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10月29日 火  雑想

 食っているし働いているし寝ているし風呂にも入っている。テレビもDVDもちょっとは見ている。ネットにもそこそこ依存している。ふつうの生活をしている、のだろうと思う。きっとふつうの方々が自分以外の人間と共有する量的時間を、自前の創作内キャラづきあいに当てているだけだ。
 ……自分以外の人間と、いっさいつきあいがない方がいらっしゃいましたら、すみませんすみません。

          ◇          ◇

 打鍵物、いよいよ最終シークエンスを残すのみとなったので、突入前にここまでの全部をチェック、ちまちまと刈ったり植えたりしている。
 プロローグ数枚の字面が異様に真っ黒い(精神的にではなく物理的に)のは、打ち始めた8月下旬、狂ったような連日の酷暑を呪い、読者をも道連れに呪おうとしていたからで、暑さが落ち着くに従ってパラパラと白っぽくなり、またぶりかえすと「いややっぱし呪うんだ」などと、急に黒っぽく(しつこいようだが精神的にではなく物理的に)なったりしている。これは面白い。いや自分だけ面白いんですけどね。
 しかし今さら全編のトーンを統一してしまったら、そもそも何のために打ち始めたかが自分で解らなくなってしまうので、黒っぽい部分の句読点や段落分けを、多少増やすにとどめる。
 今回は一人称なので、ついつい要らない愚痴やクドい言及が多出し(いつもやんけ)、それもまた大いに創作意欲そのものに通じているのだが、あまりに話の流れを疎外する部分は、涙を飲んでバッサバッサと刈ってゆく。ここまで170枚あったのが、150枚に減ってしまった。一割以上が余計なお世話だったのである。困ったもんだ。それでもまだ充分クドイし。

 正直、完結させたくない。チヨコ(誰?)とお別れしたくない。チヨコがかわいくて仕方がない。一生飼ってやりたい。
 でもまあ、お別れするために打ち始めたのだから、潔く別れないと、それも未練だ。
 今回の話は、逃げたい者による、逃げられない者のための、逃がしてやる話である。来月中には、お披露目できると思います。
 ……まあ、ほんとによくあるいつものパターン、退嬰的な幽霊話(ろり含み)なんだけどな。

          ◇          ◇

 作詞家の岩谷時子先生が亡くなられた。
 ネット上では、さほど話題になっていないようだ。
 しょせん今など今に過ぎないのに。
 いや、今など今に過ぎないなら、過去もまた過去に過ぎない、か。そして未来も。
 まあいいや。
 とりあえず今、狸は生きている。

 森敦先生の『初真桑』から、ちょっと抜粋。
(前略)
なぜなら、わたしたちもこうして生きていると思っているが、どうしてそれを知ることができるのか。それを知るには死によるほかはないのだが、生きているかぎり死を知ることはできないのだ。かくて、わたしたちはもどき、だましの死との取り引きにおいて、もどき、だましの生を得ようとし、死もまたもどき、だましの死を得ようとして、もどき、だましの生との取り引きをしようとするのである。それでもこうして、この世も、あの世もなり立っている。深く問うて、われも人も正体を現すことはない。人は生が眠るとき、死が目覚めると思っている。しかし、その取り引きにおいて、生が眠るとき死も眠るのだ。(後略)


10月25日 金  じとじと

 さて、皆様にお伺いしたい。狸は今日、暑かったですか寒かったですか。
 ……判りっこないですね。これが実は狸自身にも判りません。一日中「今日はちょっと肌寒いなあ」と思いつつ、シャツはずうっとジトジト汗ばんでました。

