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07月29日 火  想定外

 突然の豪雨による急激な川の増水で、親水公園で遊んでいた子供たちが流されてしまった痛ましいニュースを聞いていると、『想定外』という言葉があまりに軽々しく使われ、やっぱり社会全体が鈍磨しているのだなあ、と憂鬱になる。護岸工事でどうにかなる問題ではない。大体、川の中に公園を作っておいて増水の警戒設備がないというのは、『想定外』などというレベルの問題ではない。アルツハイマーの仕業だ。
 そもそも、はるか昔から日本の夏の雷雨は片端から人を撃ち殺し流し殺していたわけで、気象予報もろくな治水も行われていなかった時代のそれに比べれば、現在の進歩した技術VS温暖化で激化した自然災害など、はるかに人間側に有利なはずなのだ。やたら負け気分でいるのは、単なる適応能力の鈍磨にすぎない。

 で、今夜の晩飯のおかずは西友のハムカツとメンチカツだったのだが、これがまあ、しみじみとうまい。どちらも総菜コーナーではいちばん安価なアイテムだ。しかし近頃味覚が退化しつつあるのか、それらが立派な御馳走であった幼時の、えもいわれぬ美味感を再体験できる。ビンボのおかげである。高価な総菜を『普通』としていた頃からみれば、これも『想定外』の味覚なんだよなあ。


07月26日 土  牛歩

 連日、正しい日本の夏が続き、ひだずらじべじべどむじあづぐ、狸も正しくバテている。今週は巣穴に帰ってもテレビのスイッチを入れる気力がなく、パソを起動すれば他人様のところは覗くが、ここを更新する気力はない。しかし、風呂に入ってから寝るまでの僅かな時間、たかちゃん、じゃねーや、現在はタカ御一行様と遊ぶのだけはやめられない。といって分断された時間で息の長い長編を書き継ぐのはさすがに難しく、進行速度はそれこそ牛歩だが、馬走でも牛歩でも楽しくてやめられない点では同じである。
 ぼちぼち増えた穴だらけのテキストを、休みごとに俯瞰してまとめ、進んでいるという証拠に、すぐに某投稿板を更新したくなるが、どうも前回までのブツ切れ更新は数少ない読者の方々にも失礼だった気がして、今後は昔のように、長期的目論見に従ってひとつの山を越えるごとに、まとめて更新したいと思う。まあ、それほど御大層なシロモノでもないのだけれど。
 自分だって高橋克彦先生の『総門谷シリーズ』などを読むときには、年に何回かぽしょぽしょと僅かな分量が不定期連載されたり、掲載紙が変わって間が空いたりするのをちみちみと追いかけるよりは、年に一度でも1シークエンスまとめて読めるほうがいい。しかし数年に一度の単行本化だと、さすがにめげるよなあ。『総門谷』に限らず『舫鬼九郎』とか『完四郎』とか、楽しみにしているシリーズが、すべて牛歩なのである。まして『総門谷』は連作物ではなく、数冊ぶん進んでもまだ終わらない、ひと続き伝奇なのだ。作者の寿命のほうが心配になってしまう。
 たぶん作者である高橋先生ご自身も、もはやあれらのキャラとは一蓮托生、死ぬときゃいっしょの気分なのだろうなあ。


07月22日 火  雑想

 夏風邪、ようやく鼻水も痰もキレが良くなり、咳も治まる。もともと発熱もなく大した症状ではなかったのだが、猛暑とあいまって、とにかくひたすらウザかった。元気なつもりでもやはり消耗したのか、本日の帰り電車でうとうと居眠りしたところ、総武線に乗ったつもりが実は東西線で、巣穴のある駅のちょいと手前から大きくあさっての方向に曲がりくねって、ふと目覚めれば高田馬場なのであった。やけになって終点の中野まで行ってしまいました。あっちこっち直通で繋がっちゃうのも考えもんだよなあ。

