奥州たかちゃん伝奇








     
肆ノ巻   〜 妖変猫座敷 〜



 はい、いちおくにせんまんぶんのもうどーでもいい人数のよいこのみなさん、こんにちはー。そして、さよーならー。
 このお話は、これでおしまいでーす。
 はい、みなさんがどんなに腑に落ちないお顔をなすっても、お話のひとご自身が「俺なに打ってんだろうRUSHキメたのまずかったかなあ」などと錯乱しても、せんせいがおしまいにしますので、もう、誰がなんと言ってもおしまいでーす。
 なんとなれば、せんせい、もうギャラなどいうハシタ金でこんなどーでもいー台本を読み続ける必要が、きれいさっぱりなくなってしまったからでーす。
 はい、せんせい、これから懐に収まった京極夏彦さんのノベルスなみにブ厚い札束を、思いっきしバラ撒きますので、もうみなさん、砂糖に群がる浅ましい人蟻のように、腐肉に群がる醜いハイエナのように、さもしく下賎に床を這いずり回り、お好きなだけお札を拾ってくださいね。ひざまずいて足をなめてくだすったよいこのかたには、札束ごとさしあげますよ。その札束で、ぺしぺしとほっぺたをなぶってさしあげますよ。
 はい、それでは――――ほーら、金だぞー!
 ………。
 …………。
 ………………?


 …………失礼いたしました。ちょっと、せんせい、週末のおデートに向けて夜毎明け方までお肌のお手入れや無駄毛の始末に追われているため、ちょっとクラクラしているようです。けしてRUSHをキメてしまったわけではありません。あるいは、よりよいオトシのためのイメージ・トレーニングが、ちょっとヤバい進度まで先行しすぎているのかもしれませんね。


 はい、それでは、いちおくにせんまんのなかではとるにたらない頭数の、道端の雑草のようにけなげで無力なみなさん、こんにちはー。きちんとお顔は洗いましたかー? きちんと歯はみがきましたかー? 男の子は、きちんと無分別な朝○ちが治まりましたかー? 女の子のみなさんは、今朝もきちんとムダなお化粧品を浪費して、はかなく哀しい自己満足的錯覚に逃避しましたかー?


 ――あっ、なにをなさるんですか。ほんとにRUSHキメたりしてねえってばよう。すなおに台本読むからかんべんしてくれよ。あいつをオトしきるまでは、まだ日銭稼がなきゃなんねーんだからよう。
 おいこら、はなせ、はなせってば。


     ★     ★


 俺は百万人のろりに押しつぶされる夢を見ていた。
 きゃあきゃあ笑いながら次々にのしかかってくる赤いランドセルのろりと、その重みに耐えきれず己の口からはみ出す臓物を、とても幸福にながめていた記憶もある。
 しかしそのうち、夢の中でなんだか奇妙な女が騒いでいるのが聞こえ、俺は不覚にも目を醒ましてしまった。吉夢だったのか悪夢だったのか――子供の頃の冬休み、閉めきった部屋でプラモデルの塗装をしていて、シンナーに中毒《あた》ってしまった時のような気分だ。
 障子の外の光は、もう橙色だった。昨日は早朝から、ゆうこちゃんを背負っての山歩きやら、たかちゃんに付き合っての行軍やら、朝までくにこちゃんを洗ってやるやら大騒ぎだったので、今日の昼間は、ずっと眠りっぱなしだったのだ。かえって寝疲れてしまい、頭が重い。頭だけではなく、腹まで重い。
 まあもともとでかい中年腹なので、仰向けに寝ていると多少重いのは仕方がなく、いつの頃からか右を下にして寝るのが習慣になってしまい、ついには風呂などで己の狸腹をしげしげ見下ろすと、明らかに臍が右に寄り始めている有様だ。毎日風呂に入るごとにそうした悲愁に捕らわれるのはやっぱり辛いから、近頃極力仰向けに寝るようにしているのだが、そうすると、結局腹が重くて熟睡できない。
