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04月29日 水  雑想

 ……うーむ、また自主アブレにしてしまった。世間も祝日とはいえ、こまったもんだ。
 このままだと、亡母の一周忌に費やされるであろう多大なる坊主丸儲け(ああ菩提寺の和尚さんすみませんすみません。でもちょっとお経読むだけでアレはひどいよね、などと曹洞宗門徒らしからぬ生臭い瞋恚に囚われる狸)のための蓄えが、不可能になってしまうのではないか。
 などと言いつつ、母親の生存に費やす月々の自己負担分が不要になったし、ようやくこのあたり(大都市近郊)の時給が消費税増税や物価上昇に追いついてきたし、ゆえに割のいい夜勤に出ると去年の日勤の倍は稼げるし、去年よりはユルいんだけどな生活。

          ◇          ◇

 で、狸以外には気にされる方などほとんどいらっしゃらないと思うが、以前に記したカバヤ文庫『人造人間モンスター』と偕成社版少年少女世界の名作・高木彬光先生作『フランケンシュタイン』に関して、驚愕の新事実が判明いたしました。なんて、単に狸が知らなかっただけ。
 実は高木先生、カバヤ文庫が出る何年も前に、偕成社から『フランケンスタイン』いう児童書を出しておられたのですね。
 もちろんその書物の実物に当たってみないと断言できないけれど、おそらくカバヤ文庫版の無名作者が、その脚色をいただいて量的に圧縮しただけなのだろう。文章が貧しいのは、圧縮のためか、盗作の指摘を避けるためあえて劣化させたのか、あるいは単に文章力が劣っていたのか。
 いずれにせよ、あの感動超訳・原作卓袱台返し脚色が、高木先生によって初めてなされたことだけは、まちがいなさそうだ。
 うん、納得。

          ◇          ◇

 某投稿板に放流した初回、まだ感想が付かないことをいいことに、ちまちまちまちまちまちまちまちまと修正を繰り返していたのだが、やっと形になった気がする。
 他の板に流れる方も多い中、狸が未だにあそこを重宝しているのは、よほど大長編化しない限り一画面のまんまで積み上げていけるし、客観的な推敲がしやすい画面だし、なにより、いつなんどきでも何回でもちまちまちまちま修正できるからである。あくまで自己中に利用しているのですね。当節の回線や容量は昔と別物だから、パンクさせる心配もない。それと、あらゆるジャンルのショートから大河まで、人気も出来も問わず、とりあえず投稿・更新日時を基準にずらずらずらっと並ぶところがいい。なんといいますか、ぶちまけ型とでもいいますか、整理のユルい個人経営古本屋みたいでいいじゃないですか。足元に積まれたままの本の山を勝手に物色する、みたいな。


04月27日 月  茫茫

 自主じゃないアブレ日。わーい、連休だ。また徹夜しちゃったい。現在午後3時半。まあそのぶん後で寝るから、人生トントンなんだがな。
 朝までは頭がアッパー系だったが、今はさすがにダウナー系である。眠くないのにほわほわしている。脳味噌がブチ下僕の腹になったようだ。
 ともあれ悪い心地ではない。

          ◇          ◇

 ネパールで大地震が起こるはすぐ隣の市で少女が生き埋めにされるは市議選挙でまた共産党のおばちゃんに投票してしまうは、先週もなかなか厳しい世の中だったわけだが、一介の狸に地震は止められないし隣の市のクソ馬鹿野郎や虞犯少年少女や可哀想な被害者の少女にも会ったことがないし選挙演説で明確に方向性を表明しているのは阿倍さんちのお坊ちゃまと共産党のおばちゃんばかりであとはみんな当たり障りのないお愛想じみたことしか口にしないし、非力な狸には、なべていかんともしがたいのである。
 せめて自分が公の場に放流する物語にだけは、責任を持ちたいものである。
 おいおい、ここだって公の場だろう、という気がしないでもないが、たとえそこが公道であっても、路傍のウロンな狸穴などを覗きこんで不快な獣臭に辟易するのはあくまで狸穴を覗くヒトの宿命であるので、ああ砂の器が崩れてゆく、そう涙するしかないのである。

          ◇          ◇

 腹が減ったが食う気にならない。先週だけで2キロやせた。あなたもきっと痩せられる妄想ダイエット。効果はシャブなみです。


04月26日 日  眈眈

 自主アブレ日。
 現在夜の8時。
 これから最終チェック(いや前例を鑑みればどうせ今後何年もつっつき回すんだけども)して、夜中までには初回を放流できそうだ。
 ふう、ひとやすみしよ。

