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01月31日 木  脳内麻薬

 『読んでいて泣いてしまった本は』――活字媒体ではあまりないと下記したが、つらつら鑑みるに、思わずホロホロしたものならなんぼでもあるのよなあ。市販の本に限らず、某投稿板の、あえて感想を入れさせていただいているテキスト状態の作品群など。ただ、漫画や映画のように滝涙垂れ流し状態になかなかならないのは、やはり『テキスト』という奴の持つ『知』の部分ゆえなのだろう。
 たとえば自分でこれまで打ったテキスト群、自分で打っている時には当然画像やBGMまで含めた情動に支配されているから、もう打ちながら「俺ってほんとに頭おかしいんじゃないか」と思いつつ滝涙を流したりするのはしょっちゅうだ。しかしそれを読者の方の脳内にまでテキスト状態でツッコむというのは、至難の技だろう。巷で見かける『泣き』の小説のほとんども、作者固有の涙をきちんと再現しているわけではなく、ただ一般心理としての記号的涙腺刺戟パターンを繰り出しているにすぎない。それを言ってしまえば漫画も映画も同じなのだろうが、あっちはビジュアルやメロディーという直観的な武器の比重が大きいからなあ。
 で、テキストでいかに『俺固有の泣き』を読者の皆様にまでツッコむか――文章による感情のうねりの畳み込み、物語自体の構成、まあそこいらで気張るしかなく、実際泣きながら打った後でさんざいじくりまわしてテコ入れするわけだが――果たしてどこまでそれが実現できたか、なかなか判断が難しい。たとえば近頃では、『ゆうこちゃんと星ねこさん』の第二部のクライマックス、『多摩川河畔における、鉄の娘・邦子ちゃん(女子中学生モード)の号泣』。このシーンはすでに第二部打鍵の当初から頭にあったわけで、自分でそのシーンを想像するたびに何度ももらい泣きしてしまったのだけれど、それを読者の方に伝えるために、当然そこに至るまでなんかいろいろうねらせたり盛り上げたり、打鍵後もなんかいろいろいじくり回したりして、しつこく読み返して「うああああ」などと自分でもしつこくもらい泣きできる形になった、そう確信した段階でアップしているわけである。何人かの方に無事に(?)もらい泣きしていただけたようなので、テキスト情報に魂を籠めることにはなんとか成功したのだろう。

 さて――本日、夜勤明けの電車、出勤途上の皆様に混ざって帰宅途中、だしぬけに狸は滝涙を流しそうになってしまった。人目が多いので、必死にふんばってホロホロくらいにとどめたのだけれど。つまり、第三部の世界観がいきなり最後まで見えてきて(とゆーことは、これまで深く考えないで打っていたということだからひどい話だが)、ラストあたりのアレに感極まってしまったのである。徹夜の軽(?)作業という奴は、しばしば脳内麻薬の奔流を促す。そしてそれは、狸個人にとって身も世も有らず恥ずかしくも至福のひとときなのだが――さて、それを読者の方の脳内にツッコむには、いよいよ具体的ななんかいろいろ具体的なアレを画策しなければならない。でも、なんぼ小難しい宇宙本を読んでも、あいかわらず種々の宇宙論などコンマコンマ1パーセントくらいしか理解できんのよなあ。
 ま、いいか。この現世の森羅万象だって、どこぞの『なんだかよくわからないもの』が、ちょっとした脳内麻薬の奔流にハイになってついうっかり産みだした程度のものかもしれないし。夜勤明けのビンボなブラフマンとか。


01月29日 火  読書バトン

 労働しながらでも扁桃腺は小康を保っているが――もう一度くらい薬を処方してもらわんと、全治は難しいか。
 ところで以前甘木様やゅぇ様のところで見かけたバトン、遅ればせながら受け取ってみたり。以下、敬称略。

1、今読んでいる本は?
『マンガ・天才バカボンのパパの最新宇宙論探検』。図書館にあった。監修は東大教授の佐藤勝彦、作画はフジオプロ+長谷邦夫。パパのギャグ以外の宇宙論部分は、きれいさっぱり理解できません。

2、就学前にハマった本は?
幼稚園以前――あまりに昔の話なので、カッパコミックスの『鉄腕アトム』シリーズとか、ディズニー絵本(児童映画のスチル写真を編集したやつ)の『ポリアンナ』とかしか記憶にありません。

3、小学生の時にはまった本、作家は?
低学年まではほとんど漫画やカバヤ文庫しか記憶にないのですが、中学年に至っていきなし図書館棲息型デブに変身し、小学校の図書館にあるシロモノなら世界文学日本文学推理SFノンフィクション問わず、つまり書物というメディアそのものにハマってしまいました。特にハマった物は――やはり王道リンドグレーンの『カッレ君』シリーズ、あるいはエニード・ブライトンの『五人と一匹探偵団』シリーズ、それからマイケル・ボンドの『くまのパディントン』シリーズ、さらにはトーベ・ヤンソンの『ムーミン谷』シリーズ――。高学年になると小遣いも本が買えるほどになったので、大人向けにも手を出し始め、ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』やら木本正次の『黒部の太陽』やら。

