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01月27日 日  憤怒

 しかし実の娘、それもよりによって小学生の娘をイジメ殺してしまう男親って……。
 ふだんは穏健な狸としても、冗談抜きで血圧200を越えそうな按配で、もはや理性を保てない。
 死刑にしろ。問答無用で吊せ。
 けして発作的な発言ではない。いかなる感情のもつれや根深い事情や過失があったにしろ、有期刑だの無期懲役で許される所業ではない。虐待しただけで殺意はなかった、そんな弁解も許されない。更生する権利そのものを剥奪するのが妥当である。
 憎悪で人を殺せるなら、狸が殺す。

          ◇          ◇

 こうしたシリアスな感情吐露と並べて記すと不謹慎の誹りを免れないだろうが、事実なので記す。
 トイレで上記の事件記事を新聞で読みながら大の排泄に臨んでいたら、ほぼ二ヶ月ぶりに大出血してしまった。
 師走初旬を凌ぐ強固な便秘で、直腸内にゴツゴツの石のようなものを自覚でき、本来なら排便を諦め薬局でイチジク浣腸でも買ってくるべき状態だったのだが、怒りに我を忘れ、渾身の力でいきみ続けてしまった。
 数分がかりで生涯最大最硬の排泄を終えたが、案の定、途中から血塗れである。
 先月同様、冬場で水分補給を怠っていた狸自身の責任であり、これに関して鬼畜に責任転嫁するほど狸も馬鹿ではない。
 しかし、もしドンキの薬局の安い座剤で出血が治まらなかったら、あの鬼畜親を生涯呪い続けるくらいは馬鹿であり続けようと思う。


01月26日 土  狸らはみんな生きている

 NHKのBS2で昨夜録画した『新日本風土記 十津川村』、久々に胸奥レベルで魅入られるような新作であった。
 ううむ、奈良県南部、侮りがたし。永久保存決定。
 こうした土俗も、僻地の限界集落化によって近々に失われてしまうのは避けられないのだろうが、我々が生きて住んでいる限りは、過去も現在も未来も故郷に刻み続ける、そんな、己が寄って立つところの土俗を信じる心根が嬉しい。
 そんな鑑賞後の気分のまま、去年録画したBS1スペシャル『ラトビア100年物語 〜歌と踊りでつないだ誇り〜』を再観賞。
 老若男女、世界の何処にあるかを問わず、滅びたくないのなら滅ぼしてはいけないのだ。己をも他をも。

 えーと、当狸はけしてNHKの回し者ではありません。
 でもやっぱり民放に比べれば、遙かに面白い番組が多いんだよね、NHK。


01月20日 日  廃狸よ静かに眠れ

 加齢のせいでもあろうし、冬場で血圧が上がっているせいでもあろうが、近頃、なかなか入眠できずに困っていた。かかりつけの医者が処方してくれる入眠剤を、以前の倍量に増やしてもらっても、なかなか効かない。といって、これ以上強い眠剤は使いたくない。
 で、なんかいろいろ、図書館のCDやらYOUTUBEのリラックス系音楽を漁ってみた結果――これがベストと結論しました。

     

 わはははは、『年寄り子供』という表現が昔からあるが、自分もここまで退化していたとはなあ。
 でもまあ、胎内音とかの被さったオルゴールCDよりは、こっちのオルゴールだけのほうが良く効くので、まあ胎児までは退化していないようだ。
 しかし、心身共に最もハードに働いていた青年期から中年期にかけて、ぐわんぐわんのヘヴィメタを大音量で聴きまくりながら入眠していたのを思い出すと、やはりあの頃は、精神的なストレスで発狂寸前だったに違いない。
 今は肉体的なストレスこそあれ、精神的なストレスは最低限で済む。なにせ責任もなんにもない非正規の軽労働者だものね。

          ◇          ◇

 ところで、スエテナター様が長編や短編の合間にちょくちょく読ませてくださる『ツイート物語』シリーズ、分量的には1〜2ツイート、多くとも3ツイートくらいの掌編にも満たぬ短文なのであるが、これがまあ久々に他の方の文才に嫉妬してしまうほど瑞々しい日本語表現のカタマリで、勝手にコピペさせていただき、こっそりファイルにまとめたりしている。
 ああ、俺も初心に返って、日本語表現そのものを磨きなおさねばなあ――などと思いつつ、今夜も赤ちゃん用のオルゴールを聴きながら、布団で丸くなっている廃狸なのであった、まる、と。


