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10月31日 火  Z級ぐるめ・郷愁編

 やっぱりすべての情動を交代人格に任せておいては、なしくずしに橋の下に行ってしまうので、平常心平常心。

 105円の鮭ハラミ缶を使用したお茶漬けをおなかいっぱいおいしくいただきつつ、池田弥三郎さんの『私の食物誌』(昭和39年のエッセイ)を読んでいたら、『どんどん焼き』という名称が出てきて、ありゃ、あれって故郷山形ローカルの縁日・屋台食じゃなかったの、と首をひねって検索してみたら、昭和の前期頃まで東京でも同じ呼称の縁日・屋台食品が一般的だったのですね。ウィキペディアによれば、池波正太郎さんなどは、「小さい頃はどんどん焼き屋になるのが夢であった」と述べておられたそうだ。もっとも東京のどんどん焼きは、直径10センチほどの、なんかいろいろ具が豊富に入った小型のお好み焼きといった形で、卵などもデフォルトで入っていたらしいから、さすがに花の大帝都である。仙台にも『どんどん焼き』という名称の小麦粉主体軽食があるらしいが、これは東京版ほど豪華ではないにしろやっぱりなんかいろいろ入っており、さすがに東北代表都市。
 『どんどん』という名称の由来は、屋台売りの業者が太鼓を叩いて触れ回ったからという説があるが、山形の場合には、なぜか鐘を鳴らしながら回ってきた。大昔の学校で、用務員さんが手で振り鳴らしていたようなちっこい鐘が、からんからんと響いてくる。各町内で屋台が停まる場所は、おおむね紙芝居屋さんと同じ角の電柱の下だったから、拍子木が聞こえたら紙芝居、鐘が聞こえたらどんどん焼き、そんな呼吸である。自分が物心ついた頃には、どっちも5円あればOKだったが、こっちの成長につれて小遣いが増えると、あっちも高度経済成長に従ってどんどん値上がりしたから、1日に両方愉しんだ記憶はまったくない。
 さて、山形の『どんどん焼き』とは――推定99パーセントが小麦粉と水、それだけである。暇な時に屋台のおっさんにくっついて公園までおっかけたところ、水は公園の水場などからバケツで調達し、屋台横の羽釜に小麦粉と水をぶちまけ、泡立て器のようなものでがらがらかき回し、現在のクレープの素程度の粘度にして、やはりクレープ程度の大きさに鉄板で焼く。そこに4センチ角程度の海苔をほんの1枚、ぺらぺらの輪切り魚肉ソーセージをほんの1枚、紅生姜をほんの気持ち程度散らしてひっくり返し、適宜焼けたところで割り箸を片方乗せてちょいと折り込み、その上にもう片方の割り箸を並べてまた折り込む。そうやってくるくる折りたためば、クレープ状物件でも、二本の割り箸で安定保持できるわけである。仕上げに刷毛でソースを塗りつけ、青海苔をほんの気持ち程度振り掛け、はい、できあがり。
 なんのことはない、本当に小麦粉と水だけ食ってるようなものだが、これがやっぱり、わくわくの外食だったのですね、その頃の田舎のガキにとっては。世の中に『お好み焼き』と呼ばれる、肉だの海老だのが入った超高級どんどん焼きがあるらしいという知識だけは、無論漫画雑誌などで得ていたものの、そんなもんは花の東京にでも出ないと食えないんだろうなあ、そうすなおに納得してたんですね、当時の地域格差バリバリ社会に生きていた狸の子たちは。
 しかし――うまかったものは、うまかったのである。格差上等。妙な平等意識に縛られて、日本全国全階層一律に欲求不満化してしまうと、主観的にうまいものなど、減る一方ではないのか。


10月30日 月  貴腐人

 なんだかおじちゃま、すっかりイケなくなっちゃったみたいなので、これからは、おばちゃまがオモテはろうと思うのよ。
 で、好みとしては、こんなのね。

         

        

            で、おばちゃま自身は、こんなんだと思ってちょうだいね。

                

               (注・画像の著作権は高畠華宵先生にあります)


10月29日 日  Z級ぐるめ・原点回帰編

 つんつんつん、つんつんつ、つつつん―― ♪ つんつくつくつく、つんつんつん ♪ つんつくつくつく、つんつんつん ♪ つんつくつくつく、つんつんつん ♪ つくつくつんつん、つん、つん、つ〜〜ん ♪
 はい、それでは犬HK『今日のお料理』、本日は秋の行楽、じゃねーや、秋の引き籠もりにぴったりの、おいしいまぜご飯を作ってみましょうね。メモの用意はよろしいですか?

 (1)ご飯を2合炊く。
 (2)卵を2個、バターで炒り卵にする。
 (3)赤ウインナーを一袋、細かく輪切りにして、バターで炒める。
 (4)上記の物件を、がしがしかきまぜる。
 (5)1日2〜3回に分けて食う。
   (注1)物足りない時は、お醤油たらたら。
   (注2)栄養バランスを考慮した場合、各回野菜ジュースを一杯ずつ飲む。

 ――玉葱やケチャップを買う予算あれば、面倒がらずに炒めご飯にしてもいいですね。しかしヒトならぬ犬科の狸としてはバター風味のほうが、「あああ、ぜーたくした」、そんな実感をしみじみ味わえますね。
 まあ、巣と水場があって、ガスや電気が止まらない限り、ますますビンボでも天は高いし、馬も狸も肥える秋なのですねえ。


10月28日 土  夢の翼

 巷で話題の『DEATH NOTE』とやら、漫画は読んでいないが、あちこちで漏れ聞く基本設定になにやら半村良先生の『岬一郎の抵抗』と似た感じがあるし、せっかくテレビで無料なのだから録画してみたのだが――なるほど、背伸びしたがる時期の子供がハマりそうな、ご勝手ルールのゲームのようだった。あまりの窮屈さ、というか精神的世間のせせこましさ(幼稚と言うより、まさに『せせこましい』のである)に、半分でめげた。しかし原作も映画も大ヒットらしい。今の子供は(大人もか)、本当に虚構世界を狭く浅くするのが好きだ。金子監督の演出も、いつものソコソコにキメる巧さはあるが、ガメラもゴジラも出ないと、やっぱり底の浅さのほうが目立ってしまう。
 個人的に、虫の良い話は大好きである。しかし、あの歳であの環境設定でアレだと、やっぱりお手上げなのよなあ。

 江戸川の土手を行く幼児(ろり)を見ていると、ときどきひとりで歌ったり芸をしたり、明らかにあっちの世界に遊んでいる子がいて、ふと空を見上げ、ぴょんと飛び上がったりする。当然万有引力という現実によって、すとんと着地してしまう。当座はがっかりして足元を見下ろしたりしているのだけれど、じきに気を取り直してまたひとり遊びを始める。とてもかわいい。それでかまわないのが、子供の特権だ。しかし、成人式も終えて久しいあんちゃんがやってたら、ちょっとえんがちょだ。
 じゃあ、その子供やあんちゃんに実際空を飛ばさせてやるには、どうしたらいいか。方法はふたつあると思う。
(1)世界観において万有引力をきれいさっぱり無視する
(2)万有引力を熟知させ、物理的に対抗する技術を身に付けさせる(魔法でも、飛行機の操縦免許でも、羽根が生えるのでもいい)
 まあ子供ならどっちも曖昧のまま空飛んでてもかまわないようなものの、イケメンのあんちゃんがどっちも曖昧なまま引力無視して空飛んでたら、自分には虫の良い話ではなく、やっぱりえんがちょなのである。


10月27日 金  信じる者は救われる――かどうかは相手と自分しだい

 結局、主力なんかいろいろの先は、逆さに振っても何も出ないようである。いや、ふだんほとんど面識のない末端泡沫下請け(ズバリ内職)のお仲間などもちょっと集まったりしてみたのだが、どう頑張っても、ないものはない。どこかで誰かがこっそり私服を肥やしたと言うような高級な話ではなく、この件に関しては上から下までみんなビンボなのだから、これはもうウツロに笑って「ま、しゃーねーわ」とつぶやくしかないのである。それに上のような借り倒れよりは、下の貸し倒れのほうがまだ外聞がいい。

 さて、これからは外出のたんびに『売り飛ばす』イキオイが強まると思われ、まあそれはそれでかまわないとして、売ろうと思ってもやっぱり誰も引き取ってくれないシロモノも、けっこう多い。
 たとえば本日の売却不能品は、大迫純一氏の『あやかし通信』と、福永法源の『天行力』。念のため、このおふたりが並んだのは、単に行きつけの古書店でも新古書店でも「いらない」と言われた、それだけの理由です。店によっては幾らかになるのかも知れません。
 『あやかし通信』は『新耳袋』同様、創作ネタも伝聞ネタも勘違いも意識的に未分化の四方山怪談話なので、民俗学的興趣は乏しい。ちょっとした怪奇文学ファンならすぐに元ネタのわかる話が、著者自身知るや知らずや実話扱いになってしまう点も同じだ。たとえば『しゃもじ幽霊』の話、まんま橘外男先生の『蒲団』であり、昔2チャンなどでも盗作やないけと指摘があったが、まあお若い(推定)著者が原典など読んでいなくとも不思議はなく、岡本綺堂先生の『木曽の旅人』同様、昔からあっちこっちで実話として語り継がれた形が著者の耳に伝わったのだろう。文章的には、夢枕貘氏の模倣以外の何物でもない。しかしまあ読み物としてはけっこう楽しかったので、美本なのに5円や10円にもならないのは不思議。文庫版が出てしまったからか。
 『天行力』のほうは――まあ詐欺目的のヨタ本とはいえ、著者が実刑判決受けたくらいだから別の意味での興趣があるわけだが、残念ながら商品にはならないのだろう。余談ですが、かの福永法源が受賞したと言うマハトマ・ガンジー賞は、インド政府によるインディラ・ガンジー賞とはまったく別物です。皆様周知のこととは思いますが、池田大作やドクター中松のガンジー賞も、そっちの『いっぱい寄付すると誰でももらえる』系の、民間ガンジー賞ですね。しかしオウム同様、法の華三法行も、しっかり『よろこび家族の和』から『天華の救済』などと名前を変えつつ存続している。似非宗教的洗脳という奴は、するほうも贅沢な生活やら根拠なきエバリの快感やらがかかっているのでしぶといが、されたほうも「これで救われなきゃモトがとれない」ので、なかなかしぶといのである。結局両者、欲を媒介として繋がっているから、戦争同様永遠に途絶えない。
 ことほどさように良くできた創作物はいつのまにか実話にさえなってしまうが、たいして良くできていないヨタも時と場所と目的によって真理や説法にされてしまうことがあるので、ヨタはヨタとして愉しむのが吉。


