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11月30日 日  祝・冬のバッタ屋さん

 例の食品系バッタ屋さんが、ようやく本格的な冬モードに入ったようだ。期限切迫の冷食、チルド、一個あたりの単価はちょっと高いが一般のスーパーよりは内容的にはるかに豊かなお総菜などが、日々店頭に山積みされる。冬の間は順調に太れそうだ。
 また日々の糧以外にも、階上の68円均一コーナーに、タウリンが3000ミリも入ったドリンク剤がお目見えした。無論名もない医薬品メーカーの製品だが、あの手の物は、150円のリポDだろうがちょっと安いエスカップだろうが投げ売りのチオビタだろうが、中身はほぼ同じである。しかしどのメーカー品も、最普及価格帯商品には、タウリンは1000ミリグラムしか含まれていない。3000の奴だと、たいがい250円から300円はする。喜々としてここ3日ほど1日1本飲み続けてみたら、これがもう明らかに脚が軽い。早足で階段を昇っても息が切れない。疲労の蓄積が軽減される。
 狸は薬品会社の回し者ではないし、かつて人生最大の多忙期には1000円近いドリンクを毎日飲んでもヨレヨレのまんまで生きていたのだが、あれはあくまで肉体的若さ以上に働きすぎていたのだろうなあ。それとも、肉体が衰えたぶん、そうした成分が効きやすくなったのか。あるいはここ何年か、フトコロのつごうでそうしたドリンクなどは飲まない生活を送っていたから、効き目がモロに目立っているだけか。いずれにせよ、しまいにゃ心臓が止まるのではないかとか、このまんま動脈の鼓動が際限なく早くなって破裂してしまうのではないかとか、そうした心配をせずに階段を上れるというのは、つくづくありがたい。
 昔、鬼太鼓座だったか鼓童だったかのドキュメント本を読んだとき、彼らは自然食しか摂取しないので、リポDなんぞ飲もうものなら体が疼いて眠れなくなってしまう、などという記述があり、プラシーボ効果にすぎないのではと眉に唾をつけたものだが、実際、ドリンク剤は効くのである。


11月29日 土  小谷デプス

 MIXIの田川氏のフォトアルバムで、『極底探検船ポーラーボーラ』(1977、円谷プロが海外との合作で制作した恐竜物の秘境アドベンチャー)の主題歌のシングル盤ジャケットなど、久しぶりに再見した。狸も昔ずいぶん聴いたレコード(なんとあの実力派黒人ジャズ・シンガー、ナンシー・ウィルソンが、あんな小規模特撮映画の主題歌を、本気印で歌っている)であり、今では実家とともに消えてしまった盤だったので、無性に懐かしかった。
 ところで田川氏は、こんなブログをご存知だろうか。その『ポーラーボーラ』を制作したアーサー・ランキン・Jrや、トム・コタニ監督(実は純日本人の小谷承靖監督ですね)がらみの記事があり、そのコラムの中で国産人形アニメの草分け・持永只仁氏なども絡んでくるので、なかなか興味深い資料となっております。