4、中学生でハマった本、作家は?
エンタメ方向だと北杜夫、星新一、創元文庫の『怪奇小説傑作集』全5巻、007シリーズの原作、等々。文学っぽいのだと、やっぱり北杜夫、それからエミリー・ブロンテの『嵐ヶ丘』、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』あたり。

5、高校生でハマった本、作家は?
もはや邦洋硬軟ジャンル問わず常に漫画も活字も読み続けていたので、特にハマった物というと、かえって困ってしまうのですが――泉鏡花、岡本綺堂、橘外男、小松左京、半村良、筒井康隆、コーネル・ウーリッチ(ウィリアム・アイリッシュ)、レイ・ブラッドベリあたりでしょうか。あ、平井和正の『ウルフガイ・シリーズ』を忘れてはいけない。一時期死ぬほどハマりました(なぜかウルフガイ・シリーズ以外はちっとも同調できんのですが)。

6、大学生以上でハマった本、作家は?
中学・高校時代からの嗜好に加え――都筑道夫の諸作と、ビル・プロンジーニの『名無しの探偵』シリーズ。

7、現在オススメの本、作家
旬は過ぎたとおっしゃる方も多いでしょうが、高橋克彦。浅田次郎さんや宮部みゆきさんも旬が長いようですが、自分としては高橋さんが、今のところ最後の『大衆娯楽作家』のように思われます。

8、好きなジャンル3つ
ジャンルよりも著者の志の問題ですね。

9、読んでいて大笑いしてしまった本は?
筒井康隆や井上ひさしの中期作品群。

10、読んでいて泣いてしまった本は?
活字媒体ではめったに泣かないのですが――とりあえず思い出せるのは、橘外男の『逗子物語』、ウーリッチの『喪服のランデブー』あたりでしょうか。

11、読んでいて腹が立った本は?
最初の数ページを立ち読みして腹が立ちそうだったら、そもそも読まない。よほど話題になっていて内容だけでも知りたい場合は、一歩退いて呆れながら遠読み(?)する。

12、読んでいて気持ち悪くなった本は?
最初の数ページを立ち読みして気持ちが悪くなりそうだったら――以下同上。

13、本の中で出てきたもので、コレ食べたい!と思ったものは?
岡本綺堂の『窯変』に出てくる、日露戦争当時の支那の唐もろこし。

14、本の中でここ行きたい!と思った場所は?
ムーミン谷。

15、本の中で好きな登場人物
浮気者なので無数。

16、続編を出して欲しい本
お気に入りだと、すでに出ているシリーズ物が多いし――単発物で、いざ続編が出ると「出さないで欲しかった」というパターンも多いし――著者の方にお任せします。。

17、内容は別にして、この題名はうまいことつけたなとおもうもの
ブラドベリの『10月はたそがれの国』。原題は『THE OCTOBER COUNTRY』なのだが、そこから作品のニュアンスまで含んだ名邦訳を考えた宇野利泰が偉大なのだろう。内容も最高です。あとは同じくブラッドベリの『たんぽぽのお酒』――いや、別にひねったタイトルではないのですが、語感がなんともいえず好きで。

18、近年の出版業界に一言
まあ文化事業のつもりでいると潰れてしまうのだろうし、商売である限り商売物ばかり並べるのは仕方ないのだが――結局、売る側も買う側も『文化』は『流行』と同義くらいに思ってしまっているのだろう。いや、特にはなーんも考えとらんだけか。

19、オススメの書店
山形の七日町の八文字屋。……郷愁含みのローカルですみません。でも品揃えや陳列が、とても廻遊しやすい。

20、あの人は何を読むんだろうという人にバトン
@このHPによく来る人で暇な方
Aこの一ヶ月間、1冊でも本を読了した人で暇のある方
以上二つ(三つ?)の条件がそろってる方々、やってください。


01月27日 日  冬眠

 結局今日の午後遅くまで、14時間近くもだらだらと惰眠を貪ってしまった。薬のためもあろうが、やはり疲れが溜まっていたのだなあ。この歳になるとふだんの眠りは浅く、疲れも取れにくい。若い頃には36時間も眠り続けたことがあったが、その前に平均睡眠3時間ほどで10日は勤めていた。どちらも今となっては不可能。おかげさまで扁桃腺はほぼ快方に向かう。明日からの仕事は大丈夫だろう。
 一年ぶりで、ここの表に『ゆうこちゃんと星ねこさん』を追加。まだ途中のくせにやたら長いが、あっちの板よりはこっちのほうが読みやすい気もするので、よろしかったらご自由にご賞味ください。とても面白い(当社比)。


