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08月31日 金  じゃがいも

 駅ビルの肉屋で、一個39円でポテトコロッケを売っている。けっこうでかくて、挽肉もほんのわずかながら散見できる。何より味や食感が、昔懐かしいイモコロッケそのものだ。99円ショップで売っている三個入りより食いでがあり、大手スーパーで売っている『昔懐かし』などとネーミングされた工場生産品よりもはるかに旨い。
 問題は『滋養』といった部分だろうが、考えてみれば我々の幼児期はそんなものばかり食っていたわけだし、卵焼きとほうれん草でも付ければ、栄養的にも完璧だろう。そもそも卵が6個99円で買えるだけでも幸せである。先日図書館で借りた『ドイツ民俗誌』という書物によれば、ヨーロッパゆえ貧民でも昔から肉だけは食っていたのではないか、などという自分の浅学な先入観はトンデモだったのであって、数十年前の山間の農村では、口にできる食物のほとんどがじゃがいもだったそうだ。肉などは祭の日にしか食えなかったのである。当時の日本の農村と比較しても、米や雑穀がじゃがいもに変わっただけではないのか。納豆やイナゴの代わりに、わずかな乳製品で蛋白質補給といったところ。無論彼の国も、現在は食肉も卵も乳製品も巷に溢れ、肥満に悩んでいるようだが。

「わーい、コロッケ、コロッケ!」
「おい、たかこ。そんなによろこぶんじゃあ、ない。三丁目の夕日じゃあ、あるまいし。かばうまが、つけあがるだけだぞ」
「んでも、ほらほら、もう、ひとさら!」
「おうおう、ぎょにくソーセージ入りたまご焼きじゃないか! こんやは、ごーせいだなあ」
「……ちまちま。……ぽ」


08月30日 木  気は心

 発作的に古い寅さん映画などが観たくなり、レンタル屋に行けばDVDで全作揃っているのは知っているのだが、そのレンタル代で何回飯が食えるかという問題があるので、古いビデオテープをひっくり返すと、何作かは出てくるわけである。昨年からBSで全作放送された時は、中期以降ひととおり録画して観たわけだが、保存したのはほんの数作だ。ここまで逼迫するとは思わなかったからなあ。
 で、その古い古いダビング物のビデオテープ――それこそレンタル勃興期にベータを借りてきてノーマルVHSにダビングしたような代物を再生してみると、当時『いつでも観られるように映像作品を自己所有する』ためにはダビングでも一本千数百円かかったはずなのに、画質は甘々でザラザラ、さすがに現在のDVDと比べて最初は愕然とする。しかし、ものの10分もたたないうちに、いつの間にやら心はしっかり作品世界に没入しており、見終わって、ふう、良かった良かったと余韻に浸りながらリアルタイムの放送に切り替わったモニターを見ると、そこには美麗で精細な映像による『時間と金の無駄』がせっせと流れているわけである。
 この社会にテレビという物が行き渡る以前の幼少期のことはちょっとこっちに置いといて、大学後半から社会人1年にかけての3年間ほど、貰い物の白黒テレビしか持っていなかったことがある。ロッドアンテナ式の12インチ画面だったと記憶している。無論ビデオなどという超高級品は、まだまだ高嶺の花だった。しかし、それで食い入るように嘗めるように映画劇場などを観ていると、傑作はあくまで傑作であり、駄作は当然駄作だった。
 フォーマットの進化によりなんぼ見てくれが良くなっても、結局仮想世界を司るのは、やはり『精神的作り込み』である。


08月29日 水  プラスマイナス

 しかしあちこち脈絡もなく派遣のバイトに出ていて時々不思議に思うのは、一度もやったことのない作業を瞬時にできなかったり、一度も聞いたことのないその作業場オンリーの常識を理解できなかったからといって、なぜ馬鹿呼ばわりされたり嘲笑の種にされたりしなければならんのか、そこんとこである。まあ幸いそんな現場はけして多くなく、現場全体のシステムも明らかにスカだから、「あーあ、今日は変なとこに当たっちまった」とこっそり皆でボヤいていればいいのだが。ともあれ、そんな現場であればこそ、終わった後の開放感は心身共に格別で、かえって飯が旨かったり、たかちゃんの続きを打つ指も軽やかだったりするので、案外ありがたかったりもする。ただし、そんな現場に限って時給が安いのは、ちょっとかんべん。そりゃそんな非効率的な現場運営をやっているのだから、あまり儲からないのだろうけれど。

 ようやく外の暑さは和らいだようだが、戻る狸穴は実はまだ暑い。老朽建築とはいえ一応鉄筋コンクリートなので、建物自体が芯まで熱を持ってしまっており、一回や二回の雨では焼け石に水なのである。幸い天気予報では明日も降りそうだ。早く秋になってくれればいいのだが。