 さて、アニメや特撮関係のみならず、斜陽期の邦画全般ずっぷしに生きた映画少年期の狸にとって、小谷承靖監督というお方は、むしろあの雪崩の如く崩壊してゆく日本プログラム・ピクチャー界の一角を彩った異色の職人監督として、かなり大きな存在だったりするのです。
 1960年に東宝入社、助監督時代は稲垣浩監督や成瀬巳喜男監督に師事したというから、映画に対する真摯な姿勢は折り紙付きだろう。しかし監督デビューは、加山雄三の若大将の最晩期にあたる『俺の空だぜ! 若大将』(1970)だから、まさに邦画の斜陽とともに生きることを運命づけられてしまったような新人だったわけだが、石原プロモーション制作の東宝映画『ゴキブリ刑事《デカ》』とその続編『ザ・ゴキブリ』(ともに1973)で、渡哲也さんを主演に邦画離れしたクールな刑事アクションを力いっぱいカマしてくれたかと思えば、『急げ! 若者』(1974、フォー・リーブス)、『はつ恋』(1975、井上純一と仁科明子)、『愛の嵐の中で』(1978、桜田淳子)、『ピンクレディーの活動大写真』(1978)『ホワイト・ラブ』(1979、山口百恵と三浦友和)、『すっかり…その気で!』(1981、自分が監督になる前のビートたけし)、『潮騒』(1985、掘ちえみと鶴見辰吾)等々、いわゆるアイドル映画やタレント映画でありながら実にきっちりと充実した映画を営々と作り続け、その合間にはかの『ポーラーボーラ』をはじめ、太平洋をまたいで異色な職人仕事も多数なされていたわけである。
 で、狸としては、声を大にして叫びたい。
 なんで『がんばれ! 若大将』や『激突! 若大将』(1975、76、草刈正雄)が、大昔ビデオ化されたっきり、レーザーにもDVDにもならんのか。そりゃ加山雄三の歴史的存在感には負けるかもしれないが、当時田舎のイモ高校生だった狸やその仲間にとって、あんなに邦画離れした洒落てて楽しくてカッコいい映画はなかったぞ。
 そして、海洋幻想譚として実に美しくリリカルな異色のイマージュを紡いでくれた、かの『The Bermuda Depths 』(1978)が、テレビの洋画劇場で『バミューダの謎 魔の三角海域に棲む巨大モンスター』として何度か放映されたっきり、日本ではビデオにもレーザーにもDVDにもならんのか。アメリカではDVDが出てるし、YouTubeには全編アップされているのだが、狸は英語が解らんし、あの荒くてコマい画面じゃ『鑑賞』にならんのよ。特撮担当が『ポーラーボーラ』に続き佐川監督で、もう正しく元祖『ウルトラQ』風味のファンタジーなんだがなあ。
 ところで小谷監督は、どうやらかのヘンリー小谷(大正時代、アメリカから日本に映画制作技術そのものを持ちこんだ方ですね)の子孫(息子さんかお孫さん)らしい。それで英語での演出もできるのか。


11月28日 金  チャック・ノリス・ジョーク

 週末の疲れ切った体に輸入発泡酒やQQおでんを補填しながら、BSで録画しておいたブルース・リーの『ドラゴンへの道』(1972)を、ホケーっと頭を空っぽにして愉しんでいると、ラストの決闘シーンで、若き日のチャック・ノリスが悪役としてリーに匹敵する体技を披露しており、ああ、あのおっさんは昔から本当に凄かったんだよなあ、と、あらためて実感した。
 男汁系アクション映画ファンでないとあまり知らないかもしれないが、チャック・ノリスといえば1980年代あたりのB級アクション界では稼ぎ頭であり、その後のスティーブン・セガールあたりに似た存在だが、セガールのようなハイソ方向への色目はほとんど使わず、ただひたすら『B級C級Z級、予算を問わず問答無用で悪い奴らをシメまくる』、そんな田舎の正義オヤジ(あくまで狸の主観)である。主演作の中には、封切週の興収が全米ベスト1のヒット作などもあるから、A級と言えばA級なのだろうが、実際にその作品を観てみれば、それはやはり全米ベスト1のB(C?)級脳天気アクションなのですね。
 で、ちょっとネットで検索してみたら、その独特の存在感は彼の国でもただならぬものであったらしく、『チャック・ノリス・ジョーク』という、ジョークとしてのひとつのジャンルまで存在するらしいのだ。
 曰く、
●銃が人を殺すのではない、チャック・ノリスが人を殺すのだ。
●合衆国内での主な死因は、1.心臓病  2.チャック・ノリス 3.癌 である。
●毎晩、ブギーマンは寝る前に自宅のクローゼットにチャック・ノリスがいないかチェックする。
●小便で雪に名前を書く子供がいる。チャック・ノリスは小便でコンクリートに名前を彫る。
●チャック・ノリスを倒す方法は存在しない。なぜならチャック・ノリスが存在している時点で彼の「勝ち」なのだ。
●チャック・ノリスの涙はガンを治す。しかし、残念ながら彼は泣かない。
●チャック・ノリスは実は10年前に死んでいる。だが死神はビビってそれを本人に言えずにいる。
●イラクには大量破壊兵器は存在しない。なぜならチャック・ノリスはオクラホマに住んでいるからだ。
●生まれたばかりの赤ん坊が泣くのは、自分が「チャック・ノリスのいる世界」にやってきてしまったことを察知するからだ。
●チャックノリスは火星に行った事がある。火星に生物反応がないのはチャックが火星の生命体を全部殺してしまったからだ。
●北の将軍はノリスを警戒して実験を強行した。しかしノリスに核は通用しない 。
●紅海を割ったのはモーゼではない。そのときたまたまそこをチャック・ノリスが走り抜けていっただけだ。

