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12月31日 木  最後の雑想

 おお、もう終わりだ。数時間後には、この国のすべての今年が終わってしまう。
 まあ零時零分になると同時に、きっちり来年を始めるらしいんだけどな。
 しかし、なんか『時間』って不思議ですよね。ある一瞬をもって次の日やら次の年やらになってしまう。事実上、境目がぜんぜんない。コンマコンマコンマコンマ1秒の躊躇すらない。境目がないのに、その境目を飛び越すのは、なんだかおかしいではないか。なにかの間違いなのではないか。時計の目盛りだって、僅かながらハバがあるぞ。全人類が、なにか勘違いしているだけなのではないか。
 まあ全人類が仲良く同じ勘違いをできることなど滅多にないから、いいんですけどね。

          ◇          ◇

 昨日は夜11時まで働いてしまった。なんて、実は働き始めたのが、シフトの都合で午後の1時なんですけどね。たった一時間の残業なのであった。しかし確か昨年は、同じ玩具ロジで夕刻前に年内すべての作業が終わってしまった記憶があるから、やはり商いは増えているらしい。

 東京湾岸に狸穴を掘ったがゆえの、日雇いによる生計維持。これが故郷だったりしたら、日雇いの賃仕事など、まず存在しないだろう。

          ◇          ◇

 12時間眠ったら、もう日没が近かった。
 年越し蕎麦と、チョンガー用のおせちセットは無事に買えた。餅も鶏肉も三つ葉も買った。
 大晦日に至って、ようやくニベアとオロナイン軟膏も買った。

 例年の手のヒビワレや足の脛の貨幣状湿疹、今年は昨日までダイソーのアロエクリームでごまかしていた。ほとんど効かないのはとっくにわかっているのに、たかだか何百円が、今年は妙にもったいなく感じられたのである。そのくせ光学玩具には、平気で何千円も費やしているんだよなあ。年々歳々、狸の知能は、身体末端部の皮脂腺とともに衰えているのである。
 そのくせ、あいかわらず顔だけは、ギトギトとアブラ中年のままである。いや腹のアブラも、依然として過剰にぷよぷよしている。なぜだ。間尺に合わないではないか。実は体内に複数のアブラ組合があり、覇を競っているのだろうか。『顔のアブラ組合』と『胴回り皮下脂肪組合』と『内臓脂肪組合』が、「昔からこの狸の体内のアブラは、我々三団体が仕切っているのだ。伝統的にそーゆー慣例になっているのだ。この寒空、末端の弱小組合まで回すアブラなどない」とか、驕り高ぶっているのだろうか。

 ともあれ、ミケ女王様とブチ下僕は、寒波に向けて今年も丸々とアブラを蓄えている。すっかり後期高齢猫となったブチ下僕の目脂や涎が気になるが、このアブラなら冬は無事に越せるだろう。心配なのは夏の暑さだなあ。

          ◇          ◇

 ところで今年の紅白に、きゃりーぱみゅぱみゅが出ないのはなぜか。NHKの正気を疑う。視聴者をないがしろにしている。驕り高ぶっているのではないか。全世界の狸が泣いているぞ。きゃりーを出せ。これは命令だ。
 ……などと高飛車に出つつ、今どき『怪奇大作戦』なんて作ってくれるの、あそこだけなんですけどね。

          ◇          ◇

 ともあれ、明日も明後日も休みである。
 今日は近場しかうろつかなかったので、正月は、上野や浅草あたりに、晴れ着見物に行こうか。それとも、誰もうろついてなさそうな郊外がいいか。
 まだ紅白も始まっていないが、それでは皆様、来年も、どうか良いお年を。


