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06月30日 木  じめづぼい

 ドンヨリした空の日が続く。

 夜にブチ下僕が座布団に残していったヨダレの跡が、朝になっても乾いていない。
 朝に濡らしたシンクが、夜、帰穴しても乾いていない。
 当然、狸自身の毛皮も、ほぼ24時間シケったままである。
 いっそ中近東の砂漠のようにカンカンに照ってくれれば、ISのごとく発狂する虞はあっても、発汗は抑えられる気がする。
 いや、この国の場合、カンカンに照って湿度もムンムン、そんな虞のほうが大きいか。

 ……どのみち、こう世間がジメジメジメジメしていると、とても自爆テロなんぞやってられんわなあ。生きているのが精一杯だ。


06月27日 月  雑想

 アブレ日。
 今月は赤字になりそうなので、交通費を要する徘徊はできない。
 真間川沿いから国分川に折れ、ひたすら北上してみる。
 細々とした流れの西側に、ずっと外環の工事現場がへばりついているのには閉口するが、それ以外は、北上するにつれてどんどん鄙びた田園風景が広がって来、ウシガエルの啼くじめじめとした広大な草っ原など、思わず中に踏みこんでみたくなる。ズブドロになるので思いとどまったが。
 しかし、あの大それた外環の工事、いったい何年間だらだらと続けているのか。地元の渋滞緩和にほとんど無縁な、外から外へ通過するだけの道路の工事に、地元民や地元狸は、いつまで鬱陶しい思いを続けねばならんのか。まあ、地主や工事関係者だけは、しこたま儲かるのだろうけれど。
 ともあれウスラボケっと歩いている間に、猫が興奮したりする軽くて短い話を、ふたつほど思いついた。

          ◇          ◇

 山形には、なんでこんなにラーメン屋が多いのか――
 いちおうそこで生まれ育った狸だが、高卒後はたまに帰るだけになってしまったので、以下、あくまで推測である。
 その一。この統計は、あくまで『ラーメンを扱う店舗』であって、『ラーメン専門店』に限っていないのではないか。狸の幼時から、市内には日本蕎麦と支那蕎麦を両方商う店が多かった。つまり元来『江戸前』なんぞとは縁もゆかりもない土地柄ゆえ、老舗の日本蕎麦屋でも、支那蕎麦が美味いとなれば、平然と導入した。だいたい日本蕎麦は昔の東北の人間にとって救荒食物である。現在でこそ名物化していても、昔は厳然と、支那蕎麦のほうが高級外食物件だったのだ。
 その二。山形は、今でも二世代どころか三世代の所帯が多い。かつ田舎ゆえ、気楽に客を迎えたり客になったりすることが多い。それぞれの世代の客が、しばしばかち合ったりもする。しかも他家からの客には、何か食事を振る舞わなければ仁義にもとるという気風がある。そんなこんなで、いきおい出前に頼る機会が増えるわけだが、そこにおいても支那蕎麦は重宝だ。日常的なお客様に寿司や鰻を奢っていたら家計が破綻するが、支那蕎麦なら、今どき下手すりゃ日本蕎麦より安価である。しかも、その一で述べたような伝統的ゴージャス感(?)があり、支那蕎麦が嫌いで食えない客は、めったにいない。
 その三。たぶん一と二の双方に関係していると思うが、なんでだか山形の蕎麦屋さんは、昔から支那蕎麦にもこだわる。知る人ぞ知る『冷たいラーメン』なんてのも、元は日本蕎麦屋さんで考案されたものだ。酸っぱい冷やし中華のことではない。熱々のラーメンとほぼ同じような味覚と食感を、氷の浮いた器で再現している。当然、調理法も素材も、熱いラーメンとはまったく違う。たいへんな試行錯誤を重ね、わざわざ夏用の支那蕎麦を創作(?)してしまったわけである。
 とまあ、つらつらつらっと思うところはあるわけだが、昔も今も山形では、たぶん支那蕎麦が『ハレ』の食なのだ。


