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08月31日 木  さらばカユい光よ

 一昨日あたりが、今年の数少ない夏らしい夏日の、最後だったのだろうか。午前中に上半身から膝あたりまでしとどに濡れそぼり、午後には何度もタオルを絞り、帰穴したら腰からケツにかけて熟成発酵してしまい、アセモだらけになっていた。
 で、昨日は曇天でさほど暑くなく、本日アブレ日、目覚めれば地べたには雨の跡、涼しいくらいの北風が灰色の空の雲をぴゅうぴゅうと南へ押し流している。これはどう見ても秋の曇天だ。
 まあ夏の青空はもう諦めるとして、これから秋の青空が無事に訪れるものやら、かなり心配な今日この頃である。

 などといいつつ、久々にエアコン不要の熟睡、昨夜は午前3時頃に就寝し、本日起床したのは、なんと午後の3時であった。途中でいっぺん小用をたしたり水を飲んだりした記憶はあるが、それにしても半日布団の中に横たわりっぱなしなど、何ヶ月ぶりだろう。やっぱり疲れが溜まっていたのだろうなあ。
 そういえば甘木様がブログに記していた、おそらくは発汗熟成発酵による下半身の惨劇、その後、治まったのだろうか。狸はダイエットして以降、真夏でも股間の惨劇はほぼ回避でき、腰の後ろからケツの上にかけてが主な汗疹エリアになっている。
 赤ムケの股ズレも今となっては懐かしく――いやいや、アレは死ぬまで再体験したくないぞ。痛いし痒いし鬱陶しいし。

          ◇          ◇

 図書館で、獅子文六先生の『ちんちん電車』(河出文庫・2006)を借りてくる。元々は昭和41年(1966)に、週刊朝日に連載したエッセイである。滅びゆく都電に乗って東京の過去を回想する老大衆作家――ズバリ、狸の好みである。連載の3年後に先生は亡くなり、都電もまたその5年後には、わずかに荒川線を残すのみとなってしまった。

 狸が幼い頃はきっちり本屋や図書館に並んでいたものの、その後いっとき世間から忘れられかけた獅子文六先生の娯楽小説群も、近頃は、ちくま文庫あたりで続々と復刊されつつあり、昭和11年から12年に新聞連載された『悦ちゃん』などは、現在、NHKで連続ドラマになっている。小学校の図書館で読んで以来、今に至るも原作の大ファンである狸としては、当然、毎回しっかり見ているのだが――。
 ううむ、これはこれでまずまず楽しいのだけれど、あくまで原作とは無縁の異世界ファンタジー、そんな感じではある。映画版『三丁目の夕日』の3作目を観たときの印象に近い。つまり当時っぽいレトロさをウリにしながら、当時の人心や世相を忠実に描こうという気は、ほとんどないのである。あるいは根本的に勘違いしている。
 しかしまあ、制作者たちの世代を考えれば、やむを得ないのかもしれない。親の世代が実際に『悦ちゃん』の時代を生き、子である自分が実際に『三丁目の夕日』の時代を生きた狸の記憶を、お若い方々の想像力や創造力に重ねようとしても仕方がない。
 でもね。
 どんなに古い時代のドラマにせよ、当時の世相の客観的な記録をある程度つっついておけば、それに現在の人心をツッコんだところで、少なくとも異世界ファンタジーにはならんと思うのよ。どっちも、まじめにやってれば。

