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11月30日 木  底抜け箪笥

 韓国ホラーとしては有名らしい(あのスピルバーグがリメイク権を買ったとか)『箪笥』という映画を、ケーブルの録画で観たのだが――ひたすら困ってしまった。以降、完璧なネタバレになります。
 とにかく全編カメラワークもセリフもまともに繋がっておらず、こんな素人みたいな映画がなんで大ヒット? と思っていたら、そのデタラメさは、すべて故意なのであった。つまり主人公の少女と父親と客だけが現実で、義母や妹は妄想内家族という『驚愕のオチ』をただひらすら隠蔽するために、一所懸命不自然な演出がなされていたのである。
 まあ、そこまで隠蔽に気を使った努力は買う。しかしその微妙なネタバレ隠しを『不自然=下手くそ』と勘違いしてしまった狸には、やっぱりそのオチ以外の部分すべてが、どう見ても下手くそにしか見えなかった。妄想の妹と妄想の義母がふたりだけで絡むシーンまであるのは、冒頭のシーンで姉が発狂しているらしいと匂わせてあるので、姉の妄想映像化と考えれば、必ずしもアンフェアではないだろう。しかし現実のはずの父親にも、ほとんどリアリティーがないのは困ったものだ。子供の妄想とさほど変わらない無能さ無神経さ不自然さで、結局妄想も現実も、等しく寸足らずなのである。これで『驚愕の真実と姉のせつなさに泣いてください』と言われても、狸にはちょっと無理だ。
 ことほどさように、叙述トリックという奴は難しい。トリックを不自然に隠せば全編これうさんくささのカタマリになってしまうし、ましてトリック以外の部分にも齟齬があれば、作品全体がスカになってしまう。シャマラン監督(『シックス・センス』とか)も多少その気があるが、あちらは現実部分は自然に描いてあるし、ストーリー展開もきっちり楽しませてくれるからなあ。

 実相寺昭雄監督、死去。劇作家の木下順二氏も、死去。その創作の方向性や20年以上の年齢差は別として、時の流れがそぞろ身にしみる。


11月29日 水  霧のピカデリーサーカス

 残念ながら当地の図書館では、牧野義雄画伯関係の蔵書は、画伯自身による滞英生活記『霧のロンドン』(英文からの翻訳)のみのようだ。グラビアの絵画作品は小さく荒く、横長の作品は見開きに邪魔され、以前『なんでも鑑定団』で観た現物のような圧倒的空気感は感じられない。縦構図の作品を、せいぜい入念にスキャンしてみた。

    

 画伯と同時期に滞英していた夏目漱石の英国感と、画伯の英国感の落差はなかなか興味深い。漱石の、けして貧しくはないのにかなり鬱勃とした自閉的な生活(とことん英国人気質を嫌ったらしい)に対し、画伯は一時自殺を考えるほど貧窮を極めながら、市井に溶け込むことによってやがて成功している。このあたりは、大人になるまで稲や水田を知らなかったほどのずっぷし江戸っ子と、愛知生まれの苦労人の差なのだろう。当時のロンドンの霧ひとつとっても、実際には自然現象と言うより産業革命による工業スモッグが主成分だったらしいから、鬱陶しいと観るか美しいと観るかは、適応力しだいだ。そして、どちらかが誤っているわけではなく、どちらもアリなのである。


11月28日 火  冬眠志願

 近頃なにやら寝てばかりいる。かつて明け方に寝て昼に起きたり、昼に寝て夜起きたり、たまには夜寝て朝起きたりしていたのが、近頃は下手をすると1日10時間以上寝床にいる。贅沢だなあ、と思いつつ、そのぶん金がない。仕事が減り、仕事を増やすべくうろうろする先は職安にしろ会社にしろ夜は閉まっている。暇があるなら創作でもバンバンやったら、とも思うが、あれは自分の場合、精神的集中と共に『翔び』を要するので、観たり読んだりするより、実生活上の不安感が足を引っぱる。そこでついつい図書館物件を友に、蒲団に潜り込んでしまう。で、蒲団に入ると、結局惰眠を貪ってしまう。
 ムーミントロールのように、松葉か何かしこたま食べて、それっきり春まで寝ているのはどうか。自分はムーミンではないので、春になっても起きなくていい可能性もある。ずうっと死ぬまで寝ていてもいいのである。そうして横たわっている場合、寝ているのと死んでいるのの区別をつけようにも、自分は起きていないのだから、寝る前に「寝るだけよ、寝るだけ」と思って寝に就けば、それはまさに永遠の眠り――などとアホな夢想に耽っていると、姉から様子見(様子聞き?)の電話が来た。
 自分がいくら「安眠中」と信じて横たわっていても、やっぱり姉や管理人さんが発見した時に「死、死んでいる!」と言われてしまえば、火葬場で焼かれてしまう。
 とゆーわけで、やはり起きてジタバタしなければ、冬が越せないキリギリスなのであった、まる、と。


11月27日 月  光る雪

 雪の結晶は、自然界において、原理的に何センチまで巨大化できるのか――子供の頃から知りたくて、いまだにはっきりとした答は得られないハテナ印のひとつだ。
 故郷・山形では、盆地の底の町場だったため純粋な結晶はほとんど見られず、それでも子供の頃は都市熱も温暖化もなく今より数段寒かったから、数ミリの結晶がそのまんま降ってくるのを、深夜、いっぺん見たことがある。夜のしじまに包まれた町の、空から家並みからすべてがキラキラと白くまたたき、それはもう夢のように美しかった。創作のネタ(表にある『なんだかよくわからないものの聖夜』です)にするとき、思わず『1センチほどもある』とフカシてしまい、その後あちこち調べたら観測上どうやら数ミリが限度のようなので、後で曖昧にボカしたりもした。
 しかし最近、カナダの古都ハリファックスに住む親戚から、「寒いときには余裕で1センチ以上のが降ってくる」などと聞き、狸と血縁の女性ゆえちょっと視線が浪漫で歪曲・増幅されている可能性もあるのではと疑いつつ、まああくまで主観描写ならけして嘘ではないし、カナダで降るなら日本でだって降る可能性もゼロではないから、自作でもまた『1センチを越える』とか、フカしなおそうかと思ったりする。
 ちなみにそのハリファックスという港町は、とても治安が良いので有名だそうだ。それは大学の多い学園都市であるためかもしれないが、年に何度かばかでかい雪の結晶がキラキラ降りそそいだりする街だと、人間、なかなか悪事も働きにくいのではないか、そんな気もする。


11月26日 日  星空のミルキー・ラクーン

 だからそーゆーゼイタクをしているバヤイではないのだ、と思いつつ、居直っているふりをしていても日々欲求不満が高まっているのか、つい、ダイソーで6回分100円のいつもの入浴剤シリーズではなく、3回分で100円の『牛乳湯』だの『桜湯』だのを買ってしまう。
 で、さっそく『牛乳湯』を試してみたのだが――うっふん、とーっても、リリック。お風呂場いっぱいに甘いミルク・キャンデーみたいな香りが漂って、おばちゃま、もう、すっかり気分はクレオパトラよ。まあ、カビだらけのこぎたねー風呂場や、セコい湯船からはみだしそうな中年の大デブを想像されちゃうと、やっぱしなんかいろいろお互い不幸なので、せめて満天の星を見上げながら乳白色の露天風呂に浸かってゴキゲン状態の美狸、そんなのを、想像してちょうだいね。ちゃぷちゃぷ。
 ぷるぷるぷる。――ああ、ぷるぷる後の狸毛も、いつになくしなやかでいい香り。これで、いまいましい国保の督促状なんかきれいさっぱり忘れて、今夜はぐっすり眠れそう。るんるん。


11月25日 土  三原則

 おう! カトキチの冷凍肉うどんが168円! 長崎屋さん、エライ! あのうまい肉うどんが168円! そんなのカップうどんやうどん玉で自炊のほうが経済的だろう、と思いきや、ふだんの300円近い売価ならいざしらず、168円で肉もネギも入った外食状うどんが食える機会はめったにない。とゆーわけで、我が家の冷凍庫は肉うどんがぎっしり詰まっている。ご飯のおかずにもなる味だし、卵と餅を入れればそれだけで正餐にもなる。ほくほく。

 ころりと話変わって、何か日本語を知らないお年寄りが近頃政治もやってるようなので、頭が痛い。「みんな持ってるからウチもそろそろ核兵器欲しいよう」と公共の場で言えないからといって、「それでは非核4原則だ」などと、ブーたれていらっしゃる。『作らず』『持たず』『持ち込ませず』に、『言わせず』が加わってるのだそうだ。わはははは。主語も目的語も述語も区別のつかない中川さん、ありがとうありがとう。これで日本語に不自由な人間にも、自民党政調会長への道が開けました。
 なんて、揚げ足とってる場合でもないですね。
 現状、核兵器などというシロモノが、すでに先制攻撃あるいは地球道連れ無理心中未遂(あるいは地球道連れ過失傷害)以外、なんの役にもたたないシロモノであることは、すでに明白。抑止力などという言葉も、♪ぴー♪の前ではなんの役にもたたない。それより♪ぴー♪に備えた迎撃システム完備のほうが、はるかに現実的だ。それに自信がなくてしくじった後のハライセを先に考えてるのなら――だからてめーら自分たちゃシェルター完備で国土と国民ばっかし駒にしてんじゃねーよあっちやこっちの権勢餓鬼どもが!!

