まだ正午まで二時間もあるというのに、スペイン南部、アンダルシア地方の圧倒的な蒼天と陽射しは、すでに摂氏三十五度を超えて、ハイウェイの先、遙かに続く草原のゆるやかな起伏を、路面からたちのぼる陽炎に揺らめかせていた。
四日前、帝国ホテルで披露宴を終え、二次会や三次会で懐かしい旧友たちと羽目を外した後、同じホテルに戻ってスイートルームに一泊、翌日の昼にはパリ経由のエールフランス機に搭乗し、勇介夫婦は夜を待たずマラガの空港に着いた。
それから三日ほど、メルセデスのレンタカーを使って、お定まりのアルハンブラ宮殿やヘネラリフェなど、香里菜の行きたがっていた『まだ見ぬ故郷《ルーツ》』一帯の史跡を回ったので、勇介もすっかり左ハンドルの勘を取り戻していた。
街中の車の行き交いは、日本とは比較にならないほどラフで荒々しいが、それもまた古風な石造りの街並みにふさわしいように思えたし、いわゆる非常識やエゴではなく、いかにも人間くさいアバウトさだから、かえってストレスが少ない。まして今日訪ねているような農村地帯を貫くハイウェイなら、誰もが速度制限など気にせず、片手ハンドルの鼻歌走行である。
二〇二三年、令和五年、六月二十二日――。
あの大学最後の冬から、すでに十五年が過ぎていた。
「いい国だな」
勇介は上機嫌で、助手席の新妻に語りかけた。
気温が何度だろうと、地中海性の乾いた風は心地よい。
香里菜は、バンダナで軽くまとめた豊かな黒髪を風に波打たせながら、誇らしげに笑った。
「いい国なの」
「初めて来たくせに」
「ママの生まれた国だもの」
香里菜の父方は皆日本人だが、母方の祖母は生粋のスペイン人、祖父はスペイン在住の中国移民二世である。それら欧亜の血がほどよくブレンドされて誕生した娘は、一種西洋人形のような顔立ちと、たおやかな長身と、日本女性以上に漆黒の髪を備えていた。
勇介が、そうした彼女の容貌に惹かれて長い独身生活に終止符を打ったのではないといえば、当然嘘になる。といってステロタイプな混血女性嗜好に捕らわれたわけでもない。
あの冬を経てから、健康な牡としての物理的衝動は別にして、勇介が周囲の女性に特定の希求を感じることは皆無になっていた。至誠堂という勤務環境も、異性関係を一歩退いたところから市場として捉えるような気風があり、男女を問わず独身の役職者が少なくない。勇介は、当初志望した商品開発関係には結局一度も就けず、人脈を買われて販売部や広報部の全課を渡り歩き、ここ四年ほどは広報部第三課長を務めている。主に国内の大規模キャンペーンを統括する部署であり、眠っている間まで仕事になりかねないような日々が延々と続いていた。
そんな勇介が、三十路半ばに至ってから、ポスターのモデルオーディションで面接した香里菜に強く惹かれたのは、むしろ容貌よりも、南欧系の大らかさと東洋系の繊細さを併せ持つその存在感に、なにか名状しがたい胸の疼き――具体的にどこがどうとは言えない、かつて失われた愛しいものたちの茫漠とした混沌《カオス》――そんな不思議な懐かしさを感じたからである。
交際を深めてから知った香里菜の家庭環境も、ある意味、懐かしい構図に思えた。売れないフリーカメラマンの父親が、旅行記者の取材に同行してスペインを訪れた際、郊外の大農園のひとり娘に一目惚れ、相思相愛になったもののあちらの両親は大反対、結局駆け落ち同然で日本に連れ帰ってしまった――どうも勇介の深入りする男女関係には、そうした『道行き』がついて回る。
「スペインなら、俺のほうが詳しいぞ」
記憶にあるハイウェイの標識を目にして、勇介は言った。
「いっぺん来ただけのくせに。それも大昔でしょ」
「そりゃそうだけど――本当にいい国だ。美しさが少しも変わってない」
