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12月31日 月  おそばつるつる

 昨夜、鳥肉ダシの汁を鍋いっぱい作ったので、2日続けて晩餐は蕎麦である。とてもおいしい。で、明日は同じ汁で雑煮。完璧な年末年始の食生活。
 オリコンの調査によると、今でもほぼ8割の日本人が大晦日には年越し蕎麦を食べるそうだ。伝統なんですねえ。まあ極限まで『祭』としての志を失ってしまった紅白歌合戦(ちょっと残業して8時頃帰宅し蕎麦を食いながら観ていたが、あまりの辛気くささに視聴断念。大御所連中のマンネリはやむを得ないとして、若い衆がどうにもハジけない。優しさも癒しあうのもけなげに励ましあうのも結構なのだけれど、ちっとは無茶にカブいておくれよ若いんだからさあ)などとは違い、蕎麦はきちんと、いつの世もうまいのである。
 しかし、帰りのスーパーの天麩羅が、どこもかしこも普段よりエラく高価なのには消沈する。土用の鰻もそうですね。ほっといても間違いなく売れる日にわざわざ安売りする馬鹿はいない、と商売人は当然考えるのだろうが、ほっといても大量に売れる日だからこそあえて薄利多売で大放出、そんな奇特なスーパーはないのだろうか。流通業界の破壊神とも言うべき中内時代のダイエーさえ、大晦日の海老天は高価であった。まあその程度の根性だからこそ、結句、破壊しかできずにジリ貧になったのだろうけれど。ちなみにショップQQでは果敢に99円海老天を扱っていたが、これがまた見事なミニチュアサイズ。まるで携帯ストラップのミニ食品なのであった。
 おう、今年は最後の最後までビンボ愚痴かよ、と頭を掻きつつ、多大な友情や親愛の助力で今年もなんとか心身ともに生き延びた狸一匹、謹んで除夜の腹鼓を108回、夜っぴて打たせていただきます。

 ぽ〜〜ん……ぽ〜〜ん……ぽ〜〜ん……ぽ〜〜ん………………それでは、よいお年を。


12月30日 日  歳末のおばちゃま

「ハ〜イ! モニター前の良い子の皆さん、お元気にしておりましたか〜? ひさかたぶりの、コモリのおばちゃまですよ〜! フリフリ〜!」
「む、でたなようかい、しろぬりばばあ! おうし、ことしの、しょうぶおさめだ! きなさい!」
「これこれくにこちゃん、か弱いお年寄りの乙女に、いきなしブレーンバスターをキメようとしてはいけません。いけません。そもそも乙女人生一世紀になんなんとするこの臈長けたおばちゃまに、その程度の技が通用するとお思いですか? ――ひねりっ! ――はい、これこのように空中で体を捻ってたやすく脱出したのち、ジャーマン・スプレックスによる反撃に持ちこんで――ずん!!」
「ぐええええ! ……ぎぶ、ぎぶ」
「はいはい、勝負あったようですね。――まあ、皆さんお忘れになるのも無理はありません。もう半年以上、ご無沙汰しておりましたものねえ。はいはい、ゆうこちゃん、お部屋の隅まで後ずさり、ぷるぷると怯えていらっしゃらなくとも大丈夫ですよ。――あ、これこれ、たかちゃん。おばちゃまの顔面に爪を立て、さりげない薄化粧を壁土のようにぼろぼろと引きはがしてはいけません、いけません!」
「きゃはははは! ぼろぼろ、ぼろぼろ」
「やめろっつーとろーがこんがきゃー!」

 …………ふ。
 三者三様になんかいろいろの反応を示されていたちみっこたちも、一日早い年越し蕎麦をおなかいっぱい食べさせてあげますと、今はこれこのように、炬燵でまあるくなって眠ってしまいました。たわいないものですねえ、つんつん、と。

 さて、激動の本年もシメが近づき、おじちゃまのビンボやつれも極限に達してしまったようですので、久方ぶりにおばちゃまが出現し、歳末の三日間は替わりにバイトに出てあげたりしているわけですが――かよわい乙女の細腕ではもちろん倉庫作業などできませんし、物流倉庫のほうでもメーカーのお休みに合わせてヒマしてるらしく、日雇いの口がかかりません。
 んでもって、年中無休のDVDネットレンタルの拠点にお邪魔して、セコセコと棚戻しやピッキングにいそしんでいるわけですが――おばちゃま、セコセコ働きながら、ついついはらはらと落涙してしまいました。
 人並みにお正月の休みを過ごされる、恵まれた方々が、どんな名画や娯楽大作や文化的作品で心を癒されるのか――。
 もちろんハリポタやパイレーツ関係も、大人気です。でもしかし、実は、ピッキングするDVDの7割方がアダルト物件なのですねえ。『実録! 中出しSEX 若い奥さんにドクドク』といったごく健全なタイトルから、『先生、ウチの子が巨根なんです』『ボクはママしか愛せない』などの退嬰的タイトル、あるいは『ランドセル愛好家 あいり』などという真性ろりのおじちゃまたちが見たら思わずゲロつきそうな末期的毛むくじゃら物件まで、それはもういつの世も、なんといじらしい無数のチョンガーさんたちが、おめでたいはずの年末年始にひたすら湿っぽいくっせー密室で我と我が身を孤独に慰めるだけで虚しく過ごしていらっしゃることか――。
 もしおばちゃまにご一報くだされば、それはもー一世紀近くに渡って仕込み続けた体技と心技の数々を惜しげもなく駆使して、あなたがたの暗い心の底にわだかまるなんじゃやらドロドロと濃縮されたサミしさの粘液を、一滴も余さず絞り取ってさしあげますのに……うるうるうる。
 とゆーわけで、ここをご覧になっていらっしゃるお若い殿方の中に、この若い躰に燃えたぎる孤独な欲望の前ではもはや個人情報などどーなってもいーからこの命尽きるまで弄んでください女王様、そんな追いつめられた方がいらっしゃいましたら、どうかぜひ、おじちゃま経由でご一報くださいね。おばちゃま、もー溢れんばかりの矜持をもって、充実した愛とシブキのお正月三が日をお約束いたします。
 なお、その際は、ある種のゴム製品などはすでに残念ながら心配ご無用ですが、お雑煮やお節料理、あるいはお年玉といった正しいお正月物件だけは、しこたま山のようにご準備くださいね。……じゅるり。


