いち 〜 はるのおにわへ 〜
三寒四温――よいこのみなさんは、そんなことばを、ごぞんじですか?
寒い冬が終わり、いよいよぽかぽかの春風さんが、多摩丘陵の木々の枝に、せっせとちっちゃな芽吹きを宿らせはじめても、まだしばらくのあいだは、ちょっとこんじょーはいった負けずぎらいの北風さんが、ときどき北の方からゴロをまきに戻ってきたりします。
もしせんせいが春風さんだったら、そんないじわるな北風さんなどは、優しくシメたのち火葬場のケムリにしてさしあげるところですが、生まれたばかりの春風さんはちょっぴり気が小さいので、こそこそとお山のかげにかくれてしまったりします。
でもまあ世の中、ぽかぽかの風もひえひえの風も、それなりにあっちこっちでいさかいを起こしながら、それでもやっぱり、ほっとけばなんとか春になってしまう、そんなものなのですね。
★ ★
その朝、まだ暗いうちから、たかちゃんはおふとんの中で、なぜだか目を覚ましてしまいました。
「……さむい」
別に寒すぎて目を覚ましたのではなかったような気もするのですが、ねぼけているのでなんだかよく思い出せず、たかちゃんはもそもそとおふとんからはいだして、電気毛布のスイッチを入れます。
それからねんのため、りょうわきに寝ているママとパパが夜中におばけにたべられていなくなってしまったり、しんぞーまひで息を引き取ったりしていないのをじっくりと確認したのち、またごそごそとおふとんにもぐりこみます。
そうしてとろとろとまどろみながら、渓谷ぞいの桜さんたちは、きのう学校帰りに見たときとおんなしみたく、きょうも元気に花びらでふかふかしてくれているだろうか、そんなことを想っているうちに、夜明け前の深い眠りが、たかちゃんを優しくつつみこみます。
「くーくー」
そうして、お窓のくりいむ色のカーテンが朝の光にぼんやり浮かぶころ、
「……あつい」
またごそごそとはいだすと、パパのおふとんはぶよんとまあるく盛り上がったままですが、ママのおふとんはもうぺっしゃんこで、おだいどこのほうから、かちゃかちゃとおなべやおたまの音が、鈴の音《ね》のようにきこえてきます。
ちゅんちゅんちゅん。
お外では、もう早起きの雀さんたちが、みんなで遊んでいるようです。
「ほわあああああ」
たかちゃんは、ねぼすけお目々をこしこしとこすりながら、
「……むにゃむにゃ」
とりあえずパパをこーげきしようか、ママのおてつだいをしようか、しばらく迷います。
でもそのうち、あるじゅーだいなじじつを、思い出します。
「……おはなみ!」
たかちゃんは、ちょっと汗ばんだらすかるのぱじゃまのまま、ととととととおだいどこにかけだします。
「♪ おっべんと、おっべんと、うっれしいな〜 ♪」
――はい、こんなのが、さんかんしおんの、おわりごろなのですね。
★ ★
「いってきまーす!」
ママといっしょに朝ご飯を食べたあと、たかちゃんはそそくさと朝の光の中に駆けだします。
冬にまた大破してしまったお家は、ママお得意の巧みな保険の水増し請求によっても、さすがにまだ再建中です。隣町に臨時で借りたアパートの安っちい階段を、かんこんかんこんと駆けおります。
おべんと、もった。
すいとう、さげた。
きょうは日曜なので、それ以外のしちめんどーくさいかくにんは、しょーりゃく可です。
「あ」
たいせつなにんむを忘れていたのに気づき、たかちゃんはあわててお部屋に駆けもどります。
「とうっ!」
「ぐえ」
ダイビングボディプレスでパパを起こしてあげるのを、忘れていたのですね。
いつもはママもたかちゃんもまだ寝ているうちに、ひとりさびしくおでかけしないと会社に間に合わないパパなので、おやすみの日くらいは親こーこーしてあげないと、かわいそうです。
「おきた?」
「…………おっは」
パパにしてみれば、たまの休日くらいは半日寝てすごしたいところなのですが、この娘に何を言っても無駄と悟りきっているので、
「……おまえって、日曜ばっかし、早起きなのなー」
はんぶん起きあがって、なでなでしてくれます。
「えへへー」
たかちゃんとしては、こーしてパパを覚醒状態でママといっしょに放し飼いにしておけば、そのうちかわいいいもうとやいじりがいのあるおとうとが出現するのではないか、そんな誤った期待をいだいております。
ほんとはママのほうを並べて横にしといたほうが、効果的なんですけどね。
★ ★
