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03月29日 金  100円お説教

 アブレたので午後まで寝たら、ようやく風邪の症状が緩和してきた。
 例によって遠出の余裕などいっさいなく、花曇りの狸穴近辺を、風に散る路傍の桜花など愛でながら徘徊。
 で、例によって図書館でシメようと思ったら、なんと休館日、仕方なく有料の古本屋を巡る。

          ◇          ◇

 ところが浪漫主義は、一定の型にはまることをきらい、現実との辛抱づよい交渉をきらって、しかも性急に無限をあこがれることをやめない。いわば、ひ弱な身体で、しかも着実な努力をすることを拒みながら、なおもすばらしい成功とか快楽を求めようとするものに近い。それでは、自分に許されるべき幸福さえも結局失わなければなるまい。浪漫精神の意欲には、無限を求めてゆく力強いものがあることは疑いないが、そういう盲目さ、無節制、そして悲劇性をふくんでいる。だから、その力強い意欲も、健康にのびてゆくことができず、自己をも社会をも不幸に陥れることが多いようだ。
 ――『世界文学小史/III 近代文学の成熟/一 浪漫精神の特質』(山室静・著、昭和31年・現代教養文庫)より抜粋。
 ああっ、すみませんすみません山室先生、そのとおりです。
 困ったもんだ浪漫主義。
 でもまあ、文学未満の実利的な浪漫モドキはちょっとこっちに置いといて、あまりに実利ばかりを称揚する近代社会の悲劇性や不幸をケムにまいた浪漫主義者の例も、多少はありますよね。自己はたいがい不幸になってるようですが、社会はちょっとだけハッピーだったかな、みたいな。

 さすがに狸が生まれる前の文庫本は、ほぼ真っ茶色に風化しかけているが、中身はたいへん結構な風味を保っているので、ゴミにされては困るわけである。100円棚に投入するのが古本屋の仕事だ。50円くらいだと、もっといいですけど。
 あと、『アマゾンの歌 日本人の記録』(角田房子・著、昭和51年・中公文庫)、古いわりには美本もGET。昭和41年の書物の文庫化だから、東京オリンピックと大阪万博の間あたりに発表されたドキュメントですね。惹句によればアカラ植民地の話、つまり、かなり壮絶な苦労話であるにしろ最終的には成功する。北杜夫先生の『輝ける蒼き空の下で』のように、あちこっち悲惨なまんま植民地まるまる滅亡の嵐、なんてことはない。中身をパラ見したところ、寡黙で禁欲的な筋金入りの戦前農民が主役のようだ。『賭博農』などという単語も見受けられたから、お百姓さんに関するお説教も含まれていそうだ。
 狸は説教されるのが好き。
 あ、自分でなんか説教っぽく語ることもありますが、あれは単なる愚痴や自戒なのでご愛敬。

          ◇          ◇

 夜は例によってミケ女王様に虐げられたのち、ブチ下僕を蹂躙する。
 ブチ下僕は、いつも軟体でホワホワしている。女王様のように神経質ではないから、体調によって痩せることもないようだ。
 ミケ女王様の感触は、軽い足元スリスリと、鋭い前足の爪以外、いまだに知らない。やはり絶縁覚悟、あるいは血みどろのササラになる覚悟で、いっぺん押し倒してみるべきか。


03月26日 火  けほけほ

 咳が出る。喉も痛い。鼻水が止まらない。
 おはなみ? なにそれ、おいしーの?
 などと僻んでばかりでは、客観的に薄暗い人生が主観的にも暗くなってしまうので、これはもう笑い袋笑い袋。
 ……言ってる意味が解らん。

 ところで、猫様のパラソル物件に甘木様が入れた感想の中、『
物語すべてが今までどこかで見て聞いて読んできたものの部分部分をつなぎ合わせた感がありました』には、ちょっとまいった。
 それを言ってしまうと、ここ数十年の『新作』の九割九分が、同じ感想でくくられてしまうのではないか。無論、狸の打鍵物も、みんな含まれてしまう。
 そもそも当節、各ジャンル創作物の『新作』におけるありとあらゆる趣向は、ほぼ例外なく、過去に類例が存在する。つまり我々『遅れてきた世代』としては、せいぜい材料の下ごしらえや分量の塩梅加減、ちょっとした加熱のタイミング、盛りつけするお皿の柄とかに工夫を凝らし、なんとか独自の(と思われる程度の)魂を注入するしかないのですね。
 しかしまた、他者の作品から受け手が得るイマージュは、実に人様々だ。その証拠に、甘木様が猫様のパラソル物件から想起されたという『ロビンソンの庭』や『cross†channel』、狸から見ると、言われてみればそこはかとなく似てるかな、その程度だ。タルコフスキーの『ノスタルジア』は観たことがないのでわからないが。

