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06月30日 火  プアマン亭おすすめ・スリーコイングルメ

 狸穴推奨のZ級グルメに指定するにはちょいと高価だし、お味のほうも、世に言うB級グルメを越えているような気がするので、こんなカテゴリーに入れてみた。要は、松屋の豚めしが300円超に値上がりして以来、久しくとだえていた、300円でお釣りが来る、満腹&美味な外食の系譜である。
 ズバリ、またまた松屋の快挙、フレッシュトマトカレー。

          

 松屋には昔から夏場限定の『うまトマハンバーグ定食』というのがあり、トマトソースのセンスに秀でていたのだけれど、いかんせん本体のハンバーグがペケすぎた。100均のハンバーグよりはマシだが、200円台の冷凍ハンバーグには明らかに負けていた。それでいて、定食とはいえ600円を超えている。

          

 しかし今回の、カレーに対する大胆なトマト大量投入は、もともとのトマトソースのセンスが理想的な形で生かされ、オリジナルカレーより大人向けの味となり、おまけに安価な鶏肉の採用で、実に久々の290円である。大盛りにして生野菜もつけて定食化しても480円――おお、ワンコインディナー!

          

 惜しむらくは、いつもの松屋のパターンで、季節限定メニューになる可能性が高いのだが、まあこれで、狸にはひたすら辛い夏の訪れも、少しは歓迎できるようになりそうな気がする。

 しかし、トマトはいい。トマト、ピーマン、ジャガイモ、ナス――みんなナス科ですね。
 小学校低学年の頃は、偏食で大半の野菜が食えず、今なら好物の人参や葱も当時はまったく食えず、しばしばお昼休みまでかかって泣きながら給食を嚥下していた狸なのだが、なぜかナス科の野菜はなんでも食えた。昔の青臭くて堅いトマトも、茄子の味噌汁や不揃いなしぎ焼きも、懐かしい夏の味ですね。きっとナス科の植物と、前世の縁があるのだろう。
 ちなみに、タバコやトンガラシも、ナス科なんですね。


06月28日 日  我が想い 泡沫のごと ぽこぽこと 雨夜の空に ぽこりけるかも

 まあマイケル君に限らず、ファラ・フォーセット老嬢も闘病の末に亡くなったり、デビット・キャラダインの兄ィも自殺だか他殺だか事故だかなんだかよくわからないちょっと恥ずかしい状況で死んでいたり、人というものは、うっかりするとすぐにどこかへ行ってしまう。先月の末には、栗本薫さんこと中島梓さんも、継続中の『グイン・サーガ』を遺して、お亡くなりになりましたね。かくして人々の未完の想いは、その人を離れ、ふわふわと世に漂うのみ。

 大庭監督の『雪国』を、ようやくとっくりと鑑賞した。
 な、なんという、すなおな脚本演出。
 川端康成先生の原作は、綿密な形容描写に比して心理描写は詳述省略、人物の科白を多分に曖昧模糊とした感情のままに提示し、お昼のメロドラマ的な事象を、一般庶民から一段格上の、いかにも微妙高尚な事象に見せるという手法が目立つ。なんだか思いっきりバチアタリな記述をしているようだが、それも立派に文芸なのである。
 それを大庭監督は、物語の時系列もふくめて、もう貧しい狸にも長屋のおばちゃんにも理解可能な、てらいのない演出と映像美に再構成してしまう。時系列を含めて、ということは、かの有名な原作の冒頭の一文『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』さえ、映画では中盤になってようやく登場することになる。この度胸はすげえぜ大庭監督。さすがは『君の名は』を撮った、メロドラマの大御所である。褒めていいのか呆れていいのかちょっと悩んでしまう部分もあるのだが、結果的に、これが実にこなれた原作消化法であることは間違いない。その証拠に、以前ここにも記した豊田四郎監督の、やたら錯綜感がありツンツンとトンがった『雪国』とは違い、原作の透徹した叙情感がストレートに再現され、長屋のおばちゃんでも、一般庶民から一段上の、いかにも微妙高尚な映画を堪能した気分になれるはずだ。
 まあしょせん世の中の男と女、妻子ある高等遊民と田舎の芸妓さんのホレたハレたの話なのだけれど、やはり豊田監督はホモ・セクシュアルの方らしく、原作における女性たちの、心理描写を抑えられた唐突な科白回しを、一種の『険』、とげとげしさと感じたのかもしれない。対して大庭監督は、やっぱりノンケで、かなり女好きと見た。でなければ、岩下志麻さんの演じる、行動的にはやっぱりかなりトンがっている駒子を、あれだけ自然に愛しげな女性として描けはしまい。これで川端先生のようなろりのケもあれば、加賀まりこさんの演じる葉子の病的なまでのけなげさも、もうちょっと愛しげに描けたのかもしれない。

 ころりと話変わって、すっかり真夏だった先週にちなみ、甘木さんの質問への返答など。

1.夏と言えば?
  遙かな尾瀬、遠い空。

2.夏に良い思い出はありますか?
  今は無き生家の、二階の自室の窓から見えた、はす向かいのなんかの社宅に住むろりのプール支度。

3.夏に悪い思い出はありますか?
  新島の夜の浜辺で、昼間見かけた白ビキニのハクいねーちゃんとナニしていた、頭の悪そうな甚兵衛族の餓鬼。

4.夏に不可欠なものは?
  染太の鰻、線香花火、ムヒ。

5.夏に不必要なものは?
  まさに、皮下脂肪。

6.夏をイメージする色は?
  西瓜の赤、並木の深緑、空の群青。

7.夏をイメージする音は?
  今は無き、山形特産(つーか、銅町限定特産)『鈴虫風鈴』の響き。

8.夏をイメージする匂いは?
  未舗装の土面からたちのぼる打ち水の水気。

9.書き手さんが多いので質問。「夏」というお題で作品を書くとしたらどんなものを書く?
  えーと……よし、浮かんだ浮かんだ。頭が元気なうちに、どーっと行っとこう。

