1
「――ねえ。捜索願って、どこに出せばいいのかしら」
学生街の古い喫茶店で、思いきったように訊ねてきた亜由美を前に、勇介は深々と吐息した。
亜由美の表情には、いつになく困惑の色が窺える。しかしいつもながら、自分の行為に対する反省や後悔の色は微塵もない。
「……言っちまったのかよ」
亜由美の分まで後悔しながら、勇介はつぶやいた。
「よりによって、こんな時期に」
「答えになってないわ。聞こえなかった?」
そりゃこっちの科白だろう、と言い返す度胸は、慎治よりはるかに剛胆な勇介にもない。
「無駄」
ついつい返事が冷淡になった。
言い放ってから、しまったと後悔したが、亜由美はいつものように柳眉を逆立てて言い返しはせず、意外にも、しゅんとした風情でうつむいた。
「……だって……だって…………なんだもん」
唇を尖らせたそんな仏頂面が、いわゆるツンデレ型のお嬢様にとっては、最大限の陳謝なのだろう。
おいおいお前は昭和版キューティー・ハニーか、などと内心で苦笑しながら、勇介もまた自分らしく、前向きに気を変えることにした。
「そうだな。先に、あいつに言えなかった俺も悪い」
ここできっぱりうなずかれたら、さすがに今後の人生を再考するところだが、幸い亜由美は、しおらしく頭《かぶり》を振ってくれた。
勇介は精一杯の微笑を浮かべ、
「で、無駄な理由、その一。身内でもない人間からの捜索願なんて、警察がすんなり受け付けてくれるもんじゃない。その二。仮に身内がいたとしても、慎治は未成年じゃない。社会的に独立した成人の失踪なんて、人前で拉致されたんでもない限り、警察はまともに動いちゃくれないよ」
慎治同様、良家のお坊ちゃまには違いないが、勇介には行動派三男坊なりの世間知がある。クラスやクラブでも、表立ってリーダーシップはとらないが誰よりも印象が明確で顔が広い、そんなタイプである。何かと精神的ストレスの多かった受験校時代、鬱に陥り家出した級友をめぐって、大人顔負けに活動したこともある。
「たとえば俺が家出して、親父が高輪警察署に捜索願を出したとする。親父はけっこう顔が利くから、むこうも丁重に受理してくれるだろう。でも全国の警察でチェックしてくれるのは、犯罪者か、いいとこ行き倒れの病人か、身元不明の死体だけだ」
亜由美はついに柳眉を逆立てた。
「縁起でもないこと言わないで!」
おいおい、その原因になりかねない話を、いきなりあいつに切り出したのは誰だ――そんなツッコミも禁句である。
もっとも勇介にしてみれば、そんな亜由美と数年もペアを組んでいた慎治だって、弱いように見えて、実はしたたかな男に違いないのである。確かにここ半月、学校にも姿を見せず携帯も繋がらないが、よほど不測の変事に遭ったのでなければ、元来内省的な慎治のこと、気を静めるために傷心旅行にでも出たのか。
「とにかく、まずここは現実的に動こう。焦らず騒がず落ち着かず」
勇介は携帯を開き、ちまちまとメールを打ちはじめたが、すぐに首をひねって、打ちかけのまま亜由美に手渡した。
「すまん。ぽちぽち、頼む」
はいはい、と受け取った亜由美に、
「『よう、元気してるか? 梶尾さんちの勇介だ。で、ちょっと聞きたいんだが、あの間宮さんちの慎治君を、今月、どこかで見かけてないか?』――」
指の太い勇介は、パソコンはともかく、携帯のキータッチが苦手なのである。
同輩先輩後輩男女の性差、相手に合わせて語調やニュアンスを少しずつ変えながら、いずれも用件は同じ、五タイプほどの文面を作る。
「アドレス帳にグループがあるから、頭から五つ、順番に送信してくれないか」
そうした操作も、指の太い勇介は、あまり手早くない。
「時間が惜しい。歩きながらやってくれ。次はあいつの部屋だ」
「でも――何もなかったわよ」
あの日、別れ話が曖昧なまま終わってしまったので、亜由美はまだ慎治の部屋の合い鍵を返せないでいる。当然、翌日から姿を見せない彼を心配し、何度か部屋を訪ねた。
「通帳とか実印とか、調べたわけじゃないだろ」
さすがの亜由美も、そこまではしていない。いや、以前なら遠慮なくやっただろうが、あの日の後ではできない。
「警察を動かす理由が、何か見つかるかもしれない。無けりゃ、でっち上げるって手もある」
勘定書を鷲づかみ、後も見ずにレジに急ぐ勇介を、亜由美は一瞬の既視感にとまどったのち、あわてて追いかけた。
*
一限の直後に待ち合わせたので、冬の街は、まだ朝の冷気を残していた。
駿河台の学生街から湯島聖堂へ、そして慎治のマンションのある湯島二丁目まで、ゆっくり歩いても二十分程度である。下手にタクシーを拾って下町の一方通行に迷われるよりは、自前の脚で急いだほうが早い。
片手を勇介に預けて前途を任せながら、片手で携帯のアドレスグループを開いて、亜由美は仰天した。
「……いったい何人女がいるの?」
半分は冗談にしても、『よう』や『元気してるか?』で通じるらしい女性が五十人以上並んでいれば、半分は懐疑に傾く。
勇介は事もなげに、
「勘ぐるなよ。男は倍あるはずだぞ。だいたい、ほとんど亜由美も知ってる名前だろ」
言われて見れば、同級生やサークル仲間など、昔から共通の知人も多い。
「年賀状を出す相手を、パソコンからコピーしただけだ」
「……言われたグループだけで、二百人越えてるわよ」
「おう。毎年五六百枚は出すからなあ。でも兄貴たちは、その倍は出すぞ。親父なんか毎年一万枚刷ってる」
もしや私は将来の議員一族に加わろうとしているのか、と亜由美は思った。もっとも、「俺は年賀状の数だけで取締役になった」などと冗談らしく笑う年輩の親戚もいるから、業界問わず、世の中そんなものなのかもしれない。
言われたとおり、アプリを使って次々にスパムめいたメールを撒き散らしながら、
「でも、みんな覚えてるかしら。勇介はともかく、慎治はおとなしかったから」
「九割方覚えてるね」
勇介は請け合った。
「人間の印象ってやつは、声のでかさや顔の広さだけじゃない。静謐だって徹底すれば立派な存在感だ」
確かに慎治には、近頃のトレンドからは外れているかもしれないが、戦前の寡黙な二枚目俳優のような、浮世離れした彫像的孤高感があった。
「同級の女子なんか、たぶん俺よりはっきり覚えてたりしてな」
つまり容貌だけなら、勇介は明らかに負けているのだが、
「亜由美だって、身に覚えがあるだろ?」
そんな、状況的にかなり微妙な言葉さえ皮肉に聞こえない余裕というか、無神経を越えた男としての度量、それが慎治には欠けていたのである。
「――はい、送信終了。って、やっとひと組だけど」
なかば引きずられながら、すでに聖橋を渡り、湯島聖堂も過ぎようとしている。慎治のマンションまで、あと半分だ。
「よし。じゃあ、着くまでにタメ口連中には行き渡るな。後はぼちぼち、ついでを見ながらでいい。残ったら家からも送れるし」
やがて大通りから、横道に入る。
勇介の見当どおり、亜由美が第二グループをこなしたあたりで、雑然とした路地の先に、いかにも下町らしい中古マンションが見えてきた。慎治の言によれば由緒正しい高度経済成長期の記念物、つまり鉄筋四階建ての兎小屋の塊である。
勝手知ったる他人の家とばかり、エレベーターもない暗い内階段を駆け上がりながら、
「……はい」
亜由美は少々迷った末に、例の合い鍵を勇介に差し出した。
「おう?」
あの部屋はもう私の管轄じゃない――そう言いたいのだろう。
勇介は、そのありふれた鍵の先にぶら下がっているハートの片割れを、少々苦い思いで、目の前に揺らした。
この可憐な、淡いピンクの宝石は、どう見ても亜由美の趣味ではない。むしろ慎治の選択だろう。寡黙で情に疎いように見えて、あいつは誰よりもロマンチストなのだ。
「ありがたい。ここは管理人もいないからなあ」
「……ちょっとは妬きなさいよ」
本心なのか照れ隠しなのか、唇を尖らせる亜由美に、
「まだ妬かなきゃいかんのか?」
勇介は、つい真顔で言い返した。
「俺の青春は、これまで、ただひたすら妬き続けだったんだぞ」
亜由美の頬が、みるみる染まった。おそらく慎治の前でしか見せたことのない、赤ん坊のような赤面である。家族でさえ、思春期以降は見ていないだろう。