12月29日 火  ネットのない日にゃもどれない

 自分へのクリスマスプレゼント――もうとっくに日が過ぎているし、届くのは来年なので、自分へのお年玉か。
 ともあれ、イーベイで、ビューマスター(狸が幼時からコレクションしている、立体写真玩具ですね)のフィルム・リールを落札してしまった。正確にはビューマスターではなく、社会主義政権時代のチェコスロバキア、メオプタ社で製造されていたコピー商品である。推定1960〜70年代、鉄のカーテンの下で子供たち(いや欧米ではけっこう大人も)が覗いて楽しんでいた、チェコの観光地の立体写真が13リール。1リールに7組のステレオ・ペアが配されているので、光景の数は90を越す。注目すべきは、その中の1リール(つまり7光景)が、アマチュア作品らしいのである。つまり当時、同じメオプタ社で撮影用カメラのデッド・コピーも生産されており、自由主義諸国同様、共産国家の一般市民も使用できたのだ。もっとも、よほど恵まれた階級じゃないと、あんな特殊なシロモノは駆使できなかっただろうが。それだけに、あの頃のあっちの恵まれた方々がどんなところでどう遊んでいたか、覗き見するのが楽しみだ。
 ちなみに、さすがに鉄のカーテンの向こうではコダクローム(外式リバーサル・フィルム)が生産されていないので、商品説明によれば、すべてのリールに退色があるらしい。まあ自由主義諸国のビューマスターだって、資本主義だからこそコストの関係で早くにコダクロームから安価なネガポジフィルムに切り替わってしまっており、以降に生産されたリールは、10年もたてばオレンジ色に退色、早い話が真っ赤っ赤である。
 その商品の見本写真は、少なくとも真っ赤っ赤ではなかったから、1960〜70年代のチェコでは、当時の日本のフジクロームやサクラクローム、あるいはアメリカのエクタクロームや西ドイツのアグファクロームと同程度の性能を持つ内式リバーサル・フィルムが、民需用に出回っていたことになる。そこいらのおっちゃんや洟垂れ小僧が、手軽に遊べたかどうかはアヤしいが。
 ともあれ、国際配送料を含めれば5千円を超す光学玩具類が、一月中には狸穴に届くはずである。まあいいやな。たまには、こんくらいの贅沢。死ぬまで覗けるわけだしな。

          ◇          ◇

 木馬物件、ようやく先月の続きが、それなりの量に達した。中身も自分ではしつこく磨いたつもりである。でもまあ前回のように、皆様のご感想しだいで(自分の変心によっても)、さらにしつこく磨きなおす可能性はあろう。
 いずれにせよ、いよいよ次回は最終回、できれば来年1月中に完結させたいものである。

          ◇          ◇

 もーまったく歳末向けでも新年向けでもない気がするが、YOUTUBEで、またまたこんな貴重な映像を見つけてしまった。
 ここでもずいぶん昔に何度か紹介した、狸が二十代前半の頃に活躍された昭和の歌姫、大友裕子さんの歌唱である。

     

 ……たったひとりでもいいから、現在、こーゆー歌を作ってこんなふうに歌える方が、いらしゃいませんかねえ。


12月25日 金  ホワイト・クリスマス

 何年か前に、山下達郎さんが自前の訳詞でその歌のCDを出したとき、『初の日本語訳』とかいう広告を見て、首を傾げたことがある。
 それ以前にも、元歌を作詞・作曲したアーヴィング・バーリン氏が他国語による翻訳録音を禁じている、そんな話をしばしば耳にして、何度も首を傾げていた。狸は幼時、つまり半世紀も前に、水原弘さんが歌う日本語の『ホワイト・クリスマス』を、ラジオで聴いた記憶が確かにあったからである。氏が亡くなった後も何度か同じ歌唱を聴いたから、生歌ではなくレコードのはずだ。
 現在も著作権を軽視しがちな一部の国とは違い、日本では、昔から著作権にけっこう喧しかった。まあ昭和戦前あたりまでだと、海外物のパクリには甘かったわけだが、負けて久しい1960年代、アメリカの有名なポピュラーソングを日本の大手レコード会社が無断で翻訳し、大量販売できるはずがない。