草原も丘陵も、高一の夏、半分子供だったあの頃のままに思える。新しい建物も増えているのだろうが、景観に自然に溶けこんでいるためか違和感を感じない。
進むにつれて募る既視感に、勇介は、明媚な景色とはうらはらの、一抹の寂しさを感じていた。
*
慎治と亜由美の消息は、杳として知れない。
あの最後の日、勇介たちが館から逃れ、門を抜けて数歩も進まないうち、周囲は忽然と青山霊園の墓標群に戻ってしまった。背後の精緻なミニチュアも、朝倉たちが最後に見たのと同じ経年の塵埃に汚れ、ジャスミンの残り香さえも、いっさい失われていた。
ただひとつの救いは、ヤマザワ化学工業が、世界企業として復活していたことだろう。ヒルズの東京本社も、愛知の幸田工場も、以前と寸分違わず存在していたのである。
後日、勇介は、東京本社に再度の会社訪問を試みた。山澤学本人が他言無用を誓った以上、そこに慎治たちの情報が残っているはずもないが、たとえ無駄足でも動かずにはいられなかった。
前回同様、あの植草部長が現れ、勇介の再訪を歓待してくれたのには安堵したが、案の定、ヤマザワの創業と間宮家の関わりに関しては、まったく話が変わっていた。震災後の台湾における間宮春樹の存在が消え、単なる篤志家の援助になっていただけではない。以前、勇介より先に東京本社を訪れたはずの慎治の痕跡さえ、綺麗に消えていたのである。
のみならず別れ際、植草はこんなことを言いだした。
「――で、梶尾さん、ここから先は、少々妙な話になるのですが」
「はい?」
「実は最前、知多温泉で山澤系列の総合会議がありまして、その後、幸田工場に残っている先々代の遺族と、話をする機会があったのですよ。そのとき、お父様の都議出馬の件が話題に上がりまして、私、ご子息の勇介さんがこちらにお見えになった件なども伝えましたらですね」
「はい」
「その遺族が申しますには、先々代の遺品の中に、なにやら不思議な手紙があると言うのです。つまり、その――もし自分の死後、東京本社に梶尾勇介を名乗る旧華族筋の人物が訪ねて来たら、その手紙を渡してほしい――と、そんな先々代の遺言があったらしいんですな」
勇介が唖然としていると、
「いや、驚かれるのも無理はありません。私も、なんと申しますか、そんないかにも間尺に合わない胡乱な話で、こう、何かヤマザワが梶尾さんのお家と私的な関わりを持とうとしている、そんな誤解を世間にされてもなんですし、なんといってもお父様は、現在私どもにも縁の深い財務省の方ですし、ゆくゆくは知事選に出馬なさるというお噂も――」
植草部長のしどろもどろな口調に、勇介は、とっさに先手を打った。
「その手紙、ありえる話だと思います」
「は?」
「昔、父から聞いたことがあります。大正時代、確か曾祖父の縁者でしたか、台湾で手広く事業を営んでいたそうです。その名前が梶尾勇介。私の名も、その人物の福縁にあやかってつけられたとか」
植草は、打って変わって顔を輝かせた。
「なるほど!」
勇介の手を取って、振り回さんばかりに驚喜しながら、
「つまり台湾で先々代を救ってくださったのは、その御先祖の勇介氏だったのですね。なんとこれは、紛れもなくすばらしい御縁のあることで――」
新入社員の頃に可愛がられたという植草は、よほど山澤学を尊敬し続けているらしい。確かに、あの無頼じみていた山澤も、老境の映像では、揺るぎない大樹の風格だった。
そして数日後、愛知の山澤家から梶尾亮太朗に宛て、時代錯誤の丁重な礼状とともに、その古い手紙が書留で送られてきた。
古風な外封を蝋で封印した中の便箋には、こんな簡略な一文が、いかにも明治生まれらしい達筆でしたためられていた。
他言無用とのことゆえ些かためらいつつ、M君の名誉のために
一筆啓上。