 ふと思う。これってまったく、『現実』に対する個々の認識と、同じ次元の問題かも。
 トーマス・マンの短編『幻滅』とか、なんとなく読み返したくなったり。


03月22日 金  幸福くん

 いや、あいかわらずバテバテなのだが、明日はアブレなので目が覚めるまで寝られるし、さっきYOUTUBEで、ネット参入以来ひたすら待ち続けていた懐かしのメロディーをついにGETしたので、今夜の狸は、ちょっぴり幸福。

     

 テレビドラマ『アッちゃん』(昭和40年)の主題歌だと思っていたのだが、今ググってみたら、主題歌はタイトルと同題の歌を同じ伊東ゆかりさんが歌っていたらしいので、挿入歌だったのかもしれない。なにぶん狸が小学校低学年の頃の歌なので、記憶は曖昧だ。実は主人公の男の子の顔さえ、朧気にしか思い出せない。しかし、当時から少女漫画雑誌の表紙などで愛らしいくりくりお目々を披露していた松井八知栄ちゃんの脇役姿だけは、くっきりと思い出せる。のちにテレビの『河童の三平・妖怪大作戦』や映画『蛇娘と白髪鬼』で、始原ろり野郎たちのアニマと化した名子役ですね。
 ともあれ、さすがに8歳時には性的に未分化だった狸なので、八知栄ちゃんのくりくりお目々よりも、なぜかこの歌だけが脳内お気に入り所蔵庫に格納され、ドラマ放送時以外はほとんど巷に流れなかったこの歌を、その後何年も、ことあるごとに学校で口ずさんだりしていたのである。シヤワセなガキだったのですねえ。
 まあ当時の田舎も、子供なりの仲間づきあいの苦労はあり、立派なイジメっ子だっていたわけだが、今のように、十把一絡げの凡キャラなガキが徒党を組んでイジメっ子を兼ねるような、身分不相応な時代ではなかった。優等生も凡キャラ児童も、不幸な星の下に生まれてしまった児童も、それなりに未来のシヤワセを夢見、ごく少数のイジメっ子の悲惨でド不幸な未来だけ望んでいればよかったのである。

 これで田端義夫さんの『赤い花』さえ揃えば、当時の個人的懐かしのメロディーはコンプだな、などと思いつつ、今、YOUTUBEを再検索してみたら――おおおおおお、あるではないか。

     

 この星にのどこかにいる数寄者の皆様、ありがとうありがとう。あなたは狸の幸福君です。


03月20日 水  喝!

 いや、なんか今週はバテバテ状態なので、己を鼓舞するために。

     

 うんうん、怒ればビルだって壊しちゃうくらいのイキオイがないと、平和の使いなんて務まらないよね。
 ……そうか?

 本日もバテバテで帰穴し、直後に来臨されたミケ女王様をうっかりシカトして着替えていたら、ナマ足のふくらはぎを背後からしこたま引っかかれた。
 女王様の場合、愛の猫パンチも爪を立てたまま行使されるので、しばしば流血する。やはり愛は血を流すものである。
 ……ほんとに愛か?


03月16日 土  口だけにしとけ

 MIXYの田川氏のつぶやきで、『韓国人を殺せ』などと連呼しながらデモをやる連中が問題になっていることを知った。
 まあ言論は自由だから、何を口走って恥を晒すのもその人の勝手だし、自分たちではできないから見ず知らずのあなたがたにお願いします、という謙虚な姿勢は、ある意味とても正直なのかもしれない。正直者なんてどんな馬鹿にでもなれるという、いい見本である。
 でもなあ、韓国や中国と切れたら、狸の生活水準、どーんと下がってしまうのよ。あんたらはデモなんぞやってる余裕があるからいいけど。


