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07月31日 金  ねーちゃんナンボや

 8月1日から選考が始まる「ミス・ユニバース」の日本代表、宮坂絵美里さん(25)がナショナルコスチュームとして着用する衣装に批判が起きている。牛革レザー製の黒振り袖に、下半身はショッキングピンクの下着とガータベルトというド派手な衣装だが、これに対し、帯職人や着物の販売店がデザイナーに直接抗議しているほか、デザイナーのブログにも「日本が誤解される」などと1000件以上の抗議が寄せられているのだ。
「私どもが衣装合わせに立ち会った時点では、丈は短いものの下半身は隠れており、デザインも異なるものでした。私どもがあの衣装を目にしたのは、皆さんと同じ発表会の当日。事前に分かっていれば辞退申し上げたのは間違いありません」
 今月22日に発表された衣装について、黒地に金箔をあしらった帯を手配した東京・銀座の老舗呉服店の担当者は、こう話した。同席した京都西陣の帯職人も「目のやり場に困った」といい、呉服店は発表後、デザイナーに抗議した。近く、ミス・ユニバース事務局にも抗議する予定という。【産経新聞】


 そんなニュースを、いや、はじめは見出しだけネットで見かけ、女好きの狸は、さっそくこそこそと覗きに行ったわけだが、わははははは、爆笑してしまった。す、すみません。あの、これ、タイトルはズバリ『高級娼婦』ですよね。こんなお姿を拝んでしまったら、おそらく世界中の好き者たちがぐびりと唾液を嚥下しながら「こ、このねーちゃん、ひと晩ナンボや」と呟くでしょう。それほどまでに、グローバル・スタンダードのウリ線パワーである。

          

 で、記事の続きです。

 この衣装をデザインしたのは、和服再興を目指して東京・原宿を中心に展開するデザイナーズブランド「義志」(よしゆき)の緒方義志社長。ミス・ユニバース2006年準優勝の知花くららや、07年優勝の森理世の衣装も担当した実力者で、今回もミス・ユニバース事務局の有名プロデューサー、イネス・リグロン氏から直接指名され、いくつかの候補の中から、今回の衣装を選んだのだという。
 ちなみに、股間に露出しているのは下着ではなく、「ピンクのレオタードに和服を羽織っている姿」なのだという。
 しかし、ミス・ユニバースの最新情報を伝える米サイト「ビューティーイン ページェンツ」は「世界中のファンは一様にポルノ女優のようだという反応を示した。イネス氏以外は、この衣装が優勝の機会を損なうと考え失望した」などと論評。動画投稿サイト「You Tube」にも批判コメントが相次いでいる。
 緒方氏は一連の批判について、同社のブログで《今年の狙いは、「着物は奥ゆかしき日本人女性の象徴である」という現代の日本人が作り上げた妄想と、「着物は未来永劫変わってはならない」という、これまた現代の日本人が勝手に作り出した不文律の否定》としたうえで、《日本人女性には世界を虜にする情熱的で官能的な一面がある》などと釈明している。
 また、イネス氏も自身のブログで《ファッションの保守主義者や流行遅れの“恐竜”たちは彼女のコスチュームを批判していますが、ファッショニスタたちはそれを愛しています。私が気にするのはファッション産業の有力者の評価だけ》(夕刊フジ訳)などとコメントしている


 ……その緒方氏やイネス氏が実際どんな方かはちっとも知らないが、狸の推理では、若いうちから異性関係において『女性に言い寄られるのがデフォルト』だったのではないか。あるいは『ちょっとクドけばOKサイン』。そんな生温かい環境で育ったがゆえに、シロトとクロトの見境がつかない、シヤワセなコンチクショー野郎に仕上がってしまったと見た。
 ま、どのみち男なんて、みんなすけべえなんですけどね。正直、石ぶつけたいですわ。