「つるつる。おう、かばうまさん、また、おこった。つるつる」
「おかしーな。ずるずる。にくうどん、んまいんだがなあ。ずるずる」
「ちゅるちゅる…………ぽ」
「ほら、かばうまも、はやく、くえ。んまいぞ。ずるずる」
「まったく近頃のボケ爺いどもはよう、ぶつぶつぶつぶつ。ずぞ。ずぞぞぞぞぞ…………ぽ」
「おう、かばうまさんが、ゆるんでいく」


11月24日 金  愛と死を煮つめて

 昨夜は夜中に映画『愛と死を見つめて』(ケーブルで録画した吉永小百合さんのミコ)を観て泣き、寝る前は二代目快楽亭ブラック師匠の放送禁止落語のCDを聴いて大笑いできるはずなのに結局ほとんど笑えず、さて本日はクリント・イーストウッド監督の『父親たちの星条旗』を観て涙にくれ――さすがに脳味噌が煮つまる。

 『愛と死を見つめて』は、大昔観た記憶どおり、微塵の救いもなかった。妙齢の少女ミコが顔面軟骨肉腫で顔半分失い、それでも生きようと努め、結局死んでしまう、その実話に救いなどあろうはずがない。たとえマジにラブラブのカレシがいてくれても、である。いや、いればいるだけ「死にたくない」、それでも死んでしまうのである。ああ、思い出すだけで涙が滲む。ああ、いかん、歳をとるととにかく涙腺がゆるくなる。うるうるうるうる。で、マコさんも一生懸命でいいのだが、クライマックスのちょっと前からいっさい出番のないシナリオはすごい。ミコの死の床にマコがいないのは事実どおりとして、患者仲間の老人代表・宇野重吉さんの「わしが代わりに死にたかった!」の絶叫のみ悲痛に響くのは、お見事な大人の視線。そしてラストシーン、ミコが結局マコとは行けなかった美しい日本アルプスに、ただミコを呼ぶマコの声だけ(マコの姿は、結局生前のミコと別れたまんま、放置である)が虚しく反復し――ここまでやるか。なにか救いはないのか。――あってたまるか。妙齢の少女の死のどこに救いを求めようというのだ。少女はただ生きようとし続け、それは確かに身もだえするほど美しいのだけれど、それが健気であればあるほど、現世での未来は『喪失』する。

 二代目快楽亭ブラック師匠、競馬がらみの借金2000万で立川流破門・離婚とか、あちこちお出入り禁止をくらい当然放送など不可能な悪趣味な下ネタやオタク調パロや皇室ポルノネタの新作・改作落語とか、とにかく破天荒で名高いお方で、しかし辛口日本映画評などけっこう面白く、高座もさぞや破天荒で面白いのだろうと思ったのだが――あきまへんでした。とにかくヒネリに芸がない。
 たとえば皇室ネタのポルノなど、男子出産の期待を担った秋篠宮様が紀子様を懐妊させるべく裸エプロンを迫るあたりまでは意外性があってかなり笑えたのだが、以降の濡れ場になると、ただ宮様たちがアレをやってるのでおもしろいでしょ、そんなレベルに落ちてしまう。まあそれが殿上人も狒々親爺も同じ人間なのだ、そんな感じで笑わせようとしているにしろ、土台、鼻の下に髭をたくわえた男性が奥さんの♪ぴー♪を舌でかわいがれば髭が♪ぴー♪で濡れそぼるのは理の当然で、その髭が秋篠宮様の髭であろうがヒトラーの髭であろうが、酔ったアブラ中年くらいしか笑ってくれないのではないか。いや、抑えた語り口で大真面目にやれば、万人に爆笑を誘えるかもしれない。しかしブラック師匠は、いかにも「おかしいでしょ、おかしいでしょ」と言うように、うわずって演ってしまう。反骨大好きの立川談志師匠や吉川潮氏に見放されたのは、結局、そうした根本的な芸のセンスの薄さを見限られたのではないか。当人が毛嫌いしている古典そのものの部分など、真打ちだけあってけっこう巧いのだから、そのセンスでデタラメもうわずらずにやってくれれば、大成できると思うのだが。
 それにしても、よくぞあんなヤバいシロモノを、公共図書館に入れたものである。

 『父親たちの星条旗』は、五十嵐氏が泣けた泣けたと教えてくれたので、金もないのに劇場に行った。いや、誰にも言われなくとも、クリント・イーストウッドの作品は、たいがい劇場で観ることにしている。ハズレがないからだ。そのジンクスは今回も当たって、実に大人の、現実的な戦争映画だった。だからこそ、泣けてしかたがない。ただ、五十嵐氏が観た時もそうだったらしいが、観客の大部分が狸以上の中高年なのである。『YAMATO』などという花火大会を浴衣がけでわいわい見物に行ったノリの若者たちにもぜひ観てもらいたい、いや、若者にこそ観て欲しい内容・構造なんだがなあ。『硫黄島からの手紙』も、観に行かねばなるまい。予告編にまた『何をやっても中村獅童』さんが『YAMATO』の時とまったく同じような役づくり(というより、やっぱりただの現代青年・中村獅童)で出ていたので、ちょっぴり心配ではあるのだが。

 近頃、なぜか吉岡秀隆さんの本格的兵隊役、というのを、いっぺん観てみたくて仕方がない。イメージに合う合わないは関係ない。実際、どんな外観のどんな性格の青年だって、片端から戦場に放り出されていたのだ(『父親たちの星条旗』では、そのあたりもしっかり描けている)。何をやっても『その役を演じている役者本人』の人気若手が多い中、吉岡秀隆さんなど、数少ない『吉岡秀隆が演じているその役』が可能な方だと思うのだが。


11月23日 木  焦燥

 もうリリーズ関係ではどこにも勝てない。ならば栗田ひろみちゃんでは、と思っても、やっぱり勝てない。もはやスキャン時の愛とサイズで対抗するしか――って、著作権や肖像権、どうなってるんでしょうね。まあいいか(いくない)。

    


11月22日 水  汎用事象論

 かばうま   「――ほれた目で見りゃ、アバタもエクボ」
 くにこちゃん 「んでも、こんじょまがりがみると、エクボもアバタだぞ」
 せんせい   「どーでもいーので、アバタはアバタですね」
 ゆうこちゃん 「……?」(とことんおじょーさまなので、話そのものがよくわからない)
 たかちゃん  「そいでも、やっぱし、エクボはエクボ!」


11月21日 火  原案

 eBookからのメルマガで、丹下左膳の漫画版が紹介されており、作者は米良仁、原案は巨椋修、とある。ほう、あの20世紀前半の一時期を席巻した超人気作家の方は、牧逸馬・林不忘・谷譲次以外にも、巨椋修などという筆名も持っていらっしゃったのか、などと思ってお試し版をダウンロードさせてもらったら、どうも現代のライターの方らしい。
 リイド社の編集さんやクリエイターの方が、まさか丹下左膳を林不忘のオリジナル・キャラ(正確に言えば昔からの『大岡政談』中に隻眼隻手のモデルが存在するが、ネーミングや細かいキャラ設定はオリジナルである)と、知らないわけでもあるまい。それともすでに著作権が切れているので、創案者の名前を出す必要はないと判断したのだろうか。それともやはり知らないだけ(つまり丹下左膳がオリジナル・キャラでなく元々伝説上の人物そのものだと思っている)なのだろうか。
 後のケースだったら林不忘さんも本望だろうけれど、もし著作権切れだから創案者の記載も不要、などと思っている編集さんがいるとしたら、法的には問題ないのかもしれないが、人間としてちょっと♪ぴー♪なのではないか。万一クリエイターさん自身がそう思っていたりしたら――とてもおめでたい♪ぴー♪さんなのではないか。