 で、先般、ありがたいことに、その水原弘さんの『ホワイト・クリスマス』を、いつものYOUTUBEで、しっかり発掘できた。
 残念ながら音質は劣悪である。水原さんのややハスキーな甘い低音が、なんだかカサカサのしわがれ声のように聞こえる。昔、狸が聴いたときは、安物ラジオの音でも、もうちょっと潤いがあったように思う。しかし、放流していただけただけで、御の字なのである。

     

 こうした勝手な放流も立派な著作権侵害だろう、とゆーよーな正しいご意見も多々あろうが、狸としては、現在金銭で購う術のない過去のこうした稀少な音源は、すでに公共の歴史的遺産だと思うのだが、どうか。


12月24日 木  雑想

 アブレ日。
 明日もアブレである。サボリとも言う。
 まあいいやな、年末年始だって3連休ポッキリの予定だし。

 例によって夜明けまでポコポコし(まあ大半の時間は「あーでもない」「こーでもない」とこねくり回していただけだが)、午後遅く起きだして狸穴を出たものの、いつ降り出すかわからない寒空にめげて、買い物だけ済ませて穴に戻る。
 狸はこのところ何年か、駅ビルのちょっと高級なスーパーで年末年始だけ扱う『ロブスター・テルミドール』とやらを、クリスマス・イブの特別ディナーとして奮発しているわけだが、今年はロブスターではなく、さらに高価な伊勢海老に代わっていた。価格も3000円近い。おまけに、まだ処分特価になっていないので、とても購えない。
 まあいいやな、買えない年の恒例代替ディナー、『つくば鶏』で上等上等。

          ◇          ◇

 こないだケーブルで録画した『怪奇大作戦 ミステリー・ファイル』全四作イッキ放送ぶんを、ぶっ通しで観賞。
 おととしNHKでやってたんだそうですね。少年時代、元祖の昭和版『怪奇大作戦』にずっぷしだった狸なのに、8年前の『セカンド・ファイル』に続いてまた復活したとは、ちっとも知らなかった。こーゆー面白い企画は、もっと広報を徹底していただきたいものである。今回は、たまたま別の予約中に気がついたからいいが、間が悪ければ死ぬまで気がつかなかった。
 第一話『血の玉』と第二話『地を這う女王』、昭和版のトンデモ・テイストと人情味を巧みに現代化しており、ありがたやありがたや。
 しかし第三話の『闇に蠢く美少女』と第四話『深淵を覗く者』、尻すぼみに完成度が落ちた。
 特に第三話、七歳の幼女のクローンが大挙してなんかいろいろ怪奇事件や悲劇的運命を繰り広げるという実に狸好みの設定なのに、シナリオが根本的に誤っている。こーすりゃ劇的だろう、こんな展開なら感動必至だろう、ほらほらクライマックスですよここで泣きなさい――そんな感じで段取りを進めるために、個々のキャラが、不自然なゲームの駒でしかなくなっている。頑張ってる役者さんたちが気の毒だ。
 第四話は、昭和版の『かまいたち』を下敷きにした無差別快楽殺人テーマの問題作にして野心作、そんな趣向だったが、人間というものの底深さ複雑さを見誤っている。一般世間も耽美も屈折も、そんなに薄っぺらなものではない。ラストの思わせぶりなカメラ目線(つまり視聴者を見つめて)のキメ台詞「……おまえなのか」には、思わず「……違いますよ」などと、つぶやき返してしまった。比べれば昭和版『かまいたち』、トンデモのようでいて、ほんとに大人の作品だったよなあ。
 ともあれ打率5割なら、シリーズとして文句はない。『セカンド・ファイル』も、そんなもんだった。元祖昭和版だって、狸的には打率7割くらいだったしな。『怪奇大作戦』、死ぬまでいじくり続けてほしいものである。

