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06月29日 日  バランス

ニュースの時間』という、ちょっと面白いブログがあり、ルーマニア発のこんなニュースが出ていた。

 
ルーマニアの上院が、暗いニュースが多過ぎて人々を病ませているとして、もっと「楽しいニュース」を流すよう、テレビ局やラジオ局に命じる法案を可決した。
 バセスク大統領の承認が必要だが、同法案は、ニュースの放送では「明るい」話題と「暗い」話題に対等に時間を割かなければならないとしている。
 提唱した議員らは、暗いニュースが「極めて有害で、健康に取り返しのつかない影響を与える」と主張。上院はこの法案を全会一致で可決した。


 情報ソースが明示されていないのがちょっと気になるが、事実だとしたら、あの東欧の複雑な歴史の中で血生臭い苦渋をなめてきた国だからこその、正常な感覚なのだろう。
 そのニュースに対して、正体不明の『ニュースの時間』の主(あるいはただのスタッフ?)は、こんなコメントを記している。

「明るい」話題と「暗い」話題に対等に時間を割かなければならない・・・
 なんだか妙なバランス感覚をお持ちのようで。
 確かに暗い話題ばかりでは気分が滅入ってしまいますからねぇ。
 とはいっても、これじゃ一種の報道統制では?


 ――かわいそうだが、やはりこの方も現代日本にありがちな、自由なつもりの被管理型視野狭窄者のようだ。今の日本の大半の報道などというものは、自主規制やスポンサーの意のもとで管理された、商売物に他ならない。
 どのみち報道の量には限界があるのだから、利権より情による統制のほうが、まだましだ。


06月28日 土  檻の中の猫、あるいは精神の檻

 寿司が食いたい→しかし予算は最大新渡戸さんひとり→かっぱ寿司まで歩けば腹いっぱい食える。
 というわけで、回転寿司の帰りに運動不足解消がてら河原に向かってぽこぽこと歩いていると、なんとも悲しいものを見てしまった。住宅街の一角の、ちっぽけな飲み屋の軒先に、せいぜい40センチ四方程度の金網の檻が置いてあり、その中で猫がにゃあにゃあ鳴いているのである。立派な首輪をしているので、当然そこの飼い猫なのだろうが、ペットショップの売れ残りじゃあるまいし、元気な成猫が檻飼いですよ、檻飼い。昼間なので飲み屋自体は閉まっていたが、誰がそんな寸足らずな飲み屋に入るのだろう。さらに悲しかったのは、ご近所らしい若奥様がその前にベビーカーを止め、赤ちゃんともどもにこにこと猫見をしている。「にゃあにゃあちゃんだね〜」「あぶあぶ」。親子はゴキゲン、猫はひたすら哀れに「お願いだからなんとかしてくれ〜い」と鳴き続ける。狸も白昼他人様の設えた檻をあばくほどの度胸はないので、親子退場ののち、近場のコンビニで買ってきた焼き魚っぽいペットフードを与えるくらいしか、慰めようがない。いっしょに食いたくなるほどうまそうなペットフードだったので、それでかんべんしてくれな、哀れなミケよ。

 夜、ふと気が向いて、アマゾンで日美野梓ちゃんの活動状況など検索すると、高校生になってもそこそこ活動できているらしいのでそれ自体は慶賀の至りなのだが――DVDのユーザー・レビューを見ると、蒸し暑い夜なのに胸奥を寒風が吹き抜ける。
 曰く、
   
なんかあどけない感じが年齢に出ています。
   過激さだけがとりえの年齢詐称DVDよりもましな気がしますが、
   それでもやはり露出が足りないです。
   過激さが足りないです。
   がんばってほしいです。

 曰く、
   
表紙に釣られて買うとガッカリするかもしれない(笑)
   確かに可愛いのだが・・・。
   勿体無いの一言だね〜
   もう少しググッと来るものがあると思ったけど
   不完全燃焼!!