10月26日 木  美しいもの

 なんかいろいろのごたごたですっかり気持ちがとっちらかっていたため、二日間ほどいっさいテレビをつけなかった。
 本日、録画しておいた『鑑定団』で、信じられないほど美しいものを見た。牧野義雄さんという洋画家の、霧のロンドンを描いた水彩画である。小さく画面に映ったとたんに「わ」と硬直し、アップになった時にはほとんど意識がその絵の中に溶けた。自分はこの歳になるまで、こんなに美しい夜の街を、絵でも写真でも映画でも現実でも、見たことがない。間違いなく魂込みの本物だろう。もはや価格など見当もつかない。自分なら1億でも2億でも買いたい。今は10万でも買えないけれど。ちなみにプロの鑑定は、2000万だった。スタジオの観客から驚愕の吐息が聞こえたが、いや、まだ安すぎる。少なくとも過去に見た億単位の有名画家のどんな傑作よりも、その水彩画は美しかった。
 これだけの心《しん》から美しい絵を残した牧野義雄さんという方は、明治中期に若くしてアメリカに渡り、その地の人種差別に負けてロンドンに移り、極貧の修業時代を過ごしながらもやがて『霧のマキノ』として社交界に名声を得たそうだが、第二次大戦で帰国を余儀なくされ、残念ながら明治以降の日本には溶け込めない人柄だったのか、1956年に鎌倉で孤独死されたとのこと。

 心から美しい雪の夜なら、過去の故郷で幾度も実物を見た。ここの『書斎』に置いてある『なんだかよくわからないものの聖夜』に誠心誠意描いたので、未読の方はぜひご一読いただきたい。
 心から美しい女性も、夢の中で幾度も見た。『月下美人』に誠心誠意描いたのだが、現在手を加えたりあっちこっちにナニする都合で、公開していない。そのうちあきらめて再公開するだろうから、未読の方はぜひご一読いただきたい。

 まあ何があろうと、美しいものは美しい。
 それを摂取したり発散したり、いや、発散しようとしたりできるうちは、生きてるって素敵。


10月25日 水  ああ情けない消去したい

 などと思っても、ここは社会的誤謬以外は後日手を入れない原則なので、自分の恥だけ今さら『無かったこと』にするわけにも行かない。いっそ開設当初にちょこっと踏み込みかけた、中高年ハローワークネタをウリにしてもいいか。まあ遠からず、いやでも出てくるだろう。売り食いにも借り食いにも限度がある。

 先日公開捜査に踏み切った長野の失踪女児は、案の定、出会い系サイトがらみだったようだ。いつだったかここで取り上げた、ほんまりう氏の漫画作品『純愛記』(検索したら3月30日だった)同様、その男がいくら「いやらしいことはしていない」と主張しても、社会的には消去できない事実が残る。小学生を親に無断で連れ回す31歳の男というのもつくづくサムいが、見ず知らずの男にのこのこついて行った12歳の少女は、精神的に幼女であったのか、それとも精神的な娼婦であったのか。


10月24日 火  破綻

 わははははは。笑うぞ。収入源のひとつが倒産してしまいました。
 いや、実は先月の入金がすでに無かったのである。いや来月にまとめて大丈夫などと言われて、こりゃもうヤバイだろうとなかば確信しつつナナメに構えていたら、めでたく本日不渡り出して正式に破綻。末端にブラ下がっていた下請け狸としては、三十数万程度の貸し倒れとはいえ、問題は、わたしゃ収入の7割をそこに頼っていたのである。このままぼーっとしていると、いつかはでなく、来月か再来月の末ごろには、地下道か公園か、橋の下か富士の樹海に旅立つことになってしまう。
 とゆーわけで、心も新たにハローワークである。あわててスーツなど三年ぶりにひっぱり出して、「うええ、腹がキツイ」などとうめいてみても、それをはいて履歴書持って右往左往しなければ、好き勝手に妄想にふける時間すらなくなってしまう。

 マテ。
 明日の入金もないのだぞ。
 月末になっても、予定の三分の一しか入金がないのだぞ。
 入金なくともあっちこっち自動引き落としや払いがあるのだぞ。
 ハローワークに日参するにも履歴書持って右往左往するにも、日々おまんまは食わねばならんのだぞ。
 ……わはははは。自転車操業のツケというやつは、こーゆー時にどーっと回って来るのである。
 姉や。とりあえず頼る身内は、姉しかおらへん(なぜに関西弁)。

 ……で、たった今、我が姉弟の長い人生でもなかなかアレな電話相談を、密かに交わしたところです。
 このページをご覧のごく少数のお若い皆様、くれぐれも私のような敗残者にはならないようにお祈り申し上げます。
 まあ今後の人生がどう転ぶにしても、とりあえず別口の仕事は済ませねばならないので、とりあえずはいつものごとき夜を過ごすわけですが、その前にとりあえず備蓄のビールを飲みながら、なにか湧き水のように笑いつつ、ゅぇ様のバトンにお答えします。
 

■1.回す人を最初に 
 ちょっと人に何かを回せる状況では。 

■2.お名前は?
 バニラダヌキです。お願いですから本名は聞かないでください。あ、もう知ってる方は、忘れてください。

■3.おいくつですか?
 ズバリ、49歳です。もうとりかえしはつきません。でも、死ぬまで生きます。

■4.職業は?
 三分の一は、居職系フリーター。三分の二は、つい先ほど無職になりました。うるうる。

■5.ご趣味は?
 やけになって夢想に走ること。夢想が昂じて成文化すること。創作系の観賞。 

■6.好きな異性のタイプは?
 色気がほとんどない女性(未成年可)か、あるいはありあまっている女性(熟女可)。
 いずれにせよ、自分には分不相応なくらい個性的な女性。 

■7.資格か何かありますか?
 国語の教員免許。甲種防火管理者。

■8.悩みは何かありますか?
 自分ではすごく面白いと思った夢想の成文化物件が、なぜだか第三次選考まで残れない。
 銀塩写真関係業界が壊滅しつつある。

■9.お好きな食べ物と嫌いな食べ物は?
 好きな物――染太の鰻、身欠き鰊、松屋の豚めし。嫌いな物――ナマの林檎(かじると歯がうずくので。味自体は大好きなのですが)、何かと混ざった胡瓜(たとえば炒め物やポテトサラダに入っている状態。胡瓜単独状態なら歓迎)。……とゆーか、自分の好き嫌いは素材そのものでなく、素材の状況によるようです。
 
■10.貴方が愛する人へ一言。

 あなたの幸せが私の幸せです。

 (追補・正社員向け)自発的に正社員の座を捨てるべからず。ただし、橋の下に行く覚悟なら可。
 (追補・自営業向け)いつまでもあると思うなクライアントや客。

■11・回す人を指名すると同時に、その人の他者紹介をお願いします

 ……恥ずかしくて誰にも回せません。


10月23日 月  米を買う方法

 押し入れの本を整理していると、まったく読んだ記憶のない本がけっこう出てくる。基本的に『積ん読』はやらないたちなので、ほとんどがまともに働いていた頃つれづれなるままに目を通し、そのまま忘れてしまった駄本である。

 今夜、こんなのが出てきた。『芥川・直木賞のとり方』。はて、そんなパロディ本があったかな、もしかして清水義範さんの作? などと思いきや、これがマジでどこぞの入門書メインの出版社から発行された、マニュアル本だった。著者プロフィールを見ると、一応文筆業の方だが、芥川賞も直木賞もとったことはないようだ。中身は、まあ業界や創作活動ネタが中心の、四方山話のようだ。読んだ記憶はまったく蘇らないし、読み直す気も起こらない。1995年発行とあるから、自分はもうずっぷし商売人の頃で、ワープロも報告書くらいにしか使わず、創作とは完全に縁の切れていた頃である。きっと、それでもどこかに創作への未練が残っており、そんな書名に騙されて買ってしまい、薄い内容は読んだ直後に忘れてしまったのだろう。それが良書であったら自分の記憶にあるはずだし、何よりその著者自身が今頃は芥川賞か直木賞をとっているはずだ。

 当時、店長セミナー等でホテルにカンヅメになると、同じ経営評論家の方が毎回登場し、なんじゃやらもっともらしい講義をえんえんと続けていたが、過去の分析と結果論ばかりでちっとも今後の参考にならず、ついつい何度も欠伸をしてしまい、それに目をつけられて毎回怒られてしまった経験がある。一流大学を出て一流商社勤めをしていた方らしく、助手の青年をアゴでこきつかう様などまことに偉そうだったが、今思い返せば、その方の予想はたいがい外れている。なにせ当時のビデオデッキに採用され始めたデジタルノイズキャンセリング機能を「無用の長物」と切って捨て、DVDも長続きしないとおっしゃった方である。