貴君の残された結構な品物、半数はR大人等への返済、半数は
当方への出資となる。
M君は小物一枚のみを手に、R大人の助力にて、妻君ともども
南海の何処にか船出す。
約束の地は、当方も、R大人も知らず。
ただ夫妻の、先の多幸を祈るのみ。
――そうなのか。
スモールバー一枚だけを持って。
つまり勇介が青幇たちに与えたキロバーの、三分の一以下である。それでもしばらくは暮らせるだろうが、勇介は、やはり歯痒かった。
台湾から南海へ、太平洋航路、あるいは大西洋、いずれにせよ当分は明日をも知れぬ漂泊だろう。仮に勇介自身や、過去の間宮春樹そのものだったら、山澤への資金はともかく、劉への返済などはうやむやにして、余裕を持って旅立ったのではないか。命を救われた劉が、恩人に返済を迫ったとは思えない。
しかし、その含羞に満ちた矜持こそが、勇介の愛した慎治であり、亜由美が己を賭して選んだ男なのである。
*
ただ先の多幸を祈るのみ――。
ただ、その『先』も、自分が生まれる前の遠い昔――。
メルセデスの外を流れるアンダルシアの郊外風景に、勇介が遙かな夏の車窓、遠い日の観光バスではしゃいでいた旧友たちを想っていると、
「なにを諦め笑いしてるの?」
香里菜が不審そうに訊ねた。
「なんだそりゃ。『諦め笑い』って」
「だって、あなた、笠智衆さんみたいに笑ってたわよ」
母親が日本贔屓の外国人であるためか、香里菜は子供の頃からそんな骨董級の邦画を見せられており、ときおり不思議な表現をする。
「まさか、もう後悔してるんじゃないでしょうね」
「何を?」
「つまり――私とのこと」
「結婚に後悔した男が、毎晩毎晩あんなことに励むか」
香里菜は笑いもせず、思春期の少女のように頬を染めた。
二十代半ばの日本娘が、いまどきそんな反応をするだろうか。
勇介が妻の古風な貞操観念に感服していると、ダッシュボードの携帯にメールが届いた。
「見てくれないか」
「はい。――あら、朝倉さん」
朝倉は、披露宴後の二次会三次会で香里菜と話しただけだが、例によって旧知のように親しくなっていた。
やっほ、おふたりさん。永遠のお局様だあ。
睦まじき蜜月のグアイはいかがかな?
昼夜を問わず勤勉に、少子化対策を励行しておるかな?
で、旦那へ。
ネットに披露宴の写真上げといたから、暇があったら
ありがたく拝みなさい。
二次会や三次会の醜態も上げといたから、暇があったら
己を恥じて悔い改めなさい。
あと、若奥さんへ。
お礼のミヤゲは、スペインでいっとー甘い菓子が吉と思われます。
んじゃまた。
香里菜は大笑いしながら本文を読み上げた。しっかり猥談が含まれているのに卑猥さを感じさせないのも、朝倉の個性である。
披露宴には、朝倉と共に曽根も出席していた。朝倉は、都立中央図書館で順調に『お局様』への道を歩んでおり、曽根は巡査部長に昇進して、赤坂署の刑事課に勤務している。ふたりともいまだに独身なのは、お互い空気のような存在になりつつあるのが原因だと、勇介は推測していた。交遊はあの冬以来ずっと続いているはずだし、曽根の遭遇したなにか怪しげな事件に、朝倉が協力して稗田礼二郎ばりの活躍を見せた、そんな噂も耳にしている。
メールの末尾には、画像庫へのリンクが張られていた。
香里菜はさっそく朝倉のメールを夫婦共用のタブレットに転送し、画像庫にアクセスした。
最初に現れた新郎新婦の登場シーンは、素人写真らしく傾いているものの、最新デジカメの威力で、ピントや露出や雰囲気描写は完璧だった。
「うわあ……」
「変な写真か?」
「……シブい花婿」
「今さら何も出ないぞ。日本男児は、釣り上げた魚に餌をやらない決まりだからな」
香里菜は冗談らしく笑ったが、内心、実感でもあったのである。たとえば過去の間宮春樹や慎治が正統派の美形だったとすれば、今の勇介は個性的実力派俳優の趣があった。
