【第一章】 あこがれの郵便馬車 (歌・岡本敦郎)





     一


 一太郎の家は、山越えの峠道に沿って点在する五十戸ばかりの集落の、一番上の端にある。
 子供の頃の藁葺き屋根は、もうトタン板に葺き替えられているが、造りは古い農家の頃のままで、民家というよりは大きめの小屋なのではないか、と自分では思っていた。
 生まれた時からすでに『魚滝』の看板がかかり、表土間の竃《へっつい》も裏土間に移されてそこが店先に改築されていたから、屋内で自由にうろつけるのは、障子戸の奥の、囲炉裏を切ってある八畳の居間、そしてその奥に三畳と四畳半、横手の縁側と物置、裏土間の台所兼風呂場、それだけだ。裏庭に昔は牛小屋だったという物置があり、今は父親が陸王をいじるガレージとして使われている。ガソリンのドラム缶なども、そこに収まっている。
 便所はさらに裏庭の隅の、ちっぽけな屋根付きの板囲いである。板囲いも腰までしかなく、立ち上がると四方が見える。その後ろはすぐに雑木の生い茂る崖になっており、はるか眼下に細々とした流れが見える。それが一家の苗字の由来らしいのだが、滝などという風流な物は、かなり上流まで遡らないと見られない。風雨の夜など、傘を差しながら用を足していると、このまま崖が崩れて自分は便所や排泄物と共に川を流れて行ってしまうのではないか、そんな不安にいつも怯えてしまう一太郎だった。
 小学校に上がる頃までは、奥の三畳に小さくて可愛い祖母が寝ており、天気のいい日などは一日中縁側に座ってなにかぶつぶつ言っていた。しかし、そのうちいなくなってしまった。人間というものはそうやっていつのまにか縮んで消えてしまうんだなあ、とちょっぴり寂しかった記憶がある。しかし、それ以降その三畳は一太郎ひとりの部屋ということになったので、なるほど、人間が縮んで消えてしまうと、それなりに良いこともあるのだなあ、などと思ってしまい、あわてて隣の部屋の仏壇に線香を上げた記憶もある。やがて由美という妹が母親の奇妙に膨らんだ腹から出現したが、幸いな事に気弱な甘えん坊に育ち、当分両親といっしょに仏間で寝る事を、嫌がる気配はなかった。
 『近くの駅はどこですか』と手紙で訊かれ、一晩悩んでしまったのも、小学校の頃だった。都会の子供と文通しましょう、などという新しい社会教育法にかぶれてしまった分校の教師に、なかば強制的に手紙を書かせられて出したら、そんな返事が来てしまったのである。
 慌てて地図帳を調べてみると、直線距離で六キロほど北西に、仙山線の山寺駅が存在するのが判明した。その間の道が山あり谷ありで、ジグザグに折り返したり蛇花火の燃えカスのように蛇行したり、到底子供の脚でそう簡単に越えられるような状態ではない、というような事実はどこにも書かれていなかったので、正直に『山寺駅です』と返事に書いた。
 ちなみにその文通相手は、横浜の港が見える丘の上にある大きな屋敷のお嬢様で、日曜日には両親と共に繁華街のレストランで洋食を食べたりしていた。森から借りた少年雑誌でしか知らない、大金持ちの世界である。一太郎は思わず対抗意識を燃やしてしまい、ちょっとまずいかなあと思いながらも、自分の家は山の牧場で大勢の牛を飼って、日曜日には家族みんなでバーベキューをしていると書いた。
 何度か都会と山の絢爛豪華な何不自由ない生活を描いた手紙が往復したが、そのうち相手の少女から、何か子供心に精神的なひとつの契機が訪れたのか、実は自分の両親は横浜港の港湾労働者であり、まだ家も無く運河の艀《はしけ》で水上生活をしている、という意味の手紙が届いた。当時、日本の港湾地区ではけして珍しくない生活だったが、その便箋がところどころふやけたり文字が滲んだりしていたので、一太郎も泣きながら、実は自分の家は山奥の貧乏な魚屋で、商売柄ちっぽけな保冷庫だけはあるが、まだ冷凍庫もテレビもなく、鮮魚もろくに商えず、細々と干物ばかり売っているのだ、と返事に書いた。
 その後もしばらく、つたないながらもいたわりに満ちた文通が、互いに飽きてしまうまで続いたから、分校の教師の教育方針は、結果的に間違っていなかったのだろう。
 ちなみにその頃同じ分校の花子は、やはりアルプスのごとき美しい牧場で『あこがれの郵便馬車』などを歌いながら、毎日花を摘んでいたらしい。実は集落の中ほどにあるちっぽけな万屋《よろずや》で店番をしていたのだが、歌いながら店先の花を摘んでいたのは事実だから、一太郎よりは正直だったと言って良いだろう。


