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03月27日 水  春想

 現在ここをご覧の方ならとうにご存知だろうが、ジオシティーズの終了に備えて、HPをまるごと引っ越した。
 移転先も移転方法も、ヤフーさんのお勧めのいちばん上にあった手順に唯々諾々と従っただけで、要は、ジオシティーズにあったデータをまるまるダウンロードし、リンク情報が変わる部分を自前のエディタでイッキに置換、それを別のレンタル・サーバーにミラーリングしただけのことである。今後はジオシティーズのように行き届いた個人専用ファイル・マネージャーがWeb上で使えないぶん、HPの維持費はヤフーさんより安価になる。広告表示を厭わなければ、どっちも無料なのだが、下品で貪欲な広告を勝手に表示されるのは個狸的に願い下げなので、多少の出費はしかたがない。
 今のところ、『狸穴眩想館』に模様替えした後の部分は正常に表示されているようだが、旧『ドッコ沼インナースペース』の遺跡を自分でも久々に覗いてみたところ、HP開設初期に何ひとつ解らないまんまホームページビルダーででっちあげてアップロードした部分などは、レイアウトが崩れまくりのようだ。テキストの一部が画像に隠れて見えない、そんな情けないページもある。しかし、今さら修正する暇も気力もない。まあ大昔の遺跡のこと、それもまたご愛嬌、そんなところで。

          ◇          ◇

 ついこないだ「半月先まで飯の心配がない日々が続いている」などと余裕をコイたばかりなのに、今月の自動引落分のアレコレが、残高不足で来月に回ってしまった。
 でも大丈夫。来月の頭には、ちゃんと帳尻が合うだけの振込がある。その仕事先の振込時期を、狸が勘違いしていただけなのである。

 ことほどさように、あっちこっちでウロウロと日々の探食活動に励んでいる狸ではあるが、やっぱりそこそこ、シヤワセである。
 ご近所の庭の梅は今年も見事に開花したし、その下を、春休みの女子小学生たちが、笑いさざめきながら駆けてゆく。
 大デブの黒猫が、路傍から元気にガンを飛ばしてくる。
 ミケ女王様の甘噛みも、ちゃんと力強くて痛い。ブチ下僕の目脂や涎は、冬場より、ずいぶん少なくなった。

 ロリと猫がかわいい春なら、狸なんぞ、ちょっとでんぐりがえる場所と餌だけあれば、充分シヤワセである。


03月23日 土  寛容

 春かと思えば昨日は夏、一夜明ければ冬の風。
 外気に晒されがちな野良狸としては、つくづく困った昨今の気候であるが、まあ、どのみち一週間の気温を均せば春の範疇に収まってしまうわけで、大局的には、いつもの春なのであろう。

          ◇          ◇

 世界各国の幸福度ランキングにおいて日本が急降下、みたいなニュースを聞いて、「あれ? でも俺、十年前に比べればけっこうシヤワセな気分だぞ?」などと、首をかしげている能天気な狸が一匹。
 まあ、東京湾岸で最底辺労働に勤しむ五体満足な半野良狸、そんな生活環境に限定されたシヤワセ感ではあろう。十年前には、アブレ続きで明日の飯にも事欠くような危機をたびたび味わったものだが、今はなんとか、半月先まで飯の心配がない日々が続いている。納豆も豆腐も、サンマもニシンも、食いたいときにちゃんと食える。

