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04月29日 木  ややハイ

 とりあえず本日は世間様同様祝日で、明日は弁当工場でセブンイレブン100円お握りあたりの奴隷をやる予定なのですが、今後の予定はもーまったくわかりません。えっへん。仕事があれば働きます。
 さて、本日の狸の行動は――昨夜から寝ないで打った、昼間いっぱい寝た、夕飯食った、あっちの板も更新した。以上。あ、風呂にも入れましたね。めでたしめでたし。
 何かここで触れたい時事もあったような気がするのですが、風呂で頭から流れ去ってしまいました。あ、今思い出した。例の米軍基地移設問題。でも、どうせ何を言っても無駄の世界、アメちゃんの掌中に放り出されてしまったみたいなので、とりあえず鳩山さんはやっぱし清らかな山鳩のごとくに脳味噌もちんまり愛らしく透明な方だった、そんなとこで。
 あ、あと、古本屋で、『現代の大和ごころ』という昭和48年の角川文庫を50円でゲット。梅棹忠夫氏や梅原猛氏の共著で、『新・国学談』などとサブタイトルもあるので、きっと面白いに違いない。るんるん。

 ……以上、少々打鍵ハイ気味の、大型連休とは無縁の狸でした。


04月27日 火  あう

 留守中、狸穴からケーブルのチューナーが奪われてしまいました。
 なんて、泥棒のように言ってすみませんすみません。本来、解約の時点で回収されるはずだったんだそうです。狸穴に残っていたのが、何かの間違いだったのですね。いわばあっちの忘れ物を狸が勝手に使っていたわけで、忘れたのはお互い様だから使用料を払えとは言われないようだが、狸山の全穴に新しいソケットを付けるついでに、しっかり回収されてしまいました。
 さて、オーナーさんの建物一括契約とかで、来月からオプション以外のケーブル番組までロハで観られるそうなんだが、新チューナーが届くまで、狸穴は再びアナログ地上波オンリーに退化したわけである。BSも入らない。その間違いの古チューナーで受信してたんですからね。今週の『クールジャパン』も、録画するつもりだったオーストリア映画『菩提樹』『続菩提樹』(『サウンド・オブ・ミュージック』の元ネタになった、マリア・アウグストさんやトラップ・ファミリーの実話映画化ですね)も観られない。まあ『鑑定団』や『ゲゲゲの女房』はアナログでもやっているし、映画なんぞ観ている暇があったら自作も打たねばならないので特に問題はないのだが、数日分のNHKのBS受信料が癪だ。NHKに泣きついたら、日割り計算でまけてくれるのかしら。ぶつぶつぶつ。

 ところで『ゲゲゲの女房』は、視聴率が徐々に上がってきているようだ。シナリオ自体は、狸にはあいかわらず長時間ドラマのコマ切れに見えるのだが、まあ、親子や姉妹の人情を、ベテラン山本むつみさんらしく手堅くまとめているのが、受け入れられつつあるのだろう。1週間ぶんくらいずつ、まとめて観るのが正解なのかもしれない。


04月24日 土  図書館狸

 アブレたので、久々に図書館狸。

 ここにも何度か記したが、図書館には膨大なVHSソフトが今でも健在であり、ドキュメンタリー番組や映画ソフトなど、DVDでもテレビ放送でも観られない古物がけっこう残っているので、時々借り出してくる。本日は、棟方志功さんを取材した『彫る』(1975)と、なんじゃやら原作者のクライブ・カッスラーがストーリー変更に立腹し封印してしまったとかで、アメリカ本国でもDVD化されていない海洋アクション映画『レイズ・ザ・タイタニック』(1980)を借りてきた。

 棟方版画は美術的価値が上がる一方で、その作者の強烈な個性も未だにウケており、近年でもBSあたりで何度か新作ドキュメントを観たが、やっぱりスタッフの方々にとって『過去』の素材だからか、山下清画伯関連同様、妙に神話化されるきらいがある。生前のドキュメントを観ると、やはりあの方は、トーホグ人ならではの土臭さと卑屈さと、権威に対する平衡感覚があったからこそ、海千山千の美術界で、とんでもねー仏性をまっとうできたのである。近頃の小綺麗なハイビジョン映像よりは、粒子の荒れた16ミリフィルムのドキュメント映像のほうが、やっぱり似合う方だ。

 で、いきなりトーホグから話が変わり、海の底からタイタニックが、それはもうクジラさんのように勢いよく浮上してきたりする(本作の制作当時は、沈没時に船体がまっぷたつに折れたことは判明していなかった)のだが、まあ原作者さんはそもそも原作そのものの、理論的齟齬を情動で糊塗しきれないエンタメ魂の不足を恥じるべきなのであって、映画化作品のほうは、とにかく異様なほど馬鹿でかいミニチュア(最小型の貨物船をタイタニック風にメイクアップしたらしい)だけでも、おなかいっぱいになれる貴重な特撮映画である。DVD画質で、ぜひ観たいものだ。ところが、ちょっとネットでググって見ると、おやおや困ったもんだ。「水滴が大きく見えるのはミニチュアがセコイ証拠」だのなんだの、おそらく風呂や水たまりでもろくに水面の動きなど観察したことのない方々が、SFX部分でもまことしやかな悪評を広げている。水というものがどんだけ粘っこくて『大きい』ものか、じっくり見たことがないのである。いっとくが5メートルや10メートルのミニチュアじゃ、あんな堂々たる水流も、キラキラと陽に映える飛沫も生じない。
 キャメロンの『タイタニック』だって、「実物大に近いセットを作った」「最先端CGもバリバリ」という情報に洗脳されているだけで、クライマックスの沈没シーンの多くは、明らかにそこそこのサイズのミニチュアによる映像である。CGによる微細な破片や水煙の合成で、ちょっと見でかく見えるだけだ。「じゃあやっぱりCGの力じゃないか」と言われてしまえば、「ああそうですか」と返すしかないのだが、あくまで狸は物理的な質感に魂の共鳴を覚える。
 まあここ2〜3年になって、ようやくフルCGでも手間暇(時間=予算ですね)を惜しまなければ確かに質感が出せるようになったようだが、ほとんどはあいかわらずコストダウン目的の、ペラペラの立体切り絵である。ならば模型のほうがまだいい。今さかんに宣伝しているリメイク版『タイタンの戦い』のSFX映像だって、狸の目には、やっぱり技術的にはあの市川崑監督の実写版『火の鳥』のような、つまり実写とセルアニメの合成作品同様にしか見えないのであって、同程度にCGバリバリでも『300』のような「映画としての凄さ」があるかどうかは、やはりドラマとしてのシナリオや演出や、編集の部分を観てみないとなんとも言えない。ところが、ノスタルジック手作り特撮の代表例として比較されるオリジナル版『タイタンの戦い』は、映画全体としては正直ダルいにも拘わらず、少なくともハリーハウゼンやダンフォースの担当したミニチュアによるストップモーション・アニメが絡む部分だけは、やはりノスタルジーではない『芸能魂』そのものを感じてしまうのである。