          ◇          ◇

 狸穴からさほど遠くない住宅地一帯で、夜間の落書き被害が多発している。ちょっとやそっとの落書きではない。何軒もの一戸建て住宅の玄関から外壁まで、一面に塗料スプレーでアホだのバカだのでかでかと描きまくるという、悪質な無差別愉快犯である。以前からちょこちょこと被害はあったらしく、業を煮やして監視カメラを取り付けた家では、その監視カメラを壊されたそうだ。
 まあ、馬鹿の頭が煮えがちな環境的要素はあるかもしれない。いわゆる勝ち組の住む一戸建てと、負け組が蠢くビンボなアパートが、とりとめもなく混在している。また隣駅近辺が比較的整然とした文教地区なのに対し、最寄り駅近辺は飲み屋やパチンコ屋でごちゃごちゃだから、その境界付近に、なにがなし精神的な齟齬が生じるのは避けられない。何年か前に、近所のガラス窓が夜ごと投石で割りまくられ、狸の部屋の窓も被害にあった。あっちこっちのマンションで、エレベーターに排泄物を塗りたくられる事件などもあった。ちなみに前者は老齢男性、後者は中年女性の犯行だった。
 今回の落書きは、一見、公共地下道などありがちな虞犯少年の悪戯にも似ているが、若者の犯行でないことを祈りたい。そうだとすると、この街は年齢性別を問わず愉快犯を産みがちな土地柄に思われ、クリスマス時期なのにいささか滅入ってしまう。まあ、何千人何万人にひとりの馬鹿を、そう憂うこともなかろうが。

 それにつけても、心のどこかでちょっと羨ましかったりするのは、それらの馬鹿の精神構造である。縁もゆかりもない人間に迷惑をかければ快感を得られる、そーゆー驕り高ぶった精神構造になれたら、人生、いや狸生がどんなに楽だろう。
 一介の小動物に過ぎない狸としては、とてもそこまで自分の存在を過大視できない。


12月19日 土  あどけなくなくもないかもしれない話

 自主アブレ日。例によって夜明けまでポコポコし、午後遅く起きだして、天気もいいので隣駅の高層物件によじ登る。つまり先週の土曜と同じである。あのとき地上150メートルから富士を拝めなかったのが、それほど悔しかったのですね。一見、ウスラボケっとなーんも考えていないようでいて、狸は実は極度の粘着質なのである。
 で――ぴんぽ〜〜ん♪
 冷たい風が吹く本日の関東平野、晴天の冬空は、まあちょっと霞んではいるものの、スカイツリーはもとより筑波奥多摩丹沢富士山、そして海の向こうの房総半島沿岸や横浜の観覧車まで、みごとにお見通しなのであった。ふう、すっきりした。
 調子に乗って、帰りに江戸川沿いをぐるりと迂回したら、さすがに寒い。もう歳末なんですねえ。
 北方亜種の狸でも、歳を重ねるごとに寒さに弱くなる。ならば暑さに強くなっているかというと、もーまったく弱いまんまなわけで、間尺に合わない。早いとこ、暑さを感知できずに熱中症で旅立てるような、枯れた境地に達したいものである。

          ◇          ◇

 打鍵中の木馬物件は、年内にいっぺん更新できそうだが、その次の最終回は、年越し確定である。それが終わったら、何年も放置中の『ゆうこちゃんと星ねこさん』、その最終章を、なんとか紡ぎ継いでみたいと思う。
 つまり今のところ、来年も、純アマチュア作品しか打鍵する気がないわけである。

 まあ、いいじゃないですか。
 そもそも中学時代に学級ノートを悪用して勝手に連載を始めた学園怪奇小説だって、読んでくれるのはせいぜい数人の同級生だけだったのだし、高校時代にせっせこせっせこ書き継いでいた学園アクションに至っては、3冊の大学ノートをちまちまちまちまシャーペンの文字で埋めただけで、自分以外の読者は皆無だったのである。高校文芸部の同人誌で活字化されたのは、オゼゼのつごうで短編2編のみ。それだって生徒会から分けてくれる部費だけでは足りず、各部員が自作の枚数に応じて少なからず自腹を切ったのである。それ以外に、部外の誰かに自作を読んでもらおうと思ったら、ニキビ面のくっせー野郎どもが仄暗い部室に閉じこもり、鉄筆ガリガリの謄写版ベタベタ、悪筆かつ貧相なガリ版を束ねてホチキスでぱっちんぱっちんするしかなかったのだ。今のように誰でもネットでポチっと発表できたり、自室のプリンターで活字っぽく印字できたりする環境など、まさに幻想の世界でしかなかった。