 曰く、
   
いわゆるお約束のアイテムをそろえているだけで、驚くようなシーンが何一つなかった。
   コスチュームにも工夫がない。
   小学生のTバックや、Vバックも普通になっているのに、
   今更女子高生が手ブラで静止画像を見せたからって、
   どうというものでもないでしょう。


 猫でさえ嘆く檻に、多くの人間の若い雄という寸足らずたちは、気づきもしない。理不尽な「はい、そこまで」を糊塗するために管理社会が容認したあてがいぶちの過剰と過激の中で金回しの駒にされ、ただ己を鈍磨させてゆく。若さという寸足らずの唯一の武器は、せめて『純度が高い』、それくらいしかないだろうに。
 結句、『心は売っても体は売らない』世代が、順調に増えていくのだろう。うう、やだなあ。


06月27日 金  雑想

 まずは、こんな記事から。
 
北京五輪組織委員会が今月2日付で公表した五輪期間中の中国への出入国などに関する指針に「ハンセン病患者の入国禁止」が含まれていることが明らかになり、日本の関係者から「医学的根拠がなく、この病気への誤解や差別を助長する」と批判が強まっている。
 「全国ハンセン病療養所入所者協議会」の神美知宏事務局長(74)は「明らかな偏見と差別だ。中国ではそういう誤った認識がまかり通っていたのか」と驚いた。神さんらは16日、厚生労働省に「何らかの措置を」と申し入れたという。
 世界のハンセン病医療を支援してきた日本財団の笹川陽平会長も「感染力が弱く、治る病気である実情を考慮していない。患者、回復者、家族への深刻な人権侵害だ」として、組織委などに撤回を求める文書を送った。
 問題の指針が入国を禁じたのはハンセン病患者のほか、テロ活動の恐れがある者や精神疾患、性病、開放性肺結核の患者ら。中国の入国管理関係法に基づくとみられる。
 厚労省の三好英文疾病対策課長補佐は「中国では年間約1500人がハンセン病を発病するという。どうとらえるかは中国政府の問題で、あまり簡単に答えを出せない」と困惑気味だ。
 これに対し、ハンセン病の政策に詳しい九州大の内田博文教授(刑法)は「今回のことを後ろ向きにとらえず、差別を是正する契機にしてほしい」と話す。 【6月26日16時23分配信 産経新聞】

 ……まあ、たとえば日本で、かの松本清張先生が『砂の器』を書かれたのが1960年。つまり高度経済成長のまっただ中、ハンセン病差別はその不合理性や非科学性にもかかわらずビンビンに社会の常識(?)だったわけだし、つい先年の有名ホテル宿泊拒否の一件などもあるので、特に中国が遅れているわけではないのだが――とても、哀しい。だいたい13億の人口かかえる大国で年間たった1500人しか発病しない、しかも現代においては難病でもなんでもない病気を、何が悲しゅうてわざわざ入国禁止。日本といい中国といい、下手に歴史の長い国ほど、寸足らずの歴史も温存されてしまうのか。

 BS2で、今週は『チップス先生さようなら』(1969)やら『皇帝円舞曲』(1948)やら、懐かしのミュージカル映画を放送してくれていた。どちらもドラマ主体で歌の比重は控えめだが、前者の主題歌『あなたと私』、後者の挿入歌『奥様お手をどうぞ』、いいあんばいに心が和らぎ、はずむ。たまたまどちらも19世紀の末から20世紀の初頭あたりの欧州が舞台で、片やミュージカル舞台女優を妻にしてしまった英国生真面目先生(ピーター・オトゥール)のしみじみ人生模様、片やオーストリア皇帝に新発明の蓄音機を売りつけようとやってきたアメリカのセールスマン(ビング・クロスビー)と零落気味の伯爵令嬢の恋愛喜劇、つまり映画的風合いはまったく違うが、虚構と知りつつずうっと浸り続けていたいような世界だ。
 近頃の創作物でも刺激的でキャッチーなものは多いが、永遠に浸っていたいような虚構世界には、なかなか会えない。


06月21日 土  たれだぬき

 じがじごうむじむじむじむじどじめっぼいど、生ぎでいるのがづらいので生ぎでいるのをやめだいども思うのでずが、世の中にばもっどもっどづらい日々を前向ぎに生ぎでおられる方々も多数いらっじゃるので、だぬぎもどりあえずなるべぐ前にのめりだいどおぼいばず。

 で、朝刊の『ののちゃん』には重々未練を残しつつ、朝日新聞は解約しようと思う。
 狸は夕刊をとっていないので、例の鳩山法相を死に神と例えてしまったコラムは、リアルタイムでは読んでいない。騒ぎに気づいて後日確認し、さすがにだらありと脱力した。『素粒子』というコラム欄は、昔は機知を売り物とした辛口一言コーナーだったような気がするのだが、今となっては精神厨房のブログ同様、発作的垂れ流しの場と化しているのか。とすれば、発言そのものは厨房記者の発作的奇声として呆れかえるだけなのだけれど、それが問題視されたあとの編集部や朝日新聞社自体の反応が、もはや「あぼーん」級である。子供かおまいら。
 さて、代わりにとるのは、また読売がいいか。いや、せっかく毎日通勤の境遇に戻っているのだから、ここはひとつ四半世紀前のように、新聞は電車で拾うものと認識を改め……おお、なんか、どんどん脱力してゆく。