 一太郎が高校二年に上がった年の、ある初夏の土曜の午後である。
 森といっしょに学校を出て、だべりながら一里ばかり山道を登り、集落の入り口にある電器屋の前で森と別れ、汗を拭き拭きさらに山道を登ってくると、父親の太郎が庭先で陸王のチェックを始めていた。
「……親父、まだ無理だべ」
 一週間前にぎっくり腰をやったばかりの父親が、寝たりごろごろしたりしているのに飽きて、発作的に山を下りて仕入れにでも行こうとしているのかと思ったのである。
「仕入れなら明日俺が行ってやっぞ」
 ――俺ってなんて親孝行な息子。
 しかし振り向いた太郎は、妙に使命感に燃えた目をしていた。
「結城さんとこの爺さんがぽっくり逝った」
「げ」
 同級の結城麗子――通称・姫の祖父が病床にあることは知っていたが、もう八十七で数年前から寝たり起きたりだったので、なんとなくそのまま細々と、いつまでも生きているような気になっていた。それに、小一時間ほど前に校舎を出る時も、それらしい話はなく、姫は花子などと共に、手芸クラブで夕方まで残ると言っていたはずである。
「鮪《まぐろ》三本、通夜までに担ぎ上げる」
「げげ」
 結城の家は、戦後の農地解放前まで、名実共に『大庄屋』として近郷に君臨していた。第二次農地解放以降は、めっきり経済的な権勢も衰えてしまったが、それでも近郷屈指の山持ちであることには違いなく、現に年寄り衆の間では、未だに『大庄屋』と通称されている。
 そんな家の通夜振舞いや精進落としなら、弔問客すべてに食いきれないほどの刺身も出さないと、世間体が保てないだろう。このあたりでは何か振舞い事があると、どれだけ海産の鮮魚を出せるかで、その家の格を計られてしまうような気風がある。それがもっとも手に入りにくい珍味美味だからだ。
 当然、普段は干物やせいぜい味噌漬け・塩漬けばかり扱っている名ばかりの魚屋としては、存在意義を賭けて、意地でも調達しなければならない。本来なら仏様に生臭物は禁物のような気もするが、実際は旦那寺の住職でも葷酒おかまいなしだ。表でお経を詠んだ後、裏で刺し身も喜んで食う。
「これでお前も修学旅行に行けっぞ」
 そう、普段の冠婚葬祭程度の切り身でも、結構な臨時収入になるのだから、鮪三本とくれば、この家の年収に関わる問題だ。
「俺が行く。今の親父じゃ無理だ」
 一太郎は奥の間に駆け込んだ。
 小学四年の由美が、囲炉裏の傍に卓袱台を出して、宿題をしていた。
 なにか創立記念とやらで、小中の分校は休みだったらしい。
「兄《あん》ちゃん、布団干しておいたよ」
「おう、サンキュー」
 一太郎は感謝の印に、その横を走り抜けながら、お下げを軽く引っ張ってやった。
「痛いよ」
 そう痛そうな声でもないので、感謝の気持ちは充分伝わったはずだ。
「母ちゃんは?」
「うん。結城さんとこに、手伝いに行った」
 自分の部屋の襖を開けると、朝寝散らかしたままだった布団は綺麗に畳まれて、日向の匂いに脹らんでいた。
 たった三畳とはいえ、粗末な文机が置いてあるだけで本棚も箪笥もないから、けして狭い気はしない。教科書類や、森から借りっぱなしの『平凡』『明星』などの雑誌類は、蜜柑の木箱ひとつで収まってしまう。
 由美への仙台土産は何がいいかな、そう考えながら、一太郎は学生服を慌しく私服に着替えた。父親のお下がりの、あちこち擦り切れそうなジーパン二本と、三枚のTシャツを着回すだけが、この時期の一太郎の私服だった。いや、もうひとつ、長押《なげし》の衣紋掛けにかかった、年間を通して万能の衣類――年季の入った黒の皮ジャンがある。これも父親のお下がりで、山の村では古着扱いだが、街場では近頃ちょっと幅のきく衣類である。きっちり決めたリーゼントとセットならば、最強だ。まあ、そのリーゼントも、山の村ではまだ妙な『とさか頭』扱いなのだが。
 同じ長押に掛かった、すでにまだらに裏の銀面が浮いている鏡を見ながら、一太郎は髪の乱れを直し、細身の櫛を懐に収めた。
「やっぱり、兄ちゃん行くの?」
 開けっ放しだった部屋に、由美が入って来た。
「おう、親父にまた寝込まれると、やっかいでしょうがねえ」
「峰館に下りるの?」
「いや、鮪《まぐろ》三本だと、塩竈《しおがま》まで行かねえと」
 由美が心細そうに眉をひそめた。
 切り身やせめて一本程度なら、海のない峰館市でも、飛び込みで調達できるだろう。しかし今日中に丸々三本となると、滝川峡谷を遡り、分水嶺を越えて宮城県側に下り、仙台平野を抜けて、風光明媚で名高い松島湾のすぐ南の漁港・塩竈まで直行するのが確実だ。そこには父親・太郎の戦友が、魚市場でけっこうな顔になっており、いつ何時でも、何本でも手配してくれるはずだ。代金も付けで済む。
 由美が心配したのは、難所と言われる滝川峡谷を、暗くなってから戻らねばならないからだった。断崖の中腹に刻まれた、車一台通るのがやっとの細道で、ちょっと踏み外せば、すぐ落ちる。落ちるとたいがい死ぬ。
 それでも太郎や一太郎は何度も無事に越して来た道だし、地元の人間は一度も落ちたことがない。以前東京から何か記録映画を撮りに来たという会社の車が、二台いっきに落ちて十人ほどばらばらになったり溺れたりした。不憫には思ったものの、それは結局彼らが山を甘く見た、つまり間抜けだったからである。自分は馬鹿だが、馬鹿と間抜けは全然違うというのが、太郎と一太郎の持論だった。
 時間があれば、景気づけに何かレコードを掛けたいところだ。
 あの文通から数年、いまだにテレビもない居間の隅には、なぜか箱型の立派なステレオ電蓄が鎮座している。ラジオも聞ける高級品だ。村ではまだ姫の家と役場の助役の家、そしてこの『魚滝』の囲炉裏端にしかない。それを売った『岸沢電器商会』――森の店にさえ、ふだんはモノラルのポータブル電蓄しか置いていない。滝川家のそれは、主に過去の鮪が化けた物だ。息子の修学旅行の積み立ても滞るような経済状態で、どういう親父だと、時々取っ組み合いなども展開してしまうのだが、残念ながらまだ一度も勝った事がない。
 EPのレコード盤も三十枚ほどある。これがなぜか全て洋盤の、ロックンロールか映画音楽である。しかし一太郎が自分で買ったのは、そのうちまだたったの二枚だ。
 そもそも去年一太郎が三輪免許を取り、父親の代わりに仕入れに行けるようになるまで、自由に使える小遣い銭などというものは一円ももらえなかった。当時はオート三輪が業務用自動車として広く使われており、十六歳から免許が取れた。そして側車付き陸王は、まだ三輪扱いだった。つまりこれを自分で転がす事は、一太郎にとって大いなる快感であると同時に、自由に使える金を得るための、文字通り肉体労働だったのである。
 ――親父がしつこく聞いている古い『ロック・アラウンド・ザ・クロック』もいいが、ここはやっぱり、俺が買った『大脱走マーチ』だろう。
 一太郎は去年峰館で観た唯一の映画を思い浮かべ、頭の中でミッチー・ミラー楽団のマーチを鳴らした。スティーブ・マックィーンが山野をバイクで爆走する、あれだ。
 上がり框《がまち》に腰を下ろして、黒いゴム長に足を突っ込む一太郎を、由美はまだ心配そうに覗き込んでいる。
「帰りにアイスクリーム買ってきてやっぞ」
 またお下げを引っ張ってやると、由美はくしゃりと笑顔になってうなずいた。
 花子の家――村唯一の万屋《よろずや》では、夏場以外はアイスクリームは扱わない。売上より保冷庫の電気代のほうが、かさんでしまうからだ。それに夏場でも、そもそもそれを購う財力が『魚滝』には乏しいのである。ガチガチのアイス・キャンデーが関の山だ。
 庭に出ると、父親が陸王にまたがり、キック・ペダルを踏んでいた。
 ――ちょっとあのペダルだけは、自転車みたいでイカシてねえよなあ。
 そこは一太郎がこの逞しい車に感じている、唯一の美的欠点だ。まあ、前後輪のなんだか心細いブレーキ構造とか、その他操車上のクセに対する不満も色々ある訳だが、そのあたりは運転している自分だけの問題だから、イカスかイカシてないかはどうでもいいのだ。
 腹に響くような爆音が、車体を振るわせた。
 うん、いい音だ。
「あだだだだだだ……」
 太郎が腰をおさえてハンドルにうずくまった。
「……無理すんなって」
「おう、頼むわ」
 太郎は腰をさすりながら、息子にその座を明け渡した。
「塩竈には、結城さんとこから電話入れとく」
「おうよ」
 さて、進軍――。
 一太郎は頭の中でマーチを鳴らし続けながら、左手のアクセルを開けた。
 ちゃちゃ、ちゃちゃーちゃちゃっちゃ、ちゃちゃーちゃちゃーちゃちゃっちゃ、ちゃちゃ――。


 しかし、そのまま峡谷に向かってしまってはいけないのである。
 一太郎はいったん道を下り、集落をまた縦断して、電器屋の前に車を停めた。一昨年新築したばかりの、スマートな青いトタン屋根の二階家だ。同じトタン屋根でも、太郎が自力で葺き替えた古トタンなどとは、一見して物が違う。
 岸沢電器商会は、この村の商家の中では、今もっとも羽振りがいい。近郷に他に商売敵がないため、昔からラジオや屋内配線関係の修理ができるのはここだけだったし、いわゆる三種の神器――テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の普及は、こんな山の中でも、少しずつだが着実に進んでいる。もっとも都会では、すでにほとんど揃っているらしいとも聞くが。
 店の作業台で裸のテレビを修理している父親は、相変わらず森にそっくりのポーカー・フェイスだった。一太郎が挨拶しても、修理に夢中らしく、や、と軽く会釈して見せるだけだ。いつもの事なので、一太郎はそのまま二階に直行した。勝手知ったる他人の家だ。
 ――しかしまあ、家ん中に階段まであるってのは、つくづくうらやましいよなあ。
「やっほー」
 いきなりドアを開けると、森は予想通り奥の窓際の机に向かって、蝶の展翅を始めていた。ちゃんとした洋机で、椅子も回転式だ。
 店の父親と同じように振り返りも手を休めもしないで、物静かに口を開く。
「……いつも思うんだが、できればノックしていただけないか。俺は別に構わんのだが、こいつが着替えでもしてたら、お前、どうするつもりだ」
 隣の机で、今日子の後ろ頭が、こくこくとうなずいた。
 森の妹は、もう中学三年だ。いわゆる『お年頃』になりかかっている。
「うん。押し倒す」
 今日子のお下げがぶるんぶるんと、激しく拒絶の意を示した。
 いかに森同様幼馴染とはいえ、そんな気が少しでもあれば、さすがに一太郎もこんな冗談は言えない。今日子は森と同じで、かなり痩せている。一太郎の家よりずっといい物を腹いっぱい食べているはずなのに、どうしてここの一家はみんなこんなに痩せているのか、いつも不思議に思ってしまうほどだ。一太郎は、女性の胸部と臀部については、どちらかといえばちょっと大きすぎるくらいのほうが、押し倒してみたくなる性質《たち》だ。
「悪いが、森、ちょっとつきあってもらえんか」
 一太郎はいきなり用件を切り出した。
「峰館にくらい、一人で行けるだろう」
 森もおおむね状況は判るらしい。たぶん森の母親も、上得意である結城の家に、手伝いに行ったのだろう。
「いいや、今日は三本だ。塩竈まで行く」
 後姿のまま、森がぴくりと手を止めるのが判った。
「……お前、俺にいっしょに死ねと言うのか」
 切れるの別れるのって、そんなことはね、芸者の時にいうものよ――隣の今日子が、ぶつぶつ呟くのが聞こえた。――今のわたしには、はっきり死ねといってください。
 今日子はまた何か古臭い本を読んでいるらしいなあ、と一太郎は想像した。
 このまるまる子供部屋という豪勢な八畳間は、左手の壁一面、ほとんど今日子の本棚が占めている。ちなみに右手一面は、森の標本箱で埋まっている。
「だって、俺、仙台に出てからの道、実はまだ良く知らんのだ」
 仙台方面に関しては、森のほうがずっと詳しい。蝶の本格的なコレクションに関わる資料や用具は、まだ峰館では取り寄せになり、実物が見れないし、すぐに揃わない。森は休暇の時など、泊り込みで仙台に出ている。資料や用具の誂えだけでなく、東北大学の自然科学研究室などにまで顔を出しているという話だ。
「それだけじゃないだろ。可動式バラストでもないと、峡谷でスピードが稼げない」
「大当たり」 
 ふう、と溜め息をついて、森が立ち上がった。
「これ、片付けといてくれ。判るな」
 隣の今日子にそう言うと、今日子は本から目を離さずに答えた。
「……アイスクリーム」
「ああ。谷で落ちなかったら、買って帰る」
「……落ちても、アイスクリーム」
 森は、ふ、と考え込む仕草をした。
「……川に流すから、拾え」
 今日子の横から、OK、の形の指がのぞいた。
 うん。妹に関しては、うちのほうが勝ってる――一太郎は、ささやかな優越感を覚えた。


