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12月31日 火  全自動時間旅行

 自分では何もしていないのに、世間はもう大晦日になっている。
 したがって、自分では何もしていないのに、本年はお世話になりました、とか、皆様よいお年をお迎えください、とか、もっともらしく口上を述べねばならない。
 まあ述べまいが述べようが、世界中、今年もなるようになったし、来年もなるようになるのである。

 ところで、除夜の鐘がうるさいとか言ってやめさせるのが流行っているようだが、言ってる人はこれまでの人生を送る間、毎年ずっと「ああ除夜の鐘がうるさううるさい」と思い続けていたのだろうか。そーゆー憤懣を何十年もためこんで、ついにやむにやまれず抗議に至ったならば仕方がないが、何年か前にふとそんな感じがして、気にかけているうちにどんどんうるさくてしかたがなくなったとしたら、やっぱりセラピーでも受けたほうがいいのではないか。あなたの精神は、疲れすぎてはいまいか。あと、六十や七十を過ぎてから突然がまんできなくなったとしたら、いっぺん脳神経科で検査してもらったほうがいい。いや、けして馬鹿にしているのではありません。マジでアルツ初期の可能性があるからです。

 子供の声がうるさい、と幼稚園や保育園にクレームを入れる人も増えているらしい。ニュースを見る限りでは、たいがいお年寄りのようだ。
 狸もそろそろ年寄りなのだが、根がロリコンなので、子供の声は気にならない。いや、正直、男児の声はかなり気になるのだが、幼稚園や保育園ではたいがい男児も女児もいっしょに騒いでいるので、まさか「男児の声がうるさいのでまともに生活ができない。女児専門の保育園にしなさい」とも言えない。言ったら下手すりゃ別件逮捕されてしまう。
 ちなみに狸自身は、幼稚園の頃に、「母ちゃんいないよう。どこ行ったんだよう母ちゃん」などと、母親がいるはずのない園内を泣き喚きながら歩き回ったり、デパートで母親に「買って買って」と泣き喚きながら床を転がったりした記憶があり、今でもときどき、就寝前など蒲団の中でありありと思い出し、恥ずかしさに身悶えしてしまうことがある。だから、世間のやかましい男児を、いちいち絞め殺すわけにもいかない。
 そんな狸も、自分ではなにもしていないのにいつのまにか大人になって、そうは泣かなくなった。
 ただ、自分ではなにもしていないのに、それらのことを、これから忘れてしまう可能性は大いにある。
 いつか自分の時間旅行を、自分で終わりにするときがくるのかもしれない。


12月29日 日  歳末雑想

 残念ながら、今年のクリスマスの、ロブスター・テルミドール計画は挫折した。
 駅ビルのちょっと高級なスーパーでは、やっぱり二年前のクリスマスを最後に、取り扱いそのものをやめてしまったらしい。まあ4000円近くもする総菜を、おいそれと買える客はもともと少なかったろうし、閉店間近に採算割れの処分特価で狸が買ったとしても、店としては、ありがたくもなんともないわけである。
 去年、確か近くのダイエーで、ちっこいながらロブスターのチーズ焼きを買った記憶があり、もしやと思って寄ってみたが、売り切れなのか、もともと置かなかったのか、残念ながら見当たらなかった。ちょっと遠くのどでかいダイエーにならあったのかもしれないが、仕事帰りに長歩きする気力はない。
 まあ、鶏モモの立派な奴を食ったので、クリスマス気分は無事に味わえたのだけれど。

