伍ノ巻 〜 怪異巨獣境 〜
あちこちの牧舎には、どこでリクルート情報を得たものやら、住み込みの猫飼い一家が住み着いていた。先頭の老人に挨拶する様子を見る限り、人柄も身なりも俺などより余程いい。このぶんだと牧場主も案外まともな人物が登場しそうだ。
案の定、鎌倉の大仏ほどもある巨大招き猫の前半身の麓で、おどろおどろしく揺れるかがり火に囲まれながら、その家はどう見ても青梅の新興住宅街の角から三軒目、そんな感じだった。なんの緊張感もない、ツー・バイ・フォーの安上がりな二階屋だ。
「……いんぼーだん?」
たかちゃんが俺の裾を引いて、期待に満ちたまなざしを向けた。
「うーん、これは、どっちかと言うと……町内会の班長さんとか」
くにこちゃんが反対側の裾を引いた。
「だまされちゃ、だめだ。これはきっと、かものフライだ」
カモフラージュと言いたいのだろう。
ゆうこちゃんが俺の尻の陰に隠れてぷるぷる震えているので、思わずわっと驚かせてもっと怯えさせてやろうかなどと良からぬ嗜虐心を抱いてしまったが、お目付役の恵子さんもいるので遠慮しておいた。
俺は念のため、恵子さんに訊ねてみた。
「……邪悪な波動は感じませんか?」
恵子さんはあっさり答えた。
「気の抜けたラムネのような波動を感じます」
妥当な波動のようだ。
「あるいは、貧乏な家のカルピスのような」
俺は恵子さんの実年齢に、少々疑念を抱いた。この人は本当は三丁目の夕日の下あたりで育った人なのではないか。まあ正直、俺に近い歳のほうが、むしろ今後の希望が持てて嬉しいわけだが。
ともあれ下の爺さんは、やはりなんの緊張感もなく、ドアの横のインター・ホンに話しかけた。
「お晩方です、ブッシュ博士。放牧場の小泉です」
なんだか嫌な予感がした。
ヘイ、コイズミ、という威勢のいい声と共に、テキサスのガキ大将がそのまま初老になったような顔が覗いた。博士というより政治家の私服、そんな見え見えのカーディガン姿である。嫌な予感が増大し、俺は思わず身構えた。
明らかに『深くは何も考えていないがやたら押し出しだけはいい笑顔』の雇い主に、下の老人は気まずそうに言い訳しながら、例の退職願いを差し出した。
博士の顔色が変わった。
「……コイズミ、君まで裏切るのか。世界平和のために、共に働いてくれるのではなかったのか」
下の爺さんがしどろもどろになっているので、俺は個人的興味もあり、その大統領、じゃない、博士に訊ねた。
「あの、えーと、この巨大猫たちと世界平和が、どう繋がるのでしょう?」
博士は赤ら顔の中のあんまり知的そうではない細い目を、ぎろりと俺に向けた。
「君たちはどこの者だ?」
「えーと、その、東京から」
青梅も立派な東京都である。
「東部者は理屈をこねるばかりで、私は好かない」
逆効果だったらしい。これだからつまらない見栄は張るものではない。
「生まれはこの上の村なんですが」
博士の表情が、僅かに緩んだ。やはり田舎者は田舎者に甘い。
「ならば、君も私の下で働かないか。世界制覇、もとい世界平和のためには、若い力が必要だ。日給一五〇ドル。円立てで二万出そう」
こんな中年の俺でも、外人には若く見えるのだろうか。そういえば同じ駅ビルのおっさんがアメリカ旅行に行った時、ひとりで酒場で飲んでいたら、しきりに「ヘイ、リトルボーイ」などと何度も尻を撫でられたという話を聞いたことがある。
衣食住別で日給二万――俺の薄弱な意志は大いに揺らいだ。しかし、どうやら成人以降の人々しか住んでいないらしい土地には、長居できない体の、いや、心の俺である。もっともそんな性癖を匂わせてしまったら、アンダーグラウンドでは男児女児問わず未成年虐待しまくりの癖に、表だけは異常にやかましい彼の国のこと、いきなり散弾を喰らったりリンチに掛けられたりしかねまい。
