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08月30日 火  雑想

 台風が接近するというので自主アブレ。
 狸穴近辺では、さほど風雨が強まらなかったが、さすがにハンパな湿気ではなく、駅周辺の商業ビル内や、なんぼか空調の効いている地下道を徘徊する。
 で、ふと煙草を吸いたくなって、もはや公共の場所では喫煙スペースがほぼ絶滅しているのに思い当たり、改めて脱力したりもする。
 やはり徘徊するのは、携帯灰皿さえあれば誰にも遠慮なく一服できる、広々とした空の下がいい。

          ◇          ◇

 しかし、あいかわらず、アルコールは野放し状態だ。飲酒運転は全体的に減っているらしいが、悪質な常習者による悲惨な事故は、ちっとも減らない。

「これは事故ではない、犯罪だ」執念の補充捜査 3児死亡飲酒運転事故10年 【西日本新聞 8月26日(金)12時12分配信】

 
福岡市東区の海の中道大橋で起きた飲酒運転3児死亡事故から10年。現場を管轄する福岡東署の福原隆署長(57)は25日、東区であった飲酒運転撲滅キャンペーンで、特別な思いを込め「飲酒運転をゼロに」と参加者に呼び掛けた。
 事故当時、県警本部交通指導課の管理官として捜査の指揮を執った。駆け付けた現場で、橋の欄干はなぎ倒され、真っ暗な海中から引き上げられた被害車両は無残につぶれていた。幼子3人が犠牲になり、胸が締め付けられた。
 「事故を起こす可能性が高いと分かっていながら飲酒運転した。これは事故ではない、犯罪だ」。そう確信し、捜査に当たった。
 2008年1月の福岡地裁判決。検察は量刑が重い危険運転致死傷罪の適用を求め懲役25年を求刑したが、裁判所は業務上過失致死傷罪にとどまると認定し、懲役7年6月。あまりの落差に遺族の無念を思い、悔しい思いを補充捜査にぶつけた。
 危険運転致死傷罪が認められるには、「アルコールの影響により正常な運転が困難な状態」だったことの立証が必要だ。一審判決は、事故原因を加害者の「脇見」と認定し、正常な運転が困難だったとは認めなかった。
 「脇見」とされたのは事故直前の8秒。補充捜査では、事故と同じ時間帯に「脇見」をしたとされる角度にビデオカメラを向けた走行実験を行い、景色は真っ暗で、8秒間も脇見を続けることの不自然さを浮き彫りにした。
 さらに、現場道路には傾斜があり、「脇見」状態と同じくハンドルを固定すると、約100メートルで歩道にぶつかることも証明した。これらを検察が二審で新たに証拠提出。09年5月の判決は「脇見」を否定し、8秒間も前方の車に気付かないほど「正常な運転が困難な状態だった」と危険運転致死傷罪を認め、懲役20年を言い渡した(確定)。
 昨年3月、署長に着任すると真っ先に3人の子どもたちを弔う妙徳寺を訪ね、地蔵に手を合わせた。あの事故に向き合った一人として、飲酒運転撲滅に向け「全国の先頭に立つ覚悟」を今も固く持ち続ける。


 近頃噂の色魔・高畑裕太お坊ちゃまも、犯行時には酔っていたらしいが、その点に関してツッコむコメンテーターはほとんどいない。シラフでも押し倒すほど度胸のある奴では、なかったような話なのだが。
 それから自転車の歩道走行も、なんとかしてほしい。あれが合法化してから、ママチャリやババチャリに後ろから接触される機会が、格段に増えた。「あ、すみません」と頭を下げてくれる若奥様などは笑って許せるが、幼児を同乗させていたりすると、そっちのほうが心配だ。副流煙などより、よほど危険なのではないか。まして「あっ! あぶない!」などと言い放ってくるオバサンなんぞは、「あぶないのはお前だ!」と叫び返して力いっぱい車道に押し出してやりたくなる。
 ことほどさように、ヤニの切れた狸は危険である。