 それにしても今朝、いや、今夕はやけに重いなあ、そう思ってふと胸元を覗くと、重いはずである。ショートカットのちっこい頭が顎の下に乗っていた。おお俺はなんと実際ろりの肉蒲団になっていたのだ、そう感動して思わずその頭を撫でてやろうとしたら、両腕も妙に重くて動かない。見れば右腕はたかちゃんのちょんちょん頭の、左腕はゆうこちゃんのお姫様頭の、それぞれ枕になっているのであった。完璧なハレム状態である。
 完璧なのはいいとして、問題は自分の下半身で時間帯のずれた自己主張をしている馬鹿息子である。近頃中性脂肪の血中濃度が高く、早い話が糖尿気味なので、普段ならもう滅多に朝○ちなど無縁な俺だから、これは単なる疲れ○ラ、いわゆる徹夜マ○と同じ性質のものなのだろう。あくまでもセクシュアルな意味など微塵もなく、単純な種族維持本能の発露による、意思とは無縁の自律神経による悪戯だ。あるいは単に膀胱に溜まった尿に刺激された、前立腺あたりの罪のない悪戯だ。百万人のろりに押しつぶされながら、そのちっこいおなかぽんぽんやおしりの感覚などを夢の中で恍惚と愛でていたからでは、決してない。ないといったら、ないのである。お願いですからそーゆーことにして下さい。
 幸い、腹の上のくにこちゃんは呑気な大の字状態でうつ伏せになっており、どこも馬鹿息子には接触していない。
 とにかく降りかかる火の粉は払わねばならぬ。
「どっせい!」
 俺は上半身を起こしかつ脚を組みながら、仲良し三人組をひと抱えにして、胡座《あぐら》の向こうに放り出した。
 その瞬間、襖が開いて恵子さんが顔を出した。
「あらあら、ようやくお目覚めですね」
 三人娘はてんでにぼよよんと起き上がり、「……ぱどん?」「……うっす」「……むにゅ」などとつぶやいている。俺の股間のテントは、パジャマの上着の裾になんとか隠れている。直近のくにこちゃんのあんな所やそんな所に、うっかり引っ掛けたりしなくて良かった。「これはなんだ?」などと聞かれた日には、クズエロゲーか成年コミック誌の穴埋め原稿か三文十八禁文庫かコミケの暗黒コーナー行きになってしまう。
「お早うございます!」
 俺は店のパソコンでこっそり長い私用メールを送った直後突然ブロック長が巡回に来た時のように、純真なまなざしと活気あふれる声で挨拶した。
 恵子さんはなんら疑惑の色もなく頬笑んでいる。
「もうすぐ夜ですよー。なんて、あたしもさっき起きたばかりですけど」
 ――危機一髪の目覚めであった。


「ぜんまいのくるみあえ、おいしーね」
「んむ、このしぜんのあまみと、そこはかとないエグみが、なんとも」
「……みどりのかおり」
 献立はいかにも健康的な自然食ばかりであり、恵子さんも喜んでぱくついている。しかし一見鳥肉っぽい汁の具を噛んで、俺は直感した。これは青大将だ。いかん。そんな現実を知ってしまったら、恵子さんは恐らく悶絶してしまうに違いない。ことによったら、悶死してしまうかも知れない。
 冷や汗をかきながら、それでも自分では結構美味く味わっていると、いや案外これは蛙かもしれない、そんな舌の記憶が蘇った。まあ蛇であれ蛙であれ、恐竜と同じで鳥の仲間である。肉食動物だが、それ自体の肉は淡白で美味い。幼時の動物性蛋白摂取に関しては、俺は密林の原住民と似たり寄ったりなのである。恐竜はまだ食った事がないが、蜥蜴も山椒魚も昆虫も常食していた。
 例の玄関前広間で佐清状一家に並び、朝飯ならぬ晩飯を終える頃、あの家長らしい老人が訊いてきた。
