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02月29日 金  天狗その他

 静岡県三島市で2002年、女子短大生(当時19歳)が焼き殺された事件で、殺人罪などに問われた元建設作業員、服部純也被告(36)の上告審判決が29日、最高裁第2小法廷であった。
 古田佑紀裁判長は「意識のある人間に火をつけて殺すという残虐な殺害方法などからすれば死刑はやむを得ない」と述べ、服部被告の上告を棄却した。服部被告を死刑とした2審・東京高裁判決が確定する。
 判決によると、服部被告は02年1月、帰宅途中の女子短大生を車内に押し込み暴行。さらに、粘着テープで女子短大生の両手首を縛り、灯油をかけて、ライターで火をつけて殺害した。
 弁護側は「過去の死刑基準に比べて不当に重い」と死刑回避を求めたが、判決は、服部被告が強盗傷害罪などで服役し、仮釈放からわずか約9か月後に今回の犯行に及んだ点を挙げ、「犯罪傾向は凶悪化しており、改善更生の可能性に乏しいことは明らか」と、退けた。
 1審・静岡地裁沼津支部は、犯行に計画性がないことや劣悪な生活環境で育ったことなどを理由に無期懲役としたが、2審は、殺害の残虐性などを重視して死刑を言い渡していた。 【2月29日15時19分配信 読売新聞】


 妥当な判決である、と思う。
 鳩山法務大臣の死刑執行に関する発言――ベルトコンベヤー化、などとも言われておりますね、良かれ悪しかれ――以来、ああじゃこうじゃと世論がかまびすしく、それはそれで大変けっこうな議論だとは思うが、昨日の朝日新聞の論壇時評など読んでみると、死刑論議を末期患者の尊厳死問題とダブらせ、『「人が生きるに値する/しない」の線引き』という表現(あくまで尊厳死論争における懐疑派・小松美彦氏の表現)を用いているのが気になった。
 えーと、私、はっきりと服部純也被告を人間扱いしません。もちろん生物学的には立派な人類だし、行動だって『あまりにもナマな人間であるだけ』といった解釈をする向きもあろうが、少なくとも私と同じ種族ではないですね。不忍池の鴨を可愛がったあとで平然と鴨南蛮を食う、そのレベル。いや、それ以下か。少なくとも、年老いて自然に丸くなるまで養う気は毛頭ないので。

 録画しておいた『鞍馬天狗』の『角兵衛獅子・前編』を観る。例によってシナリオにハテナな部分は多々あるものの、それら一切を振りきって、チャンバラ活劇の妙味全開。野村萬斎さんの身のこなしは、やはり只者ではない。杉作役の森永悠希君、なんかまんまるお目々とプクプク体型が妙にショタ心をくすぐるというか、いっしょにお風呂に入りたいと思う私は近頃少々アブナイおじさんですか。まあ冗談はちょっとこっちにおいといてとごまかして、石原良純さんの桂小五郎も緒形直人さんの近藤勇も、回を重ねるごとにいい味が出てきているのに、次週が最終回とはつくづく残念。せめて1クールくらいは続けてもらえないか。


02月26日 火  山形みれん

 ああ、未練なのねえ、などと悲しい酒を飲みつつ、国土交通省の航空写真検索ページで、昭和51年の霞城公園から山形駅あたりを含む一帯をみつける。
 たいへんでかい画像なので、わざわざ開いてもらうのも恐縮だが、城跡と駅の間あたりの赤丸印が、今は無き狸の生家である。また、たかちゃんやくにこちゃんやゆうこちゃんのモデルとなった少女たちの家も、どこかにあったりもする(ただしくにこちゃんは、この数年前に地図上の左外方向へ引っ越してしまっているが)。まあ、ただそれだけの個人的郷愁である。ちなみに何度か記したように、城跡から駅にかけては、現在まったく別の街になってしまっている。
 皆様も、検索してみると面白いかも。