07月28日 火  狸と死霊

 あいかわず怪談噺ではありません。念のため。
 講談社文芸文庫版『死霊』、第2巻を読み始めて、いきなり背筋を正して刮目した。すさまじいまでの完成度を備えた文学世界ではないのかこれは。って、とうの昔にそーゆーことになっている作品なのだが、正直、第1巻収録の三章までは、いかにも若い思索者による読者を置いてけぼりにしがちな脳内大暴走文学、そんな色眼鏡で、登場人物たちの大演説会話大会も、そのわけのわからなさ自体を楽しんでいたのである。
 ところがきっちょんちょん、第2巻の冒頭、四章『霧の中で』――すべてが理解できる。いや、理解できそうだという確信がつかめる。果てしなく緻密かつ適確な描写による舞台背景の中、それ以前ちっとも理解できなかった首猛夫(しかし物凄いネーミングセンスだわなあ)の行動理念も、なぜにこいつはここまでダウナーなのかそれまでの膨大な発言を聞いてもちっとも理解できなかった根暗代表・三輪与志の精神の基調も、四章に至って、小説としてのあらゆる角度から、いきなり狸の萎縮した脳にキリキリとつっこんでくる。特に四章後半の三輪与志には、もうずっぷし自己投影してしまった。そ、そうか、こいつの希求する『虚体』とは、そーゆーものだったのか。な、なんという奴だ。すまん。俺はお前を今までちっとも解ってやれなかった――。てな部分を読み始めたのが職場の昼休みだったものだから、「俺は馘首になってもこのままここでこれを最後まで読み続けるのが正しい人生の選択なのではないか」などと、午後の就業開始ぎりぎりまで休憩室を出られなかったほどである。まあ馘首になると橋の下なので渋々腰を上げましたけど。
 帰途の電車でふと疑問に思ったのは、三章までと四章の、あまりの風合いの格差である。無論話の経過は繋がっているのだが、たとえばちょっとおどろおどろしい情景描写ひとつとっても、それまでの夢野久作っぽい『幻想的と言えなくもないこなれの悪さ』が、いっきに「な、なるほど、これが日本文学大賞受賞の底力か」と溜息をついてしまうほどの密度まで完成されてしまう、それは意図的なものなのか――。
 たった今、Wikiで検索してみたら、あっさりその理由が判明しました。以下、部分コピペ。 
『『死靈』は、『近代文学』誌上に1946年1月号から49年11月号にかけて第四章までが連載され、ここで筆者が腸結核を病んだ事情もあって中絶した。その後、長いブランクを経て1975年に『群像』で第五章が発表され、以後は『群像』誌上で続編が掲載されることになる。』
『第四章は、単行本初版(眞善美社版)と現行の講談社版とで異同がある。これは第五章発表後の単行本化(全五章を収めた一巻本)の際に改稿されたため。』

 おう、さもあらん。つまり三章までは青年埴谷雄高の文章世界であり、五章以降は壮年から晩年にかけての世界、そして間の四章は、いわば四半世紀の時の狭間にかけた浮き橋のような部分なのだ。
 んむ。やっぱり人間、歳くってなんぼの部分は確かにある。いや、あるべきである。問題は、狸にもそれがあてはまるかどうかなのだが、まあおんなし哺乳類だしな。

 ところで、ひとつ気になったのは、図書館に並んでいる全3巻のうち、1巻目のみヨレヨレのブワブワで、2巻目以降は妙に手擦れが少ないという事実。分冊の大長編は後になるほど売れない、そんな出版界の常識があるのだけれど、ただで借りる場合も、やっぱりそうなのか。『死霊』の場合、おそらく上記のような理由(注・狸の勝手な推測)で、第1巻のみ極端に難解なためでもあろうが、1巻だけで諦めた読者の方は、まことにお気の毒としか言いようがない。


07月26日 日  『死霊』と『萌え』

 いや、あくまで別の話なんですけどね。

 最強の脳味噌防黴剤と思われた埴谷雄高大先生の『死霊』、講談社学芸文庫全三巻のうち一巻目は、後半に至ってガンガンとキャッチーなドラマ要素が盛り上がり、なんだかNHKのBSあたりならドラマ化してもイケるんじゃないか、などと思ってしまうのは、やはり狸の脳味噌がカビているからなのだろう。しかし冒頭第一章でカマされたほとんど意味不明の思索的対話の大量継続は、二章三章と進むにつれて、濃いキャラと謎をはらんだストーリーの中で徐々に割合が減少、そのぶん防黴剤としての効用も減少し、愚かな狸はエンタメ読書気分にシフトしてゆく。これではいかんのである。暑さに負けてしまうのである。しかしまあ、今後またズブドロの哲学的大宴会になるという噂もあるので、きちんと図書館に行って第二巻に突入するのだけれど。
 で、読んでいるうち、なんかこの雰囲気は過去に体験したことがあるなああるなあと首を傾げていたら、夢野久作の風合いを思い出した。埴谷大先生自らが、巻頭で『探偵小説の結構も含まれる』とおっしゃっているわけで、書き始められたのが戦後すぐあたりだから、それ以前の探偵小説ならば、当然、狸の愛好する『新青年』時代の風合いがあって当然なのですね。「すぐれた文学作品には必ずミステリーの要素が含まれている」とおっしゃったのは、何先生だったろう。……ああ、脳味噌がカビているので、忘れようとしても思い出せないのだ。これでいいのだ。……いくないぞ。
 もっとも狸としては、実は夢野久作作品そのものを、さほど愛好しない。あれは『濃い』のではなく『粘っこい』だけなのである。語り口はともかく内容自体は、狸風情の想像力や情念をちっとも越えてくれない。その点、いわゆる純文学作品『死霊』のほうが、純粋に『濃さ』だけで難解さをカバーできてしまうほどの情念を感じる。ほんとうは情念ではなく知性を受け取らねばならんのだろうが、そこはそれ狸なので人智に深入りする資質に乏しい。おまけに脳味噌カビてるし。
 やはりこうした難物は、若いうちに遭遇しておくべきだったのだろう。まだ狸化する前の若い青年理屈頭で摂取していたら、推定ひゃくまん倍くらい、己の血肉にできたのではないか。
 もしここをご覧になっている方で、純文学方向というか、重文学方向や哲学方向にマジで興味のある方は、若い内にぜひご一読を。キャラ立ちだけでご飯三杯イケるほどのパワーがあります。