          ◇          ◇

    
勧君金屈巵
    満酌不須辞
    花發多風雨
    人生足別離


 以上、于武陵の五言絶句、タイトルは『勘酒』。
 日本では、井伏鱒二先生の名訳が、広く知られておりますね。

    
この杯を受けてくれ
    どうぞなみなみ注がしておくれ
    花に嵐のたとえもあるぞ
    さよならだけが人生だ


08月25日 金  夏は来ぬ

 自主アブレ日。

 昨日、珍しく午後いっぱい晴天が続いたことは、仕事場や休憩室の窓から空を覗き見て知っていた。
 本日の天気も、昨夜時点の予報では珍しく一日晴れっぱなしで猛暑になるとのこと、楽しみにしていた。
 で、昼過ぎに目覚めたら確かに真夏っぽい陽射し、「おお、ついに今夏初の炎天下徘徊!」などと脳味噌を沸騰させつつ、江戸川の土手に這い上がったところ――ううむ、やっぱり小一時間で薄雲が流れ始め、アマテラス様は出たり引っこんだり、あくまで出し惜しみのご様子なのであった。
 それでもしっかり気温は35度に届いたようだし、少なくとも日が差している間は、コンビニで奢ったアイスコーヒーの黒ストローが唇に熱く感じられるほどの炎天だったし、ただうだうだと散歩してるだけなのに上半身からジーパンの腰まで汗でびしょ濡れになったし、まあ、久々の真夏気分は味わえたわけである。
 問題は、久々の夏に酔ってしまったのか、帰穴後のプチ洗濯を終えた今も、軽い頭痛や胃のムカムカが治まらないことだが――ちょっと無茶しすぎましたかね、この歳で。
 しかし、ぐったりと脱力しつつも、けして脳味噌自体は萎縮していない。明日も連チャンのアブレなので、体も回復するだろう。

          ◇          ◇

 なんじゃやら昨日の朝日新聞の一面トップに『書店ゼロの街 2割超』などという見出しが躍っており、全国1898の自治体・行政区の内420から本屋が1軒もなくなっていると大騒ぎしていたが、今どき新刊書店で扱っている書物は魚屋や八百屋と同じ生鮮品ばかりなのだから、地方の商店街の個人商店が大駐車場を擁する郊外型SCに駆逐されるのと同様、本屋だって減って当然である。公営図書館さえ、大手のレンタル屋に仕事を丸投げしかねない時代だ。
 狸としては、いっとき絶滅するかと危惧された巷の正調古書店が、ガタ減りしつつもネット通販等の策を採ってしぶとく生き残っていることを、大いに寿ぎたい。無愛想な店番の兄ちゃんに「ああまたこの爺い50均100均ばっかし漁りやがって」と鼻であしらわれつつ、そのカウンター横に大量の発送準備済み封筒が積んであったりすると、「おお兄ちゃん頑張ってんな」と、心からねぎらってやりたくなる。

 本日の100均獲得物件、『ギラム』(唐木隆司・著 鱒書房 昭和27年)。
 太平洋戦争末期のニューギニア、奥地に潜んだ数名の敗残兵が、敗戦を知らないまま原住民とともに生きた2年間の記録である。
 帯に寄せた大岡昇平氏の推薦文に『私も小説「野火」で似たやうな敗走の運命を辿ってみたが、状況を暗く考へすぎたかも知れない』とあり、気を惹かれてパラ見してみたら、まさにあの陰惨なる孤独と狂気の戦地、仲間の肉まで食っちゃう『野火』の対極、あの手この手で原住民と融和することにより、しぶとく次の作戦指令を待った唐木さんたちの実話である。
 なにせ、本編の前に酷熱のジャングルや酷寒の高山地帯を踏破し、すでに10人にひとりの生存競争(ニューギニアに送りこまれた日本兵は約20万、生還したのは約2万に過ぎない)をくぐり抜けたタフな兵隊さんたちの話だから、まあ敵と戦って死ぬ覚悟はあるにせよ、それまではなるべく正気で生きているのが、人生のデフォルトなのである。
 そういえば水木しげる先生が片腕を失ったのも、ニューギニア戦線であった。餓死せずに済んだのも、原住民と仲良くできたからである。
 殺し合う相手は、敵兵だけで充分だものね。


