【第三章】 おーい中村君 (歌・若原一郎)




     一


「せっかく東北まで出張《でば》ってきたんですから」
 宮城から福島への県境を過ぎた頃、リヤシートの高宮英輔が言った。
「飯坂温泉にでも寄って、ひと風呂浴びて行きませんか、中村君」
 その細い首を、大儀そうに回す姿が見えるようだ。細身の骨の浮いた首筋に、よく見れば意外に強固に纏わりついている筋肉の、ぎしぎしと軋む音なども聞こえるような気がする。
「いいですね。このあたりだと、地酒のいいのもありそうですし」
 中村正浩は、高宮とは対照的な太い筋肉質の腕で、ハンドルを操りながら答えた。
 高宮は職務中、私事や冗談を絶対に会話に交えない。冗談が出たということは、少なくとも今現在は、職務を離れた個人として会話していい。それが数分の小休止なのか、本日の意識上のタイムカード打刻なのかは、まだ判らないが、少なくとも昨夜東京を出立してから、初めての冗談である。中村は緊張を解いて後を続けた。
「美味い名物なんかも、結構ありそうだ」
「妹の嫁ぎ先が、飯坂で旅館をやっていましてね」
 高宮の声も、公的な場での冷ややかな物言いとは別人のように、弛緩していた。
「地鶏の鳥鍋が最高です。結城さんのご実家も、あのあたりなら好都合だったのですがね。鳥鍋をつつきながら、指揮を取ればいい」
 無論、これも全くの冗談である。
 内閣情報調査室国際部特別行動班第六分室――略称、六別。主に現場での直接活動を職務とする部署の責任者である高宮だが、今回のような非常事態はあくまでも例外で、本来内閣中枢と連携した通信による現場指揮が職務である。直接行動員は各地に駐在あるいは流動していても、室長自身は通常有楽町の分室のデスクに収まっていなければならない。
 特別行動班、通称別班そのものが内調の正規セクションとしては存在しないことになっているので、予算上はあくまでも総理府の外郭調査団体のさらに末端、いわゆる無駄飯喰らい扱いを余儀なくされている。しかし恐らく国家公務員としては、最も在職中の死亡率が高いセクションだろう。その存在が公にされている内調国際部軍事班や特命班、あるいは警察庁や防衛庁指揮下の同様のセクションよりも、格段に『早死に』が多い。任務自体が危険だから、という意味ではけしてない。職務の大半は極めて地道な調査活動や情宣活動であって、けして活劇映画のごとく勤務中実弾が飛び交っている訳ではない。むしろ就寝中まで続く精神的な緊張による内臓疾患や、極端に不規則な生活からくる血圧異常に起因する疾病などが多い。
 今夜の作戦行動にせよ、本来なら警察庁あるいは防衛庁にでも下駄を預けるべき荒事だったのだが、懸案自体が未だそれらの管理下に移動するほど具体性がなく、あくまでも『本来無駄飯喰らい』である高宮直属の、中村によるアメリカでの調査活動の延長線上にあったこと、そして現総理・池畑隼人自身が、IOC議長との会食を今夜に控えて断続的にしかこの事態に裁定を下せないため、現場からの状況報告をより自分の目や耳に近い高宮に一任したこと、それらの理由が重なって、高宮と中村は現在ここにいる。
 最終的に宮城の公安や海陸の両自衛隊まで、総理権限で緊急動員する結果になったのだから、その総理の判断も、正しかった訳である。もし警察庁や防衛庁などが総理への報告に介在していたら、その立場での思惑や保身が状況判断のレスポンスに影響し、この件はすでに敗北に終っているはずだ。その場合の勝者が何者であるのか――それはまだ推測の域を出ていないが。
「ああ、これは残念。飯坂への道は、さっきの信号だった」
 高宮があくびを交えながら言った。
「いけませんね、中村君。よく標識を見ながら運転しなくては。温泉につかり損ねたじゃありませんか」
 まだ冗談が続いている。
 月曜の朝一には、今回の件に関しての詳細な報告を、総理に提出しなければならない。残骸と化したあのファルコンや、ウェルダンと化した乗員たちの入国経路なども、それまでには調査しておかなければならない。無論調査自体は各部署が現在も釈迦力で活動を続けているが、それを報告書に纏めるのは、あくまでも今回高宮の任務だ。別班の備品扱いであるこの公用車を、有楽町まで戻さなければならない中村はともかく、高宮は仙台空港から空路で羽田に向かうのが自然だ。あるいはどの組織のどの部署からでも、緊急に移動用ヘリを調達するだけの権限が、現時点の高宮にはある。あえてこの車への同乗を継続したのは、それなりの理由があるのだろう。公的な意図か、私的な希望なのか、中村には解らないが。
「仕方がない。我が家の内風呂で我慢しますか。中村君、あなたも寄って、ひと眠りされたらよろしい。美味しいクサヤが新島から届いてましてね。君も確か、好物でしょう。杉並の官舎などより、木場のほうが近いですよ」
 高宮の家は、木場で海鮮料理が主体の高級割烹を経営している。
 これは冗談ではないようだ。そして確かにその方が、睡眠時間は確保できるが――中村は答えた。
「一度帰って、着替えて来たいんですが」
「あ、そう」
 高宮はどなたかによく似た調子で言った。
「あの愛らしい奥様が、あなた、なぞ言いながらお召し変えを手伝ってくださるのでしょうね。いやいや、お気遣いなく。仲人といたしましては、鴛鴦《おしどり》夫婦、大いにけっこう。いやなに、あなたがいてくれれば、妻《さい》の愚痴など聞かないですむかと思いましてね」
 高宮も中村も、ここ半月は帰宅できていない。そしてこの職業上幸か不幸か、それぞれの妻は経済的な面だけでなく、精神的にも肉体的にも、配偶者に依存してくれている。春に結婚したばかりの中村の妻はまだ当然だろうが、結婚後十数年を経た高宮の家庭でも、亭主元気で留守がいい、そんな割り切りには達していない。
「それにしても、尻が痛い。ジープという物が、こんなに非人間的な乗り物とは知らなかった。あなた、よくこんな車に始終乗っていられますね」
「夜明けまでにはお宅に着きます。それまで我慢して下さい。――実は僕もさっきまで、そう思ってたんですがね」
 公安の連中の運転でリヤシートに収まっている間、中村は自分も運転し慣れたこの車種が、恐ろしく同乗には向かないという事実を、改めて実感していた。
 質実剛健で悪路も山野もおかまいなしのこの車種を、中村は足掛け二年に渡るアメリカ駐在の間から、自分の脚のように使っていた。
 道路の整備された都市部も、あるいは地平線まで続くかと思われる大農園も、あの広大な国のほんの一部にすぎない。荒野や山林を貫く果てしないハイウェイにしろ、ただその路幅が整地されているだけで、一歩外に踏み出せば、多くが未開の原野である。
 現地で公務車を調達する際、彼は迷わず自衛隊の体験訓練でその頑健さに惚れこんでいた、ジープを選択した。自衛隊で転がしたのは三菱のライセンス生産品だが、現地では当然本家ウィリス、ただし予算の関係で、米軍払い下げの旧型である。それで充分だった。居住性も非現実的な速度も不要だ。ただ自分が転がしたい所を、転がしたいように走ってくれればいい。
 ただし、他人の運転でお客様になるとすると――確かにこの車種は、尻が地獄だ。いずれ自分が車を持てる日が来たときは、妻やまだ宿っていない子供のために、居住性のいい車種を選ぶことになるのだろう。そのとき妻は、可憐な新妻から古女房に変わっているのだろうか。子供は何年生になっているのか。
 高宮の口調がずっと軽いままなので、中村は本日の職務が終了したらしいと判断していた。
 自分で転がしている限り、この車はやはり山男同士のような武骨なくつろぎが得られる。
 中村は久方ぶりの安堵を覚えていた。
 小百合はまた山に戻った。職務上それを喜んではいけないのだろうが、内心の安堵は否定できない。あとはその安全をどう維持して行くか。末端の室員にすぎない自分に、今後何ができるのか。
 背後で高宮が、何か流行歌を口ずさんでいる。
 ――いかに新婚ほやほやだとて、伝書鳩でもあるまいものを、昔馴染みのふたりじゃないか、たまにゃつきあえ、いいじゃないか、中村君――。
 この人も本当に不思議な人だ――中村は苦笑した。
 しかし苦笑しながら、やはり畏怖していた。
 自分よりひと回り年嵩なだけの四十男が、現段階では常識的にあり得ない、陸自ヘリによる機関砲発砲を即座に総理に決断させてしまう、その信頼の根拠はどこにあるのか。まさか京都大学OB同士程度の信頼ではあるまい。公にはならないにせよ、この国の煩雑な政治機構の世界では、それは即首相としての進退に関わる行為なのである。国家公安委員会の勧告を得ないまま、独断で緊急事態の布告を発するのと同等の、暴走行為と解釈されてもやむを得ない。
 調査室内で暗黙の内に信じられている伝説――高宮が内閣調査室に着任する以前、水産庁の漁業調査船乗員時代、日本海で北朝鮮の工作船と事実上の海戦を演じ、拉致されかけた男女高校生を救出したという噂は真実なのだろうか。
 そして首相が四年程前に自民党のテレビCMで発言し、一躍流行語と化した『私は嘘を申しません』は、実は首相のただ一度の浮気が満江夫人に発覚してしまい、激怒した夫人に水風呂に顔をつっこまれた際に発せられた言葉で、その時夫人をなだめたのが高宮英輔その人である――そんな噂は、真実なのだろうか。
 いずれにせよ、直属の上司の尻を、これ以上痛めつけるのは本意ではない。
 中村は極力、予想外の振動を同乗者に与えないよう、穏やかな走行を保った。
 ジープの数十メートル上空を、体長二十センチほどのしなやかな白い影が、常に風を切って追跡していることなど、無論中村も高宮も知らなかった。
 その白い影は、ジープが福島から栃木に抜ける少し手前で減速し、躊躇するようにくるくると夜空を旋回していたが――やがてすごすごと、北の故郷に戻って行った。


「しかしまあ、土竜《もぐら》の親分ですか、うちの旦那方は」
 しらじら明けの都内に入ると、それまで眠っていたらしい高宮が、またぼやき始めた。
「東京中をほじくり返すつもりらしい」
 秋のオリンピックに間に合わせるべく、ここ何年か続いている都内の道路整備や、町並みそのものの劇的な改変は、すでに最後の仕上げに入っている。結果、明治期の江戸文化破壊やその後の戦災を、かろうじて逃れた風俗そのものも、ほぼ完全に失われつつある。多くの水路は暗渠と化し、あるいは埋め立てられ、代々の住人の意識もそれと共に社会の底流に沈んで行く。江戸中期から続く料亭の息子である高宮には、そんな現状が、国家そのものの『野暮』に見えているらしい。
 それを押し進めているのが『うちの旦那方』、つまり内閣そのものである。もっとも米沢の山間生まれの中村にとっては、この変貌の勢いが、経済的に驚異的発展を遂げつつある国家の首都として、実に頼もしいものに思われた。十数年後、自分の故郷の自然の大半が去勢されてしまった時、今の高宮と同じ思いを抱くことになるとは、若い中村のこと、まだ予想もしていない。
 永代通りを路面電車の線路に沿って西に進みながら、中村は言った。
「でも、このあたりは、昔とあまり変わってないですね」
 早稲田に入学してすぐに、田舎者仲間と江戸情緒探訪と称して木場を訪れ、木の粉が目にしみて皆涙を流してしまった頃と、町並みの風情はさほど変わっていないようだ。
「どうだか。都電も木遣りも、風前の灯火といったところでしょう」
 高宮はあくまでもシニカルだった。事実、路面電車も貯木場も、左手に沿って流れる洲崎運河なども、十年を待たずに姿を消すことになる。
 門前仲町に抜ける少し手前で、中村は左手の袋小路に折れた。
 その突き当たりにある割烹は、間口こそ暖簾が退げられてしまうと民家と区別がつかないような造りだが、その内側は二十の座敷を抱えた一流の老舗である。
 車の音を聞きつけたらしく、高宮の妻と女中らしい少女が、格子戸を引いて店の前に現れた。
 三十路なかばの夫人は、中村の結婚式前後の訪問の時と同様、渋い和服姿だった。しかし披露宴の紋付姿でさえ、新婦が気後れしてしまったほどの生気と華やかさが、その内側から匂い立っていた。娘時代は最後の侠《きゃん》な辰巳芸者などともてはやされ、花柳界の人気者だったらしい。
 それにしても、この早暁に正装のお出迎えである。これから帰る、という連絡を昨夜仙台から受けただけで、いつ頃着くのかも、中村が同行することも、知らなかったはずだ。中村は夫人の情の深さに、内心感嘆していた。
 さっさと自分から降りてしまった高宮の後に続き、中村もあわてて車外に立った。
「お早うございます」
 中村のいかにも体育会系らしい大仰な会釈に、夫人は朝顔のような笑顔を見せた。
「あらあら、新婚さんが夜通し運転手なんて、ほんとにごめんなさいね」
 それから高宮を睨むようにして、
「気が利かないにもほどがありますよ、あなた」
「そういった姑息なものを利かせる必要がない、それが男同士と言うものです」
 高宮は飄々と夫人に返して、中村を振り返った。
「それでは、お仕事の続きは今夜――そうですね、十九時から調査室《へや》で、お願いいたします」
「了解しました」
「まあ、いつなんどきでなんぼの商売ですから、くれぐれも子作り優先の行動をお薦めします」
 夫人が苦笑しながら、高宮の袖を引いた。
 中村は再び体育会系の深い礼を見せた。
 それではうちも三人目を仕込みましょうか、半月ぶりで種が濃いから、今度こそ男の子です、などという高宮の声と、いいかげんにしなさいあなた、という夫人の声と、くすくす笑う女中の声が、格子戸の中に消えて行った。