駅近くのアパートから、南の河原に駆け下りる途中、東西に交わる旧青梅街道ぞいに、くにこちゃんのおうちがあります。
ひとむかし前まで廃屋扱いだった、崩壊寸前の木造家屋兼作業場兼店舗ですが、昨今の昭和レトロ・ブームにのって、駅周辺全体が市政をあげて『昭和の町』を旗印に町興しを図ったので、その貧しい下駄屋さんも、逆にいっぱしの街の顔と化しております。
あっちこっちに古い映画の絵看板を飾り付けた商店街を、たかちゃんはとととととと東へ駆けていきます。
くにこちゃんのおうちのお屋根には、昭和三十六年の邦画『名もなく貧しく美しく』の絵看板が飾られており、若き日の高峰秀子さんと小林桂樹さんの演じる貧しい夫婦がけなげによりそうその姿は、あたかもその下で暮らす長岡履物店一家の経済状態を、りあるに表しているかのようです。
「どぱよー!」
「おう、どんぱぱぱ」
店先で赤ちゃんをおんぶしていたくにこちゃんが、あいかわらずいみふめいのごあいさつを返します。半纏姿で子守をしているその姿もまた、すっかりタイムスリップ・グリコのおまけフィギュアです。
たかちゃんは、くにこちゃんの背中でごきげんに笑っている赤ちゃんを、ほっぺつんつんします。
「あぶう」
「……いいなー、いもうと」
「おう。こいつは、じょーとーなあかんぼだ。うまれたときから、一かんめも、あった。いまは、もう二かんめになった。このぶんだと、あっとゆーまに、ごじらみたくでっかくなるぞ。しょーぶが、たのしみだ」
「あぷう」
くにこちゃんのきたいにだけはこたえてほしくない――たかちゃんは仮面の笑顔をうかべながら、赤ちゃんのぽよぽよおつむを、ものほしげになでなでします。
「たかちゃんも、ほしーなー、いもうと」
「おとうとなら、いっぴき、わけてやる。いもうとは、いっぴきしかいないから、やらない」
お店の奥にいたちっこい双子の弟たちは、そんな会話を聞きつけ、あっちのねーちゃんのほうがなんぼかボクを幸せにしてくれるかもしれないと、すがるようなまなざしでたかちゃんをみつめます。
でも、たかちゃんは、あくまでもいじりがいのある男の子でないと、おとうとにしたくありません。姉の強権下で萎縮してしまう程度の男たちでは、あんましおとうととしての将来性が感じられません。
「……ぱす」
がっくしと肩を落とす、名もない弟たちでした。
★ ★
さて、弟たちに店番を命じ、いもうとを奥の作業場にいる両親にあずけたくにこちゃんは、たかちゃんと並んで、ゆうこちゃんちをめざします。
昭和レトロの街道筋を、ちょっと西に戻ったあたりで南に折れ、多摩川に続く坂道を下ります。
そうして見えてくる長い長い煉瓦塀の中が、まるまるゆうこちゃんのおうちです。たかちゃんの仮の宿があるあたりに例えれば、駅前商圏まるごとひとつのおうちのお庭、そんな広さです。あんまし知っている人は少ないのですが、多摩川のいちぶは、ゆうこちゃんちのお庭を流れていたりもします。
「やっほー。あたし、たかちゃん」
とんでもねーりっぱな門柱にくっついた、特注の典雅なインター・ホン――青銅らいおんさんノッカー風のお口にごあいさつしますと、
『おはよう、たかちゃん』
女中頭・恵子さんのやさしいお声が、聞こえてきます。
くにこちゃんも、負けじとたかちゃんのほっぺたにほっぺたをくっつけて、らいおんさんのお口にごあいさつします。
「おれも、いるのだ」
『はい、くにこちゃんも、どんぱぱぱ』
「おう、どどぱんど」
なんかいろいろ回線の切り替わる音のあとで、
『……あの、あの、どんぱ。あの、ゆーこ、いま、いくの。おにわで、まっててね』
「おう。べんとー、わすれんなよ」
しっかり食料チェックをしてあげる、くにこちゃんです。
「おかずも、わすれんなよ」
ちなみにくにこちゃんのりゅっくには、しおむすびしか、はいっておりません。
ぎー、と自動で開いた鉄柵のご門をくぐり、木漏れ日のポプラ並木をぶらぶら五分ほど行ったあたりで、大きなバスケットをかかえたゆうこちゃんが、とことことむこうから歩いてきます。とゆーことは、おうちのげんかんからご門まで、こどものあしだと約十分もかかるような前庭なのですね。それでも多摩川を含めた裏庭にくらべれば、まだほんのいちぶです。
「どぱよー!」
「ど、どぱ?」
たかちゃんのくりだすどどんぱ語のバリエーションを、ゆうこちゃんはまだ学習しきっておりません。
「おらよ。もってやる」
くにこちゃんはにこにこと、ゆうこちゃんのバスケットに手をさしだします。