「晩餉《ばんげ》が済みましたら、弟一家にお会いくださるまいか。主家のお怒りが解けたと知りましたら、きっと喜びましょう」
 例の地下座敷牢に巣くう分家である。地上の各分家とは一通り挨拶を交わしたが、地べたの下はまだ見ていない。昔、俺が上でじたばた育っている間も、そこに謎の一族はしっかり暮らしていた訳で、やはりどんな居住空間なのか興味がある。
「行きましょう行きましょう」
 老人に案内されて屋敷奥の納戸に向かう俺に、なぜかぞろぞろと、仲良し三人組も恵子さんもついて来た。
 食後の果物に出されたびわの実をまるごと口に入れて、ときおり「もは」などと口を開いて見せびらかすたかちゃんは、あいかわらず何を考えているのか解らないが、つくづく面白かわいい。両手の指を組んでぽきぽき鳴らしているくにこちゃんに関しては、まあ「無益な殺生はしない」という感覚が近頃育ちつつあるようなので、それほど問題はないだろう。それよりも一見非力なゆうこちゃんのおしとやかなお嬢様歩きに、なにがなし秘めた力を感じたりしてしまう今日この頃、なにか俺の知らない内に少女たちは日々確実に成長しつつあり、いつのまにか「♪ 時〜が〜行け〜ば〜 幼ない〜君〜も〜 おとな〜に〜なる〜と〜 気づ〜かな〜いま〜ま〜 ♪」などと、東京で見る最後のなごり雪を眺めながら、駅でひとり寂しく佇んでしまう日なども来てしまうのだろうなあ。そんな有様で孤独死を迎える前に、やはり恵子さんあたりをオトしておくのが、賢明な老後の備えかもしれない。実年齢はともかく見かけはきちんとろりっぽいのだし、この歳までろりっぽさを保てる女性なら、老いても少女の可憐さを保つのは可能ではなかろうか。そう、たとえば女優の八千草薫さんのように。あるいはタイプ違いだが、幼時に若大将シリーズを観ながら、ギャグっぽい婆ちゃんだけど昔はさぞ可愛くてコケティッシュだったに違いない、などと、厭なマセ餓鬼視線で密かに憧れていた飯田蝶子さんのように。
 閑話休題。
 廊下のどんづまりに、もう二十年以上も開けた記憶のない納戸が見えた。
 老人に続いて中に入ると、黴臭い暗がりに、ごたごたと金目の物でないことだけは確かな古道具が詰まっていた。金目の物はすべて、両親が生前売り払ってしまったはずだ。
「この下でございます」
 老人を手伝って、隅っこにあった長持をずらそうとする。何が入っているやらやたらに重く、大人二人の手でもなかなか動かない。
「これ、なーに」
 たかちゃんがしげしげと、長持を睨め回している。
「長持だよ」
「ながもち。――ながい、おもち? 中、おもち?」
「お餅じゃなくて、えーと」
 試しに長持の蓋を少々持ち上げて中を覗くと、中には黒紋付きの婆さんがふたり、座布団に座って仲良く茶を啜っていた。残念ながら二人とも、白塗りメイクの割にはちっとも可愛くない。むしろ冷蔵庫のミイラたちよりも不気味だった。
「……出番かのう、小竹さんや」
「……今回の辰弥さんはずいぶん肥えておるのう、小梅さんや」
 俺は銀幕上の萩原健一でも高橋和也でもないし、モニター上の荻島真一や藤原竜也でもない。
 この上話が八墓村の祟りに絡んだ連続殺人事件などにシフトしてしまったら、金田一探偵ならぬ俺の力量では収拾がつかなくなるのが目に見えているので、俺は何も見なかったことにして即座に蓋を落とした。「痛いのう、小竹さんや」「そうじゃのう、小梅さんや」などとぼやく声が聞こえたような気がしたが、きっと空耳だ。
「おもち、あった?」
「食おう、食おう」
 止める間もなく、今度はたかちゃんとくにこちゃんが、協力して蓋を持ち上げてしまった。
「うんしょ」
「どすこい」