勇介も照れ隠しのように、冗談めかして言い継いだ。
「やっと妬かれる側に回ったのに、ここで消えられてたまるかよ」
しかしその実、消えてほしくない理由の半分は、相手が慎治だからに他ならない。そうでなければ元来現実的な勇介のこと、とうの昔に、つるむ連中を乗り換えているはずだった。
高校入学当初から、勇介は、亜由美の際立った気品に異性として惹かれる一方で、慎治の俗世離れした清冽なオーラにも、同性として強く惹かれていた。だからこそ、初夏の学園祭あたりで、亜由美の心が急速に慎治に傾いていると悟ってからも、双方との縁を切る気にはなれなかったのである。
*
「しかし、みごとなもんだ」
昭和団地サイズの所帯じみた2DKを、ここまで生活感なく使えるか――何度か泊まりこんだ勇介も改めて感心するほど、慎治の部屋は片づいていた。
当然入居時にリフォームしたのだろうが、その後一年半たっている男所帯なのだから、シンクやガスレンジなど、もう少し不潔感がなければかえっておかしい。時々は亜由美の手が入ったにしても、慎治の美意識自体が徹底していたのは確かだった。
二畳ほどのキッチンに面する畳敷きの四畳半は、炬燵や洋箪笥に、テレビやオーディオセットまで並んでやや庶民的な風合いだが、その奥の板敷きの六畳は、整然と組まれたパソコンデスクに整ったベッド、四方の壁を隙間なく埋めている同型の書架、判型ごとに几帳面に背を揃えている大量の資料類――もはや四角四面そのものの書斎である。
「いつも思うんだが、こりゃ文系男子の部屋じゃないよな」
ちなみに慎治は日本文学専攻、亜由美は英文学、勇介は政治経済である。
「そうかしら」
自身も整頓癖のある亜由美は、先日訪れたばかりの部屋を、どこか懐かしげに見渡しながら言った。古書の匂いに紛れて、ほのかに伽羅の残り香が漂っている。
「図書館みたいで、私は好きだわ」
いかん、下手なことを言うと藪蛇になる――整頓癖のまったくない勇介は、早々に話題を変えた。
「いっそ滅茶苦茶に荒らされてたほうが、警官呼べるんだがな」
「じゃあ、目茶苦茶にする?」
「それは後にしとこう。俺としては、今現在のあいつの懐具合が知りたい。ここ半月、ちゃんと食ってるかどうかだな」
慎治がほとんど無駄金を使わない主義であることは、勇介も熟知していた。いつも最低限の現金しか持ち歩かない。大学にほど近い神保町の古書街で、稀書を漁るのに何度かつきあったことがあるが、たいがい内金だけ払って、残金はそのつどATMでおろしていた。クレジットカードもほとんど使わない。唯一の例外は、亜由美関係の出費、それと香木くらいのものだろう。
「通帳は、ここにあるはずだけど――」
管轄を委譲しても、委細は先任者の経験でしか解らない。亜由美は書架の縁に置いてあった蒔絵の香道具箱をずらし、書籍の一部をなにやら移動し、その奥から小ぶりの手提げ金庫を取り出した。
「でも、記帳なんて、月初めに一度しかやらないわよ」
「よく知ってるな」
「私が代わりにやってたから」
それは「月初めまで夫婦同然でした」と明言するのと同義である。
うわあ、こいつ、ぬけぬけと言ったよ――勇介は思わず嫉妬の念を抱いた。しかし、まあそのくらい馬鹿正直な方が後々禍根を残すまいと、納得することにした。
亜由美は手慣れた手付きで金庫の電子キーを押し、蓋を開いたとたん、顔色を変えた。
「…………」
そのまま呆然と固まっている。
「……空だな」
「……うん」
金庫の中には、まるで逆さに振って何かに移したように、紙片一枚、塵ひとつ残っていなかった。
勇介は、青ざめてゆく亜由美の顔を見つめながら、自分の顔もそんな色になるのを、ありありと感覚していた。
「……あのなあ」
「うん」
「あいつ、例の相続にケリついたとき、確か会計士とも縁切ったって言ってたよな。今どきパソコンひとつあれば自分で管理できる、とか言って」
亜由美は、こわばったまま、こくりとうなずいた。
「上場株は電子化したにしても、他の株や有価証券だって、あいつの家ならへたすりゃ億単位で――いや、待て待て」
勇介は、混乱する思考を正すように額をおさえ、
「いくらなんでも、そんなもん、こんな部屋に置いてるはずないな。どこか立派な貸金庫に――」
亜由美が震えるように頭《かぶり》を振った。
「――だから、その貸金庫の鍵もないのよ」
勇介は数瞬沈黙した後、いきなりデスクに走り、掌を叩きつけるように、マイクロタワー型パソコンの電源を入れた。BIOS設定の起動パスワードは、何度も当人の操作を見て覚えている。昨日今日の仲ではない。亜由美という微妙な要素を介在しながらも、数年続いた俺お前の仲である。
しかしパスワードを入れても、見慣れたWindow起動画面は現れなかった。事務的なアルファベットの、起動ディスク不在告知で固まってしまう。
「くそ!」
勇介は、苛立たしげにパソコンの横蓋をロック解除し、むしり取るように引きはがした。
本来見えてはいけないIDEケーブル端子が、他のケーブル類の奥で、冷却ファンの気流に虚しく揺れている。
「……ハードディスクを抜きやがった」
もはや傷心旅行といったレベルではない。意図的な失踪である。
亜由美は半泣きで勇介の胸ぐらをつかんだ。
「どうしよう。慎治、死んじゃう」
「死ぬ奴が全財産持ち出すか!」
亜由美は真意を探るように勇介を見つめ、それから、あ、そうか、と我に返ったが、どのみち半泣きはおさまらない。
「……どこかに逃げちゃった? 私のせい?」
「あいつはそんなヤワな奴じゃない!」
勇介は声を荒げた。
「そもそもお前が惚れてたのは、俺らにそんな、あてつけがましい真似する奴か?」
だからこそ問題なのである。
慎治は何か他者の関与する、のっぴきならない事態に関わってしまったのではないか――。
そのとき、勇介の携帯が鳴った。デフォルトのままの、そっけない着信音である。
はっとして表示を見ると、発信者は高校時代の同級生、新海だった。
固唾を飲んで覗きこむ亜由美に、勇介は、落ち着け落ち着け、とうなずきながら、自身も懸命に動悸を静めた。
「――おう。俺だ」
『よう、久しぶり。こないだ桜木の奴に聞いたんだけど、お前、至誠堂に決まったって?』
「まあな」
『すごいなあ。俺なんか片っ端から全部落ちて、結局親父の店、継がなきゃならん。一生パン屋で終わるよ』
冗談めかして卑下しているが、新海は立派な老舗ベーカリーの息子である。自店ビルに小洒落た喫茶店を併設して、世間中不景気の昨今も羽振りがいい。
『で、さっきのメールな』
「おう」
『あのイケメンなら、こないだ見かけたぜ』
ガッチャ、と勇介は亜由美に拳を挙げて見せたが、不安が払拭されたわけではない。
「――どこで?」
『店の前』
「と言うと――桜田通りか」
『いや、本店のほうだ。ほら、六本木通りの古いやつ』
「おう、西麻布交差点とこな」
『そうそう。俺、こっちを継ぐんで、ここんとこ暇ができると修行させられてるんだ』
亜由美も勇介に頬をすり寄せるようにして、耳をそばだてている。
「いつ見かけた?」
『うん。半月くらい前だな。定休日の次だったから、木曜だ。木曜の夕方ちょっと前』
あの日だわ、と亜由美が視線で訴える。
『暇なんで店の外ながめてたら、なんか南麻布のほうから、横を通りすぎてく奴がいたんだよ。足元がおぼつかないっていうか、ふらふらふらふらしててな。酔っぱらいにしちゃ時刻が早いだろう? 気になって、ずっと見てたんだ。そしたらそいつ、そのまま信号無視して、交差点渡ってくんだよ。ふつう、あそこでそれやったら死ぬだろ? あわてて店から飛びだして、横の交番のお巡りに競り勝っちまったりして、よく見たら間宮の奴だったんだ』
「まさか、あいつ車に――」
『いや、これがびっくり超魔術。シラフの俺やお巡りでもビビってる先を、ふらふらふらふら、不思議にうまいこと渡りきってな、そのまんま、まっつぐ歩いてっちまった。あいつ、まだ親御さんや家の件、引きずってんのかな。しこたま飲んでから墓参りってのは、奴らしくないだろう?』
――墓参り?