01月26日 土  目覚めた時には腫れていた

 久しぶりに扁桃腺が自己主張。
 あくまで微熱程度なのだけれど、こじれると文字通りおまんまの食い上げになりかねないので、即刻医者に行き抗生剤をもらい、土日に仕事がないのを幸い、怠惰に寝てすごすことにする。月曜までに熱は引かせたい。
 とはいえ近頃、人並みに昼間寝ていなかったためか、微熱程度ではなかなか寝たきりにもなれない。結局夕方には起きだし、パソなどいじくりだす。打鍵中のたかちゃん物をキリのいいところまでHP用に整理したりしているうちに、もう夜中。まだまだなんぼでも起きていられそう――って、寝ろよ、せっかく扁桃腺が腫れてんだから遠慮なく。

 ところでエロゲ方面を『雪』で検索していたら、こんな同人作品を見つけました。選択肢もなにもない一本道の超短編(30分で終わってしまった)ですが、なんじゃやら微熱の頭に奇妙に浸みてくる、静謐な演出が快。


01月23日 水  ありがたや

 まあ著作権やら肖像権やら何かとアレなYouTubeではあるが、30年前にはビデオデッキなど夢のまた夢だった狸にとっては、やはりすばらしくアレな存在なのである。観たい聴きたい方はEP盤のジャケットをクリックしてください。
 しかしこのおふたりの当時の放送をまた見られる日がくるとは……なまんだぶなまんだぶなまんだぶ。

    


01月22日 火  乳色の海

 東京湾のすぐ横の物流倉庫に行く。雑貨の仕分けと聞いていたが、狸の配置されたラインにはほとんど荷物が流れて来ず、倉庫全体がほとんど休みのようだ。なぜに5人も派遣を雇ったのだろう、こんなんで給料もらっていいのか――種々の疑問が頭に浮かぶ。もちろん底冷えのする倉庫で費やした『時間』の代価はいただかねばならないのだが、それにしても暇だ。時たま通りかかる若い男女の社員の方に、「これこれそこな女御、まろはもう待ちくたびれたぞよ」だの「ぬしさま、わちきのラインにもどうかお流れをくんなまし」だの、のほほんと胸中で語りかけていると、やがて「今日の仕事が届きました」などと集合がかかり、別の部署に回された。10個ほどのパレットに、ひと抱えほどの段ボール箱が山積みになっている。いやあな予感がした。みっちりとした積まれ具合が、いかにも重そうだ。案の定、中身はすべて商品カタログ。これは重い。みっちり詰まった上質紙という奴は、水物よりも重いのである。
 この真冬に大汗を流しながら奮闘すること約30分、隣の若い衆も「こ、これで軽作業っすかあ?」と音を上げ、狸の腰回りにも破滅の気配が漂う頃、ようやくパレットが空になった。でも当然続きのパレットがフォークリフトで次々と――と思いきや、「はい、ご苦労様でした。元のラインにお帰り下さい」。
 つまり実質、その10パレット分のカタログを仕分けるだけのための、派遣だったのですね。ふだんなら火曜は定休なのだそうで、他の僅かな荷物は、昨日の仕分け残りをついでに流していただけらしい。本来流す必要のないオマケだけに、のんびりやっても午後3時前にはもうなくなってしまい、そこで作業終了。契約は9時から6時までだから、時給はちゃんと8時間分出る。まあ正社員の方々に万一ギックリ腰をやられると、今どき何かと面倒なので派遣を雇ったのだろうが、それにしても大らかな会社ではある。

 帰りの送迎バスが出るまで小1時間ほど、暖かい休憩室でのんびりとくつろぐ。一面の窓からは東京湾が目の前だ。霞がかかったように大気が淀み、乳にほんの少し藍を混ぜたような海が悠揚とのたくり、空はさらに藍が少なく、ほぼ乳色色だ。それらがちっとも陰鬱に感じられないのは、あくまで光景のベースが乳の色と質感だからだろう。海鳥も船も、皆、乳と藍の割合を変えただけの影となって、乳の空や乳の海をよぎっている。
 そんな一見寒気とは無縁の柔らかい色合いに包まれていると、打鍵中の物語で構想していた『ノア』という人物の本質が、脳内でいきなり変質してしまった。最終的には一神教の狭隘さをバリバリに具現させるつもりでいたのが、なんじゃやら多層的で憂愁を帯びたキャラに変貌してしまったのである。当然脳内の物語全体もワヤワヤに変質してしまうのだが――これもまた、たかちゃんたちのお導きなのだろう。曇った空が美しくないとは限らないし、晴れた空ばかりが尊いわけではない。


