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01月30日 日  雑想

 アブレたのを幸いに(経済的には不幸なんですけどね)、『茉莉花館』を見直し。
 天野様も中村様も、あったほうがいいとおっしゃるので、短縮時にカットしていた趣向をひとつ復活させた。先に天野様が惜しんでくれた絹枝さんの「えいっ」は、すでに復活させており、なんとか規定枚数に収まっていたのだが、あの初日動画の部分も増やすと、数行のオーバーになった。しかし、時間をかけて他の部分を見直すと、ちまちま圧縮できる部分はあんがい残っているもので、最終的には規定枚数ぎりぎり収まった。
 自分ではいささか窮屈に思っていた圧縮用文体も、存外評判は悪くないようだ。確かに読み直してみると、物語全体が淀みなくするすると前進し続ける感じで、つまり1カットごとのベクトルがきっちり後方に向かっていて迷いがない。これは確かに改善だろう。

 ふと、中学1年のときに買った『シナリオの基礎技術』を思い出す。新井一さんという、主に1960年代の邦画黄金期、手堅いプログラムピクチャーを、いくつもものした方の著書である。『あんみつ姫』やら『駅前シリーズ』やら、芸術的ベストテン映画などとは無縁の方だが、とにかく一時間半の間は観客を楽しませ続け、高度経済成長期の馬車馬のような人々を、主義主張ではなく、慰撫によって励まし続けた方である。しかしその『慰撫』が、いかに堅固な職人意識によって支えられていたか、その著書を読むと痛感させられる。
 無論、一介の厨房が一読して体得できるような職人技ではないのだが、当時の子狸にも充分にうなずけたのは、会話やシーンが常に先に向かって機能するのが『面白い映画』であり、なおかつ、社会や世界となんらかの巨視的な接点を持つのが『何度でも見たくなる映画』ということである。別に回想シーンが悪いとか、セコい市井のゴタゴタを描いてはいけないとかではありませんよ、念のため。要は、ストーリー上で一見逆行するような回想シーンでも、それが先への興味や情動の増幅として機能すればいいのであり、ありふれた日常の一齣でも、たとえばそこに普遍的人間性の奥底が息づいていれば、それは巨視的なのだ。
 まあ映画と小説は別物だが、少なくとも『エンターテインメント』の骨法としては、共通と思われる。

          ◇          ◇

『紅殻町博物誌』体験版、もう終わってしまった。困った困った。このライターさんは、もしや狸個人の嗜好を、テレパシーかなんかで根掘り葉掘り知っているのではないか。狸の故郷に近い土地や、『新青年』系のネタ(小栗虫太郎まで出てきたぞ)のみならず、なんとムーミンパパ(トーベ・ヤンソンさんの原作のほう)の『海のオーケストラ号』まで華々しく登場してきた。しかし、そこで体験版はおしまい。
 ……餌を減らして買うしかないのか? それとも、なんとかソフマップの盗難防止センサーをくぐり抜けて……いっそ『刑務所の中』みたく、コンビニで黙って包丁突き出して……そんな度胸があったら、ここまで貧窮してませんってば。うるうるうる。

          ◇          ◇

カイロの商業地区では28日夜から29日未明にかけて、暴徒化したデモ隊が商店を次々と襲撃、携帯電話や家電製品の販売店、衣料品店などのガラスが破られ、商品が略奪された。
ロイター通信によると、デモ隊の一部が28日夜、カイロ中心部にあるエジプト考古学博物館に侵入し、古代エジプトのファラオ(王)のミイラ2体を破壊した。
AP通信によると、軍はカイロ近郊にあるギザのピラミッドを封鎖した。
在エジプト日本大使館によると、日本時間29日夜の時点で負傷者などの報告はない、という。【読売新聞 01月29日 23:51】


 そうか、太古の専制君主や華麗な文化は、現代の奴隷にもやっぱり憎いか。しかし現在同じ最下層貧民である狸としては、食料品店や衣料品店襲撃には参加するにしても、博物館や図書館だけは襲うまいと思う。
 フランス革命も明治維新もけして否定はしないが、その過程で失われた歴史的文化や、敵と見なされ抹殺された人々の一部が確かに内包していた高等生物としての矜持が、錯乱したアホや狡猾な馬鹿によって、徒に貶められるのは我慢できない。
 盗み壊し犯さなければ種を保てない環境になっても、何を盗み何を壊し誰を犯すかは、せめて狸の矜持によって判断したいものだ。

          ◇          ◇

 ところで、あの板の、管理人さんの鷹揚さに甘えて居付いてしまったっぽい『舌の傷んだ畜肉加工食品』さんの件。どうやら単に、『好悪』と『上手い下手』、『馴れ合い』と『礼儀』の、区別がついていないだけのようだ。やっぱりただの偏食児童さん?
 ちなみに狸は、こんぽた様の短編諸作も、全部ではないがけっこう読んでいる。それでも感想を入れられないのは、あくまで『下手だから』ではなく、『上手いけれど、精神的に狸のテリトリーではない』からだ。また、単に『読み込む時間がない』という物理的な制約で、感想を入れられない他の方の人気長編も多いわけですが、そこは『お互い様』ということで、どうかご勘弁ください。
 だいたいプロの文壇だって、それこそ馴れ合いと既得権確保の世界なんだよな。まあそちらの場合、『商売上の礼儀』とも言いますが。