勇介と亜由美は怪訝な視線を交わしたが、一瞬後には、うなずき合っていた。
「……そうか。そこから、まっすぐ行くと」
『ああ、青山霊園だ』
2
――夢に夢見る。
そんな成句を初めて知ったのは、いつだったろう。
愛妻と睦まじく唇を重ねる夫の識域で、ふと自分が間宮慎治であることにも覚醒してしまった間宮春樹は、絹枝のこぢんまりとした、しかし求肥のように柔らかい唇の弾力を、ついこの朝にも触れたはずなのに異様なほど懐かしく感じながら、漠然と、そんなことを思っていた。
自分はいつもの道筋を、いつものように帰宅した。
同時にその道筋は、まったく見知らぬ街路でもあった。
夢に夢見る――。
そんな成句がしきりに親しく思え、茉莉花の香りに溶けてしまったような脳髄の、記憶の奥を探ってみる。
昔、同じ学習院から帰宅しても家で勉強ばかりしていた兄たちと違って、近所の友達と外遊びに耽っていた初等科のころ、心配した父親に買い与えられ、なかば強制的に読まされるうちにすっかり嵌ってしまった、博文館の『少年世界』だったろうか。いや、その記憶は、明治二十八年に生まれた間宮家の末弟・間宮春樹の記憶ではあるが、昭和の末に生まれた嫡子・慎治としての記憶ではない。
ならば、中学時代に読み耽った江戸川乱歩全集だったろうか。『うつし世はゆめ よるの夢こそまこと』――そう、それなら確かに慎治の記憶だ。しかし春樹は、当時から雑誌『新青年』を愛読していたが、まだそこに乱歩の名が登場するのを見ていない。
それでは高校時代に入れあげていた泉鏡花――そう、鏡花なら、確かにふたつの記憶が重なる。しかし、あの虚実皮膜を越えた創作世界では、現世も夢も誠も嘘も、同じ人の世のなりわいだった。そこにおいて、あえてそんな成句は使われなかった気がする。
『夢に夢見る』――。
とうとう記憶の源は見出せなかったものの、同じく愛読した作家の名に思いあたり、春樹と慎治は、ともに夢に夢見る思念として、絹枝の夫というひとつの肉体の中に渾然と並び立った。
自分はいつもの道筋を、いつものように帰宅した。同時にその道筋は、まったく見知らぬ街路でもあった。そしてどちらの記憶をも、自分は対等に現実であるとしか認識できない。ならば、その双方が真実なのである。
口づけの途中で舌を納め、なにか黙考するように身を引いている春樹に、
「……どうなすったの?」
絹枝は、本来古風な切れ長の目を小鳥のように丸くして、小首を傾げた。
「猫に舌を食いちぎられちゃった?」
しばしば彼が彼女を『僕のシャム猫』と呼んでからかうのと、西洋で寡言を咎めるときの形容を、掛けているのだろう。
「……いや」
春樹と慎治は同時に微笑んだ。
「でも、もうすぐ食いちぎられそうな気がしたよ」
絹枝が頬を染める。
「だって、ずっと心配していたんですもの」
「僕は、そんなに君を待たせてしまったのかな」
一瞬翳りを帯びた夫のまなざしを気遣うように、絹枝はそっと頭《かぶり》を振った。
「朝に別れたきりだわ」
なにか遠い刻の隔たりが胸臆に疼き、慎治は底知れぬ違和感を覚えた。
しかし春樹は、妻の言葉を事実として受け入れながら、ふと、まったく別の種の、大いなる齟齬を感じていた。
「ここは……少しも壊れていない」
帰宅前の昼の記憶が、忽然と脳裏に蘇る。
それは、鳴動する天地と、業火の記憶だった。
「……揺れた。何もかもが、ひどく揺れた」
思わず腰が砕け、春樹はその場にうずくまった。
「ニコライ堂の鐘楼が崩れ落ちて……大学も病院も次々に崩れ……街中が燃えていた」
高台から逃れてきた人々は、確かあの浅草十二階、凌雲閣が折れるのを見たとも叫んでいたのではなかったか。やがて駿河台の坂下から奔流のように吹き昇ってきた炎に、それらの人々も、自分たちも、ぼうぼうと炙られながら逃げ惑い――そんな激しい苦痛と恐怖の記憶は、いっとき彼の思考から慎治を駆逐した。
片膝を落として瘧のように震える春樹を、頭ひとつ小さい絹枝がふわりと覆い、滑らかな両の掌と、真綿のような頬をもって慈しむ。
「大丈夫。もう、どこも揺れていないし、どこも燃えていないわ」
その肌に癒され、衣擦れのささめきに全身を包まれながら、春樹は子供のようにすすり泣いていた。
「ここは……無事だったんだね。君は、無事だったんだね」
「ええ。そしてあなたも、ご無事なの」
絹枝は春樹の頭頂に頬をすりよせ、悪夢に目覚めた幼子を言い含めるように、甘い息で囁いた。
「あなたがお帰りになるところは、ここしかないんですもの」
なんの理屈にもなっていない。
「あなたがお帰りになるところで、私も永遠に待っていますわ」
理屈ではないからこそ、春樹はなんの懐疑も覚えず、その蠱惑的な息を胸深く吸いこんだ。
するうち、またひとつの記憶が蘇り、
「――畑は無事だろうか」
春樹は、はっと顔を上げた。
まだ足元の定まらない春樹を、絹枝が横から支え、ふたりは奥の大窓に歩みよった。
南の露台に面した大窓には、他の小窓と同じレース地だけでなく、厚手のカーテンも重なっている。その古風なゴブラン織りのリーフ紋様を絹枝がたぐると、すでに屋外は暮れきっており、観音開きの硝子戸の面《おもて》には、室内の白と、よりそうふたりの姿だけが映っていた。
沈静しはじめた春樹の中で、己の居所を探しあぐねていた慎治もまた、同じ絹枝の甘い息づかいをよすがに、ふたたび識域の表に浮上する。
硝子に映る夫の顔は、世間の尺度で見れば確かに端正なのだろうが、自分では顎が細すぎて柔弱に思え、春樹も慎治もあまり好きではない。
妻の顔は、結ばれた十七の頃とは違い、近頃とみに可憐さよりも美しさが勝ってきているように思う。
それにしても、あの亜由美という娘は絹枝に似ていた。
それにしても、この絹枝という娘は亜由美に似ている。
それら本来ふたつの感慨も、彼の中では、ひとつの相似に対しての茫漠とした思いとなっていた。
鏡像の世界からまじまじと自分を見つめる夫の視線に少しはにかみながら、絹枝は、そっと硝子戸を押し開いた。
すでに馴れきった鼻にもなお濃厚な、見えない濃霧のような芳香が、一種の粘り気さえ感じさせながら南洋の風にのって室内に流れこんだ。
ふたりは夜の露台に歩み出た。
朧な月の光に沈む丘陵の、ゆるやかに波打つ起伏が幾重にも連なり、彼方の闇に届いている。
その起伏は、部分的に見れば斜面とも言えぬほどの、ほぼ平坦な濃緑の夏草の畑であり、さらに目を凝らせば純白の星形の細花が、漣の燦めきのように、一面に敷きつめられているのだった。
Jasmine Heights。
この家と花園を守らなければ――。
春樹は改めて決意していた。
しかし帝都は、あの惨状だ。出資を求めようとした先々も、とうてい無事とは思われない。俺の懐は、もう底をつこうとしている。この上、俺に何ができるというのか。
待て――俺は、いったい何を戯けている?
俺にはまだまだ、充分な手駒が残っているのではなかったか。
春樹と慎治の狭間で一瞬とまどう彼に、
「……明日もまた、お出かけになるの?」
絹枝はそう囁き、細身の猫のように身をすり寄せてきた。
「いや」
慎治は、眩惑している己に、活を入れた。
「いま一度、策を練ってからにしよう」
嬉しげに見上げる妻の、若草のような断髪を指で愛しみながら、
「しばらくはここに、君と、こうしているよ」
遙かに広がる夏宵のジャスミン畑をも、慎治は愛おしく、時を忘れて眺め続けた。
3
朝のラッシュと昼の喧噪の間で、都心の地下鉄も席の空く時刻である。
港区に向かう車内、亜由美の掌中で、勇介の携帯が短く振動した。
亜由美は送信の指を止め、着信メールを開いた。
【Re.お久しぶりです】
並んで座っていた勇介が、液晶画面を覗きこんだ。
「朝倉部長から返信だ」
例のスパム・メールもどきが、順調に拡散を続けているのである。
「克子先輩?」
「ああ」
うなずく勇介の表情には、期待と不安が同時に浮かんでいた。
朝倉克子は、高校時代の香道部の部長である。勇介たちが入学した時点ですでに三年だったため、夏前には後輩に部長の座を譲り受験の準備に入ってしまったが、それからも『お局様』と自称してしばしば部室に顔を出し、結局、卒業するまで気さくな姐御らしい存在感を保っていた。
しかし、あれからもう数年が過ぎている。今の朝倉にとって、勇介はあくまで慎治や亜由美同様、単なる過去の一後輩である。その程度の相手からのメールにわざわざ即返してくれたなら、それは慎治の目撃情報でしかありえない。
やあやあ。こちらこそお久しぶりの、お局様だよん。
で、勇介君、わざわざどしたの?
仲良しトリオ、解散しちゃったの?