 といった凄腕系の他に、
●チャック・ノリスはかつてヴァージン諸島を訪れた。そこは今はただの「諸島」である。
●「鉄の女」といわれる身持ちの固い女すら、チャック・ノリスを前にしてはたちどころに股を開く。あの自由の女神でさえもまた例外ではない。

 などという下半身系も混じっているから、そっち方面の噂も多いのでしょうね。
 なんにせよ昔からのファンの狸としては、もし捕獲されて狸汁にされる時には、もはやハイソ化してしまったシュワちゃんやスタローンよりも、田舎のムサい正義オヤジ感を失わないノリスに殴り殺されたいですね。セガールのハッタリ感も好きなのだけれど、どうもあのおっさんにシメられるのは、野生動物として本望でない気がする。


11月26日 水  滂沱

 例の元厚生次官襲撃事件の想像を絶するアホな犯人像や、その他もろもろ加害者たちをまとめて肥溜めに沈めてしまいたくなってしまうような巷の出来事はちょっとこっちに置いといて――こーゆーシロモノで泣いていいのか俺は、と、大泣きしたあとで思わず自分の背中にケリを入れたくなるような映画を観てしまった。時節柄『ラスト・クリスマス』というタイトルだけに惹かれてふと録画してみた、1980年制作のイタリア映画である。
 主人公は、8歳の少年。まずこのショタが身も世も有らずかわいいのである。こんなのがもし道端でしょんぼりしていたら、サミしいチョンガー親爺などはそのケがなくとも思わず家に連れて帰っていっしょに風呂に入りたくなってしまう、そんな子供だ。で、この子が生まれついての血液抗体欠落症で、これまでずっと無菌室の中で育ってきた。病因が母親の染色体にあったことなどから、両親はすでに離婚の相談中、母親は頻繁にお見舞いに来てくれるものの、すでに新しい愛人もできた父親は、たまに電話越しの会話を交わすだけでなかなか会いに来てくれない。やがて両親の不和を知った少年は、その原因が自分にあることに胸を痛めつつ、でもなんとかならないものかと無菌室から脱走する。生まれて初めて見る外の世界に胸を弾ませ、しかしたちまち外気の細菌に冒されながら、写真でしか見たことのない郊外の家をめざす少年。一方少年の失踪を知った両親も、その行き先を悟り、昔の家に向かう。再会する親子。すでに死の迫った少年は、両親の腕に抱かれながらつぶやく。「ぼくがいなくなっても、仲良く暮してね」――。
 いかがでしょう。
 こーいった見え見えの趣向が、それはもーヒネリも何もないベタな演出で展開されまくってしまうのです。
 観客を馬鹿にするな。
 どこの下手な浪花節ですかこの駄作は――。
 などと狸の知性は激しくののしり続けるのですが――もーなんじゃやら胸は果てしなく疼くは、目尻から温湯が垂れ流しになるは、やっぱり狸もはっきりと老いました。負けたぜ。
 ちなみに、主人公の少年以外にも、彼に悪態つきまくりながら終始フォローしてくれる侠気のある悪友少年(やっぱりまだ8歳)なども登場し、ペットのむく犬と共にラストまで、思いっきしベタな、しかし実に味のあるワキを務めてくれます。