01月28日 金  うわあ、いるのね、明治大正文体おたくのエロゲ・ライターさん

 安価でも数千円、モノによっては1万円近くする新作エロゲなど到底購う金はないので、この何年、稀にアキバに出かけても、新作コーナーなど、ろくに見ていない。まあ新作はパッケージのほとんどが大同小異、『ハヤリの萌え絵』なので、内容以前に萎えてしまうためでもあるし、個性的な惹かれる絵柄で、おまけに話まで好みに合いそうな設定だったりすると、買えない自分がなおのこと惨めになる。何年か前の中古だって、よほどのワケアリ処分特価でない限り、2000円程度はするから、やっぱり買えない。
 それでもやっぱり、あの往年のピンク映画や日活ロマンポルノを思わせる玉石混淆百花繚乱の世界には、それこそPC88の時代から嗜好も未練も固着してしまっているので、ちょっと暇があると、いわゆるダウンロードショップの『体験版』を漁ってみたりもする。ことに近年は、とっくに解散したブランドの古いエロゲまで、どういう権利の流れなのか、なぜかダウンロード販売されていたりするから、なかなか侮れない。

 で、こないだ、ぶっとんだのが、ひとつ。ほんの2年半くらい前に出たらしい、『霞外籠《かげろう》逗留記』とかいうの。
 今風のトンがった絵柄ながら凡百の『萌え絵』ではなく、中身もずいぶん古めかしい幻想譚らしいので、ためしにダウンロードしてみたのだが――わっはっは、モロに昭和レトロを通り越して、明治大正あたりっぽい、言文一致と漢文的表現がないまぜになった、今の普通の若者には読解さえ困難であろうと思われる文体のテキストが、改行も少なく、びっしりと続くのである。
 こ、こりゃなんだなんだと思いつつ、その体験版を始めてみたところ――残念ながら数分で投げ出してしまった。明らかに鏡花あたりの影響が大と思われる擬古文(?)、あまりにもこなれが悪い。ほとんど文法的な間違いはなく、稀に誤謬があるくらいだが、言文一致体の魅力の本質とも言うべき『音韻』、これが美しくない。言葉としてスムーズに流れていないのである。そして内容そのものも、あの時代を意識しながら現実をまったく離れた幻想譚らしいので、なおのこと頭の中がワヤワヤになってしまう。
 それでも、あえてこんな売れそうもないゲームを作ってしまうその心意気は大いに良し、と嬉しくなり、同じブランドの次作らしい『紅殻《べんがら》町博物誌』という体験版も、続いてダウンロードしてみた。そして、困ってしまった。いや、いい意味で。
 文体はあいかわらずで読みにくい。しかし、プロローグからきっちり幻想空間ではない明治の話で、若き稲垣足穂が出るわ、文中に橘外男の名前まで出てくるは、さらに本編が始まってみると、その舞台『紅殻町』が、なんと現代の山形県、しかも白鷹町近辺に設定されている。こうなってしまうと、もはや狸としては、多少の読みにくさも散見されるルビの誤りも、まったく気にならない。それどころか、その『紅殻町』という、ありえねー胡乱な伝奇的幻想空間に、ずっぷしと郷愁までを感じてしまうのである。
 今のところ、体験版を始めたばかりだが、当然ながらまもなく途中で終わってしまうだろう。ちょっとネットで中古を調べてみたところ、おおむね2000円前後という微妙な価格。人気はないが物好きなマニア向け、そんな感じだ。現在の狸にとっての2000円、嗜好品予算としては最上限のさらに倍なのだが――うう、悩ましい。

 ところで、この『レイルソフト』というブランド、あの『腐り姫』の『ライアーソフト』が、わざわざロートルおたく向けに立ち上げた姉妹ブランドなのだそうだ。なるほど、あのひねこびた作風が、さらに年を重ねてなおひねこびた、そんな風合いではある。
 そして、シナリオを書いた『希』さんという、ハンパではないらしい『新青年』系オタのライターさんは……どうも『伽遠蒔絵』さんと関わりがありそうな気がしてならないのだが、どうか。伽遠さんもデビュー当初は明治大正オタ全開だったわけで、仮名垣魯文の『安愚楽鍋』まで引用してたもんなあ。


01月25日 火  首を縦に動かした

 結局、昨日の休みのほとんどは、ブ厚い『鬼九郎孤月剣』イッキ読みに耽ってしまった。

 前作の最後で「本当に九郎は鬼となります」、と、己の宿命に対して悶絶級の科白をキメてくれた肝腎の主人公が、今回ほとんど仏様みたいに『居るだけ』の存在となっていたことには、実はもうまったく文句がない。そもそも、仏も鬼も、神も悪魔も、『在るがまま』という点では同じである。つまり『孤月剣』ってのは、そーゆー剣なのである。だから九郎自体は、いっさい積極的に動かず、ただ周囲の活劇ドラマを淡々と静謐に見守るだけの存在にならざるを得ない。しかし主人公が最後までほとんど動かない大長編を、周囲の敵味方の有為転変だけで読ませてしまうというのは、さすが手練のストーリーテラーである。