慎治君なら先週、ひとりサミしく、うちに遊びに来てたよ。
あたしゃ一年中、ひとりサミしく、書庫でくすぶってます。
随時メール応答可(でもナイショよ)。
おやつどき、および飯どきなら、通話も可。委細面談尚可。
んじゃ、そーゆーことで。
外見《そとみ》には長身の優等生といった風情の朝倉だったが、根は剽軽なのである。社会人になっても、あいかわらずらしい。
メールの『先週』という文字に、勇介と亜由美は顔を見合わせた。
亜由美や新海が最後に慎治に会ってから、少なくとも四日以上経過していることになる。
「克子先輩、司書になったんだよね?」
「異動してなきゃ、中央図書館にいるはずだ」
「それって、記念公園の中の?」
「ああ。新海の店から十五分も離れてない。一キロくらい白金寄りだな」
勇介は周囲の乗客に気兼ねしながら、朝倉の携帯を呼び出した。時刻は十時十分、今がその『おやつどき』である。
慎治が何を考えているかは解らないが、あの近辺で動いているなら、なんとかつかまるかもしれない――勇介は緊張して応答を待った。
『やはっ! 懐かしの明朗快活少年!』
いきなり響いた軽躁病的な挨拶に、勇介は思わず脱力した。
「……もう青年です」
『おうおう、生意気に口答えしよる。男子三日会わざれば刮目して見よ? もう夕陽に向かって果てしなく駆けたりしない?』
「……あいかわらず、昼前からテンション高いですね、部長」
『そう? 近頃めっきり愁いの色が濃くなったって、ここいらじゃ評判なんだけど。お局別れて三日なれば刮目して相待すべき女っぷりだあな』
隣の亜由美も、つい不安を忘れて失笑している。
『おや?』
勘も耳もいい朝倉は、その気配に気づいたようだ。
『もしかして、亜由美ちゃんもいっしょ?』
亜由美が改まって携帯に口を寄せた。
「はい。お久しぶりです、先輩」
すると、数瞬の沈黙を経て、
『――慎治君の件ね』
朝倉の声も、妙に改まっていた。
「はい」
『あんたらに何があったか知らないけど、実はあたしも気になって、色々アレしてたんだわ。慎治君、まあ昔から孤高の人って感じだったけど、あんまり様子がアレだったんでね』
「……そんなに、おかしかったですか」
『いや、おかしいっちゃおかしいんだけど――たとえば大正風俗とか芝区地誌とか復刻東京市十五区とか台湾総督府とか二酸化炭素抽出法とか」
「は?」
いきなり繰り出された言葉の群れに、勇介は面食らった。
理解できる歴史的単語、漠然とした内容だけは想像できる書籍名らしい単語、あるいは多くの一般人には縁がないが、一部の業界関係者や趣味人なら知っていそうな化学用語――しかし、それらが今の慎治とどう重なるのか、まったく想像できない。
「とにかくお伝えすべき情報量が多くて、おまけにちょっと複雑なんだわ。今、アナウンス聞こえたけど、日比谷線の中でしょ? 今からこっちに寄れない?』
もともと新海の店を訪ねるため、六本木駅をめざしている。ひと駅乗り越して広尾で降りれば、朝倉の職場はすぐそこだ。新海のほうは単なる事後確認だから、後回しでかまわない。
一も二もなく、勇介と亜由美はうなずきあった。
*
広尾駅から有栖川宮記念公園に向かう百数十メートルの道筋は、地下鉄に乗る前の雑然とした駿河台学生街から、一足飛びに西欧の街角にでも出てしまったような錯覚を覚える。
昨今の日本、路傍の建物や店構えなどは、繁華街であるかぎり地方も都会もさほど変わらないが、同じように瀟洒な無国籍風のカフェでも、テラスで談笑している顔の半数近くが西洋顔で占められていれば、印象は豹変してしまう。
無論西洋人だけではなく、アフリカや中東から南米に至るまで人種は様々なのだが、多くはその周辺に散在する各国大使館と、それらに付帯する職種の人々だからか、生活感そのものに格上の余裕が見える。たとえば公園入口横のマーケットで買い物をしている、一見質素な母親たちの会話のみならず、彼女らの押すバギーではしゃいでいる色違いの幼児たちの片言までが、奇妙に洗練されて聞こえるのだ。
勇介や亜由美が育ったのは、そうしたエリアをやや南に外れた住宅街だが、広尾駅界隈も十代前半からテリトリーに入っていた。当時はそんな空気になんの違和感も覚えず親しんでいたのに、成長すればするほどどこか面映ゆく感じてしまうのは、やはりこの国の成人社会が、いまだに狭い島国根性を堅持しているからなのかもしれない。
しかし、そこから有栖川宮記念公園に足を踏み入れると、また風情は一変する。武蔵野の傾斜地を巧みに活かした園内は、欅などの木々に鬱蒼と覆われ、昼なお暗いといっても過言ではない。その仄暗い杜を、湧き水による谷川が、とろとろと縫い流れている。
ふたりは渓流に沿って遊歩道を遡った。木々の落葉する今の季節は、濃緑の頃よりもかえって明るい。それでも裸の枝々が幾重にも交錯して陽射しを遮り、汀《みぎわ》の岩陰をよぎる都会の鼠さえ愛らしい野鼠に見えるほど、ほとんど深山の趣だった。
渓流の木橋を渡る勇介たちの横を、就学前らしい子供が数人、もつれ合いながら駆けていった。金髪も黒髪も、黒い瞳も碧眼も、男児も女児も、笑顔の質は皆一様である。
その無邪気な歓声に惹かれて、亜由美はつかのま立ち止まった。
子供たちを見送る亜由美の微笑に、悔悟にも似た寂しさを読み取ってしまった勇介は、一言もなく、ただ身振りで先を促すしかなかった。人は誰も子供のままでは生きられない。
やがて深山はあっけなく終わり、近代的な白い直方体の複合建造物、都立中央図書館が見えてくる。
正面入口に回る前に、側面の事務用出入り口の前を通りかかり、勇介はその場で朝倉に簡略な到着メールを入れた。図書館の内部事情は知らないが、どこで何をしているか判らない職員に会う手順は、当人に訊くのが一番だ。
ほどなく返信があった。
『左下方を見よ』
この図書館には、一般利用者の入れない地下書庫が何層もあり、地下一階には事務室や研究室もある。書庫は当然、紫外線や粉塵対策、温湿度管理、さらには一酸化炭素や二酸化炭素濃度まで配慮された密室だが、お役所関係施設だけに組合がやかましいのか、職員の居場所には地階でも陽光が届くよう、側面に広々とした明かり取りのスペースが掘り下げられている。
勇介たちも、過去に何度か利用したときに地階の窓を見下ろし、はて、あの授業中の職員室を何倍にも広げたような、人影のほとんど見えない事務机の群れはなんだろう、などと思ったものだが、今、その窓際の、雑然と書類や書籍の広がった事務机から、シックな紺スーツ姿の朝倉克子が、はじけた中学生のように両手を振り回しているのだった。その身振り手振りから察するに、どうやら「そこで待機せよ」と言っているらしい。
まもなく事務用出入り口から、当の朝倉が現れた。
「や、や、や。おひさの、おまた」
仕事着から一転、大ぶりのスポーツバッグを下げたウインドブレーカー姿は、まるで試合に向かう女子バスケ選手のようだ。
いつのまにかマスクをかけているので、
「お久しぶりです。克子先輩。お風邪ですか?」
亜由美が挨拶もそこそこに気遣うと、
「けほけほ、けほ」
朝倉はわざとらしく咳きこんで、
「いやあ、なんか、ついさっきっから突然持病のインフルが――なんつって、サボリよ、サボリ。この時期フケるにゃ、これが一番でしょ。みんな顔色変えて追い出してくれるもんね」
勇介は苦笑して、
「暖かそうな職場じゃないですか」
「おう。そりゃあんた、石原先生健在な限り、都職員の貴族性は保証されてるんよ。浪花のシブチン野郎とは訳が違うわな」
朝倉は公園に出てからも、本来の用件とは無関係に、育ちの賤しい人間がトップに立つと知的文化は滅びるとか、世の中にはノーブレス・オブリージュでしか守れない土俗があるとか、どこかの知事が聞いたら激怒しそうな私論を並べ立てた。
ひとしきり口を動かしたのち、
「――で、あたしらは、どこに向かっているのかな?」
半分呆れて朝倉の講釈を聞いていた勇介と亜由美は、我に返って、落ち着いて話のできそうな場所を思い浮かべた。
「慎治の件で、これから新海の店に寄ろうと思ってたんですが」
「シンカイノミセ?」
朝倉はあくまで香道部の先輩で、勇介たちのクラスは知らない。
「西麻布交差点とこのパン屋、というか喫茶店です」
おう、ぴったんこかんかん、と朝倉は大きくうなずいた。
*
外苑西通りを六本木通り方向に歩きながら、勇介と亜由美は、これまでの経緯を、あらかた朝倉に打ち明けた。
