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03月29日 水  死んでない

 昨日から、主に布団の中で生きている。久々に扁桃腺が腫れ上がり、さらに久々に中耳炎を併発してしまった。
 先週末から少々アヤしかったのだが、まあこんくらいなら自然治癒可能と判断していた。しかし月曜の朝――あの真冬のような雨の中、間が悪いことに、傘も役に立たない吹き降りの道を出勤する羽目に陥り、働いている間にゴンゴン扁桃腺が腫れていく感覚を、実にまあ久々に体感した。そして帰穴した頃には、ある意味懐かしささえ覚える内耳のボワボワ発熱と、重苦しい傷みと難聴感――。
 当然、昨日は休んで医者に行き、キツめの抗生物質を貰ったから、今日は回復に向かいつつあるのだけれど――ちょっと今月は、懐も厳寒なのよなあ。食うのがギリギリ、家賃がちょっとヤバい状態なのよなあ。
 ……ま、いいか。
 過去にも何ヶ月が滞ったことがあるが、いきなり狸穴から放り出されることはなかった。生きてさえいれば、そのうちなんとかなるだろう。最悪でもホームレスにはなれる勘定だ。

          ◇          ◇

 発熱をいいことに安穏と惰眠を貪っていても、ラジオからは不穏なニュースを流れてくる。
 やくたいもない政治経済関係だの、いい歳こいて幼稚園児のような大人達のゴタゴタなどは、老狸のことゆえ「もう勝手にしとけ」と耳を塞いでしのげるが、ロリ関係の事件だけは、何十年生きていても、冷静に聞き流せない。
 カタツムリのように急速に打ち進めている猫耳物件、ギャグながら、いやギャグだけに、ロリに仇なす鬼畜などは情け容赦なく地獄に送る予定なのだが、初期の予定より遙かに無惨に屠ってやろうと思う。


03月23日 木  生きる

 野良猫が孤高に生きるためには、『孤』のための『高』が、どうしたって不可欠である。しかしたとえば都会の野良猫などの場合、なんぼ己を『高』に保っても、生きるための食は思うように得られない。鼠も雀も魚も、めったにそこいらをうろついていないからである。うろついているのは同じ野良猫や、自由徘徊中の飼い猫ばかり、といって同じ種の猫を襲って食ったりしたら、『高』ではなく『狂』に堕ちてしまう。

 と、ゆーわけで――本日もミケ女王やブチ古老(老齢ゆえ下僕は引退し、近頃は女王様に介護されているっぽい)と同伴帰穴、ささやかなナマモノやポリポリをふるまっていると、だいぶ前に狸穴にも忍びこんだことのある野良が、玄関口から覗きこんでいた。虎縞の巨体は去年の野良に間違いないのだが、顔つきがまったく変わっている。なんじゃやらくりくりした、つぶらな瞳で狸を見ている。まるで『ホワッツ・マイケル』のマイケルが巨大化したような愛嬌っぷりなのである。
 あのときは盛んに警戒していたミケ&ブチも、今回は、まったく気にしていないようだ。それどころか、先に狸穴を退出したブチなど、その虎猫とすれ違いざまに、すりすりと親愛の情を示したりもした。推測するに、以前は餌を横取りされる側だったのが、今は餌を分け与えてやる仲になっているらしい。
 ならば、狸も妥協するにやぶさかではない。去年のようにずうずうしく台所に上がりこんできても、いたずらに足蹴にはするまい――そう思って、巨大マイケルをながめていたら、巨大マイケルは無理に上がりこむそぶりはなく、ただ玄関口の外に座ったまんま、「……あのう、もしよろしかったら、その豚コマやポリポリ、ちょっとでいいから私にもいただけませんでしょうか。いえいえ、無理にとは申しません。ミケさんやブチさんの、ほんのオコボレでけっこうです」――そんな感じのつぶらな瞳を、あいかわらず狸に向け続けている。
 ミケ女王様用の豚コマは残念ながら余剰がないが、ブチ用のポリポリはたっぷり残っている。それを三和土に置いてやると、巨大マイケルは「……いいんですか? けして私、勝手にいただくんじゃないですよ。あくまであなたの許可を得た上でいただくんですよ?」、そんな感じでしばらく逡巡したのち、おずおずと皿に取りついた。いったん食い始めれば、そこはそれ飢えた野良、がつがつぼりぼりの貪り食いである。
 で、結局、狸穴に飽いたミケ女王様といっしょに、仲良く帰っていったわけだが――。