               


 で、いきなりエロゲーの話になりますが、例の『たまたま』――か、かわいいじゃねーかやっぱし門井キャラ! 
 今日日よくここまで無機質な人間を主役に立てたものだと拍手したくなるほど超つまらん主人公はきれいさっぱり燃えないゴミに出しといて、またあらゆるデートイベントでも、今日日よくここまでつまらんリードができるもんだ絶対相手逃げてくぞ、とゆーよーな盛り上がらない展開はちょっとこっちに置いといて――やっぱり今様の萌え絵柄でも、門井キャラには、老狸をきっちりトロかす破壊力があるのであった。これで580円――あと1000円くらいなら払っても損はない。払えませんけど。

               


07月24日 金  朦朧

 本日の雨雲さんによる湿度管理は完璧を極めており、ちょっと太陽が覗き湿度が下がると、待機していた薄雲さんからすかさずぬるま湯が噴霧されて、常にサウナ状態を保ってくれる。
 狸穴への帰途、へっへっへっと舌から唾液を垂れ流しにして歩いている狸の横を、アクアラングを装備したくにこちゃんと、玩具の潜望鏡を装備したたかちゃんが、平泳ぎやら蛙泳ぎやらで悠々と追い抜いて行った。おや、ゆうこちゃんは? と思って頭上を見ると、ゆらゆら揺れる夜空の波間を、浮き袋から突き出た幼女のちっこい両脚が、ちまちまと水を掻いて進んでいく。
 ああ、夏の子供たちは、温泉プールの中でも元気いっぱいだ――などと、朦朧とする意識の中で羨みながら、ついに力つきて、ぐったりと温湯の底に沈んでゆく狸であった。まる、と。


07月20日 月  夏のささやき 夏のいなおり

 先だって、『夏』というと思い浮かぶ歌として、大滝詠一さんや山下達郎さんのナイアガラ・レーベルを挙げてみたが、あれらの歌は、狸の暑苦しいむさ苦しい青春時代にモロかぶりしていたがゆえに、半白髪のメタボ狸と化した今も、聴くと無条件で海辺の熱い砂の上を駆けまわり鉄砲で撃たれて浜茶屋の狸汁にされてしまいそうになる、そんな歌なのである。
 しかし己の過去をつらつらつらっと顧みてみるに、たとえばそっと耳元で『……夏なの』などと爽やかなろり声で囁かれたりしたら、真っ先に歌い出すのは、間違いなくこれだろう。

               

 いつぞや、確か明太子様のブログで、この『夏の思い出』の歌詞が、一見淡々としていながら実に殺人的な畳み込みで情動を煽ると感嘆しておられたが、まあ、尾瀬のごとき高層湿原というのは、どうもじめじめ湿気デフォルトの日本民族にとって、羊水的な世界をはらんでおるのですね。狸も死ぬときはむしろ桜の下の春でなく、尾瀬の池塘にぽっかり浮かんで初夏に死にたいと思う。

 さて、ならば、いきなり耳元で『夏だあぞう!!』などと暑苦しい胴間声で叫ばれてしまったら、これはもう、同じ郷愁でも、こっち方向に走らざるをえないのではないか。

               

               

               

 ……しかし昔の男衆って、ほんとにエラの張った、いい顔をしてましたよねえ。夏顔、とでも申しますか。


07月19日 日  日々のうつろい

 管理人さん、および、その隣室の老婦人の餌付けが功を奏し、野良猫たちの警戒心は日々に薄れ、中でも、大ぶりの白が一匹と小ぶりの斑が一匹、狸穴の門前を生活の拠点としつつあるようだ。早朝、仕事に出かけるとき、白が駐輪場のバイクのシートにぼってりと大盛りになり、斑がちょっと離れた門のすぐ内側のコンクリ上に小盛りになっているのを、しばしば見かける。狸の接近に気づくと、まず白が脱兎のごとく逃げ去り、斑は「あれ? 逃げなくてもいいんじゃないの?」といった風情で、しかし仲間に釣られて逃げていく。そして夕方、狸が帰穴する頃は、たいがい斑が、朝と同じ門のすぐ奥で、スフィンクスのように行儀良く座っている。この時は彼(彼女?)単独だから、見慣れた人間や狸なら近づいても逃げない。
 で、実は狸の隣室の、例の猫嫌いのやかましい爺さんも、いっとき姿が見えなかったのがいつのまにか復帰しているので、当初、それらの猫を追い散らすのではないかと心配していたが、実は爺さん、やはり病気で入院していたらしく、退院後はめっきり大人しくなり、まったく怒声を上げない。入院中に、何か人の情に関わる思いでも嵩じたのか。
 このところ、狸はシフトの都合で、どうしても帰宅が11時を過ぎることがある。当然、風呂に入るのは12時過ぎになる。この温気に風呂を省略したりしたら獣臭必至の狸なので、また隣人に怒鳴りこまれ水音を咎められたら真っ向から論戦するしかあるまいと覚悟していたが、先日、外で顔を合わせたら、何事もなく挨拶を交わすだけで済んだ。爺さんはほんとうに丸くなったらしい。
 やはり人間、歳をとったら、猫を抱いて縁側で丸くなっているくらいがちょうどいい。やたら世間にツッパるべきではない。足腰を保つにしても、そこそこの丘陵を散策するくらいが適切で、やたら大雪山だのトムラウシだのによじ登ったりしていると、はずみで天国まで昇ってしまったりもしがちである。老人は若者よりも萎れやすく凍えやすいのが本然だ。三浦雄一郎父子のようなバケモノ、いや失礼、スーパー爺さんにはめったになれないのである。
 なにはともあれ、身辺に猫の絶えない生活というものは、ほんとうにいいものだ。夜中に安心して風呂に入れるのも。 

