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01月29日 水  グローバル・スタンダード

 必ずしもウスラボケ〜っと日々を送っているわけではないのだが、通勤時や仕事中に、ふと、あ、これは雑想のネタになるな、などと思うことはあっても、さすがに何年もここで愚痴を言い続けていると、たいがいのネタは、すでに過去、似たようなネタで所感を述べてしまっているのである。昔と所感が変わったり、所感を記したこと自体を忘れてしまっていない限り、よほどのことがないと再述する気にはなれない。

 正規社員と非正規社員の格差が相手かまわず毒を盛りたいほど(あくまで容疑者の主観)だろうが、明日ママ騒動がどうだろうが、日中韓の関係の推移がどうだろうが、倉庫労働現場においては、そもそも現場を仕切る人々が請け負い会社の契約社員であり、企業的な『正社員』なんて所長以下ほんの2〜3人しかいないのだから、それ以外の人間は、元バブル富豪あるいはその子弟であろうと元からの貧困者であろうと、親があろうと養護施設育ちであろうと、国籍がどこであろうと、今は「粛々と働いて生きる」だけである。明るく笑って働く奴もいれば、不満たらたらで働く奴もいれば、狸のようになんだかよくわからない小動物のお目々で働く奴もいる。働かなければ食えない、それだけが共通認識だ。

          ◇          ◇

 ちょっと必要があって、いや、なんか妄想関係の興味によって、二十世紀中盤、太平洋戦争前後の南太平洋上の各諸島における風俗を読み囓ったりしているのだが、南洋諸島の先住民なんてどこも大差ないだろう、などと甘く考えていると、これがとんでもねー誤りなのである。一般に、他人の家の物を勝手にどんどん持っていってしまう、つまり白人や東洋人から見れば「土人は全員泥棒」の島が多いようだが、中にはニュー・カレドニアの先住民のように、他人の物には絶対に手を出さず、逆に自分の物が余れば片っ端から他人と分け合ってしまうような、いわゆる『天国にいちばん近い島』もある。まあ、どっちも、私有財産という概念の欠如による原始的な風俗なのだろうけれど、その顕在の仕方が島によって真逆というのは、実に興味深い。基本、貧富の差があったわけではない。どちらも年間を通して果実が豊富な、食うにだけは困らなかった島の話である。

 全員が勝手に盗み合うという社会は、つきつめれば究極の平等社会なのだろうが――「ああ腹減った。家に帰って昨日の残りのタロイモでも食おう」と思いつつ帰宅すると、そのタロイモはいつのまにか消えてしまっており、「おやおや、困ったなあ。じゃあ、隣が留守だから、あすこのタロイモを勝手に食ってしまおう」――これって、全員同じ意識だとしても、結局、どこかで偏在したストレスが爆発し、ついつい、お互い首を取り合ったりしちゃいますよね。
 ちなみに当時のニュー・カレドニア先住民の表情は、ほんとうに穏やかで、いい顔だったそうだ。フランス領に(あっちの勝手で)なってからも、盗難事件を捜査してみれば犯人はフランス人水夫、そんなのばっかり。もちろん国際的な観光地化が進んだ現在、先住民の生活意識どうなっているか保証の限りではないが、少なくとも戦後、日本のパチンコ機器が最初に輸入されたとき、ニュー・カレドニア先住民は、玉が溜まって満足すると、出ない仲間に分配したりしていたそうである。

 こうなると、異文化同士のいわゆる文化交流なるものが、いいか悪いかわからない。
 護るべき心が、全世界で同じものとも限らない。
 もちろん『天国にいちばん近い星』が理想ではあるのだけれど、「盗まれるほうがマヌケ」などというグローバル・スタンダードに染まるよりは、全員で気軽に盗み合って、たまにやりすぎちゃって思わず殺し合ったりしているほうが、まだ暮らしやすい気がする。


01月25日 土  雑想

 アブレ日。
 管理人さんが夜遅くまで留守になるということで、猫たちの半日主人となる。まあ外飼いの猫たちだから、基本的にはほったらかしにして、適宜、餌を与えるだけなのだが。