08月26日 日  岸辺の青い家

 などという叙情的なタイトルの割には、江戸川沿いのビニールハウス(農業用ではなくホームレスさんの)の話です。本日は仕事にアブれて全休になり、あいかわらず超暑の中を久々に雑木林と緑地公園散歩に行ったのだが、帰途、江戸川の土手を歩いていて、見慣れたビニールハウスがひとつ消えているのに気がついた。
 これまで「いつかホームレスになったらあんな家(?)に住みたい」と思っていたビニールハウスは、ふたつあった。片方は、推定パイプ類でしっかり四角い骨組みを造り、出入り口を上にはねあげるときちんと庇になったりして、その前にはテーブルやら椅子やら通勤用(?)の自転車やら、要はきっちり『家』志向のタイプ。もうひとつは、推定粗大ゴミを適当に積み上げ青ビニールで覆い、外周をやはり粗大ゴミで補強した、いかにも『家なき親爺』タイプ。なくなっていたのは、当然後者である。通風など無視した完全引きこもり型だったから、おそらくこの暑さ続きで、露天では維持できなくなったのだろう。前者はいわばキャンプ用のテントをでかくしたような物だから、通風も居住性も考えてあり、今日も入口の庇には、のどかに洗濯物が干してあった。やはり自分が家を失い河原に住む時は、面倒がらないで、初めにしっかり計画せねばと思う。

 夜は、なぜかまた『ミヨリの森』を観る。録画だと、あの民放特有のCMという奴が飛ばせるから具合がいい。作品の出来は、観れば観るほどオリジナリティーの欠如や技術的バラツキが目立つが、なぜか全体としての好感度は、またぐんと上がった。この歳になるとCMの8割方はヘドの元なので、もともと民放で放映するのが不調和だったのかもしれない。この前の『時をかける少女』などは舞台が今風の町なので、CMもこれほど気にならなかったが。


08月25日 土  アニメ・ミヨリの森

 山本二三氏の初監督作品――アニメの美術監督としては超のつく実力派なので、当然襟を正して見始めたわけだが、田舎の風景は美麗ながら、空気感には乏しかった。田舎の匂いが乏しい。森の匂いがしない。つまり、ドラマとしての演出が不器用なのである。美術監督として関わった作品は、いずれも匂い立つような空気感があったのになあ。やはり美術を生かすも殺すも、その『見せ方』、つまりドラマの演出にあると言うことか。
 ストーリー的にはちょっと高畑監督の『ぽんぽこ』に似ているが、どうも出だしの都会夫婦や11歳ミヨリちゃんの初期描写に実在感が乏しく(シビアさを強調すればリアルというものではないだろう)、原作に比較的忠実な地味なキャラ・デザインなどもあいまって、初めの内にリタイアしたご家族も多いのではなかろうか。漫画原作付きとはいえ、あくまでアニメ作品なのだから、キャラだけでももう少々感情移入しやすいデザインにすれば良かったのに。それだけで視聴率は何パーセントも変わるだろう。森の精霊たちも、またしかり。そもそも過剰なまでに純日本風な田舎風景の中で、あのアニミズムはちょっと無国籍すぎなのではないか。
 などとこまごまツッコミつつ、実は何度もうるうるしながら、最後まで食い入るように見てしまった。テーマそのものというか、志は正しいのである。『ぽんぽこ』ではなくこっちの話を、緻密な高畑演出のジブリ作品としてやってくれればなあ、などとも思う。それならば、今どきちょっとした補修でもウン百万かかるような茅葺き屋根を小綺麗に維持している浮世離れした山村(つまり観光目的あるいは文化財としての保存や、田舎なりの有産階級でもなければ、現実にはありえない僻地描写)などにも、もう少々説得力を持たせられたのではないか。


08月24日 金  凄夏は続くよどこまでも

 ♪野〜越えや〜ま越〜え〜た〜にこ〜え〜て〜♪
 とはいうものの、扁桃腺はなんとか治まったようだ。昨夜(いや今朝か)かきまくった全身びっしょりの汗に、毒素も流れ出してしまったのだろう。それとも大量に飲みまくった水に乗って、抗生物質もまた激流のごとく体内を駆けめぐったのか。いずれにせよ、おかげさまで頭の濁りも少しは洗われたようだ。

 冷や奴と身欠き鰊と発泡酒で、だらだらと夕飯を食いながら、ずいぶん前に録画しておいたHNKハイビジョンの『決定版・きもの大百科』を、ようやく観る。大袈裟なタイトルだが、中身は和服にちなんだコラム集というかウンチク集のようなもので、AからZまでの様々な話題が流れ、とても面白い。やはり文明も文化も、本当に目を見張るように美しくかつ深いものになるためには、『採算』という概念を捨てねばならないのだなあ、と、つくづく思う。それは畢竟、貧富の差や搾取の容認に他ならないのだが、昔、下層の人々が桑を育て蚕を飼い絹糸を紡ぎせっせと織り上げ染め上げたものが、その下層の人々ではなく搾取者の生活を華美に彩る、そのことが誤りだったとは、着物文化全体を見れば、どうしても思えないのである。
 もちろん昔は一般庶民もみんな和服を着ていたわけで、今だって安価に楽しむ方法もあるのであり、その番組内でも、今の若者が奇抜なコーディネイトの和風ファッションを手軽に楽しむ姿が、何度か出てきた。フリル付きのゆかたもあった。それはそれで大層面白いのだが――なんぼなんでも、和服にスニーカーは合わないのではないか。いや、固定観念とかは抜きにして、あくまで機能性や美意識で。