          ◇          ◇

 で、ひとやすみしながらMIXYとかそのほかで、皆さんのつぶやきを瞥見すると、そのつぶやきというシステムに直接参加していないロートル狸としては、しばしば「何に関してつぶやいてんだかちっとも解らない」という欲求不満に、激しく囚われる。
 そーゆー背後関係を、つぶやき同士が網のようにリンクすることによって共有しているのは解るのだが――引きこもり親爺には、共有しようがないもんなあ。
 爺いとしては、ネット界にHPと掲示板くらいしかなかった時代が、なんか懐かしかったりします。ああ、情報革命インターネットが一般世間にまで普及してからおおむね20年――もう二昔も前なんですねえ。
 狸は四昔前の高校時代あたりから、頭の中の思考=そこそこ組み上げられた文章、そんな習性が根付いてしまっているので、知らない方々の前でそれを口で話せと言われたら困ってしまうが、筆記せよとか打鍵せよとか言われたら、気軽にやっちゃうたちである。言い換えれば、うっかりつぶやくのは恐くてできない。瞬間瞬間の自分に、ちっとも自信がないからである。眈眈で動けない。押し倒すにも殺すにも、何年とか何百年かかる。優太君みたいなのである。まだとうぶん公式デビューできないけどな優太君。

          ◇          ◇

 コロリと話は変わって、近頃、どうもパソが妙な動きをする。
 まあ、今どきのほとんどのアプリケーションが常にどこかのサーバーと相談しながら動いているためだと思うが、それにしても、受信と送信のバランスが、昔と違いすぎるように感じる。
 もちろんひととおりの監視ソフトは入れているが、もしどこかのハッカーさんとかに中継器として使われているなら、一般世間のみなさん、ごめんなさいごめんなさい。ハッカーさんは、今すぐ「う」とか胸を押さえて安らかに昇天なさるのが吉。……って、いつもじゅうぶん『言い捨て』てるじゃん俺。なまねこなまねこ。
 ともあれ、狸が実は生まれついての大金持ちで、今も地中海に浮かぶ自家用大型ヨットでドンペリ傾けながらこれを打っているとか、中近東の某ハーレムに14歳以下の愛妾を69人囲っているとか、そうした真実を把握してしまっているイケナイ方がいらっしゃいましたら、くれぐれも口外しないでくださいね。


04月24日 金  健全

 やっぱり死にたくないので日雇いに出ました。でも土日あたりには、いつもの板に第1回を放流する予定です。
 デビューするロリ&ショタのデュオのうち、今回まだロリしかでていなかったりするのは、狸のことゆえ御愛敬。まあショタのほうは10年近く前に、ちみっこ役でちょっとだけ出てるんだけどな。
 しかし数十枚止まりの短編のはずだったのに、第1回だけで40枚近いってどうよ。
 まあ、いつものことなんですどね。終わるのは夏至やら冬至やら。

          ◇          ◇

 狸がまだ人間に化けおおせていた頃に加入し、その後、狸であることが発覚してクレジットカードが無効になると同時に追い出されたロシアの某有料サイトから、今でも定期的にメールが届く。お互いに未練な話ではあるが、どうで電子の網や波が勝手にやることだから仕方がない。
 で、おお世界は間違いなく健全化しつつあるのだなあ、と感心してしまうことに、昔からモデル全員18歳を謳うのみならず、しばしば年齢詐称の疑われる、たとえばちょっと前に話題にしたジーナ・ガーソンさんの公式デビュー時のようなアブナいビジュアルの方々も多数輩出していたそのサイトが、近頃は、年齢詐称という点では同じでも、方向が逆のモデルさんばかり紹介してくる。つまり、「ハ〜イ! わたしロージー。ハイスクールを卒業したばかりなの!」と明るく笑う熟女の写真などである。まるで40年前のエロ雑誌の片隅にちっこい広告を載せていた通販会社に高校生の狸が親の目を盗んで小遣いを送ると一週間後に送られてきた愕然写真、あるいは半世紀以上前に実家に同居していた今は亡き末の叔父がどこかの温泉場から持ち帰った、下穿きをはきわすれた三つ編みの中年女性がセーラー服をたくし上げている写真のようだ。
 いいことだ、と、偽善ではなく思う。
 秘すれば花、ということが、確かにあるのだ。秘すこともない花を秘して枯らすのと同程度に。
 
 想像力を失った愛は先のないリアルである。愛を失ったリアルが先を想えないように。


04月23日 木  病膏肓

 わーっはっは。
 まったくその気が無かった自主アブレどころか自主キャンセル、わずかばかりとはいえこっちで金はらって、30時間ちょい、モニターとキーボードに淫してしまいました。だってシャブ打っちゃったんだもん。あくまで自前の脳内麻薬ですけど。

