[戻る]


12月29日 木  近況

 年内の仕事は、昨日でおしまい。来年は、まだまったく決まっていない。相変わらずの浮草暮らしである。

 年内に更新するつもりだった大長編怨霊物件、狸のクドい性格ゆえ例によって延びに延び、昨夜ようやく〈次回『隘路1』に続く〉まで打鍵を終えたのだが、未推敲の部分がずいぶん残っているし、記憶の中だけでも、修正したい点が少なくない。
 どんなに多く見積もっても数人、いや下手すりゃ3人くらいしか最後まで読んでくれないであろうトンデモ話なのだから、別に急がなくともよさそうなものだが、いっぺん年内に更新すると決めてしまった以上、やっぱり更新したい。こんな愚痴などこぼしているバヤイではないのである。

          ◇          ◇

 などと言いつつ、昨夜の打鍵後、まだ脳内麻薬がキマったまま、録画しておいた『レッド・オクトーバーを追え』(1990・アメリカ)と『ウルフズ・コール』(2019・フランス)を、「よし、今夜は好きな潜水艦モノの新旧二本立てだ!」などと、張り切って夜明けまで見続けてしまった馬鹿は誰だ。
 ……俺だ。
 しかし悔いはない。
 どちらもハラハラドキドキのミリタリー・サスペンスながら、前者はいかにもハリウッドの大作らしく、とことん陽性のカタルシスを与えてくれたし、後者は古いフランスの戦争映画にも似た、とことん悲劇的な、しかし大作に他ならぬ陰性のカタルシスを与えてくれた。
 つまり、どちらも最後まで手に汗を握る、面白い大作であった。
 人間には、生きて咲く花実も、死んで咲く花実もあるのである。とくに全面核戦争を阻止したい時は。

          ◇          ◇

 さて、怨霊物件の推敲を終わらせねば。


12月22日 木  師走の狸走

 コロナ最盛期だろうが不景気だろうが、とにかく師走だけはアブレないのが五体満足な最底辺非正規労働者の常、おかげさまで無事に年を越せそうなのだが、正直、年年歳歳疲れ具合が加速し、そろそろ息が上がりそうである。脛の貨幣状湿疹は痒いし、指のひび割れが痛い。それでも年間を通した稼ぎは、やっぱり非課税世帯から脱せない。
 でもまあ衣食住の内、住だけは年金でなんとかなるので、路傍や公園で凍死する恐れがない狸は、やはり恵まれた国に生きている。
 もっとも光熱費や食費の加速度的な増加は、近頃、目に余るものがある。これで衣類まで値上がりしたら、凍死の可能性もゼロではない。

 キシダ君は国内での評価をすっかりあきらめ、増税してアメちゃんから武器を買いこんでバイデンさんに褒められる路線に舵を切ったようだが、日本でトマホークなんぞなんぼ増やしたって、どうせ核弾頭は搭載できないのだから、現在の仮想敵国に対する抑止力や反撃能力にならないのは自明の狸である。堂々と核弾頭を積んで、核戦争を起こせる国になって、初めて抑止力や反撃能力が生じるのだ。
 えーと、念のため、狸は核兵器を所有しろと言いたいのではない。
 そんな金があったら貧乏な女子供に配れと言いたいだけである。
 貧乏な狸や男なんぞは、ほっといてよろしい。なんなら戦場に捨てればいい。どうせ痔民党の悪口を言うのが関の山の無産階級だ。

          ◇          ◇

 ところで、狸穴のある選挙区で長いことブイブイ言わせていたソノウラさんが、大層みっともないことになっているようだ。
 狸は一度も投票したことがないが、あの方がまだ精悍な若手だった頃から街頭演説や選挙ポスターで見知っており、その御尊顔が年を経るに従ってどんどんどんどん賤しい顔に変わってゆくのを、リアルタイムで見てきた。
 あれが痔民党で実績を重ねるということの、象徴なのだろう。
 彼の親玉であるアソウさんだって、狸の少年時代には、精悍な青年政治家の顔をしていたのである。

          ◇          ◇

 ちまちまと打ち続けている怨霊物件、なんとか年内には更新できそうだ。けっこうまとまった量の追加になる。
 始めた頃は、ちまちまと毎日更新したりしていたが、やはり狸の作風だと、ヒトカタマリのボリュームをまとめて放流したいのである。
 漫画だって、読み始めた子供の頃は、月に一度の連載を、わくわくと心待ちにしていた世代だものね。