03月15日 金  雑想

 アブレ、というより、歯科と内科(血圧関係)の通院が重なってしまったので、自主休日。
 うああああ、今日だけで医療費が約5000円も。特に歯科の3080円は、1月の初診日を除けば最高額ではないか。大昔に治療して、その後金属冠が外れてしまった大臼歯を再び金属化したわけだが、やはりでかい歯であればあるほど、料金もかさむのだろう。血圧のほうは、いつもと同じ料金だったのだが、初めてかかる非常勤医の無愛想な若い衆に、やくたいもない説教垂れられて、割高感が甚だしい。肉体労働者が、これ以上食餌制限だの運動だの、できるものか。食わなきゃ動けんし、動きたくなくとも毎日動いているのである。あのちょっと優しくて色っぽくなくもない女医さんは、どこに消えた。どっかに移ったのなら、そっちに行くぞ。

          ◇          ◇

『常紋トンネル―北辺に斃れたタコ労働者の碑』を読み進めるのが、人間としても狸としても非常に辛くなってきたので、狸穴近辺でわずかに生き残っている昔風の古本屋から100円で入手した、秋吉茂氏の『美女とネズミと神々の島』(河出文庫)と、 藤本義一氏の『軽口浮世ばなし』 (旺文社文庫) に浮気する。どちらも絶版で、ふつう100円では買えないだろう。もっとも両方とも、ブックオフなどに持ちこまれれば捨てられてしまう程度に汚れている。しかし本など読み汚されてナンボだ。駅前のブックオフが撤退したおかげで、この街の100円古本は、近頃充実してきた。

『美女とネズミと神々の島』は、一見ウケ狙いのタイトルっぽいが、こんなような真摯な名著である。いわゆる文明的生活や開発から隔絶した極貧の孤島が、ただ住人の素朴な生活観によって美しい極貧を保つ有様は、常紋トンネル工事現場の対極といってよい。どちらも同じこの日本の歴史なのだ。金などいらん。同情しろ。同情の中で死に殺せ。それが生きる意味だ。

 などと感情的に昂ぶりつつ、直木賞作家・藤本義一氏のこんな言葉に、思わずしゅんと身を縮めてしまったりもする。「
やりたくないこともやるから好きなことをできるのがプロ、やりたいことしかやらないから好きなこともできないのがアマ」。
 ……ごもっとも。

 いや、ふたつの本の内容は、まったく無関係なんですけどね。あくまで狸個人の、感情曲線の上下。

          ◇          ◇

 なんじゃやら、中国人労働者による壮絶な殺人事件が、広島の牡蠣養殖現場で起こったようだ。
 精神的な真実など、これまでの経緯を現場で長く見聞しない限り知る由もないが、土台、国民性も言葉もまったく異なる個人同士が通訳なしで職場的上下関係を築こうというのは、あまりにも無謀だ。いっしょに遊ぶだけだって、間が悪けりゃ喧嘩や殺し合いになる。
 ちなみに狸の就業先の多くでは、日本人も中国系も東南アジア系も、近頃では黒人さんまで入り交じっているせいか、個対個の軋轢はほとんど蓄積しません。
 その広島の現場も、通訳無しで他国の奴隷を雇いたいなら、多国籍にしとくべきだったのである。


03月14日 木  土工哀史

 先日、例の100円ワゴンで『常紋トンネル―北辺に斃れたタコ労働者の碑』(小池喜孝・著 朝日文庫)を入手。すこぶる興味深い内容に、一日の往き帰りだけで、半分以上も読み進めてしまった。
 大正初期に完成した、北海道の常紋トンネルは、地元では心霊スポットとして有名らしい。過去、トンネルの壁から、マジに人柱にされた土工の骨が出ている。周辺を掘り返すと、おびただしい白骨も見つかった。
 しかし北海道に限らず、明治中期から大正、そして昭和戦中まで、この国の辺境土木工事において、日本人は他国民のみならず、同じ日本人をも奴隷として死ぬまで酷使していたのは、歴史上明白な事実である。囚人強制労働の話ではない。一般民間人が一般民間人を、である。
 もっとも現在も、福島の原発事故現場あたりで、同様の構図はしっかり生きているようだ。さすがに斃死するまでこき使いはしないが、高給をちらつかせて下層労働者を引きこみ、実際にはしこたま天引きし、結果、雀の涙の賃金で、死に直結する作業をやらせるわけである。国家や司直がそれを黙認している点も、昔と同じですね。
 いわゆる先進国において、女工哀史は過去の歴史となっても、土工哀史は正史から目を逸らされたまま、文明ある限り永遠に続くだろう。発展途上国なら、女工哀史も土工哀史も経済発展に不可欠なのは、皆さんご存知のとおり。
 上流社会も中流社会も、そして下層社会さえも、どこかに奴隷がいなけりゃ成り立たないのよ、いや正味の話。
 いわゆる科学的社会主義が、共産国家においてすらちっとも理論どおりに実現しないのは、それを実現するには全人民が例外なく清貧に甘んじなければならないという大前提を、指導者のみならず、全人民が望まないからに他ならない。