「でも、あっちに仕事がありまして」
「残念だな。君のその容貌なら、あのアキバで仲間を募るのに適材かと思ったのだが」
おう、全国組織だったのか。アキバならいいかもしんない。現実から乖離した奴が多いから、「求む世界制覇の使徒。君も暗い地の底で猫耳たちと遊んで暮らそう」とでも謳えば、求人も楽そうだ。
いや、いかんいかん。この世界にあって尊ぶべきは、金や猫耳よりもろりだ。俺は揺れ動く心を抑えようと、両脇のたかちゃんたちを見下ろしたが――ありゃ、いない。いつのまにやら、ゆうこちゃんがひとりで尻にすがっているだけである。大猫も二匹足りない。
恵子さんや爺さんたちも二人の消失に気づかなかったらしく、ありゃりゃ、というような顔をしている。ゆうこちゃんに目で問うと、心配そうな顔で、家の中をくいくいと顎で示した。
その時、裏庭の方から、派手にガラスの割れる音が響いた。
どどどどどという群れの音と共に、虎縞と黒にまたがったたかちゃんとくにこちゃんが疾駆してくる。
「きゃはははは、いんぼーだん、いんぼーだん!」
「だまされちゃだめだ、かばうま!」
二匹の後に続く影の群れを見定めて、俺たちは仰天した。半猫半人の大群である。あんましここでは描写しにくいすこぶる色っぽい雌やら、男としてはあんまし見たくないが恵子さんあたりには結構うけそうな雄やら、しなやかな怪描たちが大挙して駆けてくる。
「これは奇っ怪!」
上の爺さんが、今さらながら息を飲んだ。もうずっと前から、充分奇っ怪だった気もするが。
どうどう、と猫を制しながら、たかちゃんたちは立ちすくむ俺たちの後ろに回った。
「やっぱし、あくのひみつそしきだ!」
くにこちゃんが黒にまたがったまま、険しい顔、いや、充実しきった顔で叫んだ。
「ちかのじっけんしつで、ねこたちをかいぞうしてたぞ」
逃げ出した怪猫たちは、わらわらと博士を取り囲む。
おうおう、これはやっぱし古典的ウェルズのパターン――俺は改造獣人たちに復讐されるモロー博士など想像し、狂った科学者の阿鼻叫喚の末路などをわくわくと期待、いや違う、厳粛に想像した。
怪猫たちはじりじりと博士ににじり寄り、一斉に身を躍らせ――ぐりぐりと頭をこすりつけ始めた。
「なおーん」
「なーお、なーお」
「ごろなーご」
……腹が減っているらしい。やっぱり猫は猫だ。
博士は怪猫たちの頭を撫でながら、不敵に俺たちを睨め回し、
「わはははははは!」
いかにも狂気の哄笑を発した。
「見られてしまったからには仕方がない。牧場の巨猫たちは、あくまでもDNA操作の実験段階の副産物。私の真意は、全世界の猫の人間化にあるのだ。どうだね、実に美しい子供たちだろう。このしなやかな体をとっくりと拝みたまえ。やがてはこの子らの子孫が全世界を埋め尽くすだろう。この美しさ愛らしさに、ひれ伏さない人間がいようか。そう、全人類は猫族の下僕と化すのだ。醜く愚劣な人間社会の、終末の時は近い。その時こそ真の平和境、パックス・キティーナがこの地上に現出するのだ!」
俺は呆然と――文字どおり呆れ果てて呟いた。
「えーと、それは、とどのつまり、その猫人間たちが勝手気ままに遊んだり食ったり、人間に餌をねだったりして安穏と暮らす、そんな社会でしょうか」
「そのとおり! そして一日の八割方は丸くなって寝て暮らす、平和な社会だ!」
どわははははは、と、博士の哄笑は完全に突き抜けている。
「……別に、いーんじゃないですか?」
恵子さんがそう言って俺を見上げた。
「そーですね」
俺もこくこくとうなずいた。
「たいじしないのか?」