          ◇          ◇

 新古本屋の百均で、澤地久枝氏の『石川節子――愛の永遠を信じたく候』(1981・講談社)を購入。
 石川啄木を題材にした作品は、伝記評論小説劇画問わず、若い頃から無数に読んでいるが、奥さんのほうを論考した作品は、これが初読である。澤地姐御のことだから、お涙頂戴なんぞ尻の下で粉々に擂り潰してしまうほど根掘り葉掘り取材しまくった末の社会的な評伝になっているのだろうが、社会的現実という奴は、粉々に擂り潰してしまうほど取材しまくってもらうと、しばしば大泣き作品に結実してくれたりするのである。わくわく。
 同じ百均ワゴンに、猫十字社先生の『小さなお茶会』の文庫版全二巻も並んでおり、これも驚喜して購入。その新古本屋では、百均本を三冊まとめて購うと、二百円に割り引いてくれるのである。

 えーとね、実はおばちゃま、『小さなお茶会』に出てくる、ぷりんともっぷの猫夫婦が、乙女の頃から大好きだったの。学生時代に『花とゆめ』のクーポン集めてもらった、ぷりんともっぷのパスケースとか、ずうっと大事にしてたの。ピンク色で、とってもかわいかったのよ、ウフ。
 ……でも、いっぺん一文無しになったとき、神保町の漫画専門店で売り払って、牛丼とか豚飯とかカツカレーとか、ワシワシかっ喰らっちゃたの。クスン。


08月26日 金  たれ狸

 公式記録で35度超の日々が続いた地方の方々を思えば、ほとんどそれを下回っていた東京湾岸の狸が弱音を吐いてはいかんのだが、正直、そろそろ限界である。歳のせいもあろうが、何より、曇ろうが降ろうが晴れようが絶対にカラリとしない高湿度には、もう耐えられない。
 ただ、ある程度発汗が度を過ごした場合、若い頃よりも脳内麻薬が分泌されやすくなった気はする。つまり、肉体的にはぐったりとたれながらも、気分的にはあんがいスッコぬけていられる。
 ……まあ単に「ここまで堕ちたらこれ以上堕ちない」とか、そーゆー環境に悪慣れしてしまっただけかもしれないけれど、ああなんかもうどうでもいいや。

          ◇          ◇

 ケーブルで録画しておいた『日本の一番長い日』の新しいほうと、『終戦のエンペラー』を観る。
 爺いのご多分に漏れず、『日本の一番長い日』は、昔の映画のほうがイキオイがあって良かった。岡本喜八監督のイキオイ、橋本忍脚本のイキオイ、どちらも理詰めの上での確信犯的なイキオイである。原田眞人監督が脚本も兼ねた新版は、確信犯的に理詰めではあるが、映画としてのイキオイが足りない。
 で、『終戦のエンペラー』は、あくまで洋画のこと、例によって神秘の国トンデモ日本の連発ではあるが、ああした歴史的事象を個人のメロドラマに収斂してしまう臆面のなさが、なかなか好ましかった。流血の縄張り争いも大量殺戮の応酬も、その細部にホレたハレたがあればこそ、人の道として諦めもつく。

          ◇          ◇

 今年の夏は伝統的怪談が足りないとずいぶん前にボヤいたが、その後、BSジャパンで、古い昭和の納涼怪談テレビ時代劇を連日垂れ流しにしてくれているのを知り、毎日録画している。大半は、子供の頃からすでに見飽きた低予算のショボい出来であるが、中には「うあああああああ、な、なになに、こんなスグレモノを今まで見逃してたの俺」みたいな佳作にも出会える。
 たとえば『日本名作怪談劇場』(1979)の中の一本、『怪談累ヶ淵 沼底に誘う親娘の怨霊』。このシリーズには、中川信夫監督の大奧物など他にも佳作があるが、この一本は、なぜかこの歳になるまで狸は観ずに生きてきた。三遊亭円朝の大長編原作からは、もはやひゃくおくまん光年も乖離しているにせよ、正味45分の短編時代劇として、脚色は見事だし演出も斬新。どっちも娯楽時代劇や時代ファンタジーのベテランとはいえ、この低予算丸出しの短編で、よくもまあここまで新味が出せたものである。
 うん、今年の夏も無事に足りたな怪談。片桐夕子さんの豊志賀は絶妙。哀しくも美しい、底冷えのするような化けっぷりに、思わず萌えてしまった。こーゆー女性に狸は祟られたい。