     ◇          ◇

 中村ケイタロウさんのブログで知った、最相葉月・著『星新一 1001話をつくった人』も借りてきた。文庫版は貸出中で、ぶ厚いハードカバーしかなかったため、電車で読もうとすると重くてかさばるのが少々キツい。
 星先生の晩年の憔悴した様子は、当時から噂に聞いていたし、自分の生涯をかけたショート・ショートというジャンルの、文壇での評価の低さを死ぬまで嘆いていたのも知ってはいたが、文壇での評価がどうであろうと、すでに『古典』として残ることを確約されている星世界そのものを、作者自身の知性をもってしても最後まで不安がっていた様子に、狸はぞくぞくするほど精神的な『歪み』を感じて蠱惑される。手塚先生にも、似た部分がありましたね。その陰鬱な不安感そのものが、手塚世界や星世界の芸術的な価値なのであり、だからこそ『古典』になると断言できるのである。思えばいわゆるSF小説畑で、星・小松・筒井、その御三家以外の方々もけっこう好きだった狸だが、今に至っても『天才』だと断言できるのは、やはり御三家くらいだ。

 最も狸の『お気に入り』である筒井先生は、無事に大衆文学と純文学の融合を果たし、さらにとんでもねー日本語世界まで昇って行ってしまった。そもそも『東海道戦争』や『アフリカの爆弾』の頃から、狸はその一見奇矯な芸風に笑い転げながらも、むしろ「この人ほど『正しい』日本語の紡げる作家が他にいるだろうか」と感心していたのであり、なんで芥川賞候補にならないかのほうが不思議だった。元来直木賞をもらうべき筋の人ではなかったのである。
 ぶっちゃけ文章面において(魂まで含めると数に限りがないのでここでは文体限定)昔から狸が規範にしてきた(もちろん足元にも及ばないのを自覚しつつ)のは、端正な語り部としての岡本綺堂、正しくもなんともないけど底無し沼のように美しい泉鏡花、『適確な日本語表現』という言葉を具現化したような筒井康隆、そして、いわゆるブンガク的評価などには目もくれず、最小限の『エンタメ語』というか『ストーリーテリング文』を営々と操り続ける高橋克彦、以上敬称を略してしまってすみませんすみません、である。それらの先生の著作は、嘗めるように読んだ。特に筒井先生の短編『エロチック街道』などは、その『限りなく美しさに近い正しさ』に惑溺してしまい、少なくとも数十回は、誇張抜きで隅から隅まで嘗め回した。

 そして小松先生は、知的なものからハッチャケから情緒纏綿たる和の世界まで、長短問わずあれだけの文芸作品を残し、芥川賞だって直木賞だってマッツァオの傑作も多数放出しながら、現在一般的には『日本沈没の人』みたいに扱われがちなのが、歯痒くてならない。あの方が世界で初めて着想したSF的趣向を、のちの若手がありがたく使い回し、その若手の多作に溺れて育った若い読者が小松オリジナルの偉大さを悟れずに「古いからこんなもんか」などと評しているのを瞥見すると、狸は明確な殺意を覚える。青年や少年なら撲殺したい。若い女性や少女なら、かわいきゃ許しますけどね。しかし先生ご自身は、さほど世評を気にせず「よっしゃよっしゃ」と笑いながら、城西国際大学によるオンデマンド出版でオリジナルの全作が恒久的にデータとして残れば良しとする、そのあたりの知的豪放さが、愛しいけれどもやっぱり歯痒い。まあ選り抜きの名作は常に文庫で出回っているので、今後もきっちり残るだろうが。