 一旗揚げようと集団就職し、やがて失業してホームレスになっていた中年の主人公が、故郷の役場に勤める幼友達に諭されて帰郷、昔の小学校分校が観光用に改装された宿泊施設の、管理人になる。収入は中卒の雑役夫なみだが、とにかく屋根にも食い物にも不自由しない。
 その宿直中、主人公は、幼い頃に山で行方不明になった同級生の少女の、幽霊と遭遇する。その幽霊の噂は以前から囁かれ、役場の友人などは恐がっていたが、ホームレスまで経験した主人公は今さら恐いものはなく、少女の幽霊とも旧交を温める。昔ながらに元気で可憐な少女だが、自分がどこでどう死んだかは記憶がはっきりしないらしく、夜、崖の近くで月見草を探していた記憶だけがあると言う。
 そんな分校、もとい観光用宿泊所に、ひとりの老人が訪れる。老人は、かつて、主人公や友人や幽霊少女の担任教師だった。優しく教育熱心で、溺れかけた生徒を救うため川に飛びこみ、自分も死にかけてしまうような青年でもあった。少女の行方不明事件の少し後、責任を感じたのか他の土地に移り、そこで晩年を迎えたらしい。老人はアルツハイマーを患っているらしく、話に齟齬もあったが、そのためかかえって少女の幽霊にも怯えず、仲良く接していた。
 しかし、老人を追って来た県警によって、意外な事実が知らされる。老人は、入院中の精神病院から脱走したのであり、また、土地再開発で取り壊された、老人のかつての独居家屋から、幾つかの子供の死体が発見されたという。
 驚愕した主人公たちが老人の所在を探すと、老人は少女と、月下の崖上で遊んでいた。同時に分校の宿直室の床下からは、少女の白骨が発見されていた。あの清廉な青年教師は、単なる鬼畜であったのか。しかし、教え子のためには自分の命もなげうつ、そんな姿も、主人公や友人の記憶には確かにあったのである。
 老残の殺人者と、幼いその被害者――いずれにせよ、殺されたことを忘れ、また殺したことを忘れ、仲良く月見草を探す老人と少女。
 しかし、追っ手の姿に刺激されて、一瞬記憶の繋がった老人は、一転して少女の姿に恐怖し、崖から転落する。かろうじて命はとりとめたが、体も精神も荒廃しきった老人は、以降、病院の窓辺で、ただ虚ろに『月見草の花』の歌を口ずさむばかりだった。
 そして主人公は、何も知らない少女に真相を告げる決心がつかず、その後も幽霊こみの職場で、営々と管理人を続けている――。

  ――いやあ、なんか、自分で打ってて、しんみりしたしんみりした。タイトルは『月見草』でいいかな。

               

  あ、なんか、もひとつ浮かんだぞ。
  これは南太平洋に浮かぶ小島の、土人の少年が主人公。
  で、タイトルは、そうだな、『冷蔵庫の少女』。
  でも、ホラーやミステリーじゃなく、ほのぼの初恋ストーリーなのね。

10.夏は「生の季節」か? 「死の季節」か?
  ぐぞむじあづぐでぐぞむじあづぐでぼー死んだぼーがばぢだあ!
  などと毎年毎年ぼやいているってことは、むしろ『生の季節』なんだろうなあ。


06月27日 土  ろり絵と社会構造

 そうか、マイケルが白くなったのは、公的には病気が原因だったか。しかしまあ、あれだけ『形』を後天的に改造せずにはおられなかった人間のコンプレックス(『劣等感』といった誤用的な意味ではなく、あくまで本来の『心的複合体』の意味で)を考えた場合、やはり、種々の薬物依存以外にも、なにか身体にとって根本的にヤバイ橋を渡っていたのではないか、そんな気がする。ストレートに老いていく黒いピーターパン――そんな存在こそが、本当は狸ようなロートルおたく、すなわち出来損ないのピーターパンにとっての、あらまほしきマイケルの姿だったのだが。
 昨日記したマイケルと『ベン』の思い出、その後検索してみたら、ずいぶん多くの方が、狸と同じような流れで、HP日記やブログに記されているのであった。動画の埋め込みも、同じのが多数。いやあ、やっぱり『ベン』という映画とその主題歌は、多くの人に感動を与えておったのですね。
 ところで、その映画のラスト、ベンが死んでしまうという説と、ダニーの手当で傷が癒え山野に旅立つという説があるのだが、狸の記憶だと……これが哀しいことに、再会のシーンまでしか脳内再生されず、その先は、なんぼ己の頭を叩いてもスカスカと乾いた音が響くばかり。ああ、歳はとりたくないもんじゃのう、婆さんや。……おやおや、婆さん、どこに行ったんじゃろ?