11月20日 月  味の素

 なにかと『通』には嫌われる化学調味料、この三年ほど、買ったことがなかった。まあそれ以前は自炊などほとんどやらなかったので当然必要なく、それ以降は「買ったことがないから」という習慣で買わなかったのだが、先日ふと気が向いて『味の素』を購入し、そのあまりの威力に驚嘆している。炒めご飯やラーメンにちょっと入れるだけで、本当に旨くなってしまうのである。無論もともとの材料(赤ウィンナとかラーメンの粉末スープとか)にもすでに化学調味料が入っているのだろうが、さらに味の素を加えると、食べる快感が倍になる。種々のグルメ情報などで「味がのっぺりするのでダメ」的な意見も聞くが、たとえば卵とタマネギとウィンナとご飯のみをダイソーのチャーハンの素で炒めた場合、「♪パッパッパ〜とあじのもと〜♪」(古いか)をやるだけで、のっぺりどころかたいへん深みのある味になるのである。やはり近代テクノロジーは、志を過たない限り、人生のシヤワセに通じるようだ。
 しかしまた、この輝かしき『味の素』、子供の頃母の料理を手伝っていた時、過って小瓶のフタが外れてしまい、ざば、と半分近く味噌汁に投入してしまったことがある。このときの味噌汁の味は、『エグい』という単語と不可分の味覚として、未だに記憶に深く刻まれている。何事もほどほどなのですね。

 岡本綺堂先生翻訳の西洋怪奇小説、あるいは、そう、平井呈一先生翻訳の西洋怪奇小説や小泉八雲全集、そのあたりはどうも原文重視の方々には批判を受けたりもするのだが、一方でそうした批判的方々の言語学的几帳面さで訳出されたものを読んでも、ちっともコクがない時が多い。日本語に訳す時点で西洋風のおダシが抜けて、といって和風のおダシも入っていない、そんな感じになる。岡本先生や平井先生は、当然昔ながらの和文の素養というおダシを効かせてくれているわけで、まあそこまでの天然ダシは後世の人間には抽出困難なのだろうが、ならばせめて『味の素』くらいのおダシは知的操作で加えてくれまいか。
 平井先生の弟子筋にあたる紀田順一郎氏や荒俣宏氏の翻訳も、けして事務的ではなく、かつ多大な知性を感じる文章ではあるのだが、なぜか今一歩、あっちの世界までヌケさせてくれない。あの方々の知性をもってすれば、和文の味の素だって、製造可能な気がするんだがなあ。で、エグくない程度に使ってもらって。


11月19日 日  人間の器

 図書館にあった進藤純孝氏(もと編集者・現評論家)の講演CD『「雪国」まで』を聴いた。内容は、川端康成先生が社会的に名を成す以前、進藤氏が編集者として接していた頃のエピソードである。これが大層おもしろい。
 狸はあまりテレビのバラエティーは観ないので、もしかしたら一時期流行ったトリビア物あたりで、取り上げられた事があるのかもしれない。川端康成先生は、若い頃夜逃げの常習犯だったのである。東大時代から菊池寛に認められ、25の歳には名作『伊豆の踊子』を同人誌に発表し結婚もしていたが、まだお金はない。それでも貧乏下宿などに住むお人柄ではないから、一軒家を借りる。しかしまだ収入は少なく、家賃が払えず、どんどんたまる。で、逃げてしまう。次に借りるのも、きちんとした一軒家である。当然、家賃がたまる。で、また逃げてしまう。当人はまったく平気だったそうだ。
 そういえば大文豪扱いになった後も、こんな話を何か(他の作家のエッセイだったか)で読んだ。骨董屋が大文豪のフトコロと審美眼を見込んで、立派な古美術品を持ってくる。買うとも買わないともはっきり言わないが、気に入ったらしいので、骨董屋は「まあしばらくおそばに置いてお考え下さい」と、決まり文句を言って置いて行く。次にたずねると、その美術品はきちんと部屋に飾ってあり、しかし代金については何も言ってくれない。骨董屋はそのうち何か言ってくれるだろうと思っているわけだが、何度たずねて行っても何も言ってくれない。しびれをきらして「ところで先生、あれのお代のほうは」ときりだすと、「……やはりお金がいるのですか」とくる。骨董屋が内心あきれてそれを引き上げようとすると、「……持って帰ってしまうのですか」と、寂しげにつぶやかれたそうだ。さらに文壇のパーティーだったか、他の作家が「借金返済が大変で」と愚痴をこぼすと、川端先生は大真面目に、「払わなければいいじゃないですか」。

 ――これほどの神経の方でも、老人性鬱病に罹るとガス自殺など遂げてしまうのだから、やはり心の病気にはどんな大器も勝てないらしい。まして凡人においておや、である。


11月18日 土  窮屈袋

 そりゃ『チビ』と呼ぶことも呼ばれる方によっては大いなるイジメラレなのだろうが、くれぐれもマスコミの自主規制用語や放送禁止用語には加えないでほしいものである。そうなると過去のアニメの愛すべきキャラなどが、再放送やDVDで♪ぴー♪になってしまうし、今後は『身長に不自由な人』などと、昔からある戯言をマジに使用しなければならなくなってしまう。人間、必ずしも♪ぴー♪を♪ぴー♪るために♪ぴー♪と言っているとは限らない。

 たかちゃんたちの続きがひとかたまり溜まったので、板に上げる。まだ山場(まあ山も谷も判然としないホンワカ話なのだが)が残っているが、なんだか高校学園物が打ちたくてたまらない。浮き足だった逃避的ファンタジーでも窮屈な問題作でも独り言でもない、喜劇的生活ファンタジーがいい。なんじゃそりゃ――まあ、例のパンダ物件のアナザーや、お山物件の続きですね。
 要は、現実にも仮想にもはびこる見えない鉄格子が、はなはだうっちゃーしくてたまらん今日この頃。


11月17日 金  逝く人逝ってくれない奴

 漫画家の石川賢氏が心不全で死去された。狸はどちらかといえば石森章太郎先生育ちなので、それに追随してきたのが永井豪氏、そして永井豪氏に追随してきたのが石川賢氏、といった認識でいたのだけれど、実際はそれぞれが独自の個性を持った並列関係にあったようだ。『ゲッターロボ』等には乗り遅れてしまった狸でも、晩年の(と言うにはあまりに若い58歳の突然死だが)『神州纐纈城』や、少し前の『魔界転生』などの作者(両作品とも一応原作もアレだが漫画版はさらに輪をかけてアレである)として、その個性が惜しまれる。
 俳優の仲谷昇氏も亡くなった。昔観た演劇集団・円の『夜叉ヶ池』を思い出す。主役カップルや白雪姫がなんだかちょっとワザとらしい演技でバタくさく、仲谷氏らベテランの脇の渋いリアリティーが際立っていた。享年77歳――役者さんとしては、まだまだもったいない。

 『
【ワシントン吉田弘之】バグダッド南方マハムディアで今年3月、14歳の少女をレイプし、少女を含む家族4人を殺害したとして殺人罪などに問われている米兵の判決公判が16日、ケンタッキー州フォートキャンベルの軍事法廷で開かれ、裁判長はこの米兵に禁固90年の刑を言い渡した。判決を受けたのは技術兵のジェームズ・バーカー被告(23)。被告は同僚兵士とともに少女をレイプし殺害した後、証拠隠滅のため遺体を焼き、家にいた少女の父、母、6歳の妹も殺害した。犯行には5人の米兵が関与しており、バーカー被告は他の兵士の関与についても証言する司法取引に同意し死刑判決を回避した。バーカー被告は少女のレイプを認めたが、少女や家族を殺害したのは別の兵士だと主張している。(毎日新聞) 11月17日12時18分更新』。――案の定、氏ななかった。どーせそーなるだろーと思っていた。戦争なんてバカにとってはバカの高出力アンプに過ぎない。民主的な刑務所で、長生きしてほしいものである。でも数秒後に突然死してくれたら、ひゃくおく倍めでたいかもしんない。


11月16日 木  ソウルフード

 久しぶりに、ケンタのチキンを食べた。くにこちゃんにたかられたからではない。図書館で借りた『被差別の食卓』(上原善広さん著・新潮新書)で、フライドチキンもアメリカ黒人奴隷のソウルフードから生まれたと知り、食ってみたくなったのである。今までてっきりサンダースおじさんのオリジナルかと思っていたら、違ったのですね。もっともFFチェーンのフライドチキンより、伝統的ソウルフードのほうが、ずっとうまいそうだ。
 その書物は、世界各地の被差別民のソウルフードをルポした好著で、上原氏自身関西のいわゆる『ムラ』出身者だから、その地独特の『あぶらかす』『さいぼし』といった食品(上原氏は『抵抗的余り物食品』と表している)も紹介されており、これもなかなかうまそうだ。脳内のくにこちゃんも、じゅるり、とよだれを垂らしている。

