【第二章】 高原のお嬢さん （歌・舟木一夫）
一
ちらちらと山道を照らす木漏れ日の斜線が、この時期の日差しとしては、もっとも垂直に近づいていた。
朝は木の間隠れに眩しかった初夏の太陽も、今は登山帽に遮られて目に届かない。
森は山道の傍の岩に捕虫網を立てかけ、中食《ちゅうじき》を遣《つか》うことにした。
昨日用意しておいた餡パンは一太郎に食わせてしまったので、ズック袋から取り出した紙包みの中身は、今朝母親に作ってもらった握り飯だ。
湿気をおびてしんなりとしてしまった新聞の広告紙を開いていくと、真っ黒の海苔結びがふたつ出てきた。食の細い森は、ひとつで充分だといつも言っているのだが、母親はよほど痩せた息子を太らせたいらしい。
試しに匂いをかいでみると、片方には牛肉の佃煮が、もう片方には筋子が入っているようだ。どちらもこのあたりでは贅沢そのものの食材だ。筋子は当然『魚滝』で買ったのだろうが、売った家の一太郎ですら、めったに自分で食えることはないはずだ。
昔から遠足の時など、自分ひとり梅干や鰹節でない握り飯を食うのが気がひけて、何度も母親に抗議した。それでも母親は、痩せた息子に少しでも精をつけたい一心で、見栄などとは無関係に、そうしたおかずを入れてしまう。子供には子供なりに、逆見栄、とでも言うべき羞恥心があるのだが、そのあたりは残念ながら、母親には死ぬまで解かってもらえそうにない。
結局、牛肉のほうを半分だけ食べる。腹は空いているはずなのに、昨夜からずっと食欲がない。決着はついたことになっている。事実、昨夜かなり遅れて村にたどり着いた時、一太郎の家には、すでに宮城県庁の勤め人と称する家から、連絡が入っていた。
――夕方市内でおたくの息子さんのオートバイに車を接触させてしまい、荷物を駄目にしてしまった。代わりに調達した品物で、納得していただけるだろうか。破損してしまった保冷箱は、自分が魚市場に弁済しておく。バイクの修繕などにかかった費用は、後日お詫びに伺った際に必ず弁済するので、なにぶん事を内密に治めていただければ、感謝の念に絶えない――。
無論、太郎は納得した。それどころか、帰宅した一太郎が差し出した荷物を見るなり、息子の肩をばんばん叩いてこう言った。――偉いぞ。よくその人に接触されてくれた。
森の気にかかっているのは、むしろ今朝の朝刊の記事だった。東京から観光に来た車が県境の山道で転落事故を起こし、自衛隊のヘリコプターの出動によって救助された――そんな内容だった。それで夜間山中に響き渡った時ならぬヘリの爆音も、決着がついてしまったことになる。森の家に届くのは峰館新聞だが、当然宮城県の河北新報などにも、同じ記事が載ったのだろう。
終ったのか、それとも何かが始まっただけなのか――とりあえず、忘れたことにするのに異義はない。しかし、実際忘れられるはずもない。
水筒の水を飲んでいると、横の岩に置いた登山帽に、ヤマキマダラヒカゲが舞い降りた。こいつはほんとに人なつこくて、くりくりと目が大きい――森はようやく本来の自分を取り戻したような気がした。その蝶はしばらくうろうろと登山帽を検分した後、今度は森の首筋やシャツの袖のあたりを、ひらひらと遊び回り始めた。
――本来の自分？
森は自分をいぶかしんだ。すでに自分の部屋の標本箱にいくつも仲間が収まっているこの可愛い奴はともかく、実は朝から一度も網を振るっていないのである。標本箱に収まっている仲間よりひときわ美事なミヤマカラスアゲハなどを、途中で見かけたにもかかわらずだ。
今日は三角紙を使いたくない――それが本音だった。蝶を追う楽しみは、いつもと変わらない。網で捕獲するのも、心は躍るだろう。しかし、捕獲した蝶を真に我が物にするための第一段階――三角紙に収めて、胸部を圧迫し、命を奪う――そんな昨日までなんの疑問も抱かなかった手順に、どうしても気が乗らないのだ。
ヤマキマダラヒカゲは、森の検分にも飽いたのか、山道の先にちらちらと飛び去って行った。森は残りの握り飯をまたズック袋に収め、その蝶の飛び去った木々のトンネルの彼方――峡谷に足を運んだ。
崖道は昨日と同じように青空の下で岩肌をうねり、どこにも昨夜の騒ぎを思わせる跡は残っていない。
森は退避場を越えて、宮城県側まで歩を進めてみた。
あの激しい炎上の残滓すら、きれいさっぱり失われていた。ただ洗われていただけではない。その部分の岩肌も、風蝕を含めて他の部分となんら変わりなく、自然の状態そのものに見えた。愛用の双眼鏡で谷底の渓流なども見下ろしてみたが、無論保冷箱も鮪も見当たらない。
ただ、アイスクリームのカップがひとつだけ、流れの岸に残っているのが見えた。由美や今日子の好きな雪印。それはもしかしたら彼らの回収忘れなどではなく、自分や一太郎に対する警告なのではないか――考え過ぎかもしれないが、森はそう感じていた。
「……まだ何かいる？」
急に隣から声を掛けられて、森は思わず双眼鏡を取り落としそうになった。
着古した山着姿の民治が、竹籠を背負って、森を見上げていた。
民治は山向こうからの戻りで、籠には蕨《わらび》や薇《ぜんまい》などの山菜が詰まっていた。結城の家に頼まれて、早朝から山菜採りをしていたのだ。ナラタケもずいぶん採れた。
「まだ油の匂いがするね。あれ、なんだったの？」
森の鼻では嗅ぎ分けられない山の匂いなども、民治には判る。
「……見てたのか？」
森は冷や汗を流しながら、逆に民治に訊ねた。
「うん。あの上で月見してた」
民治は峡谷の対岸の、岩棚を指差した。
「森ちゃんの家で見た、テレビよりすごかったね」
民治が見ていたとすると――森は念のためにまた訊ねた。
「……美津江もいっしょか？」
民治は答えずに顔を赤くした。ただ並んで月見をしていただけなのだが、なんとなく恥ずかしい。
森は思わず嘆息した。
――こいつも惣領とおんなじで、ほんとに判りやすい奴だよなあ。俺は、こいつらの口止めをするべきなんだろうなあ。この村にこれ以上、余計な面倒を引き起こさないためにも。
「俺が言うのも妙な話なんだが、どうも『無かったことにする』しかないみたいなんだな」
民治はきょとんとして首をかしげた。
「……よく解らない」
「正直、俺にもよく解らんのだ」
森はどう説明していいやら、考え込んでしまった。説明しようにも、自分たちは渦中にいて、民治たちはそれを見ていた、それだけの違いなのである。あとの違いは『忘れろ』と言われたかまだ言われていないか、それだけだ。
森はふとズック袋の握り飯を思い出し、民治に訊いてみた。
「昼飯、食ったか」
「いや、いっぺん家にもどって、それからこいつを結城さんとこに届ける」
「握り飯、食うか。余ってるんだ」
民治の顔が輝いた。昔の遠足の時など取り替えて食ったりして、森の家の握り飯には梅干以上の中身が入っていると知っている。海苔も豪勢に全部巻いてある。
二人は退避場まで戻り、並んで腰を下ろした。
民治は生まれつきの兎唇だが、言葉や食事に不自由はない。ちょうど真ん中あたりの不全唇裂であり、今なら赤ん坊の内に手術で治ってしまう。しかし残念ながら、森たちと同じ年の生まれなので、そういった気の利いた治療はまだ受けられなかった。
民治にしてみれば、山で生きていくのにそれほど不便なことでもないから、大した問題ではない。むしろ背丈のほうがもっと欲しいくらいだ。本当は山で生きていくだけなら背丈もいらない。むしろ小型のほうが都合のいい時も多い。ただ、少し離れた森のお堂に住んでいる美津江がどんどん大きくなってしまうので、いっしょに並ぶと少々眩しすぎるのだ。
民治はまず半分になった牛肉の佃煮のほうにかぶりついた。
「食いかけで悪いな」
森は申し訳なさそうに言ったが、民治は笑ってかぶりを振った。食いかけだろうが、極端な話残飯だろうが、腹に収めて力になって残り滓が正常に尻から出て来る物は、すべてが民治や民治の父親にとって立派な食物だ。それを得る手段が、猟であるか漁であるか採集であるか、あるいは冬場の炭焼き仕事であるか、それとももらい物であるか拾い物であるか――いずれにせよ、それが盗んだり騙し取ったりした物でない限り、正当な糧《かて》だ。
ふたつ目の筋子などは滅多に食えないだけに、本当に美味い。
「ナラタケ、持ってくか？」
お礼のつもりで、民治は言った。
「いいよ。結城の注文だろ。でも、秋になったら、例の奴、頼むな」
「うん」
民治は請合った。
このあたりは、あまり大声では言えない取引だ。はっきりと『奴』の名前も言えない。戦後はカスミ網を無許可で所持しているだけで、駐在から大目玉を食らう。しかしまあ、たとえば羽根をむしって腸《わた》だけ抜いて、丸焼きにしたつぐみを頭から齧る美味さなどというものは、お上のほうからいくらいけないよと言われても、そうそう諦められるものではない。
民治はしみじみと握り飯を味わい、じっくりと咀嚼し、ゆっくりと腹に収めた。至極単純な、エネルギーの効率的利用法だ。
森は民治が食っている間に、昨夜の出来事を、当事者としての推測などを含め、一部始終話して聞かせた。学業成績は一太郎と似たり寄ったりでも、状況判断やら長期的展望などの能力は、民治のほうが案外長けていると踏んでいる。
「……なんだか漫画みたいだ。ほら、昔、森ちゃんに借りたみたいな。冒険王とか」
「俺もそう思う。まあ、事実は小説より奇なり、なんていうからな」
「訊いちゃったほうが早いかもなあ。でも、俺、英語なんて判らないし」
「訊くって……誰に？」
民治はあっけらかんと答えた。
「だから、そのウィリアムズさん」
森は仰天して問いただした。
「訊くって、お前、どこにいるか知ってるのか？」
「うん」
民治はまたあっけらかんとうなずいた。
「結城さんとこの、離れ屋敷にいるよ。あそこ、十年もほったらかしだったから、ここんとこ、親父も手入れに駆り出されてた。別に内緒だとも言われてないよ」
なんだかなあ――森は少々脱力していた。つまり他言無用は昨夜の大騒ぎだけで、あとの事物は秘密でもなんでもないらしい。
森は今夜も一太郎や花子たちが家に押しかけて来ていっしょに観るはずの、『シャボン玉ホリデー』を思い浮かべた。ザ・ピーナツやクレージー・キャッツがメインで、他にもナベプロの人気者たちが歌ったり、色々定番のギャグやコントを展開する。植木等の『お呼びでない』もいいが、ここはやっぱり――。
それは極めて森らしくない連想だったが、連想してしまったものは仕方がない。
のどかな峡谷の空に、すべての緊張感を洗い流してくれるような、谷啓の声が谺した。
――がちょーん。
さて、森はもはや採集の気力を失って、民治といっしょに村に引き返し始めたのだが、ここで彼らの物語冒頭からの会話について、少々お断りしておかねばなるまい。
ここまで読んでいただいた方々にはお判りだろうが、この物語の登場人物たちは、かなり昔の東北の片田舎で育っている割には、むしろ標準語に近い物言いをしている。これは無論、彼らの言葉を忠実に表記している訳ではない。同じ土地に育った語り部としては、当然忠実な表記も可能なのであるが、あえてここではニュアンス重視の翻訳を施してある。なんとなれば、あくまでも忠実に表記してしまった場合、かなりの頻度で脚注が必要になってしまうし、さらに、発音に忠実に表記した場合、清音の多くに濁点が振られることになり、なかなか辛い字面になってしまう。
たとえば、昨夜岩棚の上で美津江といっしょにいた民治は、例の大騒ぎが始まるまではほとんど美津江と口をきいていないが、それはあくまでも彼の含羞に満ちた性格の為せる業であって、もし一太郎が花子と並んで月見をしていたりしたとすれば、以下のような会話が交わされたと考えられる。
『つぎがえらぐ、うづぐさいなや』（『月がとってもきれいだね』）
『……（ふ）んだね』（『そうね』）（筆者注・東北方言表記として一般に使われる『んだ』は、この地方の発音としては正確な表記ではない。『ん』の前に鼻に抜ける意味での『ふ』が必要であり、『ふ』と『ん』双方を小文字にすればよりイメージが近づくが、厳密な日本語文字表記は困難である。大鼻濁音、とでも言おうか。）
『おめえも、おづぎさまどおんなじぐれえ、めんごいぞ』（筆者注・これは判りますね）
『……たろちゃん、けっつ、触らねでけろ』（『太郎さん、お尻、触らないでちょうだい』）
『ほっだなごどゆわねで、いいべ、いいべ』（『そんなこといわないで、いいだろう、いいだろう』）
『うああ、やんだ、やんだ、たろちゃん、ぺ○ち○こ、ちょさねでけろ』（筆者注・全年齢対象小説では翻訳不可）。
『ほだなごどゆわねで、ええ（ふ）んねが、ええ（ふ）んねが』（筆者注・いいかげんにしろ）
『恥ずがすい。おら、やんだは、まず。……もっと、優すぐ』（筆者注・勝手にやってろ）