 文章そのものに関しては、ますますもって、いわゆる『ブンガク』とは無縁の境地を深めている。とくに、これまでの高橋先生の文章ではほとんど見かけなかった、『首を縦に動かした』という即物的な行為表現が散発して、最初はかなり違和感を覚えた。しかしすぐに、なるほどそうか、と納得した。実は狸自身『茉莉花館』を推敲中、動作演出において、あまりに『うなずいた』という単語が近隣頻発しているのに往生し、必死に別行動に置き換えたり会話内同意情報に置き換えたり、動作の主が重厚な人間なら『首肯した』などとしかつめらしい表現に替えたり、ずいぶんアレしたのである。『首を縦に振った』とする手もあるが、一般に『首を縦に振る』という表現は、かなり強めのニュアンスを含みがちであり、単なるうなずきとは違った印象になる。
 そ、それを……『首を縦に動かした』……そ、そう来ますか高橋先生……。
 そ、そのとおりです、と言うしかない。しかし、ハンパなブンガクかぶれの狸には、生涯使えないであろう表現でもある。
 長期連載物も、単行本化に際してほとんど修正しないと堂々とおっしゃる高橋先生のこと、おそらくIMEに『首を縦に動かした』を定型句として登録し、『頷いた』の近隣頻発を防いでいるのだろう。あるいは『首肯した』だと一般読者には難しいから、割り切って『首を縦に動かした』と表現しているのかも。

 やはり畏るべし、高橋世界。どうか狸が生きている内に、『総門谷R・将門編』を、語りきってほしいものである。
 活字の世界で、言霊は手段にすぎない。そう解っていながら、狸が頭に葉っぱのっけて右往左往しているのは、畢竟、生身の表出だけでは説得力を保てない、非力な小動物であることを自覚しているからである。


01月23日 日  雑想

 本日、というより本日の朝から明日丸一日はアブれなので、夕方まで寝て、また隣駅の高いところに昇りに行った。
 地上150メートルから見渡す都会の満艦飾夜景は、近頃の極貧狸には、華麗より無駄に思える。もうちっと、いや半分以下に人工光源を控えたほうが、目先の繁栄や景気よりは、人類全体の長持ちに繋がるのではないか。中国やインドの経済成長だって、いつかはピークを迎える。その先は、どこの誰たちを搾取社会の奴隷的労働力とするのか。アフリカが残っている? しかし、その後は?
 どうも近頃の狸は、たとえばSFで、地球外知的生命体の侵略を受ける地球人より、言葉巧みに地球外知的生命体に取り入って、外宇宙まで果てしなく貪り続ける地球人類のほうが、ありそうに思えてならない。
 ……うわあ、辛気くさい。なまねこなまねこ。

          ◇          ◇

 めでたい話もある。例の市営図書館の分家で、これまでずっと貸出中だった高橋克彦先生の『鬼九郎孤月剣』を、ようやく借りられた。舫鬼九郎シリーズの4作目、10年ぶりの新刊である。そして中身は、これまでのストーリーもキャラ設定も『読者は当然全部知っている・全部覚えている』という前提で、冒頭から、なんの躊躇いもなくダッシュしてゆく。嬉しい。それは愛読者に対する、書き手として最大の誠意である。まあ、今さら新規の読者を増やす必要のない、高橋先生の余裕の表れでもあるのだろうけれど、こちらとしては、なんか長く連れ添った女房として無言の信頼を寄せてもらえた、そんな居心地の良さを感じてしまう。
 無論、純文学畑で尊敬している森敦先生のように、小説でもエッセイでもいっさいの『無言の了解』を避け、愛読者ならとうに知っている森ワールドの背景を語る態度も、潔くて大好きである。
 結句、どちらも誠意、一期一会なのだ。

          ◇          ◇

 ところで、例の猫又写真の、真実が明らかになった。明らかになってみれば、幽霊の正体見たり枯れ尾花。あの猫の尻尾は、短くて先太りになっている。おまけに扁平なのである。さらに、その扁平の中央を、黒い毛の線が縦に過ぎっている。それで遠目だと、二又に見えるのであった。
 今夜は、管理人さんが外出して帰宅が遅いのか、狸を見るとその尻尾をブルブル掲げて親愛の情を表し、いつもの2倍量を食って行った。しかしもう一匹のほうは、同じ猫缶を与えても、なぜか匂いを嗅ぐだけで、扉の外でつまらなそうに待機している。これまでのつきあいから察するに、どうも白黒ブチのほうは好悪が極端で、むしろ管理人さんが常用しているドライフードのほうが好みらしい。根っからの野良ではなく、それ以前の飼い猫時代が長かったのかもしれない。
 とはいえ狸が提供するのは、あくまでおやつ。チクワなら両者とも喜んで食べるので、今後はチクワを常備してやろうと思う。あれなら狸も喜んで食べるしな。


01月21日 金  伊太利に行きたしと思へども

 北国育ちの狸なので、かつて行きたい外国と言えば、アメリカでもフランスでも南洋の島々でもなく、ムーミンたちのいそうな北欧や、ドラキュラのいそうな東欧方面だったのだが、加齢のせいか肉体的にも精神的にもなんかいろいろ近頃冷えを感じやすく、唐突に、イタリアに行きたくなったりもする。まあ昔から、小説はともかく映画に限っては、イタリア映画の『理屈より情』『理性より感性』が好きで、知ってる外国映画監督の中で最も好きな人を挙げろと言われたら躊躇なくセルジオ・レオーネだし、映画音楽家ならエンニオ・モリコーネだ。
 それと、イタリア語の響き。あの、ねっとりと舌に纏わる、人間の粘性を感じさせるような湿度と温度。カンツォーネなど歌うときの、コブシや節回し。