06月19日 木  お手軽な狂気

 まあ文春だの新潮だの朝日だの、大手と言っても所詮『週刊』がアタマに付く出版物である限り、アサヒ芸能等と根は同じヨタメディア、要は書き捨て読み捨ての赤本である。少なくとも20年近く読み続けた狸は、そう結論せざるをえない。アキバの例の事件ひとつとっても、思わず頭痛がひどくなるような車内吊りの広告ばかり目立つ。
 事件そのものは大事件ではあるが、犯人はただの寸足らずである。何をしでかそうが寸足らずはただの寸足らずであり、体長5ミリでも10センチでもゴキブリはゴキブリだ。いつの時代にも既知外はきちんと存在して、理不尽な刃傷沙汰をくりひろげている。要は即刻打ち首獄門つまり晒し首になるか、後生大事に人間扱いされるか、ただの時代の差だ。なんじゃやらやくたいもない社会的弱者の精神の闇だのを持ち出していかにも寸足らず自身を社会現象そのもののように奉ってしまうから、わけも解らずそれを持ち上げる馬鹿さえ出てくる。車内吊りの見出しにもあったが、確かに『加藤智大は神』などとネットで騒ぐ精神厨房も多数存在する。しかし、それとて所詮一部の馬鹿が発作的思いつきを垂れ流しにしているだけで、ネット全体からは明らかにアホ扱いされているのである。
 つまり『あれはただの狂犬』と冷静に判断し、それなりの対処をすればいいだけの話なのに、それをいかにも深奥な社会問題に仕立て上げてしまうところが、偏執的人権社会の社会問題なのだ。だいたい、時給1300円などという恵まれた派遣をプッツンごときで棒に振ってしまう寸足らずに、世間を怨む権利などない。時給800円の派遣でも、懸命に、明るく素直に生きている青年や娘さんたちを、狸は山のように見てきたぞ。日雇い派遣を廃止するより先に、その代替的雇用システムを作っておかなければ、企業もフリーターも困るだけではないのか。ハローワークなんて、失業保険もらえる間しか、なんの役にもたたんのだ。

 思うところあって、古いビデオを掘り返し、アメリカ映画『タクシードライバー』を観る。思い起こせば1976年――狸が生涯で最も鬱勃としていた、予備校時代の公開である。デ・ニーロ演じるニューヨークのしがないタクシーの運ちゃん・トラビスが、閉塞感の末に、腐敗しきったこの街を俺が浄化するのだなどと決意し、実は思いつきのいきあたりばったりで、大統領候補を暗殺しようとしたり、それに失敗するとコロリと矛先を変え、児童売春も手がける売春宿のゴロツキたちを撃ち殺したりする。そんな映画を、予備校帰りに冬の仙台郊外の映画館で観た狸は、霙降る街を孤独に帰途につきつつ、確かにトラビスに『負の神性』を感じていた。
 要は大義名分があるようでいて、実は個人的な欲求不満や狂気の発露にすぎないのだけれど――ああ、今となっては、なんと健全な狂気だろう。破壊願望の矛先が、少なくとも社会的強者や強面のゴロツキに向いているのである。


06月16日 月  うああああ


          

 なんだかすっかり借り物レトロ動画のページと化しつつありますが、昭和36年(1961)、とゆーことは、狸の実家に夢のエンタメ物件=白黒テレビが導入された翌年の番組です。このテーマ曲を聴くだけで、狸は条件反射的に部屋の隅に逃れてうずくまり、ぷるぷると震えたりします。でも映像に関しては、実はほとんど記憶にないのですね。つまり、当時四歳の狸は、恐くて恐くてブラウン管を正視できなかったり。
 前年に放送された、狸の最古のブラウン管記憶である『怪獣マリンコング』は――残念、さしものYouTubeにも、まだアップされていないようだ。


06月13日 金  お世話になりました


          

