【序章】 世界の国からこんにちは
（歌・三波春夫・坂本九・その他多数競作）
滝川一太郎一家が、三日ばかり逗留した蔵王高湯温泉から峰館盆地に下りていくと、恐ろしいばかりの暑気と湿気が、その盆地全体にじっとりと染みこんでいた。山間の県道をうねうねと下っている途中から、どうも嫌な予感はしていたのだが。これですこんと抜けた青空が頭上に広がっていなかったら、気の短い一太郎のこと、即座に山に引き返していたかも知れない。
女房の花子と娘の花恵を側車《サイド》に乗せているので、愛車・陸王はせいぜい時速四〇キロくらいまでしか飛ばしていない。それでも単車をジーパンにＴシャツ一枚で飛ばしているのだから、少しは爽やかな風を感じても、良さそうなものである。しかし盆地の水田を縫う平らな国道に下りてから、体に感じるのは、まるで粘りつくような温風ばかりだった。
この地を知らない人々が、北国の山国という印象から想像するのとは別状、峰館はこの国のこれまでの気象観測史上、最高の気温――摂氏四〇・八度を叩き出したことさえある土地なのである。
こりゃあやっぱり坊主頭で正解だなあ、と一太郎はつくづく思った。
高校入学以来、二年前初めての子供が生まれるまで、一太郎はリーゼント一筋に生きていた。排気量一二六〇ＣＣの陸王ともども、父親・太郎からの流れだった。その父親にしても一太郎が物心ついた時には、すでに坊主頭だったのだが。
ちなみに、陸王というこの単車（この型の場合、現在稼動しているのも奇跡的な、日本陸軍九七式側車付自動二輪車であるから、側輪駆動可能構造であり、昭和四十五年現在の交通法規上、普通車扱いなのだが）は、その源流であるハーレーを、はるかに凌ぐけたたましさ誇っていた。気分爽快な時には猛烈に頼もしい爆音も、時と場合によってはちょっと度を越した騒音である。また、それを自分の乗り物として利用するには、常に頑健な肉体労働者であらねばならない。したがって現在それにまたがる一太郎は、愛機に対する親しみ以上に、なんだかなあ、というやや自棄的な気分も味わっていた。白いＴシャツも吹き出る汗でべったり肌に張り付き、乾く間がない。
一方おそろいのＴシャツにポニー・テールで、側車に小ぢんまりと収まっている花子は、案外涼しい顔をしていた。もともと身長が一五〇センチほどで止まってしまっているので、狭い空間に収まるには都合がいい。それに、いわゆるトランジスター・グラマー・タイプだから、自身のクッション性も悪くない。側車の座席自体も、今は花子が収まりやすいように改造されている。そしてなにより、幼い頃から末はこの席に収まるんだと決めていて、現在その通りそこに収まっており、さらに予定通り一太郎との子供を抱いているのだから、間断のないすさまじい上下動と炎天くらい、問題外の気分なのだった。
腕の中の花恵も、おそろいの小さなＴシャツで機嫌よくはしゃいでいる。さすがにまだジーパンではなくオシメ姿で、耳には難聴防止の耳栓を当てているが。
蔵王連峰に続く小ぶりの山々を右手に眺めながら、しばらく国道を北に向かって走り続けると、水田の彼方に峰館市街のビル郡が見え始めた。ごちゃごちゃと無造作に重ね散らかした、積み木のようだ。
――ほんとに、たまに見るたび、別世界のように街が広く高くなる。
一太郎は稼業の都合で、けっこう宮城県側に山を下りる。仙台市などの、峰館などとは比べ物にならない変貌も見て来ている。しかしもともと思い入れのない太平洋側がどう変貌しようと、さほど気にはならない。山を下りた旧友たちが多く住んでいる峰館市だから、ことさら感慨深いのである。
実際には、この当時の日本全土の加速度的な変貌に比べれば、水田の彼方の積み木の山など、まだまだ牧歌的な光景だった。現に、その積み木の山のさらに北西の彼方には、万年雪を頂く月山が、まだ遥かに高く望めていた。また左手の水田の西、国道に沿うように走る奥羽本線では、上り下りの蒸気機関車が、煙の尾を夏空に交差させていた。そして、交差したまま空に溶けてゆく煙の彼方には、朝日連峰の山々が、盆地の温気などものともせず、清涼にそびえていた。
