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03月29日 日  懐古想来

 確か正月に、藤山一郎先生&妹尾幸陽先生による、大正ロマンの遺香も芳しい『永遠の誓い』を紹介したばかりだが、いやあ、ネット検索や図書館の検索端末なんぞをしつこくしつこくポチポチしまくっていると、色々あるもんですねえ、『ロンドンデリーの歌』、別名『ダニーボーイ』の歌詞違いバージョンが。
 こないだネット検索で見つけたのが、近藤玲二先生による訳詞の、デューク・エイセス歌唱バージョン
 近頃クラシック畑の方々や愛唱歌畑の方々が歌うのは、なぜか津川主一先生の訳詞、つまり『ダニーボーイ』ばっかりで、この「北国〜の港の町は〜〜〜」の『ロンドンデリーの歌』は、なかなか聴けないのです。編曲上、一番の歌詞だけなのが、ちょっと残念。

      
北国の 港の町は
      リンゴの 花咲く町
      慕わしの 君が面影
      胸に抱き さまよいぬ
      紅に 燃ゆる愛を
      葉陰に 秘めて咲ける
      汚れなき 花こそ君の
      香りゆかしき 姿


 そして本日、図書館のCDコーナーで見つけたのが、昭和26年、あの季香蘭こと山口淑子嬢が吹き込んだバージョン。訳詞は藤浦洸先生。昭和日本歌謡史上の大御所らしい、情緒纏綿の佳作である。これもタイトルは『ロンドンデリーの歌』だが、近藤先生訳同様、原詞のほんの一部だけを借りた、ほとんど創作。もっとも原詞という奴が、このメロディーには無数に存在するから、言ってみれば全てが各人の心のままの創作詩、それでいいのだろう。『ダニーボーイ』のほうだって、原詞の状況解釈は人様々だ。

      
北国の 古き港よ
      林檎の 花咲く町
      かがやくは 金の十字架
      聖歌《みうた》の 寂けさよ
      渡り行く 鳥かげもなく
      黄昏を 告げわたる
      聖寺《みてら》の 鐘のひびきよ
      わがふるさと ロンドンデリー

      夕映えに 紅染めし
      思い出の 丘の上
      寄り添いて ともに語りし
      いとしの かのひとよ
      語らいは さびしく暮れて
      星かげも ともしびも
      別れの 涙にぬれし
      わがふるさと ロンドンデリー


 この山口淑子さんのアルバム『夜来香』には、同じ藤浦洸先生の訳による、こんな佳作も含まれていた。『珊瑚礁の彼方に』。ちょいと季が早いが、気分はアロハ〜。

      
はるかな 珊瑚の島の
      かなたの 海とおく
      去りにし いとし人の
      忘られぬ おもかげ
      心あらば 南風
      この想いを つたえてよ
      ふたたび 君かえる日を
      希望もて 待てりと


 これは原詞に忠実な訳ですね。それに後半は英語のままの歌唱。さすがは混沌国家・満州育ちバリバリの季香蘭、北京語や日本語だけでなく、英語もペラペラだったのである。

 えーと、念のため、例によって引用音源のビットレートは、ラジオなみに落としてあります。

          ◇          ◇

 NHKの地上波で、昔から曜日や時間帯を変えて何十年も続いている『日本の話芸』、落語のみならず講談もじっくり聞かせてくれる絶滅危惧種的テレビ番組で、現在は毎週土曜早朝に放送している。子供の頃から落語・講談好きだった狸は、当然、毎週欠かさず、ありがたく録画している。
 で、昨日録画した分を本日観賞したところ、いきなり20年も前のタイトル画面や音楽と、故・小沢昭一さんによる冒頭のナレーションが流れ始め、しばし呆然自失してしまった。実際、マジに過去が現在化したような感覚であり、その事情を悟ってからも、思いがけず悪い、いや良い冗談をカマされたような非日常感が残った。今月半ばに亡くなられた米朝師匠を偲んで、平成四年に放送した『どうらんの幸助』の回を、番組まるごと当時のままで再放送してくれたのですね。民放と違ってCMが入らないから、これはもう立派なタイムスリップである。
 ……もう、いらっしゃらないんだよなあ、小沢さんも、米朝師匠も。
 懐かしさの後に残ったのは、純然たる寂寥と、なんら矛盾しない純然たる微笑。