 中島みゆき姐御の歌に、『時刻表』という地味だがつくづく心にしみる名作がある。けして著作権を侵害する気はなく、しかしここにあえて全歌詞引用させていただく。

   
街頭インタビューに答えて 私やさしい人が好きよと
   やさしくなれない女たちは答える
   話しかけた若い司会者は またかとどこかで思いながら
   ぞんざいに次の歩行者をつかまえる
   街角にたたずむ ポルノショーの看板持ちは爪を見る

   きのう午後9時30分に そこの交差点を渡ってた
   男のアリバイを証明できるかい
   あんなに目立ってた酔っ払い 誰も顔は思い浮かばない
   ただ そいつが迷惑だったことだけしか
   たずね人の写真のポスターが 雨に打たれてゆれている

   海を見たといっても テレビの中でだけ
   今夜じゅうに行ってこれる海はどこだろう
   人の流れの中で そっと時刻表を見上げる

   満員電車で汗をかいて肩をぶつけてるサラリーマン
   ため息をつくなら ほかでついてくれ
   君の落としたため息なのか 僕がついたため息だったか
   誰も電車の中 わからなくなるから
   ほんの短い停電のように 淋しさが伝染する

   誰が悪いのかを言いあてて どうすればいいかを書き立てて
   評論家やカウンセラーは米を買う
   迷える子羊は彼らほど賢い者はいないと思う
   あとをついてさえ行けば なんとかなると思う
   見えることとそれができることは 別ものだよと米を買う

   田舎からの手紙は 文字がまた細くなった
   今夜じゅうに行ってこれる海はどこだろう
   人の流れの中で そっと時刻表を見上げる
   人の流れの中で そっと時刻表を見上げる


 さて、その頃メタルに首を打ち振る一方で、そんな歌もこっそり愛聴していた自分は、姐御の同じアルバム『寒水魚』にトリで入っていた『歌姫』を、深夜酔ってアパートに帰る道すがら、チャリをこぎながら口ずさんでいた記憶もある。
 実は、この『寒水魚』というアルバムは、学生時代につき合っていた後輩の演劇少女が好んで聴いていたもので、狸は「うひゃー、暗い」などと思いながらおつき合いで聴いていたのだが、やがてフラれてからうじうじと未練げに繰り返し聴いているうち、ずっぷしハマってしまったという経緯がある。

   
淋しいなんて 口に出したら
   誰もみんな うとましくて 逃げ出してゆく
   淋しくなんかないと笑えば
   淋しい荷物 肩の上でなお重くなる
   せめておまえの歌を 安酒で飲みほせば
   遠ざかる船のデッキに立つ自分が見える
   歌姫 スカートの裾を
   歌姫 潮風になげて
   夢も哀しみも欲望も 歌い流してくれ

   南へ帰る船に遅れた
   やせた水夫ハーモニカを吹き鳴らしてる
   砂にまみれた錆びた玩具に
   やせた蝶々 蜜をさがし舞いおりている
   握りこぶしの中にあるように見せた夢を
   遠ざかる誰のために ふりかざせばいい
   歌姫 スカートの裾を
   歌姫 潮風になげて
   夢も哀しみも欲望も歌い流してくれ

   男はいつも 嘘がうまいね
   女よりも子供よりも 嘘がうまいね
   女はいつも 嘘が好きだね
   昨日よりも明日よりも 嘘が好きだね
   せめておまえの歌を安酒で飲みほせば
   遠ざかる船のデッキにたたずむ気がする
   歌姫 スカートの裾を
   歌姫 潮風になげて
   夢も哀しみも欲望も 歌い流してくれ

   握りこぶしの中にあるように見せた夢を
   もう二年、もう十年 忘れすてるまで
   歌姫 スカートの裾を
   歌姫 潮風になげて
   夢も哀しみも欲望も 歌い流してくれ


 なんかいろいろの末に、握りこぶしの中の夢を結局忘れ捨てられなかった今、自分はそろそろ米を買うのにも不自由している。


10月22日 日  月日貝

 さすがにこの歳まで生きていると、男は泣いちゃあかん泣いちゃあかんなどと思いつつ、恥ずかしながら実生活上、成人後も列車のデッキや職場のトイレなどでこっそり号泣したりしてしまったことがある。仮想上ならさほど恥ずかしくもないので、漫画・映画・小説・エロゲ等で、ひとりこっそり泣くのは日常茶飯事だし、電車の中で漫画を――永野のりこさんの『さかなちゃん』だったか――読みながら、嗚咽をこらえられず往生したこともある。しかし今晩、風呂場でラジオを聴きながら号泣することになろうとは思わなかった。日曜名作座の話である。
 高樹のぶ子さんの『月日貝』という短編を、例によって森繁久彌さんと加藤道子さんのコンビが演じている。もっとも加藤さんは先年お亡くなりになってしまったから再放送なのだが、原作自体さほど古い小説ではないから、森繁さんも加藤さんもすでに完全な老人声であり、そして奇しくも原作は、海辺の宿に泊まった老夫婦(妻はアルツハイマーで、すでに夫も認知できない)の交情を切々と描いた内容である。泣くでしょ、当然。身内にアルツがおり、しかも子供の頃から『日曜名作座』に親しんでいる身としては。もっとも自分が過去『日曜名作座』を聴いていたのは、10代の始めから高校時代までであり、大学、そして会社勤めの間はまったく聴いていない。そして三年前に落ちこぼれてから、また聴き始めたわけである。
 自分専用のちっぽけなゲルマニウムラジオ――わはははは、またレトロなネタだわなあ。まあ狸が小学校高学年の頃には、子供の小遣いで買える唯一の自分専用AV機器だったのである。文房具屋で売っていた、黒くて四角くてちっこいの――で聴いた、岡本綺堂の『影を踏まれた女』や『笛塚』など、今でもノイズ混じりながら鮮明に記憶している。昔の田舎の子供は夜9時になると強制的に蒲団に入れられており、当時の『日曜名作座』も、ちょうどそのあたりの時刻から始まっていた。乱歩の『人間椅子』なんてのも、実は森繁さんの語りで初めて知ったのである。あの頃の森繁さんは、多芸さと人間の生臭さが横溢して、何をやっても巧かった。
 さて、今『日曜名作座』をネット検索してみると、ウィキペディアによれば、『
2003年1月以後は二人の体調を考慮して新作を新たに製作せずに過去に放送された作品を再放送してきた』とある。始まったのは、なんと狸の生まれた年だそうだ。半世紀近く、森繁久彌さんと加藤道子さんのコンビが、ありとあらゆるネタの複数の男女キャラを演じ分けながら、営々と続けていたわけである。そんなお二人に『月日貝』などヤラれてしまったら――泣くわなあ、当然。
 で、風呂で泣きながら、自分用の老カップルネタのアイデアなども忽然とわいたりしたのだが、短編的アイデアは近頃ほとんど出ない自分なので、ありがたいありがたい。もっとも、高樹のぶ子さんのような自然さも素直さも持ち合わせていない狸のこと、なんかいろいろひねこびた、あざといドンデン型の話である。


10月21日 土  もういいよ

 なんとなくいーかげんな気分で法律など定めるとどうなるか、まあ今日日のろり系写真集やDVDでも見てもらえば歴然としている。小中学生がパンチラ(水着だそうだ)どころかTバック下着(やっぱり水着だからいいのだそうだ)で、大股開きや臀部突き出ししまくっており、「さあなんぼでも劣情もよおしてちょうだい」状態である。ヒモのような布で肛門と生殖器さえ隠されていれば、どんな節操のない構図でも合法、そんな品性が確実に実在のろりまで定着しつつある。
 無論、昔も今もアンダーグラウンドでは、なんでもアリである。この世界に映像記録技術が生まれた直後から、ありとあらゆるシークェンスの映像が、アンダーグラウンドでは流通している。問題は、ヌケサクが定めた中途半端な法律によって、「じゃあそれに反しなければ何やっても合法ね」という便所虫がごそごそと便所から這い出し、社会の表にわらわらと繁殖してしまう、そこにあるわけである。念のため、自分はアンダーグラウンド物件も、はっきりと『好き』である。ただ、それを一般社会に節操なくバラまいて、表社会までアングラ化しようとは思わない。娼婦には娼婦の矜持があればこそ、貞女に貞女の矜持が存在できるのだ。
 で、やっぱり狸としては、正しいろりを求めてやむなく退嬰に走ろうと思う。

    


10月20日 金  あなたもどんどん痩せられる! 古本ダイエット

 さて、大ぶりの手付き袋が3つほど、古い文庫や雑誌でいっぱいになった。新古本屋なら大半買取不能まちがいなしの小口変色、表紙もシミの少なくないシロモノばかりだが、個人的評価では、断じていわゆる『ゴミ』ではない。しかし今後読み返す気もないから、死蔵しておいても仕方がない。そこで、午後に起きて「うー」などとうなりながら紀文の豆乳を飲み(近頃寝起きはなぜか豆乳)、顔を洗って「えいや」と持ち上げてみると、利き腕に2袋片腕に1袋、なんとか運搬できそうなので、そのまま駅に向かったわけだが――ゆ、指がちぎれる手が抜ける――段ボールにぎっしり詰まった紙の重さという奴は、たび重なる引っ越しで悟っていたはずなのだが、手付き袋という形状に油断していた。そして、あまつさえ――ずぼ。ばさばさ――駅にたどり着いた瞬間、袋のひとつが抜け落ちた。手付き袋ではなくなってしまったのである。泣きながら最寄りのキオスクで丈夫そうな袋を買うと、これが豚めしが食えるほどの値段なので思わずビビってしまう。しかし、そこで買うしか道はないのである。
 そうして電車賃までかけて搬入した先は、先週気に入った東京駅は八重洲地下街の『八重洲古書館』。「か、か、買取りお願いします、へっ、へっ、へっ」などと、夏でもないのに大汗かいてのたくりこんだぶよんとしてしまりのない狸と、その腕にぶら下げた薄汚ねー(ただしひとつは新品)でっけー紙袋三つぶんの古文庫古雑誌に、店長さんらしい年配の女性は顔色も変えず、あくまで穏やかに「……店内でお待ちください」――まあ、ここいらの反応で、ある程度の勝利は確信しました。少なくとも5千円くらいは出るのではないか。電車賃と袋代を考えると、6千円行けば上々。さて、何時間でも間の持ちそうな正調総合古書店風品揃えの店内をうろつくこと30分、「お待たせしました。9100円でいかがでしょうか」。――やはり、本というものを中身で見てくれるお店だったのですね。
 