なお、以降で少女たちが使用する『私』『あたし』なども、この地方の仲間内では男性同様『おれ』が一般的であり、ある条件下のみ『おら』に音便化するのが実情である。たとえば、青森出身の吉幾三氏が『おら東京さ行ぐだ』と歌うところを、花子や一太郎が歌えば『おれ東京さ行ぐんだず』になるだろう。
――ことほどさように、日本は広い。
言葉だけとってもこれだけ面倒なのだから、人々の生活にしても、この時代、まだまだ雑多だ。
たとえば民治の一族は、曽祖父の代までは中部地方の山岳地帯に住む、いわゆる『サンカ』の一員だった。
それら山の民の起源は定かではないが、一説には大和中央集権国家に吸収されることを嫌い山に逃れた、縄文以来の原日本人たちの子孫であるとも言う。サンカという名称も彼らの自称ではないらしく、その由縁も判然としない。まして『山窩』などという当て字は、役人が彼らに与えた蔑称のようなものであるから、彼ら自身は嫌っていた。戦後は急速に里人に融合してしまったが、本来、里人と積極的に交わることはほとんどなかった。テント状の住居を河原に張って移動生活するところから、『瀬降り』とも呼ばれる。西洋で言えばジプシーのような立場だろうか。
したがって民治の家は、祖父以降の戸籍しか存在しない。曽祖父までは定住地を持たず、一族と共に中部山岳地帯を季節の移ろいと共に移動し、独自の自然信仰に従って生きていた。生活の手段は主に狩猟・採集であり、農産物や現金が必要な時のみ、彼らが得意とした手工品――箕や竹細工の籠類などを持って、里人と接触した。
祖父がなぜその生活を抜けて戸籍を得たのかは判然としないし、なぜ遠くこの奥羽山脈まで流れてきたのかも、民治は知らない。土壌が性に合った、という程度の理由なのだろう、と民治やその父親は思っている。土台、東北という土地そのものが、大和中央集権国家から現代に連なる正史（と称するもの）から見れば、もともと『あっち側』の国なのである。あの坂本竜馬や新撰組で、青春ドラマ的に人気のある明治維新にしたところで、当時の東北人から見れば、薩長を主体とする西南からの侵略戦争みたいな要素も多分にあり、かなり一方的に、革命的なひどい目にも遭っているのである。
閑話休題――。
森《しん》たちの集落から半里ばかり北東――峡谷との中間あたりに、民治たちの住む森があった。
森の入り口には、小さな社があり、本殿は戦前に神主ごと焼けてしまったとかで、色あせた鳥居と朽ちかけたお堂だけが、木漏れ日の中に佇んでいる。
森の中には渓谷や山道とはまた違った、独特の香りの粒子が満ちていた。
その香りの粒子そのものは目に見えないが、木漏れ日の大気に描く縞模様が外界よりも白々と滲んで見えるのは、たぶんそれら濃密な香りの粒子が、日に晒されて光っているのだろう。
「ちょっとごめん」
民治は自分の家に戻る前に、森《しん》に声をかけると、そのお堂に足を向けた。
お堂に付き物の賽銭箱や鈴は、とっくに取り払われて、ささくれた木の段を三つ上れば、もう縁側と格子戸――住んでいる者たちに言わせれば、玄関だ。
「こんちわ」
中に呼びかける民治を見ながら、森は、鈴だけ残して呼び鈴代わりにするのはどうかな、などと考えた。賽銭箱も残しておけば、誰かが間違えて小銭を入れないとも限らない。実際、ここに住んでいる美津江とその祖母のふたりは、巫女と言っても差しつかえのない商売――拝み屋みたいなものだ。
格子戸が開いて、巫女姿の婆さんが、皺だらけの顔を覗かせた。
「おうおう、森坊もいっしょかいの」
「こんにちは」
「また虫殺しかいの」
人聞きの悪い言葉だが、口が悪いのはいつものことで、べつに咎める目つきでもない。
「今日はまだ採ってません」
「そりゃあ、感心感心」
この婆さんに言い負かされた訳ではないが、採集という研究手段は当分見合わせようか、などと、森は内心考えていた。
民治は背中の籠を縁側に下ろしながら、婆さんに言った。
「蕨《わらび》と薇《ぜんまい》、あと、ナラタケ、いるか？」
「おうおう、いつも済まんのう」
婆さんが下がって行くのと入れ替わりに、美津江が顔を出した。
学校で見る時と同じように、長い白髪を後ろでまとめている。婆さんと揃いの巫女衣装なので、抜けるように白い瓜実顔と赤い瞳は、なにか心地良い禍々《まがまが》しさ、とでも言うべき趣があった。
「あらまあ、珍しい。なんで森ちゃんがいる？」
「峡谷で会ったんだ。昨日の話も聞いた」
民治が眩しげな目をして答えた。
「お客さんが来るの？」
商売用の衣装から想像して、民治は訊ねた。
「ううん。もう終った。麓の新田《しんでん》からの人。今日のは『口寄せ』だから、あたしには無理だし、婆《ばば》ちゃんひとりでいいんだけど、なんか仏様が高校生の女の子だったらしいのね。あたしも座ってたほうが絵になるでしょ」
拝み屋というか、何でも屋というか――森は内心、ちょっと呆れていた。
民治といい美津江といい、この森の住人は、この村でも風変わりな家族ばかりだ。
荒れるがままだったこの社のお堂に、ひとりの婆さんが孫だという赤ん坊を連れて住み着いたのは、民治や森もまだ赤ん坊の頃だ。戦前に焼け死んでしまった神主の親戚筋だという話だが、本当の所は誰も知らないらしい。
イタコという職業、あるいはそれに付き物のオシラサマ信仰は、元来、この土地には根付いていなかった。津軽の恐山から流れて来たというその婆さんは、正統派のイタコを標榜しているが、森は怪しいものだと思っている。オシラサマの代理をくだしょうが務める、などという話は聞いたことがない。
婆さんは『くだしょう』を使った占い事・呪《まじな》い事が表看板だが、『口寄せ』もやれば、『血取り』までやる。
『口寄せ』は、恐山大祭などで有名な、死者を呼び出す儀式だ。イタコが依頼者の話したい死者をあの世から呼び出し、自分の口を通じて依頼者と会話させるという、あれだ。
一方『血取り』というのは、呪《まじな》いでもなんでもなく、自前で採って飼育しておいた蛭《ひる》と、一握りほどの球形のガラスの器とマッチを使い、関節炎や肩こり、しもやけの患部などから汚血を吸い出す――要は真空圧や蛭の吸血によって血行を促し、かつ蛭の分泌物によって痛みを緩和するという、民間療法だ。
まあ、神事や仏事も気の持ちようひとつだから、精神安定のための、一種の心理療法と言えなくもないだろう。要はかなりいかがわしい、心身療法のお助け婆さん、といった按配《あんばい》だ。
その婆さんが目笊《めざる》を抱えて、ほくほく顔で戻って来た。
「いるだけ取るといいよ」
民治の言葉に遠慮する様子もなく、山菜や茸を笊に掴み取る。
民治は身内のつもり――いや、身内になりたいなあ、と常々願っている立場なので、にこにこと婆さんの様子を見守っていた。
森はそんな民治の気持ちを勘付いているだけに、肝心の美津江のほうはどう思っているのか昔から気になっていたが、
「いつもありがとね」
そう民治に声をかける美津江の笑顔は、どうも単純に食料をもらって嬉しがっている、としか見えなかった。
それでも民治は、飼主に褒められた子犬のように嬉しそうで、有りもしない尻尾のぱたぱた言う音が、森の耳にはしっかり聞こえた。
婆さんがまた礼を言いながら奥に帰っていくと、美津江は訊ねた。
「民ちゃん、これから家にいる？」
「うん。一服してから、結城さんとこに行くけど」
「じゃあ、着替えたら行くから、ちょっと待ってて」
民治の架空のぱたぱたが、さらに大きくなった。
美津江は森にも、意味ありげに目配せして言った。
「昨日の夜、くだしょう飛ばしてみたの」
二
一太郎は裏土間の流し台に渡した俎板《まないた》の前で、睡眠不足の憔悴した顔に、にやにやと得体の知れない笑いを浮かべていた。
「うへ、うへへ、うへへへへへへ」
目の周りのどす黒い隈と、含み笑いがいっしょになって、なにやら正気を失っているようにも見える。
包丁を握る手も、ふらふらと宙に揺れている。
「……兄《あん》ちゃん、ちょっと、気持ち悪い」
右隣で大根を刻んでいた由美が、おずおずと言った。
「うんと気持ち悪い」
さらに右隣で人参を刻みながら、今日子が明言した。
「そうかなあ。楽しそうで、いいじゃない」
そのさらに奥の竃《へっつい》で、大鍋に鰹だしをとっていた花子だけは、にこにこと大甘の採点を入れた。
あーあ、と言うように、今日子が首をすくめた。
一太郎は外野の声を聞き流して、しっかりと出刃包丁――この家では立派な財産のひとつである、八寸の岩国を構えた。
俎板の上では、ひと抱えもある鮪の頭が切り口を下に晒し首状態で、その鼻先を一太郎に向けている。首だけになっても、まだ色々何か言いたいことがありそうだ。
――おいら、広い太平洋を仲間といっしょに、気ままに回遊してただけなのに、なんでこんな山ん中であんたらに捌かれなきゃならんの。おいら、あんたらに何か悪い事したか。
まあそんな感じで一太郎を睨んでいるわけだが、一太郎は内心で引導を渡す。
――悪く思うな。お前ら、旨すぎ。
――そうか。まあ、そんじゃ、しょうがねえか。せいぜい旨く食いな。
一太郎は、鮪の鼻先に出刃を入れ、とん、と出刃の背を打つ。
あとは臍下丹田力をこめて――
「とりゃあっ！」
鮪の頭が、真っ向唐竹割になる。
「……むふふふふふふ」
勝負あった。
明け方まで太郎といっしょに捌き続けていた疲れを考えれば、いい勝負だった。
「……だから、気持ち悪いってば」
今日子の咎める声も、耳に入らない。
なにしろ、ふたつの鮪のザッパ――この地方では、頭部を含めたアラをそう呼んでいる――が、まるまる自分の物なのである。結果的に大物を安く仕入れた手柄と、ぎっくりの完治しない太郎を助けて一晩中働いた手柄を認め、太郎は結城家に運び込んだ以外の残りの部分を、すべて一太郎に委ねた。食おうが稼ごうが、一太郎の自由なのである。
――結城ん家も、馬鹿だよなあ。まるまる買っといて、体裁のいい所しかいらねえってんだから。
つまりまだこの辺りでは、ザッパは残り物であり廃棄すべき物、つまり一定の生活水準以上の者が食うには体裁の悪い物、といった意識がある。
無論、それらが実は大変に旨い物であることを、『魚滝』周辺の人間は皆知っており、たまにザッパ汁が売るほど作れた時など、安くて旨いので、喜んで買いに来る。
森の家や花子の家は、いつもおすそ分けに与かっているから、こうして女手の派遣などもしてくれる。というより、勝手に押しかけて来て勝手に手伝い、わいわい楽しんだ後で、当然のような顔をして戦利品を自前の鍋に持って帰るのだ。
裏土間改造の台所は、たまには大物を捌く関係上、調理台がかなり広い。石造りの流しは、もともと竃といっしょに表土間で座り流しになっていた物を、太郎が自力で台に据え付けた。調理台そのものが太郎の自作なのだから、水周りも完璧だった。これで竃のさらに奥に、剥き出しの風呂桶さえなかったら、機能的には町場の魚屋と変わりがない。森の家のようなプロパン・ガスはまだ使っていないが、水道はちゃんと通っている。もっとも経済的な理由で、水は極力表の庭の、手こぎポンプ式の井戸から汲んでくる。
花子がとことこと一太郎に寄ってきて、かつて見たこともないほどの立派な鮪のカブトを、しげしげと覗きこんだ。
「囲炉裏で焼く？」
確かに、七輪で焼くには大物過ぎる。しかしこの季節、いくら夏なお涼しき山の上とはいえ、昼間から囲炉裏に火を入れるのはちょっときつい。
「ザッパ汁に入れちまおう」
花子がぱちぱちと手を打った。
「やったあ。目玉んとこ、家《うち》に頂戴」
「おうよ」
目玉の周りのぷよぷよの味も、花子はちゃんと知っている。味覚的には、最上と言ってもよい所だ。由美や今日子はまだ気味悪がって食べたことがないので、ふたりから異議は出なかった。
にこにこと竃に戻る花子の小柄な後姿を、一太郎も嬉しそうに見送った。
その視線が主に紺のズボンの豊かな下半身に集中していたとか、こんくらいサービスしとけば、次の祭りの夜は最後の一線を越えさせてもらえるんじゃないかなあと思っていたとか、それらの行為や思考を不純と見る向きもあろうが、餌という生活力で雌の気を惹き繁殖に持ち込もうとするのは、雄としてごくまっとうな本能である。
無邪気に鼻歌を歌っている由美と、上機嫌の花子の間で、また今日子が首をすくめ、溜め息をついた。そういった男女の動物的な雰囲気を、『あらやんだ、不潔っぽい』などと思ってしまう年頃なのだ。いくら本を読んで耳年増、いや、文字年増になっていたとしても、花子と違って、誰にもどこも触られたことのない乙女なのである。
一太郎はうきうきと、頭の解体にかかった。ザッパ汁に入れてしまうなら、カマも目玉もお構いなしだ。あとは大根、人参、葱だけで、味噌汁に仕立てれば天上の美味になる。