06月23日 木  雑想

 自主アブレ日。
 午前4時から午後4時まで寝ていた。途中で2度ばかりトイレに立った記憶がある。夢も見ていた気がするが、その内容は記憶していない。60近い爺いとしては、我ながらよくこんだけ眠れるもんだと思う。まあ、眠れずに入眠剤のお世話になることも、三日に一度くらいはあるんだけどな。

          ◇          ◇

 地上波で録画しておいた映画、『大統領の執事の涙』(2013)を観る。こんな映画である。こうした作品が現在のハリウッドで制作され、しかも白人黒人問わず当代の芸達者たちがこぞって参加していることに、やはりアメリカという若い多民族国家の、底知れぬバイタリティーを感じる。
 19世紀の半ばには黒人奴隷解放を終えたはずの彼の国でも、実質20世紀半ば、この主人公の黒人執事が最下層農園労働者の子供だった頃には、白人の農園主が彼の母親を犯したり父親を撃ち殺したりしても、誰ひとり問題にしない差別社会だった。しかし、その彼が人生を終えないうちに、黒人のオバマ氏が大統領に就任している。クーデターや革命によってではない。まあ局地的暴動やら過激な社会運動やら、長期にわたって少なからぬ血が流されたにしろ、たった半世紀で、そんな変化が社会的に、いや市民的に可能な国だったのは確かだ。
 今後どう動いて行くにせよ、やはりあの国は巨大な実験国家として、面白く、そして狸の『好きな』国であり続ける気がする。オバマ氏の次は女性大統領になるか、それともアレが勝ってまた巨大なるド田舎に戻るのか、いずれにせよ『面白い』ことに変わりはない。

 ところで、狸がこの映画を録画したのは、単に主演がフォレスト・ウィテカーだったからである。昔から大好きなのだ。軽妙な役から重厚な役、陽気な役から陰々滅々とした役、端役から主役、何を演じても人間の複層性を感じさせてくれる。『ブローン・アウェイ 復讐の序曲』の小生意気イケイケ野郎も、『ラストキング・オブ・スコットランド』の常軌を逸したアミン大統領も、『ケープタウン』の屈折したズールー族出身刑事も、みんな同じ人間の在りようなのだ。

          ◇          ◇

 ミケ女王様やブチ下僕がてんでに寝そべっている狸穴の台所に、いつのまにやら新顔が上がりこんでゴミ袋をフンフンしており、仰天した。体長はミケ様やブチ僕の1.5倍、堂々たる肉付きの虎猫である。しかも態度が尊大だ。「なんじゃ、その目は。文句あるんか、おんどりゃあ」、そんな、明らかに威嚇の目つきで、狸を睨み返してくる。逃げようとするそぶりもない。
 ああ、これが、こないだ管理人さんが言っていた、近頃ひんぱんに出没して番猫たちの餌を横取りする野良か――たいがいの猫に敵愾心を抱かない狸ではあるが、反射的に「俺の縄張りを荒らすんじゃねえ」と、激しく威嚇してしまった。
 ところが近づいて仁王立ちになっても、相手はまだ凶眼を逸らさない。さらに足で蹴る仕草をして見せると、さすがに体長差で負けると判断したのだろう、ようやくその虎猫は「ケっ」と言うような表情で、のそのそと退散していった。
 ミケ様もブチ僕も、さしたる警戒の色を見せないのは、もと野良のよしみか、それとも単に現在、餌に不自由しない身だからか。
 しかし狸は、どうしても、あの尊大さに反感を覚える。小動物同士の仁義を欠いているのである。そもそも野良のくせに立派な体格で毛並みも整っており、しかも若々しい。
 狸であれ猫であれ社会は社会、君臨も従順も許せる。しかし狸とお前が対等の気でいるなら、それは違うぞ。人間なら黄色人種も黒人も白人も同じ人類の亜種、つまり種族として対等であるが、狸と猫には、別種としての仁義があるだろう。唯我独尊のミケ女王様だって、狸に噛みつくのはスリスリを無視されたときだけだ。引っ掻くのも、尻尾以外の部分に触られたときだけだ。『ツンデレ』という猫としての仁義を、ちゃんと保っている。
 などと言いつつ――正直、老狸は、若くて強くて生意気な奴がキライなのだな。なんかムカつくじゃないですか。まして、老いたブチ下僕の餌を横取りするなんぞ、ろくなもんじゃねえ。


