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10月28日 日  狸の自己責任

 自己に対してでなく、他人に対して「自己責任」と言い放つことは、単に「俺にゃあ関係ねーよ」と表明しているだけのことであって、なんら相対的な発言でも公共的な意見表明でもない。他人様の行為を「自己責任」で済ませるなら、この世界には、自分ひとりしか住めない。
 ――と、ゆーよーなことを、以前も紛争地域での報道関係者人質事件が起きたとき、ここで述べた記憶がある。

 人間界の全事象は、『自業自得』と『他業自得』と『自業他得』で成り立っている。その中での『自業自得』の割合など、どうがんばったって、せいぜい80億分の1に過ぎない。残りはすべて『他業自得』か『自業他得』だ。
 だからなんなんだ、と言われても困ってしまうのだが、まあ一介の狸でも人に化けている以上、せいぜい80億分の5とか80億分の10くらいは人間界の事象に関与していたいわけであるから、他人様に対して「自己責任だろ」などと言い放つ度胸は、とてもありません。


10月24日 水  狸のひとりごと

 ほう、プリペイド・カードの残高が隣駅までの料金に足りなくとも、乗車駅の改札を抜けられる地方があったのか。ツイッターで初めて知りました。断固として拒む東京方式と、どっちが多いのだろう。ちなみに狸は、どっちでもかまわんです。のたのた進むかのたのた戻るか、どのみちのたのたとしか動きません。そーゆーイキモノですので、どうか皆さん、踏んづけたり蹴飛ばしたり、鉄砲で撃ったりしないでくださいね。

          ◇          ◇

 童謡『ねこふんじゃった』の歌詞を、老齢に至るまで「ねこふんじゃった ねこふんじゃった ねこふんづけちゃったらしんじゃった」だとばかり思いこんでいた狸なのであるが、やっぱりどうか皆さん、踏んづけたり蹴飛ばしたり、鉄砲で撃ったりしないでくださいね。
 生活の一部に猫が併存する場合、とくに空腹の猫などがいる場合、自分がウスラボケっと動いていると、どうしても、うっかり踏んづけそうになる場合がある。その場合、「まんま踏んづけてしまうとモロミがはみ出て死んでしまう」と常日頃から意識していることによって、足の裏に猫の背中を感じた時点で「うわ馬鹿死ぬぞ!」と瞬時に反応し、惨殺を回避できるのである。ひっかかれるだけならまだいいが、お空へ飛んでいかれたりしたら大事だ。狸は飛べない。

 ブチ下僕の目脂と涎が、涼しくなったとたんに治まってきて、現在はほぼ清潔な顔をしている。そういえば、春から初夏にかけて治まっていた記憶もある。老猫ゆえ、やはり暑さ寒さが応えるのだろう。その点では完全室内飼いが望ましいのだろうが、そもそも狸の猫ではないし、ミケ女王様ともども去勢前の野良生活が長かったせいで、現在の飼い主である管理人さんでさえ、室内への囲い込みに成功していない。窓や戸口が完全に閉ざされたと悟ると、二匹ともパニック状態で大騒ぎを始めてしまう。それゆえの猫小屋暮らしなのである。そして猫小屋住まいだからこそ、狸の帰穴をすみやかに察知し、夜ごと連れ立って遊びにきてくれるわけである。
 都会において、室内飼いが望ましいのは理解できる。
 しかし、周囲から野良猫や地域猫やお散歩猫が一匹もいなくなってしまったら、狸は迷わず自決するだろう。
 そんな自然相になるくらいなら、人類など亡びてしまったほうがいい。


10月19日 金  明暗の巷にて

【2018年10月19日 19:00 時事通信社】
 財政制度等審議会(財務相の諮問機関)は19日、たばこ事業等分科会を開き、たばこのパッケージに表示される健康被害の警告文について、注意喚起を強める方向で議論を始めた。さらに大きく表示するほか、より強い表現に改めることなどを念頭に置いている。
 財務省は現在、「喫煙はあなたにとって肺気腫を悪化させる危険性を高めます」といった8種類の警告文を、パッケージの表と裏にそれぞれ30%以上の面積で表示するようたばこメーカーに義務付けている。
 世界的には、肺がんの患部が分かるレントゲン写真や骸骨のイメージ図をパッケージに印刷するなど、規制を強める動きが広がっている。


 喫煙による健康被害と飲酒による健康被害に大差はない。依存性もいい勝負である。しかし喫煙者差別が拡大する一方、飲酒者は相変わらず野放しである。理由は単純明快、煙草好きより酒好きが多いからである。市場の桁が違う。
 どうせ世の中、多勢に無勢。

