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12月31日 火  冥途の呼び声

 おいおいよりによって大晦日になんつー縁起の悪いタイトルや、とツッコまれても、訃報慣れした年輩の狸には、もはや良い縁起も悪い縁起も大差ないのである。
 大滝詠一さんが急死されたそうだ。享年65歳、死因は解離性大動脈瘤。ちなみに狸の父親は、64歳で、同じ病気により他界した。それより1年長生きされたとはいえ、今どきやっぱり早すぎるし残された者も大変だが、ご当人としては、やるだけやった末の潔い大往生なのではないか。
 狸などは慢性的に悔いだらけなもんで、当分ずるずると巷を這い回り、生きながら腐り続けることでしょう。

          ◇          ◇

 今年1年、狸穴と仕事場を行き来するばかりでちっとも遠出しなかったので、久方ぶりに大晦日の上野に出てみる。
 上野は狸の心の駅だ。くじけっぱなしの狸生が、あの日ここから始まった。胸にゃでっかい夢があったような気がするんだけどもまあ今となってはどーでもいいやな。
 ともあれ、不忍池の向こうに林立するビルの形状や配置が、来るたんびに変わっているのを見ると、よくもまああんなでっけーシロモノを一年中積み上げたり崩したりご苦労さんなこったと感心するが、アメ横の喧噪も谷中への道筋も湯島天神から神田学生街にかけての裏道も、細部においては、あんがいしぶとく昔の風情を保っているのである。いきなり街ごと消滅したり新出現したりする田舎のほうが、根本的な変質はよほど激しい。
 上野駅前のカレー屋『クラウンエース』のカツカレーが、550円から昔の500円に戻っていたのは嬉しかった。カツも昔のようにペラペラに戻っていた。カツカレーのカツは薄ければ薄いほどルウを邪魔せず、程良いオマケ感がある。独特の茶色いルウの辛味や苦味は若干薄れたような気もしたが、まだまだこのチェーン独特の風味を保っている。地域性もあろうが、お子様客がまったく居付かない、甘さを抑えた味が好ましい。
 神田からアキバ方面にも歩こうと思っていたのだが、結局、力尽きて、神保町駅から都営線で直帰してしまった。まあ裏には色々と電子的混沌が残っているにしろ、表面が画一的な萌え一色に塗りつぶされてしまった今の秋葉原は、50過ぎの狸にはちょっともうキツい。などと言いつつ、つい去年までエロゲーの処分特価ワゴンを漁っていた半白髪親爺は誰や。俺や。

          ◇          ◇

 昨夜、蕎麦や餅やお節パックや袋菓子を含む姉からの援助物資が届き、それに田作りや鶏肉や三つ葉を買い加え、年越し物件は準備万端整った。
 それでは皆さん、いつお迎えが来てもいいように、どうか悔い無き新年を。

 ……えと、念のため、現在ここを覗いている方々の中に、もう死んでいる方はいらっしゃいませんね。
 ならばきっと、今日の未練は明日への希望です。
 お互い様に、そうしときましょう、うん。


12月28日 土  羽毛の国で眠りたい

 自主アブレ日。
 朝からなんかいろいろであっちこっち狸走。
 夜に帰宅、ケーブルで録画していたアニメ『綿の国星』を観ながら、ミケやブチといっしょに、ぐったりと垂れる。

     

 思えばこれを劇場で観てから、もう30年もたっているのだなあ。技術的な面では拙い部分もあるが、情感のみに依存する閉じた世界観は、綿というより羽毛のように心地よい。同じ原作を、今の繊細な作画技術でリメイクしてほしいものだ。戦艦やロボットばかりが能でもないだろう。なんといっても猫耳キャラの元祖だし。
 

          ◇          ◇

 正直、近頃、息をしていること自体がキツい。
 自己修復のため、大晦日と元旦は心身共に休む予定。


12月24日 火  クリスマス・カバ

『愚者の贈り物』という仮題の、たいへん心が温まるようでいて実はアホ全開の脱力系クリスマス・ストーリーをシノプシスだけ起こしたのだが、作品化する暇は、当分もーまったくカケラもない。来年のクリスマスまで生きていられれば、きっと仕上がるだろう。