03月10日 日  黄色い空

 本日もアブレだったので、昨夜は気の向くままに夜更かしし、中断創作物の続きを練ったり、例の投稿板をチェックしたりしていたら、あっという間に夜明けを迎え、結局、寝たのは午前9時だった。ふだんは昼型に戻っているようでも、本来は夕方起き出す性質の狸なのか。
 そんなこんなで、いきなりの夏の陽気も、視界2キロを割ったという関東南部の『煙霧』も、蒲団の中で知らずに過ごしてしまったのだが、毎日のように湾岸から都心方向を俯瞰していると、黄色い靄はさして珍しくもなく、スカイツリーがまったく見えない日もけっこうある。それが自然現象なのか大気汚染なのか、寡聞にして定かではないが、朝方に微かにでも富士山が見えれば『大当たり』気分なのが、千葉や東京の空である。

 明日はまた冬に戻るそうだ。思わず「ご苦労様です」と、誰にともなく頭を下げてみたり。


03月07日 木  雑想

 テレビばかり見ているとバカになる、と昔からよく言われていたが、携帯電話を使いすぎてもバカになるようだ。人混みで夢中でいじくって他人の邪魔になりまくる姿などは、まあ気持ちとして解る部分もあり自戒の種にしているが、今日はたまたま、ちょっと常軌を逸している例に、二度ばかり遭遇した。
 その1。
 駅のトイレ(小)で放尿中に着信、そのまんまのポーズでえんえんと通話を続けている中年男性。
 その2。
 本日はアブレたので、駅前から某ショッピングセンターの送迎バスに乗って買い物に出たのだが、その到着直前に、後ろの若い衆が着信を受け通話を始め、なんじゃやら面倒な内容だったらしくやがて激昂、到着して全員降りきった後も、運転手さんによる指示を完全にシカトして座席に座ったまんま、大声で通話し続けていた。
 まあ駅のトイレのほうは、すいていたので他人の迷惑にはならないわけだが、傍から見るとかなりアレである。バスの若い衆のほうは、携帯の発する電磁波で、すでに脳味噌が茹だっていると思われる。

          ◇          ◇

 いよいよ狸はボケたのかもしれない。
 帰宅して狸穴のトイレ(古い建物なので和式)に入ったら、ほんのちょっとだが、目標を外れた物件(大)で便器外が汚れていた。
 そんな記憶は全くないのである。そもそも本日は、起床以降、放尿しかしていない。
 誰が汚した。
 留守中に侵入者が脱糞したのでないとすれば、狸しかいない。
 じゃあ、いつ汚した。
 まったく判らない。困ったものである。

          ◇          ◇

 小銭ほしさにあっさり娘さんを刺殺する不良少年やら、いいかげんな裁判の再審をどうやっても認めない司直やら、脳味噌が冬眠したらしく自前の古い創作物ばかりいじくってちっとも新作を打たず他の方の創作物も読む気力のない狸やら、世の中はこのところ困った廃人たちで充ち満ちていると思いがちだったが、本日のNHKスペシャルで、あの東日本大震災直後の知られざる救出劇などを知り、いきなり脳味噌をはりとばされた。
 人間、萌え。
 やっぱり狸は、人間に化け続けたい。
 とゆーわけで、ようやく、でんぐりがえりを再開できそうな気分です。あの板にも目を通さねばなあ。
 春ですしね。


03月06日 水  知事選

 今さら千葉県の知事が誰になろうと大勢に影響なし、というところか、県外のみならず県内においてすら、次の次の日曜が県知事選挙投票日であることを、忘れている方が多いようだ。まあ立候補者のお三方を見ても、そもそも『選挙戦』にならないのだから、世間が盛り上がらないのは仕方がない。なにせ現役知事・森田健作氏に対抗するのは、教育学者人生ひと筋の千葉大名誉教授75歳(共産党推薦)ただひとり。ちなみにもうひとり、立候補した方がいらっしゃるのだが、神奈川在住のなんだかよくわからない若い衆のようで、たぶん道楽立候補だろう。
 ちなみに前回、狸が森田氏に投票したと白状したら、「あんな詐欺師」とか「あんな犯罪者」とか、氏の無頓着な交友関係や後援者がらみで、知人たちからずいぶんブーイングをいただいたのだが、狸としては、それでもあの時点では氏が一番まともだった、と言うしかない。今さら氏を『青春の巨匠』などと信じているわけではないが、今回も爾り。
 ちなみにモリケンは、こないだも県議会で「体罰も愛の鞭として必要な場合がある」とカマしていた。狸もそう思う。
 世の中、すべての豚が、おだてられれば木に登るわけではない。豚は豚らしく地べたで残飯食ってりゃいいんだ、ってんなら、残飯だけやっときゃいいわけですけどね。


