[戻る]


02月28日 火  ひとこと

 打鍵中の猫耳物件、第二話を放流しました。
 ここんとこにあります。
 ちなみに第一話にも少々追加しましたので、そっちから続けて読んでもらうのが吉です。

          ◇          ◇

 話変わって、なるほどスマホって奴は、予想以上に小説が読みやすい。長文のテキスト情報に、充分没頭できる。没頭感においては、パソコンのモニターより勝るかもしれない。紙の本が売れなくなるのも道理。
 でもまあ個狸的には、やっぱり全編が物理的にみっしりと重なった、書物が好ましい。
 テキスト情報をインプットすると自動で印刷製本される3Dプリンターとか、そろそろ登場しませんかね。いや別に本屋になんぞ並ばなくてもいいのです。みっしり感が欲しいだけ。


02月24日 金  雑想

 なるほど、慣れれば片手でも、たいがいの操作はできますね、スマホ。
 しかし検索など細かい入力を伴う操作は、やっぱり狸のずんぐりむっくりして短い指だと、どうしても両手が要る。
 巷で歩行中に脳味噌だけどこかに行ってしまって障害物化したり、駅のホームからうっかり転げ落ちたりしそうになる方々も、たいがい両手を使っている。
 要するに片手使用と両手使用では、脳味噌の占有率が、まるで違うのですね。

          ◇          ◇

 こないだ手に入れた『日本の旅情』(岡田善秋・文、布施他人夫・写真、東京新聞出版局・昭和43年)が、面白くてたまらない。
 なんとなれば、今では大自然やレトロ情緒を売りにすっかり観光地化してしまった日本各地のうち、かなりの場所が、当時は大自然すぎて人がいなかったり、レトロすぎて将来が危ぶまれたりしている。
 大阪万博の前あたりまでは、今に倍して忙しかったのですねえ、日本の都会の皆様は。思えば国鉄が『ディスカバージャパン』の旗印を立てたのも、確か大阪万博の年である。
 ぶっちゃけ、あの頃の都会のモーレツ社員が今ほどホームから飛び立ったり首を吊ったり鬱ったりしなかったのは、言うまでもなく、パソコンやネットやスマホが存在しなかったからである。不眠不休で仕事をしていても、脳味噌や両手に、まだ空きがあった。今だと仕事の情報のみならず、本来無関係な世間のアレコレ、さらに憧れの大自然やレトロ地帯の情報までが、脳味噌パンパンになるまで勝手に浸透してくる。そうなると、やっぱり脳味噌や手足の数が足りなくなる。そのうち自分自身の数が足りなくなってしまう。

          ◇          ◇ 

 自主アブレ日。
 朝の9時まで朦朧と遊びほうけ、猫耳物件が倍に増えた。もうすぐ一区切りつくだろう。
 しかし話の進行は、ようやく猫耳娘を家に連れ帰ったところであり、半分も進んでいない。おまけに細部は気分しだいの成り行きまかせ、今後どこまで伸びるか、あるいは唐突に終わるのかさえ見当がつかない。
 ま、いいか。
 掌編を打とうとすると短編に、短編を打とうとすると中編に、いやときには大長編に化けてしまったりするのが、狸のでんぐりがえりのデフォルトである。
 遊びをせんとや生まれけむ。


02月19日 日  狸体不満足

 あのう、一般世間の人類の方々にお伺いしたいのですが、スマホって、すっげー使いにくくないですか?
 いえね、通信機器としての圧倒的な優位性は理解できるんですよ。ガラケーと違って、朝の送迎バスに座って派遣会社のHPをポチポチつるつるするときなどは、とても快適。両手が仕えるし、画面は見やすいし、出勤報告もポチっと指で一押しだ。
 ところがところが――朝晩の満員電車とか、バランス感覚が悪くて吊革なしでは直立不能な狸の場合、ほとんど使い物にならんのですよスマホって。ガラケーなら片手にすっぽり収まって、スクロールボタンも文字キーも独立しているから、ちっこい画面なりに、同じ片手ですべての操作が可能だった。しかしスマホでは、親指でスクロールするのが関の山である。
 まあ、ずんぐりした狸の指が、格別不器用なだけかもしれませんけどね。