くにこちゃんが不満げに抗議する。俺はその頭を優しく撫でてやった。
「悪いことを考えてる、頭がおかしい、ちょっと変だというだけで、退治してはいけない。退治しなくちゃいけない悪人かどうかは、ほんとうに悪いことをしているかどうか、それで決めなくちゃね」
ほーら子供たち、おいしいご飯だよー、と相好を崩しながら猫人間たちに餌を与えているマッド・サイエンティスト――正体はただの舶来猫爺いをながめて、くにこちゃんもしぶしぶうなずいた。肝腎の猫人間たちがなんの文句もないらしいのだから、悪事とは言えないだろう。それどころか、食事を終えて庭の藪の中でつがい始めたカップルなどは、体位のバリエーションの増加を楽しんでいるようにも見える。ただし教育上よろしくないので、その「うなななななあ」などといううなり声に顔を向けようとする三人組の頭を、俺と恵子さんはあわててあっちこっちにひねった。
「じゃ、そーゆーことで」
そのまんまそそくさとその場を退散しようとすると、
「待てい!」
博士がまた突き抜けた声を上げた。
「この秘密を知られたからには、生かして帰すわけにはいかん」
「いや、だからその、あなたはもうここで好きにしててください」
「そーゆー問題ではないのだ」
博士の頬が不気味な笑いで歪んだ。
「せっかく悪事が暴かれたというのに、これで終わりでは、つまらないではないか」
いかにも正しいマッド・サイエンティストらしい意見だった。大概のその手の漫画や小説や映画やテレビ番組では、そもそもいかに派手にばれがちな陰謀を巡らすか、そしてばれてからどう居直るか、それが悪役の仕事である。
博士は喜色満面でカーディガンのポケットからなにやらリモコンらしい物を取り出し、ぷぽぴぱぺ、とキーを突っついた。
「発動せよ! 自由の猫神!」
二階屋の背後の岩壁が、ごごごごごと揺らぎ始めた。
がらがらと石片を撒き散らしながら、前面半身と思われていた巨大招き猫が、ゆっくりとその全身を岩壁から引きはがした。
壮絶に崩落する岩壁や押しつぶされる二階屋などは、今風の平面的CGではなくきちんと大スケールのミニチュアの質感があって迫力満点だったが、その土煙からのしのしと歩み出た招き猫がくいくいと手招きする姿には、残念ながら、なんの緊張感もなかった。
「わーい、ごじらねこ。ごじらねこ」
たかちゃんが歓声を上げた。
「……おっきいけど、かわいいの」
ゆうこちゃんも、ちょっとずれている。
「これは、ほんとうのあくじっぽいぞ。たいじしていいか?」
俺と恵子さんは、くにこちゃんにこくこくとうなずいた。爺さん二人も、異議なし、と言うようにこくこくとうなずいた。どんなに緊張感のない姿形でも、十数メートルの石像に踏みつぶされたら、さぞかし痛かろう。
「まちかねたあ!」
くにこちゃんは喜悦の叫びを上げると、黒猫の背中で仁王立ちになった。
「りん! ぴょう! とう! じゃ! かい! じん! れつ! ざい! ぜん!」
長くなるので、以下略。
俺は初対面だが、その巨大な不動明王は、昨夜に続いての登板らしい。
「……またかよ」
なんだかやる気薄でうんこ座りしている不動明王に、くにこちゃんは自信満々で叫んだ。
「こんやのは、おおものだぞ。シメてやってくれ!」
ん? という感じで、不動明王が対戦相手に顔を上げる。
招き猫は地底の大気を震わせて咆吼した。
ぎゃにゃにゃにゃにゃあ。
これはスケール的にいい勝負だ――俺は昔のキンゴジやモスゴジなどを思い出し、年甲斐もなく熱くなった。
しかし不動明王を見返ると、なぜか招き猫に背を向けて、うんこ座りのまま頭を抱えている。その肩はわなわなと震えているようだ。
「どした?」