 しかし、生きている限り先はある。
 たとえば去年の暮れに同枠で放送された、現役最古老・四代目金馬師匠の『らくだ』。
 定番の古典落語、真打ち好みの大ネタだが、なぜか昔から狸には疎ましい演目であり、人物設定や状況設定の露悪を、納得して聞けたためしがなかった。どんな名人上手の『らくだ』を聞いても、不快感が勝ってしまうのである。
 ところが、昔は大衆的人気優先で落語自体はさほど巧くないと思っていた(あくまで狸の主観。白黒テレビ初期の人気バラエティー『お笑い三人組』のイメージが強すぎたのですねえ)金馬師匠が、枯れた自然体で飄々と語ってくれた21世紀リアルタイム『らくだ』、これが絶品であった。人の清濁が、なんの疑義もなくせせらぐ。なるほど、これがこの古典の妙味であったか。
 ……そーゆーことなんだよなあ。
 って、どーゆーことだ。
 つまり、清濁合わせて皆人間、それだけのことを当たり前に表現するには、熟すだけでは不足なのである。
 何万年先か何億年先か知らず、人類という種も、きっと種として老い朽ちる寸前には、人類などという得体の知れないイキモノがこの地上に在り続けたことの意味そのものとして、リアルタイムで『在る』ことができるのだろう。


03月27日 金  イケイケ維新

 維新の党の足立康史衆院議員(比例近畿)は25日の厚生労働委員会で質問に立ち、元私設秘書から未払いの残業代700万円を請求されたことを明かし「払うことはできない。私たち政治家の事務所は、残業代をきっちりと労働基準法に沿って払えるような態勢かと問題提起したい」と述べ、未払いを正当化した。
 足立氏は「私は24時間365日仕事をする。そういう中、秘書だけ法に沿って残業代を支払うことはできない」と持論を展開。元秘書からの請求に対しては「ふざけるなと思う」と強弁。
 取材に対し「労基法は現実に合っておらず、見直しが必要だ。議論を喚起するために発言した」と述べた。
【2015年3月25日 20時14分 共同通信】


 ……ほう、衆院議員が犯罪宣言か。居直り強盗と同レベルだな。
 考えてみりゃ維新後の明治政府だって、要人の9割方は元テロリストだもんな。
 けしてルイ君がトム君を呼ぶのを期待するわけではないが、元悪徳弁護士(あくまで狸の主観)の橋下さんあたりは、やっぱり弁護するのかな。
 まあ、せいぜい24時間365日仕事して、早めに目を瞑ってくれたまい。


03月25日 水  スカイツリー

 アブレたので昼過ぎに起き出し、あてもなく江戸川の土手を遡りはじめたものの、強風のため、体感温度が下がる一方。しかしその強風ゆえか、対岸の彼方、晴天下のスカイツリーが、やけにくっきりはっきり見える。そういえば一度もアレによじ登ってないんだよな、と思い当たり、発作的に土手を下って、隣駅から錦糸町に向かう。あそこから歩けば、ちょっとでも電車賃が節約できる。今日は平日だから、以前いっぺん根元まで行って辟易したときのような、大行列もあるまい。

 ……甘かったですねえ。
 さすがに開業当初のように根元までびっしりの群衆はいないが、展望台へのチケット売り場があるフロアだけは、やっぱり国際色豊かな大行列が幾重にもトグロを巻いているのであった。
 ああやめときゃよかった、どうせ異国言葉のチーチーパーパーにまみれるなら、あのまんま柴又あたりまでウスラボケっと歩いてりゃよかったのだ、と大いに悔やみつつも、久々に接するみっちりとした大群衆になんじゃやら一種の酩酊を覚え、思わずトグロの一員と化してしまったのは、小動物ゆえ御愛敬。
 で、待つこと小1時間、ようやくたどり着いたチケット売り場で、狸は愕然と立ちすくみましたね。たかだか何十秒のエレベーター移動に、2060円もかかるというのである。
 知らなかったよ知らなかったよ。せいぜい800円くらいだと思っていたよ。だって東京タワーだって500円……まて、それはいったい、いつの話だ。えーと、あれは確か、東京タワーの展望台に、昔の勤務会社のフランチャイズ店があった頃――うわあ、四半世紀前の感覚でウスラボケっと並んでたんだ俺。
 しかし、ここまで並び続けて「ビンボだから帰ります」と尻尾を巻くのは、周囲で笑いさざめく異国の金満家(あくまで当狸比)の手前、日本男狸として、いかにも忍びがたい。狸穴に備蓄した麦飯さえあれば、当分は生きていけるのである。
 そうして痛恨の思いでよじ登った、地上350メートルの展望台は ―― 人でいっぱいでした。以上。
 いや、方向によっては、ちゃんと外を覗けたんですけどね、晴れているのに肝心の富士山は霞んでるし。