          ◇          ◇

 ああ、なんとゆーことだ。図書館で借りてきた『川崎長太郎選集・上』(河出書房新社・1991)が、ちっとも面白くない。大正から昭和中期にかけて、世間ではビンボ系私小説作家としてけっこう名を成し、昭和52年には菊池寛賞まで受けているのだが、これがもう狸にはきれいさっぱり面白くない。ビンボは自分でするだけで充分だ。
 考えてみれば、つげ先生の愛読書だからといって、つげファンの狸にまで面白いとは限らないわけである。つげ先生は、川崎長太郎的リアル現世において、あくまでつげ先生として這ったりトンだりしているのであり、それが狸の心の琴線をぽろろろろろろんと掻き鳴らしまくるのである。
 だいたい、そのリアル現世を川崎長太郎的なリアル文体で描かれても、狸には「1たす1は2」でしかない。つげ作品は、そもそも『漫画である』という一点において、すでにリアル現世を独自世界に変換してしまっている。「1たす1で、2みたいなんだけども、これほんとに2か? 2にしちゃ、なんかすっげーケタ多いんじゃねえか?」、と、こうなるわけである。

 ジャンルも傾向もまったく違うが、これと似た感慨を、エンタメ方向で敬愛する高橋克彦先生がらみで、昔、抱いたことがある。ドナルド・A・スタンウッドの『エヴァ・ライカーの記憶 』を、高橋先生がエッセイで絶賛していたので、狸もさっそく購入し(その頃はまっとうな月給取りをやっていたので、ハードカバーでもなんでも、買おうと思えばすぐに買えた)、わくわくと読み始めたのだが、キャラのあまりの血肉の薄さに辟易し、波瀾万丈なはずのストーリー展開まで、ちっとも楽しめなかったのである。
 高橋先生は、きっと作中のキャラの情動を、脳内で勝手に補間して、ストーリーに組み込んでいたのだろう。読みながら自分で演出していたということだ。

          ◇          ◇

 BSで録画した、『ザ・タイガース 2013』を観る。44年ぶりにオリジナル・メンバーで復活した、東京ドームでのライブ。
 ジュリーのMCの嗄れ声と、老顔と肥満と動きの鈍さに初めは首を傾げたが、歌声は最後まで乱れず、安心かつ感心した。たぶんあの肥満は、六十路後半でも歌の潤いを保つための、潤滑用脂肪でもあるのだろう。
 それぞれのメンバーに老いが色濃い中、解散してから最近まで一切芸能界に顔を出さず、市井の教育者として生きてきたピーこと瞳みのる氏だけは、容貌もドラム演奏も、ほとんど解散時の若いイキオイを保っており、「ああ、やっぱり人間には、まっとうで規則正しい生活が大切なのだなあ」などと、思わず頭を垂れてしまった。車椅子で登場したシローの、蚊の鳴くような『イエスタディ』には、近頃めっきり涙もろくモニターの前で慟哭しがちな狸の頬に、慟哭を越えた滲み出るようなひと筋の涙が、ぽろり、などと流れ落ちたりもした。
 ライブの前半・第一部は、主に海外のバンドの名曲をカバー。後半の第二部は、シングル・ヒットを中心とする持ち歌。第一部が長かったのは、けして持ち歌の数が少ないからではない。アイドル時代のヒット曲など、まだまだ掃いて捨てるほどある。昔からタイガースのライブは、アイドル的な歌謡曲よりも、テクニカルなロックのカバーが中心だったのである。まあ、そのせいで、途中参加のシローなどは、ただ浮かれてタンバリン叩いてるだけなどとファンに揶揄されたりもしたのだけれど、狸は許す。今回の『イエスタディ』だけで、すべて許す。

 ああ、生きているって、すばらしい。

     

 トッポの歌声も忘れてはいけませんね。

     


01月22日 水  日和見厭戦狸

 自省するに、結局、狸の戦争観などというものは、個体対個体、あるいは小規模な集団対集団の、縄張り争いや食物の奪い合いといった原始的な生存競争の延長線上にしかないわけで、要は、生きとし生けるものすべてがこの世に生き合うだけでも充分に醜悪でズブドロなのだから、せめて殺し合うときくらいは清々しくキメたいもんだ、そんな広義のファンタジー、見果てぬ夢に過ぎないのである。
 しかしまた、なんぼ自省などしても、今さら生まれ直すことも育ち直すこともできないし、そもそも人類同士の殺し合いなんぞ、人類が人類である以上、種が滅びるまで大なり小なり続くことは明らかなので、やっぱり己は広義のファンタジーに逃げきろうと、死ぬまであがくしかないのである。

 百年先千年先の未来、地球人類が外宇宙に『進出』したとき、それが他の星々の生態系に対する『侵略』でないことを、祈るばかりだ。
 正直、狸には、凶悪なエイリアンの餌食になる地球人より、気のいいエイリアンを食い物にする地球人のほうが、現実的に思われてならないんだよな。