 ケンタのフライドチキンは、確かにそれほどうまくない。もっとも鶏肉自体かなりバクチ的なところがあり、どこぞの馬鹿高い地鶏とやらより、ブロイラーのほうがずっとうまかったりする時もある。子供の頃のクリスマス、田舎で生まれて初めて食った鶏のモモ焼きは、当然当時量産が軌道に乗り始めたブロイラーだと思うのだが、それでもご近所の庭先で首チョンパされた後も首無しのまま元気に駆け回ったりしていた鶏より、柔らかくてずっとうまいと思った記憶がある。自分が今現在食える鶏肉の中では、ダイエーで売っているロティサリー・チキンが、醤油をちょっとつけて食うと、その時の味と食感にいちばん近い気がする。

 まあ故郷は歴史的にほとんど水飲み百姓ばっかりだった東北の田舎なので、妙な差別などやってると共倒れになってしまっただろうし、抵抗的余り物食品を探そうにも、そもそもなんにも余らなかったのだから、ソウルフードと言えば漬け物くらいしかなかったのではないか。しかし狸は父親が王子育ちの漬け物嫌いだったせいで、一部を除きほとんど食えない。あ、芋煮会があった。しかしあれも幼稚園の頃までは、ほとんど肉入ってなかったよなあ。


11月15日 水  賢いウスラたち

 『教育基本法改正案は15日夕、衆院教育基本法特別委員会で、自民、公明の与党の賛成多数で可決された。民主、共産、社民、国民新の4野党は「さらに慎重に審議するべきだ」などと採決に反対し、特別委を欠席した。特別委は15日午前に中央公聴会を行い、午後1時からは安倍首相が出席して与党が締めくくり総括質疑を行った。野党は午後の審議を欠席したため同委員会は休憩に入り、同日夕、自民党が質疑打ち切りの動議を提出し、与党のみで採決した。与党は同法案を16日の衆院本会議で可決、参院に送付したうえで、今国会で成立させる構えだ。(読売新聞)11月15日19時40分更新』。

 『愛国心』『伝統』『公共』……実は個人的に言葉としては大好きだが、法律に入って来るとなると、やっぱりもうこの国の上の(?)人達はやっぱりウスラが多数派を占めつつあるんだなあ、そう思ってしまう。 

 愛国……何をもって『愛』と感じるか、それも教育でシツケるのだろうか。
 伝統……この国のコロコロと節操なく転がっていく歴史の、どこからどこまでがその対象となるのか。
 公共……ほとんどの国民が『個性』を含めて事大主義のこの国で、ほとんどの国民が馬鹿になった場合、やっぱり馬鹿の寄り合いに唯々諾々と参加しなけりゃならんのか。

 さて、冒頭にウスラなどと記したけれども、それはあくまで目的というか感性がウスラという意味で、いわゆる知能レベルでは、やはり上の方々は間違いなく秀でている。格差社会だの地方の切り捨てだのを、政治的無能や失策だと思ったら、大間違い。間違いなく、そうしたほうが経済的にも政治的にも効率的な中央集権が望めるから、上の方々は営々と進めているのである。ついでに本音を言ってしまえば、いじめ問題や自殺問題だって、惰弱な国民など減った方がなにかと効率的だからこそ、ただ表面騒いでいるだけで本気の対策など打たないのである。それは国内だけでなく、世界的にも同じだ。
 ならば、その方々がなぜウスラなのか――想像力がないからですね、千年単位、宇宙規模の。
 まあ想像力がないからこそ、『平和』を『正義』に書き換える程度の知能が、豊かにはぐくまれているのだろう。


11月14日 火  たれぱんだと蛍

 そうだったんだ、俺は昔たれぱんだに『なりたかった』のだ、などと、伝言板へのお返しを打ちながら、あらためて思いだしている狸が一匹。
 そういえば蛍になりたかったこともあったなあ、などとも、脈絡なく思い出したり。

 蛍と言うと、なにか純粋に澄み切った清流を想う方も多いようだが、あれは人跡稀な深山の清流などでは、あんがい見なかった気がする。あくまで人間の生活域のちょっとはしっこ、まだ汚れすぎていないところ、そんな感じの村はずれの流れあたりで、多く瞬いていたように記憶している。つまり、ほんのちょっとの生活排水は、むしろ好む生き物なのではないか。江戸時代の浮世絵でも、隅田川や江戸川に、けっこう飛んでますしね。
 畳の上で物言わずたれているたれぱんだのまんまるお目々も、すあまが好物なくらいだから、けして人間世界を拒んではいない。あくまで微妙な距離感を保ちつつ、悠然とたれている。たまに気が向けば、反復横跳びだってする。

    物思へば 沢の蛍もわが身より あくがれいづる魂かとぞ見る――和泉式部


11月13日 月  飴と鞭

 イジメ問題に対する、森元首相や石原都知事の脳天気なスパルタっぽい発言、なにか戸塚ヨットスクールにも似たものを感じて、ああ、やっぱり人間の賢さというものはその人間の地位や年齢とは必ずしも比例しないのだなあ、と、あらためて思う。歳とると妙な方向だけ惚ける方も多いですしね。自分の狭い価値観で子供の強弱を判定し、それを長所短所と短絡させてしまっている。

 いわゆるスパルタ教育肯定派、あるいは「何があっても子供に手を上げてはいけない。人間の長所は褒めることによって伸ばされるのだ」派、さらに臨機応変飴と鞭使い分け派――まあ教育する側にもなんかいろいろある。
 ちなみに子供の長所を伸ばすには、鞭で追い立てるより飴で釣ったほうが効率的なのが、すでにあっちこっちの教育学的な実験で証明されている。しかし子供の短所、というか人間としてマズい部分を改めさせるのにまで飴で釣っていたら、子供などというものはその飴欲しさに短所を小出しにするような、子供なりの姑息な知恵を定着させてしまう。子供も大人同様人間である限り、その程度にはずるがしこい。少なくとも昔子供だった自分や、当時の仲間はたいがいそうだった。天使のような子供、といった表現をよく聞くが、そもそもその天使というやつが、宗教的逸話など見聞する限り、悪魔以上に姑息っぽい。
 だから結局アメとムチを適度に使い分けるのが合理的なわけだが――何をもって飴使用対象、つまり長所とするか、鞭対象、つまり短所とするか、そこんとこが正直一番難しいのであって、時代によっても評価者によってもコロコロコロコロ変わってしまう。
 大体イジメとイジメラレのどっちがどうかなど、ケース・バイ・ケースだろう。イジメる方だって「イジメじゃなくてただの区別」と思っている奴もいれば「鍛えてやってんだ」と思っている奴もいれば「悪いことだから楽しいんよ」と思っている奴もいれば、「ハヤリだかんね」もいるだろうし、イジメラレて首を吊る方だって、「なんで自分は悪いこともしてないのにこんな目にあうのか」と悩んだ末の者もいれば、「死んだ方が社会的に復讐できる」と居直った者もいれば、「やっぱり自分は負け犬なんだ」と人生リタイアを決意した者もいれば、「ハヤリだかんね」もいるだろう。ケースによっては、双方が飴をもらえる立場、あるいは双方が鞭でしばかれるべき立場ということもあるだろう。

 で、森や石原(基本的に長幼を重んじる狸がいきなり呼び捨てになってしまうのは、正直、匙を投げているのである)の場合、そんな複雑な背景、特にイジメる側はとりあえずどっかに置いといて、『イジメラレ』『自殺』『途中放棄』といった立場を『弱者』=『欠点』と言っているわけですね。で、スパルタ的に扱ったほうがいい、と言っております。これは狸から見ると、ただ二重三重の『好悪』によって物事を論じているに過ぎない。自分の好悪を社会的真理と勘違いしているだけ。こーゆーのが増えれば増えるほど、一律に飴をバラまいたり無差別に海に放りこんだりして、社会は「とにかく飴もらえれば自分は正者」「とにかく鞭を免れれば自分は正者」といった、でっかい某国や北の某国のような風潮に近づいていく。「この強靱さはもしかして鞭くれてやったほうがいい無神経なのでは」とか、「この惰弱さはもしや飴くれて伸ばすべき繊細さなのでは」とか、臨機応変な対応がしにくくなってしまう。