 こういった、いかにも『三倍泣かせる母物映画』(いったい幾つや俺は)的浪花節に接してしまうと、ふと思い出すのが、高校時代の『岩壁の母』(1976。内容は説明の必要もあるまい)や、予備校時代の『ラストコンサート』(1978年の、これもイタリアらしいベタな白血病少女物)あるいは『アイスキャッスル』(これは難病物ではなく、失明したフィギュア・スケート選手の少女が、恋人や家族の励ましで復帰する話)である。いずれもピッチャー(シナリオや演出ですね)は凡庸そのもので、ヒネリどころかろくにスピードもない、とりあえず仕事なので投げました、そんな球威のはずなのに、なぜかこっちのバットがまっぷたつにへし折れて、がっくしとバッターボックスに膝をつき、滂沱の涙にくれてしまったのである。って、なんだ、狸はもう10代のうちから耄碌していたのだ。

 1にパターン、2に役者、34がなくて5に音楽――小説や漫画に使えないのは音楽くらいか。
 パターンそのもののストーリーでも、キャラさえ立たせてしまえば、人の心はきっちり打てるのですね。まあ、相手が狸程度の単純な脳味噌であればですけど。


11月23日 日  雑想

 昔、『やおい』という呼称が使われ始めた当時、それらのBL系同人漫画はせいぜい4ページだの6ページだので、当然その分量でまともなドラマを語れる力量などシロトにあるはずもなく、『ヤマなし』『オチなし』『イミなし』、そんな揶揄っぽいジャンル名を冠されてしまったわけだが――さて現在、一大メディアと化した同人漫画(ゲームも含め)市場をつらつらつらと瞥見するに――おお、なんとゆーことだ。BLに限らず、プロはだしの画力を備えた長編が多数あるにも関わらず、その八割方は、ヤマもなければオチもなければイミもない。市場規模数十億円の馴れ合い――まあ、買う方も喜んで買ってるんだから罪とは言わないけれど、いちおう創作物なのだから、せめて欲だけじゃなくヒトカケラの魂は籠めてほしいものである。

 コロリと話は変わって、『星猫』の画像に出会った。いえ、通りすがりの画像掲示板で拾っただけで、その猫の正体も知らないんですけどね。この猫の毛並みを白にして二又尻尾を生やしたのが、まんま『にゃーお様』だと思って間違いありません。

     


 で、またまたコロリと話は変わって、昨夜地上派放送された『続・三丁目の夕日』、観れば観るほど正編に比べてシナリオ上の粗や風俗描写の浅さや遠景CGエキストラたちの無生物的な動きが目についてしまうのだが、まあそれらの不満は、ラスト15分のなんとも心地いい大団円で、みんな許せてしまう。許せないのは、なんじゃやら本編がカットしまくりの上、ひどい時には数分おきに挿入される大量CMの嵐である。
 なんぼスポンサー命の民放とはいえ、制作に直接関わったテレビ局の話題作初放映でこの本編大量カットは、ひどすぎるのではないか。正編放送時も少々カットはあったが、ここまでではなかった。鈴木オート社長の戦友がらみの泣ける幽霊譚など、その戦友が幽霊であったというオチまでカットされ、話そのものが変わってしまっている。宅間先生の狸探し踊り(?)もないし、鈴木一家のお茶の間8ミリ上映シーンもない。これはもはや、CMなど観ても何も買う金のない狸のような貧乏人を、敵視しているとしか思えないのである。そうだそうだ。CMに釣られて車だの大画面テレビだの家だのを買う収入のない貧乏人など、死ねと言っているのだ。ふん。いいもんいいもん。ツタヤの半額クーポンの日に、DVD借りるもん。日テレなんて、二度と観てやるものか。しつこくしつこく流れた新作ドラマの予告や映画CM、えーと、なんじゃやら一本調子のイケメン君たちが頑張る感動のレスキュー物や、説得力ゼロな世界観の中でどこかでお見かけしたようなCGアクションが大量に垂れ流されるらしい怪人20面相ですか、死ぬまで絶対に観ません。


11月20日 木  雪便り

 狸の故郷・山形市では昨日早くも初雪が降り、今朝には5センチも積もっていたのだそうだ。
 いいなあ。
 もし現在の狸穴近辺で一度に5センチも雪が積もったら、即、出勤電車の運行を心配しなければならない。
 でもやっぱり、いいなあ。
 それを伝えてくれた知人はずっと山形在住だから、今後の雪下ろしなどを思えば喜んでばかりもいられないのだろうけれど、5センチ程度なら、まだ余裕で「いいだろういいだろう」と笑っていられる。
 ふん、うらやましくなんかないやい、などとうそぶきつつ、さっそくこのHPの表を、例年の冬仕様に変えたりする狸です。


