[戻る]


10月26日 日  甘口辛口

 まあ、現在ビールの代わりに発泡酒、清酒の代わりにカップの合成酒(一応法的に清酒と分類することを認められていますが、実質的には合成和風アルコール飲料といったところですね)しか飲めない狸が、今さら講釈するのもなんなんですが、日本酒のいわゆる甘口辛口を、味覚上の『甘味』『辛味』と思っている方が多いようなので、ちょこっと。
 端的に言えば、清酒の『甘口辛口』は、糖度ではなく、水より比重が重いかどうか、それだけで分類されます。甘口が重く、辛口が軽い。感覚的には、トロリとしたのが甘口、スッキリしたのが辛口、そんなところでしょうか。一般にトロリとした清酒のほうが実際甘く感じる場合が多いわけですが、キレが良く軽快な飲み口の中に芳醇な甘さも感じる、そんな辛口の清酒もあるわけですね。狸的には、でっかい酒徳利を抱えてでっかいキン●マぶらさげて骨董屋の店先に立つようなときは、ぜひそーゆー辛口を徳利に満たしておきたいわけですが、たいがいとっても高価なので、今は不可能です。

 ちなみに昔からの統計によりますと、一般大衆の精神状態が安定している時期には辛口が好まれ、不安定な時期には甘口が好まれる、そんな相関関係があると言われております。そして明治→大正→昭和と、清酒はひたすら甘口にシフトしていたらしいのですが(江戸時代には清酒メーターがなかったので不明)、明治時代の酒飲みたちは、はたして精神的にどんだけ安定していたか――。
 文明開化や四民平等や富国強兵のイキオイは確かにあったのだろうけれど、事実上、やっぱりドカチンの子は肉体労働、水呑み百姓の子は小作農に従事するしかなかったはず。しかしまあ、才能と根性と運があれば、貧乏人の子でも政治家とか軍人とか、今とはケタちがいの立身出世が可能である、そんな開化的ジャパニーズ・ドリーム感と、その一方で才能も根性もない人間は、高望みせずにドカチンや百姓や歩兵をやってれば誰にも文句は言われないという旧来の社会観、それらが比較的シンプルに、わかりやすく混淆していたのでしょうね。つまり、スッキリと辛口である。
 そして激動の昭和史――文字通りの戦争から経済戦争と、しっちゃかめっちゃかの時代――なんじゃやらレトロブームで一種の憧れの対象となっていたりもしますが、その時代、清酒はどんどんトロリベッタリの、甘口路線へと突き進んでいたのです。やっぱり大衆の精神は、必ずしも一億総火の玉になったり、三丁目の夕日を安穏と眺めていられる状態でもなかったのだろう。平成の今から振り返ればこそ、兵隊さんは凛々しく三丁目の夕日は美しいのであり、特攻やら公害やらなんじゃやら、狂的な矛盾も堂々と横行していたのである。その清酒甘口化に歯止めがかかったのは、あたかも大阪万博の頃――ようやく世間がひと息ついたわけですね。
 さて、平成の現在はと言いますと――ほとんど甘口と辛口の、プラマイ・ゼロだそうです。甘口の清酒も辛口の清酒も、ほぼトントンで造られている。ならば、昭和期に比べて一般大衆の精神は安定しているのか――残念ながら、もう相関関係は推測できません。国民の飲む酒類の中で、清酒自体のシェアが、ピークにあった昭和40年代中頃の、なんと3分の1に落ちてしまっている。
 そうした嗜好の多様化は、社会的安定の証であるのか、新たな混迷の予兆であるのか――まあ、旨い辛口の一級酒などめったに口にできなくなってしまった狸としては、穴の奥で合成酒ちびちび嘗めながら、様子見するしかないんですけどね。