 ところで処分品エロゲーの『たまたま』は、やっぱり地雷のようだ。『ドラマ』という概念が微塵もなく、ほんとうにただ可愛い子と知り合ってデートしてにゃんにゃんするまでの一本道に、多少の枝葉がついているだけのようだ。このロートル狸にしてからが「ふ、古い……」と絶句してしまうような、DOS時代のナンパゲーと同じレベルの趣向なのである。なんぼ580円でも、当節これで絵が良くなかったらスマキにして風呂に沈めてやりたいところだが、さすがに門井さんの原画だけは、今様の萌え絵としてかなり巧い。ディレクターたちにも自覚があると見えて、オープニングのアニメーションでは、真っ先に、こうクレジットが出る。『原画・門井亜矢』。――おいおい、順序違うだろう、ふつう。
 ちなみに直下の画像が、『たまたま』における門井さんの2006年の原画です。そして、その下が、同じ門井さんによる1999年作『リフレインブルー』の原画。

     

     

 こういった物件に興味のない方には、まあどちらも似たようなアレかもしれませんが、狸は正直、前世紀末のアキバが今世紀初頭のアキバに変貌してゆく過程で、何が『オタ』から失われていったのか、そんな一種の虚無感を抱いてしまったりもするのです。しかし門井さんの変化を責めはしません。需要あってのプロですから、時代に合わせて絵柄を変えられるのは、生き残るための重要な資質でもあるわけで。
 しかし――文化の記号化は、やはり哀しい。


07月18日 土  おたくのしゅうかく

 そう、人肌のぬくもりと湿り気、それに年がら年中全身を包まれっぱなしと思ってしまえば、気温が30度を越えようが湿度が100パーに近づこうが、どうってことはないのである。
 などと、なんぼか脳味噌のカビが減った気がするのは、もしや『死霊』のおかげか。いやあ、この異様なまでのハイ・テンションなキャラたち(主人公は極端に根暗なキャラなのだが、そのあまりに思索的な根暗さは、すでに『ハイ』の域に達している)の、まわりくどい膨大な、理解不能過半数のセリフにつきあっていると、なにか郷愁に似た感覚にとらわれる。ああ、狸も昔は、真理とゆーものは久遠の彼方にあるに違いないのだから何かにつけ物事をいらんとこまで思索しよう対話しよう、そんな時期があったんだよなあ。思えばそれが思春期であり青春期であったのだ。それを一生続けてもまだ終わらなかったところが、埴谷大先生の破壊力なのだろう。

 しかしやっぱり狸は狸なので、若干活気が戻ったとたん、アキバなぞに出かけてしまう。以前はうんざりしていた似たような萌え絵の海も、まあそれが人肌のぬくもりと湿気の現代的表象と思ってしまえば一興なのである。で、エロゲーの処分特価ワゴンで、580円と、現在の狸の懐に折り合い、しかもパッケージの萌え絵の深層になんじゃやら始原おたくの血を湛えた風合いの物件を見つけ、久しぶりに購入敢行。2006年発売のDVD仕様で580円、これはもう地雷、クソゲーでしかないに決まっている。なぜ狸は食うに事欠く日々の中、こんなシロモノを絵買いせにゃならんのか――その訳は、インストール直後に判明しました。原画が門井亜矢さんだったんですねえ。
 え? あの門井さんまで、近頃はこんな萌え絵描いてんの? などと、近頃のコミックに疎い狸は驚いてしまったが、まさにそのちょっとふにゃっとした萌え絵特有のしまりのない風合いの中には、かつて『下級生』や『リフレイン・ブルー』で惚れ惚れとさせていただいた、凛とした弾力と芯のある門井タッチが、そこはかとなく感じられるのであった。恐るべし老おたくの臭覚と収穫。しかしそのゲーム『たまたま』は、検索してみたら、やっぱり中身は地雷らしい。ブランドもすぐにつぶれたようだ。まあいいや、580円だし。駅の蕎麦屋で食ったカツ丼も、懐かしき学食風ペラペラ・カツで旨かったし。しかしそのカツ丼が570円。定価8800円の門井ゲーが580円。……ほぼ等価なのは妥当……なのか?