 さて、それでは星先生となると――これは――ちょっと格別の世界なのですね。
 いわゆる『純文学』は、己の認識できる範囲の世界をどこまでしつこく認識するかであり、さらに他人にも同じように認識してもらおうとセコセコセコセコ表現しまくるもので、いわば他人の意識からいかに自由を剥奪し作家のビジョンをもって洗脳するか、そんなようなものだ。あるいはもっと謙虚に、「ねえねえ、解ってもらえるよね。キミとボクとはトモダチだもんね」、そんな世界だ。別に、それが悪いというのではない。それを実現するには、やはり真摯に『言霊』を磨かねばならないし。
 で、いわゆる『文芸』つまり『大衆文学』となると、『芸』というだけあって、サービス精神をもって自分自身を偽る必要性も出てくる。滅私奉公を要する場合もあるだろう。つまり、自我をも他我をも相対的に『化かす』ということですね。狸の本懐は、このあたりにあると思っている。これだって『純文学』以上に『言霊』の適否が問われる。
 ならば星新一作品はというと――あれは『文学』や『文芸』というより、すでに1000超の『空間』の抽出行為なのである。煩雑な世事やお仕着せの夢などは濾過されてしまった『星空間』で、子供も大人も自由に遊ぶ。彼らを縛る煩雑な理屈や難解な言葉など、そこには微塵もない。精神的に『縛り縛られる快感』を本質とする『文学』や『文芸』とは、一線を劃している。『文壇』と相容れないのも、当然なのである。これはもう、永続的に出版界で一定の場所を占め続けるのは間違いない。他に類がないんだもん。
 唯一、星空間群が社会に及ぼした罪は、多くの子供が「言霊など無くとも、表現力などなくとも、何十枚も苦労して書かなくとも、人を楽しませる話は作れるのだ」と勘違いして、やくたいもない小ボリュームのコント未満や荒筋や、空疎な描写の断片などを、『ショート』と称して片っ端からあっちこっちに垂れ流してしまうことだろう。まあ子供だって、たまにはキラキラきれいなシャボン玉空間を飛ばしたりするから、罪とばかりも言えないのだけれど、そもそも正しい空間認識のないところで、シャボン玉はたいがい脹らまない。「星新一先生のショート・ショートで創作の道に入りました」という若手作家もいるにはいるが、それは初めから空間認識の素養があったのである。だから大人だと、よほどの自信や自負がない限り、これはふつうやらない。星新一が星空間を抽出するまでに、どれほど難儀な『星式濾過器』を駆動させているか、大人なら想像できるからだ。書いてる途中に気づくからだ。もっとも文壇や出版界にも、それが想像できない方が多かったようだが、まあ、大人にだって無自覚な連中は多いですもんね。

     ◇          ◇

 ……ところで、もう夕方なんですけど。
 本を読むのは電車の中でもいいが、自作はいつ打つんだよ。あれからまだ10枚くらいしか進んどらんぞ。
 ま、どうせまたアブれる日もあろう――なんて呑気にかまえとるほど若くないぞ、狸。
 ぽこぽこ打つべし。


04月21日 水  とりとめもなく

 しかし、総理と官房長官と副官房長官が、いつまでたってもそれぞれ勝手になんか言ったりやったりしている政府って……さすが新政権、かつてない展開を披露してくれる。
 って、もはや感心してるバヤイでもないと思うが、どうか。
 なんでもいいから小沢さん、早々に出てきて早々に自爆してください。まあここまでどうにもならんと、当分恐くて出てこれんのも解るんですけど、いちおうあんたが大将の民主党政権なんすからね。それとも、もう政権党で七面倒くさい思いをするよりは、野党に戻って末永く商売続けたくなったかな、やっぱり。

     ◇          ◇

 松屋の250円牛丼もそろそろおしまいだが、代わってフレッシュトマトカレーが復活するようだ。嬉しい。あれは安くて、とても旨い。狸にとっては御馳走の域に達している。
 しかしそうなると、ますます吉野家が心配になる。居直ってくれんかなあ。今さら高価な特大盛りなんてブチ上げられても、この歳になると胃袋の都合で嬉しくもなんともないし、健啖な若い衆だって、安い他店のメガとかに走ると思うのね。吉野家さんも、どこ産のこんな感じの肉なぞとこだわってないで、松屋やすき家のように、南国産の安いクズ肉をてんこもりにしていいと思いますよ。肉を煮る汁が旨いんだから大丈夫。
 その証拠に、山形の狸が初めて仙台に出て吉牛を食った35年前だって、ろくな肉じゃないのに充分旨かったわけだし、一時期乾燥肉を混ぜたりしたときだって、それほどの差は感じなかった。あの頃急に人気が落ちたのは、肉のせいというより、チェーン増やしすぎて現場がいいかげんになってたからでしょう。狸が新入社員の頃、ときどき夜中に寄ってた上井草から青梅街道に出たとこの店なんて、行くたんびに肉の量も汁の量もまちまちで、「あ、今夜は大当たり!」「うわあ、今日は仏滅かよ」、そんなバクチ状態でしたもん。あと、お新香が過労死寸前になったり、味噌汁が30円でも高いような粉汁になったせいもあるか。その後、店舗を整理して肉のほうは無駄に上等になったようだが、野菜類や味噌汁は、なぜか退化したまま今に至っている。しかし肉を煮る汁のレシピだけは、哀しいほどの孤高を保っている。
 がんばれ吉牛! 肉質落として牛丼安くしろ! 他のメニューのビンボ臭さをなんとかしろ! ……馬鹿にしているのではない。本当に愛しているのである。

     ◇          ◇

 コロリと話は変わって、今日のアパレル倉庫で、日雇い仲間の若い衆たちが雑談中、なんかアメリカの話から、昔の黒人奴隷問題の話になって、ぱあぱあ好き勝手に囀っていたのだが、どうも、この日本も戦前まで朝鮮の人を勝手に引っぱってきて過労死するまでこき使っていた事実などは、きれいさっぱり念頭にないらしい。いちおう高校くらいは出ているはずなのだが、やっぱり人間、勉強しないと駄目ですね。現在の自分が下から2番目くらいの奴隷であることすら、自覚できなくなってしまう。
 言うまでもなく現在の狸も、その下から2番目くらいの奴隷です。過労死も餓死もまだだから、いいんですけどね。

     ◇          ◇

 ところで、今ちょっと牛丼関係をググってみたら、カキコ野郎たちの嗜好は、どうも『味』そのものが反・吉野家に傾いているようだ。そうか……あの甘くない味そのものが、現代の若者の嗜好とは乖離してきている……考えられるわなあ。コンビニの大ヒット激辛ナントカとか食ってみても、唐辛子といっしょに砂糖も気前よく入ってるのがほとんどだもんなあ。
 こりゃ、吉野家も牛丼そのものの味を変えないと、企業的にはまずいのか。しかしそうなると、狸の嗜好に合う牛丼は壊滅してしまう。こまったもんだ。甘くていいのはお菓子だけだと思うんだがなあ。松屋の牛丼も安いときには利用するが、正直、安い肉の生臭さを砂糖で紛らわせているとしか思えんのよなあ。豚めしも、近頃めっきりアブラっこいしなあ。定番のカレーも甘甘だしなあ。大人味のフレッシュトマトカレーを定番化してくれんかなあ。ぶつぶつぶつ。