 天高く馬肥える秋は、今年は省略か。
 なんか猛暑と今週の間に、爽やかな秋晴れとかもあったと聞くが、まったく記憶にない。あ、いや、いっぺんだけ湾岸から富士山を見た。先の先の台風の直後だったか。それ以外、やっぱり東京の低空は、晴れた日も、濃淡の推移こそあれ濁った靄に沈んでいる。
 靄の中にいるはずの都民の方々があんまり騒がないのは、狸は遠目にまとめて見ているから不透明に感じるだけで、中にいると可視範囲の靄はさほど厚くないから、気にならないないのだろう。マスコミでも、今さら話題にするほどでもないのか、この国の人心をこれ以上萎縮させないために騒がない協定でもできているのか、ちっとも話題にしない。しかし、ここ何年も千葉の湾岸から都心方向を眺め続けている狸としては、朝、NHKラジオのおねいさんが「今日は爽やかな秋晴れがどーのこーの」とおっしゃるのを聞き、期待して出かけても結局富士は拝めず霞んだスカリツリーしか見えないので、いいかげんウンザリしている。一昨年も去年も、断じてこんな空ではなかった。
 えと、念のため、夏にも話題にした『東京のふたつの空』の、下の空の話です。上層の天空は、ちゃんと夏から秋へ衣替え、じゃねーや、雲替えしてます。それだけに下のニゴリが鬱陶しいのよなあ。

          ◇          ◇

 明日は自主アブレにした。
 例の短編(あくまで打鍵開始時の腹づもりが短編だっただけ)は、140枚を越してもまだ終わらない。
 でもまあ少なくとも完結することは確実になったので、そろそろ小分けして例の投稿板に投入しようかとも思うが、今回の話は、狸の常套手段である『でこぼこ坂ローリング・ストーン方式』(たった今、勝手に名前をつけたんですけどね)を採用していない。蝸牛のごとき打鍵速度にふさわしい、衰えた狸自身をすなおに反映した、ほとんど平坦な作話である。いつものドッキリドキドキ趣向は、前半と後半にひとつずつくらいしか仕掛けていない。よって下手に分割すると、一回こっきりで見限られそうな気もする。
 といって、そんなものを百数十枚ぶんまとめてイッキに上げたら、現状のあの板では、それこそ感想がひとつかふたつで終わる気もする。アラシっぽいのを入れて、たったのみっつとか。

 ……あれ? それで、なんか問題があるか?
 ないじゃん別に。これで食ってるわけじゃないんだから。

 と、ゆーわけで、とりあえず後先のあれこれはちょっとこっちに置いといて、ぽこぽこ打ち続けましょう。


10月22日 火  時の流れに碇をおろし

     

 このあたりは、まだ対米戦争前の映像が多いから、「OH! ジャパン、トテモ、シンピテキ! ステキデス!」な視線が勝っているわけだが、それだけに抗しがたい懐旧を覚える。
 しかし本当に日本という国は、伝統的な街並みや習俗を、無定見に『変質させる』ことによって発展してきたんですねえ。
 半白髪の古オタとしては、もう未来などちょっとこっちに置いといて、現在も奇跡的に残っている変質前の街並みや習俗を、凍結保存したい気持ちでいっぱいです。
 そうしないとこの国は、未来における『愛国』の価値まで失ってしまうと思うのだが、どうか。


10月19日 土  めでたくありたし

 こんな記事を見た。
 なるほど一読、なかなか『いいコピー』に思えそうだが、考えてみれば、子鬼の立場に立った視野狭窄的なコピーに過ぎず、日々マスコミに躍る金目当てのキャッチーなツカミと大差ない。まあ、そこが『新聞広告クリエーティブコンテスト』の由縁なのかもしれないけれど。
『一方的な『めでたし、めでたし』を、生まないために。広げよう、あなたがみている世界。』――これはわかる。あくまで相対的にモノを見て、これ以上不幸な子鬼を増やさないようにしよう、そう言いたいのだろう。しかしそのために『桃太郎』を持ち出すのは、どう考えてもおかしい。あの話に出てくる鬼は、あくまで直接証拠を伴う、人間にとっての確定的な悪である。
 もし、このコピーに心を打たれた昔話内の正義漢、たとえば金太郎あたりが、桃太郎対鬼の事件を再検証して、実はやっぱり桃太郎が正しく、鬼が本当に極悪非道の悪鬼であり、しかも幼い鬼でも鬼である限り成長すれば人にとって極悪非道な妖魔となる確率が極めて高い、そんな心証を抱いてしまったら、金太郎はこの子鬼をどうするのだろう。