     二


 未だ早暁の有楽町日比谷口近辺は、オフィスビル主体の一角であるためか、都心とは言え車の流れも少なく、人影もほとんどなかった。もっともこの時間帯では、北の日劇や銀座通りも、まだ宿直警備員や清掃員の天下だろう。
 有電ビルと丸の内署有楽町出張所の半ばあたり、蚕糸会館にほど近い雑居ビルの地下一階から地上二階までを、『社団法人・国際地勢研究会』は占めていた。
 ビル裏の駐車場にジープを収め、中村はそのまま裏口の錆びた金属扉を押した。奥はそのまま表口に続く通路になっており、資料室や備品倉庫のそっけないドアを経て、質素な装飾ガラスの扉があった。
「おはよう、ただいま」
 そんな矛盾した中村の挨拶に、受付の島田敏江が、私物らしい本を伏せて微笑を向けた。
「お帰りなさい。出張、ご苦労様。お土産は?」
 ふてぶてしいオールド・ミス、そんな口調だ。
「あ、ごめんなさい。忘れてた」
「冗談でございます。中村君、素直過ぎだって」
 島田敏江が実際未婚なのか、それとも体格や年齢相応のおかみさんなのか、外勤が主体である中村はまだ知らない。中村が四年前この部署に配属された時、すでに高宮の秘書兼タイピストとして、かなり年季を経た気配だったことは確かである。
「高宮さんがいないと、あたしはもう暇で暇で」
「今夜から、また地獄になりますよ」
「うん。さっき高宮さんの家から電話あった。私もいっぺん帰らせてもらうわ。二階の人たちには悪いけどね」
 地下と二階は完全防音構造なので、人の気配も事務機器の作動音も、いっさい漏れてこない。しかし階上では、二台のテレックスや数台の電話を相手に、昼夜を問わぬ作業が続いているはずである。ちなみに地下は会議室と資料室、さらに内勤者のための仮眠スペース、というより半居住スペースになっている。
「それから中村君、おじさんが来てるわよ」
 中村は戸惑った。叔父、伯父――郷里以外に、そんな人間はいない。
「黒鉄さんよ。応接室で寝てるわ」
 中村は仰天して、事務所の奥の応接室に走った。
 恐る恐る扉をノックすると、黒鉄ではない別の声が、どうぞ、と答えた。
「失礼します」 
 秘書官らしい四十年輩の男と、それよりも若いふたりの精悍な男が、所在無げにお茶を啜っていた。
「中村正浩と申します。ただ今、帰着しました」
 年嵩の男が立ち上がり、慇懃無礼に頭を下げた。
「ご苦労様です。長官秘書の須藤と申します」
 ふたりの男も立ち上がって礼をしたが、その表情には、弱冠の親しみが篭っているように思われた。自分と同じような背広の似合わない筋肉質の体から、彼らも日常的に鍛えている立場の公務員――要人警護員なのだろうと、中村は推測した。SP(セキュリティ・ポリス)という職制が、警視庁内に正式発足するのは数年先の話であり、この時代その履歴は種々である。
 対面の長椅子では、黒鉄泰実がネクタイを緩めて眠りこけていた。
 テレビや新聞では目立たないが、就職の世話をしてもらった衆議院議員時代よりも、間近に見ると大分痩せて白髪が増えたようだ。もう五十を幾つか越えたはずだから、当然か。
 血は繋がっていないにしろ、母方の姻戚関係の上で、確かに伯父なのだが――しかしなぜ現・内閣官房長官が、こんな末端も末端、足の小指の毛細血管のような組織の応接室で、眠っているのか。
 秘書が黒鉄の肩を、軽く揺すった。
「甥御様がおみえです」
 おう、と言って黒鉄が起き上がった。
 秘書がすかさず差し出したタオルで顔を拭いながら、
「式には電報だけで失礼したね、正浩君。牧子さんは元気かな」
 黒鉄は一度も会ったことがないはずの、中村の妻の名前を記憶していた。政治家としての単なる世渡りなのかも知れないが、中村はやはり嬉しかった。
「はい。先月会った時には」
 これは皮肉に聞こえてしまったか――うっかり言ってしまった中村に、黒鉄は苦笑してみせた。
「こんなところに押し込んでしまって、申し訳ないとは思っているんだが、まあこの稼業、こんなものだよ。私も今月は、一度も家に帰っていない。新婚さんと比べてはいかんか」
 中村も苦笑するしかなかった。
「しかしまあ、君もえらい代物を嗅ぎつけてくれたもんだね。ここだけの話――身内同士の冗談だが」
 黒鉄は秘書官や警護員たちに向けて、唇に人差し指を当ててみせた。
 黒鉄も他の男たちも大真面目な顔をしているが、中村にはそんな稚気もまた、身内同士の冗談に見えた。
「私はまた戦争が始まったのかと思ってしまったよ。今回はあちらさんから、リメンバー・パールハーバーとか言ってな」
 あくまでも現在調査中で、結論は出ていない。しかしここは、身内同士の私見でいいのだろう。高宮を経ずに発言していいのか、そんな懸念も一瞬浮かんだが、黒鉄は通常個々の懸案など無論直でタッチはしないものの、職制上はこの組織のトップでもある。一般の会社に例えれば、総理が会長で黒鉄が社長、そんなところか。そして今のところ、会長と社長は一蓮托生、お家騒動などは起こっていないはずだ。
「即断はできませんが、その可能性は、現時点では薄いかと」
「現時点では――か」
 黒鉄は両手を胸の前で合わせ、軽く揺すりながら黙考した。
 数分もそうしていただろうか、やがて黒鉄は思考を振り払うように、頭を振った。
「いかんな。この歳になると、眠らんことには頭が回らん。失敬して、午後まで寝かせてもらおう。ここは誠に静かでよろしい」
 そう言って、黒鉄はまた横になってしまった。
「君への用件は、須藤君に伝えてある。須藤君、後はよろしく」
 須藤が頭を下げると、黒鉄はたちまち軽い鼾をかき始めた。
 中村はあっけにとられて、黒鉄の寝顔を見つめた。――この旦那は、安眠を求めてここに来たのだろうか。
 戸惑いを隠せないまま、秘書官を振り返る。
 秘書官は何か意味ありげに、中村の目を見つめた。
「正浩、まだ判らんか」
 最前までとは違った親しげな頬笑みと、須藤という姓が、中村の記憶の中で重なり始めた。
「お前の凧は良く上がったよ。一年生のくせにな」
「……水窪の、政雄さん?」
 須藤が破顔してうなずいた。
「やっと思い出してくれたか」
 中村は思わず須藤の両肩を掴んだ。十年、いや、二十年ぶりか。
「地下《した》に行きましょう。ゆっくり話せる」
 懐かしさからだけの言葉ではなかった。
 無論懐かしさも胸中にこみあげていたが、往来に繋がる一階は、あくまでもダミーであり、職務上の用件には不向きだ。階上と階下は、完璧に洗浄されている。
 黒鉄と警護員たちを残し、二人は地下に向かった。
 受付にはまだ島田敏江が陣取っていた。
「下、誰か使ってますか」
 敏江は首を振った。
「上でフル稼働ですわ」
「会議室、入ります」
 肩を組んで通路のエレベーターに乗り込むふたりを、敏江は苦笑しながら見送った。
 ――やれやれ、まさか大臣クラス奥に寝かしといて、私だけ帰るわけにも行かないわね。まあ、私はあんたたちがドンパチやってる間に寝てたからいいけど、中村君、たまには帰らないと、奥さん浮気しちゃうんじゃないの?