 ともあれ、過去に仕事中など何度も痛感していた「なんで人間には手が2本しかないのか」という欲求不満が、スマホ購入以来、日常的につのる狸ではある。
 だいたい、人間形態で直立して生きる場合、1対2本の腕だけでは、明らかに足りないでしょう。直立歩行に進化することによって、いらんことまでこまごまねちねちと欲求しがちな分不相応にどでかい脳味噌を備えてしまった人類のこと、使える腕がたった2本では、たとえ無意識の内にでも生まれてから死ぬまでずっと「ああなんか足んない足んない」と嘆きながら、日々を送ることになる。最低でももう1本、望むらくはもう1対2本、自由に使える手があるべきだ。
 いつまでたっても人類に平和が訪れないのは、そもそもその肉体に、根本的な不足があるからではないか。貧富の差がどーのこーの、飢餓だ飽食だと騒ぐ以前に、ただ生きることそのものにおいて、永遠に満たされない苦悩があるのではないか。なんぼテクノロジーが発達して多機能な情報機器や生活機器や器用なロボットが開発されても、それを操る人類には、しょせん手足が4本しかないのである。
 いつか、腕が4本以上、手指が20本以上あるメカのボディーに、人間の脳味噌をそっくり移植できる時代が来たら、そのとき初めて人類は、次の段階に進化できるのではないか。
 まあ、そのぶんまた脳味噌がでかくなって、「ああやっぱりなんか足んない足んない」とかボヤきながら、あっちこっちでドツキ合うだけかもしれませんが。

          ◇          ◇

 古本屋で、いい感じの100均本を2冊GET。

 まずは信濃毎日新聞社発行の文庫版『黒部の太陽』。言わずと知れた、木本正次氏による黒四ダム建設をテーマとした企業小説である。日本の大人小説としては、狸が小学5年の頃に生まれて初めて読了した作品(ちなみに海外作品の初読了は、同時期、創元文庫の『吸血鬼ドラキュラ』)だった。その講談社版ハードカバーよりも、今回入手した文庫版のほうが、新聞連載時の挿絵なども加わり、ずいぶん親しみやすい。発行は平成4年と比較的新しく、活字も大きくて読みやすい。
 パラ見した段階では、作中の工事予算などを詳述する部分に、昭和版にはなかった平成との貨幣価値感覚の差異なども、きっちり補筆されているようだ。晩年の木内氏は、亡くなる3年前、80歳を過ぎても過去の作品に手を入れ続けていたわけである。元新聞記者の方らしい、立派な根性である。

 もう1冊は、紀行文とモノクロ写真によるハードカバー旅本、『日本の旅情』(岡田善秋・文、布施他人夫・写真、東京新聞出版局・昭和43年)。片田舎の子狸が学習用辞書片手に黒部ダムやら吸血鬼やらの話をちまちま読み進めていたのと同じ頃、日本全国各地を巡る旅が具体的にどんなもんであったか、奇しくも並行的に知ることができるわけである。パラ見したところ、狸の地元に近い米坂線のSLによる旅なども、実にまあ情緒纏綿と記されており、思わず涙腺がゆるんでしまった。
 もっとも米坂線は今でも電化されていないから、現在のディーゼルカーだって、SL同様『汽車』と呼べないことはない。おまけに場所によっては人口減少で昔より鄙びてしまっており、とくに山間の無人駅の秘境感などは、あんがい昭和より平成のほうが増しているかもしれない。米沢近郊や坂町近郊を除けば、窓外の風景も、ほとんど昔のままだろう。
 ああ、生きている内にもういっぺん、米坂線を辿りたい。


02月14日 火  スマホデビュー

 自主アブレにして、スマホを買いに出かけた。

 愛用のガラケーが故障したわけではない。その機能に個狸的な不満があるわけでもない。登録している派遣会社のひとつが、合併だか合理化だかなんだかでホームページを作り替え、狸の超古代ガラケーのiモードだと、アクセスできなくなってしまったのである。ガラケーでも比較的新しいものならファームウェアの書き換えで対応できるらしいが、今どき数年前のガラケーなどフォローしてくれるメーカーはない。
 短期派遣や日雇い紹介で糊口をしのぐ身、外出中にもアクセスできないと不便でしょうがない。「無事就労先に到着しました」とか、昔は電話で済んだ用件が、今はメールすら非常手段、そもそも事務所にほとんど人がいない。基本的にはホームページにアクセスして、狸専用ページのボタンをポチ、である。