12月27日 木  狸の肖像

 荷運びで汗ばんだ体が、あっという間に底冷えのする冬の倉庫。しかし休憩室から見晴るかす東京湾と太陽は、ドンヨリと霞みながらも、けして陰鬱ではない。そんな茫洋とした気分で帰宅し、なんじゃやら心地よい疲労感と孤独感をうつむきかげんに弄んでいると、お嬢さんお二方より、同じバトンが届いているのに気づく。ああ、こんな老狸でも、まだまだ生きるアレはあるのだなあ、などと大げさに自分を鼓舞しながら、【自分バトン】というのを受け取る。

身長は? 
人間変身時172センチ。狸時、約40センチ。
 
髪型は?
変身時、白髪交じりの地味なおっさん頭。狸時、全身茶系の毛むくじゃら。ただし、尻尾はシマシマ。
 
好きな髪型は?
白髪三千丈になりたい。
 
目について語って?
変身時も狸時も、不規則な生活をしているので充血しているときが多い。しかし、濁ってはいない――と思う。たぶん。

顔についてどう思う?
ないと困るので、なくさないようにしている。
 
誰に似ている?
父親。
 
一日で一番好きな時間は?
風呂に沈んでフヤけているとき。
 
自分はどんな風に見えてると思う?
自覚なき敗残者。
 
送り主は好き?
はい。お二人とも、タイプ違いの我が子のようにかわいいです。嫁はいませんが。
 
送り主の第一印象は?
ゅぇ様……常時一所懸命。
水芭蕉猫様……いいあんばいの電波で、肩凝りがほぐれそう。

送り主との出会いは?
某小説投稿掲示板。

送り主の事 どう思う?
ゅぇ様……どこに嫁に出しても、恥ずかしくない娘なのではないかと。
水芭蕉猫様……嫁に出す先は、多少選ぶ必要があるのではないかと(ご、ごめん。でも電波が受信できる嫁ぎ先のほうが……)。 
 
送り主を動物に例えたら?
タイプ違いの猫たち。
 
恋はしてますか?
……ふっ(遠い目をして薄笑い)。
 
その人は どんな人?
……そう、あれは狸がまだ若いウツボカズラだった頃、ろりっぽい、でも自ポ法には触れない成虫の花虻ちゃんをウツボの中に誘いこみ――以下略。

バトン返し有り。このバトンを受け取るレンジャー
昔ウツボカズラだった狸の方すべて。


12月25日 火  メリー・クリスマス

 本日はキリスト様のお誕生日、などというのはまったくの後付け設定であり、太古からの冬至や正月のお祝い事に被せて、ローマ法王が勝手に決めただけである、なんてことは周知の事実なので、仏教徒の狸もすなおに、しかしほそぼそとお祝いしたりする。118円のワインっぽい発泡酒も飲んだし、閉店が迫って半額になったタイ産の鳥モモ焼き146円も食った。飯のおかずはショップQQのシメサバとサンマの塩焼きの豪華二本立て――完璧でしょう。あ、ケーキ類は食っておりませんが、二日間ケーキの甘い香りの充満する工場に通ったので、未だに洋菓子酔いといった気分だからOK。工場作業や倉庫作業に励んだおかげで今月の家賃はクリアできたし、ネットカフェ難民にも橋の下の住人にもならず、なんとか年を越せそうだ。正月明けには、母親の顔も故郷の雪も、見られるうちに見ておかないとなあ。

 創作のほうは、日に5行10行だけだったりするものの、中断だけはしていない。狸がポックリ逝かない限り、我が心の娘たちは生きている。狸が腐敗しても娘たちだけは生き続けられるように、いっそ著作権完全フリー宣言とともにあらゆる投稿板に放流してはどうか――それもアリかもしれませんね。