 コンクリートが打ちっぱなしの、五メートル四方ほどの空間は、会議室というより灰色の箱だった。無論空調はあるが、限られた予算で『洗浄された状態』を保つため、装飾はいっさい排除されている。
 コの字型に置かれた数卓の折り畳み脚の事務机に、安価な折り畳み式の椅子――須藤などから見れば、下町の町工場の会議室、いや、それよりもみすぼらしく思えるだろうと、中村は想像した。
 霞ヶ関の内調本室は、当然一流企業の調査部門なみの押し出しだし、まして内閣府の旦那方の利用施設がどれほど整ったものであるか、まだ霞ヶ関や永田町で活動したことのない中村には、想像もできない。しかし劣等感や不足感とは無縁だった。むしろ韜晦《とうかい》の愉悦、そんな意識すら抱いていた。一兵卒には一兵卒なりの、自尊心がある。将校や将軍はどれほどの大任を抱えても、そのために己の意志のみで独り原野を疾駆する、そんな愉悦は許されないだろう。
 須藤は中村の知らない細い洋煙草を吹かしながら、中村が隣室の冷蔵庫から運んだ麦茶を、美味そうに飲んだ。
「上の事務所の出がらしは、なんとかならんのか」
 須藤はその味を思い出したのか、顔をしかめた。
「俺は無駄飯喰らいの居候になった気がしたぞ」
「俺は良く判りませんが、島田さん――分室長秘書が、なんでだか官僚嫌いでしてね。出がらしなら上等です。もし総理でもいらっしゃったら、にこにこ笑いながら、白湯《さゆ》を出すでしょう」
「おいおい、高宮さんだって、立派な官僚だぞ」
「あの人は、ちょっとアレですから」
「……確かに、ちょっと『アレ』かな」
 須藤は苦笑した。
「どこをどうやれば水産庁で戦争をやれるんだか、一度伺ってみたい」
 中村は須藤の笑顔を、眩しげに見つめた。
「ずっと警視庁におられるものだとばかり、思っていました」
 須藤が米沢の旧制興譲館中学を卒業し、東京の警察学校に合格した春、関根の駅で見送った時の逞しい姿を、中村は鮮明に覚えていた。自分はまだ何も知らない子供で、これから社会と言うものに対峙して行こうとする憧れの少年を、いや、自分にとってはすでに大人の存在を、眩しく見つめるばかりだった。今の須藤は体は文官の肉体だが、当時の精悍さを越えた恰幅がある。自分より五歳上なだけのはずなのに、官僚らしい落ち着きから、もう四十を回っているように見える。
「警察学校を出たまでは良かったんだがな、二年目で勤務中に脚を折っちまった。アキレス腱ごとな。育ちをわきまえて叩き上げで行こうと思ってたんだが、現場で動けないんじゃ、あそこじゃ浮かばれん。いっそ脚ごと落としちまえば、一生のんびり食えたのかも知れんが――猛勉転進さ。帝大、いや東大の政経だ」
「……すごいな。さすが、水窪のマサオさんだ」
 貧農の三男坊が、意地と知力だけを頼りに、餓鬼大将から国家の中枢を目指しているのだ。元々国民学校止まりの経済力しかない家だったが、彼の将来性を見込んだ地元の篤志家からの援助で、興譲館にも行けたと聞いている。
 一方自分と言えば、造り酒屋の次男坊で何不自由なく育ち、全くの親掛かりで早稲田の政経を出たものの、特技は柔道ばかり。公務員試験にも三度すべり、たまたま帰省中に、地元から衆院選に立候補した黒鉄泰実の選挙運動に駆り出され、そのまま縁故を頼ってこの団体へ――そんな行き当たりばったりの自分とは、生来の器というものが違うのだろう。
「俺は貴様のほうがよほど怖い。永田町や霞ヶ関ならともかく、日比谷公園のこちら側から、どうやって総理を動かす」
 須藤の視線が、過去には見られなかった鋭さを帯びた。
「それは高宮さんの仕事です。俺は分室長の、ただの駒だ」
「しかしアメリカから化け物を引っぱって来ちまったのは、まあ高宮さんの指示だとしても、最初に見つけ出したのはお前だと聞いている」
「……化け物ではありません。俺は身の危険が迫った日系人を、安全な場所に保護しただけです」
 この鋭い視線が今のマサオさんなのか――中村は戸惑いながらも、まっすぐに須藤の視線を受けた。
「変わらんな、貴様は」
 須藤が表情を緩めた。
「あの頃のままだ」
「すみません。政雄さんみたいに、苦労してないもので」
「よく言うぜ。去年はアイオワまで陸自の別班呼び付けたと聞いたぞ」
「あれはどうしても行きがかり上で……」
 中村は頭を掻いた。
「俺が撃っても、絶対当たりませんから」
 法規上国内では、実銃も刀剣も携帯できない立場である。警察庁や防衛庁からの出向者には、腕に覚えのある人間もいるが、中村は拳銃もライフルも、体験訓練時に数回撃ったきりだ。
「そもそも当てる前に、お前じゃ引鉄も引けんだろうよ」
 須藤は笑った。
「人間が相手じゃな」
 中村は素直にうなずいた。
「やれやれ、どうも貴様は素直すぎて、裏っぽい件は仕掛けにくい」
「裏……と、言いますと?」
「親爺さんからの、用件のことさ」
 須藤は煙草をもみ消した。
「単刀直入に言おう。お前さんが高宮さんに提出した、アメリカでの調書が見たい」
 中村は当惑して、須藤の改まった顔を窺った。
「それは帰国後分室長に提出しましたし、当然室長から上へ――最終的に総理もご覧になったから、動いてくれたのでは?」
「……お前、悪いことは言わん。仕事を変えろ」
 須藤は気の抜けたような顔をして、煙草に火をつけた。
「貴様が何を書いたにしても、まずそこに高宮さんの手が入る。まあ、あの人はああ見えてラッパが上手いから、景気良く吹いてくれたにしても、それから本室の連中の中を回る。本室がどこからの出向者の集まりかくらい、貴様も知ってるだろう。それはもう連中の手垢がべっとり着いて、どこをどう突つかれても蜥蜴の尻尾に責任転嫁できるよう去勢される。それからようやく池畑派の草野さん、そしてうちの親爺さん――貴様の現場での七転八倒など、一割も残らん」
「そりゃあ、そんなものだろうとは思っていますが……」
「大体、半年前の段階で、誰がこの件を本気にした。箱根だの東大病院だの、笊もいいところに押し込んで、あとは現場任せだ。ちょっと前まで、誰も本気にしちゃいなかったのさ。この六別を除いちゃな。――その分じゃ、二別と八別の件も、聞いとらんだろう」
「はあ」
 別班同士に、横の繋がりは一切ない。どこにどういう形でその分室が存在するのか、それを完全に把握しているのは、内閣情報官――本室長以上の人間だけだ。
「二別が張ってた愛媛の小坂加代は、県立病院の精神病棟で、先月死亡した。直接の死因は心不全だが――事実上、狂死だ」
 中村は蕭然と頭を垂れた。
 自分が直接関わってはいないが――終戦後間もなく帰国した、移民夫婦の娘である。確か中学二年のはずだ。成長抑制剤の投与が、遅すぎたのだ。
「八別の鹿児島は、もっと悪い。先週、日豊線の汽車に投身した。温かい土地は、成長も早いのかな。まだ小学生だったと聞いたが」
 中村は憤然として、思わず須藤に喰いかかった。
「何をやってたんですか、八別は!」
 しかし、すぐに気を取り直して頭を下げた。
「……すみません」
 顔も見たことがないにしろ、八別はこちらサイドなのである。
 須藤は気分を害した様子はなく、むしろ田舎の餓鬼大将だった時分、血気にはやる幼い子分を嗜めた時のような、思慮深い慈愛の表情を見せた。
「だから誰も本気にしちゃいなかったと言っただろう。総理でさえ、貴様や高宮さんの空想科学探偵話なんぞ、話半分にしか聞いちゃいなかったんだよ。その鹿児島の一件まではな」
「……篠田……八千枝ちゃん、でしたか」
「ああ」
 須藤はすでに三本目の煙草に火を着けた。
「その娘が列車に飛び込む直前、担任教師と校長が、揃って校長室で倒れた。それまでその娘に、何か説教していたらしい。市内の病院に運び込まれた時には、もう息が無かったそうだ。表向きふたりとも脳溢血だが――」
 須藤の咥える煙草が、先端から二センチほど、一度に赤白くなった。
「実際は、互いに首を締め合ったようだ。お互いに仲良く、息が止まるまでな」
 中村は肩を落としてつぶやいた。
「……インターセプター・タイプでしたか、八千枝ちゃんは」
 須藤の瞳が光った。
「それだよ。貴様はこの話を聞いて、そうやって解った顔をして、悲しみも怒りもできる。高宮さんも悲しみはしないにしろ、歯噛みができるはずだ。ところが俺や上の連中は、今になって慌てふためいて――ただ恐れているだけだ」
「……ちょっと待っててください」
 中村は階上に戻って、敏江に資料持ち出しを申請した。たとえ自分の作成した報告書でも、いったん高宮に上げてしまえば、原書は二重三重にロックされた地下資料室に移っている。
「中村君、帰らなくていいの? あんなの適当にあしらって帰しちゃえば?」
 あんなの――中村はさすがに絶句し、それから、頼んます、そんな手振りで申請書を出した。
 数分後ようやく中村が抱えて戻った調書を、須藤は拝むように受け取った。
 手書きのレポートは百数十枚に及んでいる。
「この場で頭に入れて帰ったほうがいいか?」
「いえ、どうぞ。親爺さんは社長みたいなもんですから」
「しかし、公的な申請はここではできんぞ」
「でも、親爺さんと総理はツーカーなんでしょう?」
「そりゃあ宏地会の義兄弟みたいなもんだが」
「じゃあ、何も問題ないのでは」
「俺は貴様の心配をしているんだ」
 須藤はなぜかレポートを、中村の前に戻した。
「内調が本当に総理直属だとでも思っているのか? ここの上はみんな公安と軍人みたいなもんだ。池畑派の宏地会の面々なんぞ、お公家様の集まり位に思ってるはずだ。お前はそんな組織の下にいるんだぞ」
「俺、そう言う話はどうも苦手で……」
 中村はレポートを、須藤の前に押し戻した。
「じゃあ、これは政雄さんにお貸しします」
「だからお前、それじゃ駄目だってんだよ」
 須藤は餓鬼大将時代のような、親分口調に戻っていた。
「俺は一度は桜田門にいた人間だぞ。公安の回し者じゃないと誰が言える?」
 中村はしばらく目を宙に向けていたが、やがて微笑した。
「でも、政雄さんは、俺の兄貴みたいなものですから」
「……実の兄でも、弟を裏切る奴は五万といるぞ」
 畳み掛ける須藤に、中村は即答した。
「一度や二度裏切られて、信じられなくなるなら、身内とは言えんでしょう」
 この馬鹿は――須藤はそんな呆れ顔で、中村を見つめた。
 それからくつくつと笑い出し、レポートを携えて立ち上がった。
「ありがたく借りて行く」
 階上に向かうエレベーターを待ちながら、須藤は言った。
「俺は宏地会が好きだ。まあ権力と金で国を転がす商売なのは、他と同じだが――少なくとも大元は『知性』で動かすからだ。欲や見栄や、面子だけじゃなくな」
「ひとつだけ、お伺いしたいんですが」
「おう?」
 中村は、思い切って尋ねてみた。
「政雄さんは、分室長をどう思われますか?」
「……ここだけの話だぞ。私見も私見、大推測だ」
「はい」
「高宮さんは、ありゃあどう見ても、総理が内調に送り込んだスパイだな」
 悪戯らしく大袈裟に目をむいているが、本音のようだ。中村は安堵してうなずいた。
 エレベーターの扉が開き、階上に向かう。
「ま、なんにせよ、お前もあの人の下にいる限り、生涯ここでは浮かばれん。実のところ、使えそうだったら引き抜こうと思って来たんだが、駄目だ。正浩、お前には政治は無理だ」
「俺は……しょせん、坊ちゃん育ちですから」
「坊ちゃん――漱石だな。天麩羅先生」
 坊ちゃん、坊ちゃん、と何か考えながらつぶやいている須藤の前で、またエレベーターの扉が開いた。
「そうだ、お前はこの件が終ったら、田舎に帰って教師になれ。坊主頭引き連れて、夕陽に向かって走れ。『青春とはなんだ』とか、わめきながらな」
 受付の敏江もそれを聞きつけたらしく、うつむいて肩を揺らしていた。


     三


 眠っている間に帰れるぞ――そんな須藤の言葉に負けて、中村は総理府の公用車を回してもらった。
 ほとんど無用の長物と化した通勤定期を、今朝こそは活用しようと思っていたのだが、あいにくすでに通勤ラッシュの時間帯に入っている。下り中央線は、あの世界的に悪名高い上り電車ほど混まないにしても、秋の東海道新幹線開通に向けて突貫工事の続く東京駅の喧騒の中、今にも膨張破裂しそうな電車群を見るのは、さすがに億劫だった。地下鉄丸の内線も、一昨年ようやく荻窪まで通じたが、地獄のラッシュに変わりはない。
 初老の運転手の、背もたれ越し伸ばした手で揺り起こされるまで、中村はまさに泥のように眠りこけた。
 やはり突貫工事中の首都高を仰ぐ事もなく、各所の道路工事による渋滞も知らず、目を閉じて目を開けたら、そこはすでに杉並の桃井だった。
 青梅街道にほど近い閑静な高級住宅街の一角、ただし官舎自体は、灰色の箱型の団地が三棟、そっけなく並んでいるだけだ。それでも団地という存在そのものが、近代的な住宅形態として、一種のステータスになり得た時代である。
「ありがとうございました。お世話になりました」
「なあに、須藤さんは善福寺ですからね。慣れた道です」
 会釈を返す運転手に、中村は降りてからもう一度、深々と頭を下げた。
 運転手はなぜか怪訝そうな顔をして、ウインドーを下げた。
「失礼ですが、あなたは赤坂の方ではなかったんですか?」
 赤坂――防衛庁のことだろうか。
「いえ、ただの団体職員ですが――なにか?」
「いや、失礼。須藤さんが、国防上の大事な方だから、気をつけてお送りするようにと、おっしゃっていたものですから。体格もご立派なので、てっきりあちらの方だと」
 中村は苦笑して頭を振った。
「そうですか、それではひとつ、ご忠告を」
「はあ」
「そのご立派な最敬礼は、赤坂の方の前では、止めた方がよろしい。十度くらいにしておいたほうが」
「はあ」
「あちらの方だと、そこまで頭を下げるのは、陛下の御前と――」
 運転手は意味ありげに微笑んだ。
「殉職者に対してだけです」
 ほう、と感心している中村に、運転手は挙手の敬礼を見せ、車を発進させた。
 その首筋に大きな古傷が残っているのに、中村は初めて気がついた。
 言われてみれば、昔の体験訓練の間、時折微妙な苦笑を浮かべる教官や隊員がいたようだ。それでも何も言ってくれなかったのは、結局お客様扱いだったのだろうか。
 中村は気を取り直して、階段を登った。自宅は四階で、エレベーターはまだない。
 さて、久方ぶりの帰宅である。今日はたぶん帰れるよ、そう言って出たきり、結局半月帰れなかった。
 先ほど事務所から電話を入れた時は、ごく普通に、飯と風呂の用意をしておくと言ってくれたのだが、やはり内心激怒しているのではないか、そんな不安がある。
 中村は淡いコバルト色の真新しい金属扉の前で、数秒ほどためらった。
 それから覚悟して、ノックをし、ノブを回した。
「……ただいま」
 ドアチェーン、そんな無粋な物も、まだ普及していない。
 ドアを開くと、いきなり妻の牧子が眼下から中村を見上げていた。
 普段は表情豊かな大きな瞳が、能面のように無表情だ。アルカイック・スマイルと言えば言えないこともない。しかしそれは、ただの俺の希望的観測だろうか。田舎の中学時代、平手打ちを食わせる直前にも、こいつはこんな顔をしていたような気がする。
 中村は戸惑いながら歩を進めた。
 直前に妻が立ちはだかっている以上、それを押し戻さなければ、家に入れないのである。
 牧子のエプロンの胸が、中村の鳩尾に、柔らかく収まった。牧子は半ば中村の顎の下から、朝帰りの、いや昼帰りの亭主を見上げる形になった。
「…………」
「…………」
 能面が崩れ、怒っているのか悲しんでいるのか喜んでいるのか、それともそれらが全部いっしょであるのか、そんな顔になった。
 中村は我を忘れて、その小造りな頭を、胸に掻き抱いた。癖っ毛で放っておいてもカールしてしまう柔らかい髪が、顎の下に心地良かった。
 三日も風呂に入っていない俺は、とても臭いのではないか――妻の指がきつく自分の背中に食い込んだ時、一瞬そんな懸念が頭に浮かんだが、唇が重なるとすぐに忘れてしまった。
 キッチンの奥の四畳半に用意された食卓を迂回して、中村は唇を重ねたまま、妻を南向きの六畳に運んだ。
 陽ざしをはらんだ白いレースのカーテンの下、昼間だというのに、なぜかきっちりと蒲団が敷かれていた。