06月19日 日  へんな夢を見た

 まだ予備校時代の狸が、どこか山間の温泉地で家族旅行している。当時健在だった両親、そして姉のみならず、なぜか双子のリリーズもいっしょの旅である。
 木造の宿の窓外は断崖絶壁であり、眼下の河川の広々とした水面まで、数十メートルはありそうだ。その水面に向かって、近隣や対岸の宿の窓から、次々と人々が飛びこんでゆく。大人も子供も笑いながら飛びこみ、みんな無事に着水して、遙か眼下の川で楽しそうに泳ぎ回っているのである。
 リリーズのおふたりは、狸ら一家とは家族同様の仲らしく、茶飲み話をしている狸らの目の前で、平然と水着に着替えはじめる。推定デビュー直後、つまり14歳くらいか、たいそう愛らしくはあるのだが、胸などはまだほとんど膨らんでいない。当時からロリコンだった狸の目にさえ、邪念のカケラも感じられない。不思議だが本当だ。夢の中の狸も、おふたりを家族として認識していたからか。
 カラフルなツーピースの水着に着替えたリリーズのおふたりは、なんの躊躇もなく、とととととと、えい、と窓からダイブしてゆく。で、遙か眼下の川面に無事に着水し、他の人々とともに、楽しげに泳ぎ始める。それを見下ろす狸も、ぜひ仲間に入りたいと思うが、なにせ数十メートルの断崖である。どうしても飛び降りるふんぎりがつかない。そのうち、対岸の宿から飛びこんだ男が、イキオイを誤ったのか途中の岸壁に接触し、ぐっちゃんぐっちゃんになって岩肌にへばりつくのを目撃、ああ、やっぱり俺は飛びこまなくてよかったと、小心な狸は胸をなでおろす。
 やがて宿に戻ってきたリリーズのおふたりと、和やかに夕餉の卓に向かう狸一家――。

 ――そんな夢から、現在の自分の心理を分析した場合、もはや廃人化、もとい廃狸化しているようにも思えるのだが、目覚めたときの気分は、きわめて良好であった。

          ◇          ◇

 本日は、ちゃんと空調の効いた現場で、ちまちまとネットレンタルDVDの封入作業。ただし時給は850円ポッキリ。つまりここいらの最低時給に、30円ちょっと色がついただけである。
 空調なしの1000円と空調ありの850円――この時期どっちが望ましいかは、お天道様と口座残高しだいである。


06月17日 金  ゼロメートル地帯

 ちょいとくたびれたので、今日明日は自主アブレのつもりでいたのだが、昼前、午後から4時間拘束で5千円くれるという臨時の紹介仕事が入り、地下鉄の東大島駅に近い倉庫に出向いた。
 そこに向かって旧中川沿いを北に向かう間、あまりの暑さと湿気に「やめときゃよかった」と後悔したが、まあ21世紀に入ってからの日本は、稀な冷夏を除けば6月中旬から真夏になってしまうキマリになっているみたいなので、諦めるしかない。

 現場はなんじゃやら廃棄物が集まる会社で、命じられたのは、トラックが大量に運びこむ古タイヤを地べたに整理する作業である。作業内容を聞いたとたんに、数名の老若男女フリーター(若い娘さんも混ざっていた)は例外なく「やめときゃよかった」とボヤキあったのだが、実際は、10分働くごとに20分ほどウスラボケっとトラックの方々の作業を待つ、そんな、キツいようで実はユルい現場なのであった。もしかしたら、ちょっと北にドーンと控えている墨田清掃工場がらみの、親方日の丸的な現場だったのかもしれない。若い娘さんでもなんとか勤まるペースであり、男衆は「これだったら毎日フルタイムでよろしく!」状態だったのだが、当然ながら、そうした楽な現場では、先様がよほどスケジュール上のドジを踏まない限り、日雇い派遣など呼ばれないわけである。
 ともあれ、約束の5時より15分も早く解放され、皆さんは最寄りの東大島駅方向に戻ったわけだが、狸は、逆方向にドーンと聳えるスカイツリーに惹かれ、旧中川をさらに北上、途中から北十間川に折れてちょいと散策し、JR亀戸駅あたりに出てみよう――そんな帰路を選んだ。どうせすでに全身びしょびしょなのだから、お散歩の発汗は無問題である。