          ◇          ◇

 で、現実の話である。
 名張毒葡萄酒事件の、第7次再審請求にかかるための特別抗告が棄却された。これには世間では疑問の声が多い。
 しかし、和歌山毒物カレー事件の林眞須美死刑囚(確定済み・拘留中)が、別の件で刑務所を訴え勝訴したニュースには、例によってウスラ馬鹿による山のような非難が浴びせられた。
 どちらの事件も狸にとっては、『冤罪かどうか』などという天のみぞ知る真実は知らず、真犯人を確定できる直接証拠および信憑性のある自白がないという2点において、現時点で誰かを『退治』も『成敗』も、絶対にするべきではない事件である。

          ◇          ◇

 お伽話は、あくまで寓話だ。
 殺したあとに遺族の心配をしても遅い。
 間接証拠なんて、それこそキャッチーなツカミに左右されまくる心証にすぎない。
 凡人には、そう簡単に見る世界を広げることなどできない。
 ただ事実の中で粛々と動くしかないのである。
 ……などといいつつ、今夜も、おめでたい自前の寓話に淫する狸。


10月16日 水  おお水

 ああもうへとへと永遠に眠りたい、とは思いつつ、結局朝の6時頃まで脳内麻薬でラリっていたわけだが、いきなりパソがプッツンと落ちた。停電である。このあたりが台風で停電するとは珍しいなあ、と思いつつ、現在創作メインのO'sエディターは、一定数打鍵するたびに外部ドライブに上書き保存される設定にしてあるので、昔のように「うおわあああああああ!」などと叫ぶ必要はない。
 外で複数の人声がするので通路に出てみたら、マンション(しつこいようだが名前だけマンション。実態は、鉄筋4階建て各階2Kの兎小屋が6室、大阪万博の年に建った超老朽アパート。狸穴はその2階にある)の通路に出てみると、雨脚はピークを過ぎたらしいが風はびゅうびゅう、おまけに前の道が冠水しており、お向かいのトンカツ屋さんなどは、店舗にまで流れこんでしまったらしく大騒ぎ。「こんなことは初めてだ!」という、このところニュースで頻出する嘆きが、狸穴あたりでも叫ばれてしまったわけである。
 狸穴の1階の住人も、二人ほど顔を出しており、道路からやや高度差のあるマンションの敷地ぎりぎりでたっぷんたっぷんと波打つ濁り水を、心配そうに見守っていた。そりゃそーだ。あと数センチも水かさが増せば、1階全室床上浸水である。
 大変だなあ、と心配しつつ、2階は大丈夫らしいので、すぐ狸穴に引っこむ。全国の低地住人の方々には申し訳ないが、狸はどこをさすらっても、各種非常時に備えて2階に営巣する。臆病な小動物なのである。
 電気が使えなくなったので、電池式のラジオを聴きながら寝ようとしたが、ラジオも台風のニュースでなかなか騒々しく、脳味噌の中もなんだか騒々しく、結局9時頃まで起きていた。結局狸穴マンションは冠水せず、電気も8時過ぎに復活。交通機関ガタガタのニュースを聴きながら、いつしか眠りに就く。

 目覚めれば夜。
 120〜130枚に伸びそうだ、などと言っていた短編構想、120枚に達しても、話がまるまる1シークェンスぶん残っている。中編化必至である。いやあ、狸はクドい。


10月15日 火  ブンガクしたいの

 明日は台風が関東で本番をやるらしいので、自主休日にした。ああもうへとへと永遠に眠りたい、という肉体的欲求もあるし、ちょっとまとめて打鍵を進めたいという精神的欲求もある。