 こうした運搬は、たとえその価格が5千円だったとしても、けして無駄ではない。なぜなら大汗かいてうろうろしている間に、大変なカロリーを消費する。実際今晩風呂上がりの体重計は、昨夜より正味1キロ減っていた。いつものようにしこたま飯をかっくらったにもかかわらず、である。


10月19日 木  ハヤリと名作

 なんか、いよいよ『イジメ』ブームのトーンが上がり、それに釣られて調子を悪くする生徒や、それに便乗して調子を悪くしたことにしてフケる生徒も出てきているらしいが、まあ大多数の生徒の皆様は普通の生徒だと思うので、普通に生活していただきたいものである。しつこく言うように、多く人間は子供であるほど知識に乏しく、よってオリジナリティーにも乏しく、「なんか世間で流行ってるらしい」などと調子こいて、分不相応にイジメたりイジメラレたりもしがちだ。まあ、大人もあんまし変わりませんけどね。
 狸の自作長編に登場する年寄りは、年寄りらしく説教好きで、若い衆相手についついこんな事ばかり言ってしまう。
『昔から言われていることだが、人の善し悪しは、外見ではないよ。そして、これはあんまり言われていないことだが、心でもないよ。ただひとつ、私が間違いないと思うのは――少年は、数多くの愚行を重ねて大人になる。大人は愚行を重ねて、老人になる。老人は、愚行を重ねて土に還る。大切なのは、そのとき今、自分が愚かであることを、悟っているかどうかだ。今の君には、ちょっと難しかったかな。まあ、君のそのかわいらしい眉根に、皺がよらない程度に、考えておくれ』――以上、老人形師ヨゼフが、少女セイコに宛てた手紙の一部。
『自分がまだ何も知らないということを、最期まで忘れてはいけません。そして、それを最期まで、恥じていなくてはいけません』――以上、女教師・秋野が、沖之司に宛てた年賀状の一部。

 話変わって、近頃本棚や押し入れを整理していると(実は小遣い欲しさに売り飛ばせる本を見つくろっているだけなのだが)、とにかく小松左京先生の昔の著書が、後から後からなんぼでも出てくる。それはもう、都筑道夫先生の著書と同じくらい大量に、「いってーこのお方はバケモノかよおい」、そんなイキオイでなんぼでも出てくるのだ。もちろんその他にも、狸ご贔屓の方々の著作が、またそれこそ「いってーこの方々は百鬼夜行の無限ループかよおい」、そんなイキオイで続々と出てくるのだけれど、この小松左京大人の著作群は、昨今新作がなく大半本棚の奥や押し入れの段ボールに入っていたから認識が曖昧になっていただけで、その個々のクオリティーと言うか、作品内における『知性』と『情動』の融合グアイは他に類がない。「新しく書かないから」と言うだけで『日本沈没』くらいしか知らず、他の膨大な著作の大半を享受できない若い読者層は、なんだか人生上、狸よりすっげー可哀想なくらい損してるぞおい。
 大体、今でも執念深く使い回されているSF的アイデア、たとえばサイコダイバー的趣向など、『ゴルディアスの結び目』一本の前には、「へへ〜」と畳に額をこすりつけて泣いて許しを乞う他ないのではないか。狸など、さっきそのボロボロの四半世紀前の角川文庫見つけたとたんに、当時のビッグ・バン級の『ものすげー衝撃と光』がフラッシュバックして、思わず部屋の隅にうずくまって、己の卑小さにぷるぷる震えながら、天に向かって許しを乞うてしまったぞ。あ、すみません。小松大先生、まだ元気です。それどころか今検索してみたら、なんと『小松左京全集完全版』などという企画も始まっているのですね。大学主体のオン・デマンド出版っぽいというのが、いかにも昨今の大手出版社の弱体化を露呈しているようで情けないが。
 しかしまあ、さらに検索してみれば、さすがに『ゴルディアスの結び目』や『女シリーズ』あたりは、ちゃんと現在でも大手の文庫で入手可能なのであった。もしここをご覧になっている中に、小松左京大先生のお作を未読の方などいらっしゃいましたら、せめて『ゴルディアスの結び目』を、ハードSFは苦手でも怪奇小説OKの方ならかの有名な『くだんのはは』を、怪奇もSFも苦手とおっしゃるお若い女性などなら『女シリーズ』を、ご一読いただきたい。そして一度ハマったら、ハズレがちなハヤリの新刊書など当分なくともOK。読んでも読んでも読み尽くせないほどの大量極上小松世界が、おいでおいでと古本屋や、お金持ちならこのあたりから、アヤしくさし招いているのであった、まる、と。


10月18日 水  Z級ぐるめ・ぎとぎと編

 97円均一のおでんのパックを肴に98円の輸入ビールを飲み、105円のシャケのハラミ缶詰をほぐして入れた永谷園のお茶漬けをさらさら食いながら、こんな食事でも腹回りは日々どんどん増えていくのよなあ、などとつくづく吐息する狸の脳裏に、ふと、目眩がするほどドタバタ労働しまくっていた若かりし頃の晩飯が、朧に浮かんだりするわけである。
 小汚いとはいえ一応中華料理屋なのだからZ級呼ばわりは失礼かもしれないが、ウン10年前、埼玉は鶴瀬駅の裏にあった『90番』、まだ存在しているのだろうか――と徒然なるままに検索をかけてみれば、おお、まだ健在なのだなあ。当時のような朽ちかけた店構えは、なんぼなんでも改築したのだろうなあ。油煙で薄汚れた壁に、なぜかしこたま飾ってあった著名人の『90番賛江』的色紙は、今も飾ってあるのだろうか。ケチャップ味でラードギトギトの肉野菜炒め『90番定食』、今も元気にギトギトと油光りしているのだろうか。その頃の自分の生活並びに精神構造はけして恋しくもなんともない狸だが、あんな皿いっぱいのギトギトと大盛り飯をがふがふ喰らってビール飲んで、それでも太らなかった当時の肉体というか代謝能力だけは、さすがに恋しい。
 鶴瀬はさほど遠くないから、いっぺんまた食ってみたい気もするが――今の肉体であのギトギトを喰らったら、カロリー消費するのに3日は絶食しないと、まんま腹回りに直結してしまうのだろうなあ。


10月17日 火  もう少し話題になってもいいのでは

 自国のどなたかが受けるの受けないのだけは大騒ぎするノーベル賞、外国の方が受けてしまうとちっとも気にしない島国根性の我々だが、絵に描いた餅のような共産主義以外にも、そして『勝ち組』『負け組』といったド近眼資本主義以外にも貧困層救済の道はあるのだ、そんな可能性を示してくれた今年のノーベル平和賞受賞者に関しては、なんかもうちょっと騒いだほうがいいのではないか。
 4日も前の記事で恐縮だが、ネットでも世間でもちっとも大騒ぎされる様子がないので、ひとりで大騒ぎしたいと思う。『
【オスロ=本間圭一】ノルウェーのノーベル賞委員会は13日、2006年のノーベル平和賞を、貧困撲滅に尽くしたバングラデシュのムハマド・ユヌス氏(66)と、同氏が総裁を務めるグラミン銀行に授与すると発表した。同委員会は授賞理由について「貧困からの脱却なくして恒久的な平和は実現しない」と述べ、貧困撲滅に務めた功績を評価した。ユヌス氏は1983年、バングラデシュで貧困に苦しむ農村の女性らを対象に、無担保で少額の信用貸し付けを行う「マイクロ・クレジット(小口融資)」を行うグラミン銀行を創設、貧困層の経済的自立を促してきた。「無担保はリスクが大き過ぎる」との指摘もあったが、資金はほぼ完全に回収され、貧困層の生活改善に力を発揮、同銀行の手法は世界に広がった。ユヌス氏は、バングラデシュの中流家庭に生まれ、米国に留学した経済学者。74年に全国を襲った飢餓に遭遇し、貧しい家庭を歩いて回った際、竹細工の製作で生計を立てていた女性グループに無担保、無利子で融資したことが喜ばれた。この経験をきっかけに83年、同銀行を創設してマイクロ・クレジットをスタートさせた。(2006年10月13日21時31分 読売新聞)』。ネット検索すれば、さらに詳細も掴めるはずだ。
 さて、なんでそのグラミン銀行がこの国であんまり話題にならないのか――お解りですよね。そう、株主なんぞに回す余分な金は、絶対に生まれないシステムだからです。一般常識上の『銀行』とは、そもそも別物である。まして消費者金融などからは、百億万年の彼方の理念で成り立っている。本来なら、たとえバングラディッシュのような貧しい小国でも成り立つはずはなかったシステムが、奇跡的に成功しつつあるのです。いずれその組織が大きくなればなるほど、現在のような状況も維持できなくなるのではと危惧しつつも、謹んでそのシステムの仏性を拝みたい狸です。本当は8割以上がイスラム教徒のお国なのだが――結句宗教などというものも、拝む者の心ひとつなのだろうなあ。