     二


 頭の中でマーチが鳴らせたのは、峡谷にさしかかるまでだった。
 木漏れ日の山道がいっきに開け、とんでもない巨人がとんでもなく巨大な斧で、やけくそに数回大地を断ち割った、そんな峨々たる谷間が眼前に現れると、さすがの一太郎も、気を引き締めてスピードを落とした。
 それでも一太郎の性格上、行きは良い良い帰りは怖い、などと、他人《ひと》が聞いたらそのお気楽さに呆れてしまいそうな歌を口ずさんでいるのだが、爆音に紛れて、無論森の耳には届かない。
 実は、森も同じ歌を口ずさんだりしている。
 この全長半キロほどの曲がりくねった崖道を、側車に乗せられて通るのは初めてだ。それでも峰館方面への山道を下るのには何度もつきあって、一太郎の動物的な勘の良さは知っている。それ以前に、子供の頃から山遊びにつきあって培われた、確固たる信頼もある。たとえば一太郎が飛び込んだ滝壷なら、森が続いて飛び込んでも、必ず浮いて出る。浮き上がれるかどうか判らない滝壷に、飛び込むような間抜けな真似は絶対にしない。
 峡谷のこの区間の北側だけは、崖は花崗岩を剥き出しに、斜面というよりほぼ垂直に切り立っている。道と沢の高度差は、数十メートルはあるだろう。一太郎の慎重なハンドルさばきに合わせて、森も慎重に体重移動を繰り返した。左側車は沢方向ではなく壁面に沿っているのだから、いざという時は自分は左に飛び降りて、一太郎と陸王だけ沢に落ちてもらうという手もあるが、さすがにそれでは一生寝覚めが悪そうだ。
 崖道を中ほどまで進んだ時、一太郎は崖沿いに抉られた僅かな待避場に、陸王を停めた。
 退避場、というのは勝手に一太郎たちがそう呼んでいるだけで、正式名称は特にない。まだ自動車のない時代から、すでにこの道は存在していた。馬の背いっぱいに海産物等を積んだ行商人――いわゆる『駄んこ衆』が、時にはひとりで数頭の馬を引き連れ、割のいい商いを求めて越えて来た道だ。座って気兼ねなく小休止できる場所も、当然必要だったのである。
「どうした、急がんでいいのか」
 森が訊ねると、一太郎は情けなさそうに答えた。
「……腹減った」
 気負って飛び出て来たので、昼飯を食うのを忘れていたのだ。
「ガス欠か」
「おう。間抜けなこった。間抜け過ぎて屁も出ねえ。小休止」
 森は苦笑しながら、自分のズック袋から、ビニール袋入りの餡パンを差し出した。
「……いいのか?」
 一太郎にしてみれば、それは結構なご馳走である。
 森はうなずきながら、水筒も差し出した。
「明日は夜明けから山に入るつもりだったんだ。用意しておいて、ちょうど良かった」
「……半分こ、するか?」
「いい。お前がふらついたりしてみろ。俺の命も危ない」
 一太郎は満面に喜びを浮かべて、餡パンにかぶりついた。
 本当にこいつは食わせがいがあるよなあ、と思いながら、森は側車を降り、胸ポケットからハイライトを取り出した。
 峡谷を渡る風は爽やかだ。しかし、マッチの火は点けにくい。三本目でようやく煙草の煙が上がった。
 あっという間に飲み食いを終えた一太郎に、森はもう一本の煙草をさしだした。
「おう、サンキュー」
 先から先へと火を移し、並んで一服する。
 断崖を背に煙草を吹かしていると、山にへばりついているというより、谷間の空に立っているような気になれる。
 沢の彼方の南側は、地形による風蝕や雪触の差なのか、こちらほど切り立っておらず、這い松の群生する岩棚などもある。
「昔の奴ら、なんであっちに道通さなかったかなあ。あっちなら、まっつぐ落っこちないで、どっかに引っ掛かりそうな気がするんだが」
 なんとなく一太郎が言ってみると、
「あっちだと、冬ごとに雪でやられちまうだろう。しょっちゅう道を切りなおしてるよりは、やっぱりこっちだ」
「そうか、やっぱりお前、頭がいいなあ」
「お前が馬鹿なだけだと思う」
「まあ、あの親父の子だからなあ」
「……親父さんは馬鹿じゃないと思うが、なんでこの村で魚屋なんだかは、ちょっと不思議ではあるわなあ」
 一太郎も、昔は疑問に思っていた。干物だけなら花子の万屋でも扱えるし、川魚なら沢で採れる。海産の鮮魚にしても、隣村のように、週に一度峰館から車で商いに来る業者もいるのである。まあ今日のような火急の場合、確かに一発狙う手もあるのだが。
 滝川家が農家から魚屋に転業した経緯については、今でも村の衆や親戚筋の間では、語り草になっていた。
 そもそもはるか昔から終戦の頃まで、滝川家は代々桑畑や芋畑を耕して、細々と生きてきた。なにか結城の家と遠い昔に姻戚関係があったとかで、純然たる小作農ではなく、自前の畑も少しばかりあった。この村では、むしろ恵まれていたと言ってよい。父親が早くに病没してしまったため、太郎は若くして戸主になり、母親と共に日々畑で過ごす生活に、なんの疑問も抱いていなかった。
 きっかけは、大東亜戦争である。初期は戸主までは来ないと思われていた赤紙――召集令状も、太平洋戦争に突入するともはや泥沼、太郎の元にも昭和十八年の秋にしっかり届いてしまい、あそこは暑そうでやだなあ、と思っていた南方戦線に送られてしまった。結婚したばかりの妻・ヨネを残して村を出る時、二十四才の太郎はまだしっかり坊主頭だった。
 さて、ご存知のように昭和二十年八月十五日、戦争終結には到ったものの、前線に送られた一兵卒の生死など、この時点で誰にも完全に把握できるものではなかった。生き残った者だけが生きていた。国内でさえ、主要都市部などは大半焼け野原になっていた時代である。
 戦中、仙台空襲の赤い夜空を山越しに見て怯えたり、峰館方面でも一般市民がグラマンの機銃掃射で蜂の巣になったりはしたものの、幸い村自体が攻撃を受ける事はなかった。それでも林業と農業が主体の山村にとって、帰らざる働き手というものは、焼夷弾や弾丸に劣らぬ死活問題である。
 ヨネは村の衆や親戚筋に助けられながら、姑《しゅうとめ》と共に畑を耕し、雪を掻いた。太郎の坊主頭を想いながら、泣き明かす晩も多かった。でもまあ、やっぱり畑をいっしょに耕す新しい旦那も一人調達しないとなあ。このあたりの相場だと、太郎の弟が町から呼び戻されて、繰り上がりで自分の旦那になって家を継ぐんだろうけど、太郎ほど男ぶりは良くないからやだなあ――そんな事を考えていた翌年の夏、なにか噂に聞いたGIの伝令車のような代物が、山道を登って来たのである。それは陸王にまたがったリーゼントの太郎だった。太郎はその晩、しっかりヨネの胎内に一太郎の種を蒔き、翌朝にはもう畑を売って魚屋を開く算段を始めていた。
 戦地でなにがあったのか、それ以降の一年あまりをどこでどう過ごしていたのか、ヨネも詳しくは知らないし、一太郎はまったく知らない。ただ、一太郎が中学二年の春、初めて太郎に勝負を挑んで大敗を喫した晩、太郎は機嫌よく酔い痴れて『ロック・アラウンド・ザ・クロック』を鳴らしながら、こんなことを呟いた。――俺はもう誰も恨んじゃいねえし、誰にも負い目はねえ。けど、義理は忘れちゃなんねえ。俺と木村は、魚とアメ公の兄ちゃんたちのおかげで、山田を食わずに済んだ。
 木村というのは、これから訪ねようとしている塩竈の魚市場の親爺さんだろう、そう一太郎は推測している。山田というのが誰なのか、それは判らない。自分から訊くつもりもない。いつか勝負に勝ったとしても、訊くべきではないのだろう。
「……おし、アンコが効いてきた」
 一太郎と森は、吸殻を空に放った。