 いやあ、昔で言うゼロメートル地帯――いや今でも立派に海抜以下なんだが――ずいぶん綺麗になりましたねえ。
 子供の頃にドキュメント映画か何かで見た記憶があるが、昔のそのあたりは、古いほうの映画『日本沈没』で真っ先に川の堤防が決壊してドバドバと流されてしまうビンボそうな木造建築の町、そんな感じだった。それが今ではあっちこっちの水門でしっかり水位が制御され、両岸には小綺麗で長閑な遊歩道が整備されている。昔の貧相な堤防の一部が、遊歩道の上方に、防災記念物として残されていたりもする。川沿いの建物も、でかいマンションや近代的な家屋が主で、ビンボそうな木造家屋など、もはやほとんど見られない。おまけに地域全体が経済的に潤っているらしく、広々とした緑の公園が多い。子供も自由に遊んでいる。

 もし近々直下型が来たら、都心や副都心、あるいは山手線の内側にけっこう残っている『懐かしき昭和風味の下町』なんぞより、かつてドブ川がぷんぷん匂い、いつ水浸しになるかハラハラドキドキだったゼロメートル地帯にいたほうが、よほど安全そうだ。


06月13日 月  雑想

 狸穴の老朽化したパソ上で奮闘するWindows10の芸風が、果てしなく過激化している。
 今夜の起動時は、昨夜まで支障なく使えていたケーブルモデムとUSBコントローラーのドライバがインストールされていないと言い張り、当然ネットにも繋がらず、USBマウスも外付けドライブも認識しなかった。キーボードは認識してくれたが、マウスが使えないのは両手を失ったのに等しく、あわてて大昔のマウスをガラクタ箱から見つけ出し、なんかいろいろ再インストールした結果、ようやく昨夜の環境に戻った。
 すげえぜ、Windows10。全世界で絨毯爆撃を続行するマイクロソフトの気持ちが理解できた。民衆を玩弄するのは、覇者の代表的な娯楽である。

          ◇          ◇

『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』の第23弾が、ようやく25日に放送されることになった。とても嬉しい。今回は宮崎から長崎を目指すコースで、激震のときには、すでに熊本を離れ佐賀県に入っていたのだそうだ。
 放送決定に際して、太川さんと蛭子さんがわざわざ記者会見を行ったそうだが、明らかに番宣のためよりも、一億総小姑と化しつつあるこの国の視聴者、とくにネットにはびこる狂的カオナシ連中からの、クレームを和らげるためだろう。
 このでんで、かつて東北太平洋側を走り、ここ数年いっさい再放送されない第5弾と第6弾も、解禁してくれまいか。
 被災者の方々の痛手が生涯続くであろうことは十二分に理解しつつ――歴史というものは、重篤な悪性腫瘍っぽい部分こそ、発生の前も後も、冷静に見定めねばならない。歴史は嫌でも続くのだし、悪性腫瘍はしばしば再発する。
 都合の悪いとこをシカトばっかりしていると、トランプさんみたいなオヤジがはびこって、歴史がラリってしまいます。


06月12日 日  デジャヴ

 狸が既視感にとらわれた話ではない。映画の話である。
 狸のフトコロにオゼゼはないが、こと映画に関しては、実は日々何不自由なく、いろいろと鑑賞している。ケーブルテレビがロハで繋がっているし、駅前のツタヤでは、旧作なら常時100円ポッキリだ。