07月14日 火  ……ぐったし

 夏日の訪れとともに、狸から総ての余裕は失われました。
 すでにエアコン全開なので、狸穴自体は快適です。
 しかし……いっきに倍加する電気代の予兆が、冷気とともにひゅるるるるるると狸穴から総ての余裕を奪っていきます。物理的にも、精神的にも。
 きのうなんか、Yahooジオシティーズまで死にかけてるし。

 ところで埴谷雄高大先生の『死霊』、なんか今のところ、確かに理解不能の哲学的対話が延々と続きながらも、ストーリーやビジュアルだけ見れば、もーすっかりおどろおどろしいサイコサスペンスに他ならないような気がするのだけれど、これは狸の脳が煮えてしまっているからだろうか。

 ちなみに水芭蕉猫様、『ファイブスター物語』って、こんなんです。ああ、なんか、とってもリリック。いい意味で、あらゆる方向にリミッターのはずれた、浪漫宇宙の大風呂敷なんですねえ。これに比べりゃ『エヴァ』なんてのは、引き籠もり高校生の大学ノートにびっしり蟻のような文字で書き込まれた被害妄想に過ぎないような気がするんですけどねえ。でも残念ながら、こっちのアニメはヒットしませんでした。ほんとにみんな、引き籠もり好きなんですねえ。もっと翔ぼうよ。

               


07月11日 土  すすしい

 ああ、すすしいすすしい――などと喜ぶほど涼しくもないし湿気もあるのだが、なにせ今週は連日「ああぼうごのぐぞぶじあづぐでぐぞぶじあづぐでぼーじんだぼーがばぢだあ」などと呻きながら半分死んでいたので、やっぱりすすしい。
 埴谷雄高大先生の『欧州紀行』は、ちっとも難物ではなく、早くも夏バテしそうな脳味噌を適度に賦活させてくれる、思索的紀行文であった。またこの文体がいいのである。新書本の一段落数行が句点なしのぶっ続けで、種々の形容や付帯情報を三行ほど連ねた末にようやく主語が登場し、文末の述語に至る間は、当然述語に対する形容や付帯情報が三行続くわけである。読点も少ない。しかし無論のこと文法的な齟齬などは一点もないので、作者の悠揚たる思索をある程度の緊張感を保ちながら整然と追うことができる。意外なことに、かなりユーモラスな叙述も多い。
 うん、これなら狸でも大丈夫。今日はすすしいし。などと世の中をナメてさっそく図書館に『死霊《しれい》』を借りに行き、全三巻のうち第一巻、ついでに一龍斎貞水師匠の『豊志賀の死』のビデオも抱えて帰る。怪談噺『累ヶ淵』の中で、いっとー恐いくだりですね。やっぱり夏は死霊や怪談でしょ。って、埴谷雄高と一龍斎貞水いっしょにしてどーすんねん。でもまあ、どっちも大宇宙の一部を己の言葉で語ろうとする『芸』には変わりがない。

 さて、すすしいうちに、余裕で甘木様の質問に答えてみよう。テーマは『夏』ですね。うん、余裕ですよ、余裕。

 1.これから本番を迎える「夏」に一言どうぞ
   きなさい!

 2.今年の夏の目標は?
   『ゆうねこ』を、一区切りつくまで進める。水神様の話も、夏祭りくらいは済ませたい。

 3.夏に行きたい場所は?
   山寺。どうせ奥の院に着く頃には、晩秋でも汗で全身ぐしょぬれになるのだから、みんなぐしょ濡れの夏に限ります。

 4.夏をイメージする曲は?
   山下達郎の『高気圧ガール』、大滝詠一の『君は天然色』――うん、爺いでも余裕ですよ、余裕。

               

               

 5.あなたにとって夏を感じさせる小説を挙げてください
   えーと、なんかいろいろ山ほどあるわけだが――梶尾真治先生の『詩帆が去る夏』ですかね。うん。あれは、いい。読むべし。

 6.夏に行くお勧めの場所は?
   山形の七日町にある『染太』。
   土用丑の日の鰻から、昔懐かし風味のカツ丼やカレーまで、夏のスタミナ源に。

 7.「夏」という漢字から浮かぶイメージは?
   どーんとぶ厚い、重量級の書籍。たぶん、『頁』からの連想なのだろう。

 8.夏をイメージする小説の題名を考えてください。内容は問いません。
   『神津瀞妖譚』――なかなか打鍵が進みませんが、まさに夏の話なのです。

 9.夏を人間にたとえるとどんなヤツ?
   「青春だあ!」と叫びながら燃えまくっている、はた迷惑で鬱陶しい奴。

 10.夏を繰り返せるとしたら、いつの夏をもう一度経験したい?
   なーんも深く考えないで、永遠の夏休みを信じ駆けまわっていた小学校低学年の夏。
   あるいは、貧相な狸でもそれなりに光と影のコントラストが鮮烈であった大学時代の夏。
   ……あ、すみません。4番目の質問に、もう1曲。『八月の濡れた砂』。
   狸、歌いま〜す。
   
♪ あ〜の〜夏の〜光〜と影は〜 どこへ〜行って〜しまった〜の〜〜〜 ♪

               