 塩竈港には三時半頃には着けた。約六〇キロの道程を二時間強で走った事になる。しかしこの内、作並街道に合流するまでの約二〇キロの山道を走破するのに、多くは下り道にも関わらず、一時間半近くかかっていた。それから、まだるっこしい山道走行の反動で、残り四〇キロを思い切り豪快に駆け抜けたのだから、一太郎はすっかり高揚してしまっており、それとは逆に森は半分死んだような気になっていた。仙台市内の信号だらけの繁華街なども、街道と同じペースで抜けてしまったのである。
 父親同様、背は低いが筋肉太りした木村の親爺さんに良く礼を言って、久しぶりに見た海と港に別れを告げた頃には、もう四時を回っていた。
 側車は樹脂製の白い保冷箱に占領されている。魚市場で運搬に使う箱の大半はただの木箱だが、新し物好きの親爺さんが、戦友のために用意してくれた新型だ。中には当然、緩衝材に包まれた鮪三本が、氷といっしょに収まっている。お土産のアイスクリームも、匂いがつかないようにビニール袋に入れてある。こちらにはドライアイスも入れてもらったので、無事にかわいい妹やあまりかわいくない妹の口に入るはずだ。
 保冷箱はロープで縛り付けてしまったので、すでに森の収まる余地はない。森は陸王の後部座席――などと言うと聞こえはいいが、荷台に二つ折りの座布団を括り付けただけの座席に、不承不承またがっていた。
「……風呂には毎日入ったほうがいい」
 くっつきたくもない一太郎の背中にくっつかざるを得ない森としては、また皮肉のひとつも言いたくなる。
「おう? 毎日入ってるぞ。水と薪はただだからなあ」
 一太郎は何の屈託もなく答えた。
「……気にするな。言ってみただけだ」
 仙台市街にまた戻ると、土曜の夕方でも車の流れは絶えなかった。
 来る途中にも通った道だが、一太郎の勘は、どうもビルの多い街場ではうまく働かない。森の指示に従って、勾当台公園の交差点を右折し、市役所などの並ぶ四十八号線に入ると、陸王の爆音を数倍大きくしたような音の塊が、後ろから追って来た。
 森が驚いて振り返ると、ハーレーを先頭とした数台の七五〇CCが、背後に迫っていた。
 先頭のハーレーが陸王に並んだ。
 運転しているのは、一太郎や森と同年代の、リーゼントの少年だった。黒の皮ジャンも、Tシャツやジーンズも一太郎同様だ。それでも一見して、違う立場の人間だという事は、誰にでも判る。ハーレーを含めて全てに古びがない。金がある家の、遊びの連中だ。リアシートにも、それらしい娘が乗っている。まあ、たとえ彼の装備が古びており、リアシートに乗っているのが無愛想な男だったとしても、きっちりした黒皮のブーツとゴム長では、立場の違いは明白なのだが。
 因縁でもつける気か、と、森が身構えていると、その少年は前の一太郎に親しげにうなずいて見せた。一太郎も気軽に挨拶を返す。後ろの娘が森にウインクしたので、森は多少面食らいながら、反射的にウインクを返した。よほど様になっていなかったのか、娘は、かーわいい、とでも言うように笑顔を投げた。ああ、こいつらが噂に聞いた若様族か、と森は悟った。
 北四番町の交差点で信号に引っ掛かり、左折の流れに混じって待機する。
「今日も仕事か。行商、ご苦労な事だっちゃ」
 隣に停めた少年が、仙台弁で一太郎に声をかけた。ぶっきらぼうだが、敵意はない。
「おう。夜までに山に担ぎ上げなきゃなんねえ。お前達《めえだ》みたいに、遊んでらんねえのよ」
 リアシートの娘は、一太郎のゴム長を一瞥して、もう興味を失ったようだ。その代わり、森のちょっと垢抜けた雰囲気に惹かれたのか、こっちのほうがいいかなあ、と言うような視線を送ってよこした。実際、森は、たまに訪れる東北大理学部のキャンパスに立っても、違和感がないだけの落ち着きがすでにある。
 さっきのウインクの失点を挽回するべく、森が特級のクールな視線を返すと、娘は案外素直に頬を染めた。あらーららら、良《え》えわあ――そんな顔だ。
「おうし、手伝おう。露払いしてやるっしゃ」
 信号が青に変わった瞬間、ハーレーは先に飛び出して勢いよく左折した。後の数台も、爆音と共にそれに続いた。
 仙台市は、市内を縫うように広瀬川が蛇行している。市街地に峡谷がある、そんな地形の場所もある。だから道筋も単純ではない。一太郎たちがたどる国道四十八号は、市街地を離れるあたりで河川に沿ってうねうねと蛇行を始め、しかも二車線しかない窮屈さだ。幹線でそんな条件だから、当然朝夕などかなりの渋滞となる。当時は西仙台道路や青葉山トンネルといった、車両通行主体の路線はまだ開通していなかった。
 これはちょっとまずいんじゃねえかなあ、と思いながらも、一太郎は彼らの開けてくれる道筋を、ありがたく快走した。
 彼らとは、つきあいと言うほどのつきあいがある訳ではない。
 去年の夏、腕試しにひとりで塩竈をめざした一太郎が街中で道に迷っていると、彼らの方から因縁を吹っかけてきたので、やむを得ず広瀬川の河原で喧嘩をしただけだ。
 頭と一対一の取っ組み合いは、一太郎の判定勝という形勢だったが、一太郎はあえて引き分けの形に治めた。今後のつきあいという商売人の駆け引き以上に、相手のがむしゃらな拳《こぶし》から、なにか貧乏人には解らない、金持ちなりの意地のようなものを感じたからだった。後日その事を森に話すと、森はそれを、引くに引けない立場の哀愁だな、と表現した。
 手締めの後、河原で顔を洗いながらぼちぼち名乗り合った時、その加藤周一という少年は、一太郎のやや自嘲的な身分説明に、なぜかしみじみとうらやましそうな顔をして見せた。
 周一は仙台では有名な、私立総合病院の院長の長男だった。彼の持って生まれた頭の出来ではかなり荷が重いにも関わらず、なかば強制的に名門の仙台一高に押し込まれ、さらに何年かかっても有名大学の医学部に受からねばならない、そんな宿命がある。それを聞いて、一太郎は心底から彼に同情してしまった。こいつはあの呪文のような数学の公式やら物理や化学のごたごたを、下手をすると死ぬまで、頭の中でこねくりまわし続けなければいけないのではなかろうか。
 あれからもう何か月もたち、一太郎はとうに教科書の呪文の理解など放棄しているが、彼らはまだ宿命的にこねくりまわし続けているのだろう。
 前方を群れて走り、他の車たちを威容と爆音で蹴散らしているかに見える少年たちに、森も一抹の悲哀を感じた。
 無頼を気取ってはいるが、親掛かりでしか絶対に買えない大それた単車にまたがり、しかも街中では絶対に法定速度を越えてはいけない、そんな立場の連中なのだ。檻の中でいくら吼えても、その檻を出る事はできない。
 周一たちの一団は三〇分ほど陸王を先導し、作並街道から南方向に折れる手前の信号で、手を振りながら引き返して行った。また市街に虚勢を振り撒いて流すのだろう。森は嘆息しながら彼らを見送った。
 一方一太郎は、周一の背中にへばりついている娘の臀部を見送りながら、すでに別の種類の感慨を抱いていた。――うん。花子の尻のほうが、ずっと勝ってる。