          ◇          ◇

 ところで、ツイッターあたりで、「『クリスマスにチキンを食うのは日本だけ』という話はフェイクである」みたいなつぶやきを多々見かけたが、その「クリスマスにチキンを食うのは日本だけ」という話自体、こないだNHK・BSの『クールジャパン』で取り上げられた結果、イッキに広まってしまったのだろうか。
 そもそも、あの番組では、ほとんどケンタッキー・フライドチキンしか取り上げられていなかった気がする。つまり「クリスマスにケンタッキー・フライドチキンを食うのは日本だけ」みたいな。また、各国からの外国人ゲストたちだって、別にその国の典型的人物を選んでいるわけではない。
 たとえば番組内でクリスマス・プディングを自作してくれたイギリス女性は、確かに自分のまわりにチキンを食べる風習はないと言っていたが、いわゆるクリスマス・ストーリーとして史上ベストワンと狸が信じる、ディケンズ作の『クリスマス・キャロル』に描かれた19世紀中頃のロンドンでは、プディングと並んで七面鳥が平均的市民のクリスマス・ディナーの主役になっているし、貧乏人の子沢山を絵に描いたようなボブ・クラチット(改心前の強欲な主役・スクルージに、薄給でこき使われている従業員ですね)の家でも、七面鳥の代わりにちっこいガチョウを用い、そのちっこい鳥を詰め物で膨らましてなんとか全員で分け合うという、心温まるシーンがある。あと、ちょっと記憶が曖昧なのだが、マッチ売りの少女が夢見るクリスマス・ディナーにも、七面鳥かガチョウがいたような気がする。

 ちなみに狸は、幼時から、お金持ちはクリスマスに鳥の丸焼きを食うものだと思っていた。あくまで絵本や漫画からの情報である。その頃の故郷で、鳥の丸焼きなどという驚天動地のシロモノは、町内一のお金持ちの子供だって見たことがなかったはずである。
 で、確か小学校高学年の頃、クリスマスの食卓に、鶏のモモ焼きが初登場したのである。
 それまでの鶏肉は、牛肉よりも安価ではあったが、豚肉よりはむしろ高価だったような記憶がある。狸の家でも、小間切れの親子丼くらいしか食卓に上らなかった。日本の畜産界に量産できるブロイラー種の鶏が持ちこまれたのが、確か昭和40年代だから、それが山形にも定着したのだろう。ともあれ、生まれて初めて現物を目にする、どでかい肉料理である。狸は大興奮・大感動してしまい、もったいなくてガブリと頬ばるなんぞとてもできず、ちまちまほぐしてちまちま味わった記憶がある。しかし、肉屋で軽く塩胡椒を振られただけの鶏肉の味に、家族一同はなはだ困惑し、談合の結果、これは醤油をつけて食ったら旨いのではないかと誰かが発案し、実行してみたらドンピシャだったので、その後はちまちまと醤油をつけて、ちまちまと食ったのであった。
 ちなみに、生クリームとイチゴのクリスマス・ケーキなんぞも周囲にはまだ存在せず(いや世間にはあったのだろうが、つましい地方公務員の家庭では手が出ず)、日持ちのするバタークリーム物件しか食卓に並んでいなかったが、そもそもまるまるのでかいケーキなんぞ家ではクリスマスにしかお目にかかれないので、やっぱり大感動なのであった。

 年寄りの厭味な自慢話になってしまうが、そうした時代に生まれ育ったから、狸は、いっぺん中流まで向上した生活水準が現在の無産階級レベルに下がっても、「まあ子供時代よりは遙かにマシだよな」と諦めがつく。
 こんな駄文だって、パソコンとモニターとエディターで瞬時に活字本のような表示ができるし、世間に放流もできるのだから、ガリ版時代を思えば、今は確かに夢の21世紀、つまり明るい時代なのである。

          ◇          ◇

 クリスマス物件、ようやく主人公がサンタと遭遇した。
 猫耳物件、ようやくタマたちがイラクに飛び立ちそうだ。
 大晦日から四日間、まるまる休む予定なので、旧暦のクリスマスまでには、どっちも更新できそうである。


12月22日 日  クリスマス日時変更

 さて、クリスマスネタの進行具合は、と。
 ……おっとっと、原稿用紙換算で、たったの10枚ちょいか。それも起承転結の起がやっと終わった程度である。狸の過去の短編から完成時の長さを推計すると、最低でも50枚、ちょっとイキオイがつけば100枚弱――わはははは、いつ終わるんだ、これ。