 で、その幸福度ランキングとやら、どうも『社会的な寛容さ』という部分で、日本の順位を大きく落としているらしい。
 いきおい巷では、いかにも日本らしく情緒的で曖昧な非寛容への批判や反省が渦巻いているようだが、あのランキングにおける『寛容』の定義に、たとえば「日常的に寄付を行っているか」とか「日常的にボランティア活動を行っているか」とか、実に即物的な条件も含まれている点は、あまり問題にされていないようだ。
「大災害が起こったときは寄付をする」とか「赤い注ェならちゃんともらってる」では、だめなのである。歳末だけ助け合ってもランキングは上がらないのである。
 その点、たとえば敬虔なキリスト教徒の多い国などは、週に一度教会で祈って幾許かの寄付をする人が多いわけだし、その寄付は教会の貧民救済活動などに直結している。またそうした国では、信教に拘わらずなんらかの地域ボランティア活動に参加することが、まっとうな一般市民の日常に組み込まれていたりもする。必然的に寛容度のランキングは上がる。
 ちなみにその点でも、狸はなんぼかシヤワセなイキモノである。きわめて些少ながら、毎月毎月、口座から寄付金が引き落とされてゆく。今のところ発展途上国の児童、とくに女児関係がメインなのだけれど、まあそこはそれロリコン親爺の偽善ゆえ、なにとぞ勘弁していただきたい。本音としては和ロリ中心に支援したいところなのだが、国内では女児限定の支援活動が見当たらない。「性差別はいけない」ということなのだろうが、狸としては、ぶっちゃけ男児など、よほど可憐でないかぎり、どうなってもかまわんのである。ただし乳幼児は除きます。ちっこいのは、たいがいかわいいからね。

          ◇          ◇
 
 ころりと話は変わって、NGT48のゴタゴタに関する第三者委員会とやらの報告、狸も野次馬根性で楽しみにしていたのだが、まさか今どきあそこまで事なかれ主義に徹するとは思ってもみなかった。
 もはや女衒の開き直りだよなあ、あれは。
 寛容にも限度があると思うが、どうか。


03月16日 土  光陰ミサイルの如し

 おおっ、ジオシティーズの終了が、いつの間にやら半月後に迫っている。
 なんの引っ越し準備も、しとらんのよなあ。
 まあ、古い家財道具はどこぞの投稿板に移管し、ここの独言のみ、ブログかなんかに引っ越すとか……。
 しかしブログという形式そのものも、先が長くないムードなのよなあ。

 ……ま、いいか。
 どうでちっこい野良狸のでんぐりがえり、死ぬまでこっそりでんぐりがえる物陰くらい、どこかに存在するだろう。

          ◇          ◇

 ケーブルで録画しておいたアメリカ映画『ザ・セル』(ターセム・シン監督、2000)を観て、うわあ、とブッ飛んだ。常軌の逸し具合が、モロに狸のツボにはまる。悲惨なドラマのラストに、ちゃんと救いがあるのも泣ける。
 ああ、エエもん見せてもらいました、と頭を下げつつ、いっしょに録画しておいた『ザ・セル2』を、わくわくと再生してみたが――うわあ、と、あっさり撃沈。正規の続編らしいのだが、監督名も製作年も、あえて記す気にならないほど劣化している。監督も主演も前作とは別人、予算はおそらく十分の一程度か。
 キャスト&スタッフの無名化や予算の激減に関しては、懐かしの『ザ・フライ』(デヴィッド・クローネンバーグ監督、1986)と『ザ・フライ2』(クリス・ウェイラス監督、1989)の格差を思い起こすが、少なくともシナリオに関しては、『ザ・フライ』で悲劇の蝿男が残した大いなる無念を、蝿男の息子が『ザ・フライ2』で見事に晴らしてスッキリさせる、そんな、低予算なりの仁義があった。しかし『ザ・セル2』は、前作にあった根本的な志が、スッポリ抜けている。ところどころ似たような絵面になるぶん、かえって腹が立つ。
 なんだか脱力してしまって、「あーうー」などと呻きながら、『太川・蛭子のローカル鉄道寄り道旅3』を再生する。こちらは同じ脱力でも、心地よい脱力で脳味噌をほぐしてくれる。
 で、さらに来月から、太川&蛭子コンビの旅番組が始まるそうだ。なんとゴールデンタイムのレギュラー枠である。蛭子さんが近頃めっきり老け込んでいるから、バス旅ほどの威力は期待できまいが、あのお二人のカラミだけで、肩こりのほぐれる旅が期待できそうだ。
 ついうっかり録り逃して大後悔していた『ブラタモリ』のパリ編の初回も、無事に再放送でGET。相変わらずの充実度、目からウロコがバラバラと落ちまくる。今日の『鳴門』も無事に録れたはず。明日あたり、ゆっくり観ようと思う。