くにこちゃんがそのでかい尻を蹴った。
明王はおどおどと答えた。
「……猫、駄目」
「なんだ、そりゃ」
くにこちゃんは怪訝そうに足元の黒を見下ろした。
「こいつも、ねこだぞ」
不動明王も怪訝そうに振り返り、しげしげと尻の方を見下ろした。それからいきなり奇妙な声を上げて、阿波踊りのような手つきをしながら数メートル跳んで逃げた。
「ひょ、豹じゃねーのかよ」
「くろねこだ。はなしのわかる、いいねこだ」
「だって猫、目がこえーじゃん、猫。細くなったり丸くなったり。何考えてるかわかんねーし、猫」
猫嫌いの多くがそう感じるらしい。しかし、おおむね猫科生物はでかかろうが小さかろうが同じような瞳をしており、けだものだけに、おおむね何を考えているのか判らない。解り合う前に下手をすれば食われてしまう豹だの虎だのライオンだのより、解り合う前に食うこともできる猫のほうが恐くないと思うのだが。
「犬んときに、また呼んでくれ。熊でもいいぞ」
ぼん、と大仰な煙を上げて、不動明王の姿が掻き消えた。
「くまなら、おれだってへいきだ」
くにこちゃんは舌打ちした。
「ふどうは、あんましつかえない。こんどは、くじゃくの出し方をならおう」
それから唖然としている俺たちを振り返り、ちょっと首をかしげた後、思いきり胸を張った。
「わははははははは」
超幼女でも笑ってごまかすしかない状況らしい。
「わははははははは」
あの博士も後方から負けじと高笑いを返した。
「ひとり残らず踏みつぶせ、自由の猫神よ!」
でも猫ちゃんは踏んじゃだめよー、気をつけてねー、などと裏返る舶来猫爺いの声を背中に聞きながら、俺たちは脱兎のごとく逃げ出した。
俺たちは五匹の猫にまたがって、地底牧場を駆けに駆けた。
すでにビジュアルのリアリティーだのなんだの逡巡している余裕はない。必死の時には小説だろうがアニメだろうが現実だろうが、心理的にさえリアリティーがあればなんでもありだ。
俺の三毛には恵子さんもまたがっている。しつこいようだがこのつんつんと背中にキショクのいい感触は乳首に違いない。うっかり爺さんなどと相乗りにならなくて実に幸運だった。爺さんふたりは斑《ぶち》にまたがり、「よ」「は」「と」とハモって調子を取っている。
しかし石造りのはずの巨大招き猫まで、四つん這いになって景気よく追い掛けてくるというのは反則ではなかろうか。どっかんどっかんと石窟中を揺らしながら、しだいに間合いを詰めてくる。
牧場の大猫たちはそんな騒ぎを聞きつけ、ぴくりと身を強張らせ、耳をぴくつかせながら次々と俺たちの方を窺ったが、自分とは関係ない騒ぎと判断したとたん、また次々と大あくびをして丸くなり寝てしまうのだった。
あのマッド・サイエンティストの方法論は、絶対間違っている。世界平和を実現したいなら、猫には猫のままでいてもらって、全人類のほうを猫に改造してしまうべきなのである。
やがて地底国のはずれ、下の爺さんの牧舎が近付いた。窓から騒ぎを覗いたらしく、爺さんの一家がわらわらとあの俺の実家に続く穴の方へ逃れて行くのが見えた。俺はたかちゃんたちに、そのまんま一家の後に続くよう指示した。
「恵子さんもこのまま行って下さい」
「あなたは?」
「僕には命を賭けても守れねばならないものがあるのです」
俺は臆面もないキメ科白を残し、三毛が牧舎の前庭を通り過ぎる刹那、思いきり横にダイブした。
餌皿の食べ残しに、どべ、と頭から突っ込んでしまい、なんか生臭い下魚のフレークまみれになってしまったが、口に入った魚肉の味は結構悪くない。シーチキンよりコクがあるようだ。などと食っている場合ではない。俺は魚肉を蹴散らして、庭に干されたままだった洗濯物に飛びつき、ロープや洗濯竿ごと引きずり倒した。