 まあ、そのうちまた、タダで本屋に並べて欲しいとゆーよーなイロケが出たら、そんな書物向きの代物(と自分では思うもの)を、性懲りもなく打ち始めるのかもしれない。


12月15日 火  まず検索

 自分で思いついた地口(まあいわゆる駄洒落ですね)を発表するときは事前にネット検索必須、と、いつかN村さんがツイートしていた記憶があるが、何年か前まで狸が古いほうのHPに好んで地口を記していたときも、それは必須であった。いや、マジで同じ駄洒落が、下手すりゃ江戸時代から流布していたりするのである。

 作詞家の沢久美さんがミスチルの歌詞を丸パクリした、などという話を聞いて、実際に比べてみたらまさにほぼ丸パクリであり、沢久美さんと言えばかつて『カスバの女』など日本歌謡史に残る仕事も残された大御所なので、「うわあ、こりゃ完全に、フトドキな弟子やシンパが持ちこんだ歌詞を、まんま自分の名前で発表しちまったパターンだ」と、頭を抱えてしまった。昔の文筆業界では(学術業界とかでも)、珍しくもなんともなかった行為なのである。沢さんとしては、その弟子やシンパへのしがらみがあればこそ、あくまでバックレきるしかないわけである。
 それにしても、お歳を召した沢さんがネット検索などしないのは解るとして、それに曲がついてCDになるまで、誰ひとり気づかなかったというのがすごい。もしかしたら、ああした高齢者向けの昭和系歌謡曲業界は、関係者全員がお年寄りなのだろうか。みんな固定電話やガラケーだけで仕事をしているのだろうか。

 で、それを歌っていたのは、これまた昭和歌謡史に不滅の名歌『バス・ストップ』を残した、平浩二さんである。久々のシングルのB面で、A面は自ら作詞作曲した、デビュー45年記念作だったそうだ。それが、いったん全面回収である。気の毒すぎて泣けてくる。

 今ふと気づいたのだが、CDのA面B面って……狸も立派な高齢者。


12月14日 月  低所得メシ

 所得の低い層ほど食事のバランスがとれていない、とゆーよーな、お上が調べたらしいおめでたいデータがまことしやかに騒がれているが、要するに摂取する食物の中で米や麺類や小麦類、つまり穀類、すなわち炭水化物の割合が多すぎる、とゆーことらしい。
 えーと……まあ所得がけして低くないと思われるお上の方々のお仕事内容は知らず、モロ低所得層の狸が知る限り、要するに低所得層ほど、体使って稼ぐしかないんですわ。ガテン系の重労働とか倉庫作業等の軽労働(けして軽いとは限らないんですけどね)とか。女性の多い工場のライン作業だってスーパーのレジだって、いちんち立ちっぱなしの肉体労働に違いはない。低賃金が問題視される介護現場だって、あれは立派に肉体労働だ。だから炭水化物をせっせと摂取しないと、いちんち動き回れない。つまり炭水化物によって、その『低所得』をカツカツ維持してるんですわ。
 まあ、それだけの話です。

 ところで、外食を軽減税率対象から外したのは、公明党あたりが「外食の税を軽減対象にすると、むしろ富裕層に利する」とゆーよーな、おいおいおまいらふだんどんな立派な店で外食してんだよこの勝ち組野郎どもがよう的なご意見をのべてくださったかららしいが――あのう、牛丼とか肉野菜炒め定食とかも、お目こぼしいただけるとありがたいんですけど、低所得者としては。
 貧乏人は無精しないで安い輸入肉や処分特価の野菜を自分ちで加熱しろ、とおっしゃるのなら、当然、ガス代も電気代も軽減していただかないと間尺に合わんわけで。