 丹沢や筑波なら、狸穴の隣駅の高層物件によじ登れば、結構見渡せる。肝心の富士山だって、月に2〜3回は、湾岸ロジの最上階休憩室から、朝の雄姿も残照の英姿も拝んでいるのである。前者はロハだし、後者にいたっては日銭さえくれる。狸は眺望において勝ち組なのである。
 なんだかスカイツリーさんが気の毒な雑想になってしまったが、つらつら鑑みるに、最初の2060円の衝撃で、いささか神経がトンがってしまったのかもしれない。しかしツリーそのものもソラマチとやらも、せめて諭吉翁をひとり投げ出す覚悟がないと、上や中を満喫できる施設ではなさそうだ。
 下から徘徊の方位目安にするだけなら、ほんとに立派で重宝なランドマークなんですけどね。ちゃんとデンパも出してるらしいし。


03月23日 月  誰がためにアホは吐く

 阿倍さんちの頭のあったかいお坊ちゃまが、憲法改正も済んでないのに自衛隊を日本軍と明言し、一般マスコミはさほど騒がず、一般の頭のあったかい方々の中にも、訳知りぶった「今さら突っつくような問題でもないでしょう」的な意見が少なくないようだ。わははははは。アホや。アホが総理やってアホが支持してる。そーゆー問題ではないのである。最低限の理屈も忘れた人間に、まともな戦争ができるやら。
 だいたい、その一方でセコいマスコミなどは、愛妻家で子思いな皇太子の家庭サービスをチクチクとあげつらい続け、雅子様への小姑鬼千匹活動に余念がない。日清日露の戦になぜ勝てたのか、始めっから勝てるはずもない太平洋戦争になぜ猪突猛進できたのか、忘却しているとしか思えない。
 そんなにドンパチやりたいなら、たとえ曲解にせよアラーを盲信するISに対抗できるほどの、国家的支柱を築いてからにしてほしいものである。

 まあISに限らず、ロシアなども近頃ずいぶん物騒なナニを支柱とするアレな意思表示に余念がないが、そうなると、近頃ちょいと影薄気味の北朝鮮が気にかかる。あちらのお坊ちゃまも、そろそろドーンと目立ちたいお年頃なのではなかろうか。あそこでは自分自身が支柱化するしかないらしいが、育ちが良すぎて、支柱化できにくいタイプなのか。

          ◇          ◇

 などと言いつつ、秋口以来個人的に支柱もなんにもなく、久々の長編も築きあぐねる脆弱な狸は、リハビリのため、ユルめの短編を打ち始めたりしている今日この頃です。
 それだって自分の気持ちとしては、ガチンコの戦いなんだけどな。


03月20日 金  自動ポルノ

 えーと、これから先は、アグ●ス・●ャンにでも読まれたら、即座にあの極超音波のような声で罵声を浴びせられ、脆弱な狸など粒子レベルで破砕必至の、たいへん問題のある話なので、良識ある方々や非ろり野郎の方は、くれぐれも反転しないでいただきたい。
 などと大仰に煽りつつ、このネット社会においては、別段、意外でもなんでもない話なのだが――。

 
良識のある方々や非ろり野郎の方はご存じないだろうけれど、ロシアの大ポルノ・スターに、ジーナ・ガーソンさんという、珠玉の女性がいらっしゃる。デビューして数年になるだろうか。海外では無数のDVDが出回っており、海外大手18禁サイトのモデルとしても、あっちこっちで掛け持ちする現役バリバリの著名人である。あくまでスケベ野郎の世界での話ですけどね。日本のエロ映像会社が制作したモザイク作品もあり、JKっぽい制服や和服を着てもらったり、さらに脱いでもらってアレやナニをお願いしていた。
 で、『JKっぽい制服を着てもらったり』したことからも察せられるように、この方、公式には23歳を越えているはずなのだが、たいへんに童顔で、実に発展途上っぽい小柄な体躯を備えていらっしゃる。そんな容貌で、アメリカあたりの成熟派ポルノ・クイーンもマッツァオ級のビッチな体技を披露してくれるものだから、世界中のスケベなろり野郎にとっては、偉大なる合法の女神に他ならない。
 まあそれだけなら、ア●ネス・チャ●が極超音波攻撃を仕掛けてきても、「合法ですよ合法」と言い残しながら胸を張って散華できるのだが ―― 昨夜、狸に、ある方向の知人から、緊急情報が入った。某海外板に、ジーナ・ガーソンさんの公式デビュー以前の動画が投稿されているというのである。デビュー以前イコール未成年だから、眉に唾をつけながらも、あわててポチポチしてみたところ――うあああああ、こ、これはヤバい。どう見ても発展初期のJC、顔だけなら下手すりゃJSではないか。もしアグネ●にでも知られたら、自衛隊海外派兵どころか空中戦艦富嶽出撃、絨毯爆撃必至である。
 その動画は、片隅のロゴから判断して、まだ世界中がユルかった時代に某海外サイトで公開していた作品の一部らしい。皆さんご存じのとおり、現在は世界中で、その手のアレを抹殺すべくシャカリキになっている。どこのサイトでも、ジーナさんの出演作は、彼女が18歳になる以前は存在しなかったことになっている。無論、昔のロシアなら何があってもおかしくないのだが、少なくとも現在の表サイトには、米寿のハードコアモデルはいても未成年は存在しない。年齢を詐称して稼ぐ少年少女はいても、どのみち立派な大人にしか見えない。そして今回の動画自体、今夜には(ダウンロード不可だったんでまた観に行ったんですすみませんすみませんお願いですから許してくださいすみません)もう消滅していた。