03月09日 土  ユルみゆく日々

 ユルむ、というか、老化によって堪え性がなくなっているというか、肉体的に尿漏れを起こす(まあ今のところちょっとチビるくらいで済んでいるのだけれど)頻度が増すのと同様、感情的な沸点も、確実に低下している。涙腺は緩みがちだし、ちょっとしたことでムカついたりする。ただ、笑いの沸点だけは確実に上昇傾向で、よほどツボにはまらないと大笑いできない。寄席中継の落語や演芸を観ていても、波長の合う芸人さん以外のギャグは、シラける以上にムカついてしまう。
 そんなこんなで、狸は表現行為全般に対し、若い頃とは違った価値観に目覚めたりもしている。
 昔は『泣かせる』よりも『笑わせる』ほうが、表現行為として高尚であり、有益だと思っていた。
 しかし今は、たとえそれがベタでミエミエな『泣かせ』であっても、優れた喜劇に負けない価値を感じる。
 たとえば、近頃ハヤリの、イジメやパワハラ・セクハラ・モラハラ現場を想定した場合――。
 ぶっちゃけ、笑いながら加虐に走る既知外は多い。怒りながら加虐に走る凡愚はもっと多い。無自覚無表情で加虐に走るサイコも少なくない。
 そうした中、泣きながら加虐に走るイキモノは、まあいないことはないけれど、いちばん少ないのは間違いない。
 と、ゆーわけで、これからは主に涙腺をユルめて老後を生きよう――そう指向する狸です。


03月03日 日  恐怖の監視社会

 な、なぜバレる……。
 ちなみに本名で診断しました。

     

 いや、上下の広告は、とっくに情報収集されているからと理解できるのだが……。
 個人的な検索履歴には、狸より、猫科動物のほうが圧倒的に多いはずなのだが……。


03月01日 金  死にゆく者の生

 うわ、『「寅さん」こと渥美清の死生観』、半分過ぎたあたりから、まさに死生観の世界に突入。
 渥美さんの心霊体験とか、渥美さんが寺沢氏を誘って幽霊見物(?)に行く話とか、初めて聞く裏話にわくわくしていたら、やがて話は必然的に、大病を患いつつも寅さんを演じ続ける渥美さんが、己の死期を予感するがゆえに、病を明かさぬうちから寺沢氏にスピリチュアルな問いを発し、寺沢氏はコテコテの仏教徒にして芸能担当記者というユニークな立ち位置から、真摯な輪廻観や神仏観を伝えてゆく。それに対する渥美さんのツッコミもまた絶妙、ふたりの会話は、もはや大宇宙の在りようと生命の在りようにまで広がって行く。
 ……あ、アリか? 渥美さん追悼本で、こんな展開が。
 しかし、やっぱりアリなのだろう。
 狸は渥美さんの没後、道端のお地蔵さんを見かけるたび、「ああ、ここにも寅さんの碑がある」などと、思ってしまうくらいだものね。

 狸も人間も、まっとうに生きてまっとうに死にたいと思ったら、因果応報を信じるしかないのである。
 別に、杓子定規な道徳的規範を守れ、というわけではない。「自分はちっぽけで非力なロクデナシかもしれないが、少なくともクソ野郎ではなかった。神も仏も、自分の中のどこかにちゃんといた」と信じて死ねることこそが、仏教的な『現世利益』なのである。
 まあクソ野郎の中にだって神仏はちゃんといるのだが、それを自覚できないと、死ぬまでクソ野郎をやってるしかないものね。

 ちなみに寺沢氏は、マジに名誉会長を人生の師と仰いでいるらしい。
 名誉会長の中にいる仏を仰いでいるなら、それもまた、良し。
 でも、あんまりケバくて生臭いとこは、仰がないでほしい気がする。狸はあくまで道元ファンなもんで。