10月24日 金  天高く

 馬肥ゆる秋――しかし狸の体重は、先々月あたりに比べると、2キロ減っている。それでも充分メタボなんだからもっと減らせ――まあ世間の常識で言えばそうなのだが、付け焼き刃ではない常態メタボの狸は、やはり肉体的持久力も精神的根気も、あと2キロくらいあったほうがグアイがいいのである。
 以前何度か話題にした、ちょっと遠目の食品系バッタ屋さんが、なかなか去年の品揃えに復活してくれない。暖かい時期は、冷凍やチルドの超期限切迫品を露店で売れないから仕方がないのだが、そろそろだいぶ涼しくなったと言うのに、春先まではいつも入手できた上等な餃子も海鮮掻き揚げも、なかなか店頭に山積みされない。これはやはり、不景気でクイモノが余らなくなっているのだろうか。たとえば海鮮掻き揚げは、確かなんじゃやら群馬の無名食品工場の製品だったはずだが、まさか倒産してしまったんじゃあるまいな。
 まあ、単にメタボ腹を膨らますだけなら、茨城の無名製麺所で作っているらしい袋ラーメンは年間を通して5袋入り178円で売られているし、乾蕎麦も例の信州のが230グラム68円で並んでいるのだけれど、やはりメタボを持久力に転化するには、立派なおかずも欲しいのである。袋ラーメンだけではなく餃子付きラーメンライスや、一杯のかけそばだけではなく野菜も魚類蛋白もたっぷりの天麩羅そばが、必要なのである。QQの餃子は近頃あまり旨くないし、スーパーの掻き揚げは単価を変えないためか日に日にちっこくなるみたいだし――ぶつぶつぶつ。
 まあQQにも今秋の味覚的僥倖はきちんとあり、一尾99円の秋刀魚の塩焼きが、むやみにうまい。冷凍技術の進歩によってか、ちょっと前なら生臭くて食えるものではなかったワタの部分が、ちゃんと美味しく食える。いかにも旬の秋刀魚のワタっぽく、苦味と甘味のバランスがほどよくとれているのである。ただし、おろしにする大根のほうは、やっぱり狸の子供時代に比べると、どうも薄味で水っぽいですね。
 ああ、山形出身者には不可欠な秋の味覚、芋煮でビールが飲みたい。駅近くに山形料理を出す店はあるのだが、ちょっと飲んで食うと、新渡戸さんがふたりも犠牲になるのよなあ。自分で煮るしかないか。アメリカ産冷凍牛肉なら、あのバッタ屋でも年中安いし、問題は葱と里芋だが――待てよ、QQにあるか? でも、ひとり芋煮会ってのも、なかなかサミしいものが――なんて言ってるバヤイじゃないですね。よし、今度煮よう。


10月21日 火  狸穴クッキング

 いや、かつて記したZ級グルメに比べれば、なんぼか高級なネタに思えるので。
 先月、明太子様のブログに『バタメシ』(ご飯にバター乗せてお醤油かけてかんまわすだけ)のことが載っており、そう言や狸は子供の頃たいそうそれが好きだったことを思い出し、しかし年間を通して懐中に寒風の吹き抜ける現在、QQでも入手できる安価なマーガリンで代用できたらシヤワセだと思ったのだが、さすがにそれはちょっと危険に思われ躊躇して、あえてスーパーでモノホンのバターを調達し、久しぶりに思うさま『バタメシ』を楽しんでいたところ、ふと、冷蔵庫に去年買ったQQの『海苔の佃煮』が残っているのに気づいた。甘党ではない狸にとってあまりに甘味が強すぎ、2.3回食ったっきり放置していた無名ブランド品だが、まだ腐っていない。そして、なぜだか無性にバターと相性が良さげな予感がした。で、『バタメシ』にお醤油をかける前に、ほんのちょっと『海苔の佃煮』をまぜてみたのだが――ぴんぽーん。病みつきになるほど美味でした。まあ、これがはたして万人の舌に快い食味食感であるかどうか、今一歩、自信は持てないんですけどね。
 ちなみに代用食としての『マガメシ』は、その後明太子様が実際に試されたら、やっぱりハズレだったようだ。

 コロリと話変わって、『とっぽい』という形容詞を、狸は幼少時から『とぼけている』『天然っぽい』『トロい』の意だとばかり思っていたのだが、某小説投稿でいただいた中村様のご感想の中で、生まれて初めて他の用法もあるのだと知った。さっそく検索してみたら、なんじゃやら『不良っぽい』『トンがってる』『ツッパってる』、そんな正反対のニュアンスで使われる地域のほうが、この日本では多数派らしいのである。あわてて愛用の新潮国語辞典を確認したところ、俗語ゆえ記載なし。もひとつ、笑える辞典として有名な三省堂の新明解国語辞典を確認したら、確かに、その両方の意で解説されている。
 いやあ、日本語って、本当に難しいですね。特に俗語は。