04月19日 月  お花見狸(ただし地べたの)

 本日は午後勤だったので、天気もいいことだし、午前中に久々、里見公園や江戸川べりをちょっと散歩したのだが――桜はやっぱり、主に地べたを彩っておりました。

  

 江戸川は、例によって水上スキーの練習のあんちゃんたちが、東京湾の河口から千葉を抜けて都内まで、行ったり来たりコケて潜ったり、日々がんばっております。しかし、考えてみりゃ平日でも日祝でも関係なくがんばってるんですが、プロなんですかね。それとも狸同様、世間と関係ないシフトで働いているのかな。……あ、学生さんなのかも。親の金か自腹かは知らんけど。

  

 以上、色つきだとかえって雰囲気が心象と違っていたので、渋くモノクロに。そのぶん、やたらと、でかい。


04月17日 土  憑依

 昨日今日と、なしくずしに連休になったのをいいことに、木曜の夜から無節操に打っているうち、久々に憑依されてしまった。『月下美人』のときの綾さんと、ここでも稀に狸になりかわって登場する小●のおばちゃまと、たかちゃん担当の謎のおんなせんせいが、ミキサーにかけられてミックスジュースになったような婆さんである。おかげさまで、1シークエンス語り終えるのに、70枚を費やしてしまった。こないだまで40枚だったから、30枚はイッキに打ったことになる。なまねこなまねこ。たった30枚と言うなかれ、爺いとしては久々の連チャンなのである。おまけに婆さん、細部の物忘れ、狸より激しいし。
 語り終えたとたんに放流しろ放流しろと婆さんが迫るので、昨日のうちに例の板を更新してしまったわけだが、ひと眠りして読み返したらやっぱり語り流しっぽかったので、今日の未明から午後まで、なんとか狸自身の画策を加えて、再更新した。幸い婆さんのしゃべくりそのものにはまだ感想が付いておらず安心したが、もし読んでしまった方がいたら、まあ筋書き自体に変更はない、と居直るしかあるまい。ことほどさように、ヘロヘロ時の脳内麻薬はキショクいいのである。
 しかし――面白いはずだよなあ。歴史年代記的なパートだが、引っぱるためのうねりは加えたはずだし、婆さんだって、けして並のタマではないはずだ。問題は、現代側の行動的進展が、ほとんどなかったことだが――長編化したからには、きっちり土台を固めておかんと、終盤どーんとブチ上げられないわけで。

     ◇          ◇

 ――現在おおむね午後2時半、昨日の昼から何も食っていないので、狸は松屋のキャンペーン250円牛丼を求めて旅に出ます。――いや、大盛りにしよう。野菜も卵も付けちゃおう。そして腹いっぱいになったらすぐ帰って寝て、豚に化けよう。


04月15日 木  ある時は硬めの運転手、ある時は柔らかめの運転手、しかしてその正体は……

 水芭蕉猫様の日記で、面白いページを紹介してもらった。名づけて『文体診断ロゴーン』。古今の作家や著名人64人の文体を解析し、こちらでコピペした自前の文章と比較してくれる。無論、思想や筋書きは無関係であり、最終評価も大雑把なアルゴリズムに従っているから、あくまでネタっぽい診断だが、なかなか面白い。
 なにしろ狸の生き甲斐は、『化ける』ことである。ネタに応じて、別々の木の葉っぱ、活きのいい葉っぱから紅葉落葉まで、いろいろ頭に乗せてでんぐりがえったりしている。基本的な文法構造は、あくまで正しい日本語をクソ真面目に遵守しているつもりだが、息継ぎ、語尾、語調や、漢字と仮名の使い分けなどは、もうでんぐるがえるたびに、なんだかよくわからなくなっている。
 そこで、片っ端から自作の冒頭部をコピペして、分析ボタンをポチっとしてみる。以下、その結果である。

 まずは『月下美人』より、主人公青年一人称部分。今のところお蔵入りしているが、個人的には古風な伝奇浪漫を目ざした入魂作。ご記憶にある方は、たぶん2〜3名だろう。

   
一致指数ベスト3(64人の文体との一致指数) 野間清治 猪瀬直樹 佐高信
   文章の読みやすさ(平均文長と平均句読点間隔) 適切
   文章の硬さ   (ひらがな出現率)      適切
   文章の表現力  (異なり形態素比率)     とても表現力豊か (狸注・つまり、同じ表現が近場に頻出していない)
   文章の個性   (64名の平均値との差)   やや個性的
   野間清治先生があなたの味方です。がんばってください。


 おお、野間先生! でも、次の2先生は……まあ思想と無関係の文体解析だからな。なるほどなるほど。頑固な言論親爺らしい文章なのだな。

 次は、いきなり『たかちゃんたちのふゆ』の、謎のおんなせんせいによる語り部分。あの、恐怖のおんなせんせいの、よいこ向け(ただし精神年齢14禁)舌鋒である。これに関しては、一部平仮名しかない段落も多いので、適当なところをコピペしてみた。

   一致指数ベスト3 太宰治 阿川弘之 松たか子
   文章の読みやすさ 適切
   文章の硬さ    文章が柔かい
   文章の表現力   とても表現力豊か
   文章の個性    とても個性的
   太宰治先生があなたの味方です。がんばってください。


 うわあ、太宰先生に味方されちゃったよ、おんなせんせい。おまけに個性MAX――こりゃ敵無しだわなあ。

 さて、それでは、自分なりに、マニアックではない一般読者向け幻想短編を目ざした『雪の娘』。

   一致指数ベスト3 太宰治 阿刀田高 小林多喜二
   文章の読みやすさ とても読みやすい
   文章の硬さ    文章がやや硬い
   文章の表現力   とても表現力豊か
   文章の個性    個性的
   太宰治先生があなたの味方です。がんばってください。


 え? また太宰先生? もしや狸は隠れダザイスト……いやいや、高校時代にちょっと読み囓っただけだぞ。まあ、阿刀田先生が二番手に来たので、良しとしよう。この話は、あくまで奇をてらわない文章で、中身のトンデモを現実っぽく化けさせようとしたのである。でも、まだちょっと漢字が多いようだ。おまけに、まだ奇をてらいすぎている。若かったのだなあ。なにせ数年前、何十年ぶりかで創作再開したばっかしの文章だからなあ。ところで、どっかに『蟹工船』入ってたか?