――こりゃあ、民治や美津江にも食わしてやらねばなるまい。店の保冷庫に収まっているもうひとつの頭は、あとでじっくり炭火で焼いて、みんなで食うか。いや、亮三さんが帰って来てるなら、こりゃあ最高の商売になるかも。それとも、学校に担ぎこんで……。
一太郎の夢想は、どんどん広がって行った。
森《しん》は民治と並んで、森の道を歩いていた。
やがて、掘っ立て小屋のような炭焼き小屋と、ちょっと離れてやはり板葺きの粗末な小屋――民時の家が、木の間隠れに見えて来た。
日本のチベット――そんな言葉が、経済白書で『戦後は終った』と一応表現された昭和三十年代、巷に流行したことがある。昭和三十九年の東京オリンピックを境に、死語、というかギャグのネタと化した趣があるが、それ以前はけっこうメジャーな週刊誌なども時折グラビアや特集記事を仕立てて、衆目の好奇を煽ったものである。
それは恐らく当時の日本そのものの、貧しさから脱却したいという強い願望による欲求不満と、そのために無理に無理を重ねて生じた様々な社会的齟齬に見舞われた一般社会人の重圧感、そんなようなものが、より貧しく未開の者を同一社会内に設定して自慰にふけろうとした――その程度の民意からの流行だったのだろう。
ここ奥羽山脈という地形は、比較的東西双方からのアクセスが容易であったおかげで、そのような呼称は与えられずに済んだが、ちょいと北東の岩手県、三陸リアス式海岸の果てしない絶壁と北上山脈によって挟まれた、いわゆる北上山地あたりが、そんなありがたくない表現の対象となってしまっていたようだ。
まあ、二十一世紀を迎えた昨今では、そうした地形ゆえに観光資源にも恵まれ、かえって中途半端な田舎のような、過疎による衰退や消滅から逃れられた訳であるし、第一、本家チベットのどこがいけないのか、という根本的疑問もある。少なくとも筆者の周囲には、実際そこに行った知人で、その土地を悪く言った人間はいない。世界中どこに行ったとしても、人が生まれ人が生き人が死ぬ、そうした原則に、さほどの差異はない。むしろ、都会で過労死してしまった筆者の周囲の何人かの知人は、どうせ老いすら迎えずに死んでしまうなら、もっと別の土地、たとえばチベットで別の死に方をしたかったのではなかろうか、そんなふうにも思われる。
さて、森がまだ中学三年の夏休み、ひょんなことからその日本のチベットを、訪れたことがあった。
前年に森が地元で採集したある蝶が、本来北海道を棲息の南限としているはずの亜種であったため、蝶がらみで昔から文通していた仙台の知人から東北大に情報が流れ、結果的にある研究室の助教授の博士論文に、大いなる貢献を果たした。その助教授はしばらく森の家に泊まりこんで、いっしょに狂人のごとく山野を駆け巡り網を振るい、森はすっかり懐いて――いや、懐かれてしまったのである。
その年晴れて博士号を授かったその助教授は、以来、何かあると森を弟分のように扱い、その年の夏の採集旅行にも、同行の話を持ちかけた。
森としては、たとえ私事でも憧れの大人の研究者たちと共に行動できるのだから、否やはない。相手が東北の最高学府の博士様たちなのだから、両親も喜んで旅費を出してくれた。
森の性格であるから、当然、事前の情報収集はたっぷり行った。
まさか円谷特撮映画のように大怪獣バランが出現したり、奇妙な民族衣装の村人が奇祭を執り行っているとは思わなかったものの、多くの出版物によると、その地に至る交通手段はほとんどなく、未だに電気も通っておらず、人々は古い因習と封建的地主制に縛られて、極貧の土民生活を送っている――まあ、そんな情報ばかりが目についた。
当然、森としては自分がいいかげん大田舎に住んでいるにもかかわらず、辺境探検隊にでも加わるつもりになってしまい、大いなる不安と期待を抱きながら現地入りしたわけだが――。
確かに、交通の便は悪かった。リアス式隆起海岸である以上、当然港は多く作れない。さらに移動人口が少ないため、日に二便しかないバスを何度も乗り継がねばならない。しかしそうしてたどり着いた集落では、共同の自家発電でどの家にも電灯が灯っており、そろそろ共同のテレビアンテナを立てる相談までしていたのである。
まあ、世の中には、確かに因習というものがある。地主への隷属的経済社会、病的な嫁いびり、夜這いによる私生児出生率の高さ、乳児死亡率の高さ――それらの事実は、当時でも確かにそこに存在していたのだろう。しかし、人々が牛馬でない以上、人は自分なりに人としての快適な生活を望む。
ちなみに滝川村近辺では、昔から夜這いという風習がなかったので、私生児出生率は高くない。それでも乳児死亡率は、都会よりまだ高い。バスも峰館側に一日四便しかない。結城の家という、地主的存在も残っているし、農家では嫁も弱い。しかし案外その土地も自分の村も、たぶん日本という国そのものも、過渡期という意味では同じなのではないか――森は昔からませていたので、旅行中、そんなふうに考えていた。
森が民治の家を見ながら、そんな旅行の思い出を反芻してしまったのには、具体的な理由がある。一見今にもつぶれてしまいそうな、屋根まで板葺きのそっくりな小屋を、森はその旅行中にも見掛けていたのである。
村の世話役に案内されて、助教授たちと狂人の群れのように網を振るっている最中、世話役はふと畑の中の朽ちかけた番小屋を示して、いかにも苦々しげにぼやいてみせた。
去年、東京から週刊誌の記者、それも全国的に有名な某誌の記者が取材に来た折、今度こそ公平に村を紹介してもらおうと、極力親切に案内してやった。しかし掲載号のグラビア写真や記事のコメントでは、自家発電機も電灯もきれいさっぱり無視されており、あまつさえその番小屋があたかも代表的住居であるかのように扱われていた。で、結局その村は、やっぱり『日本のチベット』扱い――そんな話だった。
森はその時ちょっと興味を持って、その小屋の中を覗いてみた。外観とはうらはらに、中はきちんと整理整頓されており、畳も一畳敷かれて、その隅にはソニーのトランジスターラジオすら鎮座していたのである。
そして、滝川村で数年前に、森の店から最初に高価なトランジスターラジオを購った客もまた、誰あろう、民治の父親に他ならない。
民治たちにとって、この一見朽ちかけた小屋に住むのは、それが自分の住居として充分機能を果たすからであって、今のところそれ以上の家は不必要、それだけのことなのだ。一方電池駆動可能な携帯情報機器は、実用品としても嗜好品としても、山暮らしでは大枚をはたく価値がある。
ちなみに、民治の家では晩秋から春にかけての半年に、炭焼きで一俵あたり大体三〇〇円稼ぐ。ひと月に一二〇俵から一五〇俵は焼けるから、平均一三〇俵としても全部で七八〇俵。ただし、その原料となる木材は結城の山の物であるから、三割を結城の家に納めなければならない。従って、残るのは五四六俵、つまり十六万円強が、年間の確実な現金収入となる。
大卒初任給が月に平均二万の時代、やっぱりそれはかなり貧乏だろう、と思うのは早計だ。所得格差の極めて大きいこの時代、月収数千円の家庭もざらだ。民治の家では、夏場も山猟や沢漁で流動的な現金収入はあるし、米や農産物以外の副食物は、自前で調達できる。都会の大卒者は、よほど奇矯な人生を覚悟しない限り、夏場会社から野生動物や川魚をぶら下げて帰宅するのは難しい。食用になる野草や山菜を一束抱えて帰宅するのも。
結局、今のこの国では何が豊かで何が貧しいのか、生きることの軽重を誰がどう計るのか――森はそんなことを漠然と考えながら、民治に続いて小屋の戸を潜った。
森《しん》は美津江の住むお堂にはまだ入った事がないが、民治の家には、子供の頃から何度も上がっている。小屋の半分を占める土間には、夏場の山道具や冬場の炭焼き道具が、整然と棚や木箱に収められており、一太郎の家と同じような竃《へっつい》も、その隅にある。
小学校の頃までは、窓もただの板をつっかい棒で支える、本当の掘建て小屋式だったが、いつのまにかガラス戸や雨戸に替わっており、父親の徳蔵の、むさくるしい外見に似合わない几帳面さが窺えた。自分のためと言うよりも、むしろ民治のためなのだろう。民治の母親が民治を産んですぐに他界してしまってから、父ひとり子ひとりの生活だ。当時田舎のこうした境遇の子供が、多く中卒で働きに出ていたにも関わらず、民治が高校まで通っているのは、徳蔵のそういった片意地に近い愛情ゆえだった。
「今、お茶入れるから、座ってて」
「おう、サンキュー」
障子戸の奥の板間は四畳半程度だろうか。畳もなく筵《むしろ》が敷いてあるだけだが、けして不潔感はないし、小さな囲炉裏もきちんと手入れされている。一太郎の家と同様、まだ囲炉裏には火が入っていなかった。
森は遠慮なく上がりこみ、囲炉裏端に胡座をかいた。
裸電球に傘が被っただけだが、ちゃんと電灯も下がっている。部屋の隅には、民治が宿題などに使う粗末な文机が置かれており、電気スタンドが乗っている。箪笥も茶箪笥も、例のラジオもある。押入れがなく畳んだ夜具が剥き出しのままなのを除けば、外観からは想像もつかない整頓ぶりだ。
窓の外の裏手には、手こぎのポンプ井戸もある。便所は一太郎の家と同じような板囲いで、風呂は豪快な露天のドラム缶転用だった。煉瓦を組んだ竈兼土台の横に、ちょっと湿った下駄などが置いてあるのは、たぶんそれを履いて入浴するのだろう。
森は民治と向かい合って、窓から風に乗って流れてくる樹木の香りと、柔らかな間接光に包まれながら、囲炉裏を挟んで黙ってお茶をすすった。ふたりとも元来無口な性格だし、どっちもやや草食動物的な佇まいの少年だから、気詰まりな雰囲気などは毛頭なかった。
「お邪魔」
美津江が障子を開けて顔を出した。
「……なんか、爺臭い。ふたりとも、年寄りみたい」
言い得て妙な発言だ。
美津江は白いブラウスに木綿の紺ズボンという、花子と同じような質素な姿だったが、その上に羽織った水色の薄手のカーディガンは、ちょっと垢抜けて見えた。
民治はたちまちぱたぱたと精神的尻尾を振りながら、座布団を勧め、お茶の追加に立ち上がった。
三
「で、あれ、いったいなんだったの？」
上座に陣取った美津江に、赤い瞳でいきなり見つめられて、森は一瞬気後れしてしまった。
異様とか、異質といった感覚ではない。たとえば山で野生の動物達、たとえば野兎と目が合った時のような、親しみも悪意もなく直で本能を覗き込まれる、そんな感覚だった。
学友たちの多くや、村の連中の多くがある意味畏敬しているその視線を、森は野兎に接する時と同じように、感情を排し、ただそこにいる者同士の視線で受けた。
「いや、君たちが見たまんまなんだけど」
森は峡谷で民治に説明したと同じ、なんの発展性もない説明を繰り返した。
美津江は民治と違って、一語一句に思慮深げなうなずきを返しながら、時折その深い視線を森に向けてきた。
「……なるほど。確かに、それじゃ、まだなんにも解らない」
森が語り終えると、美津江は落胆した様子もなく、視線を宙に向け、静かにうなずき続けた。
森はおずおずと、肝心の件を切り出した。
「――くだしょう、どうだった？」
森はどちらかと言えば理系頭だから、無論生物としての『管生』など、信じてはいない。
美津江の祖母のみや婆さんが、もったいぶって執り行う『口寄せ』なども、それが依頼主との事前の会話からあらかじめ情報収集を行った上で、理論的に推理した仏様の状況に応じ、数多い演技パターンの中から取捨選択してその場の役に成りきる、そんな儀式である事も悟っている。
しかし、美津江が中学の頃、祖母から管生を受け継いで自分で使い始めて以来、様々な失せ物探しや吉兆の占い事に、異様なほど正答を与えているのも、厳然とした事実である。どうやら管生という奴はロマンチストの雄なのか、もう女であってまだ女ではない、そんな状況の娘によりすなおに仕える物らしい――というのは冗談で、森はあくまでも、美津江の血筋が代々受け継いで来たある種の精神的な感応力が、その時期の雌に最も強く発現するのではないか、そんなふうに推測していた。
茶を運んで来た民治も、期待のまなざしで身を乗り出した。
「……まあ、うちの子、あんまり利口じゃないからねえ」
美津江はお茶をすすりながら言った。
「福島まで追っかけて、道に迷うのが恐くて、帰って来ちゃったらしいのね」
「福島？ それは、あのジープの連中か？」
「うん、そう」
美津江はうなずきながら、茶碗を下ろして後を続けた。
「あっちもこっちもって訳にはいかないから、とりあえずジープの方追っかけろって言っといたんだ。でも、その前に寄った所ってのが、これがいかにもの場所なのよね。仙台の、宮城県警の本部だって。そこの、公安課ってとこ」
森はおおむね予想通りの展開に、深々とうなずいた。
「何を話してたとか、判らないか？」