二百葉以上の雑然とした画像庫から、香里菜はベターショットを選りはじめた。
「嬉しい。お祖母ちゃんに見せてあげられる」
長く絶縁状態になっていた母親の両親とも、今回の香里菜の結婚を機に、復縁が叶った。実際は香里菜が誕生した時点で、南欧系人情派の祖母はとうに折れ、音信や贈答が続いていたのだが、中国系の祖父だけは、頑迷に意地を張り続けていたらしい。しかし孫娘の結婚相手が、娘を奪ったような浮き草稼業の人間ではなく、しかも現トキオ知事の息子らしいと判ると、さすがに気を鎮めて祝福してきた。ただ、老夫婦それぞれに持病があるため、結婚式には来日できず、孫夫婦のほうが新婚旅行を兼ねて訪ねることになったのである。
「お祖父様は意地悪だったから見せてあげない」
「そう言うなよ。君のお父さんに初めて会ったときだって、俺は確かに殺意を感じたぞ」
「ママも私も美しすぎるのね」
しれっと言ってのけても嫌味に聞こえないところが、南欧風の大らかさである。祖父への咎めも、もとより冗談なのだろう。
やがて、カーナビに従って支線に下り、幾つかのなだらかな丘陵を巡る農道を進んで行くと、車内に馥郁たる香気が漂いはじめた。
ジャスミンの香りである。
いつしか道の周囲は、茉莉花の細花とはまた趣の違う大ぶりの花々、スパニッシュジャスミンの畑になっていた。
それは地域的になんの不思議もないことなのだが――一面のジャスミン畑の彼方に、青々とした広大な三日月型の湖が見えてくるにおよんで、勇介は、ずっと感じていた懐かしさが、いわゆる既視感《デジャヴュ》でも類似でもなく、個人的郷愁そのものであることを悟った。
見晴るかすジャスミンの農園地帯は、十数年前の記憶と寸分違わず、行く手の右手、三日月の円弧の内側に抱かれて東に広がっている。そして左手、円弧の外に広がる森林地帯の西の果てには、今は見えないが、美しい古城が佇んでいるはずだった。勇介は期せずして、あの夏の日と同じ農園に向かっていたのである。
なぜ気づかなかったのだろう。地名も地図も、旅行前に何度も確認したのに。
いや――俺は、あの夏の旅そのものを、あの冬からずっと今日の今日まで、ひたすら忘れようとしていたのではなかったか。
「……ここだったのか」
「はい?」
「俺が昔来たのは、ここだったんだよ。君のお祖父さんの農園だ。泊まったのは観光用のレストハウスだったから、オーナーには会っていないけど」
香里菜は、しばし絶句したのち、夢見る瞳でつぶやいた。
「……赤い糸?」
そう、それは偶然という嬉しい真実なのだろう。
しかし勇介は、遠い昔、ついに自分とは結ばれなかった別の糸のふたつの端緒を、窓外に流れはじめた湖の、清々しい燦めきに想い重ねていた。
湖畔の道をこのまま進んでいけば、あの白い東屋に至るはずだ。
あの夏の夕刻、レストハウスから姿を消した慎治と亜由美に気づき、探すともなしに農園を散策するうち、勇介は、湖畔の東屋でひそやかに寄り添うふたりを瞥見したのである。
ほどなく、刻の隔たりも知らぬげに、その小さな東屋が、あのときのままの姿を現した。
それでも勇介は、思いの外、冷静にやりすごすことができた。
目頭の熱さを、微笑で紛らわせる。
過去よりも大切な香里菜が、隣で素直に微笑んでいたからである。
*
農場主の私邸は、そこからさらに北上した、入江端の森にあるという。
昔、観光バスでたどった記憶では、道は湖畔の中程から農園の中心部へと右折し、あのレストハウスに繋がっていたはずである。
しかし注意深く見れば、確かに車一台ようように通れるほどの舗装された小径が、カーブの直前から湖畔に添って分岐していた。
やがて小径は鬱蒼とした落葉樹の森に分け入った。