10月19日 日  超自己中狸

 さて、メイルマン様の根源的な問題提起に、脳天気な狸などは、なんの理論も策略もなく、こんなふうに即答してしまったりするわけである。

   何故人を殺してはいけないのか――狸は殺されたくないから
   何故レイプはいけないのか――――狸は犯されたくないから
   何故強盗はいけないのか―――――狸は盗まれたくないから
   何故自然破壊はいけないのか―――狸は壊されたくないから

 天上天下唯我独尊――まあ、それだけのことなんですけどね。
 その場合の『我』が仏陀個人であるのか、それとも生きとし生ける者すべてであるのか、それは別にどっちでもいいわけです。彼我は関係なし。どっちみち『我』にとっての『我』は、自分ひとり。『彼』にとっての『我』も、彼ひとり。どっちも『我』なのだから、等価なのですね。だから双方等価に『殺し合う』、それはアリでしょう。しかし『殺す』と『殺される』は、明らかに不等価であり、極力避けねばならない。心身共に惰弱な万人にとっては、『殺さない』と『殺さない』の関係、これがいちばん簡単ですね。ゆえに社会的原則となる。森羅万象=仏=等価。
 とゆーよーなことを言うと、世の既知外さんや鬼畜さんからは、こんな意見が出るかもしれない。

   何故人を殺してもいいのか―――私が殺したいから
   何故レイプしてもいいのか―――私が犯したいから
   何故強盗してもいいのか――――私が盗みたいから
   何故自然破壊してもいいのか――私が壊したいから

 とか、もっとズバリと、

   何故人を殺すのか――――私が殺したいから
   何故レイプするのか―――私が犯したいから
   何故強盗するのか――――私が盗みたいから
   何故自然破壊するのか――私が壊したいから

 とかでも、同じことなのではないか。
 ぶっぶー。ぜんぜん違いますね。
 だって、どこにも『天上天下』がない。もともと『我』ひとつしかない世界に、『独』も『尊』もないじゃないですか。それは相対関係じゃないのです。
 まあ、世の中にはいろんな方がいるので、

   何故人を殺してもいいのか―――私が殺されたいから
   何故レイプしてもいいのか―――私が犯されたいから
   何故強盗してもいいのか――――私が盗まれたいから
   何故自然破壊してもいいのか――私が壊されたいから

 などと、言い張る方が出るかもしれません。
 しかし、それはその方の勘違い。マジに殺されたいとか犯されたいとか盗まれたいとか壊されたいとか思ってたら、今現在、その方が生きているはずはない。なのに生きているということは――はい、その方も、やっぱり一番上のパターンに収まってしまうのですね。

 なお、上記はあくまで一般論ですので、たとえば『殺したい』人と『殺されたい』人、『レイプしたい』人と『レイプされたい』人が、ラッキーに出会うことも、たまにはある。たとえば大昔から有名な、日本の犯罪現場記録写真のひとつに、純サディストの夫に最期まで可愛がられてしまった純マゾヒストの妻、というのがあります。戦前の話なので、さすがに最近のメディア上では見かけませんが、一昔前までは、猟奇系の書籍や雑誌に、しばしば掲載されておりました。その写真の、日本髪を結ったまま満身創痍の全裸でこときれている妻は、確かに宗教画のごとき恍惚の表情を浮かべていたのですが――もしかしたら、その表情こそ、一般社会では未だ実現されない相対的唯我独尊の、体現だったのかもしれませんね。