あの巨大招き猫を制するためには、大型の武器が必要だ。無論まともな武器など、現在この地にはない。闘争本能と知力を駆使し、手製の武器を仕立てるしかないのだ。
ごにょごにょと慌ただしく裂いたり縛ったりした後、俺は我ながら見事に出来た得物を抱えて、迫り来る強敵の前に躍り出た。まさに猫を噛む窮鼠の意地を見せるのだ。
ぐわにゃにゃにゃあ。
咆吼が天を揺るがす。
――ああ、俺って、可憐なろりたちとつんつん乳首、じゃねーや、可憐な女性を守るために命を駆ける凛々しい戦士。
「ほーら、猫ちゃん。ぱたぱたちゃんだよー」
我ながら見事な戦法だ。
これだけでかい猫じゃらしの誘惑に勝てる猫など、この世にいるはずがない。
案の定、巨大招き猫は俺の目前で地響きを立てて急停止した。
「ほいっ」
たしっ。
「ほれほれ」
たし、たしっ。
「こっちだよー、なんちゃって」
小山のような岩猫が、右に左に跳ね回る。
しかし俺も、やはり先祖同様寸足らずだったらしい。
「ぐるっとな」
調子をこいて、うっかり猫じゃらしの動線を誤ってしまったのだ。
「あ」
やばい、と悟った瞬間、巨大な肉球、もとい岩球が真横から迫り、目の前が真っ暗になった。
★ ★
「あう」
どうくつの出口からちていの国をのぞいていたたかちゃんは、おもわずイタそうにお顔をしかめます。
「……とんでっちゃった」
いわかべにげきとつしたしゅんかん、なんだかぺっしゃんこになってから、またまあるくなってぽーんと跳ねたかばうまさんを見て、
「ほーむらんだな」
くにこちゃんも蕭然とつぶやきます。
「かべがなければ、じょうがいだ。……あいつには、せわになった。おやつ、うまかった。ふろであらってくれるのも、ていねいだった。おやじがあらってくれないところまで、きちんとあらってくれた」
あれではきっともう逝ってしまった、そう判断し、
「おんあぼきゃーべーろしゃのーまかぼだらー」
とくいの光明真言を唱えはじめたりしますが、長くなるのでいかりゃくです。
やさしいゆうこちゃんは、ほろほろと涙をこぼします。いつかおうちの天窓にぶつかってそのまま逝ってしまった小鳥さんほどにはぜったいにかわいくないいきものだったにしろ、ほねのずいからお金もちのゆうこちゃんにとっては、今のところ生きとし生けるもの総てが高貴な憐憫の対象です。
離婚した前夫が細身で蛇っぽかった事にトラウマを抱いていた恵子さんも、反動で心理的デブ専に陥りつつあったものやら、ああデブはデブなりにそこはかとなく頼り甲斐のあるお方だったわ、などと、その夭折を悼みます。爺さんふたりもコテコテの前時代的封建社会意識のまんまで育っているので、ああお館様主様と涙にくれます。
とまあ、それぞれきちんとかばうまさんの壮絶な玉砕を見つめていたのですが、世の中には、きちんとジャンルごとにお約束というものがあったりします。そう、スラップスティック・ギャグでは、たとえばトムとジェリーのように、たとえダイナマイトでトムが木っ端微塵に吹き飛んでも、一瞬後にはまたきちんと復活して追跡ギャグを反復するのです。
岩壁で跳ね返ったかばうまさんは、あっちこっちぽんぽんと地底牧場をピンボール運動した後、牧場の大猫さんたちの前に、ぼて、と落下しました。
大猫さんはぴくぴくと痙攣するその醜い生き物を、怪訝そうに鼻先で突っつき回し、やがて「これはぜひ家の餌係に見せてやらねば」と思ったのでしょう、首根っこを咥えて下の爺いのいる洞窟の前まで運んで来ます。ほら、でっかいのが獲れたよ、見て見て。
たかちゃんたちは、ぐったりしているぼろぼろのいきものを、つんつんとつっつきます。
「……ちくび」