 ここでも何度か話題にしたマカロニ・ウェスタンの金字塔『夕陽のギャングたち』、近頃はツタヤの過去佳作掘り起こしキャンペーンでも採り上げられてすっかりメジャー化しつつあるようだが、どうやら並んでいるのはアメリカ版の『完全版』であり、ほぼ完全にレオーネの意図を反映したと言われる『イタリア語完全版』ではない。もちろん主役はアメリカのコバーンやスタイガーであり、彼らの肉声が楽しめるのはアメリカ版なのだが、肝腎のモリコーネの音楽の使い道や、ストーリーの流れを阻害してまでも『情』に浸ろうとするレオーネの編集は、あっさり現代アメリカ流で『理論的に』『馬鹿にも解りやすく』改変されている。そのせいか、ご贔屓の役者衆の肉声までが、狸には、今一歩情に欠けるようにも思われてしまう。つまり、吹き替えのイタリア語のほうが、あの映画世界に合って聞こえるのだ。
 もちろん、ディレクターカットによる英語版があれば、より完璧なのだろうけれど。

 ふと思いついて、例によってYOUTUBEを検索してみたら、イタリア映画もカンツォーネも、無尽蔵にあるようで大変嬉しかった。拾うがままに転載してみる。

               映画『ガラスの部屋』(1969)より、同名主題歌
               

               砂に消えた涙(1962)
               

               映画『刑事』(1959)より、『死ぬほど愛して』
               

               映画『恋愛専科』(1962)より、『アル・ディ・ラ』
               

 なお、最後の『恋愛専科』は生粋のアメリカ映画であり、マックス・スタイナーによる古き良きハリウッド黄金期サウンドトラックも美味なのだが、特に有名になった名歌『アル・ディ・ラ』は、生粋のカンツォーネである。
 ちなみに『アル・ディ・ラ』の意味は、『彼方に』『遙かに』といった形容らしいのだが、この情熱的な女たらし歌においては、『ずっぷし』とか『ぞっこん』と訳すべきだろう。


01月19日 水  猫又?

           

 食後、シンクによじ登って水を嘗めてる現場を咄嗟に撮影しながら、奇妙な事実に気づく。
 隣の部屋から撮ったので、不鮮明かつちっこい画像で申し訳ないのだが……こいつ、よく見りゃ尻尾が二又になってないか? もしや、すでに『化け』がはいってる? 狸の仲間?
 などと言いつつ、このところ3日に1度くらいしか餌付けしていないからか、じっくり見定める暇もなく、プイと去っていってしまった。

 実は年明けの厳寒期から、あの二匹は、野良ではなくなったのである。なんとなれば管理人さんの部屋のドア前に、猫小屋が出現している。ありあわせの木箱に穴を開けて毛布を敷いた程度のものだが、北風の強いときなどは、きっちりあの二匹がひとかたまりに詰まっているので、これはもう事実上、管理人さんちの外飼い猫へと昇格(?)したわけですね。
 狸穴訪問の頻度が減ったのが、そのためか、あるいは狸の行動周期が無茶苦茶であるためかどうかは判然としないが、まあチョンガー狸としては、ちょっとサミしい気もする。しかるに、安心して丸くなっていられる巣穴というものが、いかに小動物にとって好ましいものであるかは狸自身痛感しているので、ここはすなおに祝福しようと思う。

          ◇          ◇

 ところで昨日も話題にした、あっちの板の変な奴、もしかして複数の子供なのかも。あるいは単なる気まぐれな子供、それともそれを装うアラシ――まあ、なんだっていいか。どのみちサミしい小動物ですもんね。


01月18日 火  うにょうにょごにょごにょなれあいたいよ

 ああ、世間が寒い。特に探食に出向く先は、時として鼻毛パリパリ、節々ギシギシ状態となる。

 だから狸のような小動物は、狭いとこで温血動物同士身を寄せ合って、ほかほかと暖をとっているような環境が大好きだ。高校時代の文芸部とか、大学時代の漫研とか。まあ両者ともすでに思春期後半に突入したり社会に片脚つっこんだりした世代の集まりだったから、それ相応のなんかいろいろもあったわけだが、まあ少なくとも他人の作品を「下手糞」「嫌い」と言い切るには、それなりの仁義を通さねばならぬ空間ではあった。別にしかつめらしいキマリがあるわけではない。とりあえずしっかり全部目を通す、それだけ。
 寒い世間には、じゃあ『読者』としての権利はどーなるの、などと口走りはじめる厨房も多いわけだが、非商業的同人活動において、そもそも読んでない人間は『読者』ではない。冒頭数枚読んで性に合わなかったら黙って去る、それが『読者未満』の方々の権利だ。「俺の貴重な時間を返せ」と言えるのは、ちゃんと時間をかけてくれた『読者』だけだ。

 もちろん、べつに読んでなくとも気の良い仲間は気の良い仲間、いっしょに暖をとるのになんの不都合もない。文芸部なんかは、特にそうだ。直観的にかなり深部までその世界を把握できるビジュアルなメディアとはちがい、テキスト情報から深部を探るのには、幾層倍の時間がかかる。
 たとえばウン10年前、山形の某高校、隙間風に凍えそうな部室棟の片隅、隠れ煙草ふかしながら、やくたいもない世間話や子供なりの自称ブンガク談義に耽っていた連中だって、お互いが日々大学ノートを埋めつつある自称ブンガク作品など、いちいち読み合っている暇はなかった。せいぜいガリ版刷りの同人誌用に持ち寄った自信作のほんの一部を、あーじゃこーじゃといじくりまわしていただけである。思えば大変幸福な時代で、今のような大容量の公共テキスト情報公開空間などどこにもなかったから、いきなり部室に乱入してきた赤の他人に、しかもまともに読んでもいない奴に「下手糞」などと言われる心配もなかった。仮にいたとしても、みんなで「えんがちょ」「出てけ馬鹿」などと温かく歓迎したり、あるいはよってたかって丁寧にフクロにする、そんな人道的対処が可能だったわけである。