 カメラマンの横塚眞己人さんが著した『西表島ヤマネコ騒動記』(例によって100円棚で入手した文庫本。横塚さんが雑誌編集者からいきなりネイチャーフォトカメラマンに転進した頃の回想記)を読んでいると、イリオモテヤマネコを撮影するために森で夜明かししているとき、ヒトダマらしいものに遭遇したという記述があり、そのヒトダマの様子が、大昔に読んだ食生態学者・西丸震哉さんの体験(木曽御岳でヒトダマの大群に遭遇する話)に、かなり似ている。テントやブラインドの布地をふわふわとすりぬけてしまうのだそうだ。大槻教授が「プラズマですね」と断言するにはかなり無理がある。
 西丸さんの体験は昭和30年代の木曽山中で、数はうじゃうじゃ。横塚さんのは昭和60年頃の亜熱帯雨林で、数はひとつだけ。近頃めっきり目撃例を聞かなくなってしまったヒトダマだが、人知れぬ山中あたりには、細々と残っているのかもしれない。根っからアウトドア派の方々に遭遇例が多いのをみると、ヒトダマという奴も、実は滅び行く『野性』の一種なのか。


07月19日 土  夏風邪

 みなざん、なづがぜにば、じゅーにぶんにごぢゅーいぐだざいね、がばげべごぼ。
 とまあ、巣穴以外では酷熱と冷風の波状攻撃で、夜、寝入り端になると咳が止まらなかったりするのだが、立っていれば咳も出ないし熱もないし食欲もあるので、休日の狸は滝のように汗を流しながら、いそいそと図書館に向かうのである。
『音と映像と文字による【大系】日本歴史と芸能【第13巻】大道芸と見世物』――日本ビクターと平凡社が組んで前世紀末にまとめてくれた、貴重な仕事である。当然小沢昭一さんなども絡んでおりますね。この全14巻の出版物にはビデオテープが付録になっており、小沢さんが取材した映像もかなり使われているようだ。小沢さんが尽力して記録した日本の放浪芸のオーディオカセットは何本か持っているが、ビデオはまだ観ていない。これはいいものを見つけた。香具師の大ジメや見世物小屋の人間ポンプ、のぞきからくりに瞽女の門付――いずれも『文芸』の血をわけた家族と見るが、どうか。
『森の小径』――シュティフター作、山室静訳。おお、ムーミンの訳や海外の神話の本で、子供の頃から慣れ親しんだ山室氏は、実はシュティフター大好き人間だったのだ。詩情の拠り所が共通するのか。
『昭和夏休み大全 ぼくらの思い出アルバム』――よさげなレトロ系ムック。著者の方は狸より5歳若いようだが、えてして郷愁や懐旧というものは実年齢よりちょっと遡ったところに帰着したりするのか、集められた写真は昭和30年代前半や、それ以前のものも多い。寝床でながめるのに、とても良さげ。今夜は咳が出ないといいが……。


07月16日 水  美ろりのままで

 ままで、というと語弊があるのだが、要は、いにしえの美幼女あるいは美少女が、その風合いを保ったまま成長し、老いてなお美しくあるということがいかに困難かということを、鳩山法務大臣夫人の映像を垣間見て痛感したりする。鳩山エミリーさん――旧姓・高見さん――狸世代でろりのケのある親爺なら鮮明に記憶しているはずの、高見エミリーちゃんですね。いにしえの少女雑誌などで子供の頃からモデルをつとめ、その超絶的可憐さは女児の憧れであり、のみならず男児にとってもナイショの悶絶対象だったりした。実写映画版の『黄金バット』(昭和42年)あたりが、美ろりとしての頂点だったように思う。お年頃になってからもタレントとしてずいぶん活躍されたのだけれど、今となっては、もーすっかり栄養のゆきわたった、福々しい、押しも押されぬ大臣夫人である。まあきっちりと正しい女の人生を歩んでいらっしゃるわけで、まことに慶賀の至りなのだが、ろり野郎の本音としては、やっぱりまあなんつーか、ちょっとばかしアレな気分もするのである。
 幸いこの世には吉永小百合さんのように、人妻になろうが60を越そうが、『まぼろし探偵』(昭和34年)の頃の超絶美ろり感を失わない方もいらっしゃるし、八千草薫さんのように、なんぼしわくちゃになっても可憐な美老婆でいられる方さえいらっしゃる。