 やっぱり世の中、なんかいろいろいいかげんにごにょごにょ馴れ合っているほうがいいよなあ。たいがいの人間なんて普通の人だもの。飴も鞭も、本当に必要な時だけやっとかないと、何が普通なのかさえ見えなくなるもんなあ。


11月12日 日  そのひとことを吐く前に

 以前観たトニー谷さんの映画『家庭の事情 馬っ鹿じゃなかろかの巻』の、民家の茶の間を列車が疾走したり停車したりするシーンの撮影状況が知りたくて、あっちこっち検索したりしているのだが、なかなか出てこない。その代わり、以前そのシリーズのDVDボックスが企画され、結局発売中止になったことなど判明、もしそれが出ていたらオーディオ・コメンタリーで何か判ったかなあと、残念に思う。
 それにしてもそうした検索でネットの隅々を巡っていると、とにかく半可通(まあ狸もそうですけど)の方々が、過去の作品に対していい加減なカキコしまくりという状況が気に障る。何を根拠に見てもいない映画に対して、「映画史からも消されてますね」「(発売中止になるくらいだから)やっぱり駄作だったんでしょうね」などという発言を、ヘラヘラ気軽に吐けるのだろう。その方はいったい何をもって『映画史』と称しているのか。そもそも、現在DVDだのビデオだのLD(古いか。でも狸にとっては未だに『新しいメディア』感覚である)だので触れられる過去の作品など、大河の一滴に過ぎない。そしてまったくの駄作が『でも売れるかな?』と判断されれば発売され、どんな佳作でも『こりゃ商売にはならんわ』と判断されれば発売されない。ソースさえあればけっこうなんでも放映されるケーブルや衛星放送全部見まくったって、大河の10滴にも満たない。たとえば「村野鐵太郎監督の骨太な演出、ちょっと自作の参考にしたいなあ」などと思っても、DVDなど1枚たりとも出ていないのである。
 ちなみに『家庭の事情 馬っ鹿じゃなかろかの巻』は小田基義監督作品であり、戦前から昭和30年代にかけて東宝系列のプログラム・ピクチャーを安定供給した立派な映画史上の方である。この前ケーブルで観た『お初の方恋』など、若き日の中村メイ子さんが扮する京都のお手伝いさんが大層庶民的で愛しかったし、だいぶ前に観た柳家金語楼さんの『おトラさんシリーズ』だって、原作漫画を含め立派な昭和庶民史の遺産だ。しかし結局DVD化されているのは、『ゴジラの逆襲』はじめ、円谷英二特撮がらみの作品だけである。

 ここには記していないが、最前つぶれた内職元のお若い衆に、昨年『カルタグラ』というエロゲー(す、すみません。ゲームと言うとエロしか知らない私です)を借りたことがあった。なんでも原画が大層上手く、大戦直後のレトロ感が評判とのこと、期待して始めてみたら、これが確かに美麗な画面ではあるものの、風俗は明治大正昭和混成で、会話は時代劇調だったり平成若者体だったりという、メマイのするような『レトロ』っぷりだった。
 何も「時代考証は絶対厳密に!」などとうるさく言うつもりはない。自分だって過去なんども恥ずかしい誤謬をふりまいている。また意図的に、昭和10年前後の兵隊さんに一部明治語や時代劇語をしゃべらせたりもしている。そのほうがシマってカッコいいと思ったからだ。しかし少なくとも、昭和26年の上野にアメ横もなく、江戸時代のような遊郭が聳え遊女もどきの娼婦が平成語と時代劇語の混成でしゃべる、そうしたシナリオを書く場合、そもそも厳密な年代設定などするべきではない。よくある若手の時代物のように、はじめから『どっかレトロな平行世界だと思ってくださいね』と居直ればいいのである。大体ライターさんは当時の日本がまだアメリカに占領されていたことを知っているのか。それともあえて無視したのか。ライターとして知っていなければならないこと、無視していいことと悪いことがあるのではないか。

 さてここまで気の向くまま打って、うひゃあ、なんかこれまんま年寄りのグチじゃん、と思ったりもするのだが、古ヲタの狸としては、こう言いたいわけである。
 おたくは、その一言を吐く前に、おたくとしての素養を培わねばならない。
 なーんて、つい先週自分でも、某板で『ウルトラマン』の『幻の雪山』なんて、やっちまったばかりなんですけどね。すみません。あれが『ウルトラマン』のパロである限り、『まぼろしの雪山』以外の表記は許されない。今思い出しても慚愧の念に耐えない私です。

 話変わって、ジャック・パランスさんが、昨日お亡くなりになってしまった。合掌。手持ちの『シェーン』と『ドラキュラ』あたりを、ビール飲みながら見直したい気分である。
 言うまでもなくパランスさんは種々の名作の悪役で著名な方だが、映画界では数少ないドラキュラ役者のひとりであったことは、一部のマニアにしか知られていないようだ。狸はベラ・ルゴシやクリストファー・リー、フランク・ランジェラやゲイリー・オールドマンよりも、1973年のジャック・パランス版ドラキュラが好きだったりする。テレビ用に制作されたらしく低予算の窺える造りだったが、同じ低予算のハマー・プロ作品(リー版)よりはロケに東欧っぽい陰鬱さがあったし、何よりパランスの武骨さが、かえって「愛と哀しみのドラキュラ」、そんな感じを醸し出していた。ちなみに1992年のフランシス・フォード・コッポラ監督の『ドラキュラ』(ゲイリー・オールドマン版ドラキュラ)は、「原作に忠実」などと宣伝されていたが、どう見てもジャック・パランス版の豪華版リメイクだった。つまりシナリオのジェームズ・V・ハートという方は、明らかにパランス版を書いたリチャード・マシスン御大の脚色をベースにしているとしか思えない――半可通としては。

 さらに話変わって、調べてみたら森安直哉氏は、やっぱり急性心不全で他界されたようだ。安らかな死に顔だったらしい。あらためて、合掌。


11月11日 土  現実逃避

 精神が、荒んだときは秋葉原――なんて言ってるバヤイでは相変わらずないのだが、なんにせよ今のところ土日は暇なのである。内職もないし職安も企業も休みだ。いっそ日雇い派遣に登録してしまおうかとも思うが、嫌な噂が多いし、この歳で死ぬまでやってるわけにも行かんしなあ。まあ、本格的にたとえば森安直哉さん的人生を覚悟してしまえば、それでもいいんですけどね。64歳で孤独死したとしても、父親と同じ歳まで生きられるのだから充分。などと無責任につぶやきつつ秋葉原でエロゲの処分特価を漁るわたしは♪ぴー♪ですか? るんるん。
 にしても、nicoの『そらいろの雫』が780円というのは、安過ぎではないですか。それとももしかして、この前の購入品同様、実は地雷級の内容なのだろうか。『みずのかけら』と同じソフトハウスが、そこまでの駄作を出すはずはないと思うのだが。まあ一昨年の発売時はなんのかんの言って自分も手を出さなかったのだから、やっぱり原画にクセがありすぎて売れなかったのか。ただnicoが事実上つぶれただけか。ともあれ本日は780円で買える。今の自分は書物でもなんでも、千円以内のものを週に一度購入するのが精一杯。まあ書物やCDは図書館に行けば山ほどあるし、映画もケーブルさえ月3990円で維持できれば不自由しない。
 で、例によってペッパーライスの大盛りを食って意気揚々と引き上げ、『そらいろの雫』をインストールしてみれば――おう、けっこういけるではないか。個性的な原画もすぐに慣れ、シナリオも正気な学園伝奇物っぽいし、草薙の空気感に満ちた背景を見ているだけでも気が晴れる。なんといっても定価の10分の1以下で買えたのが嬉しい。スタッフやハウスには申し訳ないが。
 なんか気分が乗ってきたので、脳内にせんせいやたかちゃんたちもスタンバったようだ。よし、明日はたかちゃんの日にしよう。……ところで、森安直哉さんはほんとうに餓死したのだろうか。たぶん孤独死に多い心不全か肺炎あたりだろうと思うのだが。

「わーい! かばうまさん、♪ぴー♪で、がし!」
「んむ。まあ、しゅぎょうは、またらいせでやればいー。のこったくいもんは、しんぱいするな。おれがみんな、きれいにくってやる。むしゃむしゃ」
「ふるふる。……なでなで」