足弱のゆうこちゃんを気遣ったのは理由のはんぶんぐらいで、もうはんぶんは、バスケット内に収まっているはずのんまいおかず群を気遣ったのですが、ひとをうたがうことをしらないゆうこちゃんは、うれしそうにバスケットをあずけます。
「んじゃ、おはなみ、かいしー!」
たかちゃんは、かってしったるたにんの庭、はるかあっち方向、川沿いの桜並木にむかって、元気にしんぐんを開始します。
「♪ さ〜く〜ら〜 さ〜く〜ら〜 いざまいあがれ〜 ♪」
★ ★
裏庭の広大な庭園を、あっちでもつれあったりこっちでじゃれあったり、たかちゃんたちはいつものように、亀さんのように迅速に進みます。ちなみにいちぶの亀さんは、ゆーぱっくさんのように実は速かったりしますが、それはあくまでも砂浜の下り斜面や海中を移動する小型海亀さんだからであって、たいはんの亀さんは、たいはんのゆーびんやさんと同じ速度です。
そうして、もうちょっとで河原の遊歩道が見えそうな林を抜けながら、
「ねーねー、ぽち、げんき?」
たかちゃんは、ゆうこちゃんにたずねます。
「うん。とってもげんきに、なったって。お庭のおじいさん、ゆってたよ」
くにこちゃんはそれを聞いて、なんだかほっとしたお顔になります。
「んむ。あいつはのらだから、きたえかたが、ちがうのだ」
なかよしの、野良犬さんの話でしょうか。
はい、そこでちょっと首をひねっていらっしゃる、ごくしょうすうのよい子のみなさん、みなさんには、『とってもよくできました』のスタンプを、おでこに押してさしあげましょうね。はい、ぽんぽんぽん、と。
そうです。昔からたかちゃんたちを知っているよい子のみなさん、なかでもまともな記憶りょくをお持ちの方ならば、こんな疑問を抱くはずなのですね。――たかちゃんやゆうこちゃんはいざ知らず、くにこちゃんは野良犬をみつけると、なかよくなるまえに、とりあえずシメてしまうたいぷのお子さんだったのでは。
そのとおり、なのですね。
やがて林が開け、満開の桜さんがたちならぶ、小高い遊歩道が見えてきました。
「あ、いたいた。ぽち!」
たかちゃんは、とととととと駆けだします。
くにこちゃんもゆうこちゃんも、とととととと後を追います。
桜並木のはしっこで、まだちょっぴり小さい桜さんが、ほかの桜さんとはちょっとちがったかんじの野性的な枝ぶりを、青空にふかふかさせています。
「やっほー」
たかちゃんは、その花の下に駆けていき、しゅぱ、と、ちっちゃいてのひらをさしだします。
「ぽち、お手!」
くにこちゃんもゆうこちゃんも、ならんでお手々をさしだします。
ざわざわ、ざわざわ。
春の風に揺れながら、桜さんは、ちょっと困ってしまったみたいです。あるいは、なーんにも考えていないのかもしれません。
「ぶー」
ひさしぶりのぽちなのに、ちっともはんのうがないので、たかちゃんは、おもいっきしほっぺをふくらませます。
「……ぽち、げんきじゃ、ない」
くにこちゃんは、ぽちのあしもとに、かるーくケリを入れてみます。
「ねっこは、しっかりしてるぞ」
ゆうこちゃんは、こんだけきれいなお花さんでふかふかしてるのだから、じゅーぶん元気なのではないかとはんだんします。でも『お手』をしてくれないのは、冬のあいだあんまし遊んであげなかったので、ごきげんななめなのかなあ、と、ちょっぴり心配になります。
そんな三人のうしろから、くすくすと、嗄《しわが》れた笑い声が聞こえます。
「心配しなさんな」
庭師のお爺さんが、いつもみたいに白髪のお顔で、優しく頬笑んでいます。
「こいつは、もうすっかり、元気じゃよ」
「でも、お手、しないよ?」
たかちゃんは、こうぎします。
「ちんちんは、できないの。でも、お手は、できたの」
長く三浦家専属の庭師、主に桜守として生きてきた老人は、それが子供達独特の夢と現実の混淆なのか、それともこの山桜がかつて本当にこの子供たちと山で遊んでいたのか、明確な判断を下す必要などありはしないのだ、そんな達観したお顔で、なお優しく目を細めます。
「お手のできない桜のほうが、ほんとうの、幸せな桜なんじゃよ」
なんだかよくわからないけれど、このおじいちゃんのことばには、『あい』がある――すなおにこくこくとうなずく、たかちゃんたちでした。
★ にいに、すすむ
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