 それにしてもこの歳で、完徹でラリれるとは思わなかった。
 いえね、まだ全然昔のペースなんぞ取り戻せず、あーでもないこーでもないと切ったり貼ったりしていると突然クライマックスが脳内映写されて小一時間も観賞してしまったりして、端から誰かが見ればそれは半白髪の狸がウスラボケっとモニターの前にたたずんでたまにヘラヘラ笑うかと思えばいきなりベソをかいたりしているだけに相違なく、今数えてみたら、まともに仕上がっている放流できそうな第1話のぶんはまだ原稿用紙換算わずか30枚ちょい、話のとっかかりさえ終わらない状態なのだけれど、とにかく今後のアレコレ(あくまで仮想世界)が末期の走馬燈のように頭ん中を去来して、なんでだか突然、達郎さんではなく及川ミッチーの『バラ色の人生』をかけまくってほろほろ涙を流したりして、生きるためには日雇いに出なければとゆーよーな正しい大人に戻れなかったのである。

     

 今日はもともとアブレだしもう朝の6時だからとりあえず寝ようと思うが、マジもうこのまま死ぬんじゃないですかね私。きっと取り殺されるのだ美紀ちゃんや優太に。おまいらどーしても際限なく遊びたいか。

 遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん
 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ


 ……まあね。
 ようやくふっきれたんですかね。
 お若い青年や妻子ある熟年は知らず、サミしい初老のチョンガー、とくに狸が化けているような小動物由来のヒトなどは、他人の死も身内の死も、精霊船に乗せて沖に流すのに手間がかかるのです。遠からず自分も流れる身ゆえか。なんぼ日本人の平均寿命が延びたって、狸が折り返し点を過ぎて久しいのは事実だ。
 でも、あー、なんかもうどうでもいいや。

 舞え舞え蝸牛 舞はぬものならば
 馬の子や牛の子に蹴ゑさせてん 踏破せてん
 真に美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん


04月21日 火  悪癖、あるいはぶつぶつひとりごと

 一年半の創作ブランクで長編の入り口がつかめず、筆ならし、もといキーならしのつもりでポチポチと溜めていたユルい短編を、おとついから全面改稿している。
 どうも無理がある無理があると違和感を募らせていた男性サブキャラの役回りを、中学生に成長した亜久津優太(あの茂の息子である)や、茂自身、さらに峰館の住民たちにあたりにやらせてしまおうと決めたのである。主人公は当初から中学生の少女、ならば相手が優太のほうが、当初めざしていた無垢あるいは退嬰への幻想と社会的現実が思春期っぽく混交する、ちょっと、いやかなり苦いんだけどもしまいにゃ明るい光の見える、いいグアイのジュブナイル・ファンタジーにできるのではないか。もともと同じ峰館市近辺の、近頃の話だし。
 いっそあのなんだかよくわからないものにも絡んでもらって――いやそれは早計か。あれを出すと、今回の現実部分がトンでしまうか。まあそこは、中盤までに決定すりゃ無問題。
 しかしそうなると、短編のつもりが、またそこそこの中編、下手すりゃ長編に伸びてしまうが――。

 などと思いついたとたん、入り口をつかみそこねていた長編のほうも、ありゃ、これって朝倉司書&曽根巡査、じゃねーや、その後の司書&刑事をサブキャラにすりゃ展開が一貫するんじゃねーの、などと、光っぽいものが見えたりもする。
 これって創造力の枯渇? キャラ依存?
 いやいやいや、そもそも狸の化ける幻灯の種板など、どれもこれもワンパな栄螺堂。装飾や規模は違えど似たような螺旋回廊で、ぐるぐる上ってると思えばいつのまにか下ったり、壁にこっそり抜け穴を開けたり、しまいにゃヤケクソで飛んだりしているだけなのである。まして衰狸のでんぐりがえり、拾える葉っぱで化けるしかないではないか。

 うむ。
 とりあえず、久々に、なんだかよくわからない方向にでんぐりがえり続けてみましょう。

     

 ちなみに打鍵中の、亜久津優太君と山福美紀ちゃん(姓は元々だが名前はおとつい変えました)がとたぱたする話は、これがテーマ曲です。
 昔から好きなんだこれが。いっぺん脳内幻灯のバックに流してみたかったんだ。


04月18日 土  一如

 てっきり、こないだ引退されて楽隠居の道を選んだとばかり思っていた愛川欽也さんが、実は以前から肺癌で、闘病を秘して死の間際まで仕事をされていたことを知り、狸としてはかなりコタえていたのだが――おお、三条美紀さんも9日に亡くなられていたのか。去年逝った狸の母親が、ファンだったのよなあ。