かばうまさんの口から、はずかしいうわごとが漏れます。
むいしきにそうつぶやいたところをみると、しょせんかばうまさんも、たかちゃんたちみたいなちっちゃいおんなの子たちに固執するのは、精神的成長の停滞による、惰弱な逃避願望に過ぎないのかもしれませんね。こうして生き返れたのも、お約束というより、神様にも悪魔にも見限られた、ただそれだけのことなのでしょう。
さいわいたかちゃんたちには、なにを言っているのかわかりません。
「いきてる、いきてる」
「おう、しぶといやつだな」
「ほろほろほろほろ」
かばうまさんは、頭を振り振り起きあがります。
「……みんな、無事か。怪我はないか」
正気に戻ると口先だけは立派です。
「まあ、丸い人は、とっても丈夫で勇敢」
あのはずかしいうわごとは、恵子さんにも聞かれずに済んだようです。
「お館様!」
「主様!」
でも、のんびり再会を祝っている暇はありません。
あのとくだいの招き猫さんは、しばらくはとくだいの猫じゃらしでひとり遊びに興じていましたが、猫といういきものは、それはもう猫の目のように気まぐれです。そのうち不意に飽きてしまうと、あ、いかんいかん、オレ鼠追っかけてたんだ、そんな感じで再び洞窟めがけてどどどどどと駆けて来ます。
「あうあう」
たかちゃんたちは、あわてて洞窟の急な坂を這い登りはじめます。
ずっしん!
巨大招き猫さんが洞窟の出口にぶつかり、地面が激しく揺れ動きます。
たかちゃんたちは必死に坂に取りついてこらえますが、いちばん後ろにいたかばうまさんは、まだくらくらしていたのか、ただ体が丸すぎるだけなのか、おわ、などとつぶやき、見事に転がり落ちて行きます。
たかちゃんたちはちょっと下を見て考えていましたが、すぐに顔を見合わせてふるふると首を振り、些細な過去の未練は忘れて、地上の未来をめざすことにします。
うげげげげ、などという声が、かすかに下から聞こえてきます。
くにこちゃんはきのうのおふろのことなどもあるので、ちょっとだけ気がとがめ、また蕭然と引導を渡したりします。
「……おんあぼきゃー」
まあ、惰弱なろり野郎もそれなりに邪念を満たしていたのですから、まったく気にする必要はありませんけどね。
さて、そのとき先頭を行くたかちゃんの目に、ふしぎなものが映りました。
「ありゃ?」
洞窟の上から、なにかがころころと転がってきます。かばうまさんほど大きくはないようですが、やっぱりまんまるで、柔らかそうなかたまりです。
「きゃっち!」
ぼよん、と受け止めたかたまりには、なんだかとってもみおぼえのある、くりくりしたお目々とお鼻がくっついていました。
「あ、バニラダヌキさん!」
「はい、バヌラダヌキですから!」
思わず両手で受け止めてしまったので、
「あ」
たかちゃんもバニラダヌキさんを抱いたまんま、ころころと転がりはじめます。
とうぜん後続のみんなも、ころころと転がりはじめます。
「うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」
それだけではありません。洞窟の上からは、次から次へと、それはもうころころころころと、大量の柄違いのバニラダヌキさんたちが転がり落ちてくるではありませんか。
「おう、ひさしぶりだな」
「いえ、おはつにお目にかかります。バニラダヌキの従兄の新製品ミントダヌキです」
「あなたもやわらかわいいの」
「弟の期間限定ピーチダヌキです」
そんな緊張感のない会話を交わすみんなをまきこんで、もはや洞窟は無数のまあるい毛皮の流れと化しています。
ぽてころぽてころぽてころころ。
洞窟の出口に、みるみる毛皮の塊の山が盛り上がります。