01月19日 日  日和見好戦狸

 アブレ日。
 youtubeで、戦争映画『テレマークの要塞』(1965・米)の全編動画を見つけ、英語版にもかかわらずじっくり楽しんでしまう。

     

 さすがにこの映画の公開をリアルタイムで体験してはいない狸だが、のちに中学の映画教室で山形県民会館に連れて行かれ、どでかいスクリーンに圧倒されて以来、名画座の小スクリーンやテレビ放映で何度も追体験しているので、ストーリーは完全に頭に入っているし、セリフもおおむね大意がつかめる。
 初見時、格別この映画に惹かれたのは、主要な舞台が、地元の蔵王を連想させないこともないノルウエーの雪山であり、主に活躍するのが、本来はノンポリの民間物理学者や、地元のレジスタンスだったからだ。で、敵は、当時、近過去における絶対悪とされていたナチス・ドイツ。戦争映画の悪役として、子供でもなんら疑問を抱かずに敵視できたし、ドンパチの目的が戦争行為そのものではなく、あくまでナチスの原爆製造阻止である。そして主題曲が、当時から好みにドンピシャとハマった。勇壮のみならず、極めてロマンチックなのである。

     

 しかしこの映画、本編映像もサントラ盤も、なぜか日本では発売されていない。愚にもつかない戦争映画が山ほど売られているのに、不思議な話である。

 同様の思い入れがある戦争映画に、『脱走山脈』(1969・米)がある。
 これは高校時代、山形宝塚小劇場、極小スクリーンのいわゆる名画座で初見したのだが、かなりハマった。大仰な邦題とは別状、イギリス兵のおっさんがドイツの捕虜となりミュンヘンの動物園で使役され、そこで親しくなった象をいじめたドイツ兵を誤って殺してしまい、象を連れてアルプスを越え、スイスに脱出しようとする話である。この主人公も、兵士とはいえ、ほとんど動物好きの民間人のおっさん的なキャラだった。
 こちらは大作扱いの『テレマークの要塞』とは違い、あくまで異色の小品なのだが、音楽が当時大人気のフランシス・レイだったので、サントラ盤がすぐに買えた。現在、日本語字幕のDVDも出ている。

     

 しかし当時の戦争洋画を見ていると、ナチス・ドイツの描写が、おおむね冷徹で残忍ながら、けして馬鹿や阿呆や鬼畜ばかりではなく、ある種の人間味や威厳を備えて描かれている点に感心する。
 以前、中国で制作された、さほど古くない反日戦争ドラマの一部を見たことがあるが、登場する日本兵は、おおむねマジキチの鬼畜として描かれていた。あくまで見たのは一部だけだし、現在の中国の民衆がそれを鵜呑みにしているとも思えないが、国家としてそうしたドラマを制作するのは、『鬼畜米英』などという思考停止を国民に押しつけた戦中の日本軍部と同じ轍を踏むことであり、結句、勝ちに繋げられない気がする。
 オール無人兵器の時代でもこない限り、ツブシ合うのは、あくまで普通の人間同士だ。


01月16日 木  新刊書店にて

 目の毒なのであまり近づかないようにしている新刊書店に、仕事帰りにふと立ち寄ったりすると、案の定、スルドい毒の矢が、ぶっすりと眼球に突き刺さり脳味噌まで達してしまうのである。『芸術新潮』の1月号、つげ義春デビュー60周年大特集。『赤い花』と『外のふくらみ』が、一般雑誌掲載の印刷としてでなく、全編等倍原画の形で読める。原画のホワイト修正や切り貼り跡なども、ありありと確認できるのである。あまつさえ、4時間におよぶ最新ロング・インタビューまで掲載されている。価格は1400円。
 ……高い。
 しかし……人として、いや狸として、とうてい看過できるブツではない。
 まあ、ふだんなら、そもそも金がないので看過するしかないのだが、今月は、お年玉がある。正月に出勤した3日分の特別手当、計6000円。そこから例の3Dデジカメに3880円を費やしたが、まだ2000円ちょい残っている。
 で、結局、めでたく『芸術新潮』1月号、諦めも万引きもせず、レジのおねいさんの0円スマイルに祝福されつつ、しっかとこの胸に抱きしめました。いやあ、本当に明けましておめでたい。