12月24日 月  クリスマスざんまい

 一昨日と昨日は、せっせとクリスマスケーキを作った。いや、社員さんが「あらよ」と渡してくれる土台(?)に、あらかじめスライスされたイチゴを敷き詰め、型を被せてクリームを盛る工程だけなのだけれど。
 本日は一日、子供たちにおもちゃを届けるお手伝いをした。いや、玩具の配送拠点で仕分け作業をしただけなのだけれど。
 以上、クリスマスネタを狙ったのでも偶然でもなく、この時期、それらの工場や倉庫は土日祝日昼夜を問わず、猫の手でも狸の手でも借りたい状況なわけである。今日がもうイブだから、後者の倉庫の狂騒は、お年玉需要にも備えているのだろうが。
 近頃食品がらみの良くないニュースが続いているので、洋菓子工場ではさぞや管理に気合いが入っているだろうと思っていたら、実はクリームの中からずるずるとビニールの切れ端が出てきたりして「ありゃりゃ」だったのだが、黴菌やウィルスとは無関係だろうし、まあ当然塗る前に取り除いたので、良い子が窒息死する心配もないだろう。皆さん安心してお召し上がり下さい――って、まさか消費者の方々は、生まれて初めてケーキの製造工程に参加した狸が必死こいてロクロ(?)を回しながらクリームぺたぺたやっていようとは、想像もしないだろうなあ。いいんですかね。でも誠意だけはこめたはずなので、そこんとこ、よろしく。名前もバニラ関係だし。
 しかし玩具の仕分けをしながら、あらためて疑問に思ったことがある。近頃の玩具は、あまりにリアルでスタイリッシュな完成品ばかり多く、子供がそれをいじくる際の苦労や想像力が、要らなすぎるのではないか。雄狸としては、女の子向けの玩具に関しては今昔を語る資格がないのだけれど、男の子向けの物件だと、昔のプラモのように必死こいて組み立てて塗装しないと形にならないとか、昔のソフビ怪獣のようにかなりいい加減にデフォルメされているとか、そうした不確定要素がもっとあってこその『玩具』という気がするのだが。
 まあその代わり、成人後に必死こいてフィギュアの改造に耽っている野郎が多いから、人生上のバランスは取れているのかも――って、取れてないか。大体、三十過ぎてラムちゃんのお尻をパテで好みの形に修正していた狸が、何を言ってもアレだわなあ。すなおにあてがいぶちのリアルを楽しんでいる子供のほうが、すなおに育つのかもしれないし。
 女の子向けの玩具では、近頃新作アニメをほとんど観ない狸ゆえ、いつの間にかプリキュアが5人に増殖しているのにも驚いたが、なんじゃやら超巨大なお目々をきんきらきんに光らせた、その名も『きらりんレボリューション』ですか、あれにはビビった。昔の少女漫画どころではない。あの目はマジに怖い。顔のハバの3分の2を眼球が占めている。ちょっと見、眼球だけで全顔幅をカバーしているような強烈さである。もうちょっと目に栄養が行くと、片目だけで顔面をカバーし、つまり少女版鬼太郎の親父になりそうで、なんか、夢に出そう。

 ところで、局部の傷は無事にふさがりました。


12月21日 金  懐かしい場所

 今週は派遣先の都合で毎朝5時半に起きている。失われた正業がメインの頃なら、むしろ寝に就く時間だ。その代わり夕方は6時台に帰って来れるので、なるべく早く寝ようとは思うのだけれど、やはり習慣と精神と体内時計が、それを許してくれない。眠りに落ちるのは午前1時頃で、なぜか午前4時頃、決まって一度目が覚める。目が覚めると言うより、夢から覚めてちょっとウツロな気分になる。無性に懐かしい場所から、現世に戻って来てしまうからだ。
 その場所は、かつて住んだことのある仙台の萩が丘であったり、杉並の西荻窪近辺であったり、すでに失われた故郷の街並みであったりする――と、夢見ている間や夢から覚めた瞬間は信じているのだが、改めて反芻すると、実はそれらに良く似た仮想の場所と言うか、大昔に何度か夢に見た、つまり昔の夢の中でも特に心地よかった場所を、また懐かしく彷徨っていたのだと気づく。夢の中で夢の中に還っているのである。なんじゃやらとても末期的症状なのではないかと首を傾げつつ、それでも毎日、そんな夢の夢を楽しみに就寝する。目覚めた後の空虚さも、単なる夢よりむしろ茫洋としており、諦念の末のユーモアさえ感じてしまう。

 そんな睡眠不足の日が続いたためか、おとついアホをやってしまった。仕事自体は単純作業なのでなんら落ち度なくこなせるのだが、休憩時間にウスラボケーっとトイレに入り、陰茎の先端をチャックに挟んでしまったのである。僅かだが、出血してしまった。風呂に入ると、これがエラくしみる。「あだだだだだだ」とか、毎回涙ぐんでしまう。なにしろ人体の中で最も皮膚の薄い敏感な部分に、切り傷および擦過傷を負ってしまったわけですからね。バンドエイドを貼るにもあまりに適さない部位なので、オロナインをしょっちゅう塗り直し、ガーゼを巻くのがとても面倒くさい。幸い近頃一日二十四時間勃起に縁がないので、治りかけた傷がまた開いてしまう心配はない。……って、喜んでいいのか、それは。


