「……別れましょう」
学生街の古い喫茶店で、その短い言葉を愛川亜由美の口から聞くまでに、間宮慎治は一年近い懊悩の日々を送った。
それは慎治の優柔不断な性格のためでもあったが、別れる理由そのものが、亜由美にとっても慎治にとっても高校以来の親友といってよい、梶尾勇介の存在に他ならなかったからである。
そうでなければ、お嬢様然とした漆黒のワンレンにも似合わず高校時代から勝ち気で、どんな面倒事でも屈託なく公言してはばからなかった亜由美のこと、とうの昔に、慎治との曖昧な日々に決着をつけていただろう。たとえば去年のバレンタインデー、例年なら十インチサイズのハート型のチョコレートに、白砂糖かなにかで慎治への苦言でも書きこむところを、ただ『I LOVE YOU』の大文字だけ、妙にしおらしく書き流してしまったあたりで。
「……誤解しないでね」
これもきわめて彼女らしくなく、何を誤解されたくないのか続けて口にしないまま、亜由美は居づらそうに、とうに角砂糖の溶けてしまった紅茶の中で、スプーンを揺らし続けている。
慎治は黙ってこくりとうなずいた。
あとふた月で大学も卒業なのに、とうとうどこからも内定が出なかったあなたが情けないとか、それにひきかえ勇介はもう夏前から一流化粧品会社の内定が出ているとか、そうした即物的な理由ではない――そう言いたいのだろう。
それは慎治も重々承知している。
打算で男を選ぶのなら、就職など決まらなくとも親の遺産で一生遊んでいられる自分のほうが、遙かに有利だ。対する勇介は、親こそ財務省のキャリア組だが自分は私大出の三男坊だから、就職には多少のコネが利いても、あとは彼自身の天分と努力で人生を築かねばならない。
そして亜由美は直情的なぶんだけ、極めて嘘の不得手な娘である。自分との関係がこれまで曖昧なまま続いていたこと自体、まぎれもなく自分を愛してくれていた証拠に他ならない。ただ、できるならもっと早く、それが過去形であることを悟ってくれればよかった。
慎治は押し黙ったまま、もう一度、深々とうなずいた。
そんな慎治を、亜由美は、あなたも男なら何か言いたいことがあるでしょう、と、真っ向から挑むように見つめている。
傍から見れば、俺が一方的に責められているのだろうな――そう思いながら、慎治は卓上の勘定書に手を伸ばし、
「……じゃあ」
とうとう亜由美の目を見返せないまま、ひとりでレジに向かった。
*
夕方のゼミに出る気も失せ、サークルの部室は亜由美にまた出会う可能性があるので敬遠し、慎治はまだ陽の高い神田駿河台の坂を、御茶ノ水駅に向かって上った。
昔から堪え性がなく、中学や高校でもしばしば授業を抜けて昼日中に帰宅した慎治だが、都心の大学はありがたい。決まった登下校時間がないから、学生街はいつも両方向に同世代の人間が流れている。中高の静まった通学路をひとりで逆行するときのような、いささか世間に申し訳のない気分を味わわずにすむ。
しかし、周囲でざわめく屈託のない顔の群れに紛れながら、慎治はその『申し訳ない気分』が、無性に懐かしくなった。
いつもなら駅を通り過ぎて聖橋を渡るところを、慎治は新御茶ノ水駅から地下鉄に乗り、何度か乗り換えた先にある、懐かしい閑静な住宅街に向かっていた。
成人式を終えて間もなく、両親が交通事故で他界してから、慎治は湯島天神に近い下町の中古マンションで、ひとり暮らしをしている。
それまでは、港区の白金台にある先祖代々の屋敷に住んでいたのだが、親の貯金や保険金をはたいても相続税が払いきれなかったので、やむをえず人手に渡した。