08月22日 月  濡れ狸

 台風が派手に暴れるとの予報だったので、自主アブレ。
 午前中、寝床の中で、なんじゃやら窓の外がとんでもねー暴風雨になっているらしい音を聞きつつ、「ああ休みにして正解だった」などと能天気に二度寝、午後に起きたら雨も風も治まっていたので、能天気に外出。ところがこれが天による悪辣なトラップであり、突如暴風雨再来襲、持って出たビニール傘と、バッグに入れてあった折りたたみ傘の双方を、立て続けに燃えないゴミにされてしまった。当然、狸自身も、一見ナマゴミと化す。
 でもまあ「あーうー」などと呻きながら蠢いているうちは、まだまだリサイクル可能な資源ゴミなのである。

          ◇          ◇

 先日、古本屋の百均で見つけた、『アマゾン暮し三十年』(東都書房・昭和33年)が面白い。昭和初期にブラジルに入植、耕したり狩ったり飼ったり商ったり、紆余曲折の末に貿易商として大成された、山田義雄という方の著書である。
 で、この山田さん、巻頭の著者近影で巨大な森猫(マラカジヤというアマゾンの野生猫らしい)を抱いて笑っている風貌は、二十年くらい前の西田敏行さんを思わせる、いかにも軽躁病系の笑顔を湛えた、でっぷり型の陽性オヤジである。その著書の内容も、入植後の苦労話などはほとんどなく、アマゾン近辺のブラジル風俗や、先住民といっしょにアマゾンの密林にワシワシと分け入ったりして見聞きした話を、たいへん中庸な視線で記していらっしゃる。
 たとえば先住民が素手でワニを捕まえる方法とか、実に興味深い内容だったので、他の著書がないかと国会図書館サーチで検索してみたら、同姓同名の複数の著者による畑違いの書物は大量にあるが、ブラジルの山田さん関係は、当時の雑誌や週刊誌の記事が、少数あるだけだった。
 30メートル近い大蛇を見た話などは、当時から「動物学的にあり得ない」と批判されたようだ。しかしネッシーやクッシーではなく、あくまで蛇の話である。あり得ないことを証明するためには、大アマゾンに棲息する大蛇を一匹残らず捕獲しないかぎり不可能だ。山田さん自身、とっ捕まえて計ったわけではなく、あくまで遠望した蛇のサイズを、自然の景物と比較して推算しているわけで、狸としては、「少なくとも山田さんは見た」、それでワクワクなのである。10メートルでも30メートルでも、どのみち狸なんか丸呑みにされちゃうもんな。すげえぜ大アマゾン。

 リオ五輪など現在の華やぎとは別状、なにかと悲惨な苦労話の多いブラジル日本人移民史ではあるが、こうした楽天的な肉食系の方だって混じっていなければ、かえっておかしい。


08月18日 木  蒸し狸

 崎陽軒のシューマイのごとく美味しく蒸し上げられつつあるあっちこっちの皆様、狸もまたホカホカと湯気を上げつつ美味しく蒸し上がっておりますので、ああなんかもうどうでもいいや。
 北海道あたりは、かろうじて30度を割っているようだが、でもこんだけ湯気っぽい天気だと、やっぱり蒸され仲間なのだろうなあ。