 三時間ほど午睡しただろうか。
 やや日差しの傾いた部屋で目を覚ますと、牧子は同じ蒲団で寄り添ったまま、中村の無精髭を撫でていた。
「……すまん」
 中村は牧子の髪を指で梳いた。
「六時にはまた出かける」
 牧子は素直にうなずいて、蒲団を抜け出した。 
 中村は拍子抜けすると同時に、いささか寂しい気もした。食事を温めなおしてくれるらしいのだが、その前にほったらかしの恨み言も少しは聞かせてくれないと、かえって取り残されてしまったような気がする。それにもう一度くらい、体を重ねておきたい気もする。
「冷や飯でいいよ」
 中村は牧子を蒲団に招いた。
「だめ」
 牧子は田舎から持って来た古風な飯櫃から、中身を真新しい蒸し器に移し始めた。
「めったに帰らない旦那様に、そんなもの」
 電気炊飯器はあっても、保温機能などまだ付いていないし、電子レンジなども無論存在しない。湯漬けやお茶漬けという手もあるが、中村は強《こわ》めの飯が好きなのを、牧子も当然知っていた。
「お風呂も沸かし直さなきゃ、ね」
 中学時代は、本当に勝気な娘だった。
 五歳年下のその遠縁の娘に、中村が初めて会ったのは、大学時代帰省の折に、親に請われて高校受験のコツなど教えに行った時だった。くりくりと良く動く栗鼠のような瞳が妙に可憐に思われ、柄にもなく遠まわしに口説きにかかると――返ってきたのは容赦のない平手打ちだった。
 やはり俺には自由恋愛は荷が重い、などとそれきり諦めて、正直、そのうちすっかり忘れていた。
 昨年アメリカから帰国した時、任務遂行の過程で無性に子供が欲しくなっていた中村は、無難な嫁を求めて田舎を探した。その前に高宮に心境の変化を漏らしたところ、面白がって嫁候補を一ダースほど紹介してくれたが、高宮自身の人脈もその妻の人脈も、それぞれ別の意味で、自分には敷居が高すぎた。
 牧子はまだ独り身のまま、田舎の中学の家庭科教師をしていた。二十五歳の独身女教師――都会では珍しくもないだろうが、一様に女の早婚な郷里では、すでに嫁《ゆ》き遅れである。
「正浩さんより、口説き方の下手な人がいなかったから」
 春に熱海の宿で、初夜の翌朝にそんな言葉を聞いた時、中村はこの女を、心の奥でずっと愛していたらしい自分に気づいた。
 それから数えるほどしか体を重ねていないが――本当に妻とは不思議なものだ。学生時代、そしてアメリカにいる間にも、人一倍元気な体のため、悪所の女には常に縁があった。一年ほど通い詰めた馴染みの女などもいた。しかし情事の間、牧子ほどひとつになれる女がいただろうか。これはなんなのか。単純に、互いの体格という即物的な理由もあるのだろう。抱き合う時の、大きすぎもせず小さすぎもしない、あって欲しいところに肌が合い自然に手が届く、あの感覚。しかしそれ以上に、やはり心理的な部分も大きい。床の中で、商売女のサービス精神抜きに、快も不快もぎこちなく純粋に反応してくれている感覚、そして普段無言で同じ場所にいる時の、思って欲しい事を思ってくれているような感覚――それらは単に、素人慣れしていない自分の錯覚なのか。
 一日も早く子供が欲しい、そんな当初の願望が日々薄れてゆく自分に、中村は蒲団の中で戸惑っていた。
 やがて妻に呼ばれ、久々に家での飯を食う。
 牧子の方でも、ここを逃したら次はいつ自分の腕を見せられるか判らない、そんな意識があるのだろう、豪勢な肉料理から中村の好物の芋煮まで、食卓には無数の皿が並んでいた。その皿数も嬉しいが、味がまたありがたい。たとえば芋煮ひとつとっても、中村には外で食う高価な牛肉の洋風ナントカより、はるかに上等だった。味が舌に合うのである。中村にとっては、関東風の味付けでもまだ薄味だ。関西風だと、もはや味がない。田舎者と笑われようが、やはり故郷の味――厳寒と猛暑に交互に適応しながら体を使うために辛味も甘味も強い味は、ハードワークに向いている。
 牧子は早々と箸を置いて、飢えたライオンのように料理を平らげてゆく亭主を眺めながら、ふとつぶやいた。
「……ケダモノ」
 中村はぎょっとして箸を止めた。それはさっきの蒲団の上でのことか。それともろくに料理を褒めもせず、ただ貪り食ってしまっている現在の姿か。あるいは、両方か。
 妻はただことことと笑っている。
 何か気の利いた台詞を返さなければ――そんな不得手な逡巡に捕らわれた中村に、
「お役所の資料整理とか、そんなお仕事だと思っていたのに。図書館の司書みたいな」
 話題を変えてくれたようだが、これも耳に痛い。
「河合さんがね」
 河合さん河合さん――ああ、結婚式にも出席してくれた、牧子の高校時代の同級生か。
「神町の自衛隊の人と結婚したんだけど、なんとなく似てるみたい」
 多少関わりがあるが、守備範囲が違う。
 配偶者に全てを伝えたいのは山々だ。また、それに耐え得る女であることも、すでに確信している。いずれ法的に厳格な守秘義務のある職場である事を、その守秘義務を逸脱しない程度までは伝えたいと思うが――まだ早いのではないか、かえって酷なのではないか、そんな気がする。
 幸い牧子はそれから話題を変えて、東京の暮らしや団地での暮らしのあれこれを、楽しそうに話し始めた。
 今のところ、賑やかで便利、そんな積極的意識が勝っているようだ。
 しかし、本心からそう思ってくれているのだろうか。東京に慣れた自分ですら、春にこの家族用官舎に移ってから、どうも以前の木造の古い独身寮が恋しくてならないのに。
 まあ田舎の民家に比べれば、確かに別天地のように『便利』には違いない。しかし、人間はそうした環境に、あっと言う間に慣れてしまう。それが当然のものとなってしまえば、この家は亭主のろくに居付かない、ただのコンクリートの箱になってしまう。
 たまにしか帰れないだけに、そして仕事中はほとんど思い出す余裕もないだけに、こうして目前で声を聞き笑顔を見ていると、週刊誌などで話題になり始めている不快な表現――『団地妻』の不倫、などという好奇心丸出しの見出しが、不安と共に頭に浮かんでしまう。
 食事の後で、ようやく四日ぶりの風呂に浸かる。
 背中を流してくれる牧子を、また押し倒してしまう。
 横になるだけの洗い場など、当然ありはしない兎小屋のこと、自然体位は不規則なものとなり、お互いに先ほどよりも昂ぶったようだ。兎という生き物は、本来非常に好色で、繁殖力旺盛な動物なのだ。
 熱いものの奥に熱いものを放った時、やはり子供が欲しい、と、中村は思った。俺と、この女の。
 やがて玄関で靴を履きながら、中村は背後で見送る妻に言った。
「――俺は、国のために働いている。でもそれは、この国にお前がいるからだ」
 両肩に、細い指が乗った。
 首筋に暖かい息が触れた。


 荻窪までのバスも、上り電車も空いており、中村はゆったり座って出勤できた。
 帰宅ラッシュの始まる時間で、すれ違う下りのバスや電車は、やはり鮨詰めだった。
 昼帰りで夕方出勤――お国のためとはいえ、やはり体は辛い。しかし妻やいずれできるはずの子供のために、早く一軒の家が欲しい。あの官舎に長く妻を置いておくのは、そして健康な子供を育てるには、やはり無理があるように思う。家庭を顧みない猛烈社員の群れ――そんな国際社会からの揶揄を受けながら、結局この国の多くの亭主たちは、巣と雛をより富ませるべく、己に鞭打っているのだ。
 牧子の声と匂いを反芻しながら、中村は車中で三度目の眠りに沈んだ。
 分断された眠りでも、それに慣れてしまえば、志気は充分回復できる。
 有楽町駅を出て仕事場まで歩く数分の内に、中村の思考は、すでに任務に戻っていた。
 体を張っても護るべき存在が、俺にはもうひとりいる。
 ――あのファルコンの連中の入国経路は、もう掴めただろうか。
 いずれアメリカの息がかかっているはずはない。名刺を撒きながら走る工作員はいない。逆手を取ってアメリカ寄りに見せるにしろ、あの非常識なまでの出で立ちは――どこであれ、功を焦った末端のゴロだろう。
 御本尊は、いつ姿を現わすか。その正体がまだ証拠立てて報告できない以上、守りながら待つ、今はそれしかないのだが――やはり歯痒い。もう少しアメリカに留まって調査していれば、とも思う。しかし、それでは小百合の身が危険だった。小百合が思考読解者《リーダー》であることを突き止められる前だったからこそ、出国可能だったのだ。いや、根本的に、そこもまだ確信はできない。あちらでの小百合の周囲の状況から見て、すでにその能力を持つ可能性は、敵にも推測できたのではないか。とすれば御本尊である仮想敵は、法的にアメリカ出国を妨げるだけの権限のない存在、つまり国家規模の組織ではないことになる。結局、まだ矛盾だらけだ。しかし二十数人の幼い少女たちを、事件性のない形で、あるいは別個の社会的事件に紛れさせ『処理』する過程で、州警察やFBIが加担していたのは確かだった。加担、とまでは言えないかもしれない。誤った判断を促された、と言うべきか。となれば、仮想敵はそれらの組織をあまねく見通せる存在でなければならないのだが――。
「おう、パリッとしちゃって。とりあえず満腹ってとこね。出すもんも出したいだけ出した?」
 敏江の声が、いつもながら横丁のおかみさんのように、中村の緊張をほぐした。
 この場合出すものってのは、やはりトイレだけでなく息子関係を兼ねているのか、などと顔を赤らめつつ、中村は階上に向かった。


     四


「おかしいですねえ」
 リヤシートに収まった高宮が、緊張感のない声でぼやいた。
「あれだけ出鱈目をやり尽くせば、てっきり海でお魚相手に戻してもらえると思ったのですが」
 毎度の事ながら、中村は高宮の豹変に戸惑っていた。
 月曜の夕方、木場に向かう車中である。
 日中、総理や防衛庁長官を始め、お歴々のずらりと並んだ臨時会議で蕩々と報告をこなし、質疑応答にもなんの淀みもなくこなした理知的な官僚と、同じ人物とは思えないのである。
 中村はジープを転がしながら、まだ昼の緊張が解けないでいた。
 最末端の職員である自分まで、まさか総理自ら召集した臨時会議に直接呼び出されようとは、思ってもいなかった。
 席上、隣の高宮は当然厳格な上司モードであり、それは職務上は全く文句の付けようのない『信頼できる上司』なのだが、心理的にはやはり緊張しか与えてくれない。お歴々の中に黒鉄の『しっかりやれよ』と言うような顔が混じっていなかったら、授業中に突然当てられた劣等生、そんな有様になっていたのではないか。自分の行った活動を再度要約するだけだとしても、レポート用紙が相手の場合とは、訳が違う。まして椅子ひとつとってもきっちり革張りされた、荘重な総理府の会議室だ。報告自体はなんとか過不足なくやれたと思うが、どこまで『現実』だと信じてもらえたか――今回の騒動や二別八別の報告を聞いたとしても、お歴々の表情はまだ半信半疑だったように思える。