08月22日 水  どよよよよん

 やはりこの世界は永遠に暑いようだし、この季節にどす黒く膨張した狸の死骸を晒すのはちょっとばかし不本意なので、医者に行く。いつも子供でいっぱいの耳鼻咽喉科待合室は、なぜか壮年の姿も多い。いわゆるエアコン病の季節なのだろう。狸はいつもの扁桃炎だったが、原因はやはりエアコンによる乾燥なのではないかとのこと。一日エアコン三昧のような贅沢はしていなくとも、発汗による喉の渇きや、熱されたり冷やされたりが極端なのですね。寝込むほどの容態ではないが、薬を飲むと、やっぱり頭はどよよよよん。どっちみちどよよよよんなのである。
 明日の夜はまた外でバイトの予定なので、なんとか治まってくれればいいのだが。もっともこの暑さが去らない限り、永遠に頭はどよよよよんなのだろうけれど。


08月21日 火  あ゛づ う゛い゛

 言いたくない。言いたくないのだが、脳がほどよく茹だっているので何度も言ってしまう。
 暑゛い゛。
 外や作業場と、電車や休憩室の温度差があまりにも甚だしく、扁桃腺まで疼き始めている。
 頭がどよよよんと濁っているのが、暑さのせいなのか疲労のせいなのか扁桃腺のせいなのか、頭がどよよよよんと濁っているので、判断できない。頭がどよよよよんと濁っているからである。
 しかし、大量の水も豚めしの大盛りも、旨いのである。冷凍しておいたカレーも旨いのである。こんなに水を飲んで、なぜ腹が壊れないのか。もしかして、頭がこんなにどよよよよんと濁っているのは、水ぶくれしてフヤけてしまったからなのだろうか。それともやはり流した汗が多すぎて、こんなに水を飲んでもまだ脳味噌が煮つまっているのだろうか。
 もはや貞子や加椰子としっぽり乳繰りあいたい気分である。

 現在、NHKラジオで、珍しく怪談をテーマとした特番をやっている。佐野史郎さんや一龍斎貞水師匠や東雅夫さんや小泉凡さん(小泉八雲の曾孫)が生放送で語り合い、稲川さんも録音でいつもの語りを披露している。東ちづるさんという女優さんも参加しているようだが、NHKらしくきゃぴきゃぴ幼児語のタレントではないので、落ち着いて聞いていられる。
 頭の濁りは、なんとか沈殿しつつあるようである。


08月19日 日  狸は桃の天然水の夢を見るか

「……おう、たぬき、たぬき」
「んむ。ひさしぶりに晩飯をたかりにきてみたら、かばうまが、いない。そのかわり、たぬきが一匹、桃の天然水をだきしめながら、寝床でしんでいるな」
「ひんひん」
「だいじょぶだ、ゆうこ。これは、かのゆーめーな、たぬきねいりだ。一時てきに、仮死じょーたいになっているだけだ。そのしょーこに、おい、たかこ。桃の天然水を、ちょっと、どけてみろ」
「ほーい。たぬきさん、おごめん」
「ずりずりずり」
「おう」
「ほうら、たぬきの手は、むいしきのうちに桃の天然水をもとめ、おいすがっている。つまりこのたぬきは、まだまだ暑いのにいつものこんじょー歩きに出かけてしまい、脱水しょーじょーにおちいり、あさましい正体を晒してしまったかばうまなのだ。これが、かばうまの、あさましー正体なのだ」
「……なでなで」
「こらこら、ゆうこ。ちょっと見かわいいからとゆって、なでてはいけない。わるいびょーきが、うつるかもしんない」
「なでなでなで」
「うーむ、たかこまで、なでなでしてしまった。しかたがない。おれにも、つきあいとゆーものがある。なでなでしてやろう。なでなでなで」
「ふんふんふん」
「おう、よろこんでる、よろこんでる」
「んむ。きっと、たぬきとゆーものは、桃の天然水が好物で、なでなでが、いきるちからなのだな。これはとっても、いいことをした。おれいに、冷凍庫のカレーとごはんを、残らずチンして食ってしまおう」
「こくこく」
「……なでなで」
「ふんふんふん」


08月18日 土  人心地

 ……暑くない。いや、充分暑いのだけれど、昨日までの物凄さに比べれば、5センチのゴキブリ対2センチのゴキブリくらいの可愛らしい暑さ。嬉しくなって、久々にカレーを作ってしまった。肉が前回のような牛さんではなく鶏さんであるという懐の清涼感すら、心地よく感じられる。