          ◇          ◇

 ちくま文庫の、東雅夫・編『文豪怪談傑作選』各巻を、このところちまちまと読み進めている。無論、金がないので図書館物件である。三島由紀夫先生はやっぱり大衆作家だったのだなあ、などと、いい意味で認識を改めたり、この頃の森鴎外先生は絶対心の病気だよなあ、などと、思わず将来の心配をしたりもする。もうとっくに大往生されているのだけれど。
 で、幸田露伴先生の巻である。
 岩波文庫にも入っている著名な幻想小説『幻談』や『観画談』は、かつて高校時代に読んでいたが、それ以外は実は『五重塔』くらいしか読んでおらず、今回、解説で東氏が高評価している『対髑髏』という初期の作を初めて読み、電車の屋根を突き破って成層圏まで達するほどブッとんだ。
 すげえ。聞いているだけで――正確には読んでいるわけだが、しがない狸の頭だと、その頃の文語体の文章は、頭の中で誰かに音読してもらいながら、表意文字としての漢字を参照に文意を把握する、そんな感じになる――酩酊するほど美しい。それがいきなり触るのも厭なほど醜くなる。そのどちらもが、同じ髑髏の元の女性なのである。すごいのは、その美しさも醜さも、誰にでも可視的な女性の表層にすぎないということだ。結果、表層的な幻想の中から、誰もが納得するしかない真理が滲み出てくる。
 東雅夫さんという幻想怪奇文学おたくの、編集者としての仕事は、雑誌『幻想文学』などで昔から知っており、このところ実話怪談ブームの波に乗ってずいぶんあちこちで稼がれているなあ、などと嫉妬混じりに思っていたが、青空文庫でさえ採り上げられていない『対髑髏』の存在を浅学な狸に伝えてくれたという一点だけでも、生涯頭の上がらない、上位おたくに駆け上がられてしまった。狸より1歳若いのよなあ。悔しいなあ。

 しかし明治時代前半、いわゆる近代日本文学黎明期から今に残る小説って、やっぱりすごいですよね。近頃の多くの小説、『なんか神経症的な現代社会という重箱を神経症的な作者が力いっぱい隅々まで突っついてみました』とは違い、立場は様々であれ古今の素養教養をしっかり身に付けた作者が、朝起きて、社会という重箱をじっくり手にとって目と鼻と舌で確認し、それから「ううむむむ」などと唸ったり「ふっふっふ」などとほくそ笑んだりした後、昼飯時に、いきなり重箱ごとばりばりと咀嚼し嚥下、しかるのち夕餉も済んで、やがて小腹の空いた深更あたりに、「つまらないものですがひと口いかがでしょう」とか言って、同じ重箱に収まった独特の香気を放つ発酵食を、狸に勧めてくるのである。
 そうした神がかった芸当は、とうてい狸には不可能なので、「なんだかよく解らないどこぞの現象に、なんだかよく解らないどこぞの狸が、力いっぱい解りやすく化けようとしました」程度の誠意だけは、せいぜい自分の言霊にこめたいものである。


10月12日 土  ありがとうと言う感謝の心

 注・本日の雑想は、あくまで東スポやら2チャンやら、半分ウスラ馬鹿な情報に基づいた、狸というウスラ馬鹿の私見です。
 ……まあ、いつも、そう変わりないんですけどね。

 例の痛ましい刺殺事件の、池永チャールストーマス容疑者という奴は、どうせ既知外なのだろうと思っていたら、実際バリバリの極悪既知外だったようで、今回殺害された鈴木沙彩さんの自分撮り画像、あるいはのっぴきならぬツーショットなどを、ネット上に拡散しようとしていたらしい。それも復讐と言うつもりなのだろうが、狸から見れば、明らかに責任転嫁である。あのうボクちゃんはむしろかわいそうな被害者なんですよクスン。
 これでまたどこぞ自衛隊員のように「尻軽娘の自業自得」などとツイートする――しかしこの『ツイート』というウスラ馬鹿な表現はどうにかならんか。公衆の面前で明確に発言することが『つぶやき』であるはずがない――ウスラ馬鹿が出てくるのだろうが、そーゆー男は池永チャールストーマスとさほど差のない鬼畜なので全員チ●ポを焼き潰すべきだし、万が一、同じ女性で「自業自得」などと言う方がいらっしゃったりしたら、鬼畜とは言えないまでも人類として繁殖してほしくないので、やっぱり全員マ●――おっとあぶねー以下自主規制。

 あのねえ、恋は盲目なのですよ。
 恋ですよ、あくまで。池永チャールストーマスのような、既知外の妄念じゃないですよ。
 その鈴木沙彩さんが「ああ自分は騙されているのだ」と気づく前のいっとき、既知外の甘言に弄されてつい抱いてしまったような、世慣れぬ乙女の恋心だ。