 そもそも二年前、中村が命じられたのは、戦時中のアメリカにおける日系人収容所の実情調査と、収容者の戦後の状況把握、そんな地道な現地調査活動だった。
 昭和十六年十二月八日――現時点から遡ること二十二年半前――日本帝国海軍による真珠湾攻撃後、アメリカ日系社会の有力者千二百九十名が、預金封鎖の上、FBIの手によって逮捕された。そして翌年には十二万人におよぶアメリカ全土の日系人が、強制的に収容所に送られることになる。
 所持を許されたのは、己の手に持てる生活必需品のみである。家や土地などは事前に売却を命じられ、大型の家財の一部は政府が用意した倉庫に預ける事を許されたが、それに何か損害があっても、いっさいの保障は受けられないという条件下だった。
 そして収容所自体は、徐々に改善は見られたものの、当初は便所に扉もない状況で、そのほとんどが山間の僻地に存在していた。場所によっては冬に零下三十度の酷寒となり、また別の地域では、夏は焼けるような酷暑になる。
 対戦国の人間に対する処置としては、やむをえない策――そうした意見も存在するが、実際は収容者の三分の二はすでにアメリカ市民権を得た、つまり法制上アメリカ市民であり、同じ対戦国であったドイツ系移民やイタリア系移民がなんらの措置も受けなかった事実を考えれば、やはり不当な人種差別と言わざるを得ない。
 終戦の翌年に『日系アメリカ人立ち退き補償請求法』が成立、総額三千八百万ドルの補償が行われたが、実質的には損害の一割にも満たない金額だった。形だけ、と言うより、形にすらなっていない謝罪である。ちなみにアメリカ政府からの公式謝罪と、妥当とは言えないまでもそれなりの補償がなされるには、実に終戦の四十三年後、現時点からでもさらに二十四年を待たねばならない。
 そうした状況下での日系移民の、実情把握が目的だった。
 当然民間人として行動するため、中村はワイオミング大学の精神医学教室に研究員として招かれていた、結城亮三と接触を持った。高宮が事前調査の上、民間協力者として信頼できると判断したのである。中村の肩書きは、早稲田大学文学部の大学院からの留学生であり、日米交流史が専攻、そんな触れ込みだった。留学期間は二年間の予定である。
 大学所在地である州都シャイアンを根拠地として、同じ州内の収容所であったノースマウンテン・キャンプを皮切りに、七州十ヶ所に及ぶ現地の実地調査や、無作為抽出した収容者のその後の足跡をたどり、かなりの憤りを抑えつつ、極力客観的な報告を重ねていったのだが――半年ほど調査を重ねた時点で、中村は不自然なデータに行き当たった。
 収容者たちに、直接の異常や不穏な動きはない。戦前までの地位を奪われ、それまでの蓄財を急遽二束三文で叩き売らされ、戦後身一つで放り出されたという屈辱にも、むしろ第二の祖国であるアメリカへの忠誠心で耐えているかつての日本国民の民族性に、改めて感服したほどである。
 しかし、その家族たちの話を探るうち、戦後生まれた子供たちの精神障害を聞く機会が、奇妙なまでに多かった。なぜかその例は、ほぼ十代前半の女児に限られていた。初期は急激な学習成績の向上、やがて訪れる精神分裂症状、そしてまるでその発症に呼応するように、病死、事故死、行方不明、あるいは常習殺人犯による被害者等としてこの世を去る――。
 戦後再びアメリカ全土に散った十二万人の中で、けして社会的に注目されるほどの確率ではなかったが、無作為抽出した百家族の中の、五家族にそんな例が見られたのである。それも、全てがノースマウンテン・キャンプ収容者の家庭に偏在していた。つまりその地域に絞れば、十家族中五家族――実に五割の確率となる。
 中村は高宮に援軍を要請し、同じ六別のふたりの先輩を臨時に派遣してもらい、ノースマウンテン収容者に重点を置いて、調査対象を広げた。その時点で、最もキャリアの短い調査員がひとり、地道に靴を擦り減らすだけのはずだった懸案が、異様な様相を帯びてきた。ベテランの先輩たちが手際よく現地を回る内、少なくとも二十六名の少女の不審死や行方不明が確認されたのである。
 当初中村の見出した確率は、幸運、と言うべきだったのだろう。初めから合衆国規模の収容人員全てを対象とした調査などであれば、十二万に及ぶ収容人員の中で、無視される確率である。ノース・マウンテン収容者に限ったとしても、一万人を越す収容者がいたのである。まして、その収容者本人ではなく、次世代での出来事だ。しかし、その不慮の死あるいは失踪を遂げた少女たちが、例外なく事前に精神分裂症を発症していたとすれば、結果論として、明らかに有意の数字である。
 もっともただそれだけならば、あくまでも調査上判明した事実であって、六別の仕事はそこまでであり、捜査活動などを繰り広げる権限も義務もない。中村は当然さらに突っ込んだ調査を欲したが、先に帰国した先輩たちに続き、残る半年の留学期間満了後には、そのまま帰国するよう命じられた。
 深入りのきっかけは、結城亮三だった。中村が帰国命令に落胆していた頃、重要な情報のリークを条件に、彼の遠縁の娘、サユリ・ウィリアムズを保護して欲しい、そんな依頼を持ちかけてきたのである。単なる留学生レベルでの現地協力者だった亮三が、なぜ中村の裏仕事、いや、本来の仕事にまで絡んできたのか――それは現在の亮三のチームの研究内容に、関係していた。


 アメリカ先住民――通称インディアンが、祭祀目的で食用していた、ペヨーテと呼ばれるサボテンの一種がある。要はメスカリンを主成分とする、サイケデリックス系の麻薬である。その本態はあくまでも幻覚剤であって、気分の高揚、宇宙との一体感、時間感覚の喪失といった、現実からの乖離を『錯覚』させる植物にすぎない。
 一九三〇年代後半、ワイオミング州のインディアン居留地に、奇妙な現象が見出された。異様なまでに学習能力の高い児童が、女児に限り頻出したのである。ワイオミング大学の精神医学研究室のある教授がその事実に着目し、植物学研究室、薬学部等の協力を得て、その原因が現地に自生するペヨーテの変異種にあるらしいという仮説を立てた。変異したメスカリン系成分が、知覚の混乱のみならず知能の活性化に繋がっているのではないか――そこまでが、一九三九年の記録である。
 その年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻を発端として、第二次世界大戦が勃発、アメリカも参戦する。そして二年後、太平洋戦争が勃発する。戦時中にその研究がどう進んだのか、その記録はない。
 それから痛ましい歴史の齟齬を経て、一九六一年――昭和三十六年、亮三が研究員として参加したとき、その研究はとうの昔に打ち切られていた。度重なる動物実験によっても、その仮説が証明できなかったからである。亮三が参加した研究は、あくまでも小児期の精神分裂症の分析と、治療法の確立だった。
 その過程で、亮三は一部中村と重なった疑問を、中村の渡米以前から抱いていた。ただし、対象は日系人社会ではない。インディアン居留地の児童が対象である。異常なまでの学習能力と精神分裂症の発症は、関連性があっておかしくないだろうが――ただの遺伝的形質や精神発達時の環境によるならば、この地域のインディアンに限らず、他の居留地にも多発するのが自然ではないのか。そしてなぜその症状が、女児に限られるのか。それらの疑問から、過去の研究対象であったペヨーテ変異種に興味を抱き、自分なりのフィールド・ワークを重ねながら検証・追試した結果、亮三は新しい仮説にたどりついた。 
 その変異種の植物から抽出された化学物質は、直截に生物の知能や学習能力を高めているのではない。それを吸収した生物に、ある種の条件下で遺伝子レベルの変異を促し、その次世代の個体の脳に、ある種の変異を発現させる。他の個体の脳神経活動との、同調である。つまり、研究対象の女児らの学習能力向上は、けして自身の知能や記憶力に頼っていたのではなく、無意識の内にその場の人間たちの頭脳をトレース、あるいは自分の頭脳と併用していたのではないか。その後発現する、分裂症の典型的症状と見られる幻聴・幻覚も、それは実際の他人の意識が無作為に流れ込んでくるのではないか、そしてそんな状況に精神自体が耐えられず、近々に真の分裂状態に陥る。そして恐らくその能力は、遺伝子レベルの条件、さらにホルモン分泌条件の複合要因によって、モンゴロイド女性の初潮時に発現する――。
 あくまでも仮説である。確認したすべての現象に整合性を持たせただけであって、なんら現実的な証明にはならない。
 そんな時、亮三は小百合という少女の存在を知った。
 大叔父、そしてロバート・ウィリアムズ老人の相談を受け、小百合の精神的な異変を診察した時、亮三は小百合の症状が、自分のフィールドの少女たちとほとんど同じ状況であることをすぐに察知した。
 種々の問診の結果、小百合は確実に亮三の意識をトレースしていた。作為的に一見ランダムな、しかし心理的に計算した質問を重ねると、明らかにまだ発していない質問を、先に予見したとしか思えない答えの返る例が見られたのである。さらに最後の質問を発したとき、彼女は消え入りそうに頬を赤らめながらうなずいた。病弱ゆえか民族性ゆえか少々遅めの生理を、やはり少し前に迎えていた。
 小百合との邂逅をきっかけに、亮三はインディアン居留地以外にも、同じ症例が多発しているフィールドの存在を見出した。ノースマウンテン・キャンプ収容者の、次世代。しかし、なぜ地域的にも生活条件的にも重複しないふたつのフィールドに、同じ症例が多発するのか――亮三がそのフィールドにも調査を広げたとき、行く先々に中村の足跡を見出し、中村と自分の追っているものが、まさに重複している事実に気づく。そしてインディアン居留地の少女たちとは違い、そちらの少女たちはほとんどが精密検査を受ける以前に、不慮の死を遂げている事実にも。
 しかし小百合は確かに日系であるが、収容者の次世代とは言えない。母親はすでに開戦時ウィリアムズ家の正式な一員であり、収容対象ではなかった。祖父や伯父は確かに対象者だったが、ウィリアムズ家の助力によって資産はほぼ等価のまま温存され、戦後もそれなりの立場に復帰している。したがって、中村サイドの調査対象には含まれていなかった。
 繋がりは、小百合の父親、故・トマス・ウイリアムズにあった。亮三がかつて追試を重ねた、過去のペヨーテ変異種研究――トマス・ウイリアムズは、その主任研究員を務めていたのである。さらに彼は大戦中、ノースマウンテンの日系人収容キャンプに、医師として派遣されていた。なぜワイオミング大学の精神科医が、軍医が勤めるべきそんな任務についていたのかは不明である。しかし二つのフィールドを繋ぐ糸口は、彼しかないように思われた。
 戦前の研究――初期段階のその研究が、単純に生物の知能や学習能力を高める、そんな仮説で行われていたことを、亮三は知っている。ならば、古典的な日本女性であるトマス・ウイリアムズの妻――小百合の母親が、いわば華岡青洲の妻の役を買って出た可能性は、充分考えられる。あるいは収容された同郷の人々に対する、複雑なシンパシーがあったのかも知れない。
 それらの推論を、中村に伝えるべきか否か――亮三は逡巡した。中村がただの留学生ではないことはすでに確信していたが、といって果たして何者であるのか、一介の学究者である亮三には見当もつかない。
 しかし逡巡を重ねる内、小百合の身辺に不穏な事件が多発し始めた。
 郊外散策中の転落事故、泥酔したドライバーによる交通事故、変質者による拉致――いずれも当人や周囲の機転によって未遂に終ったが、それらが未遂に終らなければ、小百合もまた、他の少女たちと同じ最期を迎えたことになる。
 こうして亮三は、留学生ではなく、なんらかの諜報員としての中村に、研究内容のリークを申し出た。中村が完全に味方であるという確証こそないものの、二年近い交際を通じて、少なくともその人間性だけは間違いない人物――『好漢』であると信じたからである。