01月20日 日  500円の幸福

 教養文庫『東北の旅』昭和36年・草野心平他著。200円。――詩人や民俗学者や作家の方による旅本、というか、紀行文集。文庫なのでちっこいモノクロながら、当時の写真も多数。げ、当時の北限の海女の方々は、まだお乳まるだしで潜っていらっしゃったのですね。狸が幼い日の、福島との県境・板谷峠のスイッチバック光景なども文学的に叙述されている。真山青果が東北の農民を描写した一文が(ちょっと批判的に)引用されており、真山のあまりの思い上がりというか鈍感さというか自己中っぷりに愕然としたりもする。長塚節の対極といったところ。食うや食わずの貧民が地べたを這いずり回るように生きてそのまんま地べたを這いずり回りながら死んでいく、そのことを無意味であり恥だと言うのなら、人類なんて今すぐにでも絶滅してしまったほうがまだましだ。
 山渓カラーガイド『日本の民家』昭和54年・写真/丹地敏明・文/大河直躬。200円。――見開きのカラー写真と見開きの克明な解説が延々と収録されている。しかも解説には多数の平面図まで付されている。徒に郷愁に流れない学者さんの解説なので、夢のタネとしての価値が高い。他人の郷愁はエンタメとしてはいいが、それはあくまで他人の脳内フィルター越しに事象を覗くことになるので、前述の真山青果のような脳内フィルターの持ち主の描写をうっかり鵜呑みにすると、人としてとんでもねーことになる。逆に現実を現実としてきっちり記録してもらえれば、狸にとっては無限の想像遊びのタネになるのである。
 ビッグコミックススペシャル『三丁目の夕日・映画化特別編』2005年・西岸良平著。100円。映画第一作公開時、元ネタの漫画を集めて発売したもの。薄いのに高いので買い控えていたのだが、小口のヤケたのが100円でワゴンに並んだ。
 PHP研究所『図解・膜宇宙論』2003年・桜井邦朋著。図書館で借りたので無料。結局いまだに「ほんとのところはなーんも解ってない」らしい宇宙というシロモノを、悪い頭でちょっとでも面白くイメージしようと、たかちゃんたちのためにまだなんかいろいろ借りてきては読み囓っている。囓ってはいるのだが――なーんも解らないので、もはや泥沼。
 以上、全休の本日、チャリで市内の古本屋と図書館を走り回って得た戦利品。いや、図書館のは、いずれ返さなきゃいかんのですけどね。


01月18日 金  シミュラクラくらくら

 某ロジスティクス会社で、信販会社の請求書を仕分けしてきた。ロジスティクスという言葉は、本来そんな作業とは無縁に思われるのだが、まあ不景気のせいなんだか多角経営なんだか、その倉庫の設備で可能なものならなら、なんだって仕分けてしまうのである。
 で、倉庫内部の高さ2メートルくらいにぐるりと設置された軌道の上を、100いくつのお皿のようなものがぐるぐると巡り、お皿には請求書の束が乗っており、軌道の下は宛先別に100いくつに仕切られており、たとえば大阪ナントカ局あての束が大阪ナントカ局あての仕切りの上を通過すると、あら不思議、お皿ががっこんと傾いてその束を仕切りに投下する。それを貧しい狸や小遣い稼ぎのおっさんやフリーターや学生さんなどが、せっせと箱詰めしてハンディースキャナーで検品して梱包する。あるいはでかいカゴ車に積んでゆく。たわいない作業のようだが、100人以上の派遣を雇うわけではないから、まあ十何人がどたばた右往左往して蟻さんと蟻さんがこっつんこして昏倒したり、封筒の角で指が切断されたり、時には滝のように降り注いでくる重い封筒の束に埋もれて圧死者が出たり、まあなんかいろいろ大変な現場なのである。嘘ですけど。でもけっこうハードワークなので時給はちょっといい、などという話はちょっとこっちに置いといて――。
 シミュラクラ、という言葉がありますね。要は、人間の目や脳という奴は複雑なようでいて実は馬鹿だから、なんじゃやら三つの点なり丸なりシミなりがたまたま三角形に配置されていると、みんな人間の顔のように見えてしまうという現象。林の木々の中に無数の死者の顔が! 岸辺の波間に溺死者の地縛霊が! 華厳の滝の岩場に自殺者の顔が! ――等々、いわゆる心霊写真の大半を占める現象でもある。
 で、本日、軌道の上を回る大量のお皿とその可動支持部分(シューターというらしい)をぐるぐると眺めているうちに、狸は大変な事実に気づいてしまった。垂れ耳の犬の首なのである。同じ垂れ耳の犬の首が百匹超ぶん、頭に封筒の束を乗せてひたすらぐるぐると回っており、ときおりかっくんと首をかしげて、封筒の束を振り落とす。どこに届ければいいのかきちんと解っている。とてもかしこい犬の行列だ。
 まあ、ただそれだけの話なのだけれど、いちんち見ているとなかなか悩ましく、しまいにゃ目眩を覚えたりする。でもやっぱり、ただそれだけの話である。