 孤高の『高』を失う代償として孤独を脱するということが、都会の野良猫や野良狸にとって、哀しいことであるか、望ましいことであるか。
 いずれにせよ、生きるために盗み続けるのが、実は生きるために不利な行為であると悟ってしまったイキモノには、「ま、いいか」、そんな妥協も愛嬌も、大切な知恵なのである。


03月17日 金  スマホ探して時速6キロ

 アブレ日。
 ようやく電車内つるつるにも慣れてきたスマホを、徘徊中に紛失してしまった粗忽な狸は私です。

 真間川沿いをお散歩中に、天気が良すぎて汗ばんできたので、上着を脱いだのがいけなかった。やがて帰途についた夕暮れの千葉街道、寒くなってきたので上着を羽織ったところ、胸ポケットに入れておいたスマホが、きれいさっぱり無くなっていた。大事な物を開けっ放しのポケットに突っこんでいた狸がひたすら愚かなわけであるが、このところ、上着を脱いで手に持って歩くこと自体が実に久々の行為であり、ついルンルンと振り回したりもしてしまったのである。
 で、しばし呆然と佇んだのち、とにかくそのスマホに電話を入れてみようと、狸は考えた。すでに誰かが拾ってくれたなら、その誰かが出てくれるかもしれないし、路傍に落ちっぱなしなら留守録音声が応えてくれるだろうし、もし車に轢かれてぺっしゃんこになったり真間川の底に沈んだりしていても、それ相応の反応が得られるだろう。
 しかし――時代感覚がズレきった老狸は、今どきの世間をなめていたのである。こんな爺いでもスマホをつるつるしている現代社会、そもそも公衆電話というシロモノが、すでにどこにも存在しないのですね。コンビニ前だろうが千葉街道沿いだろうが。

 結局、とりあえず最寄り駅近くまで戻り、まずは交番で紛失届けを出した。交番経由で見つかるのを期待したからというより、それが万一どこかの馬鹿に拾われてオレオレ詐欺とかに悪用され、狸に嫌疑がかかるのを恐れたからである。そもそも交番のお巡りさんが、狸にとって道案内以外の役に立つのは、窃盗・暴行・殺人等に直接関わってしまったときだけなのではないか。昔の超絶極貧期、有り金とキャッシュカードを残らず落っことしたときも、お巡りさんがやってくれたのは『どこかの交番に届いたら連絡してくれるという約束』、ただそれだけだった。その日暮らしの一文無しが、せめて明日日雇いに出る交通費だけでも借りられまいかと懇願しても、ビタ一文貸してくれなかったし、その後十何年、一度も連絡はない。

 で、次にやるべきは、ドコモに連絡して回線を止めることだが、それも交番でやってくれるはずはなく、自分で番号を調べて自分で電話しなければならない。
 しかし交番で血の通わない機械人形のようなお巡りさんに接するうち、粗忽な狸の脳味噌も、なんぼか冷めてきたわけである。そもそもこの日本、道行く人々の大半は、交番のお巡りさんよりも他人に親身である。人目のある場所で何か落っことしたら、たいがいその場で「何か落としましたよ」と教えてくれる。逆に、ほとんど人目のない、たとえば真間川沿いの閑静な道や住宅街で落としたなら、なんぼアルツ気味の老狸だって、自分でその落下音に気づくはずだ。なにせモノはガラケーに倍する重さのスマホ、ハンカチやティッシュではない。
 ならば落としたのは、あまり人目がなく、しかも騒々しい場所――。
 狸は、ようやく気がつきました。徘徊中に唯一立ち寄った、それらしい場所――3キロほど離れたホームセンターのユニディ――そう、あそこしかないのではないか。立ち寄ったのは平日の午後ゆえ客足もまばら、しかしBGMだけは元気にチャカチャカと流れていた。
 と、ゆーわけで、交番を出てからおよそ三十分後、大昔の不動産広告級の高速歩行で息を切らした狸は、ユニディの親切な若店長さんにヘコヘコ頭を下げながら、無事にスマホを受けとったのであった。

 ネット上などでは何かとギスギスした話の多い昨今だが、狸はやっぱり、この国の一般市民の人心が愛しい。交番にいた間だって、銀行の前でキャッシュカードを拾ったという若い衆が、名前も告げずにお巡りさんに渡していった。
 機械人形のようなお巡りさんだって、もし狸が鉄砲で撃たれたりしたときは、生き生きと捜査してくれるに違いない。