「ぎにゃ?」
さすがの巨大招き猫さんも、その「きゅいきゅいきゅいきゅい」などと蠢いている見慣れない群体には、面食らったようです。
……つんつん。
「きゅいきゅいきゅい」
猫には物事を深く長く考える能力がありません。
まあこりゃ、すでに後得的知識の範疇にある代物で遊んだ方が気楽だわなあ、そんな感じで、お山の麓からかばうまさんを掘り出し、ころころとなぶりはじめます。
お山の中腹では、たかちゃんとバニラダヌキさんがごあいさつの続きをしています。
「おうち、このきんじょ?」
「はい。蔵王ダムと雁戸山のまんなかあたりの沢沿いです」
青梅育ちのたかちゃんは、御岳山や秋川峡谷くらいしかまだわかりませんが、きっとこのかばうまさんの実家近辺なのでしょう。
「きょうは、えんそく?」
「いえ、この牧場で屋台引きの大猫を譲ってくれると回覧板が来まして、村のみんなでもらいに来ました」
そういえばバニラダヌキさんのお仕事は、日本全国世界各国、時空を越えたシェイク類の行商なのです。
たかちゃんたちがのどかに話している間にも、巨大招き猫さんはノリノリでかばうまさんをいたぶっています。
「……ひー」
かばうまさんは、そろそろ生存限界のようです。もはや悲鳴というより壊れた笛みたいに鳴いています。
「あ、わすれてた」
たかちゃんはバニラダヌキさんにお願いしてみます。
「あれ、たいじできる?」
バニラダヌキさんは、いつものようになんにも考えていないくりくりしたお目々で、巨大招き猫さんを見上げます。
「はい。ぼくひとりではかなわないてきも、なかまがいればだいじょうぶです」
相変わらず古典的なお説教が好きなのですね。見た目よりは、ずうっと長く生きているのかもしれません。
「緊急幻惑態勢!」
きゅいきゅいきゅいきゅい、と、タヌキさんたちのお山がうごめきます。
一匹一匹が、おなかのどこかのポケットから木の葉を取り出し、頭に乗っけています。
「合体変身モード!」
ぞわぞわぞわ、とお山が盛り上がり、たかちゃんやくにこちゃんやゆうこちゃんや恵子さんや爺いたちが、ぽろぽろと麓に転がり落ちます。
「アルティメット・ラクーン、発動!」
しゅわっち、という奇声とともに、たかちゃんがはじめて会ったときの無慮数十倍はあろうかと思われる銀色のアルカイックなウルトラダヌキさんが、宙に舞います。コスチュームのあちこちにゴムっぽいシワなどもあり、いかにも作者の世代を思わせるノンCGヒーローです。
でん、と大地を揺るがし着地したウルトラダヌキさんは、巨大招き猫さんの首根っこを抱えこみ、必殺技を仕掛けます。
「こちゃこちょこちょこちょ」
しかし、さすがにこの必殺技も、石像には通用しません。
「ぎゃにゃにゃーご」
ぶん、と首を振った招き猫さんに弾き飛ばされ、ウルトラダヌキさんは岩壁に叩きつけられてしまいます。
「む、三分しかない。急がねば!」
身軽に跳ね起きて、今度はぐいっとお腹を突き出し叫びます。
「ベリードラム・ソニックウェーブ!」
なんだか物凄そうなネーミングですが、日本語に訳してしまうと、たぶんただの『腹鼓《はらつづみ》』ですね。
すこぽぽぽぽぽん。
「ぎゃにゃ?」
しかし腹鼓と言っても、さすがに並大抵のサイズではありません。その激しい振動に共鳴し、招き猫さんの岩肌が、びりびりと震えます。たぶん超低周波を増幅させて敵にぶち当てる、そんな荒技なのでしょう。
「ぎにょええええ」
すこぽんすこぽんぽぽんのぽん。
びし、と招き猫さんの体に亀裂が走ります。
「ぎゃおおおおおん」
次々と走る亀裂に、身もだえる巨大招き猫さん――ああ、なんという壮絶な、しかし絵面としては果てしなく緊張感の薄い戦い!