 先日、久しぶりにヴァル・キルマーの顔が見たくなり、まだ観ていなかった洋画『デジャヴ』のDVDを借りてみた。思えば10年ひと昔、キルマーが思う存分メタボ中年化していた頃の作品だが、癖のある脇役を楽しげにこなしており、とても嬉しかった。
 しかし主演はあくまでデンゼル・ワシントン、監督はイケイケ演出のトニー・スコット、タイムトラベルがらみのサスペンス・アクションである。あの監督らしく細部の辻褄などすっ飛ばしたイケイケ話だが、脚本自体、それでもちゃんと成立するように練り上げられているのがミソだった。すでに起きてしまった凄惨な爆弾テロ事件を阻止すべく、捜査官が過去に干渉しまくって、無限に生じる複数の並行世界をあっちゃこっちゃしながら大奮闘する話。
 ぶっちゃけ、一見同じ人間に見える(当人もそう思っている)捜査官自身、実は自ら分岐させまくった並行世界であっちゃこっちゃ別人化しているわけで、そこを作劇上で一貫させるため、それぞれの記憶がそれぞれの『既視感』として干渉する――そんな設定なのである。これならどんな無茶苦茶な展開も、情動的に旨くまとめさえすれば、最終的には「なるほどなあ」にできてしまう。実に要領のいいシナリオである。

 BSの録画で、久しぶりに『ローマの休日』も再見、ずっぷし堪能した。とにかく何べん観ても、そのつど惚れ惚れしてしまう。実際に酔ってしまうのである。
 もとよりSFXやアクションはカケラもないし、ドンデン要素も皆無。ただ一流の役者と一流のスタッフが真摯に仕事をし、二時間近い長丁場を一秒の停滞もなく堪能させてくれる――こんな作品は、残念ながら今後二度と、未来永劫制作されないだろう。だから狸は現在や未来より、過去を大事にしてしまうのである。

 地上波初放送を謳った近作『ゼロ・グラビティ−』とやらも、録画して観た。いちおうSFが好きで宇宙も大好きな老狸にとって、正直、正気で見続けるのが極めて困難な映画であった。スペオペ大好きの小学生たちが、学芸会でNASAのドキュメントをやっちまったような話である。スター・ウォーズのノリで、マジに衛星軌道のドキュメントやっちゃいました、みたいな。
 しかし、それでも狸は、『ゼロ・グラビティ−』で主役を張ったサンドラ・ブロックお姐さんが大好きだ。『エイリアン』等のシガニー・ウィーバーお姐さんも好きだが、サンドラ姐御にはかなわない。なんとなれば――『スピード』あたりで大ブレイクする前、ほとんど脇役でウロチョロしてた頃のサンドラ姐は、マジに可愛かったのである。キュートの権化だったのである。
 あれはなんというタイトルだったか――そう、『失踪』だ。もう20年以上昔のサスペンス映画。あれの冒頭でサンドラ姐(いや当時は『サンドラ嬢』だな)が失踪する娘の役をやったときは、本当に悔しかった。彼女を探し求めて大奮闘する恋人のキーファー・サザーランド(『24』で大ブレイクする前)や、サイコな犯人役を怪演したジェフ・ブリッジスも、昔から狸が贔屓にしている男優さんであり、そこは充分に楽しめたのだが――肝腎のサンドラ嬢が、ずっと失踪したまんまなのである。キュートな御尊顔も、ショートパンツの小ぶりなおヒップも、まだスレンダーなおみ足も、冒頭で失踪したっきり、画面には出てこないのである。
 ああ、現在の根性入ったサンドラ姐御なら、全編を通して脱出劇の主役を張り、現在の豊かなヒップで恋人を尻に敷き、あの現在の逞しいおみ足で、サイコな犯人など宇宙の果てまで蹴り飛ばしてくれるだろうに。