10月16日 月  少年と老人の間で

 ネット・レンタルのDVD、今回は『未知との遭遇』と『まあだだよ』という、なにやら人生のスタートとゴールを並べたような二本立てが届いた。貸出可能になった順番で届くのだから、もはやランダム。楽しいと言えば楽しいが、今回のような取り合わせになると、なにやら人生論的意味合いを感じる。
 最初に観た青少年時代には滂沱と涙した『未知との遭遇』、DVDは最初の公開版とも特別編とも編集が違うと聞いていたので確認のため借りたのだが、主人公の会社でのシーンは特別編同様カットされたままだったため、初公開版よりやっぱり子供っぽい。全編童心の夢がモチーフだからこそ、主人公の社会人としての労働現場もきっちり残しておいて欲しかった。スピルバーグ自身は、あの映画を「若気の至りで恥ずかしい。今の自分なら、主人公に妻子を捨ててまで夢を追わせたりはしない」と言っているそうだが、会社のシーンがなければ、なおのこと足が地に着かないピーターパンになってしまう。もっとも、それがあっても今の自分は泣けないだろうけれど。
 『まあだだよ』は、黒澤明監督の遺作であり、大好きな作家・内田百閧フ晩年がモチーフなので、一度観ておきたかった。公開時、巷では賛否両論かまびすしかった記憶があるが、なるほど、淀川長治さんが「老人には老人にしか解らない世界がある」とおっしゃったとおり、老人が老人として枯れて行くと同時に、卑小・卑近な情動に流れて行く(あえて『ボケて行く』と言ってもいいだろう)様を、淡々と温かく見つめた作品。我が百鬼園先生のイメージとはずいぶん違うのだけれど、松村達雄さんの名演が、全体を立派な娯楽作品として成立させている。ただ、その情動に必ずしも肯首できない部分があるのは、やはり自分がまだ老人でないからか。所ジョージさんの自然な演技にも感服。
 あと20年以上たてば、『まあだだよ』にも完全同調できるのかも知れない。20歳の自分が、『未知との遭遇』に完全同調して、泣きながら大騒ぎしていたように。


10月15日 日  無神経を承知の上で

 担任のイジメ的言動に端を発し、生徒たちにもイジメられるようになり、とうとう自殺してしまった中二男子の遺書を、ネットで見た。他の詳しいニュースによれば、その担任という奴もとことん無神経な大人ガキだったようだが、狸としては、その遺書の文面と文字そのものが、中学二年生としては悲しいほど貧弱に思えた。自分も子供のような字しか書けないので、他人の事を言えた義理でもないのだが、それでも小学校で、文字のツケ・トメ・ハネなどはしっかり仕込まれた気がする。文字のない古代文明、あるいは文盲の方は別として、多くの場合、言霊は文字そのものの魂と不可分だ。悪筆にも、書き手の魂が表れる。その意味で、やはり弱い少年だったのか、と思わざるをえない。
 ちなみに現在私の字は、長年POPばかり書いていたせいか、すっかりPOP書体です。富士の樹海でぶら下がる時にも、きっと『人生閉店処分!! 全品著作権フリー!!』とか、マーカー書きのPOPで遺書を残すでしょう。


10月14日 土  私を嘘まで連れてって

 また近所の古本屋が閉店する。そーなると、この街にはまともな古本屋が残り2軒。あとは新古本のチェーンばかりになる。まあそれはとりあえずこっちに置いといて、そのつぶれる古本屋の閉店セールを覗くと、つぶれるくらいだから金目の掘り出し物など皆無なのだが、たった50円で面白い物件をGET。講談社のIN・POCKET――講談社文庫の月刊情報誌ですね、ペラペラの小冊子――の1991年8月号、これに半村良先生と高橋克彦先生の対談が載っていたのだ。タイトルは『嘘と真の伝奇ロマン』。これがもう狸としては目を輝かせながらうんうんうんとうなずきまくりの、近代伝奇小説心得帳とも言うべき内容で、もし正式な書物に収録されていないなら、著作権法違反覚悟でテキスト化し、ここに残しておきたい内容だった。子供だましではなく、大人だましの正しい嘘の付き方がよく解る。高密度の名対談の中から、お二人の会話を、ほんの一部だけ抜粋。なんかいろいろ、キャラや状況設定上のリアリティーについて述べられたあとで――

高橋 やっぱりぼくら貧乏性なんですかね(笑)。やたらと他人のお金が気になっちゃうという。
半村 それがいいんじゃないかしら。というか、それを武器にしなかったら、おれたちは東大出の作家にはかなわない。
高橋 ぼくなんかやっぱり、主人公たちが三日休むんでも気になりますからね。これで会社でなんていわれるんだろうなとか。
半村 そうでしょ。そういうところのリアリティをつけないと、ちゃんとしたお客はついてきてくんないし、それがわかんないでついてきてくれるお客はバカなんだから、そんなもん来たってしょうがないんだね(笑)。


 ……ああ、半村先生も逝かれて久しいのよねえ。高橋先生の『総門谷R』や『鬼九郎シリーズ』の続きは、まだかしらまだかしら。正統派ミステリーも正調時代劇も歴史物もいいけど、やっぱりおばちゃま、もっとめっろめろに騙してほしいの。おもいっきしオモチャにされてシボりつくされて、それでもあなたの愛をケナゲに信じていたいのよう。うるうるうる。――久々におばちゃま人格浮上。


10月13日 金  バテ笑い

 昨日は久々に歩いて疲労したのか、あるいは行きずりの回転寿司屋の牡蠣の軍艦巻きがちょっと匂ったような気がしたので、それにアタったのか、夜半近く軽い吐き気が始まり、胃薬を飲んでも治まらず、すぐに寝てしまった。そのまんま本日正午まで夢も見ず熟睡し、胃袋も正常に「腹減った」と訴えるところをみると、やはり疲労が溜まっていたのかもしれない。歳なんだなあ。

 『
静岡県警高速隊は12日、千葉県木更津市桜町、運送会社社長大野一彦容疑者(36)を道路整備特別措置法違反(不正通行)と刑法の教唆の疑いで逮捕した。高速道路料金所のノンストップ自動料金収受システム(ETC)を突破するよう入社直後の社員に指示していたとされ、同措置法に絡む教唆容疑の摘発は初めて。調べによると、大野容疑者は7月18日、社員(29)(同措置法違反容疑で逮捕)をETC車載器のない大型トレーラーに同乗させて東名高速道路富士料金所(静岡県富士市)のETCレーンを突破して見せ、9月15日に同じ車で同料金所を突破させた疑い。大野容疑者は、この社員に「燃料が高騰しており、利益を上げるには料金所を突破するしかない。料金を払えば、その分給料から差っ引く」と指示していたという。(読売新聞)10月12日23時22分更新』。

 『
耐震データ偽造事件で、構造計算書を改ざんしたとして建築基準法違反などに問われた元1級建築士、姉歯秀次被告(49)の12日の東京地裁公判で、川口政明裁判長が姉歯被告に「あなたには切迫感がない」などと「説教」を繰り返した。証拠調べはこの日で終わり、次回31日に論告求刑が行われる。川口裁判長は姉歯被告に「ベンツとBMWを持っていながら『生活に苦しくてやった』というのは何か違うのではないか」と質問。姉歯被告が「車はローンです」と答えると「弁解になってない。あなたには切迫感がない」と指摘した。この後も「息子さんがあなたのために証人出廷してくれたが、普通は逆でしょう。情けない話ですよ」「あなた、もう少し『大変なことをした』という気持ちがないと、皆の怒りの持っていきようがないんですよ」などと質問を続けた。【篠田航一】(毎日新聞)10月12日21時58分更新』。

 ……前者はいにしえの東映映画『トラック野郎』などに使えそうなギャグだし、後者はイッセー尾形さんと柄本明さんあたりにでも演じてもらったら、つくづく笑えそうな脱力ギャグだ。大真面目にやるほど笑えそうなギャグが、世間には充ち満ちている。


10月12日 木  徘徊(行商?)

 精神が荒みかけたら、神保町――なんでやねん。いや、なんか売り飛ばせば小銭が入って100円回転寿司を思うさま食ってビール飲めるし、その街に集う今昔の書物を眺めていると、うんうん人間けして馬鹿ばかりではないのだ、そんな嬉しい真実を再認識できるからですね。こればかりは、なんぼブック・オフなどうろついても実感できない。
 大体、神保町の『@ワンダー』に持ち込めば2000円で引き取ってもらえるような希少怪奇小説絶版本、駅前のブック・オフでは「古くて汚い」ので買取拒否。のみならず、親切に「ゴミ箱に捨てますか」とさえ訊ねてくれます。中身無関係の小綺麗な古本ばかり並ぶ日本全国の新古本チェーンで、日々どれだけの歴史的良書がゴミにされているのやら。巷の噂では、ゼロ円でゴミのはずの本もきっちり値付けして売っていると言うが、その噂が真実だとしたら、いっそ歓迎。あとはマニアや背取り師さんが頑張ればいい。
 もっとも神保町は神保町であるがゆえに、稀覯本に慣れてしまっていると言うか、雑本に薄情と言うか、ブック・オフとは必要以上に逆の価値観の店も多いわけで、そうした無愛想なオヤジの店にハヤリの新作など持ち込むと、あからさまに「ケッ」「おいおいそーゆーの持ってウチ来んなよ」、そんな顔をされる恐れもあり、そのあたりはやはり利用者が使い分けするしかないのだろう。
 好天だったので、神保町から皇居方面に進軍、運動不足解消がてらぐるりと回って、東京駅は八重洲の地下街へ。ここにも、ちょっといい古本屋さんがあると聞いたので、覗いてみました。『八重洲古書館』。本店は池袋にあるらしい。八重洲地下街の一角にしてはかなり広く、雑本から稀覯本までとても妥当に評価されており、たとえば狸のご贔屓・都筑道夫先生の、大昔の茶色く変色した文庫本なども、きっちり値付けされていた。どこかのブック・オフだったら、100円均一どころか「不潔!」とゴミ箱に行きっぱなしだろう。しかし、それを中身できっちり何百円かに評価する、それが文化国家というものでしょう。今度はここで売ってみよう。……すみません。近頃は売る一方です。しかしどんな古書店にしろ結局『古物業』、売り手も立派なお客様のはず。