02月23日 土  春一番

 なのか? 気象庁さんのおっしゃることだから、まあそうなのだろうが、春一番ってこんなにヤケクソな天候だったか?
 本日は休日(アブれたとも言う)なので昼過ぎに起きだし、買い物に出たときは生暖かい暗天で、小雨もぱらつき始めた。傘をとりに戻るほどではないので、そのまま駅前に出て西友に入り、QQよりも安げな食糧を補充して外に出ると、小雨暗天はいきなり薄曇りの黄砂空に変わっており、黄色い粉塵をふくんだ生暖かい風が、ごうごうと街中の放置ゴミやらなんじゃやらを宙に巻き上げていた。黄砂に咳きこみながら脚を速め、QQに飛びこみ、いつものビンボ食品を補充して外に出ると、今度はいきなりからりと晴れた冬空で、木枯らしのようなスルドい寒風がびゅうびゅうと吹き荒れている。
 穴を出てから2時間ほどの内に、温度や湿度や気圧があまりにコロコロ変わったせいか、戻る頃には後頭部や肩の筋肉がズキズキと痛み出す。風邪でもなさそうだが、ルルを三錠飲んで風呂に入ったらなんとか治まった。

 某投稿板で、たかちゃん物の続きを更新。連続番組的長編なので、最初期以外はなるべく起承転結のひとかたまりをまとめて更新することにしていたのだが、近頃トンと暇がないのと、今回はひとかたまりがやたら長くなりそうなので、承の入口の軽いヒッパリあたりで更新してしまったが、それでも40枚近くあるのよなあ。ほんとうにどこまで続くとゆーのだ、この話は。
 まあ打ってるほうは死なない内になるべく終わらせればいいのだが、問題は、読者の方がどこまでついてきて下さるかなのよなあ。


02月21日 木  小言幸兵衛な日々

 ああ、なんか毎回毎回グチしかこぼしていないような気のする今日この頃、これはやはり日々のなりわいに『愛』が足んないのか。『愛』さえもビンボの前では、朝露のごとく儚い存在でしかないのか――気のせいですね。昔からグチ8割シヤワセ2割くらいの狸だし。

 たとえば今夜の『鞍馬天狗』なども、羽田美智子さんを頭目とする京の芸妓さんたちの心意気に大喝采を送りつつ、しかしまあなんで宝生舞さんをあんな役に使うかなあ、時代劇のしかもキリリとした科白なんてまともに語れるはずないだろう、と、頭を抱えたりもしてしまうのである。けして嫌いじゃないのよ、現代劇ではかなりかわいいし(と言っても大昔の『あした』と『釣りバカ日誌』くらいしか観ていないが)、時代劇だって黙っている役なら顔だけでOKだ(と言っても『陰陽師』くらいしか観ていないが)。ただし時代劇での科白回しは、常に完璧なダイコンなのである(と言っても『御宿かわせみ』くらいしか観ていないが)。
 しかし、羽田さんは、いい。『RAMPO』や『人でなしの恋』の頃は、ただ美しいだけの女性という感じだったが、お歳を召すほどに婀娜っぽく、いい匂いが漂ってくる。

 どうも狸の異性嗜好は、ますます若い女性に厳しくなっていくようだ。本日も仕事帰りの電車で、人も無げに大声張り上げて無個性無内容な談笑に興じる若いOLさんふたりに、明確な殺意を覚えてしまった。他人を嫌悪する自分というのもなかなか鬱陶しいものなので、実際耳を塞いでその馬鹿会話を聞くまいとしたが、もともと音量の差が著しいのと、おじんおばんよりも高域寄りの声質のため、かえってその会話だけが明瞭に響いてくる始末。
 羽田美智子さんの科白なら、何時間でも聞いていたい気がするんですけどね。電車の中から風呂の中まで、さらに続いて蒲団の中までとか。


02月20日 水  雑想

 次世代DVDのどっちがどうなろうと、かつて稼ぎが良かった頃にベータや8ミリビデオをエアチェック用に使いまくったり、レーザーディスクのみならずVHDまでそのメディアのオリジナル作品欲しさに買いまくったりしてしまった人間にとっては、もはや高みの見物、いや、沼の底からふんふんとながめるのみである。どうせブルーレイもまたいつかは滅びて行くのだし、VHS化さえされていない隠れた名作、レーザーまではなんとか出たがDVDではシカトされた過去の名作などは、オタク需要さえ見込めないと判断されてしまったわけだから、今後も埋もれっぱなしにきまっている。
 さしあたり今後の映像関係業界の方々には、しつこいようだがはっきりと、高画質よりも心やセンスを磨いてほしい。