 ともあれ、『お上』と『低所得』に、あんまし相関関係がないことだけは確かなようだ。


12月12日 土  あどけなくない話

 アブレ日。例によって夜明けまでポコポコし、午後遅く起きだして、天気もいいので隣駅の高層物件によじ登る。
 こないだ仕事先の玩具ロジの休憩室から眺めた富士が、スカイツリー共々とんでもねーほど美麗だったので、地上150メートルから眺めたらどんなに悶絶級だろうと期待したのだが――残念無念、本日の東京の空は、ものの見事に青空とドドメ色の二層構造であった。
 地べたを歩いていると、大気の濁りなどはまったく窺えない。見上げる空もちゃんと青い。なのに鳥に化けたつもりでえいやっと上空に舞い上がると、地べたから推定数十メートルほどは、実はしこたま濁っているのが判る。
 年々歳々、空の二層格差が際立ってゆく気がする。まあ高度経済成長期のスモッグを思えば、かわいい程度だろうが。近頃騒がれる中国やインドの大都会の大気汚染と違って、上空から見ないと気がつかない程度だし。

 なにはともあれ今年の冬も、狸はアベノミクスの恩恵にあずかっている。玩具ロジは大盛況で、時給も25パー増量だ。まあ正月までの期間限定ではあるが。

          ◇          ◇

 某投稿板で、天野様の更新分を読んでいたら、小道具として登場する昔のカメラの思い出とともに、定職に就いていた時代の思い出が次々と芋蔓式に走馬燈現象を呈し、こりゃもう先がないんじゃないか俺、と心配になった。

 思い出ってフシギですよねえ。胃に穴があきそうだったストレスなどは、もーきれいさっぱりちょっとそっちにどけられて、いいとこばっかり表面に増殖してくる。
 正気な年寄りほど長生きしたがるのは、きっとそのせいだ。橋の下だろうと糞便垂れ流しだろうと、脳味噌さえそこそこ保っていれば、やはり長生きしたほうがシヤワセに逝ける気がする。


12月08日 火  You And I

 昔から、「子供が父親の子であるかどうかは母親しか知らない」などと、冗談めいた警句があったが、今はDNA鑑定で、けっこう判ってしまうようだ。五分五分の確率なら、父親の対処は父性愛しだいだろうが、さすがに20パーとか言われたら迷うだろう。まして0パーだったら、もはや家族愛の問題ではなく、あくまで個対個の情愛、あるいは広範な人類愛で対処するしかない。
 それにつけても、喜多嶋舞さんの引退は惜しかった。コケティッシュで、いい女優さんだったがなあ。先だって再見した市川崑監督の『八つ墓村』でも、コケティッシュなフシギ少女っぷりが絶品だった。このまんま、フシギ少女→フシギ熟女→フシギ老女として銀幕に居座り続けても、狸としてはオールOKだったのになあ。ぶっちゃけ、夫に他人の子をナイショで育てさせる妻なんて世間では珍しくもなんともないだろう。そもそもある種の女優さんは、常識や貞操観念など吹っ飛ばしたところに、女優としての魅力があるのだ。
 まあ、いちばん心配なのは、当然その息子さん本人の今後であるが、どうやら母方のお祖父ちゃんお祖母ちゃんの元に収まったようだ。
 お祖母ちゃんは喜多嶋洋子さん、つまりあの往年の可憐ろり、内藤洋子さんである。狸がまだ小学生、いや確か幼稚園の頃から、姉や従姉の購う少女雑誌『りぼん』あたりの表紙、あるいは写真物語(スチル写真で構成する一種の絵物語、当時の少女雑誌の定番グラビア企画ですね)で憧れていた、清楚で優しそうな高学年のおねいさんだった。優しいお祖母ちゃんになっているといいなあ。狸としては、実の娘の育て方を、さほど誤ったとも思えないのである。お孫さんも可愛がってあげてほしい。
 本音を言えば、よく知らないが大沢樹生さんとかいう人に、もっとも嫌悪を覚える。個対個の情愛も、広範な人類愛も、あんまり感じられない。常識や貞操観念など吹っ飛ばすほどの役者力もないようだし。
 ……なんか力いっぱい好き勝手に打ってしまったなあ。
 まあ、幼時には親戚中で母親そっくりと言われ、長じて父親そっくりになってしまった狸としては、しょせん血縁0パー確定の父親など他人事、ただ魅力的な女性に焦がれるしかないのである。