07月08日 水  20円の幸福

 現在の狸穴に棲みついた頃、ざっと六軒はあった最寄り駅周辺の古本屋も、順調にブックオフや古本市場等のいわゆる新古本屋に駆逐され、今は三軒が残るのみとなった。文字どおりの半減である。まあ、故郷・山形市などは、少年時代からの思い出が鬱陶しいほどじゅくじゅくと濃密に染み着いた古本屋が文字どおり『全滅』してしまっているので、それに比べれば、まだましなのだろうが。
 残った三軒のうち、私鉄駅の近所にある一軒が、新古本屋の影響をいっさい無視した気骨のある店で、ボロボロだろうが水濡れ本だろうがけして破棄したりせず、きちんきちんと店の外の100円棚や50円棚に入れてくれる。しかし道行く客のほうは、ブックオフの社長同様、書籍も肉や魚介類や菜っ葉と同じ生鮮品だと勘違いしている輩が多いらしく、その棚の商品はあまり動かない。あるいはたむろする客が、貧しい狸、年金暮らしっぽい老人、得体の知れないなんかのマニア等、なんか臭いそうな風体の生き物ばかりで、それらが一冊一冊時間をかけて入念にチェックしているものだから、一般の方々には近づきにくいのかもしれない。
 で、とうとう棚がパンクして、棚に置いても地べたに転がしてもそれ以上傷みに差の生じない物件は、実際、地べたに転がされるようになった。新規開設20円コーナー、すなわち棚の前の路面である。段ボール箱を並べるでもなく、路面に新聞紙を敷くでもなく、書籍の群れが野良猫の群れのように気持ちよさそうに、文字どおり陽を浴びながら横になっている。
 本日は、西日の下でちょっと寝苦しそうにそっくりかえっている中公新書(埴谷雄高大先生の『欧州紀行』)と、全裸で涼しそうなハードカバー(小林信彦先生の『サモアン・サマーの悪夢』)を、計40円で狸穴に連れ帰った。
 狸は文芸を志しながらも、まだ埴谷雄高大先生の『死霊』を読んだことがない。狸はそろそろいつ死んでもおかしくないような気がするので、死ぬ前には読んでおかねばならない。しかし、あれはなんじゃやら難解だ難解だと評判の形而上小説で、文体もなかなかひねこびてやっかいだと聞いている。せめてその埴谷文体だけでも、エッセイで事前になれておこう。20円だし。
 小林信彦先生のちょっと斜に構えたエンタメは、昔から風合いが好きでたいがい読んでいるが、そのミステリーはあまり評判が良くなかったのでパスしていた。でも明解な文体だから、埴谷文体の箸休めにいいのではないか。20円だし。