          ◇          ◇

 雪が降らないあなたはこない、きっと君もこない例年どおりの狸穴のイブであるが、鳥のモモ焼きは、クイーンズ伊勢丹のつくば鶏とやらを奮発した。処分特価でも300円超、狸には大それた豪遊である。ケーキは食いたくもなかったが、ふとレジ近くでカバ型のちっこい輸入洋菓子が目に止まり、たった1匹の小分け袋でも136円、「まあ一年に一度のことだからな」と、つい買い物籠に入れてしまった。
 つくば鶏は、味はまあ並よりちょっと上くらいだが、とにかく良く肥えており、肉の量だけでも300円の価値は充分にあった。
 そして、思わぬ至福を覚えたのが、ケーキ代わりのカバである。
 キンダーハッピーヒッポとかいう、ほんの数センチのチョコレート菓子なのだが――これがまあ、甘い。
 いっぺん地獄に堕ちてそれから急上昇し、しまいにゃ天国に達するほど甘い。
 この世に生を受けて半世紀、さほど甘いモノを好まなかった狸が、なんじゃやらチヨコのように両の頬を押さえて「ん〜〜〜〜」などと頭をフリフリしてしまうほどの、人智を越えた甘さなのである。
 そ、そうか、これが世に言う『甘味』だったのか。
 生まれて初めて知りました。
 クリスマス・イブの初体験、おめでとう俺。


12月21日 土  マッチ売りの少女、寿司屋のリカちゃん

     

     

 まあ立ち位置や対象の彼我に関わらず、憐憫も高慢も、己の心ひとつでしかないわけである。

 思うに『平和だ平和だ平和が大事なんだ!』と日々連呼する全世界の皆様が、世界の遍き平和をそんなに望んでいらっしゃるのなら、全人類72億人のうち、所得が上から3分の2ほどの方々が、今よりも2割程度貧しくなることを、納得すればいいだけの話なのである。イデオロギーの差違による諍いも宗教闘争も、結局は生存競争の一部に過ぎない。生存においてどの程度楽をするか、そんな生存条件自体のハードルを、いっぺんどーんと下方修正してしまえば、たいがいの諍いは「まあこんなもんで痛み分けだよね」くらいで治まり、戦争には繋がらない。
 あとは、そう、危険性皆無の常温核融合技術でも普及すれば、全人類の生存競争をイッキに緩くできるかもしれないが、これは物理的にかなり困難っぽい。
 となれば、物理に寄らず感情のみで実現可能な前述の方法が、最も手軽かつ確実な平和への道である。

 ナパームぶちまけるのはネタ止まりにしとこうね、大人なんだからさあ。 

          ◇          ◇

 本日、自主アブレ日。
 今月は、主に、クリスマス・シーズンで大忙しの玩具のロジに通っている。
 ところでリカちゃん一家は、いつのまにか回転寿司屋を開店したり、なかなか大変な年の瀬のようだ。お父さんはパイロットだったはずだが、早期退職にでも追い込まれたのだろうか。それとも、いつか独立して寿司屋をやるのが夢だったのか。いずれにせよ慣れない商売、がんばってほしいものである。


12月18日 水  にぎにぎの日々

 あのう、ここを覗いていらっしゃる日本全国推定数万人の万抜きの皆さん、つかぬことをお伺いしますが、おにぎりをにぎるときって、軽くにぎります?
 テレビを見ていたら、なんじゃやら人気のおにぎり屋さんでは、かぶりつくとほろほろほぐれる程度に軽くにぎるのだそうだ。そのほうが旨いのだそうだ。
 ……そうなの?
 狸などは子供時代に母親から「なんどもなんども力をこめて握るのだ」と教わり、なるほどそれがきっと「心をこめる」に繋がっているのだなあ、などと勝手に解釈し、半世紀を経た今でも力いっぱい握っている。ずっしり感ぎっしり感のカタマリとなったおにぎりは、夜にぎった奴を翌日の昼に食うと、冷たいけれどもなかなか旨い。
 ちなみにそのテレビのおにぎり屋さんでは、海苔は両側から挟む程度に被せてあるだけだった。狸式だと、中身の具は、そのおにぎり屋さんの推定3分の1程度だが、海苔はとにかく全体くまなく真っ黒けに張りつける。部分的には海苔が二層にも三層にもなった真っ黒けの奴を、さらに「おいしくなあれ、おいしくなあれ、おいしくなあれ」と心をこめて、にぎにぎとにぎり続けるわけである。
 しかしつらつら鑑みるに、市販のおにぎりでは、確かにその形態を希にしか見ない。何年か前、メガ・ドンキの食品階で、確か『爆弾おにぎり』とかいうネーミングで売られていた記憶があるが、今夜覗いてみたら、もう扱っていなかった。やはりメジャーな形態ではなかったらしい。
 ……でもやっぱり、おかしいなあ。長年の習慣とか郷愁とかを、なるべく舌から排除して味わっても、確かに旨いんだがなあ。