 横のゆうこちゃんのみならず、爺さんや恵子さんまでしっかり中を覗いている。
 ああ、また今後の展開がわやわやに――落胆しながら俺も中を覗くと、そこにはすでに双子のリリーズ、じゃない、婆さんはおらず、汚い石地蔵が八個、ごろごろと詰まっていた。
「……おじぞーさんの、おうち?」
 八人の血まみれの落武者の生首などが、目を剥いていなくて良かった。俺は「お地蔵さんのおうちだねえ」とその場を取り繕いながら、しっかり蓋を閉めた。今度は「祟りじゃあ」と中から聞こえたような気がしたが、やっぱり空耳だ。しかし長持自体はかえってさっきより重量が増してしまい、押しても引いても動かない。やっぱり婆さんのペアよりは、石地蔵のほうが重いのだろう。
 見かねたくにこちゃんが「よ」と足の裏で押すと、それはまるで空の段ボール箱のように、あっさり床を滑った。やはりこの子には、常に優しくあらねばならない。絶対敵に回してはいけない。
 長持の下になっていた、一見ただの汚い床板には、どうやら指掛かりらしい小さな金具があった。


 地下牢などと言うからもっと陰惨で黴臭いものかと思っていたら、少なくとも階段はやたらに長い以外、ごく普通の古い木造家屋と変わりなかった。ちゃんと裸電球も点いている。
 それでも平成生まれの三人組には物珍しいのだろう、
「わくわく」
「でてこい、大へび」
「びくびく」
 などと、それぞれ探検気分を楽しんでいるようだ。
 恵子さんはさすがに拍子抜けしているだろうと思いきや、階段を下る途中で俺の腕にすがりついて来た。
「……邪悪な波動を感じます」
 ゆうこちゃんよりも怯えた顔をしている。
 今までの経緯から思えば、恵子さんお抱えの背後霊の力はあんまし信用できない。半ボケのミイラで腰を抜かし、しゃれこうべで失神する程度らしいから、仮に丸ボケのミイラたちが寝たきり状態になっていたとしても、邪悪な波動くらいは感じそうだ。まあ、すがりついてくれるその胸のふくらみが薄いなりにとてもふにふにと柔らかいとか、あ、このくりくりした感触はもしや緊張で乳首が立ってるのでは、などと余得が満載なので、邪悪な波動も大歓迎である。
 やがて階段の下に、やっぱりなんて事はない、座敷の畳が見えて来た。
 しかし先導する佐清状老人は、その座敷を覗くなり、石地蔵のように硬直して呟いた。
「……こ、これは如何に」
 十二畳ほどの広い座敷に、なにやら馬鹿でかい四つ足の生物が、数頭徘徊している。
 これは虎か、豹か、あるいは獰猛なピューマか――思わず身構える俺のあっちこっちに、恵子さんの乳首やらたかちゃんのびわやらゆうこちゃんのおなかぽんぽんやらが、すりすりして来る。俺は思わず「この子たちは、私の命だ!」などと、『聖職の碑』の鶴田浩二さんのように見得を切りたくなったが、くにこちゃんだけは微塵も臆さず、闘志の塊と化して先頭に躍り出た。
「おうし! しょうぶだ!」
 俺は泡を食ってくにこちゃんに飛びつき、胸に抱えこんだ。さすがに猫科の猛獣の牙や爪は、この超強化ろりでもヤバかろうと思われたのである。
 数頭の獣は一斉にこちらに顔を向け、牙を露わにして咆吼した。
「なーご」
 ……いや、心底脱力してしまうような声を上げた。
 虎縞や黒毛皮や斑《ぶち》の巨大な体躯は、一見確かに猛獣なのだが、どうも猫科生物と言うより、猫そのものの体型らしいのである。
 唖然として立ちすくんでいると、巨大な猫の群れは猫が餌をねだる時のように――猫なのだから当然と言えば当然なのだが――群れを成してすりすり攻撃をかまして来た。
「なーお、なーお」
 たちまちの内に、俺たちはひと塊状態をバラされて、それぞれの猫たちに押し倒されてしまった。