          ◇          ◇

【2018年10月19日 12:56 朝日新聞デジタル 山浦正敬】
 東京都青梅市の商店街に掲げられ、「昭和のまち」を演出してきた映画看板の撤去が19日、始まった。地元の映画看板師が今年亡くなり、長年の掲示で歩道への落下などの懸念も出てきたためだ。映画が娯楽の最高峰だった時代を思い起こさせる手書きの看板が、24年にわたる役割を終える。
 1994年から映画看板が飾られてきたのは、JR青梅駅近くの旧青梅街道沿いの住江町商店街。題材は「男はつらいよ」「ティファニーで朝食を」「ニュー・シネマ・パラダイス」など昭和の名作で、封切り当時のポスターを元に描かれた。中高年を中心に人を呼び込み、地域の振興にも貢献してきた。
 描いたのは、「最後の映画看板師」と呼ばれ、「板観(ばんかん)さん」と親しまれた久保昇さん。今年2月に77歳で病死した。かつての中心街だった一帯には三つの映画館があり、中学卒業からの16年間で3千〜4千枚の看板を手がけた。映画館が閉じた後は商業看板の制作に移ったが、商店街から「再興のため」と頼まれて、再び映画看板に取り組んだ。
 それから24年――。板観さんが他界し、色あせた看板の修復や、数年ごとの新作への取り換えができなくなった。今秋の台風の暴風で看板の一部が破れ、同様の看板が壁から落ちたため、商店街は歩行者の安全のために早急な撤去を決めた。今後は「猫」をテーマに活性化をめざすという。


 ああ、たかちゃんたちの町(と狸が勝手に夢見ていた)青梅が、模様替えしてしまう。
 たったひとりの技能者に頼っていた以上、いつかそうなるとは思っていたが、つくづく残念である。
 しかし、さすがはたかちゃんたちの町、今後は猫を奉るという。
 地球の生物界が【(1)女子小学生(2)女子中学生(3)猫(4)犬と狸(5)その他の生物】というヒエラルキーで営まれているのは自明の理であるが、女子小学生や女子中学生を屋根に飾るのは、生物学的にも人道的にも難しい。よって、理論的に猫を選ぶしかない。
 願わくば、体長2メートルの巨大猫なども、徘徊してくれますように。

          ◇          ◇

 ドタキャンのジュリー、再発動。批判も弁護もあるようだが、小学生の頃からジュリーのアイドルっぷりを眺めており、その後のインタビュー集『我が名は、ジュリー』なども興味深く読んだ狸としては、「お、またやった」と、無責任に面白がるばかりである。
 いずれにせよドタキャンくらったファンの方々は、まあ当座は落胆を隠せまいが、じきに「うわあ、ジュリーのドタキャンの当事者になれた!」と、ファンとしての誇りを新たにすることだろう。怒ってファンをやめる客がいたら、それはもともとただの野次馬、真のファンではないのである。
 真のアイドルは、一般世間での評判や業界における収支などとは無縁の位置にいる。
 天知真理さんがどんな老残の身をさらそうと、未だに貢ぎ続けるファンが、ちゃんと残っているのだ。


10月14日 日  YOUTUBE賛江

 賛江の花輪を送るには、あまりにもウスラバカや金の亡者が増殖しすぎた投稿動画界ではあるが、そっちが大増殖しているからこそ、篤志による貴重な過去の映像も、発掘できる機会が増えているのは確かなのである。
 まさか故・岸田森さんの、こんな素顔が、また拝めるとは……。
 ところどころ脈絡なくカットされているのが残念だが、古いビデオテープの乱れた部分を、わざわざカットしてくれたのかもしれない。

     

     

 先頃、樹木希林さんがお亡くなりになったとき、配偶者として内田裕也のアニイがずいぶんクローズアップされたが、狸にとって樹木希林さんは未だに悠木千帆さんだったりもするし、その配偶者は岸田森、そんなイメージが固着している。どちらにしても、結婚生活を想像するのが困難な、超個性的な組み合わせではある。
 しかし、ほんとに唯一無二のタイプの若者たちが、うじゃうじゃと切磋琢磨してたんだよなあ、あの頃の芸能界は。

          ◇          ◇

 ころりと話変わって、やっぱり消費税は上がってしまうらしい。
 今回は、お涙金すら配ってもらえず、狸らの極貧度が増すだけに終わりそうだ。
 しかしお偉いさんたちとしては、それでまったく問題ないわけである。表向きの移民労働者を認めないからには、国産の奴隷を増やすしかない。すべては理にかなった国策なのである。
 ……まあいいや。
 いざとなったら堂々と胸を張って市役所に赴き、福祉課の窓口で、死んだふりをするまでだ。
 狸寝入り、とも言う。


10月09日 火  休日雑想

 日曜から、世間様とちょっとズレた三連休を満喫していた――と言いたいところだが、まあ実際にルンルン気分でいられたのは、中日の昨日だけである。初日は「昨日まで働いていた」のだし、本日三日目は「明日は働かねばならぬ」のだから、精神的には、一日だけの休みと大差ない。昨日も休んでいたし明日も休みだルンルンルン――そんな気分を連続して味わえなければ、真の連休とは言えない。
 やはり人間も狸も健康的にウスラボケっと生きるためには、一週間に三日、多くとも四日程度の労働が妥当だろう。で、月に一度くらいは一週間ぶっ続けで休み、年に四回は月単位の長期休暇を満喫する。そうすると遠からず社会が崩壊し、狸も人類も、永遠に労働から解放される。
 そうしようそうしよう。
 別に世界が終わるわけではない。野生動物(野生化した人類を含む)は、元気に生き残るはずだ。今より繁栄する動物も多かろう。まあ人類の頭数などは、ちょっとこっちに置いといて。