最初はそう深い事情まで話す気はなかったのだが、昔と変わらず屈託のない姐御っぷりの朝倉は、自然、無類の聞き上手でもある。特に亜由美は、高校時代、女子部員の微妙な相談事などに関して、朝倉がいかに賢明であったか知っている。口も堅ければ、開きどころも過たない。
「なるほど、そりゃ心配だわねえ」
すでにマスクを外した朝倉は、ひととおり相槌を打ち終えると、
「でも、あたしの気がかりと、そちらの心配が、どうリンクするやらしないやら……」
言い淀みながら、スポーツバッグの外ポケットをまさぐり、携帯を取り出した。
「とりあえず、ちょいと、こちらをご覧あれ」
液晶画面に、縦位置の静止画が表示される。
「ないしょよ。勤務中に利用者を盗撮したなんてバレたら、懲戒くらっちゃうから。今日こんな話になるって知ってたら、プリントしといたんだけどね」
それでもフルワイドVGAの画像は、充分鮮明だった。
近代的な書架の間で、書物を検める慎治の立ち姿が写っている。
「とりあえず先週の水曜、慎治君、こんなんだったんだわ。亜由美ちゃんが最後に会ってから、えーと、ひの、ふの、みの、よの――六日後ね」
慎治の服装に、勇介と亜由美は思わず首をひねった。
異様なまでに古風な、洋風の、黒い正装姿である。
「えと、念のため。慎治君、そこまでむやみにキメる奴だった?」
「……いえ、一度も」
亜由美が頭を振った。
「最後に会った日も、セーターにジーンズと、ふつうのハーフコートで」
勇介も首を傾げ、
「タキシードやモーニングくらいなら、持ってたんですが」
「ほう。じゃあ、もしか、こんなのもアリ?」
「いえ。前に亜由美のお姉さんの結婚式に出たとき、冗談半分にオーダーしただけで。俺と揃いで」
「うわあ」
朝倉が大袈裟に驚いてみせた。
「学生が冗談でそーゆーのを誂えやがるか。まったく有産階級の奴らはよう。これだからあたしら無産階級は、いつまでたっても蟹工船状態なんだよなあ。ぶつぶつぶつ」
先刻とまったく逆のことを言っているが、どちらも冗談と本音の半々らしい。
「まあそれはちょっとこっちに置いといて――えーと、横向きなんでちょっと見にくいか。もう一枚、前から撮った奴が」
朝倉は、別の画像を呼び出した。
こちらは図書館を出たあとらしく、革のトランクを手に、横庭を歩く慎治の姿が写っている。館内からガラス越しに狙ったのだろう。
「その服装、委細は省略するけど、服飾史上モーニングより古いんだわ。いわゆるフロックコート、それもダブルの前合わせときた日にゃ、今どき結婚式の花婿だって着やしない。夕日の三丁目でも太平洋戦争前でも、すでに時代錯誤。まんま汽船に乗って霧の倫敦に渡りゃ、シャーロック・ホームズの上客になれるという。つまり大正ロマンとか、下手すりゃ坂の上を雲が流れちゃったりするシロモノね。あたしゃ文庫室で話したとき中身も拝見したけど、ウェストコートからズボンまできっちり一式、仕立てもマジな骨董品よ」
ふたりは困惑しながらも、朝倉の解説には、確かにうなずけた。歴史物の映画やドラマに登場するオールドファッションに似ていながら、肩幅のシルエットやズボンの裾など、全体のバランスが、妙に古めかしい。世界史の授業で見せられた、NHKドキュメント『映像の世紀』のようだ。
しかし何より異様なのは、服装そのものよりも、それを着用している慎治の姿にまったく違和感がない、そのことだった。
画像を見つめる亜由美の顔に、深い翳りの色が浮かんだ。
自分は、あまりに長く身近に慎治と接するうち、慎治の本質を見失っていたのかもしれない。彼が高校時代から漂わせていた、古雅な薫香のような奥ゆかしさを、いつのまにか現代的な薄弱さと混同していたのかもしれない――。
朝倉は、そんな亜由美のとまどいも、それを気遣わしげに窺いながら何も言えずにいる勇介の胸中も、薄々感じとっていた。しかし、そうした心のもつれは、たとえ身内だって軽々しく踏みこんでいいものではない。いわんや一介の先輩においてをや、である。
「――で、写真には写ってないけど、もうひとつ、念のため」
朝倉は軽い口調のまま、先を続けた。
「慎治君って、昔もたまにコロンの香りがしてたけど、その後、妙な香水の趣味に目覚めた?」
「香水……オードトワレなら、ときどき」
「昔と似たような、柑橘系だったよな。確か柚子がベースで」
「うん。イッセイのトワレ」
「そっか。じゃあ、やっぱりそっちも、おかしかったんだわ。実は慎治君が図書館にいる間、ずーっとジャスミンの匂いがしてたのよ。これがもうすばらしく純な匂いでね。まるで、ついさっきまでジャスミン畑で転げ回ってました、みたいな」
「ジャスミン……」
亜由美の表情が、さらに曇った。
ジャスミン単独の香水は、一般に多くない。あるにしても、通常、男が昼間から使うには甘すぎるのである。
――女がいる? しかも、肌を接するほど身近に。
勇介にも、亜由美の懐疑は察知できた。
「いや、でも、たとえば……今のねぐらで、アロマテラピーとか」
朝倉は、もうちょっと言い方を考えるべきだった、と後悔しながら、
「そうそう。別に香水って決まったわけじゃなし」
しかし亜由美の顔は、険しいままだった。香炉ならいざ知らず、慎治が自室でアロマポットを使う姿など、一度も見たことがない。
「まあまあ、とりあえず、腰を落ち着けましょ」
朝倉が気を変えるように言った。
「ふと気づけば、あたしらはすでにシンカイノミセの真ん前にいるのであった、まる、と」
4
西麻布交差点は、首都高速の高架が屋根となって、日陰が多く雑然とした趣である。角地に立つ新海ビルも、造作は古い雑居ビルそのもので、あまり風采は上がらない。
しかしその周辺に一種のステータスがあり、六本木ヒルズを中心とした華やかな再開発地域にも近いためか、新海の店はなかなか繁盛していた。一階のベーカリーも二階の喫茶室も昼前から客足が絶えないようだし、三階四階の貸オフィスにも、そこそこ知名度のあるアパレル会社が事務所を構えている。
階段を上がる前、勇介たちは、あの日慎治が渡って行ったという高架下の交差点を、青山方向に見透かしてみた。少し先のY字路に挟まれて広がっているはずの青山霊園は、直前のビル街が壁となって見えなかった。
勇介たちが二階の小綺麗な喫茶室に落ち着き、新海の携帯を呼び出すと、
『おう、早いな。でも悪い。今ちょっと、修行の真っ最中なんだわ。昼休みまで時間つぶせるか?』
正午まで半時間ほどである。勇介は逆に詫びを言って、通話を切った。
「ちょうどいいわ。あたしの話も、そう長くないから」
朝倉は横の席に置いたスポーツバッグを漁り、無造作に折りたたまれたコピー用紙を取り出すと、テーブルの上に広げた。
「さっきは地下でデスクワークやってたけど、あたしゃ、基本的には五階の特別文庫室に詰めてんのね。ガッコでの専攻も、江戸和本だったから」
「文庫室?」
勇介が訊ねた。愛書家の亜由美や慎治は、中学から高校にかけて頻繁に中央図書館を利用したが、勇介は実用書関係でたまにつき合う程度だった。
「別にちっこい文庫本が並んでるわけじゃないわよ。亜由美ちゃんなら判るよね」
「はい。私は利用したことありませんけど、加賀文庫とか、市村文庫とか」
「そう。つまり昔の有名な愛書家さんやら学者さんやらが集めまくった、江戸後期やら明治やら、えらい古臭い本ばかり、寄贈されたり購入収集したり、そんな、めいっぱい黴臭いとこね。もっともカビないようにするのが図書館の仕事だし、唯一無二の文献が多いわけだから、大事なとこはしっかり書庫にしまっといて、マイクロフィルムや複製を閲覧してもらうんだけど」
つまり時代劇に登場するような形の書物が多いのだろう、と勇介は想像した。
「で、慎治君も、別にあたしを頼って来たわけじゃないのね。あくまで偶然。五階に来る前にも、自力で検索端末いじって、いちんちがかりで一階から四階まで渡り歩いて、なんじゃやらいろいろやってたらしいんだわ。まあ幸い、あのナリとご尊顔でしょ。行く先々のおねいさんもおばはんも、きっちり慎治君のこと覚えててね。開架にない文献は書庫から持ち出してあげたりするわけだから、ある程度、その傾向と対策がわかったんだわ」
これよこれ、と朝倉はコピー用紙を示した。
つまり、地下鉄の中でまくしたてた内容の、プリントアウトである。【大正風俗】【芝区地誌】【二酸化炭素抽出法】【台湾総督府】【地籍台帳・地籍地図「東京」】【復刻東京市十五区・近傍34町村 番地界入】――他にもいくつかの単語が並んでいる。
「個々の書籍名は、それこそ何十冊にも及んじゃうらしいんで、ほとんどキーワードだけね。マジな検索情報も覗いて覗けないこたないんだけど、さすがにクビんなると困るから」