「なおおおん」
 あくまでも俺たちを食おうとしているのではなく、単に「なんかくれ」とねだっているだけらしいのだが、さすがに体重差の壁は厚い。あの強力くにこちゃんですら、黒猫にべったりと組み敷かれて顔をなめられながら、「うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」などとのたうち回っている。他のメンバーは推して知るべし、である。
 まあ念のため説明しておくと、恵子さんは予想どおり軟弱な背後霊に見放されて、斑《ぶち》猫に後背位でのしかかられ色っぽくひんひん泣いているし、ゆうこちゃんは猫から見ても甘くて美味そうに見えるのか、そのお嬢様巻き毛頭を半分あんぐりと白猫に愛咬されてしまい、今にもお漏らししてしまいそうに恐怖に喘いでいる。たかちゃんなどはもはや虎縞の下から覗く四肢をひくひくと震わせているだけで、「ぎぶ、ぎぶ」と呟く声から、かろうじてその生存が確認できる程度だ。俺がなんとかしてやらねばと気をもんでも、俺自身三毛の下敷きになって二の腕をはぐはぐと味見されているのだから、いかんともしがたい。いかにも不味そうな老人だけは無事のようだが、ただ右往左往するだけでなんの頼りにもならない。
 このまま猫の唾液にまみれて圧死してしまうのか――そう覚悟したとき、たかちゃんが虎縞の鼻先に、何やら突き出した。
「たべる?」
 猫というものは、びわの実を食うだろうか。
 まあ食うかどうかはともかく、鼻先に何か突き出された猫というものは、とりあえず匂いを嗅いでみる習性がある。
 虎縞がひくひくとその果実を確認しているうちに、たかちゃんはくるりとその腹の下から脱出し、果敢にも虎縞の首筋を絡め取って、と言うより首筋にぶら下がって、必殺の決め技を仕掛けた。
「こちょこちょこちょこちょ」
「ごろにゃん」
 対戦相手の弱点を熟知した、見事な反撃だった。


 たかちゃんの反撃を参考に、ものの数分で、俺たちは全ての化け猫たちに勝利していた。
 恵子さんは膝に乗った斑猫の頭の重さに往生しているが、猫のほうは気持ちよさげに尻尾をぱたりぱたりと揺らしているから、もう問題ない。ゆうこちゃんは丸くなった白猫の真ん中に巻かれるようにして、その顎の内側を掻いてごろごろ言わせながら、慈母のごとき微笑を浮かべている。たかちゃんとくにこちゃんはそれぞれ虎縞と黒にまたがり、
「どうどう」
「おーし、かみころせ!」
 などと戦闘訓練を繰り広げているが、猫同士はあくまでも爪を立てない猫パンチでじゃれ合っているだけだから、これも別に問題ないだろう。
 俺は三毛の玩具になって座敷中をころころと転がされながら、老人に訊ねた。
「これはやっぱり、生き延びるための家畜ですか?」
 猫は不味いのでどこぞの国でも犬ほど好まれないと、聞いたことがある。日本の戦中戦後の食糧難時代でも、煮られたり揚げられたりしたのはほとんど犬らしい。もっともどこぞの国では、今でも猫を精力食として生きたまま熱湯に放り込んでしまうらしいから、食って食えないことはなさそうだ。
「いや、猫肉は、あまりに臭きゆえ」
 やっぱり。
「……このような異形の物は、先頃までは居らなかったはず。そもそも、弟一家は何処へ」
 老人は不安げに、座敷の奥の襖を見返った。
「奥の間にいるのでは?」
 なおも懐いてくる三毛に転がされ続けながら訊ねると、老人はますます顔をしかめた。
「いや、奥はただ三畳の仏間のはず」
 十人以上いると聞いたから、三畳に籠もるのは難儀そうだ。
「……行きましょう」
