも、敬愛する大先生方に一歩でも近づいて死にたいという気持ちはあるわけで、まあボケなりになんかいろいろこねこねとやり続けてきた結果、ある程度自分の『無意識』と、あるべき『構造』が重なるシヤワセを、創作後に読み返して「おうおう、そうだったのかあ」などと、自分で事後確認できる時も、たまにはある。まあ宮崎大先生などとは違い、自分以外の誰も気にしてくれない自己満足にすぎなくとも、やっぱり自分はつまんねー理屈いじくっているよりは『物語』と一体になっていたいのよ、そんな自己満足に浸れる時もあるのである。そしてその傾向は、やはり気の向くままに紡いでいる『たかちゃんシリーズ』に、もっとも多く見られる。
 ここから先は単なる自己分析というかある意味自画自賛なのでアレするが、
たとえば、先週打っていたたかちゃんたちのおたく狩りシークェンス、『たかちゃんシリーズ』自体が多く本能的に打っているので本筋からはずいぶん離れて長くなってしまったけれど、それでも「なぜそうした3種類のおたくに対して、たかちゃんたちがそうしたリアクションを取っているのか」を、打った後でつらつら鑑みるに、もうきちんとそうなるべくしてなっているのだなあ、と、自分で感心したりもしてしまうのである。特に三番目の似非ろりのシマツに関しては、当初はやっぱり最強くにこちゃんが偽善を察知してとんでもねー必殺技を披露するはずだったのに、なぜだか打っているうちに、ひょっこりSPさんたちが登場してしまった。単に読者のウケを考えれば、むしろくにこちゃんのコミカル・アクションのほうがウケを取れるわけで、なんでSPさんここで出てくんのよ、などと自分でも思いながら打っていたんですけどね。彼らはゆうこちゃんの行くところ常に見守っているのだけれど、別に出したくなければどうとでもできるサブ・キャラだ。しかし今再チェックしてみれば、その似非ろり野郎をシマツするのは『無垢としてのろり』では絶対になく、社会としての『大人』でなければならなかったのである。なぜなら昔くにこちゃんがシマツしたM君のような『被害者であるろりたちの怨嗟』を、この偽善者カメラマンはまだ纏っていない。ろりも社会も姑息に騙しおおせている存在だ。今のくにこちゃんに(もちろんたかちゃんにもゆうこちゃんにも)、それを察知できる『濁り』はまだない。だから、それをシマツするべきは、やはり正しい保護者=SPさんやゆうこちゃんの父兄でなければ、絶対不可だったのだ。SPさんたちがキャラとして登場する以前だったら、またのこのことバニラダヌキでも出現したのだろう。
 こんなふうに自己分析してみると、ただ勝手に遊んでもらっていたたかちゃんたちの挙動が、やっぱりこの物語をあるべき形に導いてくれているのだなあ、と、つくづく思う。さいしょのおたくにはあくまで「にぎにぎ」、二番目のおたくには「ごん」、三番目は反射的に「すちゃ」――
すげーぜたかちゃん、完璧じゃん、などと作中キャラに自分でエールを送っている自分はバカか。

「わーい、たかちゃん、かんぺきかんぺき。すげーぜ!」(ほめられたので、理由はわからないがとりあえずはしゃいでいるらしい。)
「んむ。なんだかよくわかんないが、てーこくほてるのしちゅーは、んまい。むしゃむしゃ。……んでも、ちょっと、なんだかばたくさいあじも、するな」(本格洋風料理に含まれる乳製品に、イマイチなじめないらしい。)
「ちまちま。……ぽ」(食べ慣れたお味に、安堵しているらしい。)
「だから、俺の晩飯……」(すべてをあきらめて、続きを書いてやろうとしているらしい。)