 そんな気候の変化による機嫌の良さとはあくまで無関係に、久々に某投稿板の感想欄で、最高点を入れた。自分も他の方にこの前もらってすごく嬉しかったから、というわけではけしてない。魂がわなないてしまったからである。まだ連載が始まったばかりであろうが、その更新分で魂がわななき、かつそれから割り引くべき客観的欠点がなかったら、当然最高なのである。まあツッコミ所が多々あっても、魂のわななき具合によって『最高!』と断言できる作品もあるわけだが、さすがにそれはプロの作品でも珍しい。
 しかし、まだまだ穴の目立つ作品に『最高』を入れてしまうお子様たちは、なんとかならんか。なんとなれば、お子様には解らないレベルの良作が、目立たなくなってしまうからだ。
 ……うひゃあ、偉そう。でもまあ暑くないからいいか。


08月17日 金  たらありたらあり

 出かける前にすでに下着はジトジトなので着替え、帰宅してはさらに上着からジーパンから下着から毛皮からぐしょ濡れなのですべてを脱ぎ捨て風呂場で洗い――この陽気はもはや『暑い』だの『あづううい』だの『ぐぞむじあづい』だのを超越して、『凄い』まで達してしまっていると思うのだが、どうか。猛暑ではなく、凄暑。盛夏ではなく、凄夏。

 先に録画しておいた『イノセンス』を再見して、やはりそのただならぬ情動に打ち震えながら首をひねるのは、なぜこれほどの希有な官能美に溢れた映画が、ただその美しさにおいてもっと評価されないのか、また多少監督の衒学的古典引用趣味が色濃いとはいえ、どう見ても非常にシンプルでそのぶん情感に満ちたハードボイルド(あるいはフィルム・ノワール)が『難解』などと評価されてしまうのか、そこいらの疑問である。まあ『イノセンス』が『攻殻機動隊2』であることを知らない人間にまで売ろうとしてしまった制作側にも問題はあるのだろうが、少なくともあの圧倒的に美しく精神的にイッてしまうような映像、それだけでも、マニアのみならず一般観客まで浸透してもいいと思うのだが。その疑問は、何度も記してしまうけれど『なんでも鑑定団』を見ていていつも思ってしまう、「なぜ世間の皆さんは明らかに『下手くそな』掛け軸にそれらしい落款が押されているだけで何百万も払うのか」、その疑問と重なるように思う。
 まあ人の好みのみならず、価値観そのものも様々なので仕方ないのだけれど、世の中がもう少々『美しい物』で飾られていれば、そして『美しい物』の存在を経済や世評や己の状況とは無関係に評価できる価値観を、もう少々皆が養えれば、キナ臭く血生臭い世の中も、ほんのちょっとはマシになりそうな気がするのだ。衣食足りて礼節を知る、そんな言葉が幻想と化してしまったこの世の中でも、何が欠けていようと美しい物は美しい、その真実は変わらないのではないか。
「何が美しいかもまた人様々ではないか」――そんな反論は怖くない。その反論を口にする方は、たぶん『美しさ』を、『己の好悪』や『世間の評価』や『なんらかの実用度』と、勘違いしているだけなのだ。


08月16日 木  猛暑の王者

 ああ、我が故郷の数少ない『全国ナンバー1記録』のひとつである、最高気温40.8度が破られてしまった。ううむ、にっくき岐阜県多治見市と埼玉県熊谷市。まあ、故郷の記録はオゾン層のヘタレも地球温暖化もエアコン排気等の都市熱もほとんど無縁の昭和8年、あくまでフェーン現象と地形によって叩きだした底力だから、実質的にはまだまだ最強と言っていいだろう。……自慢になるのか、おい。
 どうせどこにいても暑いのだから緑のあるほうがまだまし、ということで、いつもの雑木林と緑地公園に出向く。ほんとうはいつか行ったキャンプ場のある広い雑木林に出向き、夏休みのキャンプ場などうろついてみたいが、この暑さに長距離チャリはきつすぎる。バス等の交通機関は高価すぎる。緑地公園の猫たちは、さすがにどこか涼しい場所に潜んでいるのだろう、表ではほとんど見かけなかった。しかし人間だけは、自分も含めてこの猛暑に大汗かきながら多数散歩している。虫取り網を振り回しながら駆け回ったり、フリスビーに興じている子供たちを見ていると、ああ、おじさんも昔はどんな炎天下でも元気に駆け回っていたのだなあ、と、つくづく感慨を催す。まあ今でも夜中に倉庫の中でずるずると台車押したりはしてますけどね。