 今の時期は奴隷不足で流通軽作業系の時給が一時的に上がるから、狸の生計上、今が一番の稼ぎ時なのである。残業も増えるし、年によっては他の月の倍の実入りになる。よって、仕事のある日に自由に使えるプライベート・タイムは、自炊や風呂や睡眠を除けば、長くともせいぜい一日に二時間くらい。
 で、そーゆー時に限って、猫耳系のキャラが頭の中でガンガンしゃべくりまくったりするのね。作者が画策をもって構築する話とはちがい、あっち方向のキャラは、しゃべってくれるときにざっとでも記録しとかないと、すぐに気が変わって口をつぐんでしまう。実際、今週は、クリスマス物件の倍くらいテキスト量が増えているのである。まあ、勝手にしゃべってるだけなんで、あとのフォローも倍かかるんだけどな。

 と、ゆーよーなわけで――。
 狸穴のクリスマスは、本年に限り、旧暦で勘定することにします。来年の旧正月をもとに勘定すると――はい、来年の1月20日あたりですかね。
 などと言いつつ、狸が年に一度の楽しみにしているロブスター系の高価なお総菜は、このあたりのスーパーだとクリスマス前後にしか並ばないので、狸本狸はこっそり24日か25日にクリスマスを祝ってしまうわけですが、あくまで隠れてこっそりすることなので、誰にも見つかるはずがないから無問題だよな、うん。


12月14日 土  たまにはリクエストにお答えしたいかなあ、みたいな。

 えーと、クリスマス、クリスマス、と――。
 はいはい、クリスマスね、はい知ってますよ。
 えーとね、確か、かれこれ2000年以上も昔に始まった、連続長編伝奇小説でしたね。
 結婚前でまだ処女なのに、なんでだか懐胎してしまった不幸な娘さんがおりまして、親とか、大工をやってる婚約者に、誰の子だ誰の子だと激しく責め立てられる。それを不憫に思った三人の賢者が原因解明に乗り出したところ、実は彼女はエイリアンにアブダクションされて受胎したのですが、その記憶を消されてしまったわけです。もしそのまま出産したら、エイリアンの血を引く恐るべき子供が神の子を名乗って世界征服を企てること必定――そんな真相が発覚した。そこで三人の賢者は、出産現場の馬小屋を急襲し、からくもエイリアンの新生児を捕獲します。しかし、そこにトナカイの引く橇に乗った赤服の巨漢が馬小屋の天井を突き破って出現、その子を奪取して夜空に消えてしまう。果たして謎の赤い巨漢の目的はなんぞや、そも彼は人類の敵なりや味方なりや――そうして謎が謎を呼ぶ中、たとえエイリアンの種であれ我が子を奪われて悲嘆にくれる娘と、自分の種ではない子を産んでしまった婚約者に嘆きつつもなお彼女への愛を捨てきれない大工は、三人の賢者とともに、赤い巨漢の目撃情報を追って、果てしない荒野に旅立つのであった。が、しかし――旅行く彼らを密かに追いかける数百頭の古狸と、幾千幾万のマヌルネコの大群がいることなど、神ならぬ身の彼らには知る由もなかったのである、まる、と。
 で、その物語は2000年以上たっても、まだ完結しておりません。彼らの旅は今も続いているのです。毎年12月25日になると続刊が発売され、全世界で二十億部以上を売り上げる超ロングセラーになっているとゆー話ですから、第一巻からの累計部数はもはや天井知らず、天文学的な数字に達しております。
 いやはや、おめでとうクリスマス。

 とゆーよーな歴史的事実はちょっとこっちに置いといて、昨夜、寝る前にちょっとクリスマス短編ネタを思いついて打ち始めてみたら、なんとか打ち進められそうなあんばいなのだが、思えばすでに14日、あと10日ちょいしかないんですね、クリスマス本番まで。
 まあいいか、正月明けにサンタが出現しても。どうせ狸が化けてるんだしな。