売値の半分が税金に消えたとはいえ、他に身内がなかったから、残金は慎治ひとりの資産になった。当然、地元にかなりの物件を買いなおす余裕は充分あったわけだが、慎治は、どうせ生まれ育った家に住めないのならと、遠い下町に移った。安アパート同然の間取りながら、大学には歩いて通える近さになったし、専攻の国文学以外は万事に淡白で向上心に乏しい自分のこと、当座の掛かりをなるべく節約して、残った金で生涯気ままな研究生活を送ろう、そんな心算もあった。今にして思えば、それが亜由美との終わりの始まりだったのだろう。
当初、亜由美は何かと親を誑かして慎治の新居に泊ったが、しょせん自宅通学の良家の子女、基本的には毎日白金に帰らねばならない。同じサークルの梶尾勇介も、しばしば仲間たちと慎治の部屋に泊まって羽目を外したが、やはり年の大半は自宅に帰る。当然、いつも同じ街へ亜由美を送っていく。背信とか不倫とか、大袈裟な感情とは必ずしも関わりなく、家中心に育った人間は日常に流されがちだ。
やはり自分も、この街を離れるべきではなかったのだろうな――そう思いながら、慎治は案外、水のように透明な気分で、二年ぶりの故郷を歩いていた。
いっとき『シロガネーゼ』などという面映ゆい言葉が流行ったこともある、いわゆる高級住宅街である。西のアシヤレーヌ、東のシロガネーゼなのだそうだ。もっともそれらの『ハイソな若奥様』を表すらしい言葉は、どこかの女性雑誌が勝手に創作したもので、地元の住民の意識とは、なんの関わりもない。そもそも正しくは『白金台《しろかねだい》』である。
慎治にとっても、そこは神田近辺の起伏に富んだ地形と変わりない、同じ武蔵野台地に属する坂の街に他ならなかった。確かに下町の雑多な喧噪とは縁遠く、多くの人家の庭や間取りに大差があるかもしれないが、ふと気が向いて見知らぬ路地状の急坂を下れば、みすぼらしい物置のような廃屋が、谷地の底にひっそりと眠っていたりもするのだ。
中学時代の通学路をたどりながら、慎治は、なぜ今の自分がこれほど安らかな気分でいられるか、その理由を悟った。昔、そこを帰るとき、慎治はまだ孤独だったからだ。溌剌とした亜由美も、頼りがいのある勇介も、まだ慎治の人生に登場していなかった。もともと友などいなかった時代に、戻ればいいだけの話なのだ。
同じ街ではあるが、むしろ恵比寿に向かうあのふたりのテリトリーを避け、慎治は起伏に富んだ瀟洒な住宅街を、あてもなく麻布方向へと歩き続けた。
*
懐かしい道筋を、体が覚えているままに漂いながら、いっとき思考が空白になっていた慎治は、いつのまにか周囲が見知らぬ街並みになっているのに気づき、おや、と我に返って首を傾げた。
自失していたのは一分にも満たないはずである。念のため腕時計を見ると、やはり地下鉄を出てから数分しか過ぎていない。
もしや今たどっている小道そのものが、かつての自宅跡を整地しなおした一角なのだろうか、とも思ったが、それにしては、周囲の街並みに色濃い古びがある。ほんの二年ほど遠ざかっていただけなのに、生まれ育った街で、道に迷ってしまったらしい。
いくら自分で居直ったつもりでいても、胸奥は、居所さえ見失うほど澱んでいるのだろう。これからさらに辛くなるのかもしれないな、などと他人事のように自嘲しながら、慎治は臆せずに歩き続けた。その方向に進んでさえいれば、いずれ明治通りを渡り、南麻布に抜けるはずだった。
しかしいつまで歩き続けても、周囲の街並みは、やはり知らない土地だった。住宅も商店も、この一帯特有の本然的なゆとりを見せながら、そこにあるはずの聖心女子学院や北里大学は、いっこうに見えてこない。仮に呆けている間に明治通りを渡っていたとしても、その先にあるフランス大使館やドイツ大使館が、敷地ごと移転したはずはないのである。
ままよ。自分の気が狂ったのでない限り、六本木通りや渋谷駅までが消えたりはしないだろう――なかば自暴自棄で脚を速めるうち、慎治は、焦る心をふと鎮めるような、甘く優しい花の香りに気がついた。