11月19日 水  なまねこな夜

 とにかく暑がりの狸にとって、ようやく冬の到来を予感させる涼しさになった。久々に脚をのばしてお湯につかりたいと思い、帰宅後、勇躍お風呂セットを抱えて徒歩圏内の銭湯に向かうと――廃業していた。思い起こせば前回そこを訪れたのは確か晩夏だったから、文句を言える筋合いの客ではないが、きっちり狸穴から近い順に次々と銭湯が消えていくのには愕然としてしまう。まあ狸穴から近い順と言うことは、とりもなおさず駅から近い順に廃業しているわけで、この都会では不思議でもなんでもないのだろうなあ。せめて自転車圏内の銭湯が全滅しないことを祈るのみ。

 蕭然として狸穴に引き返す途上の交差点で、携帯を使いながら歩道で自転車を走らせているミニスカートのおねいちゃんに遭遇。まあ今さら珍しくもない光景だが、それにしても危なっかしいなあとハラハラしていると、狸のほぼ真正面でバランスを崩し、携帯で通話したまんま、どすこい、と片脚を踏ん張って停止した。ミニですよ。ミニでどすこいしますか、普通。見せパンでもなんでもない白いショーツの股間が丸出しだ。それでも笑いながら会話を続けているのです。年の頃はたち前後で、けして馬鹿っぽくはなく、お顔もプロポーションも並以上。20年前の狸なら、内心で拍手しながらじっくりと鑑賞させていただいたかもしれないが、今となっては、ただげんなりとして行き過ぎるのみ。いったいどんな社会のどんな家庭で育つと、あーゆー可哀想な娘さんができてしまうのでしょうね――などと思う一方で――いったいどんな社会のどんな環境で暮らしていると、まだ50を過ぎたばっかりで本来ならエロ中年真っ盛りのお年頃なのに、こんな枯れススキのようなオヤジができてしまうのでしょうね。

 その後、狸穴の狭い湯船で膝を抱えるように、でもけっこうくつろぎながらラジオを聴いていると、例の元厚生次官や家族を狙った殺傷事件で巷は大騒ぎのようだ。いずれどこかの寸足らずが、聞きかじり読みかじりの情報から妄想を脹らませた末の犯行だろうとは思うが、何が悲しゅうて標的が厚生次官やその家族。責任者に落とし前つけさせるつもりなら、当時の厚生大臣は小泉純一郎さんだったのでは。まあ、聞きかじり読みかじりの情報から妄想を脹らませる航空幕僚長なども現存したこの社会、もう何が起こっても不思議ではないのだろうなあ。なまねこなまねこ。