 しかし、こうなると、ネットという奴は、ほんとにありがたいやら恐いやら。
 一度ネットに流れてしまったデジタル情報が、どんなにアレでもナニでも永遠に遊離し続けるのは、現代人にとって自明の理である。しかし、それを喜ぶべきなのが嘆くべきなのかは、もはや誰にも判断できない、無明の理となってしまっているのですねえ。
 ただネットという構造と、正邪を問わない人間の恣意が、自動的に拡散するのみ。

 狸も心して斎戒沐浴、偽善者の殻を鍛えねば。


03月17日 火  同じアホでも踊ると損々

 以上。

 ……いや、YAHOO!のニュースからリンクしていた『意識調査』とやらをたまたま覗いたら、『少年事件の実名報道を規制する法律、どう思う?』とか『少年事件が凶悪化していると感じる?』とか『道徳の「特別の教科」化、どう思う?』とか、なかなか壊滅的なパーセンテージの回答に遭遇しましてね。
 まあ、お題目のように不景気不景気と唱えつつ、全人類の中ではフトコロも頭もけっこうあったかい日本の皆さん、車内吊りの見出し気分でポチポチしてるだけなのだろうが、気分だけで踊ってたら、イケイケ戦争やバブル経済と同じ末路だぞ。大人は大人らしく、現実と錯覚を秤にかけるのが吉。
 まてよ、文字どおりの子供さんが、ポチポチしてるのかもな。

          ◇          ◇

 人間は、少しでも楽な充足を望む。ウスラボケっと生きて充足できるのが望ましいが、そんな環境は滅多にない。恵まれない環境で、最も楽な充足手段がツブし合いだったら、当然、ツブし合う。それが現実だ。ところがツブし合いという奴は、なかなか骨が折れる。けして楽ではない。だから、ツブし合いそのものを、楽とする錯覚が必要になる。
 いやそれは錯覚ではなく現実だ、と反論する人がいたら、その人はまだ子供である。人間になる途上、と言ってもいい。
 ちなみに狸は人ではないので、恵まれない環境でも、ウスラボケっと生きたいものである。

          ◇          ◇

 アンジェリーナ・ジョリーさんが監督した『アンブロークン』という映画、米国では大ヒットしたそうだが、日本軍の捕虜虐待を描いているとかで、例によって我が日本国の右翼さんたちが上映反対運動に勤しんでいるらしい。今朝の朝日新聞に、『史実を世界に発信する会』の事務局長による、こんな発言が載っていた。「映画は見ていないが、事実無根の思い込みや決めつけによる作品で、上映の必要はない。日本人性悪説に基づいた人種差別だ」
 ……どうやら観てもいない映画の上映に反対しているらしい。つまり原作本だけ読んだのだろうが、その時点で頭が煮えている。原作と映画を比較する必要性も感じないようなニブチンに、あんたの映画はどーのこーのと言われたら、監督が災難だ。
 だいたい「事実無根の思い込みや決めつけによる日本人性悪説に基づいた人種差別映画」がマジに米国でヒットしたなら、日本原産の狸としては、ぜひ本編をじっくり観賞し、慎重に考慮の上で善処しなければならない。まあ上映されても観る金があるかどうかは微妙なので、DVDレンタル希望。