 ところで、紫蘇漬け梅干の、梅干本体ではなく紫蘇だけって、どこかで売ってないですかね。『シソふりかけ』とかじゃなく。
 梅干抜きの紫蘇だけおにぎり、これが旨い。


12月15日 日  どたばた

 自主アブレ日。
 しかし仕事の日よりも早く「あーうー」などと起き出し、朝からいろいろ列島上を動き回る。
 師走ではなく狸走である。
 夕方には帰穴、ぼってりとたれる。

          ◇          ◇

 自分が今幸せなのか不幸なのか、いっさい外に表現できなくなったとき、自分の脳味噌の中が幸せであるか不幸であるかは、他人の想像に任せるしかないのである。で、他人の想像なんぞ、しょせんその他人の好悪でしか計られない。とはいえ、今自分が幸せなのか不幸なのか全身全霊をもって表現できたところで、それもまた、他人の好悪でしか計られないのである。
 ならば自分の好悪とは関わりなく併存したいモノ、たぶんそれが他人に属するモノでも自分に属するモノでもない、いわゆる『普遍』なのだろうなあ。


12月12日 木  冬眠暁を覚えるんだけども起きたくない

 いや、そんだけです。
 皆さんも毎朝そうでしょう。
 狸も毎朝そうです。
 ああ、万民の意見が一致するのはシヤワセだシヤワセだ。
 ……まあ、なんでもかんでも一致すりゃいいってもんでもないし、もし一致したって、みんなでズル休み決めこんで蒲団の中で「あーうー」とか言ってたら、それはそれで大変なんですけどね。

          ◇          ◇

 ようやく近場の神奈川あたりに良さげな特養の空きができ、アルツ母を遠い郷里から移動させられる案配になった。
 これで狸一族はますます生まれ故郷から縁遠くなるが、母親自身はもう自分がどこにいるのかも家族の顔も認識できないから、ノー・プロブレム。近場にいてもらったほうが、こちらとしては何かと安心である。正直、経済的にも楽になる。

          ◇          ◇

 風なんぞ立とうが立つまいが、生きるためには食わにゃあならんし、生かすためには食わせにゃならぬ。
 そうかそうか、100グラム98円の豚コマはそんなに旨いか、丸い猫らよ。


12月09日 月  丸い

 とにかく猫が丸い。それはもう日を追って丸い。二匹揃って台所で丸くなっているのを見ると、臼でつきたての餅を杵から板にこそげ落として「あっちっち」となどと言いながら、片栗粉まぶしてぺんぺんとヒトカタマリにまとめた状態のように丸い。このまま丸焼きにして大皿にのせてクリスマス・イブの正餐にしたいほど丸い。
 ああ、冬ですね。

          ◇          ◇

 先だって例の法案に関して脳天気なことを記したら、しっかり天野様にたしなめられてしまった。
 しかしまあ、これだけは断言できる。今回あんだけ一丸となって嘘も真実もいっしょくたに煽りまくったマスコミさん、ひと月後には、せいぜい朝日と赤旗、あとは2〜3の左っぽい小規模メディアくらいしか、追求を続けていないはずである。あの錚々たる文化人や識者の方々も、9割は次のネタを求めて散っているはずである。条文も読まずにデモで大騒ぎしていた青少年の多くも、次の刺激を求めて以下略。
 天野様のような真面目なお若いお役人(そうですよね)は、あくまで少数派なのだ。
 今後とも真面目に粛々と生きてくださいますように。いやマジで。