そんな、まだ牧歌の音律を失わない光景の中で、調和を乱しているのは、むしろ一太郎たち家族のほうだったかもしれない。その側車付き陸王は、白地に青い波模様というけして趣味が良いとは言えない塗装がほどこしてあり、あまつさえガソリンタンクには鮪《まぐろ》が跳び、側車の横には、ふたつの紫色の『大漁』という筆文字に挟まれて、『魚滝』という屋号が大きく真っ赤に踊っていた。
なお、この夫婦の名前が、一般的人名としてでなくオフィスの冗談の種として通用するようになるには、まだきゃあきゃあと日本語未満の言葉で自己主張している娘の、高校卒業を待たねばならない。それどころか、現在の意味でのパソコンの遠い原型と思われる粗末な林檎の木箱――アップル�気涼太犬鬚垢蕁△泙誠�年待たねばならない。
峰館駅舎もまた、ステーションデパートと呼ばれる近代的建物に変わっていた。地下一階地上二階、いかにも今様な横長のビル仕立てである。ロータリーを行き交うバスも、塗装こそ往時の田舎らしい柔らかい桃色を残しているものの、すでに全車角型になっている。ロータリーを囲む建物も、数階建てのビルが目立った。
数年以上前、あの大騒動のさなかに一太郎たちが降り立った時、峰館駅舎はまだ木造であり、バスはボンネット型だった。当然周囲の商店も、ほとんどが木造の二階屋だった。その三年後、同級の民治と美津江が駅前に小さな支那ソバ屋を開き、そのお祝いに訪れた時も、まだ木造だった。
様変わりしたロータリーを一回りしながら、一太郎はその支那ソバ屋に続くはずの横道を探した。裏路地の細道なので、表が様変わりしてしまうと、以前どこから踏み込んだものやら、とっさには判断できない。
勘のいい花子のほうが先にその道を見つけ、一太郎の袖を引いた。
まだ舗装されていない路地の奥で、白い調理着姿の小柄な民治が、店先にゴムホースを引き出していた。
ただならぬ爆音を聞きつけて、顔を上げる。昔ながらの控えめな、なにか含羞に満ちた笑顔だ。
一太郎はほっとして、その横に陸王を停めた。
「やっほー、民ちゃん」
花子が花恵の手を、腹話術師のように揺らしながら言った。
「ハジメマシテ。ワタシ、ハナチャン二号」
花恵も調子に乗って、きゃっほー、というような声を上げた。
民治は照れくさそうな笑顔で、花子と花恵に手を振り返した。
「……早かったね。バイク、裏に入れとくといいよ」
ぼそぼそと穏やかな声も、昔と変わっていない。二間間口の粗末な店構えも、昔のままだった。色あせた『冷やし中華』ののぼりが、夏負けしてしまったように、だらりと萎れている。
「おう、悪いな。邪魔にならないか」
「そこに停めといたら、誰も通れないよ」
「そりゃそうか」
花子はさっさと花恵を抱いて側車を降り、やっほー美っちゃん笹餅だよと叫びながら、蔵王土産の袋を下げた手で、曇りガラスの引き戸を開け、ずかずかと店に入って行った。
民治は苦笑しながらそれを見送り、一太郎に言った。
「……変わらないね、花ちゃん。お母さんになっても」
「おう、ずっと死ぬまで馬鹿は馬鹿」
まあ俺もだけどな、と呟きながら、一太郎は裏手の庭に重い車を引き回した。勝手口のゴミバケツと幅のある側車付きで、裏庭はいっぱいになってしまった。
表に戻ると、民治は水撒きを始めていた。
「俺もやりたい」
この時期は山の自分の店でも、一日中水撒きは欠かせない。三日間店を休んでいるだけで、一太郎はなにか手持ち無沙汰な気分になっていた。
白く乾いた路地の土に飛沫が跳ぶと、いったんぱたぱたと土ぼこりが立つ。
水滴が土の表面を転がり、それからしっとりと染み込み、ようやく土は黒ずみ、落ち着いていく。
「……とさかが、ない」
民治が遠慮がちに言った。
「おう。花恵が頭をひっかきまわすんで、アブラが使えんのだ」
ホースの先をつぶして撒き加減を操りながら、一太郎はようやく汗が引いていくのを感じた。
「もう十一時だろう。まだ開けなくていいのか」
のぼりの具合を整えている民治に、声をかける。