09月05日 火  困ってしまってわんわんわわん

 ああ、光陰矢の如し。2.3日前に夏が終わったばかりのような気がするのに、もう次の暑い暑い夏が訪れている――などと惚けていても仕方がない。
 買い物ついでにチャリでコイン・ランドリー探索。いくつか見つかったが、いずれもちっこい乾燥機ばかり。と言うより、街中ではそれがスタンダードなんですけどね。つぶれてしまったご近所の銭湯が、もともと郊外型のように気前が良すぎたのである。それで採算割れしたのかもしれない。数年前の転勤時にこの部屋を選んだのは、駅関係の地の利だけでなく、歩いて一分の場所に気前のいいコイン・ランドリーがあったからでもあるので、それがなくなってしまうと、多少遠くても倍の広さがあった古い安アパートにしといた方が、今の半引き籠もり状態には良かったのよなあ。
 ボヤキながら帝国ホテルのシチューの缶詰を眺めつつ(もったいないのでまだ食わない)冷や奴と焼きそばを食っていると、昨日録画しておいたNHKの『日本の名峰・北アルプス』が、とても涼しげで快。高所恐怖症気味の身には、創作ではないナマの登山シーンから、物理的な背筋のヒヤヒヤ感も感じられる。技術と時間と根気を尽くしたドキュメントに、あらためて「NHK、萌え」。マジなバーチャル登山気分など、当節NHKか山と渓谷社の映像ソフトくらいでしか味わえない。

 ところで、また例の投稿板に、形だけもっともらしいが無意味な重複や論理的齟齬だらけの文章を書く方が新規参入し、例によって高評価を受けているのを見て、ちょっと困ってしまう。そうした作者に限って、別の方の作品に入れる感想は、まるっきりズレていたりする。一語一句味わって、なお感性的な部分で折り合わないなら仕方がないが、そうした方は、そもそも表層の見てくれしか把握できないのである。
 読みたいのも心、書きたいのも心。心さえしっかりしていれば、文章や構造など自然についてくる――ほど甘くはないが、少なくとも心を置き去りにしたもっともらしい単語の羅列は、反古だ。


09月04日 月  晩夏のシチューと雲と蓮

 で、さっそくなんかいろいろの帰りに上野に寄って、松坂屋に行ってみたわけだが、ありゃ、中村屋の缶詰が見当たらない。いっそ新宿まで行ってしまったほうが確実だったか。その代わり帝国ホテルの缶詰がある。しかし、高い。一般のレトルトカレーあたりと同程度の内容量で、値段は税込み1018円也。中村屋のなら倍以上の量で、そんな値段のはずなんだが。10分ほど思い悩みつつ地下食品売り場をうろついていると、斜陽とはいえ高級デパートのこと、高価な食材や総菜が、夕方の買い物時でもあり、バンバン売れている。やっぱり日本は豊かな国なのだなあ。おいおい国は豊かでもお前は豊かじゃねーだろーと己にツッコミつつ、結局帝国ホテルのビーフ・シチューの缶詰を買ってしまう。まあ、たまにはいいだろう。まだ一度も食ったことないし。あんまりここで思いを残して、夜中に突然心筋梗塞で逝ってしまった場合、帝国ホテルのレストランに夜な夜なぶよんとしてしまりのないみすぼらしい人影が立ち、「……びーふしちゅー」と寂しげにつぶやいてすすりなく、そんな噂が立ってはいけない。
 買ったからには狸穴にくわえて戻ってわくわくと食うかと思いきや、せっかく上野に寄ったのだからと、クラウンの480円カツカレーで晩飯を済ませてしまう。缶詰は何年も保つので、しばらくテレビの上にでも飾っておけば、少しは気持ちが豊かになりそうな気がする。
 その後、不忍池を少々散策。晩夏の夕暮れの雲の美しさより、びっしり茂った蓮がなんだか恐かった。まるで蓮畑といったあんばいだが、この下は池なんだよなあ。夜中にこっそり死体のひとつやふたつ放りこんでも、当分気づかれないのではないか。富士の樹海より近いので、その気になったら代用してもいいかもしれない。

    