 狸が産まれる数年前、つまり母親が田舎の純情姉妹群のひとりだった頃、当時全盛期を迎えていた日本映画界に『母もの』と呼ばれる大人気シリーズがあり、故・三益愛子さんが一貫して薄幸の母親を演じ、三条美紀さんは、その何本かで薄幸の娘を演じた。映画の中身は、薄幸の母娘が、なんじゃやら絵に描いたような薄幸の運命に翻弄されまくったりして、でも最後には、絵に描いたような涙涙のハッピーエンド。シリーズの謳い文句は『三倍泣けます母もの映画』だったとか。
 狸が昔のフィルムセンターで1本だけ観た、『母燈台』だったか『母紅梅』だったか『母椿』だったか、もうタイトルも忘れてしまった三益・三条共演作は、正直、泣いていいんだか呆れていいんだが、反応に窮するようなシロモノであった。当時の映画職人さんたちがシャカリキで撮っているわけだから、カメラワークなどはさすがに上出来だったが、シナリオや演出が、生来クサいもの好きの狸でもちょっと辟易するほどクサかった記憶がある。中には佳作もあったそうなんですけどね。
 ともあれ昭和20年代中頃、東北の片田舎の大家族の大量姉妹は、みんなで観に行って、すなおに泣き合っていたわけである。
 まあいつの時代も、映画のヒット作の大半は、あくまでその時代の観客の『今』であり、長く愛で続けられるには、懐旧と化すしかないシロモノだ。狸の愛する旭兄ィの『渡り鳥シリーズ』や『旋風児シリーズ』だって、今観れば大半どーしよーもない駄菓子であり、紛れもなく時代を超える名作と言い切れるのは、『赤い夕日の渡り鳥』と『大草原の渡り鳥』くらいか。
 その小林旭大兄も、今や御年76。しかしあの方は、いまだ現役バリバリのステージ活動を展開していらっしゃる。兄ィと若き日に事実婚状態だったという浅丘ルリ子さんなどは、昔も今も一貫してスリムそのものだからいかにも長持ちしそうだが、でっぷり肥えてしまったにもかかわらず長持ちしている兄ィは、まさに中高年メタボ野郎の星である。くれぐれも狸より先に逝かないでほしいものである。

 ……いや待て。
 そう言や、前回話題にした御近所の車椅子老人も、痩身ながら旭兄ィと同年配だよな。
 ううむ、生死一如、後先にこだわってはいけないのだな。
 でも悼まれるものは悼まれる。
 確かなのは、自分で自分を悼むことはできない、それだけだ。


04月16日 木  年進生歩

 実に久々の快晴+アブレ。当然のごとく徘徊。
 とはいえ、あまりに久々の徘徊、あてどなく長歩きする気力がない。まずは電車に乗り、かねて行きたいと思っていた『荒川ふるさと文化館』をめざすことにする。噂によると、昭和41年の裏路地を再現した一角が、小規模ながら館内にあるらしい。

          ◇          ◇

 狸穴を出てまもなく、ご近所の道筋でたまに出会う、車椅子の老人と挨拶を交わす。
 初めて出会ったのは数年前だったろうか。アウトドア仕様の電動車椅子(屋根などはないが、がっちりシャーシのでかい奴)を駈り、道行く人々に挨拶しながらご町内を散歩、いや散策していた。その不自由な動作や、顔面筋肉の片側弛緩から察するに、脳梗塞あるいは脳溢血による半身麻痺と思われ、狸よりも二回りは年長らしいから、おそらく余生を不自由なまま、しかしけして暗くはなく過ごすのだろうと推察していたのだが――。
 なななんと、狸はそーゆー個人用の乗り物を、本日初めて見ました。電動ではなく人力、それも手動ではなく脚動の車椅子。つまり、これまで乗っていた電動物件の、駆動部分を自転車にしたような車椅子。たぶん、腰は立たないが脚は動かせる方むけの特別仕様だろう。それをギコギコとこぎながら、いつものように、あまり回らない舌で「こんにちは〜」。
 ……もう70代も後半だろうに、数年がかりで、そこまでリハビリを進めたのである。正直ビビった。爺い、すげえ。
 とまあ、そんな老人パワーに感心しつつも、惰弱な中年狸がめざすのは、退嬰懐古の裏路地風景である。