電話の声だけでは判らなかった字面を見て、勇介も亜由美も、ようやく落ち着いてそれらの内容を類推できた。しかし、関連性のありそうな単語に、まったく関連性のない単語も混じり、いよいよ慎治の思惑は掴めない。
勇介は、念のために訊いてみた。
「この【二酸化炭素抽出法】って、俺たちの知ってる、あの【超臨界流体抽出法】なんでしょうか?」
「ん?」
「いや、何か、二酸化炭素そのものを作るとか、別の化学用語もあるのかと思って」
「いんや。あたしもそっちは良くわからんけど、慎治君の探してたのは、あのハイソ御用達アロマオイル、あのナウいほうの抽出法だよ」
花弁の芳香を求めて精油を抽出するには、太古から多々の技術がある。果皮や樹皮の芳香とは違い、ただ搾り取るだけの【圧搾法】では実用にならない。
代表的な例を挙げれば、品質的に格別とされるのは、ルネサンス期に開発された【アンフルラージュ】である。牛脂や豚脂を用いて手作業で抽出する手法で、【油脂吸着法】あるいは【冷浸法】とも呼ばれる。しかし人件費がコストの主体となる昨今は、ほとんど伝統的職人芸として、観光用の呼び物レベルでしか行われない。
現在、普及価格帯の製品に多く用いられるのは【溶剤抽出法】である。この近代的技法は確かに安価に量産できるが、製品に微量の有機溶剤成分が含まれる可能性があるので、肌に用いるには疑問が残るし、アロマテラピーのように純粋に香りそのものを愉しむにも不満が残る。
一般的な高級品として扱われるのは、ローマ時代を起源とする【水蒸気蒸留法】を、近代工業化した製品だろう。ただ、その抽出経過において技術差による品質のバラツキが生じやすく、意図的に品質を落として量産することも可能なため、低コスト量産主義の現代、一概に信用できないところもある。また、当然摂氏百度以上の熱が加わるため、ジャスミン等、一部のデリケートな花弁の芳香抽出には向かない。
そして【二酸化炭素抽出法】――別名【超臨界流体抽出法】は、高圧下で超臨界流体状態となった二酸化炭素を用いる近代的技法で、むしろコーヒーの脱カフェイン等、食品や薬品関係の抽出に多く採用されている。ジャスミンやローズ等の花弁に応用しても、きわめて天然の香りに近い成分が得られるが、精密な機械設備を要するため業者そのものが稀で、ごく一部の最高級品にしか使われていない。
朝倉は続けて言った。
「その【台湾総督府】なんかは、さすがに山のように歴史資料があったんだけど、残念ながら【二酸化炭素抽出法】は、食品関係やアロマ本くらいしかなくてね。慎治君、どうやら香水関係の工業的資料まで探してたらしいんだわ。まさかどっかのジャスミン畑で、香水でも造ろうとしてるとか。とりあえず国会図書館を紹介しといたから、たぶん木曜にはそっちに行ったと思うんだけど、まあ今後、足で聞きこみに回るしかないわね」
勇介と亜由美は、期待薄の顔を見合わせた。都立中央図書館に朝倉がいてくれたことが、すでに僥倖なのである。見ず知らずの若造たちの人捜しに、国会図書館が協力してくれるとは思えない。
続けてリストに目を通し、最後のほうに意味不明の単語が並んでいたので、勇介は、朝倉に聞こえるように読み上げた。
「【白金日和《しろかねびより》】――えーと、次は【岡崎宏傳《おかざきこうでん》】でいいのかな。それと、【茉莉花館《まつりかかん》】?」
「ほい。それのおかげで、あたしは慎治君とご対面できたんだわ」
朝倉はスポーツバッグから、A4よりひと回り大きい、緩衝材入りの封筒を取り出した。
「本来持禁なんだけど、あたしゃこれでも研究者だからね」
大事そうに引き出したのは、菊倍判のハードカバー書籍である。真新しいビニールカバーに覆われているが、中身は古い布表紙らしい。
「『水彩画集 白金日和』――昭和八年の自費出版本よ」
手を伸ばした勇介を、朝倉は、ちょっと待った、と制し、
「お手々ふきふき」
「は、はい」
亜由美もあわてて手を拭き直す。
「この作者の岡崎宏傳って人は、瑞聖寺の近所に戦後まで生きてたんだけど、本来は漢書の研究者兼収集家だったのね。で、その蔵書が遺言で東京都に寄贈されて、今は中央図書館文庫室の所蔵品。まあ水彩画はあくまで個人的趣味、つまりオマケなんだけど、明治後期から昭和の初めまで、白金界隈を中心に芝区のあっちこっちが写生されてるんで、立派な風俗資料でもあるわけよ」
「芝区?」
勇介が問うと、
「ほい。今の港区は、昭和二十二年まで芝区と麻布区と赤坂区、このみっつに別れていたなりよ。ちなみに昭和四十年代前半に住居表示が実施されるまでは、白金台も白金も高輪の一部も、同じ白金地区。これはまあ、今でもいっしょの感覚が残ってるよね」
ほう、と感心しているふたりに、
「そーゆー目で見られると、思わず増長しちゃうぞ。あたしゃ自分が生まれる前のことなら、けっこう明るいかんね。ただし、民主党の鳩山と自民党の鳩山の区別はつかない」
朝倉は、えっへん、と胸を張り、
「で、これは慎治君から直接聞いたんだけど、【茉莉花館】のキーワードで検索すると、唯一、この本が引っかかるんだわ。収録作品名で」
画集の中ほど、あらかじめ栞の挟んであったページを開いて見せる。
「あの頃に自費でカラー出版したってんだから、ハンパなハイソじゃなかったわけね。肝腎の絵は――まあシロトとしては、確かにうまいわな」
雑木林の中に佇む、白い瀟洒な洋館の水彩画である。作品名は下の枠外にゴシック体活字で印刷してあり、ルビはない。ただ、その直上、水彩の芝生が薄くぼけるあたりに、サインよりも大きく、薄緑の筆記体で『Jasmine Heights』と記されている。それが正しい読みなのかもしれない。
「ジャスミン……」
亜由美がつぶやいた。香りの話が、まだ気にかかっている。
「でも、調べてみたら、今の港区のどこにも、こんな建物は残ってないみたい。おおかた戦災で焼けちゃったんだろうね。よって、なにゆえ慎治君がこの物件を検索していたか、神ならぬ身の朝倉先輩には知る由もないのであった、まる、と」
そこに、注文したコーヒーやカフェオレと、本日お勧め品の『桜パン』が運ばれてきた。
「お、来た来た」
朝倉は、そそくさと画集を封筒に戻し、
「まあ芝区地誌とか古地図類も、なんとなく繋がりがありそうなのよね。時代だけなら台湾総督府だってカブるけど――いっただっきまーす」
あんぐりとパンを頬ばった朝倉は、日向の猫のように目を細めた。
「んむ。きっちり甘い。前世紀末なら、ただの頑固親爺物件。でも今となっては、貴重な昭和レトロ物件よね」
臍の窪みに桜の花びらをあしらった、素朴な餡パンである。白砂糖をふんだんに使っているらしく、平成の控えた甘さで育った勇介や亜由美には、少々くどすぎた。
朝倉は、カフェオレに大量の砂糖を投入しながら、
「知ってる? 戦後復興期の旅本には、いちいち駅弁の栄養価が載ってるんよ。で、項目のトップは熱量、つまりカロリーね。もちろんダイエット目当てじゃございませんよ。逆。こんな熱量じゃとても一食分に足んないとか、キビしくツッコんであんの。一〇〇〇キロカロリーもあると、これは立派で嬉しい、とかね」
栄養失調という言葉が、多くカロリー不足を意味した時代の話だろう。勇介は体育会系の友人が多いので、その価値観も解った。
「駿河台の洋食屋にも残ってますよ。『カロリー焼き』とか」
横の亜由美が顔をしかめた。
一度、勇介や慎治といっしょのときに頼んだら、大量のパスタに乗った脂身だらけの豚肉炒めと、さらにライスの皿や豚汁まで登場し、結局大半、ふたりに食べてもらったのである。
朝倉は笑って、
「人間、なんといってもカロリーよ。蛋白質なんて、いちんち一〇〇グラムもあれば充分。特に頭を使いたいときゃ、砂糖が一番」
しかしこの朝倉先輩という人は、昔も今も、なぜこんなに痩せていられるのだろう――呆れ顔のふたりを尻目に、朝倉は、大ぶりの丸パンをほとんど三口で食べ終えた。
「ふう、ごっつぉさん」
豪快にカフェオレを飲み干すと、携帯の時刻を確かめてから、また画像操作を始める。
「で、はい、邪魔が入る前に、とりあえずのツメもやっちまおう」
液晶に呼び出されたのは、先刻も見せられた慎治の正装姿である。
「さておふたりとも、ここにご注目」
縮小表示されていた画像の、慎治の左腕の先を原寸表示にして見せる。元来数百万画素の画像なので、茶革ベルトの地味な腕時計が見てとれた。文字盤もなんとか判別できる。
「これも古そうだな」
一見なんの変哲もないアナログ時計だが、ベルトの形状が独特で、専用の環式らしい。勇介は、腕時計コレクターの友人から、一度そのレプリカを自慢された記憶があった。