 嫁いねーだろうもともと、というツッコミをよそに、話はころりと変わって、田川氏のミクシィ日記へのコメントをきっかけに、畏れ多くもあの谷口敬先生(以前にもここに記した、伝説的ロリ絵師の方である。現在も歴史漫画などで活躍されている。先だって田川氏とマイミクになられたそうだ)の足跡帳に、恥ずかしながら狸の足跡を残してみたら、それへのお返しのコメントで、なんと、みほとこうじ氏が米沢在住であるのを教えていただいた。谷口先生が上山出身であるのは、HPの記述から察していたが、あのみほと氏も米沢に……冗談ぬきで、奥羽山脈の蔵王近辺の雪解け水には、ろり至上意識を育む何かが含まれているのだろうか。
 みほとこうじ氏といえば、谷口先生とはまた別のタッチで、蠱惑的なろり絵を描かれる方である。谷口先生のタッチを、水彩画的で透明感のある美しさだとすれば、みほと氏のタッチは、かなり肉感的である。氏のHPで、代表的な単発イラストは多数観られるが、昔、狸の感服した『不思議の国のアリス』ネタの絵物語的連作イラストは、一般の方が現物を見ようと思ったら、身近に狸のようなろり絵収集変態野郎でもいない限り、古本屋で掲載誌を探し回るしかないので、その一部をここに『引用』させていただきます。

          

 とにかく『まぎれもなくリアルでハードなポルノ作品でありながら、ろりそのものがあまりに魅力的なため芸術レベルに達してしまう』、そんな、得難い『ろり画力』を備えた方なのである。そして谷口先生の昔のハード作品にも言えることだが、あまりに美的なろりの描かれたポルノ絵画には、『ハードなのに畏れ多くてヌけない』という、致命的な商業的ハンデが生じる。逆に言えば、万人向けに平均化・記号化されたいわゆる『萌え絵』や、いっそデッサンの狂ったイキオイだけの描き殴りのほうが、『遠慮なく思いっきりヌける』という実用価値において、商業誌を席巻してしまうのですね。
 まあ、現実の男女間の感情においても、男という奴は『種まき優先』という哀しい性《さが》に生きているので、高嶺の花よりは気楽なヤリ●ン、そんな実用的価値をしばしば重んじてしまいがちなのだけれど、そうした中流下流重視が資本主義社会の手法的原則にまで染み通ってしまい、『高貴』や『浪漫』を、芸術界からも娯楽界から払拭させてしまっている、のみならず市民社会全体をやたら天井の低い家のように息苦しく圧迫している――そこに現代の先進国の不幸や混迷の要因があるのではないか、などと、近頃の狸は思ってしまうのですよ。いや、マジで。


06月26日 金  時の過ぎゆくままに

 マイケル・ジャクソン死去。
 思えば、狸が初めてビデオデッキという文明の利器を入手したとき(社会人となって2年目だったか3年目だったか、社員購入で安く買えたのである)、最初に再生したレンタルビデオは、当時話題の『スリラー』であった。マイケル・ジャクソンが観たかったというより、監督のジョン・ランディス(いっときホラーからコメディーまで節操なく撮りまくり、監督になる前はスタントマンもやっており、当時『世界一高いところから落ちた奴』でもあった。今ならCGが落ちるんだろうけど)のファンだったからである。あの頃のマイケルは、まだ立派に黒人さんでしたね。今回の死因と、白人になろうとしたことでの肉体的問題は、やはり関係しているのだろうか。
 さて、狸の耳にもっとも残っているマイケルの歌唱は、さらに時代をさかのぼり、1972年の映画『ベン』の主題歌である。こんな歌です。映画を知らない方でも、どこかでお聴きになったことがあるのではないだろうか。

               

『ベン』という映画は、前年の『ウィラード』の続編で、共に、鼠の大群が人を襲うのがウリの、動物ホラーである。
 ウィラードという内気で陰気な青年が、鼠を調教して可愛がったり気にくわない奴を襲わせたりしているうちは良かったのだが、二匹いるリーダー格の鼠のうち、ソクラテスという白鼠をひいきしてベンという黒鼠をはぶんちょしたり、最終的には恐くなってベンたちを(ソクラテスは中盤で人間に殺されてしまう)処分しようとしたりしたため、逆にベン一派に襲われて食い殺されてしまう。それが前作の『ウィラード』。面白いのだが、とにかく徹底的に根の暗い展開だった。
 続編の『ベン』は、同じ動物ホラーでも、ファミリー層まで狙ったらしく、ちょっと路線が変わる。凶暴な首領鼠ベンが、ふとしたきっかけで、心臓病で自宅に隠棲を余儀なくされている幼い少年ダニーと、心を許し合う。ダニーは、その鼠が世間を騒がせている殺人鼠だと知っても、なぜか変わらぬ愛情で接する。つまり、自分の命がいつまで保つかもわからない日々の中で、イキモノが生きる、ということの厳しさ辛さ尊さを、幼心に悟っているのですね。ベンのほうでも、生きるために殺し合わねばならぬアウトローとしての心の傷を、少年の無償の愛で癒される。いや、鼠のことゆえセリフもないし表情も変わらないのだが、まあ、そんな感じなのである。そのうちベンたち殺人鼠の隠れ場所が大人たちに知られてしまい、ダニーはベンを救おうと、いつ止まるかわからない心臓をかかえて現場に走る。しかし時すでに遅く、鼠たちはみんな焼き払われてしまう。またひとりぼっちに戻ってしまったダニーが、淋しく自宅の窓辺にたたずんでいると、ボロボロになったベンが姿を現す。涙の再会――いや、鼠のことゆえ泣いているのかどうかは判然としないのだが、まあ、ダニーだけでなくベンのお目々も、うるうるしていたりするのですね。
 そのラストでしみじみ流れるのが、まだジャクソン5の一員だった幼いマイケル・ジャクソンの歌声です。映画の途中でも、ダニーがその歌を自作してベンに聴かせてやる、そんなシーンがあったように記憶している。いやあ、公開当時中学生だった狸も、映画館でボロボロ泣かせていただきました。殺人鼠が、ほんとに愛しいのよ。もちろん可憐なショタもたまらんのだが。

 中年ピーター・パンのマイケルが、たったひとりの寝室で、あの病的に漂白された姿で息絶えるとき、せめて心の中だけにでも、ベンのような、実のある存在が浮かんでいたことを祈る。