「ごめん。あの子、なんとか字は読めるけど、言葉はあたしや婆《ばば》ちゃんとしか通じないから。でも、相当偉い人達みたい。地元の人達、みんなぺこぺこしてたって言うから」
「警視庁かな。いや、やっぱり、あの服装だと……」
つぶやくように言った森に、美津江はまたお茶をすすりながら、
「そういうの、よく判んない。まあ、東京の方にまっすぐ帰ってったらしいから、そうなのかもね。どうせ国道たどれば帰って来れるんだから、行っちゃえばよかったのにって、あたしも叱《ごしゃ》いてみたんだけど、まあ、田村麻呂追っかけて白河の関ちょっと越えたのがせいぜいだって言うから、しょうがないわ」
いきなり平安時代の蝦夷討伐の主役を出されて、さすがに森も気圧《けお》された。
民治がまた入れてくれたお茶をすすり、森は気を落ち着かせながら、
「ヘリの方は、行く先、判らないか？」
「うーん、飛んでった方角だけは、見えたみたい」
美津江も民治がまた入れてくれたお茶をすすり、
「仙台飛び越して、仙台湾の方に、まっすぐ行っちゃったらしいわ。お日様の昇る海の方に飛んでったって言ってたから」
「って事は……海自――海上自衛隊か」
「そういうのも、よく判んない。ごめんね、いいかげんな話ばっかりで」
森は、とんでもない、と言うように頭《かぶり》を振った。
「いや、それだけでもありがたいよ。訳が判らんなりに、ずいぶんすっきりした」
「そう？ あたしゃ、さっぱりだけど」
「まあ、俺もさっぱりだけど……あれから、ちょっとある人に相談してみたんだ」
美津江と民治が、怪訝そうに森を見つめた。
「他言無用じゃなかった？」
「ああ。もちろんこの事なんか言っちゃいない。戦後史の課題でちょっと、とか言ってさ。でも、東北大の人だから、俺たちよりは物を知ってるから」
「そりゃそうだわ」
森は、昨夜事件の渦中にいた時から気になっていたある事を、例の助教授に確認していたのである。
「あいつらが、どこの誰であるにしろ、確かな事実が、ひとつだけあるんだ。昨日、確かにヘリコプターが、機銃――たぶん、機関砲って奴撃ってただろ。あの外車を滅茶苦茶にした奴」
美津江と民治は、揃ってうなずいた。
「戦場でもない限り、自衛隊のヘリが機関砲を発砲するのは、現場の判断だけじゃ不可能なんだよ。それには絶対に、内閣総理大臣の発砲許可が必要になる。政治的に、法律的に、絶対だ」
民治はきょとんとして首をかしげた。話があまり大きすぎて、ピンと来なかったのだろう。
美津江にとっても到底納得できる話ではなかったが、現に大破するファルコンを、その目で見ている。
「ちょ、ちょっと、それって……」
森も断言したくはなかったが、そうとしか考えられないのだから仕方がない。
「そう。昨日の夜の件は、何がどうなってるにしろ、内閣総理大臣――今のあの池畑総理も、ご存知って事。戦時下や、自衛隊のクーデターでもない限りはね。で、今朝も戦争やクーデターが始まってないならば――」
昨夜の興奮はもう治まっているので、吐き気までは感じない。
「――総理がじきじきに、発砲を許可したって事だ」
民治はぽかんとしたまま、森と美津江の難しげな顔を、交互に窺った。
やがて美津江が、握り締めていた茶碗を、膝の横の茶托に戻した。
「……やーめた」
美津江はそのまま立ち上がり、民治の背中を回って、帰ろうとした。
名残り惜しそうな民治の肩をぽんと叩き、
「ごっそさま」
障子に手を掛けて、ふと立ち止まる。
「あたしゃなーんにも見なかった。民ちゃんとお月見してただけ。見ざる言わざる聞かざる、それでいいんじゃないの。どっちみち、あたしらの手に負える話じゃないよ」
確かに、それしかないのだが――森も不承不承、うなずかざるを得ない。
「まあ、なんにしろ、惣領には黙ってたほうがいいね。あいつの頭じゃ、話が難しくなるだけだから」
その時、美津江の鼻の先で、いきなり障子戸が開いた。
「誰の頭がどうしたって？」
「うひゃあ」
美津江には珍しい、間抜けな悲鳴だった。
「また俺の悪口言ってたな。油断も隙もありゃしねえ」
大鍋を抱えた一太郎が、もう框《かまち》に上がりこんでいる。
「せっかく旨えザッパ汁、持って来てやったのに」
その後ろでまだ土間に立っていた花子が、怒っちゃ駄目よ、と言うように、一太郎の背中をぽんぽんと叩いた。
「先に美津江んちに寄ったんだけどよ」
花子と並んで囲炉裏端に落ち着いた一太郎は、すっかりお茶汲み係と化してしまった民治の茶をすすりながら言った。
「婆さんしか居なかったから、こっちに持って来た。あそこに預けたら、みんな婆さんに食われちまう」
美津江もごく当然のようにうなずいている。
「で、悪い頭にも判るように、なんの話か教えてちょうだいな」
森は花子もいるのでちょっと躊躇したが、すでにこのふたりが立派に出来かかっているのは周知の事実だから、部外者でもあるまいと判断した。
花子は昨夜の一件を、何も見ていない。話にも聞いていない。森の説明に一太郎の説明も混じり、美津江まで加わって、あっちに行ったりこっちに行ったりする事情を聞きながら、結局三十分もかかって、ようやく全員の知っている事が、太郎や花子の頭の中でも完全に一致した。
「……太郎《たろ》ちゃん、水臭い」
花子が丸い頬をさらに膨らませた。
「そんな大変な事、なんで教えてくれなかったのよ」
「そりゃお前、あいつらがそう言ったんだから。うっかり話して、花子に何かあったら大変だし」
「そーゆー事じゃなくて」
ちんまりした唇も、ずいぶん尖っている。
「……だって、峡谷通るだけでも、心配だったんだよ。ずうっと心配してたんだよ。そしたら、そんな事まで……もし何かあったら、太郎ちゃんに何かあったら、あたし……」
想像している内に、感極まってしまったらしい。花子はとうとう涙ぐみ始めた。
一太郎が慌てて周りを見渡すと、森はポーカー・フェイスで見て見ぬふりをしてくれているが、民治はにこにこと見守っており、美津江は勝手にやってろと言うような顔をしていた。
「ま！ とにかく、そーゆー事なら！」
一太郎は赤くなりながら、その場をごまかすように大声を上げた。
「そのウィリアムズさん家《ち》にも、店《うち》のザッパ汁、食わせてやんなきゃなるめえ」
他の一同は、目を丸くした。どこからそういう発想が出て来るんだろう。
唖然としている森たちの顔を、一太郎はのほほんとした顔で見渡した。
「ん？ どうした？」
森は返答に窮した。
「い、いや、別に」
一太郎は、さも当然と言うように後を続けた。
「だって、結城んとこの身内だったら、大事なお得意候補だ。顔繋いどかなきゃなんねえ。森の家だって、そうだろ？」
確かに、商家としては――森は納得してうなずいた。
「あたしも、見たいな。その娘さん」
花子が好奇心を顔いっぱいに浮かべて言った。
「だって、この村に引っ越してくる人なんて、ダムの人が代わるときだけだもん。それに、混血なんて、なんだか、かっこいい」
美津江もぽんと手を打った。
「……そうか。引越ししてきた家に挨拶するのは、当然の礼儀だわ」
「だろ？」
民治も自分の考えと同じだったので、嬉しそうにうなずいている。
森だけはその場の雰囲気に流されまいと、牽制を入れた。
「しかし、やはり口止めの件も――」
一太郎はあっさり答えた。
「だから、昨日の話だけ、知らんぷりしてりゃいいんだろ」
美津江も一太郎の後を受けた。
「そうだよ。新顔増えたら、普通、どっから来たとか、仕事は何かとか、訊かないほうがおかしい」
確かに――それは確かになんの不都合もない。
森は自分の考え過ぎな性格を、改めて自戒していた。――こいつらは、おかしなようでいて、本当に地道な生活者なのだ。当たり前に生きていないのは、むしろ自分のほうなのだ。
「そうとなったら、ちょっとザッパ汁だけじゃ、なんだなあ」
一太郎は腰を浮かせながら言った。
「残りのカブト半分、焼いて持ってってやるべ。結城の身内なら、ひょっとしたら超特級の客になるかも知んね」
「あ、あたしも行っていい？ いっしょに行く」
花子も一太郎に続いて立ち上がり、それから他の皆を振り返った。
「――みんなも、いっしょに行かない？」
異議なし、と言うように、全員がこっくりとうなずいた。
一太郎がいったん家に戻り、結局囲炉裏に火を入れて、半身のカブトを焼き上げる頃には、もう日暮れが近づいていた。
一太郎はでかくて重くて、丸くて平べったい風呂敷包みを抱えながら家を出た。
結城の離れ屋敷なら、陸王で行ったほうが当然早いのだが、みんなして押しかけるとすれば、やっぱり徒歩だ。
集落を中ほどまで登ったところで、万屋『山村屋』の店先を覗く。
二間間口で奥行き三間ほどの店の間《ま》に、洗剤やたわし等の日用品から、味噌醤油乾物といった食料品、さらに菓子類までひしめいており、中央の通路の天井からも、様々な袋物の商品がぶら下がっている。
横手の庭に粗末な別棟があるのは、夏場だけ開く氷水の店だ。ちなみにこのあたりでは、氷水を『こおりみず』とは読まない。かき氷、でもない。こおりすい、と呼んでいる。アイスクリーム用の保冷庫などもそちらの棟に置かれており、盛夏しか使っていない。
店の奥の帳台で、こけしのような坊主頭の少年が、漫画雑誌を読みながら店番をしていた。花子の弟の義春だ。今年小学六年で、一太郎の妹の由美と、同じ分校に通っている。花子に似ていてちょっと見女の子のような丸顔だが、実は案外腕っ節も強く、毎日由美の登下校の、いい話し相手になっている。
「よう」
「あ、こんちわ」
義春はやはり花子に良く似た笑顔を上げた。
「ザッパ汁、旨かった。サンキュー」
一太郎は頭上の袋物にリーゼントの油を付けてしまわないよう、背を屈めて奥に入った。
「なになに、由美のボディーガード料だ」
義春はまんざらでもない顔をした。けっこう由美に関しては、昔から『こいつは俺が守ってやらなければ』などと、保護本能に目覚めているのである。
一太郎は義春の読んでいた、月刊『少年』を覗きこんだ。
高校に入ったら漫画雑誌は卒業、そんな世間の風潮に合わせて、一太郎もなるべく学校では「漫画なんて子供の玩具」というような顔をしているが、実は義春に借りて、しょっちゅう読んでいる。
「お、『ストップ！ にいちゃん』どうなった？」
「うん、バイクで飛ばしてる」
一太郎はさすがにアトムや鉄人２８号はもう卒業しているが、関谷ひさし先生描くところの南郷勇一少年には、内心まだ憧れている。一本気なのに愛嬌もあるし、なにより都会的な洒落た家庭環境が羨ましい。
義春はすぐ背後の、ガラス障子の奥に向かって、声をかけた。
「姉ちゃん、惣領、来たよ」
ガラスの向こうの居間から、花子がぱたぱたと立って来た。
学校に行くのと同じように、セーラーの夏服を着こんでいるのは、それが正装と言うことなのだろう。
「もう焼けたんだ」
「おうよ」
一太郎は居間にいたヨシ婆さんに、軽く頭を下げた。まともに挨拶しても、耳が遠いので無駄なのだ。あらまあどうもごちそうさんだったねえ、などと言っているらしいその声も、もぐもぐして良く聞き取れない。
花子の家には両親も祖父母も健在で、子供も三人いる。母親のハナは一太郎の家のヨネといっしょに、今はまた結城の家の手伝いに行っているのだろう。父親の義一と祖父の義宗は、裏の畑に出ているらしい。もう一人の息子、花子の兄の義明は、高校卒業以来峰館のデパートの寮に住み込みで、感心に毎月仕送りしてくるが、自身は盆暮れにしか帰って来ない。
花子は『梅月堂』の手つき袋を下げていた。峰館の老舗の菓子折りが入っているらしい。
「あそこへの土産か？」
「うん。きのう兄《あん》ちゃんが送ってきてくれたの。のし梅だよ。ちょうど良かった」
花子と並んで集落の道を歩きながら、一太郎は空を見上げた。
もう山合いの夕空に、白い月が浮かんでいる。初夏の山風も、だいぶ冷えてきたようだ。
一太郎は、ちょっと、と言って、大皿の風呂敷包みを花子に預け、皮ジャンを脱いで花子の肩に掛けてやった。
「ちょっと今夜の『シャボン玉』は、観れないかもなあ」
花子は風呂敷包みを一太郎に返しながら、いつものように機嫌良く笑った。
「そうだね。でも、本物の外人さんや、混血さんが見れるんだから、そのほうが楽しみ」
確かにテレビはその気になれば、いつでも森の家で観られる。対してこの村の住人以外の人間は、年に何度も見られない。まして実物の外人など、県庁所在地の峰館でも、カソリックの教会くらいにしか棲息していない。
いわゆる人種差別・混血児差別といった問題は、昔から日本社会に都会・田舎を問わず存在していたが、このあたりには比較的その気風が希薄だった。それは前述したように、この地方自体が昔むしろ差別される側の立場だった、そんな歴史に根ざしていたのかもしれない。まあ、庄内美人や秋田美人は白系ロシアの血によるもの、そんな説もあるくらいで、実際人種などというものは、生物学的に言っても、混じるくらいでちょうどいいところがある。