03月03日 日  少年

 ケーブルで録画した、大島渚監督の『少年』を観る。こんな映画である。
 大島監督らしく、社会的なんだか観念的なんだか判然としない、微妙なロードムービーだった。つらつら鑑みるに、狸は過去、大島監督の作品と、一度も完全同調できたことがない。名作の誉れ高い『戦場のメリークリスマス』だって、異様な感動は受けたものの、やっぱり微妙な感動だった。
 今回も、狸が楽しみにしていたのは映画の出来そのものではなく、ここの表のパノラマ写真コーナーにも記してあるように、幼時、生家近くでこの映画のロケが行われ、当時の山形市内の何気ない道筋が、記録されている可能性があったからである。蔵王とか樹氷とか、名所旧跡の映像記録ならば絵葉書や観光映画でなんぼでも残っているが、ただの町中は、自前の僅かな記録以外、なかなか見当たらない。
 そうした意味では、この『少年』という映画、まさに少年時代の狸とドンピシャの映画だった。
 主人公の当たり屋一家が日本を北へ北へと旅するうち、高崎→山形→秋田と移動するくだり、高崎や秋田は駅前の映像があるのに、間の山形駅風景が省略されているのは、当時、古くからの駅舎が味も素っ気もない『ステーションデパート』に新築されたばかりだったから、絵柄として仕方がないのだろう。しかし、市内のビルの屋上から写したと思われる盃山方向の家並みは、余所の人だと「ありゃ、こんどはどこの地方都市に移ったのかな」と首をひねるだけだろうが、まさに狸が眺めながら育った当時の山形そのものである。山形人なら「お、こんどは山形に来た。じゃあ次は秋田かな」、そんな感じだ。
 続いて、旅篭町と覚しき商店街やら、狸が通った小学校の裏の道やら、そこに当時暮らしていた人間にはあまりにも日常的で、映像記録に留める必要など微塵も感じられないまま移ろい消えてしまった情景も、奇跡のように提示される。これも余所の人から見れば、どこか中途半端な地方都市の一部に過ぎず、大島監督自身、それ以上の背景効果は求めていなかっただろうけれど。
 その証拠に、と言ったらおかしいが、狸が夜間ロケを見物に行った城南陸橋の高架下など、完成作品内では、そこが高架下なのかどうかも判然としない、単なる夜の車道に過ぎなかった。『撮影スケジュールが天候や他車両に左右されず、背景を闇に落とせる車道』――それだけのために、あの高架下を選んだのではないか。あそこなら、ひと晩くらい通行止めにするのは簡単だし、トンネルの壁にさえ照明を当てなければ、そこはただの『真っ暗な道』になる。
 そんなわけで、最も楽しみにしていた『昭和40年代の城南陸橋や古い高架下』は見せてもらえなかったが、実はその車道のシーンに至る直前、少年と母親が、どことも知れぬ夜道の階段を下りてくるシーンがある。その階段だけで、狸は大島監督に、二拝も三拝もしなければなるまい。それは紛れもなく、当時の狸が日常的に通っていた、城南陸橋上の歩道から高架下に下りる階段であった。すなわち表のパノラマ写真コーナーにある、城南陸橋から北の奥羽本線を見下ろした写真、その撮影場所のすぐ左手なのである。


03月01日 金  まだ(ねこみみ付)

 たかこ 「やっほー! まっだにゃ〜ん!」
 くにこ 「んむ。これは、まだにゃんごろ、だな」
 ゆうこ 「みいみい」

 くにこ 「さて、まんねりをさけるため、こんげつは、おそろいのねこみみをつけてみたわけだが――どのみち声しか、きこえんのだよにゃあ」
 たかこ 「にゃっはっは」
 ゆうこ 「な〜〜〜」
 くにこ 「おおっ? なぜかゆうこだけが、まじ、ねこになりきっている」
 たかこ 「こりは、びっくし。――はーい、よしよし、こちょこちょ」
 ゆうこ 「……ごろごろごろ」