高校時代からずっと香道部に属している慎治は、伝統的な和風の『香』に限らず、洋風の芳香《アロマ》にもひととおり素養がある。ただ甘く優しいだけでなく、どこかしら官能的なその香りは、明らかに自然のままの茉莉花《ジャスミン》だった。安物のアロマオイルもどきに含まれているような化合物の匂いでも、純化された精油でもない。
慎治は、高校一年の夏に香道部の仲間たちと――亜由美や勇介たちと訪ねた、南スペインの広大な花畑を想い浮かべた。慎治が初めて亜由美と唇を重ねたのも、夕刻ふたりきりで散策に出たあの農園のはずれ、湖畔の小さな白い東屋だった。あのとき咲き乱れていたのは、ジャスミンティーに用いられる茉莉花《まつりか》ではなく、精油抽出用の大花素馨《おおばなそけい》だったか。
無論、本来亜熱帯性のそれらの花が、真冬の住宅街に繁茂しているはずはない。ここは沖縄ではないのである。慎治は強い好奇心にかられて、香りの元を探りはじめた。
武家屋敷風の長い築地塀に沿ってゆくと、不意に昭和の戦前を思わせる木造商店が現れ、その蠱惑的な香りは、屋敷と商店の間に隠れるようにして下っている石畳の細い坂から、たちのぼるように流れてくるらしかった。
慎治は、躊躇なく坂を下った。
幼い頃、家の周囲を探検したときのように、谷地の底の廃屋を見出すだけかもしれない。あるいは、この馥郁たる香りにふさわしい南洋の花園に――続いているはずはない。いずれにせよ、すでに自分が渋谷駅にも神田にも、生まれ育ったあの家にも、帰りたがっていないのは確かだった。
石畳の坂は、下るにつれて階段状に勾配を増し、窓もない古い板壁が左右から肩に触れかねないほど間隔を狭め、また頭上の細い空も暮れはじめ、慎治はなにか静まりかえった旧家の屋内階段を地下蔵に向かっているような、仄暗い懐旧を覚えた。しかし足下からたちのぼってくる濃厚な香りには、しだいにその花を宿す葉々だけでなく他の雑多な樹木の匂いが混じりはじめ、やがて左右の板壁が雑木林に変わって間もなく、唐突に坂は途切れ、煉瓦塀に囲まれた人家の門に行き着いた。
木造二階建ての宣教師館、あるいは教会の廃屋――そんな第一印象だった。門前から林の右手へと、煉瓦で舗装された間道らしい痕跡が残っているが、廃道となって久しいのだろう、少し先で樹木に侵食され、林そのものに同化している。
落葉した蔦に覆われた、ゴシック様式ともアール・ヌーボーともつかぬ門扉におずおずと近寄ってみると、なかば錆び朽ちた鋳鉄の門格子の中央には、表札よりやや大きい横長の銘板が傾いており、緑青を吹いたカリグラフィーが、かろうじてこう読めた。
―― Jasmine Heights ――
つまり、野放図な藪と化した庭木の奥に佇んでいるこの白い洋館は、古い集合住宅らしい。白いといっても周囲の雑木や藪に比較すれば人造の白を残しているだけで、おそらく数年、いや、もしかしたら数十年、雨ざらしのままなのかもしれない。
しかし、なぜその館から、このような季節外れの香りが漂ってくるのか。ここからは見えない裏庭あたりに、なにか奇跡的な変異によって、耐寒性のジャスミンの群落でも生じているのか。
押し開けるというより、門柱から崩落しないように気を遣いながら、慎治はその門扉を抜け、藪の底に残っている石畳をたどって奥に進んだ。
正面玄関らしい扉は、どこにも見当たらない。門に面した壁面は、むしろ館の短辺であり、一階にも二階にも、瀟洒な張り出し窓がひとつずつ覗いているだけだ。
ふと、その二階の出窓に何者かの視線を感じて、慎治はぎくりと立ち止まった。反射的に会釈してから、目を凝らし、すぐに失笑する。薄汚れた窓硝子越しに、縮れた襤褸のようなカーテンの間からこちらを見下ろしているのは、子供の背丈ほどもありそうなテディベアだった。そのくすんだ灰色に、かろうじて淡い青が感じられるところをみると、遠い昔、置き去りにされた頃には明るい空色だったのかもしれない。