12月18日 火  妄動

 ありゃ、怨恨ではなく無理心中(?)だったのか。「おれは大きなことができる。人間は死ぬっちゃけん」「まじめに働いても大した人生じゃなか」――自分の人生と他人の人生の区別がつかない人間に、どっちみち大した人生など送れんだろう。大きかったのは『おれ』ではなく、単なる銃の威力だし。そもそも馬鹿に飛び道具を持たせてはいけないのである。亡くなったふたりの冥福と、ろりたちの心身の傷が浅からんことを祈るとともに、馬鹿の過酷で永い地獄修行を祈る。

 宇宙崩壊の目処がたったところで、ようやくクーニやタカたちも具体的に動き出しそうだ。話の流れは当初から狸の頭にあるにしろ、キャラが自発的に動いてくれない限り、流れそのものが形骸にしかならない。しかし今の生活の中であのキャラたちにつきあい続けていると、思わずつぶやいてしまう。「俺は大きな事ができる。まあいいかげんに生きてるだけかもしれんが、大した人生かどうかは、俺が死ぬとき自分で決める」。

 などと言いつつ、昨夜突然脳内に、たかちゃんのひいお婆ちゃんが出現し、たかちゃんとの純文学的交流を望んでいる。
 こんな感じである。

 門伝房枝が数十年ぶりに降り立った東京駅は、果て知れぬ、幾重にも折り重なる迷路に変貌していた。
 まるで幼い頃、浅草寺の境内に小屋掛けされていた『八幡の藪知らず』のようだ、と、房枝は思った。
 それはお化け抜きのお化け屋敷とでも言おうか、薄暗い筵《むしろ》小屋の中を笹藪や板塀で仕切っただけのちっぽけな迷路に過ぎなかったのだが、幼い房枝にとっては外観の小ささを知っていればこそまるで魔法のような無限の闇と思えたし、房枝の手を引いてくれた年輩の女中も、単なる闇への恐怖だけでなく、明らかに何か超自然に対するような畏れの声をときおり漏らしていた。
 しかるに、いや、だからこそ、どんなに果てしない迷路に思えても、この駅にもまた筵《むしろ》小屋同様に限りがあるはずである。今朝がた発った田舎の無人駅、あるいは県庁所在地の新幹線乗り継ぎ駅と同じ国鉄、いや、JR東日本の駅なのだから。
 出発前に駅前から電話した時、孫の誠三郎は、確かにこう言っていた。
「東京駅の、中央線のホームから、必ず『青梅行き』という電車に乗ってください。ちょっと遠いですが、直行の終点ですから間違いはありません。青梅駅からまた電話して下されば、すぐに女房が迎えに行きますから」
 これまでただ一度顔を合わせただけの母方の祖母から、寝耳に水の訪問予告を受けて、誠三郎の声はかなり狼狽していた。しかしそのただ一度のときに、確か毎日その電車で通勤していると聞いた記憶もあるから、路線や駅名に間違いはないはずだった。自分の記憶力は、まだまだ子や孫に劣らない。戦前に生んだ長男や長女次女より、むしろしっかりしているくらいだ。
 房枝はしばらく張りついていた駅通路の冷たい壁を離れ、見えない埃の充満する冬着の雑踏に、再び勇をふるって歩み出した。
 人混み自体は平気である。田舎でも正月の神社などは、都市部からの初詣客で参道が人の河になる。しかし今、東北新幹線の改札を出てから迷いこんだ『八幡の藪知らず』には、どちらを向いても目標となる鳥居や社殿がない。いや、天井のあちこちに案内板らしい表示は下がっているのだが、それに従ったつもりでも、どうしたことか一向に、その中央線に続くホームが現れないのである。
「もし、旦那さん」
 房枝はやや屈辱を感じながら、身なりの良さげな、比較的鷹揚に歩いている初老の紳士に声をかけた。ものを訊くなら、やはり実直な勤め人がいい。目につく若い連中は、田舎とは違い何やら頭が南洋の鳥のように彩色されており、いずれ若気の至りであろうからさほど気後れはないにしろ、いささか気味が悪くて会話する気になれない。
「青梅という駅に行く電車は、どちらから出ておりますでしょう」
 訛りは隠せたはずだった。尋常小学校の二年までは、東京の日本橋に生まれ育った、れっきとした都会っ子だったのだ。父親の実家の都合で嫌々ながら一家ごと東北の旧都に移り、そのうちなりゆきでとんでもない山間の旧家に嫁いでしまったとしても、常に『東京生まれ』としてのプライドは捨てずに生きてきた房枝である。
「青梅――ああ、奥多摩のほうの。青梅線ですね」
「はい、さようでございます。でも知人に聞いた話では、東京駅から中央線に乗るようにと」
「そうですね。確かまっすぐ行ける電車があるはずです。えーと――ご案内しましょう。よろしかったらお荷物も、どうぞ、お持ちしましょう」
 紳士の慇懃かつ懇切な反応に、房枝は自信を取り戻した。
 渋いなりに上物の和服を着こなした自分は、東京の茶道師範くらいには見えただろうか――。
 その紳士が実は奥羽の出身であり、痩せた老婆の訛りだらけの標準語に、雪深い分校の女教師を懐かしく思い出していたことなど、無論、房枝は知る由もない。
 お目当てのホームに向かうエスカレーターは、迷路の奥のさらに引っこんだ部分に隠れていた。こんなところにまだ続きがあったのかと感心し、しげしげとあたりを見回しそうになる。しかし、そんな田舎者みたような様を晒すわけにはいかない。房枝は毅然として背筋を伸ばし、紳士に続いてエスカレーターを昇った。