12月16日 金  真実の日々

 このまま死ぬまで世を偽り続けるのが、近頃少々心苦しくなってきた。
 そこで、そろそろ私の真の日常を、嘘偽りなく記そうと思う。

          ◇          ◇

 山形でも指折りの素封家に生まれついた私は、物心ついた頃から、およそ生活に困った経験がない。
 年老いた現在は、親の遺産で購った青山の億ションのペントハウスを終の住処と定め、食事はいつも銀座の老舗レストランや、日本橋の老舗料亭ですませている。
 しかし、そうした富裕なテリトリーで安穏とした生活を続けていると、どうしても体が鈍るのは避けられない。
 そこで、日々、努めて江戸川や荒川の河川敷に足を運び、気ままに散策するのを常としている。

          ◇          ◇

 さて、先日の午後遅く、小岩界隈の貧しい家並みを憐れみながら江戸川の堤を辿っていると、ある親子連れが目に止まった。
 私の少し先を、まだ三十路に達しているまいと思われる若く清楚な母親と、三歳ほどの愛らしい女児が、手を繋いで散策している。
 その行く手から、賢そうな柴犬が老人を従えて近づいてくると、女児は嬉しそうに指さして、母親に言った。
「わんわん! わんわん!」
「そうね、わんわんね」
 すると柴犬は、女児と同じように喜んだ様子で、「わん」、と一声咆えた。
 母親と老人は、顔見知りらしく会釈を交わし、柴犬は女児に尻尾を振りながら、しかし老人の気遣いか、女児に頭を撫でられるほどには近づけないまま、リードを引かれてすれ違った。
 傍観する私は、女児同様、いささか残念な顔をしていたと思うが、いかに賢い犬でも何かの拍子に臍を曲げてしまうことがあり、初対面の女児に近づけないのは、老人が良識の人である証しでもあろう。

          ◇          ◇

 柴犬を見送って数分後、今度は一匹の猫が目に止まった。
 まだ若い茶トラが、土手際で丸くなり、日向ぼっこをしている。
 雌雄はさだかではないが、片耳に切り欠きがあり、毛並みも清潔である。人に慣れた地域猫らしい。
 女児は嬉しそうに猫を指さして、
「にゃんにゃん! にゃんにゃん!」
「そうね、にゃんにゃんね」
 すると猫は、嬉しそうでも厄介そうでもない、猫らしい無関心を装いながら、それでも女児に顔を向け、「にゃん」、と一声啼いた。
 しかし、女児が撫でようとしてしゃがみこむと、やはり猫らしい無関心を湛えながら、河川敷への草叢に、のそのそと姿を消してしまった。
 私は女児の落胆する顔に胸を痛めたが、地域猫とはいえ野良育ちなのだから、蚤やダニの類を宿しているかも知れず、やはり幼児が無闇に接触するべきではない、とも思った。
 母親もそう思ったのだろう、さほど残念そうでもなく「残念でした」と娘の頭を撫で、その手を引いて散策に戻った。

          ◇          ◇

 散策を続けるうちに、午後も遅い冬の陽射しは、早々と傾き始めた。
 先を歩む母と子が、夕飯の話をしている楽しげな会話が、私の耳にも届く。
 さほど豊かな暮らしではないのだろう、私とは縁のないつましい食事を待ちわびる女児の笑顔に、憐れみではない純粋な憧憬を私は覚えた。
 その時、先の路傍に、丸くなっている獣の姿が、再び目についた。
 今度の獣は、猫よりは大きく、犬ほど大きくはない。この辺りでも稀に見かける、野良狸なのであった。
 幼女は狸を指さして、嬉しそうに言った。
「ぽんぽん! ぽんぽん!」
 アニメや絵本から想像した呼称なのだろう。
 若い母親も、そのままの言葉を娘に返す。
「そうね、ぽんぽんね」
 すると狸は、母子に向かって顔を上げ、しばらく悩ましげに眺めていたが、やがて思いきったように後ろ足で立ち上がり、大きく息を吸って腹を膨らませ、突き出た臍の辺りを、威勢良く両手で打ち鳴らした。
「ぽん! ぽん!」
 私は狸に抗議したくなった。
 いやいや、お前、それは己の真実を偽っているだろう――。
 犬は「わんわん」猫は「にゃんにゃん」、それは自然に理解できる。しかし狸は、断じて「ぽんぽん」ではない。
 といって、狸が実際にどう啼くのか、実は私も知らないのである。女児も母親も狸自身も「ぽんぽん」で折り合っている以上、私一人が抗議しても仕方がない。