 リメイク版の『犬神家の一族』、CMをカットしてじっくり見せていただいた。シナリオや演出は、9割がた旧作のままだった。なるほど市川監督のやりたかったのは、徹底的な『細部の推敲』だったのだなあ。確かに演出や映像技術的な細部では、旧作の時代にこのクオリティーが実現できていれば良かったのになあ、と思えるシーンが多々あった。しかし――小説ならば文章の端々や微妙な構成を練り直すのはあくまで作者の意思しだいだが、映画の場合、いかんともしがたい制約がある。もとの役者さんが加齢したり死んだりするのである。結果的に、映画としての完成度は確かにアップしたが、一部の役者さんの『老い』や、若手の役者さんの説得力不足で、残念な部分が多いのも事実。
 もっとも小説の推敲でも、あまり時を経るともとの文体に戻れなかったりするから、作者と作品の関係もまた、一期一会なのかもしれませんね。

 自衛隊のイージス艦が漁船を沈めたそうだ。海の藻屑と消えた漁師父子もお気の毒だが、その一方で狸としては、「なんだ、自衛隊のイージス艦なんて、ちっこい漁船一隻でもラクに撃沈可能なのだ」と、拍子抜けしてしまった。その漁船に自爆テロ用の派手な爆発物でも積んでおけば、吶喊自体はフリーパスらしいのである。たるんでいるとかいないとか以前に、こ、怖えーぞ、おい、自衛隊。


02月17日 日  置くだけバトン

 市川イチ様のHPから勝手に受け取って来たのだが……。
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 ルールは、『見た人は自分の日記に↑のバトンを置いてください。』、ただそれだけなのだそうだ。どこのどなたが創案されたかは知らないが、これこそ『純バトン』ですね。バトンそのものにはなんの意味もなく、ただ『受け渡し』だけが意味を持つ。

 思えば創作などという行為も、よそ様から見ればこの『純バトン』と同じ存在なのだろうなあ。『受け渡し』が伴わなければ、ただそこに転がっているだけの物言わぬバトンだ。そのバトンを誰かが受け取ってくれなければ、バトンそのものが何色で何で出来ていようと、作った人間にしか認識されない。
 自分の創作が果たしてバトンになっているかどうかなどという問題は、頭から無視してただ垂れ流すのが純な創作なのだろうけれど、たとえば往年の人気漫画家・寺田ヒロオ氏が筆を折った経緯などを思うと、やはり複雑な気分になる。氏は、けして自分の振りかざしているバトンが誰にも求められていないという状況に陥ったわけではない。ああした良心的児童漫画は確かに少数派になってはいたが、まだまだ根強い人気は保っていたのである。むしろ、他の刺激的で露悪的な(それもまた創作物としては立派な進化なのだが)バトンの奔流に、自分のバトンが紛れてしまうことを嫌悪したわけである。とても潔い。
 とはいえ良心的でも潔くもない無名の狸などは、自作のバトンをぽこぽこと、いじましく磨き続けるしかないんですけどね。


02月16日 土  うつらうつらと

 働けば働くほど良く眠れたのは遙か昔の話だ。社会人一年生の頃、店の改装がらみで朝9時から夜11時頃まで2週間連チャンでドタバタと体を使ったことがあったが、それこそ夜2時頃蒲団に横になって次の瞬間目覚ましが鳴ったらあら不思議朝の7時、そんな具合だった。間の5時間は、眠ると言うより主観的にはまさに死んでいるのと同じである。
 で、今週はちょっとそれに近い気分を味わったわけだが、なんぼくたびれても、あの頃のような仮死状態にはならない。横になってから入眠するまで30分はかかるし、途中で1度か2度は目が覚める。当然疲れは取れにくい。これが加齢の証なのだろう。

 ロイ・シャイダー氏が10日に亡くなったのを、先日初めて知った。『フレンチ・コネクション』『ジョーズ』『ブルーサンダー』等々、アクション映画で大人の渋みが表現できる、今どき(と言ってももう昔か)数少ない人材だった。暴れるだけならシュワちゃんでもスタローンでもいいし、ブルース・ウィリスも人間味はあるがけして渋くはない。イーストウッドなどとは違い都会派的印象のためか、後年のハリウッドの砂糖菓子化をモロ被りして活躍の場を狭められたことが、つくづく惜しまれる。
 市川崑監督も、ついに亡くなった。残された数多くの眼福物件に関して、思うことは数多い。しかし、今お亡くなりになったおかげで『犬神家の一族』のリメイク版を早急にテレビでタダ観できると喜ぶ狸は、人非人だろうか。ご当人はまだまだ映画を撮りたかっただろうが、狸としては、すでに充分その演出スタイルは観尽くさせていただいた気もするのである。