 南千住駅から千住大橋方向にちょっと歩いて、南千住図書館と同じ建物内の、『荒川ふるさと文化館』へ。
 その正体は、けして昨今の昭和レトロ狙いではなく、それこそ縄文時代から昭和に至る荒川区界隈の歴史資料を集めた小規模博物施設であった。平日の昼間ゆえ、狸一匹の完全貸切状態。館内飲食禁止とは知りつつ、誰の目もないのをいいことに、荒川の歴史の短編ドキュメントDVD再生コーナーで、それ自体骨董化しつつあるちっこい平面ブラウン管モニターを観賞しながら、持参のお握りと麦茶を喫食。貧しい小動物ゆえご勘弁。いちおう大人100円の入場料を払ったんだから、それくらい、いいよね。
 さて、噂に聞いた、昭和裏路地再現の一角は――。
 ほんとうにちょっとした路地の一角にすぎないのだけれど、なかなか徹底した再現ぶりである。周囲の照明の暗さや、どこぞから微かに聞こえてくる人々の生活音も手伝って、実際、当時の下町の路地に紛れ込んだようだ。屋内まで覗ける家は一軒きりだが、いかにも荒川区らしいちっぽけな作業場付き住宅の六畳一間、無人の卓袱台には家族分の慎ましい晩餉(日本名物の完璧な食品サンプル)が並び、奥の14インチ白黒テレビには当時のニュースっぽい映像が流れ、なんじゃやら大海原で謎の無人帆船マリー・セレスト号に遭遇したような、一種の怯えさえ感じた。リアルな裏路地の生活臭から人の姿だけをとっぱらってしまうと、ほとんどトワイライト・ゾーンなのである。でもまあ繰り返し細部まで観賞するうち、脳味噌の奥からこみあげる懐旧に溺れ、そのままそこに棲み着きたくなってしまったのだけれど。
 少々残念だったのは、室内に上がりこめないことと、白黒テレビの筐体だけが当時物で、モニター部分はやっぱり平面ブラウン管(あるいは液晶か)に改造されていたことくらいか。特に後者、未だに球面ブラウン管テレビを愛用している狸にとっては、いかにも画竜点睛であった。
 とはいえ、妙な疑似昭和レトロ商業施設とは、物件の志がさすがに違う。また、以前に見た上野の下町風俗資料館の再現コーナーよりも、遙かにインパクトがある。あそこは、この物件よりもだいぶ大掛かりで上がりこめる部屋も多いが、過去の町並みを総花的な再現で圧縮してしまっており、空間としての現実感はかえって希薄だった。

 帰途、何年か前の徘徊で見かけたちっぽけで安い鰻屋を探そうと、三ノ輪方面に歩いてみたが、裏路地好きが祟って道に迷い、鶯谷駅に出てしまった。まあいいや。金ないし。

          ◇          ◇

 夜、狸穴の管理人さんに、みそ落花生(安い総菜ではなく、けっこう高価なツマミ類のほう)のお裾分けをいただく。去年の大晦日の缶ビールに続き、番猫たちがらみのお礼らしい。特にミケ女王様、野良時代から人に慣れず険しい顔つきをしていたのが、近頃めっきり柔和な表情になったのは、狸の猫っかわいがりによる感化ではないかと思われているようだ。
 いやあ、ナマモノの力ではないでしょうか。内緒だけど。
 それに、ミケ女王様もめっきりお歳を召され、心が丸くなってきたのではないか。あいかわらず一切の愛撫を激しく拒否なさるが、こっそり尻尾の先をツンツンするくらいなら、爪も立てなくなったしな。


04月12日 日  ペンペンしてくれ

 おう、どうやら精神疾患ではなく、「幸せそうな親子を見て、うらやましくなった」から突進したらしい。他人の幸福は自分の不幸、他人の不幸は自分の幸福か。「いや、自分が不幸だから他人にも不幸になってほしかったのだ」と反論するかもしれないが、どのみち他人の不幸によって自分の幸福を願うことに変わりはない。イジメである。
 それにしても、40過ぎて、これだもんなあ。中年犯罪の厳罰化を望む声が巷に湧き上がらないのが、つくづく不思議である。

          ◇          ◇

 県議選、やっぱり共産党の熟女に投票した。ちょっと恐そうな元・女教師だが、恐いくらいでないと、阿倍さんちのイケイケお坊ちゃまがたをペンペンできまい。


04月11日 土  反撃

 このところ、すっかり精神が摩耗してしまい、労働現場において稀に理不尽な扱いなどがあっても「あ〜、はいは〜い」とすなおに従い、大して反抗心をいだかない文字どおりの奴隷と化してしまっている狸だが、日銭仕事を長年やっていると、果敢に反撃を試みる猛者を老若に関わらず何度か見ており、大したもんだと感心する。
 もっともそれが同じ派遣会社のメンバーだったりすると、会社ごと契約を切られる恐れがあるので、「うわこの馬鹿すなおにハイハイ言ってりゃいいんだよ」などと真逆の瞋恚を抱いてしまうのは、小動物ゆえ御愛敬。
 しかしまあ原則、理不尽な扱いを受けたら、その理不尽な相手そのものに反撃するのが、人としても狸としても真っ当な行為である。