          ◇          ◇

 一昨日は、予定どおり浦安市郷土博物館へ。平日なので他の入館者はちらほら程度、大半は貸切状態だった。
 屋外に移築された昭和20年代の商家や民家や三軒長屋などは、レイアウトが自然で、いかにも「まんま」な町角らしい風情。屋内展示も、昔の浦安の海辺のジオラマやプチ水族館など、ちっこいながら愛嬌があり、好感度高し。暗い映写室の銀幕には、明らかにアナログビデオカメラで制作されたと覚しい浦安の海関係ドキュメントなどが上映されており、その画面の質感自体が、すでにレトロっぽいのであった。博物館前の広場の草叢では、ショタたちが駆け回ったりロリたちが白詰草を摘んだりしており、まさに夕陽の三丁目状態。ううむ、やっぱり浦安、直下型が来ても海に沈まないでほしい。
 ちなみに帰途は、夕陽を追って境川を遡り、合流した旧江戸川の途中で日没を迎え、そこいらで妙にくたびれてしまい、以前に何度か仕事で降りたことある妙典駅方向に進路変更してしまった。江戸川には合流できずに終わったが、それでも12〜3キロは歩いたはずである。

          ◇          ◇

 明日はアブレだが、どうも雨天になりそうだ。徘徊や録画物件観賞ばかりでなく、読んだり打ったりしたい気もする。


06月09日 木  雑想

 ネット上のニュース内に、こんな一文があった。

6月3日に北海道労働組合総連合(道労連)が発表した「北海道最低生計費試算調査結果」によれば、札幌市で25歳の若者が「健康で文化的な最低限度の生活」を送るには月収(税込)で男性は22万5002円、女性は22万249円が必要だという。

 ……そ、そーなのか?
 となると東京湾岸あたりで年収200万を越せばバンザイしている狸の生活などは、どんだけ不健康で非文化的で、最低限度を下回っているのだろうなあ。
 まあ、この場合『最低限度』という文言よりも、『若者』で『健康』で『文化的』、そっちのほうにミソがありそうではある。『爺い』で『不健康』で、退嬰一方の『未開』な狸などとは、生活の尺度が別物なのだろう。

          ◇          ◇

 Windows10が、相変わらず面白い。シャットダウンできたりできなかったり、すんなり起動できたりできなかったり、時刻がズレたりズレなかったり、日によって芸風が変わる。まあ毎日変わるわけではないが、2日や3日に一度のペースで確実に変わる。マイクロソフトさんが絨毯爆撃の後始末のため、海の向こうからなんかいろいろ突っついてくれているのか。まあ狸穴の場合、古パソのマザーボード自体がWindows10を嫌っているかぎり、永遠に安定しないだろうが。
 こうしたパソコン環境も、爺いで不健康で未開な最低以下のIT弱者――そんなふうに言われてしまうのだろうなあ、労働組合さんやマイクロソフトあたりには。
 でもまあ、もう慣れてしまいましたけどね、当狸としては。

          ◇          ◇

 明日はアブレである。
 その近辺でしばしば労働していながら一度も訪れたことのない『浦安市郷土博物館』を、直下型で海に沈む前に(おいおいおいおい)覗いてみようと思っている。浦安市は、よほど経済的に潤っているのか、あるいは昔の漁師町の気っ風が残っているのか、通りすがりの貧乏人でも無料で入館させてくれるそうだ。なんと、お茶も飲み放題らしい。
 往路に若干の交通費はかかってしまうが、帰途は、たとえばあそこの近くの境川から旧江戸川に出、それを遡って江戸川に合流し、さらに狸穴の最寄りまで遡るとか、自前の脚で都合するのも距離的に不可能ではなさそうだ。アブレ日に早起きするのは御免なので、往路まで歩く気はないが。
 不安なのは、明日は好天だが真夏なみに暑くなる、そんな予報が出ていることだが――まあいいか。あのあたりなら、ロハの水場もあちこち知っているし、バテないための食料も、おむすびやら唐揚げやら卵焼きやら、きっちり持ってくことにしよう。

 ……ところで、最低月収22万を必要とする健康で文化的な若者は、毎日ちゃんと自炊しているのだろうか。「独身ならコンビニ弁当のほうが安上がり」なんてのは、金の余った連中が流布する夢物語だぞ。