 俺は三毛の巨大な肉球を牽制しながら、思い切って言った。老人も険しい顔でうなずいた。
 意を決して奥に向かう俺たちに、恵子さんやゆうこちゃんはそれぞれの猫を従え、たかちゃんやくにこちゃんは背中にまたがったまんま、ぞろぞろと付いてくる。俺の三毛もよほど懐いてくれたのか、隙あらば転がそうと付いてくる。
 恐る恐る襖を引いた老人は、その仏間を覗くなり、また石地蔵のように硬直して呟いた。
「……こ、これは如何に」
 爺さんちょっとワン・パターン、と思いながら俺も奥を覗き込んで、あ、こりゃ展開そのものがすげー類型的かも、と嘆息した。
 古臭い仏壇は材木の山と化し、崩れた壁の向こうに、奥深い洞窟が覗いていたのである。


 仏壇の残骸から掘り出した燭台を手に恐る恐る進んで行くと、洞窟は果てしなく続いていた。
 もっとも本当に果てしがなかったら、地べたの下ゆえ地球を一周しようが螺旋状に永遠にさまよおうが地球の体積ぶん続くわけだから、あくまでもそんな気がしたというだけのことだ。
 やがて行く手の足元が、かなり急勾配で下り始めた。用心して歩を進めても、足場を誤ると、それっきり転がり落ちるかやけくそで駆け下りるか、あるいは斜面に背中でへばりついてずりずりと滑り下りるか、そんな坂だ。体型が球体に近い俺などは、うっかりしたら間違いなく引力に任せて転がり落ちるだろう。
 けしてウケを狙ったわけではないのだが、案の定、俺は足場を誤って、ごろごろと転がり始めた。
「あだだだだだだ」
 俺ばかりがドジなのではないらしく、他の一行も勾配に負けてやけくそに走り始めた。しかし、たかちゃんやくにこちゃんのまたがる猫たちは、さすがに猫科生物らしく敏捷に駆ける。その首っ玉にかじりついたたかちゃんたちは、「きゃはははははは」「わはははははは」などと、大はしゃぎである。そのうちゆうこちゃんや恵子さんまで、それぞれの猫にまたがったりしがみついたり、なんとか無事に駆けている。しかし俺の三毛は転がり続ける俺など意に介さず、たかちゃんの虎縞を先頭とした猫の一群を追い掛け、さっさと先に下って行ってしまう。ろりと女性が無事に越したことはないが、なんだか悔しい。爺さんだけは足腰が弱いし猫もいないので俺の仲間になって転がってくれると思ったら、なんと和服の裾をからげ越中|褌《ふんどし》をはためかせながら、「よ」「は」「と」などと、自力で豪快に先を駈け降りて行くではないか。
「あだだだだだだだだ」
「きゃはははははははは」
「よ、は、と」
 俺はぼろ屑のようになって、地の底に向かい転がり続けた。


 ようやく地べたが平らになってくれたらしく、俺は弾みでしばらくごろごろと転がり続けた後、目眩をこらえて半身を起こした。
 ……大伽藍。
 なんと地の底に、見渡す限りの石窟が広がっている。
 その天井にはあちこちに直径数メートルほどの明かり取りらしい穴が穿たれており、星空が覗き、その下の地面には『このあたり雨漏り注意』などという看板の立った縄囲いがあった。夜のことゆえ沢山の穴も明かり取りの役目は果たしていないが、地べたのあちこちに揺らめいているかがり火で、なんとか全貌が見渡せた。
 そこはどうやら地底の牧場地帯らしく、あちこちで無数の巨大猫たちが丸くなって眠りあるいはうろつき回り、牧舎らしい小屋なども点在していた。小屋と言ってもけしてみすぼらしくはなく、昨今の観光牧場で見かけるような、洋風で小綺麗な建物である。前庭にはのどかに洗濯物なども揺れており、庭はずれには、どでかい餌皿らしい物がいくつも並んでいる。