          ◇          ◇

 
10日午前11時45分ごろ、北海道函館市富岡町の保育園「ピッコロ子ども倶楽部富岡園」前の歩道上で、幼児らが車にはねられたと110番があった。道警函館中央署によると、1歳男児と3歳女児、父親(23)の3人が軽乗用車にはねられ、病院に運ばれた。いずれも意識はあるが、男児は脳振とうを起こし危険な状態という。他2人は軽傷。
 同署は、車を運転していた同市の男(43)の身柄を確保。殺人未遂容疑で事情を聴いている。男は「近所の人に嫌がらせをされ、いらいらしていた。誰でもいいからひいてやろうと思った」と供述しているという。
 同署によると、車は歩道に乗り上げ、電柱をよけながら、ブレーキをかけずに3人をはねた。男はこの後、車を降り、父親らに暴行して逃走。現場から約600メートルの地点で取り押さえられた。
【時事通信 4月10日(金)15時3分配信】


 ……また、無差別加害者の常套句である「誰でもいいから」が出ている。大嘘ですね。反撃すると負ける相手の代わりに、非力な自分でも容易に勝てる相手を選んで攻撃しているだけで、要は陰湿なイジメと同じである。他人の不幸は自分の幸福。まして無抵抗の幼児を攻撃するなど、それこそ生きたまま焼殺すべき諸行である。そうしてやれば来世には、ダンゴムシ程度の無害なイキモノに昇格できるかもしれない。
 まてよ、加害者が精神疾患の可能性もあるか。「近所の人に嫌がらせをされ」が、どの程度事実でどの程度妄想なのか定かではないが、ここまで野放しになっていたということは、実はご近所でも関わりを避けるレベルに達していたのではないか。

 そもそも、ご近所って不思議ですよね。幼時から現在に至るまで、一族内に統合失調症患者が複数いた狸としては。
 無害な精神疾患者がただウロンであるというだけで、その家族や、ときにはお巡りさんにまで気軽にご注進に及んでくれるのに、マジヤバ級だとかえって関わりたがらない。そして、そのマジヤバっぷりを見かねて誰かが通報したとしても、お巡りさんのほうが、なぜか事をうやむやに済ませたがる。たまに奇声を発する程度だと、かえって根掘り葉掘り心配してくれるのにね。

          ◇          ◇

 なにはともあれ、理不尽には合理で対したい狸である。一見卑屈な「あ〜、はいは〜い」だって、小動物なりに、理詰めで相手を見定めているのである。相手が常人であるかぎり、わざわざ喧嘩なんてしなくたって、「ちょっとワタシには無理なんでサヨナラ」とか言えば、「はいサヨナラ」か「まあまあ、そう言わんと」、そのどっちかですもんね。
 しかし相手があんましアレだったら――黙って逃げる。
 狸の逃げ足を侮ってはいけない。逃げるためなら年収半減なんぞ屁でもない。三分の一だってへっちゃらだ。我が身かわいやほーやれほ。


04月08日 水  厳寒弥生

 昨日、力いっぱい天を呪ったせいか、今日は、力いっぱいバチを当てられてしまった。本日の労働現場の、午後の気温――よ、4度。冷蔵倉庫ではない。外気直通のロジである。
 まあ陰暦ならばまだ弥生、たまに如月に戻っても不思議はないのだろうが、できれば衣更着でなく、気更来に戻ってほしいものである。
 しかし、なぜか風邪のほうは、明らかに快方に向かっている。
 ミケ女王様も、多少かすれぎみながら「にゃあにゃあ」と自己主張しておられた。
 うむ。
 いつの季節も、女王様と奴隷は、きっちりセットなのであるなあ。

 ちなみにブチは、近頃下僕から脱したらしく、飄々と生きております。


04月07日 火  三寒四温

 という言葉は、実は冬の天候を表すらしいのである。狸は子供の頃から、てっきり今の時期のような、春先の気温ムチャクチャ乱高下のことだと思っていた。そもそも生まれ育った昔の北国だと、『冬』に外気が『温』になるという感覚がない。いちんちでも『温』があれば、気分はもう春だ。
 そんな育ちの狸であるから、コンチクショーいいいかげんにしろ春だか冬だかはっきりさせやがれクソバカヤロウなこの時期、てきめんに風邪をひく。けほけほじゅるじゅる状態のまま、日によって大汗かいたり震え上がったり、コンチクショーいいいかげんにしやがれこのクソバカヤロウと、天を呪い続けるしかないのである。
 でもね。
 ここんとこミケ女王様も、似たような状態だったりするのね。
 もっとも狸のような見苦しいけほけほじゅるじゅるではなく、くしゅんくしゅんすんすん、そんな感じか。「にゃあ」と発音できずに、なんじゃやらスカスカシャーシャーとナマモノを要求されるお姿は、なかなか可憐である。