          ◇          ◇

 ところで土曜の夜の『ブラタモリ』、これだけ回を重ねても、ずっと面白いまんまである。今夜のテーマ、姫路城と江戸城の関連性も、目から鱗の連続であった。
 まあ日本全国に無数のネタが転がっているタイプの番組ではあるのだが、そのほじくり方と深さが、ちっとも疲れていない。
 NHKの予算があれば、製作スタッフが交代しても番組自体のクオリティーは保てるだろうが、タモリさんだけは唯一無二のキャラなので、どうか百まで生きて欲しいものである。


12月01日 日  狸の事情、家庭の事情

 真冬が続いて、体調はすこぶる良好である。まあ高血圧も糖尿もきっちり続いているのだが、好転も悪化もせず、玄関から応接間に通される手前の廊下くらいで、ずっと足踏み状態。そのうち応接間に引きずりこまれて殴る蹴るの暴行を受け、ぐったりしたところを奥の納戸に蹴りこまれたりするのかもしれないが、近頃あちこちの週刊誌の車内広告で見かける「飲んではいけない降圧剤」とか「実は危険な糖尿病薬」とかを毎日きちんと飲んでいるので、少なくとも高血圧と糖尿病で死ぬことはないだろう。副作用で死ぬのは、クスリそのものが大好きなので仕方がない。
 ところで、狸よりも若い松本ちえこさんんが、大動脈瘤破裂で亡くなってしまったそうだ。狸の亡父や狸自身と同様、血圧が高かったのだろうか。
 なんだか何度も同じ愚痴をこぼして恐縮だが、このところ、昔ファンだった著名人が毎月、いや毎週のような勢いで彼岸に渡ってしまい、冗談抜きで、狸もあっちに引っ越したほうが楽しく暮らせそうな気がする。まあ、極楽でバスボン風呂に浸かって歌っている松本ちえこさんを、地獄の血の池で茹でられながら虚しく見上げる狸――そんな構図になる可能性も高かろうが。

          ◇          ◇

 自主アブレの本日、小雨が上がったので、散歩がてら、いつもは行かない遠めのスーパーに向かっていたら、途中の住宅地の軒先から、八十歳前後と覚しい老婦人に声をかけられた。家の中に見知らぬ男が居座っており、何を言っても出て行ってくれないので、あなたからも出て行くように言ってくれないか――そんな話であった。
 見知らぬ男が籠城しているのに、玄関から逃げもせず、さらに見知らぬ狸を呼び入れてどーすんのよ――などと思いつつ、「どんな男ですか」「110番に電話しましたか」等の狸の問いに、ちっとも噛み合わない老婦人の言動を見るうち、すぐに判ってしまいました。狸の亡母の晩年と、とてもよく似た空気を纏っているのである。つまり、アルツハイマー後期。
 狸は畜生だから根が狷介で人に慣れない性質なのだが、人には人畜無害に見えるらしく、出歩いていると、しょっちゅう道を聞かれたりする。亡母と同じグループホームにいた赤の他人のアルツな方々も、まったく警戒せず、ふつうの挨拶やら意味不明の相談やら、なんやかやと話し相手にさせられた。今日の老婆も、そんな感じで話しかけてきたのだろう。
 無論、実際に賊が侵入している可能性もゼロではない。いちおう用心深く、老婆に従って玄関口を覗きこむと、その玄関口とすぐ奥の応接間だか居間だかの間に、きっちり固定電話が鎮座している。アルツもまだ中期だったら、とっくに大騒ぎして警察を呼んでいるはずである。狸の亡母も、幻の強盗に怯えて、一時期さんざん通報していた。しかし後期になると、電話機そのものを認識できない。
 こりゃキマリだな、と思いつつ、それでも根が小心な狸なので、いつでも逃げ出せるように気を配りながら、
「あの、すみません。どなたかいらっしゃいますか」
 すぐに、奥の部屋から声がかえった。
「はーい」
 もう八十過ぎと覚しい、老人の声であった。
 それでも誰も出てくる気配がないし、老婆も後ろからつんつん突っついてくるので、
「ちょっと上がらせていただいてよろしいですか」
「はいはい、どうぞどうぞ」
 緊張感のカケラもない声である。
 こうなると、狸は、もはや苦笑い、とゆーか、心の底から諦念の吐息を漏らすより仕方がない。
 居間にいたのは、お茶を飲みながら新聞を読んでいる泥棒、もとい老婆の旦那さんであった。
 聞けば、奥さんはやはりアルツで、すでに旦那さんの顔も忘れてしまい、たびたび同じように道行く人を呼び入れる。旦那さんは足腰が弱ったせいもあり、いちいち奥さんを呼び戻しに立ってゆく気力がない。奥さんも外に徘徊に出たことは一度もないから、もう放置しているとのこと。
 そうだろうなあ、と、狸も思う。「でも外に出てったらどーするんですか。大体、通行人に迷惑じゃないですか。あなただって立てば立てるじゃないですか」などと、正論を吐く気力は狸にもない。
 旦那さんが「だからお婆ちゃん、私はあなたの実家の親戚でしょう。今日は泊めてもらいに来たんですよ」みたいな説得をすると、奥さんも納得したんだか、同じテーブルでお茶を飲み始める。
 ああ、ここんちでは、毎日そーゆー設定になっているんだな、と、狸もうなずきながら、旦那さんが出してくれたお茶を飲む。狸は奥さんの親戚のオトモダチなのである。たぶん。