 日々周囲から好ましいものが減ってゆく。いっそ先に逝ってしまいたいが、自分の脳味噌という好ましいもののある限り、そうもいかない。


02月13日 水  世俗の輝き

 今週は終末まで連日4時間の残業続きになりそう。しかも毎朝5時半起き。例によって軽作業という名の力仕事だから、二日目にして体はヘロヘロだが、精神はあくまでハイ。仕事中にも(オイ)脳内では三人娘と関係者たちがなんかいろいろ活動している。しかし帰宅後、発泡酒一缶でもうヨレヨレになり、成文化する気力はなく、会話や骨子をぽこぽことメモ打ちするのみ。

 メロメロの頭で、確か月曜に録画したBShiの『日本美ナンダコリャこれくしょん』を観る。バラエティー的なスタジオ部分は、正直なんのセンスもない昨今の民放といっしょだが、取り上げてくれた異様な美術品の面白さは圧倒的。特に、明治から大正にかけて見せ物小屋で大ウケしていたという『生き人形』の映像が観られたのは嬉しかった。海外の蝋人形や、近頃の特殊メーキャップなど、その生命感において敵ではない。日本の職人芸は、早くからスーパーリアリズムの頂点を極めていたのである。それも人体の型取りではなく、あくまで木彫を基本に、植毛や塗装技術だけで肉感を再現している。近頃美術品として再評価されているのは、浮世絵や根付け同様、海外での評価が逆輸入されたからのようだ。しかし現物の大半は、すでに単なる見せ物物件として捨てられてしまっているのよなあ。
 番組では、その『根付け』も紹介されていたが、ああいった神技級の工芸品が、ごく世俗的物件として、低賃金の職人さんたちの矜持によって量産され、庶民にも身近な存在であった江戸時代から昭和初期あたりまでの日本社会というのは、まあ社会制度うんぬんはちょっとこっちに置いといて、ある意味、今よりも遙かに豊かな世の中だった気がする。乱歩の『押絵と旅する男』とか、『人でなしの恋』とか、じっくり読み返したい気も。
 まあ現在のおたく文化という奴も、部分的には正しく日本文化の継承なのだろう。


02月10日 日  雑想

 休日。晴れ。お洗濯の後、某駅の緑地公園へ。猫の段ボールハウスが、どうしても心配だったので。幸い無事でした。中を覗くと、9月に初めて見た時はヨチヨチ歩きだったブチ猫君が、痩せぎすながらずいぶん大きくなって、丸くなって寝ていた。残念ながら他の大量の野良猫は、2〜3匹を除き姿を見せず。日曜は子供やら見物人が大勢押しかけるため、辟易して隠れてしまったのだろう。いつもの猫おばさんたちがいれば、他の見物人が近寄ってもさほど警戒などしないのだが、気が向いたときに「わあ、かわいいかわいい」などと勝手に追い回すだけの無責任な見物人しかいないと、ビンボな野良たちは皆隠れてしまう。「同情するならなんかくれ」――皆、ギリギリで生きているのである。

 電車に乗る前に古本屋の100円棚で買った『登山全書 第一巻 夏山編』(昭和31年・河出書房)を、電車の中で検めていると、なんじゃやら不思議な記述があって、思わず吹く。日本山岳会監修の、ごく大真面目な登山入門書なのに、『登山の食糧』という章の『七.廃棄物の少ないもの』という項で、なにげにこんな記述がある。『山へ西瓜でもかつぎ上げて、雪渓にひやして食べたらさぞうまいだろうと考えて、いつか実行しようと思っているのだが、よく考えてみれば、ばかばかしいことなのだろう。』――脂質がどうの必要カロリーがどうのといった大真面目な内容中に突然こうした本音が混じると、とてもおかしい。まあ、山に登らない狸がこんな本を買って読むこと自体、いつか昭和中期のアマチュア登山家の登山描写が必要な話を書くときに参考になると思ったからなのだが、よく考えてみれば、ばかばかしいことなのだろう。