 あの古書店の店主が、どうか狸より先に逝きませんように。


07月06日 月  富士山頂

 鳴り物入りで何十年ぶりかにテレビ放送された石原プロの『富士山頂』(昭和45、1975)、録画してとっくりと拝ませていただく。狸は初公開時に劇場で見ており、『黒部の太陽』(昭和43、1973)や『栄光への5000キロ』(昭和44、1974)のときと違って、「ありゃ、今度はなんかずいぶんコーフンしなかったぞ」などとがっかりした記憶がある。確か客入りもかんばしくなく、石原プロモーションの前途に暗雲がたちこめ始めた作品のはずだ。現に、狸が長く記憶していたシーンといえば、レーダー保護用の巨大ドームをヘリで富士山頂に運び上げる、例のクライマックス・シーンだけで、他はもうきれいさっぱり忘れていたのである。『富士山頂』のちょっと後、夏休みに公開された(確か『富士』は春休み)、悪名高い大コケ作品『ある兵士の賭け』のほうが、情緒的にはよほど感ずるところがあったように覚えている。
 とはいえ、当時の狸は小学校を卒業したばかり、ようやく中学に上がろうというガキであり、映画と言えば他には特撮映画や漫画映画とその併映作品、あとは映画教室向けっぽい児童映画、もしくはやや大人向けの007くらいしか知らなかったわけで、『富士山頂』が村野鐵太郎監督作品であることなどは、意識するべくもなかった。だから、今回の放映には、かなり気合いを入れて望んだのだが――ありゃ、やっぱりこんな華の少ない作品だったか。いまどきこのテレシネ原版はねーだろう、と言いたくなるような、キズだらけで暗部のコントラストが劣化したプリントは、まあいかにもレトロな時代感を醸し出してもいたから許せるとして、やはり、そもそも監督の人選を完全に誤っていたのではないか。
 確かに村野鐵太郎監督といえば、それまで日活で、骨太な男性アクション中心に手堅く稼いでいたベテランなわけだが、演出自体は『ものすげー地味』なのですね。『陰気』『辛気くさい』と言ってもいい。おいおい喧嘩売ってんのかよ、と言うなかれ、狸にとっての村野鐵太郎監督とは、ロマンポルノしか作らなくなってしまった日活を出て、ATG映画『鬼の詩』(昭和50、1975)を撮られてからようやくその名を記憶に留めた、ものすげー地味で陰気で辛気くさい、しかし芸術的な映画ばかり撮っている監督なのである。『月山』(昭和54、1979)しかり、『遠野物語』(昭和57、1982)しかり。もっとも『遠野物語』以降の諸作は、ネタ自体はけっこうロマンチックだったりビジュアルも華のあるところがあるのだが、いかんせん、とにかく根が暗い。いや、暗い、というのは的を射ていないか。なんといいますか、たぶん村野監督は、意識的に『煽らない』『盛り上げない』『同調を強要しない』、そんなポリシーの方なのです。
 たとえば『富士山頂』の中盤で、富士山頂のレーダー設置予定地点から、そもそも都内の気象庁舎が邪魔者なしに視認できるか、そこが問題になる。気象庁舎からリモートコントロールしたりする予定なので、当時のテクノロジーでは大問題なのですね。そこで、晴天の深夜、気象庁舎には芦田伸介さんたちお役人、富士山頂に石原裕次郎さんたちが詰め、発光器の光が果たして目視できるか観測するわけだが――ふつう、このあたりのシーンは、めいっぱい盛り上げますよね。ビジュアルも煽りますよね。山頂から遠望する関東平野だの大東京の夜景だの、気象庁側からは都会の光にまぎれて判然としない夜の富士だの。で、果たして視認できるかできないかちょっと気を持たせてから――おお、富士山頂に確認成功の合図の光が! とまあ、普通はそんな段取りになる。ところが村野監督がやると、画面は気象庁舎の一室と、富士山のてっぺんが切り替わるだけ。で、実験の経緯は芦田伸介さんがセリフで述べるだけ。裕次郎サイドは、視認成功の花火(というか、あの発煙筒みたいな、派手に光るやつ)を着火してふりまわすだけ。これは明らかに予算等の問題ではなく、確信犯だろう。
 これがたとえば『黒部』の熊井啓監督だったら、社会派監督硬派監督と呼ばれながらも実はずっぷしの純情浪漫万年青年、いざイレコんだときには、やや常軌を逸した煽りや盛り上げも辞さない。しかし村野監督は、どのような局面でも、なんじゃやら黙々と畑を耕して一生を過ごす武骨な百姓親爺のように、最低限の言葉しか発さない。わかる奴だけわかればいい――これを近代用語では、『ものすげー地味』『陰気』『辛気くさい』『なんかよくわかんない』といいますね。
 しかしまあ、そうした資質は日活を離れたのちに明らかになっていったわけで、『富士山頂』制作時点での人選ミスもやむをえないのかもしれないが、『根っから骨太』ということの本質を、石原サイドの誰かが悟っていたら、この人選は無かっただろうと思われる。主役たちより、馬方さんやブルトーザー野郎のほうが生き生きしてましたもんね。
 男と男のロマンなんてものは、しょせん繊細柔弱なものなのです。だからこそ石原軍団は強固なのかも。


07月04日 土  若いってすばらしい

 と、ゆーからと言って、若くなくたってすばらしい場合もあるわけだが、やはり若くない場合、自分が自分であることを肯定するためには、社会的なしがらみ対して、より積極的なツッパリが要求される。すばらしい、ということの、純度が違ってくるのである。

 ここしばらく細々した立ち仕事の割合が増えて、やたらと日々の疲労が激しく、帰宅しても風呂に沈んで溺死したり、そのうち息を吹き返してパソを立ち上げても、テキスト系創作や、そっち関係のネットに関わる気力がなく、「あーうー」などと呻きながら、過去に覗いていたろり絵師の方々のHPを再チェックして栄枯盛衰の感にとらわれたり、怠惰な日々を送っていた。
 本日の休日は久々にテキスト創作系の活動を再開し、そっち関係の方々のブログ等を巡ってみたりもしたのだが、ありゃ、なんか彩様が自動車事故に遭われたとのこと。幸い軽症で済んだようだが、気をつけてくださいね。しつこいようですが、自動車は煙草より危険なのです。副流煙ではめったに手足がもげたりしませんが、自動車ぶっつくと首がもげたりします。
 で、頭を五針縫うために一部髪の毛そられることになってしまい、夏のヘアースタイルを気にしてぼろぼろ泣いてしまううら若き乙女――ご当人にとっては笑い事ではないだろうが、ひねこびた爺いの狸としては、「おうおう、やっぱり若いおなごはかわいらしいもんじゃのう」などと、思わず微笑んでしまったりもするのです。