10月17日 金  よしなしごと

 ちょっと昨夜の話の続きをば。
 お犬様のパンダ物件に対する感想とは、あれをラノベと言うには『中二病』が足りない、という、きわめてスルドい御意見だったのだけれど、確かに多くのラノベは、世界観自体がそんな感じですね。狸が以前なんども揶揄っぽく記したように、浅い世界を浅い描写で提示し、幼いキャラたち(年齢的には大人でも社会の要人でも)が思春期初期レベルの行動理念(小難しげな理屈や思わせぶりな哲学っぽい要素もあるのだけれど、やっぱり思春期レベル)で、ひたすらウケを狙う――。しかるに、今になってつらつら鑑みるに、別に平成の現代でなくとも、それこそ江戸の昔から明治・大正・昭和へと、そうした物語世界は、小説に限らず大衆芸能まで、なんぼでも存在していたのである。
 実は先頃、林不忘の丹下左膳ものの原作を、青空文庫だと無料なので、生まれて初めて読もうとしたのだが――吹きました。こ、これは中学校の学芸会でやってる時代劇か。こーゆー著作物が、当時の日本では大ベストセラーだったのか、などとあきれかえりつつも――あ、でもやっぱり、この話、軽くてすっげー面白いわ。あと引くわ。なるほど、そりゃ売れるわなあ。要は映画『タイタニック』同様、確信犯なのですね。
 理屈ではないのである。いつの時代も、社会に生きる庶民の大半は、最低限の教育しか受けていないのだし、人生の大半を、ただ食うための労働に生きねばならない。したがって、鬱屈に満ちた日々を潤すライトな紙芝居は、常に必要なのである。それが平成の現代の、いわゆるライトノベルの場合、ただ食うための労働者ではなく、幼少期からただ徒に『教育という名の馴致』を強いられ精神的に疲弊した青少年世代あたりが、主な需用者になっているのだろう。ただ食うために生きる成人労働者向けにも、某先生やら誰某先生やらナニ先生やらカニ先生やら、一見ヘビーな実社会を舞台にしながら、浅い世界を浅い描写で大量生産される方々も、きっちり存在していらっしゃる。
 昭和初期に活躍された林不忘=牧逸馬=谷譲次=長谷川海太郎先生などは、その異常なまでのハイテンションを保った量産力で、現在まで立派に読み継がれているが、当時の売れっ子大衆作家の大半は、時代の流れの中できれいさっぱり忘れ去られているだけなのである。太古からの大衆芸能を愛する狸としては、今後は心を入れ替えて、極力ライトな創作物を量産――などと思っても、やっぱり無理っぽいわなあ、心身ともにメタボぎみの、一介の労働狸としては。

 ところで今朝、いや、今日はイレギュラーな超遅番だったので昼頃、なぜだかハリウッド女優ジョディ・フォスターさんと仲良くする夢を見てしまった。それも、『タクシー・ドライバー』や『白い家の少女』(共に1976)に出た頃の小悪魔ろりではなく、『アンナと王様』(1999)に出た頃の熟女ジョディさんと、必要以上に仲良くしてしまったのである。
 やっぱり狸は、老いたのだろうか。できれば『トム・ソーヤーの冒険』(1973)に出ていた頃の、ディズニー映画的子役ジョディちゃんと、思うさま仲良くしてみたかったのだが――いや、あくまで必要以内の童心世界で。


10月16日 木  中二病?

 なんじゃやらけっこう流行語っぽいのだが、もはや世間様のハヤリスタリに経済的にも時間的にもおつきあいしかねる狸は、例の再投稿パンダ物件にいただいたお犬様からのご感想の中で、初めて『中二病』という言葉を知った。さっそくネットで検索してみると、ああ、なんだ、太古より存在する『思春期の入口』の1パターンのことなのですね。『モノ知らずのツッパリ』、とも言いますね。
 まあ、精神年齢をちょうど中二の頃に固着させてしまった狸が言うのもなんなんですが、テレビだのネットだの、大半は情報を装った商品カタログばかりで生活をいっぱいいっぱいにしていると、せっかくの楽しい思春期が羊水の底に沈殿してしまうので、やっぱり古典的書物を読むのが吉。ハヤリモノの書物ばかりだと、やっぱり大半が商品カタログですしね。
 早い話、どこぞの世界名作全集でもひととおり読破すれば、引き籠もりの中学生だって、あら不思議、立派な引き籠もりの狸親爺に化けられます。