11月16日 日  どですかでん

 BSの黒澤監督全作品放映は欠かさず観ており、若い頃に観た時とはかなり違った感触に驚いているのだけれど、それは無論作品自体が変わったのではなく(あたりまえだ)狸の感受性や解釈基盤が変わったのであって、それもまた過去の創作物と再接触する上での大いなる楽しみである。
 たとえば今回の『どですかでん』、最初に観たのは高校時代だったか大学時代だったか、いずれにせよリアルタイムの制作年(大阪万博の年ですね)でなかったのは確かで、原作である山本周五郎の『季節のない街』をすでに読んだ後だったためもあり、大いに失望した記憶がある。原作に横溢する、極貧社会の住人に対する人間味溢れた視線がちっとも感じられず、黒澤監督の持ち味である、やたら視線の高い英雄主義的な尊大さで庶民を見ているような風合いが、悪い方向に際立ってしまったと感じてしまったのだ。それ以前の『赤ひげ』や、さらに以前のエンタメ群や社会派作品では、その高位からの視線がある種のカタルシスに繋がり魅力だったわけだが、『どですかでん』では、やたら鼻についてしまったのですね。
 しかし今回再見して、びっくり仰天。そーゆー凡庸な視点の完全な埒外。ある意味、黒澤監督が、やくたいもない『一般市民』、つまりそれまで囚われていた『一般観客』に叩きつけた三下り半というか、明確に「俺はおまえらうじゃじゃけた日和見連中にサービスするのはアホらしくてもうできんよ」、そんな宣言だったのである。つまり、この作品においてギリギリの下層社会の人間たちを丸裸に剥いてみせる視線は、黒澤自身が身を置いている上層社会に対する視線と同質であるに他ならず、そこに向けられる黒い笑いも苦痛を伴うまでの共感も、まさに上下平等なのである。ただ、中途半端なその他大勢、つまりこの日本では大勢を占める『中流社会』への歩み寄りを、きれいさっぱり拒否しているだけなのだ。
 黒澤監督は、この作品を作ったしばらく後に自殺未遂事件を起こしたわけだが、それは確かに『赤ひげ』以降に見舞われたハリウッド関係との軋轢――『暴走機関車』の頓挫や『トラ・トラ・トラ』の降板もコタえたのだろうけれど、むしろそれらの事件を巡って、自分がそれまで信じていた『一般観客』がなんの定見もない日和見連中に過ぎなかったことを痛感してしまったからであり、そして『どですかでん』への、国内での的外れな批評や煮え切らない評価を通して、「ああ、やっぱりこの国の大衆は、ただ馬鹿にでも解るサービスを求めているだけなのだ」、そんな絶望感に囚われたからなのではないか。
 まあ、欧米やソ連においては『どですかでん』もきっちり高評価を受けたのであり、それはまさにあちらが徹底した階層社会であるがゆえに、その作品に流れる明確なヒューマニズムを見て取れたのだろう。かのウィリアム・ワイラー監督などは、『どですかでん』こそ黒澤作品のベスト、とまで評している。
 さて、自殺未遂から立ち直った黒澤監督は、皆様ご存知のように、以降、きれいさっぱり『大衆ウケ』を放棄し、ただひたすら「どですかでん、どですかでん、どですかでん」と、あの電車馬鹿の少年のように、己にだけ見える鉄路の上を、迷わず走り続けることになる。その最初の復帰作『デルス・ウザーラ』の放映が、今から楽しみでならない。狸がリアルタイムで初めて接した黒澤作品である。美しかったのよなあ。


11月14日 金  50円ワゴンから

 読書に関しては、ごく一部のコミックスを除けば、もっぱら図書館と、古本屋の100円ワゴンが頼りとなっている狸だが、新古本チェーンの最終廃棄寸前ワゴン、つまり2冊で100円のワゴンも、良く見ればなかなか『使える』のに気づいた。たとえば先日は、刑事コロンボの、ノベライズではない小説オリジナル『血文字の罠』と、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』を、まとめて100円で買えてしまった。
 コロンボの方は、小説オリジナルといってもノベライズと同じシリーズの体裁なので、やはり文章的には味もそっけもなく、セリフとストーリーを楽しむためだけのものである。もちろん描写や演出はしっかり為されているのだけれど、ドラマにして2時間近い『映像的物語』を原稿用紙300枚程度で再現するのは、やはり不可能なのですね。一時間ドラマ(実質45分くらい)を想定しても最低200枚はいるだろうし、長編映画一本分を情動コミでしっかり語ろうとすれば、やはり最低500枚になってしまうだろう。まあ、狸の書く物件がそうした枚数感覚である、それだけのことかもしれないが。ちなみに現在進行中の『ゆうこちゃんと星ねこさん』は、一話が30分枠のアニメ一回分くらい、そんな感覚で打っている。このまんまだと2クール、つまり毎週一回半年間の放送期間になってしまいそうなので、そうなったら、わーい、『未来少年コナン』全話とおんなし長さ――って、笑ってる場合か、おい。ぜんぶひとりで成文化しなきゃならんのだぞ。打ち始めてから、もう1年半近くたってるのだぞ。でも宮崎駿さんは、あれ全部、ほぼ自力でリアルタイムで創造・演出しきっているのよなあ。やっぱり天才なのである。
 『アルジャーノンに花束を』の方は、言うまでもなく心理SFの大ベストセラーで、狸も若い時分に読んですなおに感動したのだけれど、今回、生活に疲れヒネた頭で読み返してみたら、なんじゃやらいかにもキリスト教的な『原罪』を思わせる人間観に、やや辟易してしまう部分も散見された。世の中、もうちょっと、なんかいろいろ多面的なアレに溢れてるんじゃないかと思うんですけどね。