 さて、本日のタイトルに合わせて7作比較しようと思ったのだが、もうこれ以上こんな無名アマチュアの、ネタっぽい自己分析など読んでられない方が多かろうと思われるので、狸の正体に最も近いと思われる、近作『浮遊幽谷』と『茉莉花館・第一章』を比較して、おしまいにします。

   一致指数ベスト3 海野十三 佐高信 松本幸四郎
   文章の読みやすさ 適切
   文章の硬さ    文章がやや柔かい
   文章の表現力   とても表現力豊か
   文章の個性    平凡
   海野十三先生があなたの味方です。がんばってください。

   一致指数ベスト3 松本幸四郎 海野十三 野間清治
   文章の読みやすさ 適切
   文章の硬さ    文章がやや柔かい
   文章の表現力   とても表現力豊か
   文章の個性    平凡
   松本幸四郎があなたの味方です。がんばってください。


 おお、やはり狸の本懐は『新青年』の世界、あるいは芸の道なのだなあ。
 最後の『平凡』は、狸として誇るべき傾向だろう。本来、狸は皆様を『化かそう』としているのであって、分福茶釜の綱渡りを見せたいのではない。あくまで一泊二日の十和田湖バスツアーの添乗員を装って、池袋駅から観光バスに乗せて、東北自動車道を北上して、安達太良サービスエリアあたりで旨いわっぱ飯でも食ってもらって、午後はいい気分でビールやカラオケやってもらって、油断させたところでこっそり成層圏を離脱し、月面で兎さんと餅搗きさせようとしているのだ。で、はっと我に返るとすぐそこのサンシャインでプラネタリウム観てたりするのね。
 ――なんて、『おんなせんせい』の『とても個性的』な血も、しょっちゅう疼いているのだけれど。


04月13日 火  陽はまた昇ったり沈んだりでもまた昇ったり

 うわあ、残業できるかと思ったら、まだ陽も高い4時半で仕事が終わってしまった。本来6時までの契約だったから、1.5時間分の丸儲けと喜んでもいいのだが、夜8時まで仕事があれば、残業手当25%アップの2時間分が日銭として増えるわけで――やっぱり痛いのよなあ。特に、ストレスの少ない現場は。

     ◇          ◇

 嬉しいこともある。
 昨夜記したBS受信不可の件、管理人さんからの連絡により、狸のまったくの勘違いと判明。それどころか、なんじゃやら建物全体の受信環境変更によって、本日より、なんと地デジまで入るようになってしまったのである。うわあ、いきなり狸穴も地デジ対応しちまったよ。古いブラウン管テレビが、壊れるまで使えるよ。おまけに今月中には、ケーブル番組の一部もロハで見られるようになるらしい。一度も顔を拝んだことはないが、この狸山のオーナーさんも太っ腹だよなあ。
 まあ、建物全体が築40年を迎える大阪万博以来のヨレヨレ物件だし、本来の内部水道配管もとうに滅びて、追加の水道管が天井や壁にむき出しで這ってる状態だし、いまどきユニットバスもシャワーもないし(狸の個穴など台所に自動湯沸かし器さえ存在しない)、といってこれ以上家賃を下げるわけにも行かないだろうし、その程度のサービスは必要経費なのだろう。今どきの新しい物件は、光ファイバーだってオマケになってるくらいだしな。
 と、ゆーわけで、今夜からは『鑑定団』もデジタル画質、明日からは『ゲゲゲの女房』もノイズなしに変貌予定。でも、全番組が上下にぶっとい黒帯付き。自慢じゃないが狸穴のモニター類は、すべて古式ゆかしい4対3である。

     ◇          ◇

 吉野家の並盛り270円がもうすぐ終わってしまうので、備蓄食糧はまだあるのに、今夜わざわざ食ってきた。美味である。価格的に他社に押されて大苦戦中のようだが、とにかく牛丼に限れば吉野家を凌ぐ味はない。松屋もすき家も、甘い子供の味である。吉野家だけが大人の味だ。ほとんど見かけなくなってしまったたつ屋も辛めだが、あれは江戸前すぎて醤油がクドい。吉野家よ、滅びないでくれ。
 とはいえ、牛丼以外のメニューがまったく旨くないのも、依然として事実だ。狸としては、昔の牛丼オンリー時代に戻ってもらっても一向かまわないのだが、それでは現在のニーズに合わないのも確かだ。せめて焼肉や味噌汁や野菜のレベルを、もうちょっとなんとかできないものか。あくまで牛丼にこだわる心意気は解るが、他がまずけりゃ牛丼だって道連れで滅びるぞ。

     ◇          ◇

 打鍵中の茉莉花物件、あいかわらず順調に長くなる。それはもう、打てば打つほど長くなる。なぜだ。――って、当たり前ですね。
 それにしても、40枚前後にまとめるつもりだった次章の筋書きが、その40枚になっても3分の2しか進んでいないのはなぜだ。――って、新登場の語り手に語りたいだけ語らせてるんだから、当たり前ではないか。
 まあ、これもアマチュアの特権特権。


04月12日 月  消沈しつつ昂揚(やけくそとも言う)