10月13日 月  檻の中

 檻の中の生活には、すでに慣れたかに見えた三浦元社長だったが、老境に至ってついに『ツッパリ心』を失ったか。あの方の数奇な人生をドキュメント等で見聞する限り、一種の性格破綻者であったことは確かなようだが、いわゆる『ロス疑惑』関連での社会的な追い込みは、甚だ疑問が多い。事件の真実がどうであれ、物的証拠もなく自白すらない状況で、彼を法的に断罪するのは不可能だ。ロス市警にだって、裁判での勝算があったとは思えない。面子と、まさに『疑惑』だけが、この終局を招いたのだろう。今回の三浦元社長自殺に当たって、被害者・一美さんのお母さんのコメントの中に、「被害者の人権よりも犯罪者の人権を重んじる日本では、三浦が裁判に勝ち、正義は実現しませんでした。」とあった。お気持ちは解るが、明らかに感情的な主観にすぎない。情況証拠や周囲の推測だけから犯罪者を特定したのでは、中世の魔女裁判と同じだ。ただのリンチ、ただのイジメなのである。狸が常々表明している死刑制度擁護論にしても、それは「明らかに万死に値する卑劣かつ残忍な罪を自発的に犯していることが物的証拠によっても自白によっても明白でありながら、なぜ我々がその犯罪者の安穏を一生保証せねばならんのか」ということだ。噛みつきそうな犬はみんな檻に入れてしまえ、一度人に噛みついた犬はみんな薬殺してしまえ――そんな手前勝手な感情論ではない。

 緒形拳さんがお亡くなりになった。狸の数少ない昔の彼女のひとりが緒形さんの大ファンであり、舞台の楽屋を何度も訪ねて話を聞いたとか、自分が演劇科に入ったのもその影響が大きいとか、そんな話を楽しそうに蒲団の中でまで繰り出すものだから、狸としてはなかなか微妙な気分だったのだが、緒形さんが一代の名優であったことは間違いなく、狸自身その死を悼むとともに、ああ、今頃彼女も遠い空の下で嘆いているのだろうなあ、と、やっぱり微妙な気分である。
 その追悼番組で、NHKのドラマ『破獄』(昭和60年)を、BSの録画で観た。太平洋戦争前後の激動期を、ただ刑務所から繰り返し脱獄するためだけに生きていたかのごとき、希代の脱獄囚・白鳥由栄をモデルとした、吉村昭氏による小説のドラマ化である。と言っても狸はその小説は読んでおらず、だから緒形拳さんの入魂の演技にはつくづく感銘を受けつつも、ドラマ全体から感じる一種の過剰な社会性や情動、そして荒唐無稽感を避けるためかずいぶん簡略化されていた脱獄の経過が、原作によるものか脚色・演出によるものかは定かではないが、ちょっと気になったのも確かである。
 小説こそ読んでいないものの、モデルとなった白鳥由栄そのものを描いたドキュメント『脱獄王―白鳥由栄の証言』(斎藤充功氏の)は読んだことがあり、それによれば、彼の脱獄手段には、まさに人間離れした異常な忍耐力と、荒唐無稽な曲芸に近い体技がある。一方で、彼の人間像はといえば、若い頃はちょっと性格破綻者っぽいけれど、あくまで戦前の不景気・貧困による強盗犯であり、その成りゆきでの殺人犯(つまり珍しくもない粗暴犯)にすぎない。また脱獄中は、なんか行き当たりばったりでさしたる行動理念もなく、脱獄囚とは知らず親切にしてくれた一警官に、いきなり自首したりもしている。そして、戦前は過酷で非人道的だった刑務所が戦後民主化されてからは、当人の老いもあってか模範囚、仮出所後は気ままな日雇い暮らし――つまり、『人間扱いされない所からはどうあっても逃げる』という行為のみにおいて、彼は天才であり希代の努力家だったのである。それ以外の部分では、最低限人間らしい生活を送れれば、きわめて無欲な貧乏人だ。

『ツッパリ心』のハードルに、何か時代の差を感じる。三浦元社長は、やはり自由と贅沢に慣れすぎていたのだろう。


10月10日 金  光陰

 え? もう金曜日? 確か昨晩あたり、しだ翠《みどり》さんの話を記したばかりのような気がするのだが……ううむ、これが勤め人の生活時間感覚なのだろうなあ。そういえば旧職場でかなり真っ当な社会人をやっていた時など、自覚としてはほんの数年どたばたしていただけなのに、なぜか20年も過ぎ去っていたもんなあ。このぶんだと来年あたり、もう赤いちゃんちゃんこ――いや、富士の樹海の白骨か。