03月11日 土  誰も行けないところへ

 相変わらず金も暇もないので、どんな金満家だろうが暇人だろうが絶対に行けない旅を求め、過去の旅本に耽っている。
 現在は『目白三平 駅弁物語』(中村武志著・昭和62年・旺文社文庫)を、十何年ぶりに本棚の奥から引っ張り出して再読している。
 今どき「そんな作者も本も知らねーよ」な方々が多かろうが、作者の中村武志氏は、内田百關謳カの『阿房列車』にときおり登場する見送亭夢袋さんその人である。国鉄に在職しながら小説やエッセイを発表し、とくにサラリーマン小説『目白三平シリーズ』は、狸が幼少の頃に大衆的な人気を集め、映画化までされている。
 で、狸の愛する文庫版『目白三平 駅弁物語』は、小説ではなく、駅弁本でもなく、旅のエッセイをまとめたもの。元本にあった昭和30〜40年代のエッセイが中心で、それ以降、バブル期に至る頃までのエッセイも少数収録されている。
 いいのだなあ、これが。
 今も大事にちまちまと読み続けている『日本の旅情』(岡田善秋・文、布施他人夫・写真、東京新聞出版局・昭和43年)よりも、書きっぷりが大衆文学寄りなぶんだけ、もはや失われてしまった日本各地の風土風俗の中を、のびのびとくつろぎながら脳内旅行できる。

 今現在も過去を残している土地は、多々あるだろう。
 ぶっちゃけ、この地球上に過去を持たない土地なんぞ皆無なわけで、たとえば『ブラタモリ』のように知的好奇心に充ち満ちた旅をするのも、金と暇と意欲さえあれば可能だろう。先日BSで再放送された『新日本風土記』の『新潟 山古志』など、あまりに濃密で多様な雪国の過去の残像に、ほとんど酔っ払ってしまったくらいだ。しかし今の狸に金と暇がいきなりどーんと降ってきて、意欲満々で現在の山古志村を訪れたとしても、今に残る残像から過去を追体験するのは、到底不可能に思われる。狸はタモリさんのような素養も環境も持たないから、過去の具体的映像のみならず、過去の旅人の文才に頼るしかない。

 もちろん、ありもしない土地の映像化や文章化でも大いに結構なわけだが――『実感』まで得られ、かつ『そこに生きたくなる』ような作品は、めったに見つからない。


03月05日 日  貧乏オーディオ

 ヘッドホンをフィリップスのSHL3160に変えてから1年以上が過ぎ、いわゆるエージング効果なのか耳が慣れただけなのか定かではないが、たった2480円の物件としては不思議なほど、日々快適に使えている。この手の物件は、モデルチェンジしたら最後、二度と似たような音が聴けなくなることが多いので、念のため同じ型番をもう一個、アマゾンでポチっておくことにした。なんと1889円まで値が下がっていた。ラッキー。
 ただ、長く使うにつれて、その前に使っていた1万円近いパナソニック物件と、意外な違いがあるのにも気がついた。MP3ファイルの圧縮率の差が、きっちり聴きわけられてしまうのである。つまり同じCDからMP3にエンコードしても、128kbit/sec以下と192kbit/sec以上で、音の潤いに明確な差が出てしまう。こんな再安価モデルでそんな些細な差を判らせてしまうフィリップスがすごいのか、96kbit/secだろうが192kbit/secだろうがそれなりに心地よく聴かせてくれていたパナソニックのヘッドホンがすごかったのか――まあ、そこんとこはきわめて微妙なわけだが、何年か前の極貧期に、所有CDのほとんどを128kbit/secのMP3ファイルだけ残して売り払ってしまった狸としては、なかなか痛し痒しなのである。
 なんで最初っから192kbit/sec以上にしておかなかったのか――それはズバリ、狸が爺いだからである。最初に買ったウインドウズ95のパソは、HDDが2ギガぽっきり。すべての外部記憶装置はウン万ウン十万。そもそも最初に買った携帯用MP3プレーヤーにしてからが、128kbit/sec以下のファイルでないと再生できなかったり。

 ♪ そんな〜〜時代も〜〜ああ〜ったねと〜〜〜 ♪

 などと哀しく歌っているバヤイでもないのである。大事にとっておいた数枚のCDを除いて、何百という愛聴曲が、128kbit/sec以下のMP3でしか残っていないのである。
 と、ゆーわけで、MP3エンコードなどという不可逆的な圧縮をかけてしまった音源に、たとえ錯覚であっても、いかにそれらしい潤いをとりもどすか――ひたすら各種のフリーソフトを試しまくる狸なのであった、まる、と。


03月01日 水  まだ

 タマ 「やっほー! まーだだよー!」
 A子ちゃん(仮名) 「……まだかなあ、あたしの実名報道」