10月11日 水  生きながら便壷に住みたいならば

 さあどうぞ、と言いたいところだが、てめーらがクソ壷の中に住むだけでは済まない問題なので、根源的に美意識や想像力の欠落した小林被告や北の首領様のみならず、性犯罪者や戦術核拡散を擁護するすべての方々、そして『北朝鮮の核実験実施は、在日社会にじわりと影響を及ぼし始めた。核実験実施から3日目となる11日、全国の朝鮮学校にはこれまでに脅迫や嫌がらせ電話など16件の被害が相次いでいることが判明し、学校は警戒を強めて独自の対応を取り始めた。北海道朝鮮初中高級学校(札幌市)には、北朝鮮が核実験を実施した9日以降、「北朝鮮に帰れ」「バカ野郎」などという嫌がらせや無言の電話が計11件あったほか、東北朝鮮初中高級学校(仙台市)でも、10日に無言電話が3件あったという。また、栃木朝鮮初中級学校(小山市)にも9日、男の声で、「子どもの安全を考えるなら休校しろ」との脅迫電話がかかってきたという。(読売新聞)10月11日16時18分更新』、などというニュースの種を作る便所虫の方々に、ひと言。
 早めに逝って来世で修行しろ。

 本当に人間という種は、いつまでそんな醜い夢ばかりに取りすがる馬鹿でいなければならないのか。いっそこの星に初めから人類など生じなかったほうが、この宇宙の現実はよほど美しかったのではないか――悲観的にはなるまいなるまいと思いつつ、やっぱり日々やくたいもない世間の出来事を見聞していると、そぞろ無力感に負けそうになってしまう今日この頃、夢想はどうも過激に傾く。
 たとえば『死刑』というせめてもの昇華すら、その意義を想像するアタマのない小林被告の場合、絞首刑なぞより、身長2.3メートルのぶよんとしてしまりのない小林型セクサロイドを作製し、小林自身を犯させればいいのである。それに襲われ抵抗し殺される瞬間、あるいは肛門括約筋が裂断する瞬間には、多少なりとも己の業を自覚できるだろう。核兵器の増加や拡散を、軍事力バランスなどとゲーム脳でしか把握できない連中は、いっぺん核爆発級の熱線に晒してみる、あるいは被曝させてみればいいのである。全身の皮膚が焼け爛れ、あるいは髪が抜け落ち多臓器不全状態になれば、少しは想像力が芽生えるだろう。たまたま便所虫と同じ国籍を持って生まれただけの人々にいわれのない中傷的発言を投げつけるような便所虫の同類こそ、「うわあ、東洋鬼のニッポン人だ」「凶暴な略奪者の息子だ」「醜いジャップだ」「ほっとくとまたカミカゼ攻撃してくるぞ」と石礫の的にしてやれば、馬鹿は馬鹿なりに何か新しい次元に旅立てるかもしれない。
 しかし、それをやる権利は、誰にもない。ただ、それを想う権利と、なんぼかでも似た効果を模索する義務だけは、便所虫ではないすべての人類にあるだろう。


10月10日 火  燭台とキャバレー

 1995年に立風書房から出た『怪談ばなし傑作選』、林家正雀師匠と一龍斎貞水師匠の噺や座談を山本進氏がまとめた本で、まあ一般の方々が読んで面白いかどうかはちょっとこっちに置いといて、落語・講談に限らず『語りの芸』に興味のある方には、ぜひいっぺん読んでいただきたい。近所の図書館にもあったくらいだからあっちこっちの図書館にもあるのではないかと思われます。
 林家正雀師匠は林家彦六師匠直伝の芝居噺・怪談噺が売り物だから、道具類もけっこう使うのだろうけれど、テレビ中継もなければDVDも出ないので、残念ながらライブな状況はわからない。写真で見た高座では、怪談噺だと左右に燭台を置き、百匁蝋燭《ひゃくめろうそく》――でっかい先太りの和蝋燭ですね、あれを点して、ときおり芯切りしながら間を取ったりするらしい。しんきり、と言っても、今どきお寺さんですら多くパラフィン製の芯切り不要和風西洋蝋燭を使っているこの時代、伸びすぎた芯を火箸のようなものでつまんで切って炎を調節する、そんな情景はよほど和蝋燭に縁のある若者(いるのかな?)でもない限り知らないだろうが、とにかくなかなか風情のある間の取り方と思われる。いかにも正統派、そんな語り口。
 さて一方の一龍斎貞水師匠、こちらは落語界ならぬ講談の世界、戦前などは落語家より講釈師が上と見られていたそうだが、今となっては天然記念物に近い。会話主体の落語がラノベだとすれば、地の文、じゃねーや、地の語りが主体で漢語を多用する講釈は、正統派小説か――なんて、形式はどうあれ、中身はどっちも大衆芸能なんですけどね。しかし表層の『もったいぶった古くせー感じ』が災いしてか、戦後イマイチ人気がない。人気がないからバイトでなんとか生活しなきゃならない。若い頃の貞水師匠は、キャバレー回りでウケをとるために怪談噺に手を出し、早変わり用のお岩さんマスクをせっせと自作したり、アキバで部品みつくろって釈台に可変電飾仕込んだり、一部おたくっぽい努力を積まれたそうです。で、現在立派な人間国宝なのですが、これは実は伝統芸能の継承もさることながら、キャバレー発アキバ経由のウケ狙い、その進化形だったりもする。まあ、本当は芸能そのものが多分におたくっぽい、『こだわり』と『ウケ』を繋いで『本質』を目ざす、そんな世界なわけで。
 あくまで百匁蝋燭の高座にこだわるのもおたく、アキバで照明用の電子部品を物色しキャバスケや酔客をツカんでやろうと画策するのもおたく――などと思っていたら、故・彦六師匠が正雀師匠に残した手龕燈《てがんどう》の中には、電気仕掛けのもあったそうだ。青や赤の豆電球が仕込まれていたとか。ああ、やっぱり正しいおたくは、常に今様のウケも目ざすものなのだなあ。そりゃそうだ。古典文学や古典芸能だって、昔は最先端バリバリだったんだもんなあ。


10月09日 月  日差し

 東北や北海道では一部悪天候に悩まされたようだが、このあたりではほぼ爽快な秋晴れの三連休、個人的には連休も祝日も無関係の狸でも、連日買い物がてらの散歩を楽しめた。
 しかし今回のような秋晴れや、初夏の五月晴れの日などに徘徊していると、どうも気にかかって仕方のないことがある。それは、日差しの鋭さだ。日向を歩いていると、ふりそそぐ日差しが、妙にきつい。この季節の午後の斜光は、従来もっと穏やかなものではなかったか。気のせいか青空の下の光景すべても、昔よりコントラストで2.3段は上がっているようだ。メリハリが効いているから確かに明快な視野だし、湿気がないので体感も上々なのだが、顔や腕を刺す陽光自体は、明らかに昔の感覚で言えば夏の日差しに近い。
 実は十数年以上前から、そんな異変(?)を危惧している。もしオゾン層破壊による紫外線増加だのなんだの、環境問題が影響しているのだとすれば、案外パニックを恐れて発表されないだけで、専門家などは、とっくの昔にもう取り返しがつかないレベルまであっちこっち変わってしまっていることを、悟っているのではないか。地球温暖化問題にしても、狸が少年の頃、いや、青年時代に入ってからも、ほとんどの専門家が「一時的に二酸化炭素の増加で気温が上がっているだけで、長期的サイクルではこれから氷河期に向かうはずだから、結局地球は冷えていく」、そう断言していたのである。現実的には、その頃すでにオゾン層も二酸化炭素もすでにエラいことになってしまっていたわけで、ならば「このままでは大変なことになる」とまで専門家が口を揃える昨今、現実的には「もーだめ」と考えてもおかしくない。たとえば過去の各種野生動物の絶滅など考えてみても、たいがいの場合は「こりゃちょっとヤバイかも」と問題になった段階で、ほとんどの場合自然界レベルでは事実上絶滅してしまっているわけで、あとは保護区だの人工孵化だの人工飼育だの、細々とサンプル状態で残されるにすぎない。つまり、どうも地球という惑星自体、すでに『保護区』『人工飼育』、そんな意識レベルで行動しないと人間という種が存続していけない――などと、秋晴れの体育の日にしては、いささか物騒な結論が見えてしまう。
 といって、終末論に走って鬱ってしまうにはあまりにも爽やかな日差しなのも確かで、「戦争なんてやっとる日差しじゃないよ」「株価なんぞに一喜一憂しとる日差しじゃないよ」「『排出権もビジネスのチャンス!』なんて脳味噌に穴あいたようなこと言ってる日差しじゃないよ」、まあその程度のグチをこぼしながら、狸がぽこぽこと徘徊する秋晴れなのであった。


10月08日 日  様子見御免

 なにか路上で深夜大騒ぎをしていた既知外を、理屈で注意してしまった旦那さんが、逆ギレされて殺されてしまったニュースを聞いた。正義感のある立派な方だったのだろう、と心が痛む一方で、深夜の公道で女相手に胴間声を上げ続けるような既知外(まあ飲酒のため一時的な既知外だった可能性も)に接するのに、なぜせめてありあわせの刃物・鈍器、あるいはスタンガン・催涙スプレーなどを用意せず声などかけてしまったのか、溢れる正義感以上に『世間に甘い』方だったのではないかと、一抹の虚しさも覚える。既知外と接するのに、徒な差別はいけないが、厳然たる区別もまた絶対に怠ってはならない。相手は理屈の範疇をすでに逸脱した、ビョーキなのです。正気と区別しないのは、見て見ぬふりよりも問題多し。