 お年玉の残りは、まだ数百円ある。こうなったら、それも新刊書にしてしまえ。文庫くらいなら、まだ買える――というわけで、勇躍、雑誌コーナーから文庫コーナーを目ざした狸であったが、30分もたたないうちに敗退してしまった。なんじゃやら、棚に括りつけられたちっこい液晶モニターから、ものものしい爆音や悲愴な叫び声が、サザンの歌とともに流れ続けている。例の映画『永遠の0』の原作本を、映画とタイアップで叩き売ろうとしているのである。
 しかしなあ……その本だけ売ってるコーナーならまだしも、他に物色したい文庫本が、周りに山ほど並んでいるわけでしょう。狸も戦記に興味がないわけではないが、今はどちらかといえば『澁澤龍彦訳・暗黒怪奇短篇集』(河出文庫)とか『柳田国男 山人論集成』(角川ソフィア文庫)とか、正月のお年玉らしい(どこがや)本を、ゆっくり立ち読みしながら選択したいわけですよ。そのすぐ横で、のべつまくなしエンドレス、悲愴に戦場に旅立たれたり見送り絶叫(たぶん)され続けたんでは、たまったものではない。
 結局、つげ物件のみ抱えて帰穴しました。

 まあ『永遠の0』そのものに関しては、読んでもいないし見てもいないので今のところ何も言えないが、零戦関係や特攻関係のみならず、明治から昭和戦前の歴史すべてを通して、まあなんかいろいろ想うべき事があるわけですよ。たとえば『風立ちぬ』でも『連合艦隊』でも、あえて触れていない現人神の存在とか。
 安倍政権に任せといたら日本は戦前の悪夢の繰り返しだ、などと、なんぼ朝日あたりが額に青筋立てて絶叫し続けても、ぶっちゃけ当時の一億総火の玉状態を今に再現するのは、もう誰にも、絶対に不可能なのである。なんとなれば肝腎の大元帥&絶対神の御一族が、とうの昔に軍隊や国政から引退されてしまった。細川さんや小泉さんと違って、「あ、なんか、もういっぺんウケそうなネタみっけ」などと、いそいそ引退を撤回し、舞台に躍り出てきたりはしない。

 そんなこんなで、たとえばドキュメント番組で神風特攻の実写フィルムなどを見ていると、自称・感情右翼の狸ですらが、個人的にバックで流したいのはサザンのバラードより、岡村靖幸君の『冷たくされても』だったりするのです。モノラルで低音質なのはご容赦。


01月11日 土  咆吼するミケ女王

 ……嘘です。ただ、大アクビをしてるだけ。
 例によって、上が平行法観賞用の小さな画像、下が交差法用の画像になっております。
 今回は撮影にも画像加工にも時間をかけたので、3Dとしてのクオリティーが前回より格段にアップ……してるかどうかは、あなたと私の心ふたつ。

            

     

 いや、本日は自主アブレだったので、パソ部屋から大小のアームライトを移動して照明を工夫したり、フォトショでもなんかいろいろ試行錯誤したり、つごう2時間ほど、この画像のために費やしているのです。それがアホな行為であるかどうかは、あなたの心ひとつ。やってる本人は、きっちりアホであることを自覚しておりますので。
 ともあれ、今、これをアップしようとしていて気がついたのだが、下の画像をモニター画面いっぱいに拡大して平行視すると、まあ元が後ピンのアマアマ画像ゆえ拡大画像も当然より大アマアマになってしまうものの、アマアマながら視差の判別度は増し、また『両目で見る』という行為において心理的な視認性が増し、ミケ女王の鋭いキバやら口の奥行きやらお耳のトンガリ具合などが、けっこうな迫力で体感できるのですね。後ろのペットボトル群も、前のミケより固定焦点の被写界深度に収まっているのと、もともとシャープネスの効かせやすい物件であるためか、ちゃんと円筒状に見えないこともない。
 いやあ、立体写真って、ほんとに面白いですね。