 狸穴の引き出しの奥にだって、年若い女性の私的な写真はある。まあ何十年も前の写真ですけどね。わずか数葉だが、一部着衣の不完全な写真もある。恋心の写真だ。ときとして着衣をナニしてしまうのが恋心というものだ。
 しかし狸は畜生だけれども鬼ではないので、フラれた後しばらくは当然未練でズブドロだったものの、その写真や被写体の女性に害意を抱いたことは一度もない。むしろ未練を吹っ切った後は、ただ感謝している。ありがとうと言う感謝の心である。
 で、ここから先は、女性の方は反転禁止。
 
ぶっちゃけ恋の相手のみならず、その後に知った一度こっきりのナニが仕事の方々にも、狸は常に同じ気持ちで接していた。
 ありがとうと言う感謝の心である。
 ……そう言いたくならないような方とは、お金を払っても結局ナニしなかった、ということですね。できなかったっつーか。
 そこんとこが鬼畜であるか鬼畜でないかは、お金を受け取る方々のほうの、心ひとつ。
 恋とは違う心の綾ですね。


10月10日 木  暑中お見舞い申し上げます

 ああ、今週も夏ですね。狸は夏を愛します。でも愛はしばしば憎悪に変わります。憎悪は殺意に発展したりもします。
 いいかげんにしろこのクソ夏野郎。

          ◇          ◇

 6日の発売を楽しみにしていた、吾妻ひでお先生の『失踪日記2・アル中病棟』が、どこにも見当たらない。
 たまたま甘木様の日記に購入記録があり、どうやら都心の書店では予定どおり発売されたらしいと知る。
 やっぱりチバラギあたりは人跡稀な秘境なので、配本する飛脚さんが、密林に棲息するサーベルタイガーに食われてしまったのだろうか。
 それとも出版不況なので、都心に配る分くらいしか刷れなかったのだろうか。
 今、アマゾンを見たら、新古本屋が定価の4割高くらいで売ってくれるようだ。
 出版元のイースト・プレスさん、あんまり安全運転してると、後続の大型トラックにプレスされますよ。


10月06日 日  ぽこぽこ

 アブレ日。
 昨夜から今日の昼まで、打鍵ぽこぽこ。
 これでようやく90枚。ついこないだまで、全部で100枚かな、などと思っていたのに、最短120〜130枚になりそうだ。まあ、語る内にどんどんクドくなるのは狸の本態なのでご愛敬。
 しかし10時間かかって増えたのは20枚程度。イキオイより、ジワジワとこねくるタイプの難儀な話になってしまった。中身はいつもの退嬰的夢物語なのだけれど。読んでくれる人はますます減るだろうなあ。もとよりどこかに応募できるような商売物でもない。
 しかし、いいのである。狸は死ぬまでぽこぽこ生きます。

          ◇          ◇

 夜まで寝た。
 頭がおかしい。
 いやまあ、いつだっておかしいのだが、なんだか今夜は特に頭が、夜郎自大の小言辛兵衛に堕ちている。
 ……いつものことじゃん。

 で、その後、ネットで『風立ちぬ』をあれこれ検索していたら、日頃から思っている『ネットに存在する情報の半分はウスラ馬鹿情報である』を見事に実証するような感想が多いようで大笑い。
 しかしまあ、堀辰雄作品の一冊も読まないで映画『風立ちぬ』の本質がどーのこーのと偉そうに述べる根性もすごいし、しまいにゃ庵野監督の声から連想したのか「エヴァにも共通する視点の薄情さがどーのこーの」などと言い出すガキまでいるから始末に負えない。
 まあ、本作品の世界観がたいへんに美的かつノーブルであるため、「いや当時の日本の貧民層を考えればこの作品の社会的視点には欠陥がどーのこーの」と言い出す朝日っぽく赤いウスラ馬鹿が大勢いるのだろうなあ、とも覚悟していたが、じゃあそいつらはトンカツ屋の裏のゴミ箱に捨ててある食い残しの欠片を本気で食いたいと思ったことがあるか。金がないということはそーゆーことだ。しかしそのことのために『美』『夢』『愛』『貴』といった精神の砦にまでゴミを捨ててどうする。「いや俺は一文無しでゴミ食ってて金持ち全部嫌い」と反論する貧民がいたら、そいつは単にゴミに負けたのである。
 また狸の大好きな押井守監督による評も、今回は宮崎監督を知りすぎるがゆえの穿ちすぎに思え、今のところ、冷泉彰彦氏のコラムが最も「うんうんうんうん」であった。こうした物の見方が『論評』なのである。