 何の因果か現在住み着いているこの街は、都心よりも荒れている。空き巣や引ったくり、強盗、傷害、性犯罪も愉快犯も多い。当然、深夜道路でわめきまくりの既知外など、もはや恒常的。幸い(?)直接被害に遭ったのは、チャリ泥、無差別投石による窓のヒビ、コインランドリーの洗濯物への悪戯、チャリのキーへの瞬間接着剤注入、その程度で、いずれも現場に居合わせたわけではない。夜中の路上わめきまくりなどは、もうきれいさっぱり放置です。どうせ既知外か酔っぱらい、ほっときゃじきに鎮まるし、鎮まらなかったら警察を呼べばいい。正気な相手のつもりで下手に手を出しても、どうせ加害者や被害者を増やすだけ。万一若い女性などに手を上げている様子だったら、包丁持参でグアイを見に出るかもしれないが、さすがにVシネマならぬ公道でそれをやる姿は見たことがなく、深夜たまに聞こえる男女の争う声なども、耳をすませばたいがいどっちもどっちの痴話喧嘩。

 まあこれ以上治安が悪化するようだったら、卑小でも正気は失っていないつもりの狸の身、散財覚悟でスタンガンや催涙スプレー買いに行きます。たとえ既知外相手でも、流血誘発や殺し合いはパス。


10月07日 土  好日

 実は、明日着る下着がすでになかったのである。昨夜風呂上がりに着た半袖シャツが、最後。
 別に同じシャツを二日続けて着ればいいだけの話ではないか、とおっしゃる方も多かろう。実際、学生時代、特に女性と縁がなかった頃は、3日でも4日でも同じ下着を着ていた。しかし、野郎の学生などの臭さとは違い、中年の狸はうっかりすると別の種の臭さをすぐに発してしまうので、日々の入浴と着替えだけは、一文無しになるまで確保したい。しかし――昨日の豪雨はイタかった。ご近所のコインランドリーがつぶれてしまったので、豪雨の中、大量の汚れ物を往復2キロ運搬するのは不可能に近い。おまけに昨日前半の予報では本日も曇時々雨とのことだったので、戦々恐々としていたのである。新しい下着を買えばいいだけの話ではないか、とおっしゃる方も多かろうが、古下着はなんぼでも押し入れにあるのである。ただ汚れているだけなのだ。それなら全部汚してしまう前に洗っときゃいいだけの話ではないか、とおっしゃる方も多かろうが――ごめんなさい。

 さて、いつもならまだぐっすり寝ている午前9時、なにやらキショクのいい夢からふと醒めてみると、カーテンの外はもうすっかり爽やかな晴天。自分がまだ痩せていた高校時代に戻っており、今はなき実家の日当たりの良い二階で、徳本佳寿美嬢のくびれたおヒップに思うさまオサワリしているという素晴らしい夢が、目ざめてみるとそこはいつもの汚ねー万年床で、無論のこと若い自分もおヒップ様も存在せず、ただ醜く肥え太った狸が「うー」とか言ってるばかり――それが幸せな夢見であったかどうかはとりあえずこっちに置いといて、とにかく久々の晴天である。風も心地よく乾いている。もはや寝ているバヤイではない。さっそくどでかいスポーツバッグと手付き袋に汚れ物を詰め、嬉々として、しかしヨタヨタとチャリにまたがり、コインランドリーに進軍。久々の晴天、おまけに土曜の午前中となると、この疲れた街のコインランドリーはチョンガーおやじの巣窟と化しており、乾燥機が空くまでに30分も待たされたが、とにかく青い空と白い雲と爽やかな風のもとでのことだから、すべては許せてしまうのである。

 午後遅くまたチャリにまたがり、ちょっと遠くのダイエーまで買い物に出ると、そこはもう多数のろりを含んだファミリーでごったがえしており、午前のコインランドリーとは別世界である。まあ夢の中とはちがい、ろりにもどんなにほどよくくびれたおヒップ様にも接触厳禁なのだけれど、とにかく同じ空間にいられるだけで上等。
 そして、あまつさえ――けっこうでかいブリのカブト焼きがふたつ、つまりブリさんの頭ひとつぶん丸ごと、なぜかたったの398円――養殖物だろうがなんだろうが、残り1パックの特価品398円を幸運にもGET!

 これで徳本佳寿美嬢のくびれたおヒップ級のおヒップに3980円くらいで思うさまおサワリできたら、もうこの世に思い残すことは何もない――とまあ、そればかりは現時点では天地がサカサになってもありえねーわけで、クローン技術の進化により、あるいは少女型ガイノイドにきゃぴきゃぴゴーストがダビングされ出荷されるような時代が到来し、『養殖徳本佳寿美1時間5000円ポッキリ! スペシャル・サービスもございます(別料金)』、そーした幸せな未来も、やっぱりまだまだ夢なのだろうなあ。


10月06日 金  アブノーマル・エンド

 笑える喜劇、泣ける悲劇――これは当然合格ですね。笑えない喜劇、泣けない悲劇――これはただの力量不足。次回で雪辱するしかない。泣ける喜劇、笑える悲劇――後者は『快感のある悲劇』あるいは『昇華できる悲劇』と言ったほうがいいか――これらはいわゆる傑作だろう。しかし、そのどれにも当てはまらない、不快な話がたまにある。笑えも泣けもしない喜劇、これはまだ許せる。「ああ、とことんズレてんなあ」、そんな失笑が一種のなごみに通じたりすることもあるからだ。しかし――泣けも笑えもしない悲劇、これはもう、「てめえのズレのおかげでえれー目にあったぞどーしてくれる作者」と、ただ不快に吐き捨てるしかない。この前処分特価ワゴンから購ってしまったエロゲ『君の想い、その願い』の話、いや、そのシナリオの一部の話である。
 幸い最初に辿ったほのぼの幼なじみルートは、780ポイントの価値はあった。未熟な学生さんの、生活感レベルでの恋愛話である。しかし、次に辿った看護婦さんルートが無茶苦茶だった。なんせそっちに分岐後、主人公の小学生なみの大真面目な馬鹿と無能(一応医学生という設定である)を制御する選択肢がない。何やってんのこいつと呆れながらも、あるべき妥当な選択肢がないのである。そして、やはり小学生なみの悪役(一応臨床医の設定である)が馬鹿と無能と理不尽の限りを勝手に尽くすだけで、否応なくバッド・エンドになってしまう。『無理がある』とか『後味が悪い』とか『鬱る』といったレベルの話ではない。このシナリオ・ライターさんが現在中学生さんならまだ更生できるかもしれないが、成人式を済ませた後の方だったら、もういっぺん幼時から育ち直さない限り、今後もまともな実社会ドラマは作れないだろう。絵や音楽は充分水準に達しているので、そちらのスタッフはその後もあちこちで仕事をしているようだが、ソフトハウスとライターさんはそれっきり消えたようだ。当然である。
 しかし、一応一度はまともな価格のゲームとして制作・販売されているのだから、不満というより、いっそ不可思議である。誰か止めてあげるスタッフはいなかったのだろうか。ライターさん自身が資金源に近いポジションだったのか。


10月05日 木  温故捨新

 ケーブルでトニー谷主演の『家庭の事情』シリーズをやっている。トニー谷さんという方は、当方の世代だと、テレビの『アベック歌合戦』で「あんたのお名前なんてえの」とソロバンを鳴らしていた頃からの記憶しかないが、むしろ終戦から占領後にかけて、怪しげな英語(トニングリッシュ)をまじえたボードビル芸で一世を風靡した方なのですね。『おそ松くん』のイヤミのモデル、と言えば、今のお若い方々にも想像してもらえるか。全盛期は年間20本の映画に出ていたというが、現在めったに観られるものではないから、とてもありがたい。昭和28年の『家庭の事情』シリーズ第一作『馬ッ鹿じゃなかろうかの巻』、大いに楽しんだ。一般家屋のど真ん中に線路が通ってしまい、台所とちゃぶ台の間をしょっちゅう列車が走り抜けるギャグ、ロング画面の家屋は当然マット画だが、セット撮影のほうは合成ではなく、どう見ても本物の車両が通り抜けているように見える。操車場にセットを組んだのだろうか。

 さて、改良(改悪?)パンダ物件も先日無事送付し、歳末メフィスト賞再挑戦予定の死美人物件、またいじり始める。昨年打鍵時にはほとんどでっちあげで打っていた衛戍病院の構造など、その後見つけた資料によって、新潮社に送った時にはかなり修正できたが、月下美人という花そのものの描写、まだ気になっている。そこで久々、綾さん語に戻っていじくったわけだが――ああ、ええわあ。やっぱり自分、大正ロマン調乙女語、デフォルトにするべきかもしんない。だって、とってもキショクいいんですもの。こほん――こんな調子ね。

『月下美人の花は、そうですわねえ――まるで人の世を忍ぶように開きます。ええ、同じ月を慕う花でも、月見草とは、ずいぶん違いますわね。月の光がただただ嬉しく、ぽん、と開いて元気に葉を揺らすのが月見草――おしゃまな妹娘、そんな風情なら、月下美人は、むしろ妙齢のお姉様。人知れずそっと開きながら、花びらと花びらのこすれる音は、よほど耳を凝らしていても、露の気にさえ消え入ります。それでもいつのまにか、庭中に、それはそれは甘い香りが漂って――そうして開花が知れるのですわ。』

 ……ああ、もう、今様の野郎語やスベタ語なんていらねーわ。


10月04日 水  連想バトン

 ドンベ様から「管理人様連想バトン」というのが回ってきた。自分の知っているHP管理人さんを、種々の単語から連想する、そんな趣向らしい。自分もこの世界では引き籠もりに近い人間なので、14もの連想語に対応できるはずもなく、重複御免どころか空欄御免で走ってみよう。

◇名前(HN)

バニラダヌキ。パソコンなど影も形もない太古、バニラ関係を主食とする変幻自在の狸として出現したが、現在は雑食化し変身能力も失い、ネットの末端の穴蔵で細々と生きている。

◇知人に言われた性格

一般世間で生きていた頃は、『真面目一方』『優しい』と言われておりました。現実的には『弱い』だけなので、『いたいけ』『かわいい』『守ってあげたい』『ほらエサ食え』とか言って欲しい今日この頃です。……いぢめる?