 先日衝動買いしてしまった『怪奇十三夜』、当たりはずれが激しかった。中川信夫監督の『怪談累ヶ淵』はペケ、石井輝男監督の『番町皿屋敷』は佳作。もっともこれは監督の技量以上に、元ネタの条件が違いすぎる。前者は、噺家が山場だけはしょって演っても三時間はかかろうかという累ヶ淵を47分のドラマ枠に押し込んだわけで、監督の持ち味など入れる余地はなく、逆に脚本家のベテラン宮川一郎氏の職人技を評価すべきなのかもしれない。一方後者は、講釈師が30分かけただけでも間延びして感じるというシンプルな話を47分に引き延ばすわけで、石井監督らしい低予算でもケレン味たっぷりのサービスを、なんぼでも入れ込める。しかし、お菊の役だったあの頃の藤田弓子さん、ぽっちゃりして愛嬌があるのになんとも言えない翳りがあって、いいのよなあ。今はすっかりおでぶの愛嬌おばちゃんになってしまって、そこもまたかわいいのだが、当時のあの昼メロ的な翳りも、捨てがたいのよなあ。
 さて、大昔の中学時代の記憶と照らし合わせると――やはり『皿屋敷』のほうが印象に残っており、けして幽霊の顔が崩れていたりしないのにけっこう怖く、後日の悪夢にも影響したりしている。おう、なかなかやるなあ、14歳の俺。いや、今も脳味噌の成長が止まったままなだけか。


08月15日 水  猛暑の衝動

 今日明日は全休なので、まず神保町へ。ついでではなく気晴らしだけのために出るとなると、手ぶらで行っては交通費の出費だけで終わってしまうので、押し入れに残っていた『めぞん一刻』の古いポスター集と、昔『花とゆめ』の読者プレゼントでもらった『ぷりんともっぷのアドレス帳』を持って出る。いずれも自分の中では精神に一体化してしまった物件なので、もう現物を所有している意味はない。中野書店で2100円になった。
 さて、『たつ屋』で関東風の醤油の勝った牛丼でも食うか、あそこは特盛りも安いし肉の量もハンパじゃないし、などと思いつつ、古書街の特価ワゴンを巡っていると、なんとスズラン通り店は撤退してしまっている。また駿河台時代の懐旧スポットがひとつ消えた。その代わりグランデの前のワゴンでワンコインDVDの『怪奇十三夜』TVシリーズなど目に止まってしまい、思わず中川監督の『累ヶ淵』と石井監督の『皿屋敷』を、衝動買いしてしまう。ネットレンタルもあるのだろうが、地元のレンタル屋では置いていないし、この炎天下にいかにも「懐かしの納涼お化け大会」ふうのワゴンを見せられてしまうと、これはもう熱帯夜の肴にするしかないだろう、そんな衝動を優先せざるをえない。中学時代の夏にドキドキしながら観た『怪奇十三夜』へのノスタルジーもある。当時は、テレビでホラーや怪談系の作品が楽しめるのは、夏場限定であった。その懐旧と季節感と作品内容再確認のために1000円使ってしまったので、あとはワゴン巡りのみで引きあげる。

 さて、怪談タイムの前に、昨夜録画した『あゝひめゆりの塔』――舛田利雄監督という方は、その後の『二百三高地』といった戦争大作にしてもそうだが、やはり人間の『情』に、甘えすぎなのではないか。それは、まったくタイプ違いの監督である今井正氏の『ひめゆりの塔』にも言えるのだけれど。ほとんど『情動』オンリーの自分が言うのもなんだが、やはり戦争を描く作品では、たとえそれが極めてパーソナルな限定状況の話であるにしろ、悲劇にしろアクションにしろ、監督の視線自体は、例えて言えば難病の患者やその身内や町の開業医の視線ではなく、あくまで最終的に投薬治療したり手術の執刀をしたりする、総合的かつ微視的というか、深い視線でないと心を打たないような気がするのだ。この前のイーストウッド監督の硫黄島二部作などは、そのあたりの視線もきっちりしていた。


08月13日 月  猛暑の効用

 あらためて、まとめてみる。

(1)ガス代が節約できる
以前にも述べたように、蛇口からお湯が出るので。特にこの激古マンションの内部配管が老朽化して、すべてを外壁に張り巡らせた新しい水道管に切り替えてからは、マジで「ぬるい水」ではなく「ぬるめのお湯」になった。

(2)ゴキブリが育つ
今夏のゴキは、実に黒々丸々と太り、おまけに全力で飛んでくる奴が多い。元気が余っているのだろう。一見効用ではなく嫌悪の元だが、そのうちゴキさえも油炒めにして食うような状況になったら、そのほうが動物性蛋白は豊富に違いない。

(3)狸の毛皮が乾燥しすぎない
いつでもしっとり濡れている。たしかに当人(当狸?)としては不快だが、ブラッシング時のまとまりはいい。

(4)怖い物がなくなる
常に「いっぞもうごろじでぐれい」といった心境なので、いつ息絶えても怖くない(独居ゆえ、一週間後の発見者やお巡りさんには気の毒だが)。それに夜間でも「ああもう暗いんだがらぢっどば涼じぐならんがごのやろう」といった心境なので、貞子や加椰子が徒党を組んで蒲団に這いこんできても、「ええごのだだでざえぐぞむじむじ状態なのにうっどーじーごのごのごの」とか言いながら、一匹残らずスマキにして江戸川に流してやれる気がする。