 他人、じゃねーや、他猫の不幸を喜んではいけないのだが、同じ小動物の身として、このシンクロは、ちょっと嬉しい。


04月04日 土  あんまりいそぐとこっつんこ

 山道で、うっかり出会い頭に熊と対峙してしまった場合、熊よりでかくない狸は、たとえ相手が空腹でなくとも顔半分持ってかれたりする。
 その点、バニラダヌキなどはとことん小心だから、熊の出歩きそうな藪には初めから近寄らない。それは山でも街でも同じである。街には藪がないが、熊程度の知能のイキモノは、けっこううろついている。

 また、うっかり熱帯雨林でグンタイアリの行進に遭遇した場合、グンタイアリは盲目なので、踵を返し遁走すれば、たいがい無事で済む。しかし、はっと気づいたときにはもう四方八方ひゃくまん匹のグンタイアリに取り巻かれていたりする事態も考えられ、なにせ相手は盲目だから、踏みつぶしても踏みつぶしても次々と脚によじ登ってきたりして、しまいにゃ骨までしゃぶられてしまう。ああ恐怖の黒い絨毯マラブンタ――というのはあくまで秘境冒険エンタメにおけるフィクションだが、とにかく全身チクチク噛まれまくるので、とてつもなく鬱陶しい。
 ここで、まともな教育を受けていない狸だと、思わず自分がグンタイアリに化けてしまったりする。噛まれないために、仲間のふりをするわけである。で、ああ噛まれなくなったよかったよかった、ととりあえず安心するわけだが、なにせ周囲はひゃくまん匹のグンタイアリ、元の狸に戻るきっかけがつかめず、心ならずもグンタイアリのまんまで生涯を終えたりもする。その点バニラダヌキは、親や年長の同族に、グンタイアリの習性――グンタイアリは、ふつうのアリさんと違ってアングラを好まず、地べたしか行進しない――を教わっているので、あわてて狸穴を穿ち、地中深く潜む。まあ地中に潜んでいるうちに這い出すきっかけを失い、しばしばミイラ化したりしてしまうのは、小動物ゆえ御愛敬。

 さて、街で、グンタイアリのような盲目のイキモノの大群が行進し始めた場合、バニラダヌキのようなイキモノは巣穴に引き籠もるわけだが、まともな教育を受けていない狸のようなイキモノだと――。
 ともあれ、今回の選挙も、また共産党の熟女に投票するしかないっぽい今日この頃、困ってしまってきゅんきゅんきゅきゅん。


04月01日 水  フランケンシュタインの快物

 もう何年も前になるが、岡山県立図書館さんの所蔵カバヤ文庫公開ページについて記したとき、狸は、長じて読んだメアリ・シェリー作のオリジナル『フランケンシュタイン』と、幼時から愛着のあったカバヤ文庫『人造人間モンスター』(『フランケンシュタイン』を子供向けにリライトしたもの)を、以下のように比較した。