06月23日 火  岡田さん萌え

 創作中物件の打鍵が2件とも遅々として進まず、これは近頃の狸の卑近な脳髄に文芸感覚が不足してきているのではないかと、TUTAYAの半額クーポンで、とりあえず『秋津温泉』(1962・昭和37年・藤原審爾原作・吉田喜重監督)と『雪国』(1965・昭和40年・川端康成原作・大庭秀雄監督)を借りてくる。小説打ってるんだから原作読めよ、という意見もあろうが、まあどっちも原作は昔読んでおり、むしろ原作の世界を監督たちがどう噛み砕き演出するのか、そっちのほうが、頭の刺激になるのですね。藤原先生や川端先生は、もう己の料理を己の舌で完成させてしまっているから、狸の貧乏舌では半分くらいしか味わえないし、そもそも食材からしてモノが違うので、自炊の参考にはとてもならない。その点、観念的で理屈の先に立つ吉田監督の調理手順とか、もうムードと美意識だけっぽい大庭監督の匙加減とか、そうした厨房心得を学びたいわけです。えーと、すみません、吉田監督も大庭監督も、褒めているのですよ。
 で、とりあえず『秋津温泉』を、冷や奴や発泡酒といっしょに、ご相伴にあずかりますと――うわあ、岡田茉莉子さん、かわいすぎ、美しすぎ! 萌え萌え! 以上。
 ……って、そんだけかい。すみません。でも、見終わった後に心に残るのは、可憐な少女から陰影に富んだ中年女性までをみごとに演じた、当時28歳の岡田茉莉子さん、ほとんどそれだけだったり。まあ他にも「山奥の温泉とその周辺の風景がとってもリリック」とか「戦中戦後の日本という国そのものの精神的変遷を男女のドラマに重ねて描くその手際はおみごと」とか、思うことは多々あるのだけれど、もはや原作を脚色し演出するというより、吉田喜重流の観念的オリジナル創作物になっていて、ちっとも料理の参考にはならないのであった。
 しかしまあ、この映画をきっかけに、吉田監督は岡田さんを嫁にしてしまったわけですね。
 主演女優さんに手を付けた(失礼)担当監督といえば、他にもいっぱいいる。篠田監督と岩下さんやら、谷口監督と八千草さんやら、近いところでは周防監督と草刈さんやら、余得満載だわなあ映画監督。いや、それだけ魅力的な個性があるんでしょうけどね、正直チクショーですわ。


06月21日 日  狸的豪遊

 昨日は午後から両国に出た。五十嵐氏・田川氏・渡辺氏と共に、両国の江戸東京博物館で開催されている『手塚治虫展』を観たのだが、日曜には終わってしまうイベントなので凄まじい人出。かてて加えて、展示物が漫画の直筆原稿主体なものだから、普通の芸術品と違って皆さん一点一点じっくりチェックしてしまうから、ちっとも列が進まない。狸はけして気の短い性質ではないのだが、おあずけが苦手な野良なので、単独で会場を行ったり来たりしながら、じっくり見るのが可能な物件をつぶしてゆく――そんな作戦で終始ちょろちょろとうろつき回った。
 他のメンバーはみんなプロの漫画家だから、狸とは違う視点で鑑賞しているのだろうが、今の狸はあくまで単なる読者としての敬意や趣味的好奇心しかない。で、正直、今回もっとも感心したのは、手塚先生が1950年代初頭に幼年誌に描かれた絵本の原画、ならびに、晩年に『漫画家の絵本の会』とやらで描かれた、やはり絵本の原画であった。
 狸が手塚先生に対して抱いている敬意は、アイデア主体の短編から大河ドラマまでなんでもこなす偉大なるストーリーテラーに対してのそれが主体であって、漫画の生原稿そのものは、あくまで作品世界の構成要素のひとつなのである。それに、生原稿は雑誌印刷のための素材みたいなものだから、切り貼りやらホワイト跡やベタのムラだらけで、むしろ『楽屋落ち』に対する興味が先に立つ。その点、絵本の原稿は、それそのものが単体としての絵画的興趣に富んでおり、なんといいますか、こっそり盗んで帰って部屋に飾っておきたい、そんな情感に満ちている。今まで見たことがなかったためでもあろうが。
 手塚展の後は、常設の江戸東京コーナーに回って、広大かつ膨大なミニチュアやら展示資料にメマイを覚えつつタイムトリップ、売店では思わず『昭和ちびっこ広告手帳』なるオールカラーの懐かし本まで購入。1000円を超える書物を購入したのは何年ぶりだろう。って、復刻版『少女の友』、定額給付金で思わず買ってしまったばかりではないか。しかし、東京オリンピックからアポロ11号あたりまでの少年少女雑誌から、カラー広告だけ復元した書物というのは、そこに躍る無邪気な商品群や、少女雑誌を飾った憧れのろりモデル等、狸にとって懐かしき小学生時代の、まださほど生臭くない欲望の日々をまんま投影してくれているわけで、図書館で借りるだけでは済まないのである。
 そして夕食は、両国駅近くのインド料理店で、きっちりインドやネパールのビール飲んで、タンドリーチキンからシシカバブから、なんとか麺からかんとかカレーまで食って――はっはっは、土曜1日で、しっかり5日分くらい散財してしまいました。でも、後悔はいたしませんよ。なんとなれば、金曜の夜に、ドンキで銘柄不明の無洗米を5キロ、1380円で買ったばかり。例の68均で買った、タイ産トムヤムクンラーメンも、まだ3袋ばかり残っている。うん、これだけで当分、生きていける。