 そして遙か彼方の岩壁、つまり石窟のどんづまりには、巨大な石像が聳えていた。真下に特大のかがり火が焚かれているらしく、ちらちら明滅しているそれは一見石仏かとも思えたが、目をこらせば、どうやら岩壁に巨大な招き猫が彫られているようだった。
「かばうまさん、だいじょーぶ?」
「しんだか?」
「おろおろおろ」
 猫から下りた仲良し三人組それぞれの嬉しい声に励まされ、さらに恵子さんのありがたい助勢を受けて立ち上がった俺は、とたんに三毛の肉球で突き転がされた。
「あう」
 起きあがるたんびに、ぺし、と巨大な猫パンチが左右から襲ってくる。
「あうあう」
「あらまあ、すっかり仲良しさんですねえ」
 恵子さんはあまり猫に親しくないらしく、安心して笑っている。しかし俺は、自分の甘さを痛感していた。
 この三毛は俺に懐いているのではない。この扱いは、明らかに俺が子供時代、上の家に出入りしていた野良猫がどこからか鼠や蜥蜴などを咥えて来て、「ほら、獲物だよ。見て見て」と見せびらかした時に似ている。ぽとりと床に転がされた鼠や蜥蜴は、まだたいがい仮死状態で、ぴく、などと震えた後、慌てて逃げだそうとする。そこを猫パンチが襲う。またころんと転がった獲物は、しばらくするとまた息を吹き返して逃亡しようとするが、そのつど猫パンチの餌食になって、なんのことはない、なぶり殺しの果てに食われてしまう。――間違いない。この三毛は「なおん?」などとしおらしく鳴きながら、俺をまだ餌として認識しているのだ。
 愛が足りない――俺はあわてて三毛の顎の下に掌をつっこみ、立場の違いを明確に主張した。ほーら、かわゆい猫ちゃん、ボクは捕食対象じゃなくて、オトモダチなんだよう。
「ごろごろごろごろ」
 ようやく解ってくれたようだ。
 三毛はごろんと腹を見せて、俺に鼠や蜥蜴以上の奉仕を要求した。俺は目を細めてくつろぐ三毛の巨大な腹を掻いてやりながら、老人に言った。
「しかしまたこれは、えらい代物が地の底に」
 座敷牢どころの騒ぎではない。
 老人は不安げに、その斑に明るい大牧場の起伏を見晴るかした。
「弟一家は、いったい何処へ」
 その時、少し離れた牧舎の扉が開き、野良着姿の老人が現れた。野良着と言っても建物同様時代劇調ではなく、今風の作業着に近い。佐清状マスクも付けておらず、白髪で案外若々しい、というより父っちゃん坊やっぽい顔つきは、どこぞの国の駄々っ子前首相にも似ている。老人はでかいバケツを両手に下げていた。猫の餌らしい。そして同じ扉から、数人の老若男女も同様の姿で続いた。
 近場の巨大猫たちはその気配を察すると、気の早い奴は猫まっしぐら、呑気な奴は猫科らしい例のうにょおおおという伸びをした後、悠然と小屋の前の飼い葉桶、いや、巨大な餌皿に向かう。俺たちにまとわっていた五匹も、「うにゃにゃ」などと歓声を上げて走り去った。
 餌皿にバケツの中身をぶちまけた白髪の老人は、こちらの老人と目を合わせ、嬉しげに叫んだ。
「これは兄者殿」
「おう、純二郎」
 名前まで似ている。もしや上の老人もマスクを取れば白髪で、おまけに名前までそのものなのだろうか。
「しかしお前たち、なにゆえこのような所に」
「ある晩突然部屋の壁が崩れ、住み込みの求人案内が届きました。なかなかによろしい待遇でしたので」
「それはいかにも短慮。我ら、あくまで主家に仕える身ではないか。こちらにおわすお方が、当代のお館様にあらせられるぞ」
 いやもうだからそれはできれば忘れてくださいと思いながら、俺は一応頭を下げた。
「ども。上の家主です」