 夜、中国産の冷凍餃子(あそことは別産地)を食べながら、テレビ東京の日曜ビッグを観ていると、米坂線からさらに飯豊山地に入った豪雪地帯の村の、冬の暮らしぶりなどが取り上げられており、思わず没頭する。ああ、山に帰りたい。しわくちゃの老婆たちが手作りするゆべしや藁苞納豆や茸汁の、なんとも旨そうなこと――しかし、もはやそこには、まともな職などありはしないのである。

 明日も休みなので、たかちゃん話を少しでも進めておこうと思う。前回の更新ぶんには、お三方のご感想しかいただけなかったが、やはり一回分が数十枚以上だと長すぎるのだろうか。シーン単位で更新してしまったほうが読み進めやすいのだろうか。しかし、ひと続きのシークエンスはやっぱり一気に読みたい読ませたい、そんなうねり具合の話なのよなあ。


02月08日 金  惚れた

 と言っても、以前にも行った化粧品容器工場で働き、隣にいたミルキー・フェイスの女工さんに――以前にも記したので以下略。
 つまり愛らしい娘さんなどというものに胸をときめかせる類の『惚れ』は、もはや疲れた狸のドンヨリ脳には残っていないらしく、惚れたのは昨日録画しておいたNHKの『ドキュメント・日本の現場』の、『出稼ぎアパートの冬』に登場していた、おっさんや若い衆の顔に、である。青森に3人の子と妻を残し、より多い仕送りを求めて愛知の車部品工場に派遣され、台所・風呂・トイレ共同のアパートの一室を寝床に(3DK一室に3人の他人が詰め込まれているのである)、日夜残業に頑張っている30代中頃のお父さん。あるいは、沖縄に恋人を残し、居酒屋開業の資金を貯めながら、実家に仕送りまでしている20代の若者――そのいずれもが、なんと言いますか、長時間のアップに耐えられるご尊顔をなすっておられる。二枚目でも三枚目でもない、ただの男の、しかし唯一無二の顔をしている。惨めでも悲愴でもなく、しかし思わずもらい泣きの熱い涙を禁じ得ないような顔だ。
 こういった、巷間にいくらでも存在するがゆえに価値高く、混濁の世を『普通』に保ってくれている人間の顔は、もっともっとモニター上に氾濫していいのではないか。んなショボくて普通なもんわざわざテレビで観たくねーよ、といった意見も多かろうが、ならばなぜ、大半の放送に呆けた顔としまりのない声ばかりが氾濫しているのか。まるで世界中がハンパ物の集積になりつつあるような錯覚に陥る。
 今さら過去の銀幕のスターばりの特上物ばかり見せてくれとは言わないが、個性という仮称のハンパ物ばかり表立って踊っているのを見せられると、正直、「おまいら別にエラくなる必要はないが、やっぱしせめて普通くらいは目ざしたほうがいいと思うぞ」、などと、愚痴のひとつもこぼしたくなる。まあ普通以下の狸が、言えた義理でもないんですけどね。
 ところで、狸ご贔屓の野村萬斎さん演じる『鞍馬天狗』――毎回とても楽しく拝見してはいるのだが、まだまだ主役の器を生かしきれていないのではないか。嵐寛ばりの色っぽい着物走りなんか、もっとできるはずだぞ、萬斎さん。