木漏れ日の路面も、いつしかアスファルトから、ゆかしい石畳に変わっている。
その樹木のトンネルの果てに、人家らしい古風な門構えを認め、勇介は、さらなる驚きに目を見張った。
厳粛と流麗を綯い交ぜにしたような、鋳鉄の格子門――忘れようとしていた総てのものたちに続く扉。
「……なぜ、ここに」
思わず口にすると、香里菜は嬉しげに、
「もしかして、昔、お祖父様たちの家も見たの?」
「……いや」
勇介は頭《かぶり》を振った。香里菜の問と自分の疑念を、それぞれ違った意味で、同時に否定したのである。あの夏にこの小径をたどった記憶はないし、別の記憶にある瓜ふたつの門扉も、おそらくは多くの西洋館にありがちなデザインなのだろう。
しかし近づくにつれて、その奥の白い館が徐々に姿を現し、勇介は我が目を疑った。
茉莉花館――。
いや、違う。
勇介の記憶にあるあの不思議な館より、門も館自体も、なにもかもが大きい。
だが――本来、これが正しいのではないか。岡崎京子の話では、元来ひとつの西洋館を三分割したものが、勇介の知る茉莉花館たちなのである。
勇介は無意識に速度を落とし、高鳴る動悸を懸命にこらえた。
俺はまた、あの夢に戻ろうとしているのか。
それとも、ここ十二年の来し方のほうが、実は胡蝶の夢に過ぎなかったのか――。
しかし助手席には、
「どうしたの?」
無邪気に首を傾げる香里菜が、確かに座っている。
困惑する勇介を迎え入れるように、誰ひとり触っていない門扉が自ずから二分し、厳かに内側へと開きはじめた。
いや――違う。
通過しながら、勇介は思わず失笑した。
内側の傍らに、煉瓦造りの小さな門衛所があり、その窓から、使用人らしい初老の男が丁重に会釈している。古い門に見えて、実は電動式開閉機構なのである。館の前庭の石畳も、よく見れば真新しく、何より館自体が新しい。
まるでB級怪奇映画のような、わざとらしい偶然の一致――。
ポーチの前に停車しながら、くつくつと笑い出す勇介に、
「変な人」
「いや、あんまり立派な家だから驚いちゃって」
「そうね、私もちょっとビビったかも」
館の扉が開き、痩身の老紳士と、いささかふくよかにすぎる老婦人が現れた。
〈カリナ!〉
〈お祖母様!〉
実際に出会うのは初めてでも、写真や書簡、また電話を通して、年来慕い続けた肉親同士である。
情熱的に抱き合い、涙をこらえもせずスペイン語で語り合うふたりを、勇介は微笑ましく見守った。
老紳士は目を潤ませながら、勇介に握手を求めてきた。
〈ようこそ、若婿殿〉
こちらは重厚なキングス・イングリッシュである。勇介がスペイン語は不得手であることを知っているので、気を利かせてくれたのだろう。
〈初めまして。よろしくお願いします〉
初対面の男同士は、やはりぎこちない。
しかし勇介は、中国系二世だというその義理の祖父に、ひと目で多大な親近感を抱いた。幼い頃に先立った実の祖父のような、けして不快ではない頑固さを感じたのである。その面差しも、中国人よりは日本人に似ているようだ。
〈もしや君も、私を快く思っていないのではないか?〉
〈そんなことは……なぜですか?〉
〈あれや、あれの親たちに、ずいぶん辛く当たってしまった。それも何十年と〉
言いながら、老妻と抱き合う孫娘を見る祖父の瞳には、悲喜交々の情が溢れていた。
勇介は、車中で香里菜に言ったのと、同じ答を英語で返した。
〈私もカリナの父親に結婚の意思を告げたとき、激しい殺意を感じました。できればカリナには、娘ではなく息子を産んで欲しいと思います〉
祖父は大笑して、勇介を抱いた。
香里菜も祖母の胸を離れ、祖父に駆け寄り抱擁する。
そうして、祖父母と孫夫婦は和やかな家族として、屋内への扉をくぐった。