          ◇          ◇

 狸と別れて数分ほど歩くと、母子は土手道を逸れ、住宅街に続く小さな階段を下って行った。
 私は最寄りの私鉄駅に向かう橋まで、そのまま土手を歩くつもりであった。
 小さな階段の横を通り過ぎながら、ふと階段の下に目をやると、あの母子が途中で立ち止まり、幼女は斜面の草叢を指さしていた。
 一匹の狐が、草叢から顔を出している。
 幼女は嬉しそうに言った。
「こんこん! こんこん!」
 そして若い母親も、
「そうね、こんこんね」
 先刻の「ぽんぽん」とは違い、狐の「こんこん」は、微妙な問題である。
 子供の頃、私は田舎で狐の声を何度か聞いたが、むしろ犬の声に近かった記憶がある。「ギャンギャン」あるいは「キャンキャン」、そんなふうに聞こえることが多かった。たまには「クォン、クォン」と聞こえる時もあり、それを昔の人は「こんこん」と表記したのかもしれない。しかし、それはむしろ例外的な発声である。
 狐自身も「こんこん」を不満に思ったらしく、幼女には反論しなかったものの、母親には、厳しい口調でこう言った。
「いい大人が、そんないい加減な事を子供に教えてはいけません。私は狸と違って、人に迎合するのは大嫌いです。なんなら夜中に夢の中で祟りますよ」
 青ざめた母親が幼女を抱き寄せると、狐はいかにも狡猾そうに笑いながら、
「夢で祟られたくなかったら、今すぐ豆腐屋で油揚げを買って、私に献上しなさい。豆腐屋の場所がわからなければ、私が案内します」
 そう言って母子を先導し、下町の家並みに向かって、階段を下ってゆく。
 母親は大いに戸惑っているが、幼女はやはり上機嫌で、
「こんこん! こんこん!」
 すると狐も、
「はい、こんこん、こんこん」

          ◇          ◇

 しだいに茜色を帯びる空の下、遠ざかる狐と母子を一人見送りながら、私は思った。
 おい狐、おまえもたいがい迎合しとるやんけ。狸のことを悪く言えんぞ――。


12月08日 木  ボケとビンボ

 おでんを火にかけたまま失念して焦がしたり、カレーを温め直そうとしてやっぱり失念して焦がしたり、ここ数日の内に二度も鍋の底をガビガビにしてしまった。
 これはいよいよアルツが本格化してきたか、と不安を覚えたりもするのだが、亡母のアルツ進行期を思い起こせば、その焦げ付いた鍋を洗いもせずそのまま放置するようになった時が真のアルツであり、そうなると冷蔵庫の中なんぞも、あっという間に地獄の様相を呈する。
 その点、今の狸はビンボすぎて、食品ロスを出さないために消費期限や賞味期限には毎日気を使いまくっている。焦がしたおでんもカレーも食えるところは食うし、新しい鍋に金を使うのは御免だから、ガビガビの鍋底もクレンザーでしっかり洗う。
 一方、亡母は、長年地方公務員を勤め上げた亡父の退職金や遺族年金で、充分生活できていた。台所や冷蔵庫が地獄化しても、その日に食う物はその日に買えたし、家賃も必要なかった。
 結句、狸のアルツの進行は、ビンボが抑えてくれているに違いない。

 しかし、やはり困ることはある。
 創作物に関する新たな趣向など着想しても、近頃老化が著しい狸は、その場でメモしておかないと確実に忘れてしまう。
 自主徘徊中ならメモすればいいが、仕事中だとメモは不可能だ。当然、すぐに忘れる。
 どうせ忘れるなら、きれいさっぱり忘れてしまえばいいものを、「なんかいいことを思いついたはずなのに忘れてしまった」という事実だけは、しっかり記憶に残っているのである。
 とても悔しい。
 とはいえ、働かなくとも食っていけて、いつ何時でもメモできる環境だと、ボケに対する自己免疫力は、あっという間に衰えそうな気もする。

 ……そうか、わかったぞ。
 それでアマチュア作家の皆さんは、プロになりたがるのだな。
 メモすること自体を仕事にできれば、ボケもビンボも回避できる。


12月01日 木  おっとっと

 やめろと言ってるのに、なんでだかアップデートしてしまうOSにイジメられ、なんじゃやら画面が真っ白になってウンともスンとも言わなくなって再起動したりしているうちに、いつのまにか世間は師走に突入していたりする今日この頃、皆様方におかれましては、いかがお過ごしのことでございましょうや否や!!

 ともあれ、狸は細々と、でんぐりがえり続けております。
 その証拠に、某所で継続中の怨霊物件、本日更新いたしました。

 ウインドウズの自動アップデートも、狸が大袈裟に嘆いているほど毎日毎日続いているわけではないし、狸のパソコン自体が老朽化してヨレヨレなのも解っているし、ウインドウズ95や98の頃の、へたすりゃ毎日フリーズして再起動、月に一度はOSごと再インストールみたいな不安定さに比べたら、文句を言っちゃバチが当たるんですけどね。