 4年後のこの時期、東京近郊が、ここまで蒸し上がっていないことを切に祈る。オリンピック自体にはさほど思い入れのない狸だが、「あんなぐぞむじあづい蒸し器のような国に二度と行ってやるものか」、そんな思いを全世界からの訪問者に抱かれるのは嬉しくない。

          ◇          ◇

 本日は神奈川の姉を訪ね、遅ればせながら仏壇を拝んだり、鰻を奢ってもらったり。
 で、珠玉の鰻屋の存在を知る。
 大船の商店街の一角、ちっぽけなアーケード路地の奥にある、シャッター閉じっぱなしの空き店舗に挟まれたちっぽけな鰻屋ながら、モノは三河産の活き鰻、しかも甘ったるくない江戸前のタレで、ちょいと焦がし気味――つまり狸にとってド真ん中の蒲焼きである。それが今どきスーパーの鰻の飴煮と大差ない1450円(鰻重・梅)〜2500円(ひつまぶし)という価格設定なのである。
 店の外からも中からも丸見えの調理場、汗だくのご主人がひとりで阿修羅の如く焼きまくっている様は、ちっぽけな地域密着型飲食店の神髄を見る思いであった。

 もう思い残すことは何もない。
 死のう。
 ……いやいやいやいや。
 あーゆーご主人がこの世にあるかぎり、どんなに蒸し上げられても、しぶとく生きていないとな。


08月14日 日  へんな夢を見た

 ミケ女王様が狸穴のあちこちでオシッコをしまくり、狸がひたすら雑巾持って焦りまくる夢を見た。
 睡眠中の発汗で水分が不足し、無意識の内に聖水プレイを求めたのだろうか。

 ちなみにミケ女王様もブチ下僕も、室内では漏らしません。いや、ミケ女王様は昔いっぺん前科があるが、それっきりである。あのときは、よほど切羽詰まっていたのだろう。
 ブチ下僕は、お漏らしこそしないが、近頃ヨダレに拍車がかかってきた。あくまで微量の分泌ながら、顎の下に一日中蓄えてしまうので、夏場だと水分が蒸発し、粘液状に濃くなったやつが畳に垂れたりもする。垂れる前に拭いてやろうとすると、ティッシュやタオルを見ただけで部屋の隅に逃げてしまう。背中も腹も、尻尾も後ろ頭も撫でほうだいなのに、なぜか顎の下だけは、昔から触られたくないようだ。野良時代のトラウマでもあるのだろうか。

          ◇          ◇

 冬場は月に二度くらいしか洗濯しない不精な狸も、夏場は毎日のようにプチ洗濯をする。いちんちぶんの体液が熟成発酵した衣類は、翌日までほっとくと、エラい有様になってしまうからだ。シーツやタオルケットなどの大物も、安眠しがたい気温の昨今は週一くらいでコインランドリーに放りこまないと、安眠不可能な湿気や匂いになってしまう。

 少しでも安眠のたしにならないかと、こないだ図書館で、ヒーリングやらα派がらみのCDを、2枚ばかり借りてみた。
 しかし、なんじゃやらダルくてかったるいリズムにのって単調なメロディーがフワフワと繰り返されるばかりで、かえってイライラが募ってしまう。とても入眠できるようなシロモノではない。
 これで聴衆がリラックスできると信じている製作側の方々は、よほどシヤワセな生活を送っているのだろう。また、これで安らかに入眠できる方々は、精神状態はともかく銀行口座の残高には、ずいぶん余裕があるのだろう。

 結局、ここんとこの狸は、稲川淳二さんの大昔のテープを聴きながら入眠したりしているのだが――あの初期の、舌が単語に追いつかないほどハイテンポなマシンガントークが、なぜ、これほど心の凝りをほぐしてくれるのか。
 たぶん当時の稲川さんが、現在のような技巧や工夫に頼らず、ただ自然体で蕩々としゃべりまくっているからなのだろうなあ。