 で、なぜ本日そんな話題を持ち出したかと言うと、古本屋で津山登志子さんの写真集を見かけ、しばし蕭然とたたずんでしまったりしたからなのである。数年前の、いわゆる熟女ヌードの大型本だ。
 天才写真家アラーキーさんの撮影だから、けして無内容な作品ではないはずなのだが――ああ、あの、いにしえの『りぼん』――たとえばつのだじろう先生の『ルミちゃん教室』の最終作と思われる別冊付録や、ウィーン少年合唱団大特集などが記憶にある、そんな純情可憐少女雑誌の頃の『りぼん』――その表紙で、大きなお目々でにっこし微笑んでくれていた津山登志子ちゃんが、その後役者になって、二十歳過ぎても童顔で小学生体型で、そのためかあまり役に恵まれずに軽い脇役ばっかりで、さらになんだかエロっぽいビデオなんかにも出てしまったりもして、そしていつのまにか熟女ヌード――。しっかりビニールカバーがかかっているので中身は見られなかったが、あの頃のようにちっこいまんま、あの頃よりもずいぶん痩せてしまったようだ。スマートというより、もはや、やつれている感じもする。アラーキーさんは、そのやつれ感に年増の艶と色香を見出してくれたようだが――やっぱり買えんわなあ。
 懐が寂しいせいもあるが、なにより今は、そのビニールカバーを剥がす『気力』がない。


07月13日 日  映画でごはん

 ぐったりと帰宅して、風呂でだらだらとフヤけて、録画しておいた映画観ながら発泡酒飲んで晩飯食って、パソ起動してなんかいろいろして、朗読や語りの録音物を聴きながら就寝――このところの判で押したような遅寝早起き生活は、まるで10年前に戻ったようだ。だから太ってヘルニアも再発するのだろう。収入が激減し飯の内容がZ級に退化しても、摂取できる精神財やカロリーには大差がない。新作コミックスやアニメの摂取はほぼゼロになってしまったが、それは自分で物語を紡いだり夢想したりする時間を増やしてしまったからで、テキスト情報の摂取がやめられない以上、そっちを削るしかないのである。しかし映画は毎晩のように観ている。録画なのでレンタル代もいらない。

『ゲゲゲの鬼太郎』――若手とはいえ古き良き松竹映画の時代からの大御所に師事し、釣りバカシリーズなども手堅くこなした純松竹育ちの本木監督だけに、短い撮影期間のプログラム・ピクチャー的な仕事でも、手堅く楽しませてくれる。イケメンの鬼太郎君も、根がお人好しそうで好感が持てたし、CG妖怪たちも思ったより生き生きしている。何より田中麗奈さんの猫娘、思わず餌付けしたくなるほどチャーミング。この女優さんは、今どき貴重な正真の演技力があるようだ。
『ボルケーノ』――大都会ロスのど真ん中がいきなり大噴火というアイデアが看板だが、トミー・リー・ジョーンズ演じる危機管理局の責任者のみならず、学者や医師や、末端の消防士や地下鉄職員に至るまで、とにかく矜持と人間味を兼ね備えたアッパレな人ばかり。世の中そんな立派な奴ばかりじゃねーよ、などという現実派の方たちには、ぜひ溶岩流とともに焼けながら押し流されてもらって、正統派パニック映画の減少に歯止めをかけたいものである。
『ギャラクシークエスト』――うんうんうんうん、信じてさえいれば、ボクたちおたくにもきっと報われる日がくるんだよね。おたくはおたくのままで生きていてもいいんだよね。さあみんなで夢の銀河に出発だあ! うるうるうる。
『昼下りの情事』『あなただけ今晩は』――ヘプバーンもクーパーも、レモンも、監督のワイルダーも亡くなった今、存命中なのはシャーリー・マクレーンさんだけか。娘さんのサチ・パーカーさんは元気に活躍してるし、親子ともども親日家だから、確かこの前邦画にも出演してたよなあ。お母さんはお元気なのかなあ。でも、ワイラー監督とかワイルダー監督とか、洒落たコメディから重厚なシリアス物まで手堅くこなせる職人監督が壊滅してしまった今となっては、ああした洒落ててハッピーで贅沢でしかも説得力を兼ね備えた喜劇は、もう制作不可能なんだろうなあ。ああ、昔は良かったなあ。ぶつぶつぶつ。
『名もなく貧しく美しく』――うああああ、だからなんでラストで奥さん死んじゃうのよ。脚本・監督の松山善三は鬼か? なんぼメロドラマとはいえ、納得できんぞ狸は。夜道で襲って噛み殺すぞ家に火ぃつけるぞ。……しかしながら、なんべん観ても、やはり名画なのである。「人間は報われるために生きているわけではない」という大テーマを全うするために、あの薄幸の高峰秀子さんを急死させたのは解る。解ります。しかし解るからといって、賛同できるとは限らない。やっぱり狸は松山善三監督ご存命中のうちに、夜道で襲って噛み殺すぞ家に火ぃつけるぞ。