 ガラケー初期からドコモ一筋に生きてきた狸は、幸いにしてそっち系の割引がかなり使え、ポイントもしこたま貯まっていたので、初期導入費用は差額164円ポッキリで済んだ。
 これで月々の掛かりも164円だったら驚喜乱舞だが、どう節約して計算しても、従来のガラケーより数百円はオーバーしてしまうようだ。今どきのネットに接続する以上、セキュリティーアプリを省略するわけにはいかない。ガラケーはあくまで電話の仲間だったが、スマホはパソコンの仲間である。
 ……ま、いいか。これで電車の中でも、人並みにつるつるできるしな。
 もっとも、どうつるつるしていいんだか、正直、まだよくわからないガラパゴス育ちの狸です。


02月10日 金  雑想

 雪が足りない。
 足りすぎて困っている地方の方々には怒られるだろうが、やっぱり足りない。
 昨日は東京湾岸でもけっこう降り続けたようで、たまに休憩室の窓から外を眺めて「わんわんわわん」などと吠えていたのだが、喜んで庭を駆け回ってしまうと日銭がもらえなくなる。ようやく帰途についた頃には、ちょっぴり白が混じる程度の霙に変わってしまっていた。
 アブレ日の本日も、天気予報では夕方から雪とのことで楽しみに待っていたのだが、現在、夜半近い夜空には、どーんと月が浮いている。
 ま、いいか。お月様も笑ってるしな。

 夕方、いつものバッタ屋に寄ったら、去年の暮れに1980円で買ったモコモコジャケットが、1280円になっていた。
 とても悔しい。
「ま、いいか」を今年の標語にした狸としては、「この時期、冬物が処分特価になるのは当然当然」と鷹揚に見過ごすべきなのであるが、やっぱり悔しいのだから仕方がない。
 しかし、そうした己の心の狭さをも「ま、いいか」と看過できるところに、「ま、いいか」の値打ちがあるわけである。

 猫耳物件、1シーンだけ打ち進めた。400字詰換算で、たったの5枚。
 ま、いいか。ゼロ枚に比べたら、何倍であるか何億倍であるか、計算不能なほどの進捗である。

 ケーブルの録画で、懐かしの邦画『金環蝕』(昭和50年・山本薩夫監督)を再観賞。こんな話である。
 リアルタイムで見た頃は、そこに描かれる汚濁した金権政治の世界に、少年らしい純粋な憤怒を覚えたりしたわけだが、今や半白髪の親爺としては、とにかく面白いとしか言いようがない。左っぽい社会派に見せて、実はコテコテのピカレスク・ロマン。巨悪の魅力を描くためには一介の市民の生活など歯牙にもかけぬ、山本節が全開である。
 同監督の『あゝ野麦峠』(昭和54年)では、うら若い少女たちを歯牙にもかけぬ無神経な作劇に呆れ、拳が震えるほど憎悪した記憶があるが、犠牲者もまた汚濁した市民であれば、山本監督の欺瞞は完璧なカタルシスに繋がるのである。
 しかし当時の中高年俳優たちの、分厚い存在感は凄まじい。その濃密さだけで、派手なアクションもスペクタクルも皆無の2時間半を、みっちりと楽しませてしまう。


02月06日 月  知故温新

 アブレ日。
 昨夜は例の猫耳物件を打ち進めようと思っていたのだが、なんでだかノスタルジックな短編っぽいアウトラインが次々と脳内に浮かび、それに相応しい音楽など聴きながらぼちぼちと書きとめているうちに、夜が明けてしまった。どれも淡々とした話で、今さら細かく打っても仕方ない気がする一方、ありもしない出来事を心地よく夢想できるうちは、まあ生きてる意味もまだまだあるよな、そう思うことにする。

 例によって午後遅く起きだし、徘徊テリトリー内の古本屋チェック。
 しかしここ2年ほどの内に、新古本系でない正調の古本屋が、また3軒も店をたたんでいる。新小岩で1店、市川では2店。狸好みの黴臭い店が、どんどん減ってしまう。ネット通販だけ続けている店もあるが、肝腎の黴っぽい臭いが嗅げない。まあ、そのぶん古株の店の黴臭さがどんどん濃くなっている気もするので、痛し痒しではあるのだけれど。