◆エントリーNo.1 「かっこいい」

……いきなしお困り。かっこいい、って、やっぱり格好良い、だよなあ。作中キャラならかっこいい方は多々いるのだが……作者の方々は、はたしてかっこいいのだろうか。

◆エントリーNo.2 「可愛い」

……さらにお困り。でもまあ、これは『格好』よりは、ニュアンスや想像の比重が大きいな。えーと、『幸せさがし』『夜空にドルチェ☆』の、ゅぇ様でしょうか。No.7も、ちょっぴりカブっているかも(し、失礼。あくまで想像です)。

◆エントリーNo.3 「乙女」

種々の角度からつらつら感覚いたしますに、えーと、『うのはるかぜ』『キラキラ☆ロード』のエテナ様。自分の記憶にある乙女像は、けっこう難儀で複雑で、でもそこんとこがとっても乙女だったのです。

◆エントリーNo.4 「優しい」

『Father time』の有栖川様。いや、姉馬鹿バンザイの私です。死ぬまで弟甘やかしてください。そして『煙草の虜』のドンベ様。いや、おかえしじゃなく、実際そんな感じで。

◆エントリーNo.5 「楽しい」

なんでだか『銀幕舞台』のclown-crown様の挙動が、自分にとっては楽しい気がします。

◆エントリーNo.6 「個性的」

これはもうみなさん個性的でしょう。そもそもなんか作り話に目ざめた時点で、まず平凡には戻れない。「個性的」を「とにかく類型的でない」ととらえれば、『手紙小屋の落書き板』のメイルマン様でしょうか。

◆エントリーNo.7 「天然」

大真面目にズレている(す、すみません、怒らないでください)感じで、『味も素っ気も無いページ』の水芭蕉猫様。

◆エントリーNo.8 「腹黒」

これは自分かな、と思って狸腹をごそごそあらためてみましたが、なんだかよくわからない色だったので、該当者なし。

◆エントリーNo.9 「変態」

これは間違いなく自分でしょう。先日も電車の中に大挙して乗りこんできたろりの群れを慕って、なんの縁もない船橋まで乗り越してしまいました。めろめろに酩酊しました。

◆エントリーNo.10 「子供」

「ガキ」とか「お子様」とか、そういった否定的な意味でなく、少年の香り(おい)という意味で、『―神風―』の神夜様。

◆エントリーNo.11 「大人」

これはやっぱり『自爆アルバム』明太子様。次いで『疾風怒濤のしましまにゃんこ』の甘木様。

◆エントリーNo.12 「ツンデレ」

えーと、なんか近頃ハヤリの言葉ですが、要するに「ちょっと人見知りするタイプ」の方は、ほとんどツンデレですよね。わざわざそんな分類が成されるというのは、みんな要領よく初対面から上っ面で愛想よくするのが上手になったのかしら。田舎の少年少女なんて、昔は総ツンデレだった気がします。閑話休題。で、該当者は……わからんがな。ほとんど直接会ったことないもん。漫研がらみは「ツンデレ」と言うより「ジトゴニョ」(最初はジットリ警戒し、やがてごにょごにょとなれあう)、そんな感じだし。

◆エントリーNo.13 「萌え」

すみません。3歳から14歳までのろりの方は、どうやらいらっしゃらないようで。

◆エントリーNo.14 「尊敬」

これまたすみません。当方が真に尊敬する方々は、あんまり自分でHP管理しない世代であるか、あるいはすでに彼岸に居を移されております。


10月03日 火  タコさんウィンナ

 冷蔵庫には、たまごと納豆が残っている。月初めからもはや外食する余裕もなく、なんかいろいろの帰りにスーパーに寄って、またぞろ100円内外のおかずを漁る狸なのだが――突然、赤ウィンナーが食べたくなった。あれは昨今けして安くない。しかしたまに97円均一ワゴンに並んでいることがあるので探してみたが、残念ながら本日はなし。それどころか、普通のソーセージコーナーにもなく、「ありゃりゃ、ついにこの豊かな国では魚肉主体の赤ウィンナーもマイナー化か」と嘆いていたら、ありました。一種類だけ、『タコさんウィンナー』という袋が。あらかじめ切れ込みが入れてある赤ウィンナーである。6個入りで税込み126円――切れ込みコストなしで、もう1個くらい増やしてくれないだろうか。ただの赤ウィンナーだと、もう売れないのだろうか。
 またぞろ爺いの繰り言で恐縮だが、自分が子供の頃はウィンナーと言えばそれは中身が魚肉主体の外側まっ赤っ赤なもので、本格粗挽きだのなんだのはお金持ちのための高級食材というか、ほとんど田舎の食卓に並ばなかった。自宅で作る炒飯にも、赤ウィンナーが刻んで入れてあった。お弁当のタコさんウィンナーなど、楽しいと言うより、贅沢で華やかに感じたものである。今のお子さんだと、やっぱり楽しさのための彩りなのだろうなあ。
 さて今晩のおかずは、目玉焼き2個にタコさんウィンナー6匹、納豆、味噌汁、ほうれん草のゴマあえ――自分的にはやはりタコさんが主役なのだけれど、経済的にはほうれん草のゴマあえよりも、ずっと安いのである。ああ、赤ウィンナーよ、永遠に。


10月02日 月  髪の毛

 この歳になると、日々頭髪が抜け上がってゆく。いわゆるバーコード化の兆しは見えないが、床屋に行った直後など、側頭部の地肌が気になる。といって、それが恥ずかしいかというとそうでもなく、ああ、やっぱり歳なんだなあ、と思うだけで、どうせ禿げるなら母方の祖父のように、早めに完全スキンヘッド化するのが望ましい。けれど父方の男衆はみんな老いても白髪タイプふさふさタイプだから、両方混ざってしまった自分は、やはり中途半端に薄白髪に向かうのだろうか。

 ナバホ族は髪に悩まないそうである。いや、日本の某シャンプー屋さんだけはそう主張している。まあ商売人のキャッチ・コピーなどはテキ屋の口上と同じだから、ワセリンと石けんをこね合わせても立派な『ガマの油』、筑波山のガマ当人が「ちげーよ」と言って来ない限り、言ったもん勝ちである。ナバホ族の方がモニュメント・バレーを流れる河でせっせとシャンプーしていた事実はなさそうだし、本当にハゲが少ないとしたら、むしろ気候風土の影響が大きそうな気がする。現在でも居住区のドキュメントなどかいま見ると、確かに長髪の老人もいるが、大半は一般アメリカ人と変わらない髪型だし、長髪だってむしろパサパサに乾いた感じの方が多い。日本のように、一年中毛根が皮脂でベタベタ『できるような』環境ではないのだろう。

 むしろ気になるのは、ナバホに限らず、多くのアメリカン・ネイティブの方々が古来の文化を奪われ故郷を追われ、事実上居留地に押し込められて政府から支給される無料食事券を頼りに細々と生きている、そんな事実であり、そんな現状だからこそ、一部の方々が古来の風俗を守って長髪を茫々と翻している様には、悲愴な美しさがある。対して古来の文化だのなんだのはとっくの昔に自発的にドブに流してしまったこの国で、欧米資本社会べったりに順調に金の亡者化を続けている人間の髪の毛が抜けようがハゲようが、どっちみち中身は関係ないんだから気にするこたあないよなあ。


10月01日 日  雨の秋葉原

 マウスの反応が鈍くなり、ノートパソコン用のちっこいのを繋いでみたがやっぱりちっこすぎて作業用には向かないので、雨の中を電車に乗る。錦糸町のヨドバシでポイントを使おうと思っていたのに、車中、高木彬光さんの『成吉思汗の秘密』を読み返していたら面白すぎて乗り越してしまい、アキバに降りてしまう。
 雨なのにさすがは世界のアキバ、人でいっぱいである。どうせ出てしまったのだからとソフマップのポイントも使ってワゴンの処分特価中古エロゲーを買ってしまうのは、すでに宿業か。中古と言ってもいわゆる業者流れの新古品、ということはよほど人気のないハズレ品のはずだが、この前別の店で280円で買った『在りし日の唄』は、けっこう良かったからなあ。今回のは『君の想い、その願い』などというタイトルと、クドくない絵柄に惹かれて買った(というより780ポイント使ってもらった)のだが、今ネットで評判を検索したら、どうも鬱系とか展開に無理があるとか後味悪すぎとか、そんな評判ばかり。まあ他人の評判はほとんどアテにならない世界だが、ほんとに鬱だったらやだなあ。でもまあ自分の場合、世間で『鬱』と言われるくらいでちょうどいいところがあるから、とりあえずやってみよう。
 夕飯は秋葉原デパートの一階でペッパー・ライスの大盛り。相変わらずとてもうまい。お隣で、お父さんに連れられたかわいいろりも食事中。世間一般の日曜外出ディナーとしてはアレなのだろうけれど、ろりは「おいしいおいしい」と喜んでいる。うんうん、おいしいよね。ファミレスやステーキハウスなんて行かなくとも、この平和な国では、シヤワセの青い鳥はさがせばどこにでもいるんだよ、君のお父さんにオゼゼあんまし無くても。なんでみんな、自分からフシヤワセの満艦飾の鳥ばっかり追っかけて、くたびれて病気になってまで癒やされたがるんだろうね。
 帰途、また『成吉思汗の秘密』で、地元駅を乗り越しそうになる。なんといいますか、杓子定規な理屈ではなく人の心で照らしていけば、歴史ももはやザッツ・エンターティンメント。