 とゆーよーな生活が続くとますます太る一方なので、本日は久しぶりに緑地公園へ猫見に歩いて行ったが、もはや滝のような汗の垂れ流し状態。そこかしこでだらありと寝ている猫さんたちをながめながら、ベンチで仮死状態になっておりました。その時点では2〜3キロ痩せていたのではないかと思われるのだが――帰宅後、麦茶や68円の馬缶や99円の餃子や89円の発泡酒やてんこもりのコメや68円のフルーツ缶で、元の木阿弥。


07月10日 木  腸に触れる

 いきなりですが、脱腸しました。いえ、痔疾の脱肛ではなく、下腹のキ●タ●の斜め上あたりから、奥の大腸さんが腹膜を押し出して筋膜の隙間から皮膚のすぐ下までコンニチハ状態になる、つまりヘルニアです。
 まあ腹膜はあくまできっちり存在するわけで、特に痛くも苦しくもなく、指で押さえれば引っむし、座っていれば出てこない。しかし立ち仕事に移ると何かの拍子にまたモッコリ出てきて、とにかくうっちゃーしい。●ン●マの横を一日中押さえているわけにもいかないし……ぶつぶつぶつ。
 小学校低学年の頃、しばしば脱腸していたのは記憶にある。親に病院に連れて行かれたが、成長すれば自然治癒するだろうとの診断で、実際、高学年に入ったら出なくなった。ただ、完全立ち仕事に就いていた10年前、便秘が続いたためか一度だけ再発し、この時はなんぼ押してもまったく引っこまず、しまいにゃ下腹に激痛を覚えだしたので、あわてて内科に駆けこみ、お医者や看護婦さんに力仕事してもらったり、なんかいろいろ入れたり出したりしてもらって、ようやく引っこんだ。一度引っこんで便秘も解消されたら、それっきりなんともなかった。
 しかし今回は、便秘はない。やはり加齢によって腹筋や腹膜が緩んできたのだろう。あの頃よりさらに太って、腹の内部への圧力も増えたはずだ。前回のお医者の話で、すでにその警告は受けていたのである。40過ぎると出て、50過ぎると慢性化するケースが多いのだそうだ。原因は、ズバリ肥満と筋肉の劣化ですね。根本的な治療法は手術しかないというが、今のところ痛みも何もないし、手術代もないし――とりあえずダイエットと下腹の筋肉強化、これですね。
 近頃ぜんぜん歩いてないからなあ。やっぱり規則正しいお仕事は体に悪いのである(おい)。


07月07日 月  高嶺の花たち

 NHK・BSで録画しておいた『若草物語』を観る。オルコット女史やハリウッドとは縁もゆかりもない、昭和39年(1964)の日活映画である。当時の若手看板女優さんたちが四姉妹を演じる青春映画だから、題名だけ借りたのだろう。
 で、長女役の芦川いづみさんは当時29歳、次女の浅丘ルリ子さんは24歳、三女の吉永小百合さんは19歳、四女の和泉雅子さんは17歳――。すでに若手というよりしっとりと落ち着いた女優になっていた芦川さんや、勝ち気な社会婦人の風格を身につけていた浅丘さんはともかく、まだ10代の吉永さんや和泉さんまで、これがもう惚れ惚れするような実在感のある演技と心地よい滑舌を披露してくれる。これが邦画黄金期の女優さんの底力なんだよなあ。はたち過ぎてもふにゃふにゃ幼児発音のまま人気に任せて大人の演技とやらにガンバってしまう近頃の多くのタレント女優さんとは、まさに『育ちが違う』のである。これがあるから当時の邦画は、なんてことない話と演出でも、じっくり感情移入できてしまうのだ。オリンピックを控え、雑然としながらも活気に満ちた東京風景が、じっくり観られるのも嬉しい。
 当時、田舎の豆狸(私のことです)が憧れていた花の大東京や綺麗なおねいさんたちは、未熟者や子供に迎合してくれるお手軽な夢ではなく、近づくのにかなりの修行と覚悟を必要とするであろう、遙か高嶺の存在だったりした。

 なんであれ、世の中には親近感も確かに必要だが、えてして『美しいもの』はけして親《ちか》しくない。逆に言えば、手っ取り早くウケるための親近感ばかり蔓延する効率社会からは、エラいイキオイで美しいものが消えてゆく。だから、文明などなんぼ発達しても、いっこうに愛や平和は増殖しない。愛や平和が、美しいものだからだ。
 七夕の織姫さんと彦星さんだって、一年にいっぺんの逢瀬であればこそ、有史以来いまだにアツアツでいられるのかもしれませんね。