08月11日 木  夏想

 録画しておいた天皇陛下のビデオ・メッセージを、ようやくじっくりと視聴。
 あらゆる意味で合理的思考のできるお方なのだなあ、と、感服する。戦後の民主国家における『象徴天皇』としての自己解釈に、微塵も揺るぎがない。
 表立っては述べられなかったが、現代的な国事はもとより古来の神事の継承にも、お心を尽くされていると見た。
 そう。『象徴』だからこそ、お飾り以上に、自己実現の要があるのだ。

          ◇          ◇

 『怪談――玄妙な話』が届いた。期待どおり上品な装丁で、状態も、四半世紀前の本としては上々。
 アマゾンのカスタマーレビューには「『私が遭遇した都会《まち》の幽霊』と同じ内容」などという記述があるが、実際には、文庫化の際に省略されたエピソードもあった。
 AMAZONのレビューやWIKIの内容は、絶対に鵜呑みにしてはいけない。悪意の有無はさておき、個人的好悪や誤謬が、客観的事実のごとく垂れ流されている。まあこの『狸穴雑想』も、無責任の度合いにおいては大差ないわけであるが、じっと巣穴に引き籠もっているだけ良心的だ。

          ◇          ◇

 本日は、人様なみに自主アブレ日。
 久しぶりに平井駅近くの古本屋を覗いて、長谷邦夫先生の『バカ式』(1970・曙出版)などという物件を、600円ポッキリでGET。同時期の『アホ式』や『マヌケ式』も、懐かしく思い出される。それらに収録されたパロディ漫画を一挙に集めた作品集が、今世紀に入ってから出版されているようだが、もはや懐旧命の老狸としては、中学時代に大笑いした曙コミックスそのもの、その『モノ』としての質感が恋しいわけである。

 炎天下、荒川の土手を総武線の鉄橋から京成線の鉄橋までヨロヨロと散歩していたら、なんじゃやら唐突に、めくるめく多幸感で胸が満たされ、思わず足を止め、しばし天空の彼方を見上げ続けたりしてしまった。
 おお、もしや、このハレルヤ気分は――明日をも知れぬ小動物の身にアマテラス様がもたらした啓示!!
 ……なんて、単に、脳味噌の水分が枯渇しただけですね。河原のグランドの水場でガブガブやったら、すぐにうらぶれた狸に戻りました。
 しかし、いっそあのまま昇天できたらシヤワセだったのではないか、などとも思ってしまう今日この頃、皆様方におかれましては、いかがお過ごしのことでございましょうや否や。


08月07日 日  此岸より愛をこめて

 昨夜の江戸川花火大会、仕事で開始時間には間に合わなかったが、後半はしっかり楽しんだ。
 今日はエアコン効かした狸穴で、昼過ぎまで爆睡した。
 それからお握りと水筒を持って、また佐倉に出かけ、かんかん照りの田圃の畦道を麦藁帽子かぶって徘徊、「うわぢぢぢぢぢ」などとヤケクソで苦笑しつつも、遠い幼時の真夏をウツロな頭で反芻した。
 夜は鰻も食った。吉野家の甘ったるい中国産だが、消耗した身には、ちゃんと旨かった。

 もう思い残すことは何もない。
 死のう。
 ……まあ、全人類が滅亡する前にはな。

 などと言いつつ、故郷の菩提寺に電話し、お盆のお経をお願いする。こっちはこっちの仏壇でご先祖様をお迎えするが、墓参りに行けないぶん、あっちの仏壇やお墓にも念仏を補給してもらわねばならない。
 自分はまだ死んでいないので、自分でお布施を送らねばならない。
 そろそろ母親の三回忌の算段もしなければならない。