 と、ゆーわけで、なんか妙な自称読者さんが、近頃あの板に出没しているようだが、たぶん思春期の入口でとっちらかっている子供なのだろうなあ。まだ目も開ききっていない子供の前にいきなり広大な公共空間が解放されてしまうという現代社会、つくづく罪な世界である。しかし一度解放されてしまったものは閉じようがない。したがって子供の将来のためにも、紳士的に、人道的に、力いっぱい冷たい世間の風を身に染みさせてやるのが吉だろう。
 しかし鋏屋様は、ほんとうに優しい。ちゃんと温かい鼻先で、つんつんつっころがしてあげてるもんなあ。もし狸んとこにあんな子供が来たら、有無を言わさず首根っこくわえて、零下20度のF級冷凍倉庫内に引きずりこんであげましょう。


01月16日 日  ?級グルメ

 さて、もったいないおばけの腹中からなんとか脱出した狸の前に、すばらしい無料の美味が出現した。
 ただし、無料なのは、姉からの援助物資の一部だったからで、食いきったあとにA級になるのかB級になるのかZ級になるのかは未確認。
 それは『韓国海苔』である。
 援助物資の中に入っていた、ふつうの日本の海苔を食いきったので、今夜から未知の『韓国海苔』に箸をつけた。
 白飯を直接くるんで味わった段階では、「まあ日本の味付け焼き海苔の韓国版か」程度の感想だったのだが――生卵かけご飯と併用した瞬間、人生初のとんでもねー口福に、悶え狂ってしまいました。なんだこれは。生卵と韓国海苔さえあれば、もう一生、全世界を祝福しながら生きていけるのではないか。
 と、ゆーわけで、やはり世界はひとつ、まあ反日も親日も不知日も、気の良い台湾も得体の知れない中国も、そしてやたらテンション高くて騒々しくて時々「あなたの国に『小声』とゆー概念は存在せんのか」などと問い質したくなる韓国とも、いっしょでなければ生きて行けないのが、現代日本の最底辺狸である。
 もっとも――百均や68均で売ってるかしら、まともな韓国海苔。

                    ◇          ◇

 でもとりあえず旨かったので、浮かれて踊ります。

               


01月15日 土  もったいないおばけ

 新年早々、まだ食べられるものを捨ててしまった狸は、夜中、もったいないおばけに食べられて死にました。ちゃんちゃん。

 ……とはいえ、もったいないおばけがいかに激怒しようと、狸として、譲れない線は存在するわけである。
 たとえば『減塩醤油』。
 一昨年の入院で、かなりの高血圧が判明した狸だが、その後の降圧剤服用により、なんとか人並みの血圧を保っている。体重落とせ塩分控えろと医者に脅迫され、不本意ながら節食もし、今まで醤油で食っていた魚類など、ポン酢に替えてみたりもした。ポン酢はけっこう旨いのでありがたかったのだが、さらなる医者の脅迫により、今年は醤油そのものまで、いわゆる減塩醤油に替えてみたところ……こんな味に耐えて余生を送るなら、余生を減らしたほうがまだマシです。昨夜、ついにキレて、ほとんど残っているボトルの中身を、えいやっと流しにぶちまけてしまいました。
 もっとも、これは狸が、甘味も塩気もやたら景気のいい、北国の味で育ったためでもあるんだろうが。

 そしてもう一件、いつもの食品系バッタ屋さんでこないだ買った、68円均一の緑茶。
 以前、同じ無名ブランドの焙じ茶を買ったら、「まあなんとかこれも焙じ茶の味と言って言えないことはないだろう」、そんな価格に見合った味がしたので、今回は緑茶に挑戦してみたのである。し、しかし……こんどは「まあなんとか」どころか、「これはもう絶対に緑茶でも番茶でも焙じ茶でも紅茶でも烏龍茶でもない。きっと噂に聞く伝説の不美味飲料『馬のしょんべん』に違いない」、そんな味だったのである。もはやキレるまで耐える気もなく、あっさり屑籠に放りこんでしまいました。
 もっとも、これは狸が昨秋以来、叔父の香典返しでもらった結構な緑茶を嗜み続けていたため、その落差にベロが耐えきれなかっただけかもしれない。

          ◇          ◇

 ではまた、明日の夜に……。

               

 いや、なんかさっき天野様のブログ覗いたら『ジェットストリーム』という懐かしいラジオ番組名が出ていて(今でもやってるのだそうだ)、でも考えて見れば、NHKと山形放送くらいしかまともに電波が届かなかった僻地育ちの狸爺いにとっては、こっちのほうが、小狸時代の深夜情緒原点だったかもしれない。


01月13日 木  続・いまだに旭のファンです

 ああ、蔵王エコーラインあたりにも渡ってきてほしかった。

               

 一部たいへん難解なシャレになっておりますが、一部の古いスケベな男どもにだけは理解できるという……今なら放送禁止もんだわな。

               

          ◇          ◇

 さて、コロリと話は変わって、昨日話に出した『浮草の旅』、つまり鳥取春陽自身の詞も、省略なしでここに記しておきます。
 どなたも興味はないと思われますが、今んとこ全世界のネット上でも唯一ここにしかない日本大正風俗情報である、そんなとこで。