 猫のアクビが3Dで見られるのは、この狸穴だけ――いやいや、探せば、もうとっくにネットのどこかにあるんだろうなあ。アクビする猫の、揺れるのどちんこの3D動画とか。


01月08日 水  3D猫

 新年早々、相変わらず夢も希望もない狸ではあるが――いやいや客観的に希望のカケラもないのは確かだが、主観的な夢だけは見放題なんだけども――まあ萎縮しているばかりでは埒があかないので、自分にお年玉をあげることにした。清水の舞台から昇天する覚悟で、どーんと3Dデジカメを購入してしまったのである。
 などと力いっぱい胸を張ると、立体写真やデジカメや狸に詳しい方は、「おお、あの貧しい狸は、ついにコンビニ強盗でもやらかして、身分不相応なフジやパナの3Dカメラを買いやがったのか」などと眉を顰めるだろうが、どうかご心配なく。購入したのは、こんな物件です。しかもヤフオクで探した中古だから、送料コミでも野口先生4人で、ちょっとお釣りが出たという。
 今どき500万画素のCMOSで、ストロボすらなく、ピントも固定。早い話が、いわゆるトイカメラの仲間である。しかしこれがあんがい真面目に設計されていると、ネットでも評判なのである。まあ世界中でほんの数人の評判ではあるが。
 左右のレンズ間隔が、およそ5センチしかなく、しかも固定焦点では、せいぜい数メートル以内の被写体でしか立体感は得られない。つまり風景などは不可。ただし、逆に近距離の物件には、フジの高級機よりも強いはずなのである。
 で、届いた早々、ストロボなしの室内撮影にチャレンジしてみました。モデルは狸穴を徘徊中のミケ女王とブチ下僕。
 御尊顔のドアップなどは、マクロもないので無論撮れません。固定焦点の範囲内で、あくまで適当に撮影、フォトショでなんかいろいろ調整し、猫コンビのみトリミング。上が平行法観賞用の小さな画像、下が交差法用の画像になっております。
 平行法だの交差法だの、立体写真鑑賞方法に関しては、旧HPの遺跡を参考にしてくださいね。裸眼立体視のできない方はごめんなさい。

            

     

 で、実際、なかなかイケるのである。
 しかもこのカメラ、3D対応のテレビがあれば、ちゃんとケーブル1本で立体観賞できる。つまり、極貧の立体写真マニアから、お金持ちの立体写真マニアまで、まんべんなく楽しめるスグレモノなのです。
 もっとも、お金持ちの立体マニアの方々は、とうの昔にフジやパナソニックの3Dデジカメを使っているでしょうが、猫のスナップだけなら、あんがいマジに、こっちのオモチャが勝っている可能性大。フジだと左右のレンズ間隔が人間の両目より離れているので、遠景には強いが、近場は立体感が誇張されすぎ、妙にぬお〜っと(?)こっちに伸びた、奥行きのありすぎるウナギ猫になってしまうはずなのである。パナソニックの奴は、逆にレンズ間隔が狭すぎ、これより立体感の少ない画像になってしまう。

 あ、あと、念のため(なんの念や)、猫の背後の注釈を。
 清涼飲料水のペットボトルが仰山並んでいるので、「なんだ、ビンボビンボと言いながら、こんなもん贅沢に飲みまくりやがって狸」と勘違いなさる方がいらっしゃるかもしれませんが、あれは近所の食品系バッタ屋で1本68円でまとめ買いした期限切迫品であり、冬季の狸は、これを仕事先で休憩ごとに水で薄めながら1日1本もたせる、そんな食生活を送っております。
 ちなみにお昼は、ほとんど自炊のお握りですね。


01月05日 日  あっ

 というまに、もう正月も5日である。
 本日は自主アブレ、録画しておいたテレビ東京とNHKの新春寄席中継を、適宜早送りしつつ慌ただしく見比べたりして、くつろいだんだか焦り続けたんだか、なんだかよくわからない気分である。ことほどさように五十路男の時間の流れは、年々歳々、超加速してゆく。このぶんだと、今年はおそらく2ヶ月ほどで大晦日を迎えてしまうだろう。しかしその短い季節の中で、夏の猛暑は、また推定20ヶ月ほども体感できるのだろう。
 ところで、もう民放では、寄席中継をまともに構成できる演出家も構成作家も絶滅してしまったのだろうか。こうなると、やはりNHKに受信料を納め続けるのは爺いにとって必須の義務と、確信せざるをえない。『タイムスクープ・ハンター』の鰻の特番も、長屋のおかみさんがちゃんと眉を剃ってお歯黒をつけていたり、NHKらしく臍曲がりで面白かった。
 まあテレビ東京でも、例の路線バス乗り継ぎ旅など、企画力とタレントさんの力で面白く見せてくれる番組もあるのだが、あれにはほとんど、演出力は関係していないからなあ。