 ところで、五十嵐氏は現在失業中といえば失業中だが、来年頭からH社の某誌で始めるSFの連載の下準備をしているらしい。パソで種々の宇宙船を3Dモデリングし、かの有名な漫画描きソフト『コミックスタジオ』でごにょごにょすると、かなりリアルな背景ができるのだそうだ。いよいよ本格SFの仕事をするのか――なんか『スターウォーズ』騒ぎの頃の、学生時代っぽい脳内麻薬が分泌されますね。企画が流れたりH社が倒産したりしないことを、狸も強く仏に祈らねば。


06月19日 金  酒害の代表例

 京都教育大の、例の集団暴行容疑の件、なにかミクシィまで巻きこんだ騒動になっているようだ。
 事件の真相など、おそらく裁判になっても判然としないだろうが、どんな状況であれ男6人対女ひとりのニャンニャンを決行しようとした段階で少なくとも教職に就く資格などドブに捨てているわけで、容疑者諸君には、それなりに不遇な一生を過ごしていただきたいものである。
 それにしても、ミクシィに容疑者擁護のカキコをした方々というのは、どうやらそのすべてが『伝聞』を『事実』と認識してしまったようだ。これは狸などもときおり引っかかってしまう落とし穴なので、自戒を含め、やっぱりその投稿者の方々にも、それなりに不幸な生涯を送っていただきたいものである。あなたがたの知り合いがみんな正直者などということは、あなたがたが正直者であることと同レベルで、どうも錯覚の可能性が高いですよ。
 とりあえず、酒に絡んだこーゆー事件は世界中あとをたたないようなので、やっぱり人類の平和のために全世界で禁酒を徹底するべきである――そんな意見が、あいかわらずちっとも出ないのが不思議でたまらない。自他共に心身を害する確率は、ケムの比ではないと思うのだが。ぐびぐび。ぷはあ。ぷかぷかぷか。


06月16日 火  300

 TUTAYAのメンバーカード更新で300円とられる代わりにDVDレンタル1本無料――とゆーわけで、300円にひっかけたわけではないが、遅まきまがら噂の男汁映画『300《スリーハンドレッド》』を鑑賞しました。
 で……いやあ、これ、血しぶきや肉片や肉塊が景気よく飛び交うせいかR15指定らしいのだけれど、いっそ文部省選定にして、中学生あたりから全生徒に鑑賞させたらどうでしょう。特に男子生徒。いやマジで。
 内容は、紀元前480年のギリシャを舞台に、ペルシャ軍100万人対スパルタ代表(?)300人の肉弾戦を描いており、史実だの考証だのはきれいさっぱり路地裏のポリバケツに放りこんで、ただただ『闘う男汁』をスタイリッシュにとことん煮つめてみました、そんな映画なのである。虚ろな日々に疲れきったノンポリ狸の萎えた魂さえが、「うおおおおおおおお」などと意味不明の咆吼を上げながら、何かに立ち向かって突撃してしまいそうな。
 そして、公開時もその後も、あまり真面目にそのシナリオまで論評した方はいらっしゃらないようなのだが、一見単純化された勧善懲悪物語と、卑劣な悪役まで含めて見え見えのキャラたちが、実はあたかも黒澤映画のごとく、もののみごとに『あなたに似た人』『誰かに似た人』なのである。あの雄々しく潔いスパルタ兵級の男汁噴出者はめったにいないだろうが、それ以外の面々、たとえば見栄っ張りでええかっこしいのペルシャ王も、自我を失ったペルシャ兵たちも、スパルタ側では端役の裏切り者も悩み多き弱者も、良く見りゃもーまったく現代世界に生きる誰かさんそのもの。つまり、そうした社会の閉塞状況を切り開くべきはまさにタイトルロールの『300』のような侠気ではないのか、そんな、きわめて志の高い映画なのですね。断じてただの脳天気マッチョ映画ではない。
 思うに近頃は、エンタメ映画や小説でも、一見もっともらしい世界観に見えて、実はただの個人的閉塞感というか神経症気分を社会に投影しているだけ、そんな趣向の話が多すぎる。ちょっと前の『バトルロワイヤル』とか。『エヴァ』や『ひぐらし』なんかも、ソノケが多分にありますね。
 まあ、必ずしも「なんのために死ぬか」と「なんのために生きるか」が、『300』の兵士たちのように幸福な(?)一致を見るとは限らないのだけれど、少なくとも「己の生も死も、立ち位置はあくまで己に帰順する」、そんなシンプルさだけは見失わないようにしたいものである。
 てなことを表立って発言すると、「じゃあなんでも自分勝手に好きなことやってりゃいいのね」などと言い出す寸足らずが多いわけだが、そーゆー輩の『やる』という表現、ほとんど『パブロフの犬』なんだよなあ。そのベルを鳴らすのは誰か、そこがポイントなわけなんだが。
 なにはともあれ、『300』における魂の共鳴とガチンコ肉弾戦のカタルシス、これを直視しない限り、人類に平和なんて永遠に訪れません。


06月14日 日  ある夏の翳り

 いよいよ今年もゴキブリの季節がやってきた。
 狸穴は、築40年近いマンションの一室である。マンションと名付けられてはいるが、大阪万博の年に、当時の公営団地よりちょっと格下の民間物件として建てられたシロモノだから、現代においては巨大な粗大ゴミであり、鉄筋コンクリ製ゆえに未だ倒壊を免れている兎小屋の四段重ね、そんなあんばいである。いちおう2Kといっても、木造安アパート同様の長屋形式間取りで、南向きの六畳間以外は、ほとんど昼間も陽が差さない。当然、台所の物陰など、うっかりするとすぐにゴキブリの幼稚園ができる。
 豆粒のようなゴキの園児がわらわらと遊んでいる様は、なかなか可愛い。しかし、これがうっかりするとあっという間にあの禍々しく黒光りする邪悪かつ強靱な成虫と化して暗躍するから、さらに邪悪な黒狸は、相手が園児のうちに無惨にも殺戮してしまう。それでも築40年の湿気と塵埃の巣窟に、狸の目の届かない物陰は無数に存在するので、邪悪な成虫は後を絶たない。