           ◇          ◇

 この国の老老介護は、これからどうなっていくんでしょうねえ。
 あの奥さんは遠からず寝たきりになるかもしれないし、ある日突然、逆に無限徘徊に旅立ってしまうかもしれない。旦那さんは、頭は元気なまんま、足腰だけさらに衰えてゆくかもしれない。
 まあ、瀟洒な住宅街に持ち家がある夫婦なのだから、いざとなったらちゃんとした施設に行けるだろう――などと、狸は、他人事のように楽観視しておくことにする。
 狸なんか橋の下くらいしか行くアテがないし、呆けてくれる妻もいない。


12月01日 日  相も変わらず百均天国

 本日の収穫、『下町の民俗学』
 著者は言わずと知れた、加太こうじ氏。知らないよ、とおっしゃるお若い方も多かろうが、こんな人である

 この方の著作には、多分に貧民出身自学自習左翼系インテリとしての、やや鼻につく論評が散見されるのだが、だからこそ、たとえば狸の敬愛する北杜夫先生とか小林信彦先生とか、青山で上流寄りの中流家庭に育った叙情的少年や、日本橋の商家に育ったシニカルな少年とは、まったく異なった生活感の、しかし紛れもなく同じ戦前戦中戦後の東京風俗を知ることができるので、狸にはとてもありがたい方なのである。実際、育ちが違えば、周囲の日常的風物においても、お互い知りようのないシロモノやモノゴトがてんこもりであるという点で、昔の格差社会は、現在の格差社会の比ではない。

 ところで、この加太先生は、紙芝居『黄金バット』のオリジナル発案者ではないものの、二代目作者として、全国的ヒーローに押し上げた方でもある。なんだオリジナルじゃないのか、と言うなかれ。それを言ったら水木しげる大先生だって、鬼太郎の産みの親ではない。元祖鬼太郎の紙芝居は別の方が描いている。
 要は、それで食うプロの世界では、面白いほうが勝ちなのである。
 以前にも記したような気がする有名な話だが、『モンテ・クリスト伯』や『三銃士』の超多作超人気作家アレクサンドル・デュマは、ある作品で盗作を指摘されたとき、堂々と言ったそうである。「確かに盗作した。しかし私の本のほうが、ずっと面白い」。