     三年の昔に故郷をいでて
     旅から旅へとさすらう我が身

     昨日東に今日また西に
     行方 定めず 浮き草のごと

     流れ流れて落ち行く先は
     何処のくにやら涯さえ知れず

     歩み疲れの仮寝の夢に
     むすぶは懐かしあの娘の笑顔

     今宵も静かに夜は更け渡り
     町の酒場の 灯火 燃ゆる

     旅の疲れと酒場に休め
     赤い酒 呑みゃ 心がおどる

     いとし酒場の乙女の顔を
     見れば 故郷のあの娘が恋し

     町の工場の夜明けの笛に
     またも つづくよ 浮草の旅

     いとし乙女よ いざいざ さらば
     我はまたまた あてなき旅に

 ……もとから硬軟定かならぬ無宿者のメロディーだったのですね。やっぱり「おおシーハイル!」じゃない気がします。


01月12日 水  いまだに旭のファンです

 うわあ、ほんとにネット様々や!
 以前、ここで記したことのある、旭兄ィのシングルB面『さよなら さよなら さよなら』を、YOUTUBEで発見!!

 思えばこのメロディー、どこで聴いたのかはとうに忘れてしまったが、歌詞抜きのメロディーだけ子供の頃から大好きで、ただし最初に知った歌詞は『シーハイルの歌』。これがなんかピンとこなかった。山男の詩情と、このメランコリックな世情を匂わせるメロディーは、どうにもマッチしないと子供心にも思われたのである。まあ、世の山男の皆さんは、たぶんずっぷし親しんでいたのだろうが、やっぱり替え歌だったのですね。

               

 で、子供の頃からオタのケのあった狸は、なんかいろいろ調べて、このメロディーは大正時代の街頭演歌師・鳥取春陽(『籠の鳥』とか『船頭小唄』が有名ですね)による『浮草の旅』、それがオリジナルであると知ったのだが、当時その歌詞を確認するのは、山形では不可能だった。つまり『シーハイルの歌』がメジャーになりすぎ、『浮草の旅』は、どんな図書館の書物にも、その元歌であるという情報しか載っていなかったのですね。以前、博学の甘木様にお世話になって解読した明治の唱歌『夢の外』(『七里ヶ浜の哀歌』あるいは『真白き富士の根』の元歌)と同じような状況だったわけだ。
 そんなとき、確か高校時代の夕方、たまたまこの小林旭歌唱の歌が、机上の小型ラジオから流れたのである。そのときは試験勉強の最中だったので、歌以外の情報はいっさい聞き逃し、また当時のセコいラジオの音質のせいで、狸はそれが旭兄ィの声であることにすら気づかず、オリジナルの『浮草の旅』を誰かが吹き込んだものだろうと勘違いしていた。爾来30数年、そう思いこみながら、いつかまたどこかで聴けないものかと、うろ覚えのメランコリックな歌詞を、たびたび自前で脳内再生していたのである。
 それが『さよなら さよなら さよなら』という、『シーハイルの歌』同様の替え歌であると知ったのは、確か3年ほど前、かつて旭ファンの大滝詠一さんが尽力して実現した小林旭全曲アルバムシリーズの内容をネット検索で把握してからである。やはりネット検索で、春陽の地元の方々が自主制作した、『浮草の旅』オリジナル詞収録のアルバムがあると知ったのは、その少し前。そちらは安価だったので、さっそく岩手の新里村役場にメール注文したが、旭兄ィの高価なCDボックスを購う金は、すでに狸の懐にも口座にも残っていなかった。
 それが――ああもう、著作権所有者様方に申し訳ない申し訳ないとは思いつつ、やはりネットに上げてくださった不埒者様に、足を向けては寝られない気分なのである。

               

 『さよなら さよなら さよなら』  作詞:永井ひろし 作曲:鳥取春陽 編曲:安藤実親 (1971・昭和46年) 

      流れてながれる 旅路で逢った
      おまえは野に咲く れんげの花よ
      れんげの花みて 子供に帰る
      帰れる故郷は もうない俺が

      花から花へと 渡って歩く
      男は蜜蜂 刺されりゃ痛い
      刺されて泣いても その時や遅い
      夜霧にこのまま 隠れておくれ

      笑っているのに 泣いてるような
      さみしい笑顔が おまえの笑顔
      その手でしっかり このつぎ出逢う
      似合いの男に すがってお行き

      さよならばかりが 人生なのさ

 さてこの歌、ある意味、あのミリオン・セラー『昔の名前で出ています』(1975・昭和50年) の、男女の立場を替えたような名歌だと思うのだが、どうか。むしろ『昔の名前で出ています』のほうがオマージュ、みたいな。

               

 まあ、どのみち結局、虫のいい男の側の無責任世界ではあるのだけれど――そこは「おいら、渡り鳥だぜ」の世界ですからね。

               


01月11日 火  のそのそとたぱたうろうろ

 今週はのっけから夜勤だか日勤だか夕勤だか判別が難しい状態になってしまい、錯乱して、思わず昨日の帰宅後(でも早朝)に、例の『茉莉花館・縮小版』を板に上げてしまったら、いつもはご感想をいただけなかった純ラノベ系の方のご意見や、明らかに冒頭しか読んでいない方の突き放すようなクールなご意見を頂いて、嬉しかったり困ってしまったり。しかしどんなご意見も本音である限り、なんらかの有益なアレは確実にいただけるわけで、現にしっかりご両人の指摘をもとに修正点を見出したのであった。やはりあそこの板はありがたいものです。いつものように温かいご感想をいただいた天野橋立様にも、謹んで御礼申し上げます。