 ところが、である。
 本年、さっそく物陰に暗躍しはじめたこの成虫が、なんだかみんな虚弱っぽい。
 いつもの梅雨入り時ならば、殺虫剤の一吹きや二吹きではとうてい即死せず、ヤケクソであっちこっち爆走したのち何処かに潜んでしまい、翌朝意外なところで永眠しているのを見つけてトイレに流す、そんなパターンだ。
 ところが今年の成虫は、図体は立派で脚力も反射神経も例年以上なくせに、いざ殺虫剤を一発キメてしまうと、実にたわいなく、その場でひっくり返ってしまう。一匹や二匹のうちは、すでにどこかで殺虫剤の洗礼を済ませてきたのだろうと思ったが、三匹目も四匹目も、物陰に逃げこむ前にヒクヒクと悶絶してしまう。
 これでは、困るのである。
 なんだか狸のほうが悪役に回ってしまったようで、殺戮しても、闘志や憎悪や怨念の昇華が感じられない。敵というより、ただの被害者に見えてしまう。ちなみに殺虫剤は、去年の使い残りのコックローチだから、やはりゴキのほうが全般的に弱体化しているのではないか。

 三億年の長きに渡り種族維持してきた生きる化石、人類滅亡後はこの星を支配するとまで言われたこの強敵が、実は、人類による環境破壊によって逆に人類依存の度合いが高まり、もし人類が環境破壊によって滅亡するなら、ゴキの多くの種も一蓮托生で滅亡するであろうことは、近頃、常識化しつつある。
 ガイアの滅亡は、思ったより早いのかもしれない。
 ゴキの姿すら懐かしむ日々を、人類は誰、いや、何によって許されるのだろう。


06月13日 土  心気朦朧として波高し(特に意味はありません)

 昨夜の狸は、仕事帰りにお茶の水に出て、MIXY繋がりの方々(主に明大漫研の後輩。といっても世代が近い中年ばかりなので、ほとんどぶよんとしてしまりがない親爺の集団)が、なんじゃやら昭和40年代のノリの少年誌を復活させてコミケやネットで云々する、などという野望に燃えているのを聞きながら、横でぶつぶつビンボの愚痴をこぼしていたような気がする。すみません。ここんとこシフトの都合で毎朝5時半起きだったので、ほとんど脳味噌がトンでいたのです。
 同輩の五十嵐氏は徳間の連載打ち切り以来開店休業状態が続いているようで、妻子ある身のこと、狸以上になかなか大変なのだが、ろくに慰める余裕もなく借財も返せないまま無責任に横で自前の愚痴をこぼしている狸というのはすでにイキモノとしての道を踏み外しているので死んでしまったほうがいいのかもしれないが狸としてもまあなんかいろいろしがらみがあり今死ぬわけにもいかずなおかつ頭の中だけはイマージュの盆踊り大会状態でそのうちきっと公の場でも狸踊り大会を展開してイキモノとしての義理も果たしたいと念じていたりもするのだが昨夜の飲み代が後輩さんの会社の経費で落ちるから狸の懐は一銭も痛まないと知るやいなや「ああそれなら焼肉ライスとビールだけでなくあれもこれもそれもみーんな注文してここを先途と飲み食いしまくればよかった」などと本気で思ってしまう狸というのはすでにイキモノとしての道を踏み外しているので死んでしまったほうがいいのかもしれないが狸としてもまあなんかいろいろしがらみがあり今死ぬわけにもいかず無限ループ。

 ともあれ、BSで録画しておいたチェコの人形アニメ映画のうち、『チェコの四季』(1947)に出てくる子供たちの人形がむやみやたらとかわいいので、まだまだ生き続けたい狸です。そういえば、狸の大々ご贔屓、トーベ・ヤンソン女史の『ムーミン』のパペットアニメを制作してくれたのは、ポーランドのスタッフでしたね。あれは1970年代末だったか。東欧諸国の人形アニメは、民芸品のような愛しさがある。ちなみに今年の夏は、あのパペットアニメのムーミンがリニューアル公開されるそうだ。こんなの