 休日。しかし寒風と雨。今年は花見らしい花見はできずじまいか。まあ、道筋や小公園の桜は眺めたから、いいんですけどね。

     ◇          ◇

 同郷の井上ひさし先生の訃報に接したからというわけでもないのだが、昨夜から朝まで、焦燥したでんでんむしのように打ち続ける。いや、自分も死ぬ前に、先生の何千分の一でもテキストを残さなきゃと思って。『ひょうたん島』はもとより小説家としての処女作『ブンとフン』以来、ずっと愛読者だったのである。
 いっとき前夫人へのドメスティック・バイオレンスなども話題になったが、まあ、あのくらい根深い精神的な歪みがなければ、大衆文学に魂など吹き込めないだろう。歪みそのものを作品の特質として昇華できる、たとえば浪花系の筒井康隆先生などとは違い、作品自体はある意味異様なほど徹底した市井の人の情に基づき、しかも他の人情系作家のような類型性(それが悪いというわけではない)からも隔絶している。常人の仕事ではない。やはり北国の歪みから生まれた、極知的エンターティナーである。

     ◇          ◇

 午後遅く起きて、降圧剤をもらいに医者へ。血圧が140に上がっていた。まあ体も頭も昂ぶっているのだろう。

     ◇          ◇

 夜、これからのBSの録画予約をしようとしたら、明日以降の視聴ができなくなっていた。NHKにツケが溜まったわけではない。
 実は狸穴にはそもそもBSチューナーがなく、とっくの昔に解約したケーブルテレビの受信機を、BS番組の視聴にだけ使っていたのである。ところが例の地デジがらみだかなんだか、古い機械が使用できなくなってしまった。もちろんケーブルを再契約すれば機械も替えてくれるのだろうが、そんな余裕はない。
 いいやもう。しばらくアナログ地上波のみ。来年になったらテレビ放送自体と決別。録り貯めた旧作とクーポン時のレンタルDVDと図書館の映像資料とパソ動画だけで、余生は充分。
 ……なんて、やっぱりBSチューナーは欲しいよなあ。
 そう思って調べたら、今はほとんど地デジチューナーと合体してるんですね。しかし、地デジチューナー単体なら3〜4千円からあるのに、BS込みだと1万以上になってしまう。と、ゆーわけで、やっぱり当分、テレビはアナログ地上波のみ。
 これも天からの嫌がらせ、いや、思し召しだろう。せいぜいテレビ見ないで打鍵しませう。あ、NHKの受信料も下げてもらわんとなあ。日割り計算してくれるのかしら。


04月09日 金  猫質問(甘木様の巣穴より)

 1.猫は好きですか?
   にゃおぽん。

 2.猫のどんなところが好きですか?
   猫以外の何者でもないところ。

 3.仔猫をもらってきました。どんな名前を付けますか?
   雌だったら、気性に応じて「たかこ」か「くにこ」か「ゆうこ」。雄だったら「にゃーお」。

 4.屋外に散歩に行っていた猫が何かを持ってきました。何を持ってきましたか?
   蝉か雀かトカゲ類。

 5.猫がなにもない中空に向かって威嚇しています。どうしてでしょう?
   あ、なんか前にも甘木様のネタにありましたね。なんか見えない奴をつかまえちゃったりして。

 6.あなたを猫にたとえたらどんな猫?
   餌を食うとき以外はずっと丸くなっている。

 7.猫っぽいキャラと言えば誰?(実在・空想問わず)
   うーむ、若き日のスーザン・ジョージ(知ってる人は知っている)。

 8.猫にまつわる作品でお勧めは?(映画、TV、小説、マンガ、アニメなど)
   『ノラや』はもう出たか。それではギャリコの『猫語の教科書』。

 9.あなたは猫と一緒に就寝しました。朝、目が覚めると布団の中に猫の代わりに猫耳の女の子or男の子がいました。どうします?
   ……ドアと窓の施錠を確認して……ふっふっふ、おじさんはこわくないよこわくないよ……以下省略。

 10.あなたにとって猫とはなんですか?
   狸には絶対化けられない性格の小動物。

     ◇          ◇

 ところで、何十年かぶりに、毎日NHKの朝ドラを見続けている(もちろん録画して)。『ゲゲゲの女房』。
 狸が水木ファンであるのと、奥様による原作本がたいそう面白かったのと、そのうちつげ先生や池上先生のアシ模様などもみられるのかしらなどと望み薄ながら期待しているのと、まあなんかいろいろで見続けているのだが――正直、ここまでの2週間はキツかった。シナリオが短時間連続ドラマの結構を成していない。1時間ドラマを15分ずつ見せられているようだ。時代へのシンパシーのみでつきあうのも、そろそろ限界かと思っていたところで――この週末、ようやく奥様と水木氏の見合い話に突入。
 こうなったら毎日しつこく最終回まで見続けますので、以後の極貧話や、『テレビくん』で一発大逆転以降の大騒ぎに期待します。


04月07日 水  昼寝て道遠し

 お、なんかちょっとトンガってたなあ、昨夜の狸。弁当工場で、おばはんに小言を食らいすぎたか。あるいは己のままならぬ狸生への、押さえようもない苛立ちか。それとも単なるビンボ者の鬱屈か。
 そんな惰弱な狸への天の戒めか、通信教育が気になって自前打鍵物は数枚しか進まず、レポートいじりながら朝を迎えても空はドンヨリ花見にゃ不向き、おまけに『野ばら』の放送は明日だったのね。結局昼から夕方まで寝てしまったが、レポートは無事郵送したから、まあ良しとしよう。

 さあて、夜はパリの霧の中を彷徨うか、オーストリアの劇場を覗くか。
 ……ああ、ベテラン添乗員まかせの逃避行しか、頭が求めていない。
 自分で化けるのが狸の花道なんだが――でもやっぱり、先狸の花道姿も刺激になるからなあ。


04月06日 火  なんかいろいろ

 えーと、別に死刑にしてもらっていいんじゃないの? シャブの売人が問答無用で死刑になる国なんて少なくないのだから、こっちの国籍を考えてくれというのは、逆に『無法』である。