「うん。最近は夜のほうが遅いんだ。昼に開けて、夜中までやってる」
「大変だなあ」
「でもないよ。山とは時間帯が違うだけだ」
店の引き戸が開いて、美津江が顔を出した。
「よう。久しぶり」
一太郎がまったく『久しぶり』らしくない軽い声をかけると、美津江は何か皮肉でも言いたそうな視線を、一太郎の坊主頭に向けた。
「――なんで惣領が水撒きしてんの。あんた、お客さんに仕事させて、なにやってんの」
呆れたように言って、民治を睨む。
『惣領』というのは、一太郎の学校時代のあだ名である。長男以外の何者でもない本名から、いつのまにかそう呼ばれるようになっていた。
美津江は開店祝いに訪れた時よりも、さらに福々しくなっていた。もはや学校時代の細身で神秘的な面影は、瞳の色にしか残っていない。どこから見ても、立派な食堂のおかみだ。
かつてその孤高の存在感を、ちょっと色っぽいかな、などと思っていた一太郎にしてみれば、この美津江の変貌だけは、やや納得しかねるところだった。
「俺がやりたいっていったの」
「……新婚旅行の時くらい、奥さんべったりでいるもんだよ」
一太郎をたしなめるその視線と口調は、そう変わってはいないようだ。
外の開店準備を終えた民治に続いて、まだ裏返しの暖簾をくぐりながら、一太郎は頭上の木彫りの看板を見上げた。
――支那蕎麦・うさぎ家。
うん、ぴったりの屋号だなあ、とつくづく思う。開店の時も、同じように感心した。
民治は兎唇《みつくち》である。身長は美津江の肩までしかない。
美津江は白子《アルビノ》である。本来の白髪は、今は濃茶に染めているが、目は赤い。
まあ、それは一太郎や花子にとっては、子供の頃から同じ山で育った仲なので、当たり前の事だ。ちょっと見た目が風変わりという点では、中学・高校と強度のニキビ症で、アポロ十一号が着陸してしまいそうな月面顔の一太郎の方が、よほど変わっている。それでもその夫婦が、あえて県庁所在地の駅前に若くして店を開き、営々と商売を続けているのは、やはり大したものだと思う。
粗末なデコラのテーブルが六つ、それでいっぱいの店だった。
クーラーもなく、壁に据えられたちっぽけな扇風機がふたつ、ゆるゆると温気をかき回している。
それでも店の奥の角、天井近くの棚には、小型のカラーテレビが鎮座していた。
満艦飾の和服の三波春夫が、大阪万博の歌を朗々と響かせている。
「おお、すげえ。カラーだカラーだ」
「まあ、客商売だからね」
町場でもテレビの色付きは、まだ半分以下である。まして山の村では、よほど羽振りのいい家でもない限り、白黒が普通だ。
花子は奥の帳台に近いテーブルでジュースを飲みながら、花恵に乳房を含ませていた。Ｔシャツもブラジャーも、まくりあげてしまっている。民治が入って行っても平気な顔だ。
美津江はその隣に腰をおろし、無心に乳首を吸っている花恵の頬を、横からつついたりしていた。
「もうお乳なんて出ないのにねえ。馬鹿な花ちゃん二号」
花子がぼやいたが、それでも顔は笑っていた。
「そんなもんだよ。無理に乳離れさせても、ろくなことないよ。それにしても、やっとの新婚旅行で、こぶ付きとはね。惣領、親父さんたちに、任せて来れば良かったのに」
「駄目駄目。親父たちに四日も預けたら、もうでろんでろんに甘やかされて、親の言う事なんか聞かなくなっちまう。あれじゃ、なんで俺がとことん張り飛ばされながら生きて来たんだか、解りゃしねえ」
「そりゃしょうがない。惣領は昔から顔が悪い。めんごくない。この子は、花ちゃん似で、すごくめんごい」
「……ありがとうよ」
「美っちゃんとこは、まだ？」
「当分無理だわ。秋には改装で、また忙しくなるし」
一太郎は驚いて、民治に訊ねた。
「何々？ もう建替えすんの？」
民治はうらやましげに花恵を覗き込みながら答えた。
「この路地、整地して、ビルにする話があるんだ」
「ひえー、棚から牡丹餅」
「そうでもないけど、借金は返せそうだ」
淡々としているが、やはり嬉しそうだ。
美津江はそんな民治を、横目で睨んで言った。
「あんた、仕込み」
「もう終ってるよ」