 などと打っているのが起きがけの午後。今日は午後三時から夜中までの勤務なのである。ああ、生活リズムがさっぱわやや――ウソです。ほぼ年間を通して、そんないいかげんな時空間に生きているのでした、まる、と。


01月08日 土  馬鹿と煙のバラード

 アブれたので、高いところに昇りたくなった。昨日、あんな夢を見たからかもしれない。無論遠出する金も気力もないので、隣駅前高層物件の46階展望台に、のそのそと這い上がった。
 すでに午後も遅く、晴天ながら都会の空はスモッグに霞みぎみだったが、かろうじて富士山がうっすらと視認でき、一度も現物を見たことのなかったスカイツリーなども、じっくりと遠望できた。市営なので無料というのが、何よりありがたい。なまんだぶなまんだぶなまんだぶ。

 今年最初の富士山遠望は、4日の早朝だったか。湾岸5階建て倉庫の最上階から見下ろす大都会の彼方、歳末と正月の間にスモッグがだいぶ薄まっていたおかげで、富士は驚くほど鮮明に青空に浮かんでいた。そのときもし、今日の高層物件に昇っていたら、さぞや眼福に恵まれただろう。

 現在最寄り駅付近に建築中の高層物件は、どうやらかなりがんばって高さを稼ぐようだが、はたして無料でよじ登れるだろうか。その周囲にすでに建っているそこそこの高層物件たちは、一定以上の階がすべて個人所有のマンションで占められているため、住民や関係者以外は地べた付近の商業階にしか出入りできない。つまり根っからの「ふっ、愚民どもが蟻のようだ」物件である。せめて最上階にレストランでもあれば、狸もふつうの人間に化けて、こっそり昇れるんだがなあ。

 まあ、富士の樹海あたりでなんかしない限り、どのみちそのうち、自然に空まで昇れるんでしょうけどね。行き着く先が地の底の地獄だとしても、その前に、一度は火葬場の煙になれる。

          ◇          ◇

 なんか話が辛気くさくなってしまったが(いつもか?)、実のところ狸は、現在さほど人生をはかなんではいないのである。
 その隣駅高層物件に入っている市営図書館で、なんと小沢昭一さんのルポルタージュ『新・日本の放浪芸』(DVD2枚組)を、ロハで借りられてしまったのだ。こんなシロモノは、絶対に民間レンタルでは扱ってくれない。ああ、やはりこの市は狸の味方だ。なまんだぶなまんだぶなまんだぶ。


01月07日 金  初夢

 確か正式には2日の朝の夢が『初夢』だったと思うのだけれど、元旦から昨日まで夢らしい夢はいっさい記憶していないので、今さらながら、やくたいもない狸の今朝の夢など、少々。

 狸は小型ジェットを操縦しているのですね。戦闘機ではなく、マジセレブが自家用にしているような、白くてスマートなやつ。で、晴れ上がった蔵王上空あたりを、爽快に飛び回っております。するといつしか、周囲に無数の小規模な竜巻が発生しはじめる。しかし狸は臆することなく、右へ左へとびゅんびゅん旋回しながら、ハリウッドSFXも最新3DCGもマッツァオ級の、リアル竜巻の林をすり抜けてゆく――どうでしょう。実に素晴らしい夢だと思いませんか?
 おまけに、無事に飛行を終えて神町の飛行場から山形の実家に帰ると、死んだ父親もアルツの母親もなぜか若々しい姿で出迎えてくれ、あまつさえ遠い昔になんかいろいろあった娘さんが、なぜか狸の嫁として、三つ指ついて出迎えてくれる――どうでしょう。実に完全無欠な初夢だと思いませんか?

 さて唯一の問題は……はっと目覚めるとやっぱり狸穴で寝てるんだこれが。その先には立錐の余地無き満員電車と、吹きさらしの倉庫が待ってるんだこれが。

 ――と、ゆーわけで今日の狸は、「これはもう死んだほうがいいかもしんない」、そんな気分で晩飯まで過ごせてしまいました。
 しかしまあ、姉から送ってもらった援助物資に入っていたお好み焼きの素に、キャベツや最安価米国産豚肉をふんだんに混ぜてじゅうじゅうと焼く、ただそれだけで、脳味噌ちっこい狸は「まあ明日も生きてていいかもしんない」、そんな多幸感に捕らわれてしまったりもするので、今年も一年、やっぱり人生という、生きてる限りは醒めない夢を、まだまだ紡ぎ続けようと思ったりもするのです。


01月05日 水  正月猫

 よう、猫だ。
 野良なんで、正式名称はまだない。
 管理人のおばちゃんや一階の爺さん婆さんは、「ミーちゃんや」とか呼んでいるようだ。
 二階の狸は、ただ「おい猫」とか「ノラミケ」とか、「畳で爪とぐんじゃねーこの馬鹿」とか、なんかいろいろの名前で呼んでいるようなんだが、まあ、どうせ狸のことだから、大したことは考えていないのだろう。
 さて今夜もいつものように、ひとりさびしく晩飯食ってる狸をかまってやろうと、仏心を起こして訪ねてきたんだが――狸がいつまでたっても風呂から上がってこない。さっき帰ってきたときも、階段を上る足取りがずいぶんヨレヨレだったから、正月早々寿命が尽きて、風呂に沈んでしまったのかもしれない。
 俺も昔は鼠や雀食って生きたから、狸汁もいっぺん食ってみたい気がするが、あのぶよんとしてしまりのない奴の肉だからなあ。どうせ臭いアブラミばっかしだろうから、正直、気が進まない。正月早々、困ったものだ。