01月16日 水  

 こんな夢を見た。
 日本海に面した旅館の二階で、映画を撮っている。
 出窓の晴れた空から流れこむ潮風は、ほどよく爽やかだ。季節は春らしい。
 名も知らぬ若い俳優たち数名の、男子は皆学生服であり、女子はブレザー姿である。やや古風な垢抜けないデザインが、NHK少年ドラマシリーズのように目に優しい。
「○×君がいないの!」
 と、痩せた少女が血相を変えて、しかしあくまで可憐に叫ぶ。
 原田知世ちゃんである。まだ『時かけ』よりも若い。誰の名を呼んだのか、それは聞き取れなかった。
 自分は当初、その作品の監督なのだろうと思っていたが、次のシーンでは、なかば海に突き出た旅館の裏手、夕暮れの海岸の岩場で波に洗われながら昏倒しており、知世ちゃんに助け起こされている。自分も学生服で、まだ若い。若いから、知世ちゃんのブレザーごしの薄い胸がとてつもなく劣情を催させ、気を失った演技をしているのは並大抵の苦労ではない。
 大林宣彦監督からOKの声がかかり、その日の撮影は終わりである。
 キャストやスタッフ一同、海辺の居酒屋で夕食をとっている。
 監督らスタッフや年長の俳優は酒を飲んでいるが、我々子役は無論おかずや飯だけで、それでも酒宴のように盛り上がっている。
 知世ちゃんが「好き嫌いのない人が好き」と言うので、中学生の自分はまだ嫌いな野菜類なども、無理に美味そうに食べる。ヒロイン役の知世ちゃんが、謎の同級生を演じる自分に、かなり好意的な視線を送ってくれているのは明らかだ。それに関して根岸季衣さんなどが軽くからかってくれるのが、とても嬉しい。
 いつのまにか周囲は夜の旅館になっており、暗い部屋の出窓に腰をおろし、自分は知世ちゃんとふたりきりで、沖の漁り火などを眺めながら語り合っている。他の連中はまだ居酒屋なのだろうか、それとも寝静まった後なのだろうか。そこが自分の部屋なのか、知世ちゃんの部屋なのかも判然としないが、ともあれ畳にはひと組の蒲団しか敷かれていない。
 意図的にたわいない話題をぎこちなく語りかけていると、彼女もまた意図的ではないかと思われるどうでもいいような話題で言葉を返し、それを繰り返すうちに、しだいに顔が近づく。
 いいらしい。
 そうか、いいのか――自分は春の海にたゆたうような静かさで、さらに顔を近づけるが――。

 嘘のようだが、そこで目が覚めた。泣きじゃくりたいほど悲しかった。

 ところで、エドツワキってどんな奴だ?


01月15日 火  雑想

 無●良●の拠点で、中国製の雑貨の再検品をしてきたのだが――大中国、恐るべし。以前、他の倉庫でファンシーグッズの検品もしたことがあるのだけれど、言いたくないが、もしやあの国では、一部の工場において目の不自由な方々に検品を担当させているのではないか。あるいは神仙の伝説なども多いお国柄だから、目を閉じて瞑想に耽りながら検品する方が多いとか。在職中、土埃の入った新品カメラを見たこともある。それはさすがに国外の有名ブランドではなく、上海の地元ブランドだったが。
 などといいつつ、それらを輸入して日本人のバイトを使って検品させてもなお余裕のある元値なわけで、あまりつっこんでは可哀想なのだろうけれど。近頃狸が常食するQQ冷凍食品も、みんな中国産だし。でもさすがに段ボール肉まんは、大飢饉でもこない限り食いたくないわなあ。まあ他に食える物がなかったら、藁でも土でも食いますけど。