 ついしん。どーかついでがあったらうらにわのバニラダヌキのおはかにみがきにしんをそなえてやってください。


11月11日 火  どこかで見ているかもしれないあなたへ その2

 幼い頃、精神疾患の肉親と同居していたことは、以前にも記したように思う。のちにアルツハイマーで寝たきりになった祖母や、現在グループホームで暮らしている母とは違い、まだ若い叔母だった。
 その叔母は幼時に疫痢で高熱が続いたために癲癇を患っており、その叔母と幼い自分しか家にいないときに発作を起こされてしまうと、ガキのことゆえ文字どおり為すすべがなく、このまま叔母が死んでしまうのではないかという恐怖から、幼い狸は押し入れの闇に逃げ込んで、他の家人が帰ってくるまで文字どおり膝を抱えて震えていた。
 癲癇というのは精神病と言うよりあくまで器質的な脳疾患だが、そのストレスからか叔母はやがて統合失調症におちいり、種々の妄想や幻覚に怯えたのち、ある日、自分の首を剃刀で切って、それから数年を精神病院で過ごした。首の傷自体はさほど重傷ではなかったが、死なない程度の出血でも、寝ていた蒲団は血の沼のように見えた。
 その叔母の病棟に着替えや小遣いを届ける役目を、小学校の頃に頻繁に務めるうち、脳天気な狸もなんじゃやら種々の懊悩に囚われてしまい、小学校の高学年の冬あたり、いわゆる思春期にさしかかると、自分という存在そのものにまである種の無力感を抱き、しまいにゃ「人が生きるということに、本当はなんの意味があるんだろうなあ」などと、精神病院からの帰り道、陸橋の上で、雪の奥羽本線を疾駆する蒸気機関車の白煙に蕭然と身をゆだねたりもしてしまったのだけれど――実はちょうどその冬のある夜、狸は、市街地では珍しい『でっかい雪の結晶がまんまの形で降ってきて世の中みんなきらきらと星の界』状態に遭遇し、なんといいますか、『森羅万象が、ただ在る』ということの、圧倒的な感覚を骨身に刻んだりしてしまったわけである。まあそのあたりの感覚を、たとえば狸が心底嫌っている宮本輝氏のように、一見真摯に、しかしあざとく扇情的に独善的に成文化できれば芥川賞モノなのだろうけれど、狸はそこまで厚顔ではないし、また敬愛する三浦哲郎先生のような透徹した精神も文学性も持ち合わせがないので、『なんだかよくわからないものの聖夜』などという、超個人的なイリュージョンしか紡ぎ出せなかったわけである。

 ところで、今、狸は、どこかでここを見ているかもしれないあなたの言動に接し、まるで押し入れに閉じこもって震えるがごとき、大人げない振る舞いに逃げるしかありません。顔を合わせたことこそないにしろ、かつてあなたと交わしたつもりの言霊たちが、実はなんの相関的意味合いも持っていなかったのか――そんな無力感にうちひしがれる一方で、人間どうせいつかは死ぬのだからせめて笑いながら死ねる道を模索してみるべきなのではないか――やっぱりそんな気がするのです。
 いっぺんバックレて、雪の露天風呂にでも浸かってみては?
 ちなみに狸の叔母は、先頃、ごく普通に天寿をまっとうしました。