          ◇          ◇

 古本屋の百均で、面白い文庫を見つけた。『私が遭遇した都会《まち》の幽霊』(1994・二見WAIWAI文庫)。
 書名も装丁も俗な実話系読み捨て文庫っぽいが、著者は、あの山田正弘氏なのである。ぶっちゃけ元祖ウルトラ関係の方である。といってけして夢物語と現実をごっちゃにしてしまうような方ではなく、ウルトラ以外にも、真摯な社会派ドラマの佳作が多い。美意識と良識が、いい具合に釣り合っている方なのである。
 で、内容は――実話系怪談として、実に好著であった。元祖ウルトラ小僧にとっても、正調怪談に飢える老狸にとっても。
 あまりの内容の良さに、この書名や装丁はなんぼなんでもアレだろうと思って検索したら、文庫化される前に同じ二見書房からハードカバーが出ており、そちらの書名は『怪談――玄妙な話』となっている。装丁も渋く、中身にぴったりである。
 アマゾンで本体1円プラス送料の古本が見つかったので、さっそくポチってしまった。
 内容はまったく同一らしいが、電子書籍やテキスト情報ならぬ物質としての書物、やはり中身に相応しい器が望ましい。無論、何千円とか言われたら悩んでしまうが、送料コミでも258円だしな。

 しかし、あるもんですねえ、まだ読んでないスグレモノが。


08月03日 水  粘つく狸に怪談を

 本日は純アブレ。
 いや、あくまで狸自身の選り好みであり、十年前なら受けたであろうタイプの現場の募集はあったのだが、この歳になると、さすがに熱中症や突然死は避けたい。

          ◇          ◇

 新しいけれど古典的な怪談――そんなのを求めて、昨夜、ツタヤでDVDを3枚借りてきた。毎週火曜は割引デーなのである。

 その1、三池崇史監督の『喰女』。四谷怪談ネタ。
 その2、ジョン・R・レオネッティ監督の『アナベル 死霊館の人形』。良作だった『死霊館』のスピンオフ。
 その3、トム・ハーパー監督の『ウーマン・イン・ブラック2 死の天使』。傑作だった『ウーマン・イン・ブラック 亡霊の館』の続編。

 で――うわあ、もののみごとに盛り上がらず恐くもなんともない、「とりあえず企画は予算内で消化しましたからね」みたいな3連発を食らってしまったよ。
 まあ三池崇史監督は、とにかく多作で当たり外れが大きい方なので、「ありゃ今回は消化試合に当たっちまった」と、なんとか諦めもつく。
 しかし、その2とその3は、同じプロダクションのシリーズ企画なのに監督とライターが変わればここまで気が抜けてしまうかと、諦めよりも絶望感に打ち拉がれてしまうようなシロモノであった。

 しかしまあ、調べてみたら、同情の余地はあるようだ。『アナベル 死霊館の人形』は、なんと前作の3分の1の制作費しか与えられていない。もともと前作のオコボレでしかなかったのだ。
 いっぽう『ウーマン・イン・ブラック2 死の天使』は、そこまで低予算ではないようだが、前作の原作者自身がオリジナル・ストーリーを提供し、シナリオにも深入りしているらしい。これはきっとアレなのではないか。昔の邦画『陰陽師』(傑作)と『陰陽師2』(駄作)の根源的な落差。あるいは小松左京大先生が現場でイレコミまくったという『さよならジュピター』の脱力感。高名な小説家が自作の映画化に深入りしすぎて、映画文法(?)をワヤワヤにしてしまった例は多々ある。小説とシナリオは別物なのである。稀に両刀遣いの作家もいらっしゃるが、そうした方々は、たいがい先に戯曲や映像業界の経験があり、自作の小説の骨子さえ、自分でシナリオ向きに変換できる。

 ともあれ、それらの脱力による夏バテを克服するべく、森一生監督の『四谷怪談 お岩の亡霊』やら、元祖『ウーマン・イン・ブラック 亡霊の館』やら、録画してある旧作を、慌てて引っ張り出す狸なのであった、まる、と。


08月01日 月  まだ

 たかこ 「やっほー! まーだだよー!」
 くにこ 「んむ。これは、まだだな」
 ゆうこ 「ごめんね、ごめんね」