 高宮に従って、料亭『たかみや』――つまり高宮の家の廊下を進むと、奥の座敷から下がってくる須藤に出会った。
 須藤は高宮と慇懃に会釈を交わしたあと、後ろでしゃっちょこばっている中村に、親しげな笑顔を向けた。
「昼はうまくやったようだな」
 中村は敵陣で友軍に出会ったような気分になった。
「政雄さんも同席なさるんですか」
「馬鹿言え。俺は隣で、ゴリラ連中と待機だ」
 須藤は苦笑した。
「総理のゴリラ連中まで揃ってるから、臭いのなんの」
 高宮も苦笑した。どちらかと言えばダンディズム志向同士なので、須藤にも親近感があるのだろう。
「あ、じゃあ、俺もそっちで」
 本気でそう望む中村に、
「主役のひとりが別室でどうする。まったく、困った奴だ」
 主役――中村は返答に困った。
 内閣総理大臣と、その側近である内閣官房長官、それらの人間と酒を飲むらしいのは事実だが――どう考えても身分不相応だ。現に膝が笑っている。
「まあ、そんなに緊張しなくとも、存分に飲ませていただきましょう」
 高宮は勤務外モードのままだった。
「まったく、この店の酒は高い。米沢の酒など、旨いんですがね。半分あなたの所の、政治資金に流れてるんじゃないですか?」
 須藤は声を上げて笑った。
 中村も苦笑いするしかなかった。
 つまり黒鉄の地盤の酒であり、その一部は中村の実家が造っている酒でもある。
「しかし高宮さんは、自分の店じゃありませんか」
 須藤が打ち解けた調子で問うと、
「今は女房の店です。水産庁の頃までは、私はコネで無料《ロハ》だったんですがね」
 高宮も打ち解けた調子で返した。
「お魚の横流しができなくなって、今じゃあ金をとられます」
 もはや本気か冗談か、その表情からは読み取れない。
 ちょっと失礼、俎板に乗る前に御不浄を、などとつぶやきながら奥のトイレに向かった高宮を見送って、須藤は中村に耳打ちした。
「いい人じゃないか。あれは貴様を気遣ってるんだろう。どこから見てもガチガチだからな、まったく」
 やはりそうなのか、俺の緊張をほぐそうとしてくれているのか、そう思いながら中村はうなずいた。しかしその実、どうもこの数日二人きりで行動を共にして、中村は高宮の本質を疑いつつあった。
 それまでは、職務中のハード・ボイルドが地であって、職務外の冗談が気遣いだと思っていたのだが――もしかして、本当は逆ではないのか。


 いざ池畑総理や黒鉄に対して座敷に収まると、高宮は見事な『切れ者』顔に戻っていた。
 そんな豹変が、やはり中村には頼もしい。
 高宮夫人手ずからの酌に、池畑は相好を崩した。
「いやあ、嬉しいね。また、みの吉姐さんのお酌で飲めるとは」
 やや長く角張った顔に、耳も縦に長い。眼鏡の奥の細い目が、いかにも明治生まれの知性派官僚上がりだ――中村はそんな無礼な感想を抱きながら、昼間は緊張してろくに拝めなかった総理の顔を、間近にながめていた。
 もっとも、その官僚顔も、今は崩れつつある。
 六十年安保の頃、それまでの待合好きを当時の官房長官・大平正芳に戒められ、以来几帳面に遊びを控えている――そんな話を、中村も聞いたことがあった。高宮夫人も、その頃までは馴染みだったのかも知れない。無論枕芸者などではない芸で売った夫人だから、きっといい喉などを三味の音に乗せて聴かせていたのだろう。
「高宮君を馘首《くび》にしたら、またお座敷に戻るかい?」
「そうなったら、お店を畳んで、田舎にでも篭りますわ」
 高宮夫人は、何食わぬ顔で返した。
「そうすれば四六時中、旦那様といっしょにいられますもの」
 池畑は嬉しそうに笑って、高宮を見やった。
「相変わらずお熱いなあ、君のとこは」
「総理のお家と変わりませんでしょう」
 高宮はほんの少し、唇の端を崩した。
「いつも尻に敷かれております」
 本当にこのふたりは、どんな関係なのだ――中村は冷や汗をかきそうになった。
 池畑はまったく気を悪くした様子もなく、さらりと話題を変えた。
「で、三つばかり、確かな所を訊きたいんだが」
 気軽な口調のまま、
「君が潰したあの車の連中は、実際のところ、どこの手先だ」
「それは会議でも報告いたしましたが」
 太平洋側ではなく日本海側、山形県吹浦からの上陸後、新潟方面に迂回して都内へ。焼死体はいずれも白人であり、ソビエトからの密入国と推定される。
「あれは赤坂の連中へのハッタリだろう」
 池畑が真顔になった。
「君個人の推測が聞きたい。勘でもよろしい」
「北の連中でしょう」
 中村は即答した。
「あのドジ拵えの垢抜けなさは、只事ではありません。まあそれは偏見だとしても、始めから生きて帰るつもりがなかったようですし」
 池畑は納得したらしい。
「まあ、いずれにしても、あちらの親方は本腰ではなさそうです。本気で来るなら、もう少しましな連中を回します」
「なるほど、それでは、二つ目の質問だ」
 池畑は高宮夫人の酌を受けながら、
「今回の件は、君たちの仕掛けじゃないのかね」
 横で聞いていた中村は、思わず背中を硬直させた。
「いや、燃やすための連中まで用意した、という意味ではないよ。ただ、その結城氏が君たちの目を盗んで、自力で娘さんを連れ出したとすれば、結城氏はジェームス・ボンドなみの工作員ということになってしまう。その後の君たちの段取りも、少々手際が微妙すぎる」
 やはりこの人は、陰口で言われるようなただの秘書官政治家や、『お公家様』などではない――中村は横目で高宮の顔を窺った。
 一瞬目が合った高宮の表情は、苦笑に近かった。
 池畑もそんなふたりの様子を見定めて、鷹揚にうなずいた。
「わかった、もういい」
 機嫌よく猪口を飲み干して、
「動いてくれない限り、敵も見えん」
 高宮は夫人のお銚子に手を伸ばした。
「まあ、御本尊の正体を見極めたかったのも確かです」
 怪訝な顔の夫人を尻目に、自ら池畑に酒を注ぐ。
「しかしそれよりも、いつまでも赤坂の連中に高みの見物を決め込まれていては、埒が明きません。おまけに味方のはずの二別や八別にまで、あんなふやけた仕事をされては――」
 高宮は池畑の眼鏡の奥を見据えた。
「国民の命が守れません」
 池畑も高宮を見据え返した。
「――最後の質問だ」
 池畑の目は座っていた。
「この件は、ケネディやジョンソンが、関知していないのは確かだね」
 ジョン・F・ケネディは、昨年中村たちがアメリカを脱出して間もなく、テキサス州ダラスで狙撃暗殺された、合衆国大統領である。そして、その後を継いだ現大統領が、リンドン・B・ジョンソン。
「それは在り得ないでしょう」
 高宮が断言した。
「それならば、そもそも中村君ひとりで、易々と出国させられるはずがありません」
 中村もそれにうなずいた。先日黒鉄にも質問され、自分もたびたび抱いた疑問の、現時点での結論である。
 池畑の緊張が緩んだ。
「よろしい。私もさすがにあの国と、また直接事を構える度胸はない。ようやくあの国の属国を、抜け出せるか抜け出せないか――この国は、まだそんな状態だ」
 すでに八年も以前、経済白書で『もはや戦後は終った』と宣言されているものの、本音はそんなところなのだろう。
「私なら相手に関わらず、事を構えるべき時には構えたいですね」
 高宮は冷ややかに言った。
「先の一億より、目の前のひとりを救う方が楽ですし、確実です」
「だから私は、君をあんな所に沈めているのさ」
 池畑は優しげに言った。
「俺は一億のためなら、千人でも万人でも殺すよ」
「まあ、それが総理の商売ですから」
 高宮はあっさりと返した。
「そうでなければ困ります」
 そんな会話を、中村は当惑しながら聞いていた。
 これはすでに、上と下の会話ではない。対等とも違う。なにか知性派の親子、そんな感じさえしてしまう。
 それまでずっと黙っていた黒鉄が、ここまで、と言うように手を鳴らした。
「まあ総理には一億の心配をお任せして、高宮君、中村君、今夜はとりあえず、飲もうじゃないか」
 その拍手に応じて、綺麗どころが二人、その座に加わった。