11月10日 金  あんたの仕事

 『いじめ自殺を予告する手紙が文部科学省に相次いで届いた問題で、同省は10日、触発されたとみられる手紙がさらに5通届いたと発表した。うち1通は、いじめが原因とは考えにくい悩みを打ち明ける手紙だったという。これに関連し、伊吹文明文部科学相は同日の衆院教育基本法特別委員会で「本当に困っている人は相談してほしいが、混乱させるような手紙は慎んでほしい」と述べた。(時事通信)11月10日17時1分更新』。
 ああ、またか――いや、手紙を出す方の心理は、子供ならいつもの「オレもアタシも」として本気でも悪戯でもなんら不思議ではないし、大人の悪戯なら「はよ死ね」といつも(ここで狸が)言っているので、この際言うべきことはない。ああまたか、と溜息をついてしまうのは、文部科学相の言い草である。
 
あんた『イジメ専門科学相』ですか。「本当に困っている人は相談してほしいが、混乱させるような手紙は慎んでほしい」って、てめえ、どこでその軽重計ろうってんだ。出す方に決めろってか。悪戯は別として「本当に困っている」のと「なんとなく困ってる」の境界を誰も(本人も周囲も大人も子供も)つけられんからこそ、しまいにゃどんどん首吊ってるんだろうが。イジメラレだけ吊っとるのか、首ってもんは。お役所の諸届じゃあるまいし「はい、その書類まちがってるからこっちの書類に書き直してくださいね」「あ、その件だと2階の5番窓口ですね」「すみません担当ちがいます」、そんな官僚主義の縄張り感覚でなんでもかんでも責任を区分けしようという役人根性が、今のような事態を招いているのだぞ。電話相談室だのなんだの適当にばらまいてそっちに行ってくれってか。「この機会に悩みのある子供はどんどん私にお手紙くださいね」、いい歳こいてそのくらいの常識的発言はできんのか。そうして集まった手紙をしかるべき下に回すのが上の仕事だろう。本気か気のせいか悪戯かシロクロつけようと頑張るのがおまいらの仕事だろう。馬鹿が。

「……かばうまさん、おこった」
「んむ。かねがないと、こものは、すぐにはらをたてるのだ。こーゆーのを、まけいぬのとおぼえ、とゆーな。んでも、もんぶかがくしょーも、てぬきしちゃあ、だめだ。びんぼなおれんちもかばうまも、ちゃあんとやくにんに、きゅーりょーはらってんだ」
「おろおろおろ」


11月09日 木  憧れ

 少年時代に戻りたい、などと思ってしまったのは、何年ぶりだろう。若い肉体に戻りたいとか、汚れのない精神に戻りたいとか、親がかりに戻りたいとか、そうした願望ではない。できれば高校入学の頃に戻って、苦手な理系の教科をガチガチに勉強して、医者になりたいと思ってしまったのだ。理由は、菅波茂という方の下で働いてみたかったなあ、それだけである。
 ラジオ『NHK深夜便』の中に『ナイト・エッセイ』という番組があり、各界著名人、いや、著名でなくともあるひとつの分野を着実に歩んでいる方々が、20分ほどのお話を4回に渡って聴かせてくれる。たいがいは含蓄のうかがえるいい話で、まあたまには自分に酔いすぎている方や独善的な方も混じるが、とにかく一般のニュース等ではあまり接することのできない分野の方々の、具体的活動が聴ける。(ニートの方々などには、特にお奨め。「やりたいことが見つからない」「個人収入なくとも食える」といった状況なら、すぐにでも飛び込める、有意義な世界がみつかるはず。)
 さて、今週の話し手として登場した菅波茂という方は、国際医療ボランティア団体・特定非営利活動法人アムダ(AMDA=The Association of Medical Doctors of Asia)の創始者であり、現理事長である。話の内容は、ここでかいつまんで記せるほど薄いものではないので、興味のある方はネットなり書物なりで調べていただきたいし、興味のない方は「ああ、どっかの医療ボランティアの話ね」、それでいい(ほんとは良くないのだが)。狸が感服してしまったのは、氏のバランス感覚、つまり知性である。
 最初話を聞き始めたときは、「ありゃ、小学校の時の校長先生みたいな人が出てきたぞ」、そんな感じだった。穏やかで優しげ、でもちょっと偉げでお説教くさいから苦手、そんな語り口だったのである。しかし話の内容を聞いていると、実にまあ自分の目的遂行のための行動を、常に相手方との融和を前提に組める方なのだ。与えるのでも押し付けるのでもバラ撒くのでもなく、相手方に必要な物をどう合理的に(精神的にも物理的にも)届けるか、そんな思考法で成果を上げている。どこぞの無駄金バラ撒き政府や、耳たぶのでかいトンデモ学会長などに、爪の垢でも煎じて飲ませてやりたくなるような。そして本日最終回まで聴いてつくづく感心したのは、最初に感じた氏の『ちょっと偉げでお説教くさい』部分、これがまさに氏の矜持に裏打ちされた『正しさ』そのものである、そんな事実である。つまり狸としては、「あなたは間違いなく偉いので、もっともっと私にお説教してください」と願ってしまったのですね。それを社会的に実現するためには、タイム・ワープして自分が立派な医者になって氏の下に就いて活動を共にする、これが理想的なわけです。末端の文系活動員になっても仕方がない。直接教えを乞うのが目的なので。

 やはり『師』などという存在は、親しみやカリスマ性以上に、『合理的に偉い』=『正しい』人であってほしい。


11月08日 水  狐と狸

 NHKのBS2で録画した、昭和37年東映京都作品『恋や恋なすな恋』を観る。なんちゅータイトルだ、とお思いの方もいらっしゃるだろうが、これは原作の清元の一節「恋や恋われ中空になすな恋」から来ているので仕方がない。
 BSの紹介文をコピペしますと、『
朱雀帝(すざくてい)の治める平安時代。政争の犠牲となって恋人を殺された陰陽師・安倍保名は、流浪のすえ出会った恋人の妹・葛(くず)の葉にその面影を求める。だが追手に襲撃されて傷ついた保名を救い、その心を癒したのは、葛(くず)の葉の姿に化身した白狐だった。人形浄瑠璃の名作「芦屋道満大内鑑」と清元の古典「保名狂乱」を素材に、歌舞伎の手法やアニメーションを駆使して描く幻想的な悲恋物語。』――つまり『恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉』のお話である。安倍保名が大川橋蔵さんで葛の葉は嵯峨美智子さん。脚本は依田義賢氏で監督は内田吐夢氏――まあ、スカをくらう可能性はほとんどないコンビのこと、古典的かつ前衛的な演出に、酩酊満腹いたしました。ミクシィで放映情報を教えてくれた、田川氏に感謝。
 ちなみにこれも有名ですが、その保名さんとせつない娘キツネさんの間に生まれたのが、かの大人気陰陽師・安倍晴明ということになっておりますね、伝説では。そして後年、妖狐・玉藻の前(ご存知大陸出身の金毛九尾の狐さん)と絡んだのが、安倍晴明の子孫・泰親だったか。最近の映画版『陰陽師』は王朝ムードが良くできていたが、どうもマグレ当たりだったらしく、同一スタッフの『陰陽師U』のほうは演出も脚本もテンデンバラバラで、野村萬斎さんの妖艶な女舞いだけが、そぞろ悲しく浮いていた。監督の滝田洋二郎さんは、ピンク映画の頃からけっこう達者な演出家だと思っていたのだけれど、やはり王朝ムードや古典芸能は荷が重かったのか。あの踊りを、『恋や恋なすな恋』のスタッフが撮ってくれていればなあ。故人が多いので無理ですけど。岡本綺堂の『玉藻の前』なんかも、ぜひ当時映画化してもらいたかった。泣けただろうなあ。あの妖艶な嵯峨美智子さんが玉藻の前をやってくれたら、思わず妖孤性ガス中毒死しながら叫んじゃうでしょう、狸としては。「
おお、一緒に棲むところあれば、魔道へでも地獄へでもきっとゆく」――。また外野としても、『葛の葉』は純情娘狐で『玉藻の前』は海千山千のオヤジ殺し狐(?)の差こそあれ、どちらも真の姿ではなく『仮の姿』というところが、なんか、哀しくてほっとけないでしょう。狐だって人間じゃないですか。……あ、違うか。
 
 ところでgooをはじめいくつかの映画レビューのページで、『恋や恋なすな恋』のストーリー紹介に、例によって映画を観ないでどこかから孫引きしてきたらしいトンデモ粗筋が出回っているので、これから本編観ないで映画感想を書く方々(おい)は、注意が必要だろう。