 本日は古いアサヒグラフを2冊、各100円ポッキリでGET。
 1975年の1冊は、東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件の記事が目玉。
 今どきの若い人だと、「それってどこの国の事件?」とか首を捻るかもしれないが、歴とした日本人グループによる日本国内での連続爆弾テロである。あの頃は国産の過激派が、国内の大企業を次々とぶっ飛ばしたり、国際線をハイジャックしたり、色々やってたわけである。現在も続く他国のテロを、野蛮だの民度が低いだの、偉そうに言えたものではない。
 1979年の1冊には、それほど大きな目玉記事はないが、なぜか水木しげる先生のどでかいイラストが、6枚も載っている。妖怪関係のイロモノ記事ではない。バリバリの社会派ルポルタージュ、『パイプの森の放浪者 原発下請労働者の知られざる実態』、そんな記事の挿絵なのである。6枚中の4枚は、あのどでかいアサヒグラフで見開き扱いになっているから、それはもうハンパない迫力だ。
 ……うわあ、もはや原発内部が、妖怪の巣窟なみの異形空間!
 しかしまあ、福島原発の地下など、現在立派に地獄の業火を宿しているわけで、杞憂でもなんでもないわけである。アカいアサヒの面目躍如と言ってよかろう。ところでこの力作も、水木先生の大全集に収録されたのだろうか。

 忘れてしまいたい過去も、忘れまいと思う。でないと忘れたくない思い出まで、日々の塵埃に埋もれてしまう。


02月01日 水  天空の虻蜂取らず

 くたびれたので自主アブレ。
 買い物に出た以外は、ほとんどおこたで録画物件のチェック。

          ◇          ◇

『いい旅夢気分』で、こないだ『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』を卒業してしまった太川さんと蛭子さんのコンビが、ローカル路線バスを乗り継がず(いやちょっとは乗ったのだが)のんびりと旅をしていた。テレビ東京による「いやどうも長いことご苦労様でした」的な慰安企画と思われる。タイムリミットがないから、太川さんは終始ふつうの旅番組に出ているときと同じ陽性キャラだし、蛭子さんも長々と歩かなくていいし思うさま高価な肉が食えて楽しそうだし、これなら他の旅番組でも立派にコンビを組めそうである。ぜひ年に何回か、凸凹コンビ旅を見せていただきたい。
 洋画も『真実の行方』やら『ニック・オブ・タイム』やら、まだ観ていなかった佳作を楽しめた。
 邦画も、舟木一夫さんの歌謡曲映画『高原のお嬢さん』で、過去の蓼科高原の想像を絶する美景に仰天したり、今はなき横浜ドリームランドの活況に憧憬したり、長いこと録画しっぱなしでチェックしていなかった江利チエミさんの実写版『サザエさん』シリーズを楽しんだり。
『サザエさん』の初期作でワカメちゃんを演じた子役時代の松島トモ子さん、もう原作漫画に負けずにパンチラしまくりで、とにかくかわいい。社会の表層ですら無邪気が邪気に呑まれてしまう今世紀の現実を思うと、ああ狸は前世紀なかばの子供に生まれてほんとうに良かったなあ、と、己の幸運を痛感する。たとえばテレビの『チャコちゃんシリーズ』では、小学校高学年の女児たちが、温泉の大浴場で元気に泳ぎまくっていた。芸能雑誌のグラビアでも、人気の童謡歌手や子役たちが、和気藹々と温泉旅行を楽しんでいた。無論、水着やらバスタオルやらを使った非常識な入浴などしない。それは大人の女優だけに課せられた、不自然きわまりない司法対策だったのである。

 閑話休題。

 で、本日の雑想のタイトル、そのネタである近頃の話題作『天空の蜂』――。
 力作であることは認める。テーマの重さも登場人物の苦悩も、痛いほど感じられる。
 しかし――煽り優先の不自然な演出、これはまあ日本の映画制作現場で全権を握る監督のやることだから仕方ないにせよ、このあまりにも技巧的に未熟な脚本、誰か「そこちょっと変じゃないですか」とか、言わなかったのだろうか。「おいおいその状況でなんでそんな話を持ち出す」「そりゃ人間のセリフじゃなくて観客用の心情解説だろう」、そんなシーンがてんこもりである。テーマも筋立ても役者さんも、CGの出来も良好なのに、全体的には、つくづく無念な作品なのであった。
 ああ、もし壮年期の橋下忍さんが脚色し、全盛期の黒沢明さんあたりが撮っていたら――考えるだけ虚しいか。
 今さらご両人を隠居所や彼岸から担ぎ出したとしても、晩年の作風とはジャンルが違いすぎる。

          ◇          ◇

 明日もアブレだ。さあ、ユルむぞ。