     三


 どこにも落ちようのないただの細道ならば、上りでも下りでも、陸王の馬力頼みなのだから苦労はない。一太郎は夕暮れの山道をがんがん飛ばした。
 やがて、滝川峡谷に戻る、最後の分かれ道が見えてきた。
 右折してさらに西に登ると峡谷へ、東に下ると秋保温泉を経て南仙台方面に続く。
「……尻が割れそうだ」
 森がそろそろ音を上げた。
「もともと割れてるじゃねえか」
「……ぼろぼろになりそうだ」
 そうか、花子と違って、森の尻の皮は薄いからなあ――一太郎は分かれ道の手前で、陸王を停めた。側車の座席の座布団を引っ張り出して、荷台のほうに重ねてやろうと思ったのである。
 ふたりで側車の保冷箱をごそごそずらしていると、東の山下から、車の音が聞こえてきた。
「珍しいなあ」
 一太郎が怪訝そうに言った。この時間からさらに峡谷方面に向かう車両など、ほとんど見たことがない。
「結城の家に行くんじゃないか?」
 森は冷静に判断した。結城家の先代当主の通夜ならば、仙台から駆けつける弔問客もいるだろう。
「なるほど。違えねえ」
 さすがは森だなあ、と思いながら、一太郎は近づいてくる音のほうを窺った。
 見慣れた黒塗りのクラウンが、がたがたと通り過ぎて行った。
「ハイヤーじゃなかったよな」
「ああ、麗子の家の車だ」
「なんでえ。仙台に客迎えに行くなら、鮪くらい自分とこで運んで来りゃいいのに」
「客と鮪は、いっしょに運べんだろう。第一、それじゃ、お前んちが儲からない」
「そりゃそうか」
 一太郎にわざわざ説明はしなかったが、森には理解できていた。
 仮にクラウンのトランクに鮪三本が収まったとしても、それをやってしまえば、結果的に結城家と村双方の損失になるのだ。そもそも結城家の経済力なら、電話一本ですべての物品購入を峰館や仙台の業者に任せ、運ばせてしまったほうがよほど効率的だ。それをしないのは、あくまでも結城家が村の経済的首長であり続けるためであり、同時に村自体の過疎化を避ける手段でもある。農地解放以降も『大庄屋』と呼ばれ続ける家は、短絡的な損得勘定では維持できない。
 二人で荷台に座布団を重ねていると、また別の車の音が、東から近づいてきた。
「ありゃりゃ」
 通り過ぎて行く車を見て、一太郎は感嘆した。明らかに左ハンドルで、確かフォードのファルコンとか言う小型車だ。儚い夢と知りつつ、雑誌の写真を何度も眺めていたので、間違いない。小型車と言ってもクラウンより少し大きく、クリーム色のスマートな車影だ。
「すげえな。アメ車の客までいるぜ」
 森は答えず、首を傾げた。
 一太郎は車種にだけ見とれていたが、森は客たちの様子を窺おうとして、なにか奇妙な物を見てしまったような気がしていた。
 一瞬に通り過ぎてしまったので、確かではない。しかし、脇道の陸王に気づかず、後部座席の男たちが手にしていた物は――森も映画やテレビでしか見た事がなかったが、あれは拳銃ではなかったか。ギャングやスパイたちが振り回している、オートマチックの。
 ――まさか、そんなはずないよなあ。
 珍しいアメリカ車から連想して、何かを錯覚してしまったのだろう。
 森は彼らしく冷静に判断して、一太郎に続き荷台にまたがった。尻具合は、だいぶ楽になっていた。