 公立図書館の書籍やCDは、誰が選んで購入するのだろう。利用者のリクエストも結構聞いてくれるようなので、先日借りた『SP盤再録による花のスターアルバム』などは、さしずめ高齢者の方のリクエストか。昔は針音バリバリだったSP盤を、適度にノスタルジックな針音だけ残して再録音したもの。
 狸は若い頃から懐メロ趣味があったので、そこに収録されているSP盤時代のスターの方々も、晩年のお姿やお声は結構知っている。今は長寿の時代なので、まだ歌っていらっしゃる方も多い。しかしSP盤のオリジナルを聴くのは初めてだから、なにかと興趣が深い。たとえば林伊佐緒さんの『ダンスパーティーの夜』(昭和24年)を聴くと、原盤では明確に「♪ダンスパーテーの夜だった〜」と歌っている。狸の観た懐メロ番組では、当然ながら「ぱーてー」ではなく「ぱーてぃー」である。また、中原美紗緒さんの『河は呼んでる』(昭和33年)は、同題のフランス映画の主題歌の日本語版で、パスカル・オードレというお年頃の娘さんがかなり眩しい佳作なのだけれど、それはちょっとこっちに置いといて、狸が見知っていた晩年の中原美紗緒さんの歌唱は、失礼ながら、めいっぱい若作りしたかわいいおばあちゃんが幼稚園の子供たちに歌い聴かせる童謡、そんな印象だった。ところがSP盤は、実にしっとりした叙情的歌唱であり、そのほうが種々の意味で正しい気がする。おそらく老いて衰えた自分がお年頃の娘さん世界を再現するには、めいっぱい若やいで歌うのがベターと思われたのだろうけれど、どうも違う気がする。たとえば同じアルバムに入っている高英男さんの『雪の降る街を』(昭和28年)、あの高さんがフランス留学から帰って日本初のシャンソン歌手として活躍し始めた時期の歌唱だから、それはもう若々しくチャーミングなのだが、狸が知っている晩年のやや枯れた、一部ちょっと苦しげな『雪の降る街を』だって、あの気恥ずかしいほど若いメランコリーの歌の持つ情動を、きちんと伝えてくれるのである。いや、老人(失礼)らしく俯瞰度がアップしただけ、実際に若い頃よりも、より若さの陰影を表せているかもしれない。

 ところで高英男さんと言うと、おたくの方々などは、当然あの『吸血鬼ゴケミドロ』の、おでこバックリ・ドロドロ男が真っ先に浮かんでしまうと思いますが、実は『愛の賛歌』を日本で初めて歌った方であり、『雪の降る街を』のオリジナル歌手さんでもあります。数年前、狸がいっしょに働いていた年嵩のパート主婦さんなど、コンサートには必ず行くほどのファンでした。


01月11日 金  NHKラジオがなんか変

 昨夜の『わが人生に乾杯』を風呂で聴き始めたら、角川春樹氏がゲストに登場して仰天した。
 ご存知の方もあろうが、あの番組は山本晋也監督(すでに何十年も前からナンデモタレントさん化しているが、狸の脳裏には、まだピンク映画『未亡人下宿』シリーズのヤケクソなパワーが克明に刻まれている)と、軽妙な女性アナウンサーの方がいっしょになって、各界著名人のゲストをひたすら持ち上げながら、ちょっと面白い話や泣かせる話を引き出すところに妙味がある。たとえばベテラン女優の香川京子さんが出た回では、黒澤明監督が『どん底』を撮った際、江戸時代の貧乏長屋生活がピンとこない役者さんたちのために、撮影所にわざわざ志ん生師匠を呼んで一席語らせた、などという、初耳のエピソードが聞けたりする。
 さて、角川春樹氏である。言うまでもなく、あの角川春樹氏であり、他人に持ち上げてもらわなくともすでに自分で天空の彼方まで自分を持ち上げてしまっている方である。当然番組内でも、ほぼ誇大妄想と自画自賛をベースにした唯我独尊世界を蕩々と披露し、それを山本晋也監督や女性アナウンサーがいつものように持ち上げるものだから、もはや歯止めがかからない。まあそれはある意味とても面白いのでいいのだけれど、さて、あの方はつい何年か前にコカイン常用で服役したばかりなのだが、そこいらの歳月の話題がきれいさっぱり『なかったこと』のごとく省略されてしまうのはいかがなものか。すでに罪を贖った方を今さら責める気はないが(ほんとはしこたまあったりするのはちょっとこっちに置いといて)、『わが人生』を語る場において、そこだけカットして、この人コカインなんてなくとも常時イってるじゃん、みたいな荒唐無稽な自画自賛だけ語られても、ちょっと困ってしまうのである。
 まあ本年も、NHK名物『なかったこと』には、バラエティーでもドキュメントでもニュースでも、ツッコむ機会を多々いただけるのだろう。

 さらに深夜の『朗読への招待』、ご贔屓小泉八雲の回ということで期待して録音準備をしていたら、肝腎の朗読は山場をほんのちょっと読むだけで、あとは学者さんの解説と講義が大半なのであった。放送大学ほどつっこんだ分析が聴けるわけでもなく、朗読にも身が入らない。『朗読への招待』というからには、そっちにきちんと招待してほしかったものである。