          ◇          ◇

 本日は、ついに韓国の若い衆(在日の方でなく出稼ぎの)とも、職場を共にできた。
 いやもうまったく変わらんわ狸らと。ちゃんと働くし。まあ日本語が片言なのできっちり会話できたわけではないが、やっぱり兵役やってるせいか背筋の伸びがいい。戦えば和製モヒカン君やや不利と見た――などというのは冗談で、全世界の奴隷一同、角突き合うのはお上の方々にお任せしたいと願う師走のなかばです。

     


12月07日 土  日和見の臨界

 とまあ、そーゆーことだと思うのですよ。
 ……なんの話だ、いったい。
 いえ、特定秘密保護法案が、なんじゃやら久々に怒号飛び交う中で強行採決っぽく可決され、反対するデモ隊などで久々に盛り上がりましたね、永田町。
 つまりそうした『社会的な熱さ』こそが、あの60年安保以降「なにはともあれゼニやゼニや」で、国際的には「金だけは出すが何一つ行動しない国」になってしまっていたこの国が、日和見の臨界を迎えたことの表れなのではないか、と。
 ちなみに顰蹙覚悟で明言しますが、狸はあの法案の可決を当然の経緯として認識しています。というか、安倍首相の政治理念に対する賛否や好悪はちょっとこっちに置いといて、現状、良かれ悪しかれ安倍さんがそれをやらなかったら、それこそ安倍首相はただの馬鹿ということになってしまう。国民の知る権利がどうのこうの以前に、安倍首相が志向している集団的自衛権のためには、必ずしも日本の秘密だけでなく、日本が行動を共にする同盟国の秘密が、日本と共闘する過程で日本経由で敵方にダラダラと漏洩する恐れを断たなければならないわけで。
 いやオレたちは、その集団的自衛権そのものに反対なんだ、とおっしゃる方も当然おられるでしょうが、狸はとてもそこまで日和見には徹しきれない。極端な話、たとえば北朝鮮が韓国にマジ宣戦布告し、派手にミサイルぶっ放して主要都市を壊滅させた上、どーっと国境を越えて侵攻してきたらどうします? 「あんな半日国家はどうなってもいい」と日和見しますか? 「強いアメちゃんに任せときゃいい」と傍観しますか? まあ、そんな極端な状況ではなくとも、韓国一国で対処しきれない北との紛争は、相手がアレだけに、けして可能性がゼロではない。
 敷地の境界や過去の諍いを巡って毎日毎日口喧嘩しているヤなお隣さんだからといって、そこを焼き討ちしようとしている狂人の群れを目撃してしまった場合、「オレ関係ないもんね」「桑原桑原」と、三猿に徹するわけにもいかんでしょう。まあお隣さんが「お前なんぞに助けられるより狂人に焼き討ちされたほうがマシだよほっといてくれ」と意思表明をしたら話は面倒だが、それだって、場合によっては、狂人の群れがお隣さんそのものになってしまう事態は、どうしても避けねばならない。

 今回の大反対キャンペーンには、それこそ狸の尊敬する先達の方々も多数加わっておられるわけだが、その多くは世代的に、大東亜戦争時の日本という強権的国家体制を経験しておられるがゆえに、その再来を危惧しておられるわけである。しかし、そりゃなんぼなんでも戦後の日本国民の学習能力をナメでおられるのではいか、と。
 いわゆる知識人・文化人の方々は、どうしても宿命的に自尊心が強く、『自分が含まれない上層』=『国家』を過大視し、『自分が含まれない下層』=『衆愚』を低く見積もる傾向がある。しかし狸はあいにく衆愚の中の一匹なもんで、あくまで普通の衆愚として、粛々と生きたいと思います。

          ◇          ◇

 で、話は変わって、いわゆるネトウヨの方々などは、「日本と中国が戦争やったら中国の負け」と国粋的楽観を抱いておられるようだが、狸としては相当な泥沼になると想像する。なんとなれば、狸の見知った中国人の方々の多くが、エラく勤勉なのですよ。自分にとって必要性のある仕事となれば、こちらが「なにもそこまで」と思ってしまうほど集中し、汗水を惜しまない。もっとも、社会的に低く見られがちな日本の若い非正規労働者の中にだって、普通のおっさんが「なにもそこまで」と思ってしまうほど勤勉なモヒカン頭の青年なんぞ幾らもいるので、これは双方、戦ったらガチンコの泥沼を想像せざるを得ない。
 やっぱり、明らかな『凶悪』以外とは、こっちの好悪や利益や希望的観測で喧嘩を始めてはいけませんね。
 どのみち戦争なんて『地獄に道連れ』、こっちも『凶悪』にならにゃあ、絶対勝てんのですから。