「もしかして、オリジナルのローレルですか?」
「ぴんぽーん。さすが、旧家のぼんぼん」
「いや、友達にマニアがいるだけで」
もの問いたげな亜由美に、朝倉が説明した。
「念のため、今のセイコーや、アルブータスの女性もんじゃないかんね。我が国は精工舎の誇る、記念すべき国産初の腕時計よ。あたしゃ慎治君の服装にも驚いたけど、これの正体調べて、もっとぶっとんだんだわ」
勇介が口を挟む。
「でも、確か限定復刻されたんですよね、ミレニアム記念とかで」
「はいはい、ごもっとも。ふつうはそう思うわね。実はあたしも、初めはそう思ったんだわ。けど、ほらほら、これ見て」
朝倉は、文字盤のアラビア数字を指さした。
「てっぺんの『12』んとこだけ、赤いでしょ。復刻版はオリジナルと同じで、ぜんぶ黒。それが『12』だけ、あえて赤い。これって、大体一九一〇年代から二〇年代くらいの、世界的なハヤリなんだわ。で、ローレルの発売は一九一三年、大正二年から。今と違って、当時の世界的なファッション・トレンドが日本に及ぶには、何年かかかると見るのが自然でしょ」
「はい。と、いうことは……」
「うん。あたしゃ大正十年前後の作、つまりモノホンと見たね」
勇介は驚愕した。
「でも、それって、簡単に手に入るもんじゃ……」
「はいな。セイコー時計資料館とか、どっかの博物館とか、年季の入ったコレクターの所蔵品とか。どのみち欲しいと思ってすぐに買うわけにゃいかんわな。目ん玉飛び出るようなオゼゼはあっても、そもそも市場にモノが出てこない」
朝倉は亜由美に顔を向け、
「で、何度もおんなしような質問で恐縮なんだけど、慎治君に、この手の収集癖は? それとも、ご先祖様の形見とか」
亜由美は、黙って頭を振る。
勇介が言い添えた。
「集めるのは、古本ひと筋でした」
「そっか」
朝倉は、とりあえず前置きはここまで、と言うように携帯を閉じ、
「やっぱりね……」
しばらく考えこんだのち、
「――うん。アンコが効いてきた」
脳味噌の具合を確かめるように頭を揺らしてから、亜由美に訊ねた。
「慎治君の身長体重は?」
亜由美は一瞬きょとんとしたが、すぐに淀みなく答えた。
「一七八の、六二です」
「ちなみに大正時代の日本人男性は、平均一六〇弱の、五〇強」
「はい」
「六尺近い大男なんて、ほとんどいないわけ。よって、現存する過去の衣装を、慎治君がぴったり着こなしていたとは、ほとんど考えられないのね」
「はい」
「で、仮に採寸してハンドメイドしたとしても、デザインから生地からウン十年前そのもののシロモノを、六日やそこらで仕立てられるテーラーは、当節、皆無。いや、昔だって納期的に無理かも」
「……はい」
「トドメにオリジナルのローレルとくりゃ、もう結論はひとつしかないでしょ」
朝倉は朗らかに断言した。
「現在の慎治君の居場所は、歴史映画の撮影所。それも黒澤明作品級に、細部の細部までこだわった超大作ね。きっと渋谷あたりでスカウトされて、もう何か月も前から出演が決まってたんだわ。でもほら、慎治君、のんびり屋でしょ。今になって泡食って、シナリオの勉強に奔走してるの」
真顔で言うので、勇介と亜由美は呆気にとられた。
「――んなわきゃねーだろ、おい」
自分でつっこむ朝倉に、勇介は、おずおずとうなずいた。
「……はい」
「ならば」
朝倉は、一転、見るからに悩ましげに、
「おべべも小物も、初めっからぜーんぶ、自前で揃ってたとこだわね」
それから小声で、ありうる場所かどうかはちょっとこっちに置いといて、と、つけ加えた。
*
あちこち談笑の重なる明るい店内の一角、ひとつの席だけに、長い沈黙が続いた。
――結局、疑問が雪達磨式に増えただけだったな。
気落ちして黙りこんでいる勇介の隣で、亜由美は再び例の画集を手に、じっと白い館の絵を見入っている。
「……気に入った?」
朝倉の声に、我に返った亜由美は、
「……はい」
どことなく哀しげな微笑を浮かべ、
「すごく懐かしい気がして……いい絵だと思います」
「ほう。草葉の陰の岡崎翁も、さぞ喜んでいらっしゃることだろう」
まもなく、白エプロン姿のパン焼き職人が、白帽を脱ぎながら上がってきた。新海である。高校時代の軽そうなメッシュ頭が、短い七三になっていた。
勇介は、救われた気分で破顔した。
「お前、ほんとに修行してんだなあ。てっきり、遊び人の若旦那になるのかと思った」
「そりゃなんぼ馬鹿旦那でも、売りもんくらい焼けなきゃ、従業員にツブシが利かないだろう。もっとも、売りもんになるのは当分先だけどな」
新海は、亜由美とも懐かしそうに挨拶を交わしてから、向かいの朝倉に、
「おっと、これはこれは、お嬢様」
朝倉は、なんだあんたか、といった顔で、
「や、丁稚どん」
どうやら旧知の仲らしい。
怪訝そうにしている勇介と亜由美に、朝倉は、
「いや、下のフランスパンがね、むやみにうまいんだわこれが。で、ときどき帰りがけに買いに寄ると、この丁稚どんが、気前よくおまけしてくれるんよ」
新海は苦笑いして、やはり勇介たちに、
「いやな、うちとしちゃ、なんぼ売れ残っても、翌日のラスクに使えるんだよ。でもこのお嬢様、『今どきコンビニだって売れ残りは処分特価だ』とかなんとか、まとめて値切って持ってっちまうという」
「はっはっは。朝倉です。しかしてその正体は、このふたりの先輩、つまりおぬしの先輩でもあるな」
「そうか。なんだか見覚えがあると思ってたら、確か、香道部の部長さん」
「はいな。とゆーわけで、今度からは半額処分ね、若旦那」
「丁稚の試作品でよければ、元値で横流ししまっせ、大先輩」
「やだ。まずそう。でも、ただならもらう」
妙に息のあった会話を交わしながら、朝倉が横のバッグを床に下ろそうとすると、
「いや、丁稚もなかなか忙しい身なんで」
新海は立ったまま、勇介に寄った。
「間宮の奴、やっぱり、どうかしたのか?」
「……ちょっとな」
口ごもる勇介に、新海は、
「まあ、俺としちゃ、朝言ったことしか解らないんだけど」
新海にとっての間宮慎治は、少々風変わりな、過去の一同級生にすぎない。亜由美はそれより親しく思い出も多いが、残念ながら異性としては『合わない』タイプだ。しかし勇介は、できれば今後も長くつきあいたい男である。
「良かったら、お巡りに会わせるぜ」
「お巡り?」
「うん。朝も言っただろう。俺が間宮を追っかけたとき、勝っちまったお巡りだよ。すぐ横の交番にいる」
勇介たちは、思わず腰を浮かせた。
新海は勘定書をつまみ上げ、出支度をする三人を待ちながら、
「あんとき、俺は店があるから追っかけらんなかったけど、お巡りは信号変わってから、しつこく追っかけてったんだよ。でも、結局逃げられたっつーか、見失っちまったらしいんだけどな」
「いや、ありがたい」
勇介は、深々と頭を下げた。
「これで一歩でも先に進める」
あいかわらずだな、と新海が笑った。
5
小さく煤けた交番は、ビルの片隅に目立たなく埋没していた。教会や大使館とは違い、同じ麻布の地で歳月を重ねても、けして由緒には繋がらない造りである。
表に立っていた年輩の警官に、エプロンのままの新海が頭を下げると、
「やあ、若旦那」
あらかじめ話は通っていたらしく、奥の机から、平巡査らしい若い警官が呼び出された。
新海はくだけた口調で、
「お願いします、曽根さん」
勇介たちとの会話では『お巡り』などと言っていたが、すぐ先の商店の二代目としては、当然親しく交流があるのだろう。
勇介たちが自己紹介すると、曽根巡査は、警官らしくない細面に柔和な微笑を浮かべ、
「そちらの方、お昼から珍しいですね。朝倉さんとおっしゃるんですか」
「は?」
朝倉は面食らった。
「えと、その、ワタクシは警察のほうのお世話になったことは一度も……」
「週に一度、夕方、決まってパンの束をかかえて前を通り過ぎれば、誰だってお顔を覚えますよ」
「うわ。こうあっちこっちで面が割れてちゃ、おちおち万引きもできんやな」
行く先々で座を和ませるのも、朝倉の人徳だろう。
「じゃあ、俺、店があるから。また帰りにでも寄ってくれ」
軽く手を上げる新海に、
「悪かったな。恩に着る」
勇介は再度しっかり頭を下げ、あまつさえ握手を求めた。
新海は、勇介の昔からの握手癖を思い出し、気恥ずかしそうに右手を差し出した。
「そのうち立候補したら、一票入れてやるよ」
「なんだそりゃ」
自分の浮世離れに気づいていない勇介に、一同は失笑した。
「それでは巡査長。曽根巡査、これより青山霊――もとい、一丁目方面の警邏に向かいます」
曽根巡査が改まって敬礼すると、