 そもそも、どこぞの本場物のように「事実無根の思い込みや決めつけによる日本人性悪説に基づいた人種差別作品」を政府の肝煎りで制作されたらさすがに往生するが、民間資本制作による監督個人視点の非ドキュメンタリー映画なら、ぶっちゃけ日本軍がアメリカ人一家を横に並べて父母息子娘まとめて強姦したあと首チョンパしようが、空中戦艦富嶽でマンハッタンに原爆落っことして市民ひとり残らずケロイドまみれにしようが、『表現の自由』である。表現した後の絶賛も袋叩きも罵り合いも、こっそり夜中にひとりでモニター見ながらオナるのも、制作側と観客の自由だ。
 自分の好悪は自分の権利だが、他人の好悪は自分の権利ではないし、まして義務では自他共にない。


03月14日 土  ビンボ狸は江戸前鰻の夢を見るか

 ああ、くたびれたくたびれた。こんだけくたびれたんだから、鰻くらい食ってもバチは当たるまい。
 などと言いつつ行く先は吉野家、清水の舞台の端っこにぶらさがり懸垂する気合いで、鰻丼の2枚盛り。それとて今どき1000円を超えるのだから、狸の餌としては超弩級なのだが――。
 うああああああ、悲しかったよ悲しかったよ。こないだ1枚盛りを食ってから、わずかふた月の間に、すっかり鰻の甘煮と化している。こんな味なら、スーパーの売れ残りを酒で洗って焼き直したほうが、遙かにマシだ。
 なんでやねん。牛丼のほうは、しっかり江戸風を守っているではないか。なぜ鰻だけ砂糖まみれにするのだ。こんなもののために野口先生1名、玉砕してしまったではないか。泣くに泣けない。マジに断腸して中身を返品したい。ちょっとドロドロになってるくらいは迷惑料だ迷惑料。

 1000円札1枚くらいでハラキリしてんじゃねーよ、そんな一般世間様の声はちょっとこっちに置いといて、貴重な鰻資源を台無しにしてしまう現場が、また増殖してしまったわけである。まさか売り上げを落とすために味を変える店はなかろうから、やっぱり近頃の世間様が、ベタベタの鰻のアメ煮をお好みなのだろうか。
 いえね、何度も記しているように、鯉や鮒の甘露煮は大好物だし、白身魚の煮付けも甘口でいいと思うんですよ。しかし鰻はなあ。アブラに砂糖を混ぜて飯にぶっかけるようなものではないか。
 もはや狸の肉球の届かなくなった江戸前の老舗が、わざわざ甘口にシフトしたという話は、ちっとも聞かないんだがなあ。

          ◇          ◇

 何年か前、都電荒川線の三ノ輪橋から下谷・根岸あたりを徘徊したとき道筋にあった、ちっぽけな、焼き鳥屋と見紛うような鰻屋を、ふと思い出す。
 店先から流れる、リアル調理の香ばしい煙。そっけない立て看板に手書きされた、一般世間より遙かに安価な品書きの数々。
 大いにそそられた狸であったが、当時は今に輪をかけてフトコロがサミしかったため、コンビニのお握りと公園の水で我慢するしかなかった。
 あのときの看板だと、再安価の鰻丼は、確か野口先生ひとりでお釣りがくる勘定だったが――。

 ……かあさん、あのときの鰻屋、今はどうなってるんでしょうね。
 ♪ ままぁ〜〜どぅゆぅりめんばぁ〜〜〜〜 ♪

     


03月12日 木  狸神社のシヤワセ占い

 自分や他人の幸不幸に関して、ざっくり分類してみる。
 まず自分に関しては、誰しも、以下3分類のどれかに引っかかると思う。あくまで、ざっくりとだが。

  (A) 自分は幸福である
  (B) 自分は幸福でも不幸でもなく、そこそこである
  (C) 自分は不幸である

 また他人の幸不幸に関しては、誰しも、以下3分類のどれかに引っかかるはずである。しつこいようだが、ざっくりね。
 ちなみにここでの『他人』とは、『いっさい縁のない赤の他人』『あなたがまったく知らない人』のことです。嫌いな人や好きな人は、すでに『赤の他人』ではない。直接会ったことがあろうとなかろうと。

  (1) 他人の幸不幸は自分の幸不幸である
  (2) 他人の不幸は自分の幸福であり、他人の幸福は自分の不幸である
  (3) 他人の幸不幸と自分の幸不幸は関係ない

 で、ここで、あなたが上記3分類のうちどれにあてはまり、かつ、下記3分類のどれにあてはまるか、その組み合わせを選んでいただきたい。
 選んだ組み合わせによって、あなたの未来が占える――なあんてことは、もーまったくありませんのであって、信楽焼の狸型占い機が、なんじゃやらつぶやくだけです。