     


12月05日 土  嵐が丘

 おう、狸がいっとー好きな映画版『嵐が丘』(1970)の全編みっけ。

     

 英国のハマー・フィルムで正調怪奇映画を撮っていたロバート・フュースト監督の作品だけに、低予算ながらゴシック・ロマン風味が強くて、特にクライマックスの怪奇的演出が最高なのよなあ。
 若きティモシー・ダルトンのヒースクリフも、過去のヒースクリフたちの中では最高にハマっている。当時、史劇映画『冬のライオン』(1968)で注目されていたダルトンは、ショーン・コネリーの後を継ぐ二代目ジェームス・ボンド役のオファーを受けて、「まだ若すぎる」「イメージが固着してしまう」と断ったそうだが、やってほしかったよやってほしかったよ。ダルトン主演の『女王陛下の007』(1969)――想像するだに胸が躍ってしまう。
 でも、それが実現していたら、この『嵐が丘』は無かったかもしれず……ああ悩ましい。

 いえ、ジョージ・レーゼンビーも、世評ほど悪かったとは思わないんですけどね。しかしあの純シリアス・アクション007には、若いダルトンがぴったりだったと思うんですよ。

     


12月02日 水  水木先生&つげ先生

 TBSラジオで、水木先生追悼番組。なんと、あのつげ義春先生の肉声も、電話インタビューで収録。
 あの方らしい感情移入を廃した淡々とした語り口で、番組のトーンからは明らかに浮いているのだが、そこんとこもまた、しみじみと「在るがままに生きよ」ですね。
 しかし、こうした音声の存在を遅れて知った狸でも、探せばちゃんと聴ける――なんのかんのネットには問題を感じつつ、やはりネット様々なのであるなあ。


12月01日 火  へんな夢を見た

 真冬、積雪の蔵王温泉、狸はなぜか駱駝の長袖シャツと股引姿で、上の須川神社から下の温泉街へと、震えながら散策している。
 バス発着所まで下りると、瀟洒な喫茶店の前で、二十歳前後と覚しい小鳩くるみさんと、十二歳前後と覚しい長岡邦子ちゃんと、十歳前後と覚しい松井八知栄ちゃんと、すでに二十代後半と覚しい島倉千代子さんが、全員昭和の小学生姿で、店の呼び込みをしている。
 そこは『女子小学生カフェ』らしい。
 狸は店内に誘われる――かと思いきや、狸を取り囲んだ彼女らは、なぜあなたは呼び込みをしないで勝手に散歩しているのだ、と詰問してくる。
 気がつけば狸もまた、ぶよんとしてしまりのない半白髪のまま、昭和の女子小学生らしい吊りスカート姿になっており、最前より薄着になったはずなのに、なぜか大層あたたかい。
 狸は、ごめんごめん、と彼女らに謝り、『女子小学生カフェ』の従業員として、つつがなく客引きを始める――。

          ◇          ◇

 昨日、水木大先生を悼んだばかりなのに、こんな能天気な夢を見てしまっていいのだろうか、と思うが、おそらく大先生の「在るがままに生きよ」という自然体志向が、もうあちこちひび割れ始めている狸の指の痛みや、下脚部に生じた貨幣状湿疹の痒みを和らげるべく、こんな夢を見せてくださったのではないか、とも思ったりする今日この頃、皆様方におかれましては、いかがお過ごしのことでございましょうや否や。