 ……どーすんだ、これ。リアルタイプたかちゃん(小学二年生)も、すでに脳内に待機してるぞ。


12月15日 土  寝不足狸時評

 ゴキブリは大嫌いだ。しかし、火を通せば立派に食用になることは確かである。たかが子供の冗談で大騒ぎしてんじゃねえよ、いい大人たちが。大体、狸はウン年前に茨城に住んでいたとき、某●急の某●イ●ゼ●アで、小型ゴキ入りのピラフを半分食ったことがある。いや、さすがにゴキは口中に入れていないので、ゴキといっしょに炒められたピラフを、と言うべきか。テナント仲間の店だったので、こっそりとっかえてもらった。また幼少時の給食には、田んぼや畑の近所ゆえ、時々蠅や芋虫が入っていた。みつけたときはもちろん食わなかったが、気づかずに食ってしまった虫も多いはずだ。教師も半分笑いながら対処していた。火さえ通っていれば、なんのことはない動物性蛋白である。

 アメリカばりの長崎乱射事件は、どうやら怨恨によるものだったようだ。しかし、なぜ無関係のおねいさんや女児たちまで撃たれねばならんのか。以前から奇行のあった犯人とのニュースもある。なぜ狂人を野放しにする。確かに狂人にも人権はあるだろう。しかし、それはあくまで狂人用の人権だ。もっとも狸も近頃情緒不安定の気味があるので、もし女児のおしりに突然ふんふんふんとなついたりしたら、いや、なつくそぶりをチラとでも見せたら、即座に捕獲あるいは射殺してほしいものである。

 福田首相が、近頃面白い。妖怪のようだ。と言っても恐怖や畏怖の対象ではなく、あの、ぬらりひょんと言う奴。鬼太郎などでは悪の首魁を張っているが、実際は、ただいかにも「ぬらりひょん」として、とらえどころのない気の抜けた妖怪らしい。近頃あまり見かけなかったタイプの首相なので、今後の挙動が楽しみだ。


12月14日 金  続・三丁目の夕日

 本日は、隣駅との間にあるシネコンが、1000円均一。待ちに待ったロードショー格安日である。あらかじめ全休にしておいて、昼まで寝た後、楽しみにしていた三丁目の続きに向けてるんるんるんとチャリで進軍。
 いやあ、泣いた泣いた。前作より笑いが少なく原作ともかなり離れ、ややベタな泣きを中心に据えたところが、この続編が前回よりも悪評の多い由縁なのだろうけれど、それでもやはり快いものは快い。オリジナルっぽい分だけシナリオの浅さ荒さも目立ってしまったが、それでも志が正しいのでみんな許す。前作よりもさらにヘタレ度がアップしてしまった茶川さん――吉岡秀隆さんの表情など、ときおり「いよっ! 千両役者!」などとオヒネリを飛ばしたくなる役者っぷり。世知辛く賢い烏の生態などを巧みに見せられるよりは、雀たちのちゅんちゅくと生きる様をてらいなく見せられるほうが、よほど心の糧になる。銀幕にまで、現実の糧を求めようとは思わない。
 特に感心したのはCGの自然さで、全作よりも空気感は明らかに向上していた。日本橋も羽田空港も、想像していたより数段自然な質感があった。まあマクラのゴジラはとってもとんでもねー映像なのだけれど、それでも実に恐くて生きていた。一方やや残念だったのは、背景で遠方を歩行するCGエキストラ(?)の演技。これはかの『タイタニック』の船上遠景からほとんど向上しておらず、型通りに動いているだけという印象のおっさんや青年が多く見られた。モーション・キャプチャーのデータを、コストダウンのためか、使い回ししすぎなのではないか。同じ歩行データの繰り返しで、長く歩かせているようだ。ただの遠景の通行人であればこそ、生きた人間の画一的でない動作が欲しいのである。それが『空気感』を左右するのですね。
 ところで今回、レトロ・アイテムによる生活上の郷愁がやや希薄だったのは、それを売り物にせずに人間ドラマを見せたい、そんな監督の気概にも感じられたが――これは残念ながら、監督の自己過信のような気も。今回の続編も佳作には違いないが、あの前作の完成度は、やはりレトロ生活そのものの情感に助けられていたようだ。今回はシナリオ上、いかがわしいテキ屋の扱いなどに明らかな社会的齟齬が見受けられたりもして、ドラマそのものにあの時代の風俗を入れ込む老獪さは、やはりまだこの監督には足りない。

 ところで、今月の『メフィスト』の応募作評に、9月中旬に送ったたかちゃん物のタイトルがまったく見当たらず、ありゃ、巻末の寸評にも値しないと見なされてしまったかと、いっとき図書館で悩みまくってしまった。しかしよく考えてみれば、応募要項に反した作品にまでなんらかの寸評はくれる企画のはずだし、どーしよーもない物には「どーしよーもないです」と、きちんと言ってくれるはずなのである。9月中旬の応募だと、次号の講評に回ってしまうのだろうか。次号発売は来年4月――うう、先が長い。続編も送りつけてしまおうか。