 しかし森の見た妙な物は、錯覚ではなかったらしい。
「おい、ありゃあ、何やってんだ?」
 峡谷にさしかかってすぐに、一太郎が素っ頓狂な声を上げた。
 すでに陽は落ちて、峡谷には夜の帳《とばり》が下りていた。
 それでも満月に近い月の光で、崖も道筋も沢のうねりも、案外はっきり見える。さらに満天の星が、彼方の稜線をくっきりと夜空に浮かび上がらせている。
 先行した二台の車は、数十メートル先で、蛇行する岩壁に見え隠れしていた。
 そのもつれ合うヘッドライトの動きは、何度確かめても、後ろのファルコンが先のクラウンに、繰り返し追突しているように見えた。
 つまり、谷底に追い落とそうとしているのだ。
 一太郎は、自分たちのいる世界が、いきなり別の世界に変わってしまったような気がした。これは――小林旭の『渡り鳥』シリーズでも始まっちまったのか? そうか、旭《あきら》兄いだって、いつも田舎で体張ってがんばってるもんなあ。
 こんな時、一太郎の決断は早い。どんな状況でも、まず自分の快感原則を優先させてしまうのである。――そう、この場面では、結城の車を颯爽と救うのが、かっこいい正義の味方だろう。俺はこの道で多少無茶をしても、落ちない自信がある。迷う理由はない。
 さすがにいきなり加速したりはせず、一太郎はいったん背中の森にどなった。
「森、降りろ」
「行くのか? 気のせいかもしれんが――拳銃持ってたみたいだぞ」
「うへえ、そこまで『渡り鳥』してるか」
「こんな道じゃ、走ってる限り、まず当たらんとは思うが」
 森の父親も、満州で戦闘経験がある。以前テレビで外国の金のかかった戦争物をいっしょに見ていて、ちょうど同じような場面になった時、父親はこう断言した。悪路を走行中の車両から、後続車の運転手やガソリンタンクを拳銃で撃ち抜くなんて、まったくの絵空事だ。機銃掃射でもしない限り、不可能だ。――森の父親は無口で滅多にしゃべらないが、それは嘘の言えない性格だからだ。
 森は側車の荷物を横目で見て言った。
「行くならこのまま行け。俺が乗ってたほうが、バランスがいい」
「おう、悪いな」
 森が当たらないと言うなら、たぶん大丈夫だ。走っていれば当たらないのなら、止まらなければいい。大体鉄砲の弾などという物は、片岡千恵蔵の『多羅尾伴内』クラスの正義の味方だと、自力でひょいひょい避けているはずだ。それに一太郎は、昔から懸賞やらくじ引きやらに、一度も当たったためしがない。鉄砲の弾だけが当たるという法はない。
 一太郎は、今度は遠慮なく加速した。
 もともと算段があって参加する追跡シーンではないし、そもそも抜きつ抜かれつするのが困難な山道だ。とりあえず追いついて、後続車がいるという事実を示すだけで、無謀な犯罪を断念して逃走してくれるのではないか――そう一太郎は期待していた。逃走と言っても、渓谷の西の出口まではクラウンと陸王のサンドイッチになって仲良く走らなければならないから、そう簡単には諦めてくれないかも知れないが。
 ファルコンのナンバープレートが見えるくらいまで近づくと、森が言った。
「よし、覚えたぞ」
 どうせ本物のナンバーではないと思うが、覚えておくに越した事はない。
「おう、忘れんなよ」
 一晩眠ると忘れてしまう自分の頭を棚に上げて、一太郎が念を押した。
 ヘッドライトで気がついたのだろう、ファルコンがいったんクラウンへの追撃を緩め、後続車両の正体を見極めようとするのが判った。それを見透かしたように、先頭のクラウンが一気に加速し、追跡者との距離を稼いだ。
「よし、うめえ。ありゃあ、亮三さんだ」
 一太郎が叫んだ。森も同じ判断だった。
 誰をお客に連れているかは知らないが、この道で蛇行しながら脱輪を恐れず加速できる運転手など、結城の家にはいない。麗子のすぐ上の兄――と言っても干支で一回りも年が違うが、あの三男坊の亮三さんならば、たまに帰省の折など、山道で豪快な走行を見せてくれる。十年近く前に東京の医大に受かり、大学院の研究過程に進んで、そのまま研究者として居付きになると聞いていたが、祖父の死を聞いて駆けつけたのだろう。
 しかし、やはりおかしい――森は不審に思った。亮三さんは、三年前からアメリカに留学しているのではなかったか。仮に帰国中だったとしても、東京から駆けつけるなら、奥羽本線の峰館に降りてハイヤーでも奢るほうがよほど早いし、安全だ。なぜ亮三さんが太平洋側から登って来るのか。祖父の葬儀はたまたまであって、別の理由で急遽帰省し、その理由がこんな非現実的な事態に繋がってしまっているのではないか――森は瞬時にそこまで頭を回転させていた。
 一方一太郎は、そんな婉曲な想像をするほどの頭もなければ余裕もない。運転しているのが亮三らしいと判っただけで、単純に事態に希望を持った。亮三ならば、例の『退避場』の存在を知っている。ここいらで一度も見かけた事のないアメ車の連中が、それを知っているはずはない。となれば、そこは峡谷の中で唯一、体制を逆転できる場所なのだ。
 とにかくアメ車の注意を、こちらに引きつけよう――一太郎はクラクションを鳴らした。続けざまに鳴らしてみたが、反応はない。一太郎は意識的に、ファルコンの右と岸壁の間に、割り込むようなそぶりを見せた。
 ぱん、と軽い破裂音が、ファルコンの後部から響いた。
 同時に一太郎の顔のすぐ横で、岸壁に何かが弾け、破片を散らした。
 一太郎の浮かれやすい神経は、すでに現実から完全に遊離していた。もはや死の恐怖などとはほど遠く、これはどの映画だろう、そんな気分だ。『大脱走』よりは、やっぱり中学時代に峰館日活で見た『渡り鳥』だよなあ。それにしても、この鉄砲の音は、なんだか気が抜けるよなあ。洋画みたいにどむどむと腹に響くとか、邦画みたいにいかにもそれらしくばきゅーんと言うとかしてくれないと、今ひとつ気合が入らんなあ。
「馬鹿、離れろ。当たるぞ」
 森が怒鳴った。
「走ってりゃ、当たらんのだろう」
「こんだけ近けりゃ、別だ」
 そりゃねえだろう、と、一太郎は我に帰って速度を落とした。
 すでに当初の目的は達したようだ。クラウンはファルコンから蛇行ふたつ分ほど先行し、次のカーブで退避場に達する。運転しているのが亮三さんなら、そこに車体を寄せるのは確実だ。退避場が蛇行の窪み側にでもあったら、どんな馬鹿でもそれに気づくだろう。ヘッドライトがそこにいるクラウンを舐める。しかし、幸いそれは凸と凹のほぼ中間の位置にある。追跡車は十中八九、見過ごして先行する。一度先行してしまえば、前に誰もいないのに気づくまで、しばらくかかるはずだ。そのうち気づいても、もう峡谷を抜けるまで、四輪がターンできる場所はない。そのまま峰館方面に逃げて行ってくれれば良し、引き返して来るにしても、ずいぶん時間が稼げる。
 一太郎は期待しながら、ファルコンとの車間を保った。
 案の定、そのままのペースだと少し先のカーブに現れるべきクラウンは、現れなかった。
 ほい、念のため――一太郎はまた加速して、ファルコンを煽った。さすがに鉄砲の弾は怖いので、先ほどのような無茶はしない。とりあえず、こっちに気を取られてくれればいい。先と後に気を取られていれば、横までは気が回らないだろう。
 退避場の横を通過しながら、一太郎はちらりと窪みの奥を確認した。灯火を落とした黒い塊が、確かに見えた。おし、さすが亮三さん、あとはどこらへんで逆方向に逃げ出すか――まだ早いよなあ。どんな馬鹿でも、カーブふたつも進めば、先に誰もいない事くらい気づくだろうが、さて、その後どう出るか。
 一太郎は不自然ではない程度に速度を落とし、まだ猛進を続けているファルコンから離れた。ファルコンは一太郎の目算通り、目標は先の蛇行の陰にいると思い続けてくれたらしく、スピードを落とさない。
 森は一太郎の背中にしがみつきながら、背後の退避場を確認していた。ファルコンの死角に入ったあたりで、クラウンが宮城県側に逆走し始めるのが見えた。
「惣領、OK。結城の車は逃げた」
「おうし、じゃあ、こっちも撤退」
「落っこちんでくれよ」
「任せとけい」
 側車がなければ、ここは一発アクセル・ターンでも決めてやるんだがなあ、などと思いながら、一太郎はそろそろと陸王を反転させた。森もいったん降りて、側車を支えてサポートした。四輪だと退避場までバックしないと反転は無理だが、この車体ならなんとか脱輪しないで反転できる。
 森がまた座布団に戻り、一太郎はアクセルを吹かした。その時、念のため背後を振り返った森は、信じられない物を見た。ファルコンがバックのまま、かなりのスピードで引き返して来る。直進の県道などならいざ知らず、この峡谷でだ。それは映画の逆回しか早回しのトリック撮影でもない限り、通常ありえない速度だった。
 森に袖を引かれて振り返った一太郎も、大口を開けて驚愕した。
「うひゃあ」
「……本物だな」
 一太郎の勢いにつられて、森もそれまで彼なりの高揚に身を任せてしまっていた。しかし、相手にまったく引く気がなく、技術的にもプロらしい事を悟ると、改めて現実的な悪寒が背中に走った。