 ……しかし、新年に入って、狸はグチしかこぼしていない気がする。


01月08日 火  精神的解像力

 本日は夜勤なので、昼間は図書館へ。近頃なんか感性が鈍っている気がするのは、脳内に『ビジュアル的な奥行き』が不足しているからではないかと判断し、画集コーナーで古今の良さげな絵画を無差別に摂取する。
 その中に、今となってはレトロ物件に分類されてしまいそうな、半世紀前のエアブラシ絵画――いわゆるスーパーリアリズム・イラストレーションの作品集があり、今さらながら魅入られた。現在ならCGでお手軽になんぼでも量産できそうなタッチだし、事実、すでにそれらが動画にまでなって映画でもドラマでも氾濫しているわけだけれど、根本的に違うのは、『解像度と色数が無限』であることの強みである。もちろんエアブラシ物件は印刷物で観ているわけだから、印刷時の解像力や色再現に制約を受けているのだけれど、それにしてもグラデーションや質感や訴求力において、CGとの違いは明白だ。
 しかしこれは必ずしも物理的な要素だけでなく、やはり精神的解像力の違いが大きいのかも知れない。下手にポリゴン的情報やらテクスチャー情報やらに縛られず、あくまで絵師がエアブラシをしゅーしゅーやりながら、リアルタイムで自分の魂を『芸』と『術』をもって定着させている、そのことで、『精神的奥行きの解像力』(?)が、アナログの無限階調で作品に浸透する。精神的には油絵等の伝統的手法と同じなのですね。昨今の大作実写映画で披露される、ぐるぐるとこれ見よがしに角度の変わる一見リアルで壮大なCG背景が、空気感や迫力においては昔の手書きマット画(もちろん動かない)に負けてしまうことが多いのも、その『精神的奥行きの解像力』のためだろう。ウルトラシリーズにおけるCGとミニチュアの違いも、まさにそれですね。商売人がどんな理屈をつけようと、魂のこもったCG背景やCGキャラは、今でもめったに実現されていない。
 もちろん、もし半世紀前のエアブラシ絵画に匹敵するリアル物件が、自由自在に3Dで動く様をきちんと見せてくれるのなら、量産のCGも大歓迎なのだけれど、今のところまだアナログ絵画やミニチュアのほうが、作り手と受け手の精神的交歓において、はるかに『リアル』だ。


01月07日 月  閉じない口

 比較的待機時間の多い派遣先や、会話を交わしながらでも可能な作業の現場で、おしゃべりのおばはんといっしょになってしまった際の苦痛については、以前にも記した気がする。ご家庭の愚痴やペットの話題などはなかなか面白いし参考にもなるが、巷のハヤリモノに関してノリノリのシンパシーを求められても、一部の佳作を除いては、まさか「あれは馬鹿が馬鹿に作らせて馬鹿に売っているのだ」とも言えず、なかなか相槌の打ち方に苦労する。まあ極力、不自然でない程度の作り笑いを保ちつつ、旦那さんや息子さんやワンちゃんの話に引き戻すわけだけれど。旦那や息子や犬ならば、多少馬鹿でも作り物や売り物ではないから、どんな話でもなんかいろいろ参考になるのである。
 しかし本日は、ちょっと想定外の『閉じない口』と、いっしょになってしまった。『自分の思考を全部リアルタイムで独白しながらでないと生きられない人』である。巷でも、時々見かけますね。一種の心の病なのだから仕方がないと思っても、やっぱりブキミで困ってしまう。狸と同年輩と思われるその方は、すべての作業を脳内で克明にドキュメンタイズし、それを発表しながらこなすので、作業ペースは常人の4分の1程度になり、早い話が、いるだけ邪魔になってしまう。昼の休憩に入る前に、現場責任者さんが「あなたはもうお帰りになって結構です」と、丁重に引導を渡していた。単なる愚図や怠慢とは違うので、嫌味も怒号も伴わない。休憩に入って狸が喫煙所に行くと、帰り支度を終えたその方がただひとり、本日与えられた恥辱に対する愚痴や怒りや、「でもここまでの時給は出るんだからまあいいか」やら、思ったことを全部ひたすら絶え間なく発表していた。作業中、何度も「私語厳禁」と注意されて、それでもしゃべり続けていたのだから、たぶん当人は、自分が思ったことを全部口にしてしまっていることを、自覚していないのではないか。
 無性に物悲しい気分に囚われつつ、狸は思った。――しかし派遣会社も、いい根性してるよなあ。


01月04日 金  狸の飽食

 二日昼・手打ち蕎麦の天ざる。夜・回転しない寿司。三日朝・ビジネスホテルの朝食バイキング。昼・染太の鰻。夜・ファミレスのステーキ丼セット。――二日間で、これだけの贅沢をした。自前だったのはホテル関係だけである。ビジネスホテルとはいえ、ちゃんと温泉っぽい大浴場があり、非観光地ゆえ正月の宿泊客はほとんどなく、貸し切り状態でのんびり入浴。
 行き帰りは姉夫婦の車に便乗だし、他には菩提寺へのお年賀だけで、つまり計二万円弱の出費のみで、体重を1.5キロ増やしてツヤツヤと狸穴に帰ってきた。すみませんすみません。お天道様、すみません。今日からはQQ食、明日からは労働者に戻りますので、バチを当てないでください仏様。
 ちなみに、雪はあんがい少なかった。下の画像は、ホテルの窓と非常口から。お寺さんの話だと、上山や米沢では3倍積もったらしいが。