12月13日 木  ホワイト・クリスマスの謎

 ♪あ〜い どぅぃ〜みん おば ほわ〜い くぃすま〜♪
 音声に忠実に日本語表記すると、こんな具合か。
 あの定番クリスマス・ソングには、日本語訳の詞がないと思っていた。それどころか、作詞・作曲者であるアービング・バーリンがオリジナル以外の詞で歌われるのを嫌い、いっさいの外国語訳を許可しないなどとも耳にしていた。
 ところが、である。NHKのラジオ番組を聴いていると、なんと、あの水原弘さん(お若い方は知らないかもしれないが、昭和30〜40年代に活躍し、昭和52年に42歳で夭逝した、低音が魅力の実力派歌手)の歌声が、日本語で流れ始めた。訳詞は、なななんと、かの永六輔さんの作なのだそうだ。で、さらによっくと聴きこんでいると――聴いたことあるよこれ、幼稚園だったか小学校低学年の頃だったか。では、あの定説は根も葉もない噂にすぎなかったのか。
 とはいえ、『見上げてごらん夜の星を』とか『上を向いて歩こう』などなど、叙情的な詞では定評のある永六輔さんでも、やはりあの曲に日本語を乗せるのはちょっと手こずったようで、正直、あまり口ずさむ気にはなれない歌詞ではある。アービング・バーリンがオリジナル以外の詞で歌われるのを嫌ったというのも、うなずける気がする。日本語のみならずどんな言語を想像しても、あのメロディーにあの英語詞以外がマッチするとは思えない。そもそも肝腎要の♪ほわ〜い くぃすま〜♪の部分が他の音になってしまっては、なんか、別の歌になってしまうのですね。
 もっとも現在であれば、日本語の中にどんな英語が混ざろうと珍しくもないし、日本語でさえわざわざ舌を巻いて英語風に格好をつけるくらいだから、あの♪ほわ〜い くぃすま〜♪のところだけ英語のままにすれば無問題と思われ、それでもしっくりくる訳詞が未だに存在しないとなると、もしかしてあの完璧に美しいメロディー自体が、同じ作者による言の葉以外で歌われることを、拒んでいるのかもしれませんね。

 ――などと打ちつつ、念のため検索してみたら、ありゃりゃ、鮫島有美子さんが先月出したアルバムに、山下達郎御大が訳詞を提供していらっしゃる。しかもアルバムの解説には、『
クリスマスの定番ともいえる名曲「ホワイト・クリスマス」。このアルバムで初めて日本語による録音許可がおり、山下達郎の訳詞にのせて鮫島有美子が歌い上げる。さらに山下達郎の名曲「クリスマス・イブ」、鮫島有美子本人が訳詞を手掛けた「シルバー・ベルズ」と、計3曲の新録音曲を収録。これに「ホワイト・クリスマス」英語バージョン他を収録し、クリスマスにぴったりのミニ・アルバムに仕上げている。』などと記載されているぞ。と、ゆーことは、あの永六輔訳詞・水原弘歌唱の『ホワイト・クリスマス』は、海賊盤? んなはずねーよなあ。――うーむ、謎。
 ちなみにたった今、音楽サイトで試聴してみたところ、山下御大は、あの♪ほわ〜い くぃすま〜♪のところだけは、英語のままにしているようだ。さすが、解っていらっしゃる。


12月11日 火  真実の会話

 昨夜の話である。
 化粧品容器工場での残業を終え、10時頃帰宅して風呂を沸かしていると、電話が入った。すでに10時30分、まさかよくあるセールス電話でもあるまいと、無警戒で受話器を取ると――なんじゃやら非常に明朗快活な青年の声で、礼儀正しい初対面(?)の挨拶が繰り出された。「私どもはけしてウロンなセールスではありません。世論調査の一環として、『住まい』というものについてのアンケートをお願いしたい」――まあ、そんな事を言っているらしい。丁重にお断りすると、青年はあくまで明朗快活に、当世住宅事情や老後の心配や故郷の話題や身内の話まで蕩々と繰りだし、11時になっても切ってくれない。しまいには「あなたはとても良い方だ。あくまで人間と人間のおつき合いとして、ぜひ一度お宅にお伺いしたい」などとまでおっしゃる。
 そこまで言ってくれるなら、と、夜中ゆえいささか脳味噌が情に寄っていたので、あからさまに失業生活と派遣生活に関する話題など持ち出すと――早い話が倉庫内労働や工場のライン作業などについてボロボロと愚痴をこぼすと、その青年はやや険しい口調になって、「もしや旦那さんは、私について何か誤解されているのでは? 私としても、嘘は聞きたくないですし」などと言いだした。「いやもう誤解も何も、あなたもセールスさんではないようだし、で、私が登録した派遣会社は西●●のどこそこなのですが、そこの倉庫作業のピンハネがですねえ、他社からきた派遣さんが時給1000円のところを我々はなんと900円――」、そんな調子で愚痴り続けると、しばらく相槌を打ってくれていた青年は、突然また非常に明朗快活な口調に戻り、「いやまあこれはこれはもう夜分のことですし続きはまた今度の機会に」などと、あちらから電話を切ってしまった。前半よりも微妙に声が上ずっていた気もする。
 おいこら青年、菓子折持ってアンケート取りに来る話はどうなった。人間と人間のおつきあいをするんじゃなかったのかよおい――などと、夜中まで電話セールスに励む若者をなぶってはいけないのだが、まあ、いかがわしい者同士、痛み分けということで。