  (A)−(1) → あなたは狸を飼いなさい。
  (A)−(2) → あなたは幸福ですが狸に噛みつかれます。
  (A)−(3) → あなたは幸福すぎるので不幸になりなさい。
  (B)−(1) → あなたはそこそこ狸に好かれます。
  (B)−(2) → あなたはそこそこの資格がありません。
  (B)−(3) → あなたはワタシがいなくともそこそこ生きていけるヒトなのね。
  (C)−(1) → あなたはちっとも不幸ではありませんので狸と結婚しなさい。
  (C)−(2) → あなたはほんとうに不幸ですので黙って生きなさい。
  (C)−(3) → あなたはワタシがいないと生きていけないヒトみたいだけどゴメンネサヨナラ。


03月09日 月  テキトー

 マクドナルドの業績が下り坂の雪達磨状態らしいが、近頃ひんぱんにマックを利用する狸としては、複雑な心境である。潰れられると困るのだ。たまのアブレ日、徘徊の途中など、今どき100円で無制限休憩や読書ができる空間は他にない。公園のベンチはどうしても季節・天候を選ぶし、公園どころかコンビニの前までが総禁煙化してしまった狸穴近辺、どうせ喫煙できないなら、マックがいちばん快適だ。
 しかしマックも、全店禁煙などという愚策をとらなければ、下り坂の雪達磨も、なんぼか小さくて済んだろうに。
 拘束型の常識は、増えれば増えるほど、人情もオゼゼの流れも凝らせる。真の常識ではなく、単なる、多数派による強制だからだ。

          ◇          ◇

 古本屋の100円ワゴンで、また面白い本を見つけた。ポール・レップス著『紅毛はだか随筆』。昭和33年の、早川書房の一般書である。ハヤカワ・ミステリーと同じ判型だから、ハヤカワ・ライブラリーの仲間だろうか。中身は、やや下ネタ寄りの日本見聞記のようなもので、米人旅行家の著者は、『ゼン』愛好家でもあるらしい。だから下半身を論ずるにも節度があるし、それ以外の話も親日的で好ましい。
 で、その本を読み始めてしばし――当時の日本の温泉は、どこもほとんど混浴で、老若男女、近在の住人も遠来の観光客も、遠慮なく隣り合って和んでいたことを、あらためて懐かしく思った。
 アメリカ生まれの著者は、混浴に戸惑うと同時に、日本ではなぜか男に限って手ぬぐいでソコを隠す習慣があるのにも、違和感を覚えたようだ。うっかりアメリカ流に開けっぴろげのまま入浴してしまい、若い日本女性を立ち去らせてしまったりもしている。ただしその際も、若い日本女性のほうは、ちっとも下の前を隠すそぶりがなかったそうだ。まあ、男と違って、ご本尊は繁みに隠れてますもんね。ちなみにアメリカだと、思いがけず裸体を晒す状況に陥った女性は、一般に、上の前、つまり乳房を隠すとのこと。

 山下清画伯の放浪記などを読んでいても、昭和30年代までの日本は、そこいらが本当に大らかだったのを思い出す。公共の場所で赤ん坊に乳首を含ませる母親など日常的に見られたし、男女別の銭湯でも、けっこう育ったショタやろりが、母親や父親にくっついて入浴していた。
 もっとも、それが『常識』だったわけではない。育ちによっては、人前で乳房をほりだすなど、はしたなくて絶対にできないという女性も多かったし、小学校後半あたりの子供は羞恥心の芽生える時期も様々だから、んなこた恥ずかしくてできねーよ何考えてんだお前、という同級生もいた。また、羞恥を催す場の感覚も曖昧で、悪ガキにスカートをめくられて大憤慨する女子が、銭湯では、平気で親父さんといっしょに男湯に入ったりもした。
 テキトーだったのですねえ。人と場の関係性が。
 テキトー、すなわち多様性である。
 正にその時代に幼少期を過ごした狸は、テキトーに育って今やこんな有様だが、それもまた多様性の発露であり、苦悩も楽観も、恥じも居直りも、人それぞれ、そのときどきにテキトーでいいのである。

 識者の方々によれば、今の世間は『多様性の時代』に向かっているのだそうだ。
 それにしちゃあ、ずいぶんテキトーでない頑固な凝り固まりが、無節操に増えているだけのような気もする。