 
さて、長じて狸が中学時代、オリジナルのメアリ・シェリー作文庫本を手にした時は、ありゃ、あのお子様向けカバヤ文庫もあんがい原作に忠実だったのだなあ、などと感心して読み進め、しかしクライマックス直前、驚愕して頭を抱えてしまった。
 若きフランケンシュタイン博士によって、愛に見放された非業の生を与えられてしまった哲学的ニヒリストの人造モンスターは、復讐のため、博士の愛する存在を長幼問わず次々と殺戮してゆく。読者の誰もが「まあフランケンシュタイン博士などという惰弱な若造は死んでも仕方がないが、この娘だけは死んで欲しくないなあ」と切に願うであろうヒロインのエリザベート嬢(博士の元義妹にして現在は妻・つまり『妹萌え』キャラ)さえ、クライマックスの北極海に至る直前、虚しく屠られてしまう。そして結局自分(モンスター)ひとりを残し、関係者皆殺しなのである。つまり原作は、ひたすら孤独な自我が己の創造者にも孤独を強要してゆき、しまいにゃ完璧な孤独へと閉塞してしまうという、ほとんど一片の救いもない、鬱系哲学的大悲劇だったのですね。
 さて、カバヤ文庫のほうは、筋立ては大半そんな原作に沿って進むが――クライマックスの北極海シーン、愛する夫をも醜いモンスターをも等しく慈しもうとするエリザべートの天然愛(つまり、死んでない)に、ついに心を打たれたモンスターは、「産みっぱなしの馬鹿親野郎はともかく、この天然娘だけは殺せない」と改心し、博士とエリザベートを残して、萌えキャラの思い出を胸にただひとり氷原に去って行くという、まことにカタルシスに富んだ劇的脚色だったのである。で、原作のあまりの根暗っぷりに打ちのめされてしまった思春期の狸は、思わず追憶のカバヤ文庫に救いを求めようとしたが、すでに仲間内からも古本屋からも、そんな『駄菓子本』は消えてしまっていた。
 爾来ウン10年、ついに実物を再読するチャンスはなかったのだが――はい、本日、タダでデータ収集させていただきました。あうあう、やっぱしエリザベートさん、いい娘さんだよういい人だよう。こーゆーいい人のひとりくらいは、生き残らなきゃウソだよう。モンスターの奴も、それでこそ悲劇の大怪物だよう。やっぱり物語ってもんは、暗くて救いがなけりゃリアルで哲学的ってもんじゃないだろう、食うに困らないええとこのお嬢様よう(ご、ごめんなさい、メアリ・シェリーの若奥様)。
 まあカバヤ文庫という存在は、そうした俗な脚色が多く(なにせ原作者や脚色者の名前すら、ほとんど記載がないのである)、当然出版文化の中では『駄菓子』『悪書』扱いなのだけれど、当時の無名の学生さんやら学校の先生やらがバイトで安くリライトしていたという変形古典文学たちは、やはり地道な生活者の『生』を、肯定するための物語だったのではないか。


 以上、昔の雑想よりコピペ。
 つまり昭和20年代末期において、無名の本邦文筆関係者が、名高い舶来大鬱古典ホラーに対していかに超感動な脚色を施してくれたか――そんな、狸らしいアマアマ解釈である。

 で、実は先日、例の日雇い帰りの古本屋で、いにしえの偕成社版『少年少女世界の名作』の内、狸にとっては長く未読物件だった、高木彬光先生による『フランケンシュタイン』を見つけた。カバーはボロボロだが500円ポッキリ。美本だったら、神保町なら2000円くらいか。ためしに今、AMAZONで検索してみたら、一万円近い値付けをしている業者が複数あって驚愕した。サブカル界の昭和懐古は、もはや既知外の域に達しておりますね。
 閑話休題。
 古書価格など問題にしているバヤイではないのである。
 なんとまあ、偕成社版の高木彬光作(えーと、念のため、『訳』と『作』を間違えたのではありません。偕成社版『少年少女世界の名作』の多くは、カバヤ文庫のみならず他の多くの類似企画同様、原作を素材にした創作物ですので)『フランケンシュタイン』は、約10年前に刷られたカバヤ文庫版の作者不明『人造人間モンスター』と、ほぼ同じ内容だったのである。
 この2作、全文の分量や個々の文章表現は違う(当然のごとく後者のほうが芳醇だ)が、ストーリー展開におけるシーン構成は、ほぼ同じ。セリフの言い回しは違うが、会話の流れはほぼ同じ。ラストにおける感動の原作無視は、まったく同趣向。
 と、ゆーことは ―― 乱歩先生の推挽によって華々しく文壇デビューされたように見える高木先生も、その前後、下積みとしてカバヤ文庫のバイト等、種々の無記名仕事を片っ端から受けていらしたのではないか。それが10年後には、著者名自体が児童書のウリになるほど出世されていた、と。
 もちろん、単に偕成社の企画に名前を貸した、あるいは編集者に渡された下訳(下作?)に手を入れた、それともカバヤ文庫の感動超訳を高木先生自身が読んでおられて参考にした――それらの可能性もないではない。大忙しの乱歩大先輩に代わって後輩の横溝先生が執筆し乱歩作として発表する、そんなユルい時代のことである。

 いずれにせよ、狸世代の若い読者、もとい昔は若かった読者の中には、カバヤ文庫版『人造人間モンスター』と偕成社版『フランケンシュタイン』をリアルタイムで順番に読んで、面倒くさい原作のほうは大人になっても手を出さず、結果、『フランケンシュタイン』は本来ハッピーエンドの感動ホラーであると信じこんでいる方なども、いらっしゃるのではないか。
 いらっしゃるとしたら、狸は心より祝福させていただきます。
 実は狸も、そうありたかった。
 虚実皮膜の世界では、義経が成吉思汗になるのも現実以上の真実ですよね、彼岸の高木先生。

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 えーと、今頃気づいたんですが、今日の話題は、四月馬鹿のネタではありません。