          ◇          ◇

 などと言いつつ本日アブレ日、何事もなく惰眠を貪り、いつものようにコインランドリーでお洗濯、いつもの図書館が蔵書整理のため休館中なので隣駅の図書館で『メリーポピンズ』のDVDだの、椎名誠さんの『全日本食えば食える図鑑』だのを、しまりなくムフフなどと頬笑みながら借りてきた、偉そうに天下国家を語る資質など実はヒトカケラもない狸なのであった、まる、と。


12月04日 水  遠き昭和の

 先週、ケーブルテレビのチャンネルNECOの悪口を書いたばかりだが、今週はいきなり「チャンネルNECO偉い!」と褒め称えてしまおう。
 なんとなれば、なんじゃやら舟木一夫さんの特集の一環として、1966年(昭和41年)の連続テレビドラマ『山のかなたに』の最終回を放送してくれたからである。主題歌を舟木さんが歌っており、最終回にのみ、ご本人がゲスト出演している。幼少時の狸が、白黒テレビで毎週楽しみにしていた『石坂洋次郎アワー』の一作である。

     

 デビュー曲の『高校三年生』で大ヒットを飛ばし、この番組の頃は人気も絶頂を極めていたわけだが、この舟木一夫さんの真骨頂は、むしろそれから十数年を経て、鳴かず飛ばずの絶不調期を迎えてからにある。なんと自分ひとりでカラオケ・テープとラジカセを抱え、温泉ホテルの宴会の余興とか、個人営業に勤しんでいたのだそうだ。
 ギター片手のフォーク野郎ならいざ知らず、仮にも一度は歌謡界のみならず映画やテレビドラマでも頂点を極めた身、人気が落ちても普通なら最低限の見栄を張って生きそうなものだが、ご本人はあくまで飄々と、酔客にそっくりさんと誤解されたりしながら、ひとり出稼ぎをこなしていたらしい。幸いそのうち時代のほうが、あの三丁目の夕日時代を懐かしむ風潮となり、舟木さんも大劇場で座長公演を打つまでに復活、現在も元気に芸能活動を続けていらっしゃる。ひとつの時代と不可分の寵児になってしまったがゆえに、時代が移ろえばそれっきり忘れられてしまう方々も多い中、自称『風来坊』の舟木さんは、どんな時代にもしっかりマイペースで、変わりなく泳ぎ続けていたわけである。
 しかし、たとえばその『山の彼方に』や、かの『青い山脈』の原作者である、戦後の大衆小説界において大ベストセラー作家として名声を恣にした石坂洋次郎氏――氏の作品を、たとえ郷愁によってでも、現在読もうとする人がどれだけいるだろうか。実は郷愁命の狸にしてからが、あまりの精神的な『古さ』についていけず、一種のイロモノとしてしか目を通せないような小説なのである。いや、『古い』と言うより、『あの時代にアピールした精神性』にしか基づいていないがゆえに、他の時代では同調しがたいと言うべきか。

 有為転変の中を風来坊のように生きて、結果的に『高校三年生』を歌謡曲史上のスタンダードになし得た舟木さんと、戦後あれだけ長い間ベストセラー作家として人気を持続しながら、今となってはほとんど作品そのものを顧みられない石坂氏。
 歌と小説の違い、と言ってしまえばそれまでだが、『時代』との関わり方そのものの差、そんな気もする。


12月01日 日  まだ

 たかこ 「やっほー! まーだだよー!」
 くにこ 「んむ。これは、まだだな」
 ゆうこ 「ごめんね、ごめんね」

 ちよこ 「ぷかぷか、すいすい〜〜」
 たかこ 「おう。ちよちゃんが、おそらを、とんでいる」
 くにこ 「んむ。へんしんしないで、ゆかたのまんま、とんでいるな。これは、ただものではない」
 ゆうこ 「……ほわー」
 ちよこ 「すいすいすい〜〜〜」