 そのせつは、どうもお世話になりました――って、なんのお世話になったことやら。
 左から、森村あすか嬢・斎藤唯嬢、星川ミグ嬢。懐かしのマイナーアイドルグループというか、イロモノトリオというか、1980年代後期のチョンガー野郎の孤独な夜を彩った、RaCCO組の最終メンバーですね。全員、バリバリのAVギャルです。この画像は若干縦につぶれているので、やけにずんぐりむっくりに見えますが、実物はもっとスマートでした……いや、星川ミグ嬢以外のおふたりは、やっぱりちょっとずんぐり型でしたが、そこがまたぷにぷにふるふると……じゅるり。
 さて、女性の方は、以下のテキスト部分はできれば反転しないでください。

 
しかしまあ、昨今のDVDやアダルトサイトに溢れかえる「あっけらかんとただヤルだけやってまーす」なドシロウトAV嬢に比べると、個性も芸も兼ね備えたお嬢様方だったのよなあ。制作側の演出センスにもよるのだろうが、あの頃は、作品のシークエンスに合わせてきちんと芸のできる、プロのアダルト女優さんが沢山いたのである。
 たとえば流出物の裏ビデオなどをわくわくと通販で取り寄せて、深夜、チョンガー仲間の同僚などとともにイヒイヒと再生したりすると、表版では大きめにモザイク処理されていた男優さんの●●が実はフニャ●ン状態だったりして、レイプされているはずのセーラー服の彼女らは、ああいやいややめてやめてと演技しながら、そのフ●ャチ●を一生懸命くわえてあげていたりするわけです。当時のエロ雑誌には「唯ちゃんは名器なので相手役の男優は三分ももたない」などと書かれていたが、どんな流出物を入手してチェックしても、彼女らのようなアイドル路線の場合、マジ挿●など皆無なのであった。せいぜいお口までですね。


 とどのつまり――現世《うつしよ》は夢、夜の夢こそ真《まこと》。なにごとも、節操なくナマでやりゃあいいってもんでもないのである。芸があれば、モザイク上等。


06月10日 火  アキバの駄々っ子

 例の凶行の日曜日、実は狸もアキバに出ようとしていた。結局電車に乗る前に『てんや』の季節メニューに吊られて電車賃分まで胃袋に収めてしまい、地元の古本屋を巡るにとどまったのだが、もし先に電車に乗っていたら、凶行の直後あたりに到着し、確実に血を見たはずだ。なまねこなまねこ。亡くなった方々のご冥福を心より祈りつつ――たかが図体だけ大人サイズに育った駄々っ子ひとりが、これだけの愚行に走れてしまうこの国の近頃の『風土』に、がっくしと頭を垂れたりしてしまう。どんな戦後教育を受けて歪んでしまったにしろ、この国の99パーセントの人々(狸を含む)に、声を大にして断言したい。「いかなる事象においても、お前は主人公の器ではない。自分の人生においてすら」。――まあ「誰でもよかった」のハヤリに易々と乗ってしまう程度の駄々っ子に、何を言っても無駄だろうが。
 主人公になれる(なる権利がある)とすれば、せいぜい自分の想像力の中でくらいか。だからこそ創作は宝なのだ。大乱歩も言っている。現世《うつしよ》は夢、夜の夢こそ真《まこと》。

 ところで、某小説投稿板に、ようやく中村ケイタロウさんが再来された。現世と夢を知性で繋ぐタイプの、大人とお見受けする。狸も発憤せねばなあ。


06月07日 土  雑想

 えーと、競技としての水泳など何も知らない狸だが、同一選手のタイムが明らかに水着によって左右されるなら、どう考えてもそれは水着の力であって、選手の力ではないですね。ドーピング同様、明白な他力本願なのではないか。あくまでフェアを期するなら、すべての水泳選手は、ぜひ全裸で競技していただきたい。うん。それがいい。あの引き締まった体躯の水泳選手たちが、全員身一つで勝負する。想像するだに、血が踊る。そうしましょうそうしましょう。あくまで邪念はありません。でもやっぱし、その際は女子の競技だけ観戦させていただきたい。

 地元の図書館に、『小松左京全集完全版』が並んでいるのに気づいた。城西国際大学出版会がオンデマンド出版している奴で、既刊のものは全て揃えてあるようだ。このまま全巻揃えてくれるのだろう。なにはともあれ地域の知的文化のためにとてもめでたいことだが、いかにもオンデマンド出版らしい仮フランス製本は、ちょっと寂しい。まあ将来バラケ確実の無線綴じでないだけ御の字なのかもしれないが、あれだけ偉大な作家の全集が、大手出版社からハードカバーのしっかりした製本で出ていないというこの国の出版文化は、すでに末期か。