08月19日 土  雑想

 アブレ日。

 例によって明け方までポコポコし、昼過ぎに目覚めたら、なんとも珍しくカンカン照りの空、これならどんなびしょびしょの発汗も厭わないぞ、と張り切って徘徊を始めたところ、あっという間にお天道様は濃淡まだらな雲に覆われ、しまいにゃ雨が降り出した。傘を持って出なかったため、どのみちびしょ濡れである。
 あー、なんか、もうどうでもいいや。
 しかしまあ、都心も含め、あっちこっちでとんでもねーゲリラ豪雨に見舞われたようだから、狸穴近辺は、まだシヤワセなのだろう。
 それに「あーくそ今日も結局びしょびしょかよ」と嘆くにしても、汗と雨では「あーくそ」の性質が違う。汗だと陰に籠もった唸り声の「ぐぶうあぁぐぞおぉうぅ」になりがちだが、雨だと、ただヤケクソの悪態で済む。

          ◇          ◇

 打鍵中の猫耳物件、もはや客観的には、狸以外の誰にとっても意味がない状態になっているようだ。
 まあ落ち着いて読み返してみれば、主観的にも意味のない部分がてんこもりである。もともと非ロリ野郎の方々にとっては突っつきようのないロリ話に、狸の発作的な繰り言まで、好きなだけ挟みこんでいる。こないだの更新分は、とくにその傾向が強い。
 ちょっと刈り込んで、ストーリー展開を早めてみようか。
 でも、それだと、ますます節操のないロリ話だけになってしまう気もする。
 ……いいか、それで。もともと節操のないロリ話だもんな。

          ◇          ◇

 ところで、N村様のツイッターで知ったYOUTUBEの動画があんまり面白かったので、ここにも貼ってみる。
 こーゆーシニカルなギャグを臆面もなくカマせるところが、あの国のメディアの底力なんだよなあ。

     


08月15日 火  シケりゆく世界

 北の国の金坊ちゃまも、どこまで米の国の坊ちゃまや日の丸の国の坊ちゃまの存在感を、世界中で高めたいやら。
 もはや貶めようなどという気概は、微塵もないのだろうなあ。ウチの国だっておんなしくらい目立ちたいんだ。ボクだって世界中に目立ちたいんだ。

          ◇          ◇

 昨夜放送されたNHKスペシャルの『樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇』、番組中で何度か「知られざる悲劇」という表現が使われ、昔から知っていた狸としては、やや違和感を覚えた。しかし、確かに学校や家庭で教わったのではなく、映画『樺太1945年夏 氷雪の門』(1974)あたりで知って興味を抱き、史実のほうも囓ってみたわけだから、ほっときゃ昨夜まで知らずにいたのかも――いやそんなことはないぞ。確か何年か前に、民放のドラマでも取り上げられていたはずだ。
 腑に落ちない。なんかどうしても「知られざる悲劇」にしときたいのだろうか。
 ともあれ戦争というものが、「はいおしまい。終戦です」とラジオ放送された瞬間にきっちり終われるほど単純でないことだけは、未だ戦争の続く世界に生きている人類の一員として、肝に銘じておかねばならぬ。

          ◇          ◇

 しかしまあ、よく降る雨である。さきおとといの午後あたり、なんとかお日様の顔を拝んだ記憶はあるのだが、それとて白黒まだらに流れる雲間からであり、気温だけしっかり上げといて、湿度を下げる前に隠れてしまった。
 あとはずうっと、ドンヨリジメジメシトシトが続いている。今日明日は連チャンでアブレなのに、徘徊する気力もない。こうなると、例年辟易している炎天続きが、心の底から恋しくなる。
 出でよ太陽。
 気温37度・湿度50パーセントの炎天下でも、気温27度・湿度90パーセントの曇天下でも、せっせと動き回れば、どのみち狸は汗だくなのだ。