09月03日 日  シチューが食べたい

 昼過ぎに目覚めて顔を洗うと、突然ビーフ・シチューが食いたくなった。ボルシチでもいい。自作するスキルはないので、月末の払いも無事終えたことだし、久々にファミレスを奢ろう――とゆーわけで、ご近所をあたってみたが、きれいさっぱり、シチューが消えている。夏場だけのこととは思うが、それにしても、ご近所の種々のチェーンすべてからきれいさっぱり消えているというのは、大手の商品管理システムがいかに『数値データ』一辺倒であるか、痛感させられる。例外許すまじ、そんな感じだ。資本主義の行き着くところ、結局全体主義なのである。ちなみに、ご近所のスーパー系のレトルトも探してみたら、これまたきれいさっぱり、格安の肉などろくに入っていない物件しかない。カレーだけが無慮数のアイテムで揃っている。コンビニの総菜も、もののみごとに気温やら季節感やらできめ細かく商品管理しているから、例外は許されないようだ。個人経営のレストラン? んな上等な店の成り立つ街ではないのだ。
 などと無意味に騒いでおいて、やっぱりシチューなどというものは『家庭料理』なんだろうなあ、と思い当たる。家庭のない自分がいけないのだ。くすんくすん。……しかしまともなシチューが食いたいだけで、泣くことになろうとは思わなかった。ふん、いいもんいいもん。今度上野に出た時、松坂屋の中村屋で缶詰買ってくるもん。って、半引き籠もりなんだから煮込み料理くらい自分で作れよ狸。

 などと打っているところへ、またどこぞの不動産会社から新築マンションのセールス電話。例によって「金がないから買えない」と言えば、今回のあんちゃんはネチネチネチネチと、なかなか諦めようとしない。これが明るい口調であればそう不快でもないのだが、粘っこいカラミ口調だからどうしようもない。これから晩飯だからと言ってもやめないので、「腹減ったんで飯食いますから」と、切ってしまう。時計を見れば午後7時。考えてみりゃあ日曜のこの時間にこんな電話をかけなきゃならないあんちゃんも大変だろう。他に仕事のある人間の日祝バイトなのかもしれない。それにしたって、不機嫌な声で他人の晩飯を遅らせていい道理はない。

 卵とカニ缶をぶっこんだ焼きめしを食いながら(カニ缶なんて贅沢なようだが、実はこれもダイソーではない100円ショップの、きっちり100円商品なのである。すごい。)、NHKのBSで録画しておいたふるさとナントカという番組を観る。NHK岩手制作の、宮沢賢治特集。生誕110年記念なのだそうだ。ケーブルで色々やっていたのも、そのカラミだったのですね。
 宮沢賢治という人は、ほんとうに育ちが良くて多趣味で凝り性で移り気で、素朴というより、まるで無邪気な子供のようだ。農業運動やら宗教活動やら、社会意識・仏教的素養に秀でた人間のようにも見えるが、結局は夢(固有のイマージュ)と現実(社会も自然も未分化の)を、無心に重ねようとした一生だったのではないか。作品も技巧や作為とは無縁で、内的世界も外的世界も、ただ混然とイノセンスに紡がれている。こんな才能を、真の『天性』と言うのだろう。


09月02日 土  光あれ

 闇は平等に訪れる――誰の言葉だったか。なにか小説の中の言葉だったか。
 いや、お若い方のHPを覗かせていただいていたら、「光は障害物を照らして闇を作るから差別的、しかし闇は光よりも常に平等」といった意の表現が、創作物の中のキャラの主観としてではなく、実在の人物の言葉として支持されていたので、なんとなく気になってしまったのである。
 実生活において、真の闇をどこまで経験したことがあるか、それだけの認識の違いだろうか。たとえば、厚い雲で月も星も見えない深山の闇。手持ちのランプが切れたりしたら、次に踏み出した足元が土であるか断崖の虚空であるか、自分の顔の直前は空間であるか漆の枝であるか、行く手に待っているのは草原なのか荊の藪か――闇などというものは絶対に平等ではない。ただ『光がない』という条件だけが均一なだけで、ならば自分が今いる時点から一歩も動かないでいいのなら誰にとっても平等かといえば、とんでもない。その闇でも光とは別の手段で空間把握できる他者が、どこからぶつかってくるか解ったものではない。
 光あるところには必ず影がある――それもまた、どうしようもない真実である。その光を放つものにとって、影が見えないのも事実である。ただ、自分という主体をどこに置き、動きたいのか寝ていたいのか、なのだ。ただ寝ていたいなら、夜行性動物の干渉覚悟で、闇の中で寝ていればいい。それがいやなら、山小屋の灯を探し自分からそちらに近づいて行けばいい。あるいは自分でなんとか火を点す算段をするとか。つまり、光から生じる『不平等』などというものは、そこから動くこと、光自体が動くことでいくらでもその不利を改善できる可能性がある。しかし闇は、どこまで行っても『不明』のままである。
 全盲の方々ですら、精いっぱい、思考・感覚という『光』を求める。
 光あれ。