 ところで、昨晩の話の続き、じゃねーや、もう四日も前の話の続きだが、『池内誠一』あるいは『いけうち誠一』でネット検索してみると、おお、なんとゆーことだ、狸が中学どころか小学校の時代から現在に至るまで、あの『しだ翠《みどり》』さんは、各種少年誌やら学習誌やら、企画主導の児童向け単行本やら各種入門漫画物まで、営々と、「なんでも注文に応じますプロ漫画家ですから」の道を歩んでいらしたのである。『しだ翠《みどり》』というペンネームは、本当にごく短いエロ劇画並行時代限定の名前だったわけですね。
 思い起こせば、そうした職人系漫画家さんも狸の記憶には多々存在するわけで、たとえば貸本時代の『鬼童譲二』=少年誌から児童書イラストからほのぼの癒し系からエロ劇画までなんでもござれの『出井州忍』=愛らしい主役キャラとゲテグロ怨念物件の対比も凄まじい少女ホラー漫画家『谷間夢路』さんなどは、老いてなおネット漫画やアニメにまで進出しておられる。また、古典的怪談仕立ての貸本漫画から曙出版の少女ホラー単行本あたりで、幼少年時の狸をなんかいろいろ恐怖させてくれた女流漫画家『さがみゆき』さんも、その後レディース系や官能系まで手を広げて、生涯現役っぽい。(ここ数年はあまりお名前を見ないが、そのかわり娘さんの『英みちこ』さんがレディース系で稼いでいらっしゃるようだ。)
 ううむ――結局、創作意欲とは、持続力の下部属性に他ならないのか。いや、入魂の数作で消えてしまう優れた方々も多々いらしゃるわけだが――以前ここで記したことのある『谷口敬』さん、そして『しだ翠』さん等、現役職人漫画家さんによる入魂のろり漫画、もう新作は見られないのだろうなあ。肝腎の世間の『需要』には、孤高の魂も創作意欲も、ほとんど関係ないですもんね。まことしやかに『時代とニーズ』などとうそぶきつつ、実はハヤリもスタリも、成り行き任せの拝金編集世界。


10月06日 月  お耽美ろり野郎が生きるということ

 その方を『お耽美ろり野郎』などと呼称してしまうと、現在も一般青年誌で別名の現役漫画家として活躍しておられるご当人が「ぎく!」と慌てられるか、「んむ」と同志のまなざしで力強くうなずいてくれるかどうか、まあ定かではないのだけれど、要は、当世好みのいわゆる『萌え絵』が跋扈する前、つまりロリエロ界が孤高の牙を抜かれ表層的過激の中で実は体制にすっかり馴致されてしまうよりも遙か以前の昭和58年、耽美系美幼女エロ劇画史における金字塔とも言うべき奇書『蘭館』を一冊上梓されたのみで、それっきり姿を消してしまった伝説のろり絵師、『しだ翠《みどり》』さんの話である。
 ちなみに下の画像は、しだ氏が当時の『劇画・悦楽号』に発表された『娼女M』の冒頭2ページ。単行本には収録されておらず、そんな古いエロ劇画誌を後生大事に保存している物好きも少ないだろうから、あえてここに『引用』させていただきました。ちなみに『蘭館』は2000年に復刻されたものの現在は絶版、しかしなんとその後電子書籍になっているので、未見のろり野郎の方々は、ぜひご一読ください。下のようなクラシカルな美幼女たちと、ハードにして静謐なお耽美の闇に溺れられます。

  