やがて森の店が見えてきた。
森は店の前に停めた軽トラックの荷台に、父親の孝司といっしょになって、景気良くテレビの箱を運び上げていた。型取りされた発砲スチロールなど、まだ普及していない時代のこと、がっしりと木枠で補強された段ボール箱である。印刷されている写真を見ると、中身は森の家で使っているようなあっさりした四足ではなく、重厚な家具調の高級品らしい。
「なんでえ、配達に行くのか」
一太郎はあからさまに顔をしかめた。
離れ屋敷に亮三さんがいっしょに居ればいいが、もしあの二人だけだったら、森がいなければ話が通じないだろう。いきなりカブト焼きを突き出して、その意味や値打ちが解ってもらえるだろうか。
「心配するな」
森は彼には珍しく、にやりと笑ってみせた。
「結城の家の注文だ。離れ屋敷に据えつける。本当はカラーの注文だったんだが、そんな代物、うちじゃ来月にならないと入らないからな。届くまで、これで我慢してもらう」
「……カラーテレビ？」
「カラーテレビ……」
一太郎と花子が、呆然と輪唱した。
そんな素晴らしい物がすでにこの世に存在していることは、一応知っている。しかしそれはたぶん、大富豪の邸宅や華族皇族様のお屋敷にしか存在しない物であって、結城の本家ですら、まだ買っていない。――さすが、外人さん。
風呂敷包みをかかえた花子が助手席に収まり、一太郎と森は荷台に残った。くくり付けられたテレビの箱の、緩衝係である。
孝司に頼んで、途中、民治や美津江と合流する。
ふたりとも喜んで荷台に乗りこんだ。
山道を厭うというより、車に乗ることそのものが、嬉しかったのだろう。
民治は昼と同じ山着のままだが、美津江はまた巫女衣装に着替え、紫の袱紗包みまで抱えていた。
「ほら、あそこ、窪地だから」
美津江は管生の住まいと称する竹筒を、愛しげに撫でてみせた。
「十年もほったらかしだったら、きっと性質《たち》の悪いのが、何匹か何人か、棲みついてる」
どうやらお祓いを引越し祝いにするつもりらしい。
一方民治のほうは、一抱えほどの丸い風呂敷包みを抱えていた。
その包みから漂ってくる僅かな香りを、一太郎の野生の鼻が嗅ぎつけた。
「……舞茸」
民治がこくりとうなずいた。
「あれから本家に行ったら、父ちゃんから届けろって、ことづけがあって」
「……どこで採れた？」
物欲しそうな一太郎の問いに、民治は頭を下げながら首を振った。
人工栽培が不可能な時代、いや、栽培物が出回るようになってからも、そんな見事な天然の舞茸は、充分大人の月給に相当する価値がある。もともと見つけた者が舞い上がって喜ぶから、そんな名前がついたという説もあるほど美味で、当時は身内にすらその穴場を教えないと言われるほど貴重な茸だった。
本格的に山道を走り出すと、さすがに荷台の上は攪拌状態になる。
袱紗包みを突っこんだ美津江の胸元が、振動でちらちらと覗くので、一太郎は花子が助手席なのを良いことに、思わず横目を使ったりした。しかし残念ながら、美津江の白い胸には、しっかり晒《さらし》が巻いてあった。
美津江は箱の木枠につかまりながら、がたがたと揺れる声で言った。
「しかしまあ、やっぱり外人さんってのは、みんな金持ちなのかねえ」
一太郎はさっき森に聞いた話を、自分のことでもないのに、さも自慢げに披露してみせた。
「……カラーテレビ？」
「カラーテレビ……」
美津江と民治が、やっぱり呆然と輪唱した。
森は他の三人といっしょに木枠を支えながら、様々な思惑を抱いていた。
今夜の訪問だけで見当がつくような、生やさしい背景事情とも思えない。しかし今回の注文のおかげで、これからも離れ屋敷を訪れる大義名分ができた。いずれカラーテレビを設置するには、それ向きの屋外アンテナの設置や、屋内配線も必要になる。今夜は取りあえず様子見だけで、その後の策は改めて講じてもいい。
そんなことが果たして自分の考えるべきことなのか、という根本的な疑問もあるのだが、森は村のためという理由を思考の表看板にして、自分を納得させていた。正直なところ、事情がどうであれ、早急にあの少女に関わる根源的な情報が欲しい、そんな欲望のほうが勝っていたのかもしれない。しかし森はそうした己の情緒的好奇心を、他の四人のようにすんなり認められる性格ではなかった。
まあ、さし当たって今夜の問題は――。
森はいかにも心配性の彼らしく、みんなが持参したそれぞれの貢物について、さっきから憂慮していた。
鮪の頭と、梅月堂ののし梅と、管生まじないと舞茸――それは確かにこの土地では、かなり貴重な物ばかりだ。が、さて英語でそれらを解説するとなると、ちょっと問題だ。仮にうまく解説できたとして、そもそもそれらは外人にとって、喜ばしい代物だろうか。
まあ、老人のほうは良さそうな人物だったから、誠意だけは受け取ってくれると思うのだが――果たして高貴なるタカネキマダラセセリは、お気に召してくれるだろうか。
四
小百合は山荘の二階のバルコニーに、ひとり佇んでいた。
階下のリビングルームでは、グランパと亮三さんが、今後のこの村での生活について、まだ相談を続けているはずだ。
麗子さんは寝室の調度の配置などを手伝ってくれた後、今は台所を整えてくれている。
徳蔵さんが裏庭でせっせと薪を割る音が、黄昏の空に谺している。
体の弱い小百合は、そんな引越しの騒ぎに少し疲れてしまって、遠慮がちに詫びを言い、外の空気を吸いに出たのである。
結城の本家に着くまでは、その周囲の手付かずの田舎ぶりから、てっきり山小屋のような粗末な隠れ家に住むのだとばかり思っていた。
昔母方のグランパに、生まれ故郷の家は近在で最も広壮な屋敷だと聞いたことがあったが、生まれたときからアメリカのワイオミング育ちだった小百合には、日本の家屋というものは、いかに広壮にしろ紙と木だけでできた吹けば飛ぶような建物、そんな認識があった。
ところが本家の建物は、二階建てで高さこそないものの、その重厚な門構えから母屋までの日本庭園の広さといい、母屋だけでもどこまで続いているのか判らないほどの座敷の連続といい、東洋の神秘的な宮殿に迷いこんだようで、小百合はすっかり圧倒されてしまった。
表座敷から漏れてくる通夜の騒ぎを迂回して、亮三はふたりを奥の離れ座敷に案内した。
亡くなった方は母方のグランパの兄君だと言うから、小百合はできればお参りしたかったのだが、通夜があまりに混雑していたため、本葬まで遠慮ということになった。
しばらくしてその家の家族が、揃って離れ座敷に現れた。亮三の両親、ふたりの兄、そしてひとりの妹。
初対面のせいか、ほとんどの人が物静かに微笑むばかりで、歓迎されているのか迷惑がられているのか、彼らの言葉や表情からは、まったく読めなかった。妹さんだけが、驚愕と警戒、そんな感情的な色を切れ長の目に湛えており、小百合にはかえってありがたく思えた。
亮三も通夜のほうに出向いてしまい、そのまま祖父とふたりだけで座敷に残される。やがて女中が、食事や蒲団の世話に訪れる。その女中も、微笑こそ湛えているものの、終始怯えたようにこわばっていた。
食事が終ると、もう夜半を過ぎていた。
日本に着いて最初に隠れ住んだ箱根の強羅の山荘は、ワイオミングでも見かけるようなホテルの造りだったし、それからあの厭らしい研究施設――都内の大学病院も、寝室は洋風のベッドだった。だから、本家で過ごしたその晩は、到底安眠できるはずもなかった。
畳敷きのがらんとした奥座敷は、電球の光が部屋の端まで届かないほど広かった。部屋と部屋を分けているのは、フスマとかいう紙の引き戸だけだ。畳に直接敷いて寝る、湿った香りの日本の蒲団。蒲団自体は柔らかくて暖かかったが、廊下の向こうの雨戸は、一晩中山風が吹きつけて、みしみしと軋んでいた。
細い木の格子に薄い紙一枚張っただけの、フスマよりも頼りないショウジという引き戸が、果たして部屋と廊下を隔てるのに、どれほど意味があるというのだろう。いくら隣にグランパが寝てくれていても、小百合は結局明け方にうつらうつらできただけで、あとはずっと心細さに蒲団の中で身を縮めていたのである。
そんな一夜が明けて、本家からさらに一マイルほど奥のこの山荘に案内されたとき、小百合は心底ほっと胸を撫でおろした。
バルコニーから眺める草原は、少し先で緩やかな坂となり、そのまま小高い丘に続いている。距離感が希薄なのを除けば、故郷でも山合の村などでよく見かける地形にそっくりだ。そしてその彼方で暮れなずむ山脈《やまなみ》も、ロッキーのグランドティートンの、比較的なだらかなあたりによく似ている。このあたりにも温泉が多いそうだから、それで似ているのかも知れない。家の背後はちょっとした裏庭があるだけで、すぐに雑木の生い茂る険しい山に続いているが、かえって背中を護られているような安心感がある。そして強羅の山荘同様、ここ結城の離れ屋敷は、居心地のいい洋館仕立てだ。
このままここにずっと隠れ住んでいられたら――。
ロック・スプリングスの空港から、内閣調査室の中村さんに連れられて、父方のグランパといっしょに逃げるように飛び立って、もう半年以上になる。
逃げなければならない理由は、もう判っている。あのときから、いつかはそうなる予感がしていた。でも、いつまで逃げ続けなければならないのか、それは誰にも――誰の心を読んでも判らない。
そしてこの村の人たちが、みんな昨夜のふたりの少年のような人たちだったら――。
普段の小百合は、努めて心の扉を堅く閉じている。
たとえ中村さんや亮三さんのような、強くて優しい人たちでも、その心の深奥に何を秘めているのか、あえて知ろうとは思わない。あの頃から味わい尽くしてきたような、悲しい諦念をまた重ねたくはない。
しかし昨夜あの峡谷で、小百合は顔にこそ出さなかったものの、すっかり動転してしまっており、うっかり扉を開け放してしまったのである。
同乗していた全ての人たちが、自分という存在のために、いっしょに死んでしまうかもしれない――そんな思いに苦しみながら冷静を保てるほど、小百合は強くない。冷静を保つ代わりに、車中では心を岩戸のように堅く閉じ続けていた。やがて停まった車の外からグランパに呼ばれ、いっきにその緊張が解けたとき――小百合はほとんど無防備に、心をほどいてしまった。
ふたりの少年が、真っ向から小百合を見つめていた。
少年のひとりは、故郷の街場でも見かけるような、ちょっと不良がかったスタイルだった。
しかしその心の中は、まるで昔家で飼っていたサニーのように、一直線に底まで通っていた。
サニーはシェパードの血の濃い雑種で、小百合が生まれる前から、グランパの飼い犬だった。そして小百合がジュニア・ハイの頃、老衰で天に召されてしまうまで、ずっと心の友だった。
動物は正直で嘘をつかない――そんなのは、まったくの誤りだ。動物だって周りの事情次第で、時々嘘をつく。だがその嘘は、一直線の嘘なのだ。時には正直よりも安心できる嘘だ。
この人は嘘をつくときも、きっとサニーのような顔をするに違いない――そう小百合は思った。少年が小百合に対して抱いた第一印象も、なんの屈託もなく納得できた。美津江という人は、なぜこの国の人なのに、そんなに色白なのだろう。自分は確かに、細くて弱い。今日子よりも痩せている。花子という人は、確かにはちきれそうに健康そうだ――。
もうひとりの少年は、知的でおとなしそうな外見同様、まったく形の違う心を持っていた。
小百合があれだけ無防備でいても、奥がすんなりと見えない。なにか思考の迷宮のようなものが、しっかりと心を護っている。その迷宮は氷窟のように歪みながらも、深い水色に澄んでいて、その向こうには、僅かに不思議な蝶の姿が見えた。
それは瞬時のことだったから、意識的に続けて読めば、もっと見えたのかもしれない。
しかし蝶の背後にある極めて強い感情が、それ以上見通すことを、無意識の内に小百合に躊躇させた。敵意ではない。むしろその逆のベクトルのようだが、あまりに鮮烈過ぎて、小百合の心が外側から自然に閉じてしまうような感覚だった。だから小百合自身、少年の奥の、蝶の姿の背後にあるものに、まったく気づけなかった。
いずれにせよ、あの少年たちはふたりとも、傍にいても小百合がただの小百合でいられる形の心を、持ち合わせているらしい。
この土地の人たちが、みんなあんな心の形をしていてくれたら――しかし、それは叶わない夢だろう。そんな土地は、今までどこにもなかったのだから。
小百合はバルコニーの手すりにもたれながら、小さく溜め息をついた。
塗り直されたばかりの白い塗料が、すべすべと腕に心地良い。
そのとき背後に、人の気配が立った。
「小百合さん、お先に失礼しますね」