「……惣領にも、ジュース」
民治はすごすごと調理場に下がって行った。
これは焼き餅なんだろうな、と、一太郎夫婦は苦笑した。
山では乳房を晒して赤ん坊に含ませる光景など、日常茶飯事だ。昔から背丈のある美津江に惚れていた民治だから、小柄な花子の乳房などよりは、かわいい盛りの花恵の方に、気を惹かれていたに違いない。
テレビでは、今度はにきび跡だらけの坂本九が、まったく同じ歌を歌い始めた。万博ブームに絡めた趣向らしい。
「あ、あたし、九ちゃんのほうが好き」
「惣領に似てるもんね。夏みかんみたいなあばた面」
「えへへへへ」
「馬鹿、照れるな。亭主が馬鹿にされてるんだぞ」
「そうなの？」
「やっとの新婚旅行なんだから、花ちゃんに万博見せてあげればよかったのに」
「そんな余裕ないよ。村で大阪なんか行けたの、姫ん家《ち》だけだぜ。姫がこの前夏休みで帰って来て、村中に土産ばらまいてったけど」
「ああ、姫、店《うち》にもこの前顔出した。なんだかアフリカのパビリオン土産とか言って、なんとかナッツっての、置いてったよ。美味しかったけど」
「えーとね、カシューナッツだっけ。あの曲がったお豆でしょ。甘味があって美味しかったよね」
「へえ、ここにも来てるんだ」
一太郎は意外に思った。
山持ちの裕福な家の娘だった『姫』――結城麗子は、食うや食わずの家の美津江や民治など、鼻も引っ掛けていなかったような気がする。まして、その後国立の峰館大学に進み、今は峰館放送のアナウンサーだ。城西の高級住宅街の、マンションとかいう高級アパートで、優雅に独り暮らしをしているはずだ。
「寂しいんだろうね。仕事の後、夜中に冷やし中華食べに来たりするよ。あいかわらず、つり合う男がいないなんて強がってるけど、どうだか。あれじゃ、なかなか男ももてあましちゃうだろうし。なんだか近頃、かわいそうになっちゃってさ」
姫が美津江に憐れまれている――一太郎と花子は、思わず顔を見合わせた。
こうして時代は変わっていくんだな、そんな気持ちである。
「何考えてんのよ。脳天気なあんたたちが、いつのまにか赤ん坊こしらえてるほうが、よっぽど激動の昭和史でしょうよ」
一太郎と花子は、別の意味で、ぎくりと顔を見合わせた。
「……『くだしょう』、戻った？」
一太郎は、おずおずと訊ねた。
テレビとは反対の角の棚に祀られた、神棚に目をやる。
神棚の前には、以前開店祝いの時に見かけたままの、細長い紫の袱紗《ふくさ》包みが横たわっている。その中には、美津江の『血筋』が代々受け継いできた、一尺ほどの竹筒がくるまっているはずだ。
美津江はけらけらと笑って答えた。
「何言ってんの。あれから、ずっとからっぽだよ。あんたたちの考えてることなんか、顔見ただけで、誰だって判る」
ほっとした一太郎の前に、民治がビール瓶と大きめのコップを置いた。
「……こっちのほうが、いいだろ」
「おおお、サンキュー」
相好を崩して伸ばした一太郎の手を、花子に操られた花恵の手が、ぺんぺんと叩いた。
「お父ちゃん、運転」
美津江が一太郎に助け舟を出した。
「大丈夫でしょ。これから森《しん》君も来るんだし、帰るまでには抜けちゃうわよ」
「そうそう。抜けるも何も、ビールの一本や二本、初めから酒に入らない」
「しょうがないなあ」
この世界にこれ以上の幸福があろうか、そんな顔でいっきに飲み干した一太郎は、幸福を超越したのか、ふう、とひと息ついたきり、なにかむっつりと黙り込んでしまった。
「…………」
口の周りに白い泡をつけたまま、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
その場の他の三人は、困ったなあ、そんな顔をしている。
花恵の手が、今度は一太郎の坊主頭をぺんぺんと叩いた。
ちょうどその時、テレビにＣＭが流れた。
音楽も何もなく、ただ白い部屋に三船敏郎がポロシャツ姿でどんとあぐらをかいている。片手にビール瓶、片手にコップ、それだけだ。拍子木の音が、ひとつ響く。しゅぽ、と栓を抜く。ちん、と瓶とコップを鳴らす。