 で、昭和後期にそれっきり姿を消してしまったと言っても、それはあくまで『しだ翠』というペンネームが消えてしまっただけであって、粘着質の狸があちこちの本屋で少女向けのホラーコミック単行本などを探索していると、明らかに絵柄の類似した作品に出会ったりもして、しかしこれがぱらぱらと立ち読みした時点でそぞろ寂寥感にうなだれてしまうような荒い作画だったため、「ああ、やっぱり漫画家として『食って行く』ということは、こーゆーことなんだろうなあ」と消沈し、結局購入しなかった。しかし、これが大変な間違いであったことを、つい最近、2チャンの漫画板で知った。つまり『しだ翠』=『いけうち誠一』であることはどうやら確実で、現在もゴルフ漫画で活躍されている大ベテランなのだが、その『いけうち誠一』名義でかつて刊行されていた少女ホラーの単行本の中に、なんと、さらに時を遡ること1970年のコンニチワ、当時中一の狸に多大なトラウマを与えたサイコ系恐怖漫画『小ちゃくなあれ』が収録されているらしいのである。
『小ちゃくなあれ』――あうあう、今ちょこっと思い出しても、なんだか底知れず不気味で不条理で猟奇的で恐ろしくて、しかしその底に潜む背徳感という毒の蜜の名状しがたい味がたちまち舌に蘇る――。ちなみに、こんな漫画なのです。これをトラウマとしていまだ逃れられないかつてのちびっこも多いらしく、ネットのあちこちで話題になっております。狸の記憶により情報補填しますと、確かに大阪万博の年、つまり昭和45年、別冊少年マガジンの恐怖漫画特集で、堂々、石森章太郎先生の『くだんのはは』(小松左京先生原作!)や永井豪先生の『吸血鬼狩り』などとともに掲載されていたはずなのです。
 ううむ、厨房時の超トラウマ作『小ちゃくなあれ』、そしてろり野郎として成人後に出会った『蘭館』――その池内誠一先生が、まさか『ワタリ』の頃の白土三平のアシスタントをやっていたほどの超ベテラン漫画家であったとは――ううむ、職業漫画家の人生とは、かくも数奇なものなのだ。
 しかし――いけうち先生、いえ、しだ先生。職業作家である以上、それぞれの作品で力は尽くされているのでしょうが、少なくとも作画的に見る限り、どう見ても、『蘭館』や『媚少女M』への根性の入りグアイは他を圧しているように思われるのですが、やっぱり『同志』と呼ばせていただいてもいいのでしょうか。


10月04日 土  机上の休日

 いちおう世間様なみに、原則として隔週土曜は休みである。まあシフトの関係で、多少のズレは生じるのだけれど。
 そろそろ自作のスペースSFミステリーファンタジーアドベンチャー(あくまでメイルマン様による他称。でも、確かにこれ全部要素として入ってますね。まあたかちゃんワールドそのものがなんでもアリで、狸はただ彼女らが勝手に我が脳内でやってることを、読者の方々にも同調できる形で成文化しようと唸っているだけなのだが。まあ、くら様の感性には残念ながら同調できないみたいだし、第一部を楽しんでくれた多くの方々も第二部ではイマイチ同調しかねていらっしゃるあんばいのようですが、これも一種のジャンル問題なのだろうか? ところで話はコロリと変わって、くら様のブログを覗いていると、あっちこっちでなんかいろいろ論戦にご活躍のようなのだけれど、いったいどこでそんなアツい状況が展開しているのでしょう。いっぺんこっそり教えてください――閑話休題、ってオイ、ずいぶん長い括弧閉じだなこりゃ)の続きも更新したいのだけれど、先月はほとんど『ホワイトアルバム』の世界にずっぷしだったし(実はその後もまだ半分沈んでいるのです。イベント再現モードどころかHシーン再現すらない潔いシステムであるため、メインのシナリオの流れや、それに直結するランダムイベントの流れを分析するためには、たった五つのセーブポイントを、こまめに別フォルダに待避させながら自力でコレクションして行くしかないという――閑話休題、ってオイ、またまたずいぶん長い括弧閉じだなこりゃ)、合間にちょこちょこと打ち貯めた自作テキストも、第三部のクライマックスがらみ、つまり推定来年でないと披露できないパートだったりする。
 で、ようやく本日、ようやく第二部最終話の後半に着手していたり。次回更新はなんとか今月中に――って、中ふた月近く空いて、続き読んでくれる人がいるのか? だいたい、最終話をまとめるため第二部をはじめから読み返すのに、書いた当人でも昨日の夜から今日の午後までかかったぞオイ。それも、便宜上第何話第何話と区切ってあるだけで、実質はひと繋がりの連続物であり、そのオチは当分つかないという保証まであるのだぞ。……まあ、気にしていても仕方がない。連続創作物に対する打ち切り宣告をする者が自分以外にはいない、それだけがアマの特権だ。いや、死神もいるが、アレはプロ・アマ問いませんしね。しかし、いかんせん『読者からのご感想』という外的刺激物件に飢えているのも確かである。
 そこでつらつら鑑みるに、旧作のパンダ物件のライト版のほうは、スニーカーで三次落ちしたっきりまだどこでも公開していないから、旧作ご免でいつもの板にアップしてみようか、などとも思う今日この頃。まあ内容は99%同じ構成なのだけれど、オリジナルのほうではあくまで昭和ユーモア文学的に、ことさらもっともらしい古風な語彙を多用したりしていたのを、ライト版ではきれいさっぱり(あくまで爺いの当社比だが)平易なジュブナイルの語彙に変えてしまったのだから、主観的には別物にも思えるし、近頃の中学生の方々などにも楽しんでいただけるかもしれないし。もし好評だったら、続編のクリスマス物件も、昭和文体のままでリバイバル公開……って、なんかジリ貧のゲームブランドのリニューアル商売および旧作ダウンロード販売みたいだな、こりゃ。まあいいか。無料なんだし。