08月11日 金  納涼

 ケーブルで録画予約した稲川淳二さんの怪談だけが、なぜだか録画に失敗してしまう。1度や2度ならともかく、3度も続くとさすがに首を捻る。同じチャンネルの他の番組は、ちゃんと録画されているのだ。
 本当にあった呪いのビデオっぽい類似品も試しに録画してみたが、正直、5分と見ていられない下手なヤラセばかりである。それでもレンタル屋などには大量に並んでいるのだから、近頃の視聴者は、よほど恐怖に対してユルいのだろうか。それとも、笑ってツッコむのが楽しいから観ているのだろうか。
 他にもNHKのBSあたりで何本か怪奇特番が流れ、これはきっちり録画できたが、番組としては興味深かったものの、残念ながら恐怖のカケラもなかった。

 などと愚痴ばっかりこぼしつつ、そうした超自然現象モノやら心霊モノやらに幼い頃から惑溺しすぎて、不感症になってしまっているのも確かである。そもそも自分自身、すでに此岸よりも彼岸に近い年齢なのだ。親しみを覚えた多くの人々が、先にあっちに渡ってしまってもいる。
 そうなんだよなあ。
 亡霊や祟りを怖がるより、亡霊としていかに生者を恐怖せしめるか、どう祟ったら生者がより怯えてくれるか、そろそろ、そっちのほうの算段をしておかねばならぬ。
 ……なんだか暑苦しい霊にしかなれない気もする。

          ◇          ◇

 で、唐突に話題は変わり、冷や奴。
 相変わらずドンヨリとシケりきった空が続き、午前中にかいた汗が風呂に入るまでぬめぬめぬめぬめとぬめり続ける東京湾岸、毎晩のように食う冷や奴だけが、狸の生きる希望となっている。毎晩のように、というのは実は間違いで、今月に入ってからは、マジに毎晩、食い続けているのである。
 まったく飽きない。清涼で、しかも身になる。
 秋が来るまで、このまま毎日食い続ける予定。


08月05日 土  八月の濡れた夜

 アブレ日。

 しつこいようだが、とにかくこの夏、東京湾岸の湿気には容赦がない。
 ニュースで聞く各地の豪雨や猛暑には重々気遣いつつ、連日の天気予報で東京あたりが「明日も蒸し暑いでしょう」と言われるたび、心がドンヨリと濁ってしまう。そう、ゲリラ豪雨に襲われるでもなく、最高気温が35度を越えるわけでもなく、ただただドンヨリと曇って蒸し暑いのである。
 狸の場合、日々の糧を得る場にたいがい冷房がないので、天気予報で「熱中症を避けるため、喉が渇かなくとも定期的に水分を補給し、適度に冷房を使いましょう」ウンヌンのキマリ文句が出ると、サワヤカに冷房が効いているであろうそのテレビ局やラジオ局を、ことごとく爆破してやりたくなるのである。こちらは一番体を動かすときに限って、その片方しか、やりたくともできない。

 本日もぐしょ濡れになって買い物から帰り、全裸になってミケ女王様やブチ老僕としばし戯れたのち(いやべつにイケナイことをしたわけではありません)、半裸でプチ洗濯をしていると、外から花火の音が響き始め、猫たちはびっくりして、いつもの非難場所である裏の物置に逃げて行った。
 本日が江戸川花火大会の日であることは狸も知っていたのだが、これ以上着衣で発汗し続けたくないので、今年は足を伸ばさなかった。
 建物の屋上に出るのも疎ましく、狸穴のベランダで洗濯物を干しながら、お向かいの屋根越しに花火を見物する。
 狸穴の立地上、低い花火は音しか聞こえないが、ちょっと高く上がる花火だと上半分が拝めるし、尺玉級の大物は、花全体が拝めるのである。
 うんうん、ちょっとちっこいけど、風流風流――などと、うなずいている間にも、半裸の全身には、たらありたらありと汗が流れ続けているのであった。

          ◇          ◇

 某所に猫耳物件の第四話を追加
 塵も積もれば山となる。
 まあ、あくまで塵の山なんだけども。


08月01日 火  濡れはする カビはしない

 ちょっと気温が下がれば湿度がどーんと上がり、湿度が下がれば気温が上がり、結局、日々まんべんなく自らの水分に濡れそぼっている狸なのであるが、まあ、特には腐っても黴びてもいないようなので良しとしよう。脳味噌だって、バテてはいるが死んではいない。その証拠に、打鍵物は僅かながらも増え続けている。ただ、ちっとも話が進まないだけだ。