それはその夏、巷で話題になっている、当時としては画期的なＣＭだった。
ただ白地に黒い筆文字で書きなぐったようなキャッチ・コピーだけが、画面いっぱいに、ずんずんと縦に流れる。『男は黙ってサッポロビール』。口の周りに泡をつけた三船は、豪快に、ぶ、とひと息。
「……それをやるお客さん、毎日、十人以上いる」
美津江が冷ややかに言った。
一太郎は敗北を認め、無言のまま深々と頭を下げた。
ちょうどその時、ガラス戸が開いて、待ち人の森《しん》が入って来た。
「……惣領、また何か馬鹿やったのか」
白い麻の開襟シャツに、ベージュのスラックスという、いつもの森らしい垢抜けた姿だった。少々日本人離れした知性的な細面には、この温気でも汗の玉ひとつ浮かんでいない。
「おお、いいところに来てくれた。みんなで俺をいじめるんだ」
「……何言ってんだかなあ」
美津江が呆れたように呟いた。
森は一太郎が旅行に出たのと同じ時期、峰館市のホテルに泊り込んで、大手電機メーカーの技術講習を受けていた。
一太郎は村で唯一の魚屋の後継ぎで、森は唯一の電気屋の後継ぎだ。性格や学業成績は外見同様正反対だが、生まれ年から生まれ月まで同じだったため、物心ついた頃から、妙に馬が合って行動を共にすることが多かった。
一太郎は今日の午後には山に戻る予定だが、森の講習は週末まで続く。
隣に腰を下ろした森に、一太郎はビールを勧めた。
「昼になるかと思ったら、ずいぶん早かったな」
「ああ。今日は朝一だけやっとけば、後は欠席でかまわん。業務用の大型クーラーの修理なんて、今んとこ覚えてもしょうがない」
森は美味そうに、しかし一太郎よりはずいぶん上品なペースで、ビールを飲み干した。
向かいに座っていた花子の膝から、花恵がしきりに森に両手を伸ばし、だっこ、しんちゃん、おじちゃん、などと繰り返している。
特に子供好きではない森だが、そのなつき具合にほだされて両手を差し出すと、花恵は喜んで森の膝に居場所を移した。
「昔から不思議なんだよねえ」
美津江が感心して言った。
森はどちらかと言えば、とっつきにくい雰囲気の人間だった。万事にクールで、淡白な、というより冷淡な印象がある。趣味は親譲りの電気機器関係と、それとなぜか蝶類の研究だ。気心の知れない人間が見たら、むしろ陰気で孤独好きな男と敬遠するタイプかもしれない。
ところが、特に子供好きでも動物好きでもないのに、森には不思議と子供や犬や猫がなついてしまう。山歩きの時など、野生の狸や狐まで、警戒せずに寄ってくる。
一太郎は子供の頃からそれらを目の当たりにして、これは森から自分も感じる一種の『透明感』のためなんだろう、と、やや彼らしからぬ文学的結論に達していた。善意でも悪意でもない、といって公平・平等などという即物的な感じでもない、妙な安心感が森にはあった。
調理場から、できたよ、という民治の声がした。
あいよ、と答えて美津江が席を立った。
美津江が運んできた冷やし中華を一口頬張って、まず花子が感嘆の声を上げた。
「おいしい！」
花子の膝に戻り、よーく噛むのよ、と言われて麺を一本すすりこんだ花恵も、ふむふむと満足げにうなずいている。
「おいしいよ、民ちゃん」
調理場の民治からは、返事がなかった。こういう晴れがましい場面では、民治は絶対に表に出てこない。代わりに隣の美津江がにんまりと笑った。
「冬場はまだまだなんだけどね、夏場は駅前の天下とった、って感じでしょ」
一太郎も同感だった。麺や汁もさることながら、細切りの鳥と山菜などの具の味が、山育ちの天然物に慣れた舌でも、文字通り舌を巻く味だ。
「ただの鶏じゃないし、こっちも……蓴菜《じゅんさい》？ 違うなあ」
「そこはそれ、企業秘密。ほら、亭主、いろいろ山つながりあるから」
民次の家は、サンカ――この当時あまり公言しにくい言葉だったが、『山窩』の流れを汲んでいる。
納得して舌鼓を打ち続けながら、一太郎は山の高校時代を思い出していた。