 とたんに弟老人とその一家は、地べたに這いつくばった。発作的に俺も這いつくばってしまったのは、生まれてから一度もそーゆー相手の反応に遭遇した経験がないからだろう。クレーム処理でこちらが這いつくばった事なら何遍もあるぞ。頭上で恵子さんがさも情けなさそうに吐息する気配や、「どっちが、えらい?」「それはもう、あっちだろう」「こくこく」などという会話も聞こえるが、その被虐的快感こそがクレーム処理の醍醐味なのだ――なんの話だ。
「先祖の過ちも、許して下さるとのこと」
 上の老人の言葉に、下の老人たちは、ますます恐縮して地べたに額をこすりつける。つくづく罪作りな俺の先祖である。大体封建社会だろうが自由社会だろうが、そもそも妻にこっそり不倫など働かれた時点で、夫としてはすでに寸足らずなのではないか。
 しかし上の爺さんはお冠である。
「そのようなありがたいお心も知らず、他家のために働くとはなんたる短慮」
 いや一向おかまいなくと慰める俺を尻目に、下の爺さんも腹でも切りそうな勢いで不心得を詫びる。なんだか古典的主従関係の中では、従者以上に主家も窮屈に縛られまくりなのかもしれない。
 退職願いは二週間前まで、そんな雇用条件だそうで、下の老人はさっそく牧舎に戻り、一筆したため始めた。外観同様中の間取りも広々と小綺麗で、その三世代一家が収まってもまだ間借り人くらい置けそうだ。おまけに衣食住雇用主持ちで、日給ひとり頭一万だそうである。俺は本気で老人一家の代わりに、こっちで職を得ようかと考えた。しかし巨大猫は無数にいても、ろりはいないらしい。それでは生きる甲斐がない。お茶代わりに出た猫の乳も、生臭くてあんまり美味いものではない。恵子さんも努めて爽やかな顔をしながら、頬を痙攣させている。たかちゃんやゆうこちゃんも、正直に「んべ」顔だ。ただ、くにこちゃんや上の爺さんは美味そうにお代わりまでしており、さすがに生命力と適応力が違う。
 仲良し三人組はじきに家の中に飽きてしまい、あの猫たちを駆って牧場を遊び回ろうとしたが、ご存知のように飽食した猫というものは極めて怠惰である。なんといっても一生の八割方は、寝て暮らそうという生物だ。いくらでかくて面白かわいいとしても、それでなくとも落ち着きのないぴかぴかの一年生たちが、満足につきあえるはずがない。相手が普通に小さければ『無理矢理遊ぶ』=『虐待する』という幼児対猫の一般的構図が成立しようが、相手は虎よりでかいのだから、下手にかまうと寝返りの下敷きになって圧死してしまう。
 やがて退職願いを書き上げ、これから雇用主を訪ねるという老人に、俺たちも付き合うことにした。彼方の石仏、じゃない、大招き猫像の麓に住んでいるこの不可思議な牧場の主が、どんな人物なのか興味があったからである。この大猫たちが、自然の生物とは到底思えない。なにかマッド・サイエンティストとでも言うべき存在、たとえばネモ船長とかモロー博士とか、そうした面白げな偏屈者が絡んでいるのではないか。
 寝てばかりいる大猫たちに業を煮やしたたかちゃんたちも、ぞろぞろと俺たちにくっついて来る。そうすると猫という奴は気まぐれなもので、さっきまではいくら三人組がまたがろうとしても迷惑そうに「うにゃっ」などと牽制するだけだった虎や黒や白が、「なんだなんだなんだ」と素直についてくる。三毛や斑もついてくる。
「わくわく」
「これはぜったい、ひみつのいんぼうだんだ。あくにんをたいじして、おおねこたちをたすけよう」
「……びくびく」
 まあ、好きに寝て食ってうろつき回れる限り、巨大猫たちも別に助けて欲しいとは思わないだろうが。






                     
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