  


 母親は少々失禁が増えてしまったようだが、他の入居者に比べれば軽度の由。ただ軽度だけに、下の不始末などは頑なに認めたがらず、失禁に気づけばすぐに自分でこっそり着替え洗濯してしまう。そうして始末後、すぐに不始末自体を忘れてしまう。当然おむつの着用などは拒否し、職員さんも様子見段階で、今後の成りゆきは不透明。このあたりが、中途半端に世間体としての『見栄』を保っているアルツ中期の難しいところで、むしろしばしば股間が濡れてしまうという己の肉体的不快感が『見栄』を上回ってしまえば、すなおにパンパース類のお世話になれるのだろう。
 狸は『見栄』などとうにドブに捨ててしまっているので、たとえば以前ノロにやられて垂れ流し状態に近づいた時には、このまま症状が長引くようなら自分でパンパースを買いに行かねばと思っていた。我慢しようと思っても括約筋がおっつかないのだから、それは当然の対処であり、むしろ対処しないことのほうが『恥』であるように思う。えなりかずきさんに優しく穿かしてもらわなくとも、自分から穿いたほうが、まだ『見栄』だって保てそうな気がする。

 昨夜帰宅してテレビをつけると、なんじゃやら歌舞伎らしい映像が映り、おやおやNHK教育ではなく総合のほうで歌舞伎中継をやるってのは正月でも珍しいなあと思いながら観ていたら、どうも様子がおかしい。舞台の造りなどは本格的で、滝夜叉姫の衣装やメーキャップなども実に本格的なのに、その所作や科白回しが学芸会なのである。ちょっと見続けたら、理由が解った。ドラマ『雪之丞変化』の一部だったのだ。滝夜叉姫は、あのタッキーだったのである。長谷川一夫さんや美空ひばりさんや丸山(現・美輪)明宏さんと比較してはいけないのだろうけれど……ごめん。無理。しかし『義経』の時といい、演出の黛りんたろうさんという方は、実は時代劇向きではないのではないか。


01月01日 火  世界のすみっこの穴の中でなんかつぶやく

 昨夜は、正月料理など雑煮だけで充分と居直っていたのだが、久しぶりに昼近くまで寝て「うー」などと唸りながら起き出してみると、やはりお節料理が欲しい。爺いなのですね。
 確か何年か前の元旦、埼玉だか群馬だかのコンビニで、チョンガー向けのおままごとのようなお節料理セットを買った記憶があったので、ご近所のコンビニを回ってみると――どこにもありません。時代は変わってしまったのですね。年越し蕎麦にこだわる若い衆も、昆布巻きだの煮染めだの黒豆だのには、もう執着しないのか。無論スーパーまで出向けば、でかいセットも単独のパックもまだ並んでいるのだけれど、チョンガーの食いきれる量ではないし、そもそも高価すぎる。
 蕭然とうなだれつつ、いつものビンボなアレやソレを補充しておこうと、ショップQQに立ち寄ると――おう、なんだなんだ、そこには99円均一で、ほとんどのお節がちまちまと揃っているのであった。のみならず、さすがにセコすぎてあまり売れなかったらしい昨夜のミニ海老天が、50円引きで山のように並んでいる。99円では悪い冗談でも、49円なら話は別だ。思わず冷凍庫に入りそうなだけ買い占めてしまった。これで当分、蕎麦に複数の海老が乗るではないか。るんるんるん。

 いきなし気力復活して狸穴に帰ると、駐輪場の前で管理人さんが野良猫に餌をやっていた。家賃が滞っている間などは荒地の魔女に見える管理人さんが、こんな昼下がりにはお多福さんに見える。殺伐とした街中ゆえ、『ここで猫に餌をやらないでください! ご近所の迷惑も考えてください!』などという、刺々しい赤文字の看板をどーんと下げているアパートやマンションも多いというのに。どうりで近頃、近所の野良猫が、以前より性格も体格も丸くなった。野良猫の生活は、地域社会の人心のバロメーターだと思うが、どうか。

 日のあるうちに、作業用の汚れたチノパンやスニーカーを洗う。ヨレヨレあるいはボロボロだが、着用不能にならない限り、まだまだお世話にならなければならない。干し終わり、BSの『昭和なつかし亭』を観ながら、ちまちまとお節や雑煮、そして発泡酒を楽しむ。未来は見えないが、過去と今はある。明日になれば今日が過去、明日が今になり、畢竟、今日もまた昨日の未来だ。見えないものが、無いとは限らない。
 こんなやくたいもない狸穴を覗いていただいている皆様に、謹んで、良き未来のあらんことをお祈りいたします。

 明日からは二日間ほど帰省――いや、もう実家はないのだから、母親の様子を見に雪国へ。