民治と美津江がここにいて、自分と花子もここにいる。まあ、姫や他の級友はどこで何をやっていようと、生きてさえいてくれればかまわないが、しかし――小百合だけは、ここにいて欲しかった。小百合が森の隣に居てくれさえすれば、この冷やし中華はまだ何倍も美味くなるはずなんだが。
そんなことを考えながら隣の森に目をやると、なぜか森は箸を休め、壁のポスターをじっと見つめていた。
「どうした？ うまいぞ」
一太郎は不審に思って、それまで気に止めてもいなかったビールのポスターに目をやった。サッポロではないので、三船はいない。その代わり、ハワイかどこかの南国の海を背景に、ビキニの混血娘が、ビールの小壜を掲げて笑っていた。
「やっぱり、気がついた？」
美津江が意味ありげに森に言った。笑顔ではあるが、目元が翳っている。
「森君も来るって聞いた時、剥がしとこうかとも思ったんだけど、やっぱりね」
「……いや、手紙で仕事の事は知ってた。見るのは初めてだけど」
「ま、元気に頑張ってるみたいだし、陰ながら応援、ってとこかな」
当初、訳が解からずに二人の会話を聞いていた一太郎と花子は、やがてほとんど同時にその会話の意味を悟り、顔を見合わせた。
一太郎は思わず立ち上がり、壁のポスターに顔を寄せた。
「……小百合？」
こんなに健康に笑える娘だったろうか。
南国の空と雲に負けないほど、陽に焼けた娘だったろうか。
いつも頑《かたく》なにうつむいて、月の光にさえ負けてしまいそうな娘ではなかったか。
――これがあの俺たちのひと夏の大騒ぎのゴールなのか。
気がつくと、一太郎は壁に両手を突いて泣いていた。
花子がその背中に抱きついて、優しく頬を擦り寄せた。
「泣く事ないじゃない。おめでたいんだよ」
そう言いながら、花子も泣いている。
森の膝にまた移された花恵は、きょとんとして、そんな両親の姿を見つめている。
本来ならつられて泣き出しているところだが、森に頭をなでられているので、目を丸くする程度で済んでいた。
調理場からこっそり覗いていた民治も、思わずもらい泣きしていた。
しかし、美津江は冷静だった。
「まあ、あれだけ派手にやってくれてれば、誰ももう手を出さないとは思うんだけどね」
「大丈夫。もう小百合ちゃんはただの人だ」
それは、米国防省も内閣調査室も、事後確認しているはずだ――森は努めて冷静に答えながら、神棚の袱紗包みに目をやった。
「それに、俺たちにはまだ、くだしょうが憑いてる事になってる」
一般に『管狐《くだぎつね》』あるいは『飯綱《いいづな》』と呼ばれている霊獣――式神と言ったほうが適切かもしれない――を、峰館地方では、古来『くだしょう』と言い習わしていた。口語でしか伝えられない陰の部分であるため、その語句の下半分が何を表しているのか、明確には伝わっていない。森は『管生』ではないかと推測している。狐や鼬《いたち》に似ているという文献はあるものの、それはあくまでも想像による伝承であって、実際の姿形を視認した者は、記録など残してはいないのだ。
テレビでは、大阪千里丘陵のパビリオン群と太陽の塔、蟻の大群のようにその地を埋め尽くす人々、そして三波春夫の歌声が、延々と流れ続けていた。
それら時代そのものの満艦飾が、たとえ様々な忘れてしまいたい愚かな過去や、現在も社会の底流に潜み続ける多くの矛盾を、一時的に糊塗しているだけだとしても――
ポスターの前でまだ嗚咽し続けている一太郎と花子に、森はいつもながらのしみじみとした慰撫を感じていた。
膝の花恵は、眠ってしまったようだ。
こくりと森の胸に垂れてしまった小さな頭を撫でてやると、その和毛《にこげ》が掌に心地良い。
――大丈夫。俺たちはただ生き物としてただ生きて行ける。
森はポスターの中で太陽のように笑っている小百合を見つめながら、初めて彼女に出会った夜の峠道を想い出していた。
その時その娘は、星空に紛れてしまいそうなほど、朧《おぼろ》げに見えていた。
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●背景画像には【自然いっぱいの素材集】様の素材を使用させていただきました●