          ◇          ◇

 小松大先生の短編集『旅する女』、じっくりと読み進めている。『歌う女』を再読しつつ、電車の中で魂がわななき、「うああああ」とか嗚咽を漏らしそうになったりもする。
 前に角川文庫で読んだときは、確か二十代なかば、新宿店から埼玉の鶴瀬店に異動が決まり、引っ越し先を探しに、当時住んでいた杉並の上井草から、なぜだか路線バスで埼玉方面に向かう車中だったと記憶している。電車なら、新宿と池袋で乗り継げば一時間半程度で着けるところを、わざわざ倍以上も時間を食うバスに乗ったのは、太川&蛭子のバス旅にハマる遙か前から、ローカル路線バスの乗り継ぎが好きだったからである。で、その車中、やっぱり「うああああ」とか悶絶していたわけだが、そのときの悶絶は、主に小松大先生の博識、そして圧倒的な語彙に悶絶したのであって、すでに失われた戦前の市民社会=階級社会そのものに対する魂レベルでの哀悼を、ここまで感じてはいなかったように思う。若かったのですねえ。
 うん、その後とことん尾羽うち枯らしたぶん、ある意味、老後の楽しみは増えているぞ俺。

          ◇          ◇

 行きつけの図書館で、何ヶ月かぶりに橘外男先生の著作を検索したら、なんと蔵書が増えていた。戎光祥出版とやらが2015年に出版した『ミステリ珍本全集』
とやらの第六巻『橘外男 私は呪われている』――そんなのを、わざわざ揃えてくれたのである。
『私は呪われている』は、もう小学校の頃に読んでいる。偕成社から出ていた児童向けの『怪猫屋敷』にハマり、父親の本棚に同じ作者の『私は呪われている』があるのを見つけ、ひっぱり出して読んだら、これがほぼ似たような内容の化け猫話の大人版で、このソトオさんという面白い名前のヒトはよほど化け猫が好きなんだなあ、などと思ってしまった記憶がある。その後、中学高校と、主に図書館で橘ワールドにズブズブとはまりこみ、やがてカルト狙いの短編集が編まれたりして自分でも所有できるようになり、それらの書物を貧窮ゆえに売り払ってしまった今も、いにしえの珍作家(力いっぱい褒めてます)橘外男は、我が心の師と言っても過言ではない。
 で、今回見つけた戎光祥出版の、ブ厚いハードカバー本には――おおおおお、単行本未収録の短編のみならず、あの少女向け長編『双面の舞姫』と『人を呼ぶ湖』が、昔の偕成社版の挿絵をまんま散りばめて、きっちり収録されているではありませんか。なんて、実はまだ読んだことなかったんですけどね。国会図書館でデジタル化されたのは知っていたのだが、その後、あそこまで足を運ぶ暇と金がなかったんで。まして何万もする古書なんぞ買えるはずもないし。
 で、さっそくその場で読んでしまいました、とりあえず昔から気になっていた『人を呼ぶ湖』を。

 ……ブっ飛んだ。
 こ、この際限のない幻視力は何ならむ。箍の外れたお耽美力は何ならむ。おまけに話全体を実話のごとく、今で言うフェイク・ニュース形式に仕立て上げているぞ。狸が生まれる前に『少女の友』を読んでいた乙女たちは、穢れなき顔をして、こんなとんでもねー怪奇美に淫していたのか。

          ◇          ◇

 もう300年も前の方だが、いわゆるゴシック・ロマンの創始者と言われる英国の作家ホレス・ウォルポールは、こんな言葉を残している。
 
――この世は、考える者にとっては喜劇であり、感じる者にとっては悲劇である。
 たぶん、そのどっちも同時にやれるのが、優れた作家なんですね。