やがて無数のひび割れに覆われた招き猫さんは、がらがらと地面に崩れ落ちます。
「ぐにゃああああん」
かばうまさんの頭上を、破片の雨が襲います。
別にそのまま放置でも良かったのでしょうけど、そこはそれお約束、
「でゅあっ!」
間一髪、ウルトラダヌキさんの手が差し伸べられ、ぶよんとしてしまりのない体を救い出してしまうのでした。
せいじゃくの戻ったちていの国で、恵子さんが、いっしょうけんめいかばうまさんを介抱しています。なんのやくにも立たなかったこいずみじゅんじろうさんたちも、しんぱいだけはしています。
そしてたかちゃんたちは、きらきらと輝く瞳でウルトラダヌキさんを見上げます。
ウルトラダヌキさんは、そんなたかちゃんたちを見下ろし、こくこくともっともらしくうなずきます。
「ありがとー!」
「すげーぜ、おまえ!」
「ありがとーございますう!」
感極まって思わずウルトラダヌキさんの足元に駆け寄ったたかちゃんたちでしたが――げん、と何かにぶつかって、ころりと転んでしまいました。
「あいたたた」
鼻の頭をさすりながら起きあがると、地底国は薄暗いので気づかなかったのですが、なんだか地面がまあるく盛り上がっています。そのまあるいのは、たかちゃんたちの背丈ほどもあり、どうやらふたつ並んでいるようです。気のせいか、まあるいのもあたりの地面も、ぶよぶよと生あったかい気がします。
「くりくりくり」
たかちゃんとゆうこちゃんがまあるいのをなでまわしてみると、あたまの上から、うひゃひゃひゃひゃひゃ、というしまりのないお声が響いてきました。
「なんじゃ、こりゃ。――なかみは、かたいぞ」
げし、と、くにこちゃんが力いっぱいケリを入れます。
そのとたん、
「じゅわあああ!」
大地を揺るがし、ウルトラダヌキさんがうずくまりました。
「あ」
たかちゃんは、しまった、と、お顔に手を当てたりします。
「げ」
くにこちゃんも、あわてて蹴ってしまったあたりを撫でさすります。
「すまんすまん」
くにこちゃんはふだんからおうちでふたりのおとうとやおとうさんをいたぶっているので、おとこの肉体構造も、あるていど知っています。
ただひとり、状況が把握できずきょとんとしている穢れを知らないゆうこちゃんのために、たかちゃんはどこで教わったものやら、きちんと解説を入れてあげます。
「……たぬきのきん○ま、せんじょうじき」
ウルトラダヌキさんは背中をまるめてちぢこまり、なんどもなんども、じめんに額をうちつけています。
それはおとこのかなしみをすべてせおいきった、あいしゅうと慟哭のお背中でした。
――こうして、今回のたかちゃんたちの冒険にも、ついに終止符が打たれたのです。
★ ★
俺が気を失っている間に、どうやら大局は始末がついていたらしい。
自由の猫神の敗北を悟ったあの博士は、大猫たちの大部分を行商狸たちに払い下げ、わずかな残りの大猫と人猫たちを引き連れ、自分の故郷に帰って行った。どうやらあの招き猫像の背後にも別の洞窟が続いており、それは遙か海を越え、じゃない、海の下をくぐり、テキサスの田舎まで続いていたらしい。
ちなみに翌年、なにか低予算ながら緻密な特殊メイクと、どう見ても本物にしか見えないCGが売りの化け猫ホラーが、アメリカ西部のケーブルTV中心に話題になった。それが誰かさんの新しい趣味であるかどうかは、そのうち日本にも輸入されたら判るだろう。
巨大な猫が引くシェイクの屋台は、今でも月に一度くらい、とっかえひっかえ青梅にも回って来る。一度三毛が引いているのに駅前でばったり会ってしまったときは、ロータリー中突き転がされてエラい目に会った。
故郷からの野菜類と家賃も、律儀に毎月ゆうパックで届く。安月給の俺にはありがたい限りである。
そして仲良し三人組は、夏休みを迎えて、あいかわらずすこぶる元気だ。
その証拠に、昨晩恵子さんがアパートに置いて行ってくれたスイカの小玉を、俺の寝ている間に勝手に冷蔵庫から引っ張り出し、今まさに食い尽くそうとしている。
「おいしーね、しゃくしゃく」
「んむ。しかし、みにすいかは、いまいち食べでがなあ」
「でも、ちっちゃくて、かわいいの」
などと、勝手なことをさえずりながら。
★ ★
……あう、せんせいの出番、今回これっきりかよ。
どーやって月末まで食ってくんだよ。
〈了〉
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