     四


 一太郎は泡を食って発進した。
「ど、どうすっべ」
 あの分だと、もう四輪でもターンできる場所がある事は推測しているだろう。退避場でターンされてしまったら、あのテクだと案外早く追いつかれてしまいそうな気もする。
「止めよう」
 森は答えた。悪寒の元を断つには、それしかない。
「止めないと、いずれ落とされる」
「だからどうやって止めるんだってばよう」
 森は側車の荷物を横目で見た。
「爆弾があるじゃないか」
「あん?」
「とにかく飛ばせ。退避場の次の陰で停めろ」
 危ない時の森頼み――一太郎はすなおにその言葉に従った。
「で、どうすんだ」
「……悪いが、こいつをぶち当てよう」
 降り立った森は、側車の保冷箱のロープを解き始めた。
 一太郎はちょっと――いや、心底もったいない気がしたが、確かに命には代えられない。あわてて森を手伝った。保冷箱は一〇〇キロをかなり越えている。ふたりがかりで引きずり降ろす。
 段取りは森に訊かなくとも見当がつく。相手が馬鹿でないならば、退避場を使ってターンし、頭から次のカーブを越えて来る。その曲がりしなにこの箱をフロントガラスに叩きつけてやれば、事によったら止まるどころか、人死にが出るだろう。車ごと谷底に落ちてしまうかも知れない。曲がりしなならスピードも落ちているだろうから、放り投げっぱなしで逃げ出せば、巻き込まれずに済むだろう。
 一太郎は念のため、軽くなった陸王を少し先まで移動させ、また森と保冷箱のところに駆け戻った。
 言い出しっぺ、と言う事なのか、森はどちらかと言えば危なそうな、左の沢の側に立っていた。一太郎は代わってやりたい気もしたが、もうそんな暇はなさそうだ。
 カーブの陰の退避場の方から、ファルコンがターンして地面をこする音が聞こえた。
 ふたりは保冷箱の両側から、蓋の取っ手に手をかけた。
「ぎっくり行くなよ」
 一太郎は森に言った。自分に比べて、森はいかにも非力だ。
 森は車の音に気を配りながら、黙ってうなずいた。火事場の馬鹿力は、自分にもちゃんとあると知っている。去年父親と一緒に結城の家に運びこんだ大型冷蔵庫は、一〇〇キロを越えていたはずだ。
 ヘッドライトが見えた瞬間、森が叫んだ。
「来るぞ――せーの!」
「おうりゃあああっ!」
 一太郎も叫んだ
 息はぴったり合っていたが、さすがに一太郎の方が力はある。保冷箱は向かって右のファルコンの運転席に角を向ける形で、勢い良くボンネットを滑った。
 すさまじいスリップ音を聞きながら、結果を見極める余裕もなく、一太郎と森は一目散に陸王に向かって逃げた。
 ほとんど同時に陸王に飛び乗り、発進体制になってから、おっかなびっくりカーブを振り返って見る。
「……ありゃりゃ?」
 一太郎が気の抜けたような声を上げた。
 ファルコンは爆撃を切り抜けてしまったようだ。前輪ひとつを宙に浮かせて崖際に止まってはいるが、あれでは落ちないし、人手があればすぐに上がれる。第一、てっきり砕け散ると思っていたフロントガラスが、ほとんど健在だ。保冷箱の角が食い込んだ程度にしか見えない。
「……防弾ガラスか」
 森が悔しそうに呟いた。自分が『本物』と言った時点で、気づいていなけらばならなかったのだ。
 ファルコンが再びエンジンを吹かすと、その振動で保冷箱はボンネットを滑り、ゆっくりと沢方向に消えて行った。
 ――ああ、俺の修学旅行たちが、海に帰ってゆく。
 一太郎は悔しいより怖いより、ひたすら哀愁を感じていた。
「惣領、行け!」
「お、おう」
 感傷に浸っている場合ではなかったのである。
 泡を食って走り出したものの、最初は遠ざかりかけた敵の気配が、どんどん近づいて来るのが判る。
「怒ってるなあ」
「すまん。読みが甘かった」
 森は素直に謝ったが、フロントガラスの破損がなければ、ファルコンの追跡はもっと速かっただろう。しかし、いずれ追い付かれるのは必至だ。と言って、闇雲にスピードを上げる訳にも行かない。
 自分から落ちるのと、後ろから突っつかれて落ちるのと、どっちが痛くないか――一太郎は、一瞬そんな事を考えた。――同じだってばよう。『お願い、まだ駄目』なんて、花子が言うとすごく可愛くてついつい思いとどまってしまうんだが、俺があいつらに言っても、突っつくのを待っちゃくれんだろうなあ。
 凄まじい爆音が、背後から急速に接近して来た。
 後ろからがつん、そう覚悟した一太郎の右横を、
「うおおおおおおっ?」
 何か壮絶な風の塊が追い越して行った。
 風に煽られて横っ飛びに岸壁を擦りそうになり、一太郎は慌てて体制を立て直した。
「な、なんだあ?」
 ――あのアメ車は、空まで飛びやがるのか?
 仰天してその塊の飛び去った空を見上げると、当然ながら、車などではない。一太郎の未だかつて見た事もない、巨大な影だった。
 一瞬にして前方の谷間の夜空高く遠ざかった影は、急旋回して再びこちらに向かって突進して来る。
 一太郎は、もちろんヘリコプターという物の存在は知っている。しかし、それは峰館盆地や仙台平野の農薬散布で飛んでいる奴や、街場でデパートの開店などがあると空からビラを撒く奴や、旭兄いの映画なんかでもちょっと顔を出す奴――先頭が金魚鉢みたいに丸まっこい、鉄骨みたいな尻尾を生やした、ちょっと愛嬌のある奴だ。
 一方、森は家にテレビもあるし、新聞も取っている。一太郎よりは、情報としての世間が広い。なぜそんな代物がこの事態に参入して来たのか、敵なのか味方なのかも見当がつかなかったが、いずれにせよ、それは自衛隊の公開演習などで見かける、流線型に近い鼻をはやした戦闘用ヘリだった。
 そのサーチライトに瞳を射貫かれ、一太郎は急停車した。もういったい何がなんだか判らないし、この道で盲目運転するほどの度胸もない。
 谷間中の空気を破裂させるような轟音が響き、森はテレビのニュースでも見た事のない閃光の明滅――機関砲の発砲を目前にした。ヘリが陸王の横を通過するのとほぼ同時だった。自分たちを狙ったのではない。暴風のような風に顔を覆いながら、ヘリの尾を追って振り返ると、くしゃくしゃに変形したファルコンが、崖にへばりついて燃え始めていた。
 同じ光景を見定めた一太郎は、唖然としながらも、その遠ざかる味方らしい飛行物を頼もしく見送った。
「……すげえ。戦争みてえだ。あれ、日本軍、じゃねえ、自衛隊か」
「わからん。米軍だとしても……戦争だな、これは」
 今しがたの出来事が夢でなければ、戦場でしか有り得ない――森も一太郎と同じで昭和二十二年の初夏の生まれだから、無論戦場など肌では知らない。しかし、民間には存在しないはずの武装ヘリが機関砲を発砲した段階で、そこはすでに戦場なのだ。
 森は空っぽの腹から、胃液だけが喉にこみ上げてくるのを感じた。