07月04日 金  脱水狸

 まあ7月といえばもう夏なのだからいきなり29度かまされるのも仕方ないのだろうが――暑い。
 ちなみに狸の現在の職場には五台のプリンターがうんうん唸っており、これは露光にはレーザーを用いるとはいえあくまで写真用の印画紙を処理するものなので、中では何種類かの化学薬品液とお湯がたっぷり、いい具合に沸いていると思ってください。おまけに半切まで焼けるので、とてもでかい。当然部屋にはエアコンもフル稼働しているが、とうてい五台の風呂桶の敵ではない。休憩室では麦茶なら飲み放題だし、ペットボトル等の持ち込みも許されているが、忙しくなるとのんびり飲茶している余裕などないし、去年の倉庫作業を考えても、人間、かいた汗のぶんの水分をかたはしから補給できるようにはできていない。腹がガボガボになってピーゴロ化しまう。
 と、ゆーわけで、今夜の狸の体重は、昨夜よりも1.5キロ減っていた。このところ遅寝早起きの規則正しい生活をしていたせいか、いっとき減っていた体重がまた80キロに向かって急増していたので、今年の夏はまたダイエットするいい機会かもしれない。おまけに、腫れかけていた扁桃腺が、一日にして治まってしまった。発汗療法の好例ですね。

 話変わって、某小説投稿板で近頃狸が続きを楽しみにしている作品のひとつに、他の読者からこんな感想が入っており、ちょっと困ってしまった。『地の文が並ぶ場面がくどく感じられて、一部早読んでしまいました。』。早読む、という単語の意味ははっきりしないが、要は飛ばし読みしたのだろう。全体的にはその作品を高評価しており、あくまで感想の一部にすぎないのだけれど――確かに世の中には、狸の駄文の中にも頻出するような、もっともらしさ演出のための『飛ばし読み可』なゴタクや、ブンガクかぶれの方々の意味もない難解文章の垂れ流しも多い。しかし、深い演出のための細密描写は、飛ばし読みどころかなんべんも繰り返して賞味するべきものだし、その気がなければあの作品を読む意義はない。
 現在、狸は、例によって古本屋の100円棚で出会った岩波文庫の『水晶』を、毎日の通勤電車で繰り返し読んでいる。シュティフターという、150年も前のドイツの作家による作品だ。帯の惹句を丸写しすると、『死のように冷たい氷の山中をさまよい歩く可憐な少年少女の物語。自然と人生の情緒的交渉を深い愛情と宗教的敬虔さをもって描く。』などと、いかにも岩波文庫らしくしかつめらしいが、要は冬山で道に迷った幼い兄妹の一夜をメインに、牧歌的で敬虔なドイツの山村風物を描いている。これなど全体の八割方が『地の文』であり、人物の心理や行動やその背景を細やかに描写することこそが作品の意図であり、その結果、ごくシンプルなストーリーが値千金の文学となっているわけである。
 描写に淫する――今となってはほとんどのプロ作家に許されない、むしろアマチュアの贅沢だと思うのだが、どうか。


07月02日 水  まだ

「やっほー! まーだだよー!」
「んむ。まだとゆーより、もー、つぎが、ないのだな。かばうまは、きのうのしごとがえりに、みちばたに落ちていたダンゴをひろいぐいして、血をはきながらひとばんのたうちまわったすえに、あさがた、ついにいきをひきとった。かわいそーに、ひもじさのあまり、ねこいらずを食ってしまったのだなあ」
「おろおろおろおろ」
「……ほんきにするんじゃあない、ゆーこ。じょーだんだ。ほんとーは、持病のへんとーせんがはれて、ちょっと横になってるだけだ」
「ほ」
「こらこら、たかこ。おまいも、ほんきにするんじゃあない。ねむっているかばうまの顔に、白いてぬぐいをかぶせては、だめだ」
「ありゃ」
「……んでも、これはこれで、なんかとっても、さまになってるなあ。ようし、ついでにおれが、ありがたいお経をよんでやろう。おい、たかこ。おまいは、もくぎょをたのむ」
「ほーい。――ぽく、ぽく、ぽく、ぽく」
「こほん……おんあぼきゃべーろしゃのーまかぼだらーまにはんどまじんばら」
「うるうるうる」