11月07日 火  盗作と普遍

 おやおや、槇原敬之さんはあくまでツッパるか。なるほど、読んでないから断じて盗作ではない、と。ちなみに狸は松本零士先生の作品をそれこそ少女漫画の時代からけっこう読んでいるが、実は『銀河鉄道999』は、槇原さん同様、個人的な好みの問題で一度も読んでいない。アニメや歌も、『ヤマト』関係しか記憶にない。したがって『時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない』はまったく記憶していなかった。しかしまあ、たとえば狸が郷里の中学で教育実習をやった時、そこの一年生たちなどは、もうずっぷしヤマトやハーロックや999であった。その頃槇原さんは小学校高学年のはずである。記憶のどこかに隠れていた可能性はありますね。しかしまた、狸は槇原さんの歌もまったく知らなかったので、この盗作(?)騒ぎのニュースを知らなければ、『時間』と『夢』をテーマになんかいろいろ書いたりしたとき、自分で同じようなフレーズを書いてしまう可能性はかなりあっただろう。つまり、感情的にきわめて普遍的な、かつとってもいいフレーズだから、著作権うんぬんはかえって野暮に思われる。松本先生もずいぶん愛着のあるフレーズだったようだし、ご高齢でもあるので、ついつい激昂してしまったのだろう。
 この盗作(?)騒動をちょっと検索していたら、どこかのブログで、この件に引っかけて、あちこちで見かける『知らないことは罪』というフレーズを検証したりしていたが、サミュエル・ゴールドウィンの『知らない事は罪ではない。 だが、知っているつもりは罪かもしれない。』だとちょっと意味が違うので、むしろ刑法第38条が意味としては近いのかも。しかしまあ『夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない』に関しては、前述したように、知る知らないではなく単なる普遍的憧憬、つまり万人の「ああ、そうだったらいいなあ」、そんな気がする。
 ちなみに、もう覚えていらっしゃる方も少ない、あるいは全然お読みでない方もほとんどと思われますが、我が愛する自作キャラ、だるまストーブ改造ロボット・ブルフィンチ君のキメぜりふ、『(ライラを)奪う!』は、三浦哲郎先生の『忍ぶ川』の一節、『奪う。志乃を奪う。』のオマージュ(盗作?)です。でも、その直後の『永遠に失ってしまうより、永遠に怨まれたほうがいい』は、狸オリジナルのつもりなのですが、まあ、これだってちょっとアタマに血の昇った男衆にはありがちな感情だし、過去に接した書物や漫画や映画のどこかで、なんらかのキャラがキメていたのを、狸が魂に刻み込んでしまっただけかも知れないわけで。

 ころりと話変わって、非核三原則ウンヌン、まあ安倍首相がずいぶんこないだまでと違ってアタフタ言い訳してるのは、もう内閣官房副長官じゃないのだから当然として、外務大臣ひとり抑えられない首相って……やっぱり内心を見透かされてるんだろうなあ。親代々の政界オンリーお坊ちゃま首相と、財界大金持ちお坊ちゃま育ちのタカ派外務大臣――うひゃあ、見方によっては、小泉さんより剣呑剣呑。


11月06日 月  逝く人残る人

 はやばやと過ぎゆく季節のごとく、日々順調に人は飛びこんだり飛び下りたり吊ったり、なんかいろいろ人生をリタイアしてゆく。
 本日も総武線が停まり、なんかいろいろ午前中から動いていた身には少々ヤバかったのだが、これはまだ自分から飛びこんだのか不慮の事故なのか誰かが押したのかいっさい不明のようだ。しかしこのところのあっちこっちのニュースが頭にあるので、やっぱり自発的リタイアなのかな、と思ってしまう。まあ、死のうと決意した方々とまだ生きていたい身では、電車のダイヤに関してはどう考えてもあっちの勝ちなので、動かない電車の中、「またかあ」と吐息するしかない。しかしどこかのお若い女性たちが「我が人生に悔い無し」的遺書を残してふたりも飛び下りた、などというニュースを帰ってから聞くと、つくづくもったいないと思うし、「あなたがたに悔いはなくとも周りはあっちこっち悔いだらけかもしれないよ」などと思わずつぶやいてしまうが、まあこれも、見ようによってはその『周り』と絶縁することにしたからこそ悔いがなくなるのかも知れず、どっちにしろお嬢様がたの不戦勝(?)である。

 自殺が増えた増えたと世間は大騒ぎであり、統計のある1978年以降では2003年が自殺率最大で、その前後もそれに肉迫する数字が続いているようだ。不景気やら社会不安やらイジメやら、種々の原因が取りざたされているが、日本人という社会集団が昔から自殺好きだったのも歴史的事実らしい。ちょいと古いがジェームス・ボンド・シリーズの『007は二度死ぬ』などは、映画化作品では九州の孤島の火山湖に謎のロケット基地が脳天気に掘られていたけれど、原作はホラー調というか、悪役ブロフェルドが日本の僻地にアヤシゲな『自殺テーマパーク』的庭園を構えてしまい、それに引き寄せられて日本人がどんどんどんどん死にに行ってしまい、それは死ぬ方が勝手に外人の私有地に忍び込んで勝手に死ぬのだから政府でも手が出せず、なんかいろいろでボンド登場、そんな鬱系の話だった。日本人の自殺嗜好に関する歴史的考察なども多々記されており、狸は中学生の時それを読んで、表面「わはははは」と笑いながら内心ドンヨリしてしまった、そんな記憶がある。思春期に入って、なんかいろいろそのケの感情も波立つ頃だったのですね。

 大学時代にダイブしてしまった同い年の従兄弟などもいるので、「リタイアしたい奴はとっととしちまえ」と言い切るほどの悟りは開けない。「お前に悔いはなくとも周りはあっちこっち死ぬまで悔いだらけかもしれないよ」、と、力なくつぶやくだけである。


11月05日 日  ちまちまと

 そう、夢は追うものであり、現実は対峙するべきもの――などといたいけなゆうこちゃんに悟らせておきながら、おはなしづくりのぶよんとしてしまりのない人は、すっかりその対峙するべきものにさえ逃げられつつあり、そのぶんちまちま夢に逃避すると、楽しいご感想がいただけて束の間癒やされる(現状、実際精神的に治癒されるのである)し、年末にむけてのしつこいチェックも、あっちこっち間尺に合わない細部を発見できて、微妙に嬉しかったりするわけである。

 ところで遅ればせながら『月刊COMICリュウ』の第2号を買ったら、安永航一郎さんのギャグ漫画のタイトルがいきなり変わっていた。『青空にとおく酒浸り』――6月の居間で、自分でも独りごちたばかりのフレーズである。やっぱり同世代なら、どなたでも(ギャグ系の方は)昔からそう歌っていたんだろうなあ。しかしまあ「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」などと比べれば、がっくし力の抜ける相似ではある。
 誌面は旧友の作を含め、ひたすらおたく道を突き進んでいるようだ。その中にあって、やっぱり『ゆるユルにゃん!!』や『ひなぎく純真女学園』のコマの片隅に丸くなって寝ていたい自分は、すでに牙を失った獣なのだろう、って、もともとねーじゃん、狸に牙。


11月04日 土  ぷよぷよと

 今日も創造主様方面の上品そうな老婦人と婦人から、玄関先で小冊子をもらった。いつものような、昨今の嘆かわしい時事を創造主様的観点からとらえたとても心の引き締まるような記事と、そんな存在がいてくれたらどんなにスバラシイだろうと憧憬してしまうような教えに満ちた小冊子だが、さて、じゃあそのお方がもしいなかった場合どーなるの、と考えてしまうと、やっぱりそれは真理ではなく『憧憬』なんだろうなあ。
 まあ凡百の衆生がセコい利己主義に走るのは、目覚めた方々には嘆かわしいかもしれないが、やはり理の当然だ。利己主義は自分の脳味噌さえ相手にしていれば誰でも実行できるが、利他主義となるとそれこそ自分以外の無慮数十億以上の脳味噌を相手にしないと不可能なので、とても自分ひとりでは手が回らない。同志が百人いても万人いても手が回らない、というか、不可能だ。その不可能を可能にするためには、いちどきに数十億の脳味噌を把握できる『一番偉い者』にいてもらうのが一番になる。狸もつくづくいて欲しいと思うが、残念ながら『いてほしい』を『いる』に帰納できる根拠は、その小冊子にもバイブルにも新約聖書にも記されていないようだ。ただ『いるのだからいる』と書いてあるばかりだ。
 ともあれ凡百の衆生のひとりとしては、他の凡百の衆生の脳味噌もどうで自分の脳味噌と似たりよったりなのだから、せいぜいなるべく多くの脳味噌に同程度のケアを心がけるしかなかろうと思う。まあ自分の脳味噌だって日々ぷよぷよと気が変わってしまうので、他人の脳味噌も日々ぷよぷよと変わってしまうと思われ、どっちも固定化しようと思うとなかなかホネだから、日々ぷよぷよと手触り(脳触り?)を探り合っていくしかないのだろう。
 とゆーわけで、もし本当に『一番偉い者』がいらっしゃるとしたら、その方も他の無慮数の一番偉い者たちと、日々ぷよぷよ探り合っていただきたいものである。