11月09日 日  なまねこなまねこ

 で、昨日の話の続きなのだが、どうも近頃の狸の体重減少は、明らかに物価上昇の影響なのではないか。
 たとえば、小麦粉である。直で小麦粉を調理することはないが、日々昼食でお握りとともに食するカップ麺やパン、これが実質、目減りしている。朝にQQで購入するのだが、製品自体を値上げしないために、麺やパン生地の量を減らしているのである。たとえ10グラムの減少でも、毎日積み重なれば馬鹿にならないカロリー減だ。
 そして、餅である。狸はこのところ、週に2回は晩飯に雑煮を食っている。調理が簡単で、腹持ちが良く、青菜がちょっと高いものの鶏肉や餅はとても安価だからだ。しかし、餅米が値上がりしたとは聞かないのに、夏までは一袋に5個入っていたQQの餅まで、いつのまにか4個に減っている。当初は、まあダイエットにいいか、などと気軽に考えていたが、ここまでストレートにダイエットに繋がってしまうと、さすがに今後が不安になる。なんぼQQやスーパーの特売品が安いからといって、同じ量を食うのに購買数が増えてしまうのでは、食費は増える一方の理屈だ。なまねこなまねこ。

 ころりと話は変わって、前から気になっていた、この『なまねこなまねこ』という言葉が、かの宮沢賢治の造語であることを、近頃ようやく知った。童話の中で、山猫大明神をたたえるときに唱えられる、いわば「なまんだぶ」らしい。しかしその山猫大明神とは、どうやら賢治が嫌っていた浄土真宗一派の暗喩であり、しかももっぱら「なまねこなまねこ」を多用するのは、山猫大明神の名を利用して悪事を働き結局自滅してゆく、ろくでもない狸なのだそうだ。ううむ、困った。偶然とはいえ、そんな狸の風上にも置けない奴の口癖を、曹洞宗の自分が唱えていたとは。ああ、なまねこなまねこ。

 ところで、某投稿板の過去ログに隠れてしまった『ゆうこちゃんと星ねこさん』、二か月ぶりにこっそり更新しました。今度こそ優子ちゃんが目覚めるはずだったのに、目覚める直前まででかなりの枚数を費やしてしまい、結局、お目覚めは次回となります。あしからず御了承ください――って、たぶんもうほんの2〜3名の方しか、読んでいただけないとは思いますが。なにせ900枚に達そうとしているのに、まだ3分の2しかストーリーが進んでいなかったり。ううむ、なまねこなまねこなまねこ。


11月04日 火  どこかで見ているかもしれないあなたへ

 なんじゃやらニュースで大騒ぎしている小室哲哉というミュージシャンがおり、その彼が一世を風靡した時代があったのは、さすがの老狸も知っているのだが、では彼が作曲して大ヒットしたという曲どものメロディーなど、あらためて聴かされれば確かに記憶にはあるものの、正直、なんでこんなドレミファを無難に組み合わせて無難な言葉をのせただけの、ある意味量産演歌のごときワンパターンが大ヒットしていたのか、呆れてしまったりもする。アレンジというか、スタイルそのものが、古い表現で恐縮だが『時代と寝て』いたんでしょうね。たかだか5億くらいのバックレでこれほど大騒ぎされるのも、まさに寝たあとのフォローがまずかったとしか言いようがない。しかし、寝たのはお互い様なんだからちょっとは優しくしてやれよ『時代』、そんな気もする。

 ところで、今回の雑想タイトルは、そんな有名人とはまったく関連がない。あなたという市井の人に向けて打っています。言いたいことはただひとつ、あなたがそんなに心労を重ねるいわれは、あなた個人にも市井にもありはしないのである。人一倍多感なあなたのことだから、あなたという自我そのものの中に種々の齟齬を感じ、また社会に適応する上でも大いなる齟齬感を日々つのらせているのでしょうが、ヌケてしまえばすむことなのではないでしょうか。いや、この世をヌケてしまうという意味ではなくて、なんといいますか、したいこともしたくないことも、バックレてしまえばいいような気がします。もちろんそれを実行してしまうと、現在の狸のごとき人生の敗残者になってしまう可能性もあるのですが――が、しかし――たとえば前職を辞める直前の頃など、どんな老舗の鰻を食っても砂を噛むようだった舌が、今はQQの秋刀魚一尾をハラワタまでしみじみ味わえるほどに復活していたりもするわけで。
 冗談めかして、しょっちゅう富士の樹海に行きたがってしまう狸ですが、もし実際、富士の樹海で目をつぶる時が来たら、せめて唇の端をふてぶてしく上に丸めながら眠りたいものです。