「おう、しばらく。亮三さん」
 峡谷の入り口で停車していたクラウンの後ろに陸王を着けると、一太郎は脳天気に挨拶した。
 亮三は運転席から降り立ち、遠くで燃え盛るファルコンを見定めていた。
「太郎さんかと思ったら――一太郎君か」
 亮三は一太郎の肩をがしりと掴んだ。
「ありがとう。君もやるねえ」
「へへへ。亮三さんほどじゃねえけどよ」
 次いで亮三は、森に手を差し出した。
「森君も、ありがとう」
 握手などという洒落た習慣は、まだこのあたりでは広まっていない。森は少々気後れしながら、その手を握った。
 亮三の力強い掌と、横で脳天気に笑っている一太郎の顔で、吐き気はなんとか治まってきた。亮三の赤茶色のブレザー姿から、やはり祖父の訃報によって帰省したのではないらしい、そんな判断をする余裕も戻ってきていた。
 クラウンの横では、顔見知りの初老の男――結城家の運転手が、ボンネットに両手をついて、ぐったりとうなだれていた。もし自分が運転していたら、とうに転落している――そんな気分なのだろう。一太郎たちに頭を下げて見せる前に、口をぬぐっていたところを見ると、それまで吐いていたのかもしれない。
「けど、亮三さん、こりゃあ一体全体――」
 一太郎が訊ねかけた時、後ろのドアが開いて、大柄な太った影が降り立った。
 一太郎は身長一七〇センチと、当時の若者としては背が高い。森も同じくらいある。しかしその背広姿の男は、さらに頭ひとつ大きかった。その男はいきなり両手で一太郎の手をつかみ、しわがれ声で何かまくし立てた。白髪の老人で、しゃべっているのはどうやら英語らしい。
 一太郎は、それほど巨大な爺さんを見るのも、いきなり英語で話し掛けられるのも生まれて初めてだった。
「あ、あい、べっぐ、ゆあ、ぱーどん?」
 反射的に、そんな英会話が口から出た。英会話のテストで相手の言葉が聞き取れなかったら、取りあえずそう訊き直せと、森から何度も教わっていた台詞だった。
 それでも早口に何か話し掛けて来るので、一太郎はとどめの台詞を繰り出した。
「あ、あい、きゃんと、すぴーく、いんぐりっしゅ」
 困った時の森頼み――情けない顔で森に助けを求めると、森は苦笑しながら老人に何か話し掛けた。森にしても、実際の外人としゃべるのは初めてだから、発音に自信はない。それでもヒヤリングはなんとか判るし、文法も覚えている。亮三さんもいるしな、そう思って気負わずに話してみると、案外意味は通じ合った。
「私たちの命を救ってくれて、ありがとう――そんなとこだ」
「お前、ほんとにすげえなあ」
 亮三も、ほう、と言うようにうなずいている。森の頭の良さは昔から知っているのだが、その冷静さに、あらためて感服していたのだ。
 その時、宮城県側から、別のヘッドライトが山道を登って来るのが見えた。
「また来たか?」
 一太郎が身構えると、亮三はそれを手で制して、やれやれ、と言うように溜め息をついた。谷間の後方から、先ほどのヘリがまた近づいて来る音も響いている。
「大丈夫。味方――じゃないが、敵でもないはずだ」
 一台のジープが、クラウンの前で停まった。
 ヘリはジープとクラウンの合流を確認すると、峰館側に遠ざかって行った。
 武骨な幌掛けのジープを見て、一太郎は、営林署の車みたいだなあ、と思った。森は先ほどからの流れで、警察――いや、自衛隊の車なのではないかと想像した。
 しかし、運転しているのはごく普通の作業着を着た男であり、同乗しているふたりの男は、三つ揃いをすっきりと着こなしていた。
 長身の、やや年かさの男が先に立ち、若い男がそれに従う。先に立っている男は、亮三よりもさらに一回りは年長に見えた。
「困りますね、結城さん」
 軽くたしなめる、そんな調子だった。彼方で炎上している車も、遠ざかるヘリも、それを自明の物としているらしい。
「私たちはウィリアムズさん達を、けして幽閉していた訳ではない。むしろ、お守りしていたのですよ。まあ、勝手な行動がどんな結果に繋がるか、充分お判りになったとは思いますが」
 なんだかちょっと森や森の親父さんに似ているな――そう一太郎が思ったのは、けして顔形が似ていた訳ではなく、感情を表さない物言いと、細身の体形のためだった。
「……確かに軽率だったかも知れません」
 亮三が頭を下げた。
「しかし、身内として、あの状態はさすがに見かねまして」
 ――身内?
 一太郎と森は、顔を見合わせた。
 ウィリアムズという名らしい老人も、三つ揃いの男に何か真剣に語りかけた。
「なんて言ってんだ」
 一太郎は小声で森に訊ねた。
「私が頼んだのだ、亮三さんを責めないでくれ――そんなとこだ」
 森も小声で答えた。
 三つ揃いの男は、そんな老人の言葉に、無表情にうなずいた。
「まあ、済んでしまったことは仕方がありません。私どもとしましては、とりあえず小百合さんがご無事かどうか、確認させていただきたい」
 老人が、クラウンの後部座席に、何か呼びかけた。
 ドアのロックが、内側から外れる音が聞こえた。
 おずおずとドアが開き、茶革のこぢんまりとした靴と、フリルの付いた白いソックスが覗いた。
 昼間から大柄な男ばかり見ていた一太郎の目には、それは子供の足のように華奢に映った。
 亜麻色の髪の少女だった。
 ジープのヘッドライトに照らされても、その黒ビロード地らしい膝丈のドレスは、谷間の月明かりしか浴びていないように、朧《おぼろ》げに見えた。
 それほど線の細い――存在感の淡い娘だった。
 ほとんど純白に見えるその顔立ちは、一見して日本人ではない。しかしその驚くほど大きい瞳は、青ではなく栗色だった。
 顔色は美津江に似ているが、ちょっと丈夫そうじゃねえなあ――一太郎はそう思った。歳は自分たちと同じくらいのようなんだが、なんというか、ボリュームって奴が、今日子よりもっと足んねえんじゃねえかなあ。
 一方隣の森は、呆然とその少女を見つめながら、ある蝶を連想をしていた。
 Neope niphonica――ヤマキマダラヒカゲ。
 黒ビロードの斑《まだら》な照り返しが、黄色い紋のように見えたからだった。山を採集に歩いていると、人の匂いを慕うように――汗の成分を好むらしく、自分からひらひらと手や服に止まって来る、大きな瞳の可憐な蝶。
 しかし良く見ると、その蝶とはむしろ正反対の印象のような気もする。この娘の視線は、あまりにも人を拒んでいる。気が弱い、人嫌い――そんな消極的な印象でもない。孤高、という言葉が森の頭に浮かんだ。
 迷蝶――むしろここにいるはずのない蝶が、イレギュラーな風に流されて本来の棲息域を離れ、ここにいるのかも知れない。たとえばCarterocephalus palaemon――タカネキマダラセセリ。南アルプス亜種と北アルプス亜種があるが、いずれにせよその地の標高二〇〇〇メートル以上の高山帯にしか、生息しないと言われている蝶だ。
「……お元気で何よりです」
 三つ揃いが少女に頭を下げた。
 少女はその瞳に何も映さないまま、軽く会釈を返した。
 三つ揃いは、亮三に向き直った。
「あの山荘にいらっしゃるのですね」
「……ご存知ですか」
「私共は、全てを把握しておりますよ。少なくとも国内に関する限りは」
 三つ揃いは、初めて微笑を見せた。
「よろしい。お行き下さい。今さら都内や強羅に戻るよりは、このあたりの方が、むしろ安全かもしれない」
 亮三と老人は、素直に頭を下げた。少女だけが、身じろぎもせず、じっと相手の顔を――いや、どこにも視線の焦点を合わせず、ただ立っていた。
 なんだなんだ、と言った面持ちで成り行きを見守っていた一太郎は、三つ揃いの最後の言葉に、首を傾げた。
「行くっていっても、あれじゃなあ」
 まだ燃え盛っているファルコンの方を振り返った時、先刻去って行ったヘリよりもさらに大きな爆音が、宮城県側から急速に近づいて来た。
 谷間の空を覆うように、巨大な長方形の影がホバリングする。
 また突風が吹き荒れ、老人は少女を護るようにしながら、クラウンに戻って行った。
「……もう何が来ても驚かねえぞ」
 一太郎が呆気に取られて呟いた。
 森もまったく同意見だった。
 巨大なローターを前後に備えたタンデム・ヘリから、何かワイヤーのような物が、幾本も岸壁に垂れ下がる。次々と人影がそれを伝って崖道に降り立ち、続いて何やら機材らしい影も吊り降ろされる。
「すぐに通れます。あなた方も中でお待ちになればいい」
 三つ揃いに促されて、亮三と運転手も、クラウンに戻った。
 亮三はドアを閉める前に、一太郎たちに向かって手を上げた。
「じゃあ、また後で」
「それはいけません」
 三つ揃いが、すかさず釘を刺した。
「あなた方は、この谷で誰とも会わなかった。当然、このふたりとも、会ってはいない」
 亮三は罰が悪そうにうなずきながら、ドアを閉めた。
 会ってないって言われてもなあ――困惑して顔を見合わせる一太郎たちに、三つ揃いが意味ありげな微笑を向けた。
「さて、あえて本心を言わせていただければ」
 目だけが笑っていない。
「私としては今からでも、君たちに焼け死んでもらうか、谷に落下して欲しいところなんだが、まさかそういう訳にも行くまい。一切を忘れると約束してくれたまえ。あの人たちのためにも――君たち自身や、君たちのご家族のためにも」
 先ほどの少女の無機質な瞳よりも、さらに性質《たち》の悪い底知れなさが、その微笑の奥から窺える。
 これは明白な脅迫だ――森は恐ろしさよりも、嫌悪を感じた。しかし、ここは素直に受け入れるしかなさそうだ。
「そう言われても、忘れる訳にゃあ行かねえのよ」
 突然一太郎が言い放った。
 森も三つ揃いも、同時に驚愕した。――こいつはいったい、この場面で何を言い出そうというのか。
「鮪三本、あいつらのおかげで、沢に落っこっちまった。ただ落っことしましたじゃあ、親父や結城の家に、申し訳が立たねえ」
 本当は一太郎としても、こんな何がなんだか解らない事態は、いっそ忘れてしまいたいくらいなのである。自分の頭の思考能力を、とうに超えている。一晩ゆっくり寝て、夢にしてしまった方がまだ楽だ。しかし、現にこの騒ぎで鮪三本が失われている以上、親父の鉄拳制裁や、魚滝の面子という問題が残ってしまう。
 三つ揃いは陸王の塗装や屋号をじっくり見渡した後、案外平然と訊いてきた。
「鮪と言っても、色々ある訳だが」
 森はまた驚いた。そして言った当人の一太郎も、ありゃりゃ、と思った。
「……メバチの中バチ三本。合わせて九〇キロ。すぐにさばける奴だ」
 三つ揃いはうなずいてジープに戻り、何やら通信機のマイクを手にして、通話を始めた。
 数回会話を交わした後、一太郎に訊ねる。
「シビでは駄目かね」
 おお、おっさん、話が通じるじゃねえか、と思いながら、一太郎は答えた。
「うーん、このあたりじゃ、なんでだかメバチの方が人気あるんだよなあ」
 シビ――ホンマグロの方が、でかくて正統派と言えば正統派なのだが、人気と予算、という問題もある。
 三つ揃いが、にっ、と唇の端を上げた。なぜだか先ほどまでよりも、ずいぶん親しみがこもっている。
「その代わり近海物で、八〇キロが二本。これで忘れてくれないか。それなら三〇分以内に運んで来る」
「よっしゃ、手え打った」
 一太郎が嬉しそうに叫んだ。
 森にはそれらの会話の詳しい内容は、とうてい理解できなかった。それでも一太郎の顔を見る限り、鉄の斧を泉に落っことして、泉の精から銀の斧を返してもらった程度の取引ではあるのだろう。一太郎がそれで忘れられるのなら、まあ追撃戦の件は、自分も忘れる事にしてもいい。なぜ魚屋同士の会話が、ここで成立するのかも。しかし――。
 森は、どうしても忘れられそうになかった。
 あのタカネキマダラセセリのような異国の少女は、この山のどこを生息地にするのだろう。そして、あの可憐な唇で、どんな花から吸蜜するのだろう。
「あ、あとアイスクリームが一〇個ね、雪印の奴」
「森永ならすぐに運べるが」
「うーん、うちの由美は雪印のが好きなんだがなあ」
 横でまだ続いている場違いな会話も、森の耳にはすでに入らなかった。





                                 
第二章に進む   序章に戻る   目次に戻る






              ●背景画像には【自然いっぱいの素材集】様の素材を使用させていただきました●