     五


 なんだ、俺はやっぱり主役のひとりなどではなく、高宮さんのおまけだったのだ――宴の席の話題が宏地会やら京都大学やら、それぞれの昔話に流れて行くにつれ、中村は気が抜けてきた。
 綺麗どころのお酌は、それなりに嬉しい。しかし同じ女なら、まだ牧子のほうが可愛げがあるように思う。お愛想が苦手なのである。
 酒は郷里の二級酒『米鶴』が出ている。高宮が言ったような、法外に高い特級酒とは違う。二級酒と言っても、かつて酒にうるさい池畑が蔵相時代、黒鉄の衆院選挙の応援に訪れたときに特級酒と思い込み、「こんな贅沢な二級酒を造っているバカは誰だ」と逆に立腹したほどの、損得抜きで味を極めた酒である。中村にとって、それは実家の酒を遥かに凌ぐ、好悪を越えた底無しの美酒だ。
 しかしやはり牧子の酌のほうが、数段美味なのではないか。実家に帰って囲炉裏端で二人で注しつ注されつ、そんな場面が最高だろうが、団地の卓袱台だって悪くはない。
 中村は便所に立った帰り、なにがなしに宴に戻りかねて、ふと隣の座敷を訪ねた。
「なんだ、正浩。話は終ったのか」
 須藤が怪訝そうに顔を上げた。
 須藤も警護員らしい四人ほどの男たちも、軽い夜食程度の膳を前にして、飲んでいるのはただの茶である。
「話もなにも、俺は高宮さんの隣で、黙って飲んでるだけです」
「おかしいな。親爺が色々聞きたがってたはずなんだが」
 警護員たちの中の二人には、先日事務所で会っている。そのときよりもさらに親しみの篭った会釈を交わし、中村は畳に座り込んだ。
「どうも、俺だけ飲んじゃって、すみません」
 昔の柔道部にいたような強面の連中が揃っているだけに、お茶だけ飲ませて隣で飲んでいるのは、心苦しい。
「仕事ですから」
 警護員のひとりが、精悍な笑顔を向けた。
「それより中村さん、須藤さんに伺ったんですが、アイオワの一件は、あなたの招聘だそうですね」
 中村は驚いて須藤の顔を窺った。
「この人たちは、大丈夫だ。親爺や総理より、よほど口が固い」
「仕事ですから」
「みんな陸自出なのさ。まあ、細かいところは内緒だが」
 警護員たちが、苦笑を浮かべた。
 中村は状況が飲み込めて、深々と頭を下げた。
「その節は、どうもお世話になりました」
「いやあ、我々は内地勤務でしたが――伊藤陸曹長の腕前、いかがでしたか」
 中村はその頼もしい狙撃手の名前を、懐かしく思い出した。
「あの人は、超人でしたね。あっと言う間に、十人ほど」
 やはりな、メルボルン銀だからな、などという会話が弾んでいる。
「聞き捨てならない話をしているな」
 いきなり黒鉄の声がした。
 襖が開いて、酔いの回った赤ら顔が覗く。
「正浩。政雄。お前ら、馘首だ。守秘義務違反。懲戒免職」
 明らかに酔った冗談口調なのだが、内閣官房長官の発言である。さすがに一同が強張ると、
「馬鹿野郎、本気にしてどうする。ここに民間人がひとりでもいるか」
 黒鉄に続いて、綺麗どころもひとり、隣から移動してきた。
「あーら、こちら皆さんお若いのね。嬉しいわ、嬉しいわ」
 さらに新しい芸者も加わり、女中が何人か、幾つも酒膳を運んでくる。
 警護員たちも、あっけにとられて酒席の出現を眺めている。
「ま、今日は君たちも好きなだけやってくれ。交代要員は、もう呼んである。ここからは、無礼講だ」
 黒鉄は須藤と中村の間に腰を据えた。
「……あちらは、よろしいのですか」
 中村が訊ねると、
「まあ、あっちはあっちで、水入らずだ」
 水入らず――まさか、高宮さんは、総理の隠し子?
 思わず時代劇の『将軍の御落胤』パターンなどを、想像してしまう。
「妙な想像をするんじゃない」
 中村の顔色を読んだのか、黒鉄が笑った。
「池畑さんの、恩人の息子さんだ。もっとも、その方が満州で戦死されてからこっち、後見みたいなもんだがな」
 須藤も初めて聞く話だったらしく、中村といっしょにうなずいている。
「さて、正浩、俺も貴様の武勇伝が聞きたい。調書でも会議でも、一番面白そうなとこだけ、うやむやに飛んじまう」
 いわば『歴史上無かった事』の部分だけに、確かに漠然とした結果論で流してあるのだ。
「アイオワでは、どことドンパチやった」
「……それは現場レベルの活動なので、総理や長官は、ご存知ないほうが。懸案とは直接関わっていませんし」
 黒鉄は綺麗どころの注いでくれた盃を干して、
「気にするな。田舎の寄り合いの、世間話みたいなもんだ」
 警護員の連中も、慣れない手付きで芸者の酌を受けながら、興味津々の視線を向けてくる。
 須藤の顔も、構わない、と言っているようなので、中村は詳しい事情を説明した。
「――つまり、もしなんらかの国家的陰謀が存在するとすれば、それは今のところ、インディアン居留地とは無関係なわけです。現にそちらでは病原自体のペヨーテ変種が放置されたままですし、結城さんの民間チームの研究も、なんら妨害を受けていないわけですから」
 黒鉄は納得してうなずいた。
「結論として、ノースマウンテンでなんらかの――悪意か善意か、国家的なものか小規模なものか、現時点では判断できませんが、――とにかく邦人を対象とした人体実験が行われ、それを隠蔽する必要性が次世代で生じてしまった、そんな仮説が成立します。当初は隠蔽のみが目的だと思われたんですが――今後それがどう発展するのか」
「あの、インターセプターやら、リーダーやらかな」
 中村もうなずいて、後を続けた。
「小百合さんを保護する以前から、トマス氏の旧友――アイオワのある町の保安官に、当たりをつけていたんです。その町でも日系三世の娘さんが二人事故死していたんですが、その経緯がどうも他より不明瞭だったもので、ちょっと揺さぶってみたんですが――どうも、こちらを日本の軍部の人間だと思い込んでくれたらしくて、ある条件を満たしてくれれば、情報をリークしてくれると」
 『ある条件』の語調で、黒鉄は察したらしい。
「その条件が、ドンパチか」
「はい。地元に進出し始めている麻薬系シンジケートの連中を、密かに一掃してくれれば、と。どうも地域の有力者がらみで、保安官レベルでは手が出せなかったらしいんですが。で、調査してみたら、これが完全武装のマフィアの連中で、二十人ばかり、要塞堅固なアジトに。で、分室長に相談したら、その……伊藤さん、とか」
 自分では何もしなかったので、中村の口調は、しだいに遠慮がちになった。
 警護員のひとりが、御子柴さんはどうでした、と、口を挟んだ。
「はい。伊藤さんの次に、凄かったですね。あっと言う間に、八人ばかり」
 その警護員は、なぜか隣の同僚の頭を、くしゃくしゃと乱した。
「こいつの兄貴です」
「御子柴と申します」
 二人とも、すっかり無礼講状態になっている。
 他の警護員が訊ねた。
「じゃあ、由良と三木は」
「えーと、確か、残りをひとりずつ」
 やはりな、あいつらは実戦が足りないからな、などという声が上がる。
 中村は、すっかり柔道部の酒盛りを見る気分になった。
「で、続きはどうした」
 黒鉄が促した。
「はい。結果的にそのリークが、報告でも提出した、トマス・ウィリアムズ氏の戦後の手記です。恐らく彼の事故死も、何者かの隠蔽工作と思われます。それを予感した彼が、記録を旧友に託した、そんな経緯のようです。キャンプ中の活動はやはり不明ですが、終戦後、民間の医師として活動しながら、個人的にそのペヨーテ変異種研究も続けており、追試の結果――」
「『精神分裂を免れれば、同調を制御できる』」
「はい」
「『分裂直前に自己防衛本能が逆流するケースも見られる』」
「はい」
「……確かにそれが可能なら、無限の価値があるな」
 黒鉄はやや重い声で言った。
「読めるだけでも、あらゆる間諜活動が可能だろう。まあ、小百合という子のデータを見せてもらった限りでは、実用性は薄いようだが。昔の御船千鶴子と、同じようなもんなんじゃないのかな」
「失礼ですが、長官」
 黙って聞いていた須藤が、口を開いた。
「確かに東大に移ってからのデータでは、正答率は五部五部のようですが、それは被験者が単に非協力的だっただけなのではないかと。ポリグラフ導入後は、まだ一週間もたっておりませんが、誤答に限り、ポリグラフ反応が現れておるようですから。むしろその導入が、脱走の契機なのでは」
 中村もうなずいた。自分や結城亮三の考えとは関わりなく、小百合自身は、自分がただの娘であることを望んでいるに違いない。
 須藤は冷静に続けた。
「アメリカあるいは他国の何者かの、現状把握がどうであろうと、死んだ篠田八千枝のような少女が、もし環境に適応していたら――間諜どころではない。対生物兵器です」 
 中村は、酒盛り気分が一気に引いていくのを感じた。
 トマス・ウィリアムズにとって、当初の時点では輝かしい発見、しかし最期には――父親として、何を思いながら死んでいったのだろう。
 会話の大部分は理解できないはずの警護員たちも、雰囲気を呼んで、黙り込んでいる。
「寄り合いというより、この感じは通夜だなあ」
 黒鉄が、冗談とも本気ともつかぬ調子で言った。
「政雄、お前が悪い。腹芸が足りん。衆院は十年先だな」
 須藤は苦笑して、芸者の徳利を借り、黒鉄に注いだ。
「そちらより、正直、こういった件のほうが」
「駄目だ。お前は、金転がしや国転がしのほうが、絶対大きくなれる」
「お褒めいただいているのでしょうか」
「無論だ。まあ、昔と違って体より頭が先に動くから、お前は心配ないが――」
 黒鉄は、しげしげと中村を眺めた。
「問題はこっちだな」
「……はあ」
「丸っきり馬鹿でもないくせに、頭より先に、体を動かしちまう」
 早くも酔いの回ったらしい警護員のひとりが、そりゃあ国体三位だもの、などと、嬉しい口を挟んでくれた。知らない顔だが、同世代で柔道をやっていたらしい。
 中村が頭を下げると、
「あの背負いは、頭じゃ無理だ。背負いは頭でも、引きは体だ」
「両方使ってたつもりなんですけど」
「でも、直前の相手の内股は――頭でも体でも、防げるはずがなかったですよね」
「……勘、かなあ」
「自分はただの兵隊ですから、何も解りませんし、忘れます」
 御子柴の弟、先ほどそう呼ばれた男だった。
「まあそのペヨーテやら迎撃機やらも、何が何やら解りません。この場を出れば忘れます。でも、中村さん、組むと読めますよね、相手の頭の中」
「――そう言われれば」
「あの感覚は、まあ、勘とか経験とか言う人もおりますが、自分は読んでいるつもりですし、中村さんも、たぶんそうではないかと」
 乱れた七三分けの下の柔和な目が、さらに細くなった。
「私は中村さんの横にいれば、一番長生きできそうな気がします。兄貴もそう言っておりました」
「……お前は、妙なところで顔が広いな」
 黒鉄があきれたようにつぶやいた。
「政雄といい、御子柴といい。まあいい。今日は飲め」


 無礼講、と黒鉄が言ったのは、社交辞令ではなかったらしい。
 確認したい事だけ確認し終えると、黒鉄は率先して三味線を伴奏にしんみり地元の民謡『おーわいやれ』など歌いだし、武骨な連中を持て余していた綺麗どころを喜ばせた。
 こんな話の中に芸者がいてもいいのか、中村がそんな疑問を須藤に耳打ちすると、須藤は無知な弟を諭すように、
「なんのためにこういう店が存在すると思う。伝票ひとつでわれわれの賞与が飛ぶような店だぞ。出入りの芸者ひとりとっても、貴様らなみに口は固い。建物の洗浄も完璧だ」
 へえ、そんなものか、そう中村も心得て、意気投合した警護員たちと美味い酒を酌み交わしていると、やがて高宮が顔を見せた。
 『花笠音頭』を上機嫌で歌っている黒鉄に、
「総理がお呼びです」
「おう、そちらは終ったのか」
「はい。明日付けで、模様替えです」
 そりゃご苦労だな、そう言いながら黒鉄は腰を上げた。
 須藤を顎で促して、いっしょに出てゆく。
 残った高宮は、黒鉄のいた上座に腰を据えた。
「さて、宴もたけなわなところ、恐縮ですが」
 あちらでも盃を重ねていたはずなのに、顔も言葉もまるで素面である。もっとも、波高四メートルの調査船でも薩摩焼酎を飲んでいたという噂もあるから、並みの強さではないのだろう。
「明日からの仕事に、少々予想外の展開がありまして」
 中村には意外ではない話だったが、警護員たちは怪訝な顔をした。
 部署が違うはずである。
「そちらの武闘派の方々には、明日付けで辞令が下ります。日本放送協会――NHKに出向し、二週間ほど、ドキュメンタリー番組制作の現場を体験していただきます。実際に記録映画撮影可能なレベルまで達していただかないと、今後の活動に支障をきたしますので、実戦の心構えでお願いいたします」
 さすがに勘のいい連中が揃っているので、何らかの作戦行動に入るのだろう、そんな気配を悟ったようだ。
「内調六別の指揮下に入る、そう解釈してよろしいのですね」
 年長の警護員が、改まって確認した。
「そこのところが、微妙なところで――」
 高宮は言い澱んだ。
「研修後は、NHKから依頼された、滝川峡谷の自然ドキュメント制作の社外スタッフ、あくまでもそんな位置付けになりますから――番組制作中に何が起こっても、現在のあなた方の地位とは無関係です。つまり、現在の職場で総理や長官の弾除けになった場合の障害補償や死亡時見舞金は受けられませんし、無論遺族年金も民間レベルとなります。ただし番組制作後の復職は、総理府の念書、そんな形で保証――やめましょう、こんな戯言は」
 高宮は隣の綺麗どころから、ちょいと、と言って三味線を借り、ぺぺん、などと掻き鳴らした。
 中村の額に汗が浮かんだ。
 この人の本性がついに現れるのではないか、そんな気がしたのである。この人は水産庁の丸腰の調査船で北の工作船に突進したときも――もしそれが真実ならばだが――こんな顔をしていたのではなかろうか。
「念書などというものは、マッチを擦ってポッと燃やせばそれでチャラ、その程度の効力しか期待できません。『社団法人・国際地勢研究会』は、明日より名実ともにただの地図をめくって新聞を読むだけの天下り老人団体に表替えされます。私は下請けプロの社長に転職です。したがって――あなた方には、その辞令と言う名の解雇通告を、拒否する権利があります。むしろ、それをお薦めしたいですね。個人的には、どうも私の部下は荒事が苦手な連中ばかりなので、ぜひ参加をお願いしたいんですが」
 その年長の警護員は、他の仲間の顔を窺った。
 集団の呼吸の合一――中村は、団体戦前の柔道部を連想した。
「それは総理のご決断ですか」
「私の口からは、申し上げられません」
「それでは――任務の目的のみ、お聞かせ下さい」
「詳細に関しましては、正式にプロダクション社員になっていただかないと、ご説明できかねるのですが、それではご決断は不可能でしょうから、こう申し上げましょう」
 高宮は中村の顔を見やった。
「そちらの中村君がよくご存知の、当年とって十七歳、亜麻色の髪も麗しき花の乙女がおりまして、どうも、正体不明の悪漢に狙われておるらしい。現在のところ、あなた方の昔のお仲間たちが密かにお守りしているのですが、それだと事と次第によっては、本物の戦争になってしまう。そうならないために――正体不明の正義の味方がお守りする、そんなところでしょうか」
 中村は思わず高宮に盃を差し出した。
 高宮は、にっ、と笑って盃を受けた。
「まあ、あれですね。ハイホー、ハイホーと歌いながら、白雪姫をお守りする、小人たちみたような」
 警護員たちは充分納得した顔色を浮かべながらも、やはり逡巡している。それはそうだろう。彼らにも家族がある。
「明日の登庁まで、充分お考え下さい。それから、もうひとつだけ――」
 高宮は、意味ありげに言葉を切った。
「――なぜかその小人たちは、出所不明の武器弾薬を、一個小隊なみに隠匿しております。まあ山の小人のことですから、怒らせるといきなり鉄砲を撃ったりします。美しい白雪姫をお守りするのが、最優先ですので」
 警護員たちの顔に、家庭人の逡巡を超えた、明らかに『男の子』の表情が浮かんだ。
 高宮は、また三味線に撥を当てた。
「さて、まだ夜も長いことですから、どうぞ宴のお続きを」
 都都逸などひとつ、などと暢気につぶやき、綺麗どころも、あらあ高宮さんお久しぶりのいい喉、などと調子を合わせる。
「あの、室長、俺は……」
 明日から自分は何をすればいいのか、まだ聞いていない。
「失礼、身内の心配を忘れておりました。中村君、君は大変恵まれております。団体職員などより、教職員のほうがステータスが高いですから」
「は?」
「私立滝川高校の社会科教師に、現在欠員が生じておりまして」
「は?」
「六別で教員免状を取得しているのは、あなたしかおりません」
 確かに学生時代、実習までやっているが――。
「まあ女生徒に手を出しても馘首にならず異動だけで済むという点では、公立のほうが楽しいでしょうが、その代わり格段に私生活の勝手が利きます。ちなみに定年まで勤め上げた場合、一般に退職金は公立校のほうが高いようですが、あそこは同レベルだそうです」
 呆然としている中村を尻目に、高宮は悠然と『いい喉』を披露し始めた。
 ――腹が立つならどうなとさんせ 主にまかせたこの身体――