 豊田四郎監督の『雪国』(昭和32年・1957)を、録画で観る。その愛情世界が、情熱的かつ繊細というより、なにがなし『キツく』感じられるのは、もしや監督がホモ・セクシュアルの方だからか。川端文学の映像化は、やはり独善的で女好きの方でないと、うまくないのではないか。大庭秀雄監督の映画化作品(昭和40・1965)も、大昔にフィルムセンターで観た記憶があるのだが、なにせウン10年前なので細かく思い出せない。大庭監督がノンケか女好きかも知らないのだけれど、いっぺん見比べてみたい気がする。


06月04日 水  フライ・ミー・トゥー・ザ・どこか

 録画しておいた『ルパン三世・カリオストロの城』と『ヴィレッジ』を、二本立てで観る。
『カリオストロ』に関しては、個人的に、いわゆる宮崎アニメの中でも最高峰だと思っていたりするのだが、なぜか一度もソフトを買ったことがない。まあ今は買いたくとも買えないわけだが、昔、レーザーやらVHDやらを買いまくっていた頃も、なぜだか所有していなかった。観たくなる頃にきちんとテレビで放送してくれるのですね。おまけに、放送するたびに画質が良くなる。今回の放送をCMカットしてDVD−RAMに焼いておけば、一生もつのではないか。それにしても、まあなんというかあいかわらず、狸の内なる童心から爺心までまとめてわななきまくる、傑作冒険活劇ロマンではある。
 さて『ヴィレッジ』に関しては――ううむ、残念。シャマラン監督、今回も狸を化かしてはくれませんでした。出世作『シックス・センス』の時も、巷で噂になっていた『驚愕の真相!!』とやらを期待してわくわくと観ていたら、確かにたいへん面白い展開なのだが、最後の最後まで肝腎の『驚愕の真相』とやらは現れず、「ありゃ、なんかおかしいな」と思っていたら、あの幽霊のブルース・ウィリスが幽霊であることを、どうやら最後の最後までナイショにしたつもりらしいのであった。……すみません。撃たれた直後から幽霊だと思ってました。そーゆー編集になっておりましたので。まあ、それでも物語は面白かったんですけどね。で、『ヴィレッジ』のほうも、独特の湿気に満ちた閉鎖的な村のドラマはなかなか好ましかったのだが、巷で噂になっていた『驚愕の真相!!』のほうは、もう中盤で推測できてしまう。百年前の世界のどこにもあるはずのない性質の薬品が村の外にあるということは、当然、村の外は百年前ではないわけで、まあ結局最後まで、独特のウェットな風合いを楽しむしかないのであった。
 やはり創作物でずっぷしトリップさせてもらうには、真摯な直球を真っ向から受けるのが、一番クラクラできる。


06月01日 日  猫が足りない

 久々の晴天の休日、電車で例の雑木林に出かけ、このところの雨でたっぷり潤った木々や腐葉土の香りを楽しみ、野良猫たちのご機嫌をうかがおうと緑地公園に進軍したのだが――おお、なんとゆーことだ。なんじゃやらバラ園がらみのイベントが開催されており、人でいっぱい。バラの苗木を売るテントなども立ちならび、何千円の苗木を買えばカブトムシの幼虫一匹進呈、などと呼び込みも喧しい。人でいっぱいの休日の公園というやつは、人に引かれるワンちゃんもいっぱいということで、大型犬からチワワまで、飼い犬たちの天下である。また、猫の天敵である『ゴキゲンの幼児』も数知れない。当然のことながら、いつもの野良猫たちはどこかに避難してしまったらしく、ほんの2.3匹しか生存確認できなかった。
 まあ首に縄を掛けられる覚悟さえあれば、飼い犬稼業も幼児同様ゴキゲンな身分であり、秋田犬もチワワも、ながめて楽しむには好適なイキモノなのだが――やっぱり無頼っぽくちょっとヒネた野良猫たちのほうが、今の狸には楽しめる。常に野垂れ死にと背中合わせの自由を羨まれても、野良猫たちにしてみれば「ふん、いい気なもんだ」だろうが。
 ともあれ、存分に猫見するのは、やはり平日でないと難しそうだ。