12月09日 日  全宇宙の危機

 世界平和を願いつつ、せっせと大宇宙そのものを崩壊させる理屈を模索する狸。
 まあ宇宙の始まりも終わりも、すべてが仮説にすぎない現時点なのだから、何をどう書こうと書いたもん勝ちという気もするが、それを脳天気なたかちゃんトリオと絡ませようというのだから、脳天気対脳天気ではただのオチャラケになってしまうので、デタラメでももっともらしさだけは不可欠なのである。
 まあしょせん狸好みのトンデモ・スペオペ世界なのであって、甘木様のご感想にあったジェイクスの『今宵われら星を奪う』(なんと地元の図書館にあったので借りてきた。いやもう古き良きB級アクション風ノリノリ・スペオペ)なみに居直ってもいいか――いやいやでもやっぱし現時点での仮説くらいは押さえておかないと、限定シチュエーション上の痛快ファンタジー・アクションはできても、全宇宙規模の大情動までは、ホラが脹らむまい。
 と、ゆーわけで、世界平和を望みつつ、大宇宙を崩壊させねばならなくなりましたが、たかちゃんトリオは、ほんとにどーにか阻止してくれるんだろうなあ。頼むぜ、おい。


12月07日 金  生きる

 派遣仲間の若い衆を真似て、夜勤明けの日勤などというスケジュールを組んでみたが――わはははは、歳や。もちません、老体が。やはり残業4時間くらいが限界ですね、オヤジの軽労働は。
 しかしヨレヨレで帰る満員電車の中、奇妙なまでに澄んだ頭の中ではタカやクーニやユウが案外元気に活動し、それらを快く見守りながら、ふと通勤の老若男女の疲れた顔たちに目をやる時、なぜだか心の底から世界平和を願っている自分に気づいたりもする。もう望むのは世界の平和だけですね、狸として。うん。世界平和、それしかない。

 風呂にぶくぶくと沈みながらラジオを聴いていると、本日の久々の死刑執行とその情報公開に関して、死刑廃止論者と死刑肯定論者のなんかいろいろが喧しい。しかしどちらの意見を聞いていても、「いったいこの国は、いつからここまで死者の権利を軽視する国になってしまったのか」、そんな寂寥感に囚われる。死刑は残虐? 犯罪抑止効果なし? 悪法でも法は法? ――ここまで自称『先進国』とやらのうじゃじゃけた自己弁護と他人弁護の混同感覚に毒されてしまうと、もはや『殺された者』に対する感覚など、水面のアブクくらいの感覚でしかないのだろうなあ。「犯人を死刑にしても被害者が救われるわけではない」という発言は、「犯人を死刑にしなければ犯人や自分は救われる」と同じではないのか。
 犯人を死刑にしても、もちろん被害者は救われない。死刑執行する側も、無論救われない。その現世における救われなさこそが被害者との平等なのであり、どうで根はケシカラヌことばかり考えている我々凡愚の世界における、平和という均衡への道なのである。『悔い改めればOK』などと言っていては、永遠に平和など訪れない。『善人なおもて往生す、いわんや悪人をや』という考え方も仏教にはあるが、それはあくまで『往生』であって、徒に生にしがみつくことの対極だ。そしてそれは絶対に生の軽視などではなく、かつて生きていた者も現在生きている者もこれから生まれてくる者も、生を等しくしてこその『往生』である。


12月05日 水  狸の反射的行動

 月末に振込まれるはずだった10月ぶんの技術料が口座に届かず、その会社に電話しても繋がらず、本日体が空いたので上野まで出かけてみると、10日ばかり前に訪ねたばかりのそのラボは閉鎖されていた――なんじゃやら去年の秋口に経験した悲劇の再来で、11月ぶんを含め貸し倒れは前回の半額以下なものの、本日をもって自称『正業』を全て失い、派遣仕事オンリーの、名実ともに中年フリーターと化した狸は、いったいどんな行動をとるか――。

(1)とりあえず、クラウンでカツカレーの大盛りを食う。次にいつ食えるか、判らないからである。
(2)雑木林のある駅で途中下車し、まだ紅葉の残る林の中を彷徨い、なぜか木々の枝ぶりなど、入念にチェックしたりする。
(3)緑地公園の噴水前のベンチで、ぶつぶつと独り言をもらし、ときおりヘラヘラと無気力な微笑を浮かべる。
(4)ベンチから、知人にとても情けない電話をしようとするが、昼間なので繋がらない。
(5)再び雑木林に戻り、木々の枝ぶりを再チェックしたりする。
(6)再び公園に戻り、徘徊しながら猫おばさんたちの来園を待ち、餌付けが始まると顔を出して、いつもの野良猫を全数チェックする。
(7)なぜか猫おばさんたちと明るく積極的に会話を交わし、これまで曖昧だった『その公園における野良猫たちの状況と運命』を詳しく把握しようとする。先週の夜に捨てられた2匹の子猫が、朝には烏に襲われ食い荒らされて惨死していた話など聞いてしまい、捨てた市民の想像力の欠如に、殺意を覚える。ここなら野良も多いし元気に育つだろうとでも思ったのか。白痴か。公園に捨てられて勝手に育つ赤ん坊が、どこの生物界に存在すると言うのか。
(8)『猫』と『怒り』によって若干気力が復活し、しかし『何処へ』といったあてはなく、江戸川ぞいをガシガシ下流に向かう。途中に点在する青いビニールハウスなど、将来のために入念にチェックする。
(9)夕方、東京湾に出る。
(10)暮れなずむ海を見ながら、知人にとても情けない電話をする。今度は繋がり、とても恥ずかしいお願いをする。その親友宅でも、某出版社の倒産で、ケタ違いの貸し倒れを出したばかりだそうだ。それでもいきなり路頭には迷わないし、路頭に迷いそうな友人を見捨てもしないところが、人間としての仕上がり具合の差なのである。
(11)帰宅後、じっと財布を見つめ熟慮したのち、決然として銭湯に這いこむ。それっきり二時間も出てこない。次にいつ脚を伸ばしてお湯に入れるか、判らないからである。