ちょっと甲高い、物怖じしない声の主は、亮三の妹、結城麗子である。
「兄はまだそちらのお祖父様とお話があるんですって。私、まだ学校の宿題が残っているものですから」
日本人形を少し縦に伸ばしたような、品のいい顔立ちだ。語尾まで明瞭な言葉遣いが、他の人の日本語とはちょっと違って、古い日本語しか知らない小百合の耳には、かえって聞き取りやすい。
「それでは、ごめんあそばせ」
おしとやかに頭を下げる姿も、亮三の立ち居ふるまい同様、いかにも育ちの良さを感じさせる。
「いろいろありがとうございました。お気をつけてお帰りくださいませね」
小百合も古風な日本語で礼を言った。
母親の縁戚がほとんど戦前の日系移民なので、一見外人顔の小百合も、当節の日本の若者などより、よほど濁りのない日本語を話す。むしろ大時代的に過ぎる、と言ってもよい。
そうした違和感が、今日の室内の片付けの間ずっといっしょだったにもかかわらず、麗子にはまだ楽しく嬉しいことらしい。
「徳蔵さんが送ってくださいますから、心配ありませんわ」
麗子は邪気のない頬笑みを返して、しずしずと二階の廊下に戻って行った。
小百合はその後ろ姿を見送りながら、ほんの少し、麗子の中を覗いてみようとした。
昨夜本家で初めて会ったときは、あからさまな警戒心が外側まで漂っていて、到底それ以上覗く気になれなかったのだが、今はもう外面上はすっかり打ち解けている。ただのご近所様でもなく、男の人でもなく、なんと言っても曽祖父はいっしょの親類だし、同い年の女の子だ。心のほんの入り口くらいは、知っておいたほうがいいだろう。たとえ万が一、悲しい思いをするにしても。
麗子は小百合の視線に気がついたのか、ふと振り向いて、なぜだか少し顔を赤らめながら、また丁寧にお辞儀してみせた。
小百合はあわてて、お辞儀を返した。
その頬も、少なからず赤く染まっていた。
なぜなら麗子の頭の中にいる自分が、『ローマの休日』に登場する、髪を切る前のアン王女そっくりだったからである。
――たしかにオードリーも痩せているけれど、私みたいに目が大きすぎはしないし、似ているのは肌の色だけじゃないのかしら。
それでも娘心に、やはり嬉しかった。
結城の本家に曲がるＴ字路をそのままやり過ごすと、山道はさらに道幅が狭くなり、軽トラの横腹がときおり藪をこすった。
荷台の一太郎たちは、おう、やら、ひゃあ、やら、間断なく叫び続け、美津江までが、どすこい、などとドスの効いた声を上げたりしている。
助手席の花子はちょっと申し訳なく思いながら、膝の大皿の包みを護り続けた。
「カラーテレビって、いくらくらいなんですか？」
一太郎の家族などとは、昔から自分の家族同様の口をきいているのに、森の親たちと話すときには、なぜか今でも敬語になってしまう。気心は知れていても、なんとなくそんな感じ、なのである。
孝司はふだんあまり見せない柔和な微笑を浮かべて、
「初めて出た頃は小さいのでも四十万だったが、今は二十万くらいのが多いね。今度頼まれたのは、大きいからやっぱり四十万くらいだ」
いつもなら顧客の買い物内容を、他の人間に教えるなどという失礼な真似は絶対にしないのだが、今日はつい口を滑らせてしまった。我が子ながら内向的で人好きのしない――自分だって客の前以外ではそうなのだが――森に比べ、その友人たちの賑やかな個性が嬉しくもあったし、なによりその価格自体の非現実的な桁に、孝司自身が驚嘆していたためでもある。その価格は現在の岸沢電気商会の、下半期経常利益に相当する。つまり、孝司自身もこう思っていたのである。さすが、外人さん。
花子は、ほわあ、というように嘆息して、それきり黙りこんでしまった。
店と農家兼業の自分の家は、ほとんど丼勘定なので正確な収入など判らない。兄のデパートの月給が、寮費や社員食堂の食費などを引かれると、手取りで六千円くらいだと聞いている。それでも峰館の製麺所や町工場に住み込んだ従兄たちに比べれば、倍に近い高給だという話だ。我が家でカラーテレビを買うのは、永遠に無理だろう――。
そのうち自分の子供の部屋にまで、専用のカラーテレビが無造作に転がっている時代が来ようとは、今のところ想像もできない。
数分ほどそのまま山を登ると、道はしだいになだらかになり、やがてこのあたりでは珍しい、高原状の地形になる。十数年後には結城家の多角経営化で、ペンションなどの立ち並ぶリゾートと化すほどの立地だが、今のところただの私有林の一部であり、山荘がひとつ建っているだけだ。それも戦前に林業の景気に任せて、洋館風の別宅を設えたものの、結局洋館仕立てが一族の肌に合わなかったらしく、このところは放置されたままだった。それでも麗子の気が向くと、取り巻き連中を夏場に招待して自慢したりもしていたので、住まいとしての機能はなんとか保っていた。
軽トラは丘を下り、徳蔵が手入れしたらしい前庭をつっきり、ポーチに横付けされた。
その気配を察して姿を見せた亮三は、岸沢商会の親父さんの背後でしゃっちょこばっている一太郎たちの姿に、目を丸くした。
「例の代替品をお持ちしました。ご注文品は、やっぱり来月頭になりそうで」
孝司はそう説明したあと、苦笑しながら背後の連中を顎で示した。
「それから、この子たちが、どうしても引越しの挨拶をしたいって言うもんで」
亮三は意味ありげに森と一太郎に目配せして、それから破顔した。
「なるほど、逆挨拶回りですか。いや、これはちょうどいいかも知れない」
孝司は歓迎の言葉に安堵して、荷台の荷物を下ろしにかかった。
一太郎や花子や民次もそれに従ったが、森は荷台に向かう前に、亮三に耳打ちした。
「民治と美津江も、昨日の件、見てたんです」
亮三には話しておいたほうがいい、そう判断したのである。
隣に残っていた美津江も、いっしょにうなずいた。
亮三は一瞬考えこむそぶりを見せた。
「……そうか。谷近くの人は、他にも気付いてるかな」
「いいえ、あたしたちだけだと思います」
美津江が断言した。そのあたりの確認を怠るほど、鈍い性格ではない。
亮三は表情を緩めて、ふたりの肩に手を置いた。
「それじゃ、その件はウィリアムズさんたちには、内緒にしておこう。余分な気遣いをさせたくないからね」
森はうなずいて、軽トラの荷台に向かった。
美津江はさすがに服装上、荷下ろしの手伝いまではできない。たすきが必要になってしまう。
亮三はその場に残った美津江の正式な巫女装束に、笑顔を向けた。
「なるほど、ご挨拶は正装で、というわけか」
美津江は生真面目な顔のまま、少し頬を染めた。
「……お祓い、したほうがいいかな、なんて思って」
亮三が東京やアメリカで精神医学関係の研究に携わっていることは、美津江も知っている。そんな人たちから見れば、祖母や自分の生業が、野蛮な迷信と一笑されて仕方がないことも、客観的に理解している。
「なるほど、ここの地形だと、ちょっと心配かも知れないね」
亮三はうなずきながら、あたりを見渡した。
それから美津江の意外そうな視線を察して、
「ははは、大丈夫。たとえば、ウィリアムズさんたちはプロテスタント系だが――プロテスタント、解るかな。このあたりは市内にカソリック教会があるだけだから」
「キリスト様の、新教のほう、ですよね」
美津江は祖母などと違い、商売敵の勉強もしている。
「そう。あれにだって、様々な儀式がある。言ってみれば、おまじないのようなものだ。まあ、恐れるのは悪霊というより悪魔だが、アメリカという国も広いからね。たとえばウィリアムズさんたちは、ワイオミングの生まれだ。インディアンの居留地も近い。インディアンたちも、自然信仰――精霊信仰なんだよ。トーテム・ポールって、知ってるよね」
「はい。西部劇に出てくる、あの変な顔がいっぱい彫ってある、柱みたいな」
「そう。あれのてっぺんに彫ってあるのは、その一族の出自を表す動物だ。たとえば僕のアメリカでの同僚は、先祖の大元が、熊が旦那様で人間の女性が奥さん、そういうことになっている。インディアンたちの伝説だと、たいがい人と獣は不可分の存在だ」
美津江は、へえ、と感心した。
「まあ、それはあくまで信仰上の象徴だとしても、たとえば西洋にだって、狼男もいれば吸血鬼もいるわけだ。そしてそれぞれに、実に緻密な対処法が言い伝えられている。民間伝承を越えて、法令にまで組み込まれている地方もある。どこの国に行っても、栗田家――君の家のような仕事は、不可欠の仕事なのさ」
いわゆる科学者でも、民俗の多くを頭から迷信と軽んじるタイプではないらしい――美津江はちょっと安心していた。しかし、たぶん亮三の意識はあくまでも精神的な信仰に対する許容であって、自分が今抱いている袱紗包みの、竹筒の中でちょろちょろ出番を待っているくだしょうを、本気で信じてくれているわけではない。
そんな美津江の心を察したように、亮三は続けた。
「確かに僕にはくだしょうも精霊も見えはしない。残念だけどね。でも、神や仏、天使、そして悪魔や悪霊、そんなものは、ちゃんと人間のこの中に住んでいる」
亮三は案外真顔で、自分の頭を指差した。
「そして――君だから言ってしまうが、それらは人の頭から外に出てしまうことも、実際に、あるのかもしれない」
ただの例え話なのか、それとも本気なのか――美津江は怪訝そうに亮三を見つめた。
亮三はどちらともつかない微笑を浮かべながら、後を続けた。
「まあ、でも、とりあえずこの家は心配ないんじゃないかな。君は知らないかもしれないが、昔、君のお婆さんが一度お祓いをしてくれている。十年くらい前だったかな。鬼門や屋根裏に、お札もちゃんと残っていたよ」
美津江は内心、舌打ちした。出掛けにきちんと行先と用事を告げたとき、祖母はそんな話を全然してくれなかったのである。――やっぱり近頃、呆けてんのかなあ。そう言えば、近頃おんなじ愚痴ばかり、なんべんもこぼしてるし。
「あの頃、みや婆さんの押しかけお祓いは、結構有名だったからね。きっと君の赤いランドセルや、ノートに化けたのさ」
亮三は思い出し笑いを漏らした。
美津江は黙りこんで、その頃の祖母を思い浮かべた。当時、民治や一太郎や花子のランドセルは、安手のビニールですぐにぼろぼろになってしまったのに、自分のランドセルは、森のと同じくらい長持ちしたのだ。
「すみません、お待たせしました」
孝司たちが四方からテレビの箱を抱えて、ポーチに戻って来た。
よく考えれば員数外のはずの花子も、しっかり一太郎の背中から手を回して、形ばかり箱に手を添えている。
これはちょっと邪魔になっているだけなのではないか――亮三も美津江もそう思ったが、口には出さなかった。昔から、この娘はこうなのだ。
亮三に案内されて山荘の中に向かう一行の後を、美津江はそのまま追おうとしたが、ふと気がついて軽トラに駆け戻った。
これくらいしなければ、自分の役目はなくなってしまったような気がする。
「どすこい！」
美津江はでかくて重くて丸くて平べったい風呂敷包みやら、その他の貢物をいっしょに抱えて、亮三たちの後を追った。
山荘に入ると、そこだけで一太郎の家ならすっぽり収まってしまいそうな、絨毯敷きのホールが広がっていた。
「居間のほうにお願いできますか」
亮三は正面の階段横の、右手の廊下を示した。
ホールを突っ切って大箱を運びながら、一太郎や民治は、しきりに自分たちの汚れたズック靴を気にしていた。どうしても自分の家の土間とアラベスク織りの絨毯を、同じ感覚で見られないのである。
「大丈夫だよ。ここでは寝室以外、どこでも靴は脱がない」
亮三にそう説明されても、一太郎はまだ不安そうに、森に耳打ちした。
「外人さんって、土足で気持ち悪くねえのかなあ」
「裸足のほうが野蛮、って考え方もあるんじゃないか」
「……なるほどなあ」
一太郎や森や民治は、実は数年前、空家の頃にこっそりここに探険に来たことがある。
その時はすっかり夜中だったし、明かりも森の家から持ち出した懐中電灯ひとつだったので、邸内は荒れ果てたバーチャル幽霊屋敷の様相だったが、今は天井の電飾までしっかり磨かれ、バーチャル西洋旅行の趣だった。
洋画のお屋敷のような正面の階段の踊場も、あの晩は窓ガラスに月明かりと木々の枝を映して、階上まで探険しようとする一太郎たちを、結局追い返すほどに不気味だった。しかし今はステンド・グラスに夕日の残照を残して、異国情緒たっぷりに、二階の回廊へと人の気を惹いているようだ。
その踊場に、ふと人影がさした。
背後の窓の光に隠れて、顔は判らない。
ただ亜麻色の巻き毛の輪郭が、淡い蜜柑色に透き通っていた。
Ｃａｒｔｅｒｏｃｅｐｈａｌｕｓ ｐａｌａｅｍｏｎ――森の胸の鼓動が波打った。――違う。蝶ではない。この少女は自分たちと同じ人間だ。しかし、自分は今まで人間から、こんな感情を呼び起こされたことは一度もない。これはいったい、なんなのだ。この少女は――いや、今の俺はいったいなんなのだ。