(5)発泡酒がむやみに旨い
まあこれは一年中かも知れない。


08月11日 土  干し狸は天使のたまごの夢を見るか

 どにがぐみなざんまいにぢまいにぢあづずぎるどおぼいばぜんが。
 蛇口からなんぼでもお湯が出続けるのは、ガス代の節約になるのでまあいいのだが、扇風機にあたっていても常時毛皮が湿っているのは、狸としては最悪の気候である。狸穴ではパソ部屋兼寝室の6畳にセコい窓用エアコンがあるきりで、台所や卓袱台部屋は常時蒸し風呂状態だ。風通しも良くない。
 深夜の倉庫内に至っては、ご想像のとおり。明け方には汗も出つくして、しかし乾ききるには湿気が多すぎ、べとべと状態で大量の水分を補給してぬとぬとと狸穴に這い戻りじとじとと風呂を沸かし――まあ、その後は発泡酒や冷や奴やサイコロステーキ(処分特価150円!)と共に、束の間の天国が待ってるんですけどね。
 今週はNHKのBSで、毎晩押井守監督特集をやっている。最初期の低容量HDDレコーダーで録画するので、すぐに満杯になってしまう。作品自体はすでに幾度も観たものばかりなので、押井監督自身のコメント部分や制作秘話などのみせっせと切り出しながら、昔から『自転車に乗る理屈』(ちなみに宮崎駿監督は『歩く石頭』だそうだ)と異名をとる、あの木訥のようでめいっぱい饒舌なコメントを楽しむ。
 『天使のたまご』はソフトを所有したことがなく、昔、五十嵐氏宅で一度レーザーを見せてもらい、それからレンタルビデオで2〜3度再見しただけだから、消さずに残しておいた。この作品と『ケルベロス』を、全編きちんと観通して途中で寝てしまわないかどうか、それが真の押井ファンであるかどうかの分かれ目である。今回も眠らなかったので、まだ大丈夫。まあその後でぐっすり眠りましたけどね。
 しかし来年公開されるという監督作『スカイ・クロラ』、なにか従来の押井節を大胆に変えて若者向けのメッセージとする、そんな噂だったので少々心配していたのだが、コメントを聞く限り、原作素材自体が充分押井節に向いた趣向のようなので、ひと安心。


08月09日 木  日々

 午前11時2分には、まだ寝ていたので黙祷できず。すみません。おまけに午後に起き出す直前、原田知世ちゃん(推定二十代前半頃の)と寝床で接吻する夢を見てしまいました。とてもいい関係の夫婦のようでした。すみません非国民ですみません。

 駅に行く途中の煙草屋の前に、今どき貴重な喫煙スペースがある。四つ角に位置しており、神保町の三省堂裏のケム場の半分ほどの広さで、路上喫煙禁止区域のまっただ中では、今どき貴重な喫煙者のオアシスになっている。ところがですねえ。最近、時々子供を連れた母親の群れが、そこで井戸端会議をやってるんですよ。幼稚園帰りか何からしく、煙草は吸っていない。ただ手頃なスペースだからそこにわだかまっている、そんな感じで。これはとても困るのです。狸ら喫煙者は、けして子供たちを副流煙に晒したいわけではないし、将来煙草に興味を持ってほしいわけでもない。だから、その時間帯には、貴重な喫煙スペースが利用できなくなってしまうのです。
 喫煙者をえんがちょするのはもはや世界的流行なので仕方ないとして、残されたわずかなオアシスまで、無神経に邪魔しに来るのはやめてほしいものである。

 夕方、いつもの緑地公園に途中下車すると、野良猫に餌をあげている奥さん方に出会った。定期的な餌付けらしく、十匹以上の野良猫たちが集まり、無警戒で勝手気ままに食事をしている。なるほど、これのおかげでこの公園の猫たちはみんな元気そうなのだなあ、と感心しながらベンチで見ていると、猫たちの中に、なんじゃやらずいぶんちっこい子猫が混じっていた。明らかに最近捨てられた孤児らしい。なんとなれば母親らしい庇護猫の姿がないし、散歩者が連れている犬になんの警戒心もなくとことこと近寄り、ばう、とやられても、びっくりするだけで逃げもしない。母猫から初等教育を授かる前に、捨てられてしまったのだろう。
 正直、捨てた人間に殺意を覚える。ある程度世知に長けた成猫ならまだしも(いや、ほんとはどんな猫だって、一旦飼ったら最後まで責任をとるべきなのだが)、こんな保育園児程度の猫を捨てるとは、どんな了見か。野垂れ死にするのだぞ。ほぼ確実に、苦しい思いか痛い思いをしながら、子猫のまんまで烏のエサになってしまうのだぞ。崖から放り投げられて一瞬に逝くか、保健所で安楽死したほうが、まだましだ。
 幸いその子猫は、餌付けの奥さん方も当然見捨てて置けず、結局ひとりの奥さんのバスケットに収まって、無事に保護されて行った。捨てた人間には、なるべく早めに千の風になってほしいものである。