 しかし、あのラボの若い衆やおじさんたちは、いったいどんな年の瀬を過ごすのだろう。特に若い衆には、エロゲを借りたり奢ってもらったり――携帯に電話してみたが、今は繋がらない。また連絡してみよう。


12月03日 月  甘酒

 恒常的に貧しく、しかし非現実的な夢想だけは豊かな日々――まるで若い頃のような生活を送っていても、たとえば派遣先のタイムシートになぜか年齢まで載っているのを見たりすると、さすがになんじゃやら、胸中に寂寥感がこみあげる。♪ 胸に〜しみる空のかが〜やき〜〜♪ などと、思わずフォークルの歌を口ずさみそうになったりもする。こうして生きていることに、はたしてなんの意味があるのか――おいおいそんな感傷は高校時代あたりで卒業しただろう、そう呆れてみても、やはりこみあげるものはこみあげてしまうのである。クール便の仕分けで、体が冷えたからだろうか。
 ♪ 悲〜しく〜て〜 悲しくて〜 とて〜もや〜り〜きれ〜ない〜 ♪ 
 ――ふと、どこか北国の無人駅のベンチで酔いつぶれて凍死している自分を、たかちゃんトリオがつんつんとつっついている雪の夜の様など、心に浮かんだりもする。

 で、帰りに甘酒を買ってみた。QQショップで99円。
 なんか、いいですね。しょせん出来合いの大量製造品ながら、熱くしてすすると、ほんのり子供に還れます。生きることがどーのこーのなどとはちっとも考えず、しかし自分も他人も死ぬことだけは恐くてたまらなかった、幼い頃ですね。
 思えばその頃から、学校の行き帰り、自分は朋輩たちといっしょに、連載漫画の続きやまったくのオリジナルのお話など、なんかいろいろでっちあげて盛り上がっていたのであった。鼻毛がパリパリと凍るような田舎の道で、ひとしきり雑多な遊びに飽いたときなども。

 どこかで、もうちょっとアルコールの効いた大人向け甘酒など、発売してくれまいか。


12月01日 土  散策

 休みだが、金がない。『続・三丁目の夕日』も、まだ観に行けない。どこかに300円くらいで新作を観せてくれる小屋はないか。
 しかし、今日の小春日和に引き籠もっているのもなんなので、とにかく歩き出す。歩くのはただだ。
 市街を真間川方向に闇雲に歩いて行くと、やがてくすんだ感じの古い商店街に出、苗屋なんだか瀬戸物屋なんだかもはや判然としない正体不明の木造商店や、リサイクル・ショップと称する古道具屋が、軒を並べている。古道具屋の店先には、シーズン柄、冬をモチーフにした複製画やリトグラフが並んでいる。どうで何千円かの安物なのだが、それでも買えないので、しばしそれらの前にたたずみ、じっくりと観賞する。観るだけならただだ。
 複製画とはいえ実物大だと、やはり画集などで観るのとは違い、ユトリロやらなにやらの情感のこもった冬景色が細部まで堪能でき、眼福というより心福を感じる。ヒロ・ヤマガタ氏のシルクスクリーン作品――冬枯れの木立も清々しい、アメリカの古い街並と、街路を行く老若男女の風物を、きわめて細密に描いたもの――など、何十分観ていても飽きない。こうしたものを広い自宅の居間に飾れるような暮らしを、いつかぜひしてみたいとも思うが、どうで独居男がそんな生活をしても侘びしさが募るだけとも思われるので、こうして路傍で堪能しているほうが、人々やろりが実際に行き交う町中であるぶんだけ、まだ楽しい気もする。タダだし。
 真間川沿いの並木にちょっと残っていた紅葉をながめたのち、陽が陰ってきたので駅方向に戻り、昔ながらの古本屋を覗く。100円棚より、里村欣三さんという方の『河の民』という中公文庫と、小檜山俊という方の『味の風土記』という単行本を、発作的に購入。前者は太平洋戦争下に北ボルネオの大河を遡る紀行文であり、後者は昭和45年に読売新聞の方が記した紀行風エッセイのようだ。狸の場合、時代やら歴史やらを大局的に把握したりするのはどうしても不得手なので、やはり『個人の視点』から、なんかいろいろ追体験させてもらえるとありがたい。