「おや、ちょうど良かったかな、小百合ちゃん」
亮三は意外に思いながら、踊場に声をかけた。小百合はこうした場に自分から姿を見せる性格では、なかったように思う。ふたりの少年は昨夜あの場で会っているから、二階から見かけてお礼に降りてきたのかも知れない。いずれにせよ、少しでも積極性が戻ってきているのなら、それは喜ばしいことだ。
「初めてのお客様、ってとこかな。電気屋さんと、この村の子供たちだよ」
孝司の目を慮って、余分な牽制も入れる。
慎ましやかに会釈する小百合に、他の一同もいったん箱を置いて、釣られたように頭を下げた。
やっぱしどこか具合が悪いんでは、などと思っている一太郎の背中で、花子がつぶやいた。
――ほわあ、タミーちゃんみたい。
『タミーちゃん』は、近頃一太郎の家に行くと、由美が根性を入れてかわいがっている、アメリカ生まれの少女人形である。二年ほど前から少女雑誌の裏表紙などで大々的に宣伝され、バービーよりも幼顔なのが日本の子供たちに受けて、クリスマスやお年玉商戦などの定番になっていた。ちょっと余裕のある家では、幼い少女たちが様々な衣装を日がなとっかえひっかえして、しゃかりきに母性本能と洋風な生活への憧れを発露させていたのである。
あまり余裕のない家では、着たきり雀のタミーちゃんの髪を漉いてやりながら、次のクリスマスこそお父ちゃんを落としてドレス着せてやろう、などと野望に燃えていただろうし、まったく余裕のない家では、娘がタミーちゃんのいっしょにいる生活を夢想しながら、きっと私はもらわれっ子なんだ、いつかお金持ちの本物のお父ちゃんやお母ちゃんが出現して、タミーちゃんと毎日着せ替えしてもしきれないくらいの着替えセットを全部、買ってくれたりするんだ、などと思っているある日、両親が娘の毎日毎日の執拗な懇願に負けて、というよりお隣の斎藤さん家まで近頃娘にタミーちゃん抱かせているのに発奮して、なけなしの貯金をちょっと崩し、娘の養子願望を緩和させたりもしていただろうし、あるいはトラウマを抱いたまま、成人後ひたすら玉の輿を目指した幼女などもいたかもしれない。
一太郎の家では、一太郎がいかに嘆願しても野球のボールひとつ買ってもらえなかったのに比べ、由美はしっかりタミーちゃんと衣装数種を所持している。これは明白な性差別である、などと当時憤りかけた一太郎も、去年自分で稼げるようになったら母の日やら父の日などは綺麗さっぱりシカトして、そのくせ由美にタミーちゃんのシンデレラセットを買って帰ったりするのだから、今さら文句は言えない。ちなみに国産のスカーレットちゃんや、現在も連綿と続くリカちゃんの家系などは、まだ誕生していない。
民治もその少女から、タミーちゃんの広告写真を連想していたが、それはむしろ外人顔の少女という存在から連想できるものが、身近にはそれしかなかったからだろう。初めて見る外人さんの肌の色は、確かに美津江に似ている。顔形は似ていない。美津江のほうがやっぱり美しいようだ。
そして美津江は――最前までの様々な好奇心とはうらはらに、なにか奇妙な同胞感を抱いていた。それは単純に、自分と同じ肌の色だから、という部分もあるのだろう。しかしそれとは別に、稀に合う同じ血筋の人々や家の祖母と、似て非なる、いや、非にしてかつ似た微妙な感覚があった。
当惑している美津江の視線を、小百合もまた少し怪訝そうな視線で受けた。
しかしすぐにその表情は消え、つつましい微笑が浮かんだ。
「……しばらくこちらのご厄介になります。よろしくお願いいたしますね」
濁りのない言葉が、穏やかに響いた。
ほう、と言うような嘆息が、階下で重なった。
亮三以外はその場の誰もが、森まで含めて、英語で『今晩は』はグッドなんだったか、などと迷っていたのである。
「お母さんまでは、みんな日系の人なんだ。僕よりも日本語はうまい」
語尾に弱冠訛りの気配が残っている亮三よりも、確かに上だった。テレビやラジオで聞く日本語よりも、ずっととげとげしさがなく、耳に心地良いのである。
静々とホールに降り立った小百合に、花子が好奇心に耐えかねて歩み寄った。
しゃっちょこばって握手など交わした後、へへへ、などと照れ笑いを浮かべ、精一杯の標準語もどきで、いっきにあれこれ話しかけ始める。
「こちらこそ始めましてですわあ。どちらからいらっしゃったの？ あなたはほんとうにお人形みたいですわあ。きゃー、めんごいめんごい。おいくつでいらっしゃいますの？ いつまでいらっしゃいますの？」
当初はぽかんとしていた小百合も、やがておかしそうに相槌を打ち始めた。
一太郎はなんだか恥ずかしそうな呆れ顔をしている。
森はそんな情景に、昨夜一太郎がいきなり外車に突進を始めたときと、ほとんど同じ感慨を抱いていた。直進似たもの夫婦。まだ夫婦ではないが、どうせそのうちくっつくのだろう。
ホールの騒ぎを聞きつけたらしく、ウィリアムズ老人も居間から顔を出した。背後には麗子や徳蔵も続いている。
麗子は意外な同級生たちの顔ぶれに、驚愕とあからさまな不快の色を浮かべた。しかし淑女としての立場を思い出し、あわててすまし顔を作った。
老人は喜びの声を上げて一太郎や森に歩み寄ったが、亮三の目配せや周囲の存在に気が付くと、亮三の通訳にその場を任せて、思わせぶりながらも、なんとか初対面の調子に合わせた。
麗子が学校とは別人のように、おしとやかに小首をかしげた。
「あらあら、皆さん、おそろいで、いらっしゃいませ。ずいぶんお賑かですこと」
今夜はまたお嬢様ぶりっこに気合いが入ってるなあ――一太郎たちは思わず後ずさった。
「あたくし、宿題がまだ残っておりますので、お先に失礼させていただきますわ。では、ご機嫌よろしゅう」
一太郎たちは、さらに腰を引いた。この演技は、ただ事ではない。
はっきり聞こえなかったらしい花子と、通常モードの麗子をまだ知らない小百合だけが、やっほー麗子ちゃんお晩方だねと手を振ったり、上品に会釈を返したりしている。
麗子は一太郎の横を通り過ぎながら、小声で耳打ちした。
「ちょいと惣領、あんまり馴れ馴れしくしないでよね。あんたらとはモノが違うんだからね。それから冷蔵庫のパイは小百合さんやお爺様のために焼いたんだからね。勧められても食べるんじゃないよ」
「お、おう」
それから森にも耳打ちした。
「ねえちょっと、数�僑造量筍魁�解けた？」
「あ、あれはヤマブクロの設問ミスだろ。解は出せない。それで正解だ」
「なんだ、そっか。だと思った」
それから美津江とも目が合ったが、ふっと目を逸らした。この村でも学校でも、立場上自分の勢力圏内に収まらない孤高の存在なので、昔から苦手なのである。
その隣でにこにこ無意味に笑っている民治は、半使用人の息子だから員数外。まあ、山の狸の子みたいに素直でかわいいから、イジメはしないけど。
「――それでは、失礼いたします。徳蔵さん、よろしくお願いしますね」
んじゃ、お嬢さん送って、先に帰ってっから――そう民治に告げた徳蔵を従え、お嬢様モードで出てゆく麗子を、一太郎たちはほっとして見送った。良かった。中身はいつもの麗子だ。
傍らで亮三も苦笑していた。
森は父親といっしょに居間にテレビをセットしながら、背後の談笑に耳を傾けていた。
残念ながら、小百合の声はほとんど混じらない。日本語が話せると言っても、元来大人しい性格らしく、訊かれたことだけ最小限に答える程度だ。それでも昨夜会ったときなどより、ずいぶん打ち解けている気配だった。
一太郎や民治は、座りつけないソファーに収まっているからか、まだ緊張しているらしく言葉が少ない。もっとも民治はくつろげばくつろぐほどしゃべらない性質だから、実はくつろいでいるのかもしれない。一太郎はくつろげば雄弁だが、あまり意味のある会話や、意識的に会話を情報収集に向けるといった話術は、からきし不得手だ。美津江や花子がいてくれて、本当に良かった。
美津江は茶飲み話の要領で、小百合の煎れてくれた紅茶を美味そうにすすりながら、巧みに当り障りのない範囲で、ウィリアムズ家の身の上話など、会話に引き出してくれている。みや婆さんのイタコ技術を、伝授されているのだろう。巫女装束の由来や袱紗包みの意味まで、亮三の通訳に助けられ、神秘的な日本の習俗として、老人の興味を引いたりもしている。
一方花子の方は、そうした情報には相槌を打つだけだが、小百合個人の趣味や好みや性格にとことん入れ込んで、無敵のミーハー攻撃を仕掛けている。そうしたずうずうしさをのほほんと愛嬌にしてしまえるのは、なんと言ってもちんまりと柔らかい花子の強みだ。
昨夜他界した結城家の前当主――麗子や亮三の祖父――その弟が、小百合の母方の祖父なのだ。その人が、鬼っ子だったらしく一族とのそりが合わず、明治の内にアメリカに出奔した。そちらの日本人移民社会ともそりは合わなかったらしいが、自力で色々奮闘して財を成し、しかしやはり日本が恋しかったのか嫁も日系移民で、現地の血脈と融合したのは、小百合の母親・百合が最初らしい。その配偶者が、精神科医・トマス・ウィリアムズ――今ここにいるでかい老人ロバート・ウィリアムズ氏の長男。しかし、行く末は大農場の経営者として家を継ぐ予定だったトマス氏と百合夫婦は、大戦後交通事故で、若くして死去したらしい。同じ事故でロバート氏の妻、つまり小百合の祖母も他界している。それ以降の経緯は――まだ語られていない。それはそうだろう。それが昨夜の『非現実』に直結しているのだから。
結局ほとんど祖父によって育てられた小百合は、最愛の家族の忘れ形見として、愛情には十二分に恵まれて育ったようだ。それは老人がしばしば孫娘を見つめる視線に、ときに恥ずかしいほど顕われている。幼い頃から虚弱で病に臥しやすかったぶん、慈しみの情も深いのだろう。体質的に外で活動するのが苦手なためか、小百合の趣味も読書や手芸や水彩画といった、穏やかなものに限られるらしい。サニーという犬の名前が何度か出たが、よほど動物好きなのか――。
森は耳と手をほとんど分離して、背後の会話を記憶し続けた。
木枠の箱を解体して本体を引き出し、室内アンテナを接続してチューニングの微調整をするだけだから、作業はすぐに終わる。
チューニングの間中、若い闖入者たちは会話を中断し、その重厚な木目調の本体に映える十九インチの大型ブラウン管を、固唾を飲んで見守っていた。
都会ではほぼ全家庭に行き渡った白黒テレビだが、大半十四インチ以下だし、それとてこの村では普及率三十パーセントに満たない。森の家でも自家用は十四インチだ。シャボン玉シャボン玉、としきりにつぶやく客たちに、老人や小百合は首をかしげ、亮三は笑いをこらえている。
やがて画面に牛の着ぐるみが映し出され、もー、という間の抜けた鳴き声と、はらほろひれはれとずっこける人気者たちの声が響いた。
ほぼ条件反射的に、一太郎たちは笑い出した。美津江まで、間に合った間に合った、などと手を叩いている。森も孝司や亮三同様苦笑しながら、兎の耳のような室内アンテナを、さらに微調整した。結局毎週我が家で繰り返されている騒ぎが、ここに出張してきているのだ。それにしてもこの窪地でノイズを払拭するのは、やはり難しい。
「すみませんが、こんなもんで当分我慢して下さい」
孝司が亮三たちに頭を下げた。
「上出来でしょう。本家の屋根のアンテナでも、こんなものですから」
亮三は鷹揚にうなずいた。
孝司は箱の残骸を片付けながら、
「カラーが届いたら、専用の屋外アンテナ付けますから。ついでに白黒の高感度も付けましょうか。そうすれば仙台の二局も入ります。アメリカからいらっしゃった方に、三局だけじゃ、寂しいでしょう」
現在この地で一般的に受信できるのは、峰館放送とＮＨＫ、それにＮＨＫ教育だけである。つまり民放は東京の民放各社から番組を掻き集めて構成する形で、契約上フジ系が主体になる。日本中で大人気の番組でも、たとえばＴＢＳ系などは、大半視聴不可能なのが現状だ。仙台では民放が二局あり、山越えの電波を拾えれば、かなりの人気番組が受信できる。
「あいかわらず商売上手だなあ、親爺さんは」
亮三が苦笑いを浮かべた。
森は父親に助言した。
「月末にカラーの高感度も出るよ」
「お、そうだったか」
孝司は調子に乗って続けた。
「じゃあ、そっちだな。両方高感度。ついでに本家のほうもいかがですか。秋の東京オリンピック、カラーで」
亮三は笑いながら、ウィリアムズに冗談口調で何か話しかけた。続いて二人は、クレージー・キャッツのコントに大笑いしている一太郎たちに負けないほど、大爆笑してみせた。
孝司はきょとんとしていたが、森はいっしょになって笑ってしまった。こんなジョークが聞き取れたのである。――この親子のおかげで、私の家にはあなたのお国に負けない電化製品が全て揃っている。しかし、銀行預金は恐ろしい勢いで減ってゆく。この親子の口座に移動してゆくのだ。あなたも充分気をつけて下さい。日本人の謎めいた微笑に、惑わされてはいけません。