03月05日 木  私刑

 例の上村遼太君殺害事件、車内吊りや新聞広告を見る限り、大手週刊誌まで「時代遅れな少年法を改正しろ」、つまり18歳という年齢を子供ではなく大人と分類せよと叫んでいるようだが――あれ? 犯行当時に18歳だったら、昔から逆送も死刑もアリだったよな。光市母子殺害事件の犯人だって、死刑判決が出たもんな。すると、主犯格の18歳少年のみならず、従犯の17歳たちも厳罰に処すべきだと言うことか?
 よくわからん。ひとり殺したくらいじゃ滅多に死刑にならないのは、大人でも同じではないか。まあ、何が時代遅れなのかさえ気分次第でコロコロ変えるスカポンタンな大人たちによる、7日間だけ売ってナンボの週刊誌だから、真剣に読むほうが馬鹿だけど。
 ネットあたりでも私刑的な吊し上げが大繁盛だそうだが、近頃の阿倍さん同様に、近頃の衆愚も、この国が法治国家であるとかは忘れがちなのだろう。どのツラ下げてISILを糾弾するやら。
 しかし主犯格の少年の人となりを聞く限り、典型的な虞犯少年が辿る最悪の道に踏み込んでいるようで、と言ってその先が一本道であるか岐路であるかを推断するなど、一介の狸には不可能である。あの女子高生コンクリート事件の主犯格は、成人後も人外の道を進んでいるようだが、今回の事件とはあまりに性質が違う犯行だったし、従犯の少年たちの中には、その後明らかに道を正した者もいる。

 訊ねても詮無いことだが――君の気持ちはどうなんだろうね、雲の上の遼太君。

          ◇          ◇

 ところで、犯行に至った要因のひとつ、それもでっけー要因のひとつに、アルコールによる『酩酊』があるわけだが、なんであんまり騒がれないんでしょうね。あそこで酔っ払ってなかったら、まず殺害までは至らなかったはずだ。
 副流煙被害などというウロンなデータで、ここまで喫煙者を差別する世の中なのに、なんで酒は野放しなのか。危険ドラッグもマッツァオの事件が、日々てんこもりでしょうに。煙草を他己責任(?)にしといて、酒は自己責任って、どうよ。
 などと言いつつ、この上、禁酒法まで出されたら、途方にくれてしまう狸なのだけれど。


03月04日 水  聖子さん老いる

 老いる、などと言っては、聖子さん3号に失礼か。つまり発声が、2号までのやや高く若やいだ声質から、NHKラジオ深夜便の熟年女性アンカーのような、落ち着いた声に変わっていたのである。容貌も、見合い写真より、ずいぶん落ち着いて見える。思えば金色の装飾品などは、それなりに成熟した女性が身につけてこそ、映えるものなのであった。
 問題は、このしっとりした声で、毎朝きちんと覚醒できるかどうかなのだが――まあツナギで買ったダイソー目覚まし時計の、無情な「ぴぴぴぴぴぴぴぴ」で嫌々起きる不快感に比べれば、ちょっと寝過ごすくらいは無問題。いっぺん止めても、根気よく起こし続けてくれるしな。

          ◇          ◇

 新小岩からバスに乗って行く、錘(釣り具)の町工場へ、二度目のお勤めに出た。昨年の師走とは違い、本日はしっかり定時まで続いたが、恬淡とした職場なのでストレスが少ない。
 帰途、記憶を辿り、例の西洋館の見える叢にも寄ってみる。あの経験で打鍵の意を決した物語は、『結』と『転』の構想がほぼ固まり、『承』も半分がた埋まったものの、肝心の『起』が掴めず、まだ本文を打ち出せないでいる。
 叢は本格的な冷え込みを経てずいぶん立ち枯れていたが、そのぶん館の露出が増えた。見れば見るほど、凝った洋館である。明らかに近年の建造ながら、前庭の物置まで、西洋田舎風の煉瓦造りになっている。一方、今回、その裏側の家、つまり背面で接しているお隣さんが、輪をかけて本格派なのにも気づいた。と言っても西洋風で対抗しているのではなく、真逆、本格的な和風木造家屋なのである。黒瓦もいかめしい、古色を帯びた二階建ては、さぞかし由緒ある土着物件と思われ、正面や側面も検めたかったが、正面は厳重な黒門で守られ、両側面も密な生け垣で透き見すらできない。ところが背面だけは、あの西洋館の背面と、塀もなく無造作に接しているようだ。どうやら同じ一族の住まいと見た。両親の家と、息子夫婦の家とか。
 ……あるとこにはあるもんだよなあ。