10月02日 木  緩慢なる破綻の末に

 富石弘輝君の事件、また背景が混迷してきた。弘輝君には多額の保険がかけられており、殺害した母親は、犯行後まもなく自ら保険会社に弘輝君死亡の連絡を入れているのだそうだ。……あうあう、結局それかよ。……いや、種々の要因で精神的に追いつめられていたのも事実のようだが……まだ解らんなあ。いずれにせよ、逮捕以降の母親の、あの「とにかくすべてはもう終わったのだ」というような一種の達観したまなざしが、とてつもなく哀しい。
 それとは対照的に、大阪の個室ビデオ店放火犯、完全にイった目をしていると思ったら、離婚やらリストラやらギャンブルの借金やらで、文字どおりイってしまっていたらしい。でも、生活保護、きちんと受けてたんだよなあ。なまじ一人前の男として一家を成した過去があればこそ、その生活保護を受けているという事実すら、自暴自棄に繋がっていたのか。

 話はコロリと変わるようだが、あんがい彼女や彼の状況、いや、すべての人間に通底するような気もする、ひとつの昔話を思い出した。確か青森の伝承だったと思う。江戸時代だったか、それとも明治以降だったか、それも耄碌した狸の記憶ではすでに曖昧なのだが、とにかくひどい飢饉下での話である。
 ある村の河原に、幼い娘を連れたひとりの女乞食が住みついた。自分ひとりの生きる糧すらおぼつかないのに、必死に幼子を養う様はたいへんにけなげで、村人たちも常々憐れんでいたが、村人たちにしてからが一家で餓死寸前なのだから、そうそう食い物を恵んでやるわけにもいかない。乞食の母子は、日に日に痩せ細ってゆく。そして、ある日のこと、いつものように河原で娘をあやしていた女乞食は、ふと立ち上がり、いきなりその幼子を川辺の石に叩きつけ、殺してしまったのだそうだ。驚愕する村人たちを尻目に、彼女は見違えるような晴れ晴れとした表情を浮かべ、足取りも軽く、いずこかに去っていった――それだけの言い伝えである。
 どうでしょう。人間というものの本質を、如実に表す話だと思いませんか?

 ときおり、電車に轢かれそうになった人や、川で溺れかけた子供などを、通りすがりの方が勇敢に救助したりする。そして間が悪いと、相手を救助したのはいいものの、自分だけ死んでしまったりもする。それはもちろん素晴らしい行動=自己犠牲であり、マスコミなどでは「とっさの時にそうした行動に、人間の真価が問われる」などと言われがちなのだけれど、実は、狸はそうとは思いません。人間、とっさの場合ほど、後先考えず英雄になれてしまったりするものです。自分も電車に轢かれてしまうのではないかとか、救助に失敗して自分が溺れてしまうのではないかとか、その場合あとに残された自分の家族はどう生活するかとか、そこまで考えている暇がないからですね。いわば発作的状況限定の性善説です。
 しかし人間の真価が問われるのは、本当は、緩慢なる破綻の過程において、どう行動するかでしょう。大切なこともやくたいもないしがらみもあーじゃこーじゃと人間らしく頭の中でこねくりまわす時間をたっぷり与えられてしまった上で、さてあなたは何のために生き、あるいは何のために死んで行くか――まあ、そのあたりんとこで、肥大化した脳味噌を持って生まれてしまった人類という種の性善説も性悪説も、論じられるべきなのですね。
 いやもう、自分のことはきれいさっぱり棚に上げて。