ふと老人の隣を見ると、小百合もまたおかしそうに肩を揺らしていた。
――こんなふうにも笑えるんだ。
一瞬見惚れてしまった森の視線と、小百合の視線が重なった。
昨夜と同じような、底知れない視線だが――焦点が自分の眼球のすぐ後ろに合っている。
森の鼓動がまた波打った。
思わず目を逸らしたくなったが、小百合から目を逸らす、ただそれだけのことを体で実行できない自分に気づいた。
――俺はほんとうにおかしくなっちまったらしい。
小百合が自分から視線を逸らすまで、数秒の間があったのはなぜか。あの表情は落胆ではなく安堵だったように見えたが、それは己の希望的観測にすぎないのか。
父親を手伝って箱を片付けながら、森はそんなことばかり考えていた。この場で集められそうな情報は、先ほどまでの背後の会話で、すでに得られていたからだろう。
「さて、それじゃ、おいとまいたします」
仕事を終えた孝司が、腰を上げた。請求などは、いつも月末の付けである。
「せっかくいらしたんだから、夕飯をいっしょにいかがですか？ 皆さん、まだでしょう」
「いやあ、店が娘ひとりなんで」
「そうか――それは失礼しました」
亮三は事情に気がついて立ち上がり、深々と孝司に頭を下げた。
「今回は奥様にも本当にお世話になりまして。どうか本葬でも、よろしくお願いいたします」
「いやいや、お互い様ですから」
お互い様、というのは厳密には正しくない。一般の民家の冠婚葬祭に、結城家から扶助が入る事態は通常ありえない。ご近所親戚で賄えてしまう。一方で結城家に何かあると村中から助力が集まるのは、過去からの因習とも言えようが、実際それだけの人手がないと、外からの来客に対処しきれないからである。今回のような葬儀関係なら、とりあえず通夜から翌日、本葬、初七日あたりの散発的大騒ぎで治まるが、もし婚礼でもあろうものなら、七日間は文字通り昼夜ぶっ通しで酒宴が続く。しかしそのどちらの場合でも、結城家の散財は結局なんらかの形で村に還元されるので、表立って不平を言う家もない。
「でも、森君はまだいいんじゃないですか。一太郎君たちのお土産のお披露目も、まだのようですし。みんな家の車でお送りしますから」
十九インチの迫力に魅せられた一太郎たちは、一斉に異議無しの表情を浮かべた。こういうお屋敷でいったいどんな晩飯が出るのか、それも大いなる興味と期待の種だ。そして森にも別の興味の種が残っている。
結局孝司だけが軽トラで引き揚げ、山荘には森にとって、予定通りの人間だけが残った。
この谷啓というコメディアンの芸名はダニー・ケイに由来している、こちらの陽気な男は現在日本一無責任な男として名を馳せている――そんな亮三の注釈付きで、老人と少女も、現在日本で最も人気が高いというアメリカ風のバラエティー・ショーを、興味深げに眺めていた。
シャボン玉ホリデーが終り、一太郎たちが、とりあえず日曜の重大イベントは無事クリアできた、などと一息ついていると、亮三が陽気に手を打った。
「さて、それではウィリアムズさんたちの、歓迎会と行こうかな」
異議なし――一太郎たちも陽気にうなずいた。
結局九時半を回った頃、一太郎たちは山荘を辞した。
森は亮三の運転するクラウンの後部座席でぎゅうづめになりながら、山荘の庭で時が過ぎるごとに幼げになっていった小百合の笑顔を、いつまでも頭の中で反芻していた。
結局あの後、亮三が本家から持ち込んでおいた牛肉のブロックや野菜類で、バーベキューが始まった。カブト焼きも老人を含めて好評だったし、花子が調理した舞茸の天麩羅まで、お世辞でもなさそうな好評を博した。実は小百合の母親がらみで、味噌さえもＯＫだったと判り、ザッパ汁も持ってくれば良かったと、森は一太郎に詫びを入れたくらいである。ワイオミングという土地は、鱒や鮭で魚類にも結構馴染みがあるらしい。さすがにデザートののし梅の酸味は、老人の味覚にはマッチしなかったようだが、小百合はさっぱりしておいしいと言ってくれた。他に麗子が焼いたというクリーム・パイもあり、麗子の警告にも拘わらず平等に配分され、参加者全員心からご馳走様の首尾だ。
特に牛肉は一太郎や民治にとって、よだれものの美味であり、精力的食材だった。民治は昼にも森の握り飯を食っているので、盆と正月が数年分まとめて来たような気がしていた。
また本式のカスタード・クリームなどは、ふだん当時のクリーム・パンのべとべとした糊のようなクリームや、良くても甘味の薄いバター・クリームにしか縁のない花子や美津江にとって、あらゆる雑念を払ってくれる宗教的恍惚に近い味覚だった。事実クリームに酔ってしまった美津江は、大々的にくだしょうお祓いショーまで演じてしまったのである。もっともみや婆さんのお札がけっこう強力だったらしく、地下室のちょっと湿気で傷んだあたりから、チンピラ狐を一匹追い出すほどの結果しか得られなかったが。そして肝心のくだしょう本人（？）の勇姿は――。
「亮三さん、小百合さんって、あちらの『血筋』の人なんですか」
助手席に乗っていた美津江が、思い切ったように問いかけた。
「――ごめんなさい。やっぱり、いいです」
「家系上、それはありえないはずなんだが……どうして？」
「うちの子、見えてたみたいだから」
亮三は黙り込んでしまった。
美津江は後ろの森に訊ねた。
「森ちゃんも、聞いたよね」
森はまだ亮三を問い詰める段階ではないと思っていたが、この点に関しては、美津江のために正直に答えざるをえなかった。
「はっきりとは聞こえなかったんだけど――キュートとか、プリティーとか、そしてチャオ、かな」
「うん。あのとき、うちの子、あの娘の肩にいたから。普通、あたしや婆ちゃんが言わない限り、他の人に近づいたりしないんだけど」
「そいつ、そんなにかわいいもんなのか？」
一太郎が口を挟んだ。それくらいの英単語なら、彼にも判る。
「うん。イイヅナとか、オコジョみたい。婆ちゃんは、オコジョから化けたって言ってる」
「そうなの？ オコジョ、めんごいよねえ」
花子は思わず身を乗り出して、美津江の袱紗包みを覗きこんだ。
「女の子？ 男の子？」
「牝みたい。よく飛ぶ子だから、あたしはトビメって呼んでる」
「しかし、そのかわいらしいものが、『大団喰《たいだんぐらい》』なんて、可能なものかな」
亮三が訊ねた。
『大団喰』とは、平安時代の武将・坂上田村麻呂が十万の兵を率いて蝦夷《えみし》討伐にこの地を通過したおり、その一隊が一夜にしてくだしょうに屠られたという、この地方の伝承である。字義どおりなら千人の兵士を喰らったことになるが、無論、後世に誇張された表現だろう。
「さあ、それは判りませんけど――婆ちゃんの話だと、婆ちゃんの婆ちゃんが気合を入れたら、好きなだけ脹らんだって」
「ほう」
「まあ婆ちゃんもけっこうホラ吹きだから、ほんとかどうかは怪しいかな。ここの峪くらいならいっぱいに脹らむ、なんて言ってます。で、縮みたいときにはいくらでも縮んだり」
「そんなのが味方に付いてくれたら、さぞかし心強いだろうね」
「でも、ほんとはこんなのに収まっちゃうし」
美津江はそう言って袱紗包みを撫でた。
亮三はなぜか、いったんクラウンを路傍に停めた。
「君たちをこの件に巻き込んでしまったのは、申し訳なく思っている。しかし、小百合に関しては、君たちが今夜聞いた以上のことは、教えてあげられない。無責任だが、知った時点で君たちも標的になる可能性が出て来るからだ。昨日あの連中が君たちに言ったことは、脅迫なんかじゃなく、連中の誠意だと思ってほしい」
山荘での陽気な亮三とは、別人のように真摯な声だった。
「これ以上この村に迷惑をかけたくないから、僕は明日から次の手を探るが――正直言って、時間がかかりそうだ。虫のいい話だろうが、それまでは小百合と普通につきあってやってほしい。もしこの村や君たちまで危なくなったら、すぐにでも他に移ろう」
「それは不合理だと思います」
森がきっぱりと言った。
亮三も、他の仲間も、いぶかしげに森を見つめた。
「あの外車は判りませんが、その後のヘリや三つ揃いの連中は、どう考えてもこの国の最高機関だ。そんな人たちが、この村を篭城地として許容したんですから、たぶんその判断は正しいと思います。だって、後にも先にも陸路がたった三本、まともに車が飛ばせるのは、峰館までの一本くらいです。そんな所で派手な行動をとれば、太平洋側からでも日本海側からでも一目瞭然だ。それも一般の衆目の中でです。たとえば峰館の本町の、電電公社のアンテナ塔にでも登れば、西の峠道は市街から観測できる。東の滝川峡谷だって、そこに登る道は――そうですね、秋保温泉の火の見櫓からだって見える。北の山寺からの沢道は、熟練の登山者でも、人目に付かずに侵入するのは無理だ。南は蔵王連峰の尾根を夜間縦走したとしても――尾根道もない原生林の山が、まだ間にふたつもある。村の人の移動は最小限だし、そんな理想的な立地は滅多にないでしょう。離れ小島や人目に付かない山奥なんかより、遥かに護りやすいです」
この少年の感情は、どこにあるのだ――亮三は理路整然と語る森の口調に、感嘆を通り越し、一瞬不安まで覚えた。
しかし森自身は生まれて初めて、一太郎や花子のように、感情だけで動こうとしている自分自身に驚いていたのである。
「――僕は、今、亮三さんに、ほんとに感謝しています。ありがとうございます」
森は深々と、頭を下げた。
その真意を幾許でも汲み取れたのは、ちょっと感心したように森を見つめている、美津江だけだったかも知れない。
一太郎や民治は、あそこに行けばまた牛肉がたらふく食えるかなあ、来月はカラーテレビも見られるんだよなあなどと期待しており、花子は花子で、タミーちゃんとクリーム・パイのセットなら完璧気分はアメリカン、アメリカの手芸ってどんなんだろう、今度見せてもらおうなどと夢想しており、美津江もまた種々の思考の底流には、正直カスタード・クリームによる酩酊感が多く潜んでいたのである。
小百合は夜のバルコニーに佇み、星と月と、雲の流れを見つめていた。
やっぱり、匂いも同じなんだ――木々の香り、山の香り、そして前庭からまだかすかに漂ってくる、賑やかなバーベキュー・パーティーの残り香。
思わずくすくすと、思い出し笑いを漏らしたりもする。
思い出すということが、悲しみに繋がらないのは、いったい何年ぶりだろう。
「こんなところにいたのか。お風呂で温まって、もう休みなさい。風邪をひくよ」
グランパが後ろから、優しい声をかけてくれた。
あの奇妙な人たちを送り終えたのか、亮三さんもいっしょだ。
「愉快な連中だっただろ？」
悪戯っぽく微笑む亮三に、小百合は素直にうなずいた。
「ロバートさんとも話したんだが――落ち着いたら、また学校に通ってみる気はないかい？」
小百合はきょとんとしてふたりを見つめた。
それから、顔を曇らせた。
確かに、勉強自体は楽しいことだ。心ではなく知識を増やすのは、世の中を全て整然と見通す力を、弱い自分にも与えてくれるような気がする。
しかし、学校には――無数の心が集っている。そこはクラシックや穏健なポピュラーの好きな小百合にとって、無数のロックン・ロール・バンドの狂騒が、一度に重なっている場所だ。
「死ぬまで逃げ続けるのが――悲しいことだけど、それが自分の宿命ならば――何からどう逃げるのかを、もう少し知っておいたほうがいいと思うんだ。そうしないと、もし君がひとりになったとき、逃げ続けることもできない」
この人は本当に優しくて、強い。
そして強くて優しいぶんだけ、残酷だ。
逃げずに全てを断ち切ってはいけないのだろうか。グランパたちの神の国に入れないから？ でも、お母様たちのこの国なら、私だっていつだって、神や精霊になれるのではないの？
うつむいている小百合の肩に、亮三の手がそっと置かれた。
「家の麗子や、それから、あの愉快な連中も、そのクラスにいるよ」
小百合は耳を疑った。
母親の家系がこの土地で力があるらしいのは判ったが、たったひとりの転入生のわがままを、学校という公共団体まで通せるものだろうか。
「まあ八百長といえば、たいへんな八百長なんだけど、その学校自体、僕や麗子の、あの父親が理事長なんだ」
亮三の悪戯っぽい表情の、理由が判った。
もう片方の肩に、グランパの手も乗った。
それでも小百合は、しばらくくよくよと悩んでいたが――やがて、こくりとうなずいた。
【文中、北上山地の描写に於いて、宮内寒弥氏・著『秘境を行く』（人物往来社・昭和三六年発行）を参考にさせていただきました。】
第三章に進む 第一章に戻る 目次に戻る
●背景画像には【自然いっぱいの素材集】様の素材を使用させていただきました●