10月03日 木  数奇の人

 克美しげる氏が、今年の冬に脳出血で亡くなっていたのだそうだ。享年75歳。
 狸と同年輩の方は、アニメ『エイトマン』の主題歌で当然ご記憶だろうが、1960年代には全世代に知名度の高かった流行歌手で、その後の低迷期、カムバックの邪魔になった愛人を殺害したり、服役後も覚醒剤所持でまた服役したりして、経歴だけ見ればなかなかコワモテの方である。
 しかし、あの方の『有名人』として最大の特徴は、一貫して、どこをどう見てもそんなことをする人には見えなかった、そのことだろう。
 世間では、一見目立たない真面目そうな人が凶悪犯罪に走ったとき、常套句のように「とてもそんなことをする人には見えなかった」と言うが、たいがい言外に「おとなしくて目立たない奴って、けっこう腹の中にナニヤラ溜めこんでるんだよな」、そんなニュアンスを含ませている。その点、克美氏は、人気者時代も、最初の出所後にマスコミに顔を出したときも、もうまったく「腹の底から優しい色男」にしか見えなかった。生涯に4度結婚しているが、最後の夫人は29歳で59歳の克美氏と結婚、その後、種々の病魔によって臥せりがちだった克美氏を支え、最期も看取ったそうだ。
 きっと克美しげるという男は、本当に女性に優しい男だったのだろう。二度目の服役後も、60歳近くまで常に複数の女性にきっちり惚れられていたようだし、そもそもカムバックの邪魔になった愛人を殺害するためは、その愛人にズブドロで惚れられていることが不可欠である。ただし社会的な甲斐性はあまり無かったようで、貢ぐより貢がれる、いわゆるヒモ向きの優しさだったのか。
 いずれにせよ、利己と利他とが混沌と絡みあう数奇な人生は、結果的に、やはりこの『エイトマン』の主人公・東八郎、能天気な歌詞に反して実は極端に陰影に富んだ悩み多きアンチヒーローを、世間体に合わせて朗々と歌うにふさわしいシンガーだった気がする。

     


10月01日 火  風立ちぬ

 うあああああああ!
 あ、あの極楽爺さん、最後の最後まで、好き放題やりやがってよう!
 久しぶりの銀幕が、涙で霞んで、うるうるうるうる見づらいじゃんかよう!

 ……最高でした、はい。
 来月の1日もまだやってたら、再鑑賞しよう。
 しかし、やっぱり銀幕で観る映画はいいですね。いや、魂の見える映画の話ですけど。

 ところで、例の禁煙強制団体がこの作品を糾弾した真の理由って、この映画が『喫煙者の非喫煙者に対する気配り』をきちんと描くのみならず、『非喫煙者の喫煙者に対する寛容』まで、きちんと描いてしまったからではないのか。
 そう。ズバリ、どっちも愛。
 しかし愛してもいない方から「私は貴方を愛さないけれど、貴方は私を愛しなさい!」と言われても、ちょっと困ってしまうのである。

          ◇          ◇

 映画に行く前に、降圧剤をもらうため、毎月恒例の診察を受けた。
 で、先月、「長期間同じ薬を飲み続けているので血液検査をやったほうがいい」と言われて血を抜かれた、その結果が出た。
 いい血だそうです。オール正常値。
 しかし、おかしいぞ。
 約10年前までの零細企業戦士時代は、「肝機能を反映するナントカ値がそろそろヤバい」「血糖値が高いので要経過観察」「中性脂肪で血がズブドロ」「ダイエット必須」などと、毎年毎年、脅され続けていたのである。
 体重は、その後いっとき減ったものの、近頃はまた大デブに戻りつつあるし、ほぼ毎日立ち仕事なのは昔と変わらないから、運動量も大差ない。
 結局、昔の血の濁りって、全部、対人ストレスが原因だったのではないか。今の仕事の相手は物言わぬ荷物、昔は不特定多数の人間そのものだ。
 あとアレですね、ビンボ。
 収入は昔の3割弱、よって納豆御飯や卵かけ御飯ばっかり。
 ビンボ→粗食→血液サラサラ。
 まあ本態性高血圧は、父方の遺伝だから御愛敬。