          ◇          ◇

 実は今年の元旦から、毎朝、朝日ではなく読売が、狸穴に配達されている。必ずしも狸が朝日を見限ったわけではなく、単に以前、妙に気の会う読売の勧誘員さんが出現し、その人柄に感化されて半年間だけ契約した期間が巡ってきただけなのだが、ほぼ十数年ぶりに読売新聞に接し、これが朝日と同じ国の新聞かと、つくづく驚いている。
 ぶっちゃけ朝日は、まあ昔から左側通行だったとはいえ、ここ何年か、もはや赤旗の大衆版と化しており、社説や読者の投稿欄のみならず、一般世間の出来事の報道まで極左の立場で取捨選択してしまうものだから、もはや日本全土が共産革命寸前のような様相を呈し、その狭義のファンタジーに対して「おいおいおいおい」とツッコむのが、狸にとっての娯楽になっていたわけである。
 しかし読売新聞の誌中は、やや右寄りながらあくまで日和見、あの毒にも薬にもならない脱力4コマ『コボちゃん』と、ほとんど同じような穏健な日本が相変わらず存続している。朝日の4コマ『ののちゃん』のような毒気が、誌面全体から払拭されているのである。右寄りの社説にまで、あくまで中庸を逸脱しないよう、やんわりとしたオブラートが被せてある。
 もしも狸に複数の新聞をゆっくり読める金と暇があったら、狸穴に閉じこもったまま、朝日と読売とサンケイあたりを毎日比較して、「うわついに革命か」「ああ和む和む」「うわついに戦争だ開戦だ」などと、ヤジロベエのように無責任な人生を送れそうな気がする。

          ◇          ◇

 さて、録画しておいた『連合艦隊』でも観るか。もう数回目の観賞になるか。 
 特撮ファンには感涙モノの大和大爆発も大いなる魅力ではあるが、なによりその20年前の『世界大戦争』で、人類の最終戦争まで市井の家族劇として描いてしてしまった松林宗恵監督の仏性、あれがやはり狸には泣けるのだ。『社長シリーズ』も戦争物も、同じ市井の映画空間なのである。


01月01日 水  明けましてかぐや姫

 いやあ、去年は特に閉めた覚えはないのに、今年も自動的に明けてしまいました。
 こうして世界は、未来永劫、明け続けるわけです。
 人類が滅亡しても、地球など消滅しても、宇宙が終焉に至らない限りは、どこかに必ず明けている星がある勘定だ。おめでとうおめでとう!

 ……正月早々、なんか濁ってないか、狸。

 いや、今年は元旦からシネコンに這い込み、『かぐや姫の物語』を観てしまったので、けして心は濁っていないんですけどね。
 ただ、心を濁らせずに生きることの、美しさ以上に『キツさ』をも、常に鼻先に突きつけてくる高畑監督のこと、まあ『火垂るの墓』ほどではないにせよ、やっぱり魂レベルでの疲労は避けられない。
 ところで、宮崎監督が『かぐや姫の物語』を観て泣くスタッフに言ったという「この映画を観て泣く奴はシロウトだ」、これはまず、技術的な面で別次元の芸当を実現されてしまったことへの怒りだったのではなかろうか。そしてそう言い放ちつつ、どんな時代にも生きることと死ぬことの同義性において不動に孤高である高畑作品への、一抹の敗北感も覚えていたのではないか。
 ――「おまいらメソメソ泣いてんじゃねえ。これは同じプロの作家として、戦慄すべき作品なのだ」
 巷で囁かれる「これは宮崎監督が長編復帰する起爆剤になるのではないか」、そんな期待を、狸も抱いてしまう。

 ちなみに狸はシロウトなので、『風立ちぬ』同様『かぐや姫の物語』でも、あっちこっちで泣きまくってしまいました。
 そして一介のシロウトとして、『風立ちぬ』の観賞中には感動・共鳴しつつも一度も味わえなかった『希有』の要素、これが『かぐや姫の物語』観賞中には何度か味わえた(技術的にも精神的にも美意識的にも)、その一点において、やっぱり『かぐや姫の物語』>『風立ちぬ』だな、と。 
 ぶっちゃけ風が立とうと立つまいと、潔くもしこたまキツい矜持を持たざるを得ない個の宿命、そんなのが、やっぱり仏への階梯なんですよ。自分そのものが風、爽風でもあり暴風でもあるんですわ。周囲の状況がどうであろうと。

 そんなこんなで、やはり狸の脳内におけるヒエラルキーは、師匠高畑>弟子宮崎、永遠の青年>永遠の少年、今回もそうなってしまうのです。