そこには、館の外観にふさわしい堂々たるホールが広がっていた。
やはり、他人の空似ならぬ他家の空似――。
安堵しながら、ふとホールの対面、上階の回廊へと続く階段に目をやったとき、勇介は硬直した。
踊り場の壁に飾られた、実物の二倍ほどもある全身肖像画に、茫然と目を見開き、根が生えたように立ちすくむ。
〈どうしたのだね?〉
〈あの方々は……〉
〈ああ、私の両親だよ。もっとも、私が子供の頃に描かれたものだから、ずいぶん若い〉
勇介は、あまりの驚きに、すぐには二の句が継げなかった。
〈……美しい方々ですね〉
ようやくそれだけ口にすると、
〈そうだろう。実の親ながら、本当にすばらしい夫婦だった〉
祖父も感慨深げに肖像画を見入り、
〈もともとこの農園は、ある貴族の領地だったんだが、昔から中国の両親と親交があったらしいよ。しかし両親は、ずいぶんと人には言えないような苦労があったらしくてね、あちらでひと財産築いたり、また破産して無一文になったり〉
亡き両親をよほど慕っていたのだろう、自らの過去を誇るような口調で、
〈結局、一介の移民労働者としてこの農園に居付いたのだが、ふたりとも並の勤勉さではなかった。また才覚にも恵まれていた。私が学校に上がる頃には共同経営者まで昇りつめ、後継者のいなかった貴族の遺志で、農園自体を継ぐことになったのだ〉
人生という曖昧なジグソーの、欠けていた大切なピースが見つかったような気がした。
慎治と亜由美は、渡航時、劉の助力で中国人に成り変わったのだろう。そして親しかった農場主は、それを知りつつ受け入れた――。
心底嬉しいときには涙が出ないものだな――そんなことを思いながら、勇介は訊ねた。
〈このすばらしい家も、あの方々が建てられたのですか?〉
〈いや。湖の対岸にある森の城館に住んでいたよ。私や妻も、去年までそこで暮らしていたんだが、あまりにも住みにくくなってきたので、こちらに新築したのだ〉
〈それにしては、とても古風で美しい〉
〈そうだろう、そうだろう〉
祖父は満足げにうなずいて、
〈今風の味気ないレシデンシアだけは、建てたくなかったんでね。外観のデザインは、実は、とても古いものなのだよ。百年以上も昔、この領地にあったという別邸の設計図を、ほとんどそのまま使わせてもらった〉
〈そうなのですか……〉
〈しかし、その別邸の名残りなら、今でも湖の畔に残っているよ〉
〈……今でも?〉
〈ああ。君もここに来る途中に見かけなかったかね、小さな白い東屋を〉
〈はい〉
〈詳しい事情は私も聞かされていないが、あれが昔の別邸の残材を使って、記念に残したものだと聞いている〉
春樹と絹枝が、本来の館をここで解体させたときから、すでに分身は生じていたのである。
つまり、あの東屋こそが、第二の茉莉花館――。
祖父の皺深い眼窩の奥に、ふと幼げな光が宿った。
〈どんな思い出があったのだろうな、私の両親も、風の穏やかな宵など、いつもあの下で睦まじく憩っていたものだよ〉
その言葉に、勇介は驚きよりも、醸し尽くされた稀酒の清冽を感じていた。
すべては、あの眩しい夏の日に始まっていたのか。
いや――始まりも終わりも、今となっては、もう判別できない。
古雅な踊り場の額の中で、臈長けた微笑を浮かべている夫婦像に、勇介は、夏の風に酔った少年のような笑顔を返した。
「……いったい俺は、いつから、お前たちの夢の中にいたんだろうな」
不思議そうに勇介の顔を窺っている香里菜を、そっと胸に抱き寄せる。
懐かしいジャスミンの香りに包まれながら、
「確かに待っただけの甲斐はあったよ、Jasmine Heights――」
〈了〉
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