「了解了解」
年輩の警官は、苦笑を重ねて敬礼を返した。地理的には半分が西麻布といっていい霊園だが、あくまで全域が隣の赤坂署の管轄、つまり縄張り違いなのである。
そうして曽根巡査が先に立ち、勇介たちは、青山方面へと交差点を渡った。
外苑西通りの続きを、さらに北に進む。
曽根巡査は、慎治の足取りを説明しながら、
「その間宮さんなんですが――新海さんは泥酔していると思われたようですが、自分には、そうは見えませんでした」
すぐ後に続く朝倉が、
「じゃあ、どんな様子で?」
「はい。心ここにあらずと申しますか、放心状態と申しますか」
曽根巡査は、少し口ごもって、
「むしろ、私には、なにか薬物のような――」
「そんな!」
亜由美は、つい声を荒げた。
「絶対にありません!」
わかってるわかってる、と朝倉がなだめた。
「い、いえ、申し訳ありません。けしてその、違法なものとか、そういった意味ではなく、たとえば処方薬の量を間違われたとか……」
曽根巡査は、恐縮して何度も頭を下げた。
「お気を悪くなさらないでください。なにぶん、このあたりは六本木が近いものですから、夜中など、まあ、いろいろと……」
向精神薬の用途を意図的に誤るような悪戯者を、保護したことがあるのだろう。麻薬中毒者も、少なくないのかもしれない。いずれにせよ、悪戯者であれ常用者であれ、多くは犯罪ドラマのように暴れ回るわけではない。だからこそ臨界が危険なのである。
「でも、それでしつこく追いかけてくれたんでしょ? まあ、できればついでにとっつかまえてくれると、満点だったんだけどね」
曽根巡査が自分と同年輩で、しかもうらなり顔のせいか、朝倉はすっかりタメ口になっている。
「はあ、恐縮の至りです」
「で、霊園の中で見失った、と」
「はい。あそこも北側なら、まず見失うことはないんですが、こちらの南側は、少々入り組んでおりまして」
「うん。知ってる。別にお巡りさんを責めてるわけじゃないから、ドンマイドンマイ」
「ど、どうも」
曽根巡査も、完全に朝倉のペースに呑まれていた。
*
交差点を過ぎて、北に二百メートルも行かないうちに、外苑西通りはY字の左上方向、つまり北西に折れ、そこから北東に同幅の道が別れる。
分岐するY字の底の一角もビル街なので、新海の店のある南側からは墓石ひとつ見えないが、少し先に進めば、塀のようにコンクリートで土留めされた、丘陵状に盛り上がる墓地が見えてくる。
南北およそ九百メートル、東西に三百数十メートル、総面積二十六万平方メートルに及ぶ青山墓地は、その立地と明治五年以来の歴史から、埋葬されている史上の著名人も枚挙に暇がない。また、外人墓地から無縁仏の墳墓まで、そこには無慮数の、首都に生きた命たちの亡骸が眠っている。
しかし昔とは違い、なかば公園化した現在、さほど陰鬱な気配はない。たとえば樹々に青葉の繁る季節、南東にそそり立つ六本木ヒルズの展望台から見下ろせば、そこは墓地というより、広大なひとつの緑地に見えた。
北辺は地形的におおむね平坦で、整然とした区画が明瞭だが、他辺は周囲が低くなるにつれて浮き上がり、高い土留めが外周の道に沿って切り立つ部分もあれば、棚状に整地された部分もある。特に南端は勾配が著しく、斜面に墓石が並ぶような形になる。
その南端から、曽根巡査は石段を登った。
朝倉たちも続いて、冬枯れの立木を抜ける。
傾斜のため不規則に乱れる細道、多様な墓標の間を縫って歩を進め、やがて、やや洋風の墓石が散在する一角で、曽根巡査は立ち止まった。
「ここまでです。このあたりで見失いました」
朝倉は周囲を検めながら、亜由美に訊ねた。
「慎治君の家のお墓は?」
「いえ」
亜由美は、不審そうにあたりを見回し、
「ずっと先の、トンネルのほうです」
霊園は、縦横十文字の広い車道に貫かれており、その東は乃木坂トンネルに続いている。
「そっか、あっちか。じゃあ墓参りなら、ふつう乃木坂駅で降りるね。無駄足だったかな」
周囲に手がかりなし、そう判断した朝倉は、
「さて、ここでうろうろしてても仕方がない。念のため慎治君ちのお墓も、チェックしてみましょ。寄ってるかもしんない」
「はい」
勇介たちも同意する。
朝倉は曽根巡査に、畏まって頭を下げた。
「どうも、お世話をおかけしました。お勤め、ご苦労様でした」
ここまでのタメ口失礼、そんなニュアンスである。
「いえ、本官も、お供します。間宮さんの件も気になりますし、同じ警邏ですから」
「おう、ご苦労」
いきなり高慢な納税者に戻った朝倉は、曽根巡査に代わって自分が先に立ち、東の中ほどに向かった。
「勝手知ったる他人の墓場ってね」
日常的に散歩しているわけではないが、自宅も職場も近いぶん、勇介たちよりは土地鑑がある。
勇介と亜由美が並んでそれに続き、すなおな公僕の曽根巡査は、少し後ろから三人を見守る形になった。
まばらな洋風の墓標を、なにか骨董を見るような気分で行き過ごしながら、傾斜を北東に下ろうとする頃、
「……ねえ」
亜由美が、つぶやくように勇介に訊ねた。
「花の香りがしない?」
「花?」
勇介は、ひとしきり四方を嗅いでから、
「いや。別に、感じないけど」
「でも……これ、ジャスミンの香り」
先を行く朝倉も、それを聞きつけて、
「おかしいね」
ひくひくと鼻を蠢かせ、
「あたしも鼻には自信あるんだけど……この時期、周りも枯れ木ばっかりだし。強いて言えば、かぐわしき排ガスの香りが、そこはかとなく外の道のほうから。――お巡りさんは?」
後ろに離れていた曽根巡査に水を向けると、
「いえ――やっぱり、車の匂いですか」
「おう、同志」
朝倉は、墓標の前に所々残された、萎れた生花の束を認めて、
「亜由美ちゃん、特別鼻がいいからね。慎治君といっしょで。きっとどっかの墓に、それっぽいのが供えてあるんだわ」
さほど気にせず、先に進む。
と、
「……霧」
亜由美が、またつぶやいた。
「……珍しいな。このあたりで、こんなの」
今度は勇介も同意する。
「霧?」
足元の荒れた石畳に気をとられていた朝倉は、
「ちょっと、あんたら何言ってんの? こんなにお日様が――」
振り向いたとたん、絶句した。
直前まで、並んで後ろを歩いていたふたりが、どこにもいない。
「は?」
物怖じしない朝倉も、さすがに愕然とした。スポーツバッグが、肩から地面にずり落ちる。
「え、えと……あの……」
最後尾を歩いていたはずの曽根巡査に、フォローを求めると、
「消えた……」
曽根巡査は、ぽっかりと開けた口がぶれて見えるほど、小刻みに震えていた。
「――あん?」
「き、消えました。す、すーっと、こう、目の前で、すーっと……」
目を見開いたまま、胸元でゆっくりと掌を揺らしている。
朝倉は、我に返って叫んだ。
「んなわきゃねーだろ、おい!」
司書など勤めているだけあって、朝倉は、あくまで知的なロマンチストであり、情緒的にはリアリストである。いくら霊園とはいえ、いくつもの高層ビルに睥睨される大都会、目前の人間が煙のように消えるわけはない。それは幻覚だ。
「あんた警官でしょ! 探すの! はい!」
曽根巡査は、まったく反応しなかった。
「すーっと……」
――駄目だこりゃ。
朝倉は、とにかく身近にそれらしい物陰がないか、何度もあたりを見回した。
しかし、人間ふたり、瞬時に身を潜められそうな墓石や立木は見当たらない。
幻覚が現実になることに恐怖よりも焦燥を覚えながら、朝倉は、晴天下の墓地を見渡し続けた。
「お」
あるではないか。
しかも、数メートルと離れていない。
白い墓標たちの陰、隠れるようにして、蔦に覆われた柵格子らしいものが見える。蔦は落葉しているが、茎自体が密なので中が判然としない。
生身の人間が、一瞬に墓石の列を越えて数メートル移動できるはずがない――そんな現実も忘れて、朝倉は走った。彼女自身も、充分錯乱していたのである。
その背丈を越える高さの柵は、おおむね三メートル四方、どこにも扉らしい部分がなかった。表裏重なった蔦に隠れているのだろう。朝倉は正面と思われる部分の蔦を、むしり取るように掻き分けた。錆びた金属の並びが現れ、裏側の蔦を透かして、ようやく中が窺えた。
「……ありゃ」
瀟洒な白い館が、冬の斜光の底に佇んでいる。
あの水彩画にあった館である。
――茉莉花館?
しかし、その館の屋根は、朝倉の胸よりも低かった。
細密なミニチュアなのである。
――東武ワールドスクエアかよ、おい。
朝倉は呆然と立ちすくんだ。
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