11月03日 金  郷愁の光学玩具

 収入が減ったぶん、とりあえず土日や祝日の暇が増えた。無論遠出などする余裕はないので、またぞろ江戸川の土手を隣駅まで歩き、駅近くの古物兼古本屋を覗いてみると、古いカメラに混じり、玩具カメラがひとつ並んでいた。そのちっこい箱形のデザインに、おや、と気を惹かれ記憶を探ると、それはまぎれもなくプリンス光学のプリンス16だった。
 昭和40年代前半、月に何度か家族揃って着飾ってデパート見物に行き食堂で昼飯を食うのがまだご家庭の重大イベントだった頃、デパートの玩具売り場ではちょいと高級品(と言っても千数百円だったと思う)で、まだフジペットも持っていなかった自分がいつも垂涎していた、スパイカメラっぽい玩具である。定番商品らしく何年も並んでいた記憶があるから、買ってもらった裕福な子供も多かったのだろう。事実、学校帰りの道端でゴミ箱に壊れたそれのパーツが捨ててあるのを見つけた時は、拾って帰ろうかとずいぶん悩んだ記憶もある。普通だったら即拾っただろうが、裏蓋もなければ他のゴミで汚れてもいたので、悩んだ末に結局あきらめた。成人後、中古カメラ市などで、数多の玩具カメラの中にその美品が並んでいないか、ずいぶん探したものである。
 さて、ウン10年ぶりに再会したそのカメラは、ピカピカの完品。元箱もある。ケースや取説もある。すでに劣化して使えないにしろ、未使用のちっこいロール・フィルムまで付いている。しかし――ななななななんと、値札は三万円超。隣のオリンパスOM−1黒(立派に使える状態の、アナログ・メカの名機)よりも、高価になっている。なんぼ昭和レトロが人気でも、あまりと言えばあまりではないのか――と一瞬立ちすくんでしまったが、つらつら鑑みればネット・オークションなどでは、もっとちゃっちい当時の玩具カメラ(450円くらいだったブリキ製の奴)が一万円とかで落札されているのだから、それも妥当な『郷愁価格』なのだろう。
 まあ、この夢は一生夢でいい。今買ってしまったら(だから今は買いたくとも買えないんだってばよう)、今それを懐かしがっている自分、そしてウン10年前に華やかなデパートでそれに垂涎していたガキとしての自分、その両方の夢が、八割方失われてしまうだろう。持っていなければこそ、ろくな写真も写らないその玩具が、これほど輝いて見えるのだ。

 などともっともらしく諦めつつ、内心未練で涙にくれながら、なにがなし、シネコルトというピストル型の幻灯機を思い出した。暗い部屋の壁に向かって引き金を引くと、ちっこく絵が映る。引き金を引くたびに絵が変わる。無論静止画。8ミリフィルムを流用した輪っかのようなフィルムを入れ替えると、アトムでも鉄人でも、なんでも映る。これも当時は高価な玩具で、仲間内では漫画雑誌の懸賞で当てた奴が唯一の所有者だった。数年前まではネット・オークション等で時々見かけたが、これまた天井知らずに値が上がり、今はもうほとんど出物がないようだ。
 自分はシネコルトこそ買えなかったものの、当時漫画雑誌の通信販売でマイナーな幻灯玩具が安く出回っており、そっちの無名系物件をわくわくと取り寄せたりしてみると、いかにも弱小町工場に住んでいそうなミッキーマウスのイトコような鼠、ウッドペッカーのハトコのような鳥、鉄人28号にちょっと似た推定プロトタイプなどが壁に映った。それら替えフィルムの中には、ゲゲゲの鬼太郎も脱力して退治する気が起きなかったらしい妖物、あるいはお岩さんの遠い親戚、人間のようなものの骸骨などもいて、林間学校のキャンプの深夜に仲間たちと起き出し、あっちこっちのテントの隙間から映して回った記憶もある。もっとも当時の子供という奴は寝付きが良かったのか、驚いてくれたのはほんの2.3テントだったが。
 しかしそうした無名系物件は、さすがにネット・オークションにも出てこない。初めの購入者が多くアレなので、「とにかく楽しみ尽くさないとモトがとれない」と、壊れるまで遊び尽くされてしまったのだろう。ただとても遊べたという充実した記憶だけが、何百円かのままで、自分の頭の中にだけ、鮮明に残っている。


11月02日 木  縮日

 などという言葉はないかもしれないが、日差しも残りの人生も、そぞろ傾きの早い今日この頃である。

 何を勘違いしたか、夜間、蚊が飛んでいる。寝ている間に、よりによって右のまぶたを刺したらしく、明け方痒くて目が覚める。まあどうせ狸以上に余命いくばくもないのだろうから、末期の血くらいは吸わせてやってもいいのだが、まぶただと、やたら掻くわけにもいかない。できれば手でもケツでも吸っていただきたかった。しかし、もう毒液分泌もおぼつかないのだろう、昼には腫れが引いていた。

 蚊ばかりでなく、ゴキも出る。こちらはほっときゃなんぼでも越冬するので、しゃくにさわって殺虫剤漬けにする。蚊とはちがい、隠れてこっそり他人様の貴重な食料を漁るその姑息さが、我慢ならない。昔、体長30センチのゴキに襲われる小説(平井和正氏のアダルト・ウルフガイ・シリーズだったか)を読んで慄然としたことがあったが、今そんなのが出てきたら、捕獲してテーブルの上に縛り付けて、ローソクでも垂らしてイジメてやりたいところである。

 たかちゃんたちも、ときどき出る。こちらはイジメずに観察記録にとどめ、まとまったところで板に放流する。とてもかわいい。しかしもはや作者の手をはなれ勝手に遊んでいるので、作品としてのナンタラは責任が持てない。でもかわいいから、いいのである。


11月01日 水  白と黒

 往年の超能力少年・清田益章さんが、大麻所持で逮捕された。まあ、以前からドラッグ愛好を隠していない様子だったので、いつかお上に目をつけられるのは必至だったわけだが。
 ちなみに、大麻は覚醒剤等のハードドラッグとは明らかに性質が違う。依存性も毒性も、ニコチンやアルコールより低い。確かに精神障害の要因にはなるが、といってアルコールに比較すれば遙かに軽いし、それによるクソな犯罪の危険も少ない。大麻を合法化したらハードドラッグ依存者(いわゆるシャブ中)がかえって減って世の中穏やかになった、そんな国も実際ある。まあしかし、この国で『違法』である限り『犯罪』なのは確かであり、そのソサエティーがヤクザ等のからまないのどかな仲間たちであったとしても、やっぱり『犯罪者集団』なのですね。
 しかし、いっそ大麻でもやってたほうがリラックスしてそんな凶行には走らなかったのではないか、そんな既知外が多いのも確か。先頃も有名な漫画家さんが、今どき子供でも驚かないような刃渡りの刃物の不法所持で、逮捕されたことがあった。狸が昔から愛読している漫画家の花輪和一さんも、ボロボロに腐食しきった実銃のメイン・パーツを友人経由で入手し、モデルガン・マニアゆえ苦心惨憺の末に不足部品を自作したりして復元し、こっそり山の中で試射したため、実刑をくらっている。と思えば、やっぱり巷では、アル中やシャブ中や既知外が包丁振り回し、ヤクザや既知外が手軽に実銃を買って、人相手に実射しまくっている。

 ころりと話は変わって、その清田益章さんが、少年の頃、週刊朝日の実験記事によってイカサマを証明されたなどという話がまことしやかに流布しているが、当時高校の図書館でその記事を熟読した狸としては、断言する。その記事は、それによって狸が以降週刊朝日そのものをマユツバで読むようになってしまったほど、スプーン曲げ以上にいかがわしい、非論理的記事だった。
 狸は今でもスプーン曲げの真偽も意味も解らないが、自分がいかがわしいと思うだけでさらにいかがわしい論旨で糾弾してもいいとしたら、この世はいかがわしさのカタマリになってしまう。朝日、いや、他の多くのメディア同様、『うちのペットの尻尾は白い』→『うちのペットは犬である』→『犬の尻尾は白い』→『隣家の黒犬も犬である』→『よって隣の黒犬の尻尾も白くなければおかしい』、そんな論法を平然と繰り返すようになる。

 ちなみにバニラダヌキの尻尾は、いーかげんな中間色の縞模様である。