06月05日 日  歩く

 また人様並みに日曜自主アブレ。

 先週の日曜に江戸川を遡上したとき、10キロ程度で力尽きてしまったのが悔しく、今日もまた無制限徘徊を試みる。昨夜未明の就寝時は雨模様だったが、昼過ぎに起きたら薄曇り程度。バテないために、駅前のかつやでカツ丼をかっ喰らってから京成電車に乗り、正月以来の佐倉方面に進軍。駅に着いた頃には、ありがたいことに青空が見え始めた。
 前に二度ばかり訪れたときには、主に京成佐倉駅の南口からJR佐倉駅の北口に至る、でっこまひっこました地形部分、つまり佐倉城址や武家屋敷方面を徘徊したので、今回は方向を変え、京成線の北側を西方向へ――つまり同じ佐倉でも、田舎っぽい田圃や畑中を徘徊し、広大な西印旛沼の畔を通って京成臼井駅あたりを目指してみよう――そんな見当で徘徊開始。

 いやあ、大当たりでした。
 空の雲はどんどん薄くなり、やがてほとんど青空に。気温は暑からず寒からず、昼までの湿気も風に乗って流れ去り、田植えが済んだりまだだったりで斑な水田の畦道、あるいは印旛沼に続く川の土手道、そんな故郷の郊外っぽい景色の中を、鳥や蛙の声を聞きながら漫然と西を目指せば、やがて眼前に広がる長閑な西印旛沼――。なんでだか沼畔にオランダ風の風車が立っていたりするのは、時期によってチューリップが咲き乱れるかららしい。チューリップがらみの観光地には何が何でもオランダっぽい風車――昔からそんなキマリになっているのですね、この日本は。
 やがて、真っ赤に燃える夕陽を追いかけ、旭兄ィのように渡り鳥気分、いや渡り狸気分で沼畔を離れ、暮れなずむ街道筋を「まあおおむねこっちに歩いてりゃ、そのうち隣の駅に着くだろう」などといいかげんに歩いている間にとっぷりと日が落ち、案の定、しっかり道に迷ったりもしたわけだが、なぜか隣駅方向ではなく元の駅方向、でっこまひっこました佐倉城址の南西側にたどり着いたので、結果オーライ。
 純歩行時間は推定4時間程度、まあ十数キロは歩けたはずである。

 ところで、カムロちゃんという佐倉の御当地キャラを、今回、狸は初めて知った。風車の近くの自販機のひとつに、かわゆくへばりついていたのである。実は数年前から出現していたらしいが、過去に徘徊したときには、ちっとも気づかなかった。
 ちょっと陰性を帯びた地味系伝奇萌えキャラ――そんなマイナー感が好ましい。

     


06月01日 水  生きる

 自主アブレ日。

 狸穴の賃貸契約更新用紙に、連帯保証人である義兄の直筆記入や実印が要るので、神奈川の姉の家へ。介護職の義兄の休日は、世間の日曜祝日とは関わりがない。その点だけは、日雇いの狸に似ている。
 で、しっかり焼き肉をおごってもらって帰穴。

 更新は二年に一度である。ここ十年ほどは、なんやかやで家賃二ヶ月ぶんに達してしまう更新料を一度に用立てられず、不動産屋さんと大家さんに相談し、数回の分割払いにしてもらっていた。しかし今回は、なんとか払える。一昨年にアルツの母が亡くなり、そっちの掛かりがなくなったからである。ことほどさようにイキモノの生死は、あざなえる縄の如き禍福なのである。

 親に産んでもらって生きてもらって死んでもらって、その息子が狸のように出来損なってしまい親になれなかったとしても、まあとりあえず生きてはいるし、そのうち死ぬ。どっちが禍でどっちが福かを客観的に断定するなど、己にも他者にも不可能だ。
 焼き肉がとてもうまいという点で今のところ主観的には福だが、おごる義兄や姉にとっては微妙だろうと思われるし、食われる牛さんや豚さんにしてみれば大災難に相違ない。

 なんの話をしているのかちっともわからないが、まあ死ぬまでは生きてるしかないよね、とまあ、そんなところなのである。