     ◇          ◇

 近頃、ちょっとあそこの投稿板が、硬直化している気がする。まあ狸から見れば浅くて軽い話に人気があるのは、本来ライト寄りの板なのだからなんの不思議もないのだが、たとえば猫様の犬文学に対する一部の見当違いな感想など読んでいると、なんか、首を傾げてしまうんだよなあ。
 他人の『本質』に自分の『理屈』だけで容赦なく切り込む神経というのは、どうも解らない。やはり近頃のお若い方々は、精神的な駆け引きが苦手なんだろうか。てゆーか、単に猫様のアレが、思春期のうちに沼正三やサドやマゾッホをマジ読みしたことのない皆様にはあまりに異質に見える、それだけのことなのかもしれないが。
 文学上、『理屈』で語られるべきは『技術』の部分であって、『本質』は作者固有の魂である。他人のそこに切り込みたいなら、自分の魂、つまり自分の『本質』の見える作品そのものをぶつけるしかないのだ。哲学と文学は違う。

     ◇          ◇

 しかしアニメにしてもコミケ物件にしてもエロゲーにしても、近頃はマジに健全というか、教科書っぽいのよなあ。まあ作り手さんそれぞれに挫折感や歪みの自負はあるのだろうが、精神の根底は盤石の普遍性を保っているというか。だから、鬼畜系を標榜する方が近親相姦やレイプや小児姦や人体破壊しまくりの異常者の世界なんぞを問答無用で無節操に描いても、困ってしまうほど教科書的なのね。つまり無神経だと言っているのです。『犯してはいけない』と言うのも『いや犯したい』と言うのも、そう言ってるだけではただの教条だ。教科書だって、半キチガイの書いた便所の落書きだって、凡庸な無神経さに変わりはない。
 愛、それは数十億の非凡。……まあ、ろり親爺の儚い幻想かもしれないが。

     ◇          ◇

 コロリと話は変わって、今夜も『なんでも鑑定団』のBGMに、エロゲーのサントラが使用されていた。今日のは『風ノ唄』のBGM。
 しかし、名のある映画やアニメのサントラと違って、大して当たりもしなかった昔のエロゲーのサントラなんて、どこで仕入れてくるんでしょうね。
 なんちゃって、同じ音効会社が請け負っているか、音効担当さん本人(あるいはそのひとり)が自分でプレイしたか、どちらかに決まっている。
 We are not alone。

     ◇          ◇

 明日は仕事にアブレたのだが、そろそろ例の通信教育の最後のレポート(プラス実習参加予定日の申込)を出さなければ、いよいよ六月いっぱいに修了できなくなりそうだ。そうなったら受講料5万近くが無駄になってしまう。
 でも、BSで録った欧州映画、まだ『会議は踊る』しか観てないのよなあ。先週録った『戒厳令』も『パリは霧に濡れて』も未見だ。で、今日録ったのが『ブルグ劇場』で、おまけに明日の昼はウィーン少年合唱団の『野ばら』と来たね。
 ……いいやもう。いちんちくらい、観たり打ったりしてようか。でもその前に、起きた時点にまだ昼で、天気も良かったら、久しぶりに真間方面まで散歩して花見もしたいのよなあ。
 なんつってる内に、もう夜中の2時だぜ。
 とりあえず、自前の愛と幻想に、明日無き逃避を開始するぜ。
 わっはっは、あとは野となれ山となれ。

     ◇          ◇

 ……狸はやっぱり、もう駄目かもしれない。
 ずっと前から駄目だったのは、狸のことゆえご愛嬌。


04月05日 月  帰らざる能天気の日々

 夜中近く帰穴、BSで録画しておいた『会議は踊る』(1931・ドイツ)を観る。1814年、ナポレオン失脚後、欧州各首脳が終戦お祭り気分で集まったウィーン会議を背景にした、なんとも楽しく能天気なほどに美しく、しかしそのエレガンスにハッチャケたお祭り騒ぎのラストでは、歴史というものの持つえもいわれぬ哀感も、しっかり湛えたオペレッタである。小手先芸や思いつきの外連では『娯楽』として通用しなかった時代の、映画が『総合大衆芸術』として持ちうる力をつくづく実感させてくれる古典だ。日本公開は1934年だそうだから、えーと、昭和9年ですね。当然大ヒット。前年に国際連盟を脱退してなんのかんのと世界規模の暗雲がたちこめ、とんでもねー貧富の差など226の布石を配しながらも、まだまだ大衆演芸などは花の盛りにあった時代である。そういえば、浅草オペラなんてのも、聞くところでは『会議は踊る』の超小劇場版、そんな感じですね。
 えーと、で、あっちでヒトラーが首相になったのが1933年、こっちの226事件が1936年――あっちもこっちも『会議が踊る』の2年後には、雪崩の如くのっぴきならない時代に転げ落ちてゆくわけで、なんか、これも『会議は踊る』のラストに重なる気がする。えーと、要するに、「会議の4分の3は舞踏会と酒席だった」と言われる能天気ウィーン会議を背景に、ロシア皇帝アレクサンドル1世とウィーンのかわいい町娘の恋物語が繰り広げられ、でも結局、ナポレオンのエルバ島脱出の報によって束の間の平和の祭はチャラ、アレクサンドル1世も急遽帰国、町娘はなんかとってもかわいそう――そんな感じの映画なのです。でもかわいいからきっと大丈夫だよね。どんな変遷だって、同じ人間の紡ぐ歴史だもの。

 そのお嬢ちゃんがウィーン郊外のお屋敷に招かれるシーン。目頭が熱くなるほど楽しい。

               

 ほう、日本では奥田良三氏が吹き込んでいたのか。

               