08月08日 水  嬉しいような怖いような

「じゃ、私も読んでみよう。上手いけど、何か強いものがほしいという結論ね」――雑誌『メフィスト』夏の号、メフィスト賞選考座談会でなんとか採り上げられた、拙作に関する座談部分の、編集長さんによる締め括り。……おう、さすがに他の編集の方による欠点の指摘も多くて本にしてもらえる可能性は消えたようだが、一部の編集の方にはかなり楽しんでいただけたからこそ座談のネタにしてもらえたわけだし、編集長さんにまで楽しんでいただければ文句はありません。前回が末尾の一言コメントで終わったのに比べれば、上出来だろう(でもホントは前回送ったほうが、心身共に入魂だったりするのだが)。
 指摘された欠点部分は、もう自分の能力では直しようのない部分であり、元来SFのハード的な部分をどうこうするだけの素養がない。しかし、それらの欠点を愛と夢で吹っ切って、「良かったです!!」と言ってくれた編集者さんもいる。一方、狸が丹誠こめて書き込んだはずのキャラたちや世界観の部分に、まったく同調して下さらなかった編集さんもおり、その方の自己紹介に「女性漫画畑ひとすじウン10年」とあったのには、少々複雑な心境。まあ確かに、レディース的な生活観はちょっと苦手なもんで……。
 それから、引用された梗概の一部に『愛憎核融合ユニット』などというすばらしい単語があり、「げ、俺、送付原稿の梗概でそんなタッチミス残してた!?」と赤面したのだが、パソ内のデータは、きちんと『内蔵核融合ユニット』になっていた。座談会の録音から原稿起こした方が、聞き間違ったのだろうなあ。いや、『愛憎核融合ユニット』なるものを想像すると、なんか、たかちゃんシリーズのSF編にでも、おもいっきし使えそうな気がする。
 そして、「そこそこ力があって書ける人」のようだが「突き抜けてる感じはな」く「何か強いものがほしい」、そんないかにも色物メフィスト(褒めてます)らしい総評となると――マジにたかちゃんたちを送り込んでみようか、そんな気になっている自分がちょっと怖い。


08月06日 月  平和

 午前8時16分、1分間の黙祷ののち――すみません、寝ました。
 午後1時には起きて、かろうじてまだちょっとなんかいろいろのある上野へ。それから久しぶりに秋葉原へ。処分特価エロゲに関しては、やはりもう異色の掘り出し物などは払底してしまったようだ。どうせ売れないですぐ解散するくらいなら、どこかで見たような売れ線の劣化コピーばかり作らないで、思いっきし濃いい根性のをお願いしたいものである。
 炎天下でまたバテかけたので、帰途は雑木林の最寄り駅に途中下車。そこからまた炎天下をしばらく歩くわけで逆効果のような気もするが、やはり狸はフィトンチッドが恋しい。緑地内のしっとりとした窪地に半ば廃屋のような平屋が建っていたりすると、そのまま縁の下に潜り込んで、穴を掘りたくなる。
 夜は体力回復のためステーキを食う。ビンボのくせに何を贅沢な、と言うなかれ。驚くべき事に、オーストラリアの牛さんだと、消費期限ギリギリなら250円でサーロインが買えてしまうのだ。まあ新しいのに比べ多少茶色に変色していたりするのだが、牛さんというやつは、腐る直前を良く焼いて食うのがいちばん旨いと思うのだが、どうか。塩胡椒振ってバターで焼いて醤油をかけるだけで、実に深い味だ。当然箸で切れもしなければ口中でトロけもしないが、根性でがしがしと咀嚼するくらいのほうが、顎にも脳にも消化にもいいのである。冷や奴も発泡酒も旨い。
 ――俺はこんなに平和でいいのだろうか。
 すみませんすみません、と、思わずまた30秒ほど黙祷する。


08月05日 日  ややムカ

 どでも゛む゛あ゛い゛
 昨日の鰻と浴衣姿のたかちゃんたちと壮麗な花火で精神的疲労感は好転したが、根本的に気候は変わっていないので、ちょっとしたことで腹が立つ。
 雀の涙のような預金から蚤の涙のような生活費をおろそうとすると作業用の小銭入れしか持っておらずキャッシュカードの入った正式財布(?)は狸穴に忘れて来ているとか、行ったり来たりして買い物や用事を終え狸穴にたどり着いて半裸になった後で煙草を買うのを忘れていたのに気づきまたそれなりに着込んで炎天下をちょっと歩くとか、汗だくでトイレの戸を開け放したまま扇風機で風を送りながらリキんでいると新聞の集金が来るとか、リキみ終わって紙を引っぱったとたん金属製トイレットペーパーホルダー(推定30年選手の骨董品)が腐食半壊するとか、まあ主に自分のボケに対する怒り、および誰を呪ってもせんない偶然に対する小腹立ちがほとんどなのであり、やはりこれはみーんな気候が悪いのである。