06月10日 水  宇宙水爆戦

 BSで放送してくれた『宇宙水爆戦』(1955・昭和30)、なんじゃやら久々にドキドキと胸をときめかせながら、襟を正して再生したり。
 なんとなれば、この古典的なアメリカ製SF映画、ビデオもなければテレビの洋画放送も僅かだった狸世代のSF小僧にとって、『ミュータント』という登場怪物のスチル写真のみ怪物図鑑や少年雑誌などでさかんに紹介されながら、映画そのものは完全な幻映画だった。まあSFなら『宇宙戦争』だの『禁断の惑星』だの、怪物物なら『水爆と深海の怪物』だの『原子怪獣現る』だの、当時からすでに伝説化していたアメリカ古物は多々あったわけだが、それらが後のテレビ洋画劇場あるいはビデオの普及でしだいに全貌を明らかにしたのに対し、この『宇宙水爆戦』、知名度のわりにはレンタルビデオ勃興期にもなぜかほとんど出回らず、いまだにDVDにもなっていない。そもそも、かつてテレビ放送されたことはあるのだろうか。
 ちなみに山形の民放で、毎週確実に洋画を放送してくれる番組枠ができたのは、1971年・昭和46年の『ゴールデン洋画劇場』からである。最古参の山形放送も後発UHF山形テレビも、あの老舗番組『日曜洋画劇場』の系列局ではなかったので、実は淀川長治さんの「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」も、狸がリアルタイムで観たのは山形を離れてからである。もし『宇宙水爆戦』などという古物娯楽作を放送してくれたとすれば、『日曜洋画劇場』あたりが、もっとも似合いそうな気がするのだが。
 ともあれ、この歳になって初めて接する憧れの宇宙特撮映画とスペースモンスター、ある意味『スターウォーズ』の新作以上に期待しながら、再生ボタンをぽちっとしたのだが――「ありゃ、こんなもんか」というのが正直な感想であった。いや、時代感覚を忘れ期待しすぎて古臭さに拍子抜けした、といったレベルの「こんなもんか」ではない。古いSF映画のセンス・オブ・ワンダーは充分に味わえたし、レトロ特撮も大いに楽しめたのである。しかし映画全体の完成度は、同じ頃の本多猪四郎・円谷英二コンビによる東宝SF特撮映画『地球防衛軍』(1956・昭和31)や『宇宙大戦争』(1959・昭和34)のほうが、よほど納得の仕上がりだったような気がする。
 もちろんそれら東宝作品の方が後発であり、作劇上でも特撮技術上でも『宇宙水爆戦』を参考にできたという優位性もあろうが、とにかくご本家『宇宙水爆戦』、ハリウッド娯楽大作特有のツッコミどころが満載で、あたかも後年の『アルマゲドン』を彷彿とさせるハッタリ優先展開なのである。つまり、冒頭からヒーロー的な主人公が登場し、ずーっとイケイケのまんま、前のシーンとの繋がりどころか現在進行中の展開の理不尽さもほとんど気にせず最後までばんばんばんばん大風呂敷を広げまくり続けりゃオールOK、みたいな。もちろん『地球防衛軍』も『宇宙大戦争』も、細部の穴などありまくりなのだけれど、エンタメとしての真摯さというか、話はアレでも人の心はナメないできっちり押さえるというか、そこいらがやっぱり和のテイスト、本多+円谷なのですね。
 なんか強引かもしれないが、そこいらが、原爆落としちゃう国と落とされちゃう国の、感性の差なのかもしれません。いや、善悪の問題ではなく、物事に対するのめりこみ方の違い、とでも言いますか。
 ともあれ、このまま死ぬまで幻で終わるかと思った、あの懐かしの怪物図鑑御用達メタルーナ・ミュータント君の、必要以上にグロで不気味な活躍をよっくと確認できたのは、とてもなまんだぶな冥土の土産であった。


06月07日 日  ぷかぷかぷか

 昨夜ぷかぷかしながら著しく敬老精神を欠いた発言をした報いか、あるいは反喫煙狂信学者の祟りか、またぞろ扁桃腺がうずき始めた。そら見ろ煙草なんぞ未だにぷかぷかやってるからだ、という意見もあろうが、なあに、狸の扁桃腺は煙草なんぞ吸い出す遙か以前から、どんな清浄な大気の中でも定期的に腫れることになっているのである。えっへん。

 しかし、世のイキモノすべてが、いったん産まれてきた以上なんぼでも長生きしようとする本能は理解できるのだが、近頃の高齢化社会の風潮が、さらなる無限の高齢化に流れようとするありさまは正直恐怖すら覚えるのであり、「爺婆10人の命よりも子供ひとりの命が重い」というのは、偽らざる本音である。我が母親のごとく、知性を失って本能のみに生きるしかなくなってしまった個体は仕方がないが、理性ある高齢者の方々は、自分の健康や生活の安定もさることながら、もっと自分が死んだあとの事に思いを馳せていただきたい。自分の死後、といっても、極楽に行くか地獄に堕ちるかではなく、自分の亡きあとも間違いなく存在し続ける『現世』の未来に関してですね。

 まあ、そんな偉そうな口を叩きながら、狸自身、己の感傷によって、すでになんの生産性も失ってしまった母親を後生大事に一分一秒でも長らえさせようと画策しているのだから、他人様にどうのこうの言えた義理ではないのだけれど、なおのこと、少なくとも狸自身は理性の保てる限り、寿命より紫煙を楽しみ続けたいと思います。こっちの出す副流煙とやらには重々気をつけながら、すなおに車の排ガスも光化学スモッグも吸わされてますので、一方的に鉄砲で撃ったりしないでくださいね。