02月06日 水  エデンの東

 BSで録画した『エデンの東』を観る。初めて観たのは、確か中学1年の頃、NHKで放映された吹き替え版。内容に関しては今さら説明の必要もなさそうな名画だが、当然中学生の自分にはほとんど登場人物たちの心理が掴めず、一緒に観た高校生の姉もピンと来なかったらしく、やたら美しい映画音楽と広大なアメリカの農村光景だけが印象に残った。さて、今回じっくり再見させていただくと――おお、なんだなんだ、ここまで平易な農村ホームドラマであったか。あらゆる登場人物の心理が、練られたシナリオと演出で、手に取るように理解できる。昔は理解不能だった親子兄弟恋人云々のズブドロが、清々しいまでに適確に語られ、どのキャラにも感情移入してしまえるぶん、ラストのしみじみ度も格別なのであった。しかし昔のいわゆる『名画』という奴は、本当に大人が大人のために作るものだったのだなあ。子供の頃に理解できた(と思った)作品でも、歳くえばくうほど見所が増えるし。
 ところで、その昔のNHK放映時、テーマミュージックは有名だし名高い名画だし、我々子供が観てもなんらさしつかえない作品と思われたのに、なぜか父親が妙に観せたがらなかったのを、ふと思い出した。まあ結局拝み倒して観せてもらい、結局子供二人は途中で退屈してしまい、逆に父親のほうが熱心に観ていたのだけれど。あれはきっと、映画をほとんど観ない父親が、スタインベックの原作だけ知っていたからだったのだろう。確かに、狸も後年読んだ原作は、映画にない前半(というより4分の3近い部分)が、かなりアレだった。映画では売春宿の遣り手マダムとしての姿しか描かれない母親が、原作では、もう12歳の頃から男とニャンニャンしまくりだったりするのである。あの気怠げな中年女性も、昔はナボコフの『ロリータ』なみの小悪魔だったのですね。
 まあ現在となっては、中学生が中学生のニャンニャンする話を観まくり読みまくり、それを大人の誰も咎めないわけだが、ふと、父親の許可が出なければ『名画』ひとつ観られなかった当時の道徳感覚が、妙に懐かしく、心地よく回想されたりもする。やっぱりそーいった秘め事は、陰でこっそりなんかいろいろ苦労しながらアレしてこそ、より『知』へのロマンが醸し出される気がする。


02月03日 日  ♪雪やこんこ

 犬は喜び庭駆けまわり、猫は炬燵で丸くなる――某駅の緑地公園の野良猫たちは、どこかで無事に寒を凌いでいるだろうか。昨年寄ったとき、猫おばさんのどなたかが、まだちっこい奴のために、ベンチの下に段ボールハウスを作ってクッションや毛布を入れてやっていたが、どこかの杓子定規な人非人に撤去されたりしておらんか。確認に行きたいが、金も暇もない。いや、今日は暇はあるのだが、金がない。しかし狸は雪が降ると「ふんふんふん」などと鼻を鳴らしながら外をうろつくタチなので、駅前から某ショッピングセンター直行の無料バスに乗る。買い物をする金はないが、その付近には神社もあれば図書館もある。
 車は少なく乗客も少なく行き帰りは快適、でも図書館には案外多くの親子連れがいた。子供という生き物も、雪が降ると活性化するのである。着ぶくれしたろりのちみっこたちを生暖かい視線で愛でつつ、面白い本も発見。
『ハッブル宇宙望遠鏡で見る驚異の宇宙』――技術評論社の立体写真集。立体写真というやつは、当然両眼の視差が必要なのだが、ハッブル宇宙望遠鏡は今のところひとつしかない。まあふたつあったとしても、地球の衛星軌道上である限り、遠い銀河の彼方に対して、視認できるほどの視差は生じない。つまりこの本に収められた、思わずため息が出てしまうような天然色大宇宙立体写真多数は、著者の伊中明さんが、せっせと自力で画像処理した、いわば仮想遠近感写真である。しかし実際左右の目の間隔が何光年やら何百光年もあるような超々巨大宇宙生物から見れば、宇宙もそんなふうに見えるわけである。著者のホームページでも、あくまでパソの解像力ながら、かなり浪漫チックな宇宙が堪能できます。

 話はころりと変わって、新聞の文化欄にあった松谷みよ子さんの自伝刊行紹介記事より、若き日の松谷さんに坪田譲治さんがおっしゃったという言葉。「
作品のかたちは何でもいい。小説でも童話でも、3枚書こうと1000枚書こうと、ファンタジーであろうとリアリズムであろうと。ただ人生をお書きなさい」――至言ですね。もちろん人間でなく狸の生でも大宇宙の生でも、あるいは消しゴムなど無機物の運命でもいいわけで、要は作者の視線の問題。

 また話はころりと変わって、「
アダルトショップでセーラー服を買ったことはあるか」――去年、痴漢で懲役くらった植草元教授の裁判で、弁護側が「容疑者はそんな事をするような人物ではない」と主張したところ、検察側から「ブルセラ好き」やら「ロリータ系AV収集」やら具体的な嗜好癖を追求されてしまい、「アダルトショップでセーラー服を買ったことはあるか」という質問にも、頷かざるを得なかったそうである。しかし――狸もまた、使用済み物件には何の興味もないものの、「アダルトショップでセーラー服を買ったことはあるか」と問われれば、こくこくと頷かざるを得ないのである。今はもうビンボゆえ里子に出してしまった、アリスのためである。
 植草元教授も、大人らしく偽善者の道を歩むべきだったのである。