               

 たかこ 「おう、たぬきさん、ねこにばけた! わーい、ばけねこばけねこ!」
 くにこ 「いんや、たかこ。これは、どーみても、べつねこだ。しかも、ふにふにとよくこえた、わかいねこだ。……じゅるり」
 ゆうこ 「……にゃーおちゃんの、おともだち? ……なでなで、なで」
  猫  「ごろごろごろごろ」
  狸  「――おいコラ。いつもとずいぶん態度が違うなオイ」
  猫  「はっはっは」


01月03日 月  自分にご祝儀

 寝た。食った。縮めた。以上。――昨日まではそんな感じであり、例の縮小計画がとりあえず完遂できたのはまことに慶賀の至りなのだが、さすがに正月中どこにも出かけないのは精神的に満たされない気がして、久しぶりに秋葉原や上野に出かけた。
 とはいえ本日の遊興予算は、自分へのご祝儀を力いっぱいひねくりだしても、計2000円程度である。で、交通費だけで710円かかる。さらにアキバのホームの蕎麦屋で、好物のペラペラカツ丼(550円も出せば、最寄り駅前の『かつ屋』で立派なカツ丼が食えるのだが、昔馴染みの蕎麦つゆ風味ペラペラカツ丼のほうが好みなのである)を食ってしまうと、あとは740円しか残らない。
 しかし幸い(?)アキバではよさげな処分特価エロゲも見当たらず、したがって悔しい思いもすることがなく、上野駅前の廃墟のようなナントカデパートに入っている古本屋で、昭和30年代の料理本『ふるさとの味』やら『文藝春秋・漫画読本』やら、計650円の散財で、けっこう満足して帰穴した。こいつは春から縁起がいい――そうか?
 ともあれ、懐かしい田舎料理の総天然色、でも色ズレばっかしの古カラー写真や、まだヤングアダルトという概念が存在しなかった時代の素朴な『大人向けお色気漫画』など眺めていると、栄養状態はともかく脳味噌のほうは今ほどビョーキではなかった幼少時代の巷が、心地よく思い出されたりもするのである。
 ああ、あの頃の正月は、莫大なお年玉(あくまで当時の子狸の主観)を抱えて、雪の街をわくわくと七日町のシバタモデル(まだあるのか?)に進軍し、あれこれ楽しく迷った末に、確かカネゴンのプラモデルかなんか……でも、なんでカネゴン選んだんだったっけ。バラゴンやらゴジラやら、強そうな奴もいっぱい並んでたのになあ。
 まあたぶんそのあたりの闘争心の欠如によって、その後3桁→4桁→5桁→6桁と順調に成長をとげてきた正月のお買い物予算が、ここ数年でイッキに6桁→3桁に舞い戻っているところなんか、いかにも懐旧の情に忠実で、好ましい狸の人生ですね。


01月01日 土  明けまして

 ひゃっほう! 零下20度くらいで縮こまってたら、南極のペンギンさんたちに笑われちゃうぞっ!
 と、ゆーよーなわけで、極寒の中をアイス抱えて駆けまわっているうちに、いつしか年が明けていたりしたわけである。一年の計が元旦にあるとすれば、今年は極寒ののち晴れ着の巷をのそのそと這うように帰穴して目覚めれば夜、そんな感じの、なんだかよくわからない年になるのであろう。
 新年早々に届いた姉からのありがたい援助物資で雑煮を作り、68円均一やら100円均一やらのお節類も華々しく4種類だけ炬燵に並べ、これはもうお正月以外の何物でもない晩餐を貪る狸の耳目をもって、ようやく愉しんだ大晦日の紅白歌合戦。しかし残念ながら、大半は早送りで飛ばしてしまい、かろうじて御輿に乗せて担ぐ気になれそうなカブキ者は、加山雄三さんと熊倉一雄さんと嵐くらいなのであった。トリのSMAPも、個々の男っぷりだけは年ごとに上がって行くものの、歌唱力は年ごとにアレになってゆく。役者や司会で忙しく、歌いこんでいないのだろう。あ、男性軍では、病み上がりの桑田の兄ィもいらっしゃいましたね。しかし新曲は、昔どこかの誰かが歌っていたような感じなのであった。でもまあ今日はお祭り、すなおに病からの帰還をお祝いさせていただきます。
 それにしても、なぜ女性軍の中に、今年は出雲の阿国っぽいのがちっともいなかったのだろう。AKB48だか69だか、元気にはしゃいでいる娘さんたちは仰山いたのだけれど、こっちははしゃいでいるその他大勢を見たいのではない。御輿を担ぎたいのである。いきものがかりもいいけれど、もう一歩、どこかハレの空間ににヌけたいのである。小林幸子さんも数年前から舞台装置の一部と化して久しいし、和田の姐御も声量落ちてるし。
 ――元旦から冷めすぎか狸。やっぱり零下20度は効きますね。

 さあて、お腹もいっぱいになったことだし、さあ、風呂に入って心機一転、次は『年忘れにっぽんの歌』を観て、今年のことなどきれいさっぱり忘れてしまおう。さあ、来年は2012年だ!

          ◇          ◇

 などと言いつつ、徒然なるままに、なぜか『くまのパディントン』を検索していたら、こんな動画が見つかった。どこの親御さんかは知らねども、ありがとうございますありがとうございます。孤独なろり親爺の胸にも、今年いっぱいは頑張れそうな愛と希望がわいてまいりました。