 今週、疲れた足腰をきしませながら、職場から最寄り駅に向かう途中、狸は二度ばかり、気になる女性に遭遇した。最初は確か火曜だったと思う。二度目は昨日の金曜。ほぼ同時刻に同じ道筋を歩いていたから、毎日その道を通勤しているのかもしれないが、もしかしたら近所の総合病院に通院しているのかもしれない。と言うのは、その女性の様子が、あきらかに異常だからだ。推定三十代なかばあたり、顔立ちや身なりや動作は遣り手のキャリアウーマンふうなのだが、後頭部の頭髪が、ごっそり抜けている。正直、河童に近い状況である。しかし河童のようにきれいに丸く抜けているのではなく、生え際(抜け際?)が曖昧で、そこに頭頂からの抜けていない頭髪がかかったりして、本当にこんな言い方はご当人を前には絶対にできないが、ある種の皮膚病を患って斑に毛の抜けた猫か犬のようだ。
 昔、母方の従姉が、病気の高熱で頭髪が全部抜けてしまったことがある。幸い徐々に再発毛したのだけれど、生え揃うまでの間は、当然ウイッグを着けて生活していた。また、以前いた会社の本部には、抗癌剤の副作用で頭髪の抜けてしまった方もおり、この方も女性だっただけに、癌そのものや抗癌剤の内科的な副作用よりも、そっちのほうが気になると言っていた。ちなみにその中年女性社員は必要以上にダイナミックな方だったためか、そのうち癌は消滅し、頭髪も含めて以前よりたくましい心身になってしまった。困ったものである。
 だから、今週見かけたその女性も、現在通院中なのではないかと思ったのだが――ウイッグを着用せずあえてそのまま生活する、他人の目を気にせず毅然として歩く、そのことに、通りすがりの狸としては、一瞬かなり反応に窮せざるをえなかったわけである。道行く他の方々も、駅から同じ電車に乗る方々も、おそらく同じ思いだろう。正直、外野としては違和感が先に立つ。しかし人間的な『意思』のレベルでは、あくまで非難するべき行動ではなく、むしろアッパレと言わねばならない。すげー微妙。
 ……本日の冒頭の一文は、まあ、そんな感じで打ち出したわけである。まあ、ここには書けない個人的ななんかいろいろの思いもあったりするのだけれど。

 で、本題。若いってすばらしい、である。
 以下に埋めこませていただく動画は、以前ここでも紹介した『顔のない少女』――重度のトリーチャー・コリンズ症候群という病気によって、顔面骨の3割から4割を欠損したまま生まれてきてしまったジュリアナちゃんの、その後の動画である。優しい家族と社会の善意に恵まれて、すくすくと育っているようだ。しかし顔貌だけは、生まれた頃のほとんど人間の顔という概念にあてはまらない状態に比べればかなり整ったが、依然、常人とはかけ離れた状態にある。たび重なる外科的手術も、まだ成長期であるがゆえに、段階的にしか受けられないのだろう。したがって、この動画に寄せられるコメントにも、多数の温かい励ましにまぎれて、鬼畜の放言が、ときおり混じるのが現状だ。

               

 しかし、もしここを読まれている方々の中で、狸が後半生をかけて形象し続けているたかちゃんトリオをご存知の方があれば、あいかわらずジュリアナちゃんは正しくその仲間であり、とくにゆうこちゃんにもっとも近い存在である、そうしっかり観念していただきたい。
 幼い彼女が、今後、自己の存在に関していかなる社会的局面に立たされることになろうと、彼女は今、正しく『ろり』である。『ろり』とは、根本的には世代や形状よりも、むしろ純度に関わる観念世界なのである。
 ジュリアナちゃんといっしょにお風呂に入りたくない奴を、狸は絶対に『ろり野郎』として認めない。

 ちなみに、染色体の異常によるトリーチャー・コリンズ症候群の患者さんは、遺伝でなくとも、突然変異によって5万人にひとりくらい誕生するらしい。ジュリアナちゃんのように重い例はまれだろうが、狸も昔、その病気ではないかと思われる方の写真を、身近に見た記憶がある。姉の大学の卒業アルバムである。
 狸の姉がかよっていた大学は、プロテスタントのキリスト教会が大元になっているから、というわけでもないのだろうが、なんらかの身体的ハンデがある方々にも、精神的に門戸が広かったようだ。その卒業アルバムで、各サークル活動を記録したスナップの中に、明らかに目鼻のバランスがとれていない女子生徒がいたのである。絵画的に言えば、デッサンがおかしい。たとえば左右の目は、単独で見ればごく普通の目なのだが、水平が完全にずれている。鼻は中央におさまっているが、口は明らかに横にずれている。もはや美醜というレベルの問題ではなく、本当にバランス感覚の失調でしばし目眩を覚える、そんな顔貌だった。
 その写真を初めて見たとき、狸はそれが生きた人間の写真とは信じられず、思わず「これはプリントミスなのではないか」と姉に訊いてしまった。しかし、それはあくまでちゃんとした写真だったのである。それはそうだ。サークルの他のみんなは、まあ普通の顔や、ちょっと造作はアレだがまあなんとかギリギリ許せる、そんな顔で屈託なく笑っている。当然、バランス感覚の失調によって狸には表情の読めないその女子生徒も、サークル仲間といっしょに屈託なく笑っているのだろう。
 すでに思春期を終えた彼ら彼女らの心の深奥までは知りようもないし、正直キリスト教もハテナの狸だが、造物主とやらが本当に存在するなら、造物された側への責任として、全世界をせめてそのキャンパス程度には、まっとうに維持していただきたいものである。


07月01日 水  まだ

「やっほー! まーだだよー!」
「んむ。これは、まだだな」
「……ごめんね、ごめんね」