01月14日 月  猫耳わが愛

 巷に渦巻く種々の端倪すべからざる事象はちょっとこっちに置いといて――。
 自前の猫耳物件を更新しました。
 我が身かわいやほーやれほ。


01月12日 土  時の流れに身を任せたらたぶんあっという間に時の滝から落下して土左衛門

 正月早々、あまり訃報を話題にしたくはないのだが、天地総子さんがお亡くなりになってしまった。

     

     

 番組自体は視聴率を稼げなかったようだが、『怪獣王子』が大好きだったんだよなあ、内容も主題歌も。長編映画化用のストーリーを勝手に考えて、今でも記憶していたりする。

          ◇          ◇

 最寄り駅近辺では唯一の生き残りになってしまった正調古書店で、100均棚を漁る。
 大漁であった。
 寺山修司の『花嫁化鳥』、三浦哲郎の『ふるさと紀行』と『スペインの酒袋』、雑誌では『季刊・蒸気機関車`69増刊/鉄道写真撮影読本』――つまり昭和40年代のエッセイや撮り鉄本で、創作物はない。
 こうして狸は今年も明日なき退嬰に淫し続けるのであろう。

          ◇          ◇

 自前の猫耳物件、ようやく更新できそうな案配。
 長く間があいたぶん、いつもの倍近い分量で、しかもストーリー上の激動は、次回への引っ張り部分のみ。
 こうして狸は今年もユルユルとのたくり続けるのであろう。


01月06日 日  蝦蟇の油

 思えばこないだのクリスマスは自分へのプレゼントを忘れていたなあ、とゆーことで、自分へのお年玉に『六神丸』を購入。去年も同じお年玉であった。有名な強心剤『救心』の、原型になった漢方薬ですね。モノホンの蝦蟇の油(センソ)が入ってる奴。今年の狸はいささか老化が進んで、心が楽しめと言っているんだけども体はしんどいから寝てろと言っている状態なので、より切実なお年玉ではある。
 しかし『六神丸』は高価である。『救心』は、さらに高価である。こんなのを一年中服用できる方がいらっしゃるとすれば、それは一年中懐に余裕がある方に相違なく、余裕があるぶん好きなもんふんだんに食って好きなだけ寝てりゃいいんじゃねーか、とも思う。
 だからなんなんだ、とゆーよーな話ではない。
 貧乏人だって正月くらいは蝦蟇の油を嘗めてもいいでしょ――とまあ、ただそれだけの話である。
 なんか苦くて効きそうなんだよなあ。動悸も息切れも、確かに治まる気がするし。まだ目眩はないから、気付け効果は定かにあらず。


01月03日 木  ゴム動力仕掛けの化狸

 柴又は昨日徘徊した。
 本日は中山の法華経寺近辺を徘徊した。
 大量のロリを見た。
 稀少な晴れ着のロリも見た。

 もう思い残すことは何もない。
 ……士農。
 ……工商。

          ◇          ◇

 近所のスーパーで買い物をしたら、今日が初売りのはずなのに、もののみごとにやる気が見られない。『迎春』とかのPOPはふんだんに立てられており、BGMも、ちゃんと「つんつくつくつくつん♪」とか、正月らしい琴の音が流れている。しかし、品揃えはもーまったくふだんの平日――いや、常になく品切れが多い。
 しかし、うん、これでいいのである。まだ正月なんだもの。店員さんがみんなシラフなのが、物足りないくらいである。

 今を去ることウン十年前、狸が人に化けて就職した頃など、田舎のデパートやショッピングセンターでは、売り場主任自らが赤い顔をして、やっぱり赤い顔の常連客と、酒臭い息で挨拶を交わしていたりしたものである。御当地デパートだけの話ではない。全国チェーンの大手スーパー系でも、田舎ではそんなもんだった。それをマニュアル一辺倒のヨーカドー系やダイエー系が食い尽くし、しゃっちょこばった不寛容な空気を全国津々浦々に広め、また逆に「それがお客様であればどんなモンスターにも土下座いたします!」、そんな拝金主義を定着させていったわけである。
 近頃やっと、田舎の、あるいは都会の下町の個人商店にかろうじて残っていた『ざっかけなさ』が、じわじわと表通りの大手方向にも復活し始めた気がして、ちょっと嬉しい狸である。
 そろそろユルまないと、プッツンしちゃいますよ。
 イキモノの筋肉や脳細胞は、ゴム動力みたいなもんですもんね。車は電動でも走るけど。