02月01日 金  時事ネタ

 紛う方無き中国産のQQ冷凍餃子をおいしくいただきながら、つらつら考えることは多々あるのだが、ビンボなので国産品は食えないのだから仕方がない。大体、今どき中国産の原料がいっさい使われていない量販食品など、探すほうだ大変だ。むしろ中国ご当地で今回の件がほとんど報道されていないという事実に、「さすが大中国!」などと感心したりもする。もちろん皮肉です。

 ところで、久々に司直の判断に好評価を。
 2004年の11月、ここに記した事件の続きなので、まずその時の雑想の一部をコピペ。

 
それからニュース関係をひとつ。『26年前に東京都足立区立中川小学校の女性教諭を殺害したとして、千葉県に住む元同小警備員の男(68)が今年8月、警視庁に自首してきた事件で、同庁捜査一課は17日、この男を殺人、死体遺棄容疑で東京地検に書類送検した。すでに殺人罪の公訴時効(15年)が成立しており、不起訴になる見通し。(読売新聞) - 11月17日13時29分更新』。これだけの記事ではなにがなんだかわからず、罪を犯しながらも処罰を恐れて時効まで隠れていた犯人が、時効を機にせめて悔悟の情を表そうと自首した、そんなニュアンスに受け止める方も出て来ると思いますが、とんでもはっぷんあるいてじゅっぷん。小学校の警備員が放課後の学校の廊下で女性教師を殺害(殺害の経緯は不明ですが、犯人の前歴から推測して、アレ方向と思われます。ここでは断言できませんが)、妻もいる自宅の庭に埋め、しばらくしてそれを忘れてしまい(当人の発言です)ごく普通に仕事を続け、最近自宅取り壊しの話が出て、あ、いかん、庭にアレ埋めてあったんだ、バレるわな、でも時効だから大丈夫、そんな軽い気持ちで自首した、という事件です。――時効ってなんなんだ。

 そしてその翌日の雑想の一部もコピペ。

 
おう、気になってHDをほじくりかえしてみたら、昨日の日記にデタラメ記していた。例の時効の犯人は、妻の留守中に自宅の掘り炬燵の下に、死体を埋めていたのでした。つまり、生活空間の下に埋めた死体を、忘れていたのですね。そして、区画整理で立ち退き話が出たのは十年前。ここで、十六年ぶりに死体の存在を思い出した。で、この犯人さんは、当人の自白によると、後悔して罪の意識を抱いたんだそうです。その時点で、刑事事件としては時効。だったらそこで自首しろよ、と言いたいところですが、彼は頑として立ち退きを拒否し、門を二メートルの鉄製に改装、塀はトタンや有刺鉄線で外敵遮断、表と裏には監視カメラを設置。ここらへんの気持ちは、大変興味深い。しかし今夏、なぜか移転を承諾して、千葉に妻名義の自宅を建築、そこに引っ越した直後に自首――。おいおい、後悔して罪の意識を抱きながら、老後の生活まで計算するんじゃねーよ。ちなみに民事上も二十年で時効成立してますから、犯人は現在完全な自由市民です。権利的になんら制約はありません。年金もちゃんと出ます。さすがに奥さんとは離婚調停中とのことですが。

 ――以上の犯人に対し、以前、一審の東京地裁は慰謝料分330万円のみの判決だったのが、今回の東京高裁は遺族が相続した損害賠償請求権を認めて、約4200万円に大幅アップ。
 犯人は今回の控訴審には一度も出廷しなかったそうだ。まあ刑事ではなく民事だから法的に拘束するのはもはや不可能だし、犯人の根性が根性なのでさらなる上告も考えられるわけだが、できればこのまま確定して、せめて犯人の老後の安泰だけは阻止したいものである。とはいえ犯人に強制執行くらわせたとしても、基本的な生活に必要な家財や預金は法律上残されるわけだし、仮に無一文になったとしても、生活保護だって受けられる。それでも姑息に時効を狙った犯人の、『居直ったもん勝ち』の愚劣な了見にだけは、水を差してやれるのではないか。