          ◇          ◇

 ふだんの仕事用にはドンキの990円スニーカーしか履かないが、休日の徘徊には、それなりに高価で足に合う、ブランド物のスニーカーも愛用している。その人造皮革部分が、かなりうら寂しい外観になってきた。さすがに数年も履いていると、いかに信頼のおけるブランド品とはいえ、人造皮革の表面は劣化してポロポロとはげ落ち、ビンボくさい布地がむき出しになる。
 ここは奮発して、足に馴染んだ同じタイプの新品を買おう――そう思って市中の靴屋を巡ったが、数年前と同じ型の靴など、もうどこにも存在しない。後継のシリーズならありますよ、と店員さんが奨めてくれる靴は、確かに外観こそ似ているものの、足型も靴底の造りも、すっかり変わってしまっている。改良を重ねてそうなっているのだ、と店員さんは言うが、狸の足はここ数十年一度も改良されていないので、どうしても型が合わない。履きならせばなんとかなるレベル以上の乖離が生じている。
 旧製品に欠陥があったわけではないのだから、せめて十年くらいは、同じ型の靴を作り続けてくれまいか。
 まあ、とんでもねー価格のオーダー品とかなら、狸の現在の足に合わせて作れるのだろうが、現在の貧しい狸には、どう頑張っても数千円までしか出せない。そうした普及価格帯の靴に限って、コロコロコロコロと改良だかコストダウンだかで型が変わってしまう。
 しかし、嘆くまい。
 ドンキの990円物などは、消費税導入以前の980円ポッキリだった頃に比べれば、明らかに当たりが増えているのだ。まあ全く同じ型番のスニーカーに当たり外れがあるのは御愛嬌。何足か履いてみれば、なんとか足に馴染みそうな個体がみつかる。一年くらいで自壊しちゃうけどな。

 と、ゆーわけで、快適な新品をこまめに物色しつつ、見つかるまでは、古靴を履いて休日徘徊を続ける狸です。
 いいんだ。まだ穴があいたわけじゃないし。


10月04日 木  雑想

 トイレで大きいほうの真っ最中に緊急地震速報が入るというのは、しこたま困惑する事態である。逃げるに逃げられない。まあ建物の中でもトイレという場所は比較的崩壊しにくい構造らしいが、いきなり建物全体が崩れてしまった場合、排泄物に尻をめりこませた姿で圧死することになる。半世紀前に造られた狸穴のトイレは和式なのである。いっそ建物ごと丸焼けになったほうがまだマシ――などと、まさにヤケクソで観念していると、じきに感じた実際の揺れは、速報を聞かなければ気づかないかもしれない程度の微弱さであった。
 まあ、いいんですけどね。まるっきり速報がないよりは、観念する暇があったほうが。

          ◇          ◇

 いよいよジオシティーズが消えてなくなるらしい。他社へのホームページの移行を世話してくれるようだが、現在ここを更新するような手軽さで、更新できる環境ではなさそうだ。
 まあ狸の巣穴なんぞ消えてなくなっても、それは自然界の無常に過ぎず、大した問題ではない。しかし気になるのは、巷の賢い皆さんが大騒ぎしているように、かつて存在していた資料的価値満載の偉大な個人ホームページ群が、近年、サービス母体の閉鎖とともに続々と消えてなくなってしまったのみならず、最後の砦であるジオシティーズまで消滅してしまったら、往年の個人的ネット界(?)の、個人的フォーマットに基づいた情報蓄積が、九割がた終焉を迎えてしまうことだ。
 せめて狸が死ぬまでは、蓄積し続けてほしかった。

          ◇          ◇

 録画しておいた日本映画専門チャンネルの『蔵出し名画座』で、中川信夫監督の『深夜の告白』(昭和24年・新東宝)を初鑑賞。
 練られた脚本に手堅い演出、花も実もある当時の役者さんがた――限りなく名作に近い佳作であった。当時の陰鬱な世相をハラハラと描きつつ、最後には、きっちり清々しいカタルシスに導いてくれる。
 なぜこんな佳作がソフト化もされず、ほぼ世間から忘れられているのか。
 怪談映画ばかり有名な中川監督だが、こうした手堅い演出手腕があってこその『東海道四谷怪談』であり『地獄』なのである。


10月01日 月  まだ

 タマ 「おう、太郎によく似た狸が、みごとなたれだぬきになっている」
 暎子ちゃん 「……生きてるのかなあ……つんつん、つん」
 マトリョーナ 「これはもう死んでるわ。イキがいいうちに毛皮を剥いで、冬物のショールにしましょう」
 狸 「……きゅうん、きゅうん」