 買い物の途中で電車の車内吊りをながめていたら、某週刊誌で例の光市母子殺人の加害者に関する精神鑑定士のなんたらかんたらというスクープとやらの、扇情的な見出しが目に付いた。父親による虐待やら当人の意思ではない母子相姦やら。四分六で事実より煽りの多い娯楽週刊誌だから買って読む気もないが、父親になんぼ虐待されて育っても母親と何があっても、そしてそれらの結果あるいは先天的な要因で当人に発達障害が見られたとしても、それは確かに見ず知らずの若妻を殺害陵辱し乳児を惨殺『してしまった原因の一部』ではあるかもしれないが、見ず知らずの若妻を殺害陵辱し乳児を惨殺『しても許される理由』には絶対にならない。当の父親を金属バットで殴り殺したり、母親と無理心中『しても許される理由』にはなるかもしれないが。最高裁で差し戻されてまさかと思った死刑の可能性が出たとたん精神鑑定士に切々と何を訴え始めても、それ以前死刑の可能性がない段階であれだけ堂々と「どうせしばらく辛抱すりゃ出てこれるし、刑務所見学も悪くないっしょ」的な本音を漏らし、一度として遺族に頭を下げなかった段階で、なんぼ事件当時未成年でも、やはり吊さねばならないのである。じゃあお前が直接吊せよと言われれば、はい、法的に許されるなら狸が吊しましょう。それは母子や元少年に対する感情以上に、これから殺されるかもしれない無辜の人間のためであり、あるいはこれから殺すかもしれないすべての人間に対する『箍』のためだ。


08月04日 土  ややバテ

 本日未明、東京ディズニーランド近辺の路上を、『愛の賛歌』をぶつぶつと口ずさみながら、重い脚を引きずるように舞浜駅に向かって歩いていたウロンな狸は私です。しかし2日夜勤を続けたくらいでバテてどうする、俺。
 まあ、歳や体調以前に、とにかく倉庫という奴は暑すぎるのである。流通コストを考えれば理の当然だが、休憩室以外にエアコンのある倉庫はない。といって冷蔵倉庫や冷凍倉庫も、この陽気では温度差に負けてなおバテそうな気がする。
 しかし今からバテていては餓死してしまうので、土用丑の日にも食わなかった鰻を買った。無論中国産の安い奴である。以前にも記したと思うが、ほんの少し味噌を入れた料理酒を温め、飴のようにクドいタレをそれで洗ってから直火であぶる。これだけでそこいらの専門店の鰻に負けない風味になる。もっともその調理過程でまた大汗をかいてしまうわけだが、深夜の倉庫で他人の使う高機能エアコンや大型液晶テレビを引っぱってかく汗とは、まったく違う感覚の汗だ。
 もう昼だが、これから風呂に入って寝る。夜には江戸川で花火が上がるはずだ。浴衣姿のたかちゃんたちを探しに行こう。


08月01日 水  ♪蛍の宿は♪

 ♪川端柳♪――愛唱歌でもそう歌われているが、狸が蛍と親しんだのは、主に幼時、母方の田舎を訪ねた時くらいで、場所は川にあらず、最上川に合流する直前の須川の蛇行から取り残されたいわゆる三日月湖――『湖』と言うにはあまりに小さいから、三日月沼とでも呼ぼうか。つまり、流れではない。柳も生えておらず、周囲は水田地帯である。
 先日録画したNHK−hiで、動物写真家さんが蛍前線を追って南から北へ撮影旅行するドキュメントを観ていたら、どうも関西以西の蛍の元気で気前の良い光りっぷりに違和感を覚え、やがて我が故郷に近い高畠町まで北上したとき、ようやく違和感の理由が判った。つまり西南の方は源氏蛍が主で、東北などは平家蛍が多いらしい。で、源氏蛍はかなりでかくて主に中流域を好み、平家蛍は細流や水田などの止水域に住むのだそうだ。サイズも小さく、幻想的と言うにはあまりに心細くて、むしろ「ああ、守ってあげたい」、そんな儚さが先に立つ。源氏蛍がたかちゃん的だとしたら、平家蛍はゆうこちゃん風なのである。
 さて、そうなると、

   ――物思へば 沢の蛍もわが身より あくがれいづる魂かとぞ見る――  和泉式部

 そんな短歌も、高校時代の狸が想像していたものとはかなり異なった情景だったようにも思え、和泉式部さんの魂はやっぱり狸好みの楚々として儚い風情ではなく、彼女の人生同様「ねえねえねえ、デートしよ、遊ぼ遊ぼ」などと、結構行動的なアレだったのだろうなあ。