06月06日 土  ぷかぷか

 散歩の道筋では、もはや煙草屋の前にしか喫煙スペースがない。エコ・ノイローゼの反動か、喫煙者は全世界の精神的スケープゴートになりつつあり、喫煙撲滅キャンペーンは、順調にその狂信性を高め続けている。
 朝、出勤前にラジオを聴いていると、NHKの健康番組で、とにかく世界中の喫煙による健康被害をテーマとした研究論文のデータを、片っ端から『事実』として自説に組み込んでいるお医者がおり、さすがに脱力した。いや、そりゃ体に悪いのは狸も身をもって理解しているのですよ。しかし、有象無象の『学術論文』(ありゃあ学会に属してさえいれば、どんな強引なシロモノでも基本的に発表を規制できないのである)を、片っ端から『事実』として自説に引用するのを、ふつう科学界では『トンデモ』と言いますね。なんぼハヤリに乗ったほうが儲かるからといって、学者がそれではいけない。
 いっぽう同じ番組で、『たしかに喫煙は有害だから長命のためには禁煙が有効だが、メンタルな部分での効用もあるので、一概に根絶されるべきではないだろう。また単に発ガン性という観点なら、日本酒なら1日に1合半以上飲酒し続けた場合、一日20本以上喫煙するのと同じリスクがある』などと、冷静な発言をされるお医者もいる。しかし禁酒キャンペーンがトレンドな国は、ごく少数ですね。また、夏場になると狸穴近辺では、あいかわらず光化学スモッグ警報がひんぱんに鳴り響くのだけれど、あれも発生原因の三割方は車の排ガスであり、エコカーだの排ガス規制だの「もーすっかり大丈夫! 車も大自然の一部!」みたいなCMばかりのわりに、ここんとこちっとも好転しませんね。
 やはりなんぼ旨くても酒は毒水、なんぼ薄めても排ガスは排ガス、その証拠にアルコール中毒による死亡事故は絶えないし、エコカーだって排ガスを室内に引きこんで隙間を目張りすれば、すぐに一家心中できる。……ごめんなさい。この発言は、最初に引いた反喫煙太りの医者と同レベルの、ミソクソ混同説です。個人の非常識と良識も、酸欠と有害物質も、違うもんだわな。
 ともあれ、他ならぬ『毒』もまた、複雑怪奇な精神体である人間にとっては、嗜好生活の一部なのである。狸だって『アルコール飲用禁止!』『自家用車全面撤廃!』などと絶叫しようとは思いません。ちなみに「煙草と違って車は生活の必需品」と言う方もおりますが、バスも鉄道もない田舎ならいざ知らず、都会を走る自家用車の8割は単なる嗜好品ですね。
 なんか、過去に何度も記した話ばかりになってしまったが、近頃あまりに非科学的な反喫煙学者の言動が目にあまる、というだけの話でした。ぷかぷか。
 ……で、正直、この上なんの生産性もない年寄りばかり地上に増やしてどーすんのよ人類……なんちゃって、ぷかぷか。
 ………言いたいついでに言ってしまうと、狸の本能は、「爺婆10人の命よりも子供ひとりの命が重い」、近頃そうしきりに訴えているのですが、誰か『反長寿キャンペーン』とか、始めてくれませんかねえ。ぷかぷか。
 ……あ、でも、狸の好きな老人は別ね。ぷかぷか。あくまで文明国の平均寿命の話。ぷかぷか。


06月04日 木  耄碌爺い

 足利事件の菅家さん釈放。まずはおめでとうございます。
 そして――以前、ここで狸は、馬鹿や寸足らずの特徴のひとつとして『著しい往生際の悪さ』が挙げられる、と記した。これは無論、鬼畜や人でなしに限ったことではなく、すべての人間にあてはまる。たとえば、今回の釈放に際し、こんな発言をした警察OBがいる。

事件発生当時、捜査を陣頭指揮した元栃木県警幹部(75)は「捜査は適正で妥当だった。別の真犯人がいるとは思っていない」と淡々と話した。当時のDNA型鑑定については「証拠の一つに過ぎない。自白の他にも状況証拠があり、だから逮捕できた」と強調。今回の再鑑定については「信用できない。20年の月日を経て、資料そのものが劣化したりなくなっている」と疑問を呈した。【毎日新聞 2009年6月4日 15時00分】』。

 ――劣化しているのはあんたの脳味噌だ爺さん。狸はあんたに問いたい。あんたがたが菅谷さんを苛烈な追求で自白に追いこみ得々と勝利宣言したとき、それまで関連を匂わせていた過去の2件の幼女誘拐殺人に関して、きれいさっぱり口にしなかったのはなぜだ。そして数年後、隣の太田市で横山ゆかりちゃんが男に連れ去られそれっきりになっているが、あの現場の状況にあんたの脳味噌はなんらかの反応を示さないか。心当たりがあるだろう。
 お願いだからせめてもうちょっと脳味噌使ってくれようあんたらそれで食ってたんだからさあ!!!!!


06月02日 火  正直に殺したい

 刑務所に行きたい、という理由で見ず知らずの人間を駅のホームに突き落とし、轢死させた少年の一審判決がおりた。懲役5年から7年だそうだ。良かったね、これですべてが君の希望どおりに――って、おいおい。
 まあその少年の場合は、確かに現在明らかな悔悟の情が見られ、犯行時の精神状態にも、弁護側が主張するようにまったくの正気とは思えないきらいもある。しかしいずれにせよ、少年とはいっさい関わりのない働き盛りの男性がいきなりマグロにされてしまったわけで、その少年がイジメに悩んでいたことが事実だとしても、「じゃあなぜそのイジメた奴らをマグロにしないの?」という疑問は、どうしても残る。

 ここ何年か、無差別殺人犯たちが「殺すのは誰でもよかった。死刑になりたかった」と発言するのが流行(まさにハヤリ感覚)している。
 誰でも良かった。人を殺して死刑になりたかった。――大嘘ですね。
 彼らが行ったのは『無差別殺人』ではない。あくまで『自分と無関係な』『殺しやすい人間』を選別している。彼らはあくまで自分の無能を脳内で糊塗するため、無関係の弱者を殺すことによって、自分の優位を錯覚したかったのである。自分の懊悩に直接関わる人間を殺すと、相対的に、自分の無能さや劣等感を直視してしまうからだ。また『死刑になりたかった』と言うが、もし現代、『十両盗めば首が飛ぶ』の江戸時代のように『10万円盗めば首が飛ぶ』時代だとしたら、彼らは死刑になるために手軽でセコい窃盗を選んだろうか。狸にはそうは思われない。単に殺したかったのである。

 そうした無差別殺人ではない、ごく一般的な殺人においても、自殺衝動が他人に向けられた殺人、そんな犯罪心理があると学者は言う。しかし、どのみちあくまで『自分を殺すより他人を殺すほうが楽だから』それを選択しているのである。

 初めから楽に生きようとするから落ちこぼれる。現に狸もそうして落ちこぼれている。しかしまあ、懊悩が嵩じてどうしても殺す相手が欲しくなったら、せめて標的は自分だけにしたいものである。いや、子供殺しの鬼畜のほうがいいか。ともあれ、知らない人だけはパス。