 請われて峰館の山の上の、高校に赴任する事になった――そんな話をようように切り出すと、牧子の丸い目がさらに丸くなった。
 二晩置きに帰って来るなんて、珍しいけど嬉しい、そんな顔をしてくれていたのが、さすがに鳩が豆鉄砲を食らったような顔に変わったのである。
 こいつの場合、栗鼠が団栗鉄砲を食らったようだな、などと見惚れている場合ではない。夕餉の鰯を、今にも卓袱台に取り落としそうだ。
「……いつから?」
「……来週」
 牧子は無言で宙を見つめている。
「えーと、心配ないよ。ちゃんと宿舎もあるし、一戸建てらしいから。まあ、山の中だから、買い物なんかはちょっと不便になるかな」
 ちょっとどころではない。熊は出ないが狸や狐は出るらしく、ときにはカモシカさえ見られるという話だ。借家のある集落にはまともな店は電気屋だけと聞くし、学校まで一里もある。まあ通勤には赴任中ジープを貸してもらえるし、集落の店などよりは、結城家のほうがなんでも都合してもらえるというが。
「……ほんとに?」
「……うん」
 ふらふらと牧子が立ち上がり、隅の電話の前に、ぺたりと座った。
 思いつめた表情で、ダイヤルを回している。
 ――実家に帰る、とか言い出すんじゃあるまいな。
「ねえねえ、お母ちゃん、うん、あたしあたし」
 ――おお、やっぱり。
「帰れるのよ、うん。ちがうちがう。そんなんじゃなくて、正浩さんがね、峰館の学校の、先生になるって――」
 何度も電話に向かってうなずきながら、ふとこちらを向いた顔は、泣き顔に近い喜びの顔だった。
「ねえねえ、どこの学校?」
「滝川村」
「滝川だって。そうそう。あの、県境の。そうよ。いつでも帰れるよ。峰館に下りちゃえば、汽車ですぐだもの」
 どうやら予想に反して、大歓迎の事態らしい。
 しばらくきゃあきゃあと電話が続き、お母ちゃんが代わってくれって、そう言われて出た後の、義母とのまた長い電話で、実は牧子がホームシック寸前で毎日母親に電話していた話なども聞き、中村はあらためて妻への配慮を欠いていた自分を恥じた。
 もし何かあった場合の事を考えれば、単身で赴任したいところだが、今さらこの都会に、牧子をひとり残していくわけにはいかない。それに、妻と夫は一蓮托生――と言うよりも、俺が牧子を選んだ時点で、俺は牧子を自分の世界に引きずりこんでしまっているのだ。その責は、全て俺が負わねばならない。
 単身赴任という概念が、ほとんどなかった時代である。
 その晩の長い抱擁の後、翌日から猛然と引越し準備を始めた牧子に家を任せ、中村は国会図書館に通いつめて、政経や教職の再勉強やら、NHK帰りの元警護員たちとの、打ち合わせに明け暮れた。
「皆さんは、お家のほうは、どうなさるんですか?」
 帰途に立ち寄った渋谷の喫茶店で、中村は一同に訊ねた。
 結局あの席にいた四人が、皆揃っている。年収自体は上がったというが、将来は白紙に戻ったはずだ。安定した未来よりも、現在に殉じる覚悟を決めた男たちである。流れに任せてただ走っている自分に比べ、遥かに眩しく見える。
「私は独りで、三男坊ですから」
 御子柴が明るく笑った。
「どこに行っても同じです。一カット撮り直すのにも、プロデューサーの許可がいる職場などより、今度のほうがよほど面白そうだ」
 二十八歳で最年少のこの青年に、あの宴席以来、中村は最も親近感を覚えていた。
 御子柴が先に口を切ったためか、若い順に答えを返す。
「私も同じです。御子柴と同じ、結城さんの離れを借ります」
 佐々木という、中村と同じ三十歳の見るからに頑健な青年は、宴席で御子柴の頭を撫でていた男だ。先輩後輩というより、友人同士の雰囲気だった。
 総理に付いていた後の二人は、いずれも三十代なかばである。
「私は子供がいませんから」
 吉行が言った。陸自や警護員という前歴に似つかわしくない、中村の代わりに教壇に置きたいような、落ち着いた物腰である。
「妻と峰館市のアパートに入ります。まあ、いつ帰れるのか判らんのは、今と同じですし。それより、新谷さん、大変でしょう」
 最年長の新谷は、小学生の子持ちである。宴席でボス格に見えたのは、実際昔の階級が高かったかららしい。今回もディレクターを演じる、というより日常的に実際の撮影をこなして見せるのだから、現実的にも指揮官である。
「女房子なんか、持つんじゃなかったよ。子供は逆に喜んでるんだが、女房がうるさいのなんの」
「東京育ちのお嬢様でしょう?」
 御子柴が訊ねた。
「なんのなんの。武蔵野の奥の百姓出のくせに、峰館なんて嫌だとぬかしやがる。なんとか仙台で落ち着いたわ」
 磊落な笑いの後に、生真面目な表情に戻る。
「まあ、高宮社長から企画の詳細は伺いました。四方を親会社で固めて貰えるならば、現場はむしろ楽でしょう。じっくり立派な四季のドキュメントが撮れますよ。ドンパチのシーンなんぞ、撮りたくても撮れないんじゃないですか」
「それじゃ気合が入らないですよ」
 御子柴が抗議口調で言った。
「野生動物の、弱肉強食シーンも撮りたい」
「それは、熊でも出ればな。俺は御免だが、貴様が熊と相撲を取るなら、しっかり撮ってやる」
 新谷も、他の一同も笑う。
 とりあえず一年契約、そんな記録映画スタッフたちの会話だった。


 慌しい引越しを翌日に控えた週末、中村の家を須藤が訪ねた。
「こんな日に悪かったな。親爺さんにくっついていると、土曜も日曜もない」
 家財道具はすでに蒲団以外まとめてしまっているので、出前の寿司にビールの晩餐だった。
 黒鉄官房長官の秘書で、同郷の政治家候補――牧子はしきりに出来合いの寿司を恐縮した。本当なら、食いきれないほどの郷土料理の皿数を並べ、飲みきれないほどの地酒を用意するのが、故郷流の饗応である。
 それでも米沢の思い出話などに花を咲かせ、上機嫌で帰って行く須藤を、中村はバス停まで送りに出た。
「わざわざすみませんでした。車で送って行きたいところなんですが、ジープはもう峰館に回してしまって」
「たまにはバスや電車もいいさ。奥さんが元気で安心したよ。――妙な塩梅になっちまったからな」
「仕事ですから。俺としちゃ、このほうが納得できるまで、自分の脚で動ける。伯父さんや総理に、感謝です」
「まったく、お前は人が良すぎる」
 須藤はビールで赤らんだ顔を、なぜか曇らせた。
「――六別は、早い話、出過ぎて切られたも同然だ」
「はあ」
「判るだろう。蜥蜴の尻尾になっちまったんだよ。アメちゃんがどこまで絡んでいるのか、貴様らを餌に窺っているだけだ。相手が確かにアメちゃんなら、何があっても貴様らを切っちまえば、話は終わりだ。日和見さ。最悪貴様らが討ち死にしても、骨を拾う必要もない。小百合という子が生きていようが死んでいようが、あちらさんに引き取ってもらえばいい。うまく転がれば、次の安保の最強の駒になる可能性もある。俺の入っているのは、そんな世界だ」
 中村には、須藤の真意が掴めなかった。
「それだけなら、まだいい。総理や親爺は、もうあの晩の翌朝から、この件は口の端にも出さん。そりゃそうだ。経済問題公害問題表金裏金、頭を回さなけりゃならない仕事が、いくらでもある。俺が今やっているのも、裏金絡みのもみ消しだ。人のひとりやふたりは、どこぞのビルから飛び降りる。無論、直接背中を押しゃあしないが、よほどの度胸がない限り、それを選ぶだろう」
 沈鬱な須藤の顔を見ながら、中村は宴席での総理と高宮の会話を思い出していた。
「――それで、他の何人が救われますか」
 須藤はしばらく考えこんだ。
「……まあ間接的に、千や二千じゃ、きかんだろう」
「それが嘘でなければ、須藤さんは間違っていないでしょう」
 中村は本心で言った。
「俺は、目の前のひとりずつしか見えないんで、楽してるだけです」
 須藤は中村の目の奥を見つめた。
 やがて、再会の日と同じように、くつくつと笑い始める。
「貴様は俺を兄貴だと言ってくれたから、俺も弟に言わせてもらう。この件が無事に済んだら、もう永田町界隈には戻って来るな。そのまんま坊主頭引き連れて、山の中で駆け回っていろ」
 この時間、駅に向かうバス停に、二人の他の姿はない。
 がらんと暗いバスに乗り込みながら、須藤は言った。
「何かあったら、真っ先に俺の家に電話しろ。親爺には言うな。本音を言えば、俺は高宮さんもよく判らんが――まあ、今は貴様と同じ、蜥蜴の尻尾だからな。独立愚連隊の、隊長さんってとこか」
 軽く手を上げる須藤に、中村は最敬礼をしかけて、ふとあの日の老運転手の言葉を思い出し、きっちり十度程度にとどめた。


 集落なかばの空き家に引越した翌日、中村は結城亮三やウィリアムズ老人や小百合との再会をすませ、午後遅くなってから、ようやく滝川高校を訪れた。
 作戦現場の状況構築、各種連絡体制の確立――様々な準備のため、正式な赴任はさらに翌週である。とりあえず校長や他の教師たちに、挨拶をするためだった。
 晴天の木漏れ日が、中村の視界を爽快に流れた。
 集落から一里ばかりをジープで下り、山合に開けたグランドと木造校舎を見つけ、校門――と言っていいのかどうか、とにかく形ばかりのコンクリートの柱の前に停車する。
 そこで中村は、不可思議な光景を見た。
 その少年に、いずれ再会するのは当然だった。同じ集落の貧相な魚屋の息子であり、滝川高校の生徒であることも、知っていたからだ。
 しかし、なぜそのリーゼントの下にジャガイモのようなでこぼこ顔をくっつけた少年が、校門前で大鍋を煮ているのか。
 帰宅する他の学生服やセーラー服の少年少女たちが、先を争うように丼を受け取っているのはなぜか。
 おのおの十円玉を何個か払っているということは、これはやはり、救世軍や部活の一部などではなく、商業的活動なのだろうか。
 旨そうな魚の汁の匂いも漂っている。味噌仕立てだ。
 実際美味しそうにそれを啜る生徒たちが、ジープと中村を、好奇心に溢れた視線で振り返った。
 鍋の主が言った。
「……どっかで見た顔だな」
 成績は下位だと聞いたが、直観的記憶力はいいらしい。あの夜の峡谷で、高宮の背後からちらりと顔を合わせただけのはずなのに、しっかり覚えているようだ。
「いや、今日、初めて来たんだが」
「……気のせいか」
 幸い、自分の記憶力に、自信はないらしい。
「どっかで見た車だなあ」
「ま、まあ、ジープなんてどこにでもあるからね」
「そうか。駐在さんとこにも、時々来るからな」
 良かった。見かけはアレだが、根は素直そうな生徒だ。
「あのう……もしかして、新しい先生さん?」
 丼を抱えたひとり、小柄でふくよかな女生徒が、人懐こそうな目で言った。
 そう、俺はここでは教師なのだ――中村はそう気持ちを定めた。
「やあ、来週からよろしく。中村です」
 極力すがすがしく笑って見せる。
 きゃー、という嬌声が、女生徒たちから上がった。
 かっこいい、ハンサムう、そんな嬉しい評価が出ているようだ。
 男子生徒たちはまだ胡乱げな顔をしているが、まあ、自分の高校時代を考えれば、そんなものだろう。たしか郷里で教育実習をやったときも、初めはそんなものだった。
「なんでえ、そうなのか」
 リーゼントの少年は商売人らしく目じりを下げて、中村に丼を突き出した。
「挨拶代わりだ。金はいらねえよ」
「あ、ありがとう」
「そのかわり、授業で当てねでくれよな。まあテストはしょうないげんともよ」
 これはちょっとなにかまずいのではないか、そう疑問を抱いたものの――山国ではめったに味わえそうもない、見事な鮪のザッパ汁だった。
「ほう、これは旨い」
 思わず中村が感嘆すると、少年のニキビ面が、にんまり笑った。
「おう、判るじゃねえか、先生」
 男子生徒たちも警戒が解けたのか、控えめに微笑している。
 山の鳶たちが、ぴーひょろろ、などと鳴きながら、のどかに中天で輪を描いた。



(文中に、矢野亮氏・作詞「おーい中村君」の一部を、使用させていただきました)






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