09月01日 金  休日の沈浮

 本日は自分で勝手に決めた休日。
 昨夜の予報では午後遅くから降るはずだったのに、朝から一日雨である。しかし、洗濯しないと明日着る下着がない。昨日は良く晴れていたのだが、昼には暇がなく、夜には近所のコイン・ランドリーがなぜかフル稼働で空きがなかったのである。嫌々ながら傘を差して出かけてみると――そのコイン・ランドリーは隣の風呂屋ごとつぶれていた。だから昨日混んでいたのですね。張り紙かなにかも、どこかにあったのだろう。泣きながら1キロほど離れた別の風呂屋のコイン・ランドリーへ。ちっこい。乾燥機の容量が半分だ。半分ならば洗濯物も半分ずつに分ければ同じ時間で乾くかと思いきや、熱効率が悪いらしく、いつもの1,5倍かかった。往復2キロを行ったり来たり。
 自炊の気力も失せ、松屋をめざすと、これがまた改装中で閉まっている。天は私を見放したか。マックで昼飯。最初空いていた向かいの席にだらだらとルーズ・ソックスの群れが転がり込み、いやあな予感に捕らわれた。案の定、音域は少女のようだがとても言語とは思えぬドブの水のような音声を、一斉に吐き出し始めた。全国のルーズ・ソックス少女が全員ドブだとは言わないが、少なくともこの近所ではたいがいドブである。まあドブにならないと周りのドブにドブのようなシカトやイジメを食らうとか、ドブにも種々の事情があろうが、現にドブではないグループも多数いるのだから、結句自分の意志でドブをやっているのだ。今日は防災の日で、朝からさかんにそんなラジオをやっていたが、もしたった今大地震が来て天井が崩れ始めたら、迷わずはす向かいの穏やかな初老の女性たちをかばおう。汚い物には触りたくない。近頃のアダルト物件も女子高生物はたいがいドブのようだが、あんなものに挿入したがる男たちの気が知れない。男の姿をしたドブネズミなのだろう。ドブネズミみたいに美しくなりたい。写真には写らない美しさがあるから。しかしドブそのものは残念ながら美しくないし、ドブネズミになるほどの根性も自分にはない。
 午後はやけになってたかちゃんたちと遊ぶ。今回は『たかちゃんぐるめ』に近いナンセンス・ギャグがメインなので、遊んでいると果てしなく本筋から離れて行く。まあどこへ行こうと、かわいいのでかまわない。
 夜はケーブルで録画しておいた、映画『風の又三郎』の1940年作・1957年作・1989年作を、いっきに観る。前2作はモノクロながら宮沢賢治の原作に忠実で、特に1940年物は太平洋戦争も近い皇紀2600年の作ゆえ子供達が国旗に敬礼する描写などもあるが、あくまで岩手の田舎の子供達の素朴な感性が主体で、しみじみ好ましかった。1957年のほうも、自分の生まれた年の作ゆえまだまだ田舎は牧歌に溢れているが、分校内や農家内の明るい照明に、やや違和感を覚えた。自分の記憶では、田舎の屋内は1940年物の暗さであった。1989年物となると、カラーだし空撮はあるしSFXも巧くなっているのだが、やはり作り物。セットのみならず、ドラマ自体が種々の賢治世界を脚色していながら、根本的に違う。風景を人間ドラマの背景にしてしまった時点で、宮沢賢治の世界は成立しない。イーハトーボでは、人間は風景から浮いてはいけないのだ。