04月03日 土  あなたの世界に連れてって

 明日の朝まで、半休日。

 森安なおや先生の遺作『烏城物語』、無事到着。状態良好。これでサインがあったら1万5千とか2万超になるのだろう。母親関係や家賃や医療費やパソなど必需の出費以外、純粋な個人的嗜好に万単位を費やすのは、何年ぶりだろう。あ、ユニセフもあったか。でもあれは消費じゃなくて偽善だもんな。
 ともあれ『烏城物語』、こうして実際に手にする前は、巷に流れる種々の感想が「昔と変わらぬ叙情性」と「昔の作風から一変してガロ調」に二分されており、これはいったいどーゆーことだろうと首をひねっていたのだが、現物を見て納得。要は画風が、昔のカブラペンの柔らかい描線ではなく、推定丸ペンの細線による極めて個性的なものになっており、またコマ割りなども、手塚大先生に端を発する映画的漫画文法をほとんど捨て去って、もはや森安式とでも言うべき悠揚迫らざる行書体(?)になっている。後書きの中で、森安先生自身が『詩絵』と表現しているが、言い得て妙。要は感性の共鳴がなければ「なんじゃこりゃ」の世界である。しかし狸は大丈夫です、先生。
 昨日今日の読者ではない。思えば幼稚園前から接している。したがって、森安漫画の本質である「なんじゃこりゃ」含みの突き抜けた叙情、その本質は当時からこの遺作まで、なんら変わっていないと断言できるのである。なんといいますか――濃厚なほど清透な、知的制御を離れた叙情。
 貸本や漫画雑誌勃興期を除けば、トキワ莊がらみの僅かな露出以外、いっさいメジャーに縁がなかったのも仕方がない。そもそも高度経済成長以降のこの国で、商売になるような感性ではないのである。

     ◇          ◇

 力いっぱい単純に言えば、「1足す1は2」、基本的にはただこれだけを提示するのが、現在巷に溢れる大多数の表現行為である。オリジナリティー溢れる画風、予想もつかぬストーリー展開、深遠な思想の内包――等々の評価を得ているベストセラーでも、「1」をどう料理するか、そして「2」をどう飾り立てるか、その次元でのオリジナリティーである。骨子が「1足す1は2」の集積であることに変わりはない。でなければ、今どきの世の坊ちゃん嬢ちゃんの多数を熱狂させられるはずもないのである。まあ「1足す1は3ではない」といった料理の仕方もあるが、基本的数理に変わりはない。
 今、『烏城物語』を手にしながら、狸は少なからず己の凡庸さを危惧している。根本的にエンタメ志向の狸ではあるが、あくまで目指すは狸なりのぶっとんだ叙情である。森安先生のように「1」そのものを独自のリリシズムで「1以外のなにか」に昇華できない以上、「1足す1は2だとばかり思って歩いてたらいつのまにか徒歩で月面に達して兎さんとお餅つき」、そんな形の叙情を目ざすしかないのである。
 しかし、日暮れて道遠し。

     ◇          ◇

 で、再び『烏城物語』そのものの話である。
 百十余枚に渡って嫋々と描かれる、先生の故郷・戦前の岡山のあまりに緻密な『詩絵』っぷりに、これはやはり森安先生にとって末期の走馬灯であったのか、などとも思ってしまった。しかし、ここまで自分の根本に浸った末に世を去れたのなら、生涯ドリーマーとしては本望だったのではないかと思われる。
 おまけに定価1000円の遺作が、わずか10年で10倍20倍の古書相場である。先生も草葉の陰で苦笑しているだろう。トキワ莊がらみの現代日本漫画文化が続く限り、稀な徒花として、上がりこそすれ絶対に下落しない。
 万一どこかの好事家的出版社が復刻版を出してくれたとしても――いや、それはないだろうなあ。青林工藝舎も二の足を踏みそうなノン・サブカル、全きオンリー・ワンでありながら一片の毒も悔悟も居直りも韜晦も自己憐憫も、共感や理解を求めての哀訴もない、つまり純個人表現世界だからなあ。昔の青林堂なら、出してくれたかもしれませんね。その意味では、やはり『ガロ調』なのである。
 コミケやネットがあればこそ、こうした純なパーソナリティーは、今の若者から、いや、狸のようなロートルからも、醸造されにくいのだろうなあ。

     ◇          ◇

 コロリと話は変わって、すみません、狸穴の番猫のもう一匹は、茶縞ではなく三毛でした。しょっちゅう見かけているのに勘違いしてて、猫よ、すまんすまん。だって、お前、もう一匹と違って、すぐに逃げるんだもん。

   

 ほら、もう逃げた。だからもう一匹ほどには太れないんだな。でもやっぱり野良としては、要ダイエットっぽいぞ。


04月01日 木  まだ

たかこ「やっほー! まーだだよー!」
くにこ「んむ。これは、まだだな」
ゆうこ「……ごめんね、ごめんね」

くにこ「んでも、なんぼなんでも、これは、まんねりなんじゃあないか?」
たかこ「はっはっは」
ゆうこ「ぽ」
くにこ「んだから、そーゆーのも、まんねりだとゆーのだ」
たかこ「こくこく。――いちばん、たかちゃん! うたいま〜す!」
くにこ「んむ。たかこのうたも、ひさしぶりだ。えんりょなく、ちからいっぱい、うたえ」
たかこ「こほん。――♪ かっわいっいふりしてあのっこぉ〜 わりっとやるもんだね〜と〜んとんとんからりっとと〜なり〜ぐみ〜〜♪」
くにこ「……うーむ。ぎゃぐにいこうするたいみんぐのきれが、いまいちだな」
たかこ「むー。――にばん、たかちゃんそのに、うたいま〜す!」
くにこ「んむ。こんどは、きたいしているぞ」
たかこ「――こほん。――♪ かっわいっいふりしてあのっこぉ〜 わりっとやるもんだね〜と〜 いっわれっつづけたあのこっろ〜 いきるのがつらかぁった〜んた〜んたぬきのき●た●は〜 か〜ぜもないのにぶ〜らぶら〜〜♪」
ゆうこ「……ぽ」
くにこ「んむ! できたな、たかこ。もはや、なにもゆうまい。これからも、すべてのはじをすてて、げいにはげむのだ」
たかこ「こっくし!!」