館の左手は密集した雑木林で、もとより歩く余地はなさそうだった。庭の石畳は館の右の手を煉瓦塀に沿って周り、裏庭に続いているらしい。
そのまま進んで行くと、石畳に面している館の側面も、一階には汚れた出窓が数列並んでいるだけで、扉は見当たらなかった。その代わり、館の裏手に曲がる少し手前から、屋根付きの外階段が、折り返す形で階上に続いていた。つまりそれぞれの世帯の出入り口は、ベランダ状に張り出している二階の通路にあり、世帯ごとに上下二部屋が個々の内階段で繋がっている、そんな構造なのだろうか。
慎治は外階段の昇り口をやりすごし、裏庭に回ろうとした。
しかし、裏庭はなかった。
窓もない壁面に生い茂った雑木が迫り、そのすぐ奥は、谷地の暮色に紛れて判然としないがどうやら煉瓦塀ではなく切り立った崖のようで、そこから伸びた電線が、館の壁面のすでに腐食した古風なメーター類に繋がっているだけだった。地中から這い上がったガス管も、同じように古びた計器に繋がっている。
ならばこの濃密な芳香は、廃屋内の、どこかの部屋から――。
とまどいながら、慎治は館の右手に戻り、外階段の、雑木の落葉が積もりに積もってすでに堆肥と化したような段差に、思いきって足を踏み出した。じくじくと湿った感触の底に、確かな土台があった。滑らないように気を配りながら階段を昇る。ほどなく、階下よりは残照を宿しているベランダ状の階上に出た。積年の埃が積もったその細長い通路も、木造ながらしっかりした普請であり、踏み抜いてしまいそうな危うさはなかった。
歩を進めながら、立ち並ぶ灰色の扉それぞれの眼高にある、明かり取りの小窓を覗いてみる。波硝子には埃がこびりついており、その奥は暗い。次いで、小窓のやや下の、新聞受けからはみだしている萎れた野菜のような古い広告類に鼻を寄せ、俺はまるで宿無しの犬になったようだな、などと自嘲してみる。こんな廃屋にもチラシ配りのバイトたちは御丁寧にノルマを果たしに寄るのだな、などとも思う。
香気の元を見いだせないまま、結局、通路の最奥、例のテディベアの居室と思われる扉の前に屈みこんで――慎治はまた、ぎょっと立ちすくんだ。
その新聞受けには、何も紙類が溜まっていない。真新しい横長の金属蓋が、内側からしっかり閉じている。
だけではない。他の扉の小窓はどれも塵埃にまみれていたが、その最奥の波硝子だけは、暗いながら清潔に光っている。あらためて見れば扉全体の塗装までが、艶やかに白いのだった。
慎治は生唾を飲みながら、ここまでの通路をぎくしゃくと見返り、厚い土埃に点々と残っている、ただひと組の足跡を凝視した。
と、暖色の光が、慎治の側頭部を照らした。
扉の小窓に、灯りがともったのである。
「お帰りなさい」
若やいだ声とともに、内側から扉が開いた。
ジャスミンの香りが、ひときわ鮮やかに流れた。
一瞬の眩暈ののち、
「ただいま」
慎治は、かいがいしく手をさしのべる白いガウンの妻に、コートを預けた。
和洋折衷の三和土の奥では、整った白い洋間が、シャンデリアを模した装飾電灯の柔らかな光に映えている。
横手の窓辺に、空色のテディベアの後ろ姿が見えた。
先刻まで妻と並んで、純白のカーテンの間から、主人の帰宅を見守っていたのだろう。
「春樹さん、すぐにお食事になさる? 先にお風呂になさる? ……それとも、わ・た・し?」
黒目がちの瞳で、悪戯らしく微笑んでいる断髪の若妻に、
「おいで、絹枝」
春樹は白い歯をのぞかせた。
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