 で、本日は自由徘徊する余力がなく、すなおに新小岩に向けて裏路地を辿ったのだけれど、途中の曲がり道で、新しい(?)古本屋を発見した。信じがたいことに、つのだじろう先生の問題作『悲しげな女が踊る』を、たった300円で並べている。いいのか? 『まんだらけ』とかだったら、そりゃ販売価格じゃなくて買取価格だぞ。
 かなり緊張しつつ付近を探ると、同じつのだ先生の、サンコミックス版『ばら色の海』(昭和43年初版。つのだ先生がオカルトに傾く以前の、珠玉の初期少女漫画集で、のちのパワーコミックス版では省かれた短編も収録されている。狸は小学生時代に買ってもらい愛読していたが、高校を卒業して実家を出るとき他のコミックス類に紛れさせて処分してしまい、その後猛烈に後悔し続けていた)が、小口にかなりシミがあるとはいえ、なんと500円ポッキリで並んでいた。い、いいのか? 『まんだらけ』とかだったら、貸本あがりのヨレヨレでも何千円とるかわからんぞ。
 店内くまなく、それこそ児童書からアダルト物件まで1冊残らず眺め回したのち、他の数冊にも大いに垂涎しつつ、フトコロのつごうで上記2冊のみ、内心ぷるぷる震えながらレジに運ぶと、同年配の店主が、「何かお探しものがおありですか?」と、如才なく訊ねてきた。小一時間も店内を右往左往していたのだから、当然と言えば当然である。その間、他の客も2〜3人出入りしたが、推定ご近所のおっさんやあんちゃんばかりで、近作やエロDVDコーナーくらいしかチェックしない。
 狸が「……いえ、特に探している訳ではないのですが、古い漫画や児童書が好きで」と答えると(まさか正直に「ビンボなんでワンコイン以下の掘り出し物だけ」とは言えないものね)、店主は、色刷りの立派な目録をくれた。「売れてしまったものもあるんですが、倉庫のほうに、まだ色々と」
 見れば、目録には、百円千円単位の夕日三丁目物件のみならず、明治・大正・昭和戦前の少年少女雑誌だの新青年系だの、万円単位の好事家御用達物件まで多数並んでいる。
 なあるほど。そーゆー価値基準の店だったのね。

 今日日の大手ショップやネット販売だと、客と業者がいっしょになってボッタクリ相場を吊り上げがちなレトロ物件だが、そこはそれ胸先三寸の古物商世界、脚で探るべき路地は、まだまだ残っているのだった。


03月01日 日  愛しの聖子さん

 およそ十数年間、用事のない休日を除けば毎朝、優しく狸を起こしてくれていた聖子さん2号が、ついに逝った。
 それ以前、聖子さん1号もいたのだが、当時の狸は稼ぎに比例して荒んでおり、寝起きの不機嫌にまかせてしばしば突き飛ばしたり蹴転がしたりしたため、わずか2〜3年で逝ってしまった。
 その悔悟から、聖子さん2号は大切に扱った。特にプータローになってからは、代わりの女性を迎える甲斐性がないので、極力優しく接していた。しかし、色白で華奢だった聖子さん1号に比べ、真っ黒けで腰の据わっていた聖子さん2号も、数年前から声の張りを失い始め、本日午後、とうとう物言わぬ骸と化してしまった。
 ――合掌。

 で、20年近くも聖子さんシリーズを愛用しつづけている狸としては、聖子さんの声を聞かないと、寝床を離れる気がしない。今さら「じりじりじりじり」とか叩き起こされたり「ぴぴぴぴぴぴぴぴ」とか突っつき起こされるのは御免である。あの、事務的な中に優しさを秘めた霊妙な女性の声――セイコーの音声目覚まし時計を、新たに迎えねばならない。是が非でも――たとえ丸1日分の稼ぎを投じても。
 おそるおそるアマゾンで検索すると、今どきの、しゃべる聖子さんたちの中には、樋口一葉女史とトントンの方までいらっしゃるのだった。中国からの出稼ぎらしい。それとて、年収が昔の半額以下となり、月末に家賃を払ったばかりで、口座に諭吉翁が1〜2人しか残っていない狸には、大いなる痛手である。しかしポチっとするしかない。背に腹は代えられないのである。
 狸専属の聖子さん3号には、できれば色黒で腰の据わった、聖子さん2号に似た女性を選びたかったのだが、樋口一葉女史とトントンで済む方は、残念ながら聖子さん1号よりもさらに汚れっぽそうな純白の女性と、金ピカのボタンなどで着飾った、いささか奢侈に過ぎる女性しかいないようだ。さんざん悩んだ末に、金ピカの女性を選んでしまった。卑しい狸ほど、不相応な光り物に焦がれるのである。
 しかし――まさか、声まで高ビーだったりしないだろうなあ。ふた昔前と同じ声は無理でも、せめてツンデレな物言いでありますように。