 などと言いつつ、買い物中、ふと自分が『聖しこの夜』など口ずさんでいるのに気づいた。店内にはちゃんと琴のつんつくつくつくつんが流れているのに、なんで『聖しこの夜』なのか、自分でも理解できない。
 ここまでユルむと、もうイキモノとしてダメな気がする。
 でも明日は、いやでも働かねばならぬ。


01月01日 火  賀正〜ん

 元日は柴又の帝釈天あたりを徘徊しようと昨日まで思っていたのに、目覚めれば午後1時。
 まあ寝る前に『紅白』や『年忘れにっぽんの歌』を、早送りしつつも全編チェックして、おまけに自前の猫耳物件をいじったりもして、夜明け過ぎに寝たのだからしかたがない。
 昨日届いた鯉の甘煮や、あわてて作った雑煮を食い終わったら、もう午後3時。
 とりあえず京成線の上りに乗ったが、柴又まで行ってもすぐに日が暮れてしまいそうで、結局、京成江戸川駅で下車し、すぐ横の江戸川堤に這い上がった。
 晴天下に広がる新春の河川敷を見渡し、愕然とする。
 爺いとおっさんしか見当たらない。
 必死に目を凝らして細部をチェックすると、かろうじて若奥さんや就学前の幼児が散見されたが、JSやJCはひとりも確認できない。例年なら、親子連れの中に、けっこう混じっていたはずなのである。
 こりゃもうやっぱり柴又を目ざすしかないのか――そう思い、徒歩でそっち方向に進軍開始すると、数分歩いたあたりで、例年の和やかな親子散歩者たちが現れ、元気なロリやショタも、ちゃんと放し飼いになっていた。
 ああ、よかったよかった。一年の計は元旦にあり。今年一年、爺いとおっさんだけを見て暮らすのは死ぬより辛い。まあ正確にはすでに元旦ではなく、元日の夕方なんだけども。
 ともあれ、すでに陽が傾き、柴又まで歩く気力もなく、ほとほとと引き返す。
 でもまあ、日没の富士のシルエットも拝めたので、良しとしよう。

          ◇          ◇

 原宿の竹下通りで、新年早々、既知外が暴走して人を跳ねまくったらしい。
 例のレーダー照射問題では、あの隣国が、半ば錯乱状態に陥っているようだ。
 やっぱり北に憧れる大統領を選んでしまった時点で、あの国も北に向かって進まざるを得ないのだろうか。
 まあ日本でも「大した問題じゃないのに騒ぎすぎ」という意見があるようだが、あれが大した問題じゃないとしたら国防上の問題など世界のどこにも存在しないし、車両通行禁止の道路を車が爆走しても人が跳ねられなきゃ無問題になってしまうわけで、やっぱり無法者には、それなりの対処をせねばならぬのである。
 しかし、ほんとに今後どーするつもりなんだろうなあ、南の方々。

 などと言いつつ、老い先短い狸は、もはや短い老い先にある目先の事どもより、アルツなりの茫漠とした世界に逃避している。
 クリスマスに録画したNHKの『天空のスペクタクル〜オーロラ・四季の絶景〜』を、ようやく、のんびりと堪能。
 ええ、もう、ぶっ飛びましたとも。
 この地球や宇宙に余計な知性体なんぞ一体もいなくとも、意識のない自然現象があるだけで、この宇宙は、充分に祝福されているのではないか。
 しかしまた、ほんの四半世紀までは動画としての記録がほとんど不可能だった、つまり現地に行って自分の目で見るしかなかった微弱な発光現象の全容を、今世紀のデジタル動画記録技術の進歩によってほぼ完璧に再現してもらえ、あまつさえドローンの実用化によって自由自在にオーロラの夜空を飛び回ったような気分に浸らせてもらえる――そんな現実に思い至るとき、老いさらばえた一介の小動物として、しみじみ、こうも思ったりするのです。
 ああ、なんだかんだ言っても、好きだなあ、人類。
 この